総アクセス数:

現在の閲覧者数:
物語

はまなすの実

原作/田野呵々士

第四章 白鷹丸の大航海

瓶ヶ島  時は文禄二年一月二十七日、今の暦(こよみ)に直すと一五九三年二月二十七日。熱帯地方に位置するこの日本人町の初代町長に、元海賊の頭(かしら)喜助の妻サイが就任してからついに丸一年を迎えることとなった。
 海上のある一定の位置からこの島を眺めると、瓶が斜めになって水に浮いているように見えることから、誰彼ともなく自分たちが住むその島を「瓶ヶ島(かめがしま)」と呼ぶようになっていた。
 故郷日本を離れ、長い航海を経てここに辿り着いてからというもの、町の建設や熱帯雨林の開墾などで目まぐるしく過ごした瓶ヶ島の人々であったが、それもようやく完成し、そこでの生活も軌道に乗ってきたところであった。
 そのあいだに町長助役のシャガは男の子をもう一人出産し、その子は「洋助(ようすけ)」と名付けられていた。ハヤテとシャガ夫婦にとっては、幼い三人の子供を抱えながら、毎日新しい仕事に挑んでいたわけで、特にシャガの出産前後などはハヤテ一人で助役の仕事をこなしていた。
 十八歳のシャガと二十歳のハヤテという若さで、よくぞここまでやれたと思うほど数多くの仕事をこなすことができたが、それは、他の役員をはじめとする町民一人一人の理解と協力が得られたためだ。また、大事な子育ては、同じ屋根の下で暮らす家族の温かい協力なくしては、とても成し得なかったことだろう。シャガが多忙なときは、同じように幼子を抱えたナミやトヨが、ヒミカや洋助に乳を与えることも、しばしばあったからだ。
 その一周年の朝、町長のサイは、その助役のシャガに町民会議の召集を命じた。シャガがそれを助役補佐のハヤテに伝えると、彼は石畳の広場南側西部に立てられている高い櫓の上に登って、その屋根の下に吊られている銅製の半鐘を特定のリズムで叩いた。町民を招集するための合図だ。
 すると、椰子の林のあいだから朝陽が差し込む広場には、周辺の各家々で朝食を終えて待機していた人々が、莚(むしろ)や日傘などを持って続々と詰め掛けた。
 櫓の前に集まって来た町民たちは、いつものように各家庭ごとに分かれて石畳の上に莚を敷くと、そこに日傘を差して座した。
 この櫓下段の上には、椰子の葉で編んだ大きな日除けが屋根の庇(ひさし)のようにして掛けられており、周囲に手すりを巡らせた床の上には、やはり椰子の葉で編んだ莚が敷かれている。今そこに、町長と助役を始めとする役員らが座っているところであった。役員をはじめとする町民のみなが席に座ると、役員席の中から町長のサイが立ち上がって前に進み出た。彼女は、千人余りの一般町民に聞こえるような大きな声で言った。
みなさん、おはようさーん!
 それに対して、町民たちの元気の良い声が広場に響き渡った。
おはようさーん!
 サイは話しを始めた。
「さて、今朝集まってもろうたんは、まず他でもない、みなさんも知ってなさる通り、今日でうちがお預かりしとった町長の役が切れるっちゅうお知らせです。この一年、うちは何もできんかったが、みなさんのお力で立派な町ができました。ほんに有難うございました!
 町民たちは歓声を上げながら口々に言った。
サイさん、良うやったぞ!
サイさん、立派だったよ!
 サイは続けた。
「ほいで次の町長と助役じゃが、これもみなさんご存知の通りじゃ。」
 サイは自分の後ろに座って控えている役員たちの方を振り返った。すると、その中から若い男女が一人ずつ立ち上がって、それぞれサイの左右両脇に並んだ。
「幼子(おさなご)を抱えたこの若夫婦が揃って出てくれるっちゅうことは大変ご苦労なことじゃが、これでよろしいんかのぅ? 異議あるもんは言うとくれ!」
 サイがそう言うと、みなはやはり歓声を上げて口々に言った。
「異議なし!」
「新町長シャガ! 新助役ハヤテ! 新たなる希望!」
「新町長と新助役万歳!」
 すると小柄なサイは、自分が締めていた紫色の鉢巻を外し、自分より背の高いシャガの頭に向かって腕を伸ばした。サイの方を向いたシャガが気を利かせて膝立ちになると、サイはその額に鉢巻をしっかりと締めてやり、櫓を降りて自分の家族がいる一般町民席へと向かった。
 質素ではあるが真新しい藍染めの小袖に身を包み、町長の証(あかし)である全面貝紫で染められた鉢巻をたった今締められたシャガは、立ち上がって一般町民の方に向き直ると、夫ハヤテの横に並んだ。新助役となるそのハヤテも、瓶ヶ島町の流儀にのっとった男子の正装である、藍染めの小袖と四幅袴(よのばかま)を身に着けて、町の旗印である交差逆S字を染めた鉢巻をしている。
 東を向いているシャガの額の鉢巻が、朝陽を受けて燦然(さんぜん)と輝くのを見た広場の町民は、みな一斉に立ち上がると、手を叩いて口々に大きな歓声を上げた。
万歳!
万歳!
 その広場に向かって若い二人は、揃って深々とお辞儀をした。
 間もなく二人が顔を上げると、会場は静かになった。シャガは良く通る澄んだ声で言った。
「あたしたちのような若い者に、このような大きな役がちゃんと勤まるかどうか、正直言ってわかりません。でも、役員の人たちのご協力を得て精一杯頑張りたいと思いますので、みなさんどうぞよろしくお願い致します!」
 二人が再び深々と頭を下げると、みなは先ほどよりも更に大きな歓声を上げた。
 二人が顔を上げると、会場は再び静まった。シャガが、自分の左後ろに立っている喜助の方をちらっと振り向くと、喜助はにこやかに頷いてそれに応えた。どうやら彼らのあいだで、あらかじめ決められていることがあるようだ。シャガは広場に向かって言った。
「あのー、引継ぎが終わって早速なんですが、これより大事なことをいくつか決めたいと思いますので、みなさんどうぞ座って下さい。」
 その言葉によって、一般町民と役員のみなが一斉に腰を下ろし、ハヤテも自分の席に帰って腰を下ろした。それらの音が静まるのを待ってからシャガは言葉を続けた。
「……あたしたちがこの島で暮らすようになってから今までは、この近くの島に住む人たちとお付き合いする程度で済んでいました。これは、いろいろな物を日本から持って来ていたのと、この島の海と山の豊かな幸(さち)のお陰です。
ところが近頃では、日を重ねるごとに要る物が増えてきました。
また、塾の生徒の話す異国の言葉は、異国の人と商いするのに不自由しないほど上手になっているそうです。」
 シャガはそう言うと、今度は自分の右後ろに座っている勘蔵の方を振り向いた。町の塾でポルトガル語の講師をしている勘蔵は、立ち上がって前に進み出ると、広場に向かって持ち前の快活な口調で言った。
「生徒のみんな、言葉覚えるの早いんで驚いた! 読み書き以外では、もうわしらの教えることのうなってきた。ここまで覚えたら、使わな損!損! のぅ? 張(チャン)先生?」
 最後には阿波踊りのような拍子を付けて同意を求められた明国出身の張先生も、立ち上がって前に進み出ると勘蔵の横に並び、町民たちに微笑み掛けながら言った。
「異国の言葉覚えたら忘れんうちに使う。これ基本とよ。言葉忘れた生徒、また塾来てまた月謝ば払う。講師も『実益賞』ば貰わんでまた同じこと教える。みな時間も銭(ぜに)も損すっとよ。」
 そう言われてみると確かに先生の言う通りだ。しかし、その言い方が何となく面白可笑しかったので、会場のあちこちから笑い声が上がった。
 勘蔵と張先生が自分の席に戻ると、シャガはまた一般町民に向かって言った。
「そんなわけで、役員の中からも買い出しを兼ねた交易のために船を出そうという意見が盛り上がってるんです。そのため白鷹丸を出そうと思うんですが、いかがでしょうか? 異議や質問のある人は言って下さい。」
 シャガ一家の莚にいた、シャガの祖母タネの叔母である白髪の老婆キヌが、座ったまま櫓下段に向かって大声で尋ねた。
おーい、シャガよ! なんで大きい船じゃなくて、小さい方を出すんだい? 大きい方が荷物たくさん積めるのに。」
 シャガはその声の方を向くと、優しい口調でその質問に答えた。
「それはね、キヌ婆ちゃん。出かける人より残ってる人の数の方が多いでしょ。もし、そのあいだにここが海賊に攻められたら、船に乗って戦うか逃げるかするよね。だから、人の数に合わせて大きい方を残しておくんだよ。」
 それを聞いてキヌは感心したように言った。
「ああ、そうか、そうか。お前は賢いんだねぇ!」
 シャガが改めてみなに尋ねた。
「他に聞きたいことや異議はありませんか?」
 すると、みなは口々に言った。
「賛成!」
「異議なし!」
「それでいいよーっ!」
 異議がなかったので、シャガは会議を進めた。
「では、今回その白鷹丸に乗り込む人を、これより選びたいと思います。
まず、ロク船長とモズ副船長をはじめ、舵取り、見張り、漕ぎ手などは、今まで決められている通りにしようかと思いますが、いかがでしょうか?」
 これも異議がなかったので、シャガは更に会議を進めた。
「それでは次に、買い出しに行きたい家の者が、一家に一人だけ乗り込めることにしようと思います。それでいいでしょうか?」
 それにも異議がなかったのでシャガは言った。
「買出しを望む家は、代表が一人だけ手を挙げて下さい。それは、実際船に乗る人でなくても構いません。」
 シャガがそう言うと、会場が俄かにざわめいた。みな、各家々の家族同士で、買出しに行くかどうかを相談し合っているのだ。
 しばらくすると、そのあちこちから次々と手が上がった。記録係である権次が、その家の屋号(やごう)を紙に書き込んでいった。その数の多さから、多くの家庭が何らかの物の不足を感じているということがわかった。
 この一年間に島で開墾できた耕地は、優先的に農地として利用されていたので、例えば麻や綿などにしても、その生産量は彼らの衣料品の需要を完全に満たすのには程遠かった。また、瓶ヶ島には竹がなかった。椰子の木は食器から建材など様々なものに利用することができたが、竹の用途を完全に補うまでには至らなかったので、竹の根をどこかから持って来て栽培する必要があった。
 竹はご存知の通り、日本では桶の箍(たが)や団扇(うちわ)の骨、箸、柄杓(ひしゃく)、水筒、その他様々な身の回りの製品に使われていた。現代ではその原料の多くは合成樹脂や軽金属に取って代わってしまったが、それだと仮に原料が手に入ったとしても専用の機械を用いなければ加工することができない。しかし原料が竹なら、たとえ個人であっても刃物さえあれば、比較的容易に加工することができる。
 また、彼らが日本から持って来た稲や小麦、豆などの穀物はよく育ったし、地元の人が主食にしているタロ芋や長芋の種芋を、物々交換によって手に入れることもできた。しかし、持って来た野菜の種の大半は、気候や土質の違いから蒔いてもちゃんと育たず、発芽してもまだ小さいうちからトウが立ってきて、花を咲かせるとすぐに枯れてしまった。そのため、それに代わる野菜も必要だった。
 それらが手に入るかも知れないということで、一行は最終目的地をシャムにすることにした。
 このようにして、この町民会議は、老練の役員たちからの援護もあったので、進行役を勤める新町長が初めてにしては、なんとか順調に進み、白鷹丸の寄港先や出港の日程なども次々と決められていった。

 それから二日後の一月二十九日早朝、準備万端整えた白鷹丸は、この町が完成して以来始めての大きな航海に出た。この船の船長ロクと副船長モズをはじめとする専属の船員以外の乗組員は次の通りだ。
 まず、個人的な買出しを希望する各家庭の代表四十一名。町長のシャガ、助役のハヤテ、この夫婦の三人の幼子、その子守りとして二人の幼子を連れたシャガの妹トヨとその夫ヤス。また、以前シャムへ行ったことがあり、現地の事情に詳しい防衛軍将軍の喜助と、ポルトガルをはじめとする国際情勢に明るい通商諜報部長の勘蔵。そして、中国の事情に精通している張先生も妻子を連れて同行した。その代わり、先生の弟子である白鷹丸の船医が今回留守役に回り、町の診療所で勤務することとなった。また、塾で外国語や算術を教わって卒業した生徒たちもみな、交易の初仕事をするために同行した。
海図4  途中何ヵ所かで水や食料を補給しながら、白鷹丸は二ヶ月近くかけて西へ航海し、最初の目的地の沖にたどり着いた。
 空はどんよりと曇っており、とても蒸し暑い。帆を畳んだ白鷹丸は、漕ぎ手の漕ぐ櫂によって、ゆっくりとその大きな港に入って行った。その舳先付近に立っている勘蔵が、次第に近付いてくる薄茶色の石造りの街並みを指差して言った。
「この街バンテンは、それと同じ名の国の都(みやこ)で、回教徒の王さんが治めておる。」
 それは、現在のインドネシア共和国、ジャワ島の西にあった貿易港だ。その場にいた一同は、船べり越しにそれを見渡した。その中のハヤテが、勘蔵に向かって興味深げに尋ねた。
「大きな港じゃが、何で潤(うるお)うとるんかのぅ?」
 勘蔵はそれに答えた。
「いろいろあるようじゃが、まずは胡椒じゃな。あげに小さな草の実得るために、明国やエウローペ(ヨーロッパ)から、わざわざ船走らせて来よるんじゃけんのぅ。」
 張先生がそれを補足した。
「胡椒を始めとする香料は南国の産物ばってん、あちらじゃつくれんとよ。」
 幼い息子洋助を胸に抱いたシャガが言った。
「それなら、例えば胡椒をあたしたちがつくって、それらの国にじかに売れば、ここで仕入れてどっかで売るより、儲けが大きいんじゃないの?」
 喜助がちょっと驚いて言った。
「おいおい、シャガならまだ若うても町長はなんとか勤まる思うたが、ここまで頭切れるとは思わなんだ。」
 それを聞いてみなは笑ったが、勘蔵もやや真剣な顔になって言った。
「いやいや笑い事ではないぞ。こりゃ恐れ入った。わしは、ここで胡椒や香料を仕入れて、ルソンで売ることは考えとったが、我がんとこでつくることまでは考えとらなんだ。」
 胡椒は、当時の中国人やヨーロッパ人に向けて売れる、いわば「人気商品」であった。東南アジアでの主な産地は、スマトラ島やジャワ島などで、ここバンテンも、その重要な集荷地点となっていた。現在のフィリピンの首都マニラがあるルソン島は、当時スペインの植民地で、中南米に向けての航路が開かれており、貿易のためにそこを訪れる中国人も多数いるとのことだった。そのため、ここバンテンで胡椒を仕入れてマニラに持って行けば、必ずその買い手が付くに違いないと勘蔵は考えていたのである。
 入港する手前で一旦白鷹丸を停泊させると、シャガとハヤテと勘蔵の三人が伝馬船で入港して陸に上がった。そして入出国を取り仕切っている役所に出頭し、まず入国の許可を得た。それに続いて港湾を取り仕切る役人の事務所も訪れ、白鷹丸を停泊させるための許可を申請した。その許可が下りると三人は白鷹丸に戻り、岸壁の定められた場所に白鷹丸を接岸させた。この港は水深に余裕があるので、白鷹丸のような大きな船でも直接接岸することができる。
 諸々(もろもろ)の手続きを済ませると、彼らは勘蔵を隊長とする調査隊をこの街の中央市場に派遣して、胡椒とはそもそも何なのかを調べることにした。当時の日本人にとって胡椒は医薬品であり、食品としての胡椒の知識を仕入れる必要があったからだ。その隊員となったのは、瓶ヶ島の塾でポルトガル語を学んだ卒業生たちだ。
 この島には昔から、香料などを求めてやって来るポルトガル人が立ち寄っているので、その言葉が通じる。現在のジャカルタ市は、一時的だがポルトガルに占拠されていたこともあるほどだ。それに反感を持っている者は、この当時でもまだ少なからずいたが、シャガたちがポルトガル人ではないことは一目瞭然(いちもくりょうぜん)なので、それを使うことに対する問題は起こらなかった。互いに言語が通じない民族同士のあいだで、旧宗主国の言語が共通語として使用されるということは、古今東西よくあることだからだ。
 昼過ぎに出掛けた調査隊は、激しい夕立がやんでしばらくしてから白鷹丸に戻って来た。濃厚なオレンジ色の夕陽が雲間から現れると、先ほどの雨がたちまち蒸発して、船体のあちこちから白い靄(もや)が立ち昇った。
 岸壁から梯子を登って来た五人の隊員たちは、船べりを乗り越えて次々とその甲板に降り立った。最後に降り立った勘蔵が、出迎えていた一同に向かって言った。
「いやー、えらい雨じゃったが、市(いち)ん中に雨宿りする場所あったけん、なんとか濡れずに済んだわい。」
 シャガが微笑んで言った。
「それは良かったわ。
それで、調査はどうだったの?」
 勘蔵がそれに答えようとしたが、喜助が微笑んでそれをさえぎった。
「待て待て。
丁度、夕餉時(ゆうげどき)じゃけん、みなで飲み食いしながら、それ聞くことにせんか。」
 喜助がシャガに向かってそう言うと、勘蔵も微笑んで言った。
「おぅ、一杯飲みながらの方が、話す方も聞く方も楽しかろう。」
 シャガも微笑むと、その提案に同意した。
「そうよね。今までずっとそうしてきたんだし。
それじゃ、早速その支度をしましょうよ。」
 その言葉によって、料理が入った大鍋や飲み物の入った瓶(かめ)などが、料理係りの男女によって次々と甲板に運ばれて来た。そして、大人も子供も各自が自分の食器や箸を持ってその前に並び、それらの配給を受けた。そして、調査隊の席を囲むようにして椰子の葉で編んだ敷き物が敷かれると、みなはその上に次々と座っっていった。
 全員が席に着くと、人々の輪の一番内側に座っているシャガは、その正面の席の調査隊五名に向かって言った。
「胡椒調査隊のみなさん、お仕事ご苦労様でした。まずは飲んで下さい。」
 大きな瓢箪を持って立ち上がったシャガは、その中の椰子酒(やしざけ)を隊長はじめとする隊員一人一人に注いで回った。
 若い隊員の一人が、その杯を勢い良く乾して言った。
「あーっうまっ! 異人さんと初めて話しして、えらあ緊張したけんのぅ!」
 その姿を見た一同は、みなどっと笑った。シャガも微笑んで自分の席に戻ると、腰を下ろして言った。
「それでは、報告をお願いします。」
 隊長の勘蔵がそれに応じた。
「よしゃ。隊員が手分けしてあちこちで聞いて来よった話しをまとめて話すわ。みなも飲み食いしながら楽にして聞いとくれや……。」
 勘蔵は時々杯の酒を飲み、料理をつまみながら話した。
 まず、胡椒には黒胡椒と白胡椒の二種類があるということがわかった。それは胡椒の木の品種の違いではなく、製法の違いによるものだ。黒胡椒はまだ若い胡椒の実を収獲し、そのまま乾燥させたもので、胡椒独特の強烈な味と香りは主にこの黒い皮の部分に含まれているのだそうだ。一方白胡椒は、完熟した実を収獲し、水でふやかすなどして表面の皮を除去し、その後乾燥させたものである。
 ヨーロッパ人は主に、味と香りのまろやかな白胡椒を好むということもわかった。用途は肉や魚の殺菌と匂い消しだ。冷蔵庫のない当時では、生の肉も魚もすぐに鮮度が落ちて臭いが悪くなる。そのため、このような香辛料が珍重されていたというわけだ。
 北半球では秋に当たる季節になると、この近隣で収獲された胡椒がこの港に集められるので、旧暦の三月現在では卸値(おろしね)で仕入れることができないということもわかった。
「……まあ、今度の商(あきな)いは、ルソンで胡椒がなんぼで売れるかの試しじゃけん、小売値でちぃとだけ買うてみて、売れんようならわしらで使やええ思うてのぅ。」
 報告の最後をそのように締めくくった勘蔵は席から立つと、小皿を一つシャガのところに持って来て言った。
黒胡椒 「胡椒の若い実を干したものじゃ。こりゃそのまま黒胡椒として売られとる。白胡椒にするにゃぁもっと実ぃ熟してから収獲して、皮剥いてから干すそうじゃ。」
 それを受け取ったシャガは、その中を覗き込むと、感動したように言った。
「へー! これが胡椒の実なのね! 粉になったのは見たことあるけど、丸ままのは初めて見るわ。」
 自分の席に戻った勘蔵が言った。
「採り立てのもんは緑色しとる言うとったわ。」
 鼻に近付けて香りを嗅ごうとしたシャガに向かって、勘蔵が言った。
「それでは何も匂わんじゃろう。一粒齧って割ってみい。」
 シャガは言われた通りにしてから、その割れたものを手のひらの上に乗せて、その香りを嗅いでみた。
「……うーん、なるほど。粉にしたのよりも、もっと鋭い味と香りね……。」
 シャガは胡椒が入った小皿を、自分の右隣りの席のハヤテに手渡した。それを受け取ったハヤテは、シャガがしたようにして匂いを嗅ぐと、やや興奮して言った。
「おお! 正しく胡椒の香りじゃ。何やら腹減ってきよるぞ!」
 ハヤテは小皿をシャガの左隣に座っている喜助に手渡した。喜助も胡椒の匂いを嗅いで言った。
「ほう! シャムの料理んような香りじゃ。」
 このようにしてその小皿は、その場の一人一人に回されていった。
 陽が沈み掛けて次第に暗くなってきたので、甲板のあちこちに行灯(あんどん)がともされた。
 シャガが勘蔵に向かって言った。
「なるほど、これで胡椒の正体が大体わかったわ。これを売ってる店って、市場にどのくらいあったの?」
 勘蔵は笑って答えた。
「ハハハ。それこそ星の数ほどあったわ。」
 シャガはやや驚いて言った。
「へー! そんなにあってよくやってけるわね?!」
 勘蔵は、やや真剣な表情になって言った。
「そうじゃ。そげにようけあっても食うていける商売ちゅうことじゃろう。」
 シャガは感心して言った。
「なるほど……。」
 そして、また勘蔵に向かって尋ねた。
「値段はどの店も同じなの?」
 勘蔵がそれに答えた。
「そこが肝腎なところじゃけん、一軒一軒調べてみないけんわ。」
 シャガが言った。
「それじゃ、ポルトガル語話せるみんなで手分けしてみれば?」
 その意見にみなが賛成したので、今度は勘蔵を隊長とする「胡椒価格調査隊」が編成され、その隊員にはポルトガル語が話せて、算術ができる十七名がなることとなった。

 昨日とは打って変わってこの日は朝から陽が射しており、早々と出発した胡椒価格調査隊は午後には戻って来た。白鷹丸の高い方の帆柱の下には椰子の葉で編んだ大きな日除けが掛けられており、それが南国の午後の微風で長閑(のどか)にはためいている。
 シャガは主だった者と希望者を甲板に召集して、調査隊の報告を聞くための会議を開くことにした。集まった一同は、日除けの下で車座になり、各自好きなものを飲み食いしながら会議を始めた。
「どうだった?」
 シャガは隊長の勘蔵に尋ねた。すると、勘蔵は自分のグラスに椰子酒を注ぎながら、ちょっと以外だったというような顔で言った。
「いや、以前からどこの港でも、南蛮の商人(あきんど)はみな口を揃えて、『回教徒の商人にゃ気ぃ付けろ』言うとったけん、初めは気ぃ付けとったが、その必要ないことがわかったわ。
売り物の値段聞きゃぁ、確かに最初はえらぁ高う言いよるが、ほんならこっちもえらぁ安い値言うて、折り合いが付いたところで買うたらええんじゃ。こりゃぁあの衆の挨拶のようなもんでのぅ、悪気があってしとるんとは違うたわ。みな気さくで友好的じゃ。」
 喜助が言った。
「南蛮人と回教徒は昔から仲悪いけん、南蛮人は回教徒のこと良いように言わんのじゃろう。」
 既に歩けるようになっているヒミカをはじめ、幼子たちの面倒を見ていたトヨが言った。
「『右手にコーラン左手に剣』て言ってるようなことでしょ?」
 勘蔵がそちらを向いて頷くと言った。
「そうじゃ。その言葉、南蛮人が回教の教えの広め方を言うたもんじゃが、そりゃ南蛮のでっち上げた嘘じゃろう。さっき市で聞いたら、ほんまは、そげな乱暴な広め方しとらんそうじゃ。回教国では、回教徒に改宗したもんが払う税を軽うする決まりあるけん、それで改宗するもんがほとんどじゃと聞いたぞ。」
 ロクが仕方なさそうな表情で言った。
「まあ、元々天主教のポルトガルとスペインにしてみりゃぁ、永いこと回教徒にその国土を支配されとったけん、そげに言いとうなる気持ちはわからんでもないがのぅ。」
 勘蔵が言った。
「そもそも天主教も回教も、元は同じ教えから出ておると聞く。同じ根の宗教ちゅうことで、回教徒は最初天主教徒には、むしろ寛容にしておったそうじゃ。
ところが何事でもそうじゃが、新しいもんが優れて見えると、古いもんはこれを必要以上に恐れて潰そうとしよる。」
 その場の一同は黙って頷き、勘蔵は話しを続けた。
「ほんで、天主教にも回教にも、いずれも立派な哲理があるようじゃが、それだけではのうて、理屈では割り切れん魅力んようなもんもあるようじゃ。
天主教にゃぁ、その教祖とその母親を拝むことによって、ある種の感動を覚えるようじゃが、回教にゃぁその神を讃える祈りの言葉ん中に不思議な力があって、それが妙に人の心を引き付けよるようじゃ。
こげな不思議な力を持った新興宗教は、天主教にとって脅威に見えたんじゃろう。ほいで、何かと回教を目の仇にするようになりよったようじゃ。
ところが回教にゃ、やられたらやり返して、その屈辱を晴らさんならんちゅうのと、信仰の妨げになるようなことがありゃぁ戦うてでもそれを取り除かんならんちゅうのが、その教えん中にあるらしい。そうなると、やられた回教徒は団結して戦う信徒に早変わりするんじゃな。ほいで昔からあちこちで、天主教と回教のいざこざが絶えないんじゃろう。」
 勘蔵のその説明を補足するように喜助が言った。
「まあ、一方の言葉だけ鵜呑(うの)みにして、そのけつに付いて回っとると、そのうち関係ない争いに巻き込まれて難儀するっちゅうことじゃな。」
「ほんなら回教のことも、もっと知っとかないけんのぅ。」
 ハヤテがそう言うと、勘蔵が言った。
「わしがまず聞いたんは、回教の信徒になると、嫁さん四人まで持てるそうじゃが、酒は御法度(ごはっと)いうことじゃ。」
「うーん、ほんなら、わしゃ回教徒にゃぁなれんな。」
 ハヤテが苦笑いしてそう言ったので、勘蔵は意外そうに尋ねた。
「ほぅ、なしてじゃ?」
「わし、酒好きじゃけん。ほいで、やかましいのこれ以上増えてもかなわんしのぅ。」
 ハヤテが自分の隣の席のシャガをちらっと見てそう言ったが、シャガは軽く笑ってそれに言い返した。
「ハハハ、そうよね。あんたには、あたし一人で充分だわ。」
 ハヤテが頭を掻きながら苦笑いして言った。
「ほれ、聞いての通りじゃ。口じゃぁまず勝てん。」
 それを聞いた一同は大笑いした。
 シャガは軽く咳払いすると、口調を改めて会議の進行を促(うな)がした。
「コホン! さて、話しがそれましたが、再び会議に戻りたいと思います。隊長、胡椒の値(ね)の方はどうでしたか?」
 笑っていた勘蔵だったが、真剣な顔に戻って報告を再開した。
「……おぅ、肝腎のそれじゃが、ここらの銀の値は、日本よりずっと安いけん、みな頭ん中、真っ白うして聞いとくれ。」
 みなは黙って頷き、シャガもやや真剣な表情になって言った。
「わかったわ。」
 勘蔵は言った。
「銀一匁(もんめ)で、一級品なら胡椒八十二匁ちゅうのが最も安かったな。もちろん言い値じゃけん、まだまだまかると思うが。」
 シャガが訝しげな表情になって言った。
「なるほど、それはわかったけど、なんでここらでは銀の値が安いの?」
海図4  勘蔵は、やや眉を寄せて答えた。
「イスパーニャ(スペイン)のせいじゃ。この国がアメリカで銀ようけ掘っちゃぁ、呂宋(ルソン)あたりに持って来よるけん。」
 張先生がそれを補足した。
「マニラの明国商人、絹や焼き物売って銀仕入れよる。その銀使うてあちこちで商いしよる。そのせいとよ。」
 シャガも、やや困った顔になって言った。
「そうか……。それなら仕方ないわね。」
 喜助が苦笑いして言った。
「まあ、こりゃ諦めるしかないわ。誰かが銀買い占めてくれりゃぁ、一挙に値も上がるんじゃろうが。」
 その言葉に一同は笑った。勘蔵も笑って言った。
「ハハハ、まあそうじゃな。但し、わしらの持っとる銀は、ここらで出回っとるのよりも質がええけん、その分胡椒はちぃと多く得られる思うわ。」
 シャガが言った。
「なるほど。それじゃ、さっきの一番安かったていう店で買えばいいのね?」
「そういうこっちゃ。」
 勘蔵はそう言うと、持っていた帳面を開いてシャガの方に向けた。そこには墨で市場の見取り図が書かれており、その一軒一軒の店の横に胡椒の値段が細かい字で書き込まれてある。
 シャガは勘蔵に尋ねた。
「種(たね)の方はどうだった?」
 勘蔵はやや残念そうな表情になって言った。
「種用の胡椒は売っとらんかったわ。」
「なんでだろうね?」
 そのシャガの問いには、ロクが答えた。
「そりゃ、よう考えてみりゃぁ尤(もっと)もなことじゃ。なぜなら、もし南蛮が胡椒の種手に入れて、ここらにある自分の土地でつくりよってみぃ。胡椒で飯食うとるもんは食えんようになってしまうじゃろう。
こりゃぁ地元の衆と親しゅうなって、わしらが胡椒つくるの認めて貰って種を分けて貰うしかないな。」
 深く納得したようにシャガが言った。
「なるほど、そうか。地元の人に嫌われては困るしね……。」
 そして彼女は、一同を見渡すとこう言った。
「それじゃ、栽培の件は後回しにして、今回は販売用の胡椒の買い付けだけにしようと思いますが、いかがですか?」
 みなは口々に言った。
「ほんでええぞ!」
「そいで良か!」
 さて、イタリアのヴェネツィア(ベニス)出身の商人であり旅行家でもある、マルコ・ポーロ(一二五四~一三二四)の体験談を綴(つづ)った「東方見聞録」という有名な書物がある。それによると、ジパングという島国は、宮殿や民家が黄金でできていると紹介されている。もしこれが日本のことを指しているとすれば事実とは異なるのだが、それは全く根拠のない話しでもない。なぜなら日本は古くから金銀を産しており、中国の皇帝に朝貢(ちょうけん)する品目の中に、それが含まれていた可能性がある。そのため、中国人経由のそのような話しに尾鰭(おひれ)が付いて、マルコ・ポーロに伝わったということも有り得るのだ。
 喜助や勘蔵たちも、これらの日本産の貴金属が外国との交易で重宝するということを今までの経験から良く知っていた。但し、先ほどの勘蔵の話しにも出たように、この時代のスペインに関しては、他の国々とは事情が異なっていた。スペインは既に数十年以上も前から、中南米の銀を奴隷を酷使して大量に採掘していた。それは、銀の価格を下落させて物価を上昇させるという、当時の世界経済の混乱の要因となっていた。
 その銀に最も高い値を付けるのが中国人であるということを勘蔵は知っていたので、今回彼が考えていたのは、まず日本から持って来た金銀で胡椒などを仕入れ、それをマニラに持って行ってそこの安い銀と替える。そしてシャムに行き、バンテンで売れそうな中国製の絹織物や陶磁器を仕入れたり、町に必要な物を中国商人から購入するということであった。
 但し、当時ヨーロッパで胡椒や香辛料を独占していたポルトガルを、スペインは一五八〇年に併合していた。要するに、この当時はスペイン国王がポルトガルも治めていたということだ。そのため、この商売がどれほどの儲けになるかはわからなかったが、試してみる価値はありそうだった。そして、もし儲けが大きければ、この航路を定期的に就航して交易を繰り返し、それによる利潤(りじゅん)によって瓶ヶ島町民の生計を立てることができるようになるはずだ。

 その翌朝、荷物運搬用の四頭の馬まで牽き連れて、胡椒の買い付けに勇んで出掛けた、勘蔵をはじめとする商隊の四人だったが、昼近くになってなんと空荷(からに)で帰って来た。
 最後に船べりから甲板に降り立った商隊長の勘蔵は、そこに出迎えていたシャガに向かって、照れ臭そうな苦笑いをしながら言った。
「……一年を十二の月に分けるっちゅうのは、南蛮もわしらも一緒じゃ。ところが天主教と回教にゃぁ七日一巡りの暦が別にあって、それぞれの日に「月」「火」「水」「木」「金」「土」「日」っちゅう名が付いておる。南蛮じゃぁ、その「日(にち)」の日(ひ)に店がみな休むっちゅうことは、わしも前から知っとった。
けど、回教じゃぁ「金」の日がその休みなんじゃと。それが、たまたま今日じゃった言うわけじゃ。ハハハ。」
 シャガも苦笑いして言った。
「なんだ、そうだったの。それは残念だったわね。」
 帆柱に掛けられた日除けの下には、商隊の結果報告を聞くために、主だった者と希望者が車座になっていた。板に乗せられた馬がクレーンで吊られて甲板に下ろされると、商隊の者は馬から馬具を外して甲板の所定の位置に繋いで来た。そしてみなの中央によっこらしょと座すと、隊長の勘蔵が申し訳なさそうに口を開いた。
「市(いち)に入ることは入ったが、昨日とは打って変わって店はどれも閉まっとるし人通りがほとんどない。まるで、違う街に来たかのようじゃ。
時間早過ぎたんかとも思うてしばらく待ったが、店は一向に開かん。たまたまそこに、杖付いた爺さんが一人通りよったけん、『今日、市は休みなん?』とポルトガル語で聞いてみた。すると、『そうじゃ。』言いやった。『ここは金曜日が休みなん?』と聞いたら、『ポルトガル人は日曜日を休みにしとるようじゃが、ムスリムは金曜日に休むいうこと、あんた知らんのか?』言うて呆れた顔された。」
 ロクが真剣な表情になって言った。
「なるほど、こりゃハヤテの言う通り回教のことも少しは知らないけんのぅ。」
 喜助も同じように言った。
「そうじゃな。回教もそうじゃが天主教についてもまた然りじゃ。これからはどちらとも付き合いしていかんならんけん。」
 シャガもまた同じように言った。
「商(あきな)いする相手がどういう物の考え方してるか、どういう慣わしがあるかをまず知っとくべきだったわね。そして、それを自分の物差(ものさし)で見るんじゃなくて、相手の立場に立って見ることが大事だと思うわ。」
 幼い頃から町育ちの継母(ままはは)によって見下(みくだ)され、価値観を押し付けられてきた村娘シャガのことを知っているその場の一同は、まだ若いながらも、このような発言ができる彼女に対して改めて尊敬の念を抱いた。
 現代の日本人は、結婚するときは十字架の前で愛を誓い、クリスマスやバレンタインデーにはパーティーをしたりプレゼントをしたりするが、正月は神社に初詣に行き、死ねば仏教のお経を挙げてもらう。これは日本人の宗教観が多神教だからであり、その物差しで見れば全然悪いことではない。今も世界のどこかで、人々を平和に導くはずの宗教の名によって血が流されていることを思えば、これは世界的に類を見ない長所だと言えるだろう。
 しかしこのような長所は、残念ながら日本国内や日本人同士のあいだでしか通用しない。一歩外へ出れば「無知」とか「無神経」といったような短所に転じてしまう。世界には一神教というものがあり、それを奉じている人の中には、自分の信仰を貫き通すために命を掛けている人もいるからだ。
 例えば、戦場となっている国の子供たちを励ますためにクリスマスプレゼントを渡すといったような行為は、日本人の感覚では良い思い付きだろうが、もしその子供たちがイスラム教徒で、その国で起きている戦争がキリスト教国の攻撃に端を発するものだったのであったとすれば、プレゼントを貰った方は複雑な気持になってしまうことだろう。
 このように、もし外国の人と友好関係を結ぼうと思えば、こちらの好意が誤解されないように、相手の価値観に対して配慮することが必要である。
 また、日本人特有の長所としてもう一つ挙げられるのが、周囲の人に対して細やかな配慮をして助け合う精神が比較的強いということだろう。古来からの村社会が今も生きているということだ。具体的に言えば、隣の人が留守のあいだに雨が降ってきたら、洗濯物を雨の掛からないところへ移してあげるというようなことだ。もちろんこれは、普段からの近所付き合いの上で成り立っていることではあるが。
 村社会の中では、お宮に住み着いているお貰いさん、御殿(ごてん)に住んでいる長者(ちょうじゃ)様、働き者、遊び人、赤ん坊、寝たきりの老人などといった実に様々な人々が共存している。そのため、たとえ一見何の役に立たないような人でも、仲間として認めてもらっている限りその社会の中では生きていくことができるのである。
 その一方、「隣の人は午後二時に家を出て、午後五時半に〇〇百貨店の紙袋を下げて帰って来た。」とか、「裏の一人暮らしのお婆ちゃんの家に、近頃孫と称する若い男が出入りするようになった。」とか、村内の人の動きをみな事細かに観察し合っている。これは治安の面で絶大な効果があるので、昔の日本は世界一犯罪の少ない国と自負するだけのことはあった。
 ところが、「過ぎたるは及ばざるが如し」と言うように、このような長所も度が過ぎるとやはり短所に転じてしまう。日本人は人目を気にする余り、ほんの些細なことでも誰からも咎(とが)められないよう神経質になっている人が多いが、この裏を返せば、それだけ日本人は他人のことを細かいことまでとやかく言っているということである。
 これは、村社会における短所というよりも、むしろ江戸時代に設けられた監視制度に端を発するものではないだろうか。十人組または五人組というこの制度は、表向きには相互扶助という利点もあったが、実質は権力者の仕組んだ監視制度であった。例えば、組内の誰かが切支丹(キリシタン)に改宗して罰せられれば、その組に所属する他の者も同様に罰せられるのだ。
 そのため、庶民は組の内部からそのような者が出ないよう絶えず互いに監視し合うこととなり、逆にいつも誰かから見られていることを意識する、いわゆる「人目を気にする」ということになっていくのだ。そのような意識は更に発展して、自分と他人を絶えず比較し、一々その優劣を評価しないと気が済まないという、実に湿っぽく矮小な考えに至ってしまう。
 しかも、この「人目」というのが曲者(くせもの)で、それは組内、町内、国内といった、ごく限られた地域に限定されている。このことは、明治になって日本国民が再び外へ目を向けるようになってから、北海道を手始めにしてアジア諸国への侵略と、それに伴う「人目」を憚(はばか)らない残虐行為、労働者の強制連行、婦人に対する従軍慰安の強要などを堂々と行なったことによって証明されている。
 ということは、このようなことを行なった日本人にとっての「人」とは日本人のことであり、それ以外の人は「人」ではなかったのであろう。その証拠に、中国人捕虜を「丸太」と称して生きたまま銃剣の稽古の材料にしたり、アメリカとイギリス両国民のことを「鬼畜」呼ばわりたこというようなことが、世界史の中に深く刻み込まれている。
「謙虚で礼儀正しく、義理と人情に厚い日本人が、そんなことをするはずがない!」
 これを書いている私だってそう思いたい。しかし、これは紛れもない事実であり、正しい歴史の一部分なのである。それを子孫に正しく伝えていくことは、今を生きる私たちの使命だ。私たちの子孫が同じ過ちを二度と繰り返さないようにするために。
 例えば、自分が誰かを傷付けてしまったとしよう。もし、その後で自分の傲慢さや心の醜さを素直に反省すれば、同じ過ちを再び犯す可能性は低くなるはずだ。ところが、自分は「謙虚である」とか「美しい」というように自分自身を偽って、人を傷付けたことを忘れてしまえば、再び同じ過ちを繰り返す可能性が極めて高くなる。
 だから、国の発展と向上を本当に真剣に考えている人ならば、この国の過去を覆い隠すような「美しい国」などという言葉を現時点では使えないはずだ。いや、話しがやや横道にそれてしまった……。
 さて、それでは先に述べたような監視制度が布(し)かれる前の日本人は、一体どんなだったのだろうか。
 これはあくまでも想像の域を出ないが、この時代の日本の人々は、平均して今よりも幾分かドライで大らかだったのではないかと思う。社会の基盤はもちろん村社会だが、現代のように周囲の人と同じようにすることが美徳とされていたのではなく、もっと自分自身を大事にしていたのではないかと思う。
 だからこそ、織田信長のような既成概念にとらわれない人物が出現し、キリシタン大名が次々と現れたり、人目をはばからない自由な発想で海外に職を求める者も続出していたのではないだろうか。
 白鷹丸の上の勘蔵は、再び話しを続けた。
「……ほいでのぅ、何もせず帰るのも癪(しゃく)じゃけん街を見物して帰ることにした。ほんなら、不幸中の幸い。えらいもんと会うてしもうたんじゃ。のぅ、みんな。」
 勘蔵が他の若い隊員たちの方を向いてそう言うと、それまで項垂れ気味だったその三人の背筋がピンと伸びて顔も笑顔になった。
「驚き桃の木サンショの木。」
「聞いてびっくり見てびっくり。」
「夢か現うつつか幻か。」
 三人が口々にそう言ったので、喜助は苦笑いしながら先を促がした。
「ハハ……、して誰じゃ? そのえらいもんとは?」
「それはのぅ、日本の侍じゃ。」
 勘蔵がそう言うと、一同は大きくどよめいた。
「何じゃと? 追っ手か!」
 滅多なことで顔色を変えない喜助が、やや緊張した表情になってそう言った。それにしても、勘蔵はじめ商隊の者はみな嬉しそうにしている。どうも変だと思った喜助は緊張をとくと、嗜めるように言った。
「……おい勘蔵や、お前のぅ、長い船旅で退屈しとったんはわかるが、戯言(ざれごと)にも程があるぞ。」
 真顔になった勘蔵は、手を横に振ってそれを否定した。
「いやいや、戯言ではない。そりゃ、退屈なときは戯言も言うが、こりゃ真(まこと)じゃ。」
「朝から酒飲んで幻(まぼろし)でも見よったんね。」
 誰かがそう言うと、勘蔵は苦笑いして言った。
「そりゃ、わしゃみなも知っての通り朝から酒飲む日もあるよ。けどな、なんぼそのわしでも、回教徒相手の商いに酒の匂いさせて行くほど阿呆ではないわい!」
 みなはどっと笑ったが、喜助は眉間に皺を寄せて催促した。
「ほんなら、そりゃ何もんじゃ。じらさんと早う言わんかい!」
「いや、わしもそのもんの話し聞いて驚いたんじゃがのぅ……。」
 一同は思わず身を乗り出すと、勘蔵のするその話しに耳を傾けた。
 勘蔵たち一行が空荷の馬を牽き牽き、閑散としたバンテン見物を始めて一も歩かぬうちに、日本風の服を着て遊んでいる数人の子供たちを道端で目撃した。その髪も日本の侍の子の結い方をしている。
 しかもその子供たちは、間もなくしゃがんだ一人を中心に手を繋いで輪になると、その子の周りを歌いながら回り始めたではないか! 今で言う「かごめかごめ」の遊びである。その歌を聞くに及んで、その場に立ち止まっていた勘蔵たちは、互いに顔を見合わせて確信し合った。
 その遊びが一段落してから勘蔵は、その中の一番年長と見られる少年に近付くと、武家の言葉で挨拶してみた。すると、ちゃんと武家の言葉でその返事が返って来たではないか!
 勘蔵たちは、これには大そう驚いた。まさか、このような場所で日本人に会おうとは思ってもいなかったからである。
 相手はまだ子供だったが、勘蔵は丁寧に自分の名と出身地を名乗ってから、「貴殿、日の本の民とお見受けいたす。もし差し支えなければ、この地に参られたわけをお聞かせ願えませぬか?」と問うた。すると少年は、まだ声変わりしていない声で「我(われ)の名は竹若丸(たけわかまる)と申しまする。」と言ってから、武家出身の父母に連れられて遥々(はるばる)この地まで来たのだと答えた。
 勘蔵は少年に向かって、極めて真剣な表情で言った。
「もしかなうのであれば、拙者、貴殿のお父君にお会いしとうなった。お楽しみのところをお邪魔して申し訳のうござるが、お家まで案内して下さりませぬか。」
 すると少年はこう答えた。
「よろしゅうござります、どうぞこちらへ。」
 そして、曲がりくねった狭い路地を通って勘蔵たちを案内した。
 しばらく行くと少年は、日本風の屋敷の門の前で止まった。勘蔵たちをそこで待たせた少年は、一人門を開けてその中へ入った。
 しばらくして、この屋敷の主(あるじ)と見られる三十代後半の中肉中背の男が、その中から姿を現わした。侍のように髷を結って四幅袴(よのばかま)を穿いてはいるが、現地の人が着ている袖がなく丈の短い薄手のチョッキのようなものを涼しげに着ている。その男は健康的に日焼けした顔を綻(ほころ)ばせると、気さくに挨拶をした。
「良う参られた! 拙者、二年前に大和(やまと)の国よりこの地へ出(い)で来たる、森山又成(もりやままたなり)と申しまする。」
 勘蔵も、自分の出身地と名を乗ってからこう言った。
「本日休日とは知らず、この街の市(いち)へ商品の買い付けに参りし折、日の本の童(わらべ)戯れしこと不思議に思い、ご子息(しそく)にご案内をお願いしたる次第、突然訪れたる無礼をお許し下され。」
 又成は微笑んで言った。
「いえ、詫びるには及びませぬ。どうぞお入り下され。」
 そして、勘蔵たち一行を門の中に招き入れた。馬を外に繋いでおくと盗まれるので、一行は馬ごと入るように言われ、四頭の馬はこの家の家人(けにん)が中庭に繋いだ。
 母屋に案内された一行は、広い板敷きの間に通され、家人によって敷き物に座るように勧められた。又成とその家族が奥から現れると、女中によって茶が出された。勘蔵を始めとする商隊のみなが自己紹介をすると、又成の若い妻に続き彼女とあまり年の違わぬ二人の息子たちも自己紹介をした。
 それが終わると、又成はこう言った。
「回教の慣わし、日本のそれとは甚(はなは)だ異なる点多く、初めはみな戸惑いまするが、たとえ相手が異教徒であっても、旅の者や商人(あきんど)に対しては、友好的でござるによって案ずることはござりませぬ。」
 また、この近辺には他に何人かの日本人が暮らしているということも言っていた。
 その後しばらくのあいだ、両者は互いに当り障りのない会話を交わしたが、突然訪れた上に長居するわけにもいかないので、勘蔵はやがて暇(いとま)を告げた。すると又成はこう言った。
「明晩当家にて小宴を催しますよって、皆様で参りませぬか?」
 勘蔵たちが、国外に出てから間もないということを聞いていたので、日本に関する最新の情報を知りたかったのであろう。勘蔵としても、この近辺の国際情勢や海外生活に関する知識が得られるので、快くその誘いに応じた。
「……というわけで、町長には事後承諾であい済まぬことでござるが、森山殿のお招きを受けたる次第じゃ。」
 勘蔵はそう言って話しを締めくくった。本人は意識していないのだろうが、その言葉は何となく武家言葉風になっている。
「なるほど、それで買い物しなかった割には帰りが遅かったのね。」
 シャガが微笑んでそう言うと、勘蔵は頷いて言った。
「左様(さよう)。どうじゃ、町長も行ってみんか?」
 ロクが眉を寄せて言った。
「まさか、酒ん中に毒仕込まれるっちゅうようなことはなかろうな?」
 それに対して勘蔵は言った。
「確かに、わしらに毒盛って殺し、その首を太閤に差し出しゃ褒美(ほうび)は出るじゃろう。しかし国の殿様から離れ、遥々(はるばる)この地で暮らしよる侍がそこまでしよるじゃろうか? ……わしゃそうは思わん。
わしら刀も差しとるし、わしの右腕肘から先ないのも見て、根っからの商人ではないこと、最初から見抜いとるはずじゃ。それを知った上で、そんな得体の知れぬ連中をいきなり母屋の広間に通すとは大した度胸じゃ。そうすると、あのもんも元からただの侍ではないのじゃろう。はっきりそうとは言い切れんが、なんとなくわしらと近いものを感じる。」
 日本の諸国をあちこちと旅し、様々な階層の人々と接してきた勘蔵が真剣にそう言うのだから、その言葉には少なからず説得力があった。
 シャガが、少しうきうきして言った。
「なんだかちょっと怖いけど面白そうね! 日本の人がここらの食材でつくる料理ってどんなかしら!」
 ハヤテも目を輝かせて言った。
「日本のもんが、この地でどげな酒飲んどるかもわかる。こりゃ楽しみじゃ!」
 しかしロクは、やや言いにくそうに言った。
「……ほんに残念なことじゃが、将軍はやめといた方がええかわからんぞ。」
 将軍とは喜助のことだ。勘蔵も引き続き真剣な表情で言った。
「そうじゃな、人相書き出とるやも知れんしのぅ。」
 彼らがまだ日本にいた頃、たった二三度であったが、戦闘の最中に喜助の顔は敵に見られている。「お尋ね者」と「人相書き」が制度として確立するのは江戸時代に入ってからのことだが、その原型となるようなものは当時から既にあった。
 喜助は笑って言った。
「ハハハ! わしが加わったがために、みなに毒盛られても困るしのぅ。留守番しとるけん、まあ、ゆっくり楽しんで来いや。」
 そうは言うものの、なんだかちょっと寂しそうだ。それに反して勘蔵は嬉しそうに言った。
「まあ、兄いの分も、しっかり飲んで食うて来るけん、心配要らんよ。」
 それを聞いた喜助は、目を剥(む)いて怒鳴った。
「こらっ! お前の人相書き、この町中に貼っちゃるわい!」
 これを聞いて、一同みな手を打って大笑いした。

 翌日の夕方、この賑わう港に激しい夕立があった。荷物運びの男や、物売りの少年、立派な身なりをした商人などといった、様々な階層の人たちが、みな建物の中に逃げ込んだりして、その雨を避けていた。
 やがて雨が上がり、雲間から濃厚なオレンジ色の陽が射してくると、石や煉瓦(れんが)造りの港街の建物も、そのあいだに植えられている緑の椰子の葉も、全てがキラキラと輝き始め、雨宿りしていた人々が再び路上や岸壁の上に姿を現わした。
 停泊中の白鷹丸からも、雨がやむのを待っていたかのようにして何人かの人影が次々と岸壁に降り立った。勘蔵を始めとする昨日の商隊の四人に加え、シャガ、ハヤテ、張先生、ロクの合計八人だ。
 路上のあちこちから白いもやが立ち昇り、街路樹の葉先の雫(しずく)がオレンジ色に光り輝く街を歩いた一行は、やがて街外れにある森山家の屋敷に到着した。その門は開けられており、勘蔵が中に向かって声を掛けると、家人たちが揃って出迎えた。勘蔵を始めとする一行の男たちが彼らに刀を預けると、今度は別の家人によって一行は母屋の板敷きの広間に案内された。
 そこは今で言う二十畳ほどの広さで、正面奥の白い漆喰の壁中央には見事な書が掛けられている。その左下には立派な太刀(たち)と脇差(わきざし)が飾られ、右下には刀と対峙するかのようにして、質素な和風の花器に清楚な白い花が見事に生けられている。
 その前の床には、椰子の葉で編まれた涼しげな座布団大の敷き物が二列に敷かれており、その掛け軸に向かって右側の一列に座るよう家人が勧めたので、一行はそれぞれがそこに並んで腰を下ろした。
 掛け軸の壁の反対側には廊下を挟んで庭園があり、それは一見日本風のようであったが、熱帯の珍しい植物が植えらいたので、なかなか風変わりであった。
 間もなくその廊下から、この屋の主(あるじ)と見られる男性が、二人の若者を後ろに従がえて入って来た。彼は笑顔でこう言った。
「みな様、良う御出で下さった。昨日お会いした方々には既にお伝え申し上げましたが、拙者(せっしゃ)大和の国より二年前にこの地に参った森山又成と申します。間もなく飲み物と料理が来ますよって、どうぞ楽になさってお待ち下され。」
 彼はそう気さくに挨拶すると、左側の敷き物の列の一番掛け軸よりに、胡坐(あぐら)をかいて座った。それに続く二人の若者は、又成の右側の席を一つ空けて、三つ目と四つ目の敷き物の上に次々と片膝を立てて座った。「正座」という座法が日本の作法として広まったのは、江戸時代になってからのことである。
 又成に近い方の若者が、まず床に手を着き頭を下げて言った。
「某(それがし)、又成が長男、一成(かずなり)にござります。本日は良う御出で下さりました。」
 彼が顔を上げると、その右隣りの若者も同じようにして挨拶した。
「次男の信成(のぶなり)にござります。お目に掛かれて嬉しうござります。」
 今度は一人の若い女性が廊下から入って来た。涼しげな小袖と袴を身に着けており、年の頃はまだ二十前、シャガと同じかほんの少し年上と見える。彼女は又成の左隣の席にやはり片膝を立てて座すと、両手を着いて丁寧にお辞儀をし、顔をやや上げてからこのように言った。
「又成の妻、和子(かずこ)と申します。生れは相模(さがみ)の国にござります。今宵(こよい)は、夫の我儘(わがまま)でわざわざご足労頂き、真に有り難く存じます。どうぞごゆるりと、おくつろぎ下さりませ。」
 上品な言葉使いではあったが、変に気取ったところがなく歯切れの良い口調だったので、シャガたちはみな好感を持った。
 客の方からはまず、又成の向かいの席のシャガが両手を揃えて床に着き挨拶をした。
「初めまして。私は瓶ヶ島町長の北浜シャガと申します。生れは双美(ふたみ)ヶ島です。昨日勘蔵の方からお聞き頂いたとは思いますが、このたびこちらで商いをするためにやって参りました。日本を出てからまだ日が浅いので、この土地ではわからないことだらけです。色々と教えて頂けると助かります。これは、ほんの僅かですが、日本の乾物です。」
 シャガが自分の目の前に置いていた、一抱えほどの大きさの包みの布をほどくと、そこからは桐の木でつくられた箱が現れた。彼女はそれを又成と和子の方へすっと差し出して、
「……どうぞ。」
 と言った。
 又成たちはシャガたちに向かって頭を下げ、まず又成が礼を述べた。
「それはそれは、有り難う存じます。」
 続いて和子が嬉しそうに礼を述べた。
「こちらでは極めて貴重な品、誠に有り難う存じます。」
 海外に住む日本人への手土産で昆布や鰹節が喜ばれるのは、今も昔も恐らく変わらないことだろう。
 今度はシャガの左隣の席のハヤテが、彼女と同じようにして自己紹介をした。
「お初にお目に掛かります。町長の助役でありその夫でもあるハヤテと申します。生まれは安芸の国です。本日はお招きを頂き、誠にありがとうございました。どうぞよろしくお願い致します。」
 その左隣のロクも、同じようにして自己紹介した。
「お初にお目に掛かります。白鷹丸船長のロクと申します。生れは同じく安芸の国です。このたびはお言葉に甘えて図々しく参上致しました。」
 そのまた左隣の張先生も、日本風に両手を床に着いて自己紹介をした。
「お初にございます。私、明国出身の張耀昌(チャンヤオチャン)あります。町の医者しております。」
 この四人とも、このような挨拶をするのは生れて初めてのことだったが、近頃の日本の上流階級ではこのようにするのだと、こちらに向かう前、船の中で勘蔵から特訓を受けて来たので、なんとか粗相(そそう)なく済ませることができた。
 それに続いて、その左の席の勘蔵を始めとする商隊の四人も次々に挨拶したが、彼らは昨日来たとき既に自己紹介を済ませているので、簡単なものに留めた。
 主客互いに挨拶が済むと、又成はシャガ一行に向かって、やや不思議そうにこう言った。
「……ときに、勘蔵殿が商隊長というのは先日お聞き致しましたが、シャガ殿は町長と申されましたか?」
 それには勘蔵が微笑んで答えた。
「左様。ほんの二(ふた)月ほど前に就任したばかりでござる。若い女子ではありますが、これがなかなか良うできた町長でのぅ。」
 そのように言われたシャガは、照れてこう言った。
「いえいえ。あたしはただ、お神輿(みこし)に乗せてもらってるだけなんです。」
「うむ、そのお言葉を拝聴するだけでも、勘蔵殿の言(げん)は真(まこと)と察し申す。」
 又成は真剣な表情でそう言ったが、一成と信成は、信じられないといったように目をぱちぱちさせて、向かい側の列で最も上座のシャガの顔を見ているだけだった。当時の武士の世界では、男子が幼年にして家督(かとく)を継ぐということはあっても、一行の中では最年少と見受けられる女性が、選出されて長になるということは、まず有り得ないことだったからだ。
 このとき、廊下を歩く何人かの足音が近付いて来た。それは広間の外で一旦止まり、そこから若い女の声がした。
「お飲み物とお食事を、お持ち致しました。」
 その声に向かって又成は、気さくな口調で言った。
「おう、入って並べてんか。」
 すると、飲み物の入った器や料理の乗った膳を両手に捧げ持ったお給仕が三人、次々と廊下から広間に入って来た。三人とも十代なかばくらいの女性で、最後の一人は日本の小袖を身に着けてはいるが、顔立ちからすると当地の娘のようだった。
 彼女たちはまず客人の前に膳を置くと、その上にグラスを乗せ、そこに急須(きゅうす)に入った焼酎とおぼしき飲み物を注いでいった。現在の日本なら、この容器は茶を入れるための専用の道具のようになっているが、当時ではこのようにして酒類を注ぐためにも使われていたのだ。
 その後、彼女たちは厨房と広間のあいだを何往復かして、次々と膳を並べていった。
 中庭では早くも夜の虫が鳴き始めた。日本のものとは違って大ざっぱでけたたましいが、それがまた南国の夕暮れにはよく合っている。
 このとき庭の向こうに見えている石塀の外から、虫の音に掻き消されそうになりながらも、歌うような男の声が微かに流れて来た。シャガたち一行は、思わずそれに聞き耳を立てたので、それを察した又成が説明した。
モスク 「回教寺院の尖塔の上から発せられる、祈りの言葉でござる。」
 それに対して勘蔵が尋ねた。
「これと同様のものを、この港でも何度か耳に致しましたが、何語にて唱(しょう)されておるのでござるか?」
 又成がそれに答えた。
「アラビ、即ちアラブ語でござる。」
 ロクが言った。
「バンテンでアラブ語を耳にするとは、また珍しいことじゃ。」
 又成は微笑んで言った。
「回教は、いずれの国においても、その祈りは全てアラブ語にて行なわれるとのことでござる。」
 張先生が言った。
「明国の回教徒も、そがんことしちょったとです。」
 ハヤテは又成に向かって尋ねた。
「何と言うておるんですか?」
 又成はそれに答えた。
「『神は偉大なり』と言うておるとのことでござる。」
 和子が言った。
「一日五回、決まった時刻になりますと聞こえて参るのでござります。」
 和子は席を立つと、独り言のようにこう言った。
「……さて、明かりをともしましょう。」
 そして廊下に出た彼女は、間もなくどこからか、火のともった小さなランプを一つ持って来た。気が付けば陽が沈み掛けているようで、室内はかなり暗くなっている。
 広間の壁のあちこちには小さな棚が設けてあり、その上にはそれぞれ、大人の手の平ほどの大きさの銅製のランプが置かれている。彼女は踏み台を持ち歩き、それに登っては、そのランプ一つ一つに、持って来たランプで火をともして回った。すると、白い漆喰の壁にその光が反射して、部屋の中は柔らかな光で満たされ。
 シャガは、お給仕の一人が自分のグラスに飲み物を注ごうとしたので、慌ててこう言った。
「あ! あたし、お酒は頂きません。」
 お給仕は笑顔で言った。
「それでは、お茶を進ぜましょうか?」
 シャガはそれに答えた。
「はい。勝手言って済みません。」
 又成が尋ねた。
「酒の類(たぐい)は、お口に合いませぬか?」
 シャガはちょっと照れて言った。
「いえ、ほんとは飲むんですけど、まだ乳離れしていない子供がいるもんで、今はやめてるんです。」
 そのシャガに向かって、ロクがからかうような口調で言った。
「シャガとハヤテの息子なら、乳に多少酒が混ざっとる方が、かえってええかわからんぞ。」
 するとシャガは、顔を真っ赤にしてこう言った。
「船長! それじゃ、まるであたしが大酒飲みみたいに聞こえるじゃないですか!」
 それを聞いて一同は大笑いし、その場の空気は一気に和んだ。
 間もなく、広間の中央に大きな白い布が敷かれ、そこに陶製や銅製の大きな皿に盛られた様々な料理が並べられていった。日本の膳の形式とはかなり異なっており、各自の膳に乗せられていたのは、香の物、酢の物、吸い物が入れられた陶製の器と竹の箸、そして大きな陶製の取り皿だけだった。この取り皿の上に広間中央の各種料理を、お給仕の者が盛り付けてくれるのである。
 みなに食べ物と飲み物が行き渡ると、和子は廊下に出て、そこに一人残って控えていたお給仕の娘に、先ほどの小さなランプを手渡しながらこう言った。
「おミツや。後はわたくしがしますゆえに、これを台所に戻したら、もう休んでくれてもよろしゅうござりますよ。」
「はい、かしこまりました。」
 そう言ってランプを受け取ったおミツは微笑んで一礼すると、立ち上がって廊下の奥へと去って行った。
 全員に料理が行き渡ったので、和子が又成に言った。
「さ、始めませぬか。」
「うむ、そう致そう。」
 和子にそう言った又成は、シャガたちに微笑み掛けてこう言った。
「それではみな様、当家手製の粗末な焼酎と料理でござるが、どうぞ召し上がって下され。」
 又成のその言葉によって飲食が始まると、まず和子が微笑んでこう言った。
「当家では、遠方よりお越しになられましたお方から、日の本や世界のお話しをお伺いするまで、お客様の器を空にさせぬのが習わしにござります。斯様(かよう)な家に捕われしは運の定めと、どうぞお諦めなさって下さりませ。」
 その冗談に対して勘蔵は笑って応じた。
「ハハハ! 日の本を出てからまだ日の浅き身共(みども)にとりまして、それは何とも有り難き捕縛(ほばく)でござる。」
 シャガたちは、それからしばらく珍しい料理の数々を味わいながら食べていた。
 勘蔵は、自分の取り皿に乗せられている煮物と揚げ物を指差すと、又成たちに向かって尋ねた。
「この白い芋と黄色い芋は、美味(びみ)でござるが、何という名でござるか?」
 それには和子が答えた。
「煮物の白いものは『二度芋』、揚げ物の黄色いものは『栗芋』でござります。いずれもその昔、ポルトガルがこの地に持って参ったとのことでござりますが、ポルトガルはイスパーニャより手に入れたと聞いておりまする。二度芋は年に二度も採れまするゆえに、また栗芋は栗のような色と甘味がありまするゆえに、わたくしどもはそう呼んでおりまする。」
 「二度芋」とは現在の「ジャガイモ」、「栗芋」とは「サツマイモ」のことである。
 勘蔵は感心して言った。
「ほう、なるほど。それはいずれも結構な芋でござるな。」
 三人の若い隊員たちも、自分の皿のそれらの芋を食べながら口々に言った。
「こりゃぁ大発見ぞ!」
「年に二度も採れるとは有り難いこっちゃのぅ!」
「瓶ヶ島でもつくらんね!」
 それを耳にした又成が言った。
「年に二度採れまするが、茄子と同じくして、三年より多く間を置いて蒔きませぬと満足に育ちませぬ。栗芋はその必要はなく、痩せた土地でも毎年つくれます。まあ、いずれもあれば重宝(ちょうほう)致しまする。」
 今度はハヤテがヒーヒー言いながら、自分の取り皿に盛られた料理の一つを指差して尋ねた。
「わしゃこの辛さがたまらん! これはなんと言う料理ですか?」
 それにも、ハヤテの向かいの席の和子が微笑んで答えた。
「それは、鶏と茄子の天竺煮(てんじくに)でござります。」
 ハヤテは、自分の右隣の席のシャガの脇腹を肘で突付くと小声で言った。
おい、つくり方聞いとかんか!
 シャガが和子に尋ねた。
「和子さん、この煮物のつくり方、教えて頂けませんか?」
 和子は、箸を置いて言った。
「宜しゅうござります。紙に書いて進ぜましょう。」
 当時の日本人の常識からすると、紙に字を書くということは、まず墨を磨(す)るという作業から始めなければならないので、シャガは遠慮してこう言った。
「いえ、いいです。いいです。憶えますから、どうぞ言ってみて下さい。」
「香料の種類が、いささか多うござりますが、宜しゅうござりますか?」
 和子がそう確認したので、シャガは微笑んで言った。
「ええ、多分。」
 和子は、シャガに覚えやすいようにと気遣い、ゆっくりとした口調で、ところどころ間隔を開けながら言った。
「まず鉄鍋を弱火で熱し、鍋が充分温まりましたら、そこに椰子油を多めに敷きまする。……そこに丁子(ちょうじ)肉桂(にっけい)小荳蒄(しょうずく)、……胡椒、唐辛子、馬芹(ばきん)コエンドロ、を入れて炒めまする。……香りが出ましたら、そこに細かく切った大蒜(にんにく)とセボラを加え火を少し強めまして更に炒めまする。……セボラの色が変わりましたら、刻んだ赤茄子を加え……」
 説明はまだ途中だったが、シャガは両手で頭を抱えると、申し訳なそうに言った。
「……あー! 和子さん、ご免なさい。やっぱり駄目です。とても憶えられません。知らない物の名前が多過ぎて……。」
 和子は微笑んで言った。
「左様でござりましょう。しばらくお待ち下され。」
 そして席を立つと、自分の背後にある戸を開けて、その闇の中に入って行った。
 当時の日本人の感覚からすると、煮物に使う香辛料と香味野菜は、せいぜい唐辛子と生姜と葱くらいだったので、シャガとしては、その数の多さにさぞ驚いたことに違いない。
 そのシャガたちに向かって又成が言った。
「身共(みども)も、この地を訪れし折(おり)、香料や野菜の種類の多きことに目を見張りました。
この界隈(かいわい)は胡椒も然(さ)ることながら、その他様々な香料の宝庫でござります。それを求めて古来より世界各地から、様々な人が様々な産物を携えて集まって来ておったとのことでござります。
近年では、ノエヴァ・エスパーニャからの産物も多うござる。それが二度芋、栗芋、唐辛子であり、赤茄子なのでござります。」
 ノエヴァ・エスパーニャとは、現在のメキシコ共和国とアメリカ合衆国南西部にまたがる、当時のスペイン植民地のことである。
 張先生が、持ち前の太く大きな明るい声で言った。
「丁子、肉桂、小荳蒄、胡椒、唐辛子、こいみな明国では薬にしますとよ。そがん薬あれこれ混ぜてつくる料理、色々あります。」
 隊員の一人が尋ねた。
「ほんなら、わしらがこれから仕入れようとしておる胡椒は何の薬なん?」
 張先生がそれに答えた。
「胃の働きば強うするとよ。」
 筋骨隆々とした森山家長男の一成が言った。
「なるほど、それで斯様(かよう)な料理をたくさん食しても、滅多に腹を壊さぬというわけでござるな。」
 次男の信成が父に向かって言った。
「とと様、張先生は物知りでござるのぅ。」
「お医者様じゃからのぅ。
……それは良いとしても、信成や。元服が済んでから後は、『ととさま』ではなく、『父上』と呼ぶよう言うたに。」
 又成は息子の意見に同意してから、優しく嗜めるようにそう言った。
 彼らが引き続き香辛料の話しで盛り上がっていると、和子が大きな長方形の盆を持って廊下の方から入って来た。彼女はその盆をシャガの目の前の床の上に置くと、一枚の紙をシャガに手渡してこう言った。
「お待たせ致しました。これはつくり方を書いたものでござります。また、その食材もこれに持って参りました。中には粉にする前のものもあります。みな様で篤(とく)とご覧あれ。」
 その盆の上には、香辛料と香味野菜を種類ごとに入れた、たくさんの小皿が所狭しと並んでいたので、それを見たシャガたちは感嘆の声を上げた。
「おぉーっ!」
 シャガは和子に向かって、目を輝かせて言った。
「和子さん、どうも有り難うございます! このようにして見せて頂けると、香料や野菜のことをみなで学べます!」
 そして、和子から受け取った紙にざっと目を通したシャガは、彼女に向かってこう尋ねた。
「……もしかすると、この炒め煮の赤い色の元になってるのが、唐辛子と赤茄子なんですか?」
 和子はそれに答えた。
「左様でござります。既にご存知のことと思いますが、唐辛子は炒めますと辛味と少量の赤い色を出します。一方の赤茄子は生で召しても美味しゅうござりますが、このようにして大蒜やセボラなどと共に油で炒めますと、その鮮やかな赤い色もさることながら、料理に旨味が加わります。
いずれも元はイスパーニャから伝わりしものでござりますが、今ではこの近辺の方々も、斯様(かよう)にして料理に使うようになられたとのことでござります。」
 シャガが、納得したように言った。
「なるほど。以前、呂宋(ルソン)で何かの料理を食べたときにも、赤茄子が使われていたことを思い出しました。
その他、唐辛子と胡椒は私にもわかりますが……、」
 そう言って盆の上を見渡しながら、シャガは再び尋ねた。
「……丁子というのはどれなんですか?」
丁子  盆を挟んでシャガと向き合った和子は、中腰になってそこから小皿の一つを取り上げると、それをシャガに手渡してこう言った。
「これでござります。まずは香りをお試しあれ。」
 シャガはその小皿を受け取ると、鼻先に近付けてみた。
「うーん、なるほど。これは強烈だわ……。」
 シャガはそう言って隣のハヤテにそれを回した。ハヤテも、それを嗅いでから言った。
「うっ! こりゃ、薬の臭いじゃ。」
 そして、それをそのまた隣のロクに回した。そのあいだ、又成がその説明をした。
「この丁子、モルッカ諸島周辺のみにしか産せず極めて貴重ゆえに、エウロペにおいては胡椒の数倍の値が付くと聞いておりまする。」
 それを聞いたシャガたちは、目を丸くして互いに顔を見合わせた。丁子が乗った皿を隣の席のロクに手渡しながら、勘蔵はやや驚いた表情で又成に言った。
「ほう、拙者はまた、南蛮との商いでは胡椒こそがもっとも利が大きいと思うておりましたが。」
 又成は真剣な表情になって言った。
「以前は左様でござったとのこと。丁子が日の本にて知られるようになることまだ日が浅きゆえに、それをご存じなきは当然のことにござりましょう。」
 勘蔵が尋ねた。
「では、その買い付けには、何処(いずこ)へ参ればよろしゅうござるのか?」
 又成は、それに答えた。
アンボイナでござる。ここはモルッカ諸島最大の港町で、ポルトガル船も多数出入りしておると聞いておりまする。」
 それを聞いたシャガたちは、みな真剣な表情になって頷いた。
 このようにしてこの宴は、未知の香辛料や野菜を実際に手に取って見せてもらい、それらを使った料理を堪能(たんのう)し、その仕入先まで聞けるという、貴重な勉強会を兼ねることとなった。勉強と遊びを分離させ、知識を機械的に脳細胞に憶えさせようとさせるような教育とは違い、当時の人々はこのようにして新しい物事を、体ごと楽しみながら学んでいたのである。
鬱金(うこん)  張先生が、それぞれの食材の薬効について、素人にもわかるような説明を加えたので、それは森山家の者にとっても新しい知識となった。鬱金(うこん)の説明で張先生はこう言った。
「……鬱金は肝臓の働きば強うする薬とよ。」
 それを聞いたハヤテが、自分の杯を持ち上げて嬉しそうに言った。
「ほう! ほんなら二日酔いにも効くんかのぅ?」
 張先生は、叱るような口調で言った。
「それ見越して大酒飲みゃぁ、効くもんも効かんなるばい!」
 それがまるで子供を嗜めるようだったので、その場の一同はみな大笑いした。
 この話題が一段落すると、自分の席に戻っていた和子が、シャガに向かって言った。
「シャガさんは、町長のお仕事と家事育児を両立させておられるのでしょう? それは大変なことでござりまするのぅ。」
 シャガは笑顔でそれに答えた。
「ええ、よくそう言われるんですが、小さな町なので普段はあまり町長の仕事はないんです。たまに忙しいときもありますが、そんなときは家にいる妹たちが、代わりに子供に乳をやってくれることもありますし……。
それよりも、『あれが食いたいこれが食いたい』って言う、こっちの方がずーっと手が掛かって……。」
 「こっち」と言うところでシャガは自分の左隣のハヤテを指差したが、彼は又成父子がしている自家製焼酎づくりの話しにすっかり夢中になっており、それには気が付かなかった。
 その後、最近の日本の天下の様子や、文禄の役(えき)による東アジアの国際情勢などの勘蔵の話しを、森山一家は身を乗り出して聞き入った。
 一方張先生は、近頃の明国が蒙古などから受けている侵略についてや、倭寇が収まっと思ったら今度は秀吉が朝鮮に侵攻したので、朝鮮を援助したために今の明国は財政が破綻しかねないような状況になっているという重大な話しをした。これにも森山家の者は興味深く聞き入っていた。
 それらの話しが一段落すると、和子が料理をみなの皿に補充して回った。 このとき、トコトコと廊下を走って来る音がして、障子の陰から可愛らしく髪を結った子供が顔を覗かせた。勘蔵がそれに気付いて言った。
「おー! どにおるかと思うておったら、夕餉を召されておったんじゃな! 竹若丸、こっちへおいで!」
 その言葉により、年の頃十前後と見られる一人の少年が広間に入って来ると、勘蔵のそばに立ってニッコリと笑った。それは昨日蔵たちをこの屋敷に案内した又成の三男だった。彼はまだ子供だったので、この酒宴には加わらなかったのだが、どんな客が来ているのか気になったので、こっそり見に来たようだ。
 勘蔵は、自分の懐から巾着と和紙を取り出すと、巾着の中から取り出した物をその和紙で包み、若竹丸に向かってこう言った。
「先日は案内してくれて、どうも有り難う。これは少ないが、そのお礼じゃ。」
 勘蔵が竹若丸にそれを手渡すと、それを受け取った竹若丸は丁寧にお辞儀をしてこう言った。
「有り難う存じます。」
 そして彼は、早速両親のところへそれを報告しに行った。
「とと様、かか様、勘蔵殿よりこれを賜(たまわ)りました。」
 父と母のあいだに座った竹若丸は、今貰ったばかりの包みを開けて、その中の物を見せた。又成はその小さな物体を手に取ると、しばらく裏向けたり遠く近くしたりして見ていたが、それが何かわかったので竹若丸に向かってこう言った。
「おぉ! これはイスパーニャの切り銀じゃ。必要に応じて切り、その目方を量って使うのじゃ。竹若、大事に使えよ。」
 又成は勘蔵の方を向くと、今度は丁寧な口調で言った。
「勘蔵殿、愚息(ぐそく)に高価なる物を賜り、かたじけのうござる。」
 勘蔵は微笑んで言った。
「いやいや、竹若丸殿のお陰で、貴殿とこのようなご縁が結ばれたことを思えば、それでも足らぬくらいでござる。」
 そしてやや真剣な表情になると、勘蔵は又成に向かってこう尋ねた。
「ときに又成殿、オランダという国とイングラテラという国の船が、近頃南蛮船を襲うておるというのは真でござるか?」
 又成は表情をやや緊張させると、その問いに答えた。
「真でござる。そのうちこの界隈の島々にも、戦火が及ぶことでござろう。」
 今度はロクが尋ねた。
「オランダとは、いかなる国なんですかのぅ?」
「元はイスパーニャの中の一つの州だったようでござるが、独立のために近頃、イスパーニャに対して戦を起こしたと聞いておりまする。そこの民の話す言葉は、南蛮のそれとは異なっておるそうでござる。」
 又成がそう答えると和子が言った。
「又成殿、私も思わず言うてしまうこともござりますが、『南蛮』という言い方は蔑(さげす)んだ言い方で、あまり良うござりませぬ。」
 又成は頭を掻きながら苦笑いして言った。
「イスパーニャ・ポルトガル両国と言うと長いので、ついこの言い方になってしまうが、確かにそなたの言う通りじゃ。以後改めるわ……。」
 勘蔵が、先ほどの又成の答えに対する確認をした。
「……なるほど、ポルトガル語とイスパーニャ語、音の発し方は違うが、いずれも言葉の並びや綴(つづ)り方は良う似ておるようじゃ。されど、オランダ語はそれらとまた違うということでござるな?」
「左様(さよう)。むしろ音の発し方、言葉の並び、綴り方のいずれも、イングラテラの言葉に近いと聞いておりまする。」
 又成がそう言うと、勘蔵が真剣な面持ちになって言った。
「又成殿。オランダ・イングラテラ両国も、ポルトガル・イスパーニャ両国同様、胡椒や香料の利権を得ようとするであろうと拙者は見ておるが、貴殿はいかに思われるか?」
 先ほどの和子からの指摘によって、勘蔵も南蛮という言い方を改めている。又成は、引き続き真剣な表情で言った。
「拙者もそれに同感でござる。やがてこの町も、それらの国によって攻略されるときが来たるでありましょう。『それを充分心しておけ』と、日頃から家人に言うて聞かせておるところでござります。」
 勘蔵が尋ねた。
「と仰せられるということは、もしや貴殿は回教徒側の将兵にあらせられるか?」
「左様。」
 真剣な表情でそう言った又成は、焼酎が入った自分のグラスを持ち上げると、微笑んでこう言った。
「ご覧の通り回教徒ではござらぬが、その雇われ兵でござる。」
 今度はロクが尋ねた。
「ほう、それで回教のことを良うご存知なのですな。」
 又成が言った。
「左様。熟知しておるわけではござらぬが、それなりに存じておりまする。」
 ハヤテが尋ねた。
「それでは、こちらが回教徒ではなくても、回教の信徒とは付き合いできるんですか?」
 又成がそれに答えた。
「左様。そのためには、お互いの考え方や習慣を尊重し合わなければなりませぬが。」
 ハヤテがまた尋ねた。
「なるほど、回教の考え方や習慣とは、大体どげなことなんですか?」
 又成は答えた。
「例えば、酒の酔いは神への祈りを妨げるとされておるゆえに、酒の類を飲むことは控えるよう定められておりまする。また彼らは、決められた時刻に聖地に向こうて祈ることも定められておりまする。」
 ハヤテが納得したように言った。
「なるほど……。それが先に聞こえた祈りの言葉なんですね。」
 又成は微笑んで言った。
「左様。厳密に言うと、あれは町の人々に祈りの時が参ったことを告げる呼び掛けなのでござる。」
 今度はシャガが尋ねた。
「それでは、回教徒の人を家にお招きするときには、どのようなことに気を付ければいいんですか?」
 それには和子が答えた。
「回教徒のお客様をお招きするときは、酒の類は出さぬこと、豚肉に関わる物は一切料理に用いてはならぬこと、その他の肉でも必ず回教徒が営む店のものを用いること……。」
「それは、回教徒が儲かるようにしとるいうことですか?」
 話しの途中でハヤテがそう尋ねたので、和子がそれに答えた。
「いえ、結果としてはそうなりましょうが、真(まこと)の理由は他にあります。
神に祈りを捧げ、その教えに従ごうて屠殺(とさつ)された肉以外は食(は)むべからずという掟が、その教えの中にあるからでござります。」
 隊員の一人が言った。
「ほんなら、金毘羅さんにお祈りして絞めた鶏ならええちゅうことですかのぅ?」
 和子が苦笑いして言った。
「それは、わたしくしどもには有り難きものになりましょうが、回教徒にとりましては何の意味も持ちませぬ。」
 ハヤテが尋ねた。
「ほんじゃ、その回教の神さんは何と呼ぶんですか?」
「アッラーと申しております。回教徒が祈りを捧げるのは、全てこの神のみでござります。」
 シャガたちは納得して口々に言った。
「なるほど……。」
「うーん、そうじゃったんか……。」
 和子は言った。
「先ほどの続きになりますが、相手に料理などの物を差し出すときは必ず右の手にて行なうことも、大事なことでござります。」
 シャガが尋ねた。
「それは、右利き左利きといったことでですか?」
「いえ、それも結果的にそうなるのでござりますが、右手は清い手、左手は不浄の手とされておるからでござります。」
 それを聞いた勘蔵が苦笑いして尋ねた。
「それでは、拙者の如き右手なき者は、いかが致せばよいのでござろうか?」
 和子がそれに答えた。
「それなら、左の手を用いても差し支えござりませぬ。」
 勘蔵が言った。
「……なるほど、融通が利くのでござるな。」
 今度は一成が言った。
「左様でござります。その他、女子の髪は布で覆うべしなどといった細かい決め事が多々あるようでござりますが、先方もこちらが異教徒であることを存じておるので、大概(たいがい)のことは見て見ぬ振りしてくれるようでござります。」
 又成が微笑んで言った。
「回教徒も仏教徒と同じくして、熱心な者からそうでもない者、善人もおればそうでない者もおりまする。しかしながら、仮に相手が異教徒であっても、旅の商人に対しては友好的なのが一般の回教徒でござる。こちらから相手を傷付けたり辱めたりしない限り、まず問題は起こりませぬ。」
 ロクが尋ねた。
「又成さんは先ほど傭兵であると申されましたが、他の日本の方々は、いかようにしておられますのか?」
「身共と同じ職の者もおりますが、商いを生業(なりわい)とする者が最も多うござる。」
 又成のその答えを聞いて、今度は勘蔵が尋ねた。
「ほう、何を商うておられますのか?」
「様々でござるが、この界隈の香料を仕入れ、それをイスパーニャ・ポルトガル・明国などの商人に売って銀を得ておるようでござる。近年では明国より絹、陶磁器等を銀によって仕入れ、それらをイスパーニャ・ポルトガルに売って再び銀を得るというのが最も利が多いと聞いておりまする。」
 又成のその答えに、シャガたち一同は真剣な表情で頷いた。
 勘蔵がまた尋ねた。
「なるほど。それなら他の地にも、斯様な商いをする日本人が、おられるのでしょうか?」
 又成は微笑んで答えた。
「左様。拙者の知るところのみでも、シャムのアユタヤ、ルソンのマニラにもおられると聞いておりまする。それらの人の数は年々増えておるとのことでござる。」
 それを聞いたシャガたちはみな驚いた。勘蔵が言った。
「おや、それは驚きました。異国に住まいして商いする者が年々増えておるとは兼ねがね聞いてはおりましたが。」
 又成は微笑んで言った。
「されど、貴殿が住いされておるような『町』と呼べる規模のものは、まだまだ珍しゅうござりましょう。」
 勘蔵はまた尋ねた。
「万に一つ、もしオランダが当地に侵攻し、ここを追われたとあらば、貴殿は日本へご帰還なさりまするか?」
「いえ。日本にはもう何の未練もござらぬ。」
 そう言った又成の顔色が、一瞬ほんの僅かだが変わった。それを見逃さなかった勘蔵は、又成に向かって微笑みながらやや口調を改めて言った。
「……又成殿。」
 又成は、やや真剣な表情になって尋ねた。
「いかがなされた?」
 勘蔵は引き続き微笑みながら言った。
「又成殿。無礼を承知で申し上げるが、貴殿が日本に住まわれしときの生業を、拙者ただ今察したところでござる。」
 しかし又成は怒りもせず、不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「ほう、それは面白い。実は拙者も貴殿の以前の生業を既に察しておる。」
 その瞬間この部屋の中に、俄かに緊張が走った。誰もが話しをやめ、固唾(かたず)を飲んでこの二人の動向を見守った。
 勘蔵も不敵に笑って言った。
「ハハハ! 面白い! それなら、一二の三でお互い同時に、それを言い当てようではござらぬか。」
 勘蔵のこの提案に又成も同意した。
「承知した。」
 そして、横に座っていた竹若丸に向かって言った。
「それでは竹若、お主『一、二の三』と言うのじゃ。」
 父にそう命じられた竹若丸が、まだ声変わりのしていない高く澄んだ声で叫んだ。
一! ……二の! ……三!!!
 勘蔵と又成は、それぞれ相手を指差しながらほとんど同時に叫んだ。
山賊!!!
海賊!!!
 そして二人とも、相手を指差したまま涙が出るほど大笑いした。
ワッハハハハ!
ワハハハハ!
……見抜かれておるとは思うとったが、わしの方も図星じゃろうが?」
 勘蔵がそう言うと、又成は苦笑いして髷を結った頭を掻きながら言った。
「……いやいや、これは恐れ入った。今までこの家には数多くの客人にお越し頂いたが、わしのこと、ここまで見抜いたもんは、お前はんが初めてです。
そもそもな、お前はんたち初めて門の中から見たときに、『ああ、この人ら、わしらに近いわ』思いましてんえー。ほんでみー、こりゃ何かのご縁かな思うて、屋敷にお通ししましてん。ほなみー、お前はん『商人や』言うてはる割には刀差してはるし、刀傷負うた人もいてはりますやろ。ほんで『あ、こりゃ元からの商人とちゃうわ』思いましてん。」
 又成が緊張を解き、自分の国の言葉で話し始めたので、周囲の者はみなホッと胸を撫で下ろした。
 特にロクに至っては、
『……又成はまず真っ先に、その左にある掛け軸の下の刀を取って抜くに違いなく、勘蔵も立ち上がって応戦することになるだろう。そうなれば、二人の息子は一番近くの男性であるハヤテと自分を次々と襲ってくるに違いない。そうなる前に自分は素早く立ち上がり、ハヤテの後ろを通り抜け、シャガを拳法の達人である張先生に預たら、壁のランプを叩き落して相手を攪乱させ……』
 というところまで考えていた。
 ロクにとって幼馴染ではあったが、こういうときの勘蔵には、いつもハラハラさせられる。
 額の冷や汗を手の甲で拭ったロクは、又成と談笑している勘蔵に向かって、顔を真っ赤にして怒鳴った。
やい! こら!! 勘蔵めっ!!!
 勘蔵はロクの方を向くと、きょとんとした顔で言った。
「何じゃお前、騒々(そうぞう)しい。」
 ロクは苦笑いしながら更に怒鳴った。
お前、鬱金(うこん)煎じて飲まんかい!!!
 勘蔵は笑って言った。
「ハハハ! わしの肝臓、今以上強うしてどうする。」
 ロクは、引き続き苦笑いしながら怒鳴った。
『肝の臓』強うするためではないわ!! お前のその無鉄砲病治すための『勘蔵』の薬じゃわい!!!
 その言葉に、一同は手を打って大笑いした。
 お互いの素性が知れ、しかも過去に両者とも一般社会から「賊」と呼ばれていたということもあり、一同は前にも増して打ち溶けた。
 すると、勘蔵がまず、自分たちが日本を離れることになった経緯を、森山家の者に向かって説明した。
 戦国大名から裏切られて一族の者を殺された者が集まり、大名を標的にした海賊組織を結成した。次に、ハヤテとシャガの運命的な恋愛をきっかけにして、シャガの村人を救出し、二つの村が融合することになった。そして、豊臣秀吉が差し向けた討伐軍による襲撃から逃れて国外に脱出し、ようやく南海の孤島に安住の地を見出だすに至ったという内容のあらましを語って聞かせたのだ。
 それを聞き終えた又成は、感慨深げにこう言った。
「……うーん、そりゃまた数奇(すうき)な運命やなぁ……。」
 ところが、今度は困ったような口調でこう言った。
「せやけど、こりゃ困った。お前はんがそこまで話さはるよってみー、わしの方かて詳しゅう話さんなりませんがな。やれやれ、えらいこっちゃ。」
 そして、わざと困ったような顔をしたので、一同はまた大笑いした。勘蔵も笑って言った。
「ハハハ! そう来なくちゃ困る。山賊のあんたと、良家の姫君(ひめぎみ)とお見受け致す和子殿がご一緒になられたいうことも、数奇な運命なくしては有り得んじゃろう。
その話し聞くまでわし、こっから動かんけんね!」
 勘蔵はそう言うと、敷物の上にドンと座り直した。そのおどけた恰好に、みなはまた大笑いした。
 又成も笑って言った。
「ハハハ、わかった、わかりました。そこまで言われたら話さんわけにはいかへん……。」
 彼はここで、なぜか少し真剣な表情になると、独り言のようにこう言った。
「……ほな、その前に息子らと約束しておかんならん。わしゃ、ただのお役ご免になった武士で通しておったゆえに……。」
 そして又成は、三人の息子たちの名を、それぞれの顔を見ながら呼んだ。
「おい、
一成、
信成、
竹若。」
 呼ばれた三人は、それぞれやや緊張した返事をした。
「はい。」
 又成は、三人の顔を見回しながら、やや厳しい口調でこう言った。
「お主ら三人とも、これより父の話すことは他言無用じゃ。約束できるかな?」
 二人の兄は、揃って元気良く返事をした。
「はい!」
 ところが竹若丸は、横に座っている父の顔を見上げると、ちょっと困ったようにこう言った。
「とと様、『タゴンムヨウ』とは何でござるか?」
 それには兄の信成が答えた。
「『誰にも言うてはならぬ』ということじゃ!」
 それを聞いた竹若丸は、真剣な表情で父の顔を見直して言った。
「わかった。とと様、約束します。」
 それを聞いた父又成は、表情をやや緩めて言った。
「よし。それなら話すことに致そう……。」
 広間の一同はみな身を乗り出し、又成は昔を思い出すような目付きになって話しを始めた。
「時は天正九(一五八一)年九月二十七日、織田信長公、総勢四万二千の兵を投じ、伊賀の忍術使いを壊滅せんとす。この第二次天正伊賀の乱がそもそも事の起こりなり……。」
 これによって伊賀の忍者は壊滅的打撃を受けた。しかし、生残った者の多くは伊賀国外へ逃亡し、各地の大名に仕える者もいたため、皮肉なことにも伊賀忍法を日本全国に広める結果となった。
 翌年六月二日、織田信長が本能寺の変によって明智光秀に討たれると、この情報を得た伊賀衆は潜伏先の各地で一斉に蜂起した。一族諸共(もろとも)南都(なんと)近辺の山々に潜伏していた一派もそれに呼応した。但し、彼らの場合は少人数であったため、織田方の陣地を正面から攻撃するようなことはせず、終始ゲリラ戦に徹した。
 南都には、信長に命じられて伊賀に兵を出した大和郡山城がある。この地が三方を山に囲まれているということを巧みに利用した彼らは、得意の忍びの術を駆使して、その城主の家臣を襲ったり、その屋敷に夜間侵入しては、母屋や蔵の中から金品を奪って回ったりしていた。そこで得た武具などの金目の物は、堺に運んで売りさばき、それによって更に金銭を得ていた。

 話しが始まったばかりであったが、ここで一成が、父に向かって問いただした。
「お話しの途中で相済みませぬ。身共大和に住いせし折、父上は、何処(いずこ)ぞより金銀を持って参られるたびに、『拾うて参った』と申されておったは、嘘でござったのか?」
 又成は、照れ笑いしながらそれに答えた。
「ハハハ、左様(さよう)。教育上の方便(ほうべん)でござった。」
 その言い方が可笑しかったので、広間の一同は声を上げて笑った。
 又成は話しを続けた。

 天正十三年になると、豊臣秀吉の異父弟である豊臣秀長が新たに大和郡山城の城主となった。すると、この界隈に出没する山賊がただの賊ではなく、伊賀忍者の残党であるという噂がどこからともなく城下に流れた。
 城に勤務する武士の監督を担当している重臣の一人がこれを耳にすると、早速城主秀長に進言し、城下の人通りの多い辻(つじ)の何ヶ所かに、今で言う「お触れ書き」を書いた札を立てさせた。

     告

南都近辺ニ潜伏セシ山賊ニ告

今マデノ賊ノ罪赦免致スニヨツテ

即刻下山シ我ラニ仕フルベシ

         郡山城目付衆頭

(告げる 南都近辺に隠れている山賊に告げる。今までの罪は許すから、今すぐ山から出て私たちの家来になりなさい。)
 襲撃する相手を物色(ぶっしょく)するため町人に変装し、城下を徘徊(はいかい)していた山賊たちは、それぞれこれを目にすると、山の隠れ家に帰ってから、全員集まってどうするかの協議を開いた。
「わしら、信長とその家来に恨みはあっても、豊臣家に恨みはないんちゃうの。」
 という意見がまず真っ先に出た。
「わしらが言うこと聞かんかったら、攻めて来るつもりなんちゃうか。」
 という意見も出た。そして、
「正面から敵に回したら、まず勝たれへんしのぅ。」
「ほな、相手がおとなしゅう言うとるうちに、従ごうといた方がええで。」
 その結果、彼らはこの勧告に従がうことにした。

 ここまで聞いた勘蔵は、又成に向かってニヤニヤしながら言った。
「『山賊が実は伊賀の忍者じゃった』っちゅう噂流したん、もしかしてお主じゃろう。」
 又成は照れながら言った。
「いやー勘蔵はんかなんわ。何もかもお見通しやなぁ。」
 しかし勘蔵は、やや感心した表情で又成を見直してからこう言った。
「相手がそう出てくるっちゅうことと、仲間がそれを受け入れるっちゅうこと読んで打った手ぇじゃけん、なかなか見事なもんじゃわ。」
 又成は、相変わらず照れながら言った。
「いやいや、そないに誉められるようなことやあらしまへんね。大和郡山城に召抱えられたその山賊の頭目は領地を与えられ、姓を森山と賜り、名も甚吉(じんきち)から又成へと改めよったんですから。」
 それを聞いた勘蔵が、納得したように言った。
「なるほど……。それがお主というわけか。」
 組織結成以来大名からの支配を拒み続け、武家社会には組み込まれず独立を貫き通してきたロクや勘蔵を前にして、又成は恥ずかしそうに言った。
「左様……。再び忍びに相成(あいな)ったので又成。その名が妙(みょう)にこそばゆかったでござる。」
 それを聞いた一同は手を打って大笑いした。
 又成は話しを続けた。

 それから四年を経(へ)た天正十七(一五八九)年八月三日の夜、又成は自分の主人から重大な任務を授かった。それは、相模の国へ潜伏し、小田原城下の様子を探ることと、周辺をも含めた小田原の地図をつくって一刻も早く帰還するということである。その理由は告げられなかった。
 昔も今も、スパイというものには上司が出す命令以外のことは一切告げられない。もし、そのスパイが敵方に捕まって口を割られ、上司が立てている作戦の詳細な内容を聞き出されては困るからだ。
 しかし又成は、以前から巷(ちまた)の噂で耳にしていたということもあり、豊臣家が近々関東の北条氏を攻めるであろうということを確信した。
 この北条氏は鎌倉幕府の北条氏とは血縁上無関係である。それらを区別するために現代では「後北条」と表記されることもあるが、ここでは以下ただ単に「北条」と記すことにする。
 旅の僧に変装した又成とその二人の部下の三人は、陸路を小田原へと向かった。その道中彼らは、東海道を東へ東へと向かっている、様々な姿に変装した忍びたちを何度も目撃した。それによって又成は、諸国の大名たちの目が、今まさに関東に向けられているということを知った。また、北条の軍勢が箱根周辺の西への守りを固めていることを目撃すると、豊臣方と北条方とのあいだに合戦(かっせん)が起こるという彼の確信は更に深まった。
 小田原に到着した彼らがまず目にしたのは、町の周囲に土塁が築き始められているということだった。その内側には毎日のように武器弾薬が運び込まれ、収獲直後の米が詰められた俵(たわら)や、芋や豆や魚の干物などの食料、薪や炭などの燃料が街角のあちこちに積まれて町民に配給されていた。また、近郊から集めたらしい百姓を武装させての軍事訓練も、連日のように町の大通りで行われていた。これらも明らかに戦の準備である。
 小田原城下で忙しく立ち働く人々の口からは、次のような言葉が、なかば誇らしげに聞こえて来た。
「……奥州(おうしゅう)の伊達様と我らが殿様御一門が手を組みゃー、豊臣の軍勢にも負けるこたーねぇだろうよぅ。」
 上杉謙信や武田信玄という天下の名将でさえも落とせなかった、さすが難攻不落の城下のことだけはある。しかし、いささか甘いなと又成は思った。
 豊臣勢の恐ろしさは、秀吉本人の並外れた軍事外交手腕も然ることながら、その有能な家臣らと、長年の実戦によって鍛え抜かれた兵卒らにある。
『なめたらあきまへんで。』
 旅の僧姿の又成はそう思いながら、他の二人と手分けして歩き回り、任務の一つである地図を作成していった。
 そんなある夕暮れのこと。立派な屋敷の立ち並ぶ閑静な通りを、僧姿の又成が一人で歩いていると、細い路地の奥から何頭かの犬が威嚇する声が聞こえて来たので、彼は興味本位でそこに入ってみた。すると、上級武士に仕える侍女の衣装を身にまとった美しい娘の周りを四頭の大きな野犬が取り囲み、板塀の角に追い詰めているところではないか。
 この時代の野犬は人肉の味を知っている。又成は「こらーっ」と叫ぶが早いか道端の小石をいくつか拾い、それらを頭目とおぼしき一頭の犬に向かって次々と投げ付けた。普段から手裏剣の技で鍛え抜かれている忍者のコントロールは抜群だ。それらはいずれもうまく命中したようで、その犬は立て続けに「キャン!キャン!」という悲鳴を上げると、尻尾を股に挟んで又成が来たのとは反対の方へと走って逃げた。他の三頭も即座にその後を追ってこの路地から走り去った。
 その娘は恐怖まだ冷め遣らぬ様子で、たどたどしい足取りではあるが又成の前になんとか歩み寄ると、その場にがくっとひざまずいて震えの止まらぬ声で言った。
「……ああ、お坊様、お坊様……。何とお礼を申せばよろしいやら……。」
 少し気持ちを落ち着かせた彼女は、旅の僧の編み笠を見上げると言葉を続けた。
「……普段なら使いの者が出る用事、本日たまたまその者不在。代わりの者に頼む猶予もなく、取り急ぎわらわが出掛ることとなりました。用事を済ませたその帰り、たちまち野犬に囲まれこの始末。お坊様が来られなば、この命無かったことやも知れませぬ。お顔を拝見できませぬゆえ、せめてお名前だけでも聞かせてたもれ。」
 僧が深々と被っている笠の奥を、その娘は澄んだ瞳で見詰めた。
 屋敷に仕える侍女の形(なり)をしてはいたが、その言葉の内容からして、彼女は仕えられる方の身分であることを、又成はすぐに見抜いた。この時間帯に、そのような階層の若い娘がわざわざ変装までして単独で外出するのには、何かそれなりに深い事情があったのであろう。
 又成は、僧らしく物静かな口調でこう言った。
「某(それがし)、名乗るほどの者ではござらぬ。野犬を退(しりぞ)けるには投石が何より。以後、心されよ。」
 このとき近くの寺から、暮れ六つを告げる鐘がゴーンゴーンと鳴り響いた。我ながらカッコ良く決まったと思って元来た道を引き返した又成だったが、先ほどの娘の澄んだ瞳がどうしても忘れられず、思わず立ち止まって後ろを振り返ってしまった。
 すると、先ほどまでひざまずいていた娘は既にその場所に立ち、右手の袖で口元を隠して、こちらをじっと見ているではないか。その娘の目と目が合ってしまった又成の全身が、まるで小さな雷にでも打たれたかのように激しく痺(しび)れた。彼は元の方へ向き直ると、逃げるようにしてその路地から立ち去った。
 「忍び」や「スパイ」などと言えば聞こえはいいが、別な言い方をすれば、これは「覗き」と「盗み聞き」と「泥棒」とを合わせたような職業である。そのため、仕事中に女の着替えや水浴の裸の姿などを見てしまうこともある。そういうことに慣れてしまっているせいか、勤務中の又成が女に惚れてしまうなどということは、今までただの一度も無かったことだ。
 ところが今回は、なぜかいつもと全く違う。この胸の疼(うず)きは、一体何なんだろうか?
 先程の娘の瞳がどうにも忘れられなくなってしまった又成は、胸を押さえて夕闇の城下町を歩きながら思った。
『……やがて時来たれば、この屋敷町にも豊臣方の大軍勢が押し寄せることであろう。もしそうなれば、あの娘が戦火に巻き込まれることは必至(ひっし)。斯様(かよう)なる惨きことを許すわけにはいかぬ……。』
 彼はまた思った。
『秀吉からの再三にわたる上洛(じょうらく)の勧めにも応じぬ、北条氏政・氏直父子の石頭め!』
 そのせいで秀吉は北条を敵と見なして戦(いくさ)を起こし、また罪なき多くの者の命が犠牲になるのだ。この戦(いくさ)を止めるなどという大それたことは、自分一人の力では無理だが、あの娘をこの小田原から逃がしてやることくらいならなんとかなる。そうすれば、あの瞳がこの世から消えずに済むのだ。
今ならまだ間に合う!
 又成は思わずそう呟くと、踵(きびす)を返して先ほどの路地へと走った。持っていた錫杖(しゃくじょう)までかなぐり捨てると、袈裟(けさ)姿のまま恥も外聞もなく全速力で走った。そして、その路地に入って角を曲がり、別の通りへと出た。
 夕闇の中、右を向けば、天秤棒を担いだ魚売りと、そこに寄り集まって話し込んでいる数人の女中の姿があった。左を向くと、板塀のあいだの疎らな通行人の向うで、立派な武家屋敷の裏門から丁度今中に入った先ほどの娘の姿が見えた。
 又成は心の中で喜びの声を上げた。
『居所(いどころ)突き止めたり!』
 その九日後、大和郡山城に戻った又成と二人の部下は、主人に小田原周辺の詳しい状況を報告し、そこで作成した地図を渡した。仕事の報酬を貰い自宅に帰った又成は、それから晩までずっと酒を飲み続けた。
 それから更に数日後の八月二十九日早朝、お城に勤務する忍び全員に、その主人である秀長の重臣から召集が掛かった。次の仕事の指示のようだ。ところが、忍びの頭(かしら)である又成は、朝なのにぐてんぐてんに酔っ払って登城(とじょう)し、集合場所の座敷に入るなり、奥に座していた自分の主人に向かって、ろれつの回らぬ巻き舌で怒鳴った。
やい、おっさん! わしをこない朝早うから呼び付けるとは、ええ根性しとるやんけ!
 生まれてからこの方、そのような言葉で怒鳴られたことがなかったその上級武士は、目を大きく見開いたままで絶句している。そこに千鳥足で歩み寄った又成が再び怒声を飛ばした。
われ、何の用やねん!? しょ、しょうもない用やったら、し、しばき倒すでぇーほんまに! ヒック……。
 そして、その重臣に詰め寄ると、フーッと酒臭い息を吐き掛けた。その態度によって、ようやく自分が腹を立てるべきだと感じたその重臣は、立ち上がるなり、又成に向かって怒鳴った。
『おっさん』とは何であるか! この無礼者!!
 その座敷にそれまで立膝を付いて控えていた又成の手下七人が、これを見るなり一斉に立ち上がって駆け寄り、又成をなだめながら重臣から引き離した。
「まあまあ、頭目(とうもく)……。」
「……やめときーや。」
 重臣から離された又成は、途端にとろんとした目付きになると、自分の手下たちに向かってこう言った。
「……何やねん、お前らもおったんけ。こない朝早うから、こんなとこで何してんねん?」
 手下の一人が呆れたような声で言った。
「もう『何してんねん』やないですよ、ほんまに! 仕事ですやんか!」
 又成は、首をかしげて言った。
「はて? 『しごと』とな?」
 そして、納得したように手を打ってからこう言った。
「……ははあ、わかった! 答えは二百やな。」
 今度はその手下の方が、きょとんとした顔になって尋ねた。
「は? なんですの、それ?」
 又成は微笑んで言った。
「お前、今『しごと』言うたやろ? 掛け算で、四(し)五(ご)二十。それにまた十(と)掛けたら二百。四(し)五(ご)十(と)で二百になるんやないけ!
どや? わし賢いやろ?!」
 これを聞いた途端、彼の七人の手下たちはみな一斉に、床の上に引っくり返った。普段は命懸けの仕事をしている反動か、このようなボケに遭遇したときの彼らの乗りの良さは、脳に擦り込まれている本能のようなもので、もう条件反射的に反応してしまうのだ。
 ところが、これを見た重臣は顔を真っ赤にして怒鳴った。
こらーっ! 誰が道化(どうけ)をしに来いなどと言うたかーっ!
そもそも朝から飲酒して登城するとは不届き千万(せんばん)! 天下の豊臣秀長公が居城を何と心得る! この手で成敗(せいばい)してくれるわ!
森山又成っ! そこへ直(なお)れーっ!!!

 又成の一連の不謹慎(ふきんしん)極まる態度に激怒した重臣は、ついに腰の太刀を引き抜いた。又成の手下たちはこれを見ると慌てて起き上がり、今度は重臣の前に立ち塞(ふさ)がって口々に言った。
「おやめ下され、御主人様!」
「又成殿は近頃酒浸りになられたようで、我らもこれには辟易(へきえき)しておりましたのじゃ。」
「お城を、泥酔者(でいすいしゃ)の血で汚(けが)されるおつもりかーーっ!」
 この言葉を聞いた重臣は、又成の首を刎ねることはやめて刀を鞘に収めたものの、苦虫を噛み潰したような顔を又成に向けてこう言った。
「森山又成! 秀長公の居城を愚弄(ぐろう)し、己(おのれ)が主人を侮辱した罪で、本日限りで、そちをお役ご免とする。更に領地は没収、大和国内からの追放を命ずる!」
 これを聞いた又成は目を剥いて怒鳴った。
何やと! このあほんだらボケ……
 ここで手下の一人に口を塞がれたので、又成のこの後の言葉は、ただの「ウー……ウー……」という呻(うめ)き声に変わった。
 手下たちによってあっという間に猿轡(さるぐつわ)をされ、縄で体をぐるぐる巻きにされた又成は、四人の手下に担ぎ上げられると、「ウー……ウー……」という声を発したまま城から急遽運び出され、城下にある彼の自宅へと送り届けられた。
 又成の先妻は三男の竹若丸を産んだ後、不幸にも産後の肥立(ひだ)ちが悪く先立ってしまった。そのため、父がお役ご免と追放を命じられたことを手下たちから告げられた又成の三人の息子たちは、父と運命を共にして国を出ることを決意したものの、道中ずっとこのだらしない父の面倒を見なければならぬ破目となってしまった。
 馬を与えられて追放された一行は、まず伊賀を目指した。ところが、大和との国境(くにざかい)を越えた途端、又成の飲む酒の量は急激に減っていった。又成は伊賀に入ると、天正の乱で犠牲となった仲間たちの死を悼(いた)んだ。
 そこから更に東へと馬を進めた森山父子は、隣りの伊勢の国を経て尾張(おわり)の国へ入った。すると、又成の酒浸りは嘘のように治ってきた。いや、嘘だったというべきだろうか。しかし、現実に酒浸りになっていたことは紛れもない事実であった。

「……それでは父上、あれは芝居でござったのか?」
 バンテン森山家の広間で発せられた、長男一成のその声に、その場の一同は、みな一斉に我に返った。
 父又成は、また恥ずかしそうにして、その問いに答えた。
「……芝居といえば芝居、真(まこと)といえば真じゃ。」
 今度は信成が悔しそうに言った。
「それなら、身内である拙者共(せっしゃども)には、せめて真を明かして下さっても良かったでござりましょうに。拙者兄じゃと二人して、馬への上げ下ろしから下のお世話、宿(しゅく)で吐きなされた汚物の後始末と、苦難を極めておったんじゃ。
のぅ、兄じゃ。」
 そう同意を求められた一成も、悔しそうな顔で父を見ながら言った。
「左様。我が子の口から斯様(かよう)なこと聞くは、恥ずかしゅうお思いになられようかと思うて、今までこちらからは言わずにおったのでござります。」
「あの時、とと様死になさるのか思うてた。」
 横で竹若丸がそう言うと、又成は申し訳なさそうに言った。
「世話掛けて心配掛けて、ほんまに済まんかった。平に謝る。
けどのぅ、その時は真を明かすわけには、いかんかったのじゃ。」
 又成は三人の息子にそう言うと、再び話しを続けた。

 当時の忍びが生きてお役ご免になるということは、廃人にでもならなければ有り得ぬことであった。もし又成がただ単に姿をくらませば、大和郡山城の情報を持ち出して寝返ったと見なされ、刺客の忍者が追って来ることはまず間違いないだろう。すると彼は、豊臣家を敵に回して元部下と戦うことになってしまう。そして最悪の場合には、三人の息子まで道連れにして死ぬことになってしまうだろう。そのようなことを避けるために、彼は苦肉の策でこのような手段を選んだのであった。
 一方又成の主人の方も、不謹慎な又成の態度に思わず激怒してしまったが、それまで実直に仕事をこなしていた忍びが突然酒浸りになるということに、何か特別の理由があるのではないかという疑いを抱いた。そこで彼は又成に追放を命じ、その後の彼の行動を探って、もし敵方と通じていたなら、その現場を押さえようと試みたのだ。そのため、追放した又成の後を別の忍び三人にこっそりと付けさたのである。
 ところが、その主人よりも忍びの又成の方が一枚上手(うわて)であった。彼は主人がそのような手を打ってくるということを、最初からちゃんと見抜いていたのだ。これでもし息子たちに真実を明かせば、息子たちにも演技をさせねばならなくなる。しかし、大和郡山城から自分の後を付けて来る忍びは彼の元部下のはずだ。彼らは、又成の息子たちがまだ幼い頃から、我が子のように面倒を見ていたので、その演技など遠くから見てもたちまちにして看破(かんぱ)してしまうに違いない。
 そのため又成は、本当に泥酔していなけらばならず、息子たちの目も欺(あざむ)かなければならなかったのだ。「敵を欺くには、まず味方を欺け」というような諺(ことわざ)があるが、それを応用した術は忍法にも取り入れられている。
 馬の背に腹這いになり、片手に酒の入った瓢箪(ひょうたん)を持って、だらだらと涎(よだれ)を垂らしながら、息子たちに下の世話をさせるていることを恥らおうともしない又成。そのような姿を毎日のように見続けた三人の追っ手は、かつて自分たち山賊の首領だった男の哀れな末路をこれ以上見るに耐えず、又成が大和の国を出たのを確認するや否や早々と城に引き返してしまったのであった。
 慢性の中毒の場合は、アルコールに対する精神的依存度が高く回復は困難であるが、急性中毒の場合は、軽いものであればアルコールの摂取を止めることで回復する。しかし、又成が人為的につくり出していた中毒の症状は極めて重かったので、そこから脱却するには、それ相応の苦しみが伴った。酒が切れたときに襲ってくる体中の激しい痛みと痙攣に歯を喰いしばりながら耐え、彼は日々の酒の摂取量を段階的に減らしていった。
 駿河(するが)の国に入ると、又成は酒浸りからもう完全に回復していた。彼は三人の息子を従がえて、現在の清水市近郊の山中に入り、水場が近く人目に付かぬ岩陰を探し出した。そして、そこに雨風をしのぐことのできる簡単な住居をつくり隠れ家(かくれが)とすることにした。
 又成が山賊をしていた頃には、このようにして野宿しながら山中を移動することが常(つね)だったので、たとえ父が不在であっても三人の息子たちは生きていくことができた。上の二人は子供ながらにも、火の起こし方から始まって、草木の実を採ったり罠(わな)をつくって鳥や獣を捕まえ、それらをさばいて食べる方法まで知っていたからだ。更に今回は、大和から持って来た米や味噌などもある。それだけでも十日以上は自活できるはずだ。
 翌朝まだ陽が昇る前に、隠れ家の中で旅支度を整えた又成は、まだ眠っている息子たちを起こしてからこう言った。
「父は、これより小田原へ参る。十日経っても戻らねば、この世に亡きものと思え。」
 炉に焚かれた火の薄明かりに照らされた三人は、それぞれ真剣な表情になると黙って頷(うなず)いた。
 又成は長年隠し持っていた山賊時代の蓄えである、金銀のびっしり詰まった重い木箱を長男の一成に託すと、この隠れ家を出て馬に乗り、もう一頭の空馬(からうま)を牽いて晩秋の山を下りて行った。
 街道に出た又成は、一路小田原へと向かった。又成が前回目撃したように、秀吉が攻めて来ることを既に覚悟している小田原の北条氏は、城周辺の守りを固めている。もし秀吉からの宣戦布告が公(おおやけ)になされれば、その警護は尚一層厳しくなり、部外者が町に侵入するのは更に困難になるはずだ。そのため、又成としては一刻の猶予もならなかった。
 箱根の山越えの際には、北条の陣地を避けるために正規の道を大きく迂回したので、又成が小田原近郊にたどり着いたのは、その翌々日の夕方だった。
 彼はまず、郊外を流れる川の中州(なかす)の茂みの中に、二頭の馬を隠した。人目に付かぬこの場所は、以前小田原周辺の地図を作成した折にちゃんと調べておいたのだ。次に彼は、持って来た忍びの黒装束に着替えると、必要な忍器を手早く身に着けて夜が更けるのを待った。
 小田原の海産物を加工する家々は、まだ暗いうちから明かりをともして仕事を始める。そのため、彼らが起き出す前にさっさと事を済まさねばならなかった。
 又成は忍者独特の走り方で陰から陰、闇から闇へと移動していった。やがて彼は、建設中の外郭にたどり着いた。門は閉ざされているし、外郭の周囲には一定の間隔で火がともされており、歩哨(ほしょう)が行き交っている。しかし又成はうろたえなかった。一瞬だけこの歩哨の死角(しかく)となる場所があることを、前回ちゃんと調べておいたからだ。
 闇の中、又成はその場所まで移動すると、歩哨の姿が自分の視界から消えるのを待った。その時が来た瞬間、又成はまだ水の張られていない堀に飛び降りた。そこで再び歩哨の姿が消えるのを待った彼は、先端に鉤(かぎ)の付いた縄梯子を土塁の上に投げ上げた。それを引くと鉤はしっかりとどこかに引っ掛かったので、彼は素早くそれを伝って土塁の上によじ登った。それを手繰って再び懐に収めると、あたりに誰もいないのを確かめて、彼はその向こう側に飛び降りた。
 又成は、人気(ひとけ)のない城下町の通りを、闇から闇へと小走りに移動していった。その途中何回か、手提げ行灯(あんどん)や松明などを手に持った夜警の侍の一群を見掛けたが、その都度闇の中に身を潜めてそれを遣り過ごした。
 小走りに移動している又成は、時折り右手に持った何かを当てて左手に持った紙を見ている。彼が右手に持っているのは、軽松明(けいたいまつ)という今で言えば懐中電灯のようなもので、左手に持っているのは地図だ。抜け目のない彼は、小田原城下の地図を主人に渡す前に、部下にも内緒で丸ごと写していたのだ。そのため彼は、迷路のようになっている夜のこの町を、一切迷うことなく進むことができた。
 いくつもの路地を抜け、いくつもの角を曲がった又成は、見覚えのある大きな屋敷の外にたどり着くと、その板塀にぴたりと身を寄せた。晩秋の深夜の空気は冷え込んでいる。足元の草むらからは擦り切れたようなコオロギの鳴く音が、思い出したように間を置いて聞こえており、遠くで寂しげな犬の遠吠えが何度か聞こえた。
 彼はその姿勢のままでしばらく動こうとはしなかった。元々、このような屋敷に忍び込むことを本職としていた彼は、そのようなことで悩んでいたのではない。これから自分がしようとしていることを、あの娘は果たして喜んでくれるのだろうか? ということを考えていたのである。
 彼女は武家の娘のはずだ。とすれば、「小田原城は陥落(かんらく)するぞ」と警告すればするほど、自分一人だけ助かろうとはせず、一族の者と共に自害して果てることを望むに違いない。
 しかし、このまま放っておけば彼女は戦火に呑(の)まれ、あの美しく澄んだ瞳はこの世から永遠に消えてしまうのである。
『やっぱ、こら決行せなあかんで。』
 黒装束の又成はそう自分に言い聞かせた。しかし、彼女を小田原から連れ出すだけでは不充分だ。それはまるで、切り倒される松の枝に架けられた鷹の巣から雛(ひな)を助け出し、あとは勝手に育てと野に放置するようなことだからだ。
『そら自分勝手で無責任なこっちゃわ。』
 そう思った彼は、その後のことを想像してしまった。鷹の雛の白く柔らかい体を狙って、烏や狐や鼬(いたち)などが舌なめずりしながら押し寄せて来るのだ。その情景を想像した途端、彼は思わず身震いしてしまった。
『あ、あかん! こら断じて放っとけんで!』
 彼はそう思った。助け出した自分が責任を持ってその雛を育ててやってこそ、この行為は完結するのだ。
『ほなわし、あの子の親になったらなあかんちゅうこっちゃな……。』
 そうは思ってみたが、又成は何かしっくりしなかった。
『……わし、今は嫁はんおらへんし、連れ出したあの娘(こ)は完全に独りや。そないな男と女が一緒になったらやで、こら「夫婦」言わなあかんのちゃうか……。
……せや! 夫婦やで! 夫婦やないかいな!』
 闇の中の又成の両眼が喜びに輝いた。
『そないなったら、やっぱ一緒に風呂入ったりするんやろなぁ……。』
 足元のコオロギの音(ね)で、ふと我に帰った又成は、黒装束姿で武家屋敷の塀にピタリと背を付けている自分が今、目の周りを赤らめているということに気が付いた。
 こんな恥ずかしい姿は誰にも見せるわけにはいかない。思わず左右を見渡した又成は、照れ隠しにちょっと唇を噛むと、真剣な目付きになって背中の刀を抜き、それまで背中を付けていた塀にそれを立て掛けた。そして、その刀の鍔(つば)を踏み台にすると、一気にその塀の上に飛び乗った。その刀の鍔(つば)に付いている紐をたぐって回収し、それを鞘に収めた又成は、周囲の様子を窺って、この屋敷の暗い中庭に飛び降りた。
 厳密な意味での「武家屋敷」という様式が政令によって確立されたのは、江戸時代に入ってからのことで、この時代の武士が住いしている屋敷全体の構造は実に様々であった。それは、母屋(おもや)、蔵、納屋、厠(かわや)などといった様々な建物と庭によって構成されており、その配置の仕方が地方によってそれぞれ異なっているのだ。
 しかし、人が寝起きしている母屋自体の基本的な構造は、大体どれも同じである。山賊をしていた頃、武士の屋敷に何度も盗みに入っていた又成は、それをよく把握していた。そのため、たとえ初めて侵入した屋敷であっても、その家の姫様が母屋のどのあたりに寝ているのかは大体見当が付く。
 母屋北側の壁上部に開いている、囲炉裏の煙抜きの格子(こうし)に、鉤の付いた縄梯子を投げ付けて引っ掛けた又成は、それをよじ登って一旦屋根に上がると、その格子を外して、いとも簡単に母屋に侵入した。
 縄梯子を回収して天井裏に入った又成は、暗闇の中でパタパタと逃げ回るいくつもの小さな足音を耳にした。鼠だ。それはすぐに収まって、周囲は静かになった。
 軽松明の明かりを頼りに、太い梁の上を文字通り忍び足で進んで行った又成は、ここぞとおぼしき部屋の上で立ち止まった。身を屈(かが)めてその下の気配を窺うと、微かだが寝息が聞こえて来る。彼は太い梁に縄梯子を掛けて天井板をそっと外すと、軽松明を一旦懐に収めて縄梯子をその下に垂らした。そして、その行為に対する下からの反応が全くないことを確かめると、それを伝ってその部屋の隅に降り立った。
 彼は軽松明を再び懐から取り出すと、それを足元に置いて周囲を照らした。そして、やはり懐から小さな瓢箪と布切れを取り出すと、瓢箪の栓を抜いてその口に布を被せ、一瞬だけそれを逆さにした。
 薄明かりの中で見えているこの部屋の中央には、布団が一つ敷かれており、その中では誰かが微かな寝息を立てている。又成はその頭部にそっと近寄ると、その口と鼻に布を当てがった。するとその人物はほんの少し抵抗したが、布に染み込んでいる眠り薬のせいで、たちまち深い眠りに落ちてしまった。
 又成は軽松明を手に取ると、その火を強めて、その光を今眠らせた者の顔に当ててみた。連れ去る相手の顔は、是非とも確認しておかねばならなかった。連れ去ったはいいが、朝が来て顔を見たら別人だったなどということになれば、その誘拐事件のために屋敷の警護が固められ、それ以後その屋敷に侵入することが一層困難になることは確実だ。すると最悪の場合、地獄の苦しみを味わって職まで捨て、元部下や息子たちに恥ずかしい姿まで見せた一世一代の大芝居が灰燼(かいじん)に帰すこととなってしまう。失敗は許されないのだ。
 間違いない。あの娘だ。瞼(まぶた)を閉じているので、あの澄んだ瞳こそ見えないが、この顔立ちを彼は今日まで忘れることはなかった。又成は布団を捲(まく)り、娘に猿轡(さるぐつわ)をして手足を縛ると、懐から何かを取り出して広げた。それは黒く染められた目の荒い大きな麻の袋だった。彼はその中に娘を収めて袋の口を紐で縛って閉じた。
 又成は、先ほど出した忍器の類(たぐい)を再び懐に収めると、敷布団を縦に丸めてその上に先ほど捲った掛け布団を掛けた。こうしておけば、恰(あたか)も中で人が寝ているように見えるので、誘拐したことが発覚することへの時間稼ぎになるのだ。
 彼は、先ほど垂らしておいた縄梯子の端で娘の胴を袋の上から縛り、まず自分がそれを伝って天井裏へ上がると、続いてそれを手繰って娘を引き上げ、天井板を元に戻した。
 娘が入った袋を担いで屋敷を後にした又成は、元来た道を引き返して先ほどの土塁の下まで来た。袋を地面に横たえた又成は、縄梯子の端を土塁に投げ上げてそこに引っ掛けると、それを伝って土塁の上に登った。そこに立った又成は一旦中腰になると、中の娘を傷付けぬように、そろりそろりと縄梯子を手繰り寄せて袋を土塁の上へと引き上げた。
 土塁の上から顔を出して町の外の様子を窺った又成は、下を歩いている歩哨が視界から消えた瞬間、またそろりそろりと、今度は町の外の空堀の底へ向けて袋を下ろしていった。それをそっと地面に横たえた又成は、再び歩哨の死角になるのを待ってから、縄梯子を伝って自分も堀の底に下りた。
 袋を縄梯子から外して担いだ又成は、歩哨の目を逃れて通りを横切ると、闇から闇へと移動して、先ほどの川の中洲の馬のところまで戻った。
 一旦馬を降りた又成は、袋の中の娘がうつ伏せになるようにして馬の鞍(くら)に乗せると、落ちないようにそれを縄で固定した。そして、もう一頭の馬に跨った又成は、娘に気遣いながらゆっくりとその馬を牽いて川を渡った。街道に出た二頭の馬は星明りを頼りに、それを西に向かって進んだ。
 やがて、まだ半里も行かぬうちに、彼の背後の東の空が明るくなってきた。闇夜ならともかく夜が明ければ、この袋の中に人が入っているということは、目敏(めざと)い者ならすぐに見抜いてしまうことだろう。しかし何はともあれまず第一に、生きた人間をこのような状態で長時間放置しておくわけにはいかない。休憩することにした彼は、山道から少し外れたところに入って馬を停めた。その頃には、もうすっかり夜が明けていた。
 専門職である彼にとって、ここまでは手馴れた業(わざ)だったが、問題はここからであった。
 又成は、馬から袋を下ろして落ち葉の上に立てると、その口を縛ってある紐をといてそこを広げた。すると、まず若い女の黒髪と白い額が現われ、続いて猿轡をされた顔が現われた。既に眠りから覚めている美しい両眼であったが、それは怒りに満ちている。
 その視線を避けるようにして姫の後ろに回った又成は、立て膝になると手早く猿轡を外しにかかった。
 近くの梢(こずえ)で、百舌(もず)が「ピピピピピチュンチュン」という鋭い鳴き声を発した。
 猿轡をとかれて口が自由になった途端、後ろを振り向いた姫は、又成に向かって激しい口調でこう言った。
そなたは何者じゃ! わらわをどうなさるおつもりか!
 又成は姫の体を覆っていた袋を下にずり下げると、落ち着いた口調でそれに答えた。
「拙者(せっしゃ)、忍びの甚吉(じんきち)と申す。小田原は近いうちに落城致す。貴女(きじょ)の身を案じ、ここにお連れ致したる次第、無礼をお許し下され。」
 この黒装束に身を包んで目だけ出している男の目的が、少なくとも自分の命を取ることではないということがわかった寝巻き姿の姫は、前を向いて袋の上に横座り直すと、後ろで縛られている両手を催促するように又成こと甚吉の方に差し出し、やや落ち着いた口調になって尋ねた。
「誰に命じられたのじゃ?」
 甚吉は、その両手の縄をほどきながら、姫の黒髪に向かって答えた。
「拙者の一存にござる。」
 すると彼女は、前を向いたままではあったが不思議そうに尋ねた。
「はて? 小田原落城が真(まこと)なれば、お連れすべきお方は、他におわすはずじゃ。このわらわを連れ出したのはなぜか?」
 甚吉は、目の周りの肌をやや赤く染めると、誤魔化すようにこう言った。
「そ、それは……、き、貴女でなければならぬからじゃ……。と、ともかく、北条家はもうお終いじゃ。」
 両足を縛っている縄をほどこうとして甚吉がそこに回ったので、地面に手を着いた彼女は、やはりそれを促がすようにして脚をやや伸ばすと、やはり怪訝そうな顔を甚吉の方に向けて尋ねた。
「そなた今、北条家はお終いと申されたが、そは真(まこと)か?」
「いや、断じてとまでは申さぬが……」
 身を屈めて縄をほどいていた甚吉はここで顔を上げると、彼女の顔を見て教え諭すようにこう言った。
「……いかに難攻不落(なんこうふらく)の小田原城と言えども、豊臣方の軍勢と北条方の軍勢、その量も質も、比(くら)ぶるべくもなきゆえに、その勝敗は火を見るよりも明らかでござろう。」
 その言葉を聞いた途端、姫の顔色が変わった。足が自由になった彼女は縄を振り払うとスッと立ち上がり、甚吉を見下ろしながら毅然(きぜん)とした口調でこう言った。
斯様(かよう)なれば尚更(なおさら)のことじゃ! わらわを即刻小田原へ帰してたもれ!!!
 それを聞いてついカッとなった甚吉もやはり立ち上がると、姫に向かって思わず自分の国の言葉で怒鳴ってしまった。
お前はんたち、なんでそないに頑固やねん! 町は焼かれて、囚(とら)われた女子供(おんなこども)は売りに出されるやも知れへんねんで!!!
 生まれてから今まで、他人からこのような言葉で怒鳴られたことがなかった彼女は、そこに立ったままで今度はさめざめと泣き出し、袖で涙を拭いながらこう呟いた。
「……わらわは囚われたりなどせぬ……。一族の者と共に戦い、共に死ぬ……。」
 甚吉は、困った顔になってこう言った。
「うーん、わかった。わかった。今すぐ連れ戻したるよってもう泣かんといてくれや。」
 そして今度は、やや口調を改めてこう言った。
「然(しか)らば、そのお姿を城下の人目に曝(さら)すわけにもいくまい。これを召されよ。
せ、拙者は、あちらを向いておるゆえに……。」
 最後はまた困ったような口調でそう言いながら、甚吉は馬に積んでいた男物の小袖(こそで)と四幅袴(よのばかま)と草鞋(わらじ)一式を、寝巻き姿の姫の方へポンと投げ遣った。そして彼女とは反対の方を向くと、自分は忍びの黒装束から元の素襖(すおう)と長袴(ながばかま)に着替えて折烏帽子(おりえぼし)を被(かぶ)った。
 彼の後ろでは、着替えの衣擦(きぬず)れの音が聞こえていたが、しばらくするとその音が止まって、その代わりにちょっと困ったような姫の声がした。
「もし、甚吉とやら。こは、いかにして着用するのじゃ? わらわには解(げ)せぬ。」
 甚吉が振り向くと、彼女は寝巻きを脱ぎ、袴(はかま)はちゃんと穿(は)けていたが、襦袢(じゅばん)の上から小袖を着ようとしている。甚吉は笑って言った。
「ハハハ! それでは小袖は召され得ぬ。まずは襦袢をお脱ぎなされて、その後に小袖を召すのじゃ。」
「心得た。」
 彼女はそう言うが早いか、すっと襦袢を脱いでしまった。甚吉は慌てて目をそらした。彼はドキドキしながら、『この娘、男を知らぬな』と思った。まあ、姫様なら当たり前のことなのだろうが。
 やがて、背後で姫の声がした。
「これで良いか?」
 甚吉が再び振り向くと、そこには男装の美少女が、朝陽の射す紅葉を背景にして、やや恥じらいの笑みを浮かべながら立っていた。しばらくその姿に見惚れそうになった甚吉だが、現在の状況でそのような悠長なことをしてはいられない。彼は冷静を装いながらも、感動を込めてこう言った。
「おぉ、上出来じゃ!」
 彼は、姫の後ろに回って言った。
「さて、髪を結うて進ぜよう。」
 甚吉は、彼女の腰まである艶やかな黒髪を、若い侍に見えるよう短く後ろで束ねることにした。その絹のような手触りと甘い香りに、彼女を抱き締めたいという激しい衝動に駆られた甚吉だったが、もしこの状況でいきなりそんなことをすれば、自分は彼女にとって、ただの狼藉者(ろうぜきもの)になってしまう。
『そらあかん! 絶対にあかんで!』
 甚吉は、自分自身に向かって必死で言い聞かせた。
『わしゃあくまでも、姫君の身を案じて救出しようとした、勇者やなかったらあかんのじゃ!』
 辛うじてそこまで考えられるだけの理性を保っていた甚吉は、なんとかその欲情を抑えることができたので、彼女の髪を結い終えると、何事もなかったかのようにこう言った。
「……おぉ、これで良し、と。」
 そして、先ほど姫が入っていた麻の袋を拾うと、それを姫に向かって差し出しながら言った。
「お脱ぎなされた物を、この中に入れて持たれよ。」
 甚吉からそれを受け取った姫は黙って言われた通りにした。
「馬にはお乗りなされるか?」
 甚吉のその問いに、姫は黙って首を横に振った。それを見た甚吉は、近くの木に繋いであった一頭の馬を姫の元に牽いて来ると、その鞍を外した。そして、突然姫を横抱きにしたので、彼女は袋を抱えたままで思わず声を上げた。
「あ!」
 その直後男装の姫は、その裸馬の背にまたがっていた。彼女が再び悲鳴を上げる間もなく、甚吉はその後ろに飛び乗った。鞍は一人乗り用だったので、乗馬の心得のない者を乗せるためには、こうするより他なかったのだ。
 彼は左腕で彼女の腹をしっかりと抱き抱え、右手に手綱(たづな)を握り締めると、「ハッ!」と勢い良く掛け声を掛けて馬の脇腹を軽く蹴った。すると、二人を乗せていた栗毛の馬は、朝の森の中を颯爽(さっそう)と風を切って駆け出した。
 馬を走らせている甚吉は、姫を後ろから抱き抱えながらこう思った。
『さっきは「小田原に帰せ!」言うたくせに、この子、今の状況楽しんどるんとちゃうか?』
 そして、
『女の頭ん中は、さっぱりわからんわ。』
 とも思った。
 街道に出てしばらく急な坂を下ると、道は川に沿うようになって更に下る。そのうち木々のあいだからちらほらと目に入って来るのは、まず秋の相模湾の淡い水色だった。次は、稲刈りの終わった水田の焦げ茶色と、それに囲まれた城下町の瓦屋根の黒、板葺き屋根の黄土色だ。その上には、朝日に燦然(さんぜん)と輝く天守閣の白も目にすることができた。
 更に坂を下ると、やがて木々はまばらになって道は平坦になる。両脇に田畑を見ながらそれをしばらく走れば、もう小田原の町だ。
 甚吉は馬の速度を緩めると、街道から町へと通じる大通りに入り、門のかなり手前で馬の速度を更に落とした。
 町の外郭の土塁を築くための工事は今朝も既に始まっており、大勢の人夫が発する歌うような掛け声と土を突き固める音が、晩秋の朝の空気に響き渡っている。通りの両側にはその人夫たちが食事をするための屋台が立ち並び、そのいくつかが店開きを始めていた。青く高い空には数羽の鳶(トンビ)が舞っており、その中の一羽がピ-ヒョロヒョロと鳴いた。
 姫は後ろの甚吉に向けて、ちょっと残念そうな口調でこう言った。
「馬とは速うに駆けるものよのぅ……。もう着いたのか……。」
 甚吉はそれには答えず、馬を道端に停めて自分が先に下馬すると、彼女を再び抱き抱えて馬から下ろしながらこう言った。
「……拙者、これより先へは行けぬ。ここからなら、そなた一人で行けるであろう。」
 道に降り立って甚吉と向き合った姫は、下唇を少し噛んで黙ったまま頷いた。
 ここから門の守衛のところへ行って、自分の素性(すじょう)と現在の状況を話せば、あとは姫の住まう屋敷まで丁重に送り届けられるはずだ。それはいいとしても、男の形(なり)をした美少女と裸馬を牽いた正装の武士というこの珍妙な取り合わせを、天秤棒を担いだ魚売りや馬に乗った武士などの道行く人々は、怪訝そうな顔で見ながら通り過ぎて行った。この二人のどちらにとっても、この場所での長居は無用のようだった。
 甚吉は、彼女に向かって言った。
「姫よ、いらぬ世話をした。」
 そしてサッと馬に飛び乗ると、その首を手綱を使って元来た方に向けた。そのまま馬を走らせるかと見えた甚吉だったが、一瞬思いとどまって姫の方を振り返ると、寂しそうな笑みを浮かべた彼は、馬上からこう言った。
「野犬を退けるには投石が何より!」
 そして、すぐ厳しい表情になってこう言った。
「さらばじゃ!」
 前に向き直った又成が馬に「ハッ」と声を掛けると、馬は勢い良く町を背にして走り出した。
 ところがまだ一町も行かぬうちに、甚吉にとって信じられないような感覚が生じた。彼を呼び止める姫の声が微かに聞こえたような気がしたのだ。馬を停めることは停めたが、気のせいかとも思ったので、彼は後ろを振り返らず背後に聞き耳だけを立ててみた。
「甚吉殿ーっ! お待ちあれーっ!」
 馬の蹄の音がやんだので、今度はその高く澄んだ声が遠くからはっきりと聞こえた。
「お待ちあれーっ! 甚吉殿ーっ!」
 その声がすぐにまた聞こえたので、気のせいではないと確信した甚吉は、今来た方に馬を回してみた。すると大通りの真ん中で、男装の姫が恥じも外聞もなく、こちらに向かって大きく片手を振り回しているではないか。
 甚吉が自分の方を向いたので、彼女は尚一層声を張り上げて叫んだ。
甚吉殿ーーっ! こちらに戻って下されーーーっ!!!
 そちらに向かって馬を走らせた甚吉は、通常の音量でも会話できるところまで来るとそれを止めた。その足元に舞い上がった砂埃(すなぼこり)が、ゆっくりと横に流れては消えた。
 馬上から姫を見下ろしている甚吉は、真剣な表情で声を掛けた。
「はて、いかが致した?」
 彼女は、「信じられぬ」というような驚きの表情で、馬上の甚吉を見上げながらこう言った。
「甚吉殿?……もしや、あのときのお坊様?」
 その澄んだ瞳には、以前甚吉が見て忘れられなくなったあの輝きが蘇えっていた。しかし今の彼は、悲しそうにそれから目を反らして路上の小石に目を移すと、やや煩わしそうにこう言った。
「……左様(さよう)であれば、いかが致すのじゃ。」
 それに反して姫は、その甚吉の顔を真っ直ぐに見詰めたままで一歩近付くと、明るく歯切れの良い声でこう言った。
「あのとき甚吉殿は、野犬からわらわの身を守って下さりました。そして今は合戦(かっせん)からわらわを救おうとして下さりました。こたびはそれをお受け致すわけには参りませぬが、そのお気持にだけでも礼が言いとうて、このようにしてお引き止め致したる次第、勝手をお許し下され。
甚吉殿、こたびの一件、真に有り難う存じまする。」
 彼女はそう言って、深々と頭を下げた。甚吉は馬を少し進めると、その背に向かって小声の早口でこう言った。
いやいや、礼など要りませぬ。人が見たら訝しがるゆえ、早う面(おもて)を上げられよ。
 彼女が顔を上げると、その澄んだ瞳をチラッと見た甚吉は、視線をまた路上に落として、力なく言葉を続けた。
「……これは拙者の我儘じゃ。妻に先立たれ、三人の息子を抱えた拙者でござるが、太平の世ともなれば、もはや魂の抜けた空蝉(うつせみ)と成り果てること必至(ひっし)。然(しか)らばいっそ息子を連れてこの日の本を離れ、異国にて暮らそうと思い立ったる次第でござる。それに貴女もご一緒願いたかっただけのことじゃ。さりとて、今となってはそれも儚(はかな)き夢。どうぞ笑うて下され。ハッハッハッハ!
 馬上の甚吉は、高く晴れ渡った秋の空を仰いで、さも空(むな)しそうに笑った。ところが、姫は笑うどころか真剣な表情になって甚吉の元に駆け寄ると、彼を見上げながら声を潜めて言った。
もし、甚吉殿! 豊臣との合戦終結せしそのときは、わらわを迎えに来てたもれ。貴殿とご一緒致す!
 これを聞くが早いか甚吉は、馬からさっと飛び下りると、真剣な表情になって彼女と向き合った。
「そ、それは真(まこと)か!?」
 そう尋ねた甚吉の目を、一点の曇りもない瞳で見詰めた姫は言った。
「わらわに生(せい)あらば!」
 彼女のその瞳を、甚吉は鋭く光る瞳で見詰め返して言った。
「然(しか)らば、貴女の姓名をお聞かせ願いたい。」
「北条氏貞(ほうじょううじさだ)が三女、和子(かずこ)……。」

 又成の話しを一心に聞き入っていたバンテンの森山家広間の一同は、ここでハッと我に返ると一斉に和子の方を見た。みなの視線が集中したので頬を染めた彼女は、照れ隠しに上を向いて扇子でパタパタと顔を扇ぎながら言った。
「あれ、今宵はまた暑うござる。」
 勘蔵は、自分の目の前の床に目を移すと、深く溜息をついて言った。
「うーん……、何とも数奇な恋物語じゃ……。」
「……今どきにしては珍しい話しじゃ……。」
 ロクも感慨深げにそう言った。
 目を潤ませていたシャガも同じように言った。
「泣けてくるわ……。
……ねえ、ハヤテ?」
 シャガから同意を求められたハヤテであったが、彼の心はまだ晩秋の小田原城下にあるようで、頬を染めている和子の横顔にまだじっと見惚れていた。それを見たシャガは、みなに気付かれぬようにして、胡坐をかいているハヤテの太腿にすっと手を伸ばすと、それを思いっきり抓(つね)った。
あいたっ!
 ハヤテもみなに気付かれぬよう、声をほとんど出さずに上げた悲鳴だったが、人の気の動きに仕事柄敏感な張先生がそれに気付き、心配して尋ねた。
「ハヤテ、何ばしよっとね?」
「い、いや、話しに夢中んなっとったけん、足、痺(しび)れよったようじゃ。」
 そう言ったハヤテは、笑顔をつくってシャガの顔を覗き込んだが、シャガはそれをフンと無視すると、向かい側の席の和子に微笑み掛けて言った。
「それにしても和子さん、あなたのような方なら、さぞご縁談も多かったことでしょうねぇ?」
 しかし和子は、やや顔を曇らせて答えた。
「いえ、わたくし自身がどうであるかということではなく、一族の繁栄のためにということで、確かに縁談が多うござりました……。」
 彼女はその理由を説明した。
 その家柄から、和子には事実多くの縁談があったのだが、それらの全ては自分と相手の親の思惑(おもわく)によるものだった。つまり、縁談の相手の親は、関東の覇者北条家と親戚関係になろうとするためにそれを持ち掛けて来るのだし、自分の親は、より力のある家と姻戚関係を持つことによって北条家の勢力を拡大しようとしていたというわけだ。このようなことは、当時の上級武士の世界では当たり前のことであったのだろうが、知識と教養のある和子本人としては、それでは満足できなかった。彼女はもっと純粋な恋と、自由な人生に憧れていたからだ。
 しかし和子は家を飛び出すこともできなかった。それは、父母が自分を愛してくれていると信じていたからだ。この当時の価値観からすれば、子が親の方針に従がうということは、今まで育ててもらった恩に報いるということで当然のこととされていた。また、父母から充分愛されて育てられた人なら、そのような価値観は二の次で、ごく自然に親の意見に従がおうとすることだろう。
 それまでは、和子もずっとそのようにしてきた。もし自分が親の意に反して自由な恋をすれば、彼らはさぞ悲しむことであろうと。そして、自分は武家の女として型にはまった人生を歩むしかないのだと、なかば諦めていた。
 そんなある日、結婚の相手を決めかねている和子に対して、父母は一つの策を試みた。まず、第一の候補の男性に求婚の恋文(こいぶみ)を書かせ、その文の最後には「これが届いた日の暮れ六つ(午後六時)までに返事がなければ、婚約を承諾したものと見なす」という内容の文を書かせた。そして、それを和子の元に届けると、その日の午後には彼女の二人の侍女を同時によそへ使いに出してしまったのである。
 その恋文を受け取って読んだ和子は、その男性に対して婚約を断わる内容の返事を書くには書いたのだが、文を持って行ってくれたり外出のときに連れ添ってくれたりする侍女が二人ともいない。単独で屋敷の外に出ることが許されていない彼女は途方に暮れてしまったのだが、このまま何もしなければ定められた時刻が来て結婚を承諾することになってしまう。
 そこで意を決した彼女は、侍女の衣装を身にまとい、髪を結い直して侍女に成り済ますと、屋敷を抜け出して自分が書いた返事をその相手が住む屋敷に届けたのであった。その帰り、野犬に吠えられた彼女は、それを追い払う手立てを知らなかったので、あっという間に路地の角に追い詰められてしまった。そこから先は又成が先ほど話した通りである。

「なるほど。お父さんお母さんとしては、策略が裏目に出てしまったというわけですね。」
 シャガがそう言うと、和子は寂しそうに微笑んで言った。
「左様でござります。後日その二人の侍女が、庭で立ち話しをするのを偶然耳にしまして、あの恋文が実は謀(はかりごと)であったことを知りますと、それまで親を信じて疑わなかったわたくしは、実の娘に斯様(かよう)なことをする親に対して、生れて初めて不信の念を抱くに至りました。
わたくしが姿を眩(くら)ませば両親は嘆くことでしょうが、それはわたくしの身を案じてのことではなく、娘という外交の道具を失ってのことではないかと疑うようになってしまったのです。」
 シャガは深く頷いて言った。
「そのお気持ち、よくわかります。」
 その言葉を聞いた和子は、やや目を見張って言った。
「左様でござりまするか。このような思いをわかって下さるお方、世間では少のうござりますよって、まことに嬉しうござりまする。」
 シャガは、やや目を伏せて言った。
「あたしにも、そのようなことがありましたので。」
 和子は、やや遠慮がちに尋ねた。
「そのようなことと申されますと?」
 継母の計略によって、自分が好きでもない侍のところに嫁がされそうになったということを、シャガが手短かに話すと、和子は深く納得して言った。
「……なるほどのぅ。それは、わたくしのことと、正に同じことでござりまする。」
 シャガは言った。
「そうです。とても他人事とは思えなくて……。
……それで、又成さんとあのようなお約束をなさったのですね?」
 シャガが話題を元に戻したので、和子は話しを続けた。
「左様でござります。そのようなことが、先ほど夫が話しましたような、家を出る決心に繋がったというわけでござります。親としましては、まさかこのわたくしが、そのような大それたことをするとは思ってもいなかったのでござりましょう。」
 焼酎を一口飲んでから、ハヤテが言った。
「……犬に吠えられたのには難儀なさったでしょうが、それなかったら又成さんとは会えんかったんでしょうなぁ。」
 和子はそのときの状況を思い出したのか、急に真顔になって言った。
「左様でござります。あのときは本当に食い殺されるかと思って覚悟を決めましたが、人生何がきっかけでどう発展するかわかりませぬ。」
 若い隊員の一人が、隣に座っていた同僚に向かって小声で言った。
「……ほじゃけんも、山ん中で女子(おなご)服脱ぎやったの見なさって、よう堪(こら)えなさったのぅ。」
 もう一人の隊員も小声でそれに応えた。
「そいが凡人とは違うところとよ。こいがおいなら、はや布団ば捲ったときから手ぇ出しとっとよ。」
 また別の隊員が言った。
「きっとその道の達人に違いないぞ。その証拠に見てみい。又成さん、美しい姫様の心しっかり捉えなさったじゃろうが……。」
 この会話が耳に入った又成は、やや照れ臭そうに言った。
「いやいや、達人でもなんでもあらしまへん。単にずるいだけのこってすわ。手ぇ出しても許して貰える機会、四六始終(しろくしじゅう)うかごうとるんやから。」
 まだ独身の三人の隊員たちは、羨ましそうな目付きで又成を見ながら口々に言った。
「そこの見極めがのぅ……。」
「そうそう。おいにはわからんとよ。」
「やっぱし達人じゃ。」
 ここで勘蔵は身を乗り出すと、話しの催促をした。
「それで、その後お二人はいかがなされたのでござるか?」
 それには又成が答えた。
「好きな女子(おなご)が、『お供します。』言うてくれやった。男としてこないに嬉しいことあらしまへん。」
 ところが又成は、ここでなぜか力なく微笑むとこう言った。
「……せやけどな、後(あと)んなってから、『えらい契(ちぎ)り交わしてもうた。』と、そら悔いたこと悔いたこと……。」
 又成はしみじみとそう言うと、先ほどの話しの続きを始めた。

 晩秋の朝、街道から小田原城へと続く大通りの道端で、甚吉は和子の瞳をじっと見詰めながら言った。
「和子殿。時来たればこの甚吉、必ずやお迎えに参上致す。」
 人通りがなければ彼女を思いっきり抱き締めるところだが、甚吉こと又成はそれを堪えて、彼女の手だけを強く握り締めた。それは、細くしなやかな手だった。
 和子の澄んだ瞳が涙で潤んできたので、又成は握っていた手を離して馬に飛び乗ると、後ろを振り返らずにその場を去った。彼女が泣く姿を見れば、別れが更に辛くなるからだ。
 又成が清水近郊の山中にある隠れ家に馬を連れて帰り着いたのは、翌日の午後だった。息子たちは三人とも無事であった。森山父子は当分ここを拠点にして、天下の動向を注意深く見守ることにした。
 この年の十二月二十四日、又成が予測していた通り、豊臣秀吉はついに北条氏に対する宣戦を布告した。北条側はそれを受けて立った。
 翌天正十八(一五九〇)年二月、当時まだ秀吉に仕える身であった徳川家康が、駿府城で戦の支度を始めた。そして三月一日、関白秀吉本人がついに兵を動挙げた。両軍は伊豆・箱根各地で北条方の軍勢を次々と打ち破りながら東進して行った。
 そして四月三日。北条氏の拠点である小田原が、二十二万とも言われる豊臣方の軍勢によって地上と海上から包囲された。これを迎え撃つ北条方は五万六千。
 ここで秀吉は、「兵糧(ひょうろう)攻め」という、水や食料の補給を絶って敵を苦しめる戦法を採(と)った。そのあいだ小田原城内では、降伏するか打って出るかなどの討論が連日のようになされていたようだが、そのような悠長なことをしているあいだに、伊豆下田城を始めとする関東各地の北条方の支城が次々と陥落(かんらく)していった。
 一ヶ月、また一ヶ月と時が過ぎた。
 食料や日用品などを調達するために清水の町に出れば、小田原関係のこのような情報が厭でも耳に入って来る。その道の専門家である又成からすれば、最終的に豊臣方が勝利するということは明らかなことであった。そして、それは彼にとって気が狂いそうになることであった。それは小田原が落城することであったからだ。
 戦闘が終結して迎えに行けば、和子は自分のところへ来てくれるとは言った。しかし、彼女が死んでしまっては何にもならない。戦闘の終結を望む気持ちと彼女を死なせてはならぬという気持ちとで、又成の心は異常なまでに揺れた。
 食が細り口数が減っていく父の姿を見ている彼の息子たちは、日ごとに心配の度合いを強めた。
 そんなある日のこと、又成がついに和子と再会するときが訪れた。澄んだ瞳の和子が遠くから歩いて来る。又成は彼女の元へと全力で走って、彼女の顔の表情がわかるまでに近付いた。彼女は微笑んではいたが、その顔色は青白く頬は痩せこけているようだった。間もなく、ついに彼女に触れられるところまで来ると、又成はその体を思い切り抱き締めた。
 しかし、それはまるで枯れ木のように硬く細く軽かった。彼は不審に思い、彼女の顔をもう一度よく見た。すると、澄んだ瞳だけは今まで通り輝いてはいるが、その顔はなんと白骨になっているではないか!!!
ウオーーーーッ!!!
 人間離れした自分の叫び声で夢から覚めた又成は隠れ家を飛び出すと、奇声を上げ続けたまま夜の森の中を走り回った。三人の息子たちはその騒ぎで飛び起きたが、恐怖のあまり互いに身を寄せ合って、父のその奇怪な行動を見守ることしかできなかった。
 夜が明けるまで走り回り、疲れ果てて動けなくなってしまった父又成を、三人の息子たちは隠れ家に運び込んだ。その顔や手足のあちこちに蚊に刺された痕(あと)があり、何匹かの血を吸ってパンパンに膨れた蛭(ひる)も、その首筋や足首から血を吐きながら転げ落ちた。
 又成は体を拭かれ、自分の寝床に寝かせられた後も、思い出したように「ウオーッ!」とか「やめろー!」と叫んでいた。

「とと様、それもあるが、『カズコー!』言うて、かかさまの名を一番多く呼んどいでになりましたじゃ。」
 竹若丸のこの言葉によって、バンテンの森山家広間の一同は我に返った。又成は赤くなって頭を掻き掻き言った。
「おお、左様。左様。抜けておった。ここは後に一成より聞いて知ったゆえにのぅ。ハハハハ……。」
 和子もまた頬を染めて俯いた。
 又成は話しを続けた。

 その日の夕方やっと正気に戻った又成は、父様に精が付くようにと息子たちがつくってくれた、猪(いのしし)の肉と豆腐が入った大蒜(にんにく)味噌仕立ての鍋物を食べながら物思いにふけった。
 まず彼は、織田信長の差し向けた大軍と戦って、伊賀を追われたときのことを思い出した。それは、いかに優れた忍術を使いこなせても、「多勢に無勢」という力の論理を見せ付けられたものであった。しかし、それよりももっと力のあるものがこの世にあると、たった今彼は確信した。
 それは女の瞳、それも好意を持った男を見るときの美女の瞳の輝きだ。女の目や耳から入った感動は、大脳を一切経由せず、もの凄い速度でその全身を駆け巡るうちに増幅され、再びその女の目から強力な光線となって発せられる。この輝きに魅せられてしまった今の自分は、仕事を捨て、住いを捨て、下手をすると正常な精神まで捨てかねない状態になっている。一人の女のたった二つの瞳が、織田信長の軍勢を上回る勢いで、自分の人生と精神を狂わそうとしているのだ。そう思えば思うほど、そのような類い稀なる美しさを湛えた瞳の持ち主を憎むどころか、悲しいかな益々恋しさを強めてしまう又成なのであった。
「恋は炎じゃ……。美しく儚(はかな)く、時には狂おしく……。」
 揺れる焚火の炎を見詰めていた又成は、そう独り言を漏らして力なく苦笑いした。
 今回は息子たちのお陰でなんとか正気に戻れたが、このままだと自分は発狂したまま戻って来れなくなるに違いない。しかも、包囲された小田原に蓄えられている水と食料は確実に減っていく。それならもう一刻の猶予もない。和子が自分のところへ来るということは二の次で、この戦争を即刻終結させねばならぬ。武器によって死傷するよりも、兵糧攻めによる餓死の危険性の方が高まってきたからだ。
『戦争終結の方法は二つある。まず一つは、北条氏直を暗殺すること。もう一つは、豊臣秀吉を暗殺することや……。』
 そう思った又成は、意を決したように自分の椀を空にすると、箸を置いて立ち上がった。そして、それまで一緒に焚火を囲んでいた三人の息子たちを見下ろして言った。
「精の付く物を食して力が湧いて参った。感謝致す。
……父はこれより小田原へと向かう。後を頼んだぞ。」
 彼はそう言うが早いか猟師に変装し、忍器や着替えなどの支度をして馬にまたがると、馬をもう一頭牽いて隠れ家を後にした。
 前回箱根を通った又成は、北条方の陣地をあちこちで目にしたが、今回はそれらがきれいさっぱりとなくなっているのに驚いた。それは、ここでの戦闘が完全に終結していることを物語っている。そのため幸か不幸か、今回の通行は前回に比べてはるかに容易だったので、翌日の午後には小田原城の西に位置する山の中腹に立つことができた。
 しかし又成は、さも残念そうな口調で呟いた。
……こら、あきまへんわ……。
 その眼下に今見えているのは、彼が今まで目にしたことがないような巨大な渦であった。
 陣幕(じんまく)や幟(のぼり)が織り成す白。人馬の織り成す黒。それらが幾重にも、城を中心とした小田原の町をびっしりと取り巻いているのだ。しかも、その向うに薄青く広がっている相模湾は、大小様々な艦船で、やはりびっしりと埋め尽くされている。これでは、それこそ鼠一匹通れはしないだろう。仮に、この包囲網を奇跡的に潜り抜けられたとしても、今度は北条方の堅固(けんご)な城の守りを突破しなければならない。それなら、秀吉を狙う方がまだ成功の可能性があった。
 小田原城の西南に位置する石垣山に城をつくらせた秀吉は、つい最近そこに本陣を移したところだった。それもここから見える。そちらの方は小田原城に比べればずっと手薄(てうす)だったが、そうするとまた別な理由で侵入するのが困難になりそうだった。
 忍術には一般の者の盲点を突いたものが多い。しかし、それだと同じ流派の忍者相手には通用しない。例えば、攻撃するときに手裏剣(しゅりけん)を使うか吹き矢を使うかということは、その状況に応じて判断するわけだが、それを先読みされてしまう可能性が大きいというわけだ。
 一見手薄に見える秀吉の本陣には、その分又成と同じような忍者が警護に当たっている可能性が充分にある。そのような状況では、一般の侍と忍者両方の盲点を突く作戦を立てなければならなかった。彼は日が暮れるまでにそれを練ることにした。

 又成が一息入れて自分のグラスの焼酎を飲み、話しが一時中断したので、ロクがやや目を見張って言った。
「秀吉の暗殺とは、また話しが大きゅうなってきましたのぅ。」
 長男の一成が困ったような表情で言った。
「炎の前で身どもを見下ろし、『小田原へ向かう』と申したときの父の目は、もはや常人のそれではござりませんでした。」
 それを聞いた又成が笑って言った。
「ハハハ! いや、それ思い付いたときは、我ながら名案や思うてましてんけどな、今思えばこれ正真正銘の気違いですわ。ただの山賊ならここまでよう考え付かんかったんやろ思います。それが、なまじ忍術など知っとるせいでみー、頭ん中にいらんことプクプク湧いて来よるんですわ。これ、ほんまにかないまへんで。なんも知らんのがいっちゃんええ。」
 みなの取り皿に料理を補充し、グラスや湯呑みに飲み物を注いで回っていた和子が、さも申し訳なさそうに言った。
「……わたくしは、あの戦で北条が勝つことはなくとも、敗けることもなかろう、和睦して終わるのであろうくらいにしか考えておりませんでした。深く考えもせず斯様な契りを交わしてしもうたこと、又成殿には誠に申し訳なく存じておりまする……。」
 隊員の一人が言った。
「ほうじゃけんが和子さんや。もし又成さんに何も言うておられんかったら、ここでこうしてみなさんとお会いできんかったかも知れんけん、又成さんにゃぁちぃと気の毒なことじゃが、あの契り交わしといて良かった言うしかないですのぅ。」
 今度は別の隊員が言った。
「そのお世話なさった息子さん方も、また気の毒じゃったのぅ。」
 信成が微笑んで言った。
「確かにあのときは、我らも難儀しましたが、このバンテンでの満ち足りた暮らしを思えば、致し方ござらぬと思うておりまする。」
 一成も微笑んで言った。
「日本で豊臣の重臣に仕えておれば、それなりの暮らしはできましょう。されど、それは所詮日本の豊臣の家臣のまた家臣でしかありませぬ。」
 どうやらこの二人の若者は、この地での生活と仕事に心から満足しているようだった。
 竹若丸はちらっと和子の方を見ると、頬を染めながらも真剣な表情で言った。
「男子(おのこ)は斯様(かよう)にして惚れた女子(おなご)と結ばれるということを、とと様は身をもって見せて下さりました。」
 又成は照れながら言った。
「いやいや、お世辞でもそない言うてくれるんは、ほんま有り難いこってすわ……。」
 そして彼は話しを再開した。

城  忍者が城の建物へ侵入するには様々な方法がある。もっとも平凡な方法は、夜間に堀を泳いで石垣を登り、窓の格子に鉤の付いた縄を引っ掛けて、それを伝って壁をよじ登り、その格子を破って侵入する方法だ。しかし、今回は戦闘態勢に入っており、夜間の見張りも強化されているはずなので、もちろんこの手は使えない。
 城に運び込まれる荷物に紛れ込んで侵入する方法もある。しかし、太閤の本陣へ運ばれる荷物は全て厳しく検査されるはずなので、この手も使えないだろう。
 秀吉と特に親しい関係にある誰かに変装するという手もある。又成もよく知っているところでは、大和郡山城主であり秀吉の兄である秀長とか。しかしこれも、その人物の衣服や表情、仕草などをじっくり研究してからでないと、すぐに見破られるので、時間的な余裕がなければ使えない戦法だ。
 その他、真夜中に大凧に乗って城の屋根に下りる方法、火事を起こして見張りの注意を引き、その隙に侵入する方法、飲み水となっている川に毒を流す方法など、彼は忍法のあらゆる手法を想定してみた。しかし、たった一人の力によってそれを実現することは、いずれも不可能なことであった。
 そのため又成は、白昼堂々と石垣山城へ接近して周辺の様子だけでも探ることにした。それなら、むしろ一人の方が目立たないので都合が良かった。
 次の日の早朝又成は、猟師に変装したままで、隠れ家となっているこの山を徒歩で下りて行った。
 石垣山の近くを流れる川のほとりの葦のあいだに潜んだ又成は、桶を積んだ馬を牽いた兵卒たちがその近くへ水を汲みに来るたびに、彼らの会話に聞き耳を立てていた。
 包囲を始めてから既に三か月が経とうとしていたので、豊臣方の兵卒には厭戦(えんせん)気分が漂っていてもよさそうだったが、意外にもどうやらその逆のようであった。何回目かに来た兵卒たちが交わしていた次のような会話によってその理由がはっきりした。
「……ほうか、太閤はんと合うたときにかや。」
「おう。政宗(まさむね)は、太閤はんの、けりゃー(家来)になる言うたげだに。」
「それ、どえりゃーことだがや。」
「氏規(うじのり)が、城明け渡したとも聞いたに。」
「小田原んもん、それ知っとるんかや?」
「おう。城ん中に情報流したげぇだがや。」
「敵さん、自棄(やけ)んなって討って出るかわからんがや。」
「こりゃ褌(ふんどし)締め直さんならんで……。」
 政宗とは伊達政宗のことで、氏規とは伊豆韮山城を守備していた北条氏規のことである。
 この会話による戦局がもし事実であるとすれば、それは北条方にとって大打撃となることだ。しかも、その情報を小田原城内に流したというのである。これによって又成は、小田原での戦局が大きく進展するであろうことを直感した。
 この水汲みの兵卒らが去ると、又成の背後で微かな物音がした。彼はその音の方を向くと、怪しまれぬようにわざと大きな欠伸(あくび)をして、ゆっくりと立ち上がりながら言った。
「あ~~あ! 良う寝た、良う寝た!」
 薄く開いた彼のその目に映ったのは、彼と同じような猟師の成りをした中肉中背の男だった。忍者が変装する猟師の姿には独特の型があるので、一般人の目は誤魔化せても、忍者ならすぐにそれを見抜いてしまう。この男も、どうやら忍者のようだった。一瞬目が合った途端、そこに火花が散ったのだが、その二人の表情はほぼ同時に驚きに変わった。
「もしや弥次郎(やじろう)か!」
 又成がそう言うと、相手も同じように言った。
「甚吉か!」
 その猟師に変装した忍者は、天正伊賀の乱のとき織田信長が差し向けた軍を相手にして、自分と共に戦った伊賀の忍者弥次郎であった。
「お互いのため、どこへ仕える身かを敢えて明かさぬことにせぬか。」
 又成のこの提案に、弥次郎は快く同意した。
「それは妙案じゃ。」
 二人は川原に並んで腰を下ろすと、川に平たい小石を投げる、いわゆる「水切り」をして遊びながら、川のせせらぎの中、互いの顔を見ずに小声で会話した。この姿を遠くから見れば、二人の猟師がただ黙々と水切りを競い合っているように見える。まず又成が石を一つ投げてから尋ねた。
……北条は討って出るか?
 弥次郎も同じようにして石を投げてから、その問いに答えた。
……いや。近々開城するであろう。
 又成はまた石を投げてから問うた。
……開城後の処理は誰が行うのか?
 弥次郎は、自分が座っている周囲から適当な石を探しながらそれに答えた。
……権大納言(ごんだいなごん)家康との噂じゃ。
……お主(ぬし)これからどうする?

 弥次郎が今度は問う側に回った。又成はその問いに答えた。
開城後、ある人を連れて日の本を出る。
当てはあるのか?
 又成は、また石を投げてから言った。
……異国では傭兵の職があり、日の本の兵卒は評判が高いと、以前シャムから帰還した者より聞いた。
 弥次郎が石を投げてから尋ねた。
……長崎から出るのか?
左様。
 又成がそう答えると、弥次郎はスッと立ち上がって言った。
拙者職務中なれば、これにて御免致す。
 又成も立ち上がった。
さらば!
 二人は同時にそう言い交わすと、それぞれ葦の茂みに姿を消した。
 弥次郎は恐らく豊臣方に仕えているのだろう。そして、又成のような者が本陣に侵入しないように巡回して見張っていたに違いない。もし相手がこのような旧知の者であっても、職務中の忍びにとってそれは関係ないことだった。だから普通なら弥次郎は又成を襲っていたはずだ。
 しかし、弥次郎がなぜそうしなかったのかは、又成にとっては今だに大きな謎であった。又成が豊臣方の他の大名に仕える忍びかと思ったのかも知れない。あるいはまた、豊臣方の勝利を知っていた弥次郎は、この場に及んで無益な殺生を避けていたのかも知れない。いずれにせよ、ここで攻撃されなかったことは、又成にとって非常に幸運なことであった。
 又成は早速昨夜野宿した山へと引き返した。これだけの情報が得られればもう充分だったからだ。もはや、わざわざ危険を冒(おか)して秀吉の暗殺などする必要はなくなり、あとは小田原城が干戈(かんか)を交えることなく開城するのを待つだけとなった。彼は今か今かと、昼夜を問わず目の下の巨大な渦を眺め続けた。
 彼がその風景にとことん見飽きた八日後の朝、突然それに変化が生じた。小田原周辺の主な道路が、城を起点にして徐々に黒く染まっていったのである。それは、防衛のために集められていた近郊の農民が、武装を解除して郷里目指して帰る列なのだろうと又成は思った。
 その翌日には、町を取り巻いている人馬の群れが動き始めた。どうやら布陣を改めているようだ。
 それから数日間は、あまり変化が見られなかったが、七月十七日の朝、突如として風景が一変した。秀吉の本陣を始めとする各部隊が移動を開始したのである。その多くは街道を東へと進んで行ったので、きっと奥州(おうしゅう)にでも向かうのだろうと又成は思った。小田原を手中に収めた今、この日本で秀吉の意に従わぬ者は、奥州の諸大名を残すのみとなったからだ。
 そしてその翌朝、ついに小田原城下は徳川家康の軍とおぼしき部隊にのみ包囲される形となった。これを見届けた又成は、急遽この野営地を引き払い、二頭の馬を連れて山を下りて行った。
 それまで大軍に包囲されていた小田原であったが、そこには戦々恐々とした空気はもうなかった。家康は入城を済ませているようで、町の正面の門には、白地に徳川家の葵の紋が染められている大きな二つの幕が左右対称に張られていた。陣笠を被って弓矢を背負い槍を持った数十人の兵卒が、そこの守備にあたっていた。彼らは町に入る者よりもむしろ、町から出る者に対して目を光らせているようだった。
 そこに一人の旅の僧が現れ、門の前に立って合掌し、しばらく大音声(だいおんじょう)で経を唱えてから兵卒たちに向かってこう言った。
「……愚僧この近辺通りし折、小田原落城の報を耳に致した。合戦の勝者敗者を問わず、戦死者の供養をば致しとう存じまする。何とぞここをお通し下され。」
 ここの守備隊の隊長とおぼしき、兜(かぶと)を被った目付きの鋭い一人の武将が、前に進み出るとそれに応待した。
「このたびの開城無血なりしが、城主は当方の御大将(おんたいしょう)とご縁戚にあらせられるゆえに流罪(るざい)、そのお父君(ちちぎみ)と叔父君には切腹申し付けらたりと伺っておりまする。罪人とて死すらば供養は要りましょう。お通し致すが、その前に一度貴僧のお顔をば拝見致しとう存じまする……。
笠を上げられよ!」
 最後は有無を言わさぬ厳しい口調となったので、僧は言われるがままに自分が被っていた編み笠の前を少しだけ持ち上げた。そこに現れた顔をじろっと見た隊長は、口調をやや穏やかにして言った。
「よろしゅうござる。お通り下され。」
 僧は編み笠を元に戻すと、足早に門を通過した。
 城下町に入った僧は、予想していたような大混乱は目にしなかった代わりに、町の水路のあちこちが干上がり、その至るところで悪臭が立ち込めているという状況に遭遇した。
 通常なら、生ゴミや糞尿などの処理業者が汚物を回収し、近郊の農家に畑の肥料として供給していたので、町は常に清潔に保たれているはずだ。ところが、長期間の篭城(ろうじょう)によってその処理機能が停止していた上に、通常を遥かに上回る人口を擁(よう)していた城下では、それらの処理の限界を超えてしまっていたのであろう。
 夏の暑い最中(さなか)のことであり、この状態が更に続けば町には疫病(えきびょう)が流行し、合戦による二次的な被害に見舞われるところであった。北条父子はそのようなことも危惧し、敢えて開城に踏み切ったのかも知れない。とにかく、氏政・氏直父子をはじめとする一族の者が責任を取ることによって、今回の戦闘による死者が最小限に食い止められたのは何よりだと、人通りのほとんどない大通りを歩きながら僧は思っていた。
 もともと戦国大名の中では、その柔軟な発想による政治や外交によって栄えていた北条氏。もし秀吉に逆らわなければそれなりの領地も与えられ、地位もある程度までは確保できただろうに。その昔、平将門(たいらのまさかど)がしたように、都(みやこ)の支配から関東を解放させるという志(こころざし)があったのかも知れぬが、現実は厳しかったようだとも僧は思った。
 やがて僧は屋敷町に入った。そして、その中でも特に大きな屋敷の裏門の前に立つと、中へ声を掛けた。
「もし! 御免!」
 間もなく門の覗き窓が細く開けられ、そこに門番の男の不審そうな目が現れた。
「しばらくお待ちあれ。」
 門番はそう言って一旦覗き窓を閉めると、どこかへ行ってすぐに戻って来た。そして、閂(かんぬき)を外して門を少しだけ開けると、何枚かの銭を抓んだ手をその隙間からそっと出して、声を落としてこう言った。
「ご承知のことと存じ上げまするが、城下尽く食物尽きし折、これにて御免下され。」
 僧はその銭を受け取らず、編み笠の中からこう言った。
「某(それがし)、托鉢(たくはつ)に参ったのではござらぬ。徳川又成殿より預かりし文(ふみ)を、こちらのご息女にお届けに参上つかまつったのじゃ。和子姫はご健在か?」
 門番は胡散臭そうな目で、僧の頭のてっぺんから足の先までを見ると、やや早口でこう言った。
「姫はご健在にあらせられる。しばらくお待ちあれ。」
 一旦門を閉めた門番は、またどこかへ行ってしまったが、その言葉を聞いた僧は、なぜかフーッと深い息を吐いた。しばらくして戻って来た門番が、また少し門を開いて、そこから手を出しながら言った。
「然(しか)らば、これにお預かり致す。」
 僧は漆(うるし)塗りの小さな手箱をその門番の手の上に乗せた。門番はその手を門の中にすぐ引っ込めると、元のように門を閉めて閂を掛けた。
 その手箱は、まず和子の父氏貞の元へと届けられた。娘に来た手紙は全て自分の手に渡すよう、彼はこの家の家臣と侍女の全てに言い付けてあったからだ。
 中庭に面した居間で、それまで読書をしていた氏貞は、読んでいた本を文机(ふみづくえ)の上のかたわらに置くと、同じ文机中央に置いた手箱の蓋を開けて中の手紙を取り出した。そして、その手紙をくるくると回して広げながら、彼の近くに座して久しぶりの茶を嬉しそうに飲んでいる、妻の妙子(たえこ)に向かってこう言った。
「こたびの合戦にて余(よ)にお咎(とが)めなきことは、誠に有り難きことと喜びしが、開城早々(そうそう)にして恋文(こいぶみ)とは、はてまた何とも気の早き者よのぅ……。
徳川又成とは聞き覚えなき姓名であるが、徳川を名乗るからには家康公の縁者と見て良かろう。然(しか)らば正に良縁……どれ……。」
 氏貞は声を出してその手紙を読んだ。
「北条和子殿
野の犬に 追われし辻に 今宵また
       立ち現れるや 甚(はなはだ)吉報(きっぽう)
              七月十八日 徳川又成」
 氏貞は首を傾げながら不審そうに言った。
「……はて? わけのわからぬ歌じゃ……」
 そして彼は、それを妻に手渡しながら言った。
「そなた、これをどう解(げ)するや?」
 妙子は受け取った手紙に目を通すと、やはり不審そうに首を横に振って答えた。
「……わらわにも解しかねまする。とても恋文には見えませぬが……。
和子に見せ、あの子がどう解するやを見ませぬか。」
「おう、それは妙案じゃ。」
 氏貞は妻の意見に同意すると、部屋の入口に控えていた侍女に向かって言った。
「和子をこれへ呼んで参れ。」
 しばらくすると、先ほどの侍女に付き添われた和子が居間の入り口に現れた。以前より少し痩せてはいたが、健康に支障はなさそうだった。和子は居間に入ると、父母に向かって座し、頭を下げながら丁寧な口調でこう言った。
「父上様、お呼びになられましたか?」
 氏貞は言った。
「左様。今し方、徳川又成殿と申するお方のお遣いより、これに文を預かった。そなたに宛てたものじゃ。まあ、読んでみぃ。」
 和子は浮かぬ顔でその手紙を受け取ると、それを広げて読んでみたが、読み終えた途端、暗く沈んでいた目は光り輝いて大きく見開かれ、顔の表情は花が開くように明るくなった。彼女は一つの行を、何度も繰り返して読んだ。
『立ち現れるや 甚吉報……』
 その和子の目が次第に潤んできたのを見た母が、心配して問うた。
「和子や、いかが致した。このお方を存じておるのかえ?」
 和子は元の浮かぬ顔に戻ってそれに答えた。
「いいえ、存じ上げませぬ。」
 そう言ってしまった和子は、父母を欺くということに対する罪悪感と共に、子供から大人へと脱皮するときに生じる独特の寂寥感(せきりょうかん)も味わっていた。
「存ぜぬと申す割には、嬉しげな顔になっておったに。」
 父が訝しげにそう言うと、和子は口に手を当てて笑って見せた。
「……ホホホ。この歌が面白うて笑うたのでござりまする。」
 しかし父は、更に訝しそうな顔になって尋ねた。
「この歌の何が面白いのじゃ? 余には一向に解せぬが。」
「これは、『野犬伝』をお読み遊ばされたことなきお方にあられましては、解されぬが当然にござりまする。」
 父は更に訝しそうな表情になって聞き返した。
「は? なんと?」
 和子は心底呆れたように言った。
「『南相小田原野犬伝(なんそうおだわらやけんでん)』でござりまする。父上様ほどのお方が、ご存知なさりませぬのか?」
 我が子が自分の知らぬ本を知っているということで、負けず嫌いの氏貞はやや機嫌を損ねてこう言った。
「えい、もうよい!」
 そして、妙子の方を向くと、やや早口になってこう言った。
「この文は姫の気を引くための戯言(ざれごと)とあいわかった。いずれまた、この者から同類の文が来るのであろう。」
 そして、再び和子の方を向くと、温和な口調に戻ってこう言った。
「和子、もう下がってよいぞ。」
 和子は一礼して父母の居間を退出した。廊下を歩く彼女は、付き添っている侍女に気付かれぬよう、こっそりと袖で涙を拭った。それは、父母を欺くという反道徳的な行為をしてしまったことに対する嘆きと、その父母との決別を決心したことに対する悲しみが入り混じった複雑な涙であった。
 自室に戻った和子は、文机の上に置かれてある黒い漆塗りの筆箱の蓋を取ると、その中の硯(すずり)に水を差して墨を磨(す)り始めた。彼女は手を動かしながら、父母を始めとする家族に宛てた置手紙の文章を、あれこれと思い浮かべでいた。
 一方、徳川又成からの手紙を渡し終えた先ほどの僧は、今回切腹を命じられた者の供養を近くの寺で済ませると、人目に付かぬ場所で、僧侶の姿からありふれた町人の姿へと着替えた。あとは、和子があの手紙の意味を正しく理解して、それに応じた行動を取ってくれるかどうかに懸(か)かっている。
 この男こそ、甚吉こと森山又成本人であった。
 城下は敵軍の入城に際して、当初恐れ慄(おのの)き閑散としていたが、陽が高くなるにつれて人通りも増え、辻々も混雑してきた。進駐して来た徳川軍の部隊はきちんと統制がとれており、民に対して狼藉(ろうぜき)をはたらく者はいないという噂が広まったので、安心した住民が屋外に出始めたのだ。
 すると、徳川家から許可を得た者が、米や雑穀、芋や豆、野菜や果物、魚や鶏などといった食料品を天秤棒に下げ、薪や炭などの燃料を荷車に乗せて、次々と町内に運び入れた。それらは町内各所に定められた市場で商われた。
 それらの物売りの上げる声、そこに群がる者、町を出ようとして家の前に停めた荷車に荷物を積んでいる者、逆に進駐するために入って来た徳川の兵士たち……。飢餓からの解放と戦後の政権交替が一挙に行なわれたのだから、その賑わいと混雑ぶりは当然のことであろう。
 そんな中、約束の時が近付くと、又成は以前和子が野犬に追い詰められていた、あの人通りの少ない路地の角に立った。暦の上では立秋近い夏の夕暮れのことであった。
 蝉時雨(せみしぐれ)の降る中、又成はじっとそこに立ち続けた。
 やがて、ねぐらに帰る数羽の烏が、互いに鳴き交わしながら夕焼け雲を横切っていくのが見え、あのときと同じように近くの寺の鐘が暮れ六つを告げた。しかし和子は現れなかった。
 又成は、務めて明るく自分に言い聞かせた。
『屋敷から抜け出すための変装すんのに、手間取っとんねんで。』
 そして笑顔になろうと努めたが、何度試みてもその頬は引き攣(つ)って、笑顔にはならなかった。
 やがて陽が沈み、あたりは闇に包まれていった。
『来ぃへんのちゃうか?』
 又成の心の中にも、次第に悲しみの闇が広がっていった。
『約束忘れよったんか? 親の決めた相手と夫婦(めおと)になることにしよったんか? それとも心変わりして他の男に惚れよったんか!?』
 又成は、今度は心の底から笑った。
「ハハハ! アホらし。」
 馬鹿らしく思えてきたのだ。子供がその場で思い付いたような約束を、命掛けで愚直(ぐちょく)に守ろうとしていた今までの自分のことが。彼は大きく伸びをして濃紺の空を仰いだ。既に星が三つ四つ出ている。それを見た途端、急に三人の我が子のことを思い出した又成は、一刻も早くその元に帰りたくなった。
「あー終わった終わった、炎は消えた! これで清々(せいせい)したわ。」
 彼を狂いに狂わせたこの恋だったが、今そこから目覚めた又成は、ただの一人の父親に戻ろうとしていたのだ。そのとき。
「……」
 又成の鋭敏な耳が微かな物音を捉え、彼は反射的にその方を向いた。すると、すっかり夕闇に包まれたこの狭い路地に、一つの黒い人影が入って来たのを彼の目が捉えた。その走り方から、それが上流階級の若い娘であることをすぐに見抜いた又成だったが、帰ろうと決心した矢先だったので、いささか戸惑(とまど)ってしまった。
 影は又成から二間ほど手前のところに来て立ち止まった。町人の姿をしたこの男の顔が夕闇でよく見えないため、それが先ほどの手紙の主かどうか判断しかねている様子だった。又成はやや遠慮がちに口を開いた。
「……文、お読み下されたようじゃな。」
 その人影は、不安から一挙に解放されたような、明るく嬉しそうな声を発した。
「ああ! やはり甚吉殿であったか! 遅うなって、誠に申し訳ござりませぬ。」
 そして、足早に又成の元へと駆け寄った。それは、又成が思った通り和子であった。しかし又成は、わざとそちらを見ようともせず、空に瞬く星を見ながらやや不機嫌そうに言った。
「……貴女は来られぬものと思い、拙者たった今引き上げようとしておったところでござる。」
 それを聞いた途端、和子は声をやや荒らげて言った。
「己(おのれ)の言うた契りを果たそうとせぬ者が何処(いずこ)におりましょうぞ! 家族と共に召す夕餉にわらわ姿見せねば、屋敷に不在のこと発覚し城下悉く捜索されるであろうがゆえに、わざわざ夕餉を済ませ、早々(はやばや)就寝するやと見せ掛けて出て参ったのに……。」
 和子は言葉の最後で声を詰まらせると、袖を目に当ててしくしくと泣き出した。約束を破るどころか、彼女は先のことをよく考えて賢明に行動していたのである。そのため、又成が望んだ時刻に合わせることができなかったのだ。
 そのことを知った又成は深く反省した。まず、自分は彼女を愛していたのに全面的に信じてはいなかったということ。次に、短気で浅はかで融通の利かない自分の性格に対してである。
 その彼が、申し訳なさそうに低い声で言った。
「……左様であったか……。そこまで考えず、貴女を疑うたりして済まぬことをした……。」
 又成はそれを言い終わらぬうちに、侍女に変装している和子の細く震える体を、思い切り自分の胸に抱き締めた。邪険にしてしまったことに対する反動から、その腕には思わず力がこもり、彼女の背や髪への愛撫は極めて激しいものとなった。
 自分が好意を寄せている男性から、このような激しさで抱き締められたことは生れて初めての和子だったので、驚きと同時に深い感動のため、思わず小さな声を漏らしていた。
……あ……あ……

又成殿! 大概になさって下さいまし!!
 夫を激しく咎(たしな)める妻のその声によって、バンテンの森山家広間の一同は、ハッと我に返った。
 顔を真っ赤にした和子は席を立ちながら、自分と夫のあいだに座っている竹若丸に向かってこう言った。
「竹若、そなたには就寝の時が参った。」
 そして今度は、客に向かって言った。
「夫は調子に乗ると余計なことを言う癖があって困りまする……わたくし竹若丸を寝かせ、幼子(おさなご)の様子を見て参ります。」
 幼子とは、又成とのあいだにできた子のことで、既に乳母か女中が寝かし付けているのだろう。和子と共に奥の戸口に立った竹若丸は、まず客の方を向き丁寧にお辞儀をして言った。
「みな様。我はこれにて就寝致します。」
 シャガたちは微笑むと、口を揃えて言った。
「はい、お休みなさい。」
 竹若丸は続いて父と二人の兄の方を向くと、同じようにして挨拶した。
「とと様、兄様。我は先に休みます。」
 又成とその二人の息子も微笑むと、口を揃えて言った。
「はい、お休み。」
 その妻子が隣室の闇の中に消えたのを見届けると、又成は赤くなって呟いた。
ハハハ。ちと要らぬことを言うてしもうたわい……
 そして彼は、また話しを続けた。

 涙を呑んで家族との決別を果たしたであろう和子にとって、今後この世で頼れる人間は、この自分たった一人しかいないのだ。それがこんなことでどうする。愛する女を胸に強く抱き締めつつ、又成は心の中で誓った。
『もう二度と悲しませたりせえへんで……和子。』
 又成はまだ明るいうちに、荷物を積んで人が出て行ってしまった家の何軒かを周到に調べていた。そのうちで最も安全かと思われる町外れの小さな一軒家に、二人は身を隠して夜を明かすことにした。
 闇に紛れてそこに侵入した二人は、その一室の暗闇の中に身を寄せ合い、庭の賑やかな虫の音(ね)を聞くとなしに聞いていた。
 又成が小声で言った。
「……拙者が昼間見て回ったところによると、徳川の将兵は、北条家の者やその重臣が城内から逃れることに特に目を光らせておった。更にその外には、徳川の大軍が幾重にも取り巻いておるゆえ、それを突破することは容易ではなかろう。夜間の方が見回りが強化される。白昼堂々と門を潜る方が、むしろ出易いやも知れぬ……。」
 それに対して和子は、やはり小声でこう言った。
「甚吉殿、夜が明けてわらわ不在のこと発覚すれば、検問の厳しさ尚一段と増すこと必至じゃ。その前に通過せねばなりますまい。」
「おう、それは承知の上。早朝ではかえって目立つ。やはり人通りが最も多い頃が良かろう。失せしは姫君(ひめぎみ)。フフフ……。」
 又成はそう言って闇の中で不敵に笑うと、和子も悪戯っぽい声で言った。
「またもや男装でござりまするな。」
「フフ、そなた読めるようになったのぅ……。」
 又成は嬉しそうな声でそう言った。
 その夜、又成は和子を抱いて寝たいと熱望する反面、もっと安全な場所で心おきなく彼女を抱きたいという思いもあった。結果的に彼は後者を選ぶこととなった。

 ここで、バンテンの森山家の広間の若い隊員の一人が、両脇の席の同僚の脇腹を肘で突付いてこっそりと囁いた。
ほれみぃ。やっぱし達人じゃ……
 突付かれた隊員も同じように囁いた。
凡人なら空き家に連れ込んだところで、はや手ぇ出しとるとよ。
わしらにゃぁ、まずできんことじゃ……
 その会話が聞こえた又成は、彼らに向かって照れ臭そうに言った。
「いやいや、そんなんちゃいますねん。何度も手ぇ出し掛けては引っ込め、出し掛けては引っ込めしとって、結局一睡もできんかったよって。」
 それを聞いたシャガ以外の男たちは、思わず大爆笑した。
 又成は再び話しを続けた。

 翌朝まだ真っ暗い中、和子を起こした又成は、彼女を家の中で待たせておいて自分は一人外に出た。
 外が薄明るくなり雀がさえずり始めた頃、又成は地味な色で染められた麻布の袋を背負ってどこからか帰って来た。玄関の戸締りをした彼は、この家の中央にある囲炉裏近くの床板の上に、その背負っていた袋を下ろすと、その横に立膝を着いて座った。そして、懐から一枚の清潔そうな布を取り出すと、それを目の前の床の上に広げて、横の袋の中から、お櫃(ひつ)、箸、御飯茶碗、蓋付きの鉢などを取り出すと、その布の上に配膳していった。それをしながら彼は、土間で髪を梳(と)いていた和子に向かって微笑み掛けて言った。
「……冷や飯と漬物だけの朝餉でござるが、これにてご容赦下され。」
 そこに歩いて来て、その簡易食卓を見た和子は、不思議そうな顔になって尋ねた。
「何処(いずこ)より持って参ったのじゃ?」
「案ずるには及ばぬ。食に窮(きゅう)しておる者から頂戴(ちょうだい)したりなどせぬわ。」
 又成は微笑んでそう言ったが、和子は毅然として言った。
「わらわは、左様にして持って参った品を頂くわけには参りませぬ!」
 配膳を終えた又成は、やや真剣な表情になって言った。
「より賢くより力の強き者、より多くの領地を得、そこに住いせし百姓から年貢(ねんぐ)を徴収する。これが昨今(さっこん)の武家の有り様(よう)じゃ。拙者それに倣(なろ)うて、知恵と技を使い武家の食物を徴収したまでのこと。これに何の非があろうぞ。斯く言う拙者も武士の端くれで、森山又成という名を持ってはおるが。」
 和子は即座に言い返した。
「しからば又成殿。税を徴収するは、武家と百姓との取り決めによりて行われしこと。貴殿の行いは何の取り決めもなきただの窃盗(せっとう)にありますまいか?」
 又成は軽やかに笑って言った。
「ハハハ! それなら、その武家と百姓との取り決めとやらも知れたこと。武士は刀狩りにて百姓より武具を奪い、その力弱きに乗じて米を脅(おど)し盗っておるも同然。斯様(かよう)なる武家から、たかが一升足らずの飯といかばかりかの漬物、二人分の食器類を頂戴することに、何の罪咎(つみとが)があろうぞ。
さ、早う召されぬか。」
 又成は、竹製の水筒に入っている水を和子と自分の湯飲みに注ぐと、中に槍が仕込まれている錫杖を横に置いて、自分は早くも食べ始めた。彼は昨夜の夕食を食いそびれたので、とにかく腹が減っているようだ。
 和子は立ったまま、しばらく何かを考えているようだったが、意を決したように又成の向かいの席に座ると、その前の布の上に置かれている箸を取って言った。
「貴殿と話しておると、縦の物が横に見えてきて、なかなか面白い。」
 そして、静々と目の前の朝餉を食べ始めた。
 御飯茶碗の飯を頬張って噛んでいた又成は、それを飲み込んでから和子に向かってこう言った。
「……この後、日の本を離れれば更に広い世の中を見ることになろう。拙者にもそなたにも未知なる世界を……。それがまた楽しみじゃ……。」
 間もなく、この小さな空家の、がらんとした室内にも、窓の格子の隙間から朝陽が差し込んで来た。その隙間から見えている、隣の家の庭の大きな柿の木から、蝉の鳴き声が聞こえて来た。
 朝餉を終えた二人は、早速小田原脱出の準備に取り掛かることにした。又成はまず、自分の身に着けていた小袖と四幅袴を脱ぐと和子に言った。
「そなた、これに着替えるのじゃ。汗臭いが辛抱されよ。」
 和子のような年頃の娘には、香水など付けなくとも独特の良い香りがある。男はそれに敏感に反応するので、男の汗の付いた服を着せてその匂い消しをするのだ。一方又成は、小田原に来たときと同じ旅の僧の姿に変装した。
 彼女の着替えが終わると、又成はこの家の台所へ行って、竃(かまど)の煤(すす)を手に着けて戻って来た。そして、手の平に水を数滴垂らすとそれを練った。
「前回とは違い、今回の男装は、ちと念入りに致すゆえ、小田原を出るまで辛抱されよ。」
 又成はそう言うが早いか、和子の顔にその煤を塗り付けた。彼女は顔を叛(そむ)けると、小さく悲鳴を上げて言った。
「キャッ! こ、これ! 何をなさる!」
 又成は和子の顔の正面に素早く回ると、あっという間にその煤を薄っすらと塗り付けてしまった。彼は笑いながら言った。
「ハハハ、念入りに男装致すと言うたではないか……。おお、良し良し。我ながら上出来じゃ。」
 顔が終わると又成は、次に和子の細い首を、やはり煤の付いた手で撫で回した。彼女は子供のようにキャッキャと笑って言った。
「し、又成殿! おやめ下され! こそばゆうござります!」
 又成は真剣な表情になって言った。
「しーっ! お静かになされ! 『空家に声のするは何事ぞ?』と、近隣の者が不審に思いまするぞ。辛抱されよ。」
 その後、彼は彼女の腕やふくらはぎなど、服の外に露出している肌の全てに、均等にうっすらと煤を塗り付けていった。屋敷からほとんど外出することのない生活を送ってきた和子の肌は、薄桃色がかった白をしていた。それを日焼けしているように見せるために着色したのである。
 又成はまた台所へ行くと、今度はかまどの灰を両手に一杯持って来て、それを煤と同じように彼女の肌にうっすらと塗(まぶ)していった。若い女の素肌には独特の光沢があり、男はそれにも敏感に反応する。そのため、艶消しをしたのである。
「髪を結うて進ぜよう。」
 彼はそう言うと、和子の長い黒髪を灰の付いたその手で結い始めた。若い女の髪には肌と同様、やはり独特の艶があり、それが男の目を引く。髪に灰を塗すことによってその光沢は失われるのである。又成は、わざと下手糞な結い方をした。
 それが済むと又成は、庭から丸く平たい小石を二つ拾って来て、それを水で念入りに洗うと和子に差し出して言った。
「これを左右の頬に含まれよ。」
 和子は言われた通りにした。彼女の左右の頬が膨らみ、それによって人相までもが変わった。又成は最後にかまどの煤を指に付けて戻って来ると、その指を和子の左右の細い眉の上から太くなぞった。ここまですると、日頃から彼女を見知った者であっても、これが和子であるということはまず見抜けないだろう。
 それが終わると又成は、彼女から少し離れ、頭のてっぺんから足の先まで一通り見渡してから言った。
「和子殿、お脱ぎなされた小袖を直に腹に巻き付けるのじゃ……。」
 彼女はまた言われた通りにした。彼女の細く締まった腹に衣類が巻き付けられると、服の上からは、でっぷりとした体型に見えるようになった。
 又成は彼女をもう一度見てからこう言った。
「そうそう……。して、背中をちと丸められよ……。」
 背中を丸めることによって、彼女が放つ高貴ささえも失われた。それを見た又成は、満足げに微笑んで言った。
「うむ。これならどう見ても武家の女には見えぬわ。」
 女にとって特に大事な顔と髪までも汚された和子だったが、又成が何のためにこのようなことを行っているかを正しく理解していたので、むしろ楽しそうだった。
「鏡があるならば、わらわも今の己(おのれ)の姿を見てみとうござります。ホホホ。」
 彼女は小石を口に含んでいるので、本来は歯切れの良いはずのその口調までもが「ふがふが」になっていた……。
 それから間もなくして、この一軒家の玄関から、笠を深々と被って荷物を背負った一人の僧が姿を現わした。彼は表に出て家の前の様子を伺い、すぐさま家の中に合図を送った。すると、笠を被った一人の若い町人風の男が姿を現わした。
 やがて、路地から表通りに出たこの二人は、町の正面の門目指して通りを歩いた。僧侶の姿をした又成と女性である和子がこのように仲良く並んで歩いていても、道行く大勢の人々は誰も気に止めなかった。この時代の僧侶は、妻を持つことはもちろん、女性と交際するようなことも戒律によって厳しく禁じられていた。そのため、和子の男装はまず、うまくいったと見てよいだろう。
 大通りに出てしばらく歩くと、やがて人ごみの向うに、町の正面にある門の瓦屋根が見えてきた。いくつかある門のうち、今はこれだけが、外との往来のために開放されているのだ。横を歩いている和子に、又成は笠の中から小声で言った。
「そなた先に参れ。拙者は後から参る。門を出て橋を渡り切るまで、二人は他人じゃ。良いな。」
 彼女は黙って頷くと、足を少し速めて又成の前に出た。又成は来るときに門の守備隊から顔を見られている。来たときは一人で、帰りは二人連れだと怪しまれるので、わざわざこのようにしたのだ。
 門は案の定、来たときと同じ守備隊が守っていた。そして、町を出ようとする武士や女を念入りに調べていた。兵卒はその検問に忙しかったので、物売りや身分の低い町人の男はほとんどが素通りだった。
 又成には、和子がおどおどして怪しまれるのではないかという一抹の不安があったのだが、それは無用であることが間もなくわかった。笠を被って背を丸めている和子は、歩く速度を速めもせず遅めもせず、何事もないように門の下に入って行ったからだ。それは、忍びの素質があるのではいかと本職の又成に思わせるほどの度胸であった。
 ところが、その大きな門の真下に和子が差し掛かったとき、その両脇に槍を持ってずらっと並んでいた若い兵卒の一人がスッと前に出ると、腕を伸ばして彼女が被っていた笠の前をぐいと持ち上げた。それを見た又成は緊張して思わず錫杖に見せ掛けてある槍の柄を握った。しかしその兵卒は、変装している和子の顔を覗き込んだ途端、顔を顰(しか)めてすぐに手を笠から離し、犬でも追い払うようにしてその手を振って見せた。それに従がって彼女はまた歩き出したので、又成は内心ホッと胸を撫で下ろした。
 止められたのは、むしろ又成の方だった。兜を被り門の脇の椅子に腰掛けていた守備隊の隊長が、和子に続いて門を通過しようとした又成に向かって、来たときと同じようにして声を掛けてきたのだ。
「もし! 貴僧のお顔をば拝見しとう存じます。
笠を上げられよ!」
 又成が言われた通りにして顔を見せると、隊長は穏和な口調になってこう言った。
「罪人の供養は、お済みになられましたか?」
 この隊長はちゃんと又成の顔を覚えていたのである。又成も静かな口調でそれに答えた。
「は、成仏なさるようお祈り申し上げて参りました。」
 それを聞いた隊長は、立ち上がって兜を脱ぐと、それを椅子の上に置き、又成に向かって合掌し頭を垂れた。偽坊主の又成はちょっと照れ臭かったが、実際に寺に行って供養してきたので嘘を言っているわけではない。彼は編み笠を元に戻し、隊長に向かって合掌すると、向きを変えて再び歩き出し、なんとか無事にこの門を通過することができた。
 門を出るとすぐに、堀に掛けられた大きな木の橋がある。それを渡り終えた又成は、初めてホッと安堵の息を吐いた。街道へと続くこの大通りの両脇には、徳川家や、その家臣の紋がそれぞれ染められた、大小様々な陣幕が立ち並んでいる。それが、夏の終わりの日差しの中で、乾いた風にはためいていた。このような物があるため、この通りの往来は一般人だけではなく将兵の姿もかなり多い。
 その人ごみの中、一町ほど先の道端にある大きな楠(くすのき)の下に、自分を待って一心にこちらを見ている和子の姿があった。蝉時雨の降るその木陰に来た又成は、そのいじらしい女を思い切り抱き締めたくなった。しかし彼は、今の自分が僧の姿をしていることを思い出すと、その衝動をぐっと堪えた。もしここでそんなことをすれば、それは道行く徳川の兵に怪しまれ、今までの苦労が水の泡となるからだ。
 合流した二人は、人ごみの中をまた仲良く並んで歩き出した。和子は自分の頬を指差すと小声で言った。
「又成殿、もうよいか?」
「ああ、もうよい。痛かったであろう。」
 又成が小声でそう言うと、彼女は口に含んでいた二つの石を一旦片手に吐き出してから、そっと道の脇に捨てた。又成は言った。
「も少し歩いて後(のち)に、一休みすることに致そう。」
 一度に長い距離を歩いたことのない和子には、小刻みな休憩が必要だった。その後何度か道端の木陰や茶店などで休憩をとりながら、又成の馬と荷物を隠してある川の中州の葦(あし)の茂みに、二人はたどり着いた。
馬  夏の午後の陽射しに川の水はきらめき、聞こえるのはせせらぎの音と蝉の声だけだ。他に人の姿がないことを確認した又成は、澄んだ川の水で和子の手足に塗った煤と灰を落としてやった。顔と髪は彼女自身が洗った。そのあいだに猟師の姿に変装し直した又成は、二頭の馬を連れて川を渡ると、周囲に草の茂みがある木に馬を繋ぎ替えた。こうしておけば、その周囲の草を馬は好きなように食べる。
 洗った髪を和子が拭き終えたので、又成はようやく彼女を抱き締める気になれた。
「和子殿。これにて小田原脱出成功と相成(あいな)った……。」
 彼はそう言うが早いか、手ぬぐいを手に持ったままの和子を思いっきり抱き締めた。そして彼は腕の中の和子に向かって言った。
「次いでは日の本脱出じゃ……。」
 彼女が黙っているので、又成は腕の力を緩めてその顔を覗き込んでみた。すると意外にも、彼女は寂しそうな顔をしているではないか。又成は慌てて尋ねた。
「拙者、何か悪いことを言うたのかのぅ?」
 和子は目を閉じてやや俯くと、首を横に振って言った。
「いえ、ただ……、住み慣れし小田原との別れを今実感したのでござります。」
 又成は、今度は優しく彼女の背中を摩(さす)りながらこう言った。
「左様(さよう)か……。それは致し方ござらぬ。生まれ育った在所(ざいしょ)を去るは、さぞ切なきことであろう。」
 目を開けた和子は顔を上げると、又成に向かって微笑み掛けてこう言った。
「切なきは切なくとも、わらわ又成殿のおそばに居られることの喜びの方が勝っておりまする。」
 そんな和子が、いじらしくてならなくなった又成は、再び彼女を強く抱き締めた。すると、又成の腹が大きな音を立てて鳴った。
「グーーーッ!」
 それを聞いた二人は、思わず大笑いしてしまった。
 和子を放した又成は、懐から布を取り出しながら、申し訳なさそうに言った。
「済まぬ、済まぬ。拙者の腹時計、正確にできておるがゆえに……。」
 そして彼は、朝と同じようにしてそれを河原の石の上に敷くと、小田原から持って来た袋の中から食器などを取り出して配膳した。それを挟んで向かい合わせに座った二人は、その質素な昼食を食べ始めた。
 町育ちの和子にとっては聞き慣れぬ川のせせらぎであったが、その力強く絶え間ない流れの音は、これから始まるであろう新たな人生への門出(かどで)を祝ってくれているように感じられた。
 その川面すれすれに、赤や緑に輝く美しい物体が飛ぶのを見た和子は、又成に向かって尋ねた。
「あれは何と言う生き物か?」
 又成は、食事をしながらそれを見てこう答えた。
「……おう、あれは川蝉(かわせみ)でござる。」
 和子は怪訝そうに尋ねた。
「川の蝉とな。はて、大きな虫じゃ。」
 又成は笑って言った。
「ハハハ! ……いやいや、蝉とは申すが鳥でござる。餌の川魚を捕るために、斯様にして川面を飛ぶのでござる。」
「なるほどのぅ……、誠に美しい鳥よのぅ。」
 彼女が感心したようにそう言うと、又成が言った。
「野や山には、町では見られぬような美しきものが数多くござる。この後、幾度(いくたび)もそのような物を目にされることになるであろう。」
 食事を済ませた二人は、河原の石に腰掛けたまま寄り添って休んだ。和子の髪が乾いたようなので、又成は若い町人の男に見えるように結ってやった。それが済むと又成は、和子に向かってこう言った。
「ときに和子殿。明日からは箱根越えとなるゆえに、そなたに乗馬をご教授致そうと思うが、いかがかな?」
 そう勧められた和子だが、又成の肩に頬を擦り寄せると、甘え声でこう言った。
「それには及びませぬ。わらわは又成殿のお馬に乗せて頂ければ、それで充分。」
 前回又成と会ったとき、彼に抱き抱えられて馬に乗ったことが、彼女は忘れられないようだったので、彼は微笑んでこう言った。
「拙者も、そなたとまた二人して馬に乗りたい。」
 そして、少し真剣な表情になると、又成はこのように言った。
「……しかしながら、長距離を行く際、それでは馬に過剰な負担を掛けてしまう。お望みとあればまたいつでも共に乗馬致すゆえ、山越えの際には、お一人で乗られることをお勧め致す。そのためには、乗馬の心得が必要じゃ。」
「それでは致し方ありませぬ。馬も生き物、長時間過ぎたる荷を負わせては不憫(ふびん)。乗馬の心得、教えてたもれ。」
 和子はそう言って立ち上がった。又成も立ち上がると、彼女を横抱きにして川を渡り、河原に生えている潅木(かんぼく)に繋がれている二頭の栗毛の馬のところへ連れて行った。草を食んでいる馬の横に来ると、又成は和子に言った。
「乗馬の前に、馬の性(さが)を知り、これと親しむことが肝心じゃ……。
まずはこのようにして触れてみられよ。」
 又成は和子に向かって微笑むと、片手で馬の鼻面を撫でて見せた。最初こわごわと腕を伸ばしてその指先で首筋に触れたみただけの和子だったが、間もなく慣れてきたようで、又成と同じように手のひらで撫でるようになった。そして、やや感動したようにこう言った。
「すべすべして美しい毛じゃのぅ。」
「左様。馬は人と同様汗をかくが、使役(しえき)の後(のち)に汗を拭き、たまに水で洗うてやれば、このような美しい毛並でいられる。
ときにそなた、牛の最も危険なる部分は何処(いずこ)であるかおわかりか?」
「角でありましょう。」
 和子が即座にそう答えると、又成は微笑んで言った。
「ご名答。しからば、馬のそれはご存知か?」
 和子は、首をかしげながら言った。
「……歯でありましょうか?」
 又成は言った。
「馬はその立派な歯によって人を噛むことも稀(まれ)にありまするが、それは然程(さほど)危険なことではござらぬ。馬の最も危険なりしは、その後ろ足でござる。これに蹴られたなら、打ち所によりては命落とすこともありまする。幼き頃より躾(しつ)けが成されておる馬に、その心配は無用でござるが、躾けのなき馬に至っては、人を蹴ることが往々にしてござる。されば馬の背後に立つことは避けられよ。」
 彼女は真剣な表情で頷いて言った。
「心得ました。」
 又成は近くの草をむしり取ると、もう一頭の馬に向かって言った。
馬 「これ、アサヒ! アサヒや!」
 それまで川の方を向いて立っていたその馬は、その声を耳にすると、すぐにこちらを向いて近寄って来た。
「馬は賢く愛しい生き物、名を呼べば来るし、人の心も察する。」
 又成がそう言って手に持っていた草を馬の鼻先に差し出すと、馬はそれを嬉しそうに食べた。又成がその鼻面を撫でてやると、それを見ていた和子が目を輝かせて言った。
「わらわも、してみとうござります!」
 又成は微笑んで、先ほどと同じ種類の草をむしり、それを和子の手に渡しながら言った。
「斯様(かよう)な稲や麦の如き草を、馬は特に好んで食(は)む。そちらの馬にアキツと声を掛けてみられよ。」
「これ、アキツ、アキツや!」
 草を食べ終わって川の方を向いていたもう一頭の馬が、彼女のその声によって、さっと上げた顔をこちらに向けたが、耳をピンと立てたままの姿でじっと動かない。
「女人の声で呼ばれたことがなきゆえに、戸惑っておるのでござろう。手の草を差し出して、今一度呼んでみられよ。」
 和子は言われた通りにして、また馬の名を呼んだ。
「アキツ!」
 するとアキツは、ゆっくりとためらいがちにそこへ近付き、首を伸ばして和子が手に持つ草の匂いをしばらくフンフンと嗅いでいたが、それが自分の好物だとわかったようで、ぱくっと食いついて食べた。その鼻面を撫でてやった和子は、キャッキャと声を上げて小躍りしながら言った。
「誠に賢く愛しいのぅ! 始めは不思議そうな顔をしておったが、草を食むときには嬉しそうになっておった!」
 又成は、感心したようにやや目を見張って言った。
「ほう。早くも馬の顔色を読めるようになられたか……。
それなら次に、馬具の呼び名と使い方をお教え致そう。」
 又成は、馬が身に着けている轡(くつわ)、手綱(たづな)、鞍(くら)、鐙(あぶみ)などの馬具を次々と指差して、その名称と用途を彼女に教えていった。
 それが終わると又成は言った。
「それでは、馬に水を飲ませることに致そう。」
 彼はアサヒの鞍に繋いである縄を潅木からほどくと、和子と共に手綱を牽いて川縁(かわべり)に連れて行った。すると、馬は嬉しそうに川の水を飲んだ。水を飲み終えたアサヒを別の草むらに移動させて潅木に繋(つな)ぐと、又成は和子に向かってこう言った。
「今度はそなた一人で、アキツの手綱を取り、水を飲ませるのじゃ。」
 和子は、又成に教えられながらアキツの鞍に繋いである縄をほどくと、今度は一人でアキツの手綱を持ち、又成に付き添われながら先ほどのアサヒのようにして川縁に連れて行った。するとアキツも嬉しそうに川の水を飲んだ。
 このようにして又成は、和子を徐々にアキツに慣れさせながら馬の扱い方を教えていった。一方アキツの方も同じで、徐々に和子に慣れていった。又成の教え方が良かったのか、和子とアキツにその素質があったのか、一時(いっとき)もすれば、和子は又成の手を借りてアキツの鞍にまたがり、前に歩かせて止められるようになっていた。
 それを確認した又成が、独り言のように言った。
「……良し、上出来じゃ。」
 そして、馬上の和子に向かって言った。
「さて、次は落馬を防ぐための稽古(けいこ)でござる。馬は路上の何かに驚くと、前足を上げて棒立ちになることがある。その際、振り落とされぬようにするには、馬につられてのけ反らずに、体を立てることを保たねばならぬ。そのためには、鞍に座らず幾分前屈みになるようにして、鞍を膝で挟む。それと同時に鞍の前を手で持ち、鐙に立ち上がるのじゃ。これよりその手本をお見せする。」
 又成はそう言うと、繋がれていたアサヒの縄をほどいてその鞍にまたがり、独特の掛け声によってアサヒを棒立ちにさせた。それと同時に彼は鐙の上に立ち上がる恰好になったので、馬から転げ落ちることはなかった。アサヒが元の状態に戻ると、又成はそこから下馬して、和子を乗せたアキツの横に立った。
「背を支えておるゆえに、心配ご無用じゃ。それではよろしいかな?」
 又成が尋ねると、馬上の和子は、それでもやや不安げに答えた。
「……よろしゅうござります。」
 又成は先ほどと同じ掛け声を掛け、それと同時にアキツの手綱をやや強めに引いた。するとアキツは棒立ちになったが、その勢いで体の重心を崩した和子は後ろに転倒しそうになった。しかし、又成の手が背中を支えていたので落馬することはなかった。馬を元に戻して又成は言った。
「もう一度致す。馬が立つより先に和子殿は立ち上がるくらいにお思いなされ。では参るぞ。」
 このようにして又成は、いざというときに彼女が落馬しないような対処の仕方を何度も練習して教えた。そのため、陽が暮れる頃になると和子は、街道を普通の速さで往くのに支障ない程度にまで馬を扱えるようになっていた。
 流木を集めて中州の河原に火を焚いた又成は、大きな石の下に隠してあった米や野菜などと、たった今川で捕らえた魚で、質素ではあるが、久しぶりに夕食らしい夕食をつくった。
 一方和子は、乗馬がよほど気に入ったらしく、日が暮れたのにまだ対岸の河原を馬で往ったり来たりしている。焚火で魚を焼きながら、その姿を微笑んで眺めていた又成だったが、あたりがかなり暗くなったので、さすがに声を掛けた。
「もし! 夕餉に致さぬか!」
 その声を耳にした川向こうの和子は、又成に向かって大きな声でこう言った。
「良う声を掛けて下さった! 我を忘れて興じておるうちに日は既に暮れておったわ! アキツもさぞ疲れたことであろう。」
 空には夏の終わりの夕焼け雲が、橙色に薄っすらと広がっている。馬を降りた和子は、草むらにアキツを連れて行ってその近くの潅木に繋いだ。馬は腹を減らしていたようで、一心に草を食べ始めた。アサヒは又成が繋ぎ変えたようで、既にその近くで草を食べている。
 和子は、アキツの鼻面を優しく撫でながら言った。
「アキツ、気が付かず済まぬことをしたのぅ。お許し下されや。」
 川を渡って和子を迎えに行った又成は彼女を横抱きにすると、また川を渡って焚火のところに戻って来た。現代人からすると不思議なことかもしれないが、林間学校や遠足などなかったこの時代、上流階級のお姫様が一人で川を渡れないのは、むしろ当然のことであった。
 火を前にした二人は、河原の石の上に並んで腰を下ろした。和子に向かって又成は優しく微笑んで言った。
「そなた、親身になって馬の世話をすると誓えるなら、アキツをそなたに与えようと思うが。いかがかな?」
 焚き火の炎に照らされている和子の顔は、嬉々(きき)とした表情になった。
「お誓い申す! わらわ無知なるがゆえに、馬にとりては不届(ふとど)きなることもあるやも知れぬが、その都度学んでいきまする。」
 又成も嬉しそうに言った。
「それは、アキツもきっと喜ぶことであろう。」
 又成は竹串に刺した川魚を一尾ずつ二枚の皿に乗せると、その一枚を彼女に手渡しながら言った。
「……たった今、焼けたところでござる。さ、熱いうちに召されよ。」
「有り難く頂きまする。
香魚(こうぎょ)じゃな……。」
 二人は、早速その魚を炊き立ての飯と共に食べた。
「おお! これは小振りじゃが至って美味(びみ)じゃ!」
 和子が箸を持ったまま感激してそう言うと、又成は笑って言った。
「ハハハハ! 鮎(あゆ)の塩焼き如(ごと)きで斯様(かよう)に喜ばれるとは、そなたも大分お腹が減っておいでになったようじゃのぅ。」
 しかし、炎に照らされている和子の顔は真剣だ。
「それもありましょうが、斯様に熱く美味なる魚を召したのは、わらわ初めてのことじゃ。」
 やはり炎に照らされている又成の顔が、意外そうな表情になった。
「ほう。そなたのお家のような格の武家なら、常に最上のものを召しておられると思うておったが。」
 和子は、又成に向かって説明した。
「川魚は漁夫が川にて捕獲し、町へ運んで売りまする。それを屋敷の家人が買い、台所に運ばれて料理人が調理致します。焼かれた魚は器に飾られ、その器は膳に載せられて長い廊下を食卓まで運ばれて参りまする。斯の如く、捕れてから調理までのあいだ、調理してから食するまでのあいだが長きゆえに、鮮度も落ち、焼けても冷めてしまうのでありましょう。」
 すると又成は、納得したようにこう言った。
「なるほど、仰(おお)せの通りでござろう。川魚は鮮度が命。身共は捕って焼いてすぐに食するゆえ、その違いは大きかろう。」
 和子は茄子の煮物に箸を進めると、また感激して言った。
「おお、これもまた美味じゃ。又成殿のお手製か?」
「そなたのように一つ一つ喜んで貰えると、料理もつくり甲斐(がい)があるわ。いかにも拙者の手製じゃ。馬のアサヒがつくったのではござらぬ。アハハハ!」
 又成はそう言ってまた可笑しそうに笑った。しかし、和子はまた真剣な表情になって言った。
「いえ、武家の男子に斯(か)の如(ごと)く料理の心得あるは珍しきこと。その意味で問うたのじゃ。」
 又成もやや真剣な表情になって言った。
「武家とは申したが、身共(みども)は山野(さんや)を駆け巡(めぐ)るの如き者。山に一人置かれても生き延びていけるよう、幼少の頃から鍛えられておりまする。拙者の三人の息子も、清水近郊の山中にて鳥や獣を捕え、今頃は自作の夕餉を仲良う食べておることでござろう。」
 やがて、二人が食事を済ませると、又成は燻(くすぶ)っている焚火の木を中央にまとめた。すると、間もなく再び炎が大きく上がった。いつの間にどこから摘んできたのか、彼はその上に緑の草をうず高く乗せた。もくもくと白い煙を上げていたその草は、しばらくすると炎を上げて燃えていった。火の粉が若干舞ったが、和子はそれを気にもせず、黙ってその炎を見詰めていた。
 二人のあいだにしばらく沈黙が流れた。すると、今まで耳に入らなかった様々な音が聞こえて来た。目の前の川からはせせらぎが、あちらこちらの藪からは賑やかな虫の音。対岸の森からは、「ホーホッホホッホ」という梟(ふくろう)の鳴き声も。
 雲の晴れた濃紺(のうこん)の空を見上げれば、月が煌々(こうこう)と輝いている。絶えず心地良く吹いている川風に吹き飛ばされてしまうせいか、蚊は全くいない。
 又成が薪を足すと、しばらくしてから焚火の炎が大きくなってきた。それを見詰める和子の澄んだ二つの瞳に、橙色の炎がキラキラと揺れて映ったので、又成はしばらくその美しさに見惚(みと)れた。遠くの山で、微かに狼の遠吠えが聞こえた。和子は独り言のように言った。
「狼か……なんと凛々(りり)しく逞しいのじゃ……。」
 又成は、かたわらに置いてあった布の袋を手に取ると、その中から一本の篠笛(しのぶえ)を取り出して、月に向かって吹いた。詩を吟ずるような哀愁をおびたその調べは川面(かわも)を渡り、黒く雄大にそびえる箱根の山へと届くかのように思われた。
 すると和子の目に涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちた。しかし、彼女は顔色一つ変えていない。相変わらずその澄んだ二つの瞳に焚火の炎をキラキラと映している。どうやら、自分が今涙を流していることにさえ気付かぬほど、彼女は意識の深いところに入っているようだった。
 普段の又成なら、このようなときは相手をそっとしておくのだが、今の彼は、せっかく手に入れた彼女が「父母の元へ帰る」などと言い出すのではないかということを恐れた。恋に落ちた男というものは全く浅はかなものだ。彼は笛を吹くのをやめて遠慮がちに声を掛けてみた。
「和子殿……、いかが致した?」
 和子はハッと我に帰って言った。
「いえ……、一言では申せませぬが……、笛の音(ね)を聴きながら、他に例えようなく美しきものを見ておった……。」
 又成は申し訳なさそうな表情になると、頭を掻きながら言った。
「それは邪魔をして済まぬことをした。」
 和子は微笑んで言った。
「いえ、詫びるには及びませぬ。
……誠に妙(たえ)なる笛の音(ね)でありました。又成殿、それはいかにして吹くのじゃ? わらわに教えてたもれ。」
「よろしゅうござる。」
 又成はそう言って和子に篠笛の吹き方を教えた。
 やがて和子は、なんとか音は出せるようになったが、又成のような澄んだ音にはならなかった。
「……わらわの出す音は、まるで冬の北風に鳴る枯れ木のような音じゃ……フウ、疲れた。」
 息を切らせながら和子がそう言うと、又成は言った。
「息を強く吹くのではのうて、限りなく細く吹くことを心されよ。それが上達のこつじゃ。
……ときに和子殿、夜も更けて参った。湯にでも入らぬか?」
 又成が突然話題を変えたので、和子は笛を彼に返すと、不審そうにあたりを見回した。
 まず、川下である左を向けば、黒く連なる広大な森があった。
 次に後ろを振り向けば、対岸の白い河原の草むらに二頭の馬、その向うには黒い丹沢山地が見えている。
 目の前の焚き火の向こうには、月明かりにキラキラと光って右から左へと流れる黒い水。その川向こうの白い河原の奥には黒い葦の原、そのさらに奥にはやはり黒い森。
 そして、川上になる右側には、夜空の半分を覆い尽くしてしまうかのように黒く雄大にそびえる箱根の山々がある。
 それらは目に入ったが、想像しているような華(はな)やかな湯屋の建物はどこにも見当たらないので、彼女は箱根の山を背景にしている又成に向かって訝しげに尋ねた。
「そは、何処(いずこ)におわすのじゃ?」
 又成は微笑んで言った。
「これより我らが手でつくるのでござる。」
 和子は、今度は苦笑いするとこう言った。
「又成殿。戯言を申されるのなら、もっと面白う申して下され。」
 その一方又成は、真剣な表情になるとこう言った。
「戯言ではござらぬ。まずは火に薪を足し、馬に水を飲ませてからじゃ。」
 又成は焚火に流木の薪を多めに足して立ち上がると、和子を横抱きにして川を渡り、既に草を食べ終えていた馬のところへ行った。そして二人は、それぞれが自分の馬を川べりに連れて行って水を飲ませた。
 別の草むらに馬を繋ぎ替えた二人は、また焚火のところに戻って来た。
 又成は、その焚火と川のあいだを指差して言った。
「まずは、ここに穴を掘るのじゃ。」
 そして彼は、そこの石を次々と川の方へと投げやったので、和子もそれを手伝った。しばらく掘ると水が湧いてきた。さらに掘ると、それは深さ二尺足らずの大きな水溜りになった。
 次に又成は、盛んに燃えている焚木を別の場所に移すと、それまで火の下で焼けていた手頃な大きさの石を、木の棒を巧みに使って次々とその水溜りの中に転がしていった。すると、石が入るたびに水はジュルジュルジュルッと激しい音を立てて泡を出し、水面からは湯気が勢い良く立ち昇った。ある程度石を放り込んだ彼は、そこにそっと手を入れてみてからこう言った。
「……うむ、程良い湯加減じゃ。」
 それを見守っていた和子は感心して言った。
「なるほど……。又成殿は知恵者にあられまするのぅ!」
 又成は顔を上げて言った。
「いや、大和の山中におった時分に、山の民(たみ)より習うたのじゃ。知恵者と呼ばるるべきは彼らが方じゃ。
さ、冷めぬうちに湯に入られよ。まず女人(にょにん)から先に湯を使うのが山の民の習わしじゃ。」
 和子は、既に又成のことを全面的に信頼していたので、何の恥じらいもなく衣服を脱いで全裸になった。月明かりとそれを反射している河原の石によって、やや細身だが均整のとれた彼女の体が闇の中に白く浮き出ている。荷物の中から手ぬぐいを出して来た又成は、それを湯に入った和子に手渡すと、自分は湯の斜め後ろにある焚き火の前に腰を下ろした。
 腹から下だけ浸かるだけの湯ではあったが、和子は月の光できらめく川面(かわも)を見ながら感激して声を上げた。
「おおー、恰(あたか)も極楽のようじゃ! 又成殿もご一緒致しませぬか! ここにもう一人入る隙(すき)がござります!」
「男子は女人が出(い)でて後(のち)に入るが山の民の習わしじゃ。」
 又成が神妙な口調でそう言うと、和子は湯に浸かったまま振り向いてこう言った。
「又成殿は山の民にあらせまするのか?」
 又成は、相変わらず神妙な口調でこう言った。
「拙者は山の民ではござらぬ。しかし、山の民より習いし技(わざ)を用いるなら、その師の習わしを尊重するのが道理と言うものであろう。」
「又成殿のその思いだけなら、そなたの師は喜ばれようが、山の民にあらざる者がその習わしまで真似ること、山の民は果たして好むであろうか?」
 諭(さと)すようにそう言った彼女に、又成は苦笑いして言った。
「フフ、そなたには負けたわ……。」
 又成は立ち上がると、衣服を脱いで全裸になった。中肉中背の引き締まった男の体がそこに現れた。
 湯加減を確認して、まず足などを洗った又成は、和子の右隣にゆっくりと入った。湯の底の石はまだ熱いほどに温かく、下から体をじっくりと温めるので、それがとても心地良い。
 二人は身を寄せ合い、時々互いの体に椀で湯を掛け合いながら、対岸の森の上にある月を眺めた。確かに彼女の言う通り、これはこの世の極楽のようだと又成は思った。
 絶え間ない川のせせらぎに混じって、その森の中からは梟の鳴く声が聞こえている。
「又成殿……。」
 和子が頬を寄せてきたので、又成は彼女を優しく抱き締めてその口を吸った。しばらくして又成が唇を離すと、彼女は又成の胸に顔を埋め、しくしくと泣き出した。彼女の髪を撫でながら又成は心配して尋ねた。
「ん? いかが致した?」
 彼女は泣きながら言った。
「……親を欺(あざむ)き、斯様(かよう)なる幸福を享受(きょうじゅ)しておる、……わらわは悪(あ)しき娘じゃ……。」
 又成は、彼女の肩に椀で湯を掛けてやると、そこを優しく愛撫(あいぶ)しながらこう言った。
「……己(おのれ)の富と名声を得るがために、我が子の将来を思うが侭(まま)に操(あやつ)らんとする親。その企てから逃れ、神から授かった己の真(まこと)の芽を伸ばさんとする子。果たしてそのいずれが悪しき者であろうか……。
仮に拙者がそなたの親であるならば、我が子が己の決めたる道を嬉々として歩むことを望むであろう。」
 間もなく、和子は泣きやんでからこう言った。
「……又成殿。泣いたりして済まぬことを致した。わらわ、この後(のち)は、己が決めたる道を自信を持って歩(あゆ)むことに致す。」
 月明かりに照らされている又成の顔が極めて真剣になり、彼は口調を改めてこう言った。
「和子殿。それが悔いなき人生となるよう、拙者微力ながらも生涯においてそなたをお助け致す。
……和子殿! 拙者の妻となって下され!」
 顔を上げた和子は又成の目を見ると、穏やかな口調でこう言った。
「始めから、その所存(しょぞん)にありまする。」
「和子殿……。」
 又成はそう言って彼女を強く抱き締めた…………。
 その翌朝、まだ薄暗いうちに天幕の中で目覚めた又成は、横で寝ている和子を揺り起こした。天幕を片付けた二人は、まず馬を餌のある場所に繋ぎ変えた。人は自由の身だが、飼い馬は繋がれて自由が制限されている。敵の急襲や自然災害などの緊急の事態が生じた場合、人は逃げられても馬は逃げられずにその命を落とすことが多い。そのため、せめてもの償(つぐな)いにと、又成は人より先に馬に食事をさせることにしていた。
 馬に続いて自分たちの朝餉をつくって食べ終えると、又成は和子に食器の洗い方を教えた。現代人からすると不思議なことであるが、当時の上流階級の人は、洋の東西を問わず、このようなことは全て使用人に任せていたのだ。
 それが終わると又成は、昼餉のための弁当を仕込み、和子にもその方法を教えた。
 その後二人は、それぞれ昨日まで着ていた衣類を川で洗濯することにした。これも和子にとっては、生まれて初めての体験であった。又成は少しずつだがその仕方を教えていった。
「あまり気を入れ過ぎると長う続かなくなる。疲れたら休み休みすればよいのじゃ。」
 川べりで衣類を洗っている、慣れぬ手つきの和子に向かって、又成は優しくそう声を掛けた。和子は顔を上げると、困ったように言った。
「今まで人任せにしておった罰と思うて、腕の痛みを堪え、我が身に鞭(むち)打つ気持ちでしておりまする。」
 昨日は生まれて初めてあんなに長い距離を歩いたり、乗馬の稽古をしたりと目まぐるしかった和子なので、全身が筋肉痛を起こしていた。それまでずっと、お姫様の生活をしてきた者が、いきなりこのような生活に転向したのだから、本人には気の毒だが、慣れるまで多少のことは我慢するしかないだろう。
 又成は言った。
「それは良き心掛けでござるが、己のことを人に任せるは罪ではござらぬ。身の回りのことを己で成せるようにしておく方が、いざというとき役に立つ。それまでのことじゃ。
この後、拙者が職務で多忙の際には、そなたに拙者の分をお任せすることもあろうし、逆にそなたが出産や育児で手が回らぬ際は、そなたの分を拙者が行なうこともあろう。」
 陽に当たって熱くなった石の上に、絞った洗濯物を広げて置けば、夏のことなのでたちどころに乾いてしまう。
 その後二人は、それらを荷づくりして背負うと、馬に乗ってこの宿営地を後にした。
 又成は、旅慣れぬ和子のことを気遣って馬をゆっくりと進め、途中の休憩も多く取ったので、二人が清水近郊山中の隠れ家にたどり着いたのは、それから二日後の昼過ぎだった。
 隠れ家で出迎えた三人の息子たちに、新しい母となる和子を対面させた又成は、その翌日にはここを引き払い、五人は清水の町に出た。
 この町の一角にある小さな神社に赴いた又成は、そこの神主に頼んで家族五人だけによる又成と和子のささやかな婚礼を上げた。
 その後又成は馬をもう一頭手に入れると、一家は一路長崎を目指した。
 長崎に着くと又成は、早速シャム行きの船を探した。家族揃ってそこに移住するためだ。すると、「シャムは現在隣国との戦いで国内が乱れており、傭兵の仕事は多いが、妻子を伴って行くのならバンテンの方が安全だろう。」という情報が入った。そこで、一家は船でバンテンへと向かい、この町の住人になることとなったのである。
 その後間もなく又成が傭兵の職を得て、次いで一成が、そして近頃信成も同じ職を得て現在に至っている。

 そのバンテンの屋敷の広間で、又成はようやくこの物語を語リ終えた。
 聞き終えた一同は、まだその余韻を味わっているようで、しばらくのあいだ沈黙が続いていたが、その沈黙をそっと破ったのは勘蔵だった。彼は深い溜息をつき、独り言のように言った。
「……なるほど……。これはまた、かなり数奇な運命じゃ……。」
 ロクも同じように言った。
「……人それぞれ、物語があるっちゅうことじゃのぅ……。」
 それに対して又成が笑顔で言った。
「そうですな。この町に住む日の本から来はった人の誰も彼もがみな、それぞれ数奇な運命を経てここにたどり着いてはるんやろ思いますわ。みな、昔のことよう語りはらへんよって、詳しうは知りまへんけどな。」
「そうすると、辻向うの工藤殿も何か訳(わけ)ありでござるな。兄じゃ。」
 信成が一成の方を向いてそう言うと、一成はそれに頷いて答えた。
「おお、左様じゃ。工藤殿、元は奥州(おうしゅう)は伊達(だて)に仕えておられたと聞いておるが、奥方はイスパーニャ人と見受けられるによって。ご夫妻揃って切支丹(キリシタン)であるとも聞いておる。」
 用事を済ませて戻って来ていて、みなに茶を入れて回っていた和子は、この二人に向かって嗜(たしな)めるように言った。
「これ、お二人とも。人様のことを興味本位であれこれ語るものではありませぬ。」
 二人は照れながら口を揃えて言った。
「はい。母上様。」
 竹若丸同様、一成と信成も、実はこの美しい姉のような継母をかなり慕っているようであった。
 自分の席の前に膝を着いて茶を入れてくれた和子に向かって、シャガはこう言った。
「ありがとうございます。
素晴らしいお話しに興じ、すっかり長居してしまいましたが、これを頂いたならお暇(いとま)しようと思います。」
 和子は、立ち上がり掛けながら言った。
「左様でござりますか……。」
 彼女は立ち上がると、夫の方を向いてこう言った。
「……又成殿、夜も更(ふ)けて参ったことでござりますし、ご道中お守りして差し上げてはいかがでしょう?」
 又成は、その言葉に同意した。
「わしもそう思うておったところじゃ。」
 彼は、シャガ一行に向かってこう言った。
「港まで護衛をお付け致しましょう。」
 そして、二人の息子に向かってこう言った。
「一成、信成。お主らお客様を港までお送り致せ。」
 二人の息子は、ほとんど同時に立ち上がると、口を揃えて言った。
「はっ。心得ました。ただ今支度して参りまする。」
 そして客人に一礼すると、二人の兄弟は廊下の方から広間を出て行った。それを見たハヤテが、又成に向かって言った。
「それは有り難いことですが、港まで戻るに護衛とは大そうなことですのぅ。」
 又成は、ハヤテのその疑問に答えた。
「この街に初めてお越しなされたお方には、この夜更け何が起こるやわかりまへん。けど、このバンテンの者、わしらの旗印見たら誰もよう手出ししまへんね。」
 最後は自信ありげな笑顔になったので、どうやら彼らは、この街ではある程度名が通っているようだ。
 やがて、見送りの支度ができたようなので、シャガたちは来たとき同様、森山夫妻に丁寧に挨拶すると屋敷の外に出た。預けていた刀を受け取った一行が門の外に出ると、その前に立って見送る森山夫妻に向かってシャガがこう言った。
「今宵は、本当にいろいろと有り難うございました。私たち、各地で仕事を済ませたら、またこの街に来ます。そのときは是非、私たちの船の方に遊びにいらして下さいね!」
 夫妻は口々に言った。
「はい、おおきに!」
「楽しみにしております!」
 そして、二人の息子を始めとする六人の日本の武士が持った松明の光が見えなくなるまで、それを見送った。
 このようにして森山家とシャガたちは、今後末永く親交を持つこととなったのであった。

 その翌朝、バンテン港に停泊中の白鷹丸の甲板の上では、昨夜の森山家の様子を勘蔵が手短く語り終えたところだった。乗組員一同と共に朝餉を食べながらそれを聞いていた喜助は、感慨深げに言った。
「そりゃまた数奇な御縁(ごえん)で結ばれなさって、この地に来られたんじゃのぅ。」
 ハヤテが言った。
「御縁も数奇じゃろうが、わし、あげなええ侍と生まれて初めて会うたわ。」
 喜助は頷いて言った。
「そりゃぁ、侍もピンからキリまでおるじゃろう。」
 珍しく酒ではなく茶を飲んでいる勘蔵が言った。
「又成殿は、昔のわしらとよう似た境遇にあられたようじゃけん、わしらと同じような物の見方されとる。一方、和子殿は、かなり徳の高い師に付いておられたご様子で、その後は又成殿のお導きもあった。侍でも考え方次第では、そげんなって当然じゃろう。」
 昨夜森山家で出された、例の「鶏と茄子の天竺煮」を自分の取り皿に取って食べた喜助が、感動した口調で言った。
「……おお! この料理えらぁ辛いけど、えらぁ旨い! こりゃその奥方(おくがた)の手製かな?」
 そして、その料理が入った鉢を隣りの席の者に回した。昨夜帰りぎわに和子がシャガに持たせてくれた折り詰めを今朝温め直したものだ。
 洋助を胸に抱いているシャガが、その喜助の問いに答えた。
「多分そうだわ。この料理のつくり方聞いててわかったけど、和子さんは普通のお姫様とは違って、あたしたちと同じように、自(みずか)ら台所に立って家の料理をつくってるのよ。だから、お手伝いの人は何人かいるようだけど、ちっとも偉そうなところがないのよね。いい感じのする人だったわ。」
 他の幼い子供たちをあやしながらトヨが言った。
「今度はこっちにご招待しなきゃね。」
「そうよね。あたしマニラに着いたら、イスパーニャ料理のつくり方の一つは覚えたいわ。」
 シャガがそう言うと、近くにいた料理係のコウが言った。
「うちは、アユタヤに着いたらシャム料理のつくり方覚えて帰りたい!」
 それに続いて張先生の妻のカヨが言った。
「ほんなら、うちは旦(だん)さんから習うた明国料理つくるわ!」
 続いて誰かが言った。
「あたしゃ、覚えるの苦手だから日本のお袋の味でいくよ!」
 女たちはキャッキャと騒ぎながら、もう今度の宴会の支度のことで盛り上がっている。
 陽が次第に高くなると、岸壁を波が洗う音に混じって人夫たちの上げる威勢の良い掛け声が、港のあちこちから聞こえて来るようになった。それを耳にした勘蔵が立ち上がって言った。
「さて、ほんなら仕事しに行かんか!」
 その声で、胡椒の買い付けに従事することになっている他の三人も立ち上がった。勘蔵が酒ではなく食後に茶を飲んでいたのはそのためだ。今日こそは、きちんと仕事を終えて帰りたいという気持がこの四人にあったので、彼らはすぐにてきぱきとその支度に取り掛かった。
 一方、各家庭から個人的に買い出しに来ている者と、町にとって必要な公共の物を仕入れる担当者も、それぞれ市場へと向かった。いずれも買い物はせず、ただ見て回るだけだ。この後マニラやシャムの都アユタヤに寄ってからまたここに帰って来るので、各地の物の質や値段を調べてから買う方が賢明だからだ。
 勘蔵をはじめとする商隊は、四頭の馬の両脇に胡椒の入った大きな麻の袋を乗せて、昼過ぎには帰って来た。今回は試しの商いなので、買い付けはこれで終わりとなった。
 また、水や食料もこの日のうちに充分補給することができたので、翌日の早朝シャガたちは、白鷹丸の錨を上げてバンテンを出港した。

海図4  グレゴリウス歴、即ち今の日本の暦で一五九三年五月十九日の午後、白鷹丸はフィリピンのマニラの港に入ろうとしていた。
 この地は、当時スペイン領となっており、中南米のスペイン植民地と東アジアとを結ぶ、貿易の中継地点であった。主に中国商人が運んで来る生糸(きいと)や絹織物、陶磁器や食料品といったものを、メキシコやペルー産の銀によって購入し、フィリピン在住のスペイン人自らが消費するか、中南米へ向けて売るのである。
 スペインは他のアジア人に対しても、この地で商品を売却することを認めていた。
 シャガとハヤテと勘蔵の三人は伝馬船で港に上陸すると、まず通訳の男性を一人雇った。シャガたちはポルトガル語の会話ならできるのだが、それをスペイン語に訳さなければならないからだ。
 通訳を伴って役所に赴いたシャガたちは、入国と入港の手続きを済ませると、早速白鷹丸をこの大きな港に入港させた。
 好奇心旺盛な彼らは、早速上陸して市内見物などをした。その結果、この港に隣接している広場では、毎月決められた日の朝になると、大きな市が開かれることがわかったので、シャガたちは、そこで胡椒を売ることにした。
 その当日、まず勘蔵を隊長とする商隊の四人と馬四頭を乗せた板が、クレーンで吊られて白鷹丸から岸壁に降ろされた。次に、八つの大きな麻袋に入れられた胡椒と、大きな天秤(てんびん)も岸壁に下ろされた。彼らは胡椒を馬に積むと、天秤を二人掛かりで手に持って、それらを市場に運んだ。
 それから一時(いっとき)もしないうちに、馬を牽いた商隊が白鷹丸のところに戻って来た。馬には先ほどの天秤と、二つの皮の袋が積まれている。どうやら胡椒を売ることができたようだ。
 間もなく、クレーンに吊られた板の上に馬と共に乗った勘蔵ら四人が、白鷹丸の甲板の上に下ろされた。
 そこではみなが車座になって、その報告待っているところだった。板の上の四人は二人一組になると、いかにも重そうな皮の袋を一つずつ持って板から降り、仲間と共に座っていたシャガの目の前に、ゴトンゴトンという景気の良い音を立ててそれらを並べた。
 勘蔵は、まずまずといった表情で言った。
「中身は銀じゃ。バンテンで使うた銀の倍余りの目方で売れよったわ。」
 その言葉によって、甲板に集まっていたみなのあいだから感嘆の声が湧き上がった。シャガは興奮した声で言った。
「小売値で仕入れたのに、そんなに儲かったってことは、あたしたちよほど運が良かったってことなのね!」
「そのようじゃ。買うてくれた衆、よほど胡椒が不足しとったと見えるわ。こっちも通訳を介して、『今どきこの値段では買えぬ』と力説したのもあったんじゃがのぅ。
まあ、中を見てみい。」
1898_1peso_a 1898_1peso_b
 19世紀末にメキシコで発行された1ペソ銀貨。1ペソ=8レアレス。メキシコは、19世紀初期にスペインから独立したが、その後もしばらくスペインの通貨の単位をそのまま用いていた。
<資料提供/瓶ヶ島町役場>
勘蔵が袋を指差して嬉しそうに言うと、シャガは座ったまま、そのうちの一つの口紐をほどいて開けた。その中から何枚かの銀貨を取り出すと、彼女は目を見張って言った。
「あら! 薄くて真ん丸い、きれいな銀なのね!」
 当時の日本の銀は現在の硬貨のような形状ではなく、不規則な紡錘形をしているものが多かったので、シャガの目にはこの形がとても新鮮に映ったのだ。勘蔵は快活な口調で説明した。
「新旧いろいろ混ざっとる。Nueva España(ノエヴァ・エスパーニャ)でつくられよったもんが多いが、中にはエスパーニャ本国のもんもある。一番大きいのが8レアレス銀貨じゃ。」
 シャガは、近くに座っていた喜助の方を向くと、やや口調を改めて言った。
「将軍、今度の商いで働いた人たちの給金をここからまず払おうと思います。一つ見積もってもらえませんか?」
「そうじゃのぅ……。」
 喜助は銀貨の袋を見ながらしばらく考えると、自分の考えをシャガに伝えた。喜助は部下の労働に対する報酬の分配に長年携(たずさ)わってきたので、このような場合の賃金を誰からも不平不満が出ないように分けるのが特に上手だった。
 やがて、勘蔵をはじめとする調査隊や商隊の者などに報酬が手渡されていった。それでも尚、その袋の中には半分近い銀貨があり、もう一袋は手付かずで残っている。それを見たシャガは、その場のみなに向かってこう言った。
「みなさん、聞いて下さーい!」
 その声で、それまでが賑やかだったその場が静まった。シャガは言葉を続けた。
「このたびは皆さんの活躍もありましたが、運にも恵まれて、僅かではありますが、このような利益がありました。このことに感謝し、今後の町の商いの発展への願いも込めて、町の全ての家に8レアレス銀貨一枚ずつを差し上げようと思いますが、いかがでしょうか?」
 みなは歓声と共に口々に言った。
「名案じゃ!」
「いいぞーっ! 町長!」
 異議がなかったので、シャガは銀貨を取りに来た者にそれを一枚ずつ手渡していった。今回の買出しに出ていない家には、白鷹丸が島に帰還してから土産(みやげ)として渡されることになる。
 当時の世界ではこのようなスペイン銀貨が多数流通していて、まるで国際通貨のようになっていたのだが、このような貿易に着手したばかりの彼らなので、それを目にするのは、ほとんどの者が初めてであった。
 みなは、貰ったばかりのずっしりと手ごたえのあるスペインの大型銀貨を珍しそうに繁々(しげしげ)と眺めている。勘蔵が説明した。
「日本では、宋銭・明銭がどこででも使える。それと同じで、この銀貨はここらの海のどの港ででも使える思うてええじゃろう。」
 シャガが、自分の銀貨の中央に大きく描かれた人物の横顔を指差して勘蔵に尋ねた。
「この人誰なの?」
 勘蔵は、それを見て答えた。
「そりゃスペインの王さんの顔じゃな。」
「ほんなら、その裏側にある城とか、獅子とかは何ぞや?」
 誰かがそう尋ねたので、それにも勘蔵が答えた。
「そりゃスペイン国の紋(もん)じゃろう。」
「それじゃ、南蛮文字のあいだに数字が四つ並んでるけど、これは何なんだい?」
 今度は、ローマ字を読める誰かがそう尋ねたので、また勘蔵が答えた。
「そりゃ天主教の暦(こよみ)で、その銀貨がつくられよった年じゃな。」
「それじゃ、今年はその暦で何年になるんだい?」
 別の誰かがそう尋ねたので、勘蔵はそれに答えた。
「今年は一五九三年になるんかな。」
 この後彼らは、市内見物などをしてのんびりと過ごしたが、その中の一団が船に戻るなり開口一番にこう言った。
「いやー、驚いた。この町にも日本人がいたよ。」
 甲板でそれを耳にした喜助が尋ねた。
「ほう、そのもんと話ししたんか?」
「ああ、したした。ルソン島にはずっと昔から商いのために日本から人が来てたんだってさ。でも、近頃ではスペインの総督からの取締りが厳しくなって、日本人は一所(ひとところ)に住むよう言われたんだって。それで、そこには日本人町ができたって言ってたよ。」
 彼がそう言うと、それを近くで聞いていた勘蔵が言った。
「そういやぁバンテンの又成殿は、マニラにも日本人がおる言うておられたのぅ……。」
 その一方、市街にあるヴァレンシア料理店に昼食を食べに行っていたシャガ一家とトヨ一家も戻って来た。洋助を背負いながら甲板に降り立ったシャガに向かって、喜助が笑顔で尋ねた。
「どうじゃ? 旨かったか?」
 シャガもそれに笑顔で答えた。
「うん! 美味しかった! ……ちょっと油っこかったけどね。」
 勘蔵も笑顔で尋ねた。
「つくり方覚えてきたか?」
「店の料理長に頼み込んで、その一つだけは大体のところ教えてもらったわ。あっちも商売だから、細かいところまでは教えてくれなかったけどね。」
 シャガがそう言うと、食通の勘蔵は興味深げに尋ねた。
「ほう! そりゃ何と言う料理じゃ?」
Paella(パエリア)よ。」
 シャガがそう答えると、勘蔵は興奮して声を震わせながら、わざと糞丁寧に言った。
「ち、町長殿はまさか、そ、その味を独り占めになさる御積りではござりますまいな?」
「ハハハ! そう来るかと思って、ちゃんと材料買ってきたわよ。」
 シャガは笑ってそう言うと、船べりからたった今甲板に降り立ったハヤテとヤスの方を指差した。その二人は、それぞれが背負っていた大きな篭(かご)を甲板に下ろして袖で顔の汗を拭いた。篭の中には、大蒜(にんにく)や玉葱、生きた蝦や貝、鶏(にわとり)などの大量の食材に加えて、パエリアをつくるための大きな平たい鉄鍋も何枚か入っている。
「ふー、重かった。さっき飯食うたのに、もう腹減りよったわい。シャガや! 早うつくって食わせてくれや!」
 ハヤテがそう言うと、ヤスも言った。
「トヨや! 早う食わせてくれ! 飲んで待っとるけん。」
 シャガは料理当番の女たちに言った。
「今日の夕餉は、名付けて『スペインの夕べ』にしようか。」
 女たちは微笑むと、口々に言った。
「フフ、いいわね。」
「ハハハ、そりゃええのぅ!」
 甲板でこの会話を耳にした男たちは、こぞって歓声を上げた。
「やった! 今宵はご馳走じゃ!」
「鶏さんとは一月(ひとつき)ぶりのご対面ぞ!」
 その一方、つくる女たちの側はそれとは対称的に極めて冷静だった。まずコウが言った。
「ほんなら、ぼちぼち下拵えせんか。うちは蝦をするわ。」
 続いてシャガが言った。
「それじゃ、あたしは言い出した責任で鶏を絞めてさばくわ……。」
 シャガのこの言葉は、現代人にとって残酷に聞こえるかも知れないが、誰かが殺してきちんとさばき、調理寸前の状態にして売っているからこそ、私たちは自らの手で鶏を絞めずにそれを食べることができるのだ。当時は、現代のような流通システムや冷蔵設備などなかったので、鶏は生きたまま買って来るのが当たり前であり、それを絞めてさばくのは、一家の主婦の仕事であった。
 ヤスと共に早速酒を飲み始めた自分の夫に向かって、そのシャガが言った。
「ちょっとー! ハヤテー! 洋助見ててくれるー?」
 トヨが言った。
「それじゃ、あたしは大蒜(にんにく)とセボラを切るわ……。」
 次に彼女は、シャガと同じようにして、自分の夫に大きな声でこう言った。
「ヤスー! 子供たちお願いねー!」
 そして彼女は、独り言のようにしてこう呟いた。
「……それにしても、見よう見まねで覚えた料理の実験台にされるとも知らずに、男の人ってほんと単純なんだから……。」
 この夜、白鷹丸で出された試作パエリアのできの良し悪しについては、彼女たちの名誉のために伏せておくことにしよう……。
 その翌日、水と物資の補給を済ませた白鷹丸は、その次の日の早朝にはマニラの港を後にした。

海図4  それから越南に向かった白鷹丸は、途中で小さな嵐に遭ったが、幸いにして怪我人はなく、船の損傷も軽くて済んだ。
 その数日後、越南南部にある貿易港に入った白鷹丸は、船の修理をしたり水や食料などを補充したりすると、錨を上げて南西を目指した。
 カンプチャ(カンボジア)を回った白鷹丸は、その数日後には、シャム湾の奥にある大きな川の河口にたどり着いた。そこの役所で入国の手続きを済ませ、水先案内人を雇うと、漕ぎ手の漕ぐ櫂によって、白鷹丸は川をゆっくりゆっくりとさかのぼって行った。
 その翌日もずっと川をのぼり続け、そのまた翌日の昼過ぎになって、ようやくこの航海の最終目的地の岸壁に、白鷹丸は接岸することができた。
 現在のタイ王国は、当時の日本では「シャム」とか「シャムロ」と呼ばれており、インドと中国の中間に位置しているという地の利もあって、交易で大そう繁栄していた。その首都は、現在の首都バンコクの北約六十キロに位置するアユタヤであり、チャオプラヤー川の中の島の上に水路を張り巡らせてつくられていた。それは、当時の東南アジアで最大規模の都市であった。
 ところが、一五六九年に隣国ミャンマーがシャムに侵攻し、アユタヤはミャンマー王の軍に占領されてしまった。
 それが近年になって現れたある王がシャム軍を率い、ミャンマー軍を打ち負かして首都アユタヤを奪還した。更に、その勢いに乗じてミャンマーに侵攻、またそれとは反対側に位置する隣国カンボジアをも侵攻するに至った。
 しかし、ミャンマーの王はこれに負けじと、昨年再びシャムを攻めたところだった。
 この国は今まさに、そのような激動の真っただ中にあったのである。
 シャガはまず、喜助を頭とする使者三名に日本語とポルトガル語で書いた親書を預け、国王の宮殿へ向かうように指示した。喜助は片言のタイ語を話すことができるからだ。
 その喜助は、防衛軍将軍の立場として、王様の喜びそうな物を貢物(みつぎもの)に捧げることをシャガに提案した。彼女はその提案を受け入れ、そのことを喜助に一任した。喜助は、上等の太刀十振りと火縄銃十丁を船の武器庫から選んで親書と共に持って行った。
 その使者一行は、夕方には帰って来た。
 白鷹丸の甲板で、早速喜助の話しを聞き終えたシャガが言った。
「そうか……。それは大変なときに来てしまったのね。」
 喜助は頷いて言った。
「そうじゃ。幸い、宮殿の傭兵の中に日本の侍がおって訳(やく)してくりゃったけん、詳しう知ることができた。
その王さんは、国民からは大王として崇められ絶大なる支持を得ておるらしい。大王はわしらに謁見を許して下さり、『アユタヤには時間の許す限り留まって良い。』と言うて下さった。ほいで明日の夜、町長を宮廷の晩餐に招待したいんじゃと。これがその親書じゃ。」
 そして喜助は、手に持っていた光り輝く銅製の小箱をシャガに手渡した。シャガはその箱の蓋を開けると、中に入っていた紙を取り出して目の前に広げた。そして、そこに書かれたものに目を通してから感激して言った。
「へー! これがこの国の文字なのね! あたしには読めないのが残念だけど……。
それじゃ、『晩餐のご招待に喜んで応じます』と言ってきてくれる?」
「よっしゃ! わかった!」
 威勢良く返事をした喜助は、先ほどの二人を従がえると、喜び勇んで再び王宮へと赴いた。近頃留守役が多かった彼は、昔訪れたことがあるこの街に着いた途端、まるで水を得た魚のようになっていた。その様子を見ていた勘蔵はシャガに向かって、珍しくしんみりした小声で言った。
「……今回わしゃ遠慮しとくけん、兄貴を連れて行っちゃってくれんかのぅ?」
「わかったわ。王宮に日本の侍がいたそうだけど、将軍と会ってもなんともなかったみたいだし……。
優しいのね。」
 シャガが勘蔵を見直したようにそう言うと、真剣な顔になった彼は、その前で手を横に振ってからこう言った。
「いやいや、優しくもなんともない。留守番ばかりさせて、そのうち反乱でも起こされちゃかなわんもん。」
 それを聞いたシャガを始めとするその場の一同は、思わず笑ってしまった。
 ロクが言った。
「今頃、くしゃみしとるぞー。」
 アユタヤに着いて早々王に親書を渡したことが良かったのか、献上した品々がよほど気に入られたのか、晩餐会当日の夕方、王の近衛兵(このえへい)がわざわざ白鷹丸までシャガたちを迎えに訪れた。これはもう国賓(こくひん)級の扱いだ。
 晩餐会に出掛けるため白鷹丸から岸壁に降り立った顔ぶれは、シャガ、ハヤテ、喜助、副船長のモズ、料理当番のカヨとコウの六人だ。ところがここで思わぬことが起きた。カヨとシャガとコウの三人の女が突然抱き合うと、その場で小刻みに飛び上がりながら、恐怖に慄いた声で口々に叫んだのだ。
「ちょ、ちょっと、なんじゃの、これ!?」
「キャーッ! な、なによこれ!?」
「誰かー! 助けてー!」
 彼女たちの目の前に、巨大な生き物が近付いてうずくまったからだ。
 それは金糸銀糸を使って織られた布で、きらびやかに飾り付けられた二頭の象であった。その小山のような背に取り付けられている箱に、まず自分が乗り込んで見せた喜助は、女たちに手を差し伸べながら、安心させるように笑って言った。
「ハハハ! 飼い慣らされた象は見掛けとは正反対で、戦(いくさ)んとき以外は馬より大人しい生き物じゃ。案ずることない。さ、乗らんか。」
 一行が二頭の象に分かれて乗り込むと、近衛兵の中の象使いが象を立たせた。そのために、背中の箱が前後に激しく傾いたため、三人の女はまた「キャーッ!」という賑やかな悲鳴を上げたが、どことなく嬉しそうだ。
 船べりにしがみ付いてこの様子を見下ろしていた白鷹丸の子供たちが口を揃えて叫んだ。
「いってらっしゃーい!」
 その声に向かって、二頭の象の上の六人が手を振って応えた。間もなく象使いに指示された二頭の象は、近衛兵に守られながら静々と歩み始めた。
 一行を見送り終えて甲板に降りた、満四歳になるシャガの長男のアキが、口を尖らせて羨ましそうに言った。
「いいなー。母ちゃんと父ちゃん!」
 彼の二つ年下の妹ヒミカも、兄の口調を真似て言った。
「あたしも、ぞうにのりたーい!」
 ヤスの長男でヒミカと同い年のセイもそれと同じように言った。
「おれも、のりたーい。」
 カヨの長男で日中ハーフの張耀泉(チャンヤオチュアン)満七歳は、しっかりした口調でこう言った。
「王様に手紙出したら、きっと乗せてくりゃろう。」
 耀泉の一つ下の弟、玄昌(シュアンチャン)が言った。
「ちょうちょうは、日本ごとポルトガルごの、二つのことばで書きんさったて、母ちゃんゆうとったが、にいちゃんそれよう書くんか?」
「日本語なら書ける。」
 耀泉がそう答えると、彼の妹でヒミカと同い年の麗鈴(リーリン)が言った。
「てがみ一つなら、ぞうも一つしかこんわ。」
 アキが言った。
「シュアンチャンの父ちゃんにたのんで、たくさん書いてもらったらいいんだよ。」
 その意見に対して耀泉が言った。
「そりゃわしの父ちゃん日本語も入れると四通りの言葉知ってなさるが、数多けりゃ象もようけ来よるとは限らんぞ。」
 玄昌が言った。
「そうじゃ。ちょうちょうは、タイの言葉よう書きなさらんけん、どちらかでもわかるように、日本ごとポルトガルごにしんさったんじゃろう。」
 ヤスの長女でアキと同い年のテルが父に尋ねた。
「ねえ、父ちゃん。あたしたちゾウに乗れるかなぁ。」
 ハヤテの次男洋助を抱いている子守役のヤスは、先ほどから子供たちのこの会話を微笑んで聞いていたが、娘のその問いに答えた。
「おう。シャガ姉ちゃんが、ええようにしてくりゃろう。」
「みんな早く帰って来るといいなー。」
 テルがそう言って再び船べりに身を乗り出すと、他の子供たちもそれに倣い、仏塔がいくつも立ち並ぶ夕暮れの大きな街を見渡した。
 その夜さほど遅くならないうちに、松明を持った兵隊に護衛されたシャガたち六人が、象に乗って帰って来た。それを出迎えるために白鷹丸からは、ロク、勘蔵、張先生などの主だった者が、明かりを持って岸壁に降りた。
 象が白鷹丸の前に着くと、像使いはそれをひざまずかせた。そこから降りたシャガは、覚えたてのタイ語を使って護衛隊の隊長に礼を述べた。
「コープクンカー(ありがとうございます)。」
 隊長は微笑んでそれに答えた。
「マイペンライクラップ(どういたしまして)。」
 その彼の指揮で、護衛隊は静々と引き上げていった。
 白鷹丸に掛けられている梯子をまだ登っている途中なのに、勘蔵が待ち切れないという口調で尋ねた。
「して、晩餐はどうじゃったん?」
 その上を登っていたモズは振り向くと、興奮冷め遣らぬといった口調で答えた。
「おぅ、まずなんもかも、きんきらきんじゃったわ!」
 船べりから甲板に降り立ち、子守りをしてくれていたトヨから息子の洋助を受け取って抱いたハヤテは、まず彼女に向かって言った。
「済まんかったのぅ、トヨ。」
 そして今度は、甲板に降り立った勘蔵に向かって言った。
「……音楽と舞がまた見事じゃったぞ。」
 カヨは、夫の張先生に向かって言った。
「料理は明国のんよりも、バンテンのんに近いようじゃったわ。」
 コウは半泣き顔になると、周囲のみなに向かって叫んだ。
うち、宮廷料理っちゅうもん生まれて初めて食うた! もう死んでもええ!!!
 その大袈裟な表現にみなはどっと笑ったが、勘蔵は困った顔をして言った。
「おいおい、ほんなら、それつくってわしらに一度食わせてから死んでくれや。」
 それを聞いた一同は大爆笑した。
 喜助が感動した口調で言った。
「さすが、大国シャムの王宮だけあって、建物から料理まで全てが見事じゃな。昨日も言うたが、近衛兵の中にいた日本の侍が訳してくれたお陰で言葉に不自由せなんだし。」
 勘蔵が言った。
「ほんなら、丁度明かりもようけあることじゃ。その話し詳しう聞かせてくれや。
……ところで、町長が持っておられるそれは、もしや?」
 陶製の蓋付きの壺(つぼ)を重そうに抱えていたシャガは、微笑んでそれに答えた。
「フフ、そうよ。その、『もしや』なのよ。
……コウちゃん、『シャムの宮廷で出た汁物の味見したい人は、自分の椀と箸持って甲板に来るように』って、船室にいる人に言ってきてちょうだい。」
 コウは勢い良く答えた。
「よっしゃ! まかしといて!」
 コウが船室に降りて行こうとすると、先ほどまでそこにいた勘蔵たち出迎えの者の姿は既になかった。彼らはなんと、シャガの言葉がまだ終わぬうちに、自分の椀と箸を取りに走って行ったのだから。
 既に夕餉を済ませてそれぞれ船室にいた白鷹丸の乗員たちだったが、コウの言葉を聞き付けると、晩餐の有り様の話しを聞こうと、椀と箸と共にランプや行灯(あんどん)を持って出て来たので、甲板はまるでお祭りのように明るくなってきた。
 シャガは、持っていた壺を甲板に置いてその前に座ると、その蓋を開けて中身を杓子ですくい、一人一人が差し出した椀の中に少しずつそれを注いでいった。
 早速それを飲んだ者は感動して口々に言った。
「ほう、甘辛うて酸(す)い不思議な味じゃ!」
「魚醤(ぎょしょう)と蝦の出しが効いてるね。こりゃ癖になりそうだよ!」
「これなら、暑うて食い気のないときでも食えるぞ!」
 シャガが微笑んで言った。
「イスパーニャから唐辛子が伝わる前は、胡椒で辛味を出してたんだって。料理長さんがそう言ってたわ。家庭でも楽しめるような簡単にしたつくり方をコウちゃんが教わってきたから、今度似たようなのつくってあげるわね。」
 一方、帆柱にともされた明かりの下に座った喜助は、先ほどの晩餐の有様をみなに詳しく語り始めたところだった。
「……ほいでな、近衛兵の隊長は、日本の侍が勇敢で戦(いくさ)に強く忠義(ちゅうぎ)にも篤(あつ)いと大そう褒(ほ)めておられたわ。また日本刀も、よく切れて折れにくい言うて褒めておられたな。武器がまだあるなら、黄金と交換する言うておられたが、どうするや?」
 喜助がシャガの方を向いてそう尋ねると、シャガも喜助の方を向いて逆に尋ね返した。
「この船に積んでる予備の武器って、あとどれくらいあるの?」
 防衛軍の長を務めている喜助なので、それには即座に答えた。
「余っとるのは、太刀が十三振り、脇差が二十二振り、鉄砲が二十丁、槍が十五本、長刀(なぎなた)が九本、弓は二十ほど。そげなところかな。」
「それらを売って、もし戦になったらどうなるか、将軍としての意見を聞かせてちょうだい。」
 シャガが意見を求めたので喜助はそれに答えたが、その返答は喜助にしては珍しく口篭(くちごも)ったものであった。
「……防衛軍としちゃぁ、戦が長引いた際の予備の武器はなくてはならぬ……。今保有しておる数はそのまま維持した方がええ……。」
 それを聞いたシャガはこう言った。
「それなら、武器を売るのはよしましょうよ。あたしね、将軍が王様に武器を献上してから考えたの。これでいいのかなって……」
 その言葉によって、それまで賑やかだった甲板の上がしんと静まった。
 シャガは言葉を続けた。
「……隣国との絶え間ない争いのため、優れた武器を欲しがっている大王様は、きっと黄金をはずんで下さることでしょう。商人の立場からすれば、その話しに乗ってもいいと思うわ。でも、忘れてならないのは、あたしたちの儲けのために武器を売れば、その武器によって傷付いたり命を落としたりする人が必ずいるってことなのよ。
日本で大名から虐げられてきたあたしたちは、同じような立場の人々に武器を売ってた。それならまだ筋が通ってるとも思うけど、もしこの国に武器を売れば、あたしたちに向かって悪いことなど一つもしたことない人が、それに傷付けられたり殺されたりするのよ。そんなの無茶苦茶だわ。
大王様からご馳走になったことは有り難いことだけど、それとこれとは別。大王様だって、きっとそれをわかって下さってるはずよ。」
 またも喜助にしては珍しく項垂れると、弱々しい口調でこう言った。
「……全く町長の言う通りじゃ……。」
 そしてシャガの方に体を向けて座り直した彼は、やや上目遣いに彼女を見て、このように言った。
「それ聞いて白状するが、……実はわしな、さっきまで、この船下りてアユタヤの大王に仕えよう思うとったんじゃ……。」
 この思わぬ告白に、その場の一同は一瞬どよめくと、またもやシーンと静まり返ってしまった。帆柱に取り付けられている松明の揺れる明かりに照らされながら、喜助は話しを続けた。
「……わしらは豊臣の討伐軍から逃れ、南海の孤島に安住の地を得ることができた。そこでは町を一から創造するっちゅう困難を克服して、わしらの理想の町つくることもできた。けど、それが終わってしまうと、わしゃこれから何のために生きていきゃぁええんか、わからんようになってしもうたんじゃ。
わしゃ頭(かしら)も辞めたし、町のもんは、わしおらんでも生きていける。そう思うたら、今度はわしのこと必要と思うてくれとるもん、わしのこと頼りに思うてくれとるもん、誰もおらんのじゃと思えてきた。そりゃ、わしゃ防衛軍の将軍ちゅう役職を貰うとるけん、戦でもありゃぁ話しは別じゃよ。けど、その戦の一つもない。
そう思うとった矢先に、ここの日本の侍見たんじゃ。ほんに生き生きしとったわ。王さんを守る近衛兵っちゅう仕事はのぅ、王さんからよほど信頼されん限り与えられん仕事なんじゃ。ほいでわし、その侍に戯言(ざれごと)のふりしてこそっと聞いたんじゃ。『わしのような老いぼれでも、ここで仕事貰えるんかのぅ。』て。ほんなら、そのもん真面目な顔で言いやったわ。『大王から実力を認められれば、年齢はさして問題にござらぬ。』て。
ほいでわしゃ思うた。『ここに来りゃぁわしを必要と思うてくれるもん得られる。』とのぅ。
この船に積んどる予備の武器は、わしが頭んときに蓄えたもんじゃ。それを黄金に変えてシャガはじめ、町のもんへの詫びのつもりで置いて、わしはひっそりとこの船を去ろう思うとったんじゃ。」
 それを聞いたシャガは、目に一杯涙を湛(たた)えて叫んだ。
将軍が必要ないだなんて誰が思ってると思うの! いざというときにあんたが守ってくれると心の底で思ってるからこそ、あたしたちは安心して海賊の行き交う海を航海し、マニラの人と対等に商いもし、行く先々の町でくつろぎ、こうしてシャムの大王ともお付き合いできてるんじゃないのーっ!!!
 その場の一同からも次々と声が上がった。
そうじゃ!
そうばい!
将軍いなけりゃ、俺たち兵隊はどうやって戦うんだーーっ!
将軍一人帰らんちゅうこと知ったら町のみな泣くぞ!
 喜助は袖で目頭を拭って呟いた。
そうか……。そこまで思うてくれとったんか……。みな、ありがとう……。
 ここで彼はなぜか真顔になると、やや早口になってこう言った。
「けど待て待て。一旦は船を去ろう思うたが、先の町長の言葉でわしの考え変わったんじゃ。」
 彼は普段の口調に戻ってこう言った。
「……先のシャガの言葉で、わしゃハッとした。確かに大王の近衛兵ともなりゃぁ優遇(ゆうぐう)はされよう。けど、わしゃシャムの隣国のもんにゃぁ何の恨みもない。そげなもんと戦うちゅうことは、日本の大名に召し抱えられて、その敵の大名と戦うのと同じことになってしまう。これじゃぁ、そげんなるのを避けてわざわざ独立を貫いてきた意味がない。
昔モラが打ち立てたわしらの目標は、もっと他んところにある。わしらはそれを達成したかのように見えるが、今度はそれを子や孫に正しう伝えていかないけん。それができんうちは、真の達成とは言えん。
そう思うたら、何やらまた町へ帰って孫の顔見とうなってのぅ……。ハハハハ……。」
 喜助は照れ隠しに頭を掻いて笑った。
 ロクが安心したようにホッと溜息を一つつくと、今度は顔をしかめて言った。
「……ほんに人騒がせな将軍じゃ。」
 シャガも同じようにして言った。
「……もうほんと。心配させるんだから!」
 そして彼女は立ち上がると、その場の一同を見渡してこう言った。
「みなさん! 仲間を心配させた罰として、将軍には仕事を一つ命じたいと思いますが、いかがでしょうか?」
 すると、一同は口々に言った。
「おぅ! そりゃ妙案じゃ!」
「いいぞーっ!」
 喜助は、シャガに向かって苦笑いして言った。
「おいおい、お手柔らかに頼むぞ。」
 シャガはみなに向かって微笑むと、こう言った。
「その仕事とは、明日一日象使いを雇って希望者にアユタヤ見物をさせるということです。いかがでしょうか?」
 この提案には一同歓声を上げて賛成した。特に子供たちが大喜びで、まず玄昌とアキとテルが口々に叫んだ。
万歳! 象でアユタヤ見物じゃーっ!
やったー!
明日は象に乗れるよーっ!
 これを聞いたヒミカとセイと麗鈴が立ち上がり、飛び跳ねながら口を揃えて叫んだ。
やったー!
ぞうだー!
ぞうじゃー!
 それを見た耀泉が笑って言った。
「ハハハ! こりゃええかったわい!」
 まだ言葉がわからぬハヤテの腕の中の洋助だったが、兄や姉たちのそんな喜ぶ姿を見ると体をのけ反らせ、キャッキャと嬉しそうな声を上げている。それらを見た喜助が、首を縮込めて頭を掻きながらシャガに向かって言った。
「わかった。わかったがな……。それで堪忍(かんにん)してくれや!」
 シャガはそれに応じて微笑んで頷いた。
 皆が喜んで笑っている中で、勘蔵はニコリともせず、自分の隣に座っているロクに向かってぼそっと呟いた。
……ええかったわ。反乱じゃのうて……
 ロクもやはり真剣な表情で、頭を掻いている喜助を見ながら黙って頷いた。

 米を主食として海産物を使っている料理や、どことなく懐かしさを覚える人々の顔立ちなどに親しみを覚えていた白鷹丸の乗組員たち。そんなアユタヤには少し長く留まったので、海の男たちは行くところにしっかりと行った。
「ほんなら、ハヤテとヤス、行って来るけん、留守を頼んだぞ。」
「今宵(こよい)はどげな娘か楽しみじゃ。ガハハハハ!!
 夕闇の中、水夫兼防衛軍の男たちは、みな得意そうに言って次々と船を降りて行った。ハヤテの親友であり義理の弟でもあるヤスは、そんな彼らに向かって顔を真っ赤にして怒鳴った。
こらーっ! やかましいわいっ!
 続いて彼は、自分を励ますような独り言を言った。
……バレんかったらええんじゃ! 今宵という今宵はわしも行くぞ!!!
 そして彼は、横に立っているハヤテに向かってこう言った。
「おい、ハヤテ。一緒に行かんか。」
 そして、男たちに続いて船べりを乗り越えると、ハヤテの袖を引っ張って梯子を降りようとした。そのヤスに、薄暗い船上のどこかから、若い女の鋭い声が飛んで来た。
「ちょっとあんた、どこ行く気?!」
 妻トヨの声だ。
「ハヤテ! あんたもどこ行くのよ?」
 これはシャガの声だ。二人はそれぞれ自分の夫の行動を、帆柱の陰に隠れて見張っていたのである。彼女たちが暗がりから現われると、ヤスはしどろもどろでそれに答えた。
「ど、どこって、決まっとるじゃろう。……な、仲間を見送るために岸壁に下りるんじゃ。」
 ハヤテも困ったような声で妻の問いに答えた。
「引きよるのに逆らうと、こいつが下に落ちよるかわからん。危ないけん、こいつのされるがままになっとったんじゃ。」
「今まで、夜の街に繰り出す仲間を見送りに岸壁に下りたことなんか一度もなかったのに、なんで今夜だけ下りようとしたのよ?」
 トヨがそう言って詰め寄ると、ヤスはまたどもって言った。
「そ、それはじゃな……。」
「一度ぐらいは見送らんと愛想ないけん、じゃろう?」
 ハヤテがそう言って助け舟を出した。口篭っていたヤスは、急に嬉しそうな顔になって言った。
「そうそう! そういうことじゃ!」
「本当は、下に降りてそのまま付いて行こうと思ってたんでしょ!」
 トヨがそう言うと、ヤスは今度は不機嫌そうに言った。
「お前が一緒なのに、わしがそげなところ行くはずないじゃろうが!」
「始めはそう思ってても、カッとなると自分でも思ってないようなことしてしまうんだから。あんたって人は!」
 トヨが子供を叱るような口調でそう言うと、ハヤテは笑って言った。
「ハハハ! ヤス、お前の性格完全に見抜かれとるのぅ。トヨの言う通り、わしら始めは涼みながら焼酎飲んどったんじゃ。」
 確かに近くの船べりの上には、二人のグラスと、つまみを乗せた皿が置いてあった。ヤスは仕方なさそうに船べりから降りてトヨに尋ねた。
「いつもなら、夕餉(ゆうげ)の後は子供らとカルタしよるのに、なんで今宵(こよい)は甲板に出よったんじゃ?」
 このカルタというのはポルトガル語の carta からきており、現在の歌留多(かるた)遊びの語源ともなっている。しかし、当時の日本で「カルタ」と言えば、むしろトランプに近い賭博性のあるゲームのことを指していた。
 ヤスの問いにトヨは澄まして答えた。
「夕餉の後、二人が船室を出て行ったときに虫が知らせたのよ。」
 ヤスはまた尋ねた。
「ほんなら、なしてこことわかったんじゃ? 他の船室に遊びに行っとることもあろうに。」
「女の直感よ。ねえ、お姉ちゃん。」
 トヨがそう言うとシャガも言った。
「そう。なんとなく閃(ひらめ)いたの。」
 間もなく二人の男は、それぞれの妻によって船内に連れ戻されていった。
 この二人は妻を同伴しているから良いが、単身で来ている男は、長い航海のあいだその寂しさをどこかで満たさなければならない。
 現代とは違って昔の掟では、妻の不倫が発覚すれば男女とも死罪となることが多いため、そのような大それた気を起こす者はまずいなかったが、欲求不満が嵩(こう)じると人間何を仕出かすかわからない。子持ちとは言えまだまだ若く美しいシャガやトヨに対して、他の男たちが変な気を起こさないようにするためにも、ハヤテとヤスの二人は、彼らの歓楽街訪問を奨励(しょうれい)し、自分たちはそれを堪(こら)えざるを得なかったのである。
 ハヤテは歌を一首詠(よ)んだ。
「雄蜂の 花から花へと移りしに
      あくにあけぬは 庭の一輪」

 さて、彼らはこのようにして毎日遊んでばかりいたわけではない。その帰りを今か今かと待っている瓶ヶ島に残された者のことを思えば、一刻も早く用事を済ませて帰路に就かねばならなかった。
 この国には野菜や果物をはじめ、竹の種類も豊富にあったので、彼らはそれらを栽培するための種子(しゅし)や地下茎(ちかけい)などを色々と手に入れることができた。また、個人で買出しに来ていた者も、衣類に仕立てるための布など必要な物を充分に買い集めることができた。
 またこの市内には、中国をはじめ、ポルトガルや日本の商人が、それぞれ割り当てられた区画に店を出しており、シャガたちはそこで必要なものをいろいろと取り揃えることもできた。
 その中国人町では、絹糸や陶磁器など、バンテンで売れそうな品々を仕入れることにした。まず、いつものように調査隊がそこに派遣されて物の相場がわかると、今度は商隊が再び同じ町へと向かった。
 今回は、いずれの隊長も張先生で、その隊員は彼が各種中国語を教えた生徒たちだ。張先生の出身である漢族の商売人は、同族や知人のいわゆる「コネ」をかなり重視する。医者の家系に生まれ育った張先生には、中国国内はもとより、海外にも幅広い知人がいる。そのコネのお陰で、彼らは大量の商品を中国人並みの価格で仕入れることに成功した。
 その張先生には、この仕事に対する報酬の銀が支払われたのはもちろんのことだが、その夜の食卓には、大食漢の彼にでも食べ切れないほどのご馳走が並んだことも付け加えておこう。
 その翌日、滞在中何かと世話になった大王に鄭重(ていちょう)に別れを告げたシャガたちは、白鷹丸の錨を上げると、次の目的地バンテン目指して、チャオプラヤー川を下って行った。

「おい、ハヤテ。お前いつから、そげんつまらん男になってしもうたんよ?」
 いかにも不満気な顔をしてそう言ったのは、ハヤテの親友ヤスであった。
 赤道付近の真っ青な海に浮かぶ白鷹丸の帆柱には、椰子の葉で編んだ大きな日除けが張られており、その下に立っているヤスの足元には、長い文机(ふみづくえ)が置かれている。その上には大きな本が三冊開いて並べてあり、その向こう側に座っているハヤテが、今熱心にそれらを見較べているところであった。本から顔を上げたハヤテは、笑ってそれに答えた。
「ハハハ! いつからもそげんもない。元からこげな男じゃ。今まで異国の言葉知らんかったけん、それ知った途端、こげんして才能が花開いたんじゃ。」
 ヤスはまた不満気に言った。
「何が才能じゃ! ただ本と睨(にら)めっこしとるだけじゃろうが。お前がそげに珍しいことしよるけん、見てみい。風がのうなってしもうたじゃろうが!」
 ヤスの片手にはカルタが握られている。どうやら彼は、ハヤテをカルタ遊びに誘ったが断わられてしまったようだ。彼らの頭上には、南国の昼下がりの太陽が燦然(さんぜん)と輝いているが、そのヤスの言う通り、確かに船の帆はバタバタと力なく垂れてしまっている。
 ハヤテが見比べていたのは、旧約聖書のポルトガル語訳、同じくそのスペイン語訳、そしてポルトガル語-スペイン語の辞典だった。
 バンテンの森山家からの情報によって、回教徒との付き合い方を大よそ知ったハヤテは、今度はヨーロッパ各地やアメリカ大陸で力を持っているという天主教の研究と、スペイン語の習得の必要性を感じ、それをシャガに進言した。シャガは、そのことを船上会議で審議し、そのための予算が組まれた。それによってハヤテは早速、アユタヤの外国人街で見付けた古本屋から、これらの本を手に入れたのである。そして今は、その研究兼習得を行なっているところであった。
 聖書という同じ内容のものが、それぞれポルトガル語とスペイン語に訳された本を見比べれば、ポルトガル語の一つの単語がスペイン語のどれに相当するかということを容易に知ることができる。それに辞書が加われば鬼に金棒だ。ヨーロッパの言語を本から習得する上において、この当時ではこれが最も手っ取り早い方法だったのだろう。
 ハヤテは笑顔のままで言った。
「こら! 風がのぅなったのを人のせいにすな!
子供らがおるじゃろうが。カルタ、子供らとしたらええんじゃ。」
 ヤスは尚一層不服そうに言った。
「もう何百回もしたわ! 子供らとは銭(ぜに)賭(か)けてできんけん、こげに言うとるんじゃろうが!」
 そして彼は、口をやや尖らせ、揶揄するような口調でこう言った。
「そりゃお前はええわいのぅ。我がの子他人に預けといて悠々(ゆうゆう)と本なんぞ読んどれるんじゃけん。」
 これを聞いたハヤテの目付きが一瞬鋭くなったが、彼も大人だ。ハヤテは、わざととぼけたような口調でこう言った。
「ほう? ほんなら、お前は留守役で島におって、今度の子守り役はケンにしといたらええかったんかのぅ?」
 今度はヤスの顔色が変わった。彼はしまったという表情になると声を落として言った。
「ハヤテ、済まんかった。つい口が滑ったんじゃ。先の言葉はなかったことにしてくれ。」
 長い航海の途上では、このヤスのように退屈しきってしまうこともあるが、寄港する毎に様々な珍しい異国の風物を見て回れるので、たとえ子守りであっても、このような航海に同行することは幸運と言うべきであった。増してやこのヤスの場合、妻トヨと共に面倒を見ているのは、普段は同じ屋根の下で暮らしている義兄の子供たちと我が子たちだ。日常生活をそのまま船に持ち込んだようなものだし、それによって「子守り」の報酬が得られるのだから、家族が同行していない者に比べれば破格の境遇である。
 そのため、先ほどのヤスの発言を正論で正せば、このような役職に抜擢(ばってき)してくれたことに対する恩を忘れた暴言だったが、ハヤテの対応は親友としてそれ相応のものだった。彼は、慣れた手付きで三冊の本を次々と閉じると、ヤスを見上げて言った。
「……ほんなら料理室行って、焼酎とイカの干物持って来んか。ほいで堪忍しちゃろう。我がの分も忘れなや。カルタはここに置きんさい。繰(く)って待っとるけん。」
 これを聞いたヤスの表情は見る見る明るくなった。
「ついでに漬物とqueijo(ケイゾ)も持って来るわ!」
 彼はカルタを文机の上に置いてそう言うと、身を翻(ひるがえ)して調理室へ降りて行った。
 その頃同じ甲板の舳先の方では、船長のロクと副船長のモズが船の進行についての協議をしていた。
「……船長、風やんでしもうたが、どげんするや? 漕ぎ手に船漕いでもらうか?」
 モズのその問い掛けに、ロクは首を傾(かし)げて言った。
「うーん、急ぎたいのも山々じゃがのぅ……。」
 そして彼は、前方の水平線を顎で示して言った。
「まだまだ先は長い。この暑いのに船漕いでバテてしもうたらなんもならん。まあ、ここは腰を据えて風待つことにせんか。」
 それを聞いたモズは、帆柱を指差してこう言った。
「ほんなら、帆ぉ畳んどいた方がええのう。」
「おぅ、そげに伝えとくれや。」
 モズは、甲板に据えられている大太鼓に着くと、その指令のリズムを叩いた。それによって白鷹丸の帆は、次々と畳まれていった。
 ロクはモズに言った。
「ほんなら、丁度ええわ。そのあいだ、久しぶりに釣りでもせんか!」
 二人は顔を綻(ほころ)ばせて船倉に釣竿を取りに行った。
 このように、みなが思い思いの時を過ごしていたところ、帆桁(ほげた)の上から見張りの声が甲板に降って来た。
「おーい! 船が見えるぞー!」
 その声を聞くや否や、甲板にいた者はみな一斉に高い方の帆柱を見上げた。その上に設けられた見張り台の見張りの者は、右舷側のある一点をまっすぐに指差していた。それを見たみなの目は、今度はその指の先の一点に注がれた。薄っすらとしたマレー半島を背景にした真っ青な海の上には確かに小さな黒い物体があったが、甲板の者には、それが船なのかどうかを判別することができなかった。
 望遠鏡が普及する前のこの時代、帆柱の見張りに起用される者は、当然のことながら視力が特に優れている者であった。しかも、その仕事柄それが更に発達することになる。「千里眼(せんりがん)」とは大袈裟な表現だが、現代人では有り得ない、そのような視力の持ち主も実際に存在していたのであろう。
 仕掛けをつくって餌を付け、海に釣り糸を垂れたところだったロクは少し残念そうだったが、釣り道具を片付けると、同じように釣り道具を片付けたモズに向かって苦笑いしながら言った。
「この下の魚の何尾かわからんけど、今の見張りの言葉で命拾いしよったわ……。
全員配置に着くよう伝えてくれ。」
 モズは「ハハハ」と笑うと、再び太鼓を叩いてその指令を下した。
 その音を聞いた船員たちは、それまで各自がしていた個人的なことを切り上げると、それぞれの部署に就きだした。
 町長のシャガと防衛軍将軍の喜助が、太鼓のそばにいたロクとモズのところへやって来た。シャガに向かって喜助は真剣な表情で言った。
「ここらは昔から海賊が多いことで有名じゃ。万が一のこともあり得る。戦の支度をしてはどうかと思うが、いかがじゃ?」
 その勧めにシャガは応じた。
「そうね、備えあれば憂いなし。頼むわね、将軍!」
 その言葉を受けて、ロクも喜助に言った。
「ほんなら、あとはよろしう頼んだぞ。将軍。」
 モズが早速、太鼓で「戦の支度」のリズムを叩いた。この指令が出されると、政治的な権限も船の航行に関する権限も、町長や船長から全て防衛軍将軍に委託され、船長のロクは自動的に副将軍の地位に就くことになっている。現代の戒厳令(かいげんれい)と似たような制度だ。
 右舷に見えている物体は、風がないのに先ほどよりもやや大きくなっている。これはこの船が、こちら目指して自力で近付いているということを意味している。シャガをはじめとする女子供は、みな上の甲板から下に降り、自分たちの船室へと退避して行った。
 防衛軍専属の者は、日頃からこまめに自分の武器の手入れをしているが、政治や通商などを兼任している者は、ついついそれが疎(おろそ)かになってしまう。ハヤテとヤスも賭博(とばく)と飲酒を早々に切り上げると、永いこと使っていなかった自分の刀を甲板に座って研ぎ始めた。彼らと同じような者がみな刀を研ぎだしたので、この甲板上はあたかも刀研ぎ大会のようになった。
 そのあいだに先ほどの物体は、甲板からでもはっきりと見える、帆を畳んだ三本マストの洋式帆船の形となっていた。一番前の帆柱は中ほどのところで折れている。やがて刀を研ぎ終えたハヤテとヤスは、女子供のいる自分たちの船室を守備するために下に降りて行った。
 一方、甲板上の喜助は帆柱の見張りを見上げて叫んだ。
「おーい! 旗印は見えるか?」
 その問いに見張りの者が答えた。
「旗は何も付けとらーん!」
 喜助は再び問うた。
「どこの船かわかるか?」
 見張りの者が、それに答えた。
「中型のガレオン船のようじゃ。櫂で船漕いで進んで来よる……おっ! 舳先から煙上げよったぞ!」
 見張りのその言葉が終わる間もなく、白鷹丸とその船の丁度中間あたりに一本の水柱が上がった。
「おぉ、いきなり大砲を撃ってきよるとは正(まさ)しく海賊じゃ。女子供おるけん戦はしとうなかったが、相手の船足はめっぽう速い。こりゃ迎え撃つしかないのぅ。」
 喜助は横にいたロクに向かってそう言った。ロクはそれに答えた。
「そりゃそうじゃろうが、ガレオン船なら大砲の数もわしらより多いじゃろう。まともにやり合うたら勝てんぞ。」
 喜助は不敵な笑みを浮かべて言った。
「フフ、わしに考えがある……。投石器と小さめの樽爆弾の支度するんじゃ。爆弾に油は入れんでもええ。」
 その指示に従い、ロクは数名の者を連れて船倉へと降りて行った。喜助は次いで太鼓に付いていたモズに向かって、たて続けに指令を発した。
「敵は右舷のガレオン船! 船首大砲打ち方用意! 船を右へ回して舳先を敵に向けるんじゃ!」
 それはモズの打つ太鼓によって船内各所に伝えられた。間もなく漕ぎ手の操(あやつ)る櫂によって、船はぐるっと向きを変えた。
 やがて、船倉に行っていたロクたちが、縄で括ってある大きな木材の束を持って上がって来ると、海上では滅多に使うことのない城攻め用の投石器の組み立てが開始された。また、他の者三人が樽爆弾を一個ずつ抱えて甲板に上がって来た。実際に使用するのは一個だけだが、この時代の爆弾は完成度が低く不発も多かったので、あとの二個はそれに備えておくのだ。
 それを確認した喜助がロクに言った。
「よし。投石器はいつでも動かせるようにしておくんじゃ。」
 ガレオン船は、船上の人の様子がわかるくらいにまで接近すると、途端にその船足を緩めた。それを見たロクが喜助に言った。
「あれから大砲撃ってきよらんのぅ。この船が欲しいと見えるわ。」
 喜助は、軽く笑って言った。
「ハハ! そのようじゃのぅ。」
 長年海賊をしてきたこの二人は、相手の大砲の撃ち方一つで、その魂胆(こんたん)を見抜いてしまったようだ。しかし、敵は白鷹丸の船上に向かって今度は銃を撃ってきた。白鷹丸のみなは、厚い船べりに身を沈めてその弾を避けた。
 ロクがしゃがんだまま、同じようにしてしゃがんでいる喜助の顔を見て言った。
「まだ放(はな)たんでもええんかや?」
 また不敵な笑みを浮かべて喜助が言った。
「敵が斬り込んで来よるようなら、その前にもっとえらいもん喰らわしちゃるんじゃ。」
 二艘の船は互い違いの向きになっているが、間もなくガレオン船は、その左舷を白鷹丸の左舷に着けようとしているということが、その動きから見て取れた。それを察した喜助は、待ってましたとばかりにロクに言った。
「よしゃ! まず投石器を左舷前方に据え付けるんじゃ!」
「よしゃ、わかった!」
 喜助のこの作戦の全貌を理解できたようで、ロクは笑顔になってそう言うと、また数名掛かりで身を屈めながらその指令を実行した。
 敵船は依然として散発的に銃を発砲しながら近付いて来る。喜助はモズに向かって言った。
「漕ぎ手は斬り込み用意!」
鉢巻  太鼓でその指令が伝えられると、それまで下で櫂を握っていた若者約五十名が次々と上の甲板に上がって来た。左舷前方にしゃがんで待機した彼らは、長い髪を垂らして町の紋が染めてある鉢巻を締めた。喜助もそこでしゃがんだままロクたちに向かって叫んだ。
「投石器に樽爆弾乗せて、点火と放り投げる支度するんじゃ! 爆弾の火縄は短めにせえ! 合図したら点火して敵の船の上に放り込むんじゃ!」
 この投石器の長い柄の先端には、石を入れるための頑丈な籠があり、その先には綱が付けられている。ロクたちは、それをその下に取り付けられているウインチで巻き取った。すると、直立していた木製の柄が弓のようにしなっていき、籠は大きな糸巻きに着くほどに下がってきた。この上に樽爆弾が乗せられると、ロクたちは松明と刀を持って合図を待った。
 敵船は白鷹丸の左舷前方からこちらに向かって近付いて来る。その距離はあと二町(ちょう)、あと一町と次第に縮まってきた。敵の船上でも、五十人ほどの様々な服装をした異国人が、こちらに斬り込もうと抜刀して待機しているのが見える。距離があと半町ほどになったとき、喜助が投石器周辺の者に向かって大声で号令を発した。
「爆弾放てーっ!」
 樽爆弾の導火線に火が付けられると同時に、ウインチの糸巻きと籠を結んでいた綱が勢い良く刀で切断された。すると、それまで弓なりになっていた柄が、もの凄い勢いで元に戻り、横に渡されている木に当たって大きな音を立てた。それと同時に籠の中の爆弾は、紺碧の空に飛んで行った。
 間もなく敵船の上から、もの凄い炸裂音が周囲の空気を振るわせ、濃厚な硝煙(しょうえん)がそのあたり一面を覆った。
 当時の大砲の砲弾は、今のように火薬が詰まっているのではなく、ただの鉄球だった。そのため、木造の船体を破壊するのにはかなり有効だったが、直撃でもしない限り複数の人間を殺傷する能力は低かった。ところが、喜助たちが考案した樽爆弾の中には、火薬と共に無数の小さな鉄球が仕込まれている。そのためこの爆弾の威力は、当時武器の先進技術を持っていたヨーロッパ人をも震撼させるだけのものはあった。
「敵の船を捕えよ!」
 喜助がこの指令を出すと、先端に鋭い鉄の鈎(かぎ)が付いた太い綱が敵船に投げ込まれて素早く引っ張られた。それはすぐに敵船の船べりに引っ掛かり、白高丸甲板に据え付けられている巨大なウインチによって、じりじりと手繰り寄せられていった。普段このウインチは、荷物の積み下ろしのためのクレーンに使われているのだが、いざ戦闘になるとこのような使われ方をするのだ。
 やがて、敵船の船体が白鷹丸の船体に擦れると、鈍い衝撃音と共に二艘の船は大きく揺れたが、それに怯むことなく喜助が立ち上がって抜刀し、後ろに向かって叫んだ。
「ロクと兵隊はわしに続けーっ!」
 喜助とロクに続いて兵隊たちも全員立ち上がり、抜刀したり槍や長刀(なぎなた)を構えたりして鬨(とき)の声を上げると、船べりを乗り越えて敵船上に斬り込んで行った。間もなく、敵船と白鷹丸は複数の綱によってしっかりと固定された。
 まず、切り込んだ兵隊たちの鼻を突いたのが、強烈な硝煙と血の臭いであった。そして彼らは地獄のような凄まじい光景を目にすることとなった。手足が千切れたり胴体や顔の一部が吹き飛んだりした者が、夥しい血を吹きながらあちこちでバタバタとのた打ち回っている。軽傷や無傷の者は、みな恐怖に顔を引き攣(つ)らせながらも辛うじて応戦はしたが、既に戦意を喪失しているため、こちらの兵隊らによって次々と斬り殺されていった。
 あっという間に、上の甲板にいた五十人余りの息の根を止めると、目を血走らせて荒い息をしながら喜助が叫んだ。
「よーし! 次は下の甲板じゃー! ロクは右舷の漕ぎ手と共に船首の出入口を固めるんじゃ。左舷の漕ぎ手はわしに続け。船尾の出入り口を固めて一気に討(う)ち入(い)る。船漕いでおったもんがまだようけおるはずじゃけんのぅ、ぬかるなや!」
 こうして二手に分かれた彼らは、それぞれ勢い良く船内に突入しようとした。そのとき、その二つの入り口からほとんど同時に、棒切れの先に結び付けられた白い布切れが、そーっと出てきて力なく振られた。それを見た喜助が眉をしかめて言った。
「何じゃこりゃ?」
 船内では誰かが外国語で何かを言っているのが聞こえるが、喜助にもロクにもわからない。喜助は横にいた自分の孫にあたる若い兵隊に向かって尋ねた。
「わし、南蛮の言葉はさっぱりわからん。信助(しんすけ)。お前確かポルトガル語習うとったじゃろ。何言うとるんか聞いてくれんかのぅ。」
 信助はその外国語に一瞬聞き耳を立てたが、即座に答えた。
「こりゃぁポルトガル語違うぞ。さっぱりわからんわ。」
 別の若い兵隊が言った。
「イスパーニャちゅう国の言葉でなかね?」
 やはり彼らと同年代の別の兵隊が言った。
「そう言やぁ、ハヤテがイスパーニャ本(ぼん)見ちょったぞ。」
 喜助はその兵隊に命じた。
「ほんならお前、ハヤテ呼んできてくれ。」
 やがて、白鷹丸で女子供のいる船室を守っていたハヤテが連れてこられた。船べりに立ち上がって敵船上を見渡した彼は、その凄惨な光景を見るなり目を丸くして言った。
「おおーっ! こりゃまた見事に片付けたのぅ!」
 間もなく、医務室の警護にあたっていた勘蔵も、何かの役に立つだろうと、シャガから言われてやって来た。甲板に累々(るいるい)と転がっている死体を避(よ)けて歩きながら勘蔵は言った。
「元海賊のわしらに戦(いくさ)仕掛けよるとは、全く運の悪い海賊じゃ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)……。」
 そのハヤテと勘蔵に向かって喜助が叫んだ。
こらっ! まだ終わっとらんのじゃ!
船漕いどったもんが、船内にまだようけおるはずじゃけん、討ち入ろうとしたら、中からこれが出て来よって異国の言葉で何やら言いよるが、何のこっちゃわしらにはわからん。まずは何言うとるんか聞いちやって欲しいんじゃ。」
 その布切れを見た勘蔵は、即座に言った。
「ああ、こらエウロペ式の負けの合図じゃ。白い旗振るっちゅうことは、降参しますいうことじゃ。」
「わしら……手放す……武器。するな……殺す……わしら。……『武器放(ほ)るけん命は助けてくれや』言うちょるげぇじゃ。」
 船内から聞こえて来る言葉をハヤテがなんとか通訳すると、彼の元同僚の兵隊が感心して言った。
「ほう! ハヤテ、お前大したもんじゃのぅ!」
 ハヤテは、わざと真面目な顔で言った。
「アユタヤ出てから見る景色ずーっと、ポルトガルとエスパーニャの文字じゃけんのぅ、飯粒見とってさえ、そげん文字に見えてきて、飯食うた気ぃせんで困る。」
 その冗談に、近くにいた若者たちが思わずどっと笑ってしまったが、喜助は大声でそれを制した。
こらーっ! 戯言(ざれごと)なんぞ言うて笑うとる場合かーっ! これが謀(はかりごと)ならどげんするんじゃーっ!
 そして彼は、ハヤテに向かってこう命じた。
「ほんならハヤテ、このもんに、『まずは全員武器放りんさい。ほいで両手上げて一人ずつ出て来んさい、言う通りにせなんだら即刻叩っ切る。』言うてくれ。」
「よしゃ。」
 ハヤテはそう言うと、出入り口の中に向かって喜助の言葉を、ポルトガル訛りのスペイン語で伝えた。彼は同じことをロクたちが固めている船首の入り口の中にいる者にも伝えに行った。
 すると、間もなく言われた通りにして、まず船尾の出入り口で白旗を持っていたと見られる、大きな靴を履き金髪を長く伸ばした大柄な男が神妙な顔つきで現れた。白いシャツにはところどころに血が付いている。それに続いて出て来たのは、またヨーロッパ人男性だったが、その後にはアフリカ系や東洋系と見られる者も多数混じっていて、総勢三十人ほどになった。
 喜助は、近くにいた兵隊に向かって言った。
「お前ら、捕えたもんが武器身に付けとらんかどうか、服の上から触って確かめるんじゃ! 剃刀の刃んようなこまいもんでも立派な武器になるりよるけん、金玉の裏側までよう調べるんじゃ!」
 こうして二つの出入り口から次々と出て来た捕虜は、武器を放棄したことを確認され、この船の船首に集められたのだが、ここでちょっとした事故が起きた。
 一人のヨーロッパ人が船首へ移動する際、家畜に付く大きな虻がその左の太腿(ふともも)に止まった。これに噛まれるとかなり痛いのを知っているこの男は、反射的にこの虫を振り払おうとしたらしく、頭上に上げていた両手のうち左手を思わず下げてしまった。彼を連行していた若い兵隊は、これを見るが早いか自分の腰の刀をさっと抜いた。
 その直後、その左腕が血飛沫を上げてくるくるっと宙に舞い、甲板の上にどさっと落ちた。腕を切り落とされた男は、「ギャ-ッ!」と悲鳴を上げ、傷口を押さえて甲板にうずくまった。喜助は顔色一つ変えずにそれを指差し、捕虜たちに向かって怒鳴った。
わけはどうであれ、言われた通りにせんと、みなこげになるんじゃ!!!
 その言葉をハヤテが訳して捕虜たちに伝えると、彼らはみなその場に立ち竦(すく)んで震え上がった。
 喜助の指示によって、捕虜の腕を切った兵隊は懐からきれいな手拭(てぬぐい)を出し、この捕虜の傷口を縛った。また、別の兵隊が、白鷹丸の医務室にいる張先生を呼びに走った。
 喜助は何人かの兵隊たちに命じて、船内にもう人が残っていかを確認させると、船首に集めた大よそ六十人ほどの捕虜全員に対する尋問を早速開始することにした。
 武器を持った兵隊たちが見守る中、捕虜たちは上げていた手を自由にすることを許された。
「頭(かしら)は前へ出んかい。」
 喜助のその言葉をハヤテが通訳すると、捕虜の何人かがハヤテに向かって何か言った。
「『船長と……副船長、ほいで……水先案内人は、この戦(いくさ)で死によったけん、その次の位(くらい)んもんが前に出る』言うとる。」
 ハヤテが辞書を引きながらそのように訳しているあいだに、先ほど一番最初に出て来た大柄の金髪男が前へ進み出た。
「生国(しょうごく)と生業(なりわい)と名を述べよ。」
 ハヤテが訳した喜助のこの問いにその男は答えたが、ハヤテはその役職の意味がわからず、辞書にも載っていなかったので、スペイン語で同じことを尋ねたら、ちゃんとその言語で返事が返ってきた。しかし、それでもハヤテにはわからなかったのだが、ここで勘蔵が助け舟を出してくれた。
「『一等航海士』いう意味じゃろう。わしらでは、舵取りのような船操るもんがこれにあたる。」
「なるほど、新しい言葉じゃけん、この古い辞書にゃ載っとらんかったんじゃろう。『オランダ生まれの一等航海士で名はフローテヴーテンじゃ』言うとる。名は『大足』いう意味じゃ。
ほんで、このもん将軍の名前聞いとるぞ。」
 ハヤテが喜助にそう言うと、喜助はフローテヴーテンの大きな足を見て言った。
「なるほどのぅ……。」
 そして喜助は、そのフローテヴーテンに向かってこう言った。
「わしの名はキスケじゃ。……お主ら、みなそのオランダ言う国んもんなん?」
 ハヤテはまた、わざわざスペイン語に切り替えてその言葉を通訳した。
 相手もポルトガル語を話せるようなので、ハヤテとしてはそれで会話する方がずっと楽なはずだ。しかし、それまでスペイン語を本でしか知らなかったハヤテは、それを実際に耳で聞いてみると、同じアルファベットの発音でも、ポルトガル語のそれとは、かなり異なっているということがわかった。そのため、この状況がスペイン語の正しい発音を知るための絶好の機会であることを察知した彼は、わざわざ辞書を見る手間を掛けてまでしても、それで会話することにしたのである。
「『違う。様々な国のもんが……混ざっとる。』言うとるわ。」
 喜助は、またフローテヴーテンに向かって尋ねた。
「この船はガレオン船と見えるが、元からお主らの持ち船なん?」
 それをハヤテが訳して伝え、それに対する返事を彼がまた訳して喜助に伝えた。
「『違う。最初はポルトガル人の船長と副船長おったが、……反乱……起こして乗っ取った』言うとるぞ。」
 喜助は更に尋ねた。
「ほいで、今度はわしらの船に乗り換えようとしよったん?」
 ハヤテはフローテヴーテンの返答を喜助に伝えた。
「『そうじゃ。白鷹丸がポルトガルん船思うて近付いたら違うてたが、……仲間……の国ん船とは違うので襲うた』そうじゃ。」
 それを聞いた喜助は、哀れむような目でフローテヴーテンを見て言った。
「ほんなら、ただの海賊と何も変わらんじゃろうが。オランダはスペインに対して一揆(いっき)仕掛けとると聞いちょるけん、スペイン・ポルトガルを憎む気持ちはわからんでもないよ。けど、目先の欲に駆られて、どこの船か確かめもせんと襲うから、こげなことになるんじゃ。海の男なら、人様のもん奪うっちゅうような横着せんと、もっと真面目にいかないけん。真面目に! そうじゃろうが!
 先ほどの戦闘での返り血を浴びて全身どす黒く染まっている喜助は、つい数年前まで現役の海賊の頭だった。その彼が海賊に対して尤もらしくこのような説教を始めたので、若い兵隊たちはみな、下を向いてくすくすと笑ってしまった。
 ハヤテが喜助のこの言葉を伝えると、フローテヴーテンはそれに対する返答をハヤテに伝えた。
「『仰せの通りです。国に帰ったらみなそれぞれ真面目に働きますけん、どうかみな助けて下さい。』言うとるわ。」
 ハヤテのその言葉を聞いた喜助は、捕虜たちをじろっと睨んで言った。
「わしらに捕えられて生きて帰れたもん、今まで一人もおらんのじゃ。」
 ハヤテがこの言葉を訳するや否や、捕虜たちは悲鳴を上げて身を寄せ合った。中には船べりから下の海を覗く者もいた。
 喜助は話しを続けた。
「但しそれは、わしらの親兄弟を殺した奴らに対してじゃ。お主らのようなもんは前例ないけん、殺してもええし助けちゃってもええ。」
 ハヤテがそれを伝えると、フローテヴーテンは後ろを振り返って他の者に何かを尋ねた。彼らはその問いに対して一斉に「Si(スィ)!」と答えて甲板にひざまずくと、各自顔の前で両手を組み、祈るように喜助を見上げた。その中でフローテヴーテンが言った言葉をハヤテが訳した。
「『おお、大きな船長キスケ。命を助けてくれたらなんでもしますけん、どうかわしらを船長キスケの手下にして下さい。』言うとるぞ。」
 それを聞いた喜助は、不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「今からわしが言う通りにするんなら命だけは助けちゃろう。
まず、わしらの貴重な弾薬を大量に消費させた償いとして、この船と武器及び積荷は全部わしらが没収する。
ほいで、わしらの航海の邪魔しよった償いとして、お主らがこの船漕ぐんじゃ! 三度の飯(めし)と用便んときと夜寝るとき以外、風がなけりゃずっと漕ぎ続けじゃ!」
 ハヤテがこれを訳して捕虜に伝えると、捕虜たちは命だけでも保障されたことを互いに喜び合った。喜助は話しを続けた。
「わしの手下にして欲しいとのことじゃが、今のわしの手下はこの戦の勝敗を見ての通りじゃ。おぬしらが入り込む余地は全くない。戦に明け暮れとった時分にやぁ、わしらも兵隊の数増やすために来る者は拒まんかったが、今は受け入れることはできん。これより先に現れた最初の陸でお主らを解放するけん、そっから先は好きにするがええ。」
 ハヤテがこの言葉を訳すと、捕虜たちはしばらく何かを相談していたが、やがてフローテヴーテンがその結果を述べたので、ハヤテが辞書を引きながらそれを訳した。
「『戦は、あんたらが持っとった優れた……爆弾……によって負けたんじゃ。わしらにも……剣術……や……弓……の達人、……算術……の達人など色々揃うとる。……雇うて……損せん。』言うとるわ。」
 それを聞いた喜助は興味深げに言った。
「ほう、そりゃおもろい。ほんなら、その技を披露してもらいたいが、その前にここを何とかせんか。お主らの仲間の屍(しかばね)が曝(さら)されたままになっておる。お主らのやり方で、まずは葬(ほうむ)っちゃらんか。」
 喜助の言う通りガレオン船の上は、あちこちに死体が散乱し、甲板はどす黒い血でべっとりと覆われている。捕虜たちは、白鷹丸の兵隊たちが見守る中、まず甲板に転がっている仲間の死体を集め始めた。その最中、フローテヴーテンが喜助に向かって何かを言ったので、それをハヤテが訳した。
「『亡骸(なきがら)包む布と錘(おもり)に使う砲弾、ほんで聖書が要るけん、下に取りに行かせとくれ。』言うとるぞ。」
 それを聞いた喜助は、フローテヴーテンに向かって言った。
「わかった。」
 それをハヤテが訳して伝えると、喜助は仲間の兵隊たちに向かってこう言った。
「ほんなら、それ取りに行くもん見張るために何人か付いて行くんじゃ。」
 ハヤテは、いつも持ち歩いている布の袋の中から、旧約聖書と新約聖書のスペイン語訳を取り出すと、それをフローテヴーテンに手渡した。するとフローテヴーテンは急に親しげな顔でハヤテを見ると、スペイン語でこう言った。
「あんたは、キリスト教徒だったのか?」
 ハヤテも、それにスペイン語で答えた。
「わしゃキリスト教徒違うが、ここに何が書かれてあるのか知るためと、スペイン語学ぶために使うとる。」
 すると、フローテヴーテンはこう言った。
「これを読んでいれば、そのうち神を信じられるようになる。」
 やがて、死者の弔いは水葬(すいそう)によって厳(おごそ)かに執り行われた。
 まず、砲弾と共に布に包まれた一人一人の遺体が、静かに海に沈められていった。次に捕虜たちは両手を胸の前で組んで、その中の一人が読み上げる聖書の一節を頭(こうべ)を垂れて聞き入っていた。そのうち彼らは、共に何かを歌い始めた。
 その有り様を興味深げに見入っていたこちらの兵隊たちは、互いに囁き交わした。
「おい! 弔いの最中に歌うとうとるぞ!」
「わしらの弔いとは、大分違うとるのぅ。」
 それが済むと捕虜たちは、血だらけになっている甲板の清掃を開始した。紐の付いたバケツで海水を汲み、デッキブラシで甲板を擦って流すのだ。それを興味深げに見ていた喜助が、横に立っているロクに向かって言った。
「あの棒付いたタワシ、ええのぅ。」
 ロクもそれに応えた。
「おう、あれなら腰痛うなることもないわ。」
 彼らは日本の廊下を拭くように、雑巾で甲板を掃除していたからだ。喜助は言った。
「わしらのもあれに替えんか。」
 やがて清掃が終わると、先ほどの爆撃で損傷した部分を除けば、甲板の上はすっかりきれいになり、赤道直下の陽射しによって、たちまち乾いていった。喜助は兵隊たちに命じて捕虜たちをまた船首に集めさせて言った。
「休憩じゃ。わしも喉渇いた。『その場で楽にしてもええ』て、あの衆に言うてくれ。」
 ハヤテがそれを訳して捕虜たちに伝えた。
 続いて喜助は、周囲にいた数名の兵隊たちに命じた。
「お前ら白鷹丸へ行って、椅子二つと、ここにおるもんみなが飲めるだけの水、持ってきてくれや。」
 立っているだけで汗が出てきて、それは服に染み込む先から蒸発してゆく。こんな状態だと水分を絶えず補給していなければ、あっという間に脱水症状になってしまう。
 捕虜たちは甲板に腰を下ろし、こちらの兵隊たちも武器を手にしたまま腰を下ろした。
 やがて、数個の大きな水差しと、人数分の湯飲みがこちらの兵隊と捕虜に配られた。
 兵隊が持って来た折り畳み式の椅子を受け取った喜助とロクは、それぞれがそれを広げてそこに腰掛けた。湯飲みの水を受け取った喜助は、旨そうに飲んでから、捕虜に向かってこう言った。
「……お主らの技を見るために、お主らから選ばれたもんと、わしらから選ばれたもんが三回戦で勝負することにする。二回勝った方の勝ちじゃ。もしお主らが勝ったなら、お主らの希望通り全員をわしの手下にしちゃろう。もしわしらが勝ちゃぁ、さっきわしが言うた通りにしてもらう。
まずは算術の達人とやら、前へ出てこんか。」
 ハヤテがこれを訳すと、黒髪の髭面で中背の痩せた男が一人、立ち上がって前に出た。喜助はその男に向かって尋ねた。
「お主が算術の達人か?」
 ハヤテがそれを訳すと、その男は頷いて言った。それをハヤテが訳した。
「『自分ではそうは思わんが、周りんもんがみなそげに言うけん、そげに思うことにしとる。』じゃと。」
「ハハハ! おもろそうな奴じゃ。ほんなら早速その腕前を見せて貰おうか。」
「『書くもん貸しとくれ』言うとるぞ。」
 ハヤテがそう言うと、喜助が近くにいた若い兵隊に言った。
「おい九兵衛(きゅうべい)。お前、算盤(そろばん)得意じゃろう。それと一緒に紙と墨汁と筆も持ってきてくれ。」
 やがて九兵衛と呼ばれたその兵隊が、白鷹丸からそれらを持って来て、筆記用具を男に手渡すと、喜助は早速問題を言った。
「二十三掛けることの六十七は?」
 ハヤテがそれを訳すと、男は紙を船べりの上に置いて墨汁を付けた筆を使い、そこでそれを計算したが、すぐに答えを言った。大きな算盤片手の九兵衛が、ハヤテを通してそれを聞くなり喜助に言った。
「合うとる。」
「四百五十七足すことの三百八十九、掛けることの五十六、割る三は?」
 男はしばらく経ってから答えを言った。その答えをハヤテ経由で聞いた九兵衛が言った。
「これも合うとる。」
 喜助はまた出題した。
「最後の問いじゃ。五百六十五掛けることの八百三十五、足すことの七百八十五、割ることの二、引くことの九百九十は?」
 今度は先ほどの倍ほどの時間を掛けて男は答えを言ったが、それをハヤテ経由で聞いた九兵衛は、喜助にこう言った。
「これは間違うとる。二十三万五千百九十ではのうて、二十三万五千二百九十じゃ。」
 ハヤテがこれを男に伝えると、男はもう一度初めから計算をやり直して、「正解は二十三万五千二百九十で自分は間違っていた」と認めて首を項垂れた。喜助は言った。
「よし。ほんなら、今度は九兵衛があちらの出した問いに答えるんじゃ。」
 九兵衛は算盤を持ったままハヤテと共に捕虜の方へと向かった。
 捕虜側では早速フローテヴーテンが九兵衛に向かって出題した。かなり長い式だったが、通訳のハヤテからそれを聞き終えるのとほとんど同時に九兵衛が答えを言ってのけたので、捕虜たちは一斉にどよめいた。しかも、それと並行して計算していた先ほどの算術の達人が、それからかなり後になってそれが正解だと言ったので、そのどよめきは九兵衛に対する拍手に変わった。
 フローテヴーテンは目を丸くすると、スペイン語でハヤテに尋ねた。
「この木の板は何と言って、どこで手に入るのか?」
 ハヤテもスペイン語でそれに答えた。
「明国人は『スァンパン』言いよるし、日本では『ソロバン』言う。近頃の明国の商売人なら誰でも持っとるし、日本のヒラドやナガサキでも手に入る。」
 こちらに戻って来た九兵衛に向かって喜助は微笑むと、ねぎらいの言葉を掛けた。
「九兵衛! 良うやった!」
 九兵衛が言った。
「あー、難儀した。えらぁ長い式じゃったけん指がつりそうになったぞ。」
 これを聞いた兵隊たちはみなどっと笑ったが、喜助は再び真剣な表情になると、その場の全員に向かってこう言った。
勝敗は見ての通り、当方の勝ちとする。
 その言葉を聞いた途端、こちらの兵隊たちは甲板に座ったままで大歓声を上げた。一方、敗れた方の捕虜たちは、その通訳をハヤテから聞くと、肩を落としている先ほどの「算術の達人」を慰めているようだった。その中のフローテヴーテンが、ハヤテに向かって不服そうに何か言ったので、それをハヤテが訳した。
「わしらが算盤使うたんは、……不公平……じゃ、言うとるぞ。」
 それを聞いた喜助が、それに反論した。
「いや、不公平ではないぞ。ほんなら、『お主らの国では戦に武器使わんのか』と聞いとくれ。」
 ハヤテはフローテヴーテンにそれを尋ね、それに対する返答を喜助に伝えた。
「『使う』言うとる。」
「ほんなら、不公平じゃなかろうが。あんたらは紙と筆いう『武器』使うて、わしらは算盤いう『武器』使うた。より優れた武器使える方が戦にも勝てる。それで負けたのに、その負け素直に認めんちゅうんなら、もう一度あんたらと戦しよってもええんよ。」
 喜助はそう言うと、フローテヴーテンの目を見てニヤッと笑った。その言葉をハヤテの訳で聞き、喜助の表情を見たフローテヴーテンは、途端に恐怖に顔を引きつらせて何か言った。それをハヤテが訳した。
「『わかりました。今のは公平な勝負です。』言いよったわ。」
 この遣り取りを聞いていた若い兵隊たちは、思わず声を上げて笑ってしまった。
 喜助は再び真剣な表情に戻って言った。
「次は弓の試合じゃ。」
 ハヤテがこの言葉を訳すと、捕虜の中から射手(いて)とおぼしき、のっぽの金髪男が立ち上がって前に進み出た。すると、喜助は近くにいた兵隊から槍を一本借りて、それを船尾の方に向かって高々と投げ上げた。それは大きく弧を描いて落下し、二十ほど離れた甲板にほぼ垂直に突き刺さった。喜助はそれを指差して言った。
「捕虜側とわしら側が交互に射て、矢をあの槍に当てた方が勝ちじゃ。どちらも当たらんとき、またはどちらも当たったときは、勝敗が付くまでやり直す。弓矢は各自好きなもん選んだらええ。」
 ハヤテがこれを訳すと、先ほど前に出た男は了解したように黙って頷いた。喜助は、近くにいた数名の兵隊に向かって言った。
「おいお前ら、この射手のもんとこの船の武器庫行って、このもんが選んだ弓矢持って来るんじゃ。」
 その兵隊たちと捕虜側の射手は、船内に下りて行った。
 喜助は、やはり近くにいた別の兵隊に向かって言った。
「おいジン、お前確か弓は得意じゃったのぅ。自分の弓と矢、船から持って来るんじゃ。」
 ジンと呼ばれたその若い兵隊も、自分の弓矢を取りに白鷹丸の武器庫へと赴いた。
 しばらくすると、双方の射手が弓矢を携えてこの船の甲板に現れ、まず捕虜の射手が位置に着いた。風はほとんどなく、白鷹丸に固定されたこの船は、ほんの僅(わず)かにゆっくりと横揺れしているだけだ。潮の流れの影響で、戦闘開始時点に比べると船は向きを少し変えていた。そのため、遠いマレー半島の上に傾いている太陽は今、射手の右後ろにある。
 金髪の射手は、その青い目をまず的(まと)となっている槍の柄の一点に集中させた。次に彼は、背負っていた靫(うつぼ)から矢を一本引き抜くと、その先端に目を移して弓に番(つが)えた。現代の日本では「洋弓」と呼ばれている、Mの字を平たくしたような形の弓だ。彼はそれをぐっと引き絞りながら、再び的の一点に目を集中させると動きを止めた。
 間もなく弦(つる)の鳴る音と共に弓から放たれた矢は、的へ向かって僅かな弧を描きながら流れるように飛んで行った。
 その直後、甲板上の誰もが、カンカラカラカーンという乾いた音を耳にした。矢はなんと槍の柄の中ほどに見事に命中し、そこから上の部分を縦に割ったので、その破片が甲板に落ちて転がったのだ。
 並んで椅子に座っている喜助とロクは、思わず目を丸くして互いに顔を見合わせた。
 そして、戦の勝者敗者の区別なく誰もが立ち上がると、この射手に向かって大喝采(だいかっさい)を送った。
 的になっている槍の柄が破損したので、兵隊の一人が同じ場所に別の槍を立て替えに行った。
 次はジンの出番だ。日本古来の長い弓を持った彼は位置に着くと、背負っている靫から矢を一本引き抜いて弓に番え、それをゆっくりと引き絞って的に神経を集中させた。間もなく弦の鳴る音と共に矢が放たれた。的目掛けて飛んで行った矢は惜しくも外れて甲板に落ち、そのまま滑って船尾の船べりに当たって止まった。それを見た兵隊たちのあいだに落胆の声が上がった。
 喜助は、この場の全員に向かって言った。
この勝負、捕虜側の勝ちとする!
 ハヤテの通訳でこの言葉を聞いた捕虜たちは、再び全員が立ち上がると、歓声を上げながら飛び跳ねてこれを喜んだ。
 椅子に腰掛けた喜助は、この勝者に向かって尋ねた。
「大した腕前じゃ。お主、名は何と言う。」
 兵隊に弓矢を預けたその射手は、そのハヤテの訳を聞くと、喜助の方を向いて自分の名を名乗ったので、ハヤテがまたそれを訳した。
「『わしの名はカールスじゃ。』言うとる。」
 そしてハヤテは、その意味を調べるために辞書をめくりながらこう言った。
「……カールス、カールスと……うーん、辞引には書いちょらんのぅ。」
 ハヤテは、カールスに向かってスペイン語で尋ねた。
「カールスとは、どういう意味なん?」
 カールスは、それにスペイン語で答えたので、それをハヤテが訳した。
「オランダ語で蝋燭(ろうそく)のことだそうじゃ。」
 白いシャツを着てこげ茶色のズボンを履いていたカールスは、両足を揃えて直立すると、ピンと伸ばした両腕を体にぴたっと付けて言った。
「Kaars!」
 なるほど、細長い頭を覆っている長めの金髪が炎にそっくりだし、肩幅が広くて足の先にいくに従がって細くなっているその体型は、まさに蝋燭本体そのものだった。これには喜助をはじめ、若い兵隊たちもみな手を打って喜んだ。喜助はやや興奮して言った。
「ハハハハ! 弓も達者だが、なかなかおもろい奴じゃ! おい、信助! このもんに褒美を取らす。わしの船室行って、壁の掛け軸(かけじく)取って来てくれんか!」
「よっしゃ!」
 喜助の孫の信助はそう言って白鷹丸に向かった。喜助が敵に対してこのようなことをするのを見るのは誰もが初めてだったので、兵隊たちはみな互いに顔を見合わせていた。
 しばらくして信助は、手に一本の巻物を持って戻って来た。喜助はそれを受け取ると、カールスに向かってこう言った。
「こりゃぁ、日本の絵描きが描きよった絵で、わしのお気に入りじゃが、あんたにくれちゃるわ。」
 ハヤテがそれを訳すと、喜助はその巻物をカールスに手渡した。カールスは、うやうやしく両手でそれを受け取ると、早速目の前に広げてみた。贈り物をその場で開けて見るのは、西洋では当たり前の習慣だし、喜助たちにしても、今の日本で行われているような形式的な作法には、あまりこだわってはいなかった。
 その三四方の掛け軸には、金箔と渋い色を使って水辺に戯れるオシドリのつがいが見事に描かれていた。喜助が海賊時代に、さる大名の船から戦利品として奪ったものだが、このようなものがもし現存していれば、恐らく国宝か重要文化財に指定されるのだろう。そのような品を褒美に与えるのだから、彼はよほどカールスのことが気に入ったのに違いない。
 その絵を見て喜んだカールスは、それを自分たちの仲間にも見えるようにして頭上に掲げた。すると、捕虜たちの誰もが立ったまま、彼に向かって拍手喝采を送った。
 特技があったり個性的な者は、このようにして海の男たちのあいだで名が通り、賞賛されるようになっていく。
 喜助は再び真剣な表情になると、その捕虜たちに向かってこう言った。
「さて、次は剣術の技を見せてもらおうか。お主らとわしらから一人ずつ選び、真剣で勝負するんじゃ。」
 これをハヤテが訳して捕虜側に伝えると、彼らは輪になってしばらく相談していたが、やがてその中から、栗色の髪で髭面の大男が前に進み出た。それを見た喜助は兵隊たちに向かって言った。
「次は命懸けの勝負になる。しかも相手は大男じゃ。それを承知で出たいもんは立ちんさい。」
 すると、何と兵隊の全員が先を争って立ち上がったではないか。それを見た喜助は、呆れたようでもあり嬉しそうでもある苦笑いをしながら独り言を言った。
どいつもこいつも、命知らずじゃのぅ……
 そして彼は、その兵隊たちに向かってこう言った。
「ほんならまず何組かに分かれ、くじ引いて決めるんじゃ。最後にその勝ったもん同士がくじ引いて一人選んだらええわ。残りは捕虜を見張るんじゃ。」
 兵隊たちはみな、喜助に言われた通りにして試合の選手を決めていった。
 相手方の髭面の大男が何人かの兵隊に付き添われて船内に下りて行き、先ほど船内で捨てて来た自分の武器を兵隊の一人に持たせて帰って来た。その武器はサーベルといって、当時ではまだ新しい型の長剣だ。
 兵隊たちの方は、くじの勝ち抜きの結果、石工(いしく)の倅(せがれ)でゲンジという名の若い兵隊が選ばれた。それを見たロクは、思わず自分の額をぴしゃりと叩くと、さも残念そうに言った。
「あいやー! 相手が大男なのに、よりにもよって奴が選ばれるとは!」
 捕虜になった異国人に比べて小柄なこちらの兵隊たちの中でも、ゲンジは特に背が低かったからだ。その身長の差は二尺近くもあった。しかも彼は兵隊の中で最年少だ。
 彼は幼い頃からクワガタムシを捕まえてよく遊んでいた。それなら他の子もみな同じなのだが、彼の顔は横幅が広く、二つの目のあいだも幾分か離れているので、丁度クワガタムシの顔を上から見たような感じの顔立ちだった。そのためこのようなあだ名が付き、十七歳になった今でも、それが呼び名になっていたのだった。ゲンジとは、彼らの言葉でクワガタムシのことだ。
 ロクは、横に座っている喜助に向かって小声でこう言った。
「志願ではのうて、今まで通りわしらで指名してやりゃぁええかったのぅ。」
 それに対して喜助は、落ち着いた口調でこう言った。
「奴も男じゃ。己(おのれ)が望んだことじゃけん、どげんなっても悔いはなかろう。それに、あれでなかなか知恵も力もある奴じゃ。そげに悲観することもあるまい。」
 ゲンジはさすがに自分の腰の脇差は外し、白鷹丸の武器庫から持って来た立派な太刀を身に着けた。そして、髪の乱れを直して額の鉢巻を締め直した。それを見届けた喜助は、自分の懐(ふところ)から手拭を取り出して、ハヤテにそれを手渡しながら言った。
「ハヤテ、お前両方の言葉わかるけん、審判してくれ。」
「よっしゃ。」
 ハヤテがそれを引き受けると、喜助はみなに向かって言った。
「審判がこの布を振りよったら試合の始まりじゃ。相手を降参させるか、甲板に倒すかした方が勝ちとする。もう一度審判がこの布を振りゃぁ試合はそれまでじゃ。」
 ハヤテがこれを訳して捕虜たちに伝えているあいだ、仲間たちはゲンジに向かって口々に助言していた。
「相手は図体大きいけん、小回りが効かん。その隙を狙うんじゃ。」
「体大きいもんは、動くと早うに疲れる。とことん疲れさせて一気に攻めるんじゃ。」
「ゲンジ! 負けるなよ!」
「勝っても負けても、必ず戻って来いよ!」
 やがて、マレー半島の上の真っ赤な夕陽に染まった両者が位置に着いた。そのあいだに立っているハヤテが、まず兵隊たちの方に向かって大声で言った。
「ゲンジの相手は、生国ホーランズ(オランダ)、名はヴィレムじゃ!」
 次に彼は、捕虜たちに向かってスペイン語で言った。
「ヴィレムの相手は、生国ハポン(日本)、名はゲンジ!」
 紹介が済むとゲンジは、剣術の試合でいつもしているようにして、相手に対して一礼した。するとヴィレムは、ゲンジに向かって右手を出すと、やや大袈裟な西洋式の一礼をした。まだ若く背の低いゲンジのことを、どうやら小馬鹿にしているようだった。
 二人の選手に向かって「用意」という意味のことを、ハヤテが日本語とスペイン語で言った。ヴィレムは腰のサーベルを右手で抜き、それをゲンジの方に向けながら体を横にすると、左手をその反対側の頭の後ろに立ててバランスを取った。一方ゲンジの方は、腰の太刀を右手で抜いてその柄を両手で絞るようにして握ると、その切っ先をヴィレムの方に向け、右足を一歩踏み出して構えた。
 両者の仲間たちは、みな立ったままで互いに大声援を送った。
 間もなく、ハヤテの持った手拭がサッと振られて、真剣試合が開始された。
 両選手は互いにじりじりと距離を詰めながら、しばらく相手の出方を窺っていたが、互いの武器同士が触れ合うチャリンという音が二三回したかと思うと、ヴィレムが大きな掛け声と共にサッと突いてきた。すると、ゲンジの左袖の一部が、切り取られて宙に舞った。これを見た捕虜たちは大歓声を上げ、ヴィレムは得意げに「どうだ?」という顔で喜助を見た。
 一方兵隊たちも、ゲンジを励ます声援を送った。
「小手先の技でびびらそうとしちょるけん、その手に乗っちゃいけんぞ!」
「さんざん振り回させて、とことん疲れさせてやれ!」
 先ほどの快挙で味をしめたヴィレムは、調子に乗って今度はゲンジの右袖を切り取ろうとしているらしく、次々とそこを目掛けて深く突いてきた。しかし先ほどの相手の一撃でその武器の特性を把握し、相手の次の魂胆(こんたん)も見抜いてしまったゲンジは、もう同じような目には遭わなかった。
 ヴィレムは自分の思い通りに事が運ばないので、次第にイライラしてきたらしく、その眉間には深い縦皺が寄ってきた。やがて彼は袖を切り取ることを諦めたらしく、浅くこまめに突くようになったので、両者の武器が触れ合うチャリンチャリンという音が、船上に絶え間なく響くようになった。
 ゲンジはなぜか一切攻めを行わず、持ち前の身軽さを駆使して守りに徹するのみだった。あるときは後退し、あるときは横に飛び、彼は甲板を徐々に船尾の方へと移動して行った。絶え間なく細かい攻撃を繰り返しながらそれを負い回すヴィレムの巨体からは汗が滝のように流れ、着ていた白いシャツはびしょびしょに濡れた。
 審判のハヤテを始め、試合を見守る喜助や兵隊、そして捕虜たちもみな船尾の方へと移動した。
 やがて、ヴィレムは肩で息をするようになり、動作がいくぶん鈍ってきた。ゲンジが優勢になるかと思いきや、ここで戦いに大きな変化が生じた。ゲンジはついに左舷の船べりに追い詰められてしまったのだ。彼の太腿(ふともも)の後ろには硬い木の感触があり、そのまた後ろには真っ青な海があった。
 ここで両者の仲間の声援は最高潮へと達した。マレー半島の上で輝く夕陽に目をしばたたかせながらも、ヴィレムは嬉しそうにニヤッとすると、また大きな掛け声と共に深々と突いてきた。ここでゲンジが串刺しになるかと思いきや、誰もが予期せぬことが起きた。
 ゲンジが、その背後にあった三尺足らずの船べりの上にサッと飛び上がり、そこから更に飛び上がったのだ。そして今までの沈黙を破り、大きな掛け声を発した。
ヤーーッ!
 それと同時にゲンジの太刀が、ヴィレムの頭上に向けて振り下ろされた。疲労していたヴィレムは深く突いたサーベルを急いで引くと、それでなんとか太刀を受けて一命を取りとめることができたが、そのサーベルはその箇所から先が、ぽきんと折れてしまったではないか。
 甲板に降り立ったゲンジは、すかさず相手の喉元に太刀の切っ先を突き付けた。その途端、ヴィレムは何か叫ぶと両手を高く振り上げた。ハヤテがすぐさま手拭を振って大声で叫んだ。
『降参じゃ』と!
勝負あった! ゲンジの勝ち!

 それを聞いた兵隊たちは、みな手を打ち鳴らし、槍や長刀の柄で甲板をドンドンと叩いて大歓声を上げた。一方、負けたヴィレムは、悔しそうに顔を歪めると、手に持っていたサーベルの柄を思いっきり甲板に叩き付けた。それはカーンという音を立てて跳ね返り、船べりを飛び越えると、金色に光りながら青い海へと落ちていった。
 敗者は首を項垂れて、仲間の元へと帰って行った。
 フローテヴーテンが、ハヤテに向かってスペイン語で尋ねた。
「勝者の名の『ゲンジ』とは何であるか?」
 辞書を調べたハヤテは返答に困った。クワガタムシに該当するものが見付からなかったからだ。辞書を一旦甲板の上に置いた彼は、頭の上に両手で二本の角を作ると、やはりスペイン語でこう言った。
「このような虫のことである。」
 するとフローテヴーテンは、ちょっと厭な顔をしてからこう言った。
「それは悪魔の虫だ。」
 そして彼はまた尋ねた。
「ゲンジが持っていた硬い刀は特別製か?」
 ハヤテが答えた。
「違う。長さは長いが、つくりはわしらが普段から身に付けとるのと変わらん。先ほどあんたらの剣が折れて甲板に落ったときの音を聞いてわかったが、あんたらの剣とは、そもそもつくりが違うようだ。」
 フローテヴーテンは興味深げに尋ねた。
「これも中国にあるのか?」
「いや、これは中国にはないだろう。」
「どこで手に入るのか?」
「Japon(ハポン)。」
 ハヤテがそう答えると、フローテヴーテンは北の水平線を見詰めて、思わず自分の母語で呟(つぶや)いた。
……Japan(ヤパン)……
 太刀を収めて戻って来たゲンジに向かって、喜助が微笑んで言った。
「ゲンジ! 良うやった! 天晴(あっぱ)れじゃ!!」
 彼の親友の一人が駆け寄って来て言った。
「お前が追い詰められたとき、わしゃ、もう終わりか思うたぞ!」
 ゲンジは平然として言った。
「追い詰められたん違うわい。爆弾で吹っ飛んで船べり低うなっとるけん、遥々(はるばる)あこまで誘うたんじゃい。」
「いつの間に、そがん飛び技(わざ)身に着けよっとね?」
 仲間のその問いにゲンジは答えた。
「先の戦(いくさ)じゃ。」
「そう言やぁお前、あこの船べりに飛び乗っては海賊斬っとったのぅ。橋の欄干(らんかん)に飛び乗る牛若丸のようじゃたぞ。」
 誰かがそう言って褒めると、ゲンジはけろっとして言った。
「そげなええもんでもないぞ。背ぇ高いもん斬るための苦肉の策じゃけん。」
 これを聞いた仲間の兵隊たちは、みな大笑いした。
 戦闘そのものはあっという間に終わったが、戦後の処理はこのような競技を経たため、終わるのに時間が掛かった。しかし、ハヤテや若い兵隊たちにとって、これは異国の者と接するとても貴重な体験となった。
 算術と剣術の二試合で負けた捕虜たちは、約束通りまずこの船と積んである物品を喜助に引き渡し、翌朝からこの船の下の甲板でオールを漕ぐこととなった。

 ガレオン船を拿捕(だほ)した二日後の午前中には、大きな島が早くも前方に現れた。二艘の船がその島に接近すると、喜助たちはガレオン船に積んであった大型のボート三隻を海に浮かべ、そこに捕虜全員を乗せた。そして、数日分の水と食料と医薬品などを与えて彼らを解放した。
 こうしてシャガたちは、ガレオン船とその積荷を手に入れることができた。この船には、最新式の大砲と銃、長剣と弓矢などの武器や弾薬と共に、馬四頭、山羊二頭、豚三頭、猫一匹の動物が積まれていた。また、略奪したと思われる財宝も多数積まれていた。スペインの銀貨およそ一万七千枚、大量の中国陶磁器と絹糸、そしてアラビアのものと思われる金貨およそ百枚。また、日本の琵琶(びわ)によく似た楽器も一つ発見された。
 捕虜を解放した後、白鷹丸の甲板の日除けの下では会議が行なわれていた。昨日の戦闘と戦後の処理についての報告をロクから聞き終えたシャガは、喜助に向かって困ったように言った。
「もう、将軍ったら! これじゃ、あたしたちまた海賊に逆戻りじゃないの!」
 喜助は笑って言った。
「ハハハ! いや、そげなことない。奴らが海賊で、わしらはそれを討伐したんじゃ。お前、あのまま奴らに船を返して奴らが反撃してきたらどげんするんじゃ?」
「そう言われると、船は返さなくて良かったかも知れないけど……。」
 シャガがそう言うと、喜助はまた笑って言った。
「ハハハ! そうじゃろうが。これで良かったんじゃよ。」
 喜助は、海賊から押収した金貨一枚をシャガの手の平の上に乗せた。シャガは目を丸くして言った。
「へー! これが金貨なの! 生まれて初めて触るわ!」
 同じように金貨を手に乗せられたハヤテも嬉しそうに言った。
「小振りじゃが、ずっしりしとる! 金一匁(もんめ)は銀にすりゃぁ何匁になりよるんかのぅ?」
 それには勘蔵が答えた。
「その時と場所によって違うが、七匁から十五匁のあいだと見て良かろう。」
 金貨を見ていたハヤテの目が丸くなった。
「えっ!? ほんなら、この小振りの金貨一枚が、スペインの8レアレス銀貨十枚分にもなるっちゅうことなん?!」
「まあ、そうじゃな。たかが川の砂に混じっとるげなもんに、それほどの値(ね)ぇ付けるとは、人間不可解な生き物よのぅ。」
 勘蔵がそう言うと、甲板の一同はみな笑った。
 シャガは少し口調を改めて言った。
「さて将軍。今度の戦で戦った人や、船を操った人の報酬を考えてもらえませんか。あたしはずっと船室にいて見てなかったことだし。」
 シャガのその要請に応じ、喜助はしばらく考えてから自分の意見を述べ、その最後にこう付け加えた。
「……ほいで、今度初めてのことになるが、捕虜との遣り取りでハヤテのスペイン語がえらぁ重宝した。ハヤテには金貨一枚水増ししちやってもええかわからん。また、負けの合図に白旗使うこともわかったし、ハヤテの知らん言葉教えてくれた。勘蔵にも銀貨いかばかりか水増ししちやってもええ思うわ。」
 この喜助の意見に基づいて、今回の事件解決に対する報酬が各自に手渡されていった。もちろん、算術の勝負で勝った九兵衛には金貨一枚、真剣勝負に勝ったゲンジには何と金貨五枚が、それぞれ戦の基本報酬に加えて手渡された。食品を基準にした物価で換算すると、当時のスペインの8レアレス銀貨一枚は、平成の世の1~2万円になるということを思えば、この賞金の額の見当が大体付くことだろう。
 報酬と賞金の支給が済むと、シャガは没収した船について尋ねた。
「……どんな船なの?」
「ハハハ! まあ、見ての通りじゃ。」
 喜助は笑ってそう言うと、白鷹丸の後方約一のところで白波を蹴立て帆走している船を指差した。シャガをはじめとする一同の視線がそこに向けられた。それを操縦しているのは、こちらの船から先ほど乗り移った者たちだ。
 シャガは頷いて言った。
「なるほど、わかったわ。この船より少し小さいけど、とにかく速い船なのね。」
「おお! 良うわかったのぅ!」
 喜助が感心してそう言ったので、シャガは少し照れながら言った。
「こう見えても、あたしだって一応海の女だもん、船の形を見ればなんとなくわかるのよ。
そもそも、あの船は帆柱が一本折れてなくなってるのに、この船と同じ速さで進んでるもんね。てことは、あの船がまともに帆を張ったら、白鷹丸にはとても追い着けない速さになるってことでしょ?」
「その通り。かなり優秀な軍船じゃ。ほいで、こっからは見えんが、大砲の数も多い。船首に二門、船尾に二門、左舷と右舷に十二門ずつ、全部で二十八門も備えておる。ほいで船首のもの以外は、二段目の甲板の船体に開けられた窓から撃てるようになっとる。これなら雨んときでも難儀せずに済む。しかも、いずれもわしらの大砲より二回りも大きい。」
「それにしても、あの海賊たち可哀想だったわね。あたしたちを襲ったりしなければ、人の命も財宝もこんな立派な船も失うことはなかったのに……。」
 シャガがそう言うと、喜助はなぜか少し照れながら言った。
「そ、その通り。まあ、欲もほどほどにしておかんとな……。」
 ここでロクがニヤッとして言った。
「樽爆弾に普段なら油入れて敵を燃やすようにするところを、『油入れんでもええ』言うたとき、実はわし、ピーンときたんじゃ。将軍、あの船欲しがっとるなて。」
 喜助は頭を掻きながら言った。
「そうか、見抜かれとったか。」
「そのわりに、あの海賊らには、『人様のもん奪うっちゅうような横着せんと、もっと真面目にいかないけん。』なんぞ言うとったじゃろ。わし、笑うの堪えるのに難儀したぞ。」
 ロクがそう言うと、ハヤテはこう言った。
「若いもんは堪え切れんと笑うとったがな。」
 喜助が弱ったなという表情でまた頭を掻いたので、一同は大笑いした。
 シャガは、やや真剣な表情になって言った。
「……それはそうと、船の名前や船長など決めなきゃね。」
 ロクも真面目な顔になって言った。
「留守役のもんと相談せんでもええんか?」
 それに対して喜助はこう言った。
「船長は今は仮に決めておきゃぁええと思う。船の名は手に入れたわしらで決めても、留守役のもんは何も言わんじゃろう。」
 シャガはこう言った。
「そうね。仮の船長は将軍以外にいないと思いますが、いかがでしょうか?」
 シャガがみなを見渡して言うと、一同は手を叩いて歓声を上げた。
「賛成!」
「異議なし!」
 シャガは言った。
「船の名前の方は、みんなで考えておいて、バンテンに着いたらその中から選ぶってことでどう?」
 みなはまた口々に言った。
「おお、そりゃ名案じゃ。」
「賛成!」
 シャガは話しを次に進めた。
「あの船には、馬のほかにも獣を積んでたって聞いたけど、何のためなの?」
 シャガのこの問いにはハヤテが答えた。
「山羊と豚は食うため、猫は鼠捕るために積んどるげじゃ。」
 そばで遊ぶ子供たちの様子を見ながら、今の話しを聞いていたヤスが言った。
「ちゅうことは、海賊からそれ聞いたんか?」
「他に誰から聞くんじゃ。本と睨めっこしとるだけでないこと、これで良うわかったろうが。ハッハッハ!」
 ハヤテはそう言って笑いながら、戦の報酬とは別に通訳の報酬として先ほど自分が受け取った金貨一枚を指でつまんでヤスに見せびらかした。負けず嫌いのヤスが顔を真っ赤にして言った。
「よーし! ほんならわしゃぁオランダとやらの言葉でいっちゃるけん、バンテンに着いたら早速、本を仕入れんならんわ……。」
 ヤスはポルトガル語ができるので、ハヤテと同じようにして勉強し、オランダ人と実際に会話をすれば、たちどころにその言葉を身に着けられることだろう。近い将来アジアへの進出を始めることになるオランダの言葉を覚えるということは、出だしは冗談半分であれ、とても有意義なことであった。
 勘蔵が興味深げに身を乗り出して言った。
「ハヤテ、お前なかなかやるのぅ。いつの間に海賊と話ししたん? 」
 ハヤテは少し照れながら言った。
「あの衆が甲板の掃除しよるときじゃ。『本読んどるだけでは言葉覚えられん。』て塾で教えてくれたん、勘蔵先生あんたじゃろうが。」
 勘蔵は笑って言った。
「ハハハ! こりゃ一本取られたわい! ほいで、他に何話ししたん?」
 ハヤテがそれに答えた。
「いろいろ話ししたが、まずは国の名前のことじゃの。『オランダ』いうのはイスパーニャ語の言い方で、自分たちでは『ホーランズ』言うとるそうじゃ。丁度イスパーニャんもんは日本のこと『ハポン』言うが、わしらは『ニホン』とか『ニッポン』言うとるんと同じことじゃな。
次は天主教のことじゃ。あの衆は天主教とは同じ神さん信じとるが、宗派が違うそうじゃ。『自分らはプロテスタンツじゃ。』言うとったわ。宗派違うとるけん、天主教のイスパーニャ・ポルトガルとは余計仲悪いようじゃな。
中国の茶のことも聞いた。『エウローペで茶のこと知っとるもんは、まだほんの僅かだそうじゃが、茶は飲みだすと癖になりよるけん、この後儲かる商売になろう』言うとったわ。
胡椒や香料得るためにバンテンは都合ええけん、そのうちオランダの商人(あきんど)が銭(ぜに)出し合うて、そこに船遣(つかわ)すじゃろう言うとった。」
 勘蔵は真剣な表情になって言った。
「なるほど、そりゃぁバンテンで又成殿が言うておられたんと一致するのぅ。」
 ハヤテはそれに同意して話しを続けた。
「そうなんじゃ。ほいで、『イングラテラは、ホーランズの味方じゃ』言うとったな。『イングラテラ』はやっぱしイスパーニャ語の言い方で、オランダんもんは『イングランズ』言うて、そこに住んどるもんのことを『イングレス』言うてたわ。『そのイングランズは、ホーランズがイスパーニャから独立するのを手助けしてくれとる。』とも言うとった。ほいで、『イスパーニャ・ポルトガル船から積荷奪うてもええ』て、そこの女王さんから言われとるそうじゃ。
それと、『今は、イスパーニャの王さんがポルトガルの王さんも兼ねとる』とも言いよったのぅ。
こげなところかのぅ。」
 ロクも真剣な表情になって言った。
「なるほど、ほんならオランダとイングラテラ両者から攻められて、イスパーニャ・ポルトガルはさぞ難儀しとるじゃろうな。」
 それに対して勘蔵はこう言った。
「今までノエヴァ・エスパーニャで散々儲(もう)けよった報(むく)いじゃろう。」
 彼はここで、やや表情を緩めると、今度はシャガに向かってこう言った。
「ところで獣の話しに戻るが、先の戦勝祝いに山羊か豚のどちらか一頭潰して、今宵はみなで白鷹丸に集まって宴(うたげ)するっちゅうのはどうじゃ?」
 この提案に対して、その場の一同は大賛成した。
「いいぞ! 勘蔵!」
「さすが食道楽!」
 勘蔵は笑って言った。
「ハハ、こら! 『道楽』は余計じゃ!」
 シャガが思案しながら言った。
「……どっちがいいかしらねぇ?」
「豚の方が多いけん、豚から始めたらええぞ。」
「お前、いずれ全部食うてしまおう思うとるんじゃろ!」
「ハハハ! バレたか!」
「少しは町に持って帰らんかや!」
 みなが思い思いのことを言っていると、持ち前の大きな声で張先生が言った。
「山羊が良かよ。」
「そりゃまたなんで?」
 誰かがそう尋ねると、先生は答えた。
「豚は人糞食べるばってん重宝するとよ。中国でも田舎はみなそがんことしよっと。豚町に持ち帰って増やすこと良かよ。」
「その豚を人が食うんかのぅ?」
 別の誰かがそう問うと、先生はまた答えた。
「当然よ。但し生肉ば食べると豚の病気人に移るとよ。」
「もしかして、回教徒が豚を不浄のものとして食べないのはそのせい?」
 シャガのその問いには勘蔵が答えた。
「それは大いに有り得るな。けど、良う考えてみりゃぁ、わしら昔から人糞を肥やしにした畑の野菜食べて育っちょるけん、豚もそれと同じ思えば何ともないわ。生で食べさえしなけりゃ。」
 こうして豚は三頭ともとり合えず命拾いし、その夜は山羊一頭が料理されることとなった。猫は「ミーヤ」と名付けられ、ガレオン船に乗り込んでいる船員たちから可愛がられた。

 白鷹丸とガレオン船の二艘は、それから三日後の午後にバンテンに入港した。シャガたちがこの港を目にするのは、五ヶ月ぶりのことだ。
 入港の手続きを済ませて二艘を接岸させると、シャガとハヤテと勘蔵の三人は、アユタヤの日本人から買った鰹節や干し椎茸、昆布などの土産を携えて、同じ町内にある森山邸を訪問した。仕事を済ませて無事帰還したことを報告すると共に、この一家を白鷹丸に招待する日程を決めに行ったのだ。
 その宴(うたげ)は、二日後の昼ということに決まった。
 そしてその当日。
 青い空の真上には、熱帯の太陽が燦々(さんさん)と輝いているが、この季節のバンテンは乾季であり湿度は低いので、日陰に入ると時折り吹いて来るそよ風が気持ち良い。
 そんな港に現われた森山家の又成、和子、一成、信成、竹若丸、そして和子が手を引いている二歳くらいの女の子の六人を、前回森山家に招待された八人が白鷹丸の前の岸壁に並んで出迎えた。貝紫で染められた鉢巻を締めているシャガが一同を代表すると、森山家一行に微笑み掛けて言った。
「みな様、よくぞおいで下さいました。」
 一家を代表した又成も、それに微笑んで応えた。
「お招き頂き、おおきに有り難う存じます。」
 その又成を始めとする森山家の男たちに向かって、シャガは言った。
「さあ、みなさんどうぞ船に上がって下さい。」
 続いて彼女は、岸壁の上に置かれているクレーン用の板を指差すと、和子に言った。
「梯子(はしご)が急で危ないので、和子さんとお嬢ちゃんは、あの板に乗って下さい。あたしがお供しますから。」
 それには、周囲に高さ三尺余りの柵が巡らされている。竹若丸が和子の顔を見上げて言った。
「我(われ)も、あれに乗りたい。」
 和子が、やや申し訳なさそうに言った。
「シャガさん、竹若丸が乗りたいと申しておりますが、あと一人増えてもよろしいでしょうか?」
 シャガは微笑んで言った。
「もちろんです。さ、どうぞこちらへ。」
 シャガは、柵に付いている扉を開けて自分がまずその中に入って見せると、和子たちをそこに招き入れて言った。
「どうぞ、この柵につかまって下さい。」
 扉を閉めたシャガが船の上に合図を送ると、彼女たち四人を乗せた一間四方のその板は、甲板に据えられた木製のクレーンに吊られて、ゆっくりと持ち上がっていった。
 柵の上から顔を出し、眼下(がんか)に広がっていくバンテンの街の景色を見下ろしていた竹若丸は大喜びだった。
「これは見事な景色じゃのぅ! かか様!」
 この時代には当然のことながら現在のような高層ビルなどなかった。椰子の木よりも高いものといえば、大きなモスクの尖塔ぐらいのものなので、たとえ大都市であっても一般家屋の屋根より高く上がれば、かなり遠くまで見渡すことができるのだ。
 その板が白鷹丸の船べりよりも高くなると、今度は横に移動を始め、やがて甲板の上にそっと下ろされた。岸壁から梯子によって上がって来た者も、船べりを乗り越えて次々と甲板の上に降り立った。
 美人の元姫様が来るという噂が流れていたので、それを一目見ようと白鷹丸とガレオン船の乗組員のみながそこに集まっていた。
「うーん、確かに……。シャガも別嬪(べっぴん)じゃが、それとはまた違う美しさじゃのぅ。」
「……シャガが海辺の野に咲くシャガの花なら、和子さんは渓流のほとりに咲く白百合(しらゆり)か……。」
 男たちはみな口々に、思い思いのことを述べていた。
 森山家の一行は、甲板上の日除けの下に設けられた宴会場へと早速案内された。そこには、赤い毛氈(もうせん)とまではいかぬが、真新しい大きな帆布(ほぬの)が敷かれていた。当時は糸の漂白などしていないから、真新しい麻や木綿の布でも淡いクリーム色をしている。
 普段の彼らなら、甲板の上に椰子(やし)の葉で編んだ莚(むしろ)や茣蓙(ござ)を敷くだけで済ますのだが、武家の人々を迎えるに当たって失礼にならないよう配慮したのだ。
 その帆布の上には三十個足らずのお膳が一列にぐるっと四角く並べられており、その後ろにはそれぞれ茣蓙が敷かれている。まず船尾側の面に、向かって右からモズ、ロク、洋助を抱いたシャガ、ハヤテ、喜助、勘蔵、が並んで座った。その続きの面には、船尾側から又成、一成、信成、和子、竹若丸、女の子、トヨが並んだ。その向かいの面には、船尾側から張先生、前回森山家に行った商隊の三人の若者、ヤス、カヨ、耀泉が並んだ。その続きでシャガたちと向かい合う面には向かって左から、玄昌、アキ、セイ、麗鈴、ヒミカ、テルが並んで座った。
 又成は、まず後ろを通ってシャガの席まで行き、そこに片膝を立てて座ると、先ほどから抱えていた荷物を帆布の上に置いて包みをほどいた。それはやや小振りの瓶(かめ)だった。又成はシャガに向かって言った。
「中身は自家製の焼酎ですねん。みなさんのお口に合うやどうかは、わかりまへんけど、どうぞお受け取りください。」
 シャガは又成の方を向いて微笑むと、帆布に手を着き頭を下げてその礼を述べた。
「それは貴重な物を、どうもありがとうございます。」
 又成が自分の席に戻ると、まず又成から順に森山家が自己紹介を兼ねた挨拶を始めた。その最後が、一番年下の女の子だった。彼女は敷き物に手を着き、お辞儀をしながら言った。
「もりやま 妙(たえ) みっつでござります。おまねきいただき、ありがたくぞんじます。」
 この時代の日本の人の言う年齢は数え年だ。その愛らしい仕草に、船上の一同から思わず暖かい歓声が上がった。シャガも微笑んで言った。
「あら立派だわ、ちゃんとご挨拶できるのね。どうぞ楽にして座って下さいね。」
 続いて勘蔵がまず、喜助を森山家の者に紹介した。
「これは拙者の兄、喜助でござる。海賊をやめてからは、防衛軍の将軍を勤めております。まあ、見ての通りの男じゃ。兄い、森山父子も武人じゃけん、いろいろと話しが合うかわからんぞ。」
鉢巻  ところどころ白髪の混じった黒髪を背中に波打たせ、交差逆S字を鮮やかに染めた鉢巻をしている喜助は、森山家の者に一礼して言った。
「喜助と申します。『将軍』言うと何か大そうに聞こえますが、まあ、わしらの町を守る軍の頭(かしら)ですけん、どうぞよろしゅう。」
 このようにしてシャガの子供たち、妹夫婦であるトヨとヤスとその子供たちに続いて張先生の家族も紹介された。
 一通り挨拶が済むと、最後にシャガが短い挨拶をした。
「森山家のみな様、今日はよくおいで下さいました。私たちはあれから呂宋(ルソン)、アユタヤなどに寄り、先日無事この港に入ることができました。そのあいだ色々なことがありましたが、この前お宅で教わったことがとても役に立ちました。そのような話しもこれより披露していきたいと思います。
まずは拙(つたない)い手料理と飲み物ですが、どうぞ召し上がって下さい。」
 それに対してみなが拍手をすると宴会が始まった。
 料理は何種類もあった。海賊から没収したもう一頭の山羊の肉も、串焼きや炒め物となって皿などに盛り付けられている。甲板にいた大勢の者にも、お膳ではなかったが、客に振舞われるのと同じ料理が出され、みな思い思いの場所でこの宴会を楽しむこととなった。
 勘蔵は早速又成に向かって尋ねた。
「こちらでは、あれから何か変わったことありませんでしたかのぅ?」
 又成は、グラスの焼酎を一口飲むとそれに答えた。
「……おぅ、マレー半島のモスリムの王さんの船がポルトガル船に襲われて、積荷奪われたっちゅう事件がありましたな。」
 それを聞いた勘蔵は、隣りの席の喜助と思わず顔を見合わせてしまった。それでも勘蔵は、極力顔色を変えないようにして又成に尋ねた。
「ほう、して、その積荷は何じゃったんかいのぅ?」
「アユタヤ帰りの船で、明国の絹とか壷とか積んどったそうや。」
 又成のその言葉を聞いたシャガ、ハヤテ、ロク、張先生、その他大勢というより、そこにいた森山家以外の者全てが、シーンと静まり返ってしまった。
 その状況を見た又成は、きょとんとしてこう言った。
「あ、あれ? みなさんどないしはりましてん? わし、何や悪いこと言うてんやろか?」
 それに対して勘蔵は、やや重い口調で又成に尋ねた。
「又成殿ご一家は、確かモスリムにお仕えする身と伺いましたが、そのマレーのモスリムとは関係ありますんか?」
 又成は、即座に手を横に振って答えた。
「いえいえ、わしらはバンテン王国の傭兵です。こちらの王さんと、あちらの王さん同士は仲よろしいようやけど、それ、わしらには直接関係あらしまへん。」
 それを聞いた一同はほっと胸を撫で下ろした。その雰囲気を察した又成は、今度はニヤッとして言った。
「あんたたち、もしかして、そのポルトガル船襲うたんちゃいまっしゃろうな。」
 今度は勘蔵が手を横に振り、口を尖らせて言った。
「襲うたなどとは人聞きの悪い。あちらが先に喧嘩仕掛けてきよったけん、わしらとしちゃぁ自分らの身ぃ守るためにその喧嘩買うた。ほんならわしらの方が勝ってしもうた。ほいで、喧嘩仕掛けよった罰として船とその積荷全部没収したまでのこっちゃ。」
 そして彼は自分の背後を指差した。
 座ったままでそちらを向き、ちょっと背伸びをした又成は、白鷹丸のすぐ後ろにその船が接岸しているのを目にすると、思わずその目を丸くした。
 喜助が自分の懐から巾着を取り出すと、その中から金貨を一枚抓み出して又成に手渡しながらこう言った。
「これが、あの船の積荷に混じっとりました。」
 それを手に取った又成は、そこに打たれているアラビア文字を、難しい顔をして読んでからこう言った。
「……うーん、こりゃ正(まさ)しくあちらさんの先代の王さんの名や!」
 金貨を喜助に返した又成は、今度は腹を抱えて大笑いして言った。
「ハハハハ! いやー、あんたらの度胸には負けましたわ! ガレオン船分捕るのはええけど、分捕ったその船乗り回して商売するとは! 幸いこの港にはおらへんけど、もしポルトガルのもんに見付かってみい、必ずあんたらに仕返ししよりまっせ。」
 これを聞いた喜助が頷いて言った。
「なるほど、そう言われるとそれは尤もなことじゃ。」
 又成は真剣な顔になって言った。
「そうですよ。オランダとイングラテラ両国から略奪されとるイスパーニャ・ポルトガル両国は、近頃えらい気ぃ立っておる。悪いこと言わへん。目ぇ付けられる前に、あの船売り払ってもうた方がよろしいで。幸いこのバンテンは近頃ポルトガルと戦して勝っちよったところや。ここでなら買い手は付きまっしゃろう。」
「イスパーニャ人もポルトガル人も、いずれもクリストゥス(キリスト)の教えに従ごうとるんでしょう?」
 突然又成にそう尋ねたのはハヤテだった。又成は怪訝そうに言った。
「はぁ、そのようですけど。それが何か……?」
「ほんなら、仕返しすることは経典(きょうてん)の教えにそむくことになりますがのぅ。」
 ハヤテがそう言ったので、又成は更に訝しげに尋ねた。
「なんでです?」
 ハヤテは、そばに置いていた袋の中から新約聖書のスペイン語訳を取り出して言った。
「この経典には、『右の頬打たれたら左の頬出しんさい。』とクリストゥスが言いんさったて書いてある。やられてもやり返すな言うことじゃ。」
 又成はグラスの焼酎を飲むと笑って言った。
「ハハハ! わしはその経典の中身のことは知らへんけど、イスパーニャ人もポルトガル人も、やられたらきっちり仕返しよりしまっせ。」
 和子が溜息混じりに言った。
「……近頃この界隈のありさま見ておりますと、日本の戦乱と何も変わらぬように見受けられまする。」
 勘蔵が言った。
「何教徒であれ、することはみな同じいうことですな。」
「左様でござります。寺院の中におるときと、戦(いくさ)をしておるときとで、別人に変身するようでござります。」
 和子が苦笑いしてそう言うと、喜助も苦笑いして言った。
「そりゃ都合ええようにできとりますのぅ。」
 ロクが少し寂しそうに言った。
「一見仏教徒に見える日本人もおるが、お釈迦(しゃか)さんの言う極楽(ごくらく)に行けるもん、その中で何人おるんやら……。」
 喜助は杯を干すと、ニヤッとして言った。
「……わしゃ極楽には行けんが、地獄にも落ちんな。」
 勘蔵が訝しげに尋ねた。
「なしてじゃ?」
 喜助は答えた。
「わしゃ仏教徒でもクリストゥス教徒でもモスリムでもない。極楽にも地獄にも縁ないけん、どっちにも行かんでええんじゃ。」
そげん言うて、この世で好き放題しよるもんが、死んでも成仏できずに化けて出よるんじゃ!
 勘蔵が大きな声でそう言うと、その場の一同はみな大笑いした。
 シャガは、やや真剣な表情になって言った。
「……冗談はさておいて、これはどうも又成さんのおっしゃる通り、あのガレオン船は手放してしまった方が良さそうね。」
 喜助がちょっと残念そうに言った。
「優れた軍船じゃけん、惜しいが仕方あるまい。これが元でイスパーニャ・ポルトガルと商いできんようになっても困るしのぅ。」
 又成が言った。
「あんたらさえ良けりゃ、わし、地元のもんと交渉したってもよろしいで。」
 その又成に向かって、シャガが嬉しそうに言った。
「それなら心強いです。それでは宴の途中で失礼しますが、ここで少しお時間を頂きます。」
 そして彼女は、隣の席のハヤテに向かって言った。
「あの船を手放すかどうするかを採決してくれる?」
 ハヤテはそれに応じた。
「よしゃ。」
 そして席から立ち上がると、甲板の上にいる仲間たちに向かって言った。
「おーい! ちぃと聞いてくれんかのぅ!」
 その言葉によって、それまで賑やかだった会場が静かになった。ハヤテは、ガレオン船を指差して言った。
「このあたりのことに詳しい又成さんの話しによりゃぁ、あの船乗り回しちょると、ポルトガルから目ぇ付けられて商いの妨げになるそうじゃけん、売りに出そうと思うが、みなはどう思うや? 意見あったら言うとくれ。」
 それに対して、会場からは次々に声が上がった。
「そんなら、そうしとくれ!」
「それでいいよ!」
「そいで良か!」
 その結果そのガレオン船は、明日にでも売りに出されることとなった。
 それが終わると宴会が再会され、飲み物の入った瓶や新しい料理の乗った皿がまた次々と運ばれて来て、各自の器や皿にはそれらが満たされていった。
 しばらくすると、今度は又成が身を乗り出して尋ねた。
「……ところで、航海の方はどないやったんかいな?」
 その問いに答えたのは勘蔵だった。
「おぅ、あれからわしらは、まずマニラに向かった……。」
 彼はまず、マニラでの胡椒の売却の話しから始めた。森山家の大人たちは、みなその話しに聞き入った。その一方、早々と食事を済ませた竹若丸と妙、そして白鷹丸の子供たちは、トヨに付き添われて別の場所に移動すると、みんなでカルタ遊びを始めた。
 マレー半島南端での海賊との戦いについてはロクが話した。
 それを聞き終えた又成が言った。
「なるほど、確かに中国の算盤は算術には欠かせんようになってきとるし、わしの知る限り刀剣では日本刀が一番硬うて折れにくい。船なら大砲積んだガレオン船。これからの世の中、それらの優れた道具をうまいこと使いこなしたもんの勝ちやな。」
 喜助が言った。
「とすると、日本がイスパーニャ・ポルトガルを追い抜くときが、そのうちに来るやも知れませんのぅ。」
 又成がそれに応えた。
「左様。今の日本にはそのいずれも揃うとりますからなぁ。」
 シャガは溜息混じりに言った。
「でも、そうすると、争いのない世の中っていつまで経っても来そうにないわねぇ……。」
 それに対して又成は、こう言った。
「まあ、そういうことでんな。人の歴史が始まってから今まで何千年になるんや知りまへんけど、これからも中身は然程(さほど)変わりまへんやろ。」
 明国出身の張先生が言った。
「中国の歴史も、戦(いくさ)の歴史言うても間違いなかよ。」
 喜助が言った。
「戦するのは人の性じゃけん仕方あるまい。」
 そして彼は、又成の方を向いて同意を求めた。
「のぅ、又成殿。」
 又成はそれに応じた。
「左様。わしら軍人としては、そう思わなやってられまへんで。」
 その言い方がおかしかったので、一同はどっと笑った。しかし和子は真剣な表情で言った。
「軍人の方々はそれでよろしゅうござりましょうが、その考え方で次々と新しい武器をつくり、このまま戦を起こし続ければ、いずれはこの世の人全てが死に絶えてしまいますまいか?」
 シャガも同じように言った。
「そうよ。弓矢とか刀で戦ってた今までは仕方ないで済んでたけど、あたしたちが持ってる爆弾みたいので、世界中が戦をするようになったら大変なことになるわよ。よく考えてみれば。」
 喜助もそれに同意した。
「そりゃ尤もなことじゃ。道具が発達するなら、その分それ使いこなす人の頭の中身も発達せないけんわ。」
 ハヤテが意見を述べた。
「話し元に戻すようじゃが、神さんの声聞ける人がせっかくこの世に現われても、その信者同士が喧嘩しよるようでは何もならんのぅ。」
「こりゃ何教にも属さん、けど神さん信じとるっちゅうのが、一番ええかわからんぞ。」
 ロクがそう言うと、喜助が言った。
「いや、それでもまだええことない。そりゃロクにとっての神さんで、お主を教祖に戴(いただ)く『ロク教』になってしまうじゃろうが。」
 これを聞いた一同は、どっと笑った。喜助は話しを続けた。
「何教にも属さんし、みなが言う神さんに当たるものがあることは認めても、それを神さん仏さんとは呼ばんのが一番ええんじゃ。」
「ほんなら、それを何と呼ぶや?」
 モズがそう尋ねると喜助はそれに答えた。
「何とも呼ばん。」
 これを聞いたみなは、また大笑いした。しかし喜助は、やや真剣な表情になると言葉を続けた。
「まあ、戯言(ざれごと)は置いといても、宗教同士の争いは神さんの意思に反するっちゅうことに、信者同士がもっと気ぃ付かないけんわ。」
 又成も、やや真剣な表情で言った。
「まあ、何はともあれ大事なのは、これでっせ……。」
 又成は、パエリヤに入っているムール貝の殻を手で持って、箸で身を外しながら話しを続けた。
「……諸国から集まった様々な人と人が、それぞれみな言葉違うても、こないして仲良う話ししもって飲み食いでけとることや。これって簡単そうで、そう簡単にでけることやあらしまへんで。今日はみー、わし縁あってあんたらの仲間に入れて貰うとるけど、毎日それ続けていけること、ほんま大事にせなあきまへんで。」
 なるほどそう言われてみると、諸国の者がこのようにして和気藹々(あいあい)と歓談しながら飲み食いすることは、喜助たちにしてみれば昔からの習慣なので当たり前のように思っていたが、当時の日本の社会では非常に珍しいことであった。
 又成は話しを続けた。
「この世の人全てがみな、お互いの違いを認め合うて、こないして仲良う一緒に飲み食いでけるようになったら、この世にほんまの平和が訪れるんやろう思いますわ。」
 その言葉に、その場の一同は口々に同意した。
「そうじゃのぅ。」
「その通りよね。」
 又成は自分の皿のパエリヤを指差して言った。
「……ところで、この料理えらい美味(おい)しいでんな。和子、料理のつくり方いろいろ聞いといてくれへんか? わしもつくってみたいし。」
 和子はそれに応じて、自分のお膳の上のパエリヤが入った皿を指差すと、シャガに向かって尋ねた。
「シャガさん、この料理は、いかにしておつくりになられましたのか?」
「今お伝えします。ちょっと待ってて下さいね。」
 シャガは和子にそう言うと、乳を飲み終えてたった今眠りに就(つ)いた洋助を抱いたまま立ち上がり、先ほど自分の席の後ろにトヨがつくってくれた小さな寝床に彼を寝かせた。そして、どこかから紙と筆と墨汁を持って来ると、シャガはそれを和子に手渡しながら言った。
「もし要るようなら、どうぞ使って下さい。」
 それを受け取った和子は、微笑んで言った。
「それは助かります。有り難う存じます。」
 シャガは、和子の皿のパエリアを示して言った。
「まずこれは、イスパーニャのパエリャという料理で、搗(つ)いた白いお米を研がずに使います……。」
 そのつくり方から始まり、この宴に出されていたシャム料理などのつくり方も和子に教えていった。
 料理の話しにきりが付くと、席から立ち上がったハヤテが、みなに向かって言った。
「ちぃと待ちんさい。おもろいもん持って来るけん。」
 彼は何かを取りに船室に下りて行った。
 又成は、勘蔵に向かって興味深そうに尋ねた。
「『おもろいもん』て、もしかして宝物(ほうもつ)の類(たぐい)とか?」
 勘蔵も興味深そうに言った。
「いや、わしも何だかわからん。」
 そして彼は、シャガに向かって尋ねた。
「お前は知っとるん?」
 シャガは微笑んで頷くと、こう言った。
「知ってるけど内緒。見てのお楽しみ!」
 しばらくするとハヤテが、手に何かを持って帰って来た。
 彼は自分の席に座ると、その海賊から没収した木製の弦楽器を琵琶を持つようにして抱えた。
 興味深そうに身を乗り出した一成が、そのハヤテに向かって言った。
「ほう。珍しい型の琵琶(びわ)でござるのぅ。」
「はい、オランダ人は『ルーテ』言いよりましたわ。琵琶のように撥(ばち)で叩くんではのうて指先で爪弾くそうです。」
 ハヤテはそう言ってポロンポロンとそれを指で弾きだした。ルーテとはオランダ語でリュートのことだ。その音を耳にした信成が言った。
「おお、形は琵琶じゃが、音色は琴(こと)のようじゃ。」
 和子はうっとりして言った。
「真に美しい響きにありますのぅ……。」
 勘蔵がハヤテに向かって感心したように言った。
「お前いつの間に、その弾き方覚えたん?」
 ハヤテはそれに答えた。
「海賊と戦した日の晩、これの元の持ち主から教えて貰うたんじゃ。別れしなにわしの刀、そのもんにくれちゃった。」
「なるほど……。前にも似たようなことあったのぅ。」
 勘蔵はそう言って苦笑いするとロクの方を見た。以前琉球で三弦を手に入れたときのことを思い出したロクが、照れ臭そうに頭を掻いて言った。
「そげなことあったかのぅ。」
 一方ハヤテは嬉しそうに言った。
「これで二つ目じゃ。」
「この分で行くと武器庫の刀、いずれはみな楽器に変わっとるかわからんぞ!」
 モズのその言葉に、みなはどっと笑った。
 ハヤテは自分の刀と誰かの楽器を交換するたびに、自腹で武器庫の刀を買っている。そのため、それは冗談ではなく時間さえあれば本当に起こり得ることであった。和子が嬉しそうに言った。
「この世の武器が、全て楽器や筆に変わってしもうたら面白うござりますのぅ。」
 シャガも微笑んで言った。
「そうですよね。男の人が戦するときは、みんな手に手に自分の得意な物持って戦うのよ。」
 甲冑を着た武者たちが、手に手に琵琶や筆を持って大真面目な顔で合戦している様子を想像してしまった和子は、思わず笑って言った。
「ホホホ! 左様でござります。音楽の得意な者は楽器を奏で、歌の得意な者は歌を詠んで競うのでござります。」
「楽器も歌も苦手なもんは、どげんしたらええんじゃ?」
 ヤスが不安げにそう言ったので、シャガは微笑んで言った。
「大丈夫。魚釣り大会や船漕ぎ競争、カルタ勝負もあるから。」
 和子も微笑んで言った。
「左様でござります。剣術や流鏑馬(やぶさめ)の試合から、算術の競争、果ては双六(すごろく)の試合まで取り揃えてござります。」
 賭博好きのヤスが喜んで言った。
「ほう、カルタや双六があるっちゅうのはええのぅ!」
 芸術関係とは縁遠く見える商隊の三人の若者たちも、みな安心した表情になって口々に言った。
「ほんならええわ。」
「そい聞いて安心したとよ。」
「わしでも参加できそうじゃ。」
 その一方又成は、和子に向かって苦笑いしながらこう言った。
「門戸(もんこ)を広うに開いてくれとるのは有り難いことやけどな、何かを競うからには恩賞なかったらあかんやろ。勝者は何か貰えるんかいな?」
 和子がその問いに答えた。
「技を披露した男子には、それを好む女子がそれぞれ寄って参りましょう。」
 シャガもそれに続いて言った。
「技の優劣を競うんではなくて、その人の中身を競うの。だから、多くの人にとっては大したことない演奏や歌でも、たった一人の女の子がそれを気に入るってこともあるわけなのよ。」
 又成が興に乗ってきたようにして言った。
「ほう! そりゃおもろそうや!」
 ハヤテもそれと同じように目を見張って言った。
「早速やってみんか!」
 それに対してシャガは、澄まし顔でこう言った。
「既に妻が居る者は戦う資格がありません。」
 和子も同じように澄まして言った。
「妻帯者が披露しても、そこに寄って参るのは妻のみでござります。」
 これを聞いた又成とハヤテはがっくりと項垂れ、それと同時にハヤテがリュートで悲しげな音をボロローンと鳴らしたので、独身の三人の若者は手を打って大笑いした。
 又成が気を取り直して言った。
「……それにしても、たった一夜伝え聞いただけで、そないして弾けるとは大したもんやな。」
 ハヤテも気を取り直し、微笑んで言った。
「楽器触ったことないもんがいきなり弾けりゃぁ大したもんでしょうが、わしの死んだ親父は琵琶弾いとって、わしも子供の時分からそれ触っとりましたけん。」
 遊び友達のハヤテをこの楽器に取られてしまったヤスが席から立ち上がると、いかにも困ったという表情でみなを見渡しながら訴えた。
「お陰で、それから毎晩このルーテじゃ!」
 それを聞いた一同は、みな大笑いした。
 ハヤテがそのリュートで短い前奏を弾くと、それに続く伴奏に乗せてその隣りの席のシャガが歌を歌い始めた。

故郷遥か遠く 闇の波間を漂い
今宵は月の浜辺 流離う浜茄子よ
風 梅の香運び 山の根雪溶かす頃
砂に抱かれ安らげば 芽を出だす時来たれり

日の光 時を超え その葉に慈しみ注げば
日の如き 明き実を 稔らすは浜茄子

そよそよ風に吹かれ 故郷の浜の空に
ゆくゆく巡り来たる 妙なる芽を出だす時よ
ゆらゆら波に揺られ 故郷の浜の砂に
ゆくゆく帰り来たる 愛しき浜茄子よ
愛しき浜茄子よ

 歌が終わると、一同は二人に大喝采を浴びせたので、二人は大いに照れた。
 又成が言った。
「ほんま、見事なもんや!」
 和子が言った。
「真(まこと)に美しい!」
 勘蔵がやや興奮気味で言った。
「節はわしらが慣れ親しんだものじゃが、調べはエウロペのもので拍子は阿弗利加(アフリカ)のもののようじゃ。こりゃおもろい! ハヤテ、どげんしてつくったん?」
 ハヤテは、やや照れながらそれに答えた。
「海賊の中の阿弗利加の人が、夜の宴のときに鍋かなんか叩いてんさった拍子に、わしらん慣れ親しんだ節を乗せて、オランダ人から習うた調べ付けてみたんじゃ。」
 勘蔵は感心して言った。
「うーん、わしもあちこち回ってはおるが、こげんのは初めて聞いた。」
 シャガはハヤテに向かって嬉しそうに言った。
「今日のために頑張って稽古した甲斐があったわね。」
 ハヤテはちょっと苦笑いしてそれに答えた。
「おう、ヤスにはちぃと可哀想なことしてしもうたけどな。」
 今度は又成が、自分が持って来た袋の中から篠笛を取り出すと、それを吹き始めた。一同はその音色に聞き入った。
 篠笛の音と日本独特の音階、そして旋律と旋律のあいだにある「間(ま)」は、湿度が高く緑の多い日本の風土にとても良く似合う。ところが、又成の演奏はなぜかこの南国の風土にとても良く合っている。
 演奏が終わると先ほどと同じく、一同は又成に大喝采を浴びせた。
 ハヤテが興奮して言った。
「素晴らしい! 初めて耳にする珍しい節じゃ。」
 又成は答えた。
「初めてお聞きになって当然や思います。これ、日本の曲ちゃいますもん。」
 勘蔵が驚いて尋ねた。
「え? わしゃ日本の曲思うて聞いとったが、どこの国の曲なんですかいのぅ?」
「この島の隣のバリ島の曲です。」
 又成が微笑んでそう答えると、その場から驚きの声が上がった。又成は話しを続けた。
「わしも初めて聞いたときは、日本の音階によう似とるんで驚きましてん。」
 ハヤテがリュートを示して言った。
「ほんなら、篠笛とこれを合わせるとどげんなるか、やってみませんか?」
「ほう、そらおもろそうでんな。」
 又成はそう言うと、その笛の基本となる音を一つ出した。ハヤテはそれに合わせてしばらくリュートの調弦をしていたが、やがてポロンポロンと和音を弾きだした。
 こうして日本の篠笛で演奏するバリ島の旋律に、西洋のリュートで伴奏を付けるという、恐らく史上初めてのセッションが始まった。酔って上機嫌になっているモズは席から立ち上がると、近くに据え付けられている大太鼓を叩いてこれに参加した。打楽器が加わることによってこの合奏は更に盛り上がった。
 宴会はその後も楽しく続いたが、幼児を連れて来た森山家は暗くなる前に暇(いとま)を告げて引き上げて行った。

 その翌日、スマトラから来ていた商人に、又成の仲介によってあのガレオン船が売り渡された。
 シャガはそのお礼として、又成にまず金貨を贈呈しようとしたが、彼はそれを受け取らなかったので、次に銀貨を差し出したがそれも受け取らなかった。そこでシャガは、中国製の大きな美しい壷の外側の底に墨で一筆書いて、「これでも受け取ってもらえませんか?」と尋ねた。

寄ぞう
文禄弐年七月きち日
かめが島町 北浜しやが

(寄贈 文禄二年七月吉日 瓶ヶ島町 北浜シャガ)

 すると又成は、「それならば」と言って快くそれを受け取ってくれた。
 それから数日後、一艘の大きなグジャラートの商船がバンテン港に入って来た。シャガは通訳一人を雇うと、ハヤテと勘蔵を伴なってこの船を訪れ、早速中国製品売却の商談を持ち掛けた。すると、この船の船長はすぐそれに飛び付いて来た。なぜなら、ここで香料などを仕入れた後、また長い航海をしてシャムへ中国製品を仕入れに向かうよりも、それらをこの地で一度に手に入れた方が航海の日数をはるかに短縮できるためだ。
 その結果シャガたちは、現地で仕入れた価格にかなり上乗せして、積荷の絹、陶磁器などの品々をあっという間に売りさばくことができた。彼らがアユタヤで仕入れた品物は、グジャラート人が通常仕入れるよりもずっと安い価格で仕入れている。そのため、今回の取引では巨額の利益があった。
 白鷹丸の船内の一室にともされたランプの光の下で、今回の交易の収支を計算し終えた勘蔵が、感慨深げにこう言った。
「うーん、海賊から没収した金品を除いても、こりゃ大した儲けじゃ。日本国内の商いとは桁が違うとるわ。異国に住いしてまで商いしよる日本人が近頃増えておるわけが、これで良うわかったわい。」
 シャガがそれに同意した。
「そうよね。傷みが激しかった分かなり値切られたけど、船を売ったお金もあるし。」
「海賊さん大歓迎じゃのぅ。」
 ハヤテのその言葉に、その場のみなが笑った。
 勘蔵が真剣な顔になって言った。
「ハヤテ。きちんと銭払うけん、わしにイスパーニャの言葉教えてくれんかのぅ?」
 ハヤテは首を横に振ると、やや困ったようにしてそれに答えた。
「いや、わしまだ勉強中じゃけん、そげん偉そうなことできんわ。」
 勘蔵は引き続き真剣な表情で言った。
「いや、言葉っちゅうのは誰でも死ぬまで勉強じゃ。お前ほど喋れるんならもう人に教えられるぞ。」
 シャガが言った。
「ハヤテ、それなら塾を開いてみんなに教えたらいいんじゃない? 他にも習いたいって人、きっといるだろうし。」
 ハヤテは、やや真剣な表情になって言った。
「そうじゃのぅ……。自分が知っとること出し惜しみするのもケチ臭いしのぅ、ほんなら明日からでも早速始めることにするわ。」
 こうして、その翌日から白鷹丸の船上で、ハヤテのスペイン語塾が開設された。先の海賊事件で、たどたどしくはあったがハヤテが通訳をする姿を見て感心していた若者たちが挙(こぞ)ってこれに応じ、その必要性を痛感した勘蔵や喜助などの年配者も参加したため、この塾は大人気となった。もちろん、講師の妻であるシャガもその生徒に加わった。

海図4  水や食料の補給を済ませ、森山家の人々に別れを告げたシャガたちは、バンテンを後にして一路瓶ヶ島へと向かった。東西に細長いジャワ島の北側を過ぎて船は更に東へ東へと進み、長い航海も終わりに近付いたある日の夕方、小さな島が点在する海域で白鷹丸は激しい夕立に見舞われた。これがあると視界が悪くなるため、船は航行の中断を余儀なくさせられてしまう。
 この日も白鷹丸は帆を畳んで、それが通り過ぎるのを待った。
 やがて夕立が去り、雲間から夕陽が出たのはいいが、帆柱の見張りの鋭い声が甲板に降って来た。
「おーい! 船がようけ来よるぞーっ!」
 笠を被り蓑を着て白鷹丸の船首に立っていた、船長のロクと副船長のモズは、帆柱の上の見張りの指差す右舷海面を見た。するとそこには、夕立の前にはなかった十数隻の小舟の姿があった。どうやら、雨に紛れて白鷹丸に接近していたようだ。それらは大きなカヌーのような船で、それぞれ複数の男たちが巧みに櫂を操っている。ロクの指令によって、緊急事態発生の警報をモズが太鼓で打ち鳴らしたが、その船団は信じられないような速度で進んで来ると、あっという間に白鷹丸を取り囲んでしまった。
 太鼓の音を聞いた喜助とシャガが、その太鼓のところへやって来た。その二人に向かってロクが急き込んで言った。
「夕立に紛れて島影から近付くとは見上げた手口じゃ! 海賊かわからんぞ!」
 喜助は、シャガに向かって言った。
「戦の支度(したく)したらどうじゃ?」
 シャガは、それに応じて言った。
「そうね、それじゃそうしましょうか。」
 その言葉によって、太鼓に着いていたモズが「戦の支度」のリズムを叩いた。それが終わる間もなく、船首の方に目を向けた喜助はこう言った。
「お? 何やら言うとるぞ。」
 そして彼は、そちらの方に歩いて行った。
 確かに彼の言う通り、白鷹丸船首付近に浮かんでいる他より大きな舟の上から、一人の大柄な男が白鷹丸の船上に向かって何かを叫んでいる。上半身裸で腰蓑(こしみの)を着け、長い棍棒を持ったその恰好からして、その男はインド人でもアラブ人でも中国人でもマレー人でもなかった。その船に一番近い船べりに身を乗り出していた喜助が、後から来たシャガとロクの方を向いて言った。
「何言うとるんか、わしにゃぁわからんわ。」
 喜助は向き直って口に手を添えると、まず福建語で「福建語話せるか?」と、その男に向かって大声で叫んでみた。しかし、反応がなかったので、今度は覚えたてのスペイン語で、「あんたらスペイン語を話せるか?」と再び叫ぶと、別の船に乗っていた一人の老人が立ち上がり、嗄れ声でそれに対して何か言った。それを注意深く聞いていたハヤテが言った。
「こりゃ、ポルトガル語のようじゃ。」
「ほんなら、勘蔵を連れて来てくれんか。」
 そう喜助に命じられた兵隊の一人が、やがて医務室を守備していた勘蔵を連れて来た。喜助は勘蔵に今までの経緯を手短に伝えると、先ほど舟から立ち上がった老人を指差して言った。
「ポルトガル語話せるもんがおったけん、話してみてくれんかのぅ。」
 勘蔵は、その老人に向かってポルトガル語で「あんたポルトガル語話せるんか?」と大声で尋ねると、その老人はたどたどしいポルトガル語で答えた。
「少し話す。」
 その遣り取りを見ていた、彼らの頭と見える先ほどの棍棒を持った大柄な男は、今度はその老人に向かって何か言った。老人はそれを勘蔵に向かってポルトガル語に訳して言った。それを聞いた勘蔵が言った。
「『ここの海、わしらの住む海。勝手に通るな。』言うとるわ。」
 それを聞いた途端、喜助は眉を顰(しか)めると、その頭に向かって叫んだ。
「そげなこと勝手に決めるな! 海は誰の物でもない! どこ通ろうとわしらの勝手じゃろうが!」
 これを勘蔵がポルトガル語に訳し、それをまた老人が訳して頭に伝えた。それに対する返答を勘蔵が言った。
「『あんたらにわかるよう、わしらの住む海言うたが、あんたらまだ話しわかるようだから言う。海は神がつくった物で本当は人の物ではない。でも人と人取り決め要る。あんたらの住む海に、よそんもん勝手に入って来よったら、あんたらどうするか?』て聞いとるぞ。」
「……遠くの船は大砲の散弾で、近くの船は矢で攻めりゃ、あっという間に全部片付くのぅ。」
 喜助がそう言うと、ロクが言った。
「弾薬勿体ないけん、船漕いで押し退けてはどうじゃ?」
 そのすぐ後ろで様子を見ていたシャガは眉をひそめると、その二人に向かって珍しく厳しい口調でこう言った。
「ちょっと、あんたたち! 黙って聞いてると滅茶苦茶言ってるじゃないの。戦であたしが指図(さしず)できないのはわかってるけど、意見ぐらいは言わせてよ!」
 喜助がそれに答えた。
「おぅ、言うてみぃ。」
「あの人が言ってること筋が通ってるわよ。あたしたちだって、あたしたちが住む島の周りで知らない人に好き勝手されたら、やっぱりいい気持ちしないでしょ?」
 喜助は、ちょっと困ったような顔になってこう言った。
「まあ、そりゃそうじゃが……。ほんならどげんするや?」
「他人の敷地を通るとき、普通ならまずどうする?」
 シャガのその問いに喜助は答えた。
「挨拶して、『通してくれ』言うて頼むじゃろう。」
「そうよね。それでいいんじゃないの?」
 シャガのその意見に対して喜助は気を取り直して言った。
「よしゃ、どげんなるかはわからんが、やるだけやってみよう……。」
 喜助は、その頭と思われる大柄な男に向かって叫んだ。
「わしの名はキスケと言う。今は旅先からわしらの住処(すみか)へ戻る途中で、ここがあんたらの暮らす海とは知らずに通った。ちと通してくれ。」
 勘蔵が通訳してこれを伝えると、すぐにその返事が返って来た。それを勘蔵が訳した。
「『わしの名はカヌカウと言う。あんた近頃では珍しくまともな旅人。まともな旅人は歓迎するのが、わしらのしきたり。今日たまたま村の祭ある。ご馳走するけん、わしらの村へ寄れ。』言うとるぞ。」
 これを聞いたシャガと喜助は、思わず顔を見合わせてしまった。
「南の海には人食いの民がおるて、昔ポルトガル人から聞いたことあったぞ。」
 勘蔵がそう言うとモズも言った。
「わしもその話し、昔シャムの明国人から聞いたことあるが、人食いの民が食いよるんは、戦(いくさ)で捕えよったもんじゃ。歓迎して招いたもん食いよるとは聞いとらんが……。」
「これは謀(はかりごと)で、村へ行ったら食い殺されるっちゅうこともあるしのぅ。」
 ロクがそう言うと、喜助はシャガに向かって微笑んで言った。
「ほんなら戦の支度とくけん、お前行ってこんかい。」
 喜助がモズに目配せしたので、モズは戦の支度解除の太鼓を叩いた。しかし、シャガも負けずに微笑んで言った。
「あの人は、『将軍がまともな旅人だから招待する』って言ってるのよ。将軍本人が行かなきゃ。」
 喜助はまた微笑んで言った。
「戦の支度してないときの頭はお前じゃ。頭が行かな失礼になるがな。」
 このようなときの男の操縦法を、シャガはちゃんと心得ている。彼女は、今度はからかうような口調でこう言った。
「あら将軍。あんたもしかして怖いんでしょー。」
 それを聞いた途端、喜助は憤慨(ふんがい)したようにこう言った。
「何を言うか! こげな衆ちぃとも怖いことないわい! わしが行く!」
 舟の上のカヌカウに向かって、喜助は口に手を添えて叫んだ。
「わかった! ほんなら支度するけん、ちぃと待っとってくれ!」
 勘蔵がそれを訳すと、通訳の老人がそれをカヌカウに訳して伝え、彼らはそれぞれ自分の舟に腰を下ろした。
 喜助は甲板に主だった者を集めて、ポルトガル語のできる通訳を一名と、もう一人の同行者を募ったが、珍しいことに希望者は一人も現れなかった。
「……ほんなら仕方ない。わしが指名する。まず、わしポルトガル語わからんけん、勘蔵一緒に来てくれんか。」
 勘蔵は苦笑いして言った。
「仕方ないのぅ。あの爺さんのポルトガル語間違い多いけん、若いもんそれ覚えてしもうたら困るし、わしが行くしかないわ。」
 次に喜助は、ハヤテの方を向いてこう言った。
「町長の代理として、お前一緒に来てくれ。」
 ハヤテは、それを聞くなり目を丸くして言った。
「わし、こげなことで死にとうない!」
 それを聞いた喜助は苦笑いすると、周囲を見回して言った。
「誰じゃ? 『人食いの民(たみ)の村』っちゅうようなアホな噂(うわさ)流しよったんは?」
 そして、ロクに向かってこう言った。
「もし狼煙が上がったり、わしらがいつまでも戻らんかったら、お前が軍の指揮を執るんじゃ。ええな。」
「よっしゃ、任さんかい! 弔い合戦じゃな!」
 ロクが威勢良くそう言うと、喜助はまた苦笑いして叫んだ。
こらーっ! 誰もそこまで言うとらーん!
 その一方、ハヤテは極めて真剣な表情になると、シャガの両手を強く握り締めてこう言った。
「シャガや。短いあいだじゃったが世話んなったのぅ。子供らのことよろしゅう頼むわ。わしのこと忘れて早うええ人見つけるんじゃぞ!」
 シャガは目に涙を一杯浮かべて言った。
「そんなこと言わないでハヤテ。あたし誰とも夫婦(めおと)にならず、ずっとあんたのこと想ってるから。」
 喜助は、また苦笑いしながら怒鳴った。
こらー! 人食いの民と決まったわけでもないのに、死に別れの挨拶なんぞすなー! 縁起(えんぎ)でもない。」
 そして彼は普段の顔に戻ると、シャガに向かって事務的な口調でこう言った。
「シャガや、豚のうちの一頭をあの衆への土産に持って行くぞ。」
 その一方シャガは、極めて嬉しそうに言った。
「将軍の望む物なんでも持って行っていいわよ、ねえ? みんな?」
 戦の支度解除の太鼓を耳にして甲板に集まって来ていた大勢の者を見渡してシャガがそう言ったので、一同口を揃えて言った。
好きなもん、なーんでも持ってっとくれ!
 仲間たちから了解を得たので、喜助とハヤテは甲板船尾付近の一角に設けられている豚の柵へと向かい、その中に入った。そして、丸々と肥えた一頭の豚の前足に喜助が、後ろ足にはハヤテが着いて、それぞれそこに紐を掛けると、「一、二の三」の掛け声で同時にそれを引き絞った。すると、豚は甲板に勢い良く倒れ、「ブヒーブヒー」と鳴いて猛烈に暴れたが、紐は引けば引くほど締まるような結び方になっているので、しばらくすると諦めておとなしくなった。
 その豚の前後の両足のあいだに喜助が長い一本の棒を通し、その両端をハヤテと共に担ぎ上げると、宙吊りになった豚はすっかり観念したようで、もう暴れはしなかった。二人はそれを伝馬船に載せると、自分たちもそこに乗り込んだ。やはり土産にする焼酎の瓶を抱えた勘蔵がそこに乗り込むと、それはクレーンによって吊られて海の上に浮かべられた。喜助はクレーンの綱を伝馬船から外して櫓を漕いだ。
 こうして三人を乗せた伝馬船は、カヌカウ率いる船団に囲まれて、白鷹丸右舷前方に見えている小さな島の方へと向かって行った。
 波に揺れる伝馬船の上のハヤテは、俯(うつむ)いて元気がない。彼は今、ここで死ぬということがどういうことであるかを真剣に考えているところだった。愛する者を守り通すために敵と戦って死ぬのなら本望だ。寿命が尽きて死ぬこともまだ納得がいく。しかし、相手が人食いとわかっていて見す見す食われるということが、どう考えても彼には納得がいかなかったのだ。
 その一方、勘蔵はいかにも機嫌良さそうに、周囲の船の人々の風貌などを観察している。伝馬船の船尾で櫓を漕ぎながらそれを見た喜助が、苦笑いして言った。
「『人食いの民の村』っちゅう噂流したの、お前じゃろう。」
 勘蔵は笑ってそれに答えた。
「ハハハ! さすが兄ぃ、見抜いたか。こげな危ない仕事、他のもんにさせちゃならん。」
 喜助はやや真面目な表情になって言った。
「戯言(ざれごと)も大概(たいがい)にせないけんわ。見てみい! ハヤテが真に受けてしもうて落ち込んどるじゃろうが。何か言うちゃらんかい!」
 ハヤテのその姿にハッと気が付いた勘蔵は、一瞬申し訳なさそうな表情になったが、すぐに和やかな表情になってこう言った。
「おい、ハヤテ。周りで船漕いどるもん良う見てみい。人食うように見えるか?」
 それまで俯いて海面を見詰めていたハヤテは、勘蔵のその言葉で周囲を見渡した。上半身裸で勇壮に船を漕ぐ男たちの日焼けした体はみな逞しかったが、その顔はとても穏和であった。ハヤテは、なんだか仲間たちと漁に出たような懐かしささえ覚えた。
「人食うようには、まず見えんがのぅ……。」
「仮に人食いであっても案ずるな。わしらは食われんわ。」
 勘蔵のその言葉で、ハヤテの顔にいつもの落ち着きが戻ってきた。
 一方、錨を下ろした白鷹丸の甲板では、夕暮れにたたずむ島影を見ながら、みなが思い思いのことを言っていた。
「あの人たち、本当に人食いの民なのかしら……?」
「そうは見えんがのぅ……。」
「戦や勝負事ならともかく、あの将軍が人食いの民と知って、若いハヤテまで連れて行くとは、わしには思えん……。」
「まあ、狼煙上がるかわからんけん、しかと見張っておくに越したことはなかろう。」
 やがて陽が沈み、それから一(いっとき)もしないうちに、夜の島影から複数の光が現れた。それは二隻の小船と、一隻の伝馬船にともる明かりだった。伝馬船の船首では、ハヤテが松明を持って前方を照らしており、船尾では喜助が櫓を漕いでいる。船の中ほどでは、勘蔵が一本しかない左手で何かを大事そうに押さえていた。
 白鷹丸の甲板にいた見張りの者は、三人が帰還したことを船内に知らせた。
 やがて白鷹丸の下に伝馬船が着くと、クレーンから綱が垂らされ、喜助はそれを伝馬船の船べりの四箇所の金具に結び付けた。三人の男たちは、見送りに来てくれた二隻の船の者と、何か親しげに言葉を交している。どうやら礼を言って別れを告げたようだ。
 クレーンで吊り上げられた伝馬船が白鷹丸の甲板に下ろされると、まずシャガがそこに駆け寄り、その上のハヤテの顔を見上げて言った。
「お帰り! 何ともなかった!?」
 ハヤテは酒が入っているようで陽気に答えた。
「おう! 何ともないぞ! 人食いでもなんでもなかったわ!」
 そして喜助と二人して、先ほど勘蔵が大事そうに押さえていた中型の瓶を、よっこらしょと甲板に下ろしてからこう言った。
「こりゃぁ村長さんからの土産で、島特産の椰子酒だそうじゃ。みな、杯(さかずき)持ってこんか!」
 その言葉によって、その場にいた者は、それぞれの船室に自分の杯を取りに行った。彼らが戻って来ると、喜助は甲板にどさっと腰を下ろした。彼もやはり酒が入っているようで、勘蔵に向かって陽気にこう言った。
「おい、勘蔵や。みなに話ししちゃらんかい!」
 勘蔵もその横に腰を下ろしながら陽気に言った。
「よっしゃ! 任さんかい!」
 瓶の前に腰を下ろしたハヤテは、仲間たちが順々に差し出す杯の中に、その瓶の中の椰子酒を柄杓(ひしゃく)ですくっては注いでいった。甲板上の明かりが増やされ、みなは喜助たち三人を取り巻いて腰を下ろした。勘蔵は話しを始めた。
 まず村の浜に着くと、伝馬船をそこに上げるように言われたので、勘蔵たちはその通りにした。村の男たちは、喜助たちを村の中央にある広場へ案内したので、三人は伝馬船に積んであった豚と焼酎を持ってそれに従った。
 広場の真ん中では、夕立のために一旦消えた火が再び焚かれたようで、村人たちがそれを取り囲み、歓談しながら飲み食いを始めていた。子供たちは既に食事を終えたようで、楽しそうに広場の周りを駆け回っている。村人は全部で二百人余りで、先ほど喜助と遣り取りしたカヌカウは、この村の副村長だった。
 そのカヌカウよりさらにがっしりした体格の村長が、側近たちを両脇に従がえて広場の奥に座っていた。カヌカウに案内された勘蔵たち三人は、持って来た豚と焼酎の瓶を村長の目の前の砂の上に置くと、近頃の日本の武士がするようにして砂の上にひれ伏し、丁寧に挨拶をした。この村長には、思わずそうさせてしまうような威厳(いげん)があったからだ。
 顔を上げた喜助は、その村長に向かって土産を指差しながらこう言った。
「これは土産じゃけん、受け取って下され。」
 勘蔵がそれを訳すと、それは先ほどの老人によってカヌカウに伝えられ、カヌカウから村長に伝えられた。それに対する村長の返答はまずカヌカウに伝えられ、次いでカヌカウが老人にそれを伝え、それを老人がポルトガル語に訳して勘蔵とハヤテに伝え、それを勘蔵が日本語に訳して喜助に伝えた。
「『有り難く頂く。あんたらは大きな船に乗っている割には、ちゃんと礼儀を知っていると村長が言うておられる。』と、カヌカウさんが言うておられるわ。」
 カヌカウは、三人に向かって火の周りに座るように言った。間もなく三人の目の前の砂の上に、瑞々(みずみず)しい大きな木の葉が水で清められて敷かれた。その上に何種類かの料理や果物が次々と盛り付けられ、その皿の横に置かれた椰子の実の椀には椰子酒が注がれていった。村人たちは、各自の前に置かれたその木の葉の皿から素手で料理を食べている。三人もそれに倣って料理を食べた。
 三人の飲み食いが始まって間もなく、女たちの何人かが横一列になって火の前に並ぶと、こちらを向いて歌を歌い始めた。通訳の老人によると、客を歓迎する歌なのだそうだ。ここまで勘蔵が語ると、シャガが目を輝かせて尋ねた。
「ねぇねぇ、どんな歌だったの?」
 それにはハヤテが答えた。
「そうじゃな、わしらが歌う童歌わらべ(わらべうた)にもちぃと似とるし、大漁んときの歌にも何となく似とるが、もっと美しかった。」
 シャガは残念そうに言った。
「なんだ、それならあたしも行けば良かったわ……。
誰よ! 『人食いの民かも知れない』なんて言い出だしたのは!」
 彼女が、なかば腹立たしそうにそう言って周囲を見渡したので、勘蔵は一瞬苦笑いして頭をぽりぽり掻くと、話しを元に戻した。
「ほんでな、女子(おなご)たちの歌が終わって、飲み食いにきりがつくと、カヌカウさんがこう言われたんじゃ……。」
 その話しに、一同はまた聞き入った。
 通訳を介して、カヌカウはこう言った。
「先ほどは、あんたらの船を取り囲んで済まんかった。」
 喜助も通訳を介して言った。
「海賊に取り囲まれた思うたぞ。」
 カヌカウは言った。
「これにはわけある。香料手に入れるために昔から遠くの海を船ようけ通るが、たまにこの近くの海に迷い込んで来る船もあった。わしら昔からこういう旅人村に来たら、珍しい話し聞くために喜んでご馳走した。
昔の商人用が済んだらすぐ帰った。ところが近頃の大きな船、用が済んでも帰らない。この海自分たちの海、この島自分たちの島と、ここに住んでおるわしらに相談せず勝手に決めよる。これ良うない。」
 喜助は言った。
「なるほど。その通りじゃ。」
 カヌカウは言った。
「わしら、村に招待しようとして話し掛けても、返事もせんと鉄砲や大砲撃ってきよる。これ、礼儀知らずで野蛮人すること。」
 先ほどは、正にそれをしようとしていた喜助だったので、ちょっと照れながら彼はこう言った。
「そう言われてみると、それも確かにその通りじゃ。」
 カヌカウが言った。
「ほいでわしら、近頃この海通る大きな船見付けては言うようになった。『ここはわしらの住む海、勝手に通るな』と。」
 喜助は言った。
「そうじゃったんか。ほんならそげん言うて当然じゃろう。」
 カヌカウは言った。
「『海は誰の物でもない。』あんたさっきそう言うた。ほいで、あんた話しわかる人思うた。海も島も空もみな、神がつくった物。人の物ではない。」
 喜助は言った。
「わし、神がそれつくっとるところ見ておらんけん、それがほんまかどうかは知らんが、あんたらとは話し合いそうじゃのぅ。」
 カヌカウが言った。
「神はこの世の全ての物つくった。これ、わしらの言い伝えん中にある。人は小さな貝殻一つつくることできん。」
 喜助は言った。
「貝殻はつくれんが、舟はつくれるぞ。あんたらの舟、神がつくったんか?」
 カヌカウは答えた。
「その通り。神が木ぃ生やして育て、わしらの手ぇ動かして、その木でわしらの舟つくった。これ全部、神の仕業(しわざ)。」
 喜助は、やや感心したように言った。
「ほう、ほなら一応話しの筋通っとるわ。」
 カヌカウが言った。
「人はみな、神の力で生まれ、神の力で息をし、神の力で飲み食いして、神の力で大きゅうなり、神の力で仕事する。神の力に逆らえば、仕事できんし生きられん。」
 喜助が言った。
「なるほど、自然の摂理に逆らえば仕事はできんし、自然の摂理に逆らえば生きられん。当然のことじゃ。」
 カヌカウが言った。
「あんた言うその『自然の摂理』、わしら言う『神』と同じ。
獣は火ぃ焚かんが、人は枯れ木で火ぃ焚く。でも、獣より人の方が偉い思うの間違い。神の力で火ぃ燃える。人、その力呼ぶ方法知っとるだけ。
人、太陽と星見て海を遠くまで行くが、鳥は同じようにして大空を遠くまで行ける。でも、鳥、ちぃとも偉そうにしない。我がの力ではなく神の力で飛んどること、鳥はちゃんと知っとるけん。」
 喜助が言った。
「なるほどな。火は人が燃やしておるのではない。風が枯れ木燃やしとるだけで、人はただそれを始める手助けをしておるだけじゃ。また、人より優れた技を身に付けた生き物はようけおる。いずれも自然の摂理をうまく使いこなしとるだけのことじゃけん、何か特別なことができたからいうて、それが偉い思うのはとんでもない誤りじゃのぅ。」
 カヌカウは言った。
「近頃の人、知らない島見たら『発見した』言う。新しい道具つくったら『発明した』言う。それ間違い。島は、人が生まれる前からそこにあった。道具は神の力引き出すための物。それも人が生まれる前から神は知っとったこと。」
 喜助が言った。
「イスパーニャ人はアメリカ大陸を発見した言うとるが、それでは元からそこに住んどったもんが人でないような言い方じゃ。火薬にせよ羅針盤にせよ、発明言うとまるで人がそれを一からつくったようじゃが、自然の力を利用する新しい方法見付けただけにしか過ぎん。それ見付けたもんは立派とは思うが、それを人が一からつくったと思うのは思い上がりじゃのぅ。」
「人、神から火の起こし方教わった。神、その消し方人に教えた。人、風使うて舟動かすこと神から教わった。神、その止め方も教えた。これ正しい使い方。」
「なるほど、火の起こし方も、帆掛け舟の走らせ方も、自然に学んだことじゃけん、その止め方も自然に学べたとな。」
「その通り。」
 そしてカヌカウは、やや厳しい表情になるとこう言った。
「じゃが、神の力ん中にえらぁ強い力ある。神、この力の使い方わからんように封印してある。正しい使い方知らんのに勝手に封印といてこれ盗むと、この世は焼け野原となり洪水起こる。
生命の仕組みも神から封印されとる。神の心知らぬ者、勝手にこの封印といてこれ盗む。神、そのこと怒っとるけん、その止め方、人に教えてはくれん。人、盗んだものいじくり回しておるうちに、治すことできん流行(はや)り病(やまい)が出て来よる。それで人ようけ死ぬ。
人は昔、狩するために神の封印といて、弓と矢使うこと盗み覚えた。ほいで人、これ使うて人殺すようになった。これ間違うた使い方じゃけん、神、その止め方人には教えてくれん。他の物もみな同じ。始めは人の病治すため、虫の付かん野菜つくるため言うとっても、人の頭ん中今のままだと必ず間違うたことにも使われて、人ようけ死ぬ。」
 喜助は言った。
「なるほど、自然の仕組みを誤って使うと、この世は焼け野原や洪水となる。
自然の仕組み知り尽くしとらんのに、人の病治すためとか虫の付かん野菜つくるため言うて生命の仕組みいじくり回しておると、この世にそれまでなかった病が出て来よる。じゃが、人はその封じ方知らんけん、その病でようけ死ぬことになる。
始めは世のため人のためと称しても、それらは必ず悪用されるとな。これも筋の通った話しじゃ……。」
 喜助はここで、やや困った表情になると言葉を続けた。
「うーん、じゃが、そりゃ難しいこっちゃわ。その力によって命救われる人にゃええことじゃけんのぅ……。」
 カヌカウも同じように言った。
「そう。人のそげな情のもろさ故に、神の力の悪用も止まらんのじゃ。けど、その力で命救われる人よりも、その力で死ぬる人の数の方がずっと多い。ほうじゃけん、大きな目で見りゃぁ、神が許すまでその力封じとった方がええ。」
 喜助は、相変わらず額に皺を寄せて言った。
「なるほどのぅ。こりゃいよいよ難しいこっちゃけん、わしにゃぁなんとも言えんわ。
ほんなら、それ使うこと、あんたの言う神さんから許されるんは、いつのことなん?」
 カヌカウは言った。
「人が自分と家族の幸せだけでなく、百代千代後に生まれる人の幸せをも考えられるようになれるまで。人が自分の村だけでなく、よその全ての村の幸せをも考えられるようになれるまで。人がこの世を支配しておるのではなく、人はこの世の一部であることに気付くまで。」
 喜助は苦笑いして言った。
「ほう、そりゃつまり、人の徳がもっと高うなり、人がもっと謙虚になり、人が自然の仕組みをきちんと知るまでっちゅうことじゃ。それもまた難しいこっちゃのぅ。」
 その一方、カヌカウは真剣な表情でこう言った。
「そう。ほうじゃから、近頃の大きな船に乗った白い人のやり方でいくと、この世はまた滅ぶ。」
 喜助は、意外そうにやや目を見張って尋ねた。
「ほう、『また』っちゅうことは、今の世の前にも世があったっちゅうことなん?」
 カヌカウはそれに答えた。
「そう。今までに三回も滅んだ。前の世は洪水で滅んだ。」
 ここでハヤテが、いつも持ち歩いている布の袋の中から、旧約聖書のスペイン語訳を取り出して言った。
「カヌカウさん言いんさること、これに書いてある話しと似とる。」
 喜助が尋ねた。
「ほう、どげな話しじゃ?」
 ハヤテは、その本の最初の部分を開いて言った。
「この世の全ての物を神さんがつくった話しじゃ。この本では神さんが何もない真っ暗闇で、まず始めに『光あれ』言うて光を出しんさって、ほいでから毎日草や木や獣をつくって、六日目に泥で人つくったとある。その後人は栄えたが、その世が一度洪水で滅んだともあるぞ。」
 スペイン語を学ぶために、たまたま聖書を利用していたハヤテは、その内容も断片的に把握していた。その彼の言葉を勘蔵が訳して伝えると、カヌカウは意外そうに言った。
「ほう、その本の神、わしらの神にできんことしよる。わしらの神、なんもないところから光出すことできん。
生き物も同じ。わしらの神、泥からいきなり人はつくれん。
わしらの言い伝えでは、神、始めに泥からクラゲつくった。クラゲ元にして次にゴカイつくった。ゴカイ元にして次に魚つくった。魚元にして蛙つくった。蛙元にしてトカゲつくった。トカゲ元にして鼠つくった。鼠元にして猿つくった。猿元にして人つくった。ほいで、最後につくったんは人ではのうて、人が増え過ぎんようにするための病(やまい)じゃ。
わしらの神、ここまでするのに、たった七日ではできん。千の千倍のまた千倍日掛かったことになっとる。」
 ハヤテは言った。
「なるほど。そりゃ、あんたの言い伝えの方が、この本より詳しいわ。」
 そしてパラパラッとページをめくるとこう言った。
「この本にゃぁまた、おもろいこと書いてある。」
 カヌカウは、興味深げに尋ねた。
「ほう、そりゃ何じゃ?」
「人はその昔、神に近付き、神になろうとして高い塔つくった。神はこれ見るとその罰として人々の言葉が互いに通じんようにした。そのため仕事にならんようになって、その塔はつくり掛けのまま放られたっちゅうことじゃ。」
 勘蔵がこれを訳すと、カヌカウはこう言った。
「その話し、本当か嘘かはわからんけど、その中身間違いではないじゃろう。神は神、人は人。この区別つかぬ者は間違いを犯す。人にできること神から定められておる。これを超えて人が神になろうとしたとき、この世の終わりが来よる。」
 ハヤテが言った。
「あんたの村の言い伝えも、この本みたいに本にしてはどうじゃ?」
 カヌカウは言った。
「神の心文字にすること、良いと良うない両方ある。」
 ハヤテがカヌカウに尋ねた。
「ほう、そりゃぁどげなことですか?」
 カヌカウが答えた。
「神の心知る者、神の心文字にする。その者死んでも文字残る。後に多くの人これ見て神の心想像することできる。これ良いこと。」
「なるほど。」
 ハヤテが相槌を打ち、カヌカウは話しを続けた。
「言葉に魂(たましい)あるし、筆で書いた文字に魂ある。でも活字に魂ない。人、活字見て自分の言葉に置き換える。そのとき初めてその言葉に魂宿る。神の心、言葉の魂に込めて伝えること易(やす)いが、文字で伝えると読む人それ想像するだけ。」
 ハヤテが言った。
「なるほど……、人と人が顔を見合わせて、言葉で神の心を伝えりゃぁまだそれが伝わるが、活字にしてしまうとその意味を想像するだけでしかなくなるっちゅうことじゃな。」
 カヌカウは言った。
「そう。人は文字読んでみな自分の都合ええように神の心想像する。すると本当の神の心どれかわからなくなり、みな自分の想像が正しいと言い張って喧嘩始める。これ良うないこと。」
 今度は、新約聖書のオランダ語訳を袋の中から取り出したハヤテが言った。
「ここに書かれている教えに基づいて天主教が生まれ、プロテスタンツが生まれた。その両者が仲違いして血ぃ流せなどと、この本読む限り教祖のイェーズス・クリストゥス(イエス・キリスト)は一言も言うておらん。それからすると、カヌカウさん言いんさる通りじゃ。」
 今までずっと通訳に回っていた勘蔵が言った。
「ほんなら、回教はそのこと知っとるんかわからん。回教の経典はアラビア語でしか書かれておらず、祈りの言葉も全部アラビア語だそうじゃけん。」
 勘蔵が今の言葉を自分で訳して伝えると、カヌカウが言った。
「その通り。その回教の本のことはわしも知っておる。その回教でさえ、教えの頭(かしら)の後継ぎ誰にするかの解釈が違うて枝分かれしたと聞く。」
 喜助が言った。
「わしゃ思うが、そりゃぁ神の心を文字にするんが良うないんと違うぞ。神の心書いた本はあってもええんじゃ。問題は、それ読んで自分の都合のええように解釈する人の性(さが)にある。それが真の神の心を書いた本なら、人が神の心を持ってして読みゃぁ、その心はきちんと伝わるはずじゃろう。」
 勘蔵がこれを訳すと、カヌカウはやや感心したように言った。
「なるほど……。それ、あんたの言う通りかわからん。」
 ハヤテが溜息をついて言った。
「……人は自分たちが平和に生きる方法のことでさえ、我(が)を通すために喧嘩せんとやっていけんのかのぅ。」
 カヌカウは言った。
「木や草、ただ生きておるだけでも空気きれいにしよる。珊瑚、ただ生きておるだけでも海の水きれいにしよる。人、生きておりゃぁ喧嘩するだけの生き物に見えるが、本当は神が人に与えた大事な仕事あるとわし思う。それ何かわかるか?」
 ハヤテはしばらく考えてから答えた。
「……全ての生き物を治める仕事じゃろうかのぅ?」
 それを聞いたカヌカウは、やや厳しい表情になってこう言った。
「それ違う。それ、人がよく勘違いする危ない考え。生き物治めるとすりゃぁ、それ神の仕事。生き物みなそれぞれ神から与えられた仕事持って生まれ、それぞれ与えられた仕事して死んでいく。それ何なのか人にはようわからん。
生き物一つ一つの役割みな違うけん、みな大事。同じ蟻でも、働き蟻と雄蟻と女王蟻の仕事みな違う。この世の無数の命もそれと同じこと。どれか一つ欠けても駄目。それらが無数の仕事してこの世をつくっとる。それこそ神の仕業。人はその一部にしか過ぎん。即ち、人も他の生き物と同じで、他の生き物より抜きん出とるわけではない。」
 ハヤテは納得したように頷いて言った。
「なるほど……。そう言われてみりゃぁその通りじゃのぅ。この世の仕組みつくったんは神さんであって、人ではないけんのぅ。人はただ、それに従ごうて生きとるだけじゃ。」
 カヌカウは、元の穏和な表情に戻って言った。
「そう。
……神が人に与えた大事な仕事、人に行けて他の生き物には行けんとこわかりゃぁ、それ何かわかる。」
 ハヤテは考えながら言った。
「……水ん中は蛙でも行けるし……、土ん中は蟻でも行ける。大凧乗って空に上がるんなら鳥の方がよほど上手に行けるし……。うーん、わからん。お手上げじゃ。」
 カヌカウは言った。
「わし、神ではない。だからこれわしの勝手な思いとして聞いとくれ。
昔、誰に命じられることなく、水牛(すいぎゅう)海を越えて島から島を渡った。その水牛の背に鼠が乗っておった。その鼠の背に虻(あぶ)が乗っておった。その虻の背に米粒乗っておった。そげんして生き物と作物あちこちの島に広がった。人、この水牛のような仕事する。
人、月や星見るとみななぜか美しいと思い、なぜかそれに憧れよる。これ、ちゃんとわけあると思う。これ、神が人に与えた性(さが)。人、その性により、いつの日か誰に命じられるともなく、神の力使うた大きな船つくって空を越え月や星へ渡る。これ、他の生き物にはできんこと。ほいで、乾いたその星に空気と水を蘇えらせ、生き物連れて行ってそこに住まわせる。これ、神が人に与えた一番大きな仕事。神、そのために人つくったとわし思う。」
 これを聞いたハヤテは、目を丸くしてこう言った。
「ほう! 月に住まうんか?! 竹取物語んようなこと、いつの日かあるんかいのぅ?」
 カヌカウが言った。
「わし、『タケトリモノガタリ』知らん。けど、人このまま進みゃぁ神の力使うてそこまでするようになるじゃろう。」
 喜助が言った。
「ほんなら、一見人が導いて生き物連れて行くように見えるが、実は渡し舟の船頭(せんどう)の役割っちゅうことなん?」
 カヌカウは言った。
「そう。人は神の意思によって運ぶだけ。何も偉いことない。」
 喜助は言った。
「じゃが、それまで砂漠のようじゃった星に水と空気を蘇えらせ、生き物を宇宙に広めるための役目とは、ええ仕事じゃと思うけどのぅ。」
 カヌカウは言った。
「そう。それには違わん。神、そのために必要な宝物、ようけ土ん中に埋めた。銅や鉄、燃える石、黒い油、これらみな神の宝。でも人、神から与えられた仕事忘れ、神の宝と神の力無駄なことに使うだけ。せっかく星へ旅立つための力の使い方見付けても、それ喧嘩することに使うて、この世を終わらせ、また一からやり直すことの繰り返し。これでは星へ行く前に神の宝全部使い果たしてしまいよる。
神の力、横に撃たずに縦に撃つ。そうすると、人、他の星へ行くことができるようになる。ほいで、今度こそ神が与えた仕事せないけんと思う。」
 喜助は感心して言った。
「なるほど……。人に備わった優れた能力を、つまらんことに使うてこの世を終わらせてしまい、また一から文明をやり直すことを繰り返しておる。そうこうするうちに、土ん中に埋まっとる星へたどり着くために要る物を全部使い果たしてしまうとな。そうなる前に、星にたどり着かないけんのぅ。
ほいで、大砲人に向けずに星に向けるように使やぁ、他の星に行けるようになるとな。大きな大砲の弾ん中に人が入っとりゃぁ、遠くの星まで届くかわからんのぅ。」
 だがカヌカウは、やや残念そうにこう言った。
「でも人、もし今のままでよその星行ったら、そこで生き物生かすことできん。」
 喜助は意外そうに目を見張って尋ねた。
「ほう、なしてまた?」
 カヌカウは言った。
「今の人、自分に都合のええ生き物しか連れて行かん。人、もっと生き物の仕組み知って心広うせないけん。今の人、牛や豚や鶏連れて行っても、蚊や蝿連れて行かんじゃろう。これ駄目。蚊や蝿にもちゃんと仕事ある。連れて行くんなら全部連れて行かないけん。そうせんと生き物の仕組み崩れて、折角連れて行った生き物みな滅びよる。この仕組みわかったとき、初めて乾いた星にも生き物満ち溢れ、人もそこに住めるようになる。」
 喜助がまた感心して言った。
「なるほど、生き物の好き嫌いなしに全部連れて行かんと、生き物の仕組み崩れるとな。それもその通りじゃろう。
フンコロガシは汚い虫に見えるが、道端の牛馬の糞は、こげな虫のお陰できれいに片付くんじゃ。もしこれがおらんかったら、この世の中、そこら中糞だらけになってしまうじゃろう。
ほんで、蝿のウジムシやミミズは見た目は気色(きしょく)悪いが、こげな生き物おってくれるけん、畑の肥やしは野菜や果物の根から吸い取られるようになるんじゃ。
けど、それらの虫だけ連れて行ってもいけん。それらを食べる虫を連れて行かんと、今度はそれらが増え過ぎてしまいよるけん。」
 ハヤテが苦笑いして言った。
「その理屈はわかる。けど、同じカビでも、青カビは味噌醤油つくるのに要るが、白カビは食べ物の味不味(まず)うするけん、わし、連れて行かんでもええ思うがのぅ。」
 カヌカウが言った。
「わしもそう思う。けど、もし白カビが悪い流行り病の元食べとったとしたらどげんする? 白カビのうなることによって、それまで隠れとった流行り病が表に現れ、人が大勢死ぬようなこと絶対に起こらんと、あんた言い切れるか?」
 ハヤテは困った顔になって言った。
「うーん……、そりゃわしにはわからんけん、何ともよう言わんわ。」
 カヌカウは微笑んで言った。
「そうじゃろう。神が生き物に与えた仕事、人には全部ようわからん。わかっとらんのに、人の都合だけで生き物の仕組みに手ぇ加えると、予期せぬようなとんでもないこと起こる。大昔にこういうことあった。」
 彼はしばらく目を閉じて何かを思い出すようにすると、間もなく目を開けてこう言った。
「『この世が洪水になりよるけん、大きな船に地上の全ての生き物の雄と雌を一組ずつ乗せて逃れよ。』っちゅう神のお告げを耳にした四人の男が、それぞれ自分の嫁さん連れて大きな船で海に逃れよった。
一の船のもんは蟻が嫌いじゃったけん、それだけ乗せんかった。
二の船のもんは鼠が嫌いじゃッたけん、それだけ乗せんかった。
三の船には烏だけ乗っておらんかった。
四の船のもんは神のお告げに従ごうて全ての生き物の番(つが)いを乗せた。
間もなく洪水が起こり、四艘の船は四十日四十夜水の上を漂い、水が引いてからそれぞれ別々の島にたどり着いた。その後、生き物たちは少しずつ増えていったが、何年かすると先の三つの船の生き物と人は全て滅び、四の船の生き物と人だけが生き残った。」
 喜助が言った。
「こりゃカヌカウさんの言う通りじゃろう。網の目のように張り巡らされた生き物同士の繋がりは、人が上辺を見ただけじゃ到底わからんわ。それをわかったつもりになって無闇にいじくり回しとると、予期せぬことも起きて当然じゃ。」
 勘蔵が日本語で言った。
「その仕組み早うわかるようになって、人に与えられた天職を今度こそ成しとげてほしいもんじゃのぅ。」
 ハヤテが目を輝かせて言った。
「わし、月や星へ行ってみたい!」
 勘蔵が言った。
「わしも行ってみたいわ。そのためにゃぁ、人間一人一人が力を合わせてその仕事成しとげんならん。戦なんぞしとる場合ではないわ。今宵は思わぬところで思わぬこと学んだ。」
 ハヤテが嬉しそうに言った。
「カヌカウさんは、わしらの町のモラのようじゃ。」
 勘蔵がこれを訳すと、カヌカウは言った。
「あんたらの町にそげなもんおる、ほいであんたら、わしらの話し聞いてもすぐにわかる。
今度は、そのあんたらの町の話し聞かせてくれ。」
 それには勘蔵が応じた。
 彼はまず、ここから遥か北の彼方にある日本という国の気候風土や、永く続いていた内戦のことなどを説明した。そして、近年それが統一されつつあったが、自分たちはその新しい政治のやり方に従がえず、そこから逃れてこの近海の島に町をつくったという経緯をポルトガル語で説明した。
 勘蔵たち三人を囲んで座っていた村長を始めとする村人たちは、通訳の老人によって訳されるその話しに、熱心に耳を傾けた。
 中国人と明国の存在は知っていたが、日本人と接するのが初めてで、日本という国やシャガの町の存在も知ることができた村長も、見聞が広まったことに至って満足の様子だった。
 村長が微笑んでカヌカウに何か言った。それは老人に伝えられ、老人はポルトガル語でそれを勘蔵に伝えた。勘蔵は、喜助とハヤテに向かってそれを伝えた。
「『三人とも今夜は村に泊まっていきんさい』と村長さん言うてなさるようじゃが、どげんするや?」
 三人は協議したが、仲間に心配させてはいけないので、そのお誘いを鄭重(ていちょう)に断った。そして、村の宴が終わるとすぐ、先ほどのようにして白鷹丸に帰って来たのだった。というところで、勘蔵は話しを終えた。
 シャガが、感慨深げに言った。
「そうかー……。それじゃぁ、とても立派な人たちなんじゃないの。」
 喜助が言った。
「その通りじゃ。便利な道具使い慣れると、うっかり失うてしまうような大事なことを失わずに守っとるげじゃ。わしらも見習わんならんのぅ。」
「モラに聞かせたら喜びそうな話しじゃ。」
 ロクがそう言うと勘蔵が言った。
「もしや、モラはこの島の出ぇかわからんぞ。」
 それを聞いた一同は、思わずどっと笑ってしまったが、喜助は真剣な口調で言った。
「いや戯言ではのうて、ここん衆は羅針盤なしに、あげに小さな舟で何百里も離れた島へ正確に航海する技を身に付けとるようじゃ。それ使うたら、こっらから日本へ行くんは、さほど難しいことじゃない思うわ。」
 モズは感心したように言った。
「ほう、そりゃ大したもんじゃ。けど、良う考えてみりゃぁ、わしら子供の時分にゃぁ羅針盤なんぞなかったけん、みなそげんして航海しよったのぅ。」
 ロクも言った。
「そうじゃ。羅針盤使い始めてから思うたが、便利な道具使うのはええが、それに頼り切ってしまうと、わしらに生まれつき備わっとる勘ようなもんが鈍うなってきよる。そのうち、道具なしじゃ生きられんようになってしまうかわからんのぅ。」
 喜助が言った。
「なるほど。わしゃ便利な道具持ってそれ使いこなす方が勝ちじゃ思うとったが、道具に頼り過ぎてもいけんちゅうことが、これで良うわかった。わしら、ここの衆見習うて、たとえ便利な道具使うても大事なことは失わんようにせないけんのぅ。」
 みなは口々に言った。
「そうよね。」
「そうじゃのぅ。」
 そしていつの日か、月や星に行けるようになることを願って、みなは満天に輝く夜空の星を見上げた。

「おーい! 島が見えたぞー!」
 熱帯の昼下がりの青空から、帆柱の上で見張っていた者の嬉しそうな叫び声が、白鷹丸の甲板の上に降って来た。それまで日除けの下で涼んでいた者は、それを聞くが早いか、みな一斉に舳先へと駆け寄った。
「どこだ?」
「どこじゃーっ?!」
「帆柱の上から今見えよったところじゃけん、もうちぃと待たんとこっからは見えんわ。」
「みな達者にしちょるかのぅ。」
 船長のロクが、副船長のモズに言った。
「ほなら旗掲げんか。」
旗  モズがそれを若い兵隊に命じると、彼らの町の紋である交差逆S字の大きな旗が、白鷹丸船首側の帆柱の上に掲げられた。
 それからしばらくすると、船上に出ていた者の誰もが、前方の水平線上に小さく現われた懐かしい島の姿を目にすることとなった。実に八ヶ月ぶりだ。
 その日の夕方、ようやく島の入り江に差し掛かって帆を畳んだ白鷹丸は、漕ぎ手の漕ぐ櫂によって、入り江の中にゆっくりと入って行った。
 ロクが、その入り江の中を見渡して言った。
「飛龍丸の姿が見えんのぅ。」
 その横にいたモズが言った。
「またいつものように、近くの島にでも出掛けておるんじゃろう。」
 やがて、港の桟橋(さんばし)から伝馬船(てんません)を一番に漕いで来た者が、白鷹丸の船べりに並んでいる一同の顔を笑顔で見上げて言った。
「良う戻った! みな達者か?」
 船べりから身を乗り出したシャガが、日焼けした顔に白い歯を覗かせて微笑み、それに答えた。
「待たせたわね! こっちはみんな達者よ! そっちもみんな元気?」
「おぅ、元気じゃ……。」
 そうは言ったが、彼の声には少し元気がなかった。厭な予感がしたシャガは、一番気になっていることを尋ねた。
「飛龍丸はどうしたの?」
 すると彼は、顔を曇らせて答えにくそうに言った。
「おう、それがのぅ……」
 そして彼は、真剣な表情になってこう言った。
「とにかくみなが待っとるけん、早う陸に上がらんか! 話しはその後じゃ。」
「うん、わかったわ……。」
 シャガはそう言うと身を引っ込めて、自分の横にいたハヤテに言った。
「どうやら、何かあったみたいね。」
 ハヤテは、やや不安げに言った。
「仲間割れかのぅ。」
「そうじゃないといいんだけど……。」
 やがて、錨を下ろして停船した白鷹丸の周りを、港から来た十数隻の伝馬船が取り囲んだ。既に甲板に集められていた積荷を、兵隊たちが次々とクレーンで吊ってその伝馬船に積み込んでいった。一方、船べりから垂らされた縄梯子を伝って、人も伝馬船に乗り移り、港の桟橋へと次々に運ばれていった。
 全ての物資や家畜が陸揚げされ、人も全て上陸すると、出迎えの者も含めた全員が浜に集まった。シャガがそこで簡単な挨拶を述べた。
「途中小さな嵐に遭ったり、何人かが熱を出したりお腹を壊したりしたし、海賊との戦もあったけど、町ができてから始めての長い船旅なのに、一人残らず無事に帰れてほんとに良かったわ。これも船乗りのみなさんをはじめ、協力してくれたすべての人のお陰です。みなさん、本当にご苦労様でした。」
 そして、今回の航海そのものに対する報酬を、船長のロクにまずまとめて預けた。彼は、それを船の乗組員たちに分配していった。ハヤテと喜助、勘蔵、張先生夫妻、ヤスとトヨといった者への報酬は、町長の直属(ちょくぞく)ということで、シャガから直接手渡された。
 また、マニラで胡椒を売却した際に得た利益の中から、留守をしていた各家々に一枚ずつ、スペインの8レアレス銀貨が渡された。
 それが済んだ一行は、出迎えの者に付き添われて、椰子林の奥にある広場へと向かった。
 椰子の葉の隙間から射す木漏れ日を浴びながら、シャガは満面に笑みを湛え、迎えに来ていたタネに抱き付いた。
「婆ちゃん! 会いたかったのよ! 元気にしてた?」
 タネも、自分より背の高い孫のシャガを抱き締めると笑顔で言った。
「オレだって、あんたたちが帰ってくるの今か今かと待ってたんだよ! 無事に帰ったんで元気が出たよ。」
 それを聞いたシャガは、歩きながら小声になって言った。
「飛龍丸に何かあったの?」
 タネも歩きながら、やや困った顔になって言った。
「うん。いつもなら何日かで戻って来るのに、七月に船を出したっきり戻って来ないんだ。」
 シャガは不審そうに言った。
「今はもう十月だから、三月(みつき)も戻らないってことじゃない! それって変だわ!」
 その横を歩いていたハヤテが言った。
「途中、嵐にでも遭うたんかわからんのぅ。」
「いや。それが、そうではないようじゃ……。」
 そう言ったのは、そのすぐ後ろを歩いていたモラだった。彼は手に持っていた折り畳んである紙を、振り向いたシャガに手渡しながら話しを続けた。
「……飛龍丸が出て何日かしてから、これが広場の櫓の上に石乗せて置いてあるの、掃除しに行ったもんが見付けよった。
まあ、読んでみぃ。」
 シャガはそこに立ち止まると、畳んであるその文(ふみ)をくるくるっと開いた。一行もみなそこに立ち止まると、その文を読み上げるシャガの声を聞いた。

「町長殿はじめ町民各位
 このたびの我らが行いには正当なる道理あり。
 我ら農民漁民に非(あら)ず、海を渡り商いし戦もしてこそ、はじめてその本懐(ほんかい)達せらるるものなれば、このたび我らに預けられし職務、それと甚(はなは)だ異なるものなり。
 この不満日毎(ひごと)に鬱積(うっせき)せしが、町長はじめ主要なる役員の帰還何時(いつ)とも知れぬゆえ、断腸の思いにて決行せしものなり。
 我らが胸中披瀝(きょうちゅうひれき)することなきは真に無念なれば、この文(ふみ)認(したた)め置きたる次第、ご一読あらせられ、ご理解頂けることを御(おん)願い奉(たてまつ)らん。
 飛龍丸船長並びに船員有志一同とその親族一同」

 読み終えたシャガは、片手で目頭を押さえると思わずよろめいて、横にいたハヤテにもたれ掛かった。ハヤテは彼女の体をその逞しい腕でしっかりと抱き止めて言った。
「わしら出たもんは船乗って好きなことできるが、留守役んもんは、そのあいだじっと待っとらないけん。それが長かったけん、辛抱できんかったんじゃろう。」
 ロクもそれに同意した。
「そうじゃな。今までは、留守してもほんの一月二月(ひとつきふたつき)じゃけん、何とかなっとったんじゃ。もし反対に、わしらが留守しとったら同じことしとったかわからんぞ。」
 すると喜助は、その太い眉を顰(しか)めてこう言った。
「その気持ちわからんでもないが、飛龍丸はこの町のもんで、そこに積んである武器はわしが取り仕切る防衛軍のもんじゃ。それを勝手に持ち出して戻って来んのは盗賊と一緒じけん、誰が許してもわしは許さん。
どうせイリが指揮して、こりゃ権次が書きよったんじゃろう。何が『正当なる道理、断腸の思い』じゃ!」
 モズが言った。
「そうじゃな。イリには事を起こす度胸はあるが、こげな文(ふみ)書く学(がく)ないけん。」
 喜助がモラに尋ねた。
「行きよったんは、飛龍丸の船員全てか?」
 モラが答えた。
「いや。今回白鷹丸で物買いに行きよった家んもんは行っとらん。」
 喜助は苦笑いして言った。
「まあ、そりゃそうじゃろうな。」
 そして、不敵な笑みを浮かべるとこう言った。
「ほんなら通常の半分足らずじゃけん、白鷹丸でも勝ち目はある。」
 ハヤテの肩に支えられていたシャガは、それを聞くと、赤く腫らした目で喜助を睨んでこう言った。
「ちょっと将軍! あんた何考えてるの? わざわざ戦わなくたって、飛龍丸とそこに積んである武器を返してもらえば、それでいいんじゃない!」
 その気迫に押された喜助は、ややうろたえた口調でこう言った。
「わ、わしゃこっちから攻めるとまでは言うとらん。もしあの衆が刃向かいよったら戦になるやわからんけん、それを想定したまでのことじゃ。」
 気を取り直したシャガは、ハヤテから離れて袖で涙を拭くと、また広場へ向かって歩き出した。みなもそれに続いて歩き出した。シャガは先ほどの文を元のように畳みながら、しっかりした口調で横を歩いていたモラに尋ねた。
「どこ行ったか心当たりある?」
 モラはそれに答えた。
「心当たりはないが、その文の中身から想像すりゃぁ、航海と商いと戦が揃うておるところじゃろう。日本ではないことだけは確かじゃろうけどのぅ……。」
「ほんなら、わしには大体見当が付く。」
 そう言ったのは、そのすぐ後ろを歩いていた勘蔵だった。シャガは歩きながらそちらを向いて尋ねた。
「どこ?」
 勘蔵はそれに答えた。
「アンボイナじゃ。」
 シャガには聞き慣れぬ地名だったので、彼女は聞き返した。
「えっ?」
 シャガの横に来た勘蔵は、彼女と並んで歩きながらこう言った。
「アンボイナ。モルッカ諸島の中にある島の港町じゃ。わしゃ行ったことないが、バンテンの又成殿からその噂聞いた。」
「なぜそこだと思うの?」
 シャガのその問いに勘蔵は答えた。
「なぜって、イリも権次もわしからポルトガル語習うとる最中で、もうかなり話せるようになっとる。このアンボイナっちゅうところは、ポルトガル船が数多く出入りする港で、丁子(ちょうじ)の産地だそうじゃ。エウロペでは、丁子は胡椒より高い値が付き、近頃ではオランダとイングラテラもこの近海に目ぇ付けとると又成殿が言うておられたじゃろう。
航海と商いと戦。この三つが揃うとるのは、今この近辺ではここが一番じゃけん、奴らその噂をどっかで耳にしよったんかわからんぞ。」
 又成から断片的に同じ話しを聞いていた者は他にもいたのだが、このようにしてそれらの情報を瞬時に組み立てられるのは勘蔵ならではの技であった。シャガは、広場西側に立っている櫓(やぐら)下段に設けられた自分の席に着きながら、その勘蔵に言った。
「なるほど……。わかったわ。」
 櫓の役員がみな席に着いたのを見届けたシャガが、立ち上がって前に進み出ると、それまでざわざわしていた会場が静まった。シャガは、広場に集まっている大勢の一般町民を見渡すと、よく通る声でこう言った。
「みなさん、長い航海からようやく無事に帰って来ることができました。そのあいだ大変お待たせしてしまいましたが、瓶ヶ島町ができてから初めての交易にしては、大きな利益を上げることもできました。その代わりと言ってはなんですけど、飛龍丸乗組員の一部の人たちが、船ごと出て行ってしまったという、悲しい知らせを先ほど聞きました。」
 彼女は、ややかすれた声でこう続けた。
「みなさんもご存知の通り、航海の日数は風向きと潮の流れとで大きく変わります。出掛けた人はいいけど、それを待ってる人は自分が本当にしたいことができずに、そのあいだ耐えなければなりません。
あたしは先の会議で、『今度の交易には白鷹丸が出て、留守役の人の数が多い分船体の大きな飛龍丸を残しておく』とは言いましたが、今まで通り留守役は交替で勤めればいいと思ってたんで、そこまで説明しませんでした。あたしの言葉が足りず、飛龍丸の人たちは自分たちが毎回留守役になると誤解してしまったのかも知れません。もしそうだとすれば、これはあたしの責任です。」
 シャガがそう言うと、その後ろの役員席の中でロクが言った。
「わしゃ、毎回白鷹丸が交易に出よっても、留守役んもんは今まで通り交代じゃ思うとったがのぅ。」
 会場のあちこちからも声が上がった。
「わしもじゃ。」
「あたしもよ。」
「オレもそう思ってた。」
 役員席の中のモラが言った。
「そりゃ多分イリと権次とて同じじゃろう。もし航海の人選に異議あったら、白鷹丸の出港決めるために開いた先の町民会議んときに言わないけん。そのための会議なんじゃけんのぅ。シャガは自分責めることないぞ。」
 シャガは、そちらを振り向いて言った。
「ありがとう。」
 そして彼女は、また一般町民に向かってこう言った。
「でも、いずれにせよ、あたしは飛龍丸を探し出して、できればそこに乗ってる人たちも連れ戻したいと思いますが、みなさんはどう思いますか? 意見があれば手を上げて下さい。」
 みなは口々に言った。
「賛成!」
「それでいいよ!」
 ところがここで、シャガの後ろから、このような声が上がった。
「異議あり!」
 振り向くと、役員の中から喜助が挙手していたので、シャガは彼を指名した。
「それでは将軍、どうぞ意見を言って下さい。」
 先ほどからずっと眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せていた喜助は立ち上がると、一般町民にも聞こえるような大きな声で言った。
「飛龍丸とそこに積んである武器取り戻さんならんのは当然じゃが、わしらから離れて行きよったもんまで無理に連れ戻すことない思うけどのぅ。」
「なんでですか?」
 シャガのその問いに喜助は答えた。
「わしらの帰りを辛抱強う待ってくれたもんもおる。けど、あの衆はあっさりと去って行きよった。置き文にはあげに書いてあったが、もとからこの機会を狙うとったとみてええじゃろう。その証拠に、あの衆の家々は互いに親戚関係で繋がっとって、今度の白鷹丸での買出しには揃って誰も出しとらん。
戦をこっちから仕掛けることがのうなったこの町に、戦したいもん無理に連れ戻しても、また同じこと繰り返しよるのは目に見えておる。わしらが海賊しよった時分にゃぁ秘密守るために離れていくもん放(ほ)っとかんかったが、敵がおらんようになった今はもう違う。そげなもん放っとかんか。」
 喜助が座ると、今度はその隣に座っていたロクが挙手したのでシャガは言った。
「ではロク船長、どうぞ。」
 ロクは立ち上がって言った。
「将軍にそげん言われてみると、イリが愚痴言うとったことあったわ。
『船長になれて嬉しい思うたが、この島来てから戦が一つもないようんなったけぇ、なった甲斐ないわ。』て。」
 ロクが座ると、シャガは残念そうに言った。
「なるほどね……。
去って行った人たちの望みをできるだけ叶えてあげて、町に戻って来てもらおうと思ってたけど、それじゃぁ少なくとも、その望みを叶えることはできないわね……。」
 今度はモラが「はい!」と言って挙手したので、シャガはそちらを向いて言った。
「それでは顧問どうぞ。」
 腰が弱っているモラは、座ったままでこう言った。
「今思い出したが、買出しに行きたい家んもん募ったときに、手ぇ上げたもんの家と選ばれたもんの家、ちぃと違うとったのぅ。」
 今度はモズが挙手したのでシャガが指名すると、彼は立ち上がってからこう言った。
「そうじゃ。わしも変じゃのぅ思うとったんじゃ。けど、その後誰も文句言わんかったけん、わしの見間違いかと思うとったわ。」
 モズは座ったが、彼のその言葉によって、会場のあちこちで声が飛び交った。
「手ぇ上げとったもんの家で、行っとらん家あったのぅ。」
「おいも気ぃ付いとっとよ。」
「変だと思ってたよ。」
 シャガが、ロクに向かって尋ねた。
「買出しに行く家の者を紙に書き込んだの誰だっけ?」
 ロクは、しばらく考えてから答えた。
「……はっきり覚えとらんが、そげな仕事はいつも権次がしちょるわ。」
 喜助が言った。
「わし思い出した。それ権次に間違いないで。」
 モラが言った。
「ほうか。これでちぃと見えてきよったのぅ。」
 喜助が言った。
「……ちゅうことは、権次が仲間にしたいもん買出しの紙に書かず、会議終わってからそのもん抱き込んだちゅうことか。」
 モラが言った。
「そうじゃろう。」
 ロクが吐き捨てるように言った。
「糞! 権次の奴めっ!」
 シャガが言った。
「まあ、本人抜きでああだこうだ言っても始まらないわ。とにかく飛龍丸とあの人たちを探し出して、何考えてるのか聞いてみましょうよ。」
 すると、役員席の中から年老いた女性の声が上がった。
「あの子たちの考えを聞くのもいいけど、これには深い問題があるよ、シャガ。」
 巫女のタネだ。シャガは、彼女に向かって尋ねた。
「深い問題ってなに? 婆ちゃん。」
 それまでざわめいていた会場は、タネの話しを聞くために、シーンと静まり返った。
 白髪の混じった長い黒髪を背中の中ほどで結び、赤い勾玉の首飾りをしている彼女は、座ったままだが腹に響くような太い声でこう言った。
「イリにしても権次にしても、なぜそこまでして戦がしたいのか、よく考えてごらん。」
 シャガは、しばらく考えてから言った。
「……うーん、そういう性格なんでしょ、きっと。」
 それに対して、タネはこう言った。
「それじゃ、その性格ってのは、どっから来てるかわかるかい?」
 シャガは返答に困ってしまったが、ここで同じ役員席の中から声が上がった。
「そりゃぁ、前世(ぜんせ)からの因縁(いんねん)ちゅうもんじゃろう……。」
 勘蔵だった。彼も座ったままだが、持ち前の快活な口調で言葉を続けた。
「前世で人斬ったり殺(あや)めたりしたもんが、この世に生まれ変わったら、またそげんことしてみとうなる。こりゃ、あの二人に限ったことじゃのうて、わしらにみな言えることじゃろう。」
 彼がそう言い終えた途端、会場は騒然となった。それに対してタネが何か言おうとしているのを察したシャガは、広場に向かって片手を上げた。すると、町民たちは徐々に静まっていった。
 会場が静まると、タネはシャガに向かってこう言った。
「難しい言葉は、あたしにゃわかんないけど、まあ大体勘蔵が今言った通りだと思うよ。
モラだって将軍だって、そういう性(さが)を持ってる。だから、侍に復讐するための集まりをつくって、大勢の仇(かたき)を殺すようなことをしたんだろう。」
 それを聞いたシャガは、何かを思い出したように言った。
「……そうそう! 将軍が、アユタヤの大王に侍として仕えたいって言ったとき、あたし、なんか変だなぁって思ったのよ。自分の恨みはもう充分晴らせてるのに、なんでそこまでして戦(いくさ)がしたいのかって。」
 それを聞いた役員席の中の喜助は、座ったままで頭を掻きながらこう言った。
「実はわしも、変じゃのぅ思うとったんじゃ。」
 それによって、それまで暗い雰囲気に包まれいた会場からドッと笑いが起きた。
 モラも笑っていたが、持ち前の穏やかだが良く通る声でこう言った。
「フフ、そこが肝心なとこじゃろう……。」
 その話しを聞くために会場が再び静まったので、彼は言葉を続けた。
「……わしらが海賊やめて、わざわざ町長を女子(おなご)にすることにしたんは、そこなんじゃ。
わしらがもし、あのまま日本で海賊続けとってみぃ。仇を討ったはええが、今度はわしらに恨み持つもんが、必ず出て来よる。そげんことしとったら、いつまで経っても、それこそ千年万年経っても、この殺し合いの連鎖から抜け出すことはできん。これをどっかで断ち切らにゃぁいけんのじゃ。」
 それを聞き終えた喜助が、真剣な口調でこう言った。
「なるほど。イリと権次は、それができんかったっちゅうことじゃな。」
 モラは頷いて言った。
「その通りじゃ。
自分の心の底から湧いて来る、したいこと押さえて生きるにゃぁ、それなりの勇気が要るし力も要る。頭も使わにゃいけん、しんどいことじゃ。けど、それができるか、できんかによって、その孫子(まごこ)の代の流れが大きく変わってきよる。孫子のほんまの幸せ考えとるか、考えとらんかによって、そこが分かれ道となる。
ただ金銀財宝だけ、孫子に残してやることだけ考えとったら、そりゃ大間違いっちゅうことなんじゃ。」
 その言葉によって会場は再びざわめいたが、それは、この意見に深く納得しているか、同意しているかの声であった。
 ここには、丁度この時代に金銀の鉱山が次々と開拓されつつあった双美ヶ島から逃れて来た者もいる。また、日本の大名から略奪することをやめて、新しい生き方を求めて来た者もいる。その彼らにとって、モラのその言葉は、琴線(きんせん)に触れるものであったのだろう。
 会場が静まると、モラは話しを締めくくった。
「子を育てる母の愛は、何物にも代え難い。男はこれを持ち合わせとらん。ほんで、この町を導くのは女に限るとしたわけじゃ。」
 それによって、会場のあちこちから再び感嘆の声が上がった。
 それが静まると、タネはシャガに向かってこう言った。
「わかったかい? あの子たちを探すんなら、そこのところをちゃんと肝に銘じておくんだよ。」
 シャガはそれに応えた。
「わかったわ。婆ちゃん。」
 そして彼女は、再び広場の一般町民に向かって言った。
「それではみなさん! 飛龍丸に乗ってる人たちを無理に連れ戻すことはしなくても、せめて船と武器は返してもらう、ということにしませんか?」
 そのシャガの意見に異論を唱える者はなかった。
 その後の役員の協議と、町民の採決によって、白鷹丸による飛龍丸捜索隊が編成された。
 もし飛龍丸を取り戻せた場合には、それを操縦するための船員が必要だったし、喜助の言うように最悪の場合には戦闘が生じることも考慮しておく必要がある。そのため乗組員の数は、それに見合ったものにする必要があった。今回の教訓も踏まえて、なるべく誰からも不満が出ないような人選にすることに、シャガたちは細心の注意を払った。
 捜索隊出発の日取りなどが決まると、その後は今回の交易による収支の報告や、海賊との戦闘の報告などに話しが移行し、それに続いて、この旅の様々な土産話が披露された。その中での圧巻は、なんと言っても勘蔵による森山家日本脱出の顛末の話しであった。飛龍丸失踪によって気が塞いでいた町民たちは、我を忘れてそれに聞き入った。

 一五九三(文禄二)年十一月二十二日の午後、青い水平線の上に、小さな黒い点が一つ現われた。それは次第に大きくなり、島へと近付くに従がって二つに分かれてきた。
 やがて、その二艘の帆柱に、いずれも自分たちの旗が掲げられていることを確認した瓶ヶ島山頂の見張りの者は、早速それを伝えに町まで馬を走らせた。
 それを聞いた町の人々は一斉に、町民集会とその後の宴会の準備を始めた。
 その一方、島の入り江の両側に設けられている砲台では、砲撃の準備がなされていた。その二艘が、謀反(むほん)者によって占拠されている可能性もあるからだ。
「白鷹丸が負けよって、二艘ともイリが指揮しとるっちゅうことも有り得るけん、シャガの顔見るまで油断は禁物じゃ。」
「でも、二艘とも無傷のようだって言うじゃないか。」
「それなら、ちゃんと取り戻せたんだろうよ。」
 町の人々は、口々にそのようなことを言い合っていた。
 やがて、濃厚なオレンジ色の夕陽に染まった瓶ヶ島の入り江の中に、帆を畳んだ白鷹丸と飛龍丸が、櫂に漕がれて入って来た。それに向けて、港から一隻の伝馬船が漕ぎ出された。二艘の櫂が動きを止めて錨が下ろされると、間もなく伝馬船から狼煙が二発空に向けて打ち上げられた。二艘ともシャガの指揮下にあることが確認されたという合図だ。
 すると港からは、たくさんの伝馬船が漕ぎ出して、二艘の人や物資を次々と陸に向かって運び始めた。
 やがて、夕闇迫る椰子の木に囲まれた広場には、明かりが明々とともされ、今回の捜索隊からの報告を聞くための準備が整った。食べ物と飲み物が全員に行き渡り、忙しく立ち働いていた者全てが各自の席に座ったのを見届けたシャガは、櫓下段に設けられた自分の席から立ち上がると、役員の前に進み出た。そして、広場の一般町民たちに向かってこう言った。
「みなさん、このたびの事件では、私たちから離れて行く人は出ましたが、飛龍丸と武器を取り戻し、武器の一部は原価で譲り渡したということで、一応けりが付きました。捜索隊のみなさんは、お勤めご苦労様でした。」
 拍手と共に、会場のあちこちから声が上がった。
「わしらは船操(あやつ)っただけじゃ。一番働いたのはシャガじゃ!」
「よっ! シャガ大明神(だいみょうじん)!」
 その言葉に照れたシャガは、困ったように眉を寄せて言った。
「ちょっと、大明神なんて呼ぶの、やめて下さいよ!」
 シャガの後ろに並んで座っている役員の中から、喜助が言った。
「いや、ありゃぁわしら並のもんには考えつかんことじゃけん、神技(かみわざ)じゃ。」
 やはり役員席に座っているタネが、話しの催促をした。
「おい、それを早く聞かせてくれよ!」
「うん、わかったわ。」
 シャガはタネに向かってそう言うと、今度はその隣りの席に座っているハヤテに向かって言った。
「それでは助役、報告をお願いします。」
 そのハヤテが立ち上がって前に進み出ると、シャガは彼と入れ替わって自分の席に座った。すると、同じ役員席に座っていた喜助が焼酎の瓶を持って立ち上がり、シャガの前に来てこう言った。
「いつも人に注いでばかりじゃけん、たまにゃぁ自分から飲みんさい。」
 その言葉に、会場のみなはどっと笑った。
 彼らにとって、この最初の一杯には特別な意味がある。今回の仕事の功労者の代表という意味である。シャガも微笑んでそれを受けると言った。
「初めてで緊張するわ。」
 それによって、会場からはまた笑いが起こった。しかし、彼女がそれを見事にスッと飲み干すと、会場からは男たちの歓声が上がった。
「いいぞーっ、シャガ!」
「ええ飲みっぷりじゃ!」
 会場が静まると、ハヤテは一般町民を見渡して軽く微笑み、いつもの穏やかな口調で言った。
「……報告するほど大そうな話しでもないんじゃがのぅ。みな、飲み食いしながら楽にして聞いとくれや……。」
 彼はそう前置きしてから、飛龍丸奪還に至るまでの報告を始めた……。
 白鷹丸による「飛龍丸捜索隊」は瓶ヶ島を出発すると、勘蔵の意見に従がって、とにかくまずモルッカ諸島のアンボイナを目指すことにした。
 丁子・肉荳(にくずく)・肉桂(にっけい)などといった香料は、現代の日本では、それぞれクローブ・カルダモン・シナモンと言う方がわかり易いだろう。これらは、その当時のヨーロッパで貴重品であった胡椒の、更に数倍の値で取り引きされていたと言われている。その特産地モルッカ諸島の南端に位置するアンボンという島の名称は、オランダ統治以降のもので、当時はポルトガルのアジア貿易の拠点の一つであり、アンボイナと呼ばれていた。
 その大きな港に白鷹丸が入港して間もなく、この船の見張りの者と甲板の上に出ていた者はみな、勘蔵の推測が正しかったことを知って喜びの表情になった。帆を畳んで停泊している何艘かの大きな帆船の中に、飛龍丸の姿を見付けたからである。
 船首の船べり越しからその状況を確認した勘蔵が、周囲の者に向かって嬉しそうに叫んだ。
「どうじゃ! わしの勘も大したもんじゃろう!」
 その背中をドンドンと叩きながら、ロクも嬉しそうに叫んだ。
「ハハハ! 名前負けしとらんわ!」
 それを聞いたその場の一同は、みなどっと笑った。
 晴れ渡った紺碧の空の下、青く澄んだ水の上を、帆を畳んだ白鷹丸は、櫂によってゆっくりとその船に近付いているが、その前方を指差した喜助が、眉間に皺を寄せて叫んだ。
こらーっ! 戯言(ざれごと)言うて笑うとる場合ではないぞ! あの音聞いてみい!!!
 一同は静まって耳を澄ました。すると、その表情が一瞬にして喜びから驚きへと変わった。そこから聞こえて来たのは、何と「戦の支度」を指示する太鼓の音であったからだ!
 吐き捨てるようにロクが言った。
「糞! この船見よって、戦の支度しよったわ!」
 喜助がシャガに向かって、重々しい口調で言った。
「奴らやる気じゃけん、こっちも支度せないけんのぅ、町長。」
 ところがシャガは、強い調子でこう言った。
「ちょと待ってて! あたしに考えがあるの!」
 そう言うが早いか、彼女はいきなり着物の裾を翻(ひるがえ)し、目の前の船べりに素足で飛び乗った。そして頭上に渡されている帆綱を片手で握りながら、舳先の先端に向かって進むと、みなの方を振り向いてこう叫んだ。
「あの人たち、あたしたちが攻めると思って戦の支度してるんでしょ。こっちにその気がないってことを見せればいいんじゃないの!」
 さすがの海の荒くれ男たちも、彼女の取ったこの行動には思わず絶句してしまった。
 飛龍丸船上の人の顔が誰なのかを判別できる距離にまで白鷹丸が近付くと、シャガは再び振り向いてロクに命じた。
「船長、船を止めて!」
 ロクが停船を指示し、モズが太鼓でそれを伝えると、櫂はすぐに動きを止めた。
 シャガを舳先に乗せた白鷹丸は、惰性でしばらく進むと、その先端が飛龍丸の右舷から三間ほどのところに来て止まった。
 飛龍丸の船上には、色白で日本人離れした顔立ちのイリと、色黒で面長の権次をはじめとする乗組員が抜刀し、あちこちで火縄の煙が上がっている。鉄砲の銃口は白鷹丸の船上に、大砲の砲口はその船体へと向けられていた。
 イリが、飛龍丸の船べり越しに刀を振り回しながら叫んだ。
こらーっ! シャガっ! お前死ぬ気か! そこをのかんかーっ!!!
 しかし白鷹丸のシャガは、頭上の帆綱を握り締めたまま、彼に向かって毅然とした口調で言った。
駄目よ! 白鷹丸を撃つんなら、まずあたしを撃ってからにしなさい!
イリ船長! 置き文読んだわよ。あんたたちの気持ちはわかるけど、なんでそれを町民会議のときに言わなかったのよ!」
 イリが叫んだ。
戦したい言うても、通らんじゃろうが!
 シャガは言った。
「それはそうだけど、あたしたちと違う生き方をしたいって言えば、それは通ったはずよ!」
 今度は権次が言った。
それは通っても、瓶ヶ島からどげんして出るんじゃ!
 シャガは言った。
「あんたたちをここまで送り届けることくらい、容易(たやす)いことだわ。」
 シャガの後ろの船べりから、喜助がぬっと顔を出して怒鳴った。
お前ら、『飛龍丸とそこに積んである武器も欲しかった。』それが本音じゃろうが!
 イリも権次もそれに対する返答をしなかった代わりに、間もなく銃が一発空に向けて発射された。
やい! シャガ! 次は脅しでのうて、ほんまに撃つぞ! 早うそこをのかんかい!
 イリはそう叫んだが、シャガは冷静な口調でこう言った。
「撃てるもんなら撃ってみなさい。」
 そして、後ろを振り向いて言った。
「船長、船を飛龍丸に着けて!」
 ロクの指示が出されると、白鷹丸はゆっくりと少しだけ進んで、その長い舳先を飛龍丸の船べりの上に重ねた。その途端、帆綱から手を放したシャガは、そこを伝い走って飛龍丸の甲板の上に飛び降りてしまった。
 他の者と同じようにして、船べりから顔だけ出してこの様子を見守っていた夫のハヤテであったが、これにはさすがに放って置けなくなったようだ。彼は立ち上がって船べりに飛び乗ると、シャガの後に続いて飛龍丸に乗り移った。
 喜助も同じく立ち上がって、ハヤテの後に続こうとしたが、弟の勘蔵が後ろからその襟をつかんで、暗黙のうちにそれを制止した。彼が行くと、かえって相手を刺激すると判断したためだ。喜助も冷静にそれを理解したようで、他の者と同じようにして、引き続き注意深く飛龍丸の上の様子を窺った。
 白鷹丸の船首が飛龍丸の左舷に接触したので、ゴーンという大きな鈍い音と共に、白鷹丸に大きな衝撃が伝わり、飛龍丸は何度も大きく横に揺れたが、その甲板に立っているシャガは、それを物ともせず、不敵な笑みを浮かべると、イリに詰め寄ってこう言った。
「イリ船長! あんたたちがどうしても戦したいんなら、あたしたちとは一緒にやっていけないわね。でも、この船は渡さないわよ!」
 その度胸に圧倒されたイリは、恐怖に目をカッと見開いたまま思わず絶句した。
 その周囲を取り巻いている大勢の兵隊たちは、事の成り行きを慎重に見守っている。シャガの後ろに立っていた長身のハヤテは、普段と変わらぬ穏やかな口調でイリに向かってこう言った。
「この船と武器、町のもんじゃけん、わしらに返しんさい。」
 イリの横で権次が言った。
「武器なけりゃ、わしら仕事にならんけぇ、そりゃぁできん!」
 シャガは眉をひそめて尋ねた。
「あんたたち、何の仕事してるの?」
 少し落ち着きを取り戻したイリが、それに答えた。
「ポルトガルの傭兵じゃ。」
 シャガは言った。
「なるほど、それなら武器は要るわね。でも船は要らないんじゃないの?」
 権次が言った。
「いや、休みんときに旅行や買い物に出たりするけぇ船も要る。」
 シャガは笑って言った。
「ハハハ! それは勝手過ぎるわ。町を勝手に離れたあんたたちの、そんなことだけのために、あたしたちの大事なこの船を渡すことまではできないわよ。」
 イリが怒鳴った。
やかましいわい!
 このとき、船尾の方から女の声がした。
「やかましいのは、あんたの方じゃろうが!」
 それは、こちらにむかって歩いて来るイリの妻トミの声だった。その彼女に向かって、夫のイリが怒鳴った。
こらーっ! 戦んときは、女は船室に居ることになっとるじゃろうが! 早ういね!
 そのトミの後ろには、数名の女たちが着き従がっていた。いずれも、この船の主だった者の妻だ。
 トミは自分の夫に向かって、やや強い口調でこう言った。
「決まり破ったんは悪かったけどのぅ、あんたらのしとること無茶苦茶じゃけぇ、下で聞いとったら腹立ってきたんじゃ。シャガとハヤテの言いよん方が正しいぞ!」
 トミの背後の女たちは口々に言った。
「そうじゃ!」
「そうじゃ!」
 イリと権次は困ったように顔を見合わせた。
「ここまで来る用は早や済んだけぇ、飛龍丸町に返して当然じゃ。」
 そう言ったのは、権次の妻チカだった。
 それを聞いたシャガは、微笑んでこう言った。
「そうして貰えると有り難いわ。将軍と相談するわね……。」
 そして白鷹丸の方を向くと、大きな声でこう言った。
「将軍! ちょっと来てちょうだーい!」
 船べりから顔を出して事の成り行きを見守っていた喜助は立ち上がると、シャガやハヤテと同じようにして飛龍丸の上に降り立った。その喜助がイリと権次を睨み付けると、二人は次々と彼から目をそらして背中を丸めた。
 喜助に向かってシャガが言った。
「将軍、みんな傭兵の仕事してるんだって。だから、それに使う武器はいいことにして、飛龍丸と大砲、そして予備の武器を返してもらえば、それでいいよね?」
 太い眉を顰めている喜助は、再びイリと権次をじろっと睨んで言った。
「そもそも、鉄砲と大砲わしらに向けるの、やめるのが先じゃろうが!」
 それを聞くが早いかイリが目配せしたので、権次は太鼓に走って戦の支度解除の合図を叩いた。それによって周囲の兵隊たちはみな刀を鞘に納め、銃の火縄の火が次々と消され、引っ込められた大砲からは玉と火薬が抜き取られた。
 それを見届けた喜助が言った。
「……この船に備え付けの武器の多くは、わしらの刀鍛冶や鉄砲鍛冶がつくりよったもんじゃが、それもきちんと銭(ぜに)払うて買うたもんじゃ。その分の銭、きっちり払わんかい!」
 仕方なさそうにイリが言った。
「そいで許してくれるんか?」
 喜助が怒鳴った。
許すも許さんもあるか! お前らみたいな奴、知らんわい!
 イリは、叱られた子供のような顔になった。
「用が済んだけん、わし帰るぞ。」
 喜助はシャガにそう言い残すと、さっさと白鷹丸に引き上げて行った。
 その喜助が指示したのだろう、先端に鉄の鉤が付いた複数の太い綱が、間もなく飛龍丸の甲板に投げ込まれて手繰り寄せられた。すると、それは船べりに引っ掛かって更に手繰り寄せられ、それによって白鷹丸の舳先が、飛龍丸の右舷にしっかりと固定された。
 シャガは、飛龍丸の甲板の女たちに向かって尋ねた。
「みんな船で暮らしてるの?」
 トミが言った。
「元はそうじゃったが、今は町ん中に家借りて住んどるけぇ心配要らんよ。今日は、たまたま掃除しに来とったんじゃ。」
 シャガが言った。
「それなら良かったわ。」
 ハヤテは、その女たちの首に小さな銀の十字架が掛かっていることに気が付いた。
「あれ? もしかして、あんたら天主教に入ったん?」
 そのハヤテの問いに、女たちはみな微笑んで口々に言った。
「そうじゃ。」
「男も女ものぅ。」
 良く見ると、イリも権次も同じような十字架を首に掛けている。
「あんたらも入らんか。」
 トミからそう言われたシャガとハヤテは一瞬顔を見合わせたが、ハヤテはトミに向かってこう言った。
「わし、神さんおることは認める。ほいで、天主教の教祖は立派な人じゃ思うし、神さんの声も聞きんさったんじゃろう。しかも、奇跡起こす不思議な力もあったんと思うよ。
けど、わしの考えじゃ、それを一人一人が自分の頭で読んで、自分の心で信じるもんじゃ思うとるけん、偉い人が指導しとる天主教にゃぁ入れん。」
 それに続いてシャガも言った。
「あたし、その教えの中身のことはわからないけど、町長のあたしが天主教に入れば、瓶ヶ島はその大僧正(だいそうじょう)に従がうことになってしまうわ。誰かから支配されることをずっと拒んできた、このあたしたちに、それはできないことよ。」
 トミは、呆れたような苦笑いをして言った。
「いやー、ハヤテもシャガも、何やら難しいこと言いよんなったのぅ。パードレん言いんさること、『Sim, sim.(はい、はい。)』言うて、おとなしゅう聞いとりゃぁ、そげな難しいこと考えんでも済むことじゃろうが。」
 その彼女に向かってハヤテは微笑むと、こう言った。
「餅は噛んで飲んでこそ血となり肉となる。噛まずに飲んだら腹壊す。『神さん』のこと教えとる言葉もそれと一緒思わんか? 良う噛んで頭ん中入れた方がええぞ。
『噛みんさい、噛みんさい』言いんさるけん『噛みさん(神さん)』言うんじゃろうが!」
 ハヤテのその駄洒落(だじゃれ)に、女たちはみな大笑いした。
 それによって、それまでしょげていたイリが気を取り直すと、権次を含めた周囲の者に向かって大声で言った。
よしゃ! ほんなら船を引き渡すけぇ、各自自分の武器と荷物持って船降りんさい!
 兵隊たちの何人かが、その指令を船内にいる者にも伝えに走った。
 トミは、夫のイリに向かって言った。
「うちら、武器の代金掻き集めて来るけぇのぅ。」
 彼女たちは、左舷に掛けられている梯子を伝って飛龍丸を降りて行った。
 しばらくすると先ほどの女たちが、手に手に皮の袋を持ち、武装した数名の男たちに護衛されて飛龍丸に戻って来た。それらがまとめて甲板に置かれると、トミはイリに向かってこう言った。
「有り金全部掻き集めたが、これしかなかったんよ。堪忍してもろうといてくれや。」
 彼女たちはそう言って船を降り、イリは申し訳なさそうにシャガに向かって言った。
「ちぃと足りんようじゃが、これで堪忍してくれや。」
 シャガは言った。
「ない物を出せって言っても無理だもんね。わかった。将軍にはあたしから言っておくわ。」
 イリは、ちょっと寂しそうに言った。
「シャガや。鉄砲なんぞ向けて、済まんことしたのぅ。」
 シャガは微笑んで言った。
「いいのよ。もう済んだことだし。戦しても、命は大切に。元気でね。」
「シャガも達者でのぅ……。
……ハヤテ。」
 イリはまた寂しそうに、ハヤテに向かって言った。
「……達者でのぅ。」
 ハヤテが言った。
「おう。イリも達者でのぅ。」
 そして、声を潜めるとこう言った。
わし思うが、こりゃぁ権次の差し金じゃろう?
「……。」
 イリはしばらく黙っていたが、寂しそうに微笑むと、こう言った。
「『昔んように戦して、手柄立てて褒美貰うっちゅうのが、したいのぅ』て、まずわしが権次に言うたんじゃ。先に言い出したんは、このわしじゃ……。」
 ハヤテに向かってそう言い残した彼は、船べりに掛けられた梯子を降りて行った。飛龍丸から下船する最後の一人となった彼が岸壁に降り立ったのを見届けると、シャガは白鷹丸に向かって手を振った。すると、それまで待機していた、今回飛龍丸の乗組員と定められている者が、次々と飛龍丸に乗り移って来た。
 このようにしてシャガたちは、無血で飛龍丸を奪還(だっかん)することに成功したのである。そして、この港に隣接する市場で珍しい香料などを仕入れると、早速帰路に就いたのであった。
 この報告を聞き終えた町民はみな、シャガの捨て身の行為に感動し、会場は大いにどよめいていたのだが、滅多に人を褒めることのないモラが、珍しく最初から意見を述べた。
「シャガ、お前大したもんじゃのぅ。」
 広場からも様々な声が聞こえた。
「やっぱし大明神じゃ。」
「シャガ! その細い体のどこに、そんな度胸が詰まってるんだい?」
 役員席の中のシャガは、座ったまま照れて言った。
「こっちが攻めて来ると思うから相手は構えるんだろうし、こっちにその気がないっていうとこ見せれば、相手だって喧嘩する気なくすんじゃないかって思ったのよ。白旗掲げれば降参することになるんで、ちょっと違うし……。
だからあたしは、その先のことを何も考えずに、あんなことしてしまったけど、もしトミさんとチカさんたちが加勢してくれなかったら、今頃どうなってたかわからないわ。あー怖かった!」
 シャガはそう言うと、さも恐ろしそうに身をぶるぶるっと震わせた。しかし、喜助は感心したようにこう言った。
「わしら男の考え方では、相手が戦の支度しよったら、こっちもそれして当然じゃ……。
こりゃ。女でしか思い付かんこっちゃわ……。」
 モラも同じように言った。
「その昔、女が国を治めておったら揉め事が少なかったっちゅう言い伝え、いよいよ真(まこと)の話しと見てええじゃろう……。」
 それを聞いたタネは微笑むと、黙って頷いた。

 このようにして新しい文物に触れ、様々な困難を乗り越えながら、瓶ヶ島町民たちは、その後交易によって少しずつ潤(うるお)い、飛龍丸乗組員の離反(りはん)によって一時的に減った人口も、徐々に回復していった。

<続く>
前へ  Page Top  次へ
(c) 2004-2015 Tano Kakashi All Rights Reserved.
inserted by FC2 system