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物語

はまなすの実

原作/田野呵々士

第三章 日本脱出と新天地

囲炉裏

「そうか……。ついに来よるか……。」
 天正十九年八月十一日、今の暦に直すと一五九一年九月二十八日。村の集会所の中央に設けられている、大きな囲炉裏に新たに薪をくべながら、村長の喜助がしんみりした口調で言った。その火を囲んで座っている大勢の村の男たちの影が、煤けた木の壁や屋根裏に大きく映って揺らいでいる。聞こえるのは、彼らが静かに飲み食いする音と、時たま爆(は)ぜる薪の音だけだ。それとは対称的に、屋外では秋の虫が賑やかに鳴いている。
 この村人たちは、武士に対する略奪行為をこのところずっと慎んでいたのだが、今になって討伐の命が下ったというのだ。
 織田信長の後を受け継いだ豊臣秀吉が諸国を平定していくと、それまで反目し合っていた大名たちが互いに顔を合わせ、情報交換を行う機会を持つようになった。すると、大名に対する過去の襲撃事件の情報が収集され、襲撃を行ったそれらの集団の外見的な特徴や手口などが分類されていった。
 そこに浮上してきたものの一つが、瀬戸内海西部に根拠地を持つと噂されている海賊の存在であった。その情報は当然のことながら秀吉の耳にも入ることとなり、その結果、天下統一を目前に控えた秀吉は、その根拠地を捜索して討つようにと、瀬戸内海西部沿岸各地の大名に命じたというわけだ。
 この村には先ほど、勘蔵という名の幹部とその二人の部下が二ヵ月ぶりに帰還した。一見行商人風のこの三人は、それをしながら天下の動向を探るという重大な任務を村長から与えられており、この村の主だった男たちがその報告を聞くために、夕餉(ゆうげ)も兼ねてここに集まっていたのだ。その勘蔵の口から真っ先に出たのが、先ほど述べた海賊討伐に関する情報だったのである。
 勘蔵は喜助の実の弟で、長身の兄には似ず小柄だったが、兄同様筋肉質でがっしりした体付きをしていた。しかし、髪も髭(ひげ)も伸ばし放題のこの村の男たちとは違って、きちんと髷(まげ)を結っており髭もきれいに剃っている。都界隈(みやこかいわい)で武家や公卿(くげ)相手に商売するためだ。
 だが、その勘蔵の右手は肘から先がない。彼がまだ若い頃、戦闘で負った刀傷が化膿して、そこから先が壊死(えし)し、切断を余儀なくされたためだ。その傷が化膿してしまった理由が聞いて呆れる。「傷口が塞がるまで酒を飲むな」と医者から忠告を受けていたのにもかかわらず、その年の新酒はたまたま例年になくできが良かったので、勘蔵は毎晩それを飲んだくれていたのだ。自分の右腕よりも、その妙なる酒の味を堪能する方を選んだのである。
 また、四十過ぎた彼は未だに独身だった。早熟だった彼は、九歳のときに五つ年上の女に激しい恋をしたのだが、その女は勘蔵に好意を持っているような素振りをして、実は彼の心をもて遊んでいたことがわかった。ある日その女が他の男と浜でいちゃ付いているところを見てしまったからである。それによって彼の繊細な心は深く傷付けられた。それ以来彼は恋をしなくなった。
 ところが、なぜかそんな彼に惹かれる女性は少なからずいて、彼が右腕を失ってからもそれは衰えることはなかったのだが、彼は気付かない振りをしてその多くを無視した。並みの女には何の魅力も感じなくなってしまったからだ。そんな彼のことを男色(なんしょく)と誤解する者もいたが、彼が都などで情報を仕入れるのは主に遊郭からだった。格の高い武士が贔屓(ひいき)にしている遊女から気に入られて天下の情報を仕入れることも、彼の得意とする技の一つであった。
 このように自由奔放で特異な発想に基づく、常識を逸脱した勘蔵の行動は、世間並みに思慮深い者や世渡りが上手な者から見れば、ただの馬鹿か気違いの行動でしかなかった。この変人のことを理解できたのは、海賊をしていた頃のこの村の者でさえ、兄の喜助と、その側近で勘蔵とは幼馴染(おさななじみ)のロクぐらいのものだった。
 ところがある日、顧問のモラが「彼を都へやってみろ」と、今は亡き二代目の頭に進言し、当時三十歳過ぎたばかりの勘蔵は、二人の仲間と共に情報収集のために都へと赴いた。そこで勘蔵が持ち帰った情報は多岐にわたり、一見支離滅裂なようだったが、それを全部聞き終えると、さながら都に居るように世の中の動きを知ることができた。これは一見ばらばらな個々の事件の背後にある因果関係と、時代の流れそのものをきちんと把握している者にしかできぬ技だ。これによって知識と教養のある老練の海賊の幹部たちを、当時まだ若かった勘蔵は大いに唸らせた。それ以来彼は、このような任務に専念するようになったのである。
 規律の多い組織の中や狭い船の中では、彼のような男は他の者から馬鹿にされるか嫉(ねた)まれるかして、何かとトラブルの発生源となる。そんな小さな場所に押し込めておくよりも、諸国を飛び回らせる方が彼の能力を存分に発揮させることができるということを、当時のモラは見事に見抜いたのであった。
 そのため勘蔵は、現在この組織の諜報(ちょうほう)と通商の二つの部門の長を兼任していて、頭の喜助にとっては実の弟であると同時に、最も重要な部下の一人となっていた。
 今その勘蔵は囲炉裏の前で身を屈め、左手に持つ小刀と右手の肘とを上手に使って、火で炙(あぶ)った岩牡蠣(いわがき)の殻をこじ開けながら、快活な口調で話しを続けた。
「……敦賀沖の海戦のことも、わしらに大砲があるっちゅうことも、堺の商人や海運業者のあいだでは有名な話しになっとったわ。『伊予(いよ)か安芸(あき)あたりにおる海賊の仕業(しわざ)ちゃいまっか?』ちゅうてのぅ……。
関白は今、大きなこと企(くわだ)てとるけん、その前になんとかけりを付けようとしよるじゃろう。ちゅうことは、この年が明ける前にゃぁ、ここに討伐軍差し向けて来よる思うわ。」
 彼は、殻をこじ開けて身を外した牡蠣に、まだ皮の青い柚子(ゆず)を絞って口に運ぶと、汁と共に身をつるっと吸った。そして、杯の酒をぐっと呷(あお)り、さもうまそうに舌鼓(したつづみ)を打った。彼は、両脇に座していた二人の部下に言った。
「こりゃ絶品じゃわ!」
 その二人も同じようにして牡蠣を食べると、満足げに何度も頷いていた。
 その一方、喜助は自分の杯を舐めると、囲炉裏の炎を見詰めながら、ややしんみりとした口調でこう言った。
「豊臣相手に戦うか……。」
 モラも、その炎を見詰めながら、物静かな口調で言った。
「『逃げるは卑怯』と言うが、無益な戦いによって無駄な力を使い無駄な時を過ごすことほど詰まらんことはないぞ。一揆(いっき)のようなことなら仕方あるまいが、わしらはもう、もののふ(侍)への恨み充分晴らしたと思う。これからはもっと大きな仕事あるけん、今は奴ら相手に戦(いくさ)なんぞしちょる場合ではないわ。」
 喜助がモラの方を向いて尋ねた。
「ほう、その大きな仕事とは?」
 モラは、依然として炎を見詰めながらこう言った。
「もののふにも坊(ぼん)さんにもできん、新しい生き方つくるんじゃ。日本古来の生き方を元にして……。」
 中国服を身にまとっている張(チャン)先生は、モラに向かってにっこり微笑むと、持ち前の太く大きな明るい声で言った。
「そがんこと、ベイジン(北京)の言葉で『ウェングーチーシン』言うとよ。」
 そちらに顔を向けたモラも微笑んで言った。
「そうじゃ。『温故知新(おんこちしん)』、古きをたずねて新しきを知る……。」
 喜助が少し寂しそうに言った。
「とすると、いよいよここを出ないけんのぅ。」
 ロクが囲炉裏に薪を足しながら言った。
「どこへ移るや?」
 舞い上がる火の粉をじっと見詰めながら、モラが再び静かな口調で言った。
「日本の天下が統一されたとなりゃぁ外国(とつくに)しかあるまい。」
「異国に移るとなると、海賊稼業とも完全におさらばじゃのぅ。」
 喜助がまたちょっと寂びしそうな口調でそう言うと、彼を励ますかのように、張先生がまた明るい声で言った。
「異国にて商いしたら良か。明国や朝鮮国の物南蛮に売り、南蛮の物明国や朝鮮国に売るとよ。おいの同胞の商人、今はそいでみな儲かっとっとよ。」
 モラは、杯を飲み干して言った。
「……おぅ、生業(なりわい)としてはほいで良かろう。しかし、いずれにせよ住む場所探さんならん。」
 長旅の帰りで腹を減らしていた勘蔵は、今度は鯵の叩きを箸で口に運ぶと目を細め、杯を干して嬉しそうに言った。
「うーっ! これこれ! これでも飲みたかったんじゃ! どうせ住むんなら、海の幸のうまいところがええぞよ! のぅ、兄い!」
 雰囲気がなんとなくしんみりしていたのだが、喜助に向かって勘蔵がそう言うと、その場の一同はみなどっと笑った。喜助も笑いながら言った。
「ハハハ! その通りじゃ。何日も陸(おか)に上がっておると、魚が夢に出て来よるほどじゃ。こりゃ海育ちんもんの性(さが)じゃけんのぅ、わしらから海取り上げたら干上がって死んでしまうわい。」
 今度は、サッパという瀬戸内海特産の小魚の熟れ鮨(なれずし)を頬張った勘蔵は、杯の酒をすすると、また目を細めて言った。
「おーっ! これじゃ、これ! これも都じゃまず口に入らん故郷(ふるさと)の味!」
「おいおい、ほんなら、まるで都の食いもんが、うもうないように聞こえるぞえ。」
 喜助が肩をすくめながらそう言うと、みなはまたどっと笑った。勘蔵は言った。
「いや、そうは言うとらん。都は山のもんが特にうまい。魚もあることはある。近江(おうみ)の魚と地の川魚、若狭から運ばれる塩鯖。鮨(すし)は近江の鮒鮨(ふなずし)。それはそれでうまいもんじゃ。けどやっぱし、わしゃこっちの方が好きじゃ。」
 そう言われると、彼らにとっては見慣れた目の前の素朴な料理が、事の他うまそうに見えてくるから不思議だ。幹部をはじめとする男たちの箸は、談笑しながら前にも増して進んだ。
 しばらくのあいだ、食べて飲むことに専念していた勘蔵であったが、胃袋の空間と血中のアルコール度数がある程度満たされると、口調をやや改めてこう言った。
「……ほいでのぅ、先に言うた太閤の大きな企て、これがまたえらいことなんじゃ。」
 それによって会場が静まった。喜助もやや真剣な表情になると、勘蔵に向かって尋ねた。
「なんじゃ、そのえらいこととは?」
「こりゃ、年明けてからになるげじゃが……、太閤は朝鮮国攻めるんじゃと。」
 それによって会場が再びざわめいた。
 モラは箸を置くと、意外そうに言った。
「ほうか……。矛先を朝鮮へ向けよったか……。」
 それまで巷(ちまた)では、秀吉が明国を攻めるのではないかという噂が流れていたからだ。勘蔵がその説明を始めると、会場はまた静まった。
「……最初は明国攻めるつもりじゃったらしい。ほいで朝鮮国に、『明国攻めるけん、日本の将兵あんたの国ん中通るの認めてくれや』言いよったそうじゃ。ところが朝鮮国は明国の子分じゃけん、当然それ断わりよった。ほんなら、まず先に朝鮮国攻めるちゅうことになったそうじゃ。今、西国のあちこちの大名に大きな軍船つくらせとるわ。」
「日本の侍強か。ばってん、ただ強かだけんこと駄目とよ!」
 毅然(きぜん)とした口調でそう言ったのは、明国出身の張先生だった。
 ロクがそれに同意した。
「その通りじゃ。太閤のやり方じゃぁ、戦には勝っても、まともな統治はできんじゃろう。」
 この時代の東アジアは、急速に国際化が進んでいた。しかし、日本は島国のために、他の国々に較べると外国人や異民族との接触に慣れておらず、その付き合い方をまだ心得ていない者が多かった。
 顧問役のモラが言った。
「強い者が勝つこと、それはしようないこととまだ諦めもつくじゃろう。長い歴史ん中で攻防が繰り返されており、それはお互い様だからじゃ。
しかし、ただ戦に勝つだけではなく、惨い行いや人を人と思わん行いをすりゃぁ、必ず相手から恨みを買うこととなる。
力で民(たみ)を押さえ付けるだけではのうて、民を慈しむ心がなければならぬ。日本のもののふは、古(いにしえ)から武力には長(た)けておるが、その肝心なところが欠けておる。」
 それに続いて勘蔵が言った。
「侍にあらざるは、人にあらずとでも思うとるからじゃろう。」
「自分たちにゃぁ、元寇(げんこう)ときんような神風(かみかぜ)が付いてくれるとでも思うとるんじゃろうか。」
 喜助がそう言うと、モラが言った。
「元寇では、蒙古が天の気に反して攻めて来よったけん、あげになりよったんじゃろう。じゃが、今度無理に攻めるのは日本じゃけん、泣いても喚いてもそげな風は吹かんじゃろう。真(まこと)の神さんちゅうもんは、そういうもんじゃわい。」
 ここで喜助が、勘蔵に向かって確認した。
「勘蔵や。お前さっき、秀吉が朝鮮攻めよる前に、討伐軍ここに差し向けて来よる言うたのぅ。」
 勘蔵は、杯を干してから言った。
「……ああ、言うたよ。その前に早う新しい居場所決めて、こっから出とかないけんわ。異国んもんの行き来しよる平戸(ひらど)や長崎に行きゃぁ、その情報手に入るじゃろうけどのぅ……。」
 それを聞くなり喜助は、会場を見渡して言った。
「よし、ほなら白鷹丸で平戸と長崎に行って、わしらの新しい住みかとなり得る場所の情報を得て来てはどうじゃ?」
 その船長ロクを始めとする、その場のみなは、口々にそれに同意した。
「おぅ、ええ考えじゃ!」
「賛成じゃ!」
 喜助は張先生に向かって言った。
「先生、それに同行して下さらんか。」
 張先生は、その要請に快く応じた。
「よかよ!」
 診療所の医師である張先生は、ここへ来る前は長崎在住だったので、彼に同行してもらえれば心強い。
 喜助は勘蔵の方を向くと、今度はやや申し訳なさそうな口調でこう言った。
「……ほいで勘蔵や。戻ってすぐで済まんけどのぅ、お前も一緒に行って異国の情報仕入れて来て欲しいんじゃが、ええかのぅ?」
 南蛮人との会話には、ポルトガル語を身に付けている勘蔵の力が是非とも必要だった。しかし、今日はるばる都から帰還したばかりの勘蔵に、その任務を命じるのは、さすがにちょっと気が引けたのだろう。
 案の定、勘蔵は渋々と返事をした。
「……いやいや、兄いも人使い荒いのぅ……。」
 そして彼は、ニヤッと笑ってからこう言った。
「……けどのぅ、多分そう来るじゃろう思うて、さっきから悔いのないよう思いっきり故郷のうまいもん食うとったんじゃ。これでまた異国のうまいもん食える思うとのぅ、わしほどの幸せもんは他におらん思うわ! ハッハッハ!
 勘蔵は最後は大笑いしながら、冗談のようにそう言ったが、食通で旅が好きな彼にとって、実はこのような任務は大歓迎だった。今までの旅の疲れなど、船の中で三日も寝れば取れることだ。勘蔵は最初からこうなるように話しを持って行ったのかも知れない。
 勘蔵が皮肉ではなく、本心を語り本当に喜んで笑っていることを見抜いたモラが、不敵な笑みを浮かべて呟いた。
「フフ、相変わらずやりよるのぅ……。」
 喜助も、自分が弟に誘導されたことに気付いたが、このようなことは今に始まったことではない。勘蔵はこのようなことはするが、その分、与えられた任務以上の成果を持って帰って来る。その期待を裏切られたことは、今まで一度もなかったので、喜助はちょっと苦笑いしただけで話題を変えた。
「……さて、仕事の話しはここまで。
おい、勘蔵や、都の話し! 都の話しじゃ!」
 今度は和(なご)やかに目尻に皺を寄せると、喜助はそう言って語り手に話しの催促をした。勘蔵はスッと杯を干してから言った。
「兄いは仕事の話しより、都の話しの方がお好きと見えるわい。実はわしもそうなんじゃが……。」
 その言葉に、喜助をはじめとするみなが大笑いした。勘蔵はさっと羽織(はおり)の襟(えり)を正すと、慣れた口調で語り始めた。
「……ほんなら始めると致しましょう……。
古(いにしえ)の天竺(てんじく)に源(みなもと)を発する釈尊(しゃくそん)の教え、震旦(しんだん)を経て日の本に至れり。これ仏教と称せしこと本邦(ほんぽう)の民(たみ)広く知るところなり。
この仏教と様(さま)を同じくして、今よりおよそ千と六百年の昔、由陀国(ユダこく)に源を発する切支斗(きりしと)の教え、大秦国(だいしんこく)を経て南蛮に至らむ。これ即(すなわ)ち天主教と称し、その信徒をして切支丹(きりしたん)と称さん。
その天主教の仏教と最も異なりしは、切支斗の他に神を認めざるところなり。切支丹曰(いわ)く、『切支斗の他(ほか)に神はなし』。切支斗より千年昔、万年昔と数うること能(あた)わざる上つ世よりあらせられます天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)といえども『神にあらず』と言いける……。」
 現代ではインターネットの普及によって、欲しい情報を一般家庭でも居ながらにして得られるようになった。また、ビデオやDVDといったもののお陰で、手軽に映画や演劇などを鑑賞することもできる。ところが、このような便利なものがない時代の日本には、その両方の役割を果たしているものがあった。それが、諸国を行脚(あんぎゃ)して回る芸人や琵琶法師、そして何と言っても身内の旅人の見聞(けんぶん)だ。今流に言えば、「アナログ・ネットワーク」である。
 特に、教養もそこそこあり好奇心旺盛なこの村の者にとっては、酒を飲みながらこのような話しを聞くことが、賭博や女遊びに勝るとも劣らぬ最大の娯楽と言っても過言ではなかった。そのため、定期的に都へこのような偵察隊を送っているようなものだ。
 先ほどの喜助のように、自分たちの存亡に関わるような重大な話しはそこそこにしておいて、早く都の話しが聞きたいと言うのだから、その好きさ加減は並大抵のものではない。それだけ人々は情報に飢え、その一つ一つを宝物のように思っていたということだ。そのため、このようないわゆる「クチコミ」による情報は、今の人からすれば信じられないような早さで全国津々浦々へと到達し、そのような情報を運ぶ者がとても尊重されていた。
 今回の勘蔵ら三人が派遣されていた目的は、日本と世界の国々の動きに関する情報収集だったので、規模の大きな話しを期待することができた。勘蔵らもそれを心得ていて、仲間が興に乗りそうな話しを、道中しこたま仕入れて帰って来ていた。その話しは、地理的なことも然ることながら、歴史としての因果関係も重視されている。
 そのためこの晩は、まずローマ・カトリックなどのキリスト教に関する情報から始まった。次に、南蛮と呼ばれている国々が、それを布教しながら世界各地を領地にしていくという話しになった。そして、日本のキリスト教徒が社寺仏閣を破壊したため、秀吉が伴天連(バテレン)追放令を出したということを述べてから、普段話している口調に戻ってこう言った。
「……わしゃ、秀吉は好かん。けど、今度の処置は正しい選択じゃ思うわ。」
 それに対して、その近くの席に座っていた喜助が、囲炉裏に薪をくべながら尋ねた。
「……ほう、そりゃまた、なしてじゃ?」
 勘蔵は言った。
「他の宗教の建物破壊するっちゅう行為は、そのわけが何であれ暴力行為じゃ。天主教がいかに優れた宗教であっても、信者にそげんことさせる指導者の教えは非宗教的なまがい物じゃけん、追放されて然るべきじゃろう。」
 喜助は言った。
「なるほどのぅ。天主教の教祖は暴力を好まぬと、わしゃ昔から聞いておる。その経典に書かれとることと、伴天連教えとることが違うとるちゅうことじゃな。」
 勘蔵は、やや興奮して言った。
そうじゃ! それがほんまに優れた教えなら、信者は説法だけで寄って来よるはずじゃろう? 暴力で他の宗教の教えを妨害しよるんは、その教えが暴力に頼らなけりゃ広められんちゅうことじゃ。そげん教えはほんまの宗教違うわ!」
 その言葉に、その場の一同は深く納得した。
 その一方、天正十年に日本を発った四人のキリスト教徒の日本少年が、八年ぶりにヨーロッパから帰国して活版印刷機とその技術を持ち帰ったということを、勘蔵は高く評価した。そして、また普段の口調に戻ると、こう説明を加えた。
「……いかなる国の宗教と学問にも、ええとこと悪いとこの両方がある。これからは、南蛮のもん全てが悪いとするんじゃなしに、批判すべきは批判し、学ぶべきことは学ぶっちゅう柔軟な考え方にならないけんわ。」
 そう言って南蛮に関する話しを終えた勘蔵は、今度は国内の事象に話題を移した。
 まずは、茶匠(ちゃしょう)・千利休(せんのりきゅう)切腹の話し。続いて、伊達政宗(だてまさむね)が秀吉に帰順する話しだ。そして、秀吉という人物が天下を取り、その権力を駆使する有様を紹介し、小田原征伐の話しでその最後を締めくくった。
 勘蔵が最後に話したものは篭城(ろうじょう)の話しだったので、手に汗握るような軍記物ではなかったが、当時名城と謳(うた)われていた小田原の開城と、新進気鋭の大名であったはずの後北条家が滅亡するありさまには、誰もが興味津々(しんしん)であった。
 彼らは大名が嫌いだったが、戦(いくさ)の話しは大好きだった。その点、完全に割り切っている。優れた武器や見事な戦術の話しは、自分たちの装備や戦いぶりにも即座に反映されるので、ただの娯楽としてではなく、勉強熱心な生徒のように目を輝かせて、彼らはそれに聞き入った。

 今回の勘蔵の話しは、その量が多かったので、義理の父のサブ、親友のケンとヤスと共にハヤテが集会所から帰宅したのは、今で言う午前一時頃だった。ハヤテの妹のナミにはケンが、ハヤテの妻シャガの妹トヨにはヤスが、それぞれ婿に来ていて、今は同じ屋根の下で暮らしている。彼らは既に一人ずつ子を設けていた。
 ハヤテは、他の三人が床に就いたのを確認すると、家の中央にある囲炉裏の火を弱め、自分も寝床にもぐり込んだ。すると、ハヤテの床の隣で寝ていたシャガが目を覚まし、声をひそめて言った。
……あ、お帰り。遅かったのね。
おう。おもろい話し山ほどあったけんのぅ。
 他の者が眠ったようなので、闇の中の二人は、それを起こさぬように声をひそめて会話した。
 シャガは勘蔵の報告について尋ねた。
どうだった?
おう、ついにここにも敵が来よるようじゃ……それと、秀吉は朝鮮国を攻めよるげぇじゃ。
 それを聞いたシャガは、深刻な口調になって囁(ささや)いた。
いや……それは大変だわ。
新しい本拠地の場所探しするために、白鷹丸が平戸と長崎に行って情報仕入れて来ることんなった。
 シャガは、なかば呆れたように言った。
「えー? また出掛けるのー?」
いや。わしゃ今度は留守役じゃ。
「あー、良かったー……。」
 シャガはそう言うと、ハヤテの布団の中に入って来て彼の胸にしがみ付いた。ハヤテは、それを嗜めるように言った。
こら、アキが目ぇ覚ましよるじゃろうが!
 しかし、シャガも嗜めるように言った。
起こさないようにするために、こうしてわざわざ近くに寄って小声で話すんじゃないの。
 シャガは無事男の子を出産し、その長男は彼女の祖母タネによってアキと命名されていた。もう歩けるようになっていて言葉もよく話した。今はシャガの向こう側でスヤスヤと寝入っている。シャガの大きなお腹の中には、既に次の子が出産を控えていた。
 ハヤテは眠りそうだったが、腕を回してシャガの艶(つや)やかな黒髪を優しく撫でた。竃(かまど)のあたりでは、一匹のコオロギが時折り思い出したようにコロコロと鳴いている。
 布団の中の二人は、ひそひそと会話を続けた。
「……ねえ、ハヤテ。」
「……何じゃ。」
「もう戦なんかしないで、漁や商いしてみんなで楽しく暮らせたらいいのにね……。
この村の誰もが侍に恨みはあったろうけど、それはもう充分晴らしたと思うよ……。」
「それはそうじゃろうが、攻められりゃぁそうもいけんじゃろう……。」
「侍がいないとこへ行けばいいんじゃない。」
「そげなとこ、この日本にゃあらせんぞ。」
「日本じゃなくて、よその国へ行けばいいのよ。」
 ハヤテはシャガの髪を撫でながらしばらく黙った。先ほど集会所で幹部同士がしていた会話と、よく似てきたからだ。彼は、妻がどう答えるのか興味があったので、そのことは明かさずに、こう言ってみた。
「……よその国言うても、ようけあるぞ。」
 今度はシャガの方が、しばらく黙ってからこう言った。
「……あたしは、天竺と明国と朝鮮国と琉球国と……それから南蛮の名前くらいしか知らないけど、どっかもっと別の国よ。あたしね、この前夢を見たの。まだ誰にも話してないけど。」
「どげな夢じゃ?……。」
 彼女の髪を撫でるハヤテの手が止まった。この妻に不思議な能力が備わっていることを知る彼は、その夢が移転する場所の手掛かりになるかも知れないと思ったので、その話しを聞くことに思わず集中したのだ。今度はシャガがハヤテの首筋を撫でながら、こう言った。
「……枝がなくって、てっぺんにだけ大きな葉の付いた、とっても背の高い木が並んでる浜がまず見えたの。その砂は真っ白だし、海は青く透き通ってて、とっても綺麗だった。お日さまの光は強いけど、木陰では風がとっても気持ち良かったわ……。
それで、その林の奥に、床を高くした大きな家がたくさん建ってたの。その真ん中に石畳が敷かれた広い場所があって、その真ん中へんに建ってる櫓の上に、この村の幹部のみんなが座ってたわ。なぜか、あたしもその中にいたの。もっと不思議なことに、頭(かしら)の印の紫の鉢巻を、喜助さんじゃなくて奥さんのサイさんがしてたのよ!
そして、そのサイさんが、自分のその鉢巻を外してあたしの頭に絞めたの! その櫓の前の石畳に敷かれた筵の上には、この村の人たちが大勢座ってて、父ちゃんも母さんも弟妹たちも、そして少し大きくなったアキと、よちよち歩きの女の子も、みんなであたしの方を見てるから、とっても恥ずかしかったわ。……なんだか変な夢よね……。
今度は場所が変わって、大きな港のある石づくりの町が出て来たの。港には大きな船がいくつも泊まってた。白鷹丸もあったわ。港に設けられた大きな市(いち)には、食べ物、着る物、食器その他いろんな物が並んでた。顔の白い人黒い人、髪の毛が金色の人、頭に布を巻いて長い服を着たような様々な人たちが、みな忙しそうに物を売り買いしてた……。」
 シャガはそこまで語ったが、少し前から反応がないので、闇の中のハヤテの顔の方を向いた。すると彼は自分の肩の上に手を置いたまま、既に寝息を立てていることがわかった。
「なんだ、寝てたのか……。」
 彼女は残念そうにそう呟いて夫の胸に頬を擦り寄せると、自分も眠りに就いた。

 ロクを船長とする白鷹丸が本拠地の島に戻ったのは、出発から十日後の未明であった。当時は風任せの航海なので、長崎まで行って、この日数で帰って来れたのは、かなり風向きに恵まれていたのだろう。
 陽が昇る前、島の入り江に浮かぶ白鷹丸に向けて、港の桟橋から伝馬船が一斉に漕ぎ出した。
 それらは人や物を乗せて、次々と桟橋に帰って来た。
 やがて、物資の収納などが終わると、港の横の浜には、朝餉(あさげ)を兼ねて今回の報告を聞くために、大勢の村人たちが集まった。秋の早朝の空気は冷たいが、会場となっている浜のあちこちには火が焚かれており、熱い雑穀粥(ざっこくがゆ)と燗(かん)をした酒が用意された。
 みなが席に座ると、頭の喜助が会場の正面に海を背にして立った。村の背後の山裾から登った橙色の朝日を正面から受けた彼が、やや眩しそうに目を細めて会場を見渡すと、それまで賑やかだった会場が静まった。彼は朝もやの中で、白い息を吐きながら言った。
「みなも知る通り、平戸と長崎で新しい住処の情報を得、ついでに商いもしてきた白鷹丸が、先ほど無事帰還した。任務を果たした者は、みなご苦労であった。
これより、その報告聞かせて貰うことにするが、その前にまずは一杯やらんか。」
 喜助は、自分の横に座っていた白鷹丸の船長ロクと、その側近モズの杯に、土瓶(どびん)に入った燗酒をそれぞれ注ぐと、そこから少し離れた自分の席に戻って座った。
 二人はその酒を次々とうまそうに飲み干すと、立派な髭を黒々と生やしたモズが立ち上がって言った。
「飲み食いしながら楽にして聞いとくれ。わしも飲み食いしながら話しさせてもらうけんのぅ……。とにかく腹減った。」
 長旅から帰ったばかりのモズは、自分の席にまたドカッと座ると、漬物をばくばくっと食べて、ロクによって新たに注がれた杯の酒を、また一気に飲み乾した。その姿がおかしかったので、会場はどっと笑いに包まれた。モズは口の中の物を飲み込むと、座ったまま報告を始めた。
「……さて、張先生が集めて下さった情報によると、明国は今、北の蒙古(もうこ)並びに女真(じょしん)ちゅう二つの勢力による侵攻によって、かなり弱っとるようじゃな。昔は倭寇にも悩まされておったし、内乱起きとるとも聞いたわ。」
「話し始まったとこで済まんけどのぅ、その倭寇しとったもんは今どげんしとるん?」
 喜助のその問いにはロクが答えた。
「おう。海禁令とけた後は普通に商売できるようになったけん、わざわざ倭寇んようなこと、せんでもええようになったそうじゃ。」
「ほう、そりゃええわ。」
 喜助がそう言うと、白髪の老婆キヌが、家族と共に莚に座ったまま、大きな嗄(しわが)れ声で質問した。
あんたたちさっきから、ワコウワコウって言ってるけど、そりゃなんのことだい?
 喜助が表情を和ませて言った。
「おお、そうかそうか……。
おいサブ、知らんもん他にもおるじゃろう、わかるように説明しちゃってくれ。」
 キヌの近くに座っていたサブは立ち上がると、キヌを始めとするみなに向かって説明を始めた。
「俺も近頃知ったばかりのことなんだが……。
朝鮮国や明国に船で渡って、物を奪ったり盗んだりする和人が大昔いたそうだ。それをあちらでは『倭寇』って言ってたみたいだ。それがしばらくすると、明国人や朝鮮国人が和人のふりをしたり、和人と手を組んで盗みをするようなことに変わってきたんだってさ。
福江にいた、汪直(おうちょく)という有名な倭寇の首領も、やはり明国出身だった。」
 ここで誰かが感心したように言った。
「へー! 和人に成り済まして盗みをするたー、また賢い連中だね。」
 サブは、その仲間に向かって苦笑いして言った。
「そうそう。こっちにしてみりゃ、とんだ迷惑な話しだけどな。」
 そして彼は、再びみなに向かって話しを続けた。
「その集まりにもいろいろあって、表向きは商(あきな)いをしてて陰で盗みをする者から、堂々と盗みをする者までいたそうだ。」
 今度は別の誰かが言った。
「それじゃぁ、ちょっと前の俺たちみたいなもんかい?」
 サブはその問いに答えた。
「そうだ。でも、俺たちが襲うのは日本の侍だけだったから、『倭寇』とは言えない。」
 それまで倭寇のことを知らなかった者は、みな納得して頷いた。
「なるほどね。」
「そうだったのか。」
 サブは言った。
「でも近頃では、明国の人が異国と商売することが許されるようになったんで、その数もかなり減ったようだ。」
 そのように説明を締めくくったサブは、自分の席に座った。
 それを聞き終えたキヌは、さも残念そうに言った。
「なんだそうだったのかい。『若う』って言ってるから、オレはまた、若返りの薬か何かかと思って、それなら一つ貰おうと思ってたのに……。」
 それによって会場に、またどっと笑い声が起きた。この機会に、肴(さかな)をつまんで酒を飲んでいたモズだったが、杯を乾すと話しを次に進めた。
「さて、各国の商人たちからいろいろと、おもろい話しも聞いたが、そげんことは後回しにして、まずはわしらの新しい住み処の候補について話しする。」
 モズが隣に座っていた仲間の一人に目くばせすると、その若い男は近くの砂の上に置いてあった長さ一間ほどの掛け軸のような物を持って立ち上がった。そして、それを竹竿の先に吊るして広げると、会場の後ろの方に座っている者にも良く見えるようにと、海を背にして高々と掲げた。
 その途端、会場はどっと感嘆の声に包まれた。横からそれを覗き込んだ頭の喜助も感心して言った。
「おぉ! こりゃまた見事な海図じゃ!」
 それは、かなり正確に描かれている東アジアの海図であった。それが正面から朝日を受けて、燦然(さんぜん)と輝いている。
 但し良く見ると、北日本沿岸などは、かなりいい加減に描かれており、特に現在北海道と呼ばれている島は、その南端である渡島半島のみが小さな島として描かれているだけだった。そのため、これらの地方については、この村が持っている海図の方がずっと正確であったが、中国南部や台湾周辺の島々に関しては、この村が今まで所有していたどの海図よりも詳しく描かれていた。
 この時代、日本人やヨーロッパ人にとっては正に大航海時代であった。しかし、インド人、アラブ人、中国人、マレー人といった人々のあいだでは、既にその数世紀以上も前から大航海が行なわれていた。中国の絹や東南アジアの香辛料を西へ運ぶという、いわゆる「海のシルクロード」の往来だ。
 そのため、季節による風向きや潮の流れ、海の深度などは彼らによってかなり正確に把握されていた。後からここに参入してきたヨーロッパ人も日本人も、その知識の恩恵にあずかっているのが現状であった。
「こりゃ、長崎の南蛮人から勘蔵が手に入れよったもんじゃ。元はマレー人がつくりよった海図を、明国人が掛け軸のようにつくり直しよって、そこに南蛮人が南蛮の文字書き込んだもんだそうじゃ。」
 モズはそう説明しながら立ち上がり、細い竹竿で海図の右上の隅を指した。
「今わしらがおるのは、大方このあたりじゃ。後ろのもん見えとるかえー?」
 浜の陸側の高くなっている方から、返事がいくつか返ってきた。
「見えとるぞー!」
「見えてるよー!」
 モズは細長い竹竿を使って、その海図の上を一つ一つ指し示し、その説明をしていった。
「ここが朝鮮国、ここが琉球国、ここが明国……。」
 それまで外国の名称といえばみしはせしか知らず、海図など見るのは生まれて初めてのキヌが言った。
「なんだ、近頃よく耳にするチョウセンコクって、その絵の中にあったのかい。」
 それによって会場は、また笑いに包まれた。モズも笑ったが、自分の背後の海を指差してこう言った。
「ハハハ、いやいや、朝鮮国は、この海を西にずっと越えて行った先の国じゃ。」
 そして彼は、自分の横に掲げられている海図を見上げて言った。
「この絵はのぅ、この世をずっと小そうして紙に描いたもんじゃ。人の似顔絵描いて、『ここが目でここが鼻じゃ』言うとるようなもんじゃけん。
この絵では、こっからここまでは、たった五寸ほどじゃが、本物では百里もある。わかったかのぅ?」
 それを聞いたキヌは、納得したように頷いて言った。
「ああ、それならわかったよ。砂に漁の場所描いたようなもんだな?」
 漁師や海女が手分けして漁をするときに、砂の上にその場所を描いてみなで示し合わせることがある。つい最近まで海女をしていたキヌは、それと同じような物だということで、以外とすんなり海図というものを理解することができたようだ。
「そうじゃ。そうじゃ。こりゃぁたまたま紙に描いてあって、色分けしてあるまでのことじゃ。」
 微笑んでそう言ったモズは、再び会場を見渡して話しを続けた。
「ほいで、南蛮の商人が言うとったわ。明国の絹糸や焼き物、朝鮮国の焼き物、日本の金銀は値打ちあるけん、それで商いできるとのぅ。人も買うげじゃ。」
 その「人も買う」という言葉を冗談かと思って笑った者もいたが、モズもロクも真面目な顔をしている。
「南蛮人は物と同じようにして、男や女を売り買いしよるげぇじゃ。こりゃぁ戯言(ざれごと)と違うぞ。」
 ロクがそう補足すると、会場が少しどよめいた。
 貧しい家の娘が遊郭に売られたりするというようなことは、当時の日本国内ではよくあることだった。しかし、人を品物のように不特定多数の者とのあいだで売り買いするという習慣を、彼らの多くはまだ知らなかった。
 モズは、また話しを続けた。
「わしらはそこまでせんが……とにかく、商いするからにゃぁ地の利が肝心じゃ。ほんで……。」
 モズが合図すると、先ほどの海図が下ろされ、今度はそれと同じ大きさだが別の海図が再び竹竿で吊って掲げられた。モズは、その上の部分を細長い竹竿で指して続けた。
「これが、明国の南の端。先の海図の底の続きじゃ。」
 それは、東南アジアのものだった。このあたりの地理について知識のある者は、この村の中でもごく少数だったし、このように高い精度のものを見るのは初めてだったので、みなあっけに取られてそれを見ていた。モズは、竹竿で示しながら言った。
「さて、南蛮人は、あちこちに港持っとる。この、濃い赤で印(しるし)しよるところがそれじゃ。」
 ちなみに、先ほどの海図の平戸と長崎には、薄い赤印が付けられていた。
 モズは話しを続けた。
「どうせ商いするんなら、こげな港の近くがええじゃろう。ほいで、候補に上がったのが、まずここじゃ。」
 それは台湾だった。次いで澳門(マカオ)近辺、海南島、呂宋(ルソン)島が挙げられ、その理由とそこの風土や文化などが次々と紹介されていった。
 ここで、先ほどから黙って聞いていたモラが口を開いた。
「おい、話しの途中で済まんけどのぅ、その海図つくりよったんは南蛮人で、その赤い印が南蛮の港じゃ言うたのぅ。」
 それにはロクが答えた。
「そうじゃ。」
 それを聞いてモラが言った。
「ほんなら、南蛮人にゃ気ぃ付けた方がええぞ。蒙古にも明国にできんことしよるちゅうことじゃけん。」
 確かに、このようにして世界各地の戦略的にも商業的にも重要な港のあちこちを占拠するということは、それまで蒙古も明国も成し得なかったことだった。モラがまた確認した。
「ほいで、人を売り買いしよるとも言うたのぅ。」
 それにはまたロクが答えた。
「言うた。」
「そりゃ人を人と思うとらん証拠じゃ。気ぃ付けた方がええぞ。」
 その言葉によって、会場は騒然となったが、喜助が立ち上がって片手を上げ、会場を見渡しながらこう言った。
おーい、待て待て! まあ、聞かんか!
 それによって騒ぎは収まったので、喜助は引き続き会場に向かって言った。
「そげな南蛮人と付き合いするにゃぁ、こっちも気ぃ付けないけん。こっちが弱いと見りゃぁ、人と思うとらんようなことも平気でしよるけんのぅ、そりゃ日本の侍と何も変わらん。南蛮人が人を物みたいに売り買いするっちゅう話しは、わしもあちこちで聞いて知っとる。」
 喜助は、海図の下のロクとモズの方に向かって言った。
「ほんなら南蛮の領地とわしらの住処は充分距離を置き、南蛮の港にわしらが商いに出向くようにすりゃぁ、わしらの所在が易々とわかることはあるまい。そげな場所に居を構えてはどうじゃ。
ほんで、いつまた海禁令出されるやも知れん。明国国内は候補から外しといた方がええ思うがのぅ。」
 そう言い終えた喜助は、自分の席に座った。
 みなは口々に、彼の意見に同意した。
「そうじゃ!」
「そうだよ!」
 明国政府から迫害を受けていた張先生も、その最後の意見には特に賛成だったようだ。
「そうばい! せっかく明国ば逃れて来たのに、また連れ戻すとね?!」
 彼のその冗談で、会場の一同はみな大笑いした。
 モズは、恥ずかしそうに言った。
「そうじゃった、そうじゃった。あんたの身ぃ案ずりゃぁ、たとえ辺境の島ではあっても、明国国内はやめといた方がええかわからんのぅ。」
 そして彼は、隣の席のロクとしばらく何か遣り取りしてから、会場に向かって再び口を開いた。
「ほんなら、まずここがある……。」
 モズはそう言って、海図上の別の候補地を次々と竹竿で指しながら、その気候風土などを説明していった。琉球国の中の小さな島、台湾、越南(えつなん)、シャム王国、赤道付近の無人島だ。越南とは、現在のベトナムの当時の呼び名だ。
 説明が終わると、それまで腕組みして聞いていた喜助が、顎を撫でながら感心して言った。
「……それにしても、よう調べて来よったのぅ。」
 ロクは少し照れながら言った。
「どうせ住むんなら、何代後までも住めるようなええところ探そう思うてのぅ……。」
 先ほどモズが述べた情報を元にして、その後しばらく議論がなされたが、琉球国とシャム王国は日本の権力者の手が及ぶ可能性があるということで外された。その結果、台湾、越南、赤道付近の島々の三つに絞られた。
 候補地が決まったので、早くも三日後の朝には移住のためにこの島を引き払うこととなった。太閤秀吉が命令を下した以上、海賊討伐軍はいつ来てもおかしくなかったからだ。諸大名の水軍を集めて軍を組織することなど、今の秀吉の権力からすれば容易(たやす)いことだったが、この本拠地の場所を突き止めるのに手間取っているのだろう。
 日本脱出の日取りが決定すると、続いてはお楽しみの土産話(みやげばなし)の時間となった。
「おい、勘蔵や。静かじゃけん長崎の遊郭(ゆうかく)にでも置き忘れたのか思うたぞ!」
 勘蔵とは同い年で幼馴染(おさななじみ)のロクがそう言うと、みなはどっと笑ったが、勘蔵は、いつもの快活な口調とは違った力ない口調でこう言った。
「……いやー、参った参った。平戸の南蛮人から手に入れた酒を船ん中で飲んだんじゃ。ほんならそれがまた、えらい酒でのぅ、三日経ってもまだ頭ふらふらしよる……。今迎え酒飲んで、ようやく調子出てきたところじゃ。」
 喜助が笑いながら尋ねた。
「ハハハ! お前ほどの酒飲みがそげになる酒とは、いかなる酒じゃ?」
 勘蔵は自分の目の前に置いてある布の袋の中から、一ほどの高さの白く細長い陶製の瓶(かめ)を取り出すと、立ち上がってそれを喜助のところに持って行った。
「まず、麦で酒をつくって、それを煮るんじゃと。すると湯気が出る。その湯気を集めて冷やすと、それがもっと濃い酒になるそうじゃ。そげんしてつくったそうじゃ。」
 そう説明した勘蔵は、その瓶を喜助に手渡した。それを両手で受け取った喜助は、その蓋を取って鼻を瓶の口に近付けるなり、目を見張って言った。
「おおーっ! こりゃ強そうじゃ。わしらが飲む酒とは違うて、なにやら甘い香りがしよる……。」
 喜助は自分の杯を干すと、そこに少しだけその中の酒を注ぎ、ちょっと舐めてみた。その途端、彼の大きな目は更にかっと見開かれ、その身体は棒のように硬直してしばらく動かなくなった。それを見た勘蔵が今度は笑って言った。
「ハハハ! どうじゃ兄い。えらい酒じゃろうが。全部飲んでしまえや。」
 喜助はブルブルと首を振りながら言った。
「かーっ! まるで、火でも飲んだげな具合じゃ。口ん中、まだ燃えとる。もうええ。返す返す。それより、異国の話し、早う聞かせてくれや。」
 喜助は、怖い物でも渡すような大袈裟な仕草で勘蔵にその瓶を返したので、それを見た会場のみなは大笑いした。
 変人で通っている勘蔵だが、彼が外から持ち帰る話しを、この村の誰も彼もが楽しみにしていた。喜助から酒の瓶を受け取って会場の中央に来た勘蔵は、それを横に置いてその場に胡坐をかくと、女子供もいることに配慮して、まずは食べ物の話しから始めることにした。彼の口調は、いつの間にか普段の快活さを取り戻していた。
「さて、南蛮にゃぁ唐辛子を使うた辛いけどうまい料理があることは知っとるもんも多いし、食うたもんもおるじゃろう。けど、南蛮の食い物はみな辛い思うたら、それは違う。頬が落ちるほど甘いもんもあるんじゃよ。それが、この酒の元である先ほど言うた糖のことじゃ。
これから回すのが、その糖黍の茎と、その茎から汁を絞って固めた糖じゃ。みな、試しに舐めてみぃ。」
 勘蔵はそう言うと、先ほどの袋の中から、長さ一尺ほどに切断してある太さ一ほどの植物の茎と、小さな素焼きの壷を取り出した。壷の中には、飴色をした糖の塊りが入っている。勘蔵は近くに座っていた者にそれらを渡し、その二つの品物が会場を回って行った。
 砂糖というものが現在のように一般的になったのは、それほど古いことではない。それまで柿や栗などの甘味しか知らなかった村人たちは、サトウキビの茎の匂いを嗅いだり糖を指に付けて舐めたりして、その強烈な甘さにみな驚いていた。
 勘蔵の話しはこのようにして、時には勉強になり時にはおもしろおかしく進行していった。今回は国際都市長崎からの帰りだけあって、その内容も多彩だった。回教という宗教の話し、南蛮にはスペインとポルトガルという二つの国があるという話し、その他の世界の国々の話し、羅針盤を用いた航海の話しなどなど。羅針盤は長崎でいくつか購入して来たので、実物を見せての勉強会のようになった。
 それらの話しは、途中に昼休みを挟み、日暮以降まで続いたので、村人たちは夕食と共に、引き続きそれに興じた。

 その翌日は、未明から小雨になった。まだ薄暗い中、笠を被り蓑(みの)を着て自宅を後にしたタネは、板葺きの民家が立ち並ぶ海辺の道に出ると、港の方へと向かった。
 やがて港に着いた彼女は、そこから山に向かって延びている大通を少し登ると、その左側何軒目かの家の、開け放たれている玄関の暗闇の中に向かって、大きな声でこう言った。
おーい! おはようさーん!
 すると、藍で染めた小袖に白い紐で襷(たすき)をしている喜助の妻サイが出て来た。きっと、朝食の支度でもしていたのだろう。
「おぉ、タネさん、おはようさん。よう来た。入らんか。」
 サイはそう言ってタネを囲炉裏端へと案内した。
 雨ということもあって、この家の大人たちは海や畑には出ず、ぼつぼつと家財道具の整理と荷づくりを始めているところだった。一方、幼い子供たちは囲炉裏端で仲良く遊んでいる。
 サイは、その囲炉裏に掛かっている土瓶を取ると、そこから空の湯飲みに熱い湯を注いだ。
 それを見たタネは、真剣な表情になってこう言った。
「いいよ、いいよ、構わないでくれ。」
 しかしサイは、茶の葉を入れた急須(きゅうす)の中にその湯を移すと、そこから先ほどの湯飲みに茶を入れて、タネが座っている囲炉裏の縁(ふち)にそれを置きながら、笑顔でこう言った。
「茶入れるくらい、なんともないわ。熱いけん気ぃつけとくれや……。
曾孫(ひまご)の様子はどうじゃ?」
「おう、ありがとう……。
お陰さんで元気だよ。『シラタカマル』、『ヒリュウマル』が言えるようになった。シャガのお腹の子は明日にでも生まれそうだ。」
 タネも笑顔でサイにそう言うと、熱い茶を一口啜った。
 やがて、奥から喜助が現れると、タネは再び真剣な顔になって挨拶した。
「おはようさん。忙しいときに来て済まなかった。」
 喜助は、よっこらしょと囲炉裏端に腰を下ろすと、微笑んでそれに応えた。
「おぅ、おはよう。」
 その一方、タネは引き続き真剣な表情で、突然の来訪の用件を告げた。
「頭よ、早速だがな、島を出るのはもっと早い方がいいと思ったんでな。」
 喜助は怪訝そうな顔になって尋ねた。
「……そりゃまた、なしてじゃ?」
 タネはこう言った。
「……と言うのはな、今朝起きる前に、闇の中をたくさんの火がこの島を取り囲んでる夢を見たんだ。それが何の火なのかはオレにはわからない。ただの漁り火(いさりび)かも知れないよ。でも、あまりいい感じがしなかったんだよ。」
 妻が入れてくれた茶を一口啜った喜助も、やはり真剣な表情になると、タネに向かってこう言った。
「おお、そうか……。」
 彼は何かを考えるようにして一瞬宙を見詰めたが、間もなく独り言のようにこう言った。
「……うーん、そうかぁー……。もしかすると、どっかから白鷹丸が付けられたんかも知れんのぅ……。」
 そして、タネに向かってやや早口でこう言った。
「わかった! ほんなら、出発は早い方がええわ。すぐ準備に取り掛かる!」
 そして今度は、裏口の方に向かって大声でこう言った。
おーい、トビ! 半鐘を鳴らしてくれ、緊急会議じゃ!
 その裏口の土間に敷かれた莚の上には、立派な褐色の髭を生やした中年の漁師が座っていて、魚を捕る網を修繕していたのだが、喜助の言葉を聞くが早いか、その方を向いて立ち上がった。トビと呼ばれたその長身の男は、喜助に向かってちょっときまり悪そうに尋ねた。
「父さん、カンカカンカカンでええかったんかのぅ?」
 彼は喜助の長女の夫だ。喜助は苦笑いしながら、その問いに答えた。
「いや、カンカカンカンカンじゃ。緊急会議なんぞ滅多にないことじゃけん、忘れて当然じゃ。」
 トビは、裏口の横の壁にいくつか掛かっている蓑(みの)と笠一組を取って身に着けると、そこから冷たい小雨の降っている外へ出た。そして港へと続く大通りに出ると、そこを駆け下りて行った。
 用が済んだタネも、自宅へ戻るために喜助の家を後にした。
 間もなく港の櫓の半鐘が、喜助の言った通りカンカカンカンカンと何度か繰り返して鳴らされると、全村各家々の代表が、続々と坂の上の集会所へと詰め掛けた。
 集会所の中にみなが集まると、喜助は集まってもらった理由と、大至急ここを離れた方がいいという意見を述べた。それに対する反論は出なかったので、その案は可決され、会議は閉会した。
 斯くして、千人余りの村人全てが一度に海外に移住するという、日本史上稀に見る出来事が始まった。秀吉の側からすれば、このようなことは単なる犯罪者の逃亡なのであろうが、この村人の側からすれば、現政権による政治体制に従うことができずに国外へ逃れるのだから、「亡命」とか「難民」という言葉を使うこともできるだろう。
 さて、どの家も荷づくりを終えた午後になると、白鷹丸と飛龍丸への荷物の積み込みが始められた。うまい具合に雨もやんでくれている。
 桟橋から大型の伝馬船によってまず運ばれたのが、最も重い荷物である山の砦の大砲だ。これは二艘の船に二門ずつ、船底の中央に縦に並べられた。船の重心を考慮してのことだ。次に運ばれたのが、航海の途上で必要のないような物だ。それらは順に船倉(せんそう)の奥へと収納されていった。
 港の蔵の物品は途中で売ることができるし、釣竿や網などの漁具は途中で食料を得るために必要になる。また、鉄砲や弓矢などの武器や投石器などの兵器、そて船を修理するための木材は、戦(いくさ)が起きたときに使う可能性があるので、船倉の一番手前に収められた。
 牛や馬などの家畜を暗い船内に閉じ込めておくと病気になってしまうので、船上に屋根を付けてその下に繋いだ。鶏は竹で編んだ大きな篭に入れられて、やはり甲板の牛馬の近くに置かれた。
 その後、各家庭の大きな漬物樽から畑の小さな大根一本に至るまで、村の建造物以外の有用な物品はみなことごとく積まれたが、それも夕方には全て終了した。
 日没が近付くと、次第に薄れていく西の空の雲が金色に光り始めた。やがてそのあいだから夕日が顔を出すと、色付き始めた山の紅葉が雨上がりの澄んだ空気の中で鮮やかに輝いた。
 長いあいだ自分たちを匿(かくま)ってくれたこの島との最後の別れを惜しみながら、みなが浜で火を焚いて夕食を食べていると、大通りから馬の駆ける音が聞こえて来た。間もなく、馬に乗った一人の若者が浜に現れるなり、馬上から大声で叫んだ。
おーい、大変だーっ! 大きな船十艘が東の方からこっちへ来るぞーっ!!!
 それは、岩山の頂上にある見張り台の見張りの者だった。それを聞くが早いか、喜助が立ち上がって叫んだ。
みな、船に乗るんじゃーっ! 火は消しちゃならん! そのままにしておけーっ!!!
 村人たちは夕食もそこそこで桟橋の伝馬船に分乗すると、白鷹丸と飛龍丸の二艘に乗り込んだ。彼らが乗って来た伝馬船は、いぜれもその二艘によって回収された。
 村人全員が島を離れたことを確認してから飛龍丸に漕ぎ着けた喜助は、真剣な面持ちで紙に何かを書き込むと、それを自分が乗って来た伝馬船の座席の上に置き、風で飛ばぬようその四隅に石を乗せた。飛龍丸に乗り込んだ彼は、「あの伝馬船は回収せず放置しておくように」と命じた。きっと、討伐軍の大将に宛てた声明文か何かなのだろう。
 既に入り江の出口へと向かっている白鷹丸の後を飛龍丸は追った。風がないので二艘とも帆を畳み、漕ぎ手の漕ぐ櫂によってゆっくりと進んでいる。
 あたりがかなり暗くなった頃、二艘の船は細い入江を抜け出た。船団の火はこの島のすぐ近くにまで迫っているが、二艘とも船外に明かりを一切ともさず、船団とは島を挟んで反対側に出たので、まだ相手に気付かれてはいないようだった。
 幾筋もの浜の焚火の煙は、夕空に大きく広がっていたが、船団はどうやらその煙の火元を目指しているようだった。喜助が「火を消すな」と言ったわけを、このとき初めて知った者も多かった。
 やがて夕闇の中、船団のともしている火が島の周りを取り囲んだ。タネが見たのはこの光景だったのだろう。船の甲板にいた者は、無事脱出できたことを喜んで、みな顔を見合わせて微笑み合った。ところが……。
「右舷に船団の明かりありー! 距離は半里足らず! こっちに来よるぞー!」
 二艘の船の帆柱の見張りから、それぞれほとんど同時に声が上がった。近くにあった別の島の影になっていてその発見が遅れたのだ。その方角からして、先ほどの船団が来た方向とは反対側の、九州方面から来た船団のようだった。
 飛龍丸が白鷹丸を追い越した。そのとき白鷹丸の船上に何かが投げ込まれた。それは砂の入った巾着で、そこには何かが書かれた紙も入れられている。船長のロクは、船べりの陰に身を潜めて小さな明かりをともすと、その紙に書かれている文字を周囲の者にも聞こえるように読み上げた。
「戦の支度せよ。敵は右後方の船団なり。敵に気取(けど)られねばそのまま逃げ、攻められたときのみ応戦せよ。進路は本船に続け。細かい戦略任せる。喜助」
 飛龍丸が進路を左に変え始めた。それを見たロクはモズに向かって言った。
「取舵! 戦の支度じゃ。船尾大砲の用意。」
 普段ならここで指令の太鼓が鳴らされるところだが、モズは近くにいた三人の仲間向かって、それぞれの指令を各部署に口頭で伝えるよう命じた。太鼓の音を敵に聞かれると、こちらの居場所を知られてしまう恐れがあるからだ。その仲間たちは、それぞれが担当する部署に向かって散って行った。
 男たちは家族が一緒なので、なるべく戦闘になることを避けたかったのだが、この距離で発見されずに逃げ切れるかどうかは微妙なところだ。こんなとき、漕ぎ手がたくさんいることは唯一心強いことであった。
 最初敵の船団の明かりは、島から上がる焚火の煙を目指していて、後ろを行き過ぎるかに見えたが、突然こちらに向きを変え始めた。夜空のかすかな明かりに黒く浮き出た船影か、船が進むときに立てる白波のいずれかを発見されてしまったようだ。
 ロクは、指令を出した。
「気取られたげじゃ。取舵一杯!……面舵……ようそろー!」
 それによって白鷹丸は、飛龍丸の左後方へと移った。飛龍丸船尾大砲の弾道を開けるためだ。
 二艚の船の漕ぎ手は必死で漕いでいた。それでも後方の光が徐々に徐々にと近付いて来るようになった。敵船は進路の変更を完了して、こちらに向かって直進を始めたのだ。
 白鷹丸の漕ぎ手が交替したようで、櫂の動きは一瞬止まったが、またすぐに動きだした。漕ぎ手が入れ替わると、船の速度は少し上がった。それは飛龍丸も同じだった。しかし、それにも増して、やはり敵の船足(ふなあし)の方が幾分早かった。二艘の船の構造上、その船足は、通常なら普通の大型和船に勝るのだが、今はどちらの船も大勢の非戦闘員と牛馬(ぎゅうば)、そしてたくさんの荷物と食料を積んでいる。現代風に言えば過積載の状態だ。このままでは追い付かれてしまう。
海図  佐多岬手前に差し掛かったところで、敵船団の明かりがパパッパッと一瞬急激に明るくなったかと思う間もなく、二艚後方の海面に、いくつかの水柱(みずばしら)が上がるのが闇の中で白く見えた。それとほとんど同時にパパンパンという砲撃の音も微かに聞こえてきた。敵船も大砲を積んでいるのだ!
 やがて二艚の船は、大きく進路を変えて豊予海峡を通り過ぎた。彼らは、このあたりの海のことを知り尽くしているので、星が出ていさえすれば、夜でも航海することができる。
 敵はしばらく砲撃をやめていたが、二艚が進路を南に取り、再び直進を始めると砲撃を再開した。今度は二艚の周辺で水柱が上がった。敵の大砲の射程内に入ったのだ。
「よし、船尾大砲打ち方始めー!」
 敵の船外にともる明かりを頼りに、白鷹丸の船尾から砲撃が開始された。間もなく、飛龍丸の船尾の大砲も火を噴いた。それに応じて敵は船外の明かりを消し、更に砲撃を続けてきた。こちらの砲火が目印になったせいか、敵の弾は先程よりも近い場所で水柱を上げるようになった。
 再び二艘の大砲から弾が発射されたが、暗いので命中したかどうかはわからない。ロクは指令を出した。
「樽を喰らわせてやるんじゃ!」
 ロクの言う「樽」とは、彼らが開発した兵器のことだ。樽の中に爆薬を入れ、それを更に一回り大きな別の樽の中に入れる。その樽と樽との隙間に大砲の散弾に使う鉄球をびっしり詰めて、そこによく燃える油を注いだ爆弾だ。鉄球による殺傷力と破壊力に加え、油によって焼夷弾(しょういだん)のような役目も果たす。点火から爆発までの時間は、樽の蓋の上に付けられている導火線の長さによって調節される。
 やがて、一発ずつ樽爆弾が積まれた二隻の丸木船が、誘爆を防ぐために間をおいて海上に浮かべられていった。導火線に火が付けられているので、いずれも火花を散らして白い煙を上げながら、見る見る後方へと遠ざかって行った。喜助も同じことを考えていたようで、飛龍丸からも一発ずつ樽爆弾を積んだ四隻の丸木舟が、間隔をおいて海上に浮かべられていった。
 やがて、その一発目が爆発したようで、後方に閃光が走り、それによってほんの一瞬ではあるが、敵の姿がはっきりと見えた。安宅船(あたけぶね)という大型の軍船が八艚、横一列に並んでこちらの後を追っている。間もなく、パン!という乾いた音がした。霧が出ているときならともかく、音を反射させる物体が周囲に何もない海上では、爆弾が爆発する音もこのように残響のない淡白な音になる。
 敵の位置と姿を確認することができたので、二艚の大砲は更に狙いを定めて射った。
 しばらくすると、今度は敵の船と船とのあいだでほとんど同時に二つの閃光が光った。その光で映し出された船団目掛けて、こちらの二艘の大砲がそれぞれまた火を噴いた。
 敵も黙ってはいない。ヒューヒューという不気味な音を立てて砲弾数発が上空をかすめて行った。敵はこちらの船影と白波、そして大砲を発射するときの火だけを頼りに射っているので、狙いは正確になってはきているものの、なかなか当たらない。
 今度もまた敵の船と船とのあいだで一つ光り、少し間を置いてからもう一発が敵船団の後方で光った。それによって敵船団がシルエットになると、うち二艚が他より少し遅れて傾いていることがわかった。どやら浸水しているようだ。
 六発の樽のうち残る一発は、いつまで経っても爆発しなかった。導火線の火が途中で消えてしまったのか、どうやら不発に終わったようだ。
 二艘の船の大砲からは次々と弾が発射されていった。樽爆弾のお陰で敵の位置が把握できているため、命中率は高いはずだ。また、爆弾に仕込まれている油のために、敵船団のうち三艚が激しく炎上し始めた。
 しかしこのとき、突然、ヒュー ドカン! という大きな音がして、白鷹丸の甲板に開いた穴から、一筋の白い煙が微かに上がった。敵の弾がついに着弾したのだ。
「下へ行って様子見て来てくれ!」
 闇の中、モズが近くにいた仲間にそう言うと、その仲間は下の甲板に降りて行って、間もなく何かを持って帰って来た。
「この甲板突き抜け、下の甲板に落ったが、漕ぎ手に怪我はなかったそうじゃ!」
 そう言った彼は、分厚い布に包まれたまだ熱い敵の砲弾をロクに手渡した。それを重そうに受け取ったロクが言った。
「砦の大砲と似たげな寸法じゃのぅ。」
 確かにその鉄の砲弾はこちらの船のものより一回り大きく、島の砦に設けられていた大砲の弾とほぼ同じ大きさのようだった。
 ヒューヒューヒュードカーン!
 今度の敵の弾のうち二発はロクたちの頭上をかすめて海上に落ち、最後の一発は船尾に着弾した。距離が詰まってきた分、敵の狙いも正確になってきている。下の様子を見に行っていた者が帰って来て報告した。
「漕ぎ手二人が軽い怪我して、今手当て受けてるところだ!」
 間近に迫っている敵船団は、三艚に減っているようだった。撃ってくる砲火の位置と数でそれがわかる。炎上した敵船は、わざわざ標的を示すことになるので船団から離脱し、はるか後方に退いていた。
 やがて、砲撃をやめた飛龍丸が進路を南南西へと変え始めたので、白鷹丸もそれに倣うため、ロクはその指示を出した。
「大砲放つのやめて、面舵じゃ!」
 太鼓によってそれを伝えたモズは、太鼓の櫓から下りて来ると、そこの闇の中に立っているロクに向かって言った。
「船長、今度直進しても、砲撃せん方が、かえってええかわからんぞ。」
 ロクはその意見に同意した。
「そうじゃのぅ、こっちの居場所、わざわざ教えとるようなもんじゃけんのぅ。」
 敵はその後もしばらく撃ってきたが、標的が進路を変えたのでこれ以上撃っても命中しないことを覚ったのか、間もなく静かになった。
 ロクは、モズに向かって小声で言った。
「砲撃やんだんはええが、いよいよ放らんならんかのぅ……。」
 樽爆弾を先ほどのようにして使用するのには、敵味方双方が完全に直進しているときでなければならない。このままでは追い付かれてしまうので、ついに二艘の船は、あることを実行に移さなければならなくなってきた。モズも小声でそれに応えた。
「風さえ吹いてくれりゃぁ、それには及ばんのじゃがのぅ……。」

 出産を目前にしたシャガとその家族は、他の数家族の女子供と共に、飛龍丸船首付近の一室にいた。
 この船室の窓には、外に明かりが漏れないように覆いが掛けられてあり、壁の四隅にともされた小さな明かりによって、横にいる者の顔が薄っすらと見える程度にしてあった。後方の壁の向こうからは、船を漕ぐ速さを指示する拍子木の規則正しい音と、それに合わせて漕ぎ手の男たちが操(あやつ)る櫂のギーガッタンギーガッタンという、ゆっくりではあるが力のこもった音が聞こえて来る。また、下の方では、舳先が逞しく波を蹴立てるザザザザーッという音が絶えずしている。
 これだけなら心地良い眠気を誘うのだろうが、つい先ほどから始まった砲撃の音で、女たちの多くは目を覚ましてしまい、やや不安げな様子で互いに身を寄せ合って話しをしていた。やはり目を覚ましてしまった幼い子供の泣き声が何箇所かでしている。
 遥か遠くで、パパパパンという花火のような音がした。
「今のんも敵が撃った音かいのぅ?」
 誰かがそう尋ねたのでキクがそれに答えた。
「そのようじゃ。」
 パン! ドン!
 今度はすぐ近くで大きな音がした。キクはまた説明した。
「今のんは、先が隣の船、後がこの船の撃った音じゃ。」
 当たり前のことであるが、戦闘員でない女性が戦闘に参加することはまずない。しかし、移動中偶然戦闘に巻き込まれてしまう場合がある。瀬戸内海へ来るために移動していたシャガ一家とその村の者がそうであり、今は亡き前の夫や一族の者と共に移動中、偶然戦闘を体験してしまったキクもそうであった。
 今そのキクが、船室の外から聞こえて来る音の説明を周囲の者にしているところであった。人間、その音の正体がわからないと不安になるものだが、たとえ武器の音であったとしても、その正体を知ってしまえば、かえって安心できる場合もある。
 パパパンパパンと、また遠くで聞こえた。ナミが母に向かって尋ねた。
「敵の撃つ音数ん方が多いっちゅうことは、ほんだけ敵の船ん数が多いっちゅうことなん?」
 キクはその問いに答えた。
「そのようじゃ。」
 筵の上に敷かれた布団の中で横になっている、お腹の大きなシャガが、うわ言のような口調で言った。
「敵は諸大名の水軍の寄せ集めだろうって、船に乗るときハヤテが言ってたよ……。」
 今度は、今までの砲撃音とは違う、パン! という空気を振るわせるような一際大きな音が、遥か遠くでした。また周囲の者がキクに尋ねた。
「こりゃ何の音じゃ?」
 キクはやや困ったように言った。
「うーん……、こりゃうちにはわからんわ。」
 キクは樽爆弾の存在を知らない。
 味方が大砲を撃つ音がまた聞こえた。シャガが、再びうわ言のように言った。
「……バクダンって言う物じゃないかなぁ。前にハヤテが言ってたよ。近くにある物を全部吹き飛ばしたり、燃やしてしまったりする強力な兵器なんだってさ。」
 それを補足するかのように、タネが言った。
「島の村にみんなを迎えに行った帰り、そこの領主の敵の城下に仕掛けた樽爆弾てのと似たような音だったよ。あの時は空に低い雲があったから、もっと物凄い音だったけどね。」
 シャガの布団の横に並んで座っていた、十二歳になるハヤテの妹アカネと、八歳になるシャガの妹キョウが次々に言った。
「ちゅうことは、今は敵がやられたいうことかえ?」
「なんだか強そうな音だったもんね。」
 彼女たちは乗船してからずっとシャガのそばに付き添っており、食べ物を運んだり水を持って来たりと、とても熱心にその面倒を見ていた。
 シャガは、この二人の妹の方に体の向きを変えると、優しく微笑んで言った。
「そうだといいんだけどね。」
 このとき、それまで後方の壁の向こうから絶え間なく聞こえて来ていた船を漕ぐ音が突然止まり、無数の足音がドカドカとしたと思うと、それはすぐに収まって、再び船を漕ぐ音になった。今度は、先ほどよりも拍子木の音の間隔が短くなっている。
 それを聞いたキクが、みなに向かって元気良く言った。
「漕ぎ手が入れ替わったようじゃ。みんなで『頑張れよ』言うて励まさんか!」
 その提案に、みなは口々に同意した。
「そりゃいいわ!」
「そうせんか!」
 キクが「せーの」と音頭を取ると、この船室の女と子供たちが後ろの壁に向かって声援を送った。
「おーい! 頑張れよー!」
 しばらくすると、その厚い板の向こうから、男たちの応える声が聞こえた。
「おー! 頑張るぞー。
シャガも頑張れよー!」
 シャガが今日明日にでも出産するだろうということを、同僚のハヤテらから聞いている仲間たちが声援を返したのだ。それを聞いて女と子供たちは歓声を上げ、シャガの目に嬉し涙が溢れた。
 その直後、ドン! という大きな鈍い音と共に、船尾の方から衝撃が伝わり、続いて今度は天井の遥か後方でゴン! ゴン! ゴロゴロゴロ……という、何か重たい物が床を転がるような微かな音がした。
「敵の弾が当たったんかわからんぞ。」
 キクが不安げにそう言うと、ハヤテの弟ショウとシャガの弟太助が口を揃えて言った。
「わしら見て来るわ!」
 二人とも、他の家族の同じ年頃の男の子数名と共に、明かりを持った一人を先頭にして、先を争うように船室を飛び出して行った。太助の弟平次も彼らの後を追ったが、戸口を出たところで太助から何か言われるなり、べそを掻きながら戻って来た。
「うぇーん!
ばあちゃーん! たすけ兄ちゃん……たすけ兄ちゃんが、『おまえはまだ小そうてあぶないけん、来ちゃいけん』言うたー! うぇーん!」
 彼は悔し泣きしながら叫ぶと、祖母のタネの胸に顔を埋めた。タネはこの六歳の孫の頭を撫でながら言った。
「そうかそうか、そりゃ残念だったねぇ。も少し大きくなったらきっと仲間に入れてもらえるよ。」
 男の子も十歳頃になってくると、体はまだまだ子供だが、ちょっと大人の仲間入りをしてみたくなってくる。女子供ではちょっと危なくてできないような仕事を成しとげると、女たちからは褒(ほ)められ、小さな子供たちからは尊敬の眼差しで見られるので、彼らはその機会をいつも狙っている。それが今正に訪れたのだ。
 しばらくすると出入口から、先ほどの男の子たちが先を争って船室にバタバタとなだれ込んで来た。そして、各々(おのおの)の家族の元へ帰ると報告を開始した。タネ一家の元へも、ショウと太助が帰って来るなり二人でわめいたが、タネは苦笑いして言った。
「おいおい、二人で一度に大声で喋(しゃべ)ると、何言ってんだかわかりゃしないよ!」
 その途端、また船尾の方から大きな鈍い音と共に衝撃が伝わった。二人の男の子は顔色を変えると、また慌しく船室を出て行った。着弾が怖かったのではなく、他の家の者に先を越されてはならぬと思って顔色を変えたのだ。
 しばらくして、またタネ一家の居場所へ戻って来た二人の男の子は通路に立つと、さっきタネから言われたので、今度はちゃんと一人ずつ喋ることにしたようだ。まずショウが言った。
「先のんは、船尾に着弾したんじゃと。」
 次に太助が言った。
「今のんは上の甲板に着弾して、甲板突き抜け漕ぎ手のおるところに落ったんじゃと。怪我人は出たが、チョクゲキではなかったけん、みな傷は軽いそうじゃ。」
 彼はこの三年のあいだに、義理の兄のショウや遊び友達が話すのと同じ言葉を話すようになっていた。報告を終えた太助は、その中に自分の知らない単語が混じっていたので、キクに向かって尋ねた。
「……なぁなぁ、母ちゃん。チョクゲキとはなんぞや?」
 彼にとってキクは継母ではあったが、彼はこの優しい継母が大好きだった。
「直撃とはのぅ、弾が人に当たることじゃ。
そりゃそうと、父ちゃんと兄ちゃんたち何しとったえ?」
 キクのその問いにはショウが答えた。彼ら二人のあいだの取り決めで、喋る順番があるのだろう。
「父ちゃんとリョウ兄ちゃんとケン兄ちゃんは一生懸命船漕いでやって、ハヤテ兄ちゃんとヤス兄ちゃんは荒い息して横で休んでやった。『このまま風が出んと敵に追い付かれる。ここは危ないけん、船室に戻って居れ。』とハヤテ兄ちゃんから言われた。」
「ほうか。二人とも良うやった。お陰で助かったわ。じゃが、ハヤテ兄ちゃんの言う通りじゃ。危ないけん、もう出ちゃいけんよ。」
 キクがそれを言い終わらぬうちに、またもや船尾の方で大きな音と同時に衝撃が感じられた。また着弾したのだろう。二人の男の子は、ハヤテとキクから「船室に居れ」「出てはいけない」と言われたので、もう外には出なかった。他の家の男の子もみな同じように言われたのだろう、もう船室の外に出る者は誰もいなかった。気を利かせた誰かが、その出入り口の戸を閉めた。
 敵の砲撃の音が少しずつ近付いていることに気付いた女たちは、互いに顔を見合わせると直感した。
『敵に追い付かれれば勝てない。』
 この動揺が、シャガと同じ布団の中にいたアキにまず伝わった。
「かあちゃん、こわいよう……。」
 アキはそう言って泣きながら、母シャガに抱き付いた。それにつられてナミとトヨの小さな子供たちも泣き出した。さっきまで勇敢に偵察に行った男の子たちも、通路から親のいる筵へと上がった。
 このとき、誰かがゆっくりと歌を歌い出した。

「故郷遥か遠く 闇の波間を漂い
今宵は月の浜辺 流離う浜茄子よ
風 梅の香運び 山の根雪溶かす頃
砂に抱かれ安らげば 芽を出だす時来たれり……」

 歌い出したのは、シャガの枕元近くの壁にもたれ、先ほどまでうたた寝をしていた老婆キヌだった。やがて船室内でこの歌を知っている者は次々とこれに和し、知らぬ者はじっと聞き入った。彼女らの声は次第に大きくなり、隣の漕ぎ手にも聞こえたようで、その男たちが一緒に歌う声も聞こえて来た。

「……そよそよ風に吹かれ 故郷の浜の空に
ゆくゆく巡り来たる 妙なる芽を出だす時よ……」

 もし敵に追い着かれたら、子供たちと共に海に身を投げて果てようと覚悟を決めていたシャガであったが、この歌を歌いながら、一つの思いが急に閃いた。
『もしこの世が、あたしたちを必要としているのなら、あたしたちは必ず助かる!』
 この直後、飛龍丸と白鷹丸の甲板にいた者がほとんど同時に叫んでいた。
「風が出てきたぞ!」
「追い風じゃ!」
 積荷や家畜を海に捨てねばならぬという事態になってきたのを受けて、まず船倉の中に収納してあった大砲などの重い荷物を海に捨てようと、船上に運び出していた男たちに向かって喜助が言った。
「おーい! ちぃと待って様子見んか!」
 やがて風は次第に強くなってきた。
 間もなく、誰もが待ち望んでいた指令を、喜助は出すことができた。
「帆走にする! 帆を張れーーっ!!」
 飛龍丸に続き、その斜め後方を走る白鷹丸も帆を張った。長年海と共に生きてきた喜助は、この風が一時的なものではないということを確信すると、続けざまに指令を出した。
「櫂を収めよ! 荷物は元通り船倉に戻すんじゃ!」
 二艘が帆走に切り替えると、敵との距離はそれ以上縮まらなくなり、やがてそれが徐々に開いてきたことが、後ろに見えている敵船の周囲の白波でわかった。しかし敵は、こちらの立てる白波を目指して、追跡を諦めようとはしなかった。
 日向灘を過ぎる頃には、東の空が明るくなってきた。濃い紫色の海面に浮かぶ敵船は、こちらの船団から一ほどの距離を置いて三艘、その遥か後方に二艘の、計五艘になっていた。いずれも飛龍丸とほぼ同じ大きさの安宅船だ。そうすると、将兵の数は合わせて二千人以上はいるだろう。まともに戦えば、まず勝ち目はない。
 しかし、風が強くなるに従がって、それらとの距離はどんどん開いていった。
 敵の船は、元々漕いで進むことを前提に設計されている軍船だ。そのため帆柱は一つの船に一本しかなく、そこに小さな帆が一枚、申し訳程度に付いているだけであった。一方、こちらの船はいずれも帆走することを主体に設計されている。そのため白鷹丸に二本、飛龍丸には三本の帆柱があり、そこには大きな帆が各二枚ずつ付いている。仮に白鷹丸の帆の全てが張られれば、その総面積は敵船一艘のそれの十倍近くにもなる。そのため風が出れば、こちらにとってかなり有利な状況になるのである。
 夜が完全に明けて、大隈半島を遥か右舷に望む頃になると、敵は北の水平線の彼方へと消えた。もう大丈夫だ。
 飛龍丸の甲板の上では、疲れ切った大勢の漕ぎ手の男たちが、朝食を済ませて休んでいるところだった。
 船室から駆け上がって来たショウと太助が、そこに向かって口を揃えて叫んだ。
「おーい! 兄ちゃんと父ちゃーん! 女の子じゃーっ!」
 その声を聞くが早いか、男たちの中にいたハヤテ、サブ、リョウ、ケン、ヤスの五人が疲れも忘れて立ち上がった。
「おお、そうか!」
「産まれたか!」
 彼らは口々にそう言いながら、ショウと太助の後に続いて、船室へと通じる階段を駆け降りて行った。
 船室に入った五人の男たちがまず目にしたのは、小さな四角い窓の白い明かりと、部屋の壁の四隅に設けられた棚の上の小さな橙色の炎だけだった。そのうち目が慣れてくると、キヌ、タネ、キク、妹や弟たちなどの姿が部屋の奥に見えてきた。そこに近付くと、彼らに囲まれて横になっている一人の女性が目に入った。それは、大きな仕事を終えて、すがすがしい疲労感に満たされていたシャガであった。
 その横の桶の中では、既に泣きやんでいる赤子が産湯に浸かっているところだった。赤子の体を洗いながら、産婆が小さいけれど明るい声で、先は赤子に後はハヤテに向かって言った。
「ほら、父ちゃんだよ!
……前の子より安産だったよ。」
 ハヤテは産婆に向かって微笑んで言った。
「おう、そりゃどうも。お疲れさんでした。」
 そして赤子のそばに来ると、湯気の立っているその小さな握りこぶしにそっと指を触れたハヤテは、小さくも嬉しそうな声でこう言った。
「うーん……。シャガに似とる気ぃするぞ。」
 シャガが横になったまま微笑んで言った。
「あたしは、あんたと母さんに似てると思うんだけど……。」
 彼女の言う母さんとはキクのことだ。
「わしゃ、どっちにも似とる思うぞ。」
 リョウが頷きながらそう言うと、ケンが言った。
「ナミにも似とるのぅ。」
 ヤスも言った。
「トヨにも似とる気ぃするぞ。」
「アキもそうだったが、二つの家の血が流れてるんだもん、そりゃ当たり前だよ。」
 四人目の孫ができて顔を綻ばせているサブがそう言った。
「子供の顔は大きくなるにつれて変わってくる。オレにも似るかも知れないしな。それがまた楽しみだ。」
 赤子の曾祖母になるタネが嬉しそうにそう言うと、彼女の叔母のキヌが大きな嗄れ声で言った。
そりゃぁ五十年先でいいよ!
 それを聞いたこの場の一同は、みな大笑いした。
 ハヤテは、横になっているシャガの手をしっかりと握り締めて言った。
「戦の中、負けずによう頑張ったのぅ。シャガ!」
 シャガは嬉しそうに微笑んで言った。
「みんなが頑張って船を漕いでくれたお陰よ。疲れたでしょう?」
「おぅ、でも飯食うて、赤子の顔見たら元気出たわ。」
 シャガは、やや不安げに尋ねた。
「敵はどうなったの?」
 ハヤテは船尾の方を指差して言った。
「さっき、海の彼方に見えんようになりよった。もう大丈夫じゃ。」
「あぁ……良かったわ……。」
 シャガはそう言いながら大きく息を吐き、瞼(まぶた)を深く閉じた。それを見たハヤテは、今の妻にとって、これが何よりの言葉であったということを知った。
 このとき、陽の光が雲間を出たようで、この船室の壁に開けられている窓から斜めに入って来た。それは、湯から出て体を拭かれている赤子から立ち昇る湯気を通して、あたかもスポットライトのように降り注ぎ、赤子の体を金色に輝かせた。すると、その光がまるで見えているかのように、赤子は両手の握りこぶしを太陽に向かって差し出し、一声を発した。
「アー!」
 その光景は、それを見た誰の目にも、何かしら神々(こうごう)しく映った。
 曾孫のアキを抱いてシャガの枕元に座っていたタネが、真っ赤な勾玉の首飾りに手を触れながら静かに言った。
「陽(ひ)を見(み)て輝(かがや)く子……ひ……み……か……、この子の名はヒミカだ。」
 この女の子は、こうしてヒミカと名付けられた。
 その周囲にいた者は、みな口々に言った。
「いい名前だね!」
「ええ名前じゃのぅ!」
 感動の余り、しばらく赤子の光景を見惚れていたハヤテは、その声で我に還ると、シャガに笑顔を向けて言った。
「……二人共無事で、ええ名前付いたけん、何よりのことじゃ。わし、上に戻るわ。」
 ハヤテが船室の出入り口に向かって歩き掛けたので、シャガは「信じられない」といった表情で言った。
「ねぇちょっと!? もう行っちゃうの!?」
 ハヤテはシャガの方に振り向くと、やや真剣な表情になって言った。
「おぅ。そうゆっくりもしてられんのじゃ。船の修理せないけんしのぅ。
おい、リョウや。行かんか。」
 ハヤテは、弟のリョウに向かってそう言うと船室を出て行った。そのリョウに続いて、サブとケンとヤスもハヤテの後を追った。
 シャガは、さも不満げに言った。
「もう! 嬉しくないのかしら! 船の修理できる人は、他にもたくさんいるはずなのに!」
 そのシャガに向かって、キクは執り成すように言った。
「あの子はああ見えても、えろう喜んどるんよ。照れ屋じゃけん、あげに愛想のう見えるが。」
 タネもシャガをなだめた。
「シャガよ。男ってのはな、あれで嬉しいんだ。あんたの爺ちゃんも父ちゃんもみんな、あんなだったよ。」

 この戦闘によって、飛龍丸に四箇所、白鷹丸に二箇所着弾し、怪我人は合わせて十名出た。しかし、いずれも砲弾の直撃ではなく、飛び散った木片が当たったり衝撃で転倒したときの怪我だったので傷は軽かった。
 船の損傷も航行に直接影響はなく、積んでいる木材を使ってそれぞれ修理することができた。
 やがて、大隈半島の姿が後方の水平線に霞むと、今度は前方やや右舷寄りに新たな陸が姿を表わした。鉄砲伝来の島、種子島(たねがしま)である。
 その南北に長い島も、午後には後方の水平線のかなたに消え、二艘の船はついに大海原の上に出た。
 夕方になると、飛龍丸でも白鷹丸でも、出れる者はみな甲板の広いところに出て来て、いつものように歓談しながらの夕食を始めた。
 飛龍丸の船室で休んでいるシャガとヒミカには、キクとトヨ、アカネとキョウの四人が付き添った。
 その飛龍丸船上の夕食の席で、喜助が嬉しそうに言った。
「目出たいことじゃ! 戦(いくさ)の騒ぎで難儀したろうが、母子共に無事で何よりじゃ!」
 シャガが無事出産を終えたという話しは既に彼の耳にも入っていたのだが、ハヤテ一家の者を前にして、今改めてそう祝福したのである。喜助は自分の杯の酒を一口啜ると、今度はタネに向かって、しみじみとした口調でこう言った。
「タネさんや。今回もあんたのお陰でわしらはみな助かった。出発を早めず島で敵に囲まれとったら、今ごろ戦(いくさ)のために夕餉どころではなかったことじゃろう。ヒミカの誕生のこともあるし、あんたらには神さんが付いておるんかわからん。」
 そして彼は、やや真剣な表情になって言葉を続けた。
「……日本は見ての通り、いつの頃からか男が天下を取り、政(まつりごと)は男のやり方で行われるようになっておる。国民(くにたみ)を騙し、刀を振りかざして年貢(ねんぐ)を搾(しぼ)り取る政じゃ。
その犠牲となったわしらは、復讐のために敢えて男のやり方で海賊してきたが、この国を離れるからにゃぁ、もうその必要ものうなった。これからのわしらに要るのは、狡賢(ずるがしこ)さや猛々(たけだけ)しさでのうて、神の心と母の愛じゃ。それ得るためにゃぁ、神の世から伝わっとる政するのがええと思う。
その昔、あんたらの村を女子(おなご)が治めておった時分にゃぁ、揉め事も少なかったと聞く。それに倣うてこれからのわしらの頭(かしら)は、女子にしようと思うんじゃ。ほいで、真(まこと)の政、真のええ暮らしをつくり出すんじゃ。」
 喜助はここで、ちょっと寂しそうに微笑むと、このように言った。
「わしゃ長年海賊の頭をしてきたが、村がそれやめるとなりゃぁ引退する。
……ほんでな、タネさん。」
 喜助がやや口調を改めたので、タネはやや緊張して尋ねた。
「で?」
 喜助は言った。
「あんた、この村の頭になってくれんかのぅ。幹部もみなそれを望んどる。」
 それを聞いた途端、タネは豆鉄砲をくらった鳩のように目を見開いて言った。
「おいおい、何を言うんだい! オレにはあんたみたいな知恵もないし、世の中のことは何にも知らない。巫女(みこ)みたいな仕事はできるかも知れんが頭は無理だよ。もう年だし。サイさんはどうなんだい? あんたが引っこむなら、あんたの家の女子が頭になるのが筋ってもんだろう?」
 周囲の女たちが口々に言った。
「タネさんができんのは残念じゃが、もしそうなら、サイさんじゃのぅ。」
「そうじゃのぅ。」
「そうだね。」
 喜助の家も実は女系だった。戦のことを知らぬサイが指揮を執るわけにもいかないので、今まで喜助が頭になっていたのだが、喜助が引退するなら妻のサイが頭となることはごく自然な流れだった。
 ところがサイはこう言った。
「タネさんにできんものを、なんでうちにできようぞ。他のもんにしてくれ。」
 そのように断わられたので、そのすぐ近くに座っていた喜助の側近イリが、このように提案した。
「ほんなら、サイさんがまず一年やって、次の年はキクさんにしてはどうじゃ。」
 膝の上に孫のアキを座らせて、一緒に雑穀粥(ざっこくがゆ)を食べていたキクの夫サブが、苦笑いしてこう言った。
「……いや、本人も多分断るだろうし、あの人に頭は無理だよ。巫女の力もないし。」
 今度は喜助の弟の勘蔵が言った。
「ほんなら、サイ姉ちゃんの後は、シャガではどうじゃ。」
 シャガの父でもあるサブが、やはり先ほどと同じように言った。
「これも本人がここに居ないが、多分断るだろう。まだ若過ぎるし。」
 が、勘蔵の今の言葉を耳にした周囲の男たちが口々に言った。
「サイさんの後はシャガがええぞ。」
「シャガが良か!」
「シャガにせんか!」
 敵の砲撃に対する恐怖にも負けず無事に出産をとげたシャガの気丈さに、海の荒くれ男たちは一種の尊敬の念を抱いていた。更にヒミカの命名の状況を伝え聞くに及んで、神秘の力の存在すら感じていた。頭と仰ぐからには、たとえ若くともそのような女性がいいと彼らは思ったのだ。
 船べりを背にして座り、先ほどからこの遣り取りを黙って聞いていたモラが穏やかな口調でこう言った。
「タネと同じような不思議な力も持っておるし、継母とのことで苦労したけん、人の心の痛みもわかっとる。しかもハヤテがいろいろ話して聞かしよるけん、政や異国のことにも明るい。サイの後、試しにシャガを頭にしてみてはどうじゃ?」
「そうじゃのぅ。」
「そうだね。」
 周囲の女たちも口々にそう言ってその意見に同意すると、タネがいそいそとして言った。
「本人抜きで話しを進めるわけにもいかないよ!」
 そして彼女は、近くにいたナミに向かってこう言った。
「おい、ナミ! 粥のお代わりを持って行くついでに、ちょいと聞いて来ておくれ。いきなりだとびっくりして目を回すといけないから、それとなく遠回しに聞くんだよ!」
「よしゃ、わかった!」
 微笑んでそう言ったナミは、早速五人分の雑穀粥(ざっこくがゆ)を大鍋から小鍋に移すと、それを盆に乗せて船室へ降りて行った。そのあいだ、物知りの勘蔵が、異国では女性が家を継ぐことは珍しくなく、南蛮でさえも女系でこそないが女性が王となって国を治めることがよくあるといった話しをみなに聞かせた。
 しばらくすると船室からナミが戻って来たが、ちょっと困った顔をしてこう言った。
「姉ちゃん、戯言(ざれごと)じゃ思うて真面目に返事せんかったわ。」
「何と言ってた?」
 タネのその問いにナミが答えた。
「今の顧問が最高顧問になって、村の人みんなが顧問になってくれたら頭になってもええ言うて、笑うてたわ。」
 喜助が笑いながら言った。
「ハハハ! そりゃやられた!」
 モラも笑顔で言った。
「フフフ。シャガらしい返事じゃのぅ。ほんなら、一年目はサイが頭となり、そのあいだに様子見るっちゅうことにしておかんか。ほいで、タネには巫女として幹部になってもらうっちゅうことでどうじゃ。」
 みなは口々に言った。
「ええぞ!」
「それがいい!」
「そいでよか!」
 このとき、先ほどまで隠れていた太陽が、再び雲間から姿を見せた。喜助がやや眩しそうに目を細めてそれを見ると、感慨深げに言った。
「おお! 日本で見る最後の日輪(にちりん)ぞ!」
 みなもそれぞれ、晩秋の雲間に輝くその夕陽を見て、互いに思い思いのことを言った。
「明日はもう異国の海じゃのぅ!」
「俺、海外旅行は初めてだよ!」
「旅行じゃなか。引越しとよ。」
「あ、そうか。」
「……いつかまた、日本に帰れる時も来るんじゃろうか……?」
 誰かがちょっと寂しそうにそう言うと、タネが夕陽の上の空を遠く見詰めながら、まるで独り言のようにこう言った。
「……オレたちは帰れなくとも、孫曾孫のまたずっと先の代、いつか帰れる日が来るような気がする……。
今、オレたちは侍のやり方には従えずに国を出て行き、この国はオレたちを敵と見做して追ったが、お互いを必要とする時が、いつかきっと必ず訪れることだろう……。
……明日を照らすために日は沈む……。
……故郷の浜の砂に ゆくゆく巡り来たる 妙なる実の結ぶ時よ……。」
 故郷の村に古くから伝わる諺(ことわざ)と歌の一節が、まるで呪文(じゅもん)のようにタネの口から流れ出た。

 さて、当時日本有数の貿易港があった平戸。
 この街に潜伏していたある一人の海の忍者が、海賊らしき風貌をした複数の男の姿を港周辺で何度か見掛けた。その都度その後を付けると、その男たちはいずれも港に停泊している一艘の南蛮風の大型船に乗り込んで行くということがわかった。
 その翌々日にその船は出港したが、この忍者は小型の高速帆船に乗って、こっそりとその後を付けた。
 関門海峡を抜けて瀬戸内海に入ったその大型船は、一つの小さな島の近くで夜の闇に紛れて忽然と姿を消してしまった。
 その翌日、商人に変装したこの忍者は、近隣の島々の住民にそれとなくこの疑わしい島のことを聞いて回った。すると、その島の民は半農半漁でたまに商いもしているようだが、そのような大きな船は今まで見たことがないと、みな口を揃えて言っていた。
 これはいよいよ怪しいと睨んだその忍者は、このことを自分の主人である海賊討伐軍の大将に報告した。すると大将はここを海賊の本拠地と断定し、中国四国地方西部から集められた水軍と、九州北東部から集められた水軍とで、東西からその島を挟み撃ちにすることにした。細かい下調べなどをしているうちに、こちらの動きを読まれて逃げられては困るので、その命令は即刻各水軍に伝達され、作戦はその翌日には決行された。
 まず、東からの水軍がその島を包囲して夜討ちを仕掛けると、浜にはつい先ほどまで火が焚かれていたようであったが、入り江に伝馬船が一隻ゆらゆらと漂っているだけで、村は既にもぬけの空となっていた。
 その伝馬船を調べてみると、座席の上に紙切れが一枚置かれていた。海賊が討伐軍に宛てた文(ふみ)かと思った水軍の指揮官は、その船に乗り移ってそれを手に取ると、部下が持つ松明の明かりに照らしてみた。その途端、指揮官は顔を真っ赤にして激怒し、その紙をくしゃくしゃに丸めて伝馬船の船底に叩き付けた。そこには墨で大きく「へのへのもへじ」が書かれているだけだったからだ。
へのへのもへじ
 一方、その反対側から攻めた水軍は、二艚の大型船が闇に紛れて島から逃走するのを発見し、これと交戦しながら追跡したが、大隈沖で見失ってしまった。その結果、船団八艘のうち二艘が浸水し、二艘が炎上、一艘は炎上した上に浸水した。残りの三艘にも甚大な被害があったとのこと。
 このあらましを聞いた豊臣秀吉は、討伐が失敗して賊を取り逃がしたのにもかかわらず、賊を日本国外に追放したということにして、この問題に幕を引いてしまった。朝鮮国侵攻が目前に控えており、そのための水軍の編成をしなければならず、たかが二艘の海賊船などにこれ以上かまっている場合ではなくなってきたからだ。
 この年の十二月、秀吉は関白の座を養子秀次に譲って自らを太閤(たいこう)と称し、出兵の準備を着々と進めて行った。
 その翌年、年号が天正から文禄へと改められた四月、秀吉はついに朝鮮国侵攻を開始した。それによって日本の武将の目がそちらに集中して注がれることとなったため、海外に逃れた海賊のことなどすっかり忘れられてしまった。それでも一部の海運業者や堺の商人のあいだでは、ごくたまにそれが話題にのぼることもあった。
「……呂宋(ルソン)から来たエスパニア人が言うとりましてんけどな、それによるとあの衆、海賊やめよったそうでっせ。」
 たった今、長崎から帰ったばかりの、小奇麗(こぎれい)な身なりをした細面(ほそおもて)の商人の男がそう言うと、彼の父の友人で海運業を営む、厳(いか)つい顔をした五十歳前後の男が尋ねた。
「ほな、何して飯(めし)食うとんねん?」
「何やら、南蛮人相手に商いしとるそうでっせ。」
 商人がそう言うと、海運業者は笑いながら言った。
「ハハハ! そりゃまたえらい転身やな。ほんで、儲かっとるのんかいな?」
 陽光を顔に受けている商人は、眩しそうに目を細めながらそれに答えた。
「はい、それが、ぼちぼち儲かっとるっちゅう話しでっせ。海賊上がりで商人の才覚があるとは意外でんな。」
 幼い頃からずっと修行を積んでいるのだが、三十歳なかば過ぎても、まだ店の経営のことを父から触らせてもらえないでいる彼のその言葉には、やや悔しそうな思いが込められていた。
 堺の港の桟橋の上で立ち話をしているこの二人は、つい先ほどまで仕事関係の話しをしていたのだが、それにきりがついたので海賊の噂話しへと話題が移行したところであった。
 初夏の青空には雲一つなく、昼下がりの桟橋の上にはたくさんの白い水鳥が留まって翼を休めている。二人の足元からは、波が杭に当たるチャプチャプという音が時折り長閑(のどか)に聞こえていた。
 海運業者が言った。
「そうか、奴ら転職しよったんかいな……。
わしが聞いたんはな、お尋ね者の頭(かしら)はもう引退しよって、今はなんとまだ二十(はたち)の女子(おなご)が、頭になっとるちゅうことや。それがまた、えらい別嬪(べっぴん)や言うやないけ。」
 海運業者がそう言うと商人は、今度は羨ましそうな顔になって言った。
「それを早う言うて下さいや。その話し、どこで聞かはりましてん?」
「聞いてどないすんねん?」
 逆に問い返された商人は、ちょっとはにかみながら言った。
「い、いや、その、異国住まいの商人(あきんど)はんとお付き合いさせてもうたら、うっとこの取り扱う品数も増えるやろな、思うて……。」
 単なる世間話としてこの情報を提供するつもりだった海運業者の男だったが、いまだに独身のこの商人が、その元海賊の女商人に関心を持ってしまったということに気付き、慌てて釘を刺した。
「いや、話しは長崎のポルトガル人から聞いてんけどな、『その女子には旦那も子供もいてる』言うとったわ。」
「なんや、そうでっかいな。そりゃ残念……いやいや結構なことで……。ハハハ。」
 商人はそう言って照れ笑いした。

海図2  さて、海賊討伐軍の追撃から逃れて日本を脱出した村人たちは、それからどうなったのだろう。
 種子島を過ぎて大海原に出た二艘の船は、旗艦の飛龍丸を前に白鷹丸を後ろにして縦に並び、潮の流れに逆らって太平洋を南西に向かって進んで行った。
 その二日後になると、前方に二つの島影が見えてきた。奄美大島と喜界島だ。そのあいだを通り抜けて更に南西に進むと、その翌日には、早くも前方に沖縄島の北端が薄っすらと姿を現わした。
 当時の沖縄は、琉球(りゅうきゅう)国という独立国家であり、中国明王朝に朝貢(ちょうけん)することによってその庇護(ひご)を受けていた。その点、朝鮮国や今のベトナムに当時あった各王朝と同様の立場である。そして、その地理的な特性を生かし、日本、明国、東南アジア諸国との交易によって大いに繁栄していた。
 ところが一五六七年になると、それまで海禁令によって民間の海外貿易を禁じていた明国が、日本以外の海外に自国民が渡航することを許可したので、中国船が東南アジア各地で盛んに貿易を行なうようになった。また、スペイン・ポルトガルの貿易船とも競合したため、琉球の東南アジア貿易は急速に衰え、一五七〇年には廃止されてしまった。
 この国に旧知の友がいる喜助たちは、自分たちが日本を脱出したことや近頃の日本の動向などを彼らに知らせるために、ここに寄ることにした。
旗  交差逆S字が鮮やかに染められた旗を帆柱の上に高々と掲げた二艘の船は、首都那覇の港に入って行った。かつてはこの国最大の貿易港であり、その当時は大いに賑わっていたのだが、今はその面影を偲ぶことすら難しかった。しかし、晩秋の午後の空は良く晴れて珊瑚礁の海の水は青く澄んでいる。人の世は儚(はかな)くとも、自然の恵みとその美しさは絶えることがない。それがまた人間にも活力を与えてくれるのである。
 二艘の船が入港したのをいち早く見付けた相手の首領夫妻は、数名の手下と共に桟橋まで出迎えた。
 こちらからは、喜助夫妻とロク夫妻が代表を勤めることになり、四人は伝馬船に乗ってその桟橋へと向かった。
 この首領の名はウミガーミー、海亀という意味だ。なるほど、先が尖っている日焼けした禿げ頭と太い首、そして黒目がちの目が海亀を連想させる。
「ハイサイ!(こんにちは!) 良う来た! ワンヌミー(私の目)壊れたね? 船二つに見えるよ!」
 髪を結って簪(かんざし)を挿し、琉球の衣服に身を包んだウミガーミーが目を丸くしてそう言うと、船首の綱を桟橋に投げながら喜助が微笑んで言った。
「ハイサイ! 二つに見えとるなら壊れとらん! まともな証拠じゃ! ハハハ!」
 ロクは櫓を操って伝馬船を桟橋へ寄せながら、やはり笑顔で言った。
「ハイサイ! 牛馬から畑の大根まで残らず積むに、船一つでは足らんけんのぅ! ハハハ!」
 喜助の投げた綱を受け取ったウミガーミーは、それを手繰り寄せて桟橋の杭にくくった。
 首領の妻はチジュヤーという名で、千鳥という意味である。琉球女性特有の髪型に髪を結い、鮮やかな衣服に身を包んだ彼女は、健康的に日焼けしたなかなかの美人だ。その彼女が明るい笑顔で言った。
「ハイタイ(こんにちは)。どこかに転居するね?」
 伝馬船に積んでいた大きな木箱を桟橋に乗せた喜助は、自分も桟橋に上がると苦笑いして言った。
「近頃のヤマト(日本)は住み難うなってのぅ。」
 ウミガーミーは、やや真剣な表情になって言った。
「あんたたちの仕事じゃ、住み難うなって当然さー。」
 ウミガーミーたちの組織は、表向きは王に仕える海運業者だが、裏では密貿易で収入を得ている。
 当時の琉球の社会にも日本と同じような階級制度があり、主に王族と士族、そして平民に分かれていた。しかし、今で言う沖縄本島が統一国家となると、中央集権化を進める政策の一環として、王は民衆から刀剣や弓矢などの武器を悉く没収してしまった。それは、日本で秀吉が行なった、いわゆる「刀狩」よりも更に徹底していたようである。
 ロクが船尾の綱を持って桟橋に上がり、それを手繰り寄せて別の杭にくくった。
 夫の手を借りて桟橋に上がった喜助の妻サイは、彼らに微笑み掛けてこう言った。
「ハイタイ。うちら、もう海賊やめたけん、あんたんとこと一緒じゃ。」
 ロクの妻シンも、彼女の夫の手を借りて桟橋に上がると、やや真剣な表情で言った。
「ハイタイ。これからのヤマトは、海賊でのうても住み難うなりよるで。侍や坊さんの他はのぅ。あんたらもヤマトの侍にゃぁ、気ぃ付けた方がええよ。」
 喜助も、やはり真剣な表情になってこう言った。
「着いて早々厭な知らせじゃがのぅ、ヤマトの豊臣秀吉が、朝鮮攻めよることになったんじゃ。」
 それを聞いたチジュヤーは、冗談ではなく本当に驚いて目を丸くした。
「アキサミヨー!(驚いた!) ルーチュー(琉球)にも来るね?」
 喜助は苦笑いして言った。
「いやいや、そこまでは言うとらん。けど、今の秀吉ならそのくらいのことしても不思議ではないわ。」
 サイは、港に停泊中の中国式の大型帆船を見て言った。
「あんたんとこも危のうなったら、うちらみたいにさっさと逃げんさい!」
 それはウミガミーたちが所有する輸送船で、風さえあれば日本の大型の軍船よりずっと早い速度で航行することができる。また、沖縄近海をはじめとする東アジアの海のことを彼らは知り尽くしていた。
 喜助は先ほどの木箱を持ち上げると、それをウミガーミーに手渡して言った。
「毎回同じで飽きたかわからんけどのぅ、干し椎茸と昆布と鰹節じゃ。みなで分けて食うてくれ。」
 ウミガーミーは、とても嬉しそうに言った。
「ウチナーでは珍しき、その毎回同じ大歓迎よ。ニフェーデービル!(ありがとうございます!)」
 こうして喜助たち四人は、首領夫妻とその手下たちに伴われて、港に隣接している彼らの屋敷へと向かった。
 彼らのような仕事に携わっている者は、遠来の客を持て成す技に長けているし、喜助たちもその楽しみ方を心得ている。しかし、楽しさ余ってついつい飲み過ぎてしまうこともある。特に普段は神経質で几帳面な者が緊張から一挙に開放されると、通常とは違った酔い方になるようだ。
 その翌朝、飛龍丸の船上で幹部を始めとする仲間たちと共に朝餉を食べながら、昨日のウミガーミーの屋敷での宴の報告を終えたロクは、その最後をこのような言葉で締めくくった。
「……いやいや、そげなわけで、敵のおらん海に出れた嬉しさ余って、昨日はちぃと飲み過ぎた。泡盛(あわもり)っちゅうのは次の日然程(さほど)残らんのがええけど、それゆえに謎は深まるばかりじゃ……。」
 そして彼は、やや心細そうにこう付け加えた。
「……なしてこれ、わしんとこにあるんかいのぅ?」
 ロクは、自分の目の前に置かれている細長い物体に目を移した。それは、当時三弦と呼ばれていた楽器だ。
 その隣に座っていた彼の妻シンが、苦笑いしながら言った。
「あんたが自力で思い出すの待っとったが、どうもできんようじゃけぇ言うわ。あんた、宴(うたげ)の終(しま)いの方で、阿波踊りんようなあのウチナーの踊り、えーと、カチ……カチャ?」
「カチャーシーじゃろう。」
 喜助がそう言って助け舟を出した。シンは続けた。
「ほうじゃほうじゃ。そのカチャーシーみなで踊っとる最中に、この楽器弾いとるもんの一人からこれ取り上げて、他んもんの真似して弾いとったんじゃろうが。それがまたみなに大うけじゃったけぇ、あんた調子ん乗って宴終わっても、これよう離しよらなんだんじゃろうが。頭が持ち主に謝ったら、そのもん笑うて、『ええ、ええ。記念にくれちゃる。』いう意味のこと言いんさった。
ほんじゃぁ無理やり奪うたようで、あまりにも申し訳ないけぇ、頭がそのもんに銀渡したが受け取らん。ほいであんたの腰の刀の紐といて、こちらも記念に言うて鞘ぐちくれてやったんじゃ。ほんなら、そのもんは『こりゃ、今のこの国じゃ貴重品じゃ』いう意味んこと言いんさって、快(こころよ)う受け取ってくれんさったんじゃろうが。
ほんまに一つも覚えとらんのか?」
 ロクは照れて赤くなり、俯き加減で言った。
「……いや、踊り始めたとこまでは覚えとるぞ。」
 シンは再び苦笑いして言った。
「そりゃぁ一つも覚えとらんのと一緒じゃ!」
 それを聞いた甲板のみなが大笑いしたので、ロクは更に赤くなって言った。
「……朝起きて、いつもなら寝床の脇にあるはずの刀ない代わりにこれあったの見て、変じゃのぅ思うたが、出先で刀失うような恥じなこと人には言えんけん、そりゃ黙っとったんじゃ。これで謎がとけたわい……。」
 それを聞いたみなはまた大笑いした。シンが言った。
「聞き分けの悪い子供んげぇじゃったぞ。ほんに!」
 みなはまたどっと笑った。ロクの幼馴染の勘蔵が、からかうような口調で言った。
「おい、ロクや。そこまで惚れ込んだ楽器なら、一つ奏(かな)でて聴かせてくれや。」
 その言葉を聞くが早いか、シンは勘蔵に向かって顔を顰(しか)め、その前で手を振りながら言った。
「悪いことは言わん。やめといた方がええぞ。」
 喜助も苦笑いして言った。
「楽器は音出して芸になるが、ロクのは楽器を小道具にして見せる方の芸じゃけん、耳は塞いどった方がええかわからんのぅ。」
 それらの言葉が耳に入っていないかのように、ロクは真剣な顔になって立ち上がると、三弦の紐を肩に掛けてすっと構えた。その姿は、琉球の人がするようでそれなりに見事であったが、彼が弦を弾いて出て来た音はまるで無茶苦茶であった。
 しかし、ロクの表情が余りにも大真面目で、自分の出している音に一抹の疑問も感じていないようなその姿に、周囲の者は手を打ち鳴らして大笑いした。ウミガーミーの家でも、きっとこのようにして受けたのだろう。ロクは一頻(ひとしき)り弾くとみなに一礼して座り、楽器を甲板の上に置いた。
 喜助が苦笑いして勘蔵に言った。
「どうじゃ、わかったろうが。」
 手を打ちながら足をバタつかせ、大笑いしていた勘蔵が言った。
「ハハハハ! こりゃぁおもろい、おもろい!」
 そして、やや真面目な顔になるとこう言った。
「……けど、こげな使い方するだけなら、この楽器勿体ないわのぅ。」
 確かに、黒漆(くろうるし)が厚く丁寧に塗られ、丸型の胴にニシキヘビの皮が張られたその楽器は、誰が見ても見事なできで、楽器として用いなければ、その作者に対して申し訳なく思えるだけの品であった。
 喜助が一同を見渡して言った。
「おーい! 誰かこれまともに弾けるもんおらんかーっ?」
 飛龍丸船上は、しんばらくがやがやと賑やかになっていたが、誰かの上げたこの一声で静まった。
「ハヤテ、あんたならこれ弾けるん違うかえ?」
 その声の主は、ハヤテの親友ヤスの母スミだった。スミは続けて言った。
「あんたん父さん、琵琶(びわ)弾いてんさったじゃろう。ほいであんたも習うて弾いとったん違うか?」
 この組織に加わる前、スミはハヤテ一家と同じ組織に入っていたので、今は亡きハヤテの父カヂのこともよく知っている。そのスミとは懇意の、ハヤテの母キクが苦笑いして言った。
「弾けるなんちゅう立派なもんとは違うぞ。」
 ハヤテ本人も言った。
「おう、習うには習うとったがのぅ、音出すので精一杯じゃ。
ほんでのぅ、琵琶の頚(くび)にゃぁ柱(はしら)っちゅう下駄の歯を小そうしたげなもんが並んどって、それで音の高い低い変えよるんじゃ。その楽器にゃそれ付いとらんけん、どげんして弾くんかわしゃようわからんぞ。」
 と言いながらも、ハヤテはロクの横に来て座ると、その三弦を手に取った。楽器が好きな者なら、このようにして興味を示すのはごく当然のことであろう。そのすぐそばに座っていた勘蔵が、みなに向かって言った。
「楽器一つでも弾けるもんなら、初めて弾く楽器でも、いじくり回しておるうちに、それなりに弾けるようになるもんじゃ。」
 ハヤテは自分の懐から、白っぽい木でできた琵琶の撥(ばち)を取り出すと、しばらく何かを思い出すようにして目を閉じた。
 今彼の脳裏に現われたのは、敵の上げる鬨(とき)の声、パチパチという鋭い音を立てて煙と炎に包まれている自分の生家、泣き叫ぶ母と妹弟たちであった……。それは、以前ハヤテたちが所属していた組織が壊滅する際の、ほんの一瞬の光景であった。
 その後、着の身着のままの家族を連れて、落ち延びようとしていたハヤテは、自分たちを助けるために命を落とした父の形見にと、炎上する家の中から無我夢中でこの撥だけつかんで飛び出したのであった。それ以来、それに紐を付けて首から下げ、肌身離さず持ち歩いていたのだが、それが再び音を奏でるときが今訪れたのだ。
「ウチナーん衆は撥ではのうて、牛だか水牛だかの角の先んようなもん指にはめて弾いてんさったように見えたがのぅ。」
 喜助の妻サイのその言葉によってハヤテはハッと我に返ると、何事もなかったようにサイに向かって微笑んでこう言った。
「……おう、話しにはそう聞いとるが、わしゃこの方が弾き易いけんのぅ。」
 彼はまず、三本の弦をどこも押さえずに順番に撥で弾いてみた。そして、糸巻きをきゅっきゅっと回して調弦すると、今度は弦を何箇所か押さえてしばらく音を出していた。彼はやがて納得したように頷くと、ぺペンペンという軽快な音を立ててそれを巧みに弾き始めたではないか。これにはみな、感嘆の声を漏らして口々に言った。
「おお! こりゃ見事じゃ!」
「さすが、父さんの血は争えないね!」
「ロク! こりゃぁハヤテが持っておった方がええぞ!」
「ハヤテにくれちゃらんね!」
 ロクは、頭を掻きながらきまり悪そうに言った。
「おい、ハヤテ。この楽器、わしよりお前の方を好いとると見たけん、お前にくれてやるわ!」
 ハヤテは楽器を弾く手を止めると、ニコッと微笑んでロクに言った。
「ただで貰うたら申し訳ないけん、これと交換いうことでどうじゃ?」
 ハヤテは楽器を一旦甲板の上に置くと、自分の腰の刀の紐をほどいて、それを鞘ごとロクに差し出した。それを受け取ったロクは、その刀を自分の腰に紐でしっかり結び付けると、極めて真剣な表情になってこう言った。
「……今ようやく、夢から覚めた気ぃするわ。」
 それを聞いた一同は、手を打って大笑いした。

 水や物資の補給を済ませ、琉球の友に別れを告げた喜助たちは、その翌日の早朝には飛龍丸と白鷹丸の錨を上げて那覇の港を後にした。
 再び潮の流れに逆らって、数日間西南西に進んだ二艘の船は、最初の候補地である台湾にたどり着いた。
 島の西岸南部に上陸し、この地で暮らす人々からの情報を得て初めてわかったのだが、この島は東アジアの軍事通商両面から極めて重要な場所に位置しているため、近年では中国人や日本人に加えて、スペイン・ポルトガル人も恒久的に居住するようになっていた。昔は倭寇の基地も数多くあったという。
 風光明媚で食物も豊かなこの地に、今後各国の勢力が入り乱れること間違いなしと見た喜助たちは、この島に自分たちの安住の地を見い出すことは断念した。
海図3  水や食料などを補給して錨を上げた二艘の船は、台湾西岸を南下すると進路を南東に変え、その翌日には小さな島にたどり着いた。当初、ここは候補の中に入っていなかったのだが、台湾とは対照的なこの小島の様子を、後学のために調べておこうという意見が出たので、寄ってみることにしたのである。
 サンゴ礁に囲まれたこの美しい島に、何名かが伝馬船で上陸して調べに行って帰って来ると、その合図を受けた白鷹丸のロクとモズ、権次をはじめとする幹部たちが、旗艦である飛龍丸にやって来た。
 船上には、午後の暖かい陽射しが降り注いでいる。今回の調査隊の隊長を務めた喜助の娘婿トビは、車座になっている仲間たちの真ん中に座ると、早速報告を始めた。
「ええ島じゃ。人の住めるところには既に人が住んでおって、芋などつくって長閑(のどか)に暮らしとった。食うもんには困っとらんげぇじゃったわ。」
 それを聞いた喜助が尋ねた。
「ほうか。ほんなら、わしらでも住めそうか?」
 トビはそれに答えた。
「住むにゃぁ困らんが、住める場所はあまり広うないな。」
 それを聞いたイリが言った。
「船から眺めて見ても、そのようじゃな。敵に攻められて逃げ込めるような山はあるが。」
「海賊やめても、敵が攻めて来るんかえ?」
 そう問うたのはサイだった。彼女は次の頭となるため、幹部のこうした集まりに顔を出すようになっていた。その質問には、彼女の夫の喜助が答えた。
「ああ、攻めて来よるとも。わしらが商売で儲かってみい。異国の海賊やら南蛮やらがその富狙うて来よることは充分有り得ることじゃ。」
「元海賊が海賊に攻められるちゅうのも、また変な話しじゃのぅ。」
 権次がそう言うと、その場の一同は笑った。
 喜助の言葉を補足するようにロクが言った。
「ほうじゃけん、今まで通り武装は続けんならん。自分たちの身は、自分たちで守るしかないんじゃよ。」
 サイがそれに答えた。
「なるほどのぅ、わかったわ。」
「ここはやめた方が良か。わしらん数、こいから確実に増えよるばってん。」
 そう言ったのは張先生だった。それを補足するようにモラが言った。
「そうじゃ。人の数増えりゃぁ、先に住んでおるもんとのあいだに、いずれ争いが起こることになるじゃろう。ここはやめた方がええ。人のおらん島がええ思うがのぅ。」
 このような大変説得力のある意見もあり、彼らはここに住むのをあっさりとやめることにした。
 錨を上げて帆を張った二艘の船は、第二の候補の越南(えつなん)がある方角にはなぜか舳先(へさき)を向けず、東南東に進路を取った。越南もきっと台湾と同じような状況に違いなく、わざわざ寄っても無駄足になるのではないかという意見が続出したためだ。
 その翌日には、フィリピン諸島中最大の島である呂宋(ルソン)島北部が前方に現われた。この島は、スペインの植民地になってから既に久しい。二艘の船は、この島の小さな港に寄って水や食料、日用品などの補給を済ませると、その翌日には出港し、島の東岸に沿って更に南下して行った。
 進路を南南東に取り、フィリピン諸島中最も南の島であるミンダナオ島の東岸を過ぎた二艘の船は、それから十数日後には、ついに赤道を越えて、現在日本でニューギニア島と呼ばれているパプア島まで来てしまった。
 彼らの誰もが、この島を目にするのは初めてだし、この島に関する知識を持った者も誰一人としていなかった。
 いつ果てるともなく続く巨大な深緑の陸地を右舷に望みながら、二艘の船は潮の流れに乗って、熱帯の青い海を進んで行った。
 それから数日後、ようやくこの巨大な島に別れを告げて進路を東南東に取った彼らは、目の前に現われた、住むのに丁度良さそうな大きさの島四つを調べてみたが、そのいずれにも人が住んでいたので、そこから更に航海を続けることにした。
 それからまた数日後のこと。
 朝の真っ青な海の上、帆を畳んで錨を下ろした飛龍丸の甲板では、主だった者を中心にして、いつものように会議が始まろうとしていた。
 北国育ちのタネが、まず呆れたように言った。
「いやー、驚いた。冬になるはずが、あれよあれよという間に真夏になっちまったよ!」
 そのことを実感していた者が多かったので、みなは笑いながらもそれに同意した。喜助も笑って言った。
「ハハハ、そうじゃな、暦(こよみ)の上では冬じゃがのぅ。けど、日本の夏のように蒸し暑うないけん、日陰におりゃぁ風が心地良うてかえって過ごし易いのぅ。」
 これもやはり、みな実感していることであった。喜助は自分の席から立ち上がると、集まっていた一同を見渡して言った。
島 「さて、今朝集まって貰うたのは他でもない。今、目の前に見えとるあの島を調べに出るためじゃ。」
 そう言って喜助は船の前方を指差した。そこには、小高い山がそびえる、やや大きな島が見えている。喜助はまた自分の席に座ると、話しを続けた。
「あの島は、なんとこの海図には描かれちゃおらん。」
 彼はそう言うと、今度は一同中央の甲板の上に広げられている、長崎で手に入れたあの海図を指差した。その近くに座っていた勘蔵が、そこを覗き込んで言った。
「なるほど……。
ちゅうことは、マレー人も明国人も南蛮人も知らん島なんかわからんのぅ。」
 喜助は微笑んでそれに応えた。
「その通りじゃ。」
 そして彼は、また一同を見渡して言った。
「今までの島の調査では一隻で行ってえらい時間掛かったけん、今回は二隻で手分けして調べることにする。」
 喜助は続いて今回の調査隊の隊長一名、副隊長一名、隊員十名の名前を発表した。名前を呼ばれた者は次々と立ち上がって、喜助の近くに集まった。喜助も立ち上がると、彼らに向かってこう言った。
「まず隊長率いる一番隊は左から、副隊長率いる二番隊は右から島を回るんじゃ。ほいで島の裏で会うたら今度は一緒に陸に上がり、その後また手分けして様子見るんじゃ。そのとき、毒虫と毒蛇には充分気ぃ付けるんじゃよ。
ほいで、危のうなったらいつもの通り狼煙一発上げるんじゃ。わかったかの?」
「わかりました!」
 まだ若い隊員たちはみな威勢良くそう返事をすると、飛龍丸の船べりに掛けられた縄梯子(なわばしご)を伝って下へ降りて行った。その下には既に、弁当や武器、山刀(やまがたな)などが積まれた二隻の伝馬船が浮かんでいる。隊員たちは分かれてそれらに乗り込むと、緑豊かなその島を目指して、それぞれ船を漕ぎ出した。一同はみな立ち上がって船べりに並び、その船を見送った。
 白鷹丸船長のロクは船べりに肘を着くと、遠ざかっていく二隻の伝馬船を目で追いながら、横に立っている喜助に言った。
「七度めの正直になるかや?」
 その横に同じようにして並んだ喜助も、やはり伝馬船を目で追いながらこう言った。
「ここらの海に島はようけあるはずじゃ。時間はなんぼでもある。十度でも二十度でも調べに行って、わしらが末代後の世まで心安う暮らせるような、ええ場所見付けるんじゃ……。」
 海の水はとても澄んでいて、細波(さざなみ)の下の海底をはっきりと見ることができた。

「おーい! 伝馬が帰って来よったぞー!」
 飛龍丸と白鷹丸の帆柱の上から発せられたその嬉しそうな声が、それぞれの甲板の上に降って来たのは、西に傾いた太陽の光が赤味がかってきた頃のことだった。夕涼みのため甲板の上に出ていた大勢の大人も子供も、その声を聞くが早いか、みな一斉に船首の方に駆け寄った。そのため、重心が急に変わったどちらの船も、縦にゆっくりと揺れたほどだ。
 夕陽に染まった深緑の島を背景にして、鏡のような夕凪(ゆうなぎ)の海面を、二隻の伝馬船がこちらに向かって進んで来る。
 やがて、調査隊十二名が全員無事に飛龍丸の上に帰還すると、最後に甲板に降り立った今回の隊長フカに向かって喜助が尋ねた。
「どうじゃった?」
 彼は三十代前半とまだ若い。みなに囲まれていた隊員たちは、やや興奮気味だったが、フカも声を弾ませて答えた。
「ええ島じゃ! 昔、人がおったげぇじゃが、今はおらんげぇじゃ!」
 喜助も嬉しそうに言った。
「ほうか。ほんなら丁度夕餉の時刻じゃけん、それを兼ねてみなでその話し聞くとしよう!
隊長始めとする隊員の者、みなご苦労であった。まずは一杯やりんさい。」
 喜助はそう言って隊員一人一人に杯を手渡し、瓢箪に入った酒を注いで回った。彼らがそれを飲み干すと、喜助は言った。
「副隊長は二番隊のもんと白鷹丸へ行って報告してくるんじゃ。ほいで今日はもう暗うなるけん、上陸するにしても明日になると伝えてくれ。」
 その指示に従がって、二番隊の者が伝馬船で白鷹丸へと向かった。
 陽が沈む前、飛龍丸の甲板の上のあちこちに明かりがともされ、料理係の男女が飲み物の入った瓶(かめ)や瓢箪(ひょうたん)、各種料理の入った大鍋を甲板に運んで来たので、各自それらの配給を受けるために自分の食器を持ってその前に並んだ。そして、三本の帆柱のうち真ん中の一番高い帆柱の下に今回の調査の一番隊が座り、幹部を始めとする飛龍丸の乗員の大人と子供がそれを取り囲んで座った。
 その中央に立った喜助が周囲を見渡すと、それまで賑やかだったその会場が静まった。喜助は言った。
「先ほど島の調査に行って来た隊員全員が無事に帰還しよった。これからその報告聞かせてもらうことにする。」
 喜助がフカに酒を振舞うと、フカはそれを杯に受けて飲み乾してから、会場のみなに向かって言った。
「みなも飲み食いしながら、楽にして聞いとくれや。」
 喜助は自分の席に戻って腰を下ろし、フカは時々飲み食いしながら報告を始めた。
 まずこの島は、基本的に岩でできているようだが、その周辺を珊瑚礁の浅瀬が幾重かにわたって取り巻いており、大きな船は座礁する危険があるため、海底の地形を充分調べてからでないと、近付くことができないということがわかった。
島  日没まで見えていた島の東側は崖だが、ここからは見えないその裏側は入り江になっており、フカの率いる一番隊と副隊長率いる二番隊は、その入り口で会った。その途中でどちらの隊も、島に人影を見ることはなかった。
 この入り江の中に入った二隻の伝馬船は、その奥にある長さ半ほどの緩やかに湾曲した砂浜に上陸すると、そこに船を上げた。その砂をよく見ると、白く細かい珊瑚のかけらが多く混ざっていて、とても美しかった。
 この浜のほぼ真ん中には川が流れており、彼らはその水を沸かして飲んでみた。それは塩気のないとてもうまい水だったので、隊はここで弁当を食べて少し休憩することにした。高い山から流れて来るこの川の水量はかなり多く、今後自分たちの生活を支えるのには充分であろうと思われた。
 休憩を終えた彼らは、今度は陸上を調べることにした。一番隊は島の南岸を、二番隊は島の北岸を調査し、各々(おのおの)この浜に戻るということで、二つの隊はそれぞれ出発した。
 この白い砂浜の背後の平地は、幅三余りの帯状の椰子の林になっており、その更に奥はなだらかな勾配の熱帯雨林がずっと続いている。その中は薄暗く、様々な鳥の鳴き声が飛び交い、珍しい草や虫を目にすることができた。長さ二ほどもある大きな蛇もいた。
 山刀で木の枝や蔓を切り掃いながら、そこから更に一里余り進むと、熱帯雨林の勾配が突然急になった。それは島の東寄りにある高い山だったので、どちらの隊も時間の関係上、これに登ることは断念した。
石橋  二つの隊は、それぞれ山裾を島の中央へと向かって進み、先ほどの川の中流の両岸で再会した。そこには大きな古い石の橋が掛かっており、その南側の山裾には一間半ほどの間隔で、人の背丈ほどの一対の石像があった。そのあいだは草に覆われていたので最初はわからなかったが、よく調べてみるとそこには幅一間ほどの石段が、山に向かって長く延びていることがわかった。
 それは一見、日本の神社の狛犬と参道の関係に似ていたが、その石像はどちらも犬ではなく、片方は尻尾の長い猿で、もう片方は象の頭をして腕が四本ある人の形をしていた。石段に積もった土の厚さから、ここを人が通らなくなってから、かなりの年月が経っているのであろうと思われた。
 時間の関係から、彼らはこの石段にも登らず、帰路に就くことにした。二つの隊は、それぞれ川の南岸と北岸を下った。熱帯雨林を抜け、再び椰子林の中に戻ってからしばらく行くと、川の両岸にまたがって開けた場所があることを両隊ともに発見した。その約二町四方の場所には、平たい石が整然と敷かれているため植物はほとんど生えていなかった。彼らはここを「石畳の広場」と名付けた。
島の港  その広場を通り過ぎるとまた椰子林になっており、その中をしばらく行くと両隊共に先ほどの浜に出ることができた。彼らは二隻の伝馬船を海に出し、来たときのようにしてそこに乗り込むと、今度は一緒に島の南岸を回って帰ることにした。来たときには陽の光の関係で気付かなかったが、浜の南側の隅の岩場には、古い港の跡と見られる石垣が発見された。
 フカは、ここで話しを終えた。
 喜助が確かめるように言った。
「なるほど、橋や石像や階段、ほんで港の跡か。それが、人のおった跡っちゅうことじゃな?」
 今は濃紺の空に黒いシルエットとなっている、その島に目をやったフカは、感慨深げに答えた。
「ほうじゃ。とにかく美しい島じゃったわ。」
 他の隊員たちも、みな目を輝かせて口々に言った。
「水もうまかったぞ。」
「これから俺たちの数が増えても、充分住めるような広さだったよ。」
 モラが微笑んで言った。
「ほうか。ほんなら、明日船がその入り江に入れるかどうか調べて、入れるようならみなで島に上がってみてもええかわからんのぅ。」
 その言葉を聞いた一同の中から、歓声が上がった。その一方、タネは眉間に皺を寄せてこう言った。
「オレは、そんな大きな蛇がいるんだったら、やだよ!」
 それに対して若い隊員の一人はこう言った。
「その蛇、わしら見ても逃げよらんかったが、タネさん見たらきっと逃げよるけん、心配要らんぞ。」
 その隊員に向かってタネは目を剥くと、口を尖らせて言った。
「おい、そりゃどういう意味だい!」
 それを見たその場の一同は、みな大笑いした。
 やがて空には満天の星が輝き、心地良い夜風に吹かれての宴(うたげ)となった。その中で幹部たちは、明日の上陸の段取りを立てるための話し合いをした。
 物資の補給をする者や調査隊に選ばれた男たちなどは、今まで各地で陸に上がっているが、それ以外の者は日本を離れて二ヵ月余り経つのに、まだあまり陸に上がっていない。そのため、明日の上陸が待ち遠しくてならず、みなその話しで持ち切りになっていた。

 熱帯の海特有の色鮮やかな夜明け。そこから射して来た濃厚なオレンジ色の朝日が、船上で手早く朝餉を済ませている村人たちを照らし始めた。やがて、彼らは昨夜幹部たちが立てた段取りに従って、二艘の船から伝馬船二隻ずつを出した。横一列に並んだ四隻の伝馬船は、係りの者が先端に錘(おもり)の付いた紐を海中に垂らして水深を調べながら、島に向かって慎重に船を進めて行った。
 その四隻に先導されて錨を上げた二艘の大型船は、飛龍丸の後ろに白鷹丸が続き、ゆっくりと漕がれる櫂によって慎重に船を進めて行った。海中の珊瑚の様子がまるで地上のもののように見えているので、うっとりと見惚れてしまいそうになるが、このような水深の浅い場所では座礁する危険性が極めて高い。この当時の船は木造であるため、もし座礁すればほぼ確実に底に穴が開き、それは船にとって致命的な損傷となる。
 この船団は島の南側を回り、やがて西側にある入り江に着いた。ここで一旦停船して錨を下ろした二艘の船から、今度は先ほどと同じような伝馬船が更に四隻ずつ出された。先ほどの四隻と合流して十二隻となった伝馬船団は、横一列に並んで入り江の入口から中に入って行き、その水深をくまなく調べ始めた。時間を掛けて慎重に調べた結果、入り江の中ほどに一隻残し、残りの伝馬船はそれぞれの母船に戻った。
 飛龍丸に漕ぎ付けたその乗組員の一人が、船べりの上に出ている喜助の顔を見上げると、残してきた船を指差して報告した。
「あこに一隻おるじゃろう。そこまでじゃな。そっから先は急に浅うなっとるわ。」
「よしゃ、わかった。」
 喜助はそう応えると、今度は近くにいた側近のイリに向かって命じた。
「錨を上げて入り江に入り、あの伝馬の手前まで船を進めるんじゃ。」
 イリは太鼓を打って出発の合図をしてから、入り江の中ほどにある伝馬船を目指すよう舵取りの者に伝えに走った。二艘の船は再び慎重に進んで行った。
 目印の伝馬船の少し手前でイリが停船の合図の太鼓を打つと、櫂は海中に下ろされたまま動きを止めた。少し離れて付いて来ていた白鷹丸も同じようにして停船し、二艘は錨を下ろした。
 やがて、二艘から再び伝馬船が出されて人の輸送が始まった。村人みんなが待ちに待っていた上陸だ!
 浜に降り立った大人も子供もみな大喜びだった。歓声を上げて広い砂浜を駆け回る者、中には川に飛び込んで早速水浴びを始める者までいた。
 タネ一家も全員がこの白い砂浜に揃った。妹弟や息子のアキのはしゃぐ姿を、嬉しそうに目を細めて眺めているハヤテに向かって、娘のヒミカを胸に抱いたシャガが興奮した声で言った。
「ねえちょっと! ハヤテ! ここ、あたしが前に話したあの夢の浜とそっくりよ!」
 ハヤテは怪訝そうな顔になって尋ねた。
「は? あの夢てどの夢じゃ?」
 シャガは力を込めて言った。
「ほら! 通商諜報部長たちの報告があった夜、あんたが家に帰ってから話した夢のことよ!」
 彼女の言う通商諜報部長とは勘蔵のことだ。
 ハヤテは、紺碧の空を見上げて腕組みしながら、しばらく顎をポリポリと掻いていたが、何かを思い出したらしく、シャガに目を移すとこう言った。
「あぁ、何やらそげなことあったのぅ。」
「そんなことって、もう!」
 シャガは一瞬怒ったような口調でそう言ったが、すぐ残念そうにこう言った。
「……そうそう。あんた、あたしが話してる最中に眠っちゃったから、覚えてなくても仕方ないわね……。」
「ほう。すると、お前が見たあの夢は正夢なんかのぅ。」
 ハヤテは、その記憶が少し蘇えってきたようで、やや興に乗ってきたようだ。シャガは、すぐにまた先ほどの興奮状態に戻って言った。
「そうよ! そうとしか考えられないわ。だって、ほんとに同じ景色なんだもん!」
「なんだい? シャガはここを夢で見たことあるんだって?」
 そう言ってこの会話に加わって来たのはタネだった。彼女にもこのようなことがよくあるので、この孫娘の言っていることが良く理解できたのである。シャガは、そのタネに向かって目を輝かせると、引き続き興奮した口調でこう言った。
「そうなのよ! この白い砂、あの背が高くて変わった形のたくさんの木。みんな同じだわ!」
「そうか。それなら、こりゃ頭に知らせた方がいいかもな。」
 タネがそう言うと、続いてサブもこの話しに加わって来た。
「そうだな。何かの手掛かりになるかも知れないし。」
 川のほとりでは幹部たちが輪になって腰を下ろし、この島の本格的な探検を計画していた。シャガたちはそこに来ると、先ほどの話しを彼らに伝えた。
 それを聞き終えた喜助が言った。
「……すると、この椰子林の奥に広場があって、その周りに村があったっちゅうことじゃな?」
 シャガは目を輝かせて言った。
「そうよ!」
「よし。ほんなら、こっからさほど遠(とお)ぅないけん、今すぐ見に行ってみんか!」
 喜助はそう言って立ち上がると、川に沿って椰子林の中に入って行った。その場にいた者も、みなその後に続いた。
 椰子の葉の隙間から降りそそぐ木漏れ日を浴びながら、その中をしばらく川沿いに進むと、一行は突然開けた場所に出た。その途端、シャガがまた興奮して言った。
「頭! ここ! この回りよ! 村があったのは!!」
 それは昨日の調査隊のフカから聞いていた「石畳の広場」だった。その中央を流れている川には、地味だが頑丈そうな石の橋が一つ掛かっている。
 喜助は立ち止まり、周囲を見渡しながら納得したように言った。
「なるほど、ここなら川のそばで水には不自由せんし、林のお陰で嵐んときの大風も防げる。木陰に家を建てりゃ涼しいじゃろうし、村をつくるにゃぁ丁度ええかわからんのぅ……。」
 ロクが微笑んで言った。
「昔この広場の回りに家が建っておったげじゃ。ほれ、見てみい。」
 彼の指差す方を見ると、椰子の木の根元のあいだに、家の礎石のような平たい石が規則正しく並んでいるのが見えた。よく見ると、同じような物があちこちにある。
「こりゃ『早く家建ててくれ』って言ってるようなもんだよ!」
 タネがそう言うと、一同は陽気に笑った。喜助も笑って言った。
「ハハハ。そのようじゃ。ほんなら、ここを村の第一の候補としておかんか。ほいで山に出す探検隊の報告聞いてから、はっきり決めることにせんか。」
 みなもそれに同意すると 早速浜に引き返して探検隊を組織した。隊長と副隊長には、島の地理をある程度把握している昨日と同じ者が任命された。
 その隊長フカの提案で、出発は明日の早朝ということになった。山の入口の石段まではかなり距離があり、そこから先はもっと時間が掛かるに違いなく、正午を過ぎている今出発すれば、今日中に山頂まで行って帰って来るのは無理だと推測したからだ。
 やがて、椰子の木陰で弁当を食べたり水の補給などを終えた村人たちは、みなそれぞれ思い思いの時を過ごした。
 椰子林の奥の森には大蛇や毒虫がいると聞いていたので、「そこから先へは誰も行かなかった」と言いたいところだが、中には怖い物見たさと言うか、そのような場所にかえって好奇心をそそられる者もいる。
おい、みなの衆! こっから先は藪(やぶ)になっとるけん、気ぃ付けて歩くんじゃぞ!!!
 川沿いを進む隊列の後ろに向かって大声でそう言ったのは、村のガキ大将恭助(きょうすけ)だった。彼はトビの三男で喜助の孫に当たる。十二歳の彼は年齢の割には長身で、やがて祖父に似たがっしりした体格になるであろうと思われた。
 三十人ほどの子分たちを従えた彼は、浜から川に沿って椰子林の中を進み、「石畳の広場」を経てまた椰子林の中を少し進んだ。そして、昨日フカが言っていた熱帯雨林の手前に、今ようやくたどり着いたところだった。刀のつもりだろうか、彼らはみな手頃な長さの木の棒を一本ずつ手に持っている。
 その後ろの方から女の子の声がした。
「うちら、こっから先はよう行かん。いぬわ。あんたらもいなんか。」
 先ほどの男の子たちと同年代の女の子十人ほどが、面白半分で後を付いて来たのだが、その先頭にいたアカネが「帰る」と言ったのだ。彼女はご存知ハヤテの妹だ。その声によって一行は立ち止まった。列の先頭にいた恭助が振り向きざまに怒鳴った。
ほれ、見てみい! わしの言うた通りじゃろうが、この意気地なし! 何が少女探検隊じゃ!
 後方にいたアカネは、木漏れ陽を浴びながら平然としてそれに言い返した。
「あんたらが『少年探検隊じゃ』言いよったけん、うちらは『少女探検隊』言うたまでじゃ。探検無事に済ませて帰る言うとるんじゃけん、意気地なしとは違うわ。あんたらは阿呆(アホ)で、うちらは賢いんじゃ。」
 彼女は、その後ろに並んでいる女の子たちの方を向くと、こう言った。
「毒虫に噛まれたり大蛇に飲まれたりするの、いらんもん。なぁー。」
 女の子たちは互いに顔を見合わせ、口を揃えて言った。
「なぁー。」
 それに対して恭助は、むきになって怒鳴った。
こらっ! 村の明日への希望を切り開く少年探検隊のどこが阿呆じゃ!
 それに対して、今度は女の子の列の一番後ろから声がした。
「あんたがもし毒虫に噛まれて死んだりすりゃぁ、あんたのお母ちゃんお父ちゃん泣きんさるじゃろうが。それを承知で毒虫の住処(すみか)に行くもんは、阿呆じゃ。違うか?」
 これは、アカネの同い年の親友であるカヨ。張先生の妻と同名だが、この子は酒屋の娘だ。恭助が感情的になっているのに対し、女の子の方はあくまでも冷静で、その口調はまるで母親か姉のようだ。
 しかし恭助は、腰に手を当ててふんぞり返ると、それを笑い飛ばして豪語した。
「ワハハハ! わしらがそう易々とやられる思うたら、そりゃ大間違いぞ。見てみい! わしらの手にゃぁ、天下の名刀流木刀がある。大蛇や毒虫なんぞ、これで叩き潰してくれるわーっ!」
 恭助は掛け声と共に、持っていた棒を高々と差し上げた。
エイ、エイ、オー!
 子分たちもそれを真似た。
エイ、エイ、オー!
 「大蛇」や「毒虫」と聞いて、ここから先へ行くのをためらう雰囲気が隊の中に出たことを敏感に察知した恭助は、ここで掛け声を掛けて士気を鼓舞(こぶ)したのである。彼の子分たちはすぐそれに乗って来たので、恭助の試みは見事に成功した。このへんが、彼をガキ大将たらしめている祖父譲りの才能だろう。
 しかしアカネは、それをまともに相手にせず、独り言のようにこう言った。
「何が流木刀じゃ。呆れてものが言えんわ……。」
 そして、恭介の後ろに並んでいる男の子たちに向かって手招きすると、優しい口調でこう言った。
「おい、ショウや、太助や! そんな阿呆に付き合うとったら命なんぼあっても足りんよ。さ、姉ちゃんと一緒にいのう!」
 彼女の二人の弟が、その中に混じっているのだ。
 一方、同じようにして少女探検隊の列の中にいた彼らの妹キョウは、顔の両側で拳(こぶし)を握り締めると両眼を潤(うる)ませて叫んだ。
ショウ兄ちゃん、太助兄ちゃん、行かないでーーっ!!
 それに続いて他の女の子たちも、自分の兄や弟を連れ戻すために彼らの名を呼んで説得を始めた。
 その子分たちは困った表情で隊長の顔色を窺った。するとその恭助は、木々の隙間から見えている山の頂きに目をやり、わざと知らん振りをした。その横顔は、『勝手にせい、その代わり後はどうなっても知らんぞ。』と声を出さずに言っていた。もしここで自分が女の子たちと共に帰ってしまえば、今後意気地なし呼ばわりされ、この仲間に入れてもらえなくなるということを、その子分たち一人一人はありありと想像することができた。
 ショウは辛くて仕方ないといった表情になると、姉と妹に向かって重々しい口調でこう言った。
「アカネ姉ちゃん……。キョウ……。別れが辛いが、ここはわしらを置いていんでくれ。男には男の世界があるんじゃ……。のぅ、太助。」
 ショウから同意を求められた太助も、兄と同じようにして辛そうに言った。
「そうじゃ。アカネ姉ちゃん、キョウ……。わしらのことは忘れて元気で長生きしてくれ……。」
 それらの言葉を聞いたアカネは真顔になると、決心したような口調でこう言った。
「わかった。もうええわ。阿呆は病(やまい)みたいに伝染することが、これでようわかった。もうええ……。」
 アカネは恭助の方を向くと、今度はさも嬉しそうな口調になって言った。
「もしこれであんたが死んだら、うち、あんたなんぞよりずーっと賢い男と腕組んで、あんたの弔(とむら)いに出ちゃるけんのぅ!」
 この言葉は、「阿呆」という言葉には比べ物にならないほど恭助には効いたようだ。彼はその情景を思わず想像してしまったらしく、額から冷や汗を垂らして思わず呻いた。
「うっ……。」
 喧嘩するほど仲が良いと言うが、恭助とアカネもそのような関係であった。この二人の場合、まだ恋と言えるほどのものではないかも知れぬが、今後本当の恋に発展する可能性は充分にあった。そうでもなければ、アカネが遊び仲間の女の子たちを引き連れて、このような男の子の遊びに付いて来るはずがない。
 隊長が動揺したのを見て、少年探検隊のしんがりを勤めていた副隊長のヤスが、そのすぐ後ろのアカネに向かってすかさず怒鳴った。
「こらーっ! アカネーッ!! 純真なわしらの隊長を色仕掛けなんぞで惑わしよってからに!
わしらが毒虫に噛まれて死ぬるはずないじゃろう。昨日のフカの調査隊見てみぃ。みな無事で戻りんさったじゃろうが! わしらは阿呆と違う。わしらは勇敢で、お前らが意気地なしなんじゃ!」
 ハヤテの親友でシャガの妹トヨの夫と同名だが、このヤスは白鷹丸船長ロクの娘シンの長男に当たる子だ。
 隊長の動揺によってまた士気が低下したところだったが、ヤスのこの言葉によって少年探検隊の隊員は口々に言った。
「そうじゃ!」
「そうばい!」
「毒虫なんて屁の河童だ!」
「意気地なしは、いね!」
 恭助は寛容な性格で度胸があるが、このヤスは几帳面で口が達者であった。そのため、恭助の補佐としては適任だ。それが彼らの祖父らの関係となんとなく似ているから可笑しい。
 その恭助がアカネの方を向くと、節を付けてこう言った。
「これアカネ
手柄を立てて戻るゆえ
留守をよろしゅう
ハッ 頼んだぞー」
 恭助はゆっくりとそう言いながら、片手をパッと開いて前に突き出し、足をタンと踏み出して首をぐるっと回した。昨年彼の父と広島へ行った際、町で観た人形芝居の真似だ。
 夷舁(えびすかき)という人形の舞いと、琵琶法師の語りから発展した浄瑠璃。その二つが融合した人形浄瑠璃や、能から発展して後に浄瑠璃からも影響を受けたという歌舞伎などの、古典芸能の初期の様式が日本で確立されるまで、この後十年余りの年月を要した。しかし、そのようなものは一夜にして成り立つはずがないので、それらの原型のようなものは、都をはじめとする各地の主要都市に、当時から既に存在していたと見ていいだろう。
 しかし、その即興演技を一瞥したアカネは、愛想が尽きたというような口調で、恭助に向かってこう言った。
「あーもう、足の先から頭のてっぺんまで阿呆じゃのぅ! あんたなんぞ、もう知らんわ!
 今度は女の子たちの方を向くと、アカネは明るい口調で言った。
「さ、うちらは、早ういのう!」
 そして彼女たちは、元来た道をさっさと引き返して行った。
 恭助はそれには動じず、子分たちに向かって威勢良く言った。
「みなの衆! ちぃとでも先へ進んで、村のために手柄を立てて戻るんじゃ! エイ、エイ、オー!
 掛け声と共に親分が棒を差し揚げると、子分たちは再びそれに倣った。
エイ、エイ、オー!
 彼らは探検を続行し、川の南岸を更に登って行った。昨日の調査隊が山刀で道をつくっていたので、幸い子供が歩くのにも支障はなかった。
 一方、アカネたち少女探検隊は、浜へ帰る途中で面白いことに気が付いた。
「あれー! ここの鳥、人が通っても逃げないよーっ!」
「あ! ほんとだー!」
「可愛いのぅ!」
 鳥や獣は、警戒すべきものごとを親から子へと伝えていくものだが、ここの鳥は人間を警戒すべきものとして認識していないのである。ということは、長いあいだ人間と接触したことがないということなのであろうか。
 その女の子たちが浜に戻った頃には、既に陽は西に傾いていた。
 村の女たちは、それぞれ一旦本船に戻って野菜や穀物などを携えて来ると、各家庭に分かれて川の南岸の浜で火を焚き、男たちが捕って来た魚を焼いたりして夕餉の支度を始めた。
 やがて、日本を離れてから始めてとなる、村人全員揃っての食事となった。その中央では、いつものように幹部たちが酒を酌み交わしながら雑談を始めたが、今日は珍しくモラから口を開いた。
「この島はええ島じゃ。何がええって、島の周りのあちこちには珊瑚の浅瀬あるけん、知らんもんは容易に近寄れん。これなら前の住処(すみか)と同じくして、外敵からわしらを守ってくれることになるじゃろう。」
 杯を口にしてから喜助が言った。
「……南蛮の海図に描いておらんちゅうところが、また気に入ったのぅ。」
 モズが言った。
「こげに高い山あるのに、なして漏れたんじゃろうか?」
 ロクが言った。
「ここは南蛮の交易路から大きく外れとるけん、見落としたんかわからんのぅ。」
 先ほど漁に出た者が言った。
「魚が多かったよなあ。」
「色がまた美しいがよ。味はどうや知らんけど。」
 同じく漁に出た誰かがそう言うと、それを聞いた何人かが笑った。身が引き締まっているか油の乗っている、日本近海の魚を食べ慣れている者にとって、潮の流れが緩やかで水温も高い海の魚の味は、やや物足りなさを感じるものだ。
 しかし食通の勘蔵は、真剣な表情でこう言った。
「いや、みなは笑うが、ここらの白身の魚も食べ慣れりゃぁ、結構いけるぞ。」
 他の誰かも、それに同意した。
「そうそう。この刺身もまあまあいけるし、塩焼きは最高だよ。」
 タネが、浜の背後に立ち並んでいる無数の高い木を指差して言った。
「ところで、近頃ずっと気になってたんだが、あちこちの島でよく見掛けるこの木は何てんだい?」
「それ、うちも知りたかった。」
 そう言ったのはサイだった。彼女の夫の喜助がそれに答えた。
「こりゃ椰子の木じゃ。葉の付け根あたりを良う見てみい。大きな房のようなもんがあるじゃろう? あの先に一つずつ花が付くんじゃ。その茎から出る汁で酒がつくれる。
花はやがて、卵のような形の大きな実になる。その硬い殻ん中には水が入っとってそれが飲めるし、殻の内側の白いところは食べれるし油も取れる。その殻は食器になるし、その外側に付いとる繊維はタワシになる。
幹は家の柱や梁に使えるし、葉は屋根葺いたり壁つくったりするのに使える。もちろん藁や竹んようにして、敷き物や籠つくったりすることもできる。」
「へー! そりゃまた何とも頼もしい木だね。」
 タネが感心してそう言うと、勘蔵が感慨深げに言った。
「食い物も豊かで川の水がまたうまい。今まで寄った島の多くは井戸水で、みな塩辛かったけん、それとは大違いじゃ……。」
夕陽  やがて、太陽が入り江の正面に沈み掛けると、あちこちに立てられている、かがり籠(かご)の薪に焚き火から火が移されていった。それを見たアカネは、自分の皿にカタンと箸を置くと、がっくりと俯(うつむ)いてしまった。それと火をはさんだ向かいの席で息子に乳をやっていたナミは、妹のその動きが気になったので尋ねた。
「どしたん、アカネ?」
 アカネは俯いたまま、蚊の鳴くような声で言った。
……恭助ら、山の方行きよったきり戻らん……。
 ナミの隣の席でやはりヒミカに乳をやっていたシャガは、そのアカネに向かって優しく尋ねた。
「ショウと太助も一緒なの?」
 やはり俯いたままのアカネは、黙って頷いた。その左隣の席のキョウが、困った顔をして言った。
「アカネ姉ちゃんとあたしが止めたのに、二人とも言うこと聞かなかったのよ。」
 しかし、アカネの右隣の席のキクは、落ち着き払ってこう言った。
「え? ショウと太助が戻らんて? ふん、あの二人のことじゃ。遊んだ後はどうせまたいつものように暗うなってから、『腹減ったー!!!』 って喚きながら帰って来よるんじゃろうに。」
 それを聞いたアカネは、今にも泣き出しそうな顔を上げると、その母に向かって声をやや荒くして言った。
今頃毒虫に噛まれて、大蛇に飲まれとるんかわからんのじゃぞ!
 これらの会話の断片が、南国シャムの思い出話しで幹部たちと盛り上がっていた喜助の耳に飛び込んだ。
「……なに? 恭助が子供たち連れて、まだ戻らんと?」
 喜助がキクたちの方を向いてそう言うと、それにはキクの隣に座っていたサブが答えた。
「はい。アカネとキョウはそう言ってるけど、あの衆のことだし案ずることないって言ってるんです。」
 喜助の近くの席にいた、彼の長女で恭助の母ミツが言った。
「いつもなら、遊んだ後は暗うなってから、『腹減ったーっ!!』 言うて駆け込んで来るんじゃがのぅ。漁や野良仕事んときもその調子でしてくれたら、なんぼええか知らん。」
 それを聞いた一同はどっと笑った。同じ年頃の男の子を育てた経験のある親は、みな同じように思っているようだ。
「まあ、場所が場所だけにのぅ。この島のことまだ全部知らんけん、アカネの案ずる気持ちも良うわかる。」
 ロクの妻シンがそう言った。その言葉が終わるか終わらないかのうちに、喜助が真顔になると、右手の人差し指を自分の唇(くちびる)の前に立ててみなを見回したので、その場はしーんと静まりかえった。すると、無数の虫や蛙の声に混じって川上の方から複数の人の声が聞こえてきた。
エッホ! エッホ! エッホ! エッホ! エッホ!……」
 その声は次第に近付いて来る。やがて、夕闇にぼんやりと見えている椰子林の中に何人かの人が見えた。女たちはみな互いに顔を見合わせ、それまで胡坐(あぐら)をかいていた男たちはみな一斉に立膝になると、各自が身に付けている刀の柄(つか)を握った。
「……よーし、止まってくれ。済まんかったのぅ……。こっから歩いて行くわ……。」
 聞こえて来たその声によって、緊張したその場の空気が一挙に緩(ゆる)んだ。それは恭助の声だったからだ。
「あの衆、帰って来よったのぅ。」
「噂をすれば何とやらぞ。」
「開口一番、『腹減ったー!』言いよっとよ。」
「どこまで行って来たんだろうね?」
 男の子の親たちは口々にそう言い合った。
 夕闇の中で最初はぼんやりしていた男の子たちの姿は、かがり火の光とそれを反射する白い砂に近付くにつれて、次第にはっきりしてきた。先頭は右肩をヤスに支えられた恭助だが、びっこを引いている。どうやら右足を怪我しているようだった。その後ろに彼の子分が続いており、ショウと太助の姿もあった。
 恭助は、村人たちの中央あたりに自分の祖父の姿を見付けると、その前に子分を引き連れて来て威勢良く言った。
「頭! 少年探検隊全員ただ今戻りました!」
 祖父というものは、孫には優しいものだ。喜助は目尻に皺を寄せて微笑むと、恭助の口調に合わせてこう言った。
「ん! 仕事頼んだ覚えないが、ご苦労であった!」
 喜助は恭助の右足に目を落とすと、今度は真顔になって尋ねた。
「そりゃそうとお前、その足どしたん?」
「毒虫の攻撃に遭うて負傷致しました。」
 恭助はそう答えてから、悔しそうな顔でちらっとアカネの方を見た。その恭助の顔に向かってアカネは、声を出さずに大きく口を動かした。
『ア! ホ!』
 そして、怒ったようにプイとそっぽを向いた彼女の顔には、先ほどまでの泣きそうな表情は、微塵(みじん)も残っていなかった。
 喜助は膝立ちになると、恭助の右足に向かって身を屈めた。
「どうれ、見せてみんか。」
 それを見た途端、喜助はややのけ反って言った。
「あいやーっ! こりゃえらぁ腫れようじゃ!
張先生、ちぃと看て下さらんか!」
 喜助は、張先生の席の方を向いてそう言ったが、先生はそれを言われる前から既に席を立ち、こちらに向かって歩いて来ている。薄手の中国服を涼しげに身にまとった張先生は、近くに来るとこう言った。
「……まずは明りの下に腰下ろして、足ば前に出しんしゃい。」
 恭助は近くのかがり火の近くに行くと、言われた通りにした。先生は彼の前にしゃがむと、その右足を手に取って言った。
「どこ刺されたとね?」
 恭助は親指のあたりを指差した。先生はそこに顔を近付けて見ると、すぐに言った。
「ははーん、傷口二つ並んどるばってん、ムカデんような虫の噛み傷とよ。船に薬あるばってん取って来るとよ。」
 そして先生は、近くにいた自分の弟子の一人に手招きすると、浜に上げてある伝馬船のうちの一隻をふたり掛かりで海に出そうとしたので、慌てて立ち上がった恭助はその二人に言った。
「いやいや、待って下さい! こげんことで、わざわざ船まで薬取りに行ってもらっちゃ申しわけありません。わし、辛抱しますけん。」
 先生は、恭助の方を向いて言った。
「そうか。そんなら今は傷口に小便掛けて揉まんね。食事終わって船に戻ったら、ちゃんとした薬塗っちゃるとよ。」
 恭助は神妙な口調で言った。
「はい、ありがとうございます。」
 この遣り取りを聞いていた喜助は、席から立ち上がりながら、独り言を言った。
「そげな程度で済んで良かったわい……。」
 そして浜を見渡すと、大きな声でこう言った。
おーい! みな! ちぃとだけ耳貸しとくれ!
 それによって、わいわいがやがやと賑やかだったその場が静まったので、喜助は言葉を続けた。
「椰子林より奥へ入るときはのぅ、必ず靴履くようにすること! 草鞋(わらじ)ではのうて、地上戦ときに履く、あの革の靴じゃ! 毒虫おったし、毒蛇もおるかわからんけん!
ほいでのぅ、みなも知るように、珊瑚の海にゃぁ毒ウニ、毒貝、毒オコゼ、毒カサゴ、毒ウミヘビおるけん、充分気ぃ付けないけんぞ!
ほいで、実ぃ付けた椰子の木の下は危ないけん、そこで寝ちゃぁいけん! 落って来よった実ぃ頭に当たって、シャムでは毎年何人か死んどるっちゅう話しじゃけんのぅ!」
 喜助はそう言い終えると、また自分の席に戻って再び飲み食いを始めた。
 恭助はヤスに支えられて立ち上がると、波打ち際へ行って海の方を向いた。間もなく、そこからチリチリチリと、小便をする音が聞こえて来たので、その近くにいた女の子たちがみなクスクスと笑った。恭助に肩を貸していたヤスが、そちらを向いて怒鳴った。
こらーっ! 笑うなーっ!
 それに対してアカネは、やや厳しい口調でこう言った。
「笑われて当然じゃろう。うちらがあれほど言うたのに!」
 カヨも言った。
「うちらが『いのう』言うたのに、あんたらうちらんこと『意気地なし』言うたけん、天罰下ったんじゃろう。」
「そうじゃ。」
「そうじゃ。」
「そうよ。天罰よ。」
 他の仲間の女の子たちもみな口々にそう言った。
 小便を傷口に掛けて揉み、海水で洗った手を自分の小袖で拭いた恭助が、ヤスに支えられてこちらに戻って来ると、恭助の母のミツが苦笑いしながら尋ねた。
「あんたら、どこまで行ったんよ?」
 恭助は待ってましたとばかりに答えた。
「石段とこまで!」
 それを聞いた昨日の調査隊の若者たちが、みな口々に言った。
「ほう! あこまで行ったんか。」
「そりゃ大したもんじゃ!」
 褒められた男の子たちは、みな嬉しそうに顔を見合わせた。
「して、何か見付けたかや?」
 ロクがそう尋ねると、大人が自分たちの行為を認めてくれていることに喜んだ男の子たちは、探検のときの興奮が蘇えってきたのも合わさって、みな一斉に話しを始めようとしたが、恭助がそれを制して言った。
「副隊長のヤスが、これからその報告します。」
 恭助が砂の上に腰を下ろしたので、彼の子分の男の子たちも静かになって、みな隊長の周囲に腰を下ろした。
 報告を始めようとしたヤスが一歩前へ出た。その周囲の村人たちはみな、その話しを聞こうとして静まり、ヤスに神経を集中させた。その途端、ヤスの腹が大きな音を立てて鳴った。
「グーッ!」
 その音は、かなり遠くにまで聞こえたようで、みなは思わず大笑いしてしまった。喜助も笑いながら言った。
「ハハハ! 報告も聞きたいが、まずは食いもん腹にしっかり収めてからにせんか。」
 男の子たちはそれぞれ自分の家族の元へ走ると、みな一心に食べて水を飲んだ。
 やがて空腹と喉の乾きが癒されると、ヤスだけが幹部たちの前へ戻って来た。彼はお辞儀をして言った。
「みな様、長らくお待たせ致しました。」
 幹部たちがみな微笑んで頷いたので、ヤスは話しを始めた。
「明日は大人が本格的な探検するけん、わしら子供は調査隊が行きんさった石段とこまで探検してみようっちゅうことになって、隊を結成したんじゃ。名付けて『少年探検隊』。女子(おなご)でも一緒に行きたい言うもんおって途中まで付いて来よったが、藪の手前に来ると怖気(おじけ)付いて帰りよった。」
 ここまで語ったヤスが、ちらっとアカネたちの方を見ると、彼女たちはみなプイとそっぽを向いた。ヤスはまた幹部の方に向き直ると話しを続けた。
「昨日の調査隊が山刀で歩き易うしんさったお陰で、川沿いの藪は歩くのにさほど困らんかった……。」
 その途中彼らが目にした物の中で最も珍しいものは、川の大きな石の上で日光浴をしていた長さ一間もあるオオトカゲだった。また、木に絡み付いている蔓(つる)かと思って払い除けようとしたら、それはなんと鮮やかな緑色をした細長い蛇だった。
 更に進んで行くと、どこからか微かに甘酸っぱく良い香りがしてきたので、彼らは草木を掻き分け林の中に入って行った。しばらく行くと、そこには立派な木があって実が成っており、熟れ過ぎたものは既に下に落ちて虫に喰われていた。木登りのうまい者がその木に登って、その実を採っては下に落とした。下にいる者は、それを上手に受け取った。そのあたりには、同じような木がいくつもあったので、彼らはたくさんの実を集めることができた。
 その後彼らはまた川に戻り、それに沿って更に登って行くと、フカが昨日話した通り石の橋があり、その先に二つの石像があって、そのあいだには石段があった。子供の足でこれ以上進むことは困難だし、陽も傾き掛けていたので、探検はここまでとした。
 来た道を引き返す途中、先頭を歩いていた恭助が突然悲鳴を上げて右足を上げた。その先に長く大きな虫が付いていたが、その拍子に取れて藪の中に飛んで行った。しかし彼の足は見る間に腫れ、痛くて歩けなくなったので、三人の隊員が遊びの騎馬戦のようにして彼を持ち上げ、他の者と時々交代しながら運んだ。
 浜に出ると隊長が歩くと言ったので、地面に下ろしてヤスが肩を貸した。
「……後は、みなの見んさった通りじゃ。」
 ヤスは、そう言って報告を締めくくると、自分の懐から何かを取り出してこう言った。
「こりゃぁ、そのとき採った木の実じゃ。食いたかったが、毒あるかわからんけん、辛抱して持って帰った。
……爺ちゃん、これ食えるんかのぅ?」
 彼はその木の実の一つを、目の前に座っている祖父ロクに手渡した。それは丁度大人の握りこぶしを少し平たくしたような形と大きさで、緑色をしているが、ところどころが薄赤く色付いている。それを受け取ったロクは、その匂いを嗅ぐと、隣の席の喜助に手渡しながら言った。
「ええ香りじゃ……。マムアンのようじゃが、どうじゃ、頭?」
 マムアンとはタイ語でマンゴーのことだ。喜助も、その香りを嗅いでからこう言った。
「シャムで食うたんとは形がちぃと違うが、香りはマムアンのようじゃ。」
 そして彼は、自分の腰の刀を引き抜きながらこう言った。
「もしそうなら、毒があるどころか、うまい果物なんじゃがのぅ……。」
 刀でその果物の皮を剥いた喜助は、一切れ切ってそれを食べると、目を丸くしてこう言った。
「おぉー! こりゃ間違いない。マムアンじゃ! うまいわ!」
 喜助がそれをヤスに返すと、ヤスは立ったままそれを少しだけ齧ってみた。その途端、彼もやはり目を丸くすると、仲間の方を向いて叫んだ。
おーい! 食えるぞーーっ!!!
 それを聞いた恭助は立ち上がると、びっこを引きながらヤスの横に来た。張先生に教えてもらった応急処置のため、その足の腫れと痛みはかなり引いてきている。恭助は口に手を添えると、遠くにも聞こえるような大声で言った。
少年探検隊! 先ほどの木の実を持ってここに集まれーっ!
 その声を聞き付けた先ほどの男の子たちが、あちこちから恭助の周りに集まって来た。恭助は、自分の懐から取り出した二個のマンゴーを喜助のそばの砂の上に置いて言った。
「頭! これは少ないですが、この探検での土産(みやげ)です。どうぞ。」
 それに倣って、他の子供たちも同じところにマンゴーを置いていった。中には一人で四個も持っている者もいたので、そこにはたちまちマンゴーの小山ができ上がった。
 喜助は嬉しそうに笑って言った。
「ハハハ! 土産持って帰るとは、なかなか粋(いき)なことしよるのぅ。わしらは今飲んどる最中じゃけん果物はええわ。先に、あんたらで食べんさい。
……のぅ?」
 喜助が幹部を見回すと、彼らはみな微笑んで頷いたので、それを見た恭助は、また口に手を添えて叫んだ。
おーい! マムアン食いたいもん、集まれーーっ!!
 すると浜のあちこちから、幼い男の子女の子を始めとする老若男女が続々と集まって来た。その中には、アカネとその仲間たちも混じっていた。それを目敏く見付けたヤスが咎(とが)めた。
「おいアカネ、カヨ。お前ら、わしらに『阿呆』言うたくせに、この土産食うつもりか?」
「あんたら、賢いもんのこと『意気地なし』言うたけん、『阿呆』言うたまでじゃ。」
「『阿呆』とは言うたが、『土産持って帰るな』とは言うとらん。」
 アカネとカヨは、それぞれ澄ましてそう答えた。恭助は、まずヤスに向かって言った。
「ヤス、もうええがな……。」
 恭助は続いて、この二人に向かって言った。
「おい、アカネ、カヨ。お前らマムアンの皮剥いて、みんなに食わせちゃらんか。ほんなら阿呆言うたこと許しちゃるけん、お前らも食うたらええが。小刀借って来んさい。」
 二人は黙って頷くと、そばにいた彼女の仲間の女の子たちに向かって、口を揃えてこう言った。
「うちらで、この果物の皮剥かんか!」
 アカネとカヨを始めとする女の子たちは、近くにいた大人の女たちから小刀を借りて来ると、マンゴーの山を囲んでしゃがみ、一斉にその皮を剥き始めた。
 既に海賊をやめてから久しい彼らだったが、男は腰に刀を携え、女は懐に護身用の小刀を忍ばせる習慣はそのままだった。そのため、一人前の女なら誰でも鞘の付いた小刀を常時持ち歩いていた。アカネたちが借りたのはそれだった。
 喜助の妻サイとロクの妻シンが、マンゴーを乗せるための大きな果物皿と、剥いた皮と種を入れるための木の桶を、それぞれどこかから持って来た。果物の皮と種は捨てずに取っておいて、牛の餌にするのだ。
 アカネたちは、皮を剥かれたマンゴーの果肉を食べ易いように切り分け、果物皿に並べていったが、その周りでは、幼い子供たちが押し合いへし合いになっていた。
「こらーっ! 喧嘩する子にはやらんぞー!」
「順番。順番。まずは一人一切れずつじゃよー!」
 姉さんたちのその良く通る澄んだ声に、幼い子供たちは素直に従った。
 ヤスは、周囲に向かってお辞儀しながら言った。
「少年探検隊の報告、これにて終わりまーす!」
 すると、少年探検隊は大人たちから大喝采と少しの戒めを浴びた。
「ようやった!」
「大したもんだ!」
「村に貢献したとよ!」
「次は靴履いて行かんか。」
「男は女子(おなご)心配させたらいけんわ。」
 喝采を浴びてそれまで照れ笑いしていた恭助は、この言葉を耳にした途端真剣な表情になり、近くにいたアカネに向かって小声で尋ねた。
「おい。誰か心配してやったんか?」
 さっきまで彼らのことを一番心配していたアカネだったが、忙しそうな早口で言った。
「うち知らん!」
 そして、さも忙しそうにマンゴーの皮を剥いた。
 巫女として既に幹部の仲間入りをしているタネが、その彼女に向かって小声で尋ねた。
「あんたたちは途中まで行ったようだけど、何か面白いことあったかい?」
「おもろい言うほどのもんでもないが、あった。
なぁ、みんな。」
 アカネが明るい声で仲間たちにそう言うと、彼女たちも口を揃えて言った。
「うん。」
 今度はモラが微笑んで尋ねた。
「ほう、何じゃそのこととは?」
 女の子たちは、それぞれ矢継ぎ早に言った。
「この島の鳥、人見ても逃げん。」
「近寄っても逃げなかったしね。」
「草の実やったら、手から食べよったぞえ。」
 喜助が杯を乾して言った。
「……なるほど、そりゃぁおもろいことじゃ。ちゅうことは、人がおらんようになってから、かなりの年数が経っとるっちゅうことかのぅ。」
 モラが言った。
「それもあろうが、仮に人がおっても、みだりに生き物を殺生(せっしょう)せなんだら、そげなことがあるっちゅうこと、昔シャムで会うた日本の坊(ぼん)さんから聞いたことある。
巡礼で天竺を旅したことのある、そのもんの話しによると、天竺には古来から生き物を神の使いとして尊(たっと)ぶ教えがあり、その教えを守るもんは生き物を無闇に殺さん。その聖地では、人、肉魚(にくさかな)を食べず、生き物人を恐れず、互いに仲良う暮らしておるそうじゃ。ほいでから、外で食事しよると雀が食卓にやって来て、人の手から飯など食いよるちゅうようなこと、そこではごく普通に見られるそうじゃ。」
 勘蔵は目を見張って言った。
「おお、ほんなら、この島におったもんは、その教えに従うとったちゅことも有り得るのぅ。」
 モラは、頷いて言った。
「有り得る。いずれにせよ、こりゃぁええことじゃ。生き物たちと人とのあいだが折角そげなええ関係になっとるっちゅうのに、わしらがそれ乱しちゃ勿体ない。こりゃひとつわしらも、この関係をできるだけ受け継いでいくようにせんか。
そのためにゃぁ、何か掟(おきて)んようなもんつくらないけん思うわ。」
 すると、あちこちから声が上がった。
「そりゃ、ええ考えじゃ!」
「そうしようよ!」
 モラは、話しを続けた。
「わしらは、食うために魚捕ったりする。あるいは、身ぃ守るために蚊を叩いて潰したりする。またこれからは、鶏を襲いに来よるオオトカゲや大蛇を退治することもあろう。けど普段は、蟻一匹に至るまで、みだりに虐(しいた)げたり殺したりせんようにせんか。」
 この後、村人たちのあいだで、この提案に関する真剣な討論がなされ、生き物を慈(いつくし)み、人と動物が共存するための掟が設けられた。その第一条がこれだ。
一、食ベル為、身ヲ守ル為ノ外、生キ物故意ニ殺傷スルベカラズ。
(食べるためや自分の身を守るため以外で、生き物を故意に傷付けたり殺したりしてはいけない。)
 この掟は、今後彼らの思想の根幹となってゆくのである。
 さて、久しぶりに村人全員揃って陸で食べる夕食に大満足した彼らだったが、さすがにこの島で宿泊するところまでには至らなかった。この島が完全に無人島であり、尚且つ人に重大な危害を加えるような生物も生息していないということが、まだはっきりと確認されたわけではないからだ。
 彼らは食事の片付けを済ませると、伝馬船を往復させて、各自が寝起きしている船に戻って行った。
 その夜、短い時間ではあったが、この島とその周辺に雨が降った。

 翌早朝、まだ薄暗いうちから伝馬船で島に上陸した村人たちは、昨夜と同じようにして浜で朝食を食べた。
 既に雨は上がっており、明るくなってきた東の空を背景にして、山がシルエットになっている。
 手早く朝食を済ませた彼らは、探検隊の出発を見送るために川のほとりに集まった。
 フカを隊長とする総勢十二名の若い探検隊員たちは、村人が見守る中、馬を牽いて浜の中央を流れる川のほとりに整列した。全員鉢巻をして甲冑を身に着け、弓矢を背負って足には革の靴を履いている。これは、彼らが地上戦を行なうの際の完全武装の出で立ちであった。今回は山登りということもあるので荷物も多かった。明るいうちに浜に帰って来れなければ、どこかで野宿する必要があったからだ。
 間もなく、山裾から太陽が顔を出すと、濃厚なオレンジ色の光が隊員たちの顔を横から照らした。喜助が、その彼らの前に立って言った。
「一昨日(おととい)調査隊が道つくってくれて、昨日は子供たちが通ってくれたけん、石段までは馬で難なく行けるじゃろう。そっから先が難儀するはずじゃ。浜に見張り櫓(やぐら)建てて見とるけん、危のうなったら狼煙一発上げるんじゃ。
ほいで、山の天気は変わり易い。天気悪うなったら無理せんとすぐに引き返すんじゃよ。わかったかの?」
 若い隊員たちは、みな元気良く返事をした。
はい!
 隊長のフカが威勢良く号令を発した。
出発!
 それによって、みな勢い良く馬に跨った。フカが川上の方に向かって並足(なみあし)で馬を進めると、隊員たちは一列になって次々とそれに続いた。隊列の中ほどには、食料や寝具、馬草などを積んだ馬も牽(ひ)かれている。
 やがて、この隊最後尾にあたる副隊長の馬が椰子林の奥へと消えると、村人たちは飛龍丸と白鷹丸からいくつかの木材を海に下ろし、それらを数隻の伝馬船によって浜に曳(ひ)いて来た。見張り櫓などをつくるためだ。
 炎天下の白い砂浜に見張りのために立っていると、直射日光だけではなく、砂が反射する紫外線と熱も浴びることになり、健康上極めて危険なことになる。そのため、材木で櫓を組み、そのてっぺんに椰子の葉の屋根を葺いて、その下に張った床の上で椅子に腰掛けて見張りをすることにしたのだ。
 人手は有り余るほどあったので、高さ四間もあろうかと思われるそれは、あっという間に完成した。その四角い櫓には、東西に一人ずつの見張りが就くことになった。東側の見張りは山の方を見ているわけで、探検隊が狼煙を上げれば、この者が発見することになる。その一方、沖を通る船などの見張りは、西に広がる海を見ている者が行うことになる。
 これは、この島に彼らが初めて立てた建造物だったので、子供たちはもう大喜びだった。みな柱をよじ登ったり、梯子を登って上から景色を眺めたりして、大はしゃぎになっていた。
 探検隊が先ほど入って行った椰子林の川沿いは、大勢の人や馬が何回か歩いたので、既に道ができ上がっていた。それを通って何組かの部隊が、椰子林の向こうの熱帯雨林へと向かった。まず、昨日子供たちが発見したマンゴーの実を採集するための部隊。昨日の少年探検隊の副隊長ヤスが、その先頭に立って案内役を勤めた。
 次に焚き木を集める部隊も、牛を何頭か連ねて椰子林の中へ入って行った。馬同様牛たちも久しぶりに地面の上を歩いたので、首を振り回して大喜びしている。
 続いて、家屋や船の材となり得る木が熱帯雨林の中にあるかどうかを調べに行く材木屋と大工の一団や、耕作できそうな場所を探しに行く開墾(かいこん)部隊も出掛けて行った。
 一方浜でも、漁に出る者、捕った魚を干物や燻製にする者、貝を採ったり川辺で洗濯する女たちといった姿が数多く見られ、このようにして人口千人余りの村人たちは、早くもこの島に移り住むという方向で着実に動き出していた。
 その夕方、激しい夕立があった。日本の夕立より雨の粒が大きく時間も長かったので、その雨量は相当なものだ。しかし、彼らは長い航海の途中、この自然現象には既に何度も遭遇(そうぐう)して慣れていた。そのため、空が俄かに曇って雷が鳴った時点で、見張りの者だけ残し全員が本船に退避した。問題は探検隊の方だ。一応雨具は持って行ったのだが、やはりちょっと心配だ。
 雨がやんで夕陽が雲間から出ると、紫色の雲が金色に輝き、それを背景にした深緑色の島もまた金色に輝いた。
 二艘の船の人々は、夕餉のために再びそこに上陸した。
 見張り櫓の下に立った喜助が、上に向かって声を掛けた。
「おーい! 何か変わったことなかったか?」
 それには東側の者が答えた。
「ないけど、雨雲は山の方に移ったんで、今頃山じゃ土砂降りだろう!」
 喜助は言った。
「わかった。ほんなら狼煙上がるかわからんけん、しばらく良う見とってくれ!」
 浜に面した椰子林には、いつの間にか大きな小屋がいくつか建てられており、そこに各家庭の食器や鍋、釜、莚(むしろ)、洗い桶、タワシといった、食事や炊事洗濯に必要な物が収納されていた。これなら、これらの品々を浜で使うたびに一々本船に取りに帰る必要もない。浜では既に夕食の支度がなされていて、準備が整うと昨夕のような雑談しながらの食事が始まった。
 ロクが、やや真剣な表情で言った。
「この分なら、今日は戻らんと見てええのぅ。」
 喜助は、杯を乾の酒をすすってから言った。
「……まあ、こげに広い島じゃけん、一日で見るのは所詮(しょせん)無理じゃろう。」
 張先生が微笑んで言った。
「装備は良かばってん案ずることなか。」
 イリが、やや不安げに言った。
「装備はええが、海育ちんもんが山登りしよるけん、そう易(やす)いことではないぞ。」
 タネも、同じように言った。
「低い山でも、慣れてないと遭難するって言うからね。」
「なぁに、大丈夫だろうよ。厭んなったら適当に切り上げて帰って来るから。」
 誰かがそう言ったので、みなは思わず大笑いしてしまった。
「そりゃそうと、川の水見て不思議に思わんかったか?」
 勘蔵がそう言うと、喜助は川の方を見て言った。
「そう言われると、大雨降った割にゃぁ澄んどったのぅ。」
「それもある。けど、あれだけ大雨降ったのに、然程(さほど)水かさが増えとらん。……不思議じゃ。」
 勘蔵がそう言うとモラも言った。
「確かにそうじゃ。もっと水かさ増えて水濁っても良さそうなもんじゃがのぅ。」
「川上に池か湖でもあるんかわからんぞ。」
 ロクがそう言うと、みなもそれに同意した。
「そうじゃのぅ。」
「探検隊が見て来よるじゃろう。」
 この夜の夕餉は昨夜のような宴会にはせず、みな早々と片付けて本船に戻ったが、本船の甲板の見張りと同様、浜の櫓にも夜通し交代で見張りが詰めることになった。

おーい! 法螺(ほら)が鳴りよったぞー!
 翌日の夕方、櫓の見張りの叫ぶその声で、浜にいた者はみな一斉に山の方を向いて聞き耳を立てた。すると、確かに法螺貝の音が微かに聞こえており、それは次第ににこちらへと近付いているようだ。それを耳にした者は、近くにいた者と手に手を取り合って小躍りした。
「やったー!」
「帰って来よった!」
「良かった!」
「ええかったわ!」
 近代以降の日本で「法螺を吹く」と言えば、「嘘をつく」という意味になるが、この当時の日本では、法螺貝という大型の巻貝の先端を切ったものが、戦闘の際の合図などのために吹かれた。この村では主に、地上戦での勝利を仲間に知らせるようなときに用いられている。
 探検隊が今日中に帰って来なければ、明日朝には鉄砲隊も導入した捜索隊を出さねばならぬと思っていた喜助も、浜にいた周囲の者に向かって嬉しそうに言った。
「無事に帰って来よったようじゃのぅ。みな、腹減らしとることじゃろう。少し早いが夕餉の支度じゃ! ここはまだ暑いけん、椰子林ん中の広場でしよう!」
 この時間帯になると、浜は西陽が照り付けているが、「石畳の広場」は椰子林の陰になってくる。そのため、各家庭の女たちは、食事の支度を今日はそちらの方で始めた。
 やがて、隊長フカを乗せた馬が、まず椰子林の中から姿を現わし、それに続いて馬に乗った探検隊員たちが一列に並んで次々と姿を現わした。川に沿って石畳の広場に入って来た彼らを、大勢の村人たちが、その進行方向に並んで出迎えた。隊員の妻や子供たちがその先頭に立って、まず真っ先に声を掛けた。
「あんた! 良う戻った!」
「父ちゃーん!」
「あんたー! お帰りーっ!」
 椰子の木の葉陰から射すオレンジ色の木漏れ日を正面から浴びているので、隊員たちは眩しそうだったがみな元気そうな様子だ。その彼らに向かって、一般の村人たちも次々と声を掛けた。
「良う戻った!」
「お帰りーっ!」
「ようっ! 日本一ーっ!」
「ここはもう日本じゃなか。」
「あ、そうか。この島一っ!」
 それらの声援に、馬上の隊員たちは馬を進めながら手を振って応えた。まるで戦(いくさ)の凱旋(がいせん)のようだ。
 川の南側の広場中央で並んで待っていた、喜助を始めとする幹部たちの前に来ると、馬を止めた探検隊は、全員が馬を降りて幹部たちと平行に並んだ。そして、隊長のフカが一歩前へ進み出ると、元気良く言った。
「探検隊全員無事に、ただ今戻りました!」
 喜助も微笑んで力強く言った。
「良う戻った! ご苦労であった!」
 喜助と並んで立っていたロクが言った。
「みな、疲れたじゃろう。馬は世話係りんもんに任せて、まずは水浴びして来んさい。そのあいだに夕餉ができるじゃろう。」
「はい!」
 隊員たちは、みな一斉にそう返事をすると、川に向かって駆け出して行った。そしてみな褌(ふんどし)姿になると、川岸に設けられている石段の上から次々と川の中に飛び込んでいった。
 一方、馬に積んでいた荷物や馬具も下ろされて片付けられ、裸にされた馬は、その世話係の男たちが川まで牽いて行き、隊員たちが水浴びをしているところから少し離れた川下で洗われた。冷たい川の水を浴びた馬たちは、ブルブルと声を出したりして、みな気持ち良さそうだった。
 椰子のあいだから赤い夕陽がちらちらと見え隠れしている石畳の広場では、いつものように幹部と功労者たちを囲んだ村人たちが家ごとに筵を敷いて座り始めた。
 やがて各家々の食事の支度が全て整うと、喜助は慣例に従がい、まず隊長と副隊長に向かって労(ねぎら)いの言葉を掛けながら瓢箪の酒を勧めた。
「昨日は大雨降りよったけん、みなで心配しとったんじゃ。ほんでも無事に戻れて何よりじゃ。まずは一杯やらんか。」
 川で汗を洗い流し、着替えてすっきりしてきたフカは、それを杯に受けながら言った。
「山登りっちゅうもんが、こげに難儀なもんとは思わんかった。行者さんが修業するのに海潜らんと山登るわけ、これで良うわかったわい。」
 それを聞いたみなは大笑いした。喜助も笑って言った。
「ハハハ! ほんなら早速報告始めてくれ。」
「おぅ。みな、飲み食いしながら楽にして聞いとくれ。わしも飲み食いしながら、緩々(ゆるゆる)させてもらうけんのぅ……。」
 フカはそう言って報告を始めた。
 喜助の言った通り、確かに石段までは馬で楽に行けた。途中、隊員の一人がよそ見して、木の枝に首を引っ掛け落馬した以外は。幸い彼に怪我はなかったので良かったが。
 石段に厚く積もった土の上には様々な植物が生え、石の隙間に根が入り込んで木が生えていたりしたが、道なき道を進むよりはまだましだった。しかし、これだと、いきなり馬で登ることはできない。
 彼らはまず、馬を石像近くの木に繋ぎ、山刀で潅木(かんぼく)を薙(な)ぎ掃って馬が歩ける道をつくることから始めた。その作業は隊を半分に分けて交替で行ったので、休憩している者はこの機会に、昨日子供たちが採って来たマンゴーの実を探して採り、馬に食べさせたり隊員の食料にしたりした。
 石段は長さ二余りもあったが、横を流れる川は、石段を登るに従って深い谷の茂みの下に隠れていった。道つくりを何回か交替した後、鬱蒼(うっそう)とした熱帯雨林を潜り抜けてようやく石段を登り詰めると、なんとそこには陽の光が降り注ぐ明るく開けた場所があった。それは、長さ約四町幅約一町の細長い湖であった。その水は青く澄んでいたが底が見えず、水深はかなりあるように思われた。湖の西岸をよく見ると、それは大きな岩を積んでできており、その下の方から水が勢い良く噴き出してその下の谷底へと落ちている。どうやら、元々あった自然の地形に人の手が加わえられているようだった。
 後ろを振り返ると、緑色の熱帯雨林に続いて深緑色の椰子林があり、その先には赤黒い岩に囲まれた青い入り江が木々の間から見えた。そこに浮かんでいる飛龍丸と白鷹丸は、まるで二つの小豆(あずき)のようだった。
 下で休憩している隊員を呼びに行って隊はまた一つになると、湖を左手に見ながら山頂へと向かってその縁を進んで行った。ここには下の広場と同じような石畳が敷かれており、馬で快適に進むことができた。
 湖の東側奥では、南東から流れて来る小川と、北東から流れて来る小川が丁度交わっており、その交わりの西南岸の石畳の上には、七つの頭をもつ大蛇の石像が、まるでその西側にある湖を見守るかのように七つの鎌首をもたげていた。
神殿  その一方、川の交わりの東岸は樹木に覆われた小さな丘になっており、その上には回廊に囲まれた石づくりの建物があった。太い石の柱に囲まれたその回廊を含めると、この建物は十間四方ほどの広さがあった。その石の屋根は東側と西側に勾配のある合掌造りのようになっており、その上にはところどころに草が生えている。
 その下の回廊の東側と西側それぞれ中央には、数段の石段があり、それを登ると高さ三幅一ほどのその回廊の上に上がることができた。
 その二箇所から建物の中に入れるようになっているので、一行は二手に分かれてその両方から同時に中に入ってみた。
 がらんとした室内は薄暗く、その中央には直径三尺ほどの円盤状の石の台が置かれており、その中央には直径一尺高さ三尺ほどの先の丸い黒い石柱が立っているだけだった。
 建物の中に危険な物がなかったので、彼らはこの場所で昼食を取ることにした。それぞれが馬を近くの木に繋ぎ、回廊の石畳に座ってみなで弁当を食べた後、少し休憩してから探検が続行された。
 隊長はじめとする六名は南の小川沿いを、副隊長はじめとする六名は北の小川沿いを進むことにし、途中危険が生じたらこの場所まで引き返すということにして二組は出発した。
 湖を離れると山の勾配は再び急になった。また、ここから先は湖の下にあったような石段はなく、一から道をつくらねばならなかったので、なかなか思うようにはかどらない。それぞれの組が五町も進まぬ頃、西の空が俄かに曇ってきて雷が鳴った。
 この島にたどり着くまでというもの、熱帯地方の気候に既に慣れ親しんでいる彼らは、これが何を意味するのかよくわかっていた。どちらの隊もそれぞれ道つくりを中断すると先ほどの建物まで引き返した。馬を回廊に上げて柱に繋ぎ終えた丁度そのとき、真っ暗になった空から、突然バラバラバラッと大きな音を立てて大粒の雨が降ってきた。みなは建物の中に逃げ込んで明かりをともした。やがて、雨はそれこそ水桶をひっくり返したような激しさになったが、回廊もこの建物の屋根の下になっていたので、人も馬も濡れずに済んだ。
 夕立はなかなかやまなかったので、彼らは今夜ここで泊まることにした。この建物はかなり古く傷んでいたが、これほどの大雨でも雨漏りしないので、元々かなりしっかりとつくってあるようだ。
 雨がやむと、雲間から出て海に沈んでゆく太陽が木立の隙間から見えた。隊員たちは外に出て夕餉の支度をしたり、馬に餌を食わせたりと、みなが手分けして忙しく立ち働いた。赤道付近では陽が沈むとあっという間に暗くなってしまうということを、今までの経験でよく知っていたからだ。
 疲れていた彼らは、夕食が終わるとすぐに、建物の中に拵(こしらえ)えた寝床に横たわって眠りに就いた。
 日没とは逆で、赤道付近の朝はあっという間に明るくなる。まだ暗いうちから目を覚ました彼らは、手早く朝餉の支度をして馬に草を喰わせると、自分たちも朝餉を食べて弁当を仕込み、また二手に分かれて昨日の道つくりの続きをしに出掛けた。
 山頂に近付くに従がって勾配が急になっていく代わりに、進行の妨げとなる植物の量は減っていった。その後半には崖をよじ登るような場所もあったので、馬を途中の木に繋ぎ、そこからは徒歩で進んだ。
 昼過ぎには副隊長の組が、それよりやや遅れて隊長の組が山頂にたどり着いた。ところどころ岩が剥き出しになっている山頂の周囲はびっしりと木に囲まれていたので、素晴らしい眺めを期待していた彼らはちょっとがっかりしたが、木々のあいだからは青い海がちらほらと見えている。
のぼり  山の東側の斜面は、海上から見た通り西側のそれよりもずっと急で、ほとんど断崖絶壁に近かった。そのため、この先に人の住めそうな場所はなく、この島が無人島であるということがほぼ確認されたので、フカは交差逆S字の紋が染められている彼らの幟(のぼり)を、この山頂の中央に立てた。
 ここで弁当を食べた一行は、早速引き返すことにした。既に道ができているのに加えて、下り坂ということもあり、来たときに較べると帰りはずっと楽だった。しかも、急な坂や石段以外では、ほとんど馬を降りる必要がなかったので、行きに比べて格段に速かった。彼らは川が交わったところにあるあの建物で一度馬を休めただけで、みなのいる砂浜に難なく帰り着いた。その後はみなの知る通りだ。
 フカはここで話しを終えた。既に陽は沈んでおり、会場のあちこちにはかがり火が明々と焚かれている。
「帰りは落ちんかったか?」
 その誰かの言葉にみなは大笑いし、行きに落馬した者は照れ臭そうに頭を掻いた。
「日本の森と違うて、ここらの木の枝や蔓は低う下がっとるけん、馬で行くときゃ充分気ぃ付けないけんのぅ……。
それにしても、慣れん山登りして頂上を究め、無事任務果たしよったけん、あっぱれじゃ!」
 喜助は隊員たちの功労を褒め称えた。みなも口々に言った。
「良うやった!」
「これで安心してこの島で眠れるわ!」
 杯を乾したロクが言った。
「川上に池でもあるか思うてたら、やっぱしその通りじゃったのぅ。」
 モラが納得したように言った。
「その湖は溜池じゃろう。ここらの気候と地形をうまいこと利用してつくられておるようじゃ。」
 勘蔵が嬉しそうに言った。
「溜池があるんなら、森を開墾して田んぼも畑もつくれる。ほんなら食い物にも不自由せん!」
 しかしロクは、やや不安げに言った。
「ほんなら昔ここにおったもんは、なしておらんなってしもうたんじゃろうか?」
 モラが言った。
「問題はそこじゃな。」
 張先生が言った。
流行り病(はやりやまい)で死に絶えよっとね?」
 喜助が言った。
「あるいは大津波で家ごと持って行かれたか。」
 権次が冗談を言った。
「ほんなら、今度津波来ても、先のこと見れるタネさんおるけん心強いわい。」
 タネは、ちょっときまり悪そうにそう言った。
「また外れたらご免よ。」
 モラは真剣な表情で言った。
「……タネの力、頼りにするんもええが、そうするとタネの心の重荷になってしまう。まずは一人一人が気ぃ付けることが肝腎じゃ。昔から言われておる通り、潮が急に引いたような後には、必ず津波が来ると見てええ。」
 喜助もそれに同意した。
「そうじゃな。他人の力を当てにするよりも、普段から一人一人が海や空の具合を気ぃ付けて見ておること。それが災害から身ぃ守る基本じゃろう。」
 その後、みなはいつものように談笑しながら飲み食いを進めた。
 それに一通りきりが付くと、喜助は席を立って会場を見渡した。それによって会場が静まると、彼は大きな声で言った。
「さて、水や食べ物には不自由せんし、わしらを害する人も獣もおらんようじゃけん、この島を住み処(か)と定めようと思うが、いかがじゃ?」
 みなは、歓声を交えて口々に同意した。
「おぅ、ええぞ!」
「おぉ、賛成!」
「いいぞーっ!」
 斯くして、この島に彼らの新しい住みかがつくられることとなった。

 その翌日から村人たちは大忙しの日々となった。
 椰子林の中にある石畳の広場を中心として、シャガが夢で見たような家々が建設されることとなったのだ。彼らがこの航海の途上で目にしてきた木造家屋の多くが高床式になっていたのに倣い、この町の建物も全て床を高くすることにした。
 また、彼らが今まで住んでいた村から比べると、今後様々な分野で発展することになるので、それは「町」と呼ばれることになった。
 まず、その町の大まかな構想図を幹部たちが作成し、その複製が各家庭に配布されることから、それは始まった。その図を町民一人一人が検討し、その意見をその家の代表の者が集約すると、幹部たちと共に何度も検討を重ねた。その結果、みんなの様々な思いや工夫が盛り込まれた、素晴らしい区画図ができあがった。
 その図面に基づいて次に行なわれたのが、材木の伐採だ。広場周辺の椰子の木を木挽(こび)きとその手伝いの大勢の男たちが伐採し、近くの熱帯雨林からそれを補う建材用の木を切り出すのだ。それを乾燥させて順次加工するにあたっては、この広場がとても役に立った。雨が激しく降っても、その真ん中を川が横切っているためか、水はけがとても良く、石が隙間なく敷かれているので、雨で泥が跳ね返って材木が汚れるようなこともなかったからだ。
 一般の住居の建設と平行して行なわれたのが、町が共有する財産を収納するための蔵や集会所などの建設だ。
 これらの作業では、子供たちの力も大いに役に立った。彼らは道具を取りに走ったり、材木を運んだりといった雑用のような仕事をすることによって、家大工とその手伝いの男たちの仕事を見て覚え、才能のある子は大工の見習のような仕事も任されるようになっていった。
 そのような日々を経て住居が次々に完成していくと、それまで二艘の船で行われていた人々の生活が、水上から陸上へと順次移行していった。
 それに伴なって、町を運営するにあたっての仕組みも次々とできあがっていった。今までにも村のことを何か決定するに当たっては、必ず村人全員参加の話し合いが行なわれていたのだが、それは新たに「町民会議」と名付けられ、石畳の広場を流れている川の南側で行なわれることになった。
 その会場西側には太い木で立派な櫓(やぐら)がつくられ、そのてっぺんに半鐘が取り付けられた。この鳴らし方の違いによって町民に様々な情報が伝えられるのだ。町民会議の招集もこれによって行われる。
 この櫓の下段には、人が何人か座れるような床が設けられており、会議の際にはここに幹部たちが座ることになっていた。彼らは、広場の石畳の上に各家庭に分かれて莚を敷いて座っている一般町民の方を向き、進行役の町長またはその補佐がその前に立って喋ることになるのだ。
 この会議に出席を義務付けられているのは、幹部と各家からの代表一人ずつだが、子供も含めた町民誰でも任意で出席しても構わないことになっている。何かを決める際には、出席者全員から採決を行なうので、なるべく多くの者が出席していれば、その家の意見が町政に反映される確率は高くなる。そのため、町民はみなこぞってこの会議に出席した。
 この日も、いつものようにしてその会議が開かれていたのだが、櫓の上の幹部席のモラに向かって、同じ幹部席の中からタネが怪訝そうな顔で尋ねた。
「……おや、またなんでお宮を建てるのに反対ないんだい? 神様を拝む場所くらいあってもいいと思うんだが……。」
 モラは、いつもの穏やかな口調でそれに答えた。
「わしゃ何も、神様拝む場所が要らんとは言うておらん。ほんなら今度はわしの方が問うが、あんたはお宮なけりゃ神様拝めんのか?」
 この問いには、さすがのタネも少々面喰ったようだった。
「い、いや、そんなことはないよ。オレはその気になりゃぁ、どこでだって拝めるさ。」
 タネがそう言うと、モラは微笑んで言った。
「ほうじゃろう。ほんなら、わざわざ手間隙かけて立派なお宮なんぞ建てるより、もっと他にすることが今は山ほどあるじゃろうが。」
「なるほど……、そりゃそうだ。」
 タネはあっさりとそれを認めた。診療所と学問を教える塾の建物がまだ着工しておらず、それらは依然として船内に仮設されたままになっており、それらを運営する者と利用する者のどちらも不便を強いられていたからだ。今度は喜助が言った。
「わしゃ普段から神さん拝まんが、神さん拝むのはその人の勝手じゃけん、そげんしたいもんは自腹で銭出し合うて、お宮建ててもええと思うがのぅ。」
 モラはそれに答えた。
「おぅ、ほんならええじゃろう。」
 そして彼は、一般町民も含めた会場の全員に向かってこう尋ねた。
「……ときに、わしらはそうでもないが、日本の巷(ちまた)では何のために神様拝んどるか、お前ら知っとるか?」
 まずロクが答えた。
「五穀豊穣、大漁祈願。」
 続いてモズが答えた。
「商売繁盛、戦勝祈願。」
 それに続いてタネが言った。
「それから、家内安全、無病息災てとこだろう?」
 モラは言った。
「その通り。いずれも拝んで神様に願い事を叶(かな)えて貰おうっちゅう考え方からきておる。けど、何か違うと思わんか?」
 その問いには誰も答えられず、会場にはしばらくのあいだ沈黙が流れたが、それを破った者がいた。
「……おう、違うな。神さんちゅうのは、人の欲望かなえるためのもんとは違うじゃろう。」
 そう言ったのは勘蔵だった。彼は集会だというのに朝から早々と酒を飲んでいて、先ほど遅れてやって来たところだった。現代の日本の社会だと、このようなことをする役員は処罰されて然るべきなのだが、この町には、そういうことを罰する掟がない。集会に出なければ自分の意見が町政に反映されないだけのことだし、たとえ出席したとしても酔っていい加減な発言をすれば、その者は社会的な信用を失って、ゆくゆくその地位も剥奪(はくだつ)されることになる。逆に言えば、たとえ酒に酔っていて集会に遅刻しても、本人が与えられている役を的確にこなしていれば何も問題はないということだ。
 そのような掟をつくった者の一人であるモラは、その勘蔵の発言に対して微笑んでこう言った。
「その通り。試験に合格するために神様拝んどりゃぁ、自分の成長のために自分の力で学問を身に付けるんではのうて、努力せずして試験に合格しようっちゅうもんも現れて来よるじゃろう。」
 櫓の横に設けられている階段を上り、役員席の中の自分の席に座りながら勘蔵が言った。
「……そうじゃ。そげな考え方で世の政(まつりごと)をしてみい。神様が付いてくれとる思うとるけん、まともな頭で考えたら負けるに決まっとるような無謀な戦(いくさ)を、平気で起こしよるようになるんじゃ。」
 ロクが腕組みしながら言った。
「なるほど……、そう言われるとそうじゃな……。」
 タネも頷くと、やはり同意した。
「そうだね……。神様は、人も含めた全ての生き物に生きる力を授けて下さった。それによってオレたちは病気や怪我から身を守ることができるんだ。その力をちゃんと使わずに、神様を拝んで何とかしてもらおうと思うのは、それこそ本末転倒だよ。」
 モズが言った。
「滝に打たれたり山に登ったりすりゃぁ心と体鍛えられて戦にも勝てようが、ただ神さん拝んだだけじゃぁ、戦にゃ勝てんちゅうことじゃのぅ。」
 モラが言った。
「その通りじゃ。信仰とは人の欲望満たすためのもんとは違う。己(おのれ)がなるべく神の道に沿うた生き方するよう、考えたり修行したりするためのもんなんじゃ。そげな信仰なら、してもええとわしゃ思うがのぅ。」
 タネが困ったように言った。
「それじゃ、あたしたちが昔から火の神様や海の神様に祈ってきたのは間違いだったのかい?」
 モラは微笑んで言った。
「いや、間違いではないじゃろう。問題はその祈りの中身じゃ。火の神様に『起きてくれ』てなんぼ祈っても火は起きん。火ぃ求めとる本人の手で起こさな起きんのじゃ。けど、『火のお陰でええ暮らしできとるけん、ほんに有り難う存じます』言うて祈るんは間違いではないとわしゃ思うがのぅ。」
 確認するように喜助が言った。
「神さんに人が従ごうたり礼を言うたりするならともかく、人が神さんに何かをさせようとするんは筋違いっちゅうことじゃな?」
「その通りじゃ。何事もまず先に神さんの思いがあって、人はただそれに従ごうとるまでのことじゃろう。」
 モラがそう言うと、タネが感心したように言った。
「なるほど、確かにそうだろう。神様が人をつくったんであって、人が神様つくったんじゃないんだろうからねぇ。」
 すると、勘蔵が苦笑いして言った。
「その通りじゃ。ところが、人の都合ええようにつくりよった『神』が往々にしてあるけん、世の中ややこしゅうなるんじゃろう。」
 片目のモラも、不敵な笑みを浮かべて言った。
「その通り。みな、我がが信じとる『神様』が一番偉い言い張って戦(いくさ)起こしよる。そげな『神様』は、人が勝手につくりよった幻(まぼろし)にしか過ぎんのじゃ。」
 喜助が言った。
「ちゅうことは、神さんに願掛けるようなことは要らんちゅうことじゃな?」
 モラが言った。
「その通り。ほんで、個人で拝むんならともかく、この町で神さん拝む特別な場所なんぞ、わざわざつくらんでもええと、わしゃ言うとるんじゃ。」
 タネが納得したように頷いて言った。
「なるほど、そうだったのかい……。それなら、あんたの言うことは筋が通ってるよ。」
 モラは微笑んで言った。
「但し、今のわしらは、ご先祖さんあってのわしらじゃ。そのご先祖さん祭る場所はあってもええ思うわ。
ほんで、この島に昔住んでおった民(たみ)がつくりなさった立派な溜池や港、ほんでこの石畳の広場がある。わしらはこの後(のち)末永うその恩恵にあずかることになろう。その感謝の気持ちを込めて、この島に住んでおった民の御霊(みたま)を祭る場所もあった方が、ええかわからんのぅ。」
 喜助が言った。
「よし。ほんならこうせんか。仰々(ぎょうぎょう)しいお宮じゃのうて、わしらのご先祖さん祭る祠(ほこら)と、この島の先住民の慰霊のための祠を建てるっちゅうんでどうじゃ。」
 喜助のこの提案に、その後町民はみな賛成し、その祠はそれぞれ島の山頂に建てられることとなった。
 建物の建設と平行して着手されたのが開墾だった。建材となる木を切り出した部分を焼き払い、そこに田畑をつくるのだ。焼くのは簡単だが、その後には木の根を掘り起こすという大変な作業が待ち構えていた。これはかなりの重労働であったが、最初にこれをきちんとしておけば後が楽なことを、経験者はみな知っている。これには牛たちが大活躍した。
 港も整備された。浜の南端にあった石垣は崩れかけているため、一旦解体して一から組むことになった。石工は新しい石を海岸の岩場から切り出して補充した。
 入り江の入口には南北それぞれ一つずつ砲台が設けられ、大砲が設置された。また、川沿いの石段を登りきった湖のほとりには砦がつくられ、そこにも大砲が設置された。山の頂き周辺の木は切られ、ここには例の二つの祠と共に見張り台がつくられた。
 今のところ彼らが必要とする物のほとんどは、この島に既にあるか、この島で生産することができた。ない物といえば、衣類をつくるための繊維、鉄などの金属類、ガラス製品などの類だったが、それらは今のところ間に合っている。但しそれらが足りなくなったときには、今までのようにちょっと船を走らせて対岸の町に買いに行く、というわけにはいかなかった。

 それから二ヶ月余り経って、飛龍丸と白鷹丸の上で生活していた者全てが陸上で生活するようになると、頭は喜助から彼の妻であるサイに譲られることとなった。引退した喜助は防衛軍の将軍となり、飛龍丸の船長は副船長だったイリが勤め、その副船長は権次が勤めることになった。白鷹丸の船長副船長は、従来通りロクとモズだ。
 広場に集まって座っている全町民を前にして、いつものように櫓の下段に立った喜助が言った。
「さて、これからこの町の頭は、代々女子(おなご)が勤めることになる。男よりも神さんに近い、女子を頭にすることによって、わしらが神さんの心見失っていくこと防ぐためじゃ。」
 彼は、自分が頭に巻いている貝紫で鮮やかに染められた鉢巻を外した。
「その一代目が、お前じゃ。」
 そう言った大柄な喜助は、自分に背を向けて立っている小柄な妻サイの頭にそれを回した。サイは渋々とそれに従がいながら、自信がなさそうだが町民にも聞こえるような声で言った。
「みなが勧めるけん、一応頭になるとは言うたが、何したらええんか、うちにはさっぱりわからん……。」
 鉢巻を締め終わった喜助が、サイの両肩をつかんで、町民の方に向かせてから言った。
「案ずることない。わしもおるしモラもおる。わからんことあったら、いつでも遠慮せんと聞いたらええんじゃ。」
 サイは、苦笑いして言った。
「ほんなら、あんたに綱付けて、うちその端持って付いて歩かないけんのぅ。」
「いや、頭ちゅうもんは一所(ひとところ)にじっと構えておるもんで、そうあちこち動いちゃいけん。それをするんなら、わしがお前に綱付けてお前に付いて歩かないけんわ。」
 喜助は真面目な顔でそう言ったが、その二人の姿を想像した町民たちは、思わずどっと笑ってしまった。そんなことは気にせずに、喜助は引き続き真面目な顔で話しを続けた。
「頭をあちこち動かさんようにするために、側近を始めとする幹部がおるんじゃ。動き回るようなことは、みな側近に命じたらええ。」
 他の幹部たちと共に、喜助夫妻の後ろに座っていたモラが言った。
「喜助や。これからは町になりよるけん、頭は『町長』で側近は『助役』、幹部は『役員』じゃな。」
「なるほど、そうか。町長と助役と役員。その助役がシャガ、お前じゃ。」
 喜助は、家族と共に会場に座っていたシャガに向かって手招きをした。胸に抱いていた娘のヒミカを横に座っているキクにそっと預けたシャガは、立ち上がって喜助たちのいる櫓の横に来ると、そこに設けられている階段を登った。
 サイの横に立ったシャガは、大勢の町民を前にして少し照れながらこう言った。
「……あたしもみんなが勧めるから、一応するとは言ったけど、あたし不器用だからサイさんきっと苦労するよ。」
 それを聞いたロクが、後ろの役員席の中から座ったままで言った。
「シャガは不器用とは思わんが、仮に助役が不器用であってもそりゃ問題ないことじゃ。
例えば、村の者の同意が要ることなら、町長に言われた通り助役がこげんして町民を会場に集めりゃええし、港の石垣の修理するようなことなら、町長に言われた通り役員のもんと石工を集めて話し合いさせりゃぁええ。また、家の新築なら町長に言われた通り助役は大工の棟梁呼びに行きゃぁええんじゃ。
実際に会議するのは町民で、石垣の修理は石工、家建てるのは大工じゃけん、助役の仕事は、ただ人と人を繋ぐだけじゃ。難しいこと一つもないわ。」
 ロクの隣の席の勘蔵が、それを補足するように言った。
「その代わり、助役の仕事こなすことによって、何かの仕事するのにどの人使うたらええかとか、どういう仕事の出し方したらええかとか、色々と覚えることができる。それによってこの町の人々を導いていく方法も、おのずと身に付いていく。忙しう動き回らんならんが、その分得る物も大きいんじゃ。」
 役員席に座った喜助が言った。
「今のシャガは子育てで大変じゃろう。自分が動けんかったら回りんもんに遠慮せんと頼んだらええ。特に夫のハヤテは、今まで勇敢な兵隊であり優秀な漕ぎ手じゃったが、これからはシャガを裏から支えてやってくれや。」
 一般町民の席でそれを聞いたハヤテが笑って言った。
「ハハハ。助役の助役っちゅうところかのぅ?」
 役員の席から今度はモラが言った。
「ほうじゃ。お前は笑うとるが、こりゃぁ大事な仕事なんじゃよ。」
 このようにして、初代町長と助役をはじめとするいくつかの役職が、既に行なわれていたある程度の根回しに基づいて決められていった。

 彼らは以前から、剣術や弓術など武道の道場と並んで、読み書きや算術などの学問を教える塾も運営しており、シャガもハヤテもそこに通っていた。塾とは言うものの、教育機関はそれしかないので、機能としては現代の小学校から大学までを一まとめにしたようなものに相当する。
 しかしそれは、現代日本のいわゆる「学校」とはかなり異なっている。親が子供の尻を叩いて通わせ、その費用を払ってやっているのではないからだ。子供であれ大人であれみな自(みずか)らの意思で通い、自分の小遣いから月謝を支払っているのである。ここの子供たちは昔から、公共の漁や農地の開墾の手伝いなどによって賃金を得る機会が多いのでそれが可能なのだ。また義務教育ではないので、この塾に通うことを強請する者は誰もいない。学問や武術を身につけておけば、それだけ本人が将来良い仕事に恵まれるだけのことだからだ。そんなことは、周囲の大人たちを見ていれば五歳の子供でもわかることだ。
 例えば算術が得意な生徒ならまず、
「自分の特技を生かして将来商いをするためには、今何が必要なのか?」
 ということを親や先輩などに相談し、最終的には自分の頭で考えて、それに必要な教科を選択するのである。「算術」に加えて、「商(あきな)いの仕方」と護身用のための「剣術」というように。
 またそれとは逆に、算術が苦手な者はそれを無理して習う必要などなく、「剣術」や「弓術」などを習って、将来は兵隊の仕事に徹(てっ)すればいいわけだし、体を動かすことが苦手な者は、無理して武術を学ぶ必要もない。その点、全て生徒の選択に任されている。
 しかし一度塾に入ったが最後、生徒は一日たりとも怠けて休んだりなどしない。それどころか、講師の言葉を一言も漏らすまいと懸命に耳を傾けることとなる。そうしなければ学費を出した自分が損をするからだ。
 その月謝は、直接講師にではなく一旦町に支払うという仕組みになっている。講師の労働に対する報酬は、その一部が町から月給として支給されるのだが、それとは別に卒業した生徒一人頭分の「実益賞」という報酬も支払われる。それは、その生徒が教わった学問を駆使して仕事に従事しているのが確認されてから初めて支払われ、その仕事の出来不出来によってその額も異なってくる。つまり、より良い仕事をする生徒を育てれば、それだけその講師に支払われる実益賞も増えるということだ。
 そのため講師は、生徒を塾に長く引き止めておくよりも、さっさと卒業させて仕事をする機会を与えた方が利益が大きくなる。また、生徒がちゃんと仕事ができなければ実益賞の対象にはならないので、生徒一人一人の能力や性格に応じた授業を、日々研究して実践することとなる。つまりこの塾の講師の仕事は、ただ学問を教えるのではなく、「生徒が村に貢献する何らかの仕事に就くようにさせる」ということなのである。
 それとは逆に、人に対する挨拶の仕方や社会の規範などを塾では一切教えていない。そういうことは、そもそも家庭で教えるべきことだからだ。但し、そのような規範から逸脱した者は、それが講師であれ生徒であれ、他の者から容赦なく個人的な批判を受ける。その点、現代の個人対個人の関係と変わらない。
 また、もし仮に塾の運営を妨害するような生徒が現われれば、講師はその親を塾に呼び付けて厳重注意をすることができるという権限が与えられている。もしそれに従がわない親は、町民会議の場でその名前が公表されて、みなからの笑い者にされるのだ。例えば、生徒が別の生徒に対して「いじめ」を行なったとしよう。これによっていじめられた生徒は塾に通うことが苦痛になるのだから、明らかに「いじめ」は塾の運営を妨害する行為ということになる。そこで講師は、いじめている方の生徒たちに対して、まず次のような警告を発する。
「あんたら、なにつまらんことしよるん? この塾の運営の邪魔にもなるけんね。」
 この言葉によって、自分のしていたことが人間として尊敬に値しないことであるということに気が付く子もいるし、塾に呼び出された自分の親から後でコテンパンに叱られることを恐れる子もいる。いずれにせよほとんどの生徒がその「いじめ」をピタッとやめてしまうのである。だから「いじめ」はあっても、それを早期に解消させてしまう仕組みをこの塾は備えているというわけだ。これは、教師と親と生徒三者相互の揺るぎない信頼関係によって成り立っている。
 また、この塾には入学試験がなく、あるのはそれぞれの学科に対して一回の卒業試験のみだ。学科は、初級、中級、上級というふうに分かれており、生徒は自分の学力に応じて、そのあいだを自主的に行き来することができる。
 その級は、日本の義務教育などのように一年ごとに自動的に上がるのではない。例えば、初級の授業の内容を全て理解することができるようになれば、生徒は自ら講師に申し出て、次回からは中級または上級に入ることができる。もし、上級に入って講師からこれ以上教わることがないと生徒が自主的に判断すれば、講師に申し出て卒業試験を受け、それに合格すればその学科を卒業することができるのだ。それとは逆に、上級の授業についていけなければ、やはり講師に申し出て、次回からは中級または初級に戻ることになる。これは、生徒の格付けを講師側が決定するという現代の教育制度とは全く逆の発想だ。
 そのため、その学科を三ヶ月で卒業してしまう者もいれば、三年経っても卒業できないでいる者もいるということになる。まあ普通なら、半年くらい続けてみて進歩がないと感じた生徒は、「この学科は自分に合わないのだ」ということを悟り、さっさと別の学科に転入してしまう。早くそうしなければ、それだけ無駄な月謝を払い続けることになるからだ。
 このような方式なので、当然のことながら、どの学科でも一つの級に老若男女(ろうにゃくなんにょ)が混在していることになる。極端に言えば七歳の男の子から七十歳の婆ちゃんまでが、同じ教室で同じことを勉強するということも有り得るわけだ。だから、そのような教室は家族的な雰囲気で和気藹々(あいあい)としており、「いじめ」もなかなか起こらなかった。同年代同士ではライバル意識も旺盛となる反面、極端に個性が違う子供は目立つのでいじめられ易いが、このような教室では一人一人の習慣も考え方も容貌もみな違っていて当たり前だからだ。それに、もし誰かがいじめられたとしても、必ずその子を庇(かば)う年長者が現れて助け舟を出してくれる。
 そもそも人が二人以上寄れば、喜怒哀楽に始まる人間臭いドロドロしたことが必ずあるわけで、いじめたりいじめられたりがあって当たり前だと思うべきなのである。しかし、そこで危険なのは、そのいじめに対して周囲が過剰に動揺してしまうことと、それとは逆に『自分には関係ないことだ』と思って放置することだ。
 いじめをする者は、本当は弱い人間なのだ。なぜなら、その瞬間だけでも『自分は強い』という、みみっちい快感に浸りたいがために弱者をいじめるからである。だから、それに周囲の者が動揺してしまえば、その弱虫の快感を更に助長させることになってしまう。
 また、誰かがいじめられても、見て見ぬ振りをする人が往々にしているのは、『いじめられる側を庇えば自分もいじめられるのではないか』という危惧があるためだ。だから、悪いことをはっきり「悪い」と言うことのできる勇気を持った、本当の強者がそこにいれば、たとえ「いじめ」があっても、それは大きな問題には発展し得ないのだろうと思う。昔の「ガキ大将」と言われる者の存在は、その役割を果たしていた一例だろう。
 ところで、犬や猫などの哺乳動物は、兄弟同士が互いにじゃれ合うことによって、意思の疎通の仕方や身の守り方などを学びながら成長していく。人間の子供も本質的にこれと変わらない。仲間同士で遊んだり勉強したりすることにより、社会性や無駄のない体の動かし方などを互いに身に付けていく。あるときは励まし合い、あるときは競い合って。
 このようなことは、個人が成長する上においても、文明が進歩する上においても欠かせないことだ。なぜなら、このような競い合いがあるからこそ、人間は精神的にも肉体的にも進歩し、より優れた思想や科学技術、あるいは運動技能や楽器の演奏技巧などを発展させていくことができるからだ。この、人と人とがお互いを高め合うための前向きな競い合いには、常に競う相手を必要としている。具体的に言うと、戦う相手がいなければスポーツや囲碁将棋といったものが成り立たなくなるということだ。
 ところがその一方、敵対関係による競争は表面上この競い合いとよく似てはいるが、本質的には全く異なっている。それは敵対する相手と競うだけではなく、その成長を妨害したり、場合によってはその存在を否定し、殺傷するということにまで発展するからだ。現代の日本の競争社会は、この敵対関係による競争の性質を多分に持っている。これは他人を蹴落とす、即ち、誰かが落ちてくれれば自分が試験に合格したり入社できたりするという発想に繋がってくる。よく考えてみると、未来を担う子供たちに、このような競争をさせているということは全く末恐ろしいことだ。
 先ほども少し触れたように、この町の塾では、入学試験は元より、中間期末といった試験すらないため、そのような発想にはなろうとしてもなり得なかった。かと言って、のんべんだらりとしているわけでもない。生徒は月謝を払っているので、なるべく早く学問を覚えて卒業すればそれだけ学費が安く上がるし、それらを必要とする高度な仕事にも、より早く従事することができる。そのため、生徒は厭々勉強するのではなく、みな生き生きとして勉学に励むこととなる。
 勉強嫌いな生徒と、どうせ同じ給料を貰うのなら手間を掛けずに教えたいという方針の教師とでは、目標も異なるし利害関係も対立してくる。勉強嫌いな生徒ほど、手間を掛けなければ勉強ができるようにならないからだ。
 ところがこの塾では、生徒と教師両者の目標も同じ方向を向いており、利害関係も一致している。生徒が早く学問を身に着けて仕事をするようになれば、生徒にも講師にも利益があるからだ。そのため、この塾内には「暴力」だとか「崩壊」などといった現象も皆無であった。
 さて、村が町になるのと時を同じくして、この塾に新しい学科が増えることとなった。それは外国語の各学科だ。南蛮人や中国人、マレー人などと交易するためには、彼らとのあいだで通じる言葉をそれなりに知っていなければならない。交易のため海外へ出る場合、今までは船に外国語を話せる者が最低一人乗っていさえすれば事足りたが、日本の言葉が全く通じない異国で生活するとなると、そうはいかなくなる。
 寄港先の市場で個人が買い物するのに、観光旅行ならともかく一々通訳を立てるという贅沢なことなどしてはいられない。しかも当時は現代とは違い、商品に値札が付いていないのが当たり前だった。そのため自分が何かを買おうと思えば、その売り手と交渉して価格を決定しなければならない。うっかり売り手の言う通りの値段で買おうものなら、相場の十倍二十倍の値段を支払ってしまうということもあるのだ。だから、相手の言葉を理解して、こちらの思いを伝えるということは、極端に言えば死活問題となるのである。
 この村の人が海賊をやめてからは、怪我人がほとんど出なくなってしまったので、診療所の張先生の仕事は、幸か不幸か激減していた。しかし彼は、福建(ふっけん)語北京語広東(かんとん)語が堪能だった。また勘蔵も、都(みやこ)偵察という重要な仕事を失って収入が激減していたが、彼はポルトガル語が堪能だった。そこで町では、この二人の救済も兼ねて、その語学の能力を貢献してもらおうということになり、塾の講師として迎えることにしたのである。
 この学科の人気は大変高く、生徒の年代も子供はもちろんのことハヤテやシャガのような若者から喜助やロクなどの年配者までと幅広かった。
 近頃の日本の公立の学校では、外国人教師の採用や教科書の内容の向上などによって、英語の授業はかなり改善されてきたと思う。しかし、依然として英語を一つの学問として認識しており、読み書き及び文法の理論的解析に比較的重点を置いて教えていることに変わりはないようだ。生徒が英文学者になりたいのならこのような教え方でいいのだろうが、果たして日本の一般の学生の何割が、そのようなことを志しているのだろうか? これは、紙に書き込まなければ成り立たない、現行の試験制度を前提としているから、自ずとそうなってしまうのだ。
 一方、異国の真っ只中で生活しようとする者にとっての外国語は、学問ではなく、先ほども述べたように生きるための術(すべ)なのである。そしてその目標は、試験に合格するということではなく、異国の人と問題なく付き合いできるようにするというところにある。そのため、この町の外国語の講師たちは、そのような認識を踏まえて、それ相応の教え方をしている。
 その教え方の特色は主に三つある。まず一つ目は、授業中に日本の言葉を一切話してはいけないということだ。例えば張先生の北京語の授業では、先生が教室に入って来ると、それまでその床に座って待っていた生徒たちが、みな立ち上がって挨拶する。
「你好、張先生。」(こんにちは、張先生。)
 すると、先生はそれに応えて言う。
「你們好。請座。」(みなさんこんにちは。座って下さい。)
 このようにして授業が始まるのだ。
 勘蔵が受け持つポルトガル語の授業でも、やり方はそれと全く同じだ。
「Bom dia, Sr. Kanzo!」(勘蔵さん、こんにちは。)
 と生徒が挨拶すれば、勘蔵はそれに応える。
「Bom dia, amigos! Como é você?」(友よ、こんにちは。元気ですか?)
(お使いのOSやフォントによっては、これらの外国語表記の一部が正確に表示されない可能性があります。その際は悪しからず。作者より)
 といった具合だ。授業が終わるまでのあいだずっとこの調子で、固有名詞以外の日本語は一切出て来ないのである。
 これは一見すると、新入生にとってはチンプンカンプンだし、授業がなかなか進まず能率が悪そうに思える。ところが実際には、日々着実に会話を覚えていくことができる能率の良い方法なのだ。
 例えば、北京語の初級に新しく入って来た生徒が授業中喉が渇いて水が飲みたくなったら、まず自分の喉が渇いているということを身振り手振りによって先生に伝える。すると、その言い方を知っている周囲の生徒が公然とそれを教えてくれるのだ。
「我要水。」(私は水が欲しい。)
 それをそのまま口真似して先生に伝える。次に、先生の近くにある水差しを指差して、先生を拝むように手を合わせ、今度は自分の方を指差す。するとまた彼の周囲にいる者が教えてくれる。
「請給我水。」(私に水を下さい。)
 その生徒は、教えてもらった通りそれをまた自分の口で先生に伝えると、先生はその水の入った水差しと湯飲みをその生徒に渡す。それを受け取ったその生徒は、そのお礼に黙ってお辞儀をするが、また周りの者が教えてくれる。
「謝謝。」(ありがとうございます。)
 先ほどのように、水を貰った生徒はそれを真似て先生に言うと先生がそれに応える。
「不謝。」(どういたしまして。)
 そして水を貰った生徒は、その言い方を教えてくれた生徒に対して、今覚えたばかりの言葉を使って礼を言う。
「謝謝。」
 授業で学んだことを即実践で使うのである。だから、家に帰ってから帳面を開いて復習する必要などない。先生は、紙に大きく「我要水 請給我水 謝謝 不謝」と書いてそれぞれ正しい発音と抑揚で読みながら、字を一つ一つ指差してみなに見せる。すると生徒はそれを自分の帳面に写して、その書き方を学ぶのである。
 今の日本では、先生がまず黒板に字を書いて、その読み方を教えるのが一般的なようであるが、先に文字を見るのではなく、先に耳で言い方を覚えてから、目でその書き方を習うのだ。これは人類の文化が発達する段階と同じであるためかどうかはわからぬが、どうも生徒としてはこの方が能率良く覚えられるようだ。
 また、水を指差して「這是什麼?」(これはなんですか?)と尋ねれば、先生をはじめ生徒の誰彼となく、「這是水。」(これは水です。)と教えてくれる。これは、水だけでなくその他の物に対しても広く応用が利く。生徒が一つ一つそのような質問するたびに授業が中断してしまうようだが、この塾の場合はそもそも、このような日常的な遣り取りそのものが教材なのである。そして、言葉が全く話せないというもどかしさから日々解放されていく楽さを生徒に味わってもらうことが、この塾の外国語学科の初級授業の主な目標なのだ。
 二つ目の特徴は、自分の帳面に文字を書く場合、日本語の仮名で書くことは厳禁ということだ。せっかく先生や仲間が正しい発音で教えてくれても、発音を一旦カタカナなどに置き換えて帳面に書き込んでしまうと、生徒は日本人特有の発音で覚えてしまうということになる。これは、日本人が外国語を学習する上での致命的な弊害となる。
 その理由はまず、日本語の仮名文字では「b」と「v」、「f」と「h」、「j」と「z」、「l」と「r」、「n」と「ng」の発音を区別することができないという点。例えば、英語に「glass」と「grass」という二つの単語があるが、これを仮名で書けば、どちらも「グラス」になる。ところが、前者の意味はいわゆるガラスやガラス製品のことで、後者は牧草などの草のことだ。つまり、この二つの単語の区別ができなくなってしまうのである。
 次の理由は、日本語の仮名には子音のみを表記できる文字がほとんどないという点だ。仮名ではほとんど全ての子音の後に母音が付加されており、これでは外国語の正しい発音を表記することができない。日本人が「グラス」という字を読むと、英語を話す人には「gurasu」、または「gulasu」というように聞こえるので、これではさっぱり通じない。
 また、中国語には同じ発音でも声の抑揚によって意味を区別するという仕組みがある。これが現在の中国普通語(標準語)では四種類、広東語に至ってはなんと九種類もあるのだ。日本語にも曖昧ではあるがこれと同じような区別の仕方がある。例えば、「箸」という単語と「橋」という単語は、片仮名で書くと共に「ハシ」となるが、抑揚の違いからその意味の違いを区別できる。ちなみに日本の関東と関西の言葉では、この抑揚が逆になっているものが多い。
 これが中国語の場合、例えば同じ「tang」という発音でも、声調の違いによって意味が分かれる。卵を意味する「蛋」も、中国古代国家の「唐」も共に「tang」と発音するが、抑揚が違うのでその意味の違いを区別することができるのである。そのため、「タン」と書いて覚えるとかえってややこしくなってしまう。「蛋」はあくまでも「蛋」であって、「タン」や「tang」ではないのである。
 教え方の三つ目の特徴は、これといった教科書がないということだ。教科書なしでどうやって授業を進めるのだろうと思ってしまうが、教科書はなくても会話の教材なら、そこら中にいくらでもある。
 例えば張先生は、生徒に弁当を持参させて海や山へ遠足に連れて行き、そこで弁当を食べながらみなで歓談して帰って来ることを授業の一環として行うことがある。もちろんそこで交わされる会話は、北京語の授業なら北京語だけだ。初級の授業なら、その海や山の様子を見てその感想を互いに述べ合ったりするし、上級の授業では互いの弁当のおかずのつくり方を説明し合ったりもする。
 一方勘蔵の中級の授業では、生徒たちに野菜や果物、衣類などを塾に持って来させ、それらをポルトガル語によって売り買いさせるということも行なう。これには講師や生徒が実際に自腹で宋銭・明銭や銀貨を支払うのだから、誰もが遊び半分ではなく真剣そのものだ。この授業によって生徒は、その言語の数の数え方はもちろんのこと、自分の商品がいかに優れているかを主張することや、反対になんだかんだと言って商品を値切る言い回しを学べることになる。また、それに付随して外国為替のレートまで学べてしまう。
 教科書の中に書かれている、実在しない人物の退屈な会話をノートに書き写すような授業とは違い、自分が飲む、自分が食べる、自分が商いするといった、自分の生活にとって必要な行動を実際に行い、そこから生まれてくる会話を日々積み重ねて覚えていくのだから、生徒の会話能力は見る見るうちに上達していく。
 このようにして、この町の塾で外国語を学ぶ生徒たちは、一年もすればかなり高度な会話まで行えるようになっていた。そうすると当然のことながら、仲間内で話しているだけでは物足りなくなってくる。彼らは実際に異国の人と話しをし、商いをしてみたくなってきた。講師たちにしてみても、生徒にそのような会話の機会を与えてやらない限り、先に述べたような「実益賞」が貰えないので、異国の人がいる場所へ行って実際に商売をする必要が生じてきた。
 また、船は使わないとかえって傷むので、飛龍丸と白鷹丸は交替で月に一度は島の近海を航海し、近くの島の住民と物々交換などを行なっていたが、商魂逞しい者や冒険好きの海の男たちは、それだけでは満足できなくなっていた。

<続く>
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