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物語

はまなすの実

原作/田野呵々士
炎

はじめに

 『私はなぜ こんな宿命を背負ってしまったのだろうか?』
 ことあるごとに そう問い掛け 答えが得られぬまま
 半世紀近い月日が空しく過ぎ去った
 ところが
 古い記憶の底に埋もれていた自分を掘り当てたとき
 その答えが次第に明かになってきた
 これは
 その遠い過去に端を発し
 現在を経て 未来へと繋げていく 物語である

第一章 発端

 果てしなく広がる青い海。それと対峙して遥か彼方まで続く薄赤茶色の砂浜。
 その海岸線に沿って細長く横たわる砂丘の上は、緑色の草で覆われている。
実を付けた浜茄子  そのところどころに、光沢のある梅干のような物が見え隠れしている。浜茄子(はまなす)の実が赤く色付いているのだ。
 毎年この時期になると決まって、南から嵐がやって来ては、亜熱帯の香りのする空気と共に、いろいろな物をこの浜に運んで来る。
 昨日もその嵐のせいで、空も海も大荒れだったのだが、それもこの未明には収まり、夏の夜明けの静かな海へと戻りつつあった。
 この西向きの入り江の砂丘の背後には小高い丘がある。その斜面には、ほんの僅かな土でも無駄にすまいとするかのように、段々畑がびっしりとへばり付いている。
 その北側の端には、高さ四余り、太さ三角くらいの木が数十本、尖ったその先をあちこちに向けながら、海を見下ろすかのようにして立っている。どうやら墓標のようだ。乾いた風がとき折りそこに吹き付け、土埃を巻き上げては通り過ぎて行った。
 丘の下には一本の細く長い街道が海に沿って続いており、その海側には十数軒の茅葺き屋根が道に沿って一列に並んでいる。それはまるで、梢(こずえ)に身を寄せて朝を待つ、痩せた雀の群れのようだった。どうやら先ほどの畑と墓地は、ここの村のもののようだ。
浜1  この浜の波打ち際には、きっと嵐によって打ち上げられたのだろう、たくさんの流木や海藻などが、長い帯状になって連なっていた。流木は貴重な焚き木となるし、海藻は雨に当てて塩抜きをすれば、牛の餌や畑の肥(こ)やしとなる。
 夜が明けて間もなく、それらを拾い集めるために、籠(かご)を背負った村人たちが浜に出て来た。
 大人も子供もみな、麻でできた小袖(こそで)という服を身に着け、長く伸ばした髪は背中の中ほどでくくっているだけだ。木綿の服や、定められた形に髷を結う習慣が一般庶民のあいだにも定着したのは、江戸時代に入ってからのことなので、これはどうやらそれより少し前の時代のようだ。
 船の破片と見られる大きな流木のそばを通り掛った白髪の老婆が、突然大きな叫び声を上げた。
「あれまぁ! 人が倒れてるよ!」
 その声を耳にした者が次々とそこに集まって来た。
 見ると、褌(ふんどし)姿で砂に塗(まみ)れた一人の少年が、砂の上にうつ伏せになって倒れている。
 少年を取り巻いた人々は、目を閉じて砂にまみれたその顔を覗き込んでは心配そうに言葉を交わしていた。
 その中の一人の白髪の老人が、その鼻先に恐々と手を伸ばすと、目を見張って言った。
「おぉ! まだ息があるぞ。」
 別の初老の男が、いかにも物を知ったような、やや冷淡な口調で言った。
「きっと、この木につかまって流され、ここに打ち上げられたんだろう……。歳は十三、四ってとこだな。」
 別の若い男が、やや嬉しそうな口調で言った。
「敵方の高い身分のもんなら、殿様に差し出しゃ褒美(ほうび)が出るんだよなぁ……。」
 しかし、少年を最初に見付けた老婆はこう言った。
「体中真っ黒に日焼けしてるし、あまり身分が高いようには見えないよ。きっとオレたちとおんなじような百姓じゃないかい?」
 初老の女が言った。
「どうでもいいけど、助けてやろうよ。」
 先ほど少年に息があることを確かめた老人が、今度は少年の肩をつかんで恐々と仰向けにひっくり返し、頭の上から足の先まで見てから言った。
「怪我はないようだが、このまま日が昇りゃぁ助かるもんも助からねぇ。」
 老人は、先ほどの老婆に向かって言った。
「おい、キヌ。
取り敢えず、こっから一番近い、お前の家で介抱してやってはどうだ?」
 キヌは、大きく頷きながら言った。
「ああ。もちろんいいともさ!」
 村人たちは、持っていた流木や、海藻の入った籠(かご)を一旦その場に置くと、手分けしてこの少年の体を持ち上げ、村の中ほどのところにある老婆キヌの家へと担ぎ込んだ。

 当時の百姓屋は窓が小さいのに加えて、薪で調理しているのために、天井のない剥き出しの屋根裏も壁もみな煤(すす)で真っ黒だ。そのため屋内は朝でも暗い。
 少年は体をきれいに拭かれて布団に寝かせられた。
 やがて、その暗がりの中で薄っすらと目を開けた少年は、仰向けのまましばらくあたりをゆっくりと見回していたが、自分の周囲に人がいるのに気付くと、まだ声変わりしたばかりと思われる擦(かす)れ声で、独り言のように呟(つぶや)いた。
「ここは……、
 ……
 ……どこじゃ?」
 彼の様子を心配そうに窺っていた村人たちは、口々に嬉しそうな声を上げた。
「おお、気が付いたか!」
「良かった!」
「ここは双美ヶ島(ふたみがしま)だよ。」
「あんた、どこんもんだい?」
 それらの言葉を耳にした少年は言った。
「双美ヶ島……?
 ……ほうか……。
 ……船から海に落ったんは覚えとるが、
 そっから後も先も覚えとらん……
どっから来たんかも……」
 先ほどの初老の女が尋ねた。
「名は何てんだい?」
 少年は、しばらくしてからそれに答えた。
「……忘れてしもうた。」
「せめて、父ちゃん母ちゃんの名だけでも思い出せないのかい?」
 キヌが急き込んでそう言うと、先ほどこの少年の息の有無を調べた老人が苦笑いして彼女に言った。
「自分の名さえ忘れたのに、父母(ちちはは)の名まで覚えてるわけないだろうさ。」
 その言葉を聞いた少年が、仰向けのまま微かに頷いたのを見たキヌは、まず少年に向かって優しく言った。
「おぉ、そうか、そうか……。海は大荒れだったからね。生きて流れ着いただけでも良かったよ。」
 そしてキヌは、今度は老人に向かってこう言った。
「なぁ村長(むらおさ)よ、それじゃ、それを思い出すまででも、この子をこの村に置いてやろうじゃないか。」
 この老人は、どうやらこの村の村長(そんちょう)のようだ。彼はキヌに向かって言った。
「それじゃぁお前、このままこの子の親代わりになってやるってのはどうだ?」
 一人暮らしだったキヌは、嬉しそうに微笑んで言った。
「親だか婆(ばあ)だか知らんけどなぁ。」
 それを聞いたその場の一同は、みな明るい笑い声を上げた。
 誰となく「ウミヒコ」と呼んだのが始まりで、その少年の名はウミヒコになった。

 それから十日が過ぎた。
 いつものように村の仕事の手伝いを終えたウミヒコは、浜辺に腰を下ろして海を見ていた。
 泳ぎが達者で、子供ながらにも漁師の仕事をよくこなす彼を大人たちは可愛がったが、子供たちの反応はそれとは反比例した。この村は外部との交流があまりなかったので、他所から来た者に慣れていなかったのだろう。また、ウミヒコの話す言葉が自分たちとかなり違っているせいもあったのだろうが、そのような者が大人たちから可愛がられることに対する妬みもあったようだ。
 そんな村の子供たちは、何かにつけてウミヒコのことを、からかったりいじめたり仲間はずれにした。そのためウミヒコは自由な時間になると、自分が流れ着いたと思われる場所の砂の上に腰を下ろし、じっと海を見詰めるしかなかった。
 今もまたそのウミヒコの背後に、彼より二つ三つ年下と見える男の子が三人寄って来て、その中の一人がわざとウミヒコに聞こえるような声で言った。
「おい、よそ者がまた海を見てるぞ。」
 別の子がそれに応えた。
「あれは捨て子だから、きっと父ちゃん母ちゃんに会いたいって泣いてるんだろう。」
 もう一人の子が意地悪そうな口調で、ウミヒコの背中に向かって囃(はや)した。
やーい、よそ者の捨て子! お前の父ちゃん寝てござる。お前の母ちゃん寝てござる! 父ちゃん母ちゃん恋しいと、泣いてもまだまだ寝てござる!
 そう言われたウミヒコは、彼らの方に顔を半分だけ向けると、横目でじろっと睨み付けた。それには気迫があったようで、三人は思わず後ずさりをした。
 そのウミヒコの背後で、今度は女の子の声がした。
「こら、よしなさいよ! 人をからかうのは!」
 どうやらその子は、先ほどの三人よりも立場が強かったようで、男の子たちは「ワーッ」という歓声のような悲鳴を上げながら、この場を走り去った。
 ウミヒコが振り向くと、そこには片手に桶(おけ)を下げている一人の少女が立っていた。年は自分より一つか二つ下のようで、細面の顔は小麦色に日焼けし、貧しい百姓の娘が着る色褪せて擦り切れた小袖を身に着けている。
 その少女と何気なく目が合ったウミヒコの全身に、ある種の激しい衝撃が走った。その少女も何かを感じたようで、やや目を見張ってウミヒコの顔を見た。
 しかしそれは、ほんの一瞬の出来事であり、少女の背後の砂丘の上からした中年女の声によって、二人とも我に返った。
「シャガ! 早くしてちょうだい! 待ってるんだから!」
 その声に押されるようにして、少女はウミヒコの横を小走りに通り過ぎると波打ち際まで行き、手に持っていた桶に海水を汲んだ。そして、声がした方に向かって駆けて行ったが、そこに人影はなく、少女の姿もやがて砂丘の向うに消えて行った。

シャガの花  この一件があってからというものウミヒコは、毎日毎日その少女のことばかり思うようになった。
 シャガとは、初夏に美しい花を咲かせる草のことだ。彼女はその名の通り、可憐な一輪の花のようだとウミヒコは思った。
 自分の故郷の大人たちが交わしている会話の中で、以前から「恋」という言葉を耳にしていたウミヒコは、それがどういう意味のことなのか、なんとなくわかっているつもりであった。しかし、今の彼のシャガに対する思いこそ、それそのものなのだということに気付かぬほど、彼は彼女に夢中になっていた。このようなことは彼にとって初めてのことだったので、それは仕方のないことだ。
 その後ウミヒコは、自分が世話になっているキヌの家の近くに彼女が住んでいるということも知った。
 シャガのことを想っているときが、彼にとって最も幸せなひとときとなった。夜も眠れず彼女のことを考えていた次の日には、頭がふらふらしていて、漁の最中に舟から海に落ちそうになったこともあったほどだ。
 しかし、そんなに好きな彼女に対して、ウミヒコは自分の気持ちをどう伝えていいのかわからなかった。
 彼がもしこの村の子供なら、こんなときどうしたら良いかを年上の者に相談することもできよう。また、何かの集まりの最中などに彼女と言葉を交わすきっかけも生まれて来ることだろう。しかし、村の子供たちから仲間外れにされているウミヒコにとって、それは不可能なことであった。
 そんな彼にできたことは、家の手伝いをしたり村の女たちと浜で貝を採っているシャガの姿を、ただ遠くから眺めていることだけだった。その浜の砂丘のいたるところには、浜茄子が鮮やかな赤い実を付けている。それはウミヒコの郷里では見られない物だったので、好きなシャガの姿と共に深く彼の心に残った。

 それから更に数日経った夕方のこと。
 ウミヒコがいつものように浜に腰を下ろして海を見ていると、誰かが彼のすぐ横に並んで腰を下ろした。どうせまた子供がからかいに来たんだろうと思ったウミヒコは、面倒臭そうにそちらに顔を向けたのだが、その目に映ったのはなんと意外なことに、小麦色に日焼けした少女の横顔であった。それは、ウミヒコが毎日毎日胸に思い描いていた少女のものであることがわかったウミヒコの心臓の鼓動は、飛び出してしまうのではないかと思われるほど激しくなった。
 そのシャガは、しばらくのあいだ彼女の目の前の砂を、流木の小枝でつついていたが、やがて意を決したようにサッとウミヒコの方に顔を向けた。その長い黒髪が、かすかにウミヒコの腕をかすめた。彼女は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、訝(いぶか)しそうにしてウミヒコに尋ねた。
「ねえ、あんた。なんでいつも海ばっかり見てるのよ?」
浜茄子の実  シャガがウミヒコに話し掛けて来るのは、もちろんこれが初めてのことだ。しかもこんなに近くで。風向きによっては、彼女の方から花のような甘い香りが流れて来る。ウミヒコは思った。
『今のわしの顔、きっと浜茄子の実みたいに赤うなっとるんじゃろうな。』
夕焼  そこで彼は、それを彼女に悟られないようにするため、正面の水平線に沈もうとしている夕陽の赤い光が、なるべく自分の顔に当たるようにした。また、もしここで明瞭に返事をすれば、自分の言葉の訛りを彼女が気付くかも知れない。だから彼は、シャガの顔ではなく海の方を向いたまま、小声の早口で答えた。
「海が好きじゃけん。」
「えっ? なに?」
 ウミヒコの顔に耳を近付けてシャガが聞き返したので、彼は依然として海の方を向いたままだが、今度は大きな声ではっきりと言った。
「海が、好きじゃけん!」
 それを聞くが早いかシャガは、持っていた小枝を放り出して立ち上がると、
「ほんと。噂(うわさ)どおり変な喋(しゃべ)り方だわ!」
 という言葉を残して、笑いながら走り去った。
 その直後、ウミヒコの頭の中は真っ暗になってしまった。あんなに好きだったシャガと初めて話すことができたのに、このような結末になってしまうとは……。
 村の子供たちからチクチクと苛められたり、言葉の違いをからかわれたりすることは不愉快なことであったが、近頃のウミヒコにとって、そんなことは、もうどうでもよくなっていた。彼の心の中は、シャガで一杯になっていたのだから。しかし、そのシャガ本人からそのようことをされるということは、彼にとって正に青天の霹靂であった。
 友達のいない見知らぬこの土地での初恋。
 それはいつの間にか、「シャガだけは他の子供のような、つまらないことをしないだろう」という信頼にまで発展していた。しかしそれは、自分が勝手に作り上げた幻でしかなかったということを彼は今思い知った。そしてその恋の幻想は、波を受けた小さな砂山のように脆(もろ)くも崩れ去ってしまった。
 どうしようもない寂寥感(せきりょうかん)に襲われたウミヒコは、両膝を抱えてそのあいだに顔をうずめると、ずっとそこから動こうとはしなかった。

月  どのくらい時間が経ったのだろう、誰かに呼ばれたような気がしたので、ウミヒコは膝のあいだから顔を上げてみた。空には既に丸い月が昇っている。
 彼の左の方の波打ち際で、今度ははっきりと人の声がした。
「ハヤテか!」
「良かった! 生きておった!」
 ウミヒコがその聞き覚えのある声の方を向くと、そこには月明かりに照らされた一組の男女が立っている。それを見た途端、ウミヒコは立ち上がって叫んだ。
「おとう! おかあ!」
 そこに飛ぶように駆け寄ったウミヒコは、その二人としっかり抱き合った。
 「ハヤテ」……それがこの少年の本名であった。
 彼ら一家は仲間と共に船団を組み、急ぎの用事のために日本海を北東に向かって移動していたところ、この前の嵐に遭遇した。波風を避けるため、その船団はこの島南部の港に寄港しようとしたのだが、ハヤテが乗っていた船が、この入り江の近くで座礁して大破(たいは)してしまった。その際、そこから海に投げ出されたりした者は、仲間の船に救助されたのだが、ハヤテ一人だけが行方不明になっていたのだった。
 しかし彼らは、ハヤテの捜索を公然と行なうことができなかった。なぜなら、彼らは影の世界に生きる者であったからだ。表向きは漁をしたり物資の輸送などをしているが、事があれば、水軍(すいぐん)に雇われ諜報機関として活動する、いわば海の忍者なのだ。
 もしハヤテが敵方の手に渡れば、彼らの組織の情報を聞き出すための拷問を受けた末に殺されることになる。そのため、一般の行商人を装って徒歩で行われたハヤテの捜索は、このような日数を要してしまったのだ。
 ハヤテはハラハラと涙を流した。村の大人たちは彼を助けてくれたのに同年代の子供たちからは疎外され、先ほど決定的な寂寥感を味わった直後に父母に再会することができたため、その心境はかなり複雑なものであった。
 手の甲で涙を拭ったハヤテは、父母に向かって言った。
「……わし、この浜に流れ着いたげで、ここの村ん衆(しゅう)に介抱されたんじゃ……。」
 父は、月明かりに照らされて砂丘の向うに並んでいる萱葺き屋根を見渡しながら言った。
「ほうか。その衆にゃぁ、えらぁ世話んなったのぅ……。」
 しかしハヤテは、子供たちから仲間はずれにされていることは言わなかった。それを父母が聞くと心配を掛けるということもあったし、そんな風にされているかっこ悪い自分を父母に知られたくなかったという思いもあった。
 父はハヤテに向かってこう言った。
「ハヤテ、よう聞け。おとうとおかあは今、お前を連れて帰れん。近いうちに必ず迎えに来るけん、それまでこの村を出んと待っておれ。それと、今宵(こよい)のことと己(おのれ)の素性は、誰にも言うちゃぁいけんぞ、ええな。」
 仲間以外の者に己の素性を明かすなということは、彼が普段から口やかましく言われていることだ。また、今夜のことをここの村人に言えば、ハヤテの素性について何かと詮索(せんさく)されるに違いない。それが自分たちにとってあまり良い結果をもたらさないということは理解できたが、なぜ父母が自分を今すぐ連れて行ってくれないのだろうとハヤテは疑問に思った。
 しかし父の表情があまりにも真剣だったので、ハヤテは黙って頷いた。すると、たちまち一陣(いちじん)の風が巻き起こり、砂が舞い上がって父母の姿を掻き消した。
おとう! おかあ! いんではいけん!
 ハヤテは叫んだが、既に父と母の姿はそこにはなく、風は激しさを増して彼の身体を大きく揺さぶった。

月おおい、ウミヒコ! ウミヒコってば!
 その大きな声で、ウミヒコは両膝のあいだから顔を上げた。すると、空にはさっきと同じ月があった。
「ウミヒコ。帰りが遅いから心配したんだよ。」
「あっ、キヌ婆様。」
 先ほどまで自分の身体を揺すっていたのは風ではなくて、彼の親代わりになってくれているキヌのがっしりとした両手であったことを知ったウミヒコは、怪訝そうにあたりを見回しながら言った。
「……あれー、変じゃのぅ……。」
 月明かりに照らされているキヌは、呆れたような声で言った。
「変なのはお前さんだよ! さっきからわけのわからない寝言を言うし、起きたら起きたで、なんだかきょろきょろしてるし。」
 それなら、先ほどのことは夢だったのだろうか。ウミヒコは、父母の姿を見掛けなかったかどうかを思わずキヌに尋ねそうになったが、「誰にも言わぬ」という父との約束を思い出したので、それをぐっと堪(こら)えた。
「さあ、夕餉(ゆうげ)ができてるよ、早く帰ろう。」
 キヌは優しくそう言って、彼が立ち上がるのを手伝った。ウミヒコは服に着いた砂を手で掃(はら)うと、月明かりの中、キヌと共に砂丘を越えて家路をたどって行った。

 それから三日後、村をあげての宴(うたげ)が催されることとなった。この離島の寒村(かんそん)にしては珍しく、一夜の宿を請(こ)う旅人が訪れたためだ。
 当時は、現代のように発達した交通機関や便利な宿泊施設などなく、旅人が民家などに宿を求めるということは、特に珍しいことではなかった。そして、そのような旅人を手厚くもてなすのが世の常となっていたのである。
 今回この村に訪れた旅人は、漁師と自称する三人の男で、果物と酒を土産(みやげ)として村長に献上(けんじょう)した。いずれもここらでは貴重な品々だ。彼らの宿泊所として、村のお宮が提供されることとなった。
 旅人の土産が充実していると、歓迎の宴を催すのが、この村の習わしであった。そうして主客互いの親睦を深めつつ、情報交換を行なうのである。
 電波放送やインターネットはもちろんのこと、新聞や雑誌のような物もなかったこの時代、庶民にとってこのような情報は、諸国の様子を知る上でとても貴重なものとなっていた。
 旅人は自分たちと同業のようなので、お互い気が楽なようにと、その宴は浜で行うことになった。日が暮れる頃、浜にいくつも火が焚かれて、その周りに莚(むしろ)が敷かれると、まずそこに旅人と村の男たちがそのうちのいくつかに座(ざ)した。女と子供たちは夕闇の中で、その客人の様子を遠巻きに観察していたが、相手が自分たちに無関心であり、尚且つ自分たちと同じ百姓の身分のように感じたので、すぐそこに加わった。
 火の子の舞う焚き火の明かりに照らされながら、村長がおもむろに口を開いた。
「さて、それでは始めるとしようか……。」
 この言葉によって、それまで冗談などを言い合って騒がしかった会場が静まった。
 穏やかな海の波が、時折りチャプンチャプンという音を立てており、丘の方からは無数の虫の音(ね)が賑やかに聞こえて来る。
 村長は、三人の旅人に向かって声を掛けた。
「このたびは、このような小さな村にようこそおいで下さった。
私はここの長(おさ)、宗吉(そうきち)と申します。あんたがたは西の方から来られたということだが、差し支えなければ、お名前などをお聞かせ下さらんか。」
 三人の中央に座している、一番年長者とおぼしき人物がそれに応えた。
「私ども、いずれも伊予(いよ)の国は安浦(やすうら)村より参りました。右の者の名は嘉平(かへい)、左の者は弥吉(やきち)、この私は半次(はんじ)と申します。」
 名を紹介された者は、それぞれ軽くお辞儀をした。だが、伊予に安浦村なる地名が実在するか否かを、そこから遠く離れたこの寒村の誰が知るのだろう。半次は話しを続けた。
「私ども、日頃は漁を生業(なりわい)にしておりますが、昨年不漁のゆえ、本年は西国(さいごく)の産物を東国(とうごく)にて商(あきな)い、東国にて仕入れし産物を西国に戻りてまた商おうと思うておりまする。『はてさて、それでは漁師に飽きたのか。』と問われれば、『漁師は飽きんど。』と答えておる次第でござります。」
 この下手な洒落(しゃれ)で会場に笑いが起こり、その場の緊張がほぐれた。宗吉も笑いながら言った。
「ハハハ! わかりました。
半次さん、弥吉さん、嘉平さん。つたない田舎料理で、ご馳走と呼べるようなものは何もありませんが、どうぞ召し上がって下され。」
 三人の客人も、それぞれ笑顔で応えた。
「有難う存じます。」
 かくして宴会が始まった。
 漁師と自称した半次だが、彼は琵琶(びわ)という楽器を持っており、それを巧みに演奏しながら、西国で見聞きしてきた戦国大名の合戦のありさまや、長崎に来航した南蛮(なんばん)人の様子などを吟(ぎん)じたので、宴会は大いに盛り上がった。
 この時代の常識からすると、雅楽で奏されるものを除けば、琵琶は盲目の僧がその演奏に合わせて経文を唱えたり昔の物語を語ったりするものと決まっていた。半次がどのような経路でこの楽器を入手し、その奏法を身に付けたのかは不明であるが、この戦乱の世で今現在起こっている各地の出来事を弾き語るということは、普段は情報の乏しいこのような村では非常に珍重されることなのである。
 宴もたけなわになった頃には、天の川を始めとする星々が天空に燦然(さんぜん)と輝いていた。大気汚染や都会の街明かりなどなかった時代のことなので、それは見事なものであった。
 半次が琵琶の演奏を終えると、村人たちは彼に向かって盛大な拍手喝采を送った。その後会場が雑談で包まれると、彼の耳元に向かって、隣りに座っていた嘉平がそっと囁(ささや)いた。
「相違(そうい)ないか。」
 村の子供たちに混じって座っているウミヒコの姿を、焚火の炎の明りによって見ながら、半次が同じように囁いた。
「相違ない。ハヤテじゃ。」
 その隣りに座っていた弥吉も囁いた。
「合図の狼煙(のろし)じゃ。」
 旅人同士のあいだで、密(ひそ)かにこのような会話が交わされたことを知る者は、彼ら本人の他には誰もいなかった。

 宴がお開きになったのは、夜も深けたつい先ほどのことだった。聞こえるのはもう波の音と虫の声だけだ。
 誰もが寝静まったと思いきや、先ほど宴会場となっていた浜から、音のない打ち上げ花火のような光が二発、空に向けて高々と上がった。
 その一方、村に沿った海側の小道では、一つの黒い影が素早く走って一軒の家の裏口の前で止まった。この時代の庶民の家の出入り口には、鍵などというようなものは付いていない。しかも夏のことなので、それは大きく開け放されている。
 その中の様子を窺がっていたその影は、間もなくその暗闇の中へと消えた。
 その裏口から月明かりが射し込んでいる家の中は、まるで寝息の博物館だ。大きな鼾(いびき)から、スヤスヤという可愛らしい寝息まで、あっちこっちから聞こえて来る。先ほどの影は、それらの一つに迷わず近寄ると、手に持っていた何かをそこに置いて、裏口から素早く外に飛び出した。そして、海の方に向かって砂丘を一気に駆け登って行った。
 砂丘の頂上から海を見ると、このあたりでは見かけない一艘の大きな帆船の姿が、月明かりに照らされて黒く浮き出ている。多分そこから来たのだろう、一隻の伝馬船が、たった今浜の波打ち際に漕ぎ付けたところだった。その周辺には三つの黒い人影がある。
 先ほどの影の主は砂丘を駆け下りると、その三人の中の一人に向かって息を切らせながら小声で言った。
「おとう、……待たせた。」
 月明かりで良く見ると、声を掛けられたのは先ほどの旅人の半次と名乗っていた男で、手には琵琶が入っていると見られる布の袋を持っている。
 少年らしき影が軽い身のこなしで船に飛び乗ると、他の三つの人影はそれぞれ自分たちの荷物をそこに積んで船を海に押し出し、すぐに本人たちもそこに飛び乗った。船を漕いで来た一人も、どうやら半次たちの仲間のようだ。
 五人を乗せた伝馬船は舳先(へさき)を沖の帆船に向けると、微かに櫓(ろ)をきしませただけで、滑るように岸を離れていった。
 しばらくすると、その船の上から早口で喋る小さな声が聞こえた。
「なぁなぁ、おとう。先におかあとこの浜で会うたとき、なんで連れて行ってくれんかったんよ?」
 そう尋ねられた半次の表情が苦笑いになったのが、月明かりによって微かにわかった。
「お前、何を言うておるんじゃ? わし、ここへ来たのはこれが初めてじゃよ。」
 父のその言葉を聞いた息子は、しばらく考えてからこう言った。
「……ほんなら、ありゃやっぱし夢じゃったんかのぅ……。」
 それを聞いた父は、今度は少し驚いたような口調で言った。
和船 「ほう、そりゃ不思議なこともあるもんじゃ。わし、おかあと一緒にこの浜に来た夢見て、月明かりの下にお前がおるの見たけん、この村に探しに来たんじゃ。」
 ということは、きっと親子で同じような夢を見たのだろう。特に親しい人間同士では、このような不思議なことが実際に起こることがある。
 やがて伝馬船が帆船に着いて5人がそこに乗り移ると、伝馬船を回収した帆船は、月夜の海に帆を上げた。

 まだ陽が昇る前であったが、
おーい! ウミヒコがいないよーっ!
 というキヌの大騒ぎによって、村人たちは起きて浜に集まっていた。普段なら、このような時刻に目覚めるのが当たり前の彼らであったが、昨夜は夜更かししたので、眠い目を擦っている者も多かった。
 そこに、村長の宗吉を始めとする何人かの者が、お宮の中の様子を見に行って帰って来た。薄明かりの中、宗吉はみなに向かって、意外にも落ち着いた口調でこう言った。
「やはり思った通り、あの旅の衆もいなかったよ……。
お前たち気付かなかったか? あの衆は漁もするだろうが、本業は漁師じゃねぇ。ただの漁師が、なんで戦(いくさ)のありさまをあんなに詳しく知ってるんだ? ありゃ戦に加わったあの衆が、その目で見て来たことだろう。
そもそも、あんなふうに琵琶を弾きこなすだけでも、ただ者じゃねぇってことがわかる。
また、俺たちに話す言葉は侍の言葉みてぇだったし、仲間同士で話す言葉はウミヒコが話してた言葉とよく似てたじゃないか……。」
 宗吉は、手に持っていた木片(もくへん)を頭上に掲げてこう言った。
「お宮にこれが置いてあった。おい、神職。すまんが読んでくれねぇか。」
 宗吉の隣に立っていた、この村で唯一字が読めるお宮の神主は、宗吉からその木片を受け取ると、次第に明るくなってきた空にそれをかざして、そこに墨で書かれている文字を読み上げた。
「我が子御世話になりて候(そうろう)。貴村(きそん)皆々様には益々の栄えありますことを御祈り申し上げ候。半次拝」
 それを聞いた宗吉は、納得したように頷いてからこう言った。
「……なるほど、そうか。
あの衆はウミヒコを探しにやって来て、見付けたんで連れて行ったんだろう。この文(ふみ)に添えてこれが置いてあった。」
 宗吉は懐から古ぼけた小振りの巾着(きんちゃく)を取り出すと、その口を開いてこの場のみなに回した。それを手に取って中を覗き込んだ者の口から、次々に「オー!」という溜め息混じりの声が漏れた。その巾着の大きさからは考えられない重みと、薄明かりの中でも燦然(さんぜん)と輝いているその中身がただの砂ではないことを、それを手にした者の誰もが察したのだ。
 この村の近くの山に流れる川では、昔から砂金が採れることで有名だった。当然彼らもそのことを知っており、その物体の性質に関する噂も聞いて知ってはいたが、貧しい漁村の彼らの誰もが、それを実際に手に取って目にするのは初めてのことであった。
 宗吉に向かって誰かが尋ねた。
「あんたは、あの衆の正体をわかってて放っといたのかい?」
 宗吉は、それに答えた。
「おぅ、始めは殿様に知らせようかとも思った。そうすりゃぁ褒美が出る。でも、俺は考えた……。」
 宗吉は、ここの領主の居城がある北の方を顎で示してから言った。
「そもそも殿様は、俺たちが海で捕った魚や、浜でつくった塩を掠(かす)め取りに来るばかりで、村に土産など持って来たことなど一度もねぇ。貧しい俺たちから搾り取っては太ってる。
ところが、あの衆は珍しい土産を持って来てくれた上に、俺たちと共に火を囲み、諸国の珍しい話しも聞かせてくれた。いわば友だちのようなもんだ。その衆を、あんな殿様なんぞに差し出すなんてことは、人の道から外れることだ。そう思わねぇかい?」
 宗吉がそう言うと、その場のみなはそれぞれ黙って頷いた。
「但し。」
 宗吉は話しを続けた。
「あの衆は、俺たちと同じく海に生きる者のようだが、俺たちには計り知れぬ世界に住んでるようにも見える。知らぬ者がそこに口や手を出すと、かえって事がややこしくなることもあろう。
巣からはみ出た海鳥の子は、その親鳥が巣に連れ戻すのが一番良い。他人が余計な手出しをすると、親が警戒して事がかえって面倒になる。そう思って、わざと謀(はか)られたふりをしてたのさ。」
 旅人とウミヒコとの関係を無理に問いただせば、素性を知られることを恐れた彼らは、もっと強硬な手段を選んだかも知れない。それを避けるため、宗吉は最善と思われる方法で対処していたのだ。
 ウミヒコの親代わりになっていたキヌが涙声で言った。
「あの子はね、昨日の夜寝る前にオレの枕元に立って、『キヌ婆様、いつまでも元気でおってくれ……。』なんて、わけのわからないことを言ってたんだよ。これでようやく、そのわけがわかったよ……。」

水平線  こうしてこの事件の真相がほぼ解明されると、今度は旅人がお礼としてこの村に置いていった物の使い道について話し合わねばならなくなった。しかし、空腹のままでは良い知恵も出ないだろうから、それは朝餉(あさげ)を済ませてからにしようということになり、集まっていた村人たちはひとまず解散することにした。
 やがて蝉の鳴く丘の上から陽が昇ると、人気のなくなった浜は朝陽に照らされて明るくなった。するとそこには、まだ誰かが一人残っていることがわかった。それは、遠い水平線のかなたを呆然(ぼうぜん)と見詰めたままで立ち尽くしている、長い黒髪の少女であった。
 先ほどのキヌの騒ぎで目覚めたその少女は、自分の枕元に何かが置かれていることに薄暗い中でも気が付いた。それは、いくつかの貝殻を糸に通して連ねた小振りの首飾りであった。以前ウミヒコが浜でこれを夢中になってつくっていたのを思い出した彼女は、急いでこの場に駆け付けたのだが、時(とき)既に遅く、彼は三人の旅人と共に姿を消したということがわかった。
 頬に一筋の涙を流したシャガは、水平線に向かって語り掛けるように呟(つぶや)いた。
「この前あたしが横に座ったとき、あんたは海ばっかり見て、あたしの方なんか見ようともしなかった。話し掛けても、返ってきたのは怒ったような返事だった……。
だから、あたしはてっきり嫌われてるんだと思い込んで、『あんたの言葉が変だ』なんて、つい心にもないことを言ってしまったのよ……。
あたし、ほんとはあんたともっと話しがしたかった……。
あたしは……」
 彼女の目から、また涙がこぼれ落ちた。
「……あたしは……、もっとあんたの近くにいたかった……。」
 シャガは、自分の手の中の首飾りに目を移すと、それを広げて、その美しい貝の一つ一つを指で確かめるようにした。そしてそれを、その細い首に掛けた。
 彼女が髪を肩の後ろに掃うと、それは朝風にそよぎ、その素足の足元でも、赤い浜茄子の実が微かに揺れた。

実を付けた浜茄子

<続く>
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