総アクセス数:

現在の閲覧者数:
物語

はまなすの実

原作/田野呵々士

第五章 三人の少女の大冒険

 ジャワ島バンテン市在住の日本人、森山又成(もりやままたなり)が予測していた通り、そしてオランダ人フローテヴーテンがハヤテに予告した通り、オランダの船団がバンテンの港に来航した。一五九六(慶長元)年のことである。
帆船  それから六年後の一六〇二(慶長七)年には、オランダ東インド会社が設立された。
 現代の感覚で「会社」と言えば、貿易に従事する商社のようなものを連想するが、この「会社」の場合は、それだけではない。大砲を搭載した軍艦を多数保有しており、その強力な軍事力を背景にして、東南アジアからスペイン・ポルトガルの勢力を駆逐(くちく)し、対アジア貿易による利益の独占を、その主な目的としていた。
 そのまた三年後の一六〇五(慶長十)年十月四日の朝、南の海に浮かぶ瓶ヶ島では、恒例の町民会議が開かれていた。
 交易のためにバンテンとマニラとアユタヤへ赴いていた勘蔵が先ほど帰還したので、その際仕入れてきた情報を報告し、それについて議論するためだ。
 櫓下段の壇上に立っている勘蔵は、白髪が増えて顔の(しわ)皺もやや増えていたが、その快活な口調は昔と変わらなかった。石畳の広場に設けられた櫓(やぐら)の前には、町民たちがいつものように莚(むしろ)の上に日傘を差して座り、その話しに耳を傾けていた。
「……オランダはそげんして地元の王さんとの争いをうまいこと利用しよった末、ポルトガルをアンボイナから追い出しよったそうじゃ。」
 勘蔵がそう言って一旦話しを締め括ると、以前より少し恰幅が良くなっているハヤテが、その後ろの役員席から訊ねた。
「雇われとった兵隊は、どげんしよったん?」
 勘蔵はそれに答えた。
「ポルトガルは、傭兵をお役ご免にしてから逃げよったそうじゃ。」
「イリと権次ら、命拾いしよったのぅ。」
 やはり役員席の中からそう言ったのは、やはり白髪が増えて顔の皺も増えたロクだった。彼は、防衛軍将軍と旗艦飛龍丸の船長を兼任していた。
 ハヤテは、やや緊張した面持ちになると、勘蔵に向かって尋ねた。
「ポルトガルの次は、わしらかや?」
 勘蔵も真剣な表情でそれに答えた。
「今のオランダはエスパニアを目の仇にしとるけん、まだわしらが目に入っとらんようじゃが、わしらが胡椒や香料をエスパニアに流しとること知ったら、邪魔しに来ると見てええじゃろう。」
「いや、邪魔だけでは済まんじゃろう……。今までのオランダのやり方見てみぃ。エスパニア・ポルトガル両国と組(くみ)するもんはみな攻め滅ぼすか、その勢力範囲から追い出すかしとる。このままでは、わしらも同じ目に合うと見て良かろう。」
 やはり役員席からそう言ったのは、長い髪の毛がすっかり白くなり、以前にも増して引き締まって精悍な顔立ちになっている喜助だった。六年前に顧問のモラが八十一歳でこの世を去ったため、喜助は防衛軍将軍の役職を引退してモラの後を継いでいた。
 衛生環境が整い、医療が発達している現代では当たり前になっていることだが、この当時モラのような年齢まで生きられる者は、そう多くはなかった。それだけ彼の生命力が強かったか、彼を取り巻く環境が良かったか、その両方かであろう。
 ロクが言った。
「ちゅうことは、エスパニアとの取り引き、やめないけんちゅうことなん?」
「どうやらそのようね。オランダから目を付けられる前に手を引いといた方が良さそうだわ。」
 やはり役員の席からそう言ったのは町長のシャガだった。六人の子持ちとなっている彼女は、十代の頃に較べて、やや落ち着いた美しさになっていた。
 勘蔵は言った。
「わしらがこの島でおとなしゅう暮らしとるだけなら、オランダは何もせんじゃろう。けど、貿易で競い合うたらわしら潰しに掛かってきよることは間違いない。
オランダは明国と直(じか)に貿易すること試みよって、去年は失敗しよったそうじゃが、パタニ王国に商館つくって明国人と交易始めよったけん、この界隈(かいわい)で貿易しようとすりゃぁ、全てがオランダと競い合うことになる。
この場に住むなら貿易やめる。貿易続けるなら住む場所変える。この二つに一つじゃな。」
 そう言い終えた勘蔵は、役員席の中にある自分の席に戻って座った。それと入れ違いに壇上に立ったシャガは、まず勘蔵に向かってこう言った。
「情報通商部長、ご報告とご意見ありがとうございました。」
 続いて彼女は、広場の一般町民を見渡すと、持ち前のよく通る声でこう言った。
「それなら、もし貿易をやめたら何で収入を得るのかを、まず考えてみましょうか。」
 役員席のハヤテが「はい」と言って挙手したので、シャガはそちらを振り向いて彼を指名した。
「それでは助役、どうぞ。」
 ハヤテは席から立ち上がって言った。
「何か高う売れるもんでもつくったらええんじゃ……。そういやぁ昔オランダ人の海賊が言いよったわ。『茶はこれから先儲かる商品になるじゃろう』て。」
 ハヤテが腰を下ろすと、シャガは言った。
「日本から持って来て育てたお茶の木、あたしたち飲む分だけしか植えてなかったけど、森をもう少し開墾して茶畑にすれば、あたしたちに必要な銀は手に入るかもね。」
「そい良か。エスパニア・ポルトガルもオランダも、茶つくっちょらんばってん。」
 同じく役員席の中から太く大きな声でそう言ったのは張先生だった。中国風に頭の上で結った彼の髪は真っ白になっていたが、それ以外の風貌はほとんど変わっていない。
 明国政府が他国で栽培することを禁じていたということもあり、茶は中国や日本の気候風土でしか育たないものだと、当時のヨーロッパ人は硬く信じ込んでいた。しかしそれが迷信であったということは、その後のジャワ茶、セイロン茶などの出現によって知ることができる。
 シャガが言った。
「そうね。昔、胡椒つくって売るっていう話しも出たけど、お茶なら、あたしたち栽培の仕方も製法も知ってるし、木も手元にあるし。お茶をつくって売ることは、そう難しくはなさそうね。
それなら今度は、もし住む場所変えて貿易を続けるとしたなら、どこにするかを考えてみましょうか。」
「おい、また長い船旅して探し回るのかい?」
 やはり役員席の中から、不安げな声でそう言ったのは、シャガの祖母タネだった。彼女の叔母のキヌは三年前に老衰のため享年八十六才の大往生をとげたのだが、それ以来タネは老け込んでしまい、髪はすっかり白くなって顔には皺も増えていた。彼女は巫女(みこ)の役職を、近頃曾孫(ひまご)のヒミカに譲り、喜助と同じく顧問となっていた。
 冷暖房完備の豪華客船による現代の船旅ならいざ知らず、風任せで冷房のないこの時代の大航海は、確かに高齢者には堪(こた)えるものだったに違いない。
「あんときゃぁたまたま運が良うてこの島見付けられたが、今どき人のおらん島そう易々(やすやす)と見付かるもんではないぞ。」
 白鷹丸の船長となっていたモズが、やはり役員席の中からそう言った。彼の長い髪と立派な髭は、相変わらず黒々としていたが、赤銅色の顔には若干皺が増えていた。
「どこの国と何を商うかで、まずは場所選ばんならんしのぅ。」
 同じく役員席の中からそう言ったのは、喜助の長女ミツの夫でのっぽのトビだ。相変わらず褐色の立派な髭を生やしている彼は、白鷹丸の副船長に就任していた。
 同じく役員席の中で、勘蔵がこう言った。
「わしの知る限り、エスパニア・ポルトガル両国のおる場所にゃ、それを目の仇にしよるオランダがおる思うて間違いない。ここらの島でのうて、ノエヴァ・エスパーニャへ移ってはどうかとも思うたが、そこはここらより古くからオランダが行っとるようじゃけん、わしらが入り込める隙はないと見て良かろう。」
 ノエヴァ・エスパーニャとは、アメリカ大陸にあるスペイン植民地のことだ。シャガが言った。
「どうやら、住む場所変えるのは見送った方が良さそうね。それじゃ、お茶をつくって売るってことにしましょうか? 異議があったら言って下さい。」
「賛成!」
「異議なし!」
「異議あり!」
 そう言ったのは喜助だった。シャガはその声の方を向いて言った。
「それでは喜助顧問、意見を言って下さい。」
 喜助は立ち上がって言った。
「茶をつくるのには賛成じゃが、その収入だけで足るんか?」
 喜助が座ると、その隣りの席のタネが言った。
「オレたちが飲み食いするもんは、この島で全部賄えるようになってる。足りてないのは服をつくるための布、砂鉄、香料、ビードロのようなものだけど、それなら茶の収入だけでも充分賄(まかな)えるんじゃないのかい?」
 喜助が言った。
「タネ、大事なもん忘れとるぞ。防衛軍の武器弾薬、古うなったら交換せないけん。その金銭も入れると茶の収入だけでは足りんじゃろうが。」
 タネは笑って言った。
「ハハハ! 近頃戦(いくさ)がないから、すっかり忘れてたよ。なるほど、あんたの言うとおりだ!」
 シャガが言った。
「それじゃあ、お茶以外の収入も考えなきゃね。」
 このとき会場の一般町民の中から、「はい!」という若い女の元気の良い声がした。見るとハヤテの妹アカネが手を上げている。彼女は幼馴染である恭助と目出たく結ばれ、既に三人の子を設けていた。恭助はご存知の通り喜助の孫の一人である。
 シャガは、自分の義理の妹である彼女を指名した。
「それではアカネ、意見を言って下さい。」
 アカネは席から立つと、役員席を見上げて大きな声で言った。
「ほんなら、珊瑚(さんご)で簪(かんざし)つくって売るっちゅうのはどうじゃ?」
 会場のみなに見えるように、アカネは自分の髪から白い簪を抜いて高く掲げると、話しを続けた。
「うちのこの簪、恭助が適当につくりよったけん、できはあまり良うないが、売り物にするつもりで気合入れてつくりゃぁ売れるかわからんぞ。」
 その隣りの席から彼女を見上げた夫の恭助が、苦笑いしながら叫んだ。
こらーっ! 適当とは何じゃ!
心込めて、半月(はんつき)余りも掛けてつくったのに!」
 アカネはそれに言い返した。
「そらそうかわからんけど、できはさほど良うないぞ。」
 恭助は少し照れて言った。
「そりゃ、まあそうじゃろう……。作品第一号じゃけんのぅ。」
 腰を下ろしたアカネは、その夫に向かって微笑んで言った。
「ほんなら、第二号に期待しとるわ!」
 女性のおしゃれに対する思いは、今も昔も変わらない。この町の若い女性のあいだでも、近頃の上方(かみがた)や江戸の女性のようにして髪を結う習慣が流行していた。交易の途上で寄った日本人町の女性から教わったり、そこで手に入れた絵を見て覚えたのである。いわゆる「浮世絵」という絵画の形式や版画による技法は、この当時まだ確立されてはいなかったが、その原型となるような風俗画は既に存在していた。彼女たちが見たのは、そのような絵であったのだろう。
 そして、この島の若い男たちのあいだでは、珊瑚を簪などの髪飾りに加工しては愛する女性に贈る習慣が流行っていたのだった。
 会場からは、次々とアカネの意見に同意する声が上がった。
「ほう、そりゃおもろそうじゃのぅ!」
「簪だけでなく、他にも色々できそうだね!」
 シャガも乗り気で言った。
「なるほど。これなら、今の若い人はみんな普段からしてることだし、すぐにできそうね。」
 タネも嬉しそうに言った。
「材料は、この島の周りにいくらでもあるからいいよ。」
 こうして町民たちは、茶と珊瑚細工を産業として興(おこ)し、それが軌道に乗るまでは引き続き貿易を行なうということに決めた。
 その次はお待ちかね、勘蔵の土産話(みやげばなし)の時間だ。シャガは壇上からしりぞくと、再び勘蔵にその場を譲った。勘蔵の話しの始まりは、何と言ってもまずバンテンの森山家の消息であった。
「又成殿はじめ、みなさん達者でおられたわ。」
 勘蔵は冒頭でまずそう言ったが、誰もが心配していたことを喜助が代表して尋ねた。
「そりゃ何よりじゃが、オランダはジャワ島の制圧を狙うとるんじゃろう? そっちの方は大丈夫なん?」
 勘蔵はそれに答えた。
「おう、今のところオランダは島の西の端のバンテンの王さんと仲良うして商館建てさせてもろうとるし、バンテンの回教徒もまだ力持っとるけん、今日明日に危(あぶ)のうなるいうことはなかろう。」
 シャガが言った。
「危なくなったらここに逃げて来ればいいのよ。迎えに行ってあげてもいいんだし。」
 勘蔵が笑って言った。
「ハハハ! そりゃわしも言うだけ言うてみたわ。ほなら又成殿は、『雇い主から暇出されるまで、こっから動くわけにはいかん』言うておられた。あの父子は日本の武人じゃけん、一度雇われた以上戦わずして逃げるちゅうことは頭ん中にないな。」
「それじゃ、和子さんと女の子や小さな男の子たちだけでも連れて来てあげたら?」
 シャガがそう言ったが、勘蔵は寂しそうに微笑んで言った。
「ハハ、それも言うた言うた。ほなら又成殿は和子さんに、『勘蔵殿のお言葉に甘えさせてもろうてはどうじゃ。』言うておられたが、和子さんは根っからの武家の娘で今も武人の妻じゃけん、娘さんたちにもみな武人の娘として教育しておられる。旦那や兄を捨てて逃げることはできん。『そのお気持には感謝致します……。』言うて、ご本人から鄭重に断わられたわ。
但し……。」
 勘蔵は、ここで意味ありげに一旦言葉を切ると、櫓の上から広場の横の隅の方に向かって手招きをした。すると、民家の陰から何かが急に飛び出して櫓の下まで来たかと思うと、それはたちまち上に飛び上がり、スッと勘蔵の横に立った。その人物を見た会場の町民たちは、一斉に歓声を上げた。それは、たった今話題になっていた又成の子の一人であったからだ。
 森山一家が初めて白鷹丸を訪れたとき、まだ満二歳だった長女の妙(たえ)は、今はもう十四歳になっており、母親譲りの色白で美しい顔立ちを持つ娘に成長していた。しかし、父又成から忍術を習っており、それが既に相当の域に達している彼女は、渋い色の小袖と四幅袴を身に着け、髪も若い侍のような結い方をしているので、まるで美少年のように見える。
 ここで櫓の役員席の中から、巫女の装束(しょうぞく)を身に着けた一人の少女が、その妙のそばに駆け寄ると、その背中をドンと叩いて嬉しそうに言った。
「妙! 男みたいな恰好してるから誰かと思ったじゃないの。久しぶりね!」
 妙と同い年である、シャガの長女ヒミカだ。こちらも母親に似た細面(ほそおもて)の美しい顔立ちをしており、長い髪を背中の中ほどで括っている。彼女は災害を予知したり、遠く離れた人に思念を送ったりと、母親と同等かそれ以上の不思議な能力を持っており、このような年齢にもかかわらず、先ほども述べたようにタネの後任の巫女として町の役員に起用されていたのだ。
 今度は一般町民の中から、妙に劣らぬ素早さで誰かが櫓に駆け寄るなり、その上に飛び上がった。妙の横に立ったその少女は、満面に笑みを湛えて元気良く言った。
「妙! よう来た!」
 張先生の長女で、日中ハーフの麗鈴(リーリン)だ。こちらは地味ではあるが品の良い中国服を、そのしなやかで細い体に身に着けている。中国服とは言っても、時代物のカンフー映画などで女性が身に着けているものは、主に清朝(しんちょう)末期のスタイルだ。それより三百年も前のそれは、もう少しゆったりとしている。髪も、中国の少女がするように、左右二つに分けて可愛らしく結っている。
 彼女は、幼い頃から父の手ほどきを受けて中国拳法を習っており、今では父を凌ぐ程の腕前になっていた。
 このような特技を持った同い年の三人娘は、親に連れられて互いに何度か行き来するうちに親交を深め、今ではすっかり親友になっていたのであった。
 勘蔵はヒミカと麗鈴に向かって微笑むと、先ほど妙が出て来た民家の方を指差して言った。
「驚かしちゃろう思うて、あこで待たせとったんじゃ。ハハハ!」
 ヒミカも嬉しそうに言った。
「さすが勘蔵爺、なかなかやるじゃない!」
 勘蔵は苦笑いして言った。
「こらっ! 『爺』は余計じゃっ!」
 役員席の中のシャガが、妙に向かって嬉しそうに言った。
「一年ぶりね! 背、随分伸びたじゃない!」
 妙も嬉しそうに微笑むと、シャガに向かって一礼して言った。
「お久しぶりでござります。心身共に成長したゆえ、休暇を貰うて参ったのでござります。」
 それを聞いた途端、勘蔵は顔を顰(しか)めると、その前で手を横に振って言った。
「違う違う! 身の丈(たけ)の方はともかく、お転婆(おてんば)が過ぎたけん、家を放り出されよったんじゃ!」
 妙は赤くなって言った。
「勘蔵殿! 真(まこと)のことを言うて何となさる!」
 それを聞いた会場のみなはどっと笑った。
 喜助が、やや困ったような笑顔で言った。
「妙が来たのは嬉しいが、お転婆三人娘が揃うたけん、こりゃえらいこっちゃのぅ。」
 麗鈴が澄まし顔で言った。
「喜助はん、間違うたらいけんわ。『お転婆』ではのうて、『おしとやか』じゃろうが。」
 喜助は苦笑いして言った。
「ん。わかったわかった。お前の言う通りじゃ。」
 彼女たちを敵に回すと、口でだけでもコテンパンに叩きのめされるということを彼は既に熟知している。その喜助の態度を見て、町民たちは再びどっと笑った。シャガも苦笑いして言った。
「あんたたち、せっかく三人揃ったんだから、いたずらばっかりしないで、今度は何か役に立つようなことしてくれない? やだよ、もう。昼寝してる弟に変な夢見せて叫び声上げさせたり、椰子の木何本も倒されたりするのは。」
 ヒミカがそれに言い返した。
「あれは変な夢じゃなくて精神修行なのよ。鼠になった自分が猫に捕まっても、泣かずにいられるかっていう……。」
 それに対して会場の中から声が上がった。
「それが修行だなんて、寝てるもんがわかるわけねーだろ!」
 十二歳になるヒミカの弟洋助だ。ヒミカは平然として言った。
「だからいいんじゃないの。初めからそれが夢だってわかってたら修行になんかなりゃしないでしょ?」
 それを聞いた一同はまた大笑いした。どうやらその変な夢とやらをヒミカによって見せられたのは、この洋助のようだ。
 今度は妙が澄まし顔で言った。
「シャガ殿。木を倒すのも修行の一環なのでござります。のぅ、麗鈴。」
 同意を求められた麗鈴も、同じような口調で言った。
「そうじゃ。それを片付けるのもまた修行のうちじゃ。」
 会場から今度は別の声が上がった。
「誰の修行じゃ?」
 麗鈴の母カヨだ。ちょっと怖い顔をしている。しかし、ヒミカたち三人娘は口を揃えて平然と答えた。
「みんなの。」
 それには、さすがに会場のあちこちから抗議の声が飛んだ。
「人に迷惑掛けといて、それはないぞ!」
「自分らまず、我がの精神修行せにゃいけんわ!」
 役員の席からタネが、やや厳しいが愛情のこもった口調で言った。
「あんたたち、せっかくそれぞれが秀でた技を持ってるんだから、それを人の為になるようなことに使わなきゃ。」
 会場のみなもそれに同意した。
「そうじゃ!」
「そうだよ!」
「そうばい!」
 さすがのお転婆娘たちも、これには困った顔を見合わせた。
 ここでシャガが席から立ち上がると、会場のみなに向かって微笑んで言った。
「それじゃぁ、ここで一つ提案します。この三人を、異国視察の旅に出すというのはいかがでしょうか?」
 それには会場から拍手と歓声が湧き起こった。
「そりゃ名案じゃ!」
「修行の旅とよ!」
「大人になって帰って来るんだよ!」
 しかし、ヒミカは母に向かって不服そうに言った。
「『親が本人抜きで勝手に物事を決めるのは良くない』って、母ちゃん昔から言ってたじゃない!」
 シャガは、澄まし顔でそれに応えた。
「うん、言ってたわよ。」
 そして、やや厳しい表情になって言葉を続けた。
「でもそれはね、おとなしくて心の優しい子の場合。
弟を苛(いじ)めたりするような子は特別なの!」
 ヒミカは、やや真剣な表情になって言った。
「あたし厭だからね。そんなの!」
 そして、彼女は会場に向かって目を閉じると何かの思念を送り始めた。
 間もなく会場から次々と声が上がった。
「シャガ! ヒミカが可哀想じゃ。許しちゃらんか!」
「シャガ! 大概にしてあげなよ!」
 すると今度は、シャガがヒミカに向かって目を閉じ、心の中で何かを念じたようだった。その直後ヒミカが小さく叫んだ。
「うっ!」
 ヒミカは頭を抱えるなり、その場にうずくまってしまった。すると会場の声は、潮が引くように静まっていった。
 麗鈴と妙はしゃがみ込むと、ヒミカを心配してその腕や背中を摩(さす)ってやっている。シャガは、そのヒミカに向かって済まなそうに言った。
「ごめんねヒミカ……。あたし、ほんとはこんなことしたくないんだよ。」
 そして、やや厳しい表情になると言葉を続けた。
「でもね、あんた今、自分だけの都合のために大勢の人の心を操(あやつ)ろうとしただろう? それはこの島の巫女として、絶対にしてはならないことなんだよ。わかる?」
 頭を抱えたままでヒミカは微かに頷いた。それを確認したシャガは更に話しを続けた。
「あたしたちが、あんたを役員にしたのはそんなことをしてもらうためじゃない。そして、あたしたちの中に流れてる血は、そんなことをするためにあるんじゃない。あんた、元はそんな子じゃなかったのに……。
ちょっと早かったみたいだね、あんた。役員になるのが。みんなからちやほやされたせいで、我儘になっちゃったみたいだから。」
 ヒミカは、先ほどよりもややはっきりと頷いた。どうやら本人も、それを自覚したようだ。シャガは、真剣な表情で話しを続けた。
「あんたには、優れた巫女の力がある。そして、鋭い感性も備わってる。でも、それだけじゃ駄目なのよ。人を思い遣る愛がなければ。それなしだと、あんたが言う言葉や行いは、人の心を神様から遠ざけることになるんだから。」
 そしてシャガは、微笑んでこう言った。
「でも、心配することないよ。あんたは元々優しい子だったんだから、旅に出て修行をすればきっと元に戻れるはずだわ。」
 ヒミカはやや不安そうに顔を上げると、独り言のように言った。
「それが、さっき言ってたことなの……?」
 シャガは、その娘に向かって優しく言った。
「そうよ。」
 そしてシャガは尋ねた。
「この島に住んでる今のあんたは、毎日が楽しいでしょう?」
 ヒミカは、シャガに向かって嬉しそうに微笑んで言った。
「うん。毎日楽しくって楽しくって仕方ないよ。」
 するとシャガは、やや真剣な表情になってこう言った。
「それはきっと、この島の人たちみんながあんたのことを好きで、多少の我儘を言っても許してくれてるからなんでしょう。でもね、ヒミカ。人間それだけだと、自分が生きていることへの有り難味が薄れてしまうのよ。
だから、あんたはこの島の外を旅して色んな人と出会い、たまには辛いことも経験した方がいいの。そうすれば、自分が生きてるのは、自分の力だけでじゃないんだってことを、はっきりと知ることができるし、様々な人が集まって、この世界をつくってるんだってことを知ることもできるから。
さあヒミカ、立ちなさい。」
 その言葉によってヒミカは、両脇に着いてくれていた二人の親友に向かって微笑んだ。すると二人とも安心したようにヒミカから離れたので、ヒミカはスッと立ち上がった。
 役員をはじめとするこの会場の町民たちはみな、不思議な力を持ったこの母と娘の遣り取りを、興味深く見守っている。
 シャガは言った。
「ヒミカ。あんた麗鈴と妙と一緒に、世界を旅をして来るのよ。二人の父さん母さんにはもう話してあるから。」
 今回妙が単独で瓶ヶ島を訪れたのも、どうやらそのためのようだ。それを察したヒミカは納得したように言った。
「そうだったのか……。」
 妙も納得したように頷いて言った。
「なるほど……。それで拙者がバンテンを発つ際、父母共に『身心共に大きく成長して参れ』などという、わけのわからぬことを申しておられたのじゃな……。」
 幼い頃から兄と共に武芸の習得に励んできた妙は、このような男言葉がすっかり身に着いてしまっている。
 一方麗鈴は、役員席に座っている自分の父の方を向いて言った。
「そうかー……。そいで父ちゃん今朝突然、『お前にはもう教えることのうなった』て言うたんじゃな?」
 張先生が微笑んでそれに答えた。
「その通りよ。あとは自分で自分磨くとよ。」
 ヒミカは怪訝そうな表情になると、シャガに向かって尋ねた。
「それなら母ちゃん、世界は広いよ。あたしら、どこまで行けばいいの?」
 シャガは言った。
「それは、これから決めるわ。それが決まったら知らせるよ。」
 ヒミカは頷いて言った。
「うん、わかった。」
 シャガは微笑んで言った。
「その修行を成しとげて帰ったら、あんたは本当にこの町の巫女になれるの。わかった?」
 ヒミカは素直に頷いて言った。
「わかったよ、母ちゃん。」
 彼女は、麗鈴と妙に向かって微笑んで言った。
「二人とも、ありがとう。……また後でね。」
 その言葉を聞いたヒミカの二人の親友は、それぞれ櫓を降りて広場に座った。ヒミカも櫓の上の自分の席に戻った。
 この一件がひとまず落ち着いたので、勘蔵は森山家の様子の続きを語り終えると、次にシャムの首都アユタヤの日本人から仕入れてきた、新しい日本の政権についての話しを始めた。
「……慶長五年の関が原の役(えき)にて、徳川家康が西軍破ったのを切っ掛けに、天下は豊臣から徳川へと移ることとなりよった。ほいで、一昨年家康が武蔵(むさし)の国の江戸に幕府を開いたんは、みなも知っておることじゃろう。
この家康いう男、織田・豊臣の世から傑出しておったことは、みなも知る通りじゃがのぅ、関が原の後は西軍に組した大名から領地を取り上げ、その論功行賞(ろんこうこうしょう)しよった。古くから徳川と親しい大名を江戸の周りに置き、疎遠のもんほど遠くへ追い遣りよったんじゃ。そのため、今度の幕府は磐石(ばんじゃく)の構えとなりそうじゃ。
家康は交易にも熱心で、近頃オランダに来航貿易要請の朱印状送りよったとも聞いた。
その家康も、今年になって隠居し、息子の秀忠(ひでただ)に将軍の座を譲りよったそうじゃ……。」
 日本国内の話しに続いて、スペイン・ポルトガルとオランダ・イングランドを中心とした最新の国際情勢を、勘蔵は誰にでもわかるような平易な言葉によって解説した。町民たちは大人も子供もみな、その話しに興味深く聞き入った。

 その翌朝、張先生夫妻と勘蔵が、シャガの家を訪れた。それを玄関に出迎えたシャガは、母屋の中央を貫いている長い廊下を経て、その三人を裏手にある広い縁台に通した。
 十月といえば、日本でなら冷え込んでくる季節だが、赤道付近の南半球に位置するこの島は、年間を通じて気温の変動が少ないし、雨は比較的よく降るが、晴れるときには気持ち良く晴れる。
 この日も空は紺碧に晴れ渡り、縁台から見えている椰子の葉は、乾いた風にそよいでいる。その林の奥からは、鳥の美しい囀(さえず)りがしており、そのまた向こうからは、ゴーッという潮騒の音が絶え間なく聞こえている。
 この縁台の上には、椰子の葉で編んだ大きな日除けが掛けられており、その下には長い食卓が置かれている。それを囲んで莚(むしろ)が何枚か敷かれてあり、そのうちのいくつかに座っていたこの家の主だった者がみな立ち上がって客を迎えた。その中で一番奥にいた、シャガの祖母であるタネが、三人に向かってこう言った。
「みんな忙しかっただろうに、よく来てくれた。まあ、座っとくれ。」
 客とこの家の者が食卓に着くと、ハヤテの母キクが台所から盆を持って出て来た。その上には人数分の湯呑みが乗っている。
「みなさん、ようおこしい。うちの孫のことで何やらご迷惑掛けるようじゃが、よろしうお願い致します。」
 キクは三人の客に向かってそう言うと、食卓のそばに来て膝を付き、まず客に茶の入った湯呑みを勧め、続いてタネ、サブ、シャガ、ハヤテそして自分の前に湯飲みを置いていった。
 勘蔵が笑ってキクの言葉に答えた。
「ハハハ! わしゃ何もせんけどのぅ。」
 そして彼は、母屋に目配せしてこう言った。
「……ご本人たちは、どこぞへとお出掛けかや?」
 キクは微笑んでそれに答えた。
「朝から三人で早速山へ行きよったわ。」
 バンテンから来た妙は、麗鈴と共にまずこの家に何泊かすることになっており、次は張先生の家でヒミカと共に合宿だ。
 張先生の妻で麗鈴の母のカヨが、キクに向かって言った。
「ご迷惑掛けるのはこちらの方じゃ。悪さしよったら遠慮せんと叱っとくれ。ありゃ少々のことじゃへこまんけん、鉄の棒で打つぐらいが丁度ええかわからんぞ。」
 サブが笑って言った。
「ハハハ! いや、今のところそれには及ばないよ。妙と二人して、おとなしくしてるから。」
 張先生が微笑んで言った。
「よそん家ば行きゃぁ、途端におとなしかなっとよ。」
 シャガが眉を寄せて言った。
「そうすると問題はやっぱりヒミカよね。」
 ハヤテは苦笑いして言った。
「ありゃこの島の家全部と森山家を我がの家と一緒じゃ思うとるけん仕様ないわ。まあ、この旅で外の世界を知りゃぁ、ちぃとは変わりよるじゃろう。」
 シャガは勘蔵に向かって、やや不安げに尋ねた。
「……又成(またなり)さんも和子さんも、ほんとにそれでいいって言ってくれてるの?」
 勘蔵はきっぱりと言った。
「おう、間違いない。『妙も修行になるし、これで三人のお転婆も少しは収まることでござろう』言うて、えろう喜んどられたぞ。」
 今度はハヤテが、張先生夫妻に向かって言った。
「麗鈴をうちの娘の修行に付き合わせて下さるそうで、ほんに有り難うございます……。じゃが、女子(おなご)だけで大丈夫かのぅ? ちぃと心配じゃ。」
 カヨは言った。
「確かに心配なことは心配じゃが、若いときに世界を旅して人様の命をお守することは、あの子にとって貴重な体験じゃ。」
 張先生が持ち前の太く明るい声で言った。
「大丈夫。自分の娘んこつ、よかげに言うのも何やけんど、拳法であれに勝てるもん、男んもんでもそうおらんと。他ではできん修行になるばってん、こっちも感謝すっとよ。」
 タネが嬉しそうに言った。
「そう言って貰えると有り難いよ。
それじゃぁ、早速どこへ視察に遣(や)るかを決めようじゃないか。」
 勘蔵が言った。
「おう。アユタヤは、わし行って帰ったとこじゃけん、どうせ遣るんならもっと別んとこがええぞ。」
 シャガが言った。
「この島の者が、まだ一度も行ったことのないとこへ遣るってのはどう?」
 ハヤテが不安げに言った。
「全く知らんところへ遣るのは心配じゃ。」
 さすがの張先生もやはり同じようにして言った。
「知っとるもんおる場所が良かよ。」
 年頃の娘に対する男親の気持ちというものは、古今東西あまり変わらぬようだ。それに対して、こんなときは女親の方が大胆で思い切りが良い。夫の意見に対してカヨが反論した。
「それじゃぁ修行にならんぞ。」
 シャガもハヤテに向かって、それと同じように言った。
「視察へ遣るからには、知ってるところだったら意味ないわ。」
 勘蔵が言った。
「そんなら、ヒミカはエスパニア語話せるし、思い切ってエウローペ(ヨーロッパ)まで遣るっちゅうのはどうじゃ?」
 ヒミカは父母からスペイン語を学んでおり、そこそこ話せるようになっている。シャガとカヨが口々に言った。
「賛成!」
「ええのぅ!」
 キクも同じように言った。
「そりゃ名案じゃ。」
 その勢いに押されて、二人の男親も渋々ながらそれに同意した。
「まあええか……。」
「そいなら事情は大体わかっちょるばってん。」
 勘蔵は自分の意見に補足を加えた。
「エウローペ言うても広いけん、どっか一所(ひとところ)だけでええ。とにかくそこまで行って、わしらにとって一番ためになりそうな情報を仕入れて来させるんじゃ。それをどこにするか、何の情報にするかは、あの子らに考えさせて決めさせたらええ思うわ。」
 シャガが言った。
「それは、いい考えだわ。それを調べるために、自分から進んで勉強することになるしね。」
 タネがいそいそとして言った。
「それじゃぁ、早速船をつくってやらなきゃね。」
 サブが言った。
「おう、女子(おなご)三人だけでも扱えるような軽いのがいいよ。」
 その妻のキクが言った。
「そりゃそうじゃろうが、寝起きするための部屋と暮らしに要るもん入れるための船倉は要るじゃろう。」
 張先生が言った。
「福建や広東には船の上で暮らす衆ばおると。そがん船の形ば似せてもよかよ。」
 その意見に対して勘蔵が言った。
「そりゃ住むのにゃええが、航海にゃあまり向かんじゃろう。」
 張先生は言った。
「そうよ。暮らしが目的の船ばってん。」
 ハヤテが言った。
「途中、海賊に襲われても逃げ切れるような高速船がええぞ。」
 シャガは苦笑いして言った。
「なかなか難しいわね。」
 勘蔵が言った。
「わしらの船んように大きいんじゃのうて、エスパニア・ポルトガルにはカラヴェラっちゅう帆柱二三本の小さな船もある。これをもっと小そうして帆柱一本だけにすりゃぁ、女子三人でも扱えるかわからんぞ。」
 ハヤテが言った。
「それ、どげな船なんか描いて見せてくれんかのぅ。そうせんとわからんわ。書くもん持って来るし……。」
 ハヤテは立ち上がると、家の中へ入っていった。そのあいだにキクがみなの湯呑みに茶を足して回った。キクは勘蔵の前に来ると言った。
「あんたは、お神酒(おみき)の方がええじゃろう。」
 それを聞いたサブは立ち上がると、気を利かせて台所から焼酎の入った瓶を持って出て来た。キクはそれを受け取って蓋を開けると、その中身を柄杓ですくって勘蔵の湯呑みに傾けた。勘蔵は苦笑いしながらそれを受けると、皆の顔を見渡して言った。
「……昨日の集会の後の宴(うたげ)で、ちぃと飲み過ぎた思うとったが、今日も朝から始まってしもうたか……。サブは飲まんのか?」
 サブも苦笑いして言った。
「あんたが飲むんなら、俺も飲まぬわけにはいくまい。」
 それを聞いた一同から、明るい笑い声が上がった。
 サブは妻のキクから焼酎を注いでもらうと、その瓶を受け取って、今度は張先生に向かってそれを勧めた。先生は微笑んで言った。
「わし、昼から福建(ふっけん)語の講師ばするばってん、ちぃとにするよ。」
 戻って来たハヤテは、この状況を見るなり微笑んで言った。
「おお、この顔ぶれじゃ予想通りの展開になってきよったのぅ。」
 ハヤテが勘蔵に筆記用具を手渡すと、サブはハヤテの空の湯呑みにも焼酎を注いだ。
 勘蔵は、自分の湯呑みの焼酎を一口すすってから嬉しそうに言った。
「高速で小回りの効く、あの三人にぴったしげな船描いちゃるわ。」
 彼は早速筆に墨を付け、紙に向かってそれを描き始めた。ハヤテも焼酎を一口すすると席から立ち上がり、シャガに向かって言った。
「こりゃ、船大工の棟梁呼んで来た方が話しが早うなるのぅ。」
 シャガはそれに同意した。
「そうね、せっかく飲み始めたところで悪いけど頼むわ。」
 ハヤテは、縁台から裏庭に通じる階段を降りていった。
 しばらくして、ハヤテが初老の男を一人連れて戻って来た。勘蔵は丁度絵を描き終えて、それをみなに見せながら説明しているところだった。
「……みなも知る通り、この三角帆がありゃぁ、風向きに逆(さか)ろうてでも前に進める……。」
 そして彼は、連れて来られた船大工の棟梁の顔を見るなり、嬉しそうにこう言った。
「おう、棟梁! ええところへ来た!」
 その棟梁の名は甚八(じんぱち)といって、彼らがまだ日本にいた頃からずっと、個人が使用する小型船をつくり続けている優秀な職人だ。タネも彼に向かって言った。
「おう、棟梁! よく来てくれた! まあ、座っとくれ。」
 台所から杯(さかずき)を持って来たキクが、食卓に着いた彼にそれを手渡しながら言った。
「女子三人だけで操る船じゃけんのぅ、小振りで軽いのんにしてほしいんじゃ。」
 その杯を受け取り、シャガの勧める焼酎をそれに受けながら、甚八は笑ってそれに応えた。
「ハハハ! 話しはハヤテから聞いた。心配ない。我がの娘の乗る船じゃ思うて、気合入れて作るけん。」
カベラル船  勘蔵が先ほどの絵を彼に手渡すと、甚八はそれをぱっと見るなり真顔になって言った。
「ほう、一本柱のカラヴェラか。」
 さすが大航海時代の勉強熱心な船大工、素人が描いた下手な絵を見ただけでその型が何かわかったのだ。勘蔵は微笑んで言った。
「そうじゃ。女子三人だけでも扱える程の手軽さで、しかも外海(そとうみ)を航海できるほどの強さと船内の広さが要る。」
 甚八は、表情を苦笑いに変えるとこう言った。
「おいおい、そりゃぁ『イルカを鯨(くじら)にしとくれ』言うとるようなもんぞ。」
 それを聞いた一同は大笑いした。
 シャガは、甚八に向かってやや申し訳なさそうに言った。
「無理お願いするようですが、どうか頼みますよ、棟梁。」
 張先生は微笑むと明るい声で言った。
「棟梁だけが頼りとよ。」
 ハヤテが手を合わせて言った。
「こんな無理、よその船大工には言えん。どうか頼んます。」
 甚八は焼酎を一口すすると、顔は嬉しそうにだが口は渋々と言った。
「うーん、そこまで言われて頼まれりゃぁ仕様ないわ。引き受けましょう。但し、こげん船つくるのわしら始めてじゃけんのぅ、納期に余裕見てくれや。」
 シャガは嬉しそうに言った。
「もちろん! あー良かった。よろしくお願いします!」
 その後、帰宅した甚八は、勘蔵が描いた絵を基にしてちゃんとした図面を作成し、彼をはじめとする町の船大工たちは、その翌日から早速その船の建造に集中して取り掛かることとなった。
 それと並行して、ヒミカ、麗鈴、妙の三人娘は勉学に勤(いそ)しむ日々となった。ハヤテは娘のヒミカに中近東とヨーロッパの宗教事情を教え、ポルトガル語も教えた。また、勘蔵が講師となって麗鈴にはアジアとヨーロッパの通商事情などを教えた。また、元海賊の頭であった喜助は、既に地上での忍術を身に付けている妙に、海上での兵法を伝授した。
 そして少女たち三人は、何種類かの綱の結び方から始まる南蛮式帆船の操縦の仕方と、羅針盤を使った航海術の特訓を、飛龍丸船長のロクから受けたのであった。

 一六〇五(慶長十)年十一月十八日早朝、濃厚なオレンジ色の朝焼けを背景にして、瓶ヶ島の入り江の白い砂浜には、この島の子供から老人までの全ての住民が集まっていた。彼らは、たった今順風満帆(じゅんぷうまんぱん)にて港を離れて行った、一隻の小型帆船に向かって、盛んに手を振って声援を送っていた。
「ちゃんと帰って来るんだよーっ!!」
「海賊にゃ気ぃ付けてなーっ!!」
「天気が悪いときには無理するんじゃないよーっ!!!」
 その船の上では、三人の少女が船尾に並び、激しく手を振ってそれに応えていた。その中の中国服の麗鈴が、自分の右に立っている巫女の装束のヒミカの顔を覗き込むと、上ずった涙声で言った。
「あ、あれ、あんた泣いとるん?」
 ヒミカも、その麗鈴の顔を見ると同じように言った。
「あんたこそ泣いてるんじゃない!」
 一方、侍の服装をして刀を背負っている妙は、その左に並ぶ二人の少女に向かって、落ち着いた口調でこう言った。
「暫(しば)しの別れではござるが、斯様にして親元を離るるは、さぞ辛(つろ)うござろう。」
 服の袖で涙を拭きながらヒミカが言った。
「うん。それもあるけど、みんながこうしてあたしたちのことを気に掛けてくれてると思うと、それが嬉しくって……。」
 麗鈴も同じようにして言った。
「そうじゃ。町中のもんが、こげんして見送ってくれるようなこと、死ぬまでそう滅多にあらせんぞ。妙もバンテンの港出るときにゃぁ、きっと泣くぞえ。」
 妙が平静を保っていられるのは、沈着冷静な彼女の性格もあったのだろうが、この船は途中でバンテンに寄港する予定になっており、その際彼女の自宅に寄れるということもあるのだろう。しかし彼女は、渋い口調でこう言った。
「そうであっても拙者は泣かぬ……。」
 やがて、浜に小さく並ぶ人影が波に隠れて見えなくなると、ヒミカは気を取り直して言った。
「さあ、これからはあたしたちだけになるけど、三人揃ってれば寂しくなんかないわ! 全員配置に着くのよ!」
 その言葉によって、妙は船尾に設置されている舵の前に立った。麗鈴は持ち前の身軽さで帆柱の上に登り、そこに設けられている見張り台の上に立った。練習のため、既に何回もこうして島の周囲を航海していた彼女たちだったので、本番でも手馴れた様子だ。しかし何事もそうなのであろうが、本番を積み重ねることこそが、実は最も効果的な練習となるのである。
 海図を手にしたヒミカは、妙に向かって指示を出した。
「進路西南西に変更!」
 舵を固定していた綱をほどいた妙は、羅針盤を見ながらヒミカの指示に従がって操舵した。すると、船の進路は西から西南西へと変わり始めたので、ヒミカは帆を固定してある縄を緩めて帆の向きを少し変えた。帆の角度を風向きに対応させたのである。
 この船の名は「燕丸(つばめまる)」。基本的にヒミカが船長、麗鈴が見張り、妙が舵取りだったが、たった三人しかいないので、船の操縦に関する仕事の他、調理の際には「竃(かまど)の係り」「鮮魚係り」「穀物・青果係り」というように、彼女たちは他にいくつもの役職を兼任している。
 やがて瓶ヶ島の山の頂(いただき)が水平線の下に隠れると、燕丸はいよいよ大海原の上に出た。
 このようにして、東洋人の少女がたった三人だけで海路ヨーロッパに赴くという、恐らく史上初めての冒険旅行が始まったのである。

 燕丸に乗ったヒミカたち三人は、まずモルッカ諸島に寄って丁子や肉桂などの香料を仕入れることにした。途中でこれを売却して航海の費用に充てるためである。先の町民会議で勘蔵が述べたように、アンボイナを支配して香料を独占しいていたポルトガルは、この年オランダによって追い出されたところであった。しかしオランダは、まだこの諸島の香料を完全に独占してはおらず、それを手に入れることは、ヒミカたちにでも可能だった。
 その次に燕丸が目指したのは、ジャワ島の西の端にあるバンテン市であった。ここにはご存知のように妙の自宅がある。彼女たちはそこに寄って、この航海の経過報告をすることになっているのだ。
 一六〇六年一月七日、和暦に直すと慶長十年十一月二十九日の日没前、雨が激しく降る中を燕丸はバンテンの港に入港した。その際、この港の地理に詳しい妙が案内役を務めた。
 本来なら、港内で夜を明かし、翌日明るくなって雨がやんでから接岸するのが最も望ましいのだろうが、今の彼女たちはなぜか上陸を急いだ。
『とにかく、この港の陸(おか)に上がればなんとかなる。』
 頑(かたく)ななまでにそう思っている彼女たち三人は、薄暗い中、顔を殴り付ける雨粒(あまつぶ)に耐え、ずぶ濡れになりながらも、黙々と上陸のための作業を遂行した。岸壁に飛び移った妙と麗鈴は、ヒミカが船首と船尾から投げて遣(よこ)した綱をそれぞれが受け取ると、燕丸を手繰り寄せて岸壁に着けた。
 取り敢えず貴重品だけ身に着けた三人は、港の役所に赴いて入国の手続きを済ませると、市内の日本人町にある森山邸に転がり込んだ。
 彼女たちを玄関に出迎えた森山夫妻の目が点になった。
 妙の父、又成がまず叫んだ。
「あれあれ! あんたら何やねん! 三人とも濡れ鼠やないかいな!」
 それとほとんど同時に、母の和子も叫んだ。
「あれ! 傘や蓑(みの)は失うたのかえ?」
 妙がやや照れて言った。
「全部船に置いたままでござる。」
 又成が嗜めるように言った。
「なんでもええわ。とにかく早う上がらんかいな。」
 ヒミカが、顔に掛かったずぶ濡れの髪を掃いながら声を震わせて言った。
「おじちゃん、おばちゃん、来て早々こんな恰好で失礼しますが、このたびはお世話になります。」
 麗鈴も同じようにして言った。
「おっちゃん、おばちゃん、お久しゅうございます。お世話になります。」
 和子は玄関に下りると、三人の濡れた背中をそれぞれ軽く撫でながら、優しくも嗜めるように言った。
「挨拶はもうよろしゅうござる。早うお上がりなされや!」
 それまで堪(こら)えていたヒミカと麗鈴は、ついにしくしくと泣き出してしまった。そして、上がり口の前に置かれている水桶で足を洗うと、足拭きで足を拭いて家に上がった。妙は最後に足を洗いながら母に向かって言った。
「それまで順調でござったが、バンテンに入港してからが一番難儀致しました。」
 又成が苦笑いして言った。
「今日無理に上陸せんでもよかったに。」
 妙は足を拭きながら俯いた。
「父上様、母上様に早うお会いしたい一心で、思わず急(せ)いてしもうたのでござりまする。」
 そう言った彼女が涙を一粒こぼしたのを見た又成は、懐から手拭を出すと、それで娘の涙を拭いてやりながら言った。
「まあ、ここまで無事で何よりやったわ……。」
 間もなく三人は、和子によって浴室へと連れて行かれた。

 湯で髪と体を洗い、新しい服に着替えた三人の少女たちは、森山邸の広間でこの家の者と共に夕食を食べながら話しに興じていた。その姿には、ここに着いたときの、あの惨めさのかけらすら見い出せなかった。
 妙が得意そうに言った。
「……身どもの船には女子(おなご)三人のみ、しかも相手の船には屈強なる男衆十七~八人。これにて燕丸絶体絶命と思いきや、麗鈴一人果敢(かかん)にも敵船に飛び移ったのでござる!」
 広間には、又成、和子夫妻をはじめ、妙の腹違いの兄である一成、信成も、それぞれ妻子を伴って同席していた。同じく腹違いの兄である竹若丸は既に元服しており、名を信治(のぶはる)と改めていた。彼も昨年結婚したばかりの日本人の妻を伴っていた。
 また、妙の弟や妹たちに加えて、この家の主な使用人たちも同席することを許されており、大人子供、主従共に飲食しながら妙の武勇伝に耳を傾けていた。又成が感心したように言った。
「ほう、そりゃまた勇ましいこっちゃのぅ。」
 どうやら彼女たちは、ここへ来る途中で海賊に襲われたようだ。妙は話しを続けた。
「左様。花も恥らう年頃の乙女が、一挙に二余りもの距離を跳んだのであるからして、これにはさしもの海賊たちも相当面喰(めんくら)ったようでござる。しかも武器武具の類(たぐい)一切身に着けずして敵船甲板に降り立った麗鈴、不敵にもその男共に向かって微笑み掛けたのでござる。すると敵は何を勘違いしたか、みな相好を崩すが早いか、武器を放り出したではござらぬか! 早くも己(おのれ)の腰巻の裾捲(すそ)まくる者さえおったのには真(まこと)に驚愕(きょうがく)致しました。」
 妙が頬を染めてそう言うと、一成が苦笑いして言った。
「それは、致命的な勘違いじゃ。」
 その言葉によって一同は大笑いした。妙の幼い弟の松千代(まつちよ)が彼女に向かって尋ねた。
「姉上(あねうえ)、男(おのこ)裾まくるが何故(なにゆえ)におかしいのでござるか?」
 妙は再びポッと頬を染めて言った。
「兄上(あにうえ)にお聞きなされや。」
 松千代は、隣りに座っていた兄の一人に向かって尋ねた。
「兄上様、何故に笑うたのでござるか?」
 その兄は声をひそめて言った。
「お主にはまだ早過ぎる!」
 妙は気を取り直して更に話しを続けた。
「……見事に敵を油断させた麗鈴、ここぞとばかり周囲の敵の急所に片っ端から蹴りを入れ、よろめいたところ次々と顔面に拳を入れて参ったのでござる。あれよあれよという間に甲板に倒れゆく仲間の姿を見た残りの敵、慌てて武器を拾い上げようと致したが、燕丸船べりに立つ拙者の投げたる手裏剣がその手を次々と払い除け、更に麗鈴の蹴りと拳の餌食となっていったのでござる!」
 信成がなかば感心して言った。
「ほう、それは女子ならではの戦術じゃ!」
 妙は話しを続けた。
「目にも止まらぬ早業(はやわざ)にて戦場の敵に壊滅的打撃を与えた麗鈴、敵の剣を奪いて燕丸に掛かりし綱を全て断ち切ると、再び跳躍して燕丸に戻った。拙者その麗鈴と二人して、櫂を漕ぎ船を出したのでござる。」
 燕丸は、左右両舷から櫂を一挺(ちょう)ずつ出して船を漕げるようになっている。妙は話しを続けた。
「……そこに最後のとどめじゃ。それまで燕丸船尾にて待機しておったヒミカ、大砲に着火!」
 燕丸は、船尾に小型の大砲一門を備えている。敵の追撃を阻止するためだ。左右両舷や船首にも装備すればそれだけ戦力は強化されるが、その重量の分だけ速力が落ちる。そのため、この装備ではこのような使い方しかできないが、これがあるのとないのとでは戦いぶりに格段の差が出てくる。妙は話しを続けた。
「轟音と共に放たれたるその砲弾、見事(みごと)敵船左舷に命中。あれよあれよという間に敵船浸水、航行不能となり、我が軍の圧勝にて終わったのでござる!」
 これを聞いた又成が手を叩いて笑いながら言った。
「ハハハハ! 股間が不能の上、航行不能か! こらおもろいおもろい!」
 その場の一同もみな三人の少女に向かって盛大な拍手と賞賛の声を送った。特に今回大活躍した麗鈴に、男たちの視線が集中した。
「天晴(あっぱ)れ!」
「見事じゃ!」
 頬を紅潮させた麗鈴が、他の二人の少女に向かって言った。
「うちのは人倒すまでじゃけん、じきに起き上がって反撃してきよるわ。妙の采配(さいはい)と、ヒミカのとどめが効いたんじゃ!」
 それに対してヒミカはこう言った。
「いやいや。麗鈴が見事に敵をやっつけて、こっちに戻って来たからこそ大砲撃てたんだもん。妙の立てた作戦と、あんたの活躍のお陰よ。」
 妙は微笑んで言った。
「いずれにせよ、三人の息が乱れては勝てなかったでござろう。これは日頃からの親睦の賜物(たまもの)じゃ。」
 このようにして妙の土産話を聞きながら夜は更けていき、この夜三人の少女は、森山邸に宿泊することとなった。

 それから十日後の朝、南国の朝日が差し込む森山邸の中庭でのこと。庭の隅に生えている椰子の木に、数枚の手裏剣が突然トトトンと突き刺さった。それを背にして、恐怖に慄(おのの)いた表情の妙が立ち竦(すく)んでいる。その彼女に向かって、母屋のどこからか父又成の重々しい声がした。
「妙! お主、即刻この家を出るのじゃ!」
 妙は、その声の主を探して母屋のあちこちを見回しながら言った。
「父上! どうかご容赦を! 旅立つ支度をせねばなりませぬ。今宵もう一夜だけ置いて下さりませぬか?!」
 ところが又成の声は荒くなった。
「ならぬ! その調子で今までずるずるとおったではないか。もうその手は食わぬぞ。」
「そこを何とか。ね、父上様?」
 妙が甘えたようにそう言うと、今度は開け放されている広間の奥から、鉢巻を締めて長刀(なぎなた)を持った母和子が姿を現わした。珍しく怖い顔をしている。美女が本気で怒った顔はなかなか見れる物ではないが、実際目にするとこんな恐ろしい物はない。縁側に出た彼女は、椰子の木を背にしている娘に向かって叫んだ。
妙! そなた父(てて)親に反逆致すか! 然(しか)らばこのわたくしが成敗(せいばい)してくれようぞ! 覚悟ーーーっ!!!
 和子は慣れた手付きで長刀をブンブンと振り回すと、その切っ先をサッと我が娘に向けた。それを見た妙は、目に涙を浮かべて叫んだ。
母上様! おやめ下され! わかりました。これより直ちに退出致しまする!
 そう言うが早いか、妙はサッと身を翻(ひるがえ)すと、屋敷の塀を跳び越えて姿を消した。
 それを見届けた和子は、ホッと溜め息を一つ漏らした。その背後から又成が姿を現わして寂しそうに言った。
「……そちに勧められて渋々ではあったが、我が娘を家より追うとは、斯様(かよう)に切なきことか……。」
「致し方ありませぬ。いささか手荒ではありましょうが、又成殿が斯様にでも致さねば、どうにも埒(らち)が開きませぬゆえに……。」
 先に勘蔵が述べた通り、又成はヒミカの修行に妙を同行させることを快諾したことには間違いない。それは、その行き先がせいぜい東南アジア近辺だろうと思っていたからだ。ところが、自分には未知の領域であるヨーロッパまで行くことになったということを知った途端、彼は気が変わってしまったようだ。どれほど勇敢な武人であっても、自分の娘のこととなると、このようになってしまうこともあるようだ。
 家を追われた妙は、一人泣きながら石畳の細い路地を港へと向かった。道行く人が彼女とすれ違うたびに、何事かと思って振り返ったが、彼女はそれに構わず先を急いだ。やがて、潮の香りがしてきたかと思うと、妙は広々としたバンテンの港に出た。
 この大きな港には大小様々な船が停泊しており、朝の光の中、人夫の発する掛け声や物売りの声があちこちで賑やかに飛び交っている。燕丸が接岸している岸壁に立った彼女は、袖で涙を念入りに拭くと、船の上に向かって大きな声で言った。
妙でござる! 今戻った!
 甲板の上で朝食を食べていた麗鈴とヒミカは、その声を耳にすると早速立ち上がった。
「妙、お帰り! もう家での用事は済んだの?」
 船べり越しにそう言ったヒミカの顔を、妙はちょっと悲しそうな顔で見上げてこう言った。
「まだ途中でござったが、父母から追い立てられ出て参ったのじゃ。」
 ヒミカは、やや深刻な面持ちになって言った。
「そうか……。まあ、とにかく上がんなよ。」
 妙は持ち前の跳躍力で燕丸の船べりの上に飛び乗ると、甲板の上にトンと飛び降りた。妙の悲しげな表情に心配した麗鈴が尋ねた。
「よう戻った。家でなんぞあったん?」
 妙はそれには答えず元気なく言った。
「……食事中のところ、邪魔して済まぬことをした。」
 ヒミカが言った。
「そう言うあんたは食べて来たの?」
 妙が黙って頷いたので、ヒミカは優しく言った。
「それじゃ、お茶入れるわ。まあ、座んなよ。」
 甲板の上には椰子の葉で編んだ日除けが張られており、その下の食卓の周りには、やはり椰子の葉で編んだ茣蓙(ござ)が三枚敷かれている。三人の少女たちは、それぞれその上に胡坐をかいて座った。正座という座り方がまだ一般的でなかったこの時代、女性でも食事の際に胡坐をかいたり立膝で座ったりするのは、ごく普通のことであった。
 ヒミカは、食卓の横の火鉢の上に掛かっている鉄瓶の湯で茶を入れた。今の日本で「火鉢」と言えば冬の季語になっているが、当時はガスコンロや魔法瓶など、もちろんまだなかったので、いつでも湯が使えるようにするためには、たとえ熱帯地方であっても、このようにするしかなかいのだ。
 その茶を時々飲みながら、妙は先ほどのことを二人に話して聞かせた。ヒミカと麗鈴は、朝食の続きを食べながら黙ってそれを聞いていた。
 やがて、話しを聞き終えたヒミカが尋ねた。
「妙の用事って、そもそもなんだったの?」
 妙にしては珍しく口篭ってそれに答えた。
「それはじゃな……、父から忍法のおさらいの手ほどきを受けたりとか……、陸上での兵法を教わったりとか……でござる。」
 それに対して麗鈴が尋ねた。
「そりゃ、これからの長い道のりで、うちら三人が身ぃ守るために要ることじゃろう?」
 妙は小さな声でそれに答えた。
「左様。」
 ヒミカは怪訝そうに言った。
「でも、それならなんで、おじちゃんとおばちゃん、あんたを追い出したりなんかしたんだろう?」
 妙は困った顔で言った。
「あれは拙者が思うに、母の意向でござろう。父は拙者と離れとうなかったように見受けられたゆえ。」
 ヒミカがちょっと苦笑いして言った。
「もしかして、それはあんたも同じだったんじゃないの?」
 妙はちょっと照れて言った。
「それを違うと言えば嘘になってござる。」
 それを聞いたヒミカと麗鈴は、顔を見合わせて微笑んだ。麗鈴が妙に向かって嗜めるように言った。
「瓶ヶ島出るときあんた、『バンテン出ることになっても泣かぬ』言うたけど、ほんならあんたもうちらと似たようなもんちゅうことじゃわ。」
 ヒミカも同じ調子で言った。
「泣いたかどうかは知らないけどね。」
 妙はクスッと笑った。
「先ほど、念入りに拭いたところでござる……。」
 彼女はそう言うと、二人の目の前に自分の袖を差し出した。既に大分乾いてはいたが、そこには黒く濡れた涙の跡があったので、三人は思わず顔を見合わせ笑ってしまった。

海図7  水と物資の補給も済ませたヒミカたちは、バンテン滞在中何かと世話になった礼と、出港の旨(むね)を森山家に伝えると、その翌朝には燕丸の錨を上げた。
 スエズ運河のなかった当時、東南アジアからヨーロッパへ行く最短の航路は、インド洋を直線的に横断して喜望峰を経由し、アフリカ西岸の大西洋を北上するというものであった。しかしそれだと、インド洋の航路の途中で寄港することのできる島がほとんどないため、初心者にとっては、かなり危険な航海となる。
 そのことを知っている勘蔵は、インド経由で行くことをヒミカたちに勧めていた。これだと日数は掛かるが、その途中にはポルトガルが交易のために使用している港が点在しているので、比較的物に不自由することがないだろうし、病気になっても医者に掛かることができるからだ。
 その航路を行くためには、マラカ海峡を通るのが最も一般的だったので、燕丸は進路をまず北に取った。現在日本の地図に表記されている「マラッカ」というのは英語読みで、この当時はまだポルトガル語読みの「マラカ」であった。
 この季節、北寄りの風が多いため、その分航行には難儀したが、三角帆のお陰で燕丸は少しずつでも先に進むことができた。
 そのマラカ海峡の入り口付近で燕丸は慶長十一年を迎えた。今の暦に直すと一六〇六年二月七日のことである。この時代の人の感覚だと、一日の終わりは日没で、それを境にして新しい日が始まる。ヒミカと麗鈴と妙の三人は、暗くなる前に燕丸の帆を畳んで錨を下ろすと、有り合せの食材を使って正月用の料理の仕込みを始めた。その作業は、途中休憩などを挟んだため、夜明け近くになってようやくきりが付いた。
 燕丸の甲板の上にともされた明かりの下、麗鈴と妙に向かってヒミカは微笑んで言った。
「さあ、これで大仕事が終わったわ。……お雑煮でも食べましょうか。」
 海の上で餅米は手に入らないし、この船には臼と杵も積んでいない。そのため、彼女がわざと強調して言ったその「お雑煮」とは、小麦粉を水で練って餅に見立て、野菜と一緒に煮込んだ、いわゆる水団(すいとん)のことであった。
 三人の少女たちは、闇夜にともされた明かりの下、食卓を囲んで座ると、揃ってその雑煮を食べた。
 やがて、東の空が次第に明るくなってきた。食べ終えた彼女たちは、そこを綺麗に片付けると、東側の船べりに並び、やがて訪れる自然現象を待った。
 間もなく水平線の雲間から姿を現わした初日(はつひ)に向かって、ヒミカ、麗鈴、妙の三人は揃って拍手を打った。それが済むと、三人は互いに挨拶を交わした。
「明けましておめでとう!」
 ヒミカが感無量の様子で言った。
「……今頃父ちゃん母ちゃんたちも、みんなこうしてるのかなぁ……。」
 妙が比較的冷静な口調で言った。
「それなら、もうとっくに済んでおることでござろう。あちらの方がずっと早う日が出ておるによって。」
 ヒミカは目を丸くして言った。
「あっそうかー! あたしたち、それほど遠くまで来たのね!」
 飛行機によって気軽に遠くへ行けるようになった現代では、「地球は丸い」というのが一般の人でも当たり前の感覚であるが、この当時そのことを常に実感している人は、まだまだ少なかった。
 このとき突然、甲板の上でパラパパパパパン! という大きな炸裂音がして、燕丸の船上は濛々(もうもう)たる白煙に包まれた。ヒミカは飛び上がって驚き、妙は反射的に身を屈めると、自分が背負っている刀の柄に手を掛けて周囲の様子を窺った。
 やがて煙が晴れてくると、そこには火のともったランプを片手に持った中国服の麗鈴が立っていた。彼女は嬉しそうに微笑んで言った。
「うち、これせなんだら春節来た気にならんけんのぅ!」
 春節(しゅんせつ)とは、中国の正月のことだ。この当時の日本では、昔に中国から輸入した暦が使われていたので、正月も中国のそれと同じ日になることが多かった。
 立ち上がった妙は、苦笑いして叫んだ。
こらーっ! それならそうと前もって言わぬかっ! 敵の奇襲と勘違いし、拙者思わず刀を抜くところだったではござらぬか!
 麗鈴は、相変わらず微笑んで言った。
「ほうか。そら済まんかったのぅ。堪忍(かんにん)堪忍。
ほなら、第二弾いくぞえ!」
 彼女はそう言うが早いか、帆桁(ほげた)にぶら下げてある次の爆竹の導火線に点火した。再びいくつもの炸裂音がして白い煙が周囲に濛々と立ち込めた。ヒミカが煙にむせながら言った。
「ゲホ……そう言えば毎年正月になるたびに、……あんたの家の方から派手な音がしてたけど、ゲホ……これがその正体だったのね……。」
 その後この三人は手分けして、甲板の上に並べられている鍋の中から各種料理を皿に盛り付け、甲板の中央に置かれた食卓の上に並べていった。今で言う、「お節(おせち)料理」である。料理が並んで、各自が席に着くと、ヒミカが言った。
「それでは、ここまで何とか無事に来れて、新しい年を迎えることができたことに感謝しましょう!」
 三人は、各自が片手に持っている焼酎の入った杯を互いに付け合うと、それを口にした。日頃から、あまり酒の類を飲まない彼女たちであったが、この日だけは特別だ。料理も仕込んであるので、今日は竃に火を焚かなくても済むようになっている。気温が高い反面冷蔵庫などないので、正月三が日ともおせち料理というわけにはいかない。しかしたった一日ではあったが、彼女たちは貴重なこの休日をくつろいで過ごした。
 その翌朝、燕丸は早くも錨を上げた。もし港に停泊していたり風がなかったりしたら、三日くらいまでは遊んで過ごすのだろうが、何が起こるかわからない大海原の上では少しの風も無駄にすることができない。風は北東から吹いて来ていたので、帆を張った燕丸は、北西に向かって快調に進んで行った。
 やがて、穏やかな海上に浮かぶ燕丸の近く遠くには、大小様々な船の姿が見られるようになってきた。ここは、この当時から世界で最も交通量の多い海域の一つである。燕丸は一旦帆を畳んで航行を中断した。
 その甲板の上の食卓には、このあたりの詳しい海図が広げられ、三人の少女たちはそれを囲んで座った。
 妙が真剣な表情で言った。
「喜助殿から承(うけたまわ)ったところによると、これより先の海峡は、昔から海賊の多かりし海域ゆえに、心して航行せよとのことでござる。」
 麗鈴も同じように言った。
「うちも勘蔵はんから似たようなこと聞いたし、この海峡は浅瀬(あさせ)多いとも聞いたぞ。」
 それを聞いたヒミカが言った。
「そうか……。いずれにしても気を付けて通らなきゃね……。」
 ヒミカは、左舷約十のところを北西に向かって進んでいる大きな帆船を指差して言った。
「あの船の後を着いてくってのはどうかな?」
 それを見た妙と麗鈴は口々に言った。
「それは妙案じゃ!」
「ええ考えじゃ!」
 先を行く船の吃水(きっすい)がこちらの船より深ければ、その後を着いて行く限り、こちらが座礁することはない。吃水とは、水面から船底までの深さのことだ。ヒミカは元気良く言った。
「それじゃ、行きましょうか!」
 三人は手分けして帆を張ると、それぞれが所定の位置に着いた。
 ヒミカが船首で見張りに立ち、麗鈴が帆を操(あやつ)り、舵は妙が操って、先ほどの大きな船の後方二町余りのところに着いた。これ以上近寄ると、相手はこちらが海賊かと勘違いして攻撃してくるかも知れないし、これ以上離れると、相手の航跡(こうせき)を見失ってしまうので、この状況ではこのくらいが妥当な距離だ。
 やがて先方の航跡を捉えた燕丸が直進を始めると、こちらの船の速力が相手のそれよりも勝っていることを知ったヒミカは、新たに指示を出した。
「麗鈴、前の船の速さに合わせて。そして、この船に旗を上げてから帆柱の見張りに着いてくれる?」
「ええぞ!」
旗  麗鈴は元気良くそう言って帆を少し下ろすと、帆柱の上に瓶ヶ島の旗を掲げて、その下に設けられている見張り台に立った。ヒミカはその彼女を見上げて言った。
「どこの船かわかる?」
 麗鈴は、すぐそれに答えた。
「おぅ、ポルトガルの旗付けとるわ。」
 ヒミカは続けて言った。
「それなら、いきなり襲われることはなさそうだけど、一応相手の船の様子を探っててね。」
 麗鈴は、また元気良く答えた。
「よしゃ!」
 ヒミカは、引き続き船の前方の海上を注意深く見詰めた。
 やがて二艘の船は、縦に並んで海峡に入って行った。大きな川口の沖を通るたびに海の水は茶色く濁ってくる。しかし前方の船は、それでも速度を緩めなかったので、多分ちゃんとした水先案内人が乗っているのだろう。これはパイロットとも言われており、港や水路などの水深を把握している者が、そこを航行する船を案内するという、読んで字の如(ごと)くの職業だ。そのことを知っているヒミカが、安心したように言った。
「どうやら、このまま着いて行っても良さそうね!」
 麗鈴と妙も口々に言った。
「そうじゃのぅ!」
「そのようでござる!」
 しばらくすると、左右に薄っすらと見えていた陸地が近くなってきた。海峡の幅が狭(せば)まってきたのだ。それは、ヒミカが持っている海図に示されている通りだった。
 昼食の時刻になっても前方の船は速度を緩めなかった。乗組員が多ければ、交代で食事を摂ることができるからだ。こちらの動きを止めてしまうと相手の航跡を見失ってしまうので、たった三人しかいないが、こちらもそれと同じようにするしかなかった。ヒミカは、船尾の妙のところに行って声を掛けた。
「あたし、舵握ってるから、そのあいだあんた昼餉(ひるげ)にして。」
 妙は、それに応じた。
「了解。」
 彼女は一旦調理室に降りて行くと、三人分の食器類と朝の残り飯や漬物などを持って上がって来た。そして、甲板の食卓に着くと手早く食事をした。ヒミカは彼女に言った。
「食べ終わったら、今度は麗鈴と交替して。あの子が食べ終わったら、また元の配置に戻るのよ。」
「よし、心得た。」
 妙はそう答えると、しばらくしてから麗鈴と見張りを交替した。
 やがて、麗鈴も同じようにして簡単な昼食を済ませるとヒミカと交替し、ヒミカも同じように食べた。こうして昼食を済ませた三人は、引き続き慎重に前方の船の後を付けた。
 海峡の中を縦に並んだ二隻の船は、北西に向かってずっと航行を続けたが、夕方になると海峡の幅が広がったようで、陸地はまた遠退いて行った。そして、風が凪(な)いでしまった。
 間もなく、見張り役の麗鈴が帆柱の上から甲板に向かって叫んだ。
「前の船、帆ぉ畳み始めよったぞ!」
 前の船が大きな帆を畳んでいる様子は、こちらの甲板からも見ることができた。今夜はここで停泊するのだろう。それに倣うことにしたヒミカが、船首から指示を出した。
「それじゃ、こっちも停まりましょう。麗鈴と妙、帆を畳んで!」
 帆が畳まれると、ヒミカは船首から錨を下ろした。
 しばらくすると空が俄かに暗くなり、遠くで雷が鳴り始めた。やがて湿った風が吹いたかと思うと、大粒の雨がバラバラと降って来た。雨は見る間に激しさを増し、間もなく椰子の葉で編んだ日除けの端から滝のような水が甲板の上に流れ落ちた。それを見た彼女たちは、空になった桶や瓶を急いで船内から持って来ると、そこに置いて雨水を溜めた。もちろん飲み水や調理に使うのだ。
 工場から出る煤煙や自動車の排気ガスなどなかった当時は、現代のような大気汚染は皆無に等しく、雨水をそのまま飲んでも全く問題はなかった。
 飲み水を確保した彼女たち三人は、今度は何やら嬉しそうな声を上げたかと思うと、次々と服を脱いで裸になった。天然のシャワーだ。この船に乗っているのは彼女たちだけだったし、雨で周囲が霞んでいるので他の船から見られることもない。
 また、海水を浴びた綱などの道具類の塩気を雨は洗い流してくれる。この地方の雨季は既に明けていたので、このような夕立は天からの貴重な贈り物であった。
 体を洗った彼女たちは、今度はそれぞれが着ていた服を洗い始めた。
 夕立が過ぎると洗濯物を帆桁に干して、今度は夕食の支度だ。船内は蒸し暑いので、彼女たちは天気が良ければいつもそれを船上で行なうことにしている。髪と体を拭いて、新しい服を着た彼女たちは、手分けして調理に取り掛かった。ヒミカが竃に火を起こし、妙が米を研いで野菜を切った。一方、船を停めてから仕掛けておいた釣り糸の糸巻きを巻きながら、「鮮魚係」の麗鈴が叫んだ。
「おぉ! こら大物じゃ!」
 他の二人はそれぞれ手を止めて立ち上がると、船べりから身を乗り出してその糸の先を見た。すると、夕暮れの黒い海原に水しぶきが上がり、そこに大きな魚の白い腹がちらりと見えたではないか! ヒミカが、このような場合に必要な道具を取りに走った。それは竹竿の先に竹の籠(かご)が付いたものだった。その籠の先には更に長い紐が付いており、その先は妙が握った。竹竿を持ったヒミカが籠を海面に下ろし、それでその魚をすくうと、妙とヒミカの二人が掛け声を掛け、勢いを付けて一気にその籠を持ち上げた。
「そーれ!」
 すると、船べりを越えた籠の中から大きな魚が甲板の上に落ち、ドタドタと勢い良く暴れた。それはなんと、二もあろうかと思われる大きなヒラメであった。三人は口々に歓声を上げた。
やったーっ!
お見事!
大漁じゃーっ!
 このあたりは比較的水深が浅いので、このような海底に棲(す)む魚が掛かったのであろう。
 竃に火を起こしたヒミカは、米が仕込まれた釜をその上に掛けると、麗鈴と手分けしてこの魚の解体に取り掛かった。ヒミカの両親はどちらも漁師の出だし、麗鈴の母も医者に嫁ぐ前は漁師の娘だった。そのため、この二人の包丁さばきは見事なものであった。
 一方妙は、暗くなった船上に明かりをともしていった。前方の船には、既にいくつもの明かりが明々とともっている。飯が炊けると、それを蒸らしているあいだに妙が茄子の煮物をつくった。
 こうしてこの船の甲板の食卓には、漬物、ご飯、刺し身、煮物などが次々と並べられていった。その最後はヒラメの粗(あら)で出しを取った吸い物だ。これができあがると、三人は食卓に着いた。ヒミカが言った。
「それじゃ、頂きましょうか。」
 三人は口を揃えて言った。
「頂きまーす。」
 食卓の上に置かれた小さな行灯(あんどん)の炎に薄明るく照らされた三人は、楽しげに食べ始めた。ヒラメの縁側の刺し身を食べた妙が、感極まったように言った。
「……おお! これは正に高級料理でござる!」
 ヒミカも嬉しそうに言った。
「こんな大きいの、瓶ヶ島では捕れないわ。」
 麗鈴も感動したように言った。
「……こら大ご馳走じゃ! うちら三人じゃ食いきれんかわからんのぅ!」
 妙が言った。
「吸い物がまた格別じゃ。」
 ヒミカが言った。
「煮物も美味しいわ。」
 麗鈴が感激して言った。
「品数は少ないが、こら贅沢な夕餉(ゆうげ)になったのぅ。」
 ヒミカが言った。
「これも、米や野菜つくってくれた人と海の幸のお陰だわ。」
 妙も言った。
「正にその通りでござる。」
 三人はしばらくその有り難味を噛みしめるようにして黙々と食べていたが、麗鈴が前方の船の明かりに目配せしながら言った。
「いつもなら広い海にうちら三人だけじゃが、今日は何やら賑やかじゃのぅ。」
 ヒミカが言った。
「後で近寄ってみようか。宴(うたげ)の音なんかが聞こえるかも知れないから。」
 麗鈴が目を輝かせて言った。
ええのぅ!
 しかし妙は、やや真剣な表情で言った。
「『エウロペの男は口もうまいし手も早い』と、拙者父から承(うけたまわ)っておる。」
 麗鈴が妙に向かって興味深げに尋ねた。
「手ぇ早いて、どげなことしよるん?」
 行灯の明かりに照らされている妙の顔がポッと赤くなり、彼女は麗鈴に向かって思わず叫んでいた。
お主、何を聞くのじゃ!
 一方、麗鈴はきょとんとして言った。
「知らんから聞いとるんじゃろうが。」
 妙は、やや呆れたように言った。
「決まっておろう。まずは手を握ったり、口を吸うたりするのじゃ。」
 麗鈴は目を見張って言った。
「え!? いきなり、そげに過激なことしよるんか?」
 ヒミカがやや興奮して言った。
「あたし、かっこいい人だったらされてもいいよ!」
 妙は更に赤くなって叫んだ。
たわけ者! それだけで済まぬから言うておるのではござらぬか! その後、服を脱がされて裸にされるのじゃぞ!
 それを聞くが早いか他の二人は、顔を真っ赤にして悲鳴を上げた。
キャー!!!
 しばらく騒いでいた二人だっが、ヒミカが急に冷静になると妙に向かって尋ねた。
「……あんた、なんでそんなに詳しいのよ?」
 妙は恥ずかしそうに目を伏せながら、ややためらいがちに言った。
「……ある夜、兄じゃの部屋の襖(ふすま)が開いておって……、行灯の光に照らされたその有り様が……」
 妙が言うのをためらったので、ヒミカと麗鈴は口を揃えて先を促がした。
「その有り様が!?」
 すると妙は、再び真っ赤になって叫んだ。
こらーっ! しまいまで言わすでなーーいっ!!
 他の二人は、また揃って悲鳴を上げた。
キャー!!!
 麗鈴が声を上ずらせて尋ねた。
「……か、一成はんか? の、信成はんか?」
 妙は更に恥らいながらも、断固とした口調で言った。
「本人と姉様の名誉のため、それは口が裂けても言えぬ。」
 ヒミカは興奮して言った。
「好きな相手だったら、あたしそれでもいいよっ!」
 妙は眉を顰(しか)めて言った。
「それが元で、子を孕(はら)むことになっても構わぬのか?」
 ヒミカは少し考えると、やや冷静な口調になって言った。
「……そ、そうか、そういうことなんだもんね……。その人と夫婦(めおと)になる覚悟しなきゃいけないわ。」
 妙はまた真剣な表情に戻ってきっぱりと言った。
「左様! そういうことなのじゃ!」
 麗鈴は、やや冷静になると妙に尋ねた。
「あんた兄さんの見たはええが、当の自分はどうなん? 誰か好きな人おるん?」
 妙は、やや恥らいながら言った。
「……片想いではあるが、お慕(した)いする人はおる。……そう言うお主はどうなのじゃ?」
 麗鈴も、やや恥らって言った。
「……おるよ。
……ヒミカはおるん?」
 そう尋ねられたヒミカは淡々として言った。
「前にいたけど今はいないよ。」
 麗鈴が興味深げに尋ねた。
「誰じゃ、それ?」
 ヒミカは相変わらず淡々として言った。
「……刀鍛冶(かたなかじ)の倅(せがれ)……。」
 それを聞いた麗鈴が間髪入れずに言った。
「次男の真左衛門(しんざえもん)か!?」
 ヒミカは、自分の食べ終えた食器を重ねて片付けながら、やはり淡々と答えた。
「うん。」
 麗鈴は、やや残念そうに言った。
「あれなら、ヒミカとはお似合いじゃ思うがのぅ。」
 妙も食器を片付けながら尋ねた。
「左様。なぜに好きではのうなったのじゃ?」
 ヒミカは立ち上がって竃の前まで行くと、そこにしゃがみ込み、その中の真っ赤な熾(お)きを火箸で挟んで火消し壷に移しながらそれに答えた。
「あいつが、あいつの母ちゃんに叱られて泣いてるところ見ちゃってね。……大の男がだよ!」
 麗鈴が自分の食器を水桶で洗いながら、やや納得したように言った。
「ほうか……。ほならその気持ち、わからんでもないわ。」
 今度はヒミカが麗鈴に向かって尋ねた。
「それじゃ、あんたが好きな人って誰なのよ?」
 麗鈴は再び恥らいながら言った。
「……妙が言うたら、うちも言うわ。」
 同じく自分の食器を洗いながら妙が言った。
「麗鈴から先に言わぬか。」
 ヒミカは、食器を洗う手を止めて言った。
「そしたら、どっちが先に言うか、くじ引きで決めるってのはどう?」
 他の二人は口々に言った。
「ええぞ。」
「承知した。」
 ヒミカは、本来焚き付けに使うための小枝を何本か持って来ると、そこに何かの細工をしてからこう言った。
「このうちのどれか一本に、赤い糸を巻いたの。それを引いた方から言うのよ。」
 二人も洗う手を止めると、ヒミカが握っている小枝を同時に一本ずつ引き抜いていった。
 間もなく麗鈴とヒミカが歓声を上げ、妙もちょっと嬉しそうに言った。
「……くそっ! 赤いのを引いてしもうたわ!
それでは言うぞ……。」
 他の二人は、それぞれ妙の口元に耳の神経を集中させた。
「……。」
 妙がそれを言った途端、それまでルンルン気分だった麗鈴が、いきなり後ろに引っくり返った。それを見た妙とヒミカは、思わず互いに顔を見合わせると、妙が声をやや震わせながら、甲板の上で体を半回転させ顔を伏せている麗鈴に向かって言った。
「……リ、麗鈴(リーリン)! お、お主、もしや!?」
 ヒミカも同じように言った。
「麗鈴! あ、あんたまさか!?」
 顔を伏せている麗鈴から、蚊の泣くような声が聞こえた。
……よりにもよってうち、妙と同じ人好きになるとは思わなんだわ……
 燕丸の上に、しばらくのあいだ沈黙が流れた。その一方、その前方の大きな船からは、拍手や歓声やらが夜風に乗って時折り聞こえて来ている。きっと、宴会でも開かれているのだろう。
 空に星が一つ流れた。ヒミカがしんみりした口調で言った。
「こればっかりは、どっちにするかをくじ引きで決めるわけにもいかないしねぇ……。」
 食事の後片付けを終えた三人は、それぞれ船室から布団を持って来ると、それを甲板の上の思い思いの場所に敷いた。船内は暑苦しいので、天気の良い夜にはいつもこうして寝るのだ。他の二人が寝床に就いたのを見届けたヒミカは、船上の明かりの一つだけを残すと、あとは全部消して回った。すると、星は一段と輝きを増して見えた。寝床に就いたヒミカが、その無数に瞬(またた)く星を見上げて言った。
「……きれいだわ。」
 麗鈴もそれを見上げながら、穏やかな口調でこう言った。
「……人好きになるて、不思議なことじゃのぅ……。」
 その言葉を耳にした妙も、自分の寝床から同じようにそれを見上げてこう言った。
「左様。……これだけは自分の意思でも侭(まま)ならぬ……。」
 ヒミカも同じようにして言った。
「それまで好きだった人が突然嫌いになったり、何とも思ってなかった人を突然好きになったりする……。なんでかなぁ……?」
 麗鈴は言った。
「そら、神さんの仕業じゃけん、うちらにはわからんことじゃ。」
 妙が言った。
「左様。……神仏の成せる業(わざ)、人智(じんち)の及ばぬこと多しと聞いておる……。」
 麗鈴は妙の方を向いて言った。
「ちゅうことは、うちらが同じ人好きになったちゅうことも、神さんの仕業じゃけん、この先どげんなるかわからんが、悪いようにゃぁならんちゅうことと思わんかや?」
 妙も麗鈴の方を向いて穏やかに言った。
「左様。この世に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の御慈悲(ごじひ)ある限り、お主にも拙者にも結果は良うなるはずじゃ……。
そもそも、身どもがいくら好きになろうとも、ご本人がそうであらねばそれまでのこと……。」
 今度はヒミカの方を向いた妙は、やや不安げに尋ねた。
「然(しか)らばヒミカ、お主の兄上は誰をお好きとお見受け致すや?」
 妙と麗鈴が同時に好きになっていたのは、なんとヒミカの兄であったからだ。ヒミカは、自分より二つ年上の兄、アキのことを思い浮かべてまずこう言った。
「うーん、わかんないよ。」
 そして苦笑いすると彼女は言葉を続けた。
「……もし知ってたとしても、それ、あたしの口からあんたたちに言えると思う?」
 妙も苦笑いして言った。
「これは愚問であった……。確かに、お主の言う通りじゃ。」
 麗鈴が、切なそうに溜め息を一つ漏らして言った。
「……今頃何してなさるんかなぁ……。」
 ヒミカは言った。
「……夕餉の後は、友達の家に行ってカルタしてるか……、友達を家に呼んでカルタしてるか……。」
 妙が微笑んで言った。
「よほどカルタがお好きと、お見受けするのぅ。」
 麗鈴が可笑しそうに言った。
「そうじゃ。瓶ヶ島ん男は、寝とらんときにゃぁ物食いよるか、酒飲みよるか、カルタしよるか……。そのどれでもないときにゃぁ魚捕っとるけんのぅ……。」
 それを聞いたヒミカがケラケラと笑い、言った本人も一緒になって笑ってしまった。しかしその言葉の中には、そんなどうしようもない島の男たちへの愛情が込められていることを、妙は敏感に感じ取っていた。
「アキ殿と同じ島に住むお主らが羨ましい……。拙者は所詮(しょせん)よそ者……。」
 そう言って二人に背を向けた妙の肩から、押し殺したようなすすり泣きが漏れた。それを耳にした途端、麗鈴は声をやや荒くして言った。
妙! なに言いよん! あんたはよそ者じゃないぞえ! うちら物心付いたときから互いに行き来しとるけん、姉妹と一緒じゃ! のぅ、ヒミカ。」
 ヒミカも同じように叫んだ。
そうよ! 兄ちゃんが言ってたよ。『妙は遠くに住んでるような気がしない。まるで妹みたいだ。』って!
 その途端すすり泣きはやんで、妙はサッとヒミカの方に体を向けた。
ヒ、ヒミカ! それは真(まこと)か!
 急き込んでそう問うた彼女の瞳は、星明かりによって嬉々と輝いている。その妙に向かって、ヒミカは教え諭すようにこう言った。
「ああ、ほんとだよ。だから、自分のことを『よそ者』だなんて思うのはやめてよ!」
 ところが、今度は麗鈴が不安げに尋ねた。
「なぁなぁヒミカ。アキ兄ちゃん、うちのことはどげん言うてなさるん?」
「あんたのことはね……、うーん忘れたけど、……『可愛い』って言ってたかな? ハハハ……。」
 ヒミカはそう言って笑ったが、麗鈴は途端に激しい口調でこう言った。
嘘じゃ! あんた今、嘘言うたじゃろ!!!
 そして彼女は布団から起き上がると、吐き捨てるように言った。
「……どうせ、うちんことは何とも言うてなさらんかったんじゃ! うちの父ちゃん明(みん)国人じゃけん、あんたらとは血筋(ちすじ)違う思われとるんじゃーーっ!!!
 彼女はそう言って自分の布団にうつ伏すと、激しく泣き出した。
 ヒミカは自分の頭を抱えて独り言を言った。
「う~ん、困ったなぁもぅ……。」
 そして彼女は、自分の布団の上にさっと身を起こすと、嗚咽(おえつ)している麗鈴の背中に向かって、やや厳しい口調でこう言った。
「麗鈴! あんた、あたしたちがなぜ日本を出て瓶ヶ島に来たのか、誰かから聞いたことあるでしょ?」
 麗鈴の鳴き声は止まらず返事もなかったが、ヒミカは言葉を続けた。
「……あんたの父ちゃんが、なんであたしたちの仲間に入ったか、あんた知ってるはずよ!」
 その言葉によって麗鈴の嗚咽は少しずつ収まっていった。やがて彼女は俯いたまま擦れ声で言った。
……知っとる……
 ヒミカは言った。
「それを知ってるなら、あたしらがあんたのことを『違う』だなんて思ってないことがわかるはずよ。国の違いや言葉の違いを乗り越えて、お互いに仲間になったんだから。
さっきは適当なこと言って悪かったけど、あたしの兄ちゃんがあんたのことを特別何も言わないのは、それだけあんたのことを親しいと思ってるからだよ。あたし実の妹だけど、兄ちゃんから良く言われたことなんて一度もないよ。それどころか、まだ小さくて兄ちゃんの後を着いて回って頃には、『お前は邪魔だ!』とか『うるさい奴!』とかって言われてたんだから。」
 すると、それまで黙っていた妙が、やや嬉しそうに言った。
「拙者、一度で良いからアキ殿に『うるさい奴』と言われてみとうござる。」
 布団から顔を上げた麗鈴も、涙声だが嬉しそうに言った。
「アキ兄ちゃんに着いて回ると、そげに言われるんかのぅ?」
 これを聞いたヒミカは、呆れたような口調で言った。
「あぁもう、二人ともお馬鹿なんだから! あんなカルタ狂いのどこがいいのよ!」
 麗鈴と妙の二人は、星明かりの下で互いに顔を見合わせると口々に言った。
「どこがて……のぅ、優しいし頼もしいし男前じゃけん……。」
「左様。何もかも全てが良いのでござる。」
 ヒミカは、大きな欠伸(あくび)をして言った。
「あ~あ。あたし、眠くなってきたよ。」
 麗鈴が嬉しそうに言った。
「アキ兄ちゃんのこと思うとったら、うち、目ぇ冴えてきよった。」
 妙も同じように言った。
「拙者もじゃ。麗鈴、今宵はアキ殿のことを語り明かさぬか!?」
 麗鈴は星明かりに目を輝かせて言った。
「おぅ、そら、ええのぅ!」
 それに対して、ヒミカは投げ遣りに言った。
「もう勝手にして! あたし先に寝るから!」

 翌朝ヒミカは、いつもの通り日の出前に目を覚ましたが、麗鈴と妙はまだぐっすりと眠っている。昨夜のようなことは、自分も含めて初めてではなかったのだが、その話題は初めて出たものであったので、きっと二人とも星空を見上げながら話しに熱中していたのであろう。
 ヒミカはいつものように自分の布団を片付けると、上着を羽織って帆柱の上の見張り台に立った。微かな風が北東から吹いている。このあたりは、ほぼ赤道直下ではあるが、雨季が明けて間もない今は比較的過ごしやすい気候だ。特に陽が昇る直前などは、肌寒いくらいである。
 やがて、水平線の上に太陽が出て来ると、前方の船の様子が次第に明らかになってきた。その船に帆が張られ始めているのを見届けたヒミカは、急いで見張り台から降りると、錨を上げて帆を張った。そしてそれを風向きに合わせて固定すると、甲板後方にある舵を握った。やがて前方の船の進路が定まり、燕丸もそれに続いていることを確認したヒミカは、舵を縄で固定すると、朝食をつくるための火を竃(かまど)に起こした。
 太陽が船べりよりも高くなると、寝ている麗鈴と妙の顔にも、次第に橙(だいだい)色の光が当たるようになる。間もなく、その熱さによって二人は、ほとんど同時に目を覚ました。まず、寝床に上半身を起こした妙が大きく伸びをして言った。
「……おぉ……、寝坊してしもうたわ……。
ヒミカ、かたじけない……。拙者これより身支度して加勢致す……。」
 ヒミカは微笑んで言った。
「うん。米は研がずにちゃんと置いてあるよ。」
 麗鈴も寝床に身を起こすと、寝ぼけ眼(まなこ)で言った。
「……あれ、早や船が動いとるわ……。
ヒミカ、済まんかったのぅ……。」
 ヒミカは苦笑いして言った。
「二人ともあれから、どのくらい起きてたの?」
 麗鈴がしばらく考えてから言った。
「……一(いっとき)か、二時か……。」
 妙が、ややしっかりした口調になって言った。
「一時半程でござろう。されど、麗鈴と心ゆくまで話しができて良うござった。」
 麗鈴も、しっかりした口調になって言った。
「そうじゃ。妙とは協定結んだけん。」
 ヒミカが尋ねた。
「何よ、その協定って?」
 妙が言った。
「お互い、アキ殿のことで争わぬということじゃ。」
 麗鈴が言った。
「そうじゃ。二人ともアキ兄ちゃんのこと、同じくらい強う思うとるけん、アキ兄ちゃんおらん今、そのことで争うのは無意味なことっちゅう結論に達したんじゃ。」
 ヒミカは安心したように溜め息をつくと、独り言のように言った。
「……ああ、良かった。あんたたち二人が仲良くしないと、航海も戦(いくさ)も釣りも料理も、何もかもうまくいかなくなるんだから……。」
 やがて後から起きた二人も、てきぱきと布団を片付けて身支度を整え、ヒミカと共に朝食の準備に取り掛かった。
 飯が炊け、吸い物が出来上がると、あとは配膳して準備完了だ。昨夜のヒラメの刺し身の残りを醤油に漬けたものがたくさんあったので、朝から豪華な食卓となった。それを囲んで座った三人は早速食べ始めた。
 ヒラメの醤油漬を飯と共に食べていた麗鈴が、実感を込めてこう言った。
「……刺し身もうまかったが、これがまたいけるわ。飯が進んで困る……他(ほか)なんも要らん。」
 それを聞いたヒミカが、やや真剣な表情になって言った。
「あんた、それはいいけど、『長い航海の最中に野菜食わんもん病(やまい)になる』って、あんたの父ちゃんが言ってたよ。漬物も食べなきゃ駄目だよ。」
「おお、そうそう。そいで思い出した。そのうちの父ちゃんが、これ持たせてくりゃったんじゃ。」
 麗鈴は嬉しそうにそう言うと、懐の中から小さな瓢箪を取り出した。その栓を抜いてヒラメの漬(づけ)が乗っている自分の飯の上に、その中の赤い粉末を振り掛けた彼女は、それを一口食べた途端、更に嬉しそうに言った。
「うまさ倍増、病気退散! どうじゃ、ヒミカもやってみんか?」
 その瓢箪を受け取ったヒミカは、やや不思議そうに言った。
「なんだ、唐辛子じゃない。これ食べてると病気にならないの?」
 今度は麗鈴の方が、やや真剣な表情になってこう言った。
「おぅ。父ちゃんは、そげん言いんさったぞ。『玄米(げんまい)と唐辛子ば食うちょりゃ病(やまい)にゃならん』て。」
 今までの日本の一般家庭で食されている「ご飯」と言えば白米だ。それに対して玄米とは、脱穀してから精米せず、薄皮が付いた状態のことを言う。これは、高度成長期には敬遠されていたものだが、現在では健康面での価値が見直されつつある。
「それは一理あろう。拙者の母は、『バンテンに参って唐辛子を常食致すようになってから、風邪をあまり引かぬようになった』と申しておった。」
「それじゃ麗鈴、ちょっと貰うよ。」
 ヒミカはそう言って、その瓢箪の唐辛子を自分の飯の上にも掛けると、一口食べてみてから納得したように言った。
「……なるほど……。この辛さが爽やかでいいね。」
 妙も麗鈴に向かって言った。
「拙者も頂戴するぞ。」
 ヒミカから瓢箪を受け取った妙は、自分の飯に唐辛子を振りかけて食べると、やはり嬉しそうに言った。
「おお、なるほど。これは常用してしまいそうでござる!」
 ヒミカは席から立つと船室へ降りて行き、手に何かを持って戻って来た。それは、この船に常備してある調理用の唐辛子の粉が入った壷だった。ヒミカは他の二人に向かって言った。
「それなら、これをみんなで使いましょうよ。」
 大海原を渡って行く彼女たちが、茶を飲むのに加えて、唐辛子を常食するようになることは、とても幸運なことであった。なぜなら、茶にも唐辛子にもビタミンCが含まれているからだ。
 長い航海をしていると、やがて粘膜から出血したり貧血になったりするということは、この時代のヨーロッパでは既に広く知られていることであった。それが死に至ることもあったので、船乗りたちから壊血病と呼ばれて恐れられていた。しかし、その原因が何であるかはずっと不明のままで、それがビタミンCの欠乏によって起こるということが明らかにされたのは、これより三百年近くも後になってからのことであった。
 彼女たちが今用いている粉末唐辛子のビタミンCの含有(がんゆう)率がどれほどなのかは定かではないが、このようにしてそれを摂取することにより、偶然にも壊血病の発生を防いでいたという可能性は充分に有り得ることだ。
 何気なく船べり越しに前方を見た麗鈴は、飯を頬張りながらも、やや目を見張ってこう言った。
「……お! あの船、進路変えよるぞ!」
 その言葉によって、他の二人も一斉にそちらの方を向いた。すると確かに、前方の船は進路を北西から北北西へと変えているところだった。ヒミカは慌てて指示を出した。
面舵(おもかじ)! 進路北北西に変更!」
 まだ食事中だったが、それどころではない。食事は置いておいても逃げて行かないが、前の船の航跡を見失って浅瀬に乗り上げたら大変だ。箸を置いた三人は席から立ち上がると、ヒミカは船首で見張りに立ち、麗鈴は帆を操り、妙は舵を操って前方の船の後を追った。
 双方の船が直進を始めると、ヒミカは新たな指示を出した。
「帆と舵を固定したら、みんな集まって!」
 麗鈴と妙は、それぞれ元気良く答えた。
「よっしゃ!」
「了解!」
 ヒミカは食卓の上に場所を空けると、船室から海図を持って来てそこに広げた。やがて他の二人も集まって来ると、三人はその周りに腰を下ろした。ヒミカは言った。
「食べながらでいいから、ちょっと聞いて。」
 朝食の続きを食べながら、ヒミカは言葉を続けた。
海図6 「……昨日あたしたちは、ここをこう入って来て……今居るのは大体このあたり……。」
 海図の上を動くヒミカの指先を、他の二人も朝食の続きを食べながら目で追った。ヒミカは言葉を続けた。
「あの船が目指してるのは、どうやらここみたいよ。」
 彼女が示した一点に顔を近付けて見た麗鈴が言った。
「マラカか……。」
 ヒミカが頷いて言った。
「そう。
……ここはどんな港なの?」
 麗鈴がその問いに答えた。
「ここは元々回教徒が治めとって、明国とも親しゅうしとったそうじゃが、天主教の暦(こよみ)の1511年にポルトガルの将軍が攻め滅ぼしよってから、ポルトガルの港になりよったそうじゃ。勘蔵はんは、多分大きな港じゃろう言うてなさったぞ。
先に行く船はポルトガルの旗付けとるけん、ここに寄ると見て間違いないな。」
 ヒミカが言った。
「あたしたちが寄っても大丈夫かしら?」
 麗鈴はそれに答えた。
「おぅ、ポルトガルは商売しよる国には厳しいが、うちらんような個人が寄っても何ともないじゃろう。」
 当時ポルトガルは、胡椒や香料などの売買を独占するための許可証を発行しており、これを持たずに交易する外国の商船に対しては、拿捕(だほ)したり攻撃したりと厳しく対処していた。
 穀物・青果担当の妙が言った。
「果物と野菜は底が尽きておるし、芋と豆も心細うなってきておる。補給のために寄港してはいかがか?」
 ヒミカが言った。
「この海図で見る限り、この先しばらく大きな港はなさそうだし、ここでいろいろと仕入れた方が良さそうね。それじゃ、ここに寄ることにしましょう!」
 三人は朝食の後片付けを手早く行なうと、それぞれがまた自分の部署に着いた。
 やがて、見張り台の上の麗鈴が甲板に向かって叫んだ。
「前に陸が見えるぞー!」
 しばらくすると、甲板の上からも薄っすらとした陸の姿を前方に確認することができた。それは、船が進むにつれて次第にはっきりとしてきた。
 今日もまた交替で昼食を済ませた三人は、既にかなり大きくなっている陸の姿を前方に眺めていた。
 しばらくしてから見張り台の麗鈴が叫んだ。
「前の船、進路変えよるぞー!」
 それを見届けたヒミカは、羅針盤を見ながら指示を出した。
「面舵! 進路北に変更!」
 妙も同じ羅針盤を見ながら慎重に舵を操った。
 その日の夕方、マラカの港を目前にしたところで二艘の船は日没を迎えた。前を行く船は座礁を恐れて暗闇の中での寄港を断念し、今夜はここで停泊することにしたようだ。燕丸もそれに倣うことにした。帆を畳んで錨を下ろした三人の少女たちは、いつものように夕食の準備に取り掛かった。

 翌朝、夜明け前に目覚めたヒミカ、麗鈴、妙の三人は、それぞれ寝具を片付けて身支度を整えると、全員配置に着いた。風がほとんどないので、麗鈴と妙が左右両舷で櫂を漕ぎ、ヒミカが舵を操っている。既に前方の波のあいだにはマラカの街が小さく見え隠れしており、前を行く船もそちらを目指して、たくさんのオールがゆっくりと動いている。燕丸は慎重にその後を追った。
 陽も昇り、街が近付いてくるにつれて、その詳細が明らかになってきた。最初にそれとわかったのは、朝もやの中にたたずむ高い石づくりの城壁だった。次に明らかになったのは、その中にある二つの塔のある大きな建物だった。船尾の方を向いて座り、妙と並んで櫂を漕いでいる麗鈴がちらっと前方を振り返ると、船尾で舵を操っているヒミカに向かって、途切れ途切れに尋ねた。
「……あれが、……話しに聞く天主堂(てんしゅどう)なん?」
 ヒミカはそれに答えた。
「どうやら、そうみたいね。塔の上に十文字の印が付いてたら、それに間違いないわ。」
 妙も前方をちらっと振り返ると、櫂を漕ぎながら言った。
「……城がまた、……堅固に見受けられてござる。」
 ヒミカが真剣な表情になって言った。
「城と天主堂か……。まるでポルトガルの象徴みたいだわ……。」
 大きな川があるようで、海の水は次第に茶色く濁ってきた。漕ぐ人数が多い前の船は、どんどん先へ進んで行き、やがて桟橋(さんばし)から少し離れたところで停船した。マラカの港はもう目と鼻の先なのだが、どうやらあの船の吃水では桟橋に直接接岸することができないようだ。燕丸もそれに倣った方が無難なようだった。
 桟橋まであと半町というところまで来て、ヒミカは指示を出した。
「停船! 錨を下ろして!」
 二人は船を漕ぐのをやめて櫂を収納すると、船首から錨を下ろした。
 この街の建物の多くは白く塗られた石や煉瓦づくりで、それが熱帯の朝陽を受けて濃厚なオレンジ色に輝いている。その美しさにしばらく見惚れていた三人だったが、ヒミカは一応他の二人に気遣って言ってみた。
「二人ともお疲れ様、お腹すいたでしょう。朝餉にしましょうか……。」
 それに対して麗鈴が、町の風景を見渡しながら言った。
「そら力仕事して腹減ることは減ったが、うち、この街(まち)早(はよ)う見物(けんぶつ)してみたい。」
 妙も同じようにして言った。
「朝餉の食材を、この街の市(いち)にて仕入れても、よろしゅうござろう。」
 この若い二人にとって、どうやら今は食い気よりも好奇心の方が僅(わず)かに勝っているようだ。それはヒミカとて同じことであった。先ほど停船したポルトガル船からは、既に何隻かのボートが桟橋に向かって漕ぎ出している。ヒミカは元気良く言った。
「それじゃぁ、陸に上がりましょうか!」
 他の二人も嬉しそうに答えた。
「よしゃ!」
「了解!」
 この船に備えられている小さな伝馬船を三人掛かりで海上に浮かべると、そこに乗り移った彼女たちは、桟橋に向かって一人ずつ交替で櫓(ろ)を漕いだ。
 やがて伝馬船が桟橋(さんばし)に着くと、いつものようにまず麗鈴と妙がそこに飛び移った。そして、ヒミカが船首と船尾から投げてよこした縄を、それぞれが受け取って杭にくくり付けた。ヒミカは、積んで来た三つの竹籠を麗鈴に手渡すと、妙の手を借りて桟橋に移った。
 大きなポルトガル船が入港したところなので、港は大賑わいだった。三人の少女たちは熱帯の青空の下、その異国の港の空気を胸一杯に吸い込んだ。
 少女たちは竹籠を背負うと、人ごみをぬって桟橋の上を陸の方へと歩いて行った。すると、腰巻を身に付けた上半身裸の現地の若い男たちが次々に現われて、彼女たちに笑顔で声を掛けてきた。
「Vos quer carrega sua carga, senhoritas?」
「Posso eu ajudar-lhe, senhorita?」
 ポルトガル語を若干話せるヒミカが、それに対して一つ一つ返答していた。
「Não.」
 そのヒミカの肩に左右からしがみ付いた妙と麗鈴の二人が、不安げな小声で言った。
「やけに馴れ馴れしい男衆(おとこしゅう)でござる!」
「うち何言われとるん?」
 ヒミカは、それらの問いに答えた。
「あたし、ポルトガル語は一月程習っただけだったから、まだあまりよくわかんないけど、『船の積み荷を運ぼうか?』とか『手伝うことあるか?』って聞いてるみたいよ。だからあたしは、そのたびに『いいえ』って答えてるの。」
 麗鈴が、ちょっと残念そうに言った。
「なんじゃ、そうか……。うちはまた、逢い引きにでも誘われとるんか思うたわ。」
 それを聞いた他の二人が陽気に笑った。
「ハハハハ!」
 気を取り直した妙は、安心したように言った。
「……なるほど。思えばバンテンの港でも似たようなことがあるわ。……今までは親同伴ゆえに気に留めぬことであったが。」
 岸に下り立った三人は、まず入国許可の申請のために役所の出先機関の窓口に赴いた。すると、それは即刻その場で受理されたので、彼女たちは早速この街の市場を探検してみることにした。
 港から川沿いにしばらく歩いた彼女たち三人をまず出迎えたのが、異国情緒溢れる香りだった。東の島々から運ばれて来たスパイス、西のインド亜大陸から運ばれて来た香(こう)。そして、それらの華やかさの底には、ここに生活する人々が排出する様々な臭いも流れている。それら全ては渾然一体となり、次第に強さを増して来た。
 彼女たちが先に進むにつれて、今度は様々な音が聞こえて来た。男や女が物を売る声、その伴奏のように絶えず底で流れているのは、店の者同士客同士が交わす朝の挨拶、客が売り手と交渉する無数のざわめきだ。そのあいだをぬって聞こえるのは、子供のはしゃぐ声、犬の吠える声、鶏の上げる声、山羊の鳴き声。その不思議な音楽も、次第に音量を増してきた。
 そして彼女たちは突然、その香りと音の源である大きな市場に出た。朝もやの中でたくさんの人が動いている。そこで彼女たちの目をまず捉えたのは、何と言ってもやはり食べ物であった。麗鈴が突然目を丸くして立ち止まると、人ごみの向うに見えている露店の一つを指差しながら叫んだ。
ちょ、ちょっと! あれ見んさい!
 彼女が示すその先を見ると、その店の大きな机の上には、直径一足らずで厚さ三ほどの狐色をした丸い物が山と積まれており、それを買い求める十人余りの人々が、その前に群がっている。三人の少女たちは、思わずそこに駆け寄った。この時代のアジアはもちろん欧米でも、現代のように列をつくってきちんと並ぶ習慣はなかった。
 その店番は、ポルトガル人女性の衣装を身に着けてはいるが、小麦色の肌でどこか東洋系の顔立ちをした、ふくよかな中年女性だった。ヒミカは持ち前の良く通る声で、彼女にポルトガル語で話し掛けた。
「Que são estes?(これらは何ですか?)」
 するとその女性は、ヒミカの方を向いてにこやかに答えた。
「Estes são pães.」
(お使いのOSやフォントによっては、これらの外国語表記の一部が正確に表示されない可能性があります。その際は悪しからず。作者より)
 それを聞いたヒミカは、麗鈴と妙に向かって嬉しそうに言った。
「やっぱりそうだわ! 今のあたしたちに一番必要な物よ!」
 「pães」の単数形「pão」が、現在日本で親しまれている「パン」という言葉の由来になっている。ヒミカは再び尋ねた。
「Quanto este cada um?(一ついくらしますか?)」
 すると、それに対する返答が返って来た。
「Uma moeda de cobre.」
 ヒミカは他の二人のためにそれを訳した。
「一つ銅貨一枚だって。」
 麗鈴が即座に言った。
「ほなら、うち一つ買うわ。」
 妙も同じように言った。
「拙者も一個購入致す。」
 ヒミカは懐から小銭の入った巾着を取り出した。いかなる国の商人の店からも、すぐに買い物することができるようにと、彼女は外出するときいつも各国の通貨をこの中に入れて持ち歩くようにしている。彼女は、その中からスペインの中型銅貨三枚を取り出した。当時はスペイン王がポルトガルの君主(くんしゅ)も兼ねており、スペインの貨幣を使うことに問題はない。ヒミカは、それを店の婦人に手渡しながら言った。
「Três.(三つ。)」
 それを受け取った婦人は、パンを三つ重ねてヒミカに手渡しながら、ニッコリと微笑んで言った。
「Obrigada.」
 ヒミカも微笑んでそれを受け取ると、他の二人にそれぞれ一枚ずつ手渡しながら言った。
「今のは『ありがとう』っていうこと。数の数え方はスペイン語とよく似てるし、簡単な買い物程度の言葉ならすぐに覚えられそうだわ。」
 三人は市場の人ごみをぬって歩きながら、早速そのパンに丸ごと齧り付いた。それは、焼いてからそれほど時間が経っていなかったようで、まだほんのりと暖かい。パンのうまさは何と言っても、その焼き立てにある。麗鈴が口をもぐもぐさせながら、目を丸くして言った。
「……う、うまいわ! これ!」
 妙も同じようにして言った。
「……空腹のためもあろうが、至って美味でござる!」
 ヒミカは、自分が手に持った齧り掛けのパンを見て言った。
「……これっきりで終わりなんて……、ちょっと寂しいよね!」
 その言葉が終わるや否や、三人の少女たちは元来た方にくるりと向きを変えていた。
 大きなパン一枚ずつをペロリと平らげてしまった三人の少女は、それから間もなく先ほどのパン屋の前に再び立つこととなった。ヒミカは店の婦人に向かって微笑むと、スペイン語で言った。
「美味しかったよ、おばちゃん!」
 その意味がわかった店のおばちゃんは、それに微笑み返すとポルトガル語で答えた。
「そうだろ! うちのパンは、マラカ市で一番だからね!」
 その意味はヒミカにもわかった。自分の思念を相手に送ったり、相手の考えていることを読み取ったりする力があれば、このようなことは比較的容易にできることだ。しかしこれは何も不思議なことではなく、人間なら誰しも多かれ少なかれ持っている能力だ。ヒミカの場合、たまたまそれが一般の人より少し秀でているだけのことであった。
 ヒミカはやや真剣な表情になると、覚えたてのポルトガル語にスペイン語を混ぜて、このように言った。
「値引きしてくれるんなら、あと1docena(1ダース)買ってもいいよ。」
「Docena?」
 おばちゃんが怪訝そうに聞き返したので、ヒミカは自分が言ったそのスペイン語の単語の意味を説明をした。
「12個のことよ。」
 おばちゃんは、再び微笑んで言った。
「あーそれなら、ポルトガル語では『dúzia』って言うんだよ。」
 ヒミカも再び微笑んで言った。
「それじゃ、1dúzia でいくらになる?」
(お使いのOSやフォントによっては、これらの外国語表記の一部が正確に表示されない可能性があります。その際は悪しからず。作者より)
 おばちゃんは言った。
「銅貨11枚。」
 ヒミカは言い返した。
「それじゃ買えないよ。銅貨8枚!」
 おばちゃんは、有無を言わさぬような表情になって言った。
「よし。銅貨10枚! 決まり!」
 ヒミカは頷いて言った。
「わかったわ。」
 そして懐から巾着を取り出すと、その中から小さな銀貨一枚を取り出しておばちゃんに手渡した。当時のスペインの通貨では、この銀貨一枚が中型の銅貨十枚に相当することになっている。おばちゃんはそれを受け取ると、パンを一枚一枚数えながらヒミカに手渡していった。ヒミカはそれを受け取るたびに、まず妙が背負っている籠の中に四枚、次に麗鈴が背負っている籠の中に四枚、そして自分が背負っている籠の中に四枚を放り込んでいった。十二個のパンを渡し終えた店のおばちゃんは、再び笑顔になって言った。
「Obrigada.」
 三人の少女もそれに微笑み返すと、再び市場の人ごみの中に入って行った。
 次に彼女たち、特に麗鈴を興奮させたのは、元日に彼女が船の上で鳴らしたあの音であった。それを耳にするや否や、彼女は籠を背負ったまま、その音のした方に駆け出していた。ヒミカと妙もその後に続いた。
 市場を出てしばらく細い路地を進むと、やがて黒い瓦で葺かれた白い漆喰の壁の家々が立ち並ぶ区画に出た。その周辺は白く霞み、硝煙の臭いが立ち込めている。この日はまだ中国の正月である「春節」の最中であり、この町の中国人たちも年始の挨拶を済ませて各家庭でくつろいでいるところだったのだ。その期間、仕事は当然休みになるので、普段なら先ほどの市場に何軒も出ているはずの彼らの店は、一つも出ていなかった。そのため、同胞である麗鈴としても彼らの存在に気付くのが遅れたのである。
 麗鈴は、路上で遊んでいた若者たちに近付くと、自分と同じくらいの年齢の二人の少女に向かって、早速声を掛けてみた。
「你好!」
 その中の一人が怪訝そうな顔をして何か言った。
「〇〇〇〇〇?」
 しかし、その言葉の意味を麗鈴は理解することができなかったので、彼女はやや遠慮がちに尋ねた。
「你們是、福建人麼?」
 それを聞いた少女たちは、ためらいがちに黙って頷いたので、麗鈴は明るく微笑んで言った。
「我的父親是江蘇人、母親是日本人。……再見!(私の父さんは江蘇(チヤンスー)人で、母さんは日本人なの。……じゃ、またね!)」
 麗鈴は、二人の少女に向かって手を振って別れた。少女たちも、ちょっとはにかんで微笑むと、麗鈴に向かってそれぞれ手を振り返した。
 少し離れたところに立ってこの様子を見守っていたヒミカと妙のところに戻って来た麗鈴は、先ほどの状況の説明をした。
「うちが北京語で挨拶しても、あの子らわからんかったけん、『あんたら福建人か』て尋ねたら、どうもそうみたいじゃった。うち、父ちゃんから北京語習うときに、福建語も一緒に習うとりゃぁええかったわ。」
 ちょっと残念そうな様子でそう言った麗鈴に向かって、ヒミカが意外そうに言った。
「ふーん、同じ明国の人でも、出身地によって言葉が通じないのか……。」
 麗鈴が言った。
「そうじゃ。明国は広いけんのぅ。ほいでから昔の人は、見ただけで意味のわかる『漢字』つくりやったんじゃと思うわ。」
 妙が感心して言った。
「うーん、なるほどのう。仮名のような文字は覚えやすいが、それだけで意味は通じぬからのぅ。
そう言えば、バンテンに在住しておる明国の衆は、広東(カントン)から来たと聞いたことがござる。」
 それに対して麗鈴が説明した。
「そうじゃろう。海渡って異国で商(あきない)いしよる明国のもんは、福建か広東のもんが多いようじゃ。」
 その後市場に引き返した彼女たちは、その中をあれこれと見物しながら、食料品や日曜雑貨などをいろいろと買い揃えていった。
 その彼女たちが伝馬船に乗って燕丸に帰り着くと、時刻はもう正午近くになっていた。麗鈴が甲板に座り込んで言った。
「あーっ、しんど! はや昼か……。」
 妙が額の汗を袖で拭(ぬぐ)って言った。
「……疲れはしたが、市は真に楽しうござった。」
 ヒミカも同じようにして言った。
「そうよね。なんだかこの街に長居してしまいそう……。」
 三人は買ってきた物の整理を始めた。米、豆、芋、野菜、果物……。それらを籠の中から取り出して船倉の米びつや瓶などの中に収納すると、籠から最後に出て来たのは最初に買ったパンだった。その一つを手に取った麗鈴が嬉しそうに言った。
「このパンちゅうのは、えろう便利なもんじゃのぅ! いつでもどこでも食えるけん。」
 彼女はそう言うが早いか、早速それに齧り付いた。ヒミカも言った。
「そうよね。一々火を焚かなくてもいいってのが楽だわ。」
 妙は食卓に置かれている壷の蓋を開けると、その中の唐辛子の粉をパンの齧った部分に振り掛けて食べてみた。
「おう! これはまた刺激的じゃ。」
 妙のその言葉を聞いた他の二人も同じようにして食べ始めた。その後彼女たちは、胡椒を振ってみたり、醤油に付けてみたりと、いろいろ試してみた。このようなことをしていると、ついついたくさん食べてしまう。
 腹が膨れると瞼が重くなるということは、古今東西、老若男女を問わずして人類共通の現象のようだ。その例に漏れず、彼女たちにも眠気が訪れて来た。気が付けば、先ほどまで賑やかに聞こえていた人夫が上げる掛け声や物売りの声などは嘘のように消えており、港は静まり返っている。街全体が昼食と昼寝の時間に入ったのだ。船体に時折り波が当たるチャプンチャプンという音が、尚一層のこと眠気を誘う。しかも、暑いと思考能力が極度に低下するときている。そんなときには、それを遣り過ごすために、思い切って寝てしまうのが一番だ。
 甲板の日除けの下にそれぞれ布を敷いた彼女たちは、早速その上に横になった。

 この港町で、あのパンの虜(とりこ)になってしまったヒミカ、麗鈴、妙の三人は、いつの間にかその店のおばちゃんとすっかり仲良くなってしまった。おばちゃんの名は Micaela(ミカエラ)。ポルトガル人船乗りの父と現地の女性とのあいだに生まれた混血だ。夫は水先案内人、息子たちは二人とも船乗りで、二人の娘たちはいずれも嫁いでしまったとのこと。そのため日中はほとんど家に一人でいることが多く、それでは身心の健康のために良くないので、日曜以外はこうして毎日パンを焼いて市場で売っているのだそうだ。
 各自母親と離れてから久しいヒミカ、麗鈴、妙の三人は、このミカエラの中にそれぞれの母の姿を見い出していたようだし、ミカエラとしても、見知らぬ遠い海から遥々(はるばる)とやって来たこの少女たちと話しをすることを、とても楽しみにしているようだった。
 この日も、朝の喧騒が一段落した頃合(ころあい)を見計らったヒミカたち三人は、そのパン屋を訪れた。売り物のパンが乗せてあるテーブルの内側に、ミカエラはわざわざ長椅子を置いてくれたので、彼女たちはそこに並んで腰掛けることができた。
 客がパンを買って立ち去ったので、丸椅子に腰掛けているミカエラはヒミカたちの方を向くと、ポルトガル語でこう言った。
「……そうか、あんたたち三人だけでこれからエウロピ(ヨーロッパ)へ行くのか……。」
 ヒミカがそれに答えた。
「そうなのよ。ミカエラの父さんは、ポルトガルからどうやってここまで来たの?」
 ミカエラは昔を思い出すように、しばらく遠くの空を見詰めてから言った。
海図7 「……それは昔、父さんから何度も聞いたよ。
……Lisboa(リスボン)の港を出てから、アフリカの西側の大西洋をずっと南へ下ったんだってさ。途中いくつか港に寄りながら……。何日も何日もね……。
Cabo da Boa Esperança(喜望峰)を過ぎると、今度は何日か東へと向かったんだって。
アフリカの南東の端を回ると、今度はずっと北東目指して進んだそうだ。途中、またいくつもの港に寄ったってさ。
……Sofala(ソファラ)、Moçambique(モザンビーク)、Zanzibar(ザンジバル)、Mogadiscio(モガディシオ)、Goa(ゴア)、Galle(ゴール)……。そしてここ Malacca(マラカ)さ。」
(お使いのOSやフォントによっては、これらの外国語表記の一部が正確に表示されない可能性があります。その際は悪しからず。作者より)
 そのミカエラの言葉をヒミカが部分的に同時通訳すると、麗鈴と妙は目を輝かせ口々に言った。
「大旅行じゃのぅ!」
「大航海でござる!」
 それをヒミカが訳してミカエラに言うと、彼女はなぜか寂しそうに微笑んでこのように言った。
「それには違わない……けど……。」
 ヒミカは、やや心配して尋ねた。
「けど?」
 ミカエラは悲しげな表情になって言った。
「あんたたちは、まだ出だしだからいいけど、船の長旅はもうほんとに大変なんだから!」
 ヒミカは、やや遠慮がちに尋ねた。
「なぜ?」
 ミカエラは目を伏せて言った。
「あたしの息子、今は二人だけど元は四人だったんだ。……それぞれ仕事の航海の途中で死んだからさ。一人は病気になって、もう一人は嵐で遭難して。」
 ヒミカは深刻な表情になってこれを訳すと、麗鈴と妙は声をひそめて言った。
「……ほうか……。えらいことになったんじゃのぅ……。」
「……長い船旅には危険が伴うと聞いてはおったが、やはりそうであったか……。」
 ミカエラは、真剣な表情になって言った。
「あんたたちは異教徒だけど、親善のためにエウロピに行くことは悪いことじゃないと思うよ。でも、別の意味であたしゃ反対だね。」
 ヒミカは尋ねた。
「どういう意味で?」
 ミカエラは、目を潤(うる)ませてそれに答えた。
「だって、余りにも長くて辛(つら)い旅になるんだもの。
嵐になりゃそれを避けるために港入り。風がないときにゃ風待ちのためにまたずっと港入り。ひとたび大海原(おおうなばら)に出りゃ食べたい物も食べられずに、多くの者が病気になってゆく。それを直せる医者もいないし薬もない。そして、そこで嵐に遭えば、小さな船なら木っ端微塵(こっぱみじん)さ!」
 ミカエラはそう言い終わる間もなく、両手で顔を覆うと身を震わせて激しく泣いた。この言葉を同時通訳していたヒミカをはじめ、麗鈴、妙の三人は揃って長椅子から立ち上がると、ミカエラのところに行って、その背中や腕を摩(さす)りながら、思わず日本語で口々に言っていた。
「ミカエラ、泣かないで!」
「おお、どげんしたらええんじゃ……。」
「悲しいことを思い出させたようでござる……。」
 しばらくするとミカエラの震えは次第に収まり、涙も止まった。彼女は顔を覆っていた手の甲で涙を拭うと、涙顔ではあるが三人の少女に微笑み掛けてこう言った。
「ありがとう、娘さんたち。……もう大丈夫だよ。
……だからね、あたしは若いあんたたちにそうなって欲しくないんだよ。それだけなの。……わかった?」
 ヒミカはその言葉を同時通訳してから、神妙な顔付きでそれに答えた。
「わかったわ。これから船に帰って、この先どうするか三人で相談するよ。」
 それを聞いたミカエラは、安心したように言った。
「この街を出るときには、必ずまたここに寄ってね。」
「当たり前じゃないの。」
 ヒミカは眉を寄せてそう言うと、丸椅子に腰掛けているミカエラの体をそっと抱き締めた。

海図7  それから船に帰ったヒミカ、麗鈴、妙の三人は、甲板に置かれた食卓の上に海図を何枚か広げると、その周りに座って茶を飲みながら早速会議を始めた。まず、ヒミカが言った。
「確かにこれを見てると、ミカエラの言うことも一理あると思うわ。瓶ヶ島からバンテンに寄ってここまで来るのでさえ、これだけの月日(つきひ)が掛かったんだから、この大きなアフリカを回るとなると、その何十倍も掛かるってことだもん。そのあいだに、危ないこともいろいろあるかもね。」
「とすると、こっからこう……?」
 麗鈴はそう言いながら海図の上を指でなぞった。彼女の細い指先は、インドのゴアからアラビア海を渡り、アフリカのモガディシオへと向かった。他の二人の目はその指先を追った。
「……は行かずに、こっからこう……。」
海図6  そう言って、今度は別の海図のゴアを再び指した麗鈴の指先は、モガディシオへは行かずにアデン湾に入り、紅海を北上して地中海に入った。
「……行くしかないのぅ。」
 麗鈴のその意見に対して、妙が意見を言った。
「……うーん、それは確かに近道でござるが、ここは船では行けぬな……。」
 妙が指差した紅海最北端スエズの町と地中海とのあいだの陸地には、現在エズ運河が通っている。しかしこれは、それが開通する250年以上も前の話しである。
 ヒミカが言った。
「そうすると、この船を置いて陸を少し行ってから、今度は別の船に乗るってことよね……。」
 その言葉によって、三人は思わず互いに顔を見合わせてしまった。親が自分たちのことを思って発案し、瓶ヶ島の船大工たちが寝食を忘れるほど懸命になってつくってくれたこの燕丸。それをあっさりと乗り捨てて別の船で旅をするなどということは、彼女たちの気持ちの上では許し難い行為であった。
 気を取り直した麗鈴が、持ち前の明るい声で言った。
「ほんなら船を車に乗せて、ここだけ陸の上を運ぶっちゅうのはどうじゃ?」
 妙が訝しそうに尋ねた。
「誰がそれを牽(ひ)くのじゃ。」
 麗鈴は笑って言った。
「ハハハ! この三人の中で一番背ぇ高うて力持ちのもんじゃ。」
 自分のことを言われていることに気付いた妙は、苦笑いして言った。
「それは理不尽でござる! 最初に言い出した者が牽くことこそ道理というものであろう!」
 麗鈴が言った。
「男のなりしとる、あんたじゃ!」
 妙も負けずに言い返した。
「一番食いしん坊の、お主じゃ!」
「妙じゃ!」
「麗鈴じゃ!」
 ここで、ヒミカが苦笑いしながら叫んだ。
こらーっ! 二人とも真面目にしてよ!
 そして彼女は、やや真剣な表情になってこう言った。
「その車、牛かなんかに牽かせればいいんじゃないの?」
 すると、麗鈴がハッと目を輝かせて言った。
「そういやぁ、アフリカにも象がおるて勘蔵はん言うてなさったぞ。象に牽いて貰うたらええんじゃろうが!」
 妙は納得したように言った。
「ほう、それは妙案じゃ!」
 ヒミカは嬉しそうに言った。
「それじゃ、そうすることにしましょう! 出港は明日でどう?」
 麗鈴と妙は口々に言った。
「ええぞ!」
「了解!」
 若いということは良いことだ。常識で考えれば全く荒唐無稽(こうとうむけい)なことを、平気で企画して何のためらいもなく実行に移そうとするのだから。しかし年齢の違いや、その行為の良し悪しはともあれ、このような精神がコロンブスやマゼランといった人たちを成功に導いたということは、誰も否定することができないだろう……。

「……船の長旅を避けたのは良かったけど、あんたたち回教徒の土地を通ることにしたのかい?」
 翌朝再びパン屋を訪れ、会議の結果と明日にはここを発つということを伝えたヒミカと麗鈴と妙に向かって、店のおばちゃんミカエラは、困った顔でそう言った。それに対してヒミカは、屈託のない笑顔で言った。
「そうなのよ。アフリカにも象がいるって聞いたんで、それに船を牽いてもらえばいいと思って。」
 麗鈴と妙も、覚えたてのポルトガル語で口々に言った。
「Elefante(象)! Elefante(象)!」
「Vivo África!(アフリカ万歳!)」
 それを聞いたミカエラは苦笑いして言った。
「象もアフリカもいいんだけど、どうやらあんたたち回教徒のことをよく知らないようだね。」
 ヒミカは怪訝そうな表情になって言った。
「え? あたしたち、知ってるつもりだったけど……。」
 ミカエラは、やや厳しい表情になってこう言った。
「昔から、『右手にコーラニ(コーラン)左手に剣』って言ってね。力ずくでその教えを広めてるんだよ。
そして回教の国ではね、こうして市場で物を売ったり買ったりするのは全部男。女は家の中に押し込められてて、家の外に出るときは頭から布を被って、目だけ出して歩くっていう話しだよ。その上、男は妻を四人も持てるっていうじゃないか。」
 ヒミカは、やや真剣な表情になって言った。
「その情報、正しいこともあるけど、間違ってることもあるんじゃないかな。」
 ミカエラは興味深げに尋ねた。
「ほう、どこがどう間違ってるんだい?」
 ヒミカは言った。
「『右手にコーラニ左手に剣』ていうのは嘘だよ。あたしが知ってる回教徒でそんな人一人もいなかったもん。
それに、家の外では確かにあんたの言う通りみたいだけど、家の中のことは全部女の人が取り仕切ってて、お金のこと以外は、むしろ女の人の言い分の方が強いんだって聞いたよ。」
 ミカエラは、やや目を見張って言った。
「へー! あんた若いのに物知りなんだね!」
 しかし彼女は、すぐに厳しい表情に戻って言った。
「……でもあたし、回教徒のことは信用できないね。」
 どうやら彼女の頭の中には、容易に消すことのできない偏見があるようだ。これは彼女だけに限ったことではなく、回教徒からイベリア半島を奪還(だっかん)したのがほんの一世紀前であった、スペイ・ポルトガルに所属している人全ての共通の思いなのであろう。
 ヒミカは、この遣り取りのあらましを他の二人の少女に説明すると、ミカエラを安心させるように微笑んで言った。
「ミカエラ、大丈夫。心配しないで。あたしたち回教の国に行っても、そこの人たちから嫌われないようにして、無事にエウロピにたどり着くから。」
 ミカエラは悲しげな表情になって丸椅子から立ち上がった。
「おー、マリア様! この娘たちに神のご加護がありますように……。」
 彼女はそう言って十字を切ると、三人の少女一人一人を強く抱き締め、その両方の頬にキスして回った。
 ヒミカは目に涙を浮かべてミカエラに言った。
「Adeus, Micaela!(さよなら、ミカエラ!)」
 麗鈴も涙を滲(にじ)ませて言った。
「Adeus! Micaela!」
 妙も目を潤ませて言った。
「Micaela, adeus!」
 ミカエラは涙顔で尋ねた。
「あんたたちエウロピで用が済んだら、その帰りにまたこの街へ寄るんだろう?」
 ヒミカがその言葉を訳すと、三人の少女は口を揃えてそれに答えた。
「Sim.(はい。)」
 ミカエラは涙をハンカチで拭くと微笑んで言った。
「そのときにまた会えるといいね!」
 三人の少女たちも微笑むと、再び口を揃えて元気良く言った。
「Sim!」
 いつもなら昼頃まで客足の絶えないこの店だったが、この日はパンが午前中で全部売り切れてしまった。一度に山ほど買い込んでいった客が三人ほどいたので……。

 ヒミカ、麗鈴、妙がモルッカで仕入れた香料は、この日のうちにこの町の市場で銀貨に替えることができた。ポルトガルは、その産地モルッカ諸島の重要な港アンボイナを、オランダに奪われたところだったので、それは予想以上の値段で売れた。その日のうちに、水や物資の補給を済ませて準備万端(ばんたん)整えた燕丸は、その翌日の早朝には予定通りマラカの港を出港した。
 浅瀬の多いこの海峡を、その後数日間掛けて無事に通過した燕丸は、スマトラ島の北端にさし掛かった。
 このあたりは当時アチェ王国というイスラム国家で、胡椒の生産と海上の貿易によって栄えており、当時の東南アジアにおけるイスラム系の学問の中心地でもあった。同じイスラム国であるバンテンに住んでいた妙にとっては、言葉や文化などの知識が役に立ったので、彼女たちはこの港で水や食料などを無事に補給することができた。
 その翌日、早くもこの地を後にした燕丸は、現在では「北赤道海流」と呼ばれている、東から西へと向かう大きな潮の流れに乗ることができた。その代わり風は、進むべき方向から吹いてくる日が多かった。
 さて、このような長い航海に嵐というものは付き物だが、今までの燕丸はそれを上手にかわしていた。嵐の二三日前になると、それが来ることをヒミカが必ず予知したので、その都度どこかの港に逃げ込み、それを遣り過ごしていたからだ。そのため彼女たち三人は、本当の海の嵐がどういうものなのかをまだ知らなかった。
 その彼女たちが今回遭遇した嵐は、いつもと状況が異なっていた。ヒミカがそれを予知したときの燕丸の位置は、周囲百里にわたって陸が全くない洋上だったので、進んでも引き返しても、どの道それに巻き込まれることになる。三人は協議した結果、それなら先に進んだ方がいいという結論に達して、そのまま船を西に向かって進めたのであった。
 この地方で起きる嵐は、現在 Cyclone(サイクロン)と呼ばれている。それはまず、大きなうねりから始まった……。
 その翌日は朝からがはどんよりと曇っており、午後からは生暖かく激しい風が吹き始めて雨がぱらついて来た。三人は帆を畳むと、甲板の上の飛ばされそうな物を全て船内に運び込んだ。
 風雨は次第に強まり、その翌日にはついに暴風雨となってしまった。
 山のように大きな波のあいだで、小さな燕丸がまるで木の葉のように揉(も)まれている。そんな状況なので明かりをともすこともできず、真っ暗闇の船内で三人の少女たちは、他に成す術(すべ)もなく、ただ身を寄せ合うことしかできなかった。激しい音を立てて波が船体に当たって砕けるたびに、船がいつバラバラになるかという恐怖で、彼女たちはもう生きた心地がしなかった。しかし、相手の体が恐怖に震えるのを感じるたびに、自分は冷静になって相手も落ち着かせなければ、という思い遣りから、彼女たちはまだなんとか互いに平静を保つことができていた。
 ところが、船がゆっくりと横揺れを始め、それが次第に激しくなってくると、ヒミカは新たな恐怖に堪えきれず、我を忘れてついに闇の中で叫んだ。
このままだと、船が引っくり返ってしまうーっ!
 麗鈴も闇の中で叫んだ。
ほなら、どげんしたらええんじゃーっ!?
 ヒミカが叫んだ。
こんなときは、船尾から長い綱(つな)を垂らすといいって、父ちゃんから聞いたことがあるわ!
「拙者それをして参る! お主らここに控えておれ!」
 妙はそう言って立ち上がると、船の揺れなど物ともせずに船室を出て行った。開いた船室の出入り口からは、灰色の薄明かりと共に、暖かく湿った風が激しく吹き込んで来た。
 しばらくすると船の横揺れは確かに収まってきた。間もなく、ずぶ濡れの妙が真っ青な顔をして甲板から戻って来た。彼女が船室の戸を素早く閉めると、船室の中は再び暗闇になった。その中で彼女は早口に言った。
「船尾から綱を垂らすと波がそれを引くよって、船首が自然と波の方へ向き、横揺れは確かに収まる。しかし……。」
 妙の恐怖に慄(おののい)いた声に、ただならぬ異変を感じたヒミカは激しい口調で尋ねた。
しかし、どうしたの!?
「この船の高さの数倍もある波が次々と押し寄せて参るのが遠くに見えた。この船がそれに耐えられるかどうか……。」
 妙のその言葉が終わらぬうちに、三人とも例えようのない恐怖を感じた。現代風に表現すれば、ジェットコースターなどで体が急速に下へ落ちて行くときの、あの独特の感じだ。
 その直後。船室の戸がドカーンという激しい音を立てて破れ、そこから大量の海水が船内に流れ込んで来た。
キャー!!!
 三人は揃ってつんざくような悲鳴を上げた。気が動転していたヒミカだったが、やっとのことで言葉を発することができた。
三人並んで水を外に送り出すのよーっ!
 それまで頭の中が真っ白になっていた他の二人も、この声によって我に返ると早速それを実行に移した。まず戸口に立ったヒミカが船室の底に溜まった水を桶で汲み、階段の途中に立っている麗鈴に手渡す。それを受け取った麗鈴は、甲板の上に立っている妙にそれを渡す。妙はそれを船べりから船外に捨てて、空になった桶を麗鈴に返し、それがまたヒミカの手に戻るのである。
 しかし、それを何度か繰り返す間もなく次の高波が打ち寄せて、再び海水が滝のように船内に流れ込んで来た。それと同時に、波を被った妙の「キャーッ!」という悲鳴が船外から聞こえたので、ヒミカは有らぬ限りの声で叫んだ。
妙ーっ! 命綱を付けてーっ!! 早くーーっ!!!
 妙が腰に綱を結び付け、麗鈴がその反対の端を帆柱に結び付けると、彼女たちは再び作業を続行した。しばらくして、船内の水が減ってきたと思う間もなく、また海水がどっと流れ込んで来た。ヒミカは腰まで水に浸かりながら、必死で水を汲み出していたが、やがて水の入った桶が持ち上がらなくなってしまった。腕の筋肉の持久力が限界に達したのだ。ヒミカは目に涙を浮かべて言った。
「麗鈴、あたし、もう駄目だわ……。」
 麗鈴は叫んだ。
よしゃ、うちに任しといてや! あんたは休んどきんさい!
 船内の水位が上がった分だけ、階段に陣取っている麗鈴は水を汲み易くなる。しかしそれだけ船が沈んでいるということなので、小さな波を受けても水が入るようになってきた。
 やがて、自分たちのこの行為が意味をなさなくなってしまったことを覚った麗鈴と妙は、船内にいるヒミカが危ないことに気付くと、胸まで水に浸かり青くなって震えているヒミカを急いで船上に連れ出そうとした。そこにまた大波が押し寄せて来た。それによって一旦船内に押し戻された三人は、水の流れに逆らってなんとか船上に出ると、帆柱を取り囲んで身を寄せ合った。船は依然として狂ったような大波に揉まれている。妙がヒミカに向かって言った。
「ヒミカ! このままでは船が沈んでしまうぞ!」
 やや落ち着きを取り戻したヒミカが言った。
「それじゃ、仕方ないわ。捨てましょう……。水に沈む物は何もかも!」
 この時代の船は木造なので、たとえ完全に浸水したとしても、積荷がなければ海底に沈んでしまうことはない。しかし、長い航海の途中の燕丸には様々な物が積んである。今それら一つ一つを惜しんで処分しないでいると、この広い大海原で彼女たちの命を支えている最も重要な物を失ってしまうことになる。
 船の浮力というものには限界があり、船内の空気の量が一定の割合以下に達すると、水の上に浮かんでいることができなくなる。そして、その船と積荷を全部合わせた比重が海水のそれよりも重ければ、完全に浸水した後に、今度は千尋(ちひろ)の底へと向かって沈んで行くことになるのだ。そのため彼女たちは、一刻も早く燕丸全体の比重を海水のそれよりも軽くしなければならなかった。
 麗鈴とヒミカも妙と同じようにして命綱を付けると、三人はまず船尾に積んである大砲の下に槍の柄を差し込んだ。それを梃子(てこ)にして大砲を海に滑り落とすと、続いてその砲弾も次々と海に投げ捨てた。同じく槍も太刀(たち)も鉄砲も全部捨てた。生水を蓄えておくための大きな亀、土でできた竃、そして鉄製の薬缶や鍋や釜も捨てた。三人ともなりふり構わず、もう大声で泣いていた。前の港を出る前にせっかく買い集めておいた米、豆、芋など、水に浮かない食料品も全て捨てた。所持していた銀貨や銅貨さえも、彼女たちは全て捨てねばならなかった……。
 捨てる物が何もなくなった船は、間もなく完全に浸水したが、もうそれ以上沈むことはなくなった。帆柱を抱き締めて座り込んでいる、涙すら出し尽くしてしまった三人の少女たちの体に、冷酷な波が何度も当たっては砕けた。それでも彼女たちは、船がこれ以上沈まなくなったことで自分たちの命がなんとか繋(つな)がっていることを感じていた。
 ところが、それはほんの束の間のことでしかなかった。彼女たちに向かって、死に神がじわじわと訪れているということに最初に気付いたのは妙だった。彼女は声を震わせて叫んだ。
これ! リ、麗鈴(リーリン)! だ、大丈夫か?!
 波が洗う甲板の上で、帆柱を抱きかかえていた麗鈴の上半身が、ガクッとずり落ちたのだ。彼女は瞼を閉じたまま一瞬顔面を海水に浸けたが、すぐに妙とヒミカによって助け起こされた。しかし、海水を少量飲んでしまったようで、激しく咽(むせ)た。しばらく咳が止まらなかった彼女だが、それが収まると力なく言った。
「ゲホ……二人とも、済まんかったのぅ……ゲホ……。うち、うっかり眠ってしもうたげじゃ……。」
 妙が厳しい口調で言った。
「眠いのは山々であろうが、今ここで眠れば、水を呑んで死んでしまうぞ!」
 ヒミカが言った。
「お互い相手が眠りそうになったら、起こすことにしましょう!」
 それによって三人とも、しばらく眠らずにいられたのだが、やがて風雨と大波がまだ収まらぬのに周囲が徐々に暗くなってきた。厚い雲の向うで日が沈み掛けているのだ。これでは相手の様子がわからなくなってしまう。薄明かりの中、時折り波を被りながらも、ヒミカが元気を振り絞って一つの提案をした。
「三人で一緒に歌を歌うってのはどう? 声が聞こえなくなったらその人を揺り起こすの!」
 妙も努めて明るく言った。
「おお、それは妙案じゃ!」
 麗鈴が力なく言った。
「うち、歌うのしんどいわ……。」
 ヒミカが言った。
「麗鈴、頑張るのよ! 鼻歌でもいいんだから!」
 三人は互いに知っている歌を、暴風雨が吹き荒れる中で一緒に歌い始めた。
「色は匂えど散りぬるを……我が世誰ぞ常ならむ……」
 間もなくその歌声は真の闇に包まれた。今までは海面の様子を見ることができたので、波が体に当たることを予測することができたが、暗闇の中から突然襲って来る水の恐怖は、それを体験した者でなければわからない。
 それでも歌を歌うことによって、三人は相手の存在と自分が生きていることを互いに確認することができていたのだが、それにも限界がある。
 それまで聞こえていた麗鈴の声がいつの間にやら途絶えたので、妙とヒミカが手探りで彼女を揺り起こした。それからしばらくすると、今度はヒミカの声が途絶えたので、麗鈴と妙は慌てて彼女を揺り起こした。それまでしっかりしていた妙の声も、何度か途絶えて他の二人から起こされるようになった。
 やがて、その間隔はどんどん短くなっていった。一人を揺り起こしたと思ったら今度はもう一人の声が聞こえなくなるということが頻発してくると、ヒミカは生まれて初めて本当に「死ぬ」という恐怖を実感した。
『もし、三人が一緒に眠ってしまったら……?』
「……そのときは、三人共死ぬのじゃ……。」
 暗闇の中の風と雨の音に紛れて、そんな声が微かに聞こえたような気がしたので、ヒミカは空に向かって叫んだ。
あんた誰よ! そんなことあるわけないじゃない!
 すると突然目の前に陽が射して白い砂浜が現われた。そこには髪の長い裸の男の子が一人、向うを向いて立っている。その子はくるりとこちらを向くと、微笑んで言った。
「ヒミカねえちゃん!」
 その、あどけない顔を見てヒミカは驚いた。何とそれは、三年前に海で行方不明になっていた弟の洋三郎(ようざぶろう)だったからだ。ヒミカは嬉しそうに言った。
「なんだ、あんたやっぱり生きてたんじゃないの! ずっとみんなで探してたんだよ!」
 今度はどこからともなく、白装束を身に着けた腰の曲がっている白髪の老婆が現われた。それを見たヒミカは再び驚いた。それはヒミカが八歳のときに他界したはずの、自分の曾祖母の叔母だったからだ。
「キ、キヌ婆ちゃん! 婆ちゃんも生きてたの!?」
 そのヒミカの問いに、キヌは微笑んで答えた。
「うん。ここではね。」
 そしてキヌは、ヒミカに向かって手招きして言った。
「……ヒミカ、そんなに濡れてちゃ寒いだろう。ここは乾いてて暖かいよ。早くこっちへおいでよ。」
 正三郎も楽しそうに言った。
「ねえちゃん早くこっちへ来て! いっしょにあそぼうよ!」
 しかし、その瓶ヶ島の浜によく似た白い砂浜を見渡したヒミカは、そこに立っている二人に向かって怪訝そうに尋ねた。
「あんたたち、『こっち、こっち』って言うけど、そこはどこなの?」
 その二人は口を揃えてこう言った。
「ここは、黄泉(よも)つ平坂(ひらさか)。」
「そんなところ聞いたことないなぁ……。でも、まあいいか……。」
 彼女は半信半疑の様子でそう言うと、命綱をほどいて海に飛び込み、浸水している燕丸を歩いて押してその浜に着けた。彼女が水から上がってその浜に立つと、大量の水がその服から足元に流れた。
 キヌが微笑んで言った。
「大変だったね。お腹も空いたろう……。さあ、これをお食べ。」
 彼女は懐から握り飯を一つ取り出すと、ヒミカに手渡した。ヒミカはそれを受け取ると、とても嬉しそうに言った。
「わーい、ありがとう! お腹とっても空いてたのよ!」
 彼女は、麗鈴と妙にもこれを分けてやろうと思って燕丸の方を何気なく振り向いた。すると、浸水している燕丸の甲板の上の二人は、いつの間にかうつ伏せになって波に洗われているではないか!
キャーッ!!!
 ヒミカは叫び声を上げると、持っていた握り飯を放り出して船に戻り、急いで彼女たちを助け起こした。しかし二人の息は既になく、その体はすっかり冷たくなっている!
 ヒミカは、薄青い空を仰ぐと号泣した。
麗鈴! 妙! ……あたしが……、あたしが目を離したがために……! 許してー! お願ーーーい!!!
……誰かーっ……誰か二人を生き返らせてーっ! ……母ちゃーん!」
 そのとき、頭の奥の方で女の声がした。
『ヒ、ヒミカ?!』
 青白い空を見上げたヒミカは、その声の主を懸命に探しながら叫んだ。
か、母ちゃん?!
 その姿は見えなかったが、その声が早口で叫んだ。
『ヒミカ! これは夢よ! 早く目を覚ましなさい! ヒミカ!』
 ヒミカも必死になって叫んだ。
わかったよ! 母ちゃん!
 ヒミカは目を覚ました。長く思えたが、それはほんの一瞬の出来事であった。暴風雨の暗闇の中、麗鈴と妙の声がしていないことに気付いたヒミカは、慌てて二人の体を手で探ってみた。すると、二人とも帆柱にもたれ掛かってがっくりと項垂れており、今にも顔が水に浸かりそうになっている。ヒミカは、両手を使って同時に左右の二人を揺り起こした。
 間もなく二人は目を覚まして顔を上げたようだったが、もう歌う気力は完全に失せているようだった。それは自分とて同じことであった。朦朧(もうろう)としたヒミカの意識の中を途切れ途切れに思いが流れた。
『もう駄目だ……。母ちゃん……、あたしもう駄目だよ……。母ちゃん……。』
 再び彼女の頭の奥から、今度はかなりはっきりとした声が聞こえた。
『ヒミカ! 帆柱を背にして自分たちの体をそこにくくり付けるのよ! さあ、ヒミカ!』
 それを聞いたヒミカは再び目を覚まし、最後の力を振り絞って立ち上がると、暴風雨の暗闇の中で麗鈴と妙の二人の頬を叩いて起こした。
「立って! さあ早く!」
 ヒミカの手を借りて、その二人も渋々と立ち上がった。ヒミカは叫んだ。
「帆柱を背にして座り直して! ほら、早く!」
 他の二人の背中をまず帆柱にもたれさせて自分も同じようにしたヒミカは、自分の腰に付いていた命綱をほどくと、それを自分を含めた三人の脇の下に通して強く引き絞った。これが緩まないように結んでおけば、たとえ眠ってしまったとしても彼女たちの上半身は波に倒されることがないので顔が水に浸かることはない。なぜもっと早くこの方法に気付かなかったのだろう。
 間もなくヒミカの体の力が自然に抜けていくと、それに従がって彼女の脇の下を通っている綱と背中の帆柱の感触が徐々に強まっていった。それは正に、今の自分の命がこれらによって支えられているという実感そのものであった。それに較べれば、体に打ち寄せて来る波など、彼女にとって取るに足らなぬ存在となっていった。先ほどまでの恐怖が、大きな安らぎへと変わっていったのである。
 闇の中の彼女は、目を閉じたまま微笑んだ。
「母ちゃん、ありがとう……。やっと眠れるよ……。母ちゃん……。」
 そう呟いた彼女の意識は、その後急速に薄れていった。

 夕闇に包まれた瓶ヶ島。その北浜家の母屋の縁台の上では、ここの大家族がいつものように食卓を囲んで座り、椰子油の行灯(あんどん)の明かりの中で賑やかに食事をしている最中だった。この日は曇りでやや風があり、裏庭の向うの黒々とした椰子の林はザワザワと音を立て、その更に奥の海では、いつもよりもやや大きな潮騒の音がしている。
 食器の触れ合う音や、二十人ほどの大人や子供が談笑する中で、魚の塩焼きを箸で口に運んだキクが嬉しそうに言った。
「……こりゃこの辺じゃぁ珍しいが、今日はええのが捕れたのぅ。日本の鯛と似たような味しよるけん。」
 その向かい側の席に座っていたアカネは、自分の皿の上のその魚を食べてみると、ちょっと羨ましそうに言った。
「……母ちゃんええのぅ。うちもその鯛とやら食うてみたいわ。」
 その左隣り席に座っていた姉のナミが、芋の煮物を頬張りながら言った。
「……あんたなに言いよるん。日本におるとき食うとったじゃろうが。」
 アカネは残念そうに言った。
「うち、鯛の姿はちぃとだけ覚えとるが、それ食うたんは一つも覚えとらん。……キョウ、あんた覚えとるかや?」
 アカネの右隣りの席のキョウは、漬物を箸で抓んでいたところだったが、首を横に振ってそれに答えた。
「ううん。アカネ姉ちゃんが覚えてないのに、あたしが覚えてるわけないでしょ。」
 アカネは、斜め向かいに座って魚を食べていたリョウに向かって尋ねた。
「ほなら、リョウ兄ちゃんは?」
 リョウは真面目な顔で言った。
「おう。正にこげな味じゃ。」
 アカネは羨ましそうに言った。
「ええなぁー、母ちゃんもリョウ兄ちゃんも。」
 キクは苦笑いして言った。
「覚えとらんちゅうことは、あんた、きっとそれ飽くほど食うたんじゃろう。」
 この遣り取りを聞いていたその場の者は、みな大笑いした。
「ハハハハ!」
 この町のどこの家でもありそうな、こんな団欒(だんらん)の最中、誰かが突然大きな叫び声を上げた。
ヒ、ヒミカ?!
 その場の一同は一斉にその声のした方を見た。すると、それまで幼い子供が食べ終えた後の食卓の上を台拭きで拭いていたシャガが、食卓の脇に立て膝を着いたまま動きを止め、恐怖に慄いた表情で夜空のどこか一点を凝視(ぎょうし)していた。一同の視線が、今度は一斉にその一点に集中したが、そこにはただ漆黒の闇があるだけだった。
 このシャガと、その祖母のタネに不思議な力が備わっているということは、この家の大人なら誰でもよく知っていることではあったが、シャガがこのような錯乱状態になるのを見るのはみな初めてのことであった。その姉の姿にただならぬものを感じたトヨが席から立ち上がると、妹のキョウに向かって早口で言った。
「キョウ! 婆ちゃん呼んで来て! 早く!」
 食事を中断したキョウも席を立つと、居間に通じている出入り口に走って、そこから中に向かって叫んだ。
「婆ちゃん! ちょっと来て!」
 すると、食事を食べ終えた幼い子供たちの面倒をその部屋で見ていたタネの怪訝そうな声がした。
「なんだい急に、血相変えて……。」
 キョウは続けて言った。
「いいから早く! シャガ姉ちゃんが大変なの!」
 その言葉によって顔色を変えたタネが、背中を曲げて縁台に出て来た。それと入れ違いに、キョウが居間に入って行った。遊んでいる子供たちを見守るためだ。
 行灯の薄明かりの中でタネの目に映ったのは、頭を抱えながら夜空の中に何かを見ているシャガの姿だった。その横では妹のトヨが心配そうに付き添っている。シャガの口が微かに動いたので、そこに歩み寄ったタネは、その口元にそっと耳を近付けてみた。
 やがて納得したように頷いたタネは、腰を曲げたままその場のみなを見回すと静かな口調でこう言った。
「……どうやら、ヒミカに今何かが起こってるようだ……。この子はその様子を見てるようだから、しばらくそっとしてやってくれ。」
 それを聞いて納得した一同だったが、今度は遠く離れているそのヒミカのことが心配になった。その父親のハヤテがタネに向かって不安げに尋ねた。
「何か起きとるて、どげなことじゃ?」
 タネは、やや深刻な表情でそれに答えた。
「まだわからないけど、この子がこんなふうになるんだから、きっと、よほどのことがあったんだろう……。心がこっちに戻って来てから詳しく聞いてみることにしよう……。」

 妙に続いてヒミカと麗鈴が次々に目を覚ました。暑くて堪らなくなったからだ。陽は既に水平線から一尺程のところまで昇っている。見渡せば、そこは周囲に全く何もない完全な大海原の上だった。
 昨日の天候はまるで嘘のようで、青い空には幾筋かの白い雲が流れているだけだ。穏やかに凪(な)いでいる濃紺の水はキラキラと朝陽を反射させており、船体を洗う波の音が時折りチャプンチャプンと長閑(のどか)に聞こえている。
 但し、燕丸は相変わらず水に浸かっており、その帆柱にくくり付けられている自分たちの異様な有り様という現実は何も変わっていなかった。三人の手足の指は、長い時間水に浸かっていたため白くふやけて皺だらけになっている。海水に濡れた後に乾いて固まった髪を顔にへばり付かせているヒミカは、自分たちの命を救った縄をほどきながら、しみじみとした口調で言った。
「……助かったわ……これのお陰で……。」
 髷がほどけてしまって、長い髪をやはり顔にへばりつかせている妙も、それを払い除けると、ヒミカの手伝いを始めて言った。
「左様……。どうやら九死に一生を得たようでござる。」
 三つ編みがほどけて乱れた長い髪を、やはり顔にへばり付かせている麗鈴が、腹部を押さえて力なく言った。
……は、腹が……
 他の二人は、彼女が何を言うのかと心配して、その顔をそれぞれ横から覗き込んだ。間もなく、彼女の口から言葉の続きが発せられた。
……へ、減ったのぅ……
 それを聞いた途端、その二人ともガクッと項垂れた。自分たちも空腹であるということに気付かされたからだ。
 やがて縄が緩むと、三人はそこから抜けて、よろよろと立ち上がった。海水を吸ったその衣服から、大量の水滴がジャーッという音を立てて流れ落ちた。それがまた何とも惨めに聞こえた。
 ヒミカは帆柱に背をもたせ掛けながら、ややかすれた声で力なく言った。
「……この潮の流れからして、このまま流されて行けば、多分セイロン島にたどり着けるはずよ……。そこまで行けば食べ物が手に入るから、それまで頑張りましょうよ。」
 妙は、自分の足を浸している海水を軽く蹴ると、ややしっかりした口調になって言った。
「それではまず、この水を船外に出してしまわぬか。」
 ヒミカも、ややしっかりした口調で言った。
「そうね、それじゃ、桶を取って来ましょうか。」
 麗鈴も、少し力の込もった声になって言った。
「よっしゃ。」
 ヒミカと麗鈴の二人は、早速出入り口から水の溜まっている船の中に潜った。海育ちの彼女たちは、幼い頃からそのようにして貝などを採っているので慣れたものだ。
 間もなく二人は、そこから木の桶を三つ持って上がって来た。彼女たち三人は、それで海水を船外に捨て始めた。
 陽が高くなると、当然のことながら暑さも増して来る。すると、体を動かしている彼女たちは、今度は激しい渇きに襲われた。周囲はどこを見ても水、水、水……。そして船の中も、まだほとんどが水に浸かっている。ところが、その塩分の濃度は、人間の体液のそれよりもずっと濃いので、飲めばたちまち脱水症状を起こしてしまう。一難去ってまた一難とは正にこのことだ。
 作業を中断した三人は、船の中に逃げ込むと、その水の中に火照った体を沈めた。そして、風呂の湯にでも浸かるようにして、立ったまま首から上を水面の上に出した。こうしていると、気持ちだけでも渇きが癒されるような気がしたからだ。入り口から差し込む日の光が船内の水に乱反射して、木の天井できらめいている。
 麗鈴が、溜め息混じりに言った。
「ふぅ……、早う雨降らんかのぅ……。」
 やはり同じようにして妙が、力なく苦笑いして言った。
「……左様。……先ほどまで厭と言うほど降っておったのに、生き物の性(さが)とは真(まこと)に微妙なものでござる。」
 火照った顔を手ですくった海水で濡らしながら、ヒミカが言った。
「……夕立に期待するしかないわね。」
 三人はしばらくそのような雑談を交わしていたが、体の熱が取れて少し楽になってくると、ヒミカが一つの提案をした。
「このまま何もしなくても潮の流れで西に進むけど、ちょっとでも先へ進むように、帆でも張りましょうか。」
 その意見に他の二人も同意し、三人は再び甲板の上に出た。すると、海上の様子が先ほどとはやや変わっていることに気が付いた。
 燕丸の周辺に、夥(おびただ)しい量の木の枝やマングローブの根などが浮いているのである。熱帯地方の嵐の後にはよく見られる光景であったが、それを何気なく見ていた麗鈴が、突然大声を上げた。
お! あれ見んさい!
 彼女が指差す先を見た他の二人も、間もなく次々と同じような声を上げた。
「おお! こちらにもござる!」
「あっ! あそこにも!」
 ヒミカは、船べりに括り付けてあった籠の付いた長い竹竿を取り外した。釣った大きな魚を船上にすくい上げるときに用いる例の道具だ。これは水に浮くので、嵐のときにも捨てずに置いたのである。彼女は妙と手分けして船の近くに浮いている椰子の実を一つ、水が除去されて既に乾いている甲板の上にすくい上げた。不規則な楕円形をしているそれは、コロコロと二三回転がってから止まった。
 麗鈴が早速その前に座り込んでそれを両脚の間に挟むと、懐の中から小刀を取り出した。嵐のときにも、これだけは捨てずにと肌身離さず身に着けていたのだ。その鞘を抜いた彼女は、それを鑿(のみ)のように上手に使って、その椰子の実の二箇所に穴を開けた。彼女はそれを、ヒミカに差し出しながら言った。
「ほなら、まずは船長から……。」
 しかしヒミカはそれを受け取らず、首を横に振ってからこう言った。
「いえ、船から避難するときもそうだけど、こういうとき船長は一番最後なの。あんたたちから先に飲みなさいよ。」
 ココヤシの果実の内部には透明な水が溜まっており、それは煮沸(しゃふつ)せずに飲むことができるのだ。麗鈴は、今度は妙に向かってそれを差し出して言った。
「ほなら、妙から先に飲まんかや。」
 妙は苦笑いして言った。
「このように遠慮し合うておるうちにも、その中の水は干上がってゆくのじゃ。今手に持っておる、お主から早う飲んでしまわぬか!」
 麗鈴は、恭(うやうや)しくそれを頭上に掲げると、その中の水をチョロチョロと口の中に流し込んだ。それを飲み込んだ彼女は、その椰子の実を妙に手渡した。妙も甲板に腰を下ろすと、それをうまそうに飲んでヒミカに手渡し、ヒミカが飲み終えるとそれは再び麗鈴の手に戻った。やがて、それが何周かすると、中の水はなくなってしまったが、三人はしみじみとした溜め息をついた。
「はーっ……。」
 しばらく恍惚の表情をしていた三人だったが、妙が突然何かを思い付いたように立ち上がると、急き込んで言った。
「ヒミカ! 麗鈴! この海域を過ぎてしまう前に、これらを早う拾い集めてしまわぬか!」
 ヒミカと麗鈴も立ち上がると口々に言った。
「賛成!」
「ええのぅ!」
 燕丸に備え付けてある伝馬船は、幸いにして今回の嵐でも流されていなかったので、それを固定してある縄をほどいた彼女たちは、三人掛かりでそれを海に下ろした。この船の方が小回りが効くし船体の高さも低いので、海上から物を拾い集めるのに適しているからだ。そこに乗り込んだ麗鈴と妙は、海面のあちこちに点在している椰子の実の捕獲を始めた。
 やがて彼女たちは、十四個もの椰子の実を確保することができた。この果実からは水を得られるだけではない。その硬い殻の内側に付いている白い物は栄養価が高く、そのまま食用にすることもできるのだ。
 きっとどこかの島で嵐によって落ちたものが、このような陸から遠く離れた沖にまで流されて来たのであろう。この漂流物とここで遭遇することができたことは、彼女たちにとって正に「地獄の中で仏」と言うべきことであった。
 伝馬船を収納し、更に水分と食物を得て元気をすっかり取り戻した三人の少女たちは船に帆を張ると、船の中に溜まった水を全て汲み出すことができたので、燕丸は一路西へと船足を速めた。

 それから連日天気は目まぐるしく変わり、一日に最低一度は雨が降ったので、彼女たちはそれを蓄えて飲み水にすることができた。また、最初は疑似餌(ぎじえ)を使い、次からは釣った魚の内臓を餌にして漁をすることもできた。火打石(ひうちいし)や竃(かまど)などは全て捨ててしまったので、生で食べるしかなかったが、彼女たちに刺し身を食べる習慣のあったことは幸いなことだった。
 五日目の朝、帆柱の見張り台に立っていた麗鈴が、喜びに満ち満ちた声を張り上げた。
おーい! 陸じゃ! 陸が見えたぞーっ!
 甲板の上にいたヒミカと妙は思わず持ち場を離れると、麗鈴が指し示している一点を、船首の船べりから身を乗り出して見詰めた。間もなくこの二人の目にも、水平線の上に広がる薄青い物が映るようになった。それは、彼女たちにとって約半月ぶりで目にする陸の姿であった。
海図6  昼過ぎになると、それは緑の木が生い茂る広大な陸地となっていた。海図は嵐のときに全て流されてしまっていたので、彼女たちは記憶と勘に頼るしかなかったが、それはセイロン島と見て間違いなかった。
 その夕方、三人の少女たちは、夕闇の中に立ち並ぶ椰子の林と、その前に広がっている白い砂浜を、燕丸の船べりから目にしていた。しかし、この島の周辺には珊瑚礁が多いということを前もって聞いていたので、座礁することを恐れた彼女たちは、この船でこの陸にこれ以上近付くことを断念し、今夜はここで停泊することにした。
 その翌朝まだ陽が昇る前、燕丸から伝馬船が下ろされると、三つの人影がそこに乗り移った。間もなくその伝馬船は夜明けの光の中を岸へ向かって漕ぎ出し、やがて砂浜に舳先を乗り上げた。そこから砂の上に降り立った三つの人影は、へなへなとその場に倒れ込んだ。中国服を身に着けている麗鈴が、明るく光る東の水平線を見ながら感慨深げに呟いた。
ああ……ほんに死ぬかと思うた……
 巫女の装束を身に着けているヒミカも、自分たちが来たその方向を同じようにして見ながら言った。
「……生きてここまで来れたのが信じられないわ……」
 いつもの侍の衣装を身に付けている妙であったが、背中の刀がない。先の嵐のとき海に捨ててしまったためだ。彼女が他の二人向かって言った。
「もし、お二人とも。伝馬が流されぬ間に浜に引き上げてしまわぬか。」
 この妙の言葉によって三人は立ち上がると、力を合わせて伝馬船を浜のずっと上の方まで引き上げた。この海岸は普段から波が高いので、こうでもしておかないと波打ち際の船はたちまち波にさらわれてしまう。
 ヒミカが言った。
「それじゃ、行きましょうか。」
 伝馬船の中から一つずつ大きな瓢箪を取り出して小脇に抱えた三人の少女たちは、左に青黒い海を、右に深緑の椰子林を見ながら、この広く長い人気のない砂浜を西に向かって歩き出した。
 次々と打ち寄せる高い波の飛沫(しぶき)によって、遠くの景色は白く霞んでいる。やがて、斜め左後ろの水平線から陽が薄っすらと昇って来た。これが高くなってしまう前に、彼女たちが捜し求めているものを見付け出さなければならない。
 三町も歩かぬうちに麗鈴が擦れ声を上げた。
「か、川じゃ!」
 彼女の指差す先を見た他の二人も、同時に喜びの声を上げた。
「おーっ!」
 そして三人はそこまで駆けた。
 椰子林の奥から砂浜を経て海へと注いでいるその小さな流れは以外に速く、その水はとても澄んでいる。「生水には気を付けろ」という言葉を、この時代の旅人は常日頃から口にしていたものだが、今の彼女たちの頭の中からその言葉の片鱗(へんりん)を見い出すことは不可能であった。
 三人ともその小川の前にひざまずくが早いか、その水を少量片手ですくって口に含んでみた。その冷たさとその味に確信した彼女たちは、今度はそれを両手ですくって何杯も何杯も飲んだ。それに満足した三人は、それぞれが持って来た瓢箪の中にその水を詰めた。
 このときはたまたま、この水源が地下水であり、その川沿いに人家が一つもなかったという、彼女たちにとって幸運な状況が重なっていたので良かった。しかし、見知らぬ土地で一般の旅行者がこのようなことをすると、ウイルス性肝炎になったり伝染性の胃腸病になったりと、散々な目に遭うということを覚悟しなければならない。
 一旦燕丸に戻った彼女たちは、乗って来た伝馬船を回収すると、いつものように甲板の食卓を囲んで会議を開いた。麗鈴がしみじみと言った。
「……ほうやけど、ヒミカ。うちらが今こうして居れるのは、あんたのお陰じゃ。」
 妙も同じように言った。
「……あのとき眠っておったらそのまま水を呑んで、今頃鮫の餌食(えじき)にでもなっておることでござろう。……ヒミカ、感謝致す。」
 ヒミカは照れて言った。
「……礼を言うんなら母ちゃん、いや、町長に言ってよ。あたしが眠りそうになるたびに夢で起こして、帆柱に体を縛り付けることまで教えてくれたんだから……。」
 麗鈴が羨ましそうな表情で言った。
「あんたらええのぅ。どげんしたら、そげに不思議な力を得られるんじゃ?」
 ヒミカは言った。
「どうもこうも、自分では望んでないのに、物心付いたらこうなってたのよ。多分、母ちゃんもタネ婆ちゃんも同じだと思うわ。」
 妙がやや目を見張って言った。
「然(しか)らば、アキ殿にもそのような力がお有りなのではござらぬか?」
 ヒミカが、何かを思い出すようにして言った。
「……そう言えば兄ちゃん、カルタで普通に勝負すれば大抵勝つって言ってたわ。相手の持ってる札が瞼の裏に見えることがあるんだってさ。でも、あたしらの家には、そういう者が他にもいるから、家族でするときには油断できないって。」
 それを聞いた妙は頬を染めると、なかば独り言のように言った。
「……これは、拙者がアキ殿とのあいだに御子(おこ)を設けて、その御子に期待するしかござらぬな……。」
 それを聞いた麗鈴が、目を吊り上げて言った。
「こら、妙! 勝手に話しを進めたらいけんわ。アキ兄ちゃんの子はうちが産むんじゃ!」
 それに対して妙は反駁(はんばく)した。
「そう言うお主こそ、誰に決められてアキ殿の御子を産むと申すのでござるか!」
 麗鈴は澄まし顔で言った。
「うちじゃ。」
 今度は妙が目を吊り上げて言った。
「されば、お主の言(げん)こそ勝手際まるものではござらぬか!」
 ここでヒミカが苦笑いして叫んだ。
「ちょっと、あんたたち! 『協定』とやらは一体どうなったのよ?!」
 それを聞いた二人は、互いにハッと顔を見合わせると、途端に照れ臭そうに笑った。麗鈴は妙を指差すと、ヒミカに向かってこう言った。
「この子が、アキ兄ちゃんを独り占めするようなこと言いよったけん……」
 その言葉を遮るようにして、妙はヒミカに訴えた。
「いや、拙者はただ希望を述べただけで、先に感情的になったのは麗鈴の方で……」
 その二人に向かってヒミカは、やや真剣な顔になって言った。
「二人とも、ちょっと聞いて!」
 その言葉によって二人が黙ったので、ヒミカは口調をやや改めて言った。
「あたしと母ちゃんが持ってるこの力によって、今回あたしたちの命が救われたけど、このことで、あたしは一つ気付いたことがあるの。」
 それを聞いた麗鈴と妙も真剣な表情になった。ヒミカは、その二人に向かって話しを続けた。
「……あたし、今までこの力を使って悪戯(いたずら)もしてたけど、母ちゃんが町民会議のとにき言ったあの言葉、わかったような気がするわ。神様がわざわざ、あたしたちに特別に授けて下さったこの力は、何のためにあるのかってことを……。」
 二人はそれぞれ黙って頷いた。
「……こういう力は人を助けるために授けられてるんだってことを、あたし今回のことで強く感じたの。だから、人を困らせたりするようなことには、絶対に使っちゃいけないのよ。」
 ヒミカがそう言うと、麗鈴と妙は口々に言った。
「なるほどのぅ。」
「左様か。」
 今度は麗鈴が、目に涙を浮かべて言った。
「……うち今まで黙ってたけど、船の上で椰子の実の汁飲んだときに思うた……。うちら、『修行のためじゃ』言うて、無闇に椰子の木倒しとったけど、そこに成るはずの実が、さっきまでのうちらんような人の命を救うとったかもわからんて……。」
 今度はヒミカと妙がそれぞれ黙って頷き、麗鈴は話しを続けた。
「……ほうやから、これからは、木を倒すことじゃのうて、一本でも多くの木ぃ植えたい。……うちは、そう思うたんじゃ。」
 妙も同じようにして言った。
「……拙者も己(おのれ)の修行のためと称して椰子の木を倒したが、椰子はそれを仇(あだ)として返すのではなく、拙者の命を救うて返された。これぞ、慈悲深き観世音菩薩の御心(みこころ)。実(み)を以(も)って、正に御身(おんみ)を以って、それを示したもうたのでござろう。
拙者、草木(そうぼく)の類(たぐ)いを今まで妄(みだ)りに傷つけておったことを深く恥じ入り、今後はその御仏の精神によりて人を含めたる万物(ばんぶつ)に接することを決意したところでござる。」
 彼女はそう言うと袖で目頭を拭いた。
 三人とも何やら敬虔な気持ちになり、しばらく自己の意識の中に深く入り込んでいた。
 このとき、数羽の水鳥が船首に舞い降りて船べりの上に止まると、互いに鳴き声を発した。それによって我に返ったヒミカは、会議を再び進行させることにした。彼女は、麗鈴と妙に向かって言った。
「……さて、それじゃ現実の問題に話しを移しましょうか。」
 それによって我に返った二人がヒミカの方を向いたので、ヒミカは言葉を続けた。
「船をさっきの川の近くに着ければ、水の補給はしっかりとできるけど、その次は食べ物の補給と船の修理よね。」
 この嵐によって燕丸は、船体にいくつかの損傷を受けている。
 妙が言った。
「……左様。それには身共(みども)だけの技(わざ)では不充分であるによって、船大工が居住する場所に行かねばなるまい。」
 麗鈴が言った。
「こっからもう少し西へ行きゃぁ、ポルトガルの大きな港があるはずじゃ。そこなら食い物なんでも手に入るじゃろう。」
 ここ数日というもの、ココヤシの実と生魚と水だけで命を繋いでいた彼女たちは、美味しい物をあれこれと想像して、夢見るような目付きになった。妙が憧れるように言った。
「まずは、なんと言うても、熱々のご飯でござろう……。」
 ヒミカも同じように言った。
「そうそう。それを豆と芋と野菜の煮物で食べるのよ……。」
 麗鈴も同じようにして言った。
「ほうじゃ。ほんで、パン……パンが食えるんじゃ……。……ほんで……。」
 他の二人は身を乗り出し、麗鈴は言葉を続けた。
「……ほんで、鶏の丸焼き!!」
 三人がそれを脳裏に描いた途端、先ほどから燕丸の上で羽根を休めていた水鳥たちが一斉に飛び立ち、逃げて行ってしまった。その音で再び我に帰った三人の少女たちは、恥ずかしそうに俯くと、互いに顔を見合わせて笑ってしまった。
 ところが、ここである重要なことに気が付いたヒミカの顔から、その笑みが消えた。ヒミカは、なかば独り言のようにこう言った。
「……よく考えてみると……、あたしたちって、一文なしなのよね。」
 三人はまた互いに顔を見合わせると、今度はそれぞれが深刻な表情になって考え込んでしまった。
 今までは、香料を売ったりして得た銀貨銅貨があったのだが、それもこの嵐で全部捨ててしまったからだ。無一文では、食料を買うことも、造船所に船の修理を依頼することもできない。
 ところがここで、楽天家の麗鈴が急に何かを思い付いたようで、目を輝かせて嬉しそうに言った。
「……おお! ええこと考えたわ!!」
 妙が訝しげに尋ねた。
「その考えとは?」
 麗鈴は引き続き嬉しそうに言った。
「うちら三人で、大道芸したらええんじゃろうが!」
 妙がまた訝しげに尋ねた。
「では、お主、何の芸をするのじゃ?」
 麗鈴は事もなげに言った。
「決まっとるじゃろうが。拳法使うて瓦叩き割ったり、板蹴り割ったりするとこ見せるんじゃ。」
 妙は苦笑いして言った。
「拙者は忍術の披露か?」
 麗鈴はまた嬉しそうに言った。
「そうじゃそうじゃ!」
 ヒミカが苦笑いして言った。
「あたしは?」
 麗鈴はちょっと考えてから、やはり嬉しそうに言った。
「あんたはのぅ……、そうじゃ! あんたは、人に字ぃ書かせてそれを言い当てるんじゃ。ほなら朝飯前じゃろうが!」
 ヒミカは満更でもないというように言った。
「なるほど……。それ、いいわね!」
 妙は苦笑いして言った。
「身どもが、たまたま身に付けておった芸が、斯様(かよう)に役立つとはのぅ。」
 麗鈴は、いそいそして言った。
「ほんじゃ、役割を決めんか。まず、言葉の達者なヒミカが座長になるんじゃ。ほいで……。」
 こうして三人は、大道芸の作戦を立てて、その稽古を何度か行なった。
 やがて錨を上げた燕丸は、先ほどの川の近くで再び錨を下ろすと、伝馬船を使って水の補給を行なった。水瓶は嵐のときに捨ててしまったが、漬物用の大きな木の樽が全部空になっていたので、それを水入れに転用することにしたのである。
 水の補給を終えた彼女たちは再び錨を上げると、北西へ向けて船を進めた。

 セイロン島南部に位置する Galle という港町のことを、現在日本では「ゴール」と表記しているが、それは英語読みを片仮名にしたものだ。しかし当時まだここにイギリスの手は及んでおらず、その支配者はポルトガルだったので、以下ポルトガル語読みの「ガーリ」と表記することにする。
 ポルトガルが九年がかりでこのガーリに城砦(じょうさい)を完成させたのは、一五八二年のことだった。それ以来この地は、ポルトガルのアジア貿易における拠点の一つとなっていた。その点、先に寄港したマラカとよく似ている。
 燕丸を潮の流れにうまく乗せたヒミカと麗鈴と妙の三人は、早くもその日の午後には右舷前方でそのガーリの町並みを目にしていた。やがて、町の様子がある程度わかるようになると、妙が感心したように言った。
「この町の城もまた、堅固な様子でござるのぅ……。」
 ヒミカが言った。
「それでも、マラカの町よりはこじんまりとしてるわね。」
 麗鈴がちょっと心細そうに言った。
「パン……売っとるんかのぅ……?」
 妙が言った。
「それは彼らの主食ゆえ、必ずあると見て良うござろう。」
 その味を思い出して腹が鳴った三人は、思わず困った顔を見合わせてしまった。
 気を取り直したヒミカが、元気を出して言った。
「……それじゃ、入港することにしましょうか! 麗鈴は帆、妙は舵に着いて! あたしは舳先で水深を見るわ。」
 全員配置に着くと、ヒミカは指示を出した。
「進路北に変更!」
 進路を北に変えてしばらく進むと、海の色は緑色から薄緑色へと徐々に変わってきた。ヒミカは再び指示を出した。
「減速! 進路北東に変更!」
 帆の調整によって速度を落とした船が進路を変更すると、それまで右舷前方にあったガーリの町が船の真ん前に移った。空には幾つもの雲があったが、西の雲間から時折り太陽が顔を出すと、そのたびに白く塗られた家々の壁が美しく輝いた。
 やがて海の色が透明になり、海底に横たわる無数の珊瑚の塊りの姿が白くぼんやり確認できるようになってくると、ヒミカは急いで指示を出した。
「帆を畳んで! このまま進むと危ないわ。」
 この島南部の潮の流れは非常に速く、その分海水の透明度がとても高い。そのため海底が見え始めても、それは思ったより深い位置にあるのだが、そうだと思って油断していると、とんでもないことになりかねない。船乗りにとって嵐と同じかそれ以上に恐れられているのが、座礁による船体への浸水だった。もし海の上で船底に大きな穴が開いてしまえば、その修理は陸に上げてするしかなく、ヒミカたちがしたように船内の水を汲み出して航海を再開させるようなことは不可能だからだ。
 帆を畳んだ麗鈴は左右両舷の櫂を出すと、妙と二人してそれを力一杯漕いだ。燕丸はそれによってしばらくゆっくりと進んで行ったが、舳先で注意深く水深を窺っていたヒミカは、港の桟橋から一町ほど手前のところで指示を出した。
「停船! 錨を下ろして!」
 間もなく進むことをやめた燕丸は、船首から錨を下ろした。三人は伝馬船を海に下ろすと、必要な物をそこに積み込んで、自分たちもそこに乗り込んだ。
 彼女たちが桟橋に伝馬船を繋ぎ留めた頃には、日はかなり傾いていた。急いで入国の手続きを済ませた三人は、早速この町で一番大きな市場を訪れた。
 大道芸をするなら人通りの多い場所に限る。この時代でそのような場所といえば、何と言ってもやはり、その町の大きな市場であった。
 この前の嵐によって、水に沈む物のほとんど全てを失ってしまった今の彼女たちにできることは、かなり制限されていたが、三人の若い娘が広場で何かを始めようとしていることを知ると、その周りには物珍しさから、ちらほらと人だかりができ始めた。
 やがて準備ができると、ヒミカはスペイン訛りのポルトガル語で口上を述べた。
「……紳士並びに淑女のみな様! お忙しい中お立ち合いの程、まことに有り難う存じます。
さて、これよりお目に掛けまするは、中国三千年の秘術を体得致しましたる、東中国海の蝶 Liling(リーリン)による板割りでございまーす。」
 「シナ」という名称は当時まだ存在してはいなかったので、ヒミカは「東シナ海」のことをそう言ったのだ。
 ヒミカは、観衆の最前列にいた大柄で赤ら顔のポルトガル人船員に向かって声を掛けた。
「……あ、ちょっと、そこのお兄さん!」
 その船員は、それが自分のことだと知ると肩をすくめ、照れ臭そうな表情で周囲を見回した。
 それまでヒミカの後ろで控えていた妙が、一四方で厚さ一足らずの木の板を持って来ると、ヒミカの足元の地面の上に平行にして置いてある、二つの細長い石の上に置いた。ヒミカはそれを指差しながら、その青年に向かって言った。
「さあ、あなたはこれを手で叩き割れますか? もしそれができたら、あなたにこの刀を差し上げます。」
 ヒミカはそう言って自分の懐から小刀を取り出した。その木製の柄と鞘は地味ではあったが、彼女がその鞘を抜いて頭上に掲げたところ、観客たちは小さくどよめいた。その研ぎ澄まされた銀色に光る刃は、伝統的な日本刀の製法によってつくられていたので、刃物を見る目が少しでもある者になら、それなりに価値のある物と見て取れたからだ。
 刀を鞘に収めて懐に戻したヒミカは、先ほど目の前に置かれた板の前で身を屈めると、それを拳でコンコンと叩いて見せた。すると、その青年はヒミカと入れ替わってその前にしゃがみ、大きな握り拳を振り下ろして、しばらくドスンドスンとそれを叩いていたが、やがて諦めたような苦笑いをしてこう言った。
「これは、足でなけりゃ割れないよ。」
 ヒミカは微笑むと、それまで後ろで控えていた中国服の麗鈴に向かってポルトガル語で言った。
「それでは Liling 、これを手で割ってみて下さーい!」
 麗鈴も微笑んで前に進み出ると、取り巻く観衆に向かって自分の可愛らしい拳を掲げて見せた。そして、青年と交代してその板の前に片膝を着いた彼女は、「ヤッ!」と軽く掛け声を掛けるが早いか、その拳を振り下ろした。するとそれは、まるで薄い天井板のように真っ二つに割れてしまったではないか!
 これを見た観衆のあいだにどよめきが走り、それはすぐに大きな拍手へと変わった。先ほどの青年は、信じられないといった表情で目をぱちくりとさせている。その彼に向かってヒミカは微笑んで言った。
「それなら、あなたはこれを足で割れますか? もし割ることができたなら、やはり先ほどの小刀を差し上げます。」
 妙は先ほどと同じ寸法の別の板を持って来ると、今度はそれを斜め下に向けて両手でしっかりと持ち、自分の顔の少し上くらいの高さに突き出した。その青年は、困ったように言った。
「これじゃ、高過ぎて足が届かないよ。」
 それを聞いたヒミカは麗鈴に向かって言った。
「それでは Liling、これを足で割ってみて!」
 青年よりもずっと背の低い麗鈴だったが、にっこりと余裕の笑顔を見せてその板の前に立った。そして、「ハッ!」と軽い掛け声を掛けて垂直に飛び上がるが早いか、目にも止まらぬ速さで右足を振り上げた。すると彼女の右脚は垂直に立った状態になり、素足の先がその板に当たった。するとその板はパカンという音を立てて真っぷたつに割れ、オレンジ色の夕空に舞い上がった。麗鈴が着地して間もなく、その二つの木片は、カランカランという小気味良い音を立てて地面に転がった。
 これを見た観衆は、先ほどよりも更に大きな拍手と共に歓声を上げた。
 このようにして、何度か麗鈴が業を披露し終えた頃には、そこはもう黒山の人だかりになっていた。ヒミカは、スペイン訛りのポルトガル語の口上で最後を締めくくった。
「……ただ今の出演は東中国海の蝶 Liling ! Liling でしたーっ!
みな様、本日はお立ち合いの程、真に有り難うございましたーっ。明日は銀の国 Japon(日本)伝来の忍びの術を習得せし Taé(たえ)の奇術をお目に掛けます。どうぞご期待を!」
 当時の日本は世界一二を争う銀の産出国であり、ポルトガルの対アジア貿易では欠かせない存在として、その名をよく知られていた。
 口上が終わっても鳴りやまぬ拍手と歓声に向かって、麗鈴が腕を組んだ中国式のお辞儀を何度も何度も笑顔を振り撒きながらしている一方、それぞれ桶を手に持ったヒミカと妙は手分けすると、観客のあいだをくまなくぬって見物料を徴収して回った。大道芸なので定価があるわけではないが、観た人は大体親指の爪ほどの小さな銅貨一枚をそこに投げ込んでくれた。たまに、観るだけ観ておいて一銭もくれない人もいたが、その人はきっとお金がなかったか、観ても感動しなかったか、ケチなのかのどれかなのだろう。
 観客の一人が小さな銅貨一枚をくれたとしても、それが四~五枚集まれば、大きなパンの塊り一つを買うことができる。この日は初めてだったのにもかかわらず、彼女たちは予想以上の収入を得ることができた。
 市場で買い物を済ませたヒミカと麗鈴と妙が、桟橋に繋いであった伝馬船で燕丸に戻ったのは、もう陽が沈んだ後のことだった。しかし、積荷を伝馬船から本船に移し終えた彼女たち三人は、夕闇に包まれた甲板の上で抱き合うと、歓声を上げて小躍りした。その中で、麗鈴が嬉しそうに叫んだ。
どうじゃ! うちの言うた通り、銭(ぜに)稼ぎできたじゃろうが!
 最初はこの企画に対してあまり乗り気でなかった妙も、嬉しそうに言った。
「『芸は身を助く』と言うは、真(まこと)でござるわ!」
 ヒミカも大喜びで言った。
「これで、明日への希望が湧いてきたわよ!」
 真っ暗になってしまう前に三人は、まず買ってきた油を、やはり買ってきた素焼きのランプに注いで火をともした。それは、嵐に遭ってのち、この船に始めてともされる火であった。その明かりを頼りに、彼女たちは手分けして、買って来た食料品や日用品などを所定の場所に収納していった。
 仕事を全て済ませた彼女たちが、甲板の食卓の上にともされたランプの暖かな光の周りに腰を下ろすと、待望のパンをやっと口にすることのできる瞬間が訪れた。
 麗鈴が、手に持ったそれを見ながらしみじみと言った。
「あーっ……。うち、これ! これが食いたかったんじゃ!!」
 彼女はそう言うが早いか、それに思い切り齧り付いた。ヒミカも同じように齧り付いてから言った。
「……待ち望んでただけに、ミカエラのパンと同じくらい美味しく感じるわ!」
 妙もパンを嬉しそうに齧ったが、それを頬張りながらやや真剣な表情になって言った。
「……パンは癖になるほど美味なる食物じゃが、連日これのみ食するわけにもいくまい。
……明日は稼いだ銭によって、竃と焚き木と鍋釜などを買わねばならぬ……。」
 ヒミカもやや真剣な表情になって言った。
「そうよね、豆や野菜も食べなきゃ。明日の大道芸は妙が主役だから頼むわね。」
 妙は真剣な顔で頷いた。
「うむ、心得た。」

 その翌日の夕方、市場の広場にヒミカと麗鈴と妙の三人が現れると、昨日とは違ってあっという間にその周囲を大観衆が取り巻いた。昨日ヒミカが「また明日もやる」というような予告をしたので、それが噂となって町中に流れたのだろう。
 当時の地方都市では、洋の東西を問わず、現代のような一般大衆向けの劇場や映画館などなかったので、人々の娯楽は非常に限られていた。そのため、「面白い!」とか「凄い!」という評判が立った大道芸の噂(うわさ)は、あっという間に町中に広がってしまうのだ。
 ヒミカは、その年齢にもかかわらず瓶ヶ島町の役員を勤めているので、大勢の人を前にして話しをすることに慣れている。その彼女がその大観衆に向かって、スペイン訛りのポルトガル語で口上を述べた。
「紳士並びに淑女のみな様! 本日もお忙しい中お立ち合いの程、まことに有り難う存じます。
さて、これよりお目に掛けまするは、銀の国 Japon における忍びの術を使いし Taé(タエ)の奇術。元来 Japon より門外不出とされしこの技(わざ)を、このたび特別大奉仕によってこの Galle のみな様のお目に掛けるのでありまする。これをお見逃しあれば、後々(のちのち)までも悔いることとなられましょう。
さあ、お立ち合い、お立ち合い!」
 口上が終わり、観衆の期待が絶頂に達したその時、ヒミカの目の前の地面から、突然灰色装束に身を包んだ人がにょきりと立ち現れた。それを見た観衆は、みな一斉に驚きの声を上げた。ヒミカは、その人物に向かってポルトガル語でこう言った。
「……それではTaé、よろしくお願いします。」
 タエと呼ばれたその目だけ出した人物は黙って頷くと、懐から何かを取り出すが早いか、頭上に茂っている大きな木の枝に向かってそれを投げ付けた。観衆の視線が一瞬そちらに移って、再びタエに戻る間もなく、タエが立っていた場所から突然濛々たる白い煙が立ち昇った。その直後、先ほどの木の枝の上から女の声がした。
「ホホホホ!」
 そこには何とタエがおり、こちらを見下ろして笑っているではないか! 不思議に思った観衆が地上に視線を戻すと、先ほど地面から湧いて出たタエはどにもいなかったので、観衆は大いにどよめいた。一体、いつの間に木に登ったのだろう。
 樹上のタエは一度木の葉の茂みの奥に姿を消すと、間もなく再びそこに現れた。すると、先ほどと同じ地面にまた白い煙幕が立ち昇った。
 やがて、その煙が晴れると、そこには先ほどと同じようにして、タエが立っているではないか! それでは、あの樹上の灰色装束は!? 観衆が再びそちらに視線を向けると、それはふらふらっと揺れ動き、どさっと地面に落ちた。人が高い木の上から落ちたのだから、観衆はみな驚いて悲鳴を上げた。
 ところが、タエはその灰色装束をつかむと、その布の一部を剥ぎ取って観衆に見せた。すると、その中から現れたのはただの丸めた椰子の葉だった。それが人形だったということを知った観衆たちは、一斉にホッと安堵(あんど)の溜め息を漏らした。しかし樹上の人物は、先ほど声を上げて笑っていたはずなのに……。
 一体どうなっているのだろうと思った観衆が、人形とタエとを見比べて目を白黒させていると、ヒミカが終わりの口上を述べた。
「……みな様! 本日はお立ち合いの程、真に有り難うございましたーっ。本日の出演は銀の国 Japon が誇る美少女忍術使いタエ! タエでござりましたー!」
 タエが、長い黒髪をはらりと現わしてその覆面を取り去り、その東洋系の美しい顔を微笑ませた途端、観衆からは割れるような拍手と大歓声が上がった。
 それがやや落ち着いたところで、ヒミカは口上を述べた。
「明日は Japon より参った、このわたくし Himika(ヒミカ)の奇術をお目に掛けます。どうぞご期待あれーっ!」
 まだ鳴りやまぬ拍手の中で、妙がにこやかに微笑んで礼をしている最中、ヒミカと麗鈴は昨日と同じようにして、観客から見物料を徴収して回った。今日は、中型の銅貨を投げ入れてくれた人もいた。これは、小型の銅貨四枚分に相当する。
 芸が終わってから市場で買い物をして船に帰った彼女たちは、今日の収支を調べてみて驚いた。何とそれは、昨日の収入の十倍近くもあったからである。昨日の芸の評判が良かったので、それだけ多くの人が集まり、妙の芸に対しても良い評価を下したということなのだろう。
 薪と小さな竃(かまど)と鍋や釜を手に入れることができた彼女たち三人は、久し振りでご飯を炊いた。甲板の上の食卓を囲んで座った三人の少女たちは、茄子の煮物と釣った魚の刺し身とご飯という、本当に久し振りの日本風の料理を口にすることができた。揺れるランプの炎に照らされながら、熱々のご飯を食べた妙が感慨深げに言った。
「……うーん、やはりこれが基本でござるのぅ。」
 麗鈴が嬉しそうに言った。
「……そうじゃ。この間(あい)の日にパンを食うのが、またええんじゃ。」
 ヒミカが言った。
「……醤油がないのが、ちょっと残念だけどね……。」
 バンテンの日本人町で手に入れた醤油は、この前の嵐のときに全部失ってしまっていた。醤油や魚醤のような醗酵調味料は、東アジアや東南アジアの特産品だ。しかし、現代のような高速の輸送手段がなかった当時では、他で手に入れることは難しかったので仕方がない。

 翌日の午後、Galle の市場に集まっていたこの町の人々は、あの三人の少女が現れるのを今か今かと待っていた。それぞれが全く違った異国の衣装を身に着け、座長が喋る言葉もたどたどしいポルトガル語だったので、出所不明の彼女たちに対して最初は懐疑的な目を向けていた町民だったが、彼女たちのひたむきな姿に、いつしかすっかり心を奪われてしまったのだ。
 こうした大道芸の多くは、予(あらかじ)め種がわかってしまっていたり、どこか素人臭かったりするものだが、彼女たちが演じているのはどれも磨き抜かれた本物の技(わざ)だったので、その完成度の高さも人気の要因となっているようだった。
 夕方いつもの時刻になってその三人が現れると、人々は大きな歓声を上げ、道を開けて広場の中央に彼女たちを通した。現代の欧米で例えるならば、売れっ子の映画スターかミュージシャンのような扱いだ。たった二日間で彼女たち三人は、そのような人気者になってしまっていたのである。
 ヒミカは屈託のない笑みを浮かべると、例によってスペイン訛りのポルトガル語で口上を述べた。
「紳士並びに淑女のみな様! 長らくお待たせ致しました。本日もお忙しい中お集まり頂き、誠に有り難う存じます。
さて、私どもの本日の芸は、銀の国 Japon より参りました、Himika(ヒミカ)こと、不肖(ふしょう)このわたくしめがご覧に入れます奇術にございます。どうぞみな様、最後までお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます。
……あ、ちょっと、そこのお姉さん!」
 ヒミカにそう呼び掛けられたのは、観衆の最前列に立っていた、エプロン姿の中年の混血女性だったが、「お姉さん」という言葉が効いたようで、彼女は嬉しそうな表情で前に進み出た。ヒミカは彼女に微笑み掛けながら言った。
「こんにちは。あなたのお名前はなんですか?」
 彼女も微笑んで言った。
「こんにちは。私の名は Flora(フローラ)よ。」
 ヒミカは彼女に尋ねた。
「それではフローラ、あなたはこれから、あたしを助けて下さいますか?」
 フローラは怪訝そうに尋ねた。
「どう助けるの?」
 ヒミカはそれに答えた。
「紙に一つの言葉を書くことと、それをこの場にお集まりのみなさんに見せること。それをたった三回繰り返すだけです。」
 それを聞いたフローラは、やや冷淡な目になると首を横に振って言った。
「それはできないわ。あたしが書けるのは数字だけだから。」
 ヒミカはそれに動じず、にこやかに言った。
「それで充分よ。紙に大きく数字を書いてそれをお客さんに見せるだけでいいんです。それをしてくれたら、私たちはあなたに、お礼として中型銅貨三枚を差し上げます!」
 フローラは、また嬉しそうな顔に戻って言った。
「おお! それだけで銅貨三枚貰えるんなら、毎日来て書いてもいいよ!」
 その冗談によって、会場にはどっと笑いが起きた。
 当時のポルトガルの植民地では、現代のように教育が広く普及していなかったので、文字を読み書きできるのは貴族や僧侶、役人や商人といったごく限られた人々であった。そのため、本人に代わって手紙を書いたりする代筆という仕事が、立派な職業として成り立っていたほどである。そのような社会の事情からすると、数字を三回書くだけで中型の銅貨が三枚も貰えるということは、今の日本で例えるならば、パソコンのワープロソフトに数字を三文字入力しただけで、百円玉が三枚貰えるというようなことだ。
 ヒミカは観衆に向かって微笑んで言った。
「さあ、それでは始めまーす。」
 すると、ヒミカの後ろで控えていた妙と麗鈴が、インキ壷と鳥の羽が付いたペンと大きな白い紙を持ってフローラの前に進み出た。ヒミカはフローラに向かって言った。
「フローラ、あなたの好きな数字をこの紙に大きく書いてみて。但し、今は誰にも見せないで下さいね。」
 フローラは真剣な表情で頷くとそれに答えた。
「うん。」
 彼女は麗鈴の手から紙とペンを受け取ると、妙が持っているインキ壷の中にペン先を入れて紙に何かを書き込んだ。そして、それを他の人に見られないよう二つに折った。
「それでは、今彼女が紙に書き込んだ数字を、この私が言い当ててみます。」
 ヒミカがそう言って観衆をぐるっと見回すと、それまでがやがやしていた会場が静まり返った。ヒミカは言った。
「フローラが書いたのは『7』です。」
 これを聞いてまず目を丸くしたのは、それを書いた本人だった。彼女は驚きを隠せない様子でヒミカに尋ねた。
「どうしてわかったの?!」
 ヒミカは微笑んだだけでそれには答えず、彼女に向かって言った。
「それではフローラ。あなたが数字を書いたその紙を、みんなに見せて下さい。」
 驚きの表情のフローラはその紙を広げると、頭の上に両手で掲げて、ぐるりとその場で一回りした。それを目にした字の読める者から順に、大きな歓声が上がった。その紙には「VII」と書かれてあったからだ。それはローマ数字で7のことである。
 ヒミカが微笑んで言った。
「それでは、もう一度やってみましょう。
……フローラ、もっと大きな数を書いてもいいのよ。」
 フローラはまた真剣な表情で頷くと麗鈴から別の紙を受け取り、ペンにインキを付けてそこにまた何かを書き込んだ。
 ヒミカは観衆に向かって言った。
「今彼女が書き込んだのは、五百三十九です。」
 それを聞いたフローラは悲鳴を上げた。
おお! 神様!
 彼女が先ほどと同じようにして掲げたその紙を見た観衆からも、それと同じような悲鳴が上がった。何とそこには確かに「LXXXIX(539)」と書かれていたからだ。ヒミカは言った。
「それでは、もう一度。フローラ、今度は一度に三つの数字を書いてみて。」
 フローラは黙って頷くと、先ほどまでと同じようにして新しい紙に書き込んだ。その直後、ヒミカは再び観衆に向かって言った。
「……二十八、七百四十二、千十六。」
 フローラは絶望したような表情になると、自分の書いた紙を広げて観衆に見せた。そこに書かれていたローマ数字は、何とまたヒミカが言った通りだったので、会場は大きくどよめいたが、ヒミカが微笑んで一礼したので、それは盛大な拍手に変わっていった。
 ヒミカは、フローラの手に銅貨三枚を手渡しながら言った。
「どうも有り難う、フローラ! これは約束の物よ!」
 フローラはそれを受け取ると、感動の眼差しで礼を言った。
「有り難う! こんな素晴らしい手品見せて貰って、お金まで貰ったのは生まれて初めてだよ!」
 ヒミカは観衆に向かって口上を述べた。
「本日の奇術は、わたくし Himika によるものでございました。明日は再び麗鈴による板割りをご覧に入れまーす。みな様本日のお立ち合い誠に有り難う存じましたーっ!」
 取り囲む観衆の鳴りやまぬ拍手に向かって、ヒミカはその場で何度も礼をした。そのあいだ、例の如く麗鈴と妙は桶を持って見物料の徴収をして回った。
 観衆が引けると、ヒミカ、麗鈴、妙の三人は夕暮れの市場でいつものように買い物をして回った。ところが、行く先々の店で支払いをしようとするたびに、彼女たちは店の人から笑顔で次のようなことを言われた。
「リーリンとタエとヒミカだろ? 今日の手品はまた凄かったねぇ! お金は要らないよ! 好きなもんなんでも持っていきな!」
「おう! あんたたちだったら、今日はただでいいよ!」
 これは、まるでアイドル歌手並の対応だ。こんな経験は始めての彼女たちだったので、そう言われてもその都度ちゃんとお金を払ったのだが、それでも店の人たちは半額にしてくれたり、端数を値引いてくれたりした。
 買い物目的だけでなく、大道芸を観るためにやって来る人で市場が賑わうと、その中にはついでに買い物をして帰る人もいるわけで、市場の商人たちにとっては非常に有り難いことだったのであろう。しかし、良いことばかり続くと、必ずその反動も出て来るものだ。
 燕丸に帰ろうとした彼女たちが港の桟橋に差し掛かると、自分たちの伝馬船を繋留(けいりゅう)してあるあたりに、珍しく複数の黒い人影があることがわかった。彼女たちは不審に思いながらも、そちらへ向かって歩いて行くと、その人影もこちらに向かって歩き出した。ヒミカは、なんだかとても厭な予感がした。
 やがてその人影が近付くと、その姿が夕闇の中で明らかになった。それは、髪を長く伸ばして鍔(つば)の広い帽子を被った目付きの鋭い数人の男たちだった。その身形(みなり)から察するにポルトガル人とその混血人であるようだが、貴族でもなければ役人でもなく、堅気の商売をしているようにも見えなかった。彼らが細い桟橋の上に横に広がって立ちはだかったので、ヒミカたちはそれ以上先に進むことができなくなってしまった。
 その中央に立っている痩せて背の高い中年の男が、三人の少女の真ん中にいたヒミカの顔をじろっと見て、癖のあるポルトガル語でこう言った。
「……あんたの名、イミカとかいったな。」
 ヒミカは怪訝そうな表情をすると、こちらはスペイン訛りのポルトガル語でこう言った。
「イミカじゃなくてヒミカ。それがどうかしたの?」
 その男はそれには答えず、再び尋ねてきた。
「中国人か?」
 ヒミカはそれに答えた。
「違う。日本人だよ。」
 その男は鼻で笑って言った。
「ふん。よそ者の癖に、なかなか派手にやってるじゃねぇか。」
 ヒミカはやはり怪訝そうに言った。
「派手にって……ああ、あの市場での芸のこと?」
 その男は、やや真剣な表情になってこう言った。
「……その他に、まだ何かあるってのかい?」
 その口調は物静かだったが、ヒミカたちはその奥に何とも言えぬ不気味さを感じた。それでもヒミカは努めて冷静に言った。
「仕方ないじゃないの。嵐に遭って一文なしになったんだから。」
 すると、その男の横に立っていた小太りの男が、甲高い声でやや呆れたように言った。
「そんな偉そうな口をきくところを見ると、お前、ガーリのピエトロ様のことを知らねぇみてぇだな。」
 ヒミカは首を横に振って言った。
「知らないよ。」
 それを聞いた小太りの男は、両手を肩のあたりまで上げる大袈裟な身振りをして周囲の男たちを見回した。すると、その男たちは一斉に「オー!」という残念そうな声を漏らした。今度は、最初に声を掛けてきた痩せた男が物静かに言った。
「……まだ来て間もないんだから仕方ねぇ。それじゃ、今ここで教えてやろう。ピエトロ様のことを知らずに、この町じゃ商売ができねぇってことをな。」
 ヒミカは、その男に向かって尋ねた。
「あんたがそうなの?」
 その男は、それに答えた。
「違う。俺の名は Luis(ルイス)、ピエトロ様の二の子分だ。
……あんたら、この俺がおとなしく言ってるうちに、することした方が身のためだぞ。」
 ここで、妙がヒミカの脇腹をこっそり肘で突付くと、その耳元で囁(ささや)いた。
「この衆は、多分上納(じょうのう)金を求めておるのでござろう……。」
 それを聞いたヒミカは黙って頷くと、その男に向かって言った。
「それじゃ、いくら渡せばいいの?」
 彼はニヤッとして言った。
「そうこなくちゃな。……ピエトロ様は寛大なお方だ。出すもんきちんと出しゃぁ、手荒な真似はしねぇ。
売上の四分の一だ!」
 最後は真剣な眼差しになって言ったルイスの言葉を、ヒミカが麗鈴と妙のために訳すと、二人の少女は同時に不服そうな口調で言った。
えー!? そんなーーー!!!
 その日本語は男たちに通じるはずもないのだが、そこに込められている感情を敏感に察したようで、ルイスは目をギロッと光らせて言った。
「……何も無理にとは言わねぇよ……。でもそうすると、あんたたちがこの町を無事に出れるかどうか、俺には保障できなくなっちまうんだよなぁ……。」
 やはり物静かな口調だったが、ヒミカは今まで一度も感じたことのないような薄気味悪さをその中に感じた。それに較べれば、バンテンに着く前に正面から正々堂々と襲って来た海賊など可愛らしいものだ。もしこの男に逆らうと、自分だけではなく、麗鈴と妙の身にも危険が及ぶということを直感したヒミカは、この要求に素直に応じることにした。
「わかったわ。」
 ヒミカがそう言うと、小太りの男が両手を差し出した。ヒミカは、自分が腹に巻き付けていた布の袋の中の銅貨を片手で鷲(わし)づかみにすると、それをその手の中に入れて、強い口調でこう言った。
「さあ、ちゃんと渡したんだから、ここを通して頂戴!」
 するとルイスは、今までとは打って変わった厳しい口調で怒鳴った。
なめるじゃねぇ! 昨日と一昨日(おととい)の分もだ!!!
 ヒミカは仕方なさそうに、また袋の中から銅貨をつかみ出して、今度はルイスに手渡した。それが彼女たちの収入の四分の一であるかどうかは、ちゃんと数えたわけではないのでわからない。しかし、こういう仕事を専門にしているこの男たちは、それを目分量で計算する能力にたけているようだった。その銅貨の量に満足したルイスは、それをズボンのポケットの中から取り出した革の袋の中に収めると、ヒミカに向かって言った。
「よし、行け。……明日も待ってるからな。フフ……。」
 ヒミカたちに向かって冷たく微笑んだルイスは、他の男たちに目配せして桟橋の端に寄ったので、彼らもそれに倣って道を開けた。三人の少女たちは、そこを恐々(こわごわ)と通り抜けた。彼女たちが通り過ぎて間もなく、後ろの夕闇の中でまたルイスの声がした。
「おい、姉ちゃんたち、ちょっと待て。」
 三人が振り返ると、ルイスは彼女たちの胸から腰のあたりを舐めるように見て言った。
「……あんたたちさえよけリゃ、もっと儲かる商売もあるんだぜ……。やってみねぇか?」
 ヒミカはためらいがちにそれに応じようとしたが、夕闇の中で動いたルイスの視線の意味を察知した妙は、ヒミカの耳元で素早く囁いた。
「何を言われたかはわからぬが、はっきり断わるのでござる!」
 それを聞いたヒミカは、ルイスに向かって強い口調で言った。
Não!(いやよ!)」
 するとルイスは、仕方なさそうに肩を窄(すぼ)めて仲間たちに目配せした。それによって彼らはそこからみな立ち去って行った。その姿が町角の闇の中に完全に消えると、三人の少女は、いずれも同じような安堵の溜め息をついた。
 そして麗鈴が、さも悔しそうにこう言った。
「ほんに腹立つのぅ! 銭は取られるし、お陰で真っ暗になってしもうたし!」
 確かに、あたりはもう完全な夜の闇になっていた。ヒミカも同じように言った。
「あの人たち、あたしたちに何かくれたわけじゃないのに、なんであたしたちが稼いだお金を渡さなきゃならないのよ?!」
 妙が暗い中、慎重に伝馬船に乗り移りながら、やや重い口調でこう言った。
「……これは百姓が大名に年貢を納める定めと同じ理屈でござろう。その代償として大名が善政を施せば問題はござらぬ。されど、たとえ政(まつりごと)の無能なる大名であっても、それを養うのは百姓。……これぞ、この世の不条理中の不条理。……どこの町にも、斯様(かよう)なる衆はおると見て良かろう……。」
 瓶ヶ島という、いわば閉ざされた共同体の中で育ってきたヒミカと麗鈴に較べれば、妙はまだ世間のことを少しは知っている。
 伝馬船の上に足場を確保した妙はランプに火をともすと、麗鈴とヒミカの手をそれぞれ引いてその上に導いた。
 燕丸に帰り着いた彼女たちは、遅くなったので竃に火は焚かず、今夜は買ってきたパンとピックルスと自家製の茄子の塩漬けで夕食を済ますことにした。まず甲板の食卓の上にランプを置いたヒミカが言った。
「……ってことは、あの人たちにお金を渡すのは仕方ないってことなの?」
 その食卓の上に、まな板を出した妙が言った。
「……左様。堅気(かたぎ)の衆が多かれ少なかれ、あの衆に頼っておる限り。」
 小さな素焼きの壺の蓋を開けて、中のピックルスを皿の上に取り出しながら麗鈴が言った。
「……うちは、あげな衆に何一つ頼っとらんぞ。」
 妙は、まな板の上でパンを切りながら言った。
「お主の島ではそうであっても、一般の町の中では、人の情けの有り難味を知らぬままに、悪さをする戯(たわけ)けた若者が必ずおる。されど、あのような衆が居るよって幸か不幸か、自分勝手に悪さをする若者の増加を未然に防いでおるのでござる。もしあのような衆が威張っておらねば、世の中、悪ガギだらけになってしまうことでござろう。」
 船上の何箇所かに置かれているランプに火をともして回りながら、ヒミカはやや納得がいかぬというようにこう言った。
「……でも、あたしたちの島にもそういうやんちゃな男の子ってたくさんいるけど、その子たちはあんな人たちがいなくてもなんとかなってるよ。……大人になってからも朝から焼酎飲んでたり、カルタで全財産すってしまったりする人もいるけど……。」
 妙は笑って言った。
「ハハハ! それは、お主の島が女系社会であるからじゃ。男衆は女子(おなご)から好かれておりさえすれば生きてゆける。ところが男系社会ではそうはいかぬ。正に力の世界じゃ。それゆえに力は力で以(も)って抑えるしか手立てがござらぬのであろう。」
 食卓に戻って来たヒミカは、腰を下ろしながら尋ねた。
「……それじゃ、あの人たちは『必要悪』ってこと?」
 妙は、切ったパンを皿に盛り付けながら言った。
「左様。但し近頃では、昔のような仁義(じんぎ)を忘れて、ただ己の欲望を満たすことに徹し、弱者を虐げるような輩(やから)も増えておると聞く。そのような衆は『不必要悪』と言われても仕方あるまい。」
 妙と場所を交替した麗鈴が、桶から出した漬物をまな板の上で切りながら言った。
「ほうか、若い衆に仁義を説くことは大事なことじゃけんのぅ……。それはわかったが、ヒミカが最後に『Não!』言うたんは何のことじゃったん?」
 妙も興味深げに尋ねた。
「拙者もそれを聞きたかったのでござる。」
 ヒミカは、それに答えた。
「『もっと儲かる商売があるけど、やってみないか』っていう話し。」
 それを聞くが早いか、麗鈴が妙に向かって責めるような口調でこう言った。
「ほなら、妙! あんた、なんでヒミカに断わらせたんじゃ!? 勿体ない!」
 一方妙は、納得したように頷きながら言った。
「……なるほど、やはりそうであったか……。」
 彼女は、麗鈴の問いに対して冷静な口調で答えた。
「然(しか)らば麗鈴。お主、郭(くるわ)とは何か存じておるか?」
 麗鈴は、馬鹿にするなという表情になって言った。
「そんなもん知っとるわい!」
 妙は依然として冷静な口調で言った。
「あの衆の言うた『儲かる商売』とは、そのことでござる。……お主、今そこへ出とうござるのか?」
 麗鈴は珍しく口篭って言った。
「……そりゃ、他に仕事なけりゃぁ出にゃいけんようになるんじゃろうが、……今は出んでもええ。」
 妙は笑って言った。
「ハハハ! そうであろう。それがゆえに拙者はヒミカに断わるよう進言したのじゃ。」
 ヒミカが仕方なさそうに言った。
「そうかぁ……。なんか変な感じがしたんだよね……。今は大道芸で収入があってよかったわ。明日から毎日あいつらの顔見なきゃならない思うとうんざりするけど……。」
 彼女は気を取り直して言った。
「……ああ、お腹空いた! それじゃ、食べましょうか!」
 三人は、共に質素な夕食を食べ始めた。
 こうして彼女たちは、その儲けの四分の一を地元のマフィアに納めなければならなくなったが、その代償として市場で芸をすることを保障され、それは合計するとかなりの収入になったので、彼女たちはその一部を使って、燕丸の修理をすることができた。
 また、一般人が入手することが困難であったインドと中近東方面、そして地中海の海図を手に入れることもできた。ポルトガル貴族に仕える航海士が、たまたま彼女たちの芸のファンになっていたので、主人には内緒でそれらの複製を作ってくれたのである。
 ガーリに二週間滞在した彼女たちは、水と物資の補給を済ませると、いよいよインドの西海岸目指して燕丸の錨を上げた。

 それから二日後、ヒミカ、麗鈴、妙の三人の少女たちは、早くもインド亜大陸の南端を燕丸の船首から望んでいた。緑に溢れていたセイロン島に較べると、こちらは赤茶けた大地が剥き出しになっているのが印象的だ。
 しかし、海岸線に沿って更に北西に進むと、右舷から見える緑は徐々に増えていき、その翌日には再び緑豊かな海岸となった。但し、先のセイロン島の海岸線はなだらかで、砂浜の向こう側に椰子が群生していることが多かったのに対して、こちらの海岸線は複雑に入り組んでおり、その水際にまで椰子やマングローブが生えている。
 マラバール海岸と呼ばれているこの地方は、このような地形を利用して、細い水路がたくさん張り巡らされていた。この地方はこれから雨季に入ろうとしているようで、天気は毎日目まぐるしく変わり、一日に一度は必ず雨が降った。
 この日も午前中は雨だったが、午後にはそれもやんで、雲間からは時々陽が射して来るようになった。彼女たちは水と食料を補給するため、この海岸にある小さな入り江の中に入ることにした。その奥にある比較的大きな水路を出入りする船の数が多かったので、今までの経験からすると、その先にはきっと村か町があるに違いないと予測したからだ。
 いつものように、陸より少し離れた場所に燕丸を停泊させた三人の少女は、伝馬船を下ろしてそこに乗り込むと、その水路の入り口目指して交代で船を漕いで行った。麗鈴が船を漕ぎながら、やや残念そうに言った。
「……ポルトガルの人おらんようじゃけん、……パンは売っとらんと見てええのぅ。」
 左舷の船べりに腰掛けていたヒミカが、苦笑いして言った。
「あんたって、新しい港に入るたびに、いつもパンのこと考えてるのね。」
 櫓を漕ぐのを妙と交替した麗鈴が、右舷の船べりに腰掛けながら微笑んで言った。
「……そうじゃ。あんたは違うんか?」
 ヒミカは言った。
「あたしは、パンだけじゃなくて、ここで通用するお金のことも考えてるよ。もし、エスパニア(スペイン)のお金が使えなければ何を使おうかって……。」
 麗鈴は得意げに言った。
「ほなら、うちとえろう変わらんじゃろうが。うちもパンだけでのうて、どげな魚釣れるんかっちゅうことも考えとるぞ。」
 妙が船を漕ぎながら笑って言った。
「ハハハ!……いずれにせよ重要なことでござる。
……されど、このあたりには堅固な城が見当たらぬし、人々も平和な様子で、みなそれなりに豊かに見えるのぅ……。」
 この当時、この地方では綿織物が盛んであった。また、海岸に沿った細長い平野部の背後には高地が連なっており、そこでは胡椒の栽培も盛んに行なわれていた。そのため、一四九八年にポルトガル人バスコ・ダ・ガマの一行が訪れる遥か以前から、アラブ人や中国人たちが交易のために訪れており、とても賑わっている地域であった。
 やがて水路の入り口に達した伝馬船は、その中へゆっくりと入って行った。両脇の椰子の林のあいだには椰子の葉で屋根を葺いた小さな民家がぽつりぽつりと見え隠れしている。その岸辺には、コーヒー色の肌をした裸の子供たちが立っていて、見慣れぬ船に乗った見慣れぬ服装のお姉さんたちの姿を、みな物珍しそうに見ていた。
 それを見た麗鈴が、嬉しそうに叫んだ。
「キャーッ! 可愛いのぅ!」
 ヒミカも船を漕ぎながら同じように言った。
「可愛いーっ! みんな目がくりっとして!」
 妙が微笑んで手を振ると、子供たちも途端に微笑んで手を振り返し、水路沿いに走って船を追いかけて来た。ヒミカは漕ぐのを麗鈴と交替すると、その子供たちに向かって、手で食べ物を口へ運ぶ仕草をしてから、水路の上流の方を指差し、日本語で尋ねてみた。
「食べ物売ってるとこ、この先にある?」
 すると、その子供たちは一斉に首を横に傾けた。それを見た麗鈴が、船を漕ぎながら残念そうに言った。
「ないようじゃのぅ。」
 その反面ヒミカは嬉しそうに言った。
「ううん、違う違う。あれはどうも『はい』っていう意味みたいよ。」
 妙がやや目を丸くして言った。
「ほう、首を横に傾けることが肯定の仕草とな。所変われば何とやらと申すは真でござるのぅ……。」
 彼女たちは、子供たちに向かって手を振りながら日本語で言った。
「ありがとう!」
 そこから水路を更に三町ほど進むと、次第に両岸の民家の数は多くなり、やがて開けた場所に出た。子供たちが教えてくれた通り、その左岸には小さな市場があった。その岸には木製の船着場(ふなつきば)があり、小さな舟がいくつも繋いである。この近隣の人々が水路伝いに集まって来ているのだ。現代の日本の都会に例えるならば、スーパーマーケットに自転車で乗り付けているようなものだ。
 ヒミカたちは伝馬船をそこに近付けると、船着場の空いている場所に着けた。そして、麗鈴と妙がそこに飛び移り、ヒミカが船首と船尾から投げてよこした綱をそれぞれそこに出ている杭にくくり付けた。ヒミカは積んで来た竹籠三つをそこに上げると、妙の手を借りて船着場の上に上がった。
 椰子の木陰に拵えられているこの市場は小規模ではあったが、それなりの人で賑わっていた。米、芋、豆、香辛料、椰子の実、塩や椰子油などの調味料、河口や海で捕れた新鮮な魚、そして色とりどりの野菜や果物。それらが、あちこちに広げられた露店で売られている。
 船を漕いで来た三人は例によって空腹になっていたので、食べ物のちょっとした臭いにも敏感に反応する。その中の何かにまず引っ張られたのが麗鈴だった。籠を背負ったまま、一人ふらふらと歩いて行く彼女の後ろ姿に向かって妙が声を掛けた。
「これ! 麗鈴! 何処(いずこ)へ参るのじゃ!?」
 麗鈴は振り向いて言った。
「どっからか、うまそうな臭いして来よる。」
 それを聞いた妙とヒミカも、彼女のそばに寄ってくんくんと鼻を利かせた。すると、その二人の鼻もその香りを捉えた。三人はその香りをたどって、いつしか市場を後にしていた。
 水路とは反対側の方に向かって、椰子林の中の道をしばらく歩いて行くと、椰子の葉のあいだに高い建物が見えてきた。近付くにつれて、それは先が平らになった細長い四角錐の塔であることがわかった。その白い石の表面には、細かい彫刻がびっしりと彫られている。
 やがて、その建物の全貌が明らかになった。それは石づくりの塀に囲まれた寺院のようであった。その内部からは、祈りの声と鐘の音が聞こえて来る。そして、先ほどまでしていたうまそうな香りは、どうやらこの中からしているということがわかった。
寺院の門  塀の正面の大きな石の門の上に施されている、たくさんの浮き彫りを何気なく見ていたヒミカが、突然ある一点を指差して叫んだ。
「あっ! あれ、どっかで見たことある!」
 それを見た麗鈴も同じようにして叫んだ。
「うちらん島の、山の入り口にあるんと一緒じゃ!」
 彼女たちが指差した物を見て、妙も感動したように言った。
「真(まこと)でござる! 何とも奇遇(きぐう)なことじゃ!」
 それは、象の頭をして腕が四本ある人の浮き彫りであった。これと同じ姿をした石像が、麗鈴の言った通り瓶ヶ島の山の石段の入り口にも立っている。麗鈴がまた声を上げた。
「あれ! 猿もおったぞ!」
 彼女が指差した門の上の別の箇所には、細長い冠(かんむり)を被った尻尾の長い猿が二本足で立っている浮き彫りがあった。これも先ほどの浮き彫りと同様、瓶ヶ島にある石像とよく似ていた。それを見たヒミカが言った。
「ほんとだー! それじゃこのお寺は、瓶ヶ島の神殿と同じ神様を祭ってるのかしらね?」
 妙が言った。
「そうと見てようござろう。」
 何となくこの場所に親しみを覚えた彼女たちに向かって、門の中から誰かが声を掛けた。
「〇〇〇〇〇。」
 そこには、質素な柄の足首まである長い腰巻をまとった、コーヒー色の肌をした中年の女性が立っていた。現在インド女性の民族衣装となっているサリーは、当時の南インドにはまだなかった。
 ヒミカたち三人は、その女性の言葉の意味を理解することができなかったが、その女性は、美しい顔立ちを穏やかに微笑ませると、右手で食物を口に運ぶ仕草をしてから三人に向かって手招きをした。ヒミカが言った。
「食べ物があるから来なさいって言ってるみたいだよ。……どうしよう?」
 麗鈴が言った。
「お寺ん中じゃけん、物売りとは違うようじゃのぅ。」
 妙が言った。
「悪い者には見えぬゆえ、お言葉に従ごうても良うござろう。」
 三人は恐る恐るその中に入ってみた。その門を潜(くぐ)り抜けるとすぐに、その女性が履物を脱ぐよう、身振り手振りで指示したので、彼女たちは履いていた草鞋(わらじ)を脱いだ。よく見るとその女性も裸足だったし、そこには既に何足かの履物が並んでいる。
 この中庭には石畳がきちんと敷かれており、それはとても綺麗に掃き清められている。外から見えていた白い塔はその一番奥にあった。その前に敷かれた敷き物の上では、数人の老若男女が腰を下ろして食事をしているところだった。ヒミカたち三人が嗅いだうまそうな食べ物の匂いは、正にここから流れて来ていたのである。
 間もなく人々が食べ終わってそこが片付けられると、順番を待っていた次の一団の番だ。ヒミカたち三人は、その中に混ぜてもらうことになったので、背負っていた籠を石畳の上に下ろした。
 彼女たちが他の人たちと共に一列に並んで敷き物の上に座ると、その目の前に大きなバナナの葉を長方形に切ったものが敷かれて水で清められた。これが皿となるのだ。その手前側にまずご飯が盛り付けられ、その上に野菜が入った熱い汁物が掛けられる。
 次にその外側に野菜のドライカレーが何種類か並べられ、右端の方に漬物と小さな素焼きの小皿が置かれた。その赤茶色をした小皿の中には、何やら白い物が入っている。これらの料理には、肉や魚は一切用いられていないようなので、現代風に言うならば、ヴェジタリアン(菜食主義者)料理といったところだろうか。
 皿の左横に添えられた椰子の実の器の中に飲み水が注がれると、地元の人たちが一斉に食べ始めたので、ヒミカたち三人もそれに倣って食べ始めた。フォークや箸などといった道具は一切使わず、料理を右の手でじかにすくって食べるのだ。バンテンでインド系やアラブ系の料理を食べ慣れている妙をはじめ、ヒミカと麗鈴もこのような料理を食べるのが初めてではなかったので、三人とも戸惑うことなくそれを食べることができた。
 バナナの葉の皿の上にご飯やおかずがなくなりかけると、お給仕の人が来て次々と足してくれる。断わらないでいると、満腹なのにお給仕させてしまうことになるので、彼女たちは適当な頃合を見てそれを断わった。
 他の人たちを見ていると、いずれも食事の終わりかけに、漬物の横に置かれていた素焼きの器の中の白い物を、カレーの混ざったご飯にかけて混ぜながら食べている。ヒミカは、自分たちの隣りで食べている人に向かって、その器を指差しながら日本語で尋ねてみた。
「それはなんですか?」
 すると、その意味が通じたようで、その人はにこやかに微笑んで言った。
「〇〇〇、thayir(タイール)。」
 ヒミカは両脇に座っている麗鈴と妙に言った。
「タイールっていうんだって。」
 彼女たち三人も、それに倣って食べてみた。麗鈴が納得したように言った。
「なにやら、酢うて甘うてうまいわ。」
 妙も同じように言った。
「腹が一杯でも、これならまだ食えるぞ。」
 ヒミカは、先ほどの人に向かって尋ねてみた。
「これは、何からできてるんですか?」
 するとその人は、やはりその意味がわかったようで、自分の頭の上に両手を持ち上げると二本の角のようにして言った。
「〇〇〇〇〇。」
 ヒミカは、その恰好を見てすぐにピーンときた。
「なるほど……、牛のお乳からできてるんだ……。」
 現代の日本では、この食べ物をヨーグルトと呼んでいる。
 最後に、左に置かれてある器の水を飲み、その残りの水を使って、食べるのに用いた右手をすすげば食事は終わりだ。
 あっという間のことではあったが、この食事の満足度はかなり大きかった。彼女たちの後ろでは、先ほどの女性がにこやかに立って控えている。美味しいので思わず腹一杯食べてしまったヒミカは、よっこらしょと立ち上がると、その女性に向かって身振り手振りを交えながら日本語で言った。
「御馳走様でした。全部でいくらですか?」
 するとその女性は、真剣な表情になって手を横に振りながら何か言った。
「〇〇〇〇。」
 ヒミカはその意味を、やはりよっこらしょと立ち上がった他の二人に向かって伝えた。
「……どうやら、お金は要らないって言ってるみたいよ。」
 それを聞いた麗鈴は、大きく膨れた腹を摩りながら目を丸くしてこう言った。
「こげにうまいもん、こげにようけ食うて、ただっちゅうことは有り得んじゃろう!」
 妙も腹を摩りながらこう言った。
「もし、そうであったとしたら、このお寺に身どもの気持ちとして、お布施を置いていってはどうじゃ?」
 ヒミカと麗鈴は口々に言った。
「それはいい考えだわ!」
「ええのぅ!」
 ヒミカは、また身振り手振りを交えながら、その女性に向かって日本語で言った。
「それでは、お布施を置いていこうと思います。」
 ヒミカは懐から巾着を出すと、その中から小型のスペイン銀貨三枚を取り出してその女性に手渡した。彼女は、それならばという表情になって、恭(うやうや)しくそれを受け取った。
 日本語ではあるが、三人は気持を込めて言った。
「ごちそうさまでした。」
 今まで彼女たちが座っていた場所には、早くもどこからか数羽の雀が舞い降りて来て、こぼれたご飯などをついばんでいたのだが、籠を背負って帰り掛けた彼女たちがその近くを通っても全く逃げようとしなかった。それを見た彼女たち三人は、意味ありげに顔を見合わせた。ヒミカが確信したように言った。
「やっぱり、瓶ヶ島とおんなじだー!」
 麗鈴が感動したように言った。
「うちらの島に昔住んどった人、ここらの人じゃったんかわからんのぅ!」
 妙が言った。
「少なくとも、この寺院での教えと同じものを奉じておられたと見てよかろう。」
 彼女たちが、人を恐れない小鳥たちの様子に感動していることを知った先ほどの女性は、優しく微笑んでその理由を説明した。
「〇〇〇、ahimsa(アヒンサー)〇〇〇〇〇。」
 ヒミカが他の二人に言った。
「『アヒンサーをしてるから小鳥は逃げないのよ』って言ってるみたいよ。」
 麗鈴が感動したように言った。
「ほならうちらの島も、そのアヒンサーとやらをしちょるっちゅうことになるん?」
 妙も同じように言った。
「そのようでござるのぅ。」
 アヒンサーとは、インドのいくつかの宗教に共通する用語で、日本では「不殺生」というような意味に訳されている。
 履物を履いて寺院を出た彼女たちは、市場へ戻る道すがら口々に言った。
「……ほんにうまい料理じゃったのぅ、椰子の油が香ばしゅうて。」
「香料も効いておるし、豆と野菜も豊富な上にタイールなる物もあるよって、滋養にも富んでおると見えるぞ。」
「自分たちでつくれないかしらね……。」
 やがて、先ほどの市場に戻った彼女たち三人は、通常の食材に加えて先ほどのカレーに入っていた珍しい野菜や香料も仕入れた。
 また、地味なのでそれまで気付かなかったのだが、木の葉で蓋をされた、直径一ほどの赤茶色の素焼きの容器が重ねて置かれているのを見付けたヒミカは、その露店の年配の男性に身振り手振りを交えて尋ねてみた。
「それはなんですか?」
 すると、その男性は微笑んで答えた。
「Thayir。」
 それを聞いた麗鈴と妙は口々に言った。
「やっぱそうじゃったのぅ!」
「購入しようではござらぬか!」
 ヒミカはをそれを三皿買った。
 船着場に戻った彼女たちは、背負っていた買い物籠を下ろすと、それを伝馬船に積み込んだ。そして、杭に結わえてあった縄をほどいて自分たちも船に乗り込むと、水路をもと来た方に引き返した。
 燕丸に戻った彼女たちは、すぐに先ほどの素焼きの容器の中身を確かめたくなった。麗鈴が早速、その中の一つの上に被せてある木の葉に掛けられていた紐をほどきながら言った。
「こりゃ単独で食うてもうまいぞ、きっと。」
 ヒミカが気を利かして、普段ではめったに使うことのない木製の匙(さじ)を船室から三つ持って上がって来た。自分の席に着いたヒミカは、麗鈴と妙に匙を一つずつ手渡して言った。
「それじゃ、早速食べてみましょうか。」
 開封された素焼きの容器の中には、淡いクリーム色をしたヨーグルトが入っている。その表面は鏡のように滑らかだ。
「匙を入れるのが勿体無いようでござる。」
 妙がそう言うと麗鈴が言った。
「どげんしたら牛の乳、こげに固まりよるんじゃろうな?」
 ヒミカもそれを見ながら言った。
「明日、市場へ行って誰かに聞いてみよう。
……それじゃ、頂きまーす。」
 彼女たちはヨーグルトに匙を入れて食べてみた。麗鈴が感動を更に強めて言った。
「……おお! こりゃいける!」
 妙も目を輝かせて言った。
「おお! なにやら美容と健康に良さそうでござる!」
 ヒミカは、それと共に先ほど買ってきた果物に目を移して言った。
「……果物と混ぜると、もっと美味しいかも!」
 彼女たち三人は、それぞれ何種類かの果物の皮を剥いて細かく切り、その容器の中に入れてヨーグルトと混ぜて食べてみた。麗鈴が目を丸くして言った。
「こりゃ最高じゃ!」
 妙は感動して言った。
「……本日は、真(まこと)に多くのものを得た日でござる。」
 ヒミカも同じように言った。
「……そうよね。ご馳走してくれたお寺のことも含めて大きな発見だわ!」
 先ほどの市場では、綿織物と胡椒が他の地域よりも安く売られていたので、彼女たちは翌日それらも仕入れた。

海図6  商品の仕入れと水や物資の補給を終えた燕丸は、その次の日の早朝にはこの海岸から錨を上げた。ここから北北西にあと二日も進めば Goa(ゴア)という大きな港に行き着く。ここには、アジアにおけるポルトガル植民地全土を統括する副王または総督が駐在しており、ローマ教会の大司教座も設置されていた。そのようにして、ポルトガルのアジアにおける一大拠点となっているこの大都市の当時の人口は約二十万。その繁栄振りから「黄金のゴア」とも呼ばれていた。
 しかしこのときは、数日間ずっと北東から風が吹いていたので、その機会を逃すまいと思ったヒミカ、麗鈴、妙の三人は、ゴアには寄らずにまっすぐ西を目指した。その風のお陰で燕丸は、広大なアラビア海を運良く嵐にも遭わず順調に進むことができた。
 その後アデン湾に入った燕丸は、四月なかばにはアデン市の港に入ることができた。
 東南アジアの産物をヨーロッパへ運ぶには、紅海やペルシャ湾を通って一旦陸上げされ、そこから陸路を運ばれて地中海沿岸で再び船に積み替えられるというのが古代からの常道であった。
 その一方、喜望峰を回って直接アジアへ行くことに成功したポルトガルは、その貿易を独占するために、一五一三年から何回かに渡ってこのアデンを攻撃したが、いずれも永続的に占領するには至らなかった。そして、当時イスラム国家の中で最も強大であったオスマン・トルコ帝国が一五三八年からここを領有することとなり、この一帯の制海権も彼らが握っていた。
 入国の手続きは、ポルトガルが支配している港よりも簡単だった。ポルトガルはその勢力範囲内での貿易を独占しようとする目的で、その中で商売をしようとする者に許可証の取得を義務付けていたからだ。その一方、オスマン・トルコの港は、各国の商人に対して広く門戸(もんこ)を開いており、ポルトガル人以外に対しては寛容であった。ポルトガルに対しても最初は特別視していなかったのだが、それがこの国への対抗意識を露わにして、たびたびその実力行使を行ったので、それに対する報復処置をとったまでのことだ。
 この港は貿易にとっても重要であったが、もう一つ重要なことがあった。それは、イスラム教最大の聖地であるマッカー(メッカ)を巡礼する人々のうち、主にアジア方面から海路で来る人々がここへ寄港するということだ。そのため、政治的にはバンテンやアチェと同じような状況にあったのだが、宗教的にはよりイスラム色の強い場所となっていた。
旗  彼女たちはまず帆柱の上に自分たちの旗を掲げると、用意していた長い絹の服で頭と顔までも覆った。イスラム教を信じている人たちは、女性が外出する際に肌と髪の毛を隠すということを、ヒミカは父ハヤテから聞いて知っていたし、イスラム教国バンテン在住の妙もそのことをよく知っていた。そして、ヒミカの母のシャガは、彼女たちが島を船出する前にこう言っていた。
「異国を訪れるなら、自分がその国の神様の教えを信じてはいなくとも、できる限りその国の習慣を尊重し、それに従がうことが道理なのよ。」
 と。
 昼下がりの強い陽射しの中、港に接岸した燕丸の元へ、入国を取り仕切っている役人三人が早速やって来た。いずれも立派な口髭を生やして腰には先端が湾曲した刀を帯びている。
 全身を覆う服で身を包み、そこから手足の先と目だけ出しているヒミカ、麗鈴、妙が、それぞれ竹の籠を背負って岸壁に降り立つと、中央に立っていた年配の役人が陽気に微笑んで言った。
「アハラーン ワ サハラン!」
 ここで使われている言語も、ヒミカたちが初めて耳にするものであった。南インドでも言葉はわからなかったが、そこではなんとか身振り手振りで通じることができた。それは、インド伝来の宗教である仏教が彼女たちにとって比較的身近な存在であったのと、自分たちと同じく米と魚を食べる文化であったことも、その大きな要因だろう。しかし、このアデンでは、宗教も文化も日本のそれとはかなり掛け離れているように感じていた彼女たちだったが、今の言葉は少なくとも親しみを込めた挨拶であるということだけはわかった。
 妙がそれに答えた。
「アハラーン ワ サハラン。」
 バンテンに来るアラビア商人同士が交わしている挨拶によく似ていたので、彼女はそれを真似したのだ。どうやらそれは通じたようだった。その役人はにこやかに頷き、東の空を指差して尋ねた。
「シーン?」
 妙はこの言葉も耳にしたことがある。バンテンのアラビア商人が中国のことを「シン」とか「シーン」とか言っていたのを思い出した彼女は、首を横に振ってポルトガル語で言った。
「ジャポン(日本)。」
 すると、三人の役人は仲間同士で何かを論じ合った。布に開けられた穴から見えている三人の女性の目の形から、最初は中国人と判断されたようだが、そうではないということになったので、彼らは自分たちが持てる知識を総動員してその国を割り出しに掛かったのだ。それは、このあたりでの日本の知名度がまだ低いということを意味している。それでも彼らはある結論に達したようで、再び中央の男がやや確信を込めて尋ねた。
「ヤバン?」
 これには、やはり目だけ出したヒミカが反応した。オランダ語では「Ja」が「ヤ」という発音になって、日本のことを「ヤパン」と言っているということを父から教わったのを思い出した彼女は、この言葉もそれと同じなのだろうと推測したのだ。彼女は頷くと日本語で答えた。
「ええ。」
 すると役人たちは、ごく自然に納得したようだった。どうもここの言葉では、肯定するとき日本語と同じように「エエ」と言えば通じるようだ。
 このようにして遣り取りをしているうちに、いつの間にか入国の手続きが済んでしまったようで、役人たちはそこから引き上げようとしたが、ヒミカは彼らを呼び止めて日本語で尋ねた。
「食べ物売ってるとこ、どこかにありますか?」
 彼女はそう言いながら、例によって右手で食べ物を口へ運ぶ仕草をすると、目の前に差し出した左手のひらをくるっと半回転させた。相手に何かを質問するとき、このようにして手を回転させるということを、彼女はこれまで彼らとした会話の中で覚えてしまったのだ。すると彼らは町のほうを指差して、異口同音(いくどうおん)に言った。
「スーク!」
 どうやら「スーク」という場所にそれがあるようだ。役人たちが行ってしまうと、布の中で麗鈴が言った。
「ここの衆の言葉、身振り手振りが混じっとるけん、わかり易うてええのぅ。」
 同じく布の中で妙が言った。
「挨拶の言葉からして、アラブ語のようでござる。」
 ヒミカが、役人たちが指差していた方向を向いて言った。
「それじゃ、そのスークとやらに行ってみましょうか。」
 こうして彼女たち三人は、港から町へと通じる石畳の通りに入って行った。
 煉瓦造りの倉庫や石造りの寺院などの大きな建物が立ち並ぶ、人通りの多い通りをしばらく歩くと、やがて大きな広場が彼女たちの目の前に現われた。それと同時に、強烈な臭いと喧騒が押し寄せてきた。
 まずその臭いは、南インドの市場のものとはかなり異なっていた。南インドでは新鮮な魚を売ってはいたが、獣の肉は売っていなかった。その一方この市場では、皮を剥いだ羊や山羊を軒先に吊り下げている店が何軒もあるので、そこから発せられる臭いが多く含まれているのであろう。また、今まで寄ったどの市場も、男女の比率は半々か女性が多いくらいであったが、この市場で売り買いしている人のほとんどが男性だった。しかも、母音が多かった南インドの言葉に対して、ここの言葉は子音の割合の方が多く感じられる。そうすると、市場の喧騒の音質も、当然今までのものとはかなり違うことになる。
 ヒミカたち三人の少女は、その異質な世界に気圧(けお)されて一瞬立ち竦(すく)んでしまったが、勇気を出してその中に入って行った。そうしなければ、自分たちが生きるための食料を得ることができないのだから。
 その中に身を投じてしまうと、案外すぐに慣れてしまうもので、彼女たちはやがて自分たちが今最も必要としている物を見付けることができた。ヒミカはその店の人に、大きな麻の袋に入れられて並べられている物の値段を試しにスペイン語で尋ねてみた。
「¿Cuánto es éste?(これはいくらですか?)」
(お使いのOSやフォントによっては、これらの外国語表記の一部が正確に表示されない可能性があります。その際は悪しからず。作者より)
 すると、立派な口髭を生やした店のおじさんは、右手の指をすぼめてそれを何度か上下させて見せた。「ちょっと待て」という意味のようだ。そして、彼は横に立っていた少年に向かって何かを命じた。
 どこかに行ったその少年は、間もなく一人の若い男を連れて戻って来た。まだ二十歳前後と見られるその男は、頭に白い布を被りその上に黒い紐でできた輪を乗せ、このあたりの人が着ているゆったりとした白く長い衣装を身にまとっている。その彼がヒミカに向かって笑顔で尋ねた。
「Parlate veneziano?(あなたはヴェネツィア語を話しますか?)」
 ヴェネツィアというのは、現代の日本ではヴェニスとかベニスとか呼ばれているイタリア北東部の都市で、古くから東洋の産物をヨーロッパに供給するための商業都市として栄えていた。その交易ルートは、先ほども少し述べたように、ポルトガルがアジアに直接出向いて買い付けに行くようになると一旦途絶えてしまったが、ポルトガルのこのあたりでの勢力が弱まってからは復活していた。そのため、当時のこの地域の若い商人がヴェネツィアの言葉を話せるということは、何も不思議なことではなかった。
 イタリアが今のように統一国家になったのは意外に新しく、十九世紀なかば過ぎてからのことなので、この当時はまだ、それぞれの地域や都市が、自治権を持っていたり他国の領土になっていたりしていた。その「他国」で筆頭に上げられるのがスペインであったし、スペイン語もヴェネツィアの言葉も共にラテン語から派生した言語であったので、ヒミカは彼の発したその言葉の意味をその雰囲気で理解することができた。彼女はスペイン語でこう答えた。
「ヴェネツィア語は話せないけど、カスティーリャ語なら話せます。」
 カスティーリャ王国は、イベリア半島のイスラム勢力を追い出してスペインという国を形成する際に大きく貢献した国で、現在のスペイン中央から北部にかけてあった国だ。その公用語のカスティーリャ語がいわゆるスペイン語の元になっている。また、スペインのバスク、カタルーニャ、アンダルシアなどといった地方には、それぞれ独自の言語があるので、当時ではたとえスペイン王国の公用語ではあっても「カスティーリャ語」と言った方が意味がより明確に通じた。ヒミカはそのことを知っていたので、敢えてそのように言ったのである。
 その男性は、ヴェネツィア訛りのスペイン語で丁寧にこう言った。
「私は、スワイスの商人アブドゥール・マイヤーの息子、イブラヒムです。あなたがお望みなら、私はあなたのお買い物のお手伝いをしますよ。」
 スワイスとは、現在日本でスエズと言われている町のことだ。
 彼の口調が紳士的だったので、ヒミカも丁寧に言った。
「私は瓶ヶ島町長の娘で、名をヒミカと言います。あなたのそのお手伝いには、どうお礼をすればいいんですか?」
 イブラヒムは微笑んでこう言った。
「ヒミカさんのお望みの通りでいいです。」
 ヒミカは、やや困ったように言った。
「うーん、『お望み』って言われても……。」
 そして、意を決したようにこう言った。
「それじゃぁ、8分の1レアル差し上げるってことでどうですか?」
 イブラヒムは微笑んで言った。
「いいですよ。」
 ヒミカは気を取り直して言った。
「それではイブラヒムさん、早速この米の値段を聞いて貰えますか?」
「いいですよ。」
 イブラヒムはそう言うと、ここの店主のおじさんと早口で二こと三こと言葉を交わしてから、再びヒミカに向かって言った。
「1 quintal(キンタル)で 11 Reales(レアレス)です。」
1898_1peso_a 1898_1peso_b
 19世紀末にメキシコで発行された1ペソ銀貨。1ペソ=8レアレス。メキシコは、19世紀初期にスペインから独立したが、その後もしばらくスペインの通貨の単位をそのまま用いていた。
<資料提供/瓶ヶ島町役場>
 キンタルとは、当時のヨーロッパで用いられていた重さの単位で、今の単位に換算すると約50キログラムに相当する。レアル、レアレスはスペインやその植民地の通貨の単位で、レアルは単数形、レアレスはその複数形だ。8レアレス銀貨は、直径約4センチで27グラムほどの重さがある。
 彼が今スペイン語で言ったその言葉の意味は、麗鈴と妙にもわかったので、三人の少女は思わず目を丸くして日本語で言ってしまった。
たかーーーいっ!!!
 イブラヒムは、怪訝そうな顔をしてヒミカに尋ねた。
「みなさん今、何とおっしゃったのですか?」
 ヒミカは申し訳なさそうに言った。
「あ、ごめんなさい。余りにも高いので、つい私たちの言葉で言っちゃったのよ。」
 イブラヒムは、店主とまた遣り取りをするとヒミカに言った。
「それなら、10レアレスにするそうです。」
 ヒミカは、また困ったように言った。
「うーん、そういう問題じゃなくって桁(けた)が違うのよねぇ。せめて5レアレスにならないかなぁ……。」
 イブラヒムは頷いて言った。
「わかりました。それでは交渉してみます。」
 イブラヒムは、店主としばらく激しい遣り取りをしていたが、店主はしましに眉間に皺を寄せ、腕を振り回して大声で何か言った。イブラヒムはその言葉を伝えた。
「『そんな値段じゃ仕入れ値にもならないよ!』と言って彼は怒っています。
マラバールやセイロンから来る人はみな、米が高いと文句を言うけど、あなた方も同じなんですね。」
 彼が苦笑いしながらそう言うと、ヒミカは微笑んでこう言った。
「そうよ。だって、ここに来る前はマラバールにいたんだから。」
 イブラヒムは納得した表情になって言った。
「なんだ、そうだったんですか!」
 そして彼は、店の中に並べられている別の大きな麻袋を指差してこう言った。
「それなら米の代わりに小麦粉を買った方がいいですよ。ここの米は遠くから運ばれて来るんでその分割高ですが、小麦は近くでつくられているんで、それほど高くありませんから。」
 ヒミカはそれを見ると、彼に向かってこう尋ねた。
「それじゃ、小麦粉1キンタルでいくらなの?」
 それを店主に尋ねたイブラヒムは、その答えをヒミカに向けて訳した。
「4と2分の1レアレスです。」
 ヒミカは、後ろで控えていた麗鈴と妙に向かって言った。
「そのくらいなら買ってもいいよね?」
 二人が納得したように頷いたので、ヒミカはイブラヒムに向かって言った。
「4レアレスでどうかしら?」
 イブラヒムはそれを店主に伝えて、それに対する店主の返答をヒミカに向かって言った。
「それはできませんが、4と4分の1にすると言っています。」
 ヒミカは真剣な目をして首を横に振ると、こう言った。
「それじゃまだ高いわ。4と16分の1にならないかしら?」
 イブラヒムがそれを店主に伝えると、店主はきっぱりと何か言った。イブラヒムは、ヒミカに向かってそれを訳した。
「『4と8分の1、最終価格』だそうです。」
 ヒミカは仕方なさそうに言った。
「わかったわ。それで1キンタル買いましょう。」
 彼女は服のポケットの中から巾着を取り出すと、その中から4レアレス銀貨1枚と、8分の1レアル銅貨1枚を取り出して、それを店主に手渡した。
 このようにして三人の少女たちは、イブラヒム青年の助けを借り、この言葉の全く通じない市場でも無事に買い物を済ませることができた。
 荷物運搬用のロバまで借りたヒミカたちは、買込んだたくさんの荷物を港まで運ぶと、イブラヒムにも手伝ってもらってそれらを燕丸に積み込んだ。岸壁でロバをイブラヒムに返すと、ヒミカは真剣な目をして言った。
「イブラヒムさん、あなたのお陰で私たちはとても助かりました。お礼は8分の1レアルって言ったけど、ここまでしてもらったらそれでは少ないわ。これでもまだ少ないかも知れないけど……。」
 彼女はそう言って1レアル銀貨を彼に手渡した。イブラヒムはそれを受け取ると、やや真剣な表情になって言った。
「ヒミカさん、あなたはとても誠実な人だ。」
 ヒミカは、布の中で頬を染めながらこのように言った。
「いえ、これはあたしたち三人の考えなんです。」
 それを聞いたイブラヒムは、こう言い直した。
「あなたたちはいい人たちだ……。」
 そして彼は、荷物を積み込んだ燕丸に目配せするとこう言った。
「あなたたちさえ良ければ、スワイスまでお送りしますよ。これから先、言葉が通じないだけでなく、女性だけだと何かと危険も多いので。」
 彼女たちがこれからヨーロッパまで行くということを、彼は市場から港へ来る道々聞いていたので、そのように提案したのだ。
 それを聞いたヒミカは、目を丸くしてこう言った。
「え!? そんなに長い道のりを送ってもらってもいいんですか!?」
 イブラヒムは微笑んで言った。
「心配しなくても大丈夫です、お礼は要りません。私は父と共に自分の家に帰るだけですから、お互いの立場上は旅の道連れということになります。」
 ヒミカがこの言葉を麗鈴と妙に向かって訳すと、二人とも嬉しそうに言った。
「そりゃ助かるわ!」
「有り難きことでござる!」
 イブラヒムは言った。
「但し、私たちがこの地で仕事を終えるまで待って貰えますか? 何日かすると、荷物を満載した東からの船が、この港に入って来るはずです。その買い付けが終われば、あとは北に向けて船を出すだけですから。」
「ええ、それなら待ちます。」
 素直にそう言ったヒミカだったが、今度は興味深そうに尋ねた。
「何を買うんですか?」
 イブラヒムは遠い水平線を眺めると、一つ一つの品々を思い浮かべるようにしてこう言った。
「……モルッカの香料、……中国の絹、……マラバールの胡椒、……グジャラートの綿織物。」
 それを聞いた途端、ヒミカは嬉しそうにこう言った。
「あら! 胡椒と綿織物なら、あたしたちも持ってるわよ!」
 それを聞いたイブラヒムは真剣な表情になると、やや声をひそめてこう言った。
「ヒミカさん。それはまだ大事に持っていた方がいいですよ。ヴェネツィアの商人には高い値で売れるので。」
 ヒミカは少し考えてから、このように言ってそれに同意した。
「……なるほど、そりゃそうよね。」
 もしイブラヒムがヒミカの商品をこの地の相場で買い取り、それをヨーロッパから来る商人に売れば、彼は確実に儲かることだろう。しかし彼がそれをせずに、部外者であるヒミカに対してそう助言したということは、彼がヒミカたちを客や商売敵(しょうばいがたき)としてではなく、少なくとも友人かそれと同等の立場として扱っているということになる。
 そう思ったヒミカは、麗鈴と妙に向かってこう言った。
「ねえねえ、二人とも。イブラヒムさんが仕事の船を待ってるあいだもし暇なら、ここの言葉を教えに来て貰おうか?」
 それを聞いた二人は、目を輝かせて言った。
「ええのぅ!」
「妙案じゃ!」
 ヒミカはイブラヒムに向かって、やや遠慮がちな口調のスペイン語でこう言った。
「イブラヒムさん、一つお願いがあるんですが、言ってもいいですか?」
 イブラヒムは軽く微笑むと、ヴェネツィア訛りのスペイン語で答えた。
「どうぞ、言って下さい。」
「あのー、もしあなたに自由な時間があれば、あたしたちにこの地の言葉を教えて欲しいんです、この船で。授業料はきちんと払いますから。」
 ヒミカのその言葉を聞いたイブラヒムは嬉しそうに言った。
「もちろんいいです、明日からでも。授業料は要りません。その代わり、その都度(つど)昼食をご馳走して下さいよ。あなたの国の料理でもいい。」
 ヒミカは目を輝かせて言った。
「はい、わかりました! それではよろしくお願いします!」
 こうして三人の少女たちは、翌日からアラビア語を習うこととなった。
 岸壁でイブラヒムと別れた三人の少女たちは燕丸に乗り込むと、少し早いが夕食の支度に取り掛かることにした。
 小麦粉が小分けして入っている麻の袋を見て妙が言った。
「しかし、米がないというのは何やら寂しゅうござるのぅ……。」
 楽天家の麗鈴は明るく言った。
「これはこれで、またうまいもんじゃよ。」
 妙は彼女に尋ねた。
「然(しか)らばお主、いかにして連日飽くことなく、これを食するのじゃ?」
 麗鈴はニコニコしてそれに答えた。
「そら、なんちゅうてもまず、うどんじゃろう。」
 ヒミカも嬉しそうに言った。
「そうそう!」
 瀬戸内海沿岸各地の食文化の良いとこ取りをしたような瓶ヶ島の食卓で、うどんは欠かせない食材となっている。一日に一度はこれを食べないと気が済まぬという人もいるほどだ。その影響を受けている妙も、やや嬉しそうになってこう言った。
「なるほど……。そういう手があったのぅ。」
 麗鈴が言った。
「そうじゃ。ほんで、パンもうちらで焼いたらええんじゃろうが!」
 そう言って彼女が舌なめずりして見せたので、他の二人は大笑いした。

 その夜、ヒミカと麗鈴と妙の三人は、甲板の上に置かれた食卓を囲んで座り、いつものように夕食を食べ始めた。しかし、ランプの揺れる明かりで照らされた三人の表情が、なぜかちょっと沈んでいる。どうやら、思ったような料理がつくれなかったようだ。
 茹で立ての釜揚げうどんを右手の箸で取り、左手に持った小鉢のたれに付けて食べてみたヒミカが言った。
「……うん、これはこれでいけるじゃないの。別の食べ物だと思えばいいのよ。」
 昆布も鰹節も醤油もここでは手に入らないので、マラバール風のカレーをつくり、三人ともそれを付けながらうどんを食べているのだ。ココナッツ風味のカレー釜揚げうどんといったところだろうか。
「……左様。」
 一応それに同意した妙ではあったが、しばらくすると、やや嬉しそうにこう言った。
「……見た目には多少抵抗がござったが、食してみれば至って美味。」
 しかし、麗鈴は珍しくしょんぼりしてこう言った。
「それはええが、ミカエラからパンのつくり方教わっとりゃぁええかったのぅ……。」
 彼女の目の前には、大きな煎餅のような丸く平たい物が何枚か皿に重ねてある。どうやら彼女は、塩水で練った小麦粉を醗酵させずにそのまま焼いてしまったようだ。ヒミカがそれを一枚手に取ると、慰めるようにこう言った。
「でも、見た目は美味しそうじゃないの。どれ……。」
 彼女は、それを少し齧(かじ)ってみた。しばらくそれを噛んでいたヒミカは、やがて嬉しそうな目になってこのように言った。
「……パンとは違うけど美味しいよ、これ!」
 妙もそれを一枚手に取って食べると、感動したように言った。
「……中までしっかり火が通っておるゆえ、美味でござる。」
 それらの言葉に慰められた麗鈴も、一枚手に取って食べてみた。すると、先ほどよりは少し明るい声になって言った。
「……おぅ、膨らんじゃおらんが、これはこれで食えんことないのぅ……。」
 間もなく、そのパンもどきにカレーを付けて食べ始めた三人は、途端に元気になった。麗鈴が、やや興奮して言った。
「やっぱしうまいわ。これ!」
 妙も同じように言った。
「うどんにも合うしパンにも合う、このマラバールの料理のお陰じゃ!」
 ヒミカも嬉しそうに言った。
「香料たくさん仕入れといて良かったね。」
 ある程度空腹が満たされると、麗鈴が突然話題を変えた。
「……そりゃそうと、あのイブラヒムさんて、男前(おとこまえ)じゃったのぅ……。」
 妙は頬を染めて言った。
「左様。鼻が高うて整った顔立ちをしてござった……。」
 ヒミカが二人に向かって、からかうような口調で言った。
「あんたたち、もしかして好きになったとか!?」
 それを聞いた麗鈴は、ハッと気付くと毅然とした口調で言った。
「う、うちにはアキ兄ちゃんがおるけん、そげなことない!」
 妙も一瞬戸惑ったが、きっぱりと言った。
「……せ、拙者二股は掛けぬ主義。アキ殿お一人以外に男はござらぬ!」
 態勢を立て直した麗鈴が、ここで反撃に出た。
「ヒミカ。そう言うあんたこそ、イブラヒムさんが『スワイスまで送る』言いんさったとき、えらぁ嬉しげな目になっとったじゃろうが!」
 妙も同じように言った。
「左様。更に、言葉をお教え下さることになったときの、あの喜びようは尋常(じんじょう)ではなかったぞ!」
 ヒミカは頬を染めて言った。
「そりゃそうでしょう! どっちも有り難いことなんだもん。」
 今度は麗鈴がからかうように言った。
「有り難いのは、うちらにしても一緒じゃが、今のあんた顔に描いてあるぞ。」
 ヒミカが怪訝そうに聞き直した。
「え?」
 麗鈴は苦笑いして言った。
「『好き』て、顔に書いてある言うとるんじゃがな!」
 自分が知らぬ間に頬を染めていることに気付いたヒミカは、慌てて顔をランプから遠ざけると、食べ終わった食器類を片付けながら言った。
「……そ、それは……、『親切な人だな』って思ってるだけよ。」
 妙も食卓の上を片付け始めると、嬉しそうに言った。
「春でござる! 麗鈴! ヒミカに春が参ったぞ!」
 麗鈴も片付けを始めると、やはり嬉しそうに言った。
「あんたなら言葉通じるけん、あの人とは、うまいこといくじゃろう。」
 ヒミカは眉を寄せて言った。
「やめてよ、二人とも! そんなんじゃないんだから!」

 その翌日の朝、まだ涼しいうちにイブラヒム青年が訪れた。岸壁に出迎えていたヒミカ、麗鈴、妙の三人の少女に向かって彼はスペイン語で挨拶した。
「Buenos dias.(おはようございます)」
 燕丸は自宅と同じなので、髪の毛を布で覆ってはいるが顔は出している彼女たち三人も、口を揃えてスペイン語で挨拶を返した。
「Buenos dias.」
 三人を代表して、ヒミカがその続きをスペイン語で言った。
「イブラヒムさん、よく来て下さいました。さあ、上がって下さい……。」
 燕丸の船べりを乗り越えて船に上がったイブラヒムは、履いていた革のサンダルをそこで脱ぐと、帆柱に掛けられている日除けの下の勉強机兼食卓に案内された。いつもならこの上には、食べかけのパン、飲みかけの茶が入った湯呑み、櫛や手鏡、硯(すずり)や筆や海図などといった、ありとあらゆる物が散乱しているのだが、今朝は珍しくきれいに片付けられている。ヒミカは、その周囲に敷かれた敷き物の一つに座るよう彼に勧めた。
「さ、どうぞ座って下さい。」
「ありがとうございます。」
 彼はそう言うと、そこに慣れた様子で胡坐をかいて座った。どうやらその点、日本人と似たような習慣のようだった。麗鈴が湯飲みに茶を入れると、それを彼に勧めながら、おしとやかな口調のポルトガル語で言った。
「どうぞ……。」
 イブラヒムはそれを受け取りながら尋ねた。
「お茶ですか?」
 麗鈴は微笑んでそれに答えた。
「Sim.(はい。)」
 イブラヒムも微笑むと、ヴェネツィア訛りのスペイン語でこう言った。
「それは貴重な物を。ありがとうございます。」
 それを聞いたヒミカが、スペイン語で怪訝そうに尋ねた。
「お茶が貴重というと……、あなたはいつも何を飲んでるんですか?」
 イブラヒムはそれに答えた。
「ここの言葉で、『カファ』と言う飲み物です。」
 ヒミカは更に尋ねた。
「それは、どんな飲み物なんですか?」
 彼は笑って言った。
「ハハハ、言葉で説明を聞くよりも、実際に飲んでみませんか?」
 彼は立ち上がって片手でちょっと待ってという仕草をすると、岸壁側の船べりまで行って、たまたまそこを通りかかった一人の少年に向かって何か言った。するとその少年は、それを承諾したように頷くと、どこかへ去って行った。
 しばらくすると、その少年が何かを持って戻って来た。それを船べり越しに受け取ったイブラヒムは、少年に何枚かの銅貨を手渡すと、少年は微笑んで立ち去った。どうやら、通り掛かりの少年にお使いを頼んで、その代金と共にお駄賃を渡したようだ。
 食卓に戻って来たイブラヒムは、先ほど少年から受け取ったものをその横の甲板の上に置いた。それは、銅の針金で作られている岡持ちのようなもので、彼はその中に入っている素焼きの湯呑み四つを取り出して一旦食卓の上に置くと自分の席に再び座り、三人の少女にそれを一つ一つ勧めながら言った。
「さあ、どうぞ。熱いうちに召し上がれ。」
 ヒミカたち三人は、自分の目の前に置かれた湯気の立っている湯飲みを、各自手に取って中を覗き込んでみた。そこに見えたものは、今まで見たことのない墨を少し薄めたような液体だった。しかも、その湯気は焦げたような匂いがしているので、三人は不安げにイブラヒムを見た。すると彼は、さもうまそうにそれをすすって飲んでいるではないか。
 勇気を出した麗鈴が、まず一口それをすすってみた。彼女は、おでこに皺を寄せながら日本語でこう言った。
「……苦うて酢うて……、何とも言えん味じゃ。」
 それを見た他の二人の少女も、恐る恐る自分が持っているそれをすすってみた。妙が言った。
「……うーん、不思議な味でござる……。」
 コーヒーに砂糖やミルクを入れる習慣は、この当時まだなかった。
 イブラヒムが、自分の器の中を指差して言った。
「上澄みだけを飲んで、下に沈んでいるものは残して下さいね。」
 布でコーヒーの粉を濾す方法が発明されたのは、これから百年以上も後のフランスにおいてであったし、アラブやトルコでは現在でも濾さないで飲む伝統的な習慣がある。そして、その底に沈んでいる澱(おり)の状態によって占いをすることもある。日本では茶柱が立つと縁起が良いと言われるが、そのようなことをもっと複雑にしたようなものだ。
 コーヒーを飲み終えたイブラヒムは、その占いをせず早速本題に入った。
「正式なアラブ語は難しいですが、言葉を並べるだけでもなんとか通じるのがアラブ語の話し言葉の特徴です。そうすると、カスティーリャ語より簡単かもしれません。」
 ヒミカがこれを麗鈴と妙のために日本語に訳すと、彼女たちは真剣な表情になって頷いた。イブラヒムは話しを続けた。
「……ここアデンの言葉と、スワイスの言葉、少し違います。丁度、ヴェネツィアの言葉とカスティーリャの言葉が違うように。」
 ヒミカが言った。
「こまかいとこは違うけど、大筋ではなんとか通じると?」
 イブラヒムは頷いて言った。
「そうです。あなたがた、これからスワイスへ行きます。だから私は、そちらの言葉を教えます。」
 ヒミカがこれを訳すと、二人の少女はまた頷いた。
 こうしてイブラヒムは、アラビア語独特の発音の仕方から始まって、彼女たちに挨拶の仕方、「はい」「いいえ」という返答の仕方、そして百までの数の数え方を教えていった。最初からあまり詰め込むと、覚えられるものがかえって覚えられなくなってしまう。二時間ほどでそれを切り上げると、イブラヒムはモスクへ行くと言って一旦船を降りたので、彼女たちはそのあいだに昼食の準備をすることにした。
 彼がイスラム教徒であることを知っている彼女たちは、そのことに対して配慮することを忘れなかった。そもそも、この町の市場には豚肉の姿は皆無であったし、動物の肉を売っている者はみなイスラム教徒のようだったので、それらを使用する限り全く問題はないはずだ。
 昼食は昨夜とほぼ同じもので、それに今朝市場で仕入れた鶏肉を使った串焼きが加わった。現代の日本に住んでいる人には信じられないことだろうが、インド以西のアジアでもっとも高級な肉は、牛肉ではなく鶏肉である。ヒミカたち三人は、それで先生をもてなすことにしたのだ。
 祈りから帰って来たイブラヒムは、彼にとって珍しいその手料理を食べながら、今まで自分が経験した様々な航海の話しを彼女たちに聞かせた。地中海沿岸やアフリカ東海岸の珍しい風物などを題材にしたものだ。
 その中でヒミカの印象に最も強く残ったのが、アフリカ内陸部に住んでいるという恐ろしいバッタの話しだった。それは何年かおきに大発生し、砂漠を越えて人の住む場所にやって来る。そして、植物という植物の全てを食い尽くしてしまうというのだ。もちろん畑の作物もその例を免れず、この虫が飛来した後、そこに住む人々は、飢餓のため死に追い遣られるのだそうだ。
 イブラヒムはこのような話しをスペイン語で披露するのだが、彼はその中に先ほど教えたアラビア語の単語を何度も繰り返して混ぜた。初めはヒミカの通訳を介して聞いていた麗鈴と妙でも、そのアラビア語の部分だけは通訳なしで直接理解できるようになる。一見遊んでいるようだが、彼はここでもちゃんと言葉を教えていたのである。このような機知に富んだ言葉の教え方は、彼も誰かから外国語を教わった際に学んだのだろう。
 歓談を終えたイブラヒムは、午後二時頃には帰って行った。岸壁で彼を見送った三人の少女たちは、船に戻って昼食の後片付けをしながら口々に言った。
「ほんに、ええ人じゃ。」
 と麗鈴。
「知識と教養が豊かでござる。」
 と妙。
「世界の様々な人と商(あきな)いを通じてお付き合いしていおられるからよ、きっと。」
 ヒミカがそう言うと麗鈴が言った。
「うちらも、見習わないけんのぅ……。
そりゃそうと、アラビ(アラビア語)て、言葉の並びは北京語とよう似とるけん、うちには覚え易いわ。」
 ヒミカが微笑んで言った。
「『あんた(あなた)』っていう意味のことを『エンタ』って言ったりして、あたしたちの言葉とも似てるのがあったしね。」
 妙が言った。
「単語を覚えるだけでも取り敢えず話せるようになるところが、またよろしゅうござる。」
 その後三日もすると、ヒミカと麗鈴と妙の三人は、自分たちだけで買い物をすることができるほどアラビア語を話せるようになっていた。
 五日目の夕方、三艘の大きな船が荷物を満載してこの港に入って来た。港で働く人々の様子からして、それはこの町にとって多大な利益をもたらすもののようであった。
 その翌日、珍しく早朝に燕丸を訪れたイブラヒムは、「今日は朝から買い付けの仕事になるから、言葉を教えには来れない。明日朝には出港するので、今日中にその準備をしておくように。」ということだけを言い残して帰った。そのためヒミカたちは、野菜や果物を買い揃えるために市場へと赴いた。
 市場の雑踏の中を歩きながら、嗜好品を担当している麗鈴がヒミカに言った。
「茶の在庫が少のうなっちょるが、どげんする? あの『カファ』っちゅうもんに変えてみるか?」
 ヒミカはそれに答えた。
「そうね……。こっから先、明国の人のお店はもうなさそうだし、そうするとお茶は手に入らなくなるからね。思い切ってそうしてみようか?」
 妙が言った。
「拙者、あれ以来毎朝カファを飲まずにはいられなくなっておったゆえ、丁度そう進言しようと思うておったところでござった。」
 こうして彼女たちは、かなりまとまった量の煎ったコーヒー豆を仕入れることとなった。
 その翌日の早朝、アデン港の岸壁の上で、ヒミカと麗鈴と妙の三人は、出港に先立ちイブラヒムの父と初めて対面した。息子が細身で長身であるのに対し、父のアブドゥールは背はあまり高くなく、恰幅の良い体付きをしているが、やはり息子と同じような、ゆったりとした白い服を身に纏(まと)っている。
 ヒミカたちも同じような長い服に身を包んでいるが、女性なので顔と髪を覆って目だけ出している。一同がお互いに挨拶を済ませると、アブドゥールはヒミカたち三人に向かって微笑み、アラビア語で何か言った。イブラヒムがそれをアラビア語交じりのスペイン語で言った。
「『途中、浅瀬の多い海域を通りますが、私たちの船に着いて来れば心配いりません。』と言っています。
 それに対して三人の少女はアラビア語で礼を述べた。
「シュクラン。(ありがとうございます。)」
 彼らはみなそれぞれ船に乗り込み、マイヤー父子の船に続いて燕丸が錨を上げると、二艘の船は共に帆を張ってアデン港を後にした。マイヤー父子の船は燕丸と同じような三角帆を張っているが、その帆も船体も燕丸の十倍ほどの大きさだ。その分乗組員の数も多い。
 港の沖へ出た二艘の船は、マイヤー父子の船を先頭にして一路西へと向かった。
海図6  風向きが良かったので、その翌日の夕方には、二艘の船はバブ・エル・マンデブ海峡を無事通り抜けることができた。ここから先の海は、西にアフリカ大陸、東にアラビア半島という広大な陸地に挟まれた細長い形をしており、水中に生育する藻類(そうるい)のせいで海水が赤く見えることがあるため「紅海」と呼ばれている。細長いとは言っても、広いところでは幅が200km以上もあるので、その真ん中を航行していれば陸地はほとんど見えない。しかし、イスラム教最大の聖地であるマッカー(メッカ)が近いこともあり、途中で見掛ける船の数は多かった。
 二艘の船は、その海の上を北西に向かって進み、途中風待ちをしたために三週間ほど掛けて目的地のスワイスに着いた。この港も、先のアデンと同様オスマン・トルコの管轄するところとなっている。
 例によって長い衣服に身を包み目だけ出しているヒミカたち三人の少女は、入港の手続きを済ませると、夕暮れの岸壁の上でマイヤー父子に礼を述べた。
「あなた方のお陰で、無事この海を乗り切ることができました。シュクラン!」
 三人を代表してスペイン語でそう言ったヒミカだったが、最後の「ありがとうございます!」という言葉だけはアラビア語で言った。それに対して父子は微笑むと、口を揃えて言った。
「アフワン(どういたしまして)。」
 イブラヒムが例によって、アラビア語交じりのスペイン語で言った。
地図8 「ここからまず陸路でカーヒラに向かいなさい。そこからは、ニル川を下ってイスカンダリーヤへ行く船が数多く出ています。イスカンダリーヤからは、ヴェネツィアをはじめ、各地へ行く船が出ています。」
 カーヒラとはアラビア語で、現在のエジプトの首都カイロ、ニル川とはナイル川、イスカンダリーヤとはアレキサンドリアのことだ。ヒミカは微笑んで言った。
「この町には象はいないんですか?」
「え!?」
 それまでにこやかに微笑んでいたイブラヒムの目が点になった。誰だって突然こんな質問をされれば、そのようになって当たり前だ。ヒミカは、自分がしたその唐突な質問に対する説明をした。
「……私たちは、私たちの船を車に乗せてカーヒラまで運びたいんです。象にならそれを引っ張れるだろうと思って……。」
 それを聞いたイブラヒムは、しばらく何か考えていたが、横に立っていた父親と早口のアラビア語で何か話し合ってから、ヒミカに向かってアラビア語交じりのスペイン語でこのように言った。
「象はもっとずっと南、ヌビアの地の向こうに行かなければいません。このあたりで物を運ぶのには、ジャマルを使っています。それを何頭かつなげば、それが可能になるでしょう。父の友人には車大工も商隊の隊長もいるので、彼らに頼めばすぐにでもそれらを手配してくれるだろうと父が言っています。」
 それを聞いたヒミカは怪訝そうに尋ねた。
「ジャマル……?」
 気を取り直したイブラヒムは、再び微笑んで言った。
「そう。『砂漠の船』と言われている動物です。」
 大海原を走る船の上で産まれ、その後ずっと熱帯の島で育ったヒミカなので、この動物を知らなくても仕方がない。
キャラバン  ラクダは乾燥した気候の中で生きることに特化した哺乳動物だ。背中の大きな瘤の中には脂肪が蓄えられており、それは降り注ぐ強い太陽光線に対する断熱材の役割を果たしている。また長期間の絶食の際には、ここから養分を補給することができるようにもなっている。そして、血液の中に多量の水分を蓄えられるようになっているこの動物は、他の哺乳類と較べて長期間水を飲まなくても過ごすことができる。そのため、砂漠の移動には欠かせない乗り物として古くから用いられてきた。イブラヒムが言っているのはそのことだ。
 このラクダには主に二種類あって、中央アジアの砂漠地帯にはフタコブラクダが、そしてここアラブから北アフリカにかけては、それよりも体が大きいヒトコブラクダが分布している。そのため、この界隈で目にするラクダはみなヒトコブラクダだ。
 ヒミカはイブラヒムとの遣り取りを麗鈴と妙のために訳してから、こう付け加えた。
「……それなら象じゃなくて、そのジャマルっていうのでもいいよね?」
 妙が言った。
「それはもしや、駱駝(ラクダ)のことではござらぬか? いずれにせよ、この地の気候に最も適した生き物に牽かせるのが道理であろう。」
 麗鈴が言った。
「『砂漠の船』とは頼もしいが、数多い分、高(たこ)うつくんちがうか?」
 それを聞いたヒミカは、イブラヒムに向かってアラビア語で尋ねた。
「それには、いくら掛かるんですか?」
 その質問には父のアブドゥラーが答えた。
「〇〇〇〇2〇〇〇、〇〇〇〇8ジャマルと1ジャマル〇〇〇、3金貨〇〇、〇〇〇〇〇〇〇2金貨。」
 ヒミカにはわからない部分があるだろうと配慮して、イブラヒムがそれを訳した。
「石運び用の大きな車2台と、それらを牽くジャマルが8頭とジャマル使い1人で金貨3枚ですが、友達価格で金貨2枚にするそうです。」
 それを聞いたヒミカは、イブラヒムに向かって困ったようにアラビア語交じりのスペイン語で言った。
「友達価格にしてくれるのはありがたいことですが、これからの旅費も要ることだし、それだけのお金は掛けられません。」
 イブラヒムアラビア語で問うた。
「それなら、いくら掛けられるんですか?」
「金貨1枚分のエスパニア銀貨です。」
 ヒミカがアラビア語でそう答えると、父子は二言三言何かを論じ合ったが、すぐにイブラヒムがその結論をアラビア語交じりのスペイン語で言った。
「それでは、その銀貨を前払いして残りはエウロペの帰りに払うのでも構いませんよ。但し私たちの決まりによって、たとえ友達と言えども、その分の利子を頂くことになりますけど。」
 その言葉をヒミカが訳すと、麗鈴と妙は目を丸くして口々に言った。
「そら助かるわ! エウロペで稼げば、利子くらいどうにでもなるけん。」
「有り難きことでござる!」
 ヒミカは、マイヤー父子に向かってアラビア語でこのように言った。
「それでは、そうさせて下さい。」
 微笑んで頷いた父子に向かって、三人の少女たちは目を輝かせて礼を言った。
「シュクラン!」
 こうしてヒミカと麗鈴と妙は、今回の旅で初めてとなる陸路を行くこととなった。
 その翌日アブドゥラーは、白鷹丸を載せられるような車の手配と、それを牽かせるラクダの手配をしに出かけた。
 それを待つあいだ、友人からラクダ一頭を借りてきた息子のイブラヒムは、その扱い方をヒミカたちに教えることにした。ラクダ使いを一人雇えば済むことなのだが、少しでも経費を安く押さえたいというヒミカたちの要望に応じて、そのようにすることにしたのだ。妙が馬の扱い方なら心得ていたので、彼女がラクダを担当することになった。
 その日の午後には、二台の大きな荷車が八頭のラクダによって港に運ばれてきた。大勢の見物人が見守る中、燕丸が大型のクレーンによって海から吊り上げられ、岸壁の上の荷車の上に下ろされた。荷車の上部は、燕丸の船底がきちんと収まるように改造されている。そして荷車と燕丸は太い綱で巻かれ、がっちりと固定された。
 それを見守っていた人々は互いに噂をし合った。
「どこの船だい?」
「カメガシマだってよ。」
「カメガシマ?」
「そうそう。東の果ての海にあるんだってさ。」
「中国か?」
「いや、そのずっと南だってよ。」
「マラカの近くか?」
「そのまたずっと東だってさ。」
「それにしても、船をわざわざ車で運ぶなんて、よっぽどあの船が気に入ってるんだねぇ……。」
 水や食料などを荷車の上の燕丸に積み込んだ、ヒミカ、麗鈴、妙の三人は、その日の夕方マイヤー父子の家に赴き、今回のお礼と別れの挨拶を述べた。玄関に出迎えていた父子は、上がって夕食を食べていくように勧めたが、彼女たちは「明日の準備があるから」と言って、それを鄭重に断わった。
 イブラヒムは、ヒミカに一冊の本を手渡して言った。
「これには、カーヒラからイスカンダリーヤへ行くために必要な地図が書かれています。その中には、川の浅瀬に関するものも含まれています。どうぞ、お役立て下さい。」
 ヒミカはそれを受け取って言った。
「シュクラン。」
 イブラヒムは続けて言った。
「砂漠では、朝と夕方、そして月の明るい夜に進みなさい。陽射しの強い昼間はオアシスで休むのです。決して無理をしないように。」
 ヒミカは改めて礼を述べた。
「いろいろと教えて下さって、本当にありがとうございました。」
 イブラヒムはヒミカの目を見詰めると、真剣な表情で言った。
「道中くれぐれも気を付けて。」
 ヒミカは、その目に吸い寄せられるようにして答えた。
「……はい……」

ハッ! ハッ!
 まだ星が出ている早朝、鋭い掛け声がスエズの港に響いた。その途端、岸壁に座っていた八頭のラクダが薄明りの中で一斉に立ち上がった。四頭ずつ縦二列に繋がれたラクダの左列先頭には麗鈴が、そのすぐ後ろにはヒミカが乗っており、妙はラクダ用の短い鞭を使い、さかんにラクダたちの尻を叩いて回っている。
 やがて、ゴトンゴトンという音がして、燕丸を乗せた二台の荷車が、石畳の上をゆっくりと町の方に向かって動き出した。このようにして一旦動き出してしまえば、障害物がない限り、車軸にたっぷりと油が注された車輪は快調に回る。
 長い服を身にまとって目だけ出している妙は、右列先頭のラクダにヒラリと飛び乗って言った。
「いよいよ出発でござる!」
 彼女と同じようないでたちの麗鈴とヒミカは、それぞれ真剣な眼差しをして頷いた。
 まだ人通りのまばらな市街地に入った荷車は、やがて延々西へと続いている広い街道に出た。夜明けとともに近くのモスクの尖塔からは、独特の節回しの祈りの声が聞こえて来た。
道  スワイス(スエズ)からカーヒラ(カイロ)までの100km 余りの区間は、古代ローマの時代から世界で最も交通量の多い地域の一つであり、その街道は馬車を通すために石や煉瓦などで舗装されていた。その設備は、それから千数百年後のこの時代でも、まだ維持されていたのであろう。いや、維持されていなければならないのだ。そうしなければ、燕丸を積んだ荷車の車輪はたちまち砂にめり込んでしまい、この物語も先へ進めなくなってしまうのだから。
 スワイス市街を抜ける頃には、彼女たちの背後の空がかなり明かるくなり、間もなく街をシルエットにして真っ赤な太陽が昇ってきた。顔を覆っていた布を取り去った麗鈴は、持っていた袋の中から昨夜焼いておいたパンを三枚取り出すと、妙とヒミカに一枚ずつ手渡し、自分は残りの一枚に齧り付いてから、口をもぐもぐさせてこう言った。
「……ラクダて、歩く速さは牛と変わらんが、……一度歩けば勝手に進んでくれよるけんええのぅ。楽だ! 楽だ!」
 同じように顔を露わにした妙とヒミカもパンを食べながら、その駄洒落を笑った。
 妙が感心したように言った。
「……港を出るまでは、向きを指示してやらねばならなかったが、この道に入ってからは、何もせずとも勝手に正しい方に向かって歩いて行くぞ。」
 ヒミカが言った。
「もう何度も同じようにしてこの道を歩いてるから、自分たちがどこへ行くのか、ちゃんとわかってるのよ、きっと。」
 麗鈴が言った。
「賢い生きもんじゃ。」
 陽が高くなってくるに従がって、暑さも増してくる。今までずっと海の上を旅してきた彼女たちにとって、このような暑さは耐えがたいものであった。麗鈴が扇子(せんす)で顔を激しく扇ぎながら言った。
「う~暑、暑。こら堪らんわ。」
 妙も同じようにして言った。
「扇子の風からして、そもそも熱うござる。」
 ヒミカは、やや慌てたようになって言った。
「そうそう! 『風が熱くなってきたら口と鼻を布で覆いなさい』ってイブラヒムさんが言ってたわ!」
 麗鈴と妙は後ろを振り返ると、ほぼ同時に尋ねた。
「なしてじゃ?」
「なぜでござるか?」
 ヒミカはそれに答えた。
「体よりも熱い風を吸い込んでると、そのうち内蔵をやられて死ぬんだって。」
 三人は慌てて、再び布で顔を覆った。
 それから間もなくして、前方を指差しながら麗鈴が叫んだ。
島じゃ! 島が見えたぞ!
 その先には確かに緑色の小さな点が見えている。この状況で彼女がそれを思わず「島」と言ってしまったのは、むしろ適切な表現だろう。降雨量の極めて少ない砂漠地帯の中で、地下から湧いてきた水や川のある場所には植物が繁殖しており、そこでは人が居住したり隊商が休憩したりすることが可能となる。それが、昨夜イブラヒムが言っていた「オアシス」であり、正に砂漠に浮かぶ島のようなものであった。
 やがて、そこにたどり着いた彼女たちは、その一角にある隊商宿でラクダを休ませ、本人たちも休憩することにした。このような砂漠の隊商宿の利用の仕方を、彼女たちはイブラヒムから聞いて既に知っている。
 石造りのその宿の建物は、質素だが長い歴史を感じさせる風格があった。恐らく何世紀も前からここを行き来する旅人たちによって利用されてきたのであろう。その周囲にも中庭にも木が青々と生い茂り、鳥の囀(さえず)りが聞こえている。今まで通ってきた無味乾燥な砂漠とはまるで別世界だ。
オアシス  建物の一階はラクダの休憩所で二階が人間の宿泊施設になっている。ヒミカと麗鈴と妙は、一階でラクダに餌と水を与えると、本人たちは年老いた宿の主人に案内されて二階に上がった。回廊の柱のあいだから中庭を見下ろすと、そこには小さな池があって、その周囲ではこの宿の子供たちなのだろう、数人の幼子が楽しそうに戯れている。
 宿の主人は、北向きの三人部屋に彼女たちを案内した。日本で「北向きの部屋」と言えばあまり良くない印象があるが、こちらではその逆だ。空気が乾燥しているので、日の当たらないその部屋は涼しく、とても快適だった。
 主人は、人の頭ほどの大きさの丸い素焼きの水差しをヒミカに手渡した。それには急須の口をもっと細長くしたような口が付いており、その反対側には片手で持つための取っ手が付いている。ヒミカはそれを受け取ると、すぐ麗鈴に預けて、自分は昼食のための料理を何品か主人に注文した。この地方の定番料理も、彼女はイブラヒムから聞いていてよく知っている。
 主人が部屋を出て行ったので、顔を覆っていた布を取り去った麗鈴は、その水差しを頭上に持ち上げると、その細い口を自分の口に向けて傾けた。すると、そこから出た水が彼女の口の中に注がれた。
 これは、インドから中東にかけての人々特有の水の飲み方だ。人の移動や交流が盛んなこれらの地方では、人は絶えず伝染病の危険にさらされている。このようにして容器に直接口を付けずに回し飲みすれば、伝染病の人から人への感染をある程度防ぐことができるという、生活の知恵から生まれた習慣なのであろう。ずっとこの地方を旅してきた彼女たちは、自然とその習慣が身に着いてしまっていたのだ。
 麗鈴が飲み終わると、妙とヒミカも同じようにしてそのよく冷えた水を飲んだ。上薬を塗らずに焼いた土器の中に水を入れておくと、壷の表面に水が染み出し、その気化熱によってその中の水が通常の水温よりもずっと下がる。一見何の変哲もない土器でも、自然の仕組みをうまく利用した冷却装置となるのだ。
 やがて宿の少年が、料理の乗った皿を大きな盆に乗せて運んで来ると、彼女たちは石の床の真ん中に敷き物を敷き、その皿をその上に並べた。そして、その周囲に敷かれた敷き物に座って、持参したパンと共に料理を食べ始めた。
 薄暗い部屋の中から、窓の外の明るい空を見て麗鈴が言った。
「……水は冷たいし料理はうまいし、まるで極楽のようじゃ。」
 妙も窓の外に目をやって言った。
「……石造りの建物が、これほどまでに有り難きものと思うたのは、これが初めてでござる。」
 ヒミカも食べながら言った。
「……建物もそうだし、草や木を絶やさずにこの場所を守り続けている、ここの人たちのお陰よね。」
 昼食が終わると、彼女たちはすっかり習慣となっている昼寝の時間に入った。日本で「昼寝」と言うとなんだか怠けているような響きがあるが、日中の気温がかなり高くなる地域では、午後の仕事を能率良く行なうために、どうしてもこれが必要なのである。
 陽が西の空に傾いてくると、彼女たちは目覚めて身支度を始めた。既に餌を食べ終えて水をたくさん飲んだラクダたちを車に繋いだ彼女たち三人は、人間とラクダの宿代をここの主人に払うと、再び街道を西へ西へと進んだ。
 彼女たちが次のオアシスに着いたとき、丁度西の地平線に陽が沈み、東の地平線からは赤く大きな月が昇って来たところであった。
 夕闇の中、麗鈴と妙はヒミカの方へ振り返って口々に尋ねた。
「ヒミカ、町へ寄るか?」
「宿泊致すか?」
 ヒミカは、自分の背後にある月を指差して言った。
「せっかく涼しくなって月も出たことだし、ちょっと休憩するだけにしましょうか。」
 というわけで彼女たちは、このオアシスでラクダを休ませている間に自分たちは手早く夕食を済ませ、月の砂漠を進むことにした。
 オアシスを出てしばらくすると、周囲は再び見渡す限り砂だけの世界となった。しかし昼間は単調だったのに、夜になるとこれが何やら神秘的になるから不思議だ。彼女たちは、ラクダに揺られながらその景色に見惚れた。
 また、海の上とは違って日没と同時に気温がぐんぐんと下がっていく。彼女たちは防寒のために、上着を何枚か着なければならなかった。

 それから二日後の夕方、ヒミカ、麗鈴、妙の三人は、カイロ市内に入ることができた。ナイル川沿いにあるこの大都市は、地中海地域における学問や商業などのあらゆる分野の中心地として古くから栄えていた。
カイロ  市の東側にそびえる小高い丘の前を通った彼女たちは、そこにラクダを止めて降りると、この丘に徒歩で登ってみることにした。
 丘の中腹まで来て、夕闇の中にたたずむ街を見渡した麗鈴が感動して言った。
「うち、こげに大きい街見るの、生まれて初めてじゃわ!」
 妙も同じように言った。
「バンテン市もアチェ市も立派じゃったが、ここはそれらを上回っておる!」
 古い石造りの建物を見たヒミカも、感動して言った。
「長い歴史の流れも感じるわ!」
 丘を降りて再びラクダに乗った彼女たちは、ナイル川へと向かった。船を積んだ荷車を牽くこのラクダの行列は、この街の人にしてもかなり珍しかったようで、通行人はみな立ち止まってそれを見物した。女たちはヒミカたちと同じように、みな顔を布で覆って目だけ出していたが、その布の中から親しげにアラビア語で声を掛けてくる者も少なくなかった。
「ようこそ! どっから来たの?!」
 ラクダの上のヒミカたちは、そのたびにやはり布の中からアラビア語でこう答えた。
「こんにちは! カメガ島からよ!」
 すると決まってこう尋ねられる。
「それってどこにあるの?」
 その答えも決まっている。
「シーン(中国)からずっと南東の海よ。」
 こう言えば大体の人が納得してくれる。
 やがてナイル川に着いた彼女たちは、もう日が暮れたのでここで一泊することにした。寝場所は荷車に積まれた燕丸の中だ。
 夜が明けると、彼女たちはまず業者を雇い、燕丸を二台の荷車からクレーンによって川に下ろした。次に彼女たちは、その荷車と八頭のラクダを売却することにした。
 荷車の売却はすぐに終わったが、ラクダを商人に売り渡す際、彼女たちは三人とも思わず目に涙を浮かべてしまった。妙がラクダたちとの別れを惜しんでこう言った。
「短いあいだであったが、この衆には大いに世話になった。」
 麗鈴も同じように言った。
「暑い中、文句も言わずによう歩いてくれたのぅ。」
 ヒミカも顔を覆っている布で涙を拭うと、ラクダの首を撫でてやりながら言った。
「帰りもまたきっと会おうね!」
 彼女たちが余りにも名残惜(なごりお)しそうにしているので気を利かせたのか、そのラクダ商の男が川の向こう岸を指差してアラビア語で何か言ってきた。その中には彼女たちの知らない単語も多く混じっていたが、人の心をある程度読むことが出来るヒミカが言った。
「『エルギーザっていうところに、世界の七つの不思議の一つがある。カーヘラ(アラビア語のエジプト方言でカイロのこと)まで来たのに、それを見ないと損をする。』って言ってるみたいよ。」
 麗鈴がヒミカに尋ねた。
「そのエルギーザて、どこにあるんじゃ?」
 ヒミカが答えた。
「どうも、この川の向こう岸らしいわ。」
 商人はラクダを指差して更に言葉を続けたが、それは麗鈴と妙にもわかった。
「『ラクダ三頭を半日、金貨一枚で貸すから見に行ってこい。』か。うまいこと商(あきな)いしよるのぅ。」
 麗鈴が嬉しそうな目になってそう言うと、妙も同じように言った。
「おお! それならまだ、しばしこの衆と一緒におれる!」
 彼女たちは協議した結果、これからまだまだ長い道中なのだから、たまには息抜きも必要だということで、そのラクダ商人の勧めに従がい、先ほどまで自分たちが乗っていたラクダ三頭だけを半日借り受けることにした。但し、たった半日の観光ツアーで金貨一枚は高いと思ったヒミカは、その商人に向かってアラビア語でこう言った。
「銀貨三枚なら借りるわ。」
 するとそのラクダ商人は、難しい顔をしてこう言った。
「駄目。それはできない。それなら銀貨九枚にするよ。」
 ヒミカが麗鈴と妙を見ると、二人とも納得がいかないようだったので、ヒミカはラクダ商人に向かってまたこのように言った。
「銀貨四枚!」
 ラクダ商人は言った。
「銀貨七枚!」
 その言葉を聞くが早いか、麗鈴は自分が乗っていたラクダに近付いて、その首筋を撫でながら悲しそうに言った。
「ラクダちゃん、さいなら。」
 妙も自分の乗っていたラクダの首筋を撫でながら言った。
「さらばラクダよ。」
 ヒミカも自分が乗っていたラクダの首筋に頬を寄せると悲しそうに言った。
「残念だけど仕方ないわ……。元気でね、マッサラーメ。」
 「マッサラーメ」とは、アラビア語で「さようなら」を意味する言葉だ。更に三人がハラハラと涙を流すのを見たラクダ商人は、やや慌てた口調になってこう言った。
「わかった、わかった。それじゃ、銀貨六枚にするよ! 但し、あんたたちの船を俺に預けてくれ。ラクダが約束通り無事に戻ったら船と引き換えるから。」
 急に泣きやんだ麗鈴と妙が『それならいい』という目付きをしたので、ヒミカも泣きやむと、ラクダ商に向かってアラビア語で言った。
「それじゃ、借りることにするわ。」
 銀貨六枚を支払ってラクダ三頭を借りた彼女たちは、それを燕丸に積み込んで対岸に渡ると、燕丸を岸壁に繋留してラクダを岸に下ろした。そして、別の船でやはり対岸に渡って来たラクダ商人に燕丸を預けると、水や食料や貴重品などが入った袋を背負って、それぞれのラクダの鞍に跨(またが)った。
 さあ、エルギーザに向けて出発だ。
 広い街道を横に並んだ三人は、始めのうち何だかんだと話しに花を咲かせていたのだが、そのうち誰ともなく無口になり、こくりこくりと居眠りを始めた。昨夜も月の砂漠を進んだので、それは無理もないことであった。ラクダ特有の横揺れも、その眠気を助長していたようだ……。
 どのくらい居眠りしたのだろうか。突然、妙の鋭い叫び声が聞こえた。
ヒ、ヒミカ! 麗鈴! 目覚めるのじゃ!!
 それによってその二人は、ほとんど同時に目を覚ました。そして、麗鈴も同じような叫び声を上げた。
あ、ありゃなんじゃ?!!
 ヒミカも目を丸くして言った。
なにーっ?! あれーっ?!!
エルギーザ  既に妙が停止を命じたようで、ラクダは三頭とも歩みを止めている。彼女たちがそれに乗って今目にしているのは、巨大な石の建造物群であった。それらはまるで悠久の時を見下ろすかのように、音のない砂漠の中でじっとたたずんでいた。
 それらはいずれも、彼女たちにとって未知なる物体であったが、その中で辛うじて何だか判別できる物があった。麗鈴が一番手前にあるそれを指差すと、声を上ずらせて言った。
「あ、ありゃ、人の顔じゃのぅ?」
 砂の上に首から上を出している巨大な石像を見ながら、妙が真剣な面持ちで言った。
「そのようでござる。」
 頭は人で体がライオンという、スフィンクスを象ったものの中で最も有名なこの像が、現在のように全身砂から掘り出されたのは、十九世紀に入ってからのことで、当時はまだ体のほとんどが砂に埋もれた状態であった。しかし、エジプトにあるこの不思議な石像と三大ピラミッドの存在は、古代ギリシャ時代から既にヨーロッパの人々のあいだで知られていた。ヒミカは偶然にも、父ハヤテからその情報を聞かされていたことを思い出した。
「……そうそう。そういえば、父ちゃんが言ってたわ。エジプトには、顔が人で体が獅子の像があるって。これはきっとそれよ。」
 それに対して麗鈴は尋ねた。
「……ほなら、ありゃなんじゃ?」
 彼女が指差しているそれは、スフィンクスの背後にある巨大な三角形の建物だった。それを見たヒミカは言った。
「その近くに昔の王様の大きなお墓がいくつかあるって言ってたから、きっとあれがそうなのよ。」
 同じような物が間隔を置いて他にも二つあった。妙は目を丸くして言った。
「……ほう、斯様(かよう)に巨大なる墳墓(ふんぼ)を築くとは、さぞ強大な王たちであったのでござろう。」
 麗鈴は、なかば感心し、なかば呆れたように言った。
「へー! うちらなら、死んだらなるだけ人様に手ぇ掛けささんようにしよう思うところじゃが、やっぱし偉い人の考えなさることは違うのぅ。」
 強い陽射しを避けるため、一番大きなピラミッドの陰にラクダを進めた彼女たちは、ここで昼食を食べることにした。
 ラクダから降り、改めてピラミッドを見上げたヒミカは、真剣な顔でこう言った。
ピラミッド 「……よく考えてみると、これだけ大きな石をこんなに高く積み上げるって、とても人間業では考えられないことよね。これがきっと、ラクダ屋さんが言ってた『世界の七つの不思議の一つ』なのよ!」
 ピラミッド全体を遠くから見ると、その稜線は大体直線に見える。ところがその全体像を把握できぬほど近くに寄ると、それは一辺五程の立方体の石が無数に積み上げられているということがわかる。このような巨大な石をこのように膨大な量、しかもほとんどずれることなく正確に積み上げていくということは、正に世界最大級の不思議と言えるだろう。
 この遺跡のすぐ近くには、石と日干し煉瓦でつくられた小さな家々が、身を寄せ合うようにして並んでいる町がある。本当は小さな家ではないのだろうが、この遺跡の一つ一つが余りにも巨大なので、そのように見えてしまうのだ。この町がエルギーザだとすると、彼女たちが居眠りをしているあいだにも、ラクダたちはカイロから続く一里余りの道のりを、間違わずに進んでいたということになる。
 ピラミッドの石の上に登って適当な場所を見付けた三人は、背負っていた荷物をそこに下ろすと、その中から各自が敷物を出してそこに敷き、その上に胡坐をかいて座った。そして弁当箱を取り出した彼女たちは、早速その蓋を開けてそれを食べ始めた。
 パンを手でちぎりながら妙が言った。
「……しかし王とは言え、たかが一人の者だけのために、斯様な墳墓を築けるものであろうか?」
 ピラミッドが墳墓であるということに対して、彼女は疑問が湧いてきたようだ。パンをカレーに付けて食べていた麗鈴も、その意見に同意した。
「うちもそう思うわ。こげなえらいもん作るにゃぁ、人もようけ要ることじゃろう。我がのためだけに人そげにこき使うたら、その王さん国民から嫌われて、しまいに王さんやってられんようになりよる思うがのぅ。」
 ヒミカもそれに同意した。
「そうよね。王様のお墓だったってのもあるんだろうけど、何かもっと他のことにも使われてたんじゃないかなぁ。その国の人々のためになるような……。」
 そのような議論をしながら昼食を食べ終えた彼女たちは、やがてそれぞれ石の上に敷かれた敷物の上に横たわって昼寝をした。
 しばらくうとうとしていたヒミカだったが、何とも言えない違和感を感じて目を開けた。すると、寝入ったときよりも空が幾分か広く思われたのでふと下に目を遣ると、麗鈴と妙が寝ている姿が目に映った。それによって自分が宙に浮かんでいるということに、彼女は初めて気が付いた。しかもそこには、自分自身の寝姿まであったのだから更に不思議だった。
『ということは、それを見ているこのあたしは一体誰なんだろう?』
 そのような疑問が湧いてきたが、それに対する答えを見い出す暇もなく、彼女は加速度を加えながら上へ上へと吸い上げられて行った。やがて、あの巨大なピラミッドが三つの小さな点になり、地図や海図などで知ってはいたが実際に見たことのない北アフリカや地中海などの映像が彼女の目に映った。そして最後にそれは、闇の中に浮かぶ大きな青く美しい星となった。白い雲が大きな渦となって、その星のあちこちを取り巻いている。
地球 『……これが、今あたしが住んでる星だったのかぁ……。」
 ヒミカは感動して、その黒と青と白のコントラストにしばらく見惚れていた。するとその星は、ゆっくりと縦に回り始めたではないか。やがて彼女は思った。
『……いや、星が動いてるんじゃない。……あたしが動いてるんだわ。』
 その星と共に、その背後に見えている無数の小さな星まで動いていたので、彼女はそのことに気付いたのだ。やがて、その青い星には白い部分が目立つようになった。それが何なのか彼女には最初わからなかったが、父母を始めとする瓶ヶ島の大人たちがよく口にしている、「雪」だとか「氷」なのだろうと直感的に思った。
 その白い物の上でヒミカは停止した。すると、その白い物は次第に小さくなり、やがて無くなってしまった。実際に見たことはないが、暖かくなると雪や氷が溶けてなくなるということを聞いて知っていた彼女は思った。
『きっと、星が暖まって溶けたんだろう……。』
 ここで突然場面が変わった。それは広い海の上に浮かぶ小さな島の上だった。ところが、その島が見る見るうちに、海に呑まれて消えてなくなってしまったではないか! それを見た彼女は、言われもない恐怖を感じた。
『氷が溶けた分、水かさが増えたんで、島が沈んでしまったんだわ……。』
 そして彼女は、その海の様子を凝視した。海には潮の流れがあるということをヒミカはよく知っているが、その流れが止まってしまったのである。
『……こんなの初めて見るわ……。』
 ヒミカがそう思うのは無理もない。沿岸の小さな流れならともかく、外洋の大きな潮の流れというものは、そう簡単に止まるものではないからだ。
 また突然場面が変わった。そこは大きな森だった。そこに生えている植物は、瓶ヶ島に生えているような熱帯のものであったが、身を切るような冷たい風が吹き抜けたかと思うと、その森の中でたくさんの生き物たちが逃げ場を探しているのが目に映った。
 その騒ぎを引き起こしていたのは、巨大なバッタであった。そのバッタは、逃げ惑う生き物たちに手当たり次第に齧り付いて食い荒らしている。食べる生き物が無くなると、そのバッタは枯れかけた森の植物をむさぼり食い始めた。
 ここでヒミカは、イブラヒムから聞いた話しを思い出した。何もかも食い尽くしてしまう砂漠のバッタのことだ。
『これがきっと、そのバッタに違いないわ……。』
 そう思ってヒミカがよく見ると、その巨大なバッタはどれも、人の顔をしていることがわかった。老若男女誰もがみな髪を振り乱して目を血走らせ、死に物狂いで何かををむさぼり食っている。やがて、森全体を食い尽くしてしまったバッタたちは、背中に畳まれていた大きな羽根を広げると、どこかへ飛び去って行った。後に残されたのは、岩と砂だけの砂漠だった。
 ヒミカは咄嗟に自分の故郷のことが心配になった。すると彼女の目の前には、見慣れた瓶ヶ島の浜の風景が映し出された。ところがそれはすぐに変貌していった。まず、高潮が押し寄せて浜を飲み込んでいった。そしてここにもやはり冷たい風が吹いてきて、彼女のいやな予感は的中した。不気味な羽音が空に響いてきたかと思うと、先ほどの人の顔をしたバッタが数え切れないほど島に舞い降りて来たのだ。
 バッタたちは髪を振り乱して目を血走らせながら、椰子の木を手始めに島のありとあらゆる物を食い始めた。
やめてーっ! やめてーーっ!!
 ヒミカは必死になって何度も叫んだが、その声はバッタが物を齧る凄まじい音によって掻き消されてしまった……。
「……おいヒミカ、なにしたん?」
「ヒミカ、いかが致した?」
 その声によってヒミカが目を開けると、心配して覗き込んでいる麗鈴と妙の顔が目に映った。そヒミカは、先ほど見ていた光景が夢であったことを知った。彼女はゆっくりと身を起こしながら言った。
「……う~ん、なんだかとっても変な夢見てた……」
 妙が納得したように言った。
「左様か。それで、うなされておったのでござるな。」
 麗鈴も同じようにして言った。
「そうか……。うち、何が起こったんか思うたわ。」
 ヒミカは寝ぼけ眼(まなこ)のままで、済まなそうに言った。
「……ごめんね、起こしちゃって。」
 麗鈴が優しく言った。
「あやまらんでもええよ。心配なんはあんたの方じゃ。」
 妙も心配して言った。
「左様。それはいかなる夢でござったのか?」
 約束の時間までにラクダを返却しなければならなかったので、彼女たちはそこを片付けると、取りあえず帰路に着くことにした。ヒミカを中央にして、妙と麗鈴がその左右に並び、彼女たちはピラミッドを背にしてラクダに揺られながらカイロへと向かった。その道々ヒミカは自分が見た夢の内容を語った……。
 話しを聞き終えた妙が、ヒミカの左隣で不安げに言った。
「何やら不吉な夢でござるのぅ……。」
 その反対側の麗鈴も、ヒミカに向かって同じように言った。
「あんたがそげな夢見たちゅうことは、ほんまに起こるちゅうことじゃろうか?」
 ヒミカも、やはり不安げに言った。
「うん、そうかもね……イブラヒムさんからあのバッタの話しを聞いたから、こんな夢を見たのかとも思ったけど、それだけなら今までにも見てるはずだしね……。
どうやら、あの石のお墓とも関係ありそうだわ。」
 麗鈴が後ろを振り返ると、あの大ピラミッドの先端が地平線の上に小さく見えている。彼女はヒミカの方に向き直って尋ねた。
「……うちらの島が、危ないいうことか?」
 ヒミカがそれに答えた。
「うん。今すぐじゃないけど、これから先そういうことが起こるってことを、覚悟しといた方がいいみたいね。」
 妙が言った。
「その夢からすると、瓶ヶ島だけではなく、この世の全てで起こり得るようでござるのぅ。」
 ヒミカは言った。
「そうね……。この星の上の緑がある全ての場所で……。」
 やがてカイロに帰り着いた彼女たちは、約束どおりラクダと引き換えにラクダ商から燕丸を引き取ると、水や食料の補給をして明日の船出に備えた。
 その夜、ナイル河畔に繋留してある燕丸の上には、いつものように明かりがともされ、三人の少女たちは食卓を囲んで夕食を食べ始めた。自分の皿の上のパンを手でちぎりながら、麗鈴がヒミカに向かって言った。
「ヒミカ、何したん? あの夢見てから変じゃぞ。ぼーっとして。」
 妙も、ちぎったパンをカレーに浸けて食べながら言った。
「……何か考え事でもあるのか?」
 ヒミカはハッとして言った。
「……ううん……、何も考えていないけど何か考えてるっていうか……。」
 妙が尋ねた。
「やはり、あの夢のことでござるか?」
 ヒミカは、やや放心したようにこう言った。
「うん。この世は一つなんだなって……。」
 麗鈴は笑って言った。
「ハハハ! そらそうじゃろう。この世がいくつもあったら、うちら忙しゅうてかなわんわ。」
 ヒミカは話しを続けた。
「……麗鈴も妙もあたしも、そしてこの街も、みな元は一つなんだって……。そして、この世はあたしだったんだって……。」
 麗鈴は眉を寄せて言った。
「なんじゃそれ? わけわからんわ。」
 その一方、妙はそれにある程度の理解を示した。
「天上天下唯我独存……釈尊ご誕生のみぎりに発せたもうたお言葉。これを傲慢(ごうまん)と解(げ)するは誤りと聞いておる。」
 ヒミカは、依然として放心したように言った。
「難しいことはわかんないけど……。この世の痛みは、あたしの痛みなの……。」
 麗鈴は急に心配した表情になると、ヒミカの顔を覗き込んで言った。
「ヒミカ、あんたほんまに大丈夫か?」
 そして、ヒミカの額に手を当てて熱を調べた。その一方、妙は冷静な口調でこう言った。
「麗鈴、案ずるには及ばぬ。ヒミカは、あの夢にて何かを悟ったのであろう。」
 麗鈴は目を丸くして言った。
「え!? お釈迦さんみたいにか!?」
 妙は物静かに言った。
「そこまでではないと思うが、身共(みども)には知り得ぬ何かを知ったのであろう。」
 食事を済ませた彼女たちは、そこを片付けると、明日の出帆に備えて早々と床に着いた。

ナイル川  一六〇六年五月二十三日早朝、ヒミカ、麗鈴、妙を乗せて錨を上げた燕丸は、闇の中にひっそりとたたずむカーヒラの街を後にして、ニル川(ナイル川)を下って行った。この付近一帯は乾燥しきっているが、遥か上流では連日大雨が降っているのだろうか、川の水かさは日毎に少しずつ増えているところだったので、船で下るのには都合が良かった。
 この川は地中海とアフリカ内陸部とを結んでいるので、行き交う船の数はさすがに多い。ゆっくりと川を下って行った燕丸は、カーヒラを出てから間もなく、このデルタ地帯の数ある支流の中でイスカンダリーヤに通ずる流れに入った。
 それから四日目の午後、燕丸は大きな湖に入った。その先にはもうイスカンダリーヤ市街が見えている。
 地中海を望むこの都市は、マケドニア王アレクサンドロス三世(アレクサンダー大王)の指示によって、紀元前三三二年に建設された。日本ではアレクサンドリアという名で知られている。
地図8  その後数百年間は、学問、文化、商業の中心地として栄えていたが、イスラム帝国に組み込まれてからは、商業の面で沈滞してしまった。しかし、ヴェネツィアの商人がアジアやアフリカから運ばれて来る品々をここに買い付けに来るようになってから再び賑わうようになった。
 その後、幾たびかの変遷を経た結果、ポルトガルがこの海域の制覇に失敗し、この都市を通る交易ルートが再開されたので、再び賑わいを見せているという状況であった。
 やがて燕丸は、街の東側に設けられている水路を伝って広々とした海に出た。地中海だ。帆を操っていた麗鈴が叫んだ。
「海じゃーっ! 潮の香りじゃーっ!」
 舵を操っていた妙も嬉しそうに言った。
「真に懐かしうござる!」
 船首で海図を広げていたヒミカが言った。
「それじゃ、まずは港に入ってみましょう……。取舵!」
 そのヒミカの指示によって、船はこの街の海側に設けられている大きな港に入って行った。そこには、ヴェネツィアをはじめ、イスタンブル、ベイルート、アッコ、トゥーニスといった地中海沿岸の主要都市からの大型帆船が多数停泊している。いずれも、彼女たちが初めて見る船ばかりだったので、麗鈴が目を丸くしてこう言った。
「こりゃ今までの港とは違うのぅ! 何やら潮の香りまで違うてきた気ぃしよるぞ。」
 古くは古代エジプト、フェニキアから、ギリシャ、カルタゴ、ローマ帝国、東ローマ帝国、そしてこの時代の覇者であるオスマン・トルコ。それらの大帝国によってつちかわれ、受け継がれてきた地中海独自の文明は、当然この海に入って初めて実感することができる。これを抜きにしてヨーロッパの文化を理解することはできないだろう。丁度中国古来の文明を抜きにして周辺諸国の文化を理解することができないのと同じように。但し、そのようなものの影響を受けながらも、それぞれの地域にはその土地固有の文化や思想というものが存在していることも確かである。
 燕丸を港の埠頭の一つに接岸させたヒミカたち三人は、早速上陸して賑やかな海岸通りを一時間ほど散策した。夕方暗くなる前に燕丸に帰って来た彼女たちは、甲板の上でいつものように夕食の準備を始めた。
 竃に火を起こしながらヒミカが言った。
「様々な国の人を見たね。」
 こね鉢に入れた小麦粉をこねながら、麗鈴が言った。
「おう、目ぇ青い人おったんには驚いたわ。」
 豆を洗いながら妙が言った。
「髪が金色をした人も多数見たぞ。」
 ヒミカが言った。
「きっと、エウロペの人に違いないわ。」
 麗鈴が嬉しそうに言った。
「いよいよ目的地じゃのぅ!」
 妙が冷静な口調で言った。
「然(しか)らば、マラバールより持って参った品々はどうする? この地で売却するか、エウロペまで持参するか……。」
 こねた小麦粉をまな板の上に乗せ、麺棒で薄く延ばしながら麗鈴が言った。
「そら、エウロペまで持って行って売った方が、儲かるに決まっとるじゃろう。」
 妙が洗った豆を水の張られた鍋の中に入れたヒミカは、それを火に掛けて言った。
「それはそうだろうけど、よそ者のあたしたちが突然行って売れると思う?」
 今度は、茄子やオクラなどの野菜を切りながら妙が言った。
「左様。この地に買い付けに来ておる衆が、よそ者の介入を許さぬはずじゃ。よって、身共がエウロペにていきなり商いするは困難と見て良かろう。」
 麗鈴が言った。
「ほなら、ここで売ってしまわんか。」
 というわけで、彼女たちは南インドで仕入れた綿織物と香辛料を、この街の市場で売ることにした。
 翌日、朝食を終えて市場に赴いた三人は、まず自分たちが持っている品々と同様の物がどれほどの価格で売られているかを調べて回った。それから役所に行って出店の許可を得た彼女たちは、運搬用のロバを二頭借りて船に戻ると、商品を市場に運んで露店を出した。その地での相場をよく知らずにいきなり店を出すと、値段を叩かれて大損をすることがあるからだ。このようなことに慣れている彼女たちに抜かりはなかった。
 今までのイスラム圏のどの市場でもそうであったが、物を売っているのは全て男性であり、ここもその例外ではなかった。しかし、彼女たちは異教徒なので、その点は大目に見られたようだ。
 この商いによって、彼女たちにはそれ相応の収入があった。それは、今後数ヶ月間の食料や日用品を購入するのに充分な額であった。
 また彼女たちは、ヴェネツィアを始め地中海沿岸各地から来ている商人たちから、ヨーロッパに関する様々な情報を仕入れることもできた。その中には、瓶ヶ島の勘蔵やハヤテも知らぬような情報も多数あった。その会話には、イブラヒムが話していたヴェネツィア訛りのスペイン語が大いに参考になった。
 その後三日間のうちに、物資の補給や市内見物などを済ませてしまった彼女たちだったが、最も重要なことがまだ決まっていなかった。市場で得た情報によって、三人それぞれ意見が分かれてしまったからだ。
 夏の地中海の午後の空には、乾いた太陽が燦々(さんさん)と輝いており、先ほど昼寝から覚めたヒミカと麗鈴と妙の三人は、燕丸の上に張られた日除けの下の食卓で、いつものようにコーヒーを入れて会議を始めたところだった。
 自分の湯飲みのコーヒーを一口すすった妙が、食卓に広げられているヨーロッパの地図を見ながらこう言った。
地図8 「……麗鈴の意見も尤もなことでござるが、当時世界最強であったエスパニア無敵艦隊を撃破せし、インギルテッラ艦隊を視察するべきであろう。」
 インギルテッラとは、イタリア語でイングランドのことだ。当時は、現在日本で言われている「イギリス」とか「英国」という概念の国はまだ存在せず、グレートブリテン島にはスコットランドとイングランドという二つの独立国家が存在していた。そして一六〇三年、スコットランド王がイングランド王として君臨すると、同君連合という形になった。但し、一五八八年当時にスペインの無敵艦隊を破ったのは、かの有名な女王エリザベス一世の君するイングランドであった。
 やはり自分のコーヒーをすすった麗鈴は、地図に描かれているイタリア半島の東の付け根を指差してこう言った。
「……いや、前にも言うたが、インギルテッラは辺境の地で、エウロペの商いの中心は昔からここヴェネツィアだそうじゃけん、ここ見て帰るんがええじゃろう。」
 彼女に向かって妙が尋ねた。
「その情報は、どなたから承(うけたまわ)ったのじゃ?」
 麗鈴はそれに答えた。
「ヴェネツィアから来んさった商人(あきんど)はんじゃ。」
 すると、妙が笑って言った。
「ハハハ! 誰でも自分のところを一番と申すものじゃ。」
 竃の熾(お)きを、火ばさみではさんで消し壷に入れていたヒミカが言った。
「住めば都って言うしね。
それなら、古代帝国の都で、今は天主教の大僧正(だいそうじょう)がおられるっていう Roma(ローマ)を見て帰るってのはどう?」
 それに対して妙が言った。
「各国の宗教事情を学んで来たヒミカのその気持ちは、わからぬでもない。しかし、身共(みども)は切支丹(キリシタン)ではござらぬ。異教徒がその地を訪れても、あまり意味を成さぬと思うが……。」
 ヒミカはそれに反論した。
「そういう場所には、世界中からいろんな人が集まって来てると思うの。そして、お互いの精神を高めようっていう空気もあると思うわ。あたしたちとは宗教が違ってても、学ぶべきことはたくさんあると思うよ。」
 ピスターシュという、塩を塗(まぶ)した豆の硬い殻を割っては、その中身を口の中に放り込み、もぐもぐと食べていた麗鈴が言った。
「……人が多く集まるんなら、やっぱし商いのヴェネツィアじゃろう。その商いの仕方学んで帰って損はないと思うがのぅ。」
 妙も、ピスターシュの殻を割りながら言った。
「世界最新鋭の水軍とその戦術の有り様を見て帰ってこそ、今後身共を防御するに役立つ。拙者は、そう確信しておるがのぅ。」
 食卓に着いたヒミカは、自分のコーヒーを一口すすると、苦笑いしてこう言った。
「……う~ん、どの意見も尤もだと思うけど、全部見て回ると大変だよ、これ。」
 ピスターシュを食べていた妙が、それに同意した。
「……左様。一つに絞った方が良うござろう。」
 ここで麗鈴が、突然手を打って言った。
「よっしゃ! ほんならこうせんか。ヒミカが目隠しして、この地図の上のどっかを指差すんじゃ。そこで指された場所が海に近い街じゃったらそこと決める。山ん中とかなんもないとこじゃったら、決まるまでやり直す。ほんでどうじゃ!?」
 妙は豆の殻を割る手を止めると、目を見張って言った。
「ほぅ、それは妙案!」
 未来を予知したり、人の心の中を読んだり、自分の思念を相手に伝えたりと、不思議な力を持つヒミカではあったが、透視の能力までは持っていなかった。幼い頃から共にかくれんぼなどをして遊んでいた他の二人は、そのことをよく知っている。ヒミカも満更でもない様子で言った。
「そうね、それが良さそうだわ。」
 麗鈴は立ち上がると、どこかから手拭を持って来て、それでヒミカに目隠しをして言った。
「あんた、いっぺん立ちんさい。」
 ヒミカが立ち上がると、麗鈴はその体を右にくるくるっと三回転させた。ヒミカは一瞬よろっとしてから元の場所に座った。しかし、目隠しをされるまでずっと見続けていたローマの場所はもうわからなくなってしまった。
 麗鈴も再び自分の席に座ると、嬉しそうに言った。
「よっしゃ、こんでええわ!」
 ヒミカは、なぜか口元を微笑ませながら、地図の上に右手の指を伸ばしたが、麗鈴と妙は申し合わせたようにして、そこからサッと目をそらせた。透視の能力はないヒミカだが、何かを見ている者の思念を読み取ることならできるからだ。その能力は、セイロンのガーリで行なわれた数字当ての大道芸により発揮されたので、既にご存知のことだろう。
 目隠しをしているヒミカは、口をへの字にすると残念そうに言った。
「しまった、感ずかれたか……。」
 妙は笑って言った。
「ハハハ、左様でござる。場所が決まったら『はい』と申すのじゃ。」
 しかし、それでもヒミカの方が一枚上手(うわて)であった。彼女は目隠しをされる前、数羽の水鳥が帆桁の上に止まって翼を休めていたことを覚えていた。彼女は、その中の一羽に思念を集中させたのである。
 生きた魚を捕まえるこの鳥は、猫と同じように、動く物に対して本能的に反応する。地図の上で手を動かせば、必ずそれに関心を示すに違いない。また、鳥の視力は人間のそれを遥かに超えているので、その網膜には当然地図も一緒に映るはずだ。その思念を読み取れば、その指先が地図のどのあたりにあるのかを知ることができるはずだ。
地図8  彼女が自分の右手を地図の上でくるくると動かすと、果たして彼女が思った通りそれに鳥が興味を示し、その目を通して自分の脳裏に映った。その下にイベリア半島らしきものが見えているが、目の焦点は動いている手の方に合っているので、それはぼんやりとしか見えていなかった。それでも、真っ暗闇よりはずっとましだ。
 彼女は、その手をゆっくりと右へ動かしていった。すると、その下におぼろげに見えている地図も次第に東へと移動して行った。やがて、コルシカ島とサルディーニャ島に続いてイタリア半島らしきものが見えたところで、ヒミカは指を下におろして「はい!」と言った。
 しかし、思いがけぬことが生じた。この瞬間ヒミカの首筋に蝿が止まったのである。
 この地域では、蝿が人の肌に止まってくることはよくあるのだが、それはただ羽を休めているのではなく、そのまま放置していると噛み付くのだから困る。それなら虻(あぶ)ではないかと思うのだが、日本でごく普通に見かけるイエバエのような小型の黒い蝿が、それをするのである。しかも、それがかなり痛いのだ。
 それを知っているヒミカは、噛み付かれる前にその蝿を追い払おうとして、慌てて左の手を首筋に振り上げた。ところがその弾みで地図の上を指していた右の手がずれてしまった。麗鈴と妙がほとんど同時に地図に視線を戻したのが、丁度そのときだった。
 左手で目隠しを外したヒミカは、二人に向かって懸命に弁解した。
「首に止まった蝿を追っ払ったら、指がずれちゃったのよ。ほんとはこのあたり……」
 ヒミカはそう言ってイタリア半島中部を指差すと、ローマ市に指をおろしてこう言った。
「……そうここ。ここを指してたの!」
 しかし麗鈴は、珍しく悲しそうな顔になってこう言った。
「ヒミカ。あんた、そげん女じゃったん……。うち、見損のうたわ。」
 妙も、険しく眉を寄せてこう言った。
「……お主がまさか、斯様に卑怯なことをするとは……。」
 ヒミカは、二人にすがり付くようにしてこう言った。
「ほんとなんだから! 信じてーっ! お願ーい!」
 ところが、麗鈴と妙はただならぬ険しい目付きをしている。この状況で先ほどの出来事を説明するのは、どうやっても不可能なようだし、水鳥の目を借りて「ずる」をしていたので、ヒミカは諦めることにした。
「……ずれたのは嘘じゃないけど、仕方ないわ。それじゃここにしましょうか……。」
 彼女はそう言って、その前に指差していたところに指を戻した。それは、南フランスのある一点だった。
 それによって気を取り直した麗鈴が顔を近付け、そこに書かれている小さな文字を読んだ。
「Avignon ……か。」
 これは、フランス語読みだと「アヴィニョン」、スペイン語で読むと「アヴィグノン」になる。フランス語を知らない麗鈴は、当然のことながら後者のような発音をした。妙も同じようにしてそこを覗き込むと、このように言った。
「ほぅ、やや内陸ではあるが、川をさかのぼれば行けそうでござるのぅ。」
 こうして彼女たちの行き先はアヴィニョンに決まり、燕丸はその翌日の早朝、イスカンダリーヤを出港した。

 地中海性気候の夏というものは、とにかく青天続きで嬉しいのだが、雨が一滴も降らないのには困る。これは、毎日のように夕立があった東南アジアの海とは対照的だった。
 七日間西へ航行した燕丸は、早くも水を補給しなければならなくなり、北アフリカ沿岸にある大きな港に入った。現在のチュニジア共和国の首都トゥーニス(チュニス)に付随する港だ。水や物資を補給するなら途中ここに寄ればいいと、イスカンダリーヤ(アレクサンドリア)の商人たちが教えてくれたのである。この一帯も、やはり古代から栄えていた地域であり、その間支配者はたびたび変わったが、一五七四年以降はアラブ系の土候国となってオスマン・トルコから間接的に支配されていた。
 小さな湾の中にあるその港には、アレクサンドリア同様地中海沿岸各地の船が停泊しており、この地の繁栄振りを窺わせている。ここで水などを補給した燕丸は、その翌朝には出港して、進路を北西に取った。
 その二日後の朝には、早くも前方に大きな陸地が見えてきた。サルディーニャ島である。この地も古代から様々な国や民族からの攻撃や殖民を受けてきたが、その影響を受けながらも独自の文化を保っていると彼女たちは聞いている。船首で見張りに付いていたヒミカが、感慨深げに言った。
「ここからはもうエウローペなのね。」
 舵を担当している妙が言った。
「左様。このあたりからの制海権は、エスパニアが握っておると聞いておる。」
 帆に付いていた麗鈴が言った。
「ほんなら、ここらのパンの味見もせにゃならんのぅ。」
 そんな麗鈴を始めとして、この島に寄ってみたいという思いに駆られた彼女たちだったが、今回の旅行の目的は観光ではなく、あくまでも当時アジアにとって脅威となりつつあるヨーロッパの視察であったので、道草をせずに目的地を目指すことにした。
 その日の午後になると、その広々とした陸地は船の右舷に移っていた。
 次の日の午後には、そのサルディーニャ島も後方の水平線の彼方へと消えてしまった。
 その三日後の夕方、進路を北西に取って進んでいる燕丸の前方遥か彼方に、新たな陸が薄っすらと姿を現わした。燕丸が進むに従がってそれは次第に大きくなり、その広さと位置からしてヨーロッパ亜大陸であることを、ヒミカたち三人は確信した。燕丸は、その夜も星を頼りに進んだので、その翌朝には沿岸の町が前方に見えるところにまで接近していた。
旗  船を一旦止めて朝食を済ませた三人の少女は、帆柱の上に瓶ヶ島の「交差逆S字」の旗を掲げると、再び船を北西に向かって進めた。この海域の海図を見ながらヒミカが言った。
「……これによると、今見えてるこのあたりは Provence で、あの港町は Marseille って言うみたいね。」
 フランス語の発音だと、これらは「プロヴォンス」と「マッセイユ」というふうに聞こえるのだが、それを知らないヒミカは、取り敢えずそれをスペイン風の発音で言った。
 ここは、古来から重要な港であったが、この町が現在のような大都会になるのは、これから二百年も後のことである。
 麗鈴が、ヒミカに向かって尋ねた。
「ここの宗教や言葉は、どげんなっとるん?」
 各国の宗教事情などを記した帳面を見ながら、ヒミカがそれに答えた。
「……うーんと……宗教は天主教で、……言葉はプロヴェンセ語みたいだね。」
 妙もヒミカに尋ねた。
「イブラヒム殿の父君から借りた金銭を返すために、またもや芸をすることになりそうでござるが、それはこの地で可能でござろうか?」
 以前、収入を得るために市場で大道芸をすることをイブラヒムに相談したら、「女性がそのようなことをする習慣が自分たちにはないので、イスラム圏でそれをするのはやめた方がいい」と言われたことがあったのだ。
 ヒミカは、妙のその問いに答えた。
「天主教を奉じるポルトガル領のガーリでは大丈夫だったんだから、ここでもきっと大丈夫よ。」
 マルセイユの町を後にした燕丸は、進路を西に取り、その日の昼過ぎにはローヌ川の河口にたどり着いた。
 岸にある役所で入国の手続きを済ませると、燕丸はその河口に入って行った。アヴィニョンの町は、ここから十五ほど川をさかのぼったところにある。櫂を出して船を漕ぐこともできるのだが、川の流れに逆らってたった二人だけでこの船を漕ぐのは大変なので、風があれば帆を使い、なければ風を待って、燕丸はゆっくりゆっくりとこの川をのぼって行った。
 その途中に大きな町があった。アルルだ。燕丸は地中海型の船舶を参考にして設計されており、外見はこのあたりの船とよく似ていたので、特別人目を惹くことはなかった。せいぜい、その帆柱の上に掲げられている瓶ヶ島の旗が珍しいので、多少注目を集めただけだ。
 物珍しそうにしていたのはむしろヒミカたちの方であった。とにかく、今まで見てきた世界とは風景や人の様子などが、まるで違っているのだから。
 まず川縁(べり)だけでなく、山も丘も薄っすらとではあるが、木や草で覆われていることに彼女たちは驚いた。そこを行く羊の群れと羊飼い。川に沿った平野に広がる麦畑、丘の斜面にはブドウ畑。そして、教会の鐘が明るい音色を響かせている町の家々は、どれも地味な色の石でつくられているが、その屋根は、それとは対照的な赤い瓦で葺かれており、窓辺には色とりどりの花が鉢に植えられている。
 そして、川で洗濯をする女性たちは、みな顔を出している! それを見た麗鈴が、嬉しそうに言った。
「おぉ! ここじゃ、女子が顔出しよってもええみたいじゃのぅ!」
 妙も同じように言った。
「今までの長い服とは、おさらばでござる。」
 ヒミカが言った。
「そうね。帰るとき、またお世話になるけどね。」
 ローヌ川をさかのぼること三日、燕丸はついにアヴィニョンの町に入った。川岸に設けられている岸壁に燕丸が接岸すると、早速、上品な服を着て羽飾り付きの帽子を被った一人の中年の男性が現われた。彼は、槍を持って甲冑(かちゅう)を身に着けた二人の歩兵に護衛されている。どうやら、入国を取り仕切っている役人のようだ。
 この川の河口で、一度入国の手続きをしていたヒミカたちなので、その書類を見せればすぐに終わるはずだった。
 立派な口髭を生やしているその役人は、岸壁に降り立った巫女の装束を着たヒミカ、中国服の麗鈴、侍の装束の妙に向かって微笑んで何か言った。それはヴェネツィアの言葉によく似ていたので、三人ともなんとか理解することができた。
「ようこそ、アヴィニョンへ! どこから来ましたか?」
 彼女たち三人は、口を揃えてスペイン語で答えた。
「瓶ヶ島からです。」
 その役人は眉を寄せると、訝しそうに尋ねた。
「……カメガシーマ?」
 ヒミカがその説明をした。
「中国から更に南東の海の彼方にあります。あれは、その島の旗です。」
 彼女はそう言って、燕丸の帆柱の上でゆっくりと風にはためいている旗を指差した。ヒミカたちの東洋系の顔付きと、その旗を交互に見た役人は、納得したように頷くと、手に持っていた書類に羽根の付いたペンでそのことを書き込んだ。
 ヒミカは、自分の懐の中からフランス入国の許可証を取り出すと、それをこの役人に示して言った。
「入国の手続きは、もう終わっています。」
 ところが彼は、それを一瞥するとこう言った。
「それとは別に、ここでは手続きが必要なのです。」
 そして、今度はこう尋ねてきた。
「こに来る前に、どこにいましたか?」
 ヒミカがそれに答えた。
「Tunis.(トゥーニース)」
 それを聞いた役人の表情がやや厳しくなって、氏名と信仰している宗教を尋ねてきた。それにはまず妙が答えた。
「Tae Moriyama, Buddhista.(森山妙、仏教徒)」
 役人は頷くと、それを書類に書き込んだ。
 麗鈴とヒミカは一瞬顔を見合わせてしまったが、このようなときに返答に困っているとかえって怪しまれるので、ヒミカは咄嗟(とっさ)にこう言った。
「Himika Kitahama, Kameista.(北浜ヒミカ、瓶教徒)」
 麗鈴も、それに倣ってこう言った。
「Liling Zhang, Kameista.(張麗鈴、瓶教徒)」
 役人は再び眉を寄せると、訝しそうに尋ねた。
「Che cosa è Kameista?(瓶教徒って何ですか?)」
(お使いのOSやフォントによっては、これらの外国語表記の一部が正確に表示されない可能性があります。その際は悪しからず。作者より)
 ヒミカは微笑むと、スペイン語でこう言った。
「瓶ヶ島の信仰です。」
 その役人は、興味深そうに尋ねた。
「それは、どのような信仰なのですか?」
 ヒミカは、それに答えた。
「大自然を神として崇め、その摂理に従うという信仰です。」
 彼女たちは、自分たちの信仰についてこのようにきちんと説明することはできるのだが、その名称について今まで考えてみたことがなかったので、先の質問では一瞬戸惑ってしまったのだ。
 役人は、彼女たちがここへ来る前にオスマン・トルコ領内にいたということを知るに及んで、イスラム教徒かと思ってやや警戒したようだったが、これでその疑いを解いたようだった。ヒミカと麗鈴は再び顔を見合わせると、ホッと安堵の溜め息を漏らした。
 その後、来訪の目的や船の積荷などを尋ねられ、それが記録されると、役人は別の書類をヒミカに手渡しながら言った。
「これは、Papa がアヴィニョンに入ることを許可する証書です。ここを出るときまで大事に持っていて下さい。」
 今度は、それに目を通したヒミカの方が訝しそうに尋ねた。
「Papa ってなんですか?」
 すると役人は目を丸くして言った。
「あなた、Roma(ローマ)の Papa のことを知らずに、ここへ来たのですか!?」
 ヒミカは、それがカトリック即ち天主教の大僧正のことだと察したので、納得したように言った。
「なるほど、カトリック教会の最高指導者のことを、ここではそう言うんですね?」
 すると役人は微笑んで言った。
「Si.(そうです。) ここはその彼の領地なのですよ。」
 今度は、ヒミカの方が目を丸くして言った。
「え!? ここはフランスじゃなかったんですか?」
 役人は微笑んで言った。
「No.(違います。)ここアヴィニョン市は、1348年から Papa の領地になっているのです。」
 この会話の内容は麗鈴と妙にも大体わかったので、三人の少女は思わず顔を見合わせてしまった。教皇のいるローマに行くことを希望していたヒミカが、目隠しをして心にもなく指した場所がなんと教皇領だったとは……。
 調べを終えて帰りかけた役人は、にこやかに言った。
「それでは、皆さん良いご旅行を。」
 ヒミカたちは、口を揃えてそれに応えた。
「ありがとうございます。」
 ここでヒミカが、一つの質問をした。
「……ところで、ここが Papa の領地だとすれば、ここで大道芸をする人なんていませんよね?」
「ええ。ここには、そのような世俗的なことをする人はいません。フランス領に行けば見れるでしょう。」
 役人は苦笑いしてそう言うと、歩兵を従がえて立ち去って行った。
 ヒミカは、麗鈴と妙に向かってこう言った。
「……そうか、それなら、お金稼ぎは後回しにして、ここでは天主教について調べようか。」
 麗鈴が言った。
「そうじゃのぅ。せっかくここに来たことじゃけん、ここでしか学べんこと学ぶんがええわ。」
 妙は微笑んで言った。
「ヒミカが選んだ場所は、ヒミカにとってさほど間違いはなかったようでござる。」
 それから数日間、彼女たち三人はローヌ川に浮かぶ燕丸に寝泊りしながら、この町の人々から様々な情報を得ることができた。中でも、それまでほとんど知らなかった、隣国フランスの宗教事情に関する知識も得ることができたのは、大きな成果であった。
 言葉に関しては、先の役人との遣り取りのように、ヴェネツィアなまりのスペイン語でもなんとか通じた。また、この土地周辺の言葉はフランス語よりも、むしろイタリアやスペインのカタルーニャ地方の言葉に似ているようなので、フランス語を全く知らないヒミカたちにとって、それは幸運なことであった。
 彼女たちが調べたところによると、フランスでは、一五六二年にプロテスタントが大量虐殺されたのをきっかけにして、「ユグノー戦争」という内戦になったそうだ。これは単なる宗教戦争というだけではなく、王位継承における王家や貴族のあいだの争いも複雑に絡み合っているので、かなり厄介(やっかい)な問題だった。
 それが一五九三年になると、それまでプロテスタントとして戦っていたナヴァール王アンリは、フランス王位継承権を持つ自らがカトリックに改宗することによって、カトリックとの融和を図った。
 そしてその翌年、アンリ四世としてフランス王位に就いた彼は、一五九八年になるとナントの勅令(ちょくれい)」というものを出した。これは、フランスの国教をカトリックと定める一方で、プロテスタントの権利もカトリックと同等に認め、個人の信仰の自由も認めるという、当時としては非常に画期的なものだった。これにより、三十六年間も続いたユグノー戦争に、ようやく終止符が打たれたのであった。
 さて、アヴィニョン到着から一週間が過ぎた、ローヌ川に浮かぶ燕丸の甲板の上では、暮れなずむ町を背景にして、食卓の上に明々と明かりがともされ、いつもと少し違った雰囲気の夕食が始まろうとしていた。それは、近くにある修道院の尼僧からパンの作り方を教わった麗鈴が、干しブドウの皮に付いている酵母を自家培養し、それを用いて初めて焼き上げたパンの試食会であった。
 酵母とは、パンやビールなどを醗酵させるもののことで、その手法は、紀元前の古代エジプト時代から既に知られていることであった。但し、それが微生物によるものであるということがわかったのは、これから七十年余り後になってからのことだ。
「頂きまーす!」
 嬉しそうに口を揃えて言ったヒミカ、麗鈴、妙の三人は、それぞれ早速そのパンに齧り付いた。まず、妙が感激して言った。
「……おお! これぞ正しくパン! 麗鈴、天晴(あっぱ)れじゃ!」
 ヒミカも嬉しそうに言った。
「これは本物だわ。やったね! 麗鈴!」
 麗鈴は感涙にむせんで言った。
「……うう……、この味! この歯ごたえ!」
 それまでパンの作り方を知らなかった麗鈴は、小麦粉を塩水で捏ねて薄く伸ばして焼いていたのだが、それはそれでうまかった。インドのロティや、アラブ系料理の主食は大体このようなものである。しかし、小麦を醗酵させることによって出て来る酸味やうま味、気泡とグルテンの粘りによる食感は、これまた格別なものである。
 麗鈴は、自分の焼いたパンを食べながらしみじみと言った。
「……これ最初に考えたもん、世界最大級の天才じゃのぅ……。」
 妙が言った。
「左様。味噌でも醤油でもそうであるが、最初にその仕組みを見い出したる者は、人類にとっての大きな功労者でござる。」
 ヒミカが言った。
「小麦の味をこんな風に変えてしまう自然の力って、ほんとに凄いわ。」
 麗鈴は、ここで口調をやや改めると、声を落としてこう言った。
「……そりゃそうと、ここらの人、プロテスタンツのこと、ええように言わんのぅ。」
 妙も真剣な口調になって言った。
「ローマの大僧正の臣民であるからして、それは当然のことであろう。」
 ヒミカは訝しげに言った。
「……ということは、逆にプロテスタンツも、天主教のことを同じように思ってるのかしら?」
 妙が言った。
「多分そうであろう。」
 麗鈴が言った。
「うちもそう思うが、プロテスタント本人に聞いてみにゃ、ほんまのことはわからんじゃろう。」
 ヒミカが言った。
「それじゃ、その人たちが住んでる場所に行かなきゃね。」
 という話しの流れから、彼女たちは明日にでも川を更にのぼってみることにした。

 翌朝アヴィニョンを出た燕丸は、何日か掛けて川をさかのぼり、とても大きな都市に着いた。
 ここには、大きな船がいくつも繋留してある港があったので、ヒミカ、麗鈴、妙の三人もそれに倣い、船を川岸に接岸させて岸壁に降り立った。彼女たちは、この川に入る前に一度フランス入国の手続きをしている。当時の入国と出国の手続きは、現代のようにきっちりしたものではなかったので、彼女たちは早速この町を探検してみることにした。
 町を彼女たちが歩くと、通行人はみな珍しそうに振り向いた。前のアヴィニョンの町でそのようなことがなかったのは、きっとヨーロッパ以外からもキリスト教徒の巡礼が訪れており、住民が異民族との接触に慣れていたからなのだろう。
 東南アジアには、日本人と同じような顔立ちの少数民族は珍しくないし、中国人も多かった。また、数は比較的少ないけれど日本人もいることはいた。そのため、巫女の装束のヒミカと、中国服の麗鈴、そして侍の服装をした妙が、バンテンの街などを仲良く並んで歩いていれば、「どこかの少数民族の娘と中国娘と日本の侍が連れ立って歩いているんだな」というくらいにしか思われなかったので、誰も振り向くことなどなかった。またイスラム圏で外出する際に彼女たちは、いつも現地の女性と同じような長い服で全身を覆い、頭と顔も隠していたので、それを珍しがる人など誰もいなかった。
 ところが、ここ南フランスの人たちと彼女たちの顔付きはかなり違っているし、乾季の地中海を航海してきたため、本来色白の妙でさえ真っ黒に日焼けしている。しかも、このあたりでは見たことのない変わった服を着ているので、珍しがられるのは当然だった。
 珍しがられているだけではない。この地の料理を食べてみようと思った彼女たちは、昼時に一軒の料理屋に入ろうとした。すると、そこのおかみさんが中から出て来て激しい口調でこう言った。
「こら! この Tigan(ティガン)! ここはあんたたちが来るところじゃないよ!」
 その言葉は、スペイン語とヴェネツィア語が少しわかるヒミカにはなんとか理解できたが、「ティガン」という単語の意味だけわからなかったので、ヴェネツィア語で尋ねてみた。
「Tigan ってなんですか?」
 するとそのおかみさんは、物凄い剣幕で怒った。
あんた、このあたしをからかうってのかい?!
 彼女はそう言うが早いか、近くのテーブルに置かれていたコップを手に取ると、その中の水をヒミカに掛けた。服を濡らされたヒミカであったが、自分がなぜそうされなければならないのかが全く理解できずにいた。子供同士の喧嘩ならともかく、初対面の大人からいきなりこのようなことをされるのは、生まれて初めてのことであったからだ。なぜそんなことをするのかと、ヒミカはその女性に向かって問い詰めようとしたが、妙はヒミカの袖を引っ張ってこう言った。
「ヒミカ、よせ。相手はいきり立っており、まともな話しはできぬ。この場は退散した方が良かろう。」
 ヒミカはその勧めに従がって、この店を後にした。
 石畳が敷かれた細い路地の両側には、石畳と同じ灰色の石で作られた家々が高い城壁のように連なっている。そこを歩いているうちに、ヒミカの目から涙がこぼれ落ちてきた。道を挟んだ家と家との隙間から細く見えている空も、この地方のこの時期にしては珍しく灰色に曇っており、やがて雨がぱらついて来た。

 ヒミカの両脇に寄り添って歩いていた麗鈴と妙であったが、まず麗鈴が優しい口調で言った。
「あのおばちゃん、たまたま機嫌悪かったんじゃろう。あんたが悪いんと違うけん、気にせんでもええぞ。」
 妙も同じような口調ではあったが、彼女はこう言った。
「ヒミカが悪うないのは間違いござらぬが、あの『ティガン』なる言葉が何であるかを確かめねば、これと同様のことがまた起こるのではござらぬか?」
 麗鈴が言った。
「ほなら、別の店に今度は、うちが入ってみるっちゅうのは、どうじゃ?」
 妙がそれに賛成した。
「おお、それは妙案!」
 ヒミカも涙を拭きながら言った。
「……そうね……。ティガンって何なのか、なぜティガンって言われるのかを探る必要があるわ。」
 こうして彼女たちは、キリスト教宗派同士の対立の調査は後回しにして、この事件の原因究明を行なうことにした。
 麗鈴が扉を開けた次の高級そうな店からは、客と店員が口々にフランス語で何か怒鳴ったのが聞こえた。
「〇〇〇! ティガン!」
「〇〇〇〇〇!」
 そして水ではなく、この店の中からはなんとナイフが飛んで来た。中国拳法を身に付けている麗鈴はそれを軽々とかわすと、反撃するために店の中に乱入しようとした。それを察した妙は、素早く彼女の後を追って後ろから抱きかかえると、彼女を店の外に引きずり出した。麗鈴は泣きながら叫んだ。
離せーっ! 離さんかーーーっ!!!
 妙は素早く麗鈴の前に回ると、その頬を軽く平手打ちしてから、毅然とした口調でこう言った。
「麗鈴! 静まるのじゃ!」
 それによって麗鈴はその場によよと泣き崩れかけた。妙はその体を抱き止めて優しく言った。
「……ここでお主が捕えられて罪人となれば、故郷へ帰還できぬやと思い、手荒なことをしてしもうた。許せ麗鈴。」
 その言葉によって、麗鈴は妙の胸に顔を埋め激しく泣いた。この一部始終を、店から少し離れた路上で見ていたヒミカが来て言った。
「これは、同じことを妙がしても、またきっと同じ結果になりそうね。とにかく、ひとまず船に戻りましょうか……。」
 小雨の降る中、ローヌ川の川岸に繋いである燕丸に戻った空腹の三人は、甲板の上の食卓を囲んでへなへなと座り込んでしまった。このような思いをしたのは、三人とも今回これが初めてのことであった。何も悪いことをしていないのに、自分たちはなぜこんな目に遭わなければならないのだろう。昨夜焼いたパンの残りがまだ何個かあったのが、せめてもの救いだった。ヒミカは立ち上がって船室からそれを持って来ると、食卓の皿の上にそれを置いてからこう言った。
「……あたしが思うに、『ティガン』っていうことをあたしたちがしてるか、そう呼ばれてる人たちがいるか。どっちにしても、この町の人たちは、それが好きじゃないのよ、きっと。」
 早速パンに齧り付いていた麗鈴が、それを噛んで飲み込んでから言った。
「……そのようじゃな。うちらがたまたま、それと同じに見えたんじゃろう。」
 妙もパンを一枚手に取るとこう言った。
「しからば、それが何かを探し出してみる価値はござるな。」
 ヒミカも、パンを食べる合い間に言った。
「……そうよね。……これからあたしたちがエウロペの人たちとお付き合いするなら、なぜそういうことが嫌われてるのかを調べてみなきゃね……。」
 遅い昼食を終えた彼女たちは、雨を避けるために船室に入って昼寝をした。
 やがて目覚めた彼女たちは船上に出ると、コーヒーを入れて食卓を囲み、恒例の会議を開いた。既に雨はやんで薄陽が射しており、岸壁や船に当たる川の水の音が、時折りチャプンチャプンと聞こえている。
 ヒミカが、まず妙に向かって尋ねた。
「あたしたちの島では、こういうことは考えられないことだけど、バンテンではどうだった?」
 自分の湯飲みのコーヒーを一口すすった妙は、その問いに答えた。
「……乞食や奴隷に対して、あることはあった。されど回教では、基本的に神の前において人はみな平等であると説いておるようでござるし、身共は異教徒であるが斯様な目に遭うたことは一度もござらぬ。」
 麗鈴も、コーヒーをすすってから言った。
「……バンテンじゃうちらの顔も服も珍しゅうなかったが、ここらじゃ珍しいっちゅうのもあるんじゃろう。」
 ヒミカも、コーヒーをすすってから言った。
「……ってことは、あたしたちがここらの人と同じような服を着れば、それが少しは防げるってこと?」
 それを聞いた妙は、苦笑いして言った。
「お互い、その姿を想像してみぃ。」
 その言葉によって、しばらくお互いを見詰め合っていた彼女たちだったが、ついに堪えきれなくなって笑い出してしまった。
「アハハハハ!」
 真っ黒に日焼けしている一重瞼(ひとえまぶた)の麗鈴を見て、ヒミカが言った。
「あんたが、あの服着てるなんて!」
 麗鈴も、自分と同じように日に焼けているヒミカの顔を見て言った。
「ハハハ! そりゃ、あんたに向けたうちの台詞(せりふ)じゃわい!」
 その地域の伝統に根付いた服装というものは、元々その地域の人の顔立ちや体型をより美しく見せるようにして作られている。逆に言えば、日本の着物を金髪で青い目の人が着ることは、文化的な交流という観点から大いに結構なことだし、微笑ましくもあるが、何かしっくりこないのと同じことだ。
 ここで、日本の洋服のカタログのモデルがほとんど全て西洋人で占められているという、不可解な現象について考えてみよう。よく考えてみれば、これは不可解でも何でもない。洋服を着るのが当たり前になっている現代の日本で、こんなことを書くと笑われるかも知れないが、背広やドレス果てはTシャツからソックスに至るまで、西洋の衣類というものは、本来西洋人が着て美しく見えるようにつくられてある。
 だからこそ、日本の消費者を対象としたカタログなのに、わざわざ西洋人のモデルが起用されているのであろう。そのようなカタログを製作している企業は、人類に備わっているこの自然な美的感覚を、ちゃんと持っているだけのことだ。……さて、話しを元に戻そう。
 笑いが収まったところで妙が言った。
「……それ見てみぃ。恥じの上塗りをするようなものでござろう。」
 麗鈴は、やや毅然として言った。
「うち、一重瞼や色の黒いの恥じとは思うとらんぞ。」
 妙は苦笑いして言った。
「お主が思うておらねども、この町の衆がそう思うておれば、身共(みども)がこの町の茶店から排斥(はいせき)されるという問題は、厳然として身共の前に横たわったままでござろう。」
 ヒミカは、コーヒーを飲み終えるとこう言った。
「……う~ん、難しい問題だな、これは……。
とにかく、『ティガン』っていう言葉の意味だけでもわかれば、この問題を解く鍵が出て来るかもね。」
「この町の尼さんに、それ聞いてみりゃええんじゃろうが。」
 麗鈴はアヴィニョンで、カトリックの尼僧からパンのつくり方を教わっている。彼女がそう言って湯呑みを卓上に置くと、妙もコーヒーの上澄みを飲み干してからこう言った。
「……それは妙案じゃ。」
 ヒミカは立ち上がって言った。
「それじゃ行きましょうか!」
 こうして気を取り直した彼女たち三人は、船を降りて再び町に入って行った。
 路地から人通りの多い大通りに出ると、ヒミカは道行く人に修道院の場所を聞いて回った。しかし、なぜか返事をしなかったり無愛想だったりして、誰もまともに相手にしてくれない。このような反応は、身分の違いが原因となっていることがまず考えられる。当時のアジアでもヨーロッパでも、職業や出身による社会的地位というものは、現代人には信じられないほど重視されていたからだ。
 厳密に言えば、妙は士官の娘であり、麗鈴は医者の娘、そしてヒミカは町長の娘であるからして、当時の社会的地位としてはむしろ高い方に属している。ところが三人とも、自分たちがそのような恵まれた身分であるにもかかわらず、そのことを特別意識していなかったし、肌は農婦か露店市場の売り子のように日焼けしている。そんなヒミカを見て、麗鈴が言った。
「ヒミカ。あんた、色の白いもんに聞きよるけんそげんなるんじゃろう。うちらと一緒で、日焼けしとるもんに聞きゃぁええん違うか?」
 その勧めに従がって、ヒミカはなるべく日焼けした人を探すことにした。しかしこの町の人は元から色白のようだし、ヒミカたちのように濃厚に日焼けした人はなかなか見付からない。やがて、大通りが細い路地になるあたりで、薄汚れた木綿の袋を肩に掛けている一人の小柄な老婆が前から歩いて来た。見るからに貧しそうなその農婦は、顔を赤褐色に日焼けさせている。笑顔が出尽くしていたヒミカであったが、無理に笑顔をつくると、覚えたての現地の言葉で言ってみた。
「こんにちは。」
 するとその老婆は、やはり微笑んで現地語で挨拶を返してきた。
「はい、こんにちは。」
 初めて笑顔で答えてもらったヒミカは嬉しくなって、今度は心から微笑むと、スペイン語混じりの現地語で尋ねた。
「修道院は、どこですか?」
 その老婆はヒミカの頭のてっぺんから足の先まで見ると、やはり現地語でこう言った。
「異教徒と見えるあんたが、修道院へ何しに行くんだ?」
 ヒミカはまた、スペイン語混じりの現地語でこう言った。
「『ティガン』ていう言葉がなんなのかを、聞きに行こうと思って……。」
 それを聞いた途端、その老婆は口を開けて大笑いした。
ワッハッハッハッハ!
 怪訝そうな顔をしているヒミカに向かって、その老婆は言った。
「……あんた、そんなことを聞くために、わざわざ修道院へ行くのかい……、
ワッハハハ!
 老婆が再び大笑いしたので、ヒミカは堪えきれずに尋ねた。
「なんで、そんなに笑うんですか?」
 老婆は、真面目な顔になるとこう言った。
「そんなことなら、このあたしだって知ってるからさ。」
 それを聞いたヒミカは、目を輝かせて言った。
「それなら、私にそれを教えて下さい!」
 老婆が道端の軒下(のきした)に、よっこらしょと腰を下ろしたので、ヒミカもその横に並んで座り、麗鈴と妙もその横に座った。その老婆が、ヒミカに向かって言った。
「ティガンってのはね、昔どっかからやって来た家を持たない連中のことさ……」
 そして彼女は、ヒミカたち三人をじろっと見てからこう言った。
「あんたたち、誰かから『ティガン』って言われたんだろう。」
 その老婆の鋭い目付きに、ヒミカは思わずハッとして言った。
「……え、ええ。よくわかりましたね。」
 すると、その老婆は笑った。
「ハハハハ!」
 ヒミカは、訴えるように言った。
「そんなに笑わないで下さいよ!
ただ言われただけじゃないんです。水をかけられたり、この子なんかナイフを投げられたんですから!」
 ヒミカがそう言って横に座っている麗鈴を指差すと、麗鈴は老婆に向かって頷きながらスペイン語で言った。
「Si. Si.(そうそう。)」
 長い航海の途中、麗鈴も妙もヒミカからスペイン語やポルトガル語を少しずつ教わっていたので、少しは喋れるようになっている。
 老婆は目を丸くすると、ヒミカに向かってまずこう言った。
「あら、ひどいことを!」
 そして麗鈴に心配した顔を向けると、このように尋ねた。
「怪我はなかったかい?」
 麗鈴は老婆を安心させるように微笑むと、スペイン語でこう言った。
「いいえ、ありませんでした。」
 ヒミカは、この老婆が自分たちに対して少なくとも敵意を持っているのではないということがわかったので、彼女に向かって口調をやや改めてこう言った。
「申し遅れましたが、あたしの名前はヒミカ・キタハマって言います。カメガシマから来たジャポネ(日本人)です。」
「ジャポネ?」
 老婆は訝しそうに聞き返したが、ちょっと遠くを見るような目付きになってから、何かを思い出したように言った。
「……おー、そうそう。ずっと昔、ジャポンていう国から男の子が何人か来て、エスパーニャの王様やローマの教皇に会ったって聞いたことがあるよ。」
「ええ、そうらしいですね。あたしたちはクリスチャンじゃありませんけど、その人たちの話しは聞いたことがあります。」
「あんたたちも、そっから来たのかい?」
 その老婆の質問にちゃんと答えると話しが長くなるので、ヒミカは簡単に答えた。
「そこに住んでたのは、あたしたちの親の世代までで、彼らがそこからずっと離れた南の島に移住したので、あたしたちはその島から来たんです。」
 老婆は納得したように頷いて言った。
「なるほど、それじゃぁ日本系カメガシマ人てことだね?」
 ヒミカは微笑んで言った。
「まあ、そういうことです。あなたのお名前は?」
 老婆はそれに答えた。
「クレール・カダブレ。」
 クレールに向かってヒミカは、麗鈴と妙を順に手で示して言った。
「これは、リーリン・チャンとタエ・モリヤマ。あたしの友達です。」
 麗鈴と妙は微笑むと、先ほどヒミカが口にした現地語の挨拶をクレールに向かって言った。
「こんにちは、カダブレさん。」
 クレールも微笑んでそれに答えた。
「こんにちは、リーリンとタエ。」
 ヒミカは言った。
「それじゃ、カダブレさん、ティガンがなぜそんなことをされるんですか?」
 クレールは人通りの多いこの大通を一瞬見渡すと、老婆らしくゆっくりと立ち上がりながら、ヒミカたち三人に向かってこう言った。
「……あんたたち、これからあたしの家へおいで。その答えはそこに着いてから言うよ。」
 ヒミカたちも立ち上がったが、互いに顔を見合わせた。
「既に夕刻によって、その家が遠ければ船に帰れぬぞ。」
 と妙が日本語で言うと、まるでその言葉の意味がわかっているかのように、クレールがすかさず言った。
「今夜は、うちに泊まってけばいいよ。」
 ヒミカがそれを日本語に訳すと、三人はまた不安げに顔を見合わせた。それを見たクレールは大笑いして言った。
ワッハハハ! 大丈夫。取って食いはしないから! さあ、付いておいで!
 やや不安だったが、三人はその誘いに応じることにした。
 クレールの後ろにしばらく付いて行ったヒミカ、麗鈴、妙であったが、その歩く速さには驚いた。まるで走っているようだったからだ。それでもクレールはヒミカたちに気を使って、ゆっくりと歩いているように思われた。妙が思わず唸って言葉を漏らした。
……うむ……ただ者ではござらぬ……
 ヒミカも小声で言った。
……あたしもそう思ってたの。なんだか心の中を見られてるようなときがあって。
 麗鈴も声をひそめて言った。
……けど、悪いもんには見えんぞ。
 このとき、クレールが突然立ち止まって、振り向きざまにこう言った。
「なにをこそこそと話してるんだい! 黙って付いて来な!」
 その言葉はやや乱暴だったが、その褐色の瞳は笑っている。ヒミカたち三人が立ち止まって黙り込むと、クレールはまた元のように前を向いて歩き始めた。
 町を出た四人は、広い麦畑に出た。その中には、小さな荷車がやっと一台通れる程の細い道が、ずっと南に向かって続いている。クレールを先頭にしてヒミカ、麗鈴、妙と縦に並んだ四人は、そこを足早に進んで行った。その周囲は見渡す限り夕陽を浴びた青い麦で、それは風が吹くたびに、金色の波となって地平線の彼方へと伝わって行った。ヒミカたち三人の少女は、走るように歩きながらも、その美しい光景に見惚れた。
 やがて、前方に黒い森が姿を表わし、彼女たちはその中に入って行った。先ほどの細道は、苔の生えている道に変化し、木々の間からは、オレンジ色の太陽の光が見え隠れしている。
 しばらく進むと森の様子が変わってきた。それまでは、人の手が加わっているような感じがあったが、苔むす朽ちた巨木が至るところにあり、そこをねぐらにしている大小様々な鳥や獣たちが見られるような原生林になったのだ。それらの動物たちは、あまり人を恐れる様子がない。ヒミカたちは、それがなんとなく瓶ヶ島に似ているなと思った。
 そのような深い森に入ってから、どれくらい歩いただろうか、気が付けば、もうかなり暗くなっている。ヒミカたちが、心細さと脚の疲労に耐え切れなくなってきたとき、突然やや開けた場所に出た。
 そこには、石を積み上げてつくられている一軒の古い小さな家が建っていた。その横には、木造の牛小屋らしきものもある。それらの周囲には小さな畑があって、トマトやセロリなどの野菜や、香草(こうそう)らしきものが植わっているのが、ぼんやりと見えている。
 その家の裏から一匹の黒猫が駆け出して来ると、先頭を行くクレールの足元に尻尾を立てて身を摺り寄せた。クレールは立ち止まってその猫を撫でながら、優しい声で言った。
「おぉ、アントニウス、今帰ったよ。」
 その家の正面に設けられている狭い石段を登り、玄関を開けたクレールは、ヒミカたちの方を向くと、にこやかに微笑んでこう言った。
「ここがあたしの家だ。散らかってるけど、どうぞ入っとくれ。」
 履いていた木靴を脱がずに、クレールがさっさと家の中に入ってしまったので、ヒミカたち三人は、その場に立ちすくんで互いに顔を見合わせた。クレールは、暗闇の中から怪訝そうな顔を出してこう言った。
「あんたたち、そんなとこで何してるんだい?」
 ヒミカは、遠慮がちに尋ねた。
「あの……、履物履いたまま中に入ってもいいんですか?」
 クレールは、呆れたように言った。
「当たり前じゃないか!」
 その言葉によって、この家はそういう習慣なのだということを知った三人は、エジプトで買ったおしゃれな革のサンダルを履いたまま、恐々とその家の中に入ってみた。
 窓はどれも閉じられていたので、目が慣れるまで中の様子はわからなかった。薬草のものなのだろうか、家の中には独特の臭いが立ち込めていたが、カレーの香料に慣れているヒミカたちは、それを不快には思わず、むしろこの老婆は、そのような薬用植物に対する知識があるのだと感じて、ある種の尊敬の念を抱いた。
 目が慣れてくると、闇の中央に一本の大きな燭台があることがわかった。クレールが、どこからか火種を出して来て、そこに立てられている何本かの蝋燭に火をともしていくと、その周囲から次第にほんのりと明るくなってきた。
 すると、まずその下に、使い古した鍋や食器などが見えてきて、それを乗せている古びた四角い木のテーブルも見えてきた。そして、この燭台はその中央に乗っているということもわかってきた。そのテーブルの四つの面には、それぞれやはり古びた木の椅子が一つずつ据えられている。
 やがて、蝋燭の炎が更に大きくなってくると、この家の中全体の様子が明らかになってきた。
 部屋はこの一室だけで、その正面奥の壁の中央には大きな暖炉があり、その右側には洋服掛けの扉があった。その横の壁際にはベッドが一つ置かれてあり、その枕元の壁に設けられた本棚には、何冊かの古い大きな本が立て掛けられている。ベッドの足元の壁には木のドアがあり、そこからも外に出れるようだった。
 一方、暖炉を挟んだ反対側の壁には、物置か何かの扉があり、その前には一本の木の梯子が、天井裏に上がるために掛けられていた。そちらの面の壁には小さな窓があったが、それは閉じられている。
 部屋の壁に塗られている漆喰は元々白かったのだろうが、暖炉の煙のせいでその上部はどこも黒く煤けているし、天井板に至ってはもう真っ黒になっていた。
 床には、絨毯(じゅうたん)などの敷き物は敷かれておらず、石が剥き出しのままになっている。
 クレールは、暖炉の前の床の上に置かれている小枝の束を手に取ると、ヒミカたち三人の方を向いて、ちょっと照れながら言った。
「ハハハ、婆ちゃん一人の、なんにもない家だけど、どうか辛抱しておくれ。」
 ヒミカは、やや遠慮がちに尋ねた。
「……家族は、いないの?」
 クレールは、ちょっと寂しそうに言った。
「子や孫や曾孫たちは、みな町に住んでるよ。さっきも、そこへ行って来たところさ。」
 ヒミカは再び尋ねた。
「なぜ離れて暮らしてるの?」
 クレールは、今度はちょっと真剣な顔になると、こう言った。
「あたしと一緒だと危ないからさ。」
「……?」
 ヒミカが無言で不安げな顔をしたので、クレールはそれを安心させるように悪戯っぽく片目をつぶった。
「まあ、そのうちわかるよ。」
 彼女はそう言うと、暖炉の前にしゃがみ込んで火を起こし始めた。夏のことなので、暖を取るためではなく夕食の支度なのだろう。ヒミカは気を取り直すと、クレールのその背中に向かって声を掛けた。
「何か手伝うこと、ありますか?」
 クレールはヒミカの方を向くと、ベッドの横にある勝手口のドアを指差して言った。
「それじゃぁ、この家の横に井戸があるから、この壷の中に水を汲んで来ておくれ。」
 そして、暖炉のわきに置かれていた素焼きの壷をしゃがんだまま手に取ると、それをヒミカに手渡した。ヒミカはそれを受け取ると、勝手口のドアを開けて、水を汲むため外に出て行った。
 麗鈴と妙も、クレールに向かって口々にスペイン語で言った。
「私にも何か?」
「私にも。」
 するとクレールは、床の上に置かれている大きなバスケットを指差して言った。
「それじゃ、あんたたちは、この中の野菜を切っとくれ。あたしはそのあいだ、この上を片付けるから。」
 彼女はそう言って、散らかっているテーブルの上を片付け始めたので、麗鈴と妙も早速そのバスケットに歩み寄った。
 やがて食事の支度ができると、四人はテーブルに着いた。暖炉を背にしてクレール、その右手にヒミカ、左手に妙、そして玄関を背にして麗鈴が座ると、テーブルの中央に立っている蝋燭の明かりに照らされたクレールは、神妙な顔付きになって呪文を唱えるようにこう言った。
「……天の父、地の母交わりて産まれしこの糧(かて)よ、血となり肉となりて我らを育(はぐく)み給(たま)え……。」
 それが終わるとクレールは、ヒミカたち三人に向かって目で食べるよう促がし、自分も食べ始めたので、ヒミカたちも食べ始めた。サラダ、豆と野菜の煮物、それにパンとチーズといった質素な夕食ではあったが、それはヒミカたちが普段食べているものとほとんど変わらなかった。但し味付けはこちらの方がずっと淡白で、ヒミカたちの知らない香草の爽やかな香りが印象的だった。
 食事の前の祈りの言葉が、カトリックのそれとは違っていたことに気付いたヒミカは、クレールに向かって尋ねた。
「カダブレさん、あなたの宗教は何ですか?」
 ちぎったパンを煮物の汁に浸して食べていたクレールは、やや険しい目付きになってこう言った。
「この家に来たことと、これからあたしが話すことを、この国では誰にも言わぬと、あんたたちが誓うんなら言ってもいいよ。」
 ヒミカは、この言葉を麗鈴と妙のために訳してから、「誓う」という意味のスペイン語を教えた。三人の少女は、スペイン語混じりの現地語で同時に言った。
「私たちは、それを誓います!」
 クレールは、穏やかな眼差しに戻ってこう言った。
「そうか、それなら言おう。……この土地に昔から伝わってる宗教さ。呼び名はないよ。」
 ヒミカが興味深そうに尋ねた。
「それは、カトリックがこの地に来る前からの宗教ってことですか?」
 クレールは頷いて言った。
「そういうこと。」
 日本でも、仏教や儒教が入ってきてから、それらと区別するために「神道(しんとう)」などと呼ぶようになったが、元々土着の信仰に特別な名称はなかったはずである。
 ヒミカは納得したように言った。
「そうかぁ、さっき猫に向かって『アントニウス』って言ってたのを聞いたとき、変だなって思ったんですよ。」
 そのスペイン語の意味を理解した麗鈴が、ヒミカに向かって日本語で尋ねた。
「『アントニウス』が、なして変なんじゃ?」
 ヒミカはその問いに、同じく日本語で答えた。
「この国でその名前は、『アントワーヌ』って言うはずだからね。」
 麗鈴と妙が、感心したように口を揃えて言った。
「なるほどのぅ。」
 ヒミカは、クレールが信仰している宗教についてもっと詳しく知りたかったが、とにかくまず「ティガン」の問題を解決しなければならないと思ったので、彼女に向かって現地語混じりのスペイン語でこう言った。
「そのことをもっと聞きたいですが、まず先にティガンのことについて教えてもらえませんか?」
 クレールは微笑んで言った。
「おう、そうだったね。約束したんだから、まずそっちから話すよ。」
 ヒミカたち三人は、食べながらも興味深そうにクレールに注目した。クレールは話しを始めた。
「わけはいろいろあると思うけど、……妬みも大きいだろうね、ティガンが嫌われてるのは。
金持ちが貧しい人に救済の手を差し伸べたりすることはよくあることだけど、それはその人たちを弱い人、可哀想な人と思ってるからなんだよ。でもティガンは可哀想だって思われてない。したたかで liberté(自由)だからさ。
……そりゃあの人たちの中では、厳しい掟(おきて)や力関係もあるだろうよ。でも、土地や家を持ってないから、どこの国にも支配されてない。キリスト教徒だけど、好きなときに好きなところへ行けるから、どこの教会にも支配されてない……。
定住してるもんは、みんなそれをかなり羨ましく思ってるんだろう。」
 ヒミカは尋ねた。
「何か悪いことをして、嫌われてたんじゃなかったの?」
 クレールはそれに答えた。
「いや。そう思ってる人は多いだろうが、それは間違った考え方だね。同じ悪いことをしても多数派は目立たないけど、身分や出身が違う少数派は目立ってしまう。それによって社会の隅に追い遣られたティガンのような少数派は、生活に困って余計に悪さをするようになる。その悪循環が招いた結果だよ。」
 ここまでの会話を麗鈴と妙にヒミカが訳して聞かせると、二人は食べながらも真剣な表情で頷いた。自分たちの親の世代が、日本国内では正にティガンのような存在であったことを知っていたからだ。
 ヒミカにも事の真相が見えつつあったが、念のためにクレールに尋ねた。
「それじゃ、あたしたちがティガンと間違われたのはなぜだと思いますか?」
 クレールは真剣な表情で言った。
「それは、あんたたちもきっと国や教会から支配されてないからだろう。そのあんたたちの周囲に漂ってるそういう空気を、町の人たちは敏感に感じたんだろうよ。」
 ヒミカがこの言葉を訳して伝えると、それまでチーズをパンに挟んで食べていた麗鈴が納得したように言った。
「……なるほどのぅ。うちの父ちゃん母ちゃん、それぞれ自分の国から追われんさったが、それに負けんと自分たちの町つくりんさった。うちら子供んときからずっとそこで育っとるけん、そげんなって当然じゃろう。」
 サラダをパンの上に乗せて食べていた妙も、それと同じように言った。
「……拙者の父は豊臣の家臣より、母は北条家より、いずれも一切の縁を切って出て参ったによって、その二人に育てられし拙者、その気風受け継ぐは当然なのであろう。己(おのれ)では今までそれを気付かずにおってござったが……。」
 この二人の言葉をヒミカがそれぞれ訳すと、クレールはまた微笑んでこう言った。
「やっぱりそうか……。町で初めてあんたたちを見たとき、すぐにそう思ったよ。ティガンじゃないとは思ったけどね。」
 その言葉を聞いたヒミカは、ちょっと悪戯っぽい表情になって言った。
「ということはカダブレさん。あなたも?」
 クレールは笑って言った。
「ハハハ! わかったかい? あたしの場合は教会からの自由しかないけどね。こっから、さっきの宗教の話しにつながっていくんだよ。」
「なるほど……。それじゃ、あなたの信じている宗教について詳しく聞かせてもらえませんか?」
 ヒミカがそう言うと、クレールはまた笑って言った。
「ハハハ! 詳しくも何も単純明快。自然や動物を神として崇める宗教さ。」
 それを聞いた途端、ヒミカたち三人は目を丸くして互いに顔を見合わせてしまった。なぜなら、それは瓶ヶ島の宗教の理念と同じだったからだ。仏教徒と自称している妙も、幼い頃から瓶ヶ島の者と付き合いをしているので、その教義については島民と同じくらいによく知っている。彼女たちの驚きを察したクレールも、やや驚いて言った。
「もしかして、あんたたちもそうだったのかい?」
 ヒミカがそれに答えた。
「ええ。タエは仏教徒ですが、あたしたちの教えのことをよく知っています。」
 それを聞いたクレールは、額に手を当てると嬉しそうな悲鳴を上げて言った。
「ありゃりゃ! こりゃ驚いた! 今夜はとんだお客が来たよ!」
 その姿が可笑しかったので、ヒミカたち三人は楽しそうに笑った。
 一同が打ち解けたところで、ヒミカは気になっていたことを尋ねるため、クレールに呼び掛けた。
「Madam Cadabourè...(カダブレさん……)」
 クレールは悪戯っぽい笑顔になると、ヒミカのその言葉をさえぎってこう言った。
「もう『Madam(さん)』は、いらない。クレールって呼んでくれよ。」
 ヒミカは言い直した。
「それじゃ、クレール。なぜプロテスタンツはカトリックから離れたの?」
 クレールは、やや真剣な表情になってそれに答えた。
「あたしはプロテストン(プロテスタント)じゃないから、ほんとのところはどうだか知らないけど、あたしが思うにだね。カトリックは組織の内部で流れが止まっちまったんだろう。水は溜まってると腐ってくる。たまにでもいいから少しは流れてなきゃね。それとおんなじことさ。」
 彼女の話しを聞きながらパンに煮物を包んで食べていたヒミカは、その話しを麗鈴と妙に訳して伝えた。すると二人は食べながらも、感心したように相槌を打った。
「……ほうか……。」
「……なるほど。」
 パンの上にチーズとサラダを乗せて食べたクレールは、ヒミカたちの顔を見渡して尋ねた。
「あんたたち、cruciata(クルキアタ)って知ってるかい?」
 その現地語の意味を理解した三人の少女は、怪訝そうな顔を横に振って言った。
「いいえ。」
 クレールは、真剣な表情になって話しを始めた。
「今から500年ほど前、トルコに攻められたギリシャの皇帝が、ローマの教皇に援軍を求めた。ところが教皇は軍隊をギリシャには送らず、聖地エルサレムを奪還するとか言って、そっちに差し向けたんだ。これが、第1回クルキアタだ。
そして、この軍隊の実態は、聖地に住む人を虐殺したり、女の人に乱暴したり、財宝を略奪したりっていう野蛮な侵略者だった……。」
 三人の少女は、極めて真剣な表情になって、その話しに耳を傾けた。クレールは話しを続けた。
「こういうことはね、宗教者のすることじゃないよ。いや、そもそも人間としてすべきことじゃない。
こういうことをした人を教皇が罰するならともかく、見て見ぬ振りをしてるから、カトリックはどんどん腐っていったんだろう……。
だから、その腐敗を嫌った人たちがプロテストンに流れ込んだんだろうね。それに懲りて内部を浄化させれば、またカトリックに戻って行く人もいるだろうけど。」
 ヒミカは、また質問した。
「それじゃ、クレール。あなたはカトリックとプロテスタントの、教えそのものについてはどっちが正しいと思うの?」
 クレールは、困った顔になってこう言った。
「そんなこと、キリスト教徒じゃないあたしに聞かれても困るよ。あたしにとってはどっちも同じことさ。どっちの信徒もあたしらのことを sorcière(ソシエレ)呼ばわりするんだから。」
(お使いのOSやフォントによっては、これらの外国語表記の一部が正確に表示されない可能性があります。その際は悪しからず。作者より)
 ヒミカは尋ねた。
「ソシエレって何?」
 クレールは、やや呆れた顔になって逆に問い返してきた。
「あんた、ヨーロペに来てから何日経つんだい?」
 ヒミカは言った。
「ここではエウローペのことをそう言うのね……。十日は経ったかな……。」
 クレールは、苦笑いして言った。
「そうかそうか、そりゃ知らなくても仕方ないね。
ソシエレってのは……うーんと……そうだね、魔の女、魔女っていう意味かな。中には男もいるけど。」
 ヒミカは、確かめるように言った。
「良くない意味なのね。」
 クレールは、やや興奮して言った。
「そうだよ! あたしらは薬草を煎じたりして人や家畜の病気や怪我を治してるのに、悪者扱いされてるんだ!」
 ヒミカがこの言葉を訳すと、麗鈴と妙は憤慨して口々に言った。
「そりゃひどい話しじゃ。」
「恩を仇で返すとは、正にこのことでござる。」
 それをヒミカが訳すと、クレールは涙を浮かべて言った。
「そうだよ。特にこの町にはX教団(イクスきょうだん)の信者が多くてね、そいつらに仲間がもう何人も捕まってるんだよ。」
 ヒミカは、怪訝そうな顔で尋ねた。
「X教団……?」
 クレールは、その説明をした。
「近頃、ここらで急に勢力を伸ばしてきた教団だから、あんたは知らないだろうけどね、X(イクス)の印を聖なるシンボルとして崇めてるから、そう呼ばれてるのさ。」
 ヒミカは、やや深刻な表情になって言った。
「捕まったら、どうされるの?」
 クレールは、やや憤慨して言った。
「そりゃひどいことなる! 自分では魔女だと思ってないのに、拷問されて無理やり『私は魔女です』って言わされるんだ。そして魔女っていう証拠が出て来ると、その者は必ず火あぶりにされるのさ!」
 ヒミカがこれを訳すと、麗鈴と妙は深刻な表情になって食べるのをやめた。ヒミカも食べるのをやめると、やはり憤慨してこう言った。
「なぜ!? あたしたちだって異教徒だけど、そんなことされなかったのに!」
 クレールは言った。
「そう。ただの異教徒だったらそこまでされないと思うよ。でも、あたしたちには不思議な力があってね。X教団の連中はみんな、それが羨ましいんだろう。
また、教団の教会は教会で、あたしたちが『奇跡』を起こすことを恐れてる。それによって自分たちの人気が、あたしたちの方へ移るんじゃないかってね。だから、さっきのティガンの話しとおんなじさ。一種の妬みだよ、これは。」
 ヒミカは、興味深そうに身を乗り出して言った。
「その不思議な力って、どんなことなの?」
 クレールはそれには答えず、黙ってテーブルの上の一点に視線を移した。ヒミカたちも、それにつられて何気なくそこを見たが、その三人の少女たちの目には、全く信じられないような光景が映った。
 テーブルの中央に置いてあるパンを乗せた大きな皿が、音もなく空中に浮き上がったのだ。それは一尺ほどの高さのところでしばらくじっとしていたが、やがてすーっと下におり、ゴトンという音を立てて元の位置に戻った。
 麗鈴は、手の甲で目を激しく擦ると、妙の方に身を寄せ小声で言った。
……なぁなぁ、うちの目、おかしゅうなりよったんかのぅ?
 目を丸くして絶句していた妙は、辛うじてそれに答えた。
いや、拙者もしかと見た。……やはりただ者ではなかったわ……
 ヒミカも、目を丸くしてクレールに言った。
「凄いわ! あたしたちの島には、先のことや人の心を読める人はいるけど、ここまでできる人見たの初めてよ!」
 クレールは、寂しそうに微笑んで言った。
「でもね、たかがこれしきのことで命が狙われるんだよ、この町では。」
 ヒミカは納得したように言った。
「なるほど、あなたがさっき言ってた『危ない』って、そのことだったのね?」
 クレールは、真剣な表情になって言った。
「そうさ。」
 ヒミカはまた憤慨して言った。
「それって間違ってるわ! あたしたちの島では、不思議な力を持った者が敬われてて、その力が最も強い女性が町を治めることになってるのに!」
 クレールは羨ましそうな顔をして、しわがれ声で言った。
「おや、いいねぇ……」
 そして、寂しそうな表情になるとこう言った。
「ここも大昔は、きっとそうだったんだろう。でも、あたしたちはみな、なるべく人を陥れたり暴力をふるったりしないで生きるように教えられてる。そのため、人を騙して物を取ったり、弱い者をいじめたりすることをなんとも思ってないような連中から、簡単に国を奪われちまった。
そして、今はこの有り様さ。今度はその教えさえも根絶やしにされようとしてるんだ。」
 ヒミカは深刻な表情になってこれを訳してから、麗鈴と妙に向かって日本語で言った。
「……これじゃ、エウローペの普通の人と付き合うと、あたしたちも同じような目に遭うと見ていいわね。」
 妙も深刻な表情で言った。
「どうもそのようでござる。」
 麗鈴も同じように言った。
「こりゃ、うちらがエウローペに来て知った中で、一番大事なことじゃ。」
 この三人の会話の意味がまるでちゃんとわかっているかのように、クレールはこう言った。
「あんたたちにもそういう力があるんなら、あたしたちを消そうとしてる連中には気を付けた方がいいよ。こういう連中は、国や宗教なんて関係ない。これから世界中、どこにでも出て来るだろう。たまたま、ヨーロペが一番早かっただけだから。」
 ヒミカは、眉を寄せて尋ねた。
「なんでそれがわかるの?」
 クレールはその問いに答えた。
「あたしたちの中で先のことを見れる者が、水晶の玉の中でそれを見たそうだ。
……要するにこの世の中、物や金を得ることしか頭にない連中が増えて、そうでない人たちをどんどん駆逐し、自分たちの都合の良いように世の中をつくり変えてしまうってことだよ。」
 ヒミカは、やはり訝しそうに尋ねた。
「そういう人たちから、どうやって身を守ればいいの?」
 クレールは、力なく微笑んで言った。
「変わったことは何もしないこと。周囲の人と同じように、ずる賢くて欲深かにしてることさ。それしかないよ。」
 ヒミカがその言葉を訳すと、麗鈴が不満気に言った。
「それじゃ、せっかくのその力が勿体ないのぅ。」
 ヒミカがそれを訳すと、クレールはやや興奮して言った。
「そうさ! 神様がせっかく与えて下さったのに、その力を使わないなんて、泳がない魚みたいなもんだよ。だから、あたしたちの仲間は、たとえ殺されようとも、人のためにその力を惜しまず使うことにしてるんだ。そして、次々と刈り取られていく……。」
 彼女はそう言うと、エプロンの裾で目頭を拭った。ヒミカの訳によってそれを聞いた麗鈴と妙は、憤慨して口々に言った。
「その力使うて、相手をやっつけてはどうじゃ?」
「左様! 反撃するのでござる!」
 それをヒミカが訳すとクレールは顔を上げ、やや毅然として言った。
「そう言ってくれるのは嬉しいけどね、あたしたちが持ってるこの力は、人を傷つけたり殺したりするために神様から与えられたんじゃないんだよ。」
 これと同じことを思っていたヒミカが言った。
「人を助けるためにあるんだもんね。」
 クレールは嬉しそうに言った。
「そうだよ! 中には邪悪な使い方をする者も昔からちょこちょこ出たようだけどね。でも、そういう奴らは必ず滅びてるよ。」
 ヒミカは、やや困ったように言った。
「でも、やられっ放しだと、やっぱりいつかは滅びてしまうんじゃないの?」
 クレールは寂しそうに言った。
「そうだよ。これも、もうわかってることだけどね、この後200年のあいだに、あたしたちの教えがこの国からなくなっちまうってことが。」
 ヒミカがこれを訳すと、麗鈴と妙は目を丸くして悲鳴を上げた。
えーーーっ!?
 彼女たちがそこまで驚くとは思っていなかったようで、クレールは片手を胸の前で横に振りながら言った。
「いやいや、完全に滅えるわけじゃないよ。組織的な活動がなくなるだけで、人は誰だって本当はこういう力を、多かれ少なかれ生まれ持ってるんだから。」
 ヒミカが機転を利かせて言った。
「つまり、それを正しく使うように導く人がいなくなると……?」
 クレールは、嬉しそうに言った。
「そうそう! そういうことさ。文明化された人は、自分がそんな力を持ってるなんて知らないし、たとえ知ったとしても誤った使い方をして自分も他人も不幸にする。それを正しい方向に導いていく者が必要なのさ。」
 ここで言葉を切った彼女は、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「そういう者がいなくなると、この世はどうなってしまうかわかるかい?」
 ヒミカがそれを訳すと、三人の少女は互いに顔を見合わせたが、すぐに答えられなかったので、クレールは言葉を続けた。
「……普通の人には見えないもの聞こえないものを、あたしたちには見たり聞いたりすることができる。例えば、遠くの星から送られて来るメッセージを受け取ったりとか、森の精霊や動物たちと話しをしたりってな具合にね。」
 三人の少女は黙って頷き、クレールは極めて真剣な表情になって言った。
「ところがだ。そういう力を持った者がこの世にいなくなれば、それまで人間社会にとって必用だった機能が損なわれることになる。」
 彼女は、ここでやや口調を変えてこう言った。
「……ところであんたたち、蜜蜂を飼ったことあるかい?」
 三人の少女は、黙って首を横に振った。クレールは言った。
「そうかい。それじゃ説明するけどね、蜜蜂の社会では、女王蜂、雄蜂、働き蜂っていうように、それぞれ役割分担が決まってるんだ。働き蜂がいなけりゃ女王蜂は育たない。女王蜂や雄蜂がいなけりゃ子供が産めなくて、その蜂の群れは滅びてしまう。どれか一つ欠けても駄目なんだ。
人間社会だって同じことだ。木を切る人、畑を耕す人、羊を飼う人、道具を作る人ってな具合に、それぞれある程度役割分担が決まってる。これが大昔なら、あたしたちのような者の役割はちゃんと社会から認められてたんだ。ところが今の社会は、あたしたちを消そうとしてる。すると、どうなっちまうのかって聞いてるのさ。」
 ヒミカが恐々と言った。
「……滅びてしまう?」
 クレールは、また寂しそうに微笑んで言った。
「その通りさ。あたしたちのような『感覚機能』を失ってしまったこれからの世の中は、どんどん変な方に進んで行き、やがて滅びてしまうよ、必ずね。」
 ヒミカの訳でそれを聞いた妙が、深刻な表情で言った。
「うむ、クレール殿のお話しは筋が通っておる。その理屈でいけば、人類は確実に滅亡すると見てよかろう。」
 その一方、楽天家の麗鈴は、やや明るい声でこう言った。
「ほんなら、どっかに隠れとって、この世が滅びそうになったら、『ほれ見たことか!』言うて、姿現わすのはどうじゃ? そげんすりゃぁ、みな『助けて下さい』言うて逆に頭下げて来よるかわからんぞ!」
 ヒミカがこれを訳して伝えると、クレールは笑ってこう言った。
「ハハハ! リーリン! あんた面白いこと言う子だねぇ。」
 やがて、夕食を食べ終えた彼女たちは、早々と寝ることにした。
「普段からの早寝早起きは、まともな心と体の基本だよ。」
 クレールはそう言って明かりを持つと、梯子を伝って天井裏に上がった。そこから顔を出した彼女は、三人の少女に向かって手招きをした。三人が梯子を上がると、そこには麦藁の束が山のように積まれていた。クレールは言った。
「お客用のベッドがないから、ここで辛抱しとくれ。」
 これが三人の寝床というわけだ。しかし、よく乾燥している清潔な麦藁は、お日様の匂いがしており、彼女たちにとっては快適な寝床となった。

 モォーッ!
 という牛の大きな鳴き声で、ヒミカ、麗鈴、妙の三人はほとんど同時に目が覚めた。
 彼女たちが真っ暗な天井裏から梯子を伝って下に降りると、部屋の中はまだ薄暗く、開けられた窓の外に見えている世界も薄青かった。暖炉の中には既に火が赤くめらめらと起きており、ベッドの中にクレールの姿はなかった。
 間もなく勝手口のドアが開いて、猫のアントニウスを足にからみ付かせながらクレールが入って来た。片手には銅の鍋を抱えている。暖炉の前に立っていたヒミカたちはそちらを向くと、覚えたての現地語でこう言った。
「おはよう、クレール。」
 クレールは微笑んで言った。
「おはよう。よく眠れたかい?」
 三人も微笑むと、また口を揃えて言った。
「はい。」
 持っていた鍋の中の牛乳を、暖炉の横の床の上に置いてある小皿の中にクレールが少し垂らすと、アントニウスが待ってましたとばかりにそれを舐め始めた。毎朝こうして、お裾分けを貰っているのだろう。クレールは、その鍋を暖炉の火に掛けた。
 南向きの玄関の扉がクレールによって開け放たれると、家の前に広がっている畑に、木々の隙間から淡いオレンジ色の朝陽が射し込んで来ているのが見えた。彼女がそこから外に出たので、ヒミカたち三人もその後に続いた。周囲の森の梢では、小鳥たちが無数の歌を盛んに披露している。
 畑の隅には小さな葡萄棚(ぶどうだな)があって、その下には家の中と同じような質素な木のテーブルと椅子があった。
 やがて、そのテーブルの上に、パンの乗った皿とジャムの入った壷、ホットミルクが入ったカップなどが、四人の手によって次々と並べられていった。準備が整うと、その四人は席に着き、クレールが昨晩と同じようにして祈りを唱えた。
「天の父、地の母交わりて産まれしこの糧(かて)よ……」
 その祈りが終わると四人は食べ始めた。
 ホットミルクをふーふーと冷ましてから一口すすったヒミカが、クレールに向かって尋ねた。
「クレール、天に父の神がいて、地に母の神がいるの?」
 パンにジャムを塗りながら、クレールがそれに答えた。
「うん。……というよりも、天が父で地が母っていう方が正しいね。それを司(つかさど)ってる神様は一つなんだから。」
 麗鈴が、現地語を交えたスペイン語で尋ねた。
「なぜ、天が父なんですか?」
 クレールは、それに答えた。
「牛の種付けだって何だってそうだけど、男が与えて女がそれを受けると、そこに命が生まれる。陽の光が降り注ぎ雨が降る。これはみな天の仕業だ。それを地が受けると、その上に生き物が生まれ育っていくだろう? だから天が父で地が母なのさ。」
「なるほど……。」
 ヒミカたちは三人とも感心して頷いた。クレールは微笑んで言った。
「世の中、大体この仕組みで成り立ってるんだよ……。」
 この後ヒミカたちは、クレールの信仰している宗教について簡単な説明を受けた。その最後にクレールはこう言った。
「……だからね、神様ってのは本来たった一つだけだし、誰の物でもないんだ。それを特定の誰かのためにあるように人間が作り変えちまうから、この世にいくつも神様ができ上がって話しがややこしくなってくるんだよ。」
 ヒミカが言った。
「……なるほど……。あたしたちが信じてる神様と、あなたが信じてる神様は、実は同じだったと……?」
 クレールは、嬉しそうに言った。
「そうそう! そうなんだよ。モーゼだって、クリスト(キリスト)だって、モハメ(ムハンマド)だって、きっとみな同じ神様の声を聞いたんだろう。でも、同じだと思ってない人が多いようだけどね。」
 ヒミカは尋ねた。
「それじゃクレール、Mongol(モンゴル)っていう国のこと知ってる?」
「ああ、知ってるよ。ジンギス・カーン(チンギス・ハーン)……、クビライ・カーン(フビライ・ハーン)……。」
 ヒミカは、やや力を込めて言った。
「そうそう!」
 彼女は言葉を続けた。
「そのクビライ・カーンのとき、モンゴルがジャポンを二度攻めたそうだけど、そのたびに大風が吹いて軍船が沈み、ジャポンを支配することができなかったって聞いてるわ。これをジャポンでは神様の仕業(しわざ)って言ってるそうだけど、そうすると、戦争に勝ったジャポンの神様と負けたモンゴルの神様は、同じじゃないってことだよね?」
 クレールは苦笑いして言った。
「おやおや、ずいぶん難しいことを聞くんだねぇ……。あたしゃ、それを見たんじゃないから断言はしないけど、それはどちらも同じ神様だと思うよ。」
 ヒミカが目を丸くしてこの会話の内容を訳すと、妙も驚いて言った。
「ほう! 然(しか)らば、その神が日の本に加勢して、蒙古(モンゴル)に加勢しなかったはなぜでござるか?」
 ヒミカがこれを訳すと、クレールはやや真剣な表情になってこう言った。
「そうか……。これはとても間違い易いことだから、よく聞くんだよ。」
 三人の少女は、食べながらではあるが、真剣な表情で頷いた。クレールは話しを続けた。
「……神様ってのはね、この世の全ての人を生かしもするし殺しもする。そしてそれは平等なんだ。誰だって、生まれたら必ず死ぬようにできてるだろう? その長さが、それぞれみな違うだけさ。わかるだろう?」
 ヒミカたち三人は食べるのをやめると、また黙って頷いた。クレールは更に話しを続けた。
「でも、人間って生き物は都合良くできててね、たまたま運良く事が運ぶと、自分が神様から特別扱いされてるように錯覚してしまう。自分だけが可愛がられてると思い込んでしまうんだよ。これが間違いの大元なんだ。」
 クレールも食べるのをやめると、極めて真剣な表情になってこう言った。
「いいかい? 自分が神様から選ばれてるんだと思ってる人は、他の人を見てどう思うか考えてごらん。」
 ヒミカがこれを訳すと、三人の少女は、自分がそうなったことを想像してみた。ヒミカが言った。
「他の人は、自分より劣ってるって思うとか?」
 クレールは、目をカッと見開いて言った。
「そうだよ! 本当の神様のことわかった上でそう思うんなら、それは間違いじゃない。
ところが、物欲の塊りのような人間が自分は常に正しいと思うと、自分の欲望のために他人を傷付けたり殺したりすることを、何とも思わなくなるんだ。何をしようとも自分の行いは正しいんだから。極めて危ない考え方だよ、これは。
昨日話したクルキアタ(十字軍)も、その一例だ。」
 ヒミカからこれを訳してもらった麗鈴と妙が揃って頷くと、クレールは話しを続けた。
「だからね、もしジャポンの人たちが、『自分たちは神様から特別扱いされてるんだ』って思ってるんだったらね、いつか本当の神様から天罰が下るよ。」
 これを聞いて目を丸くしたヒミカが、麗鈴と妙に向かってこれを訳すと、二人ともやはり目を丸くして思わず叫んだ。
「えーーっ?!」
 クレールは、神妙な口調になって言った。
「自分の物欲を満たすために他人を傷付ける。教団の利益のために他の宗教を暴力によって攻撃する。民族の利益追求のために他の民族の住む土地を侵略する。これらはみな同じことだ。本当の神様は、こういうことをする者に天罰を下すのさ。
だから、ジャポンの人たちが調子に乗って、よその民族の土地を侵略するようなことがあれば、それは天罰となって必ず返って来ることになる。」
 これを他の二人のために訳してから、ヒミカが急き込んだ口調で尋ねた。
「天罰って、例えばどんなことなの? クルキアタはどんな天罰を受けたの?」
 クレールは言った。
「天罰には、大水(おおみず)、大風(おおかぜ)、目の眩むような火、いろいろあるよ。
クルキアタを異教徒の地に送ったカトリックが受けた罰は、昨日も話したように、プロテストンが現われて、それと永いこと争わなければならなくなったことさ。」
 この言葉の意味を大よそ理解した三人の少女たちは、真剣な表情で頷いた。クレールは話しを続けた。
「だから、あたしに言わせりゃね、ジャポンを攻めたときは、モンゴルの皇帝の頭に血がのぼってたか何かで、空の雲行きのことを考えてなかったんだろう。
人間のために天の神様がわざわざ動いて加勢するなんてことは、まずない。神様の動きに人間が合わせてて、それがちゃんと合ってる方が戦争にも勝てるし、何をやっても成功するだけのことだ。
人間これを間違えて、どの国も自分の国が勝つようにと、バラバラに祈りや呪(まじな)いをしてる。馬鹿げてるよ全く。神様は一つだけなのに。」
 ヒミカがこれを訳すと、麗鈴が日本語で言った。
「ちゅうことは、戦(いくさ)に勝つよう祈るよりも、空の雲行き見よってそれに合うた戦の仕方しよる方が勝てると……?」
 ヒミカがこれを訳すと、クレールは嬉しそうに言った。
「そうそう! そういうことさ!」
 この言葉の意味は妙にもわかったので、彼女はこう言った。
「なるほど……。神が日の本に加勢したのではなく、蒙古が神に逆らうたまでのことでござるな?」
 これをヒミカが訳すと、クレールはまた嬉しそうに言った。
「そうそう!」
 そして彼女は、今度はわざと困ったようにこう言った。
「ああ! この世の中、あんたたちみたいに物わかりのいい人がもう少し多けりゃ、揉め事はずっと減るんだろうけどねぇ!」
 その冗談が可笑しかったので、ヒミカたちは楽しそうに笑った。
 ヒミカはひとしきり笑うと、クレールに向かってこう言った。
「……神様が一つなのに、世の中の国々がバラバラに祈ってるから戦争になるってことはわかったわ。
でも、あたしたちが昔から、火の神様、海の神様、山の神様って言ってたのは、神様じゃなかったの?」
 クレールは、それに答えた。
「そういう神様を、あたしたちは精霊って言ってるよ。
あと、昔死んだ立派な人。これも神様って言われることが多いけど、それもやっぱり霊の一つだ。
これらの霊自体も、一つの神様の決めた法則によって動いてて、それに逆らうことはできないんだからね。」
 これを他の二人のために訳したヒミカは、クレールに向かって言った。
「なるほど、わかったわ。だけど、神様を一つにまとめるって、大変なことだよね。」
 クレールが言った。
「そうだよ。でも、それを平和的に解決する方法が、昔から一つだけあった……。」
 ヒミカたち三人は、食べながらも興味深そうに身を乗り出して、クレールの次の言葉を待った。
「それが多神教さ。」
 クレールがそう言ったのをヒミカが訳すと、麗鈴と妙は思わず驚きの声を上げてしまった。
「えーっ!?」
 クレールは笑って言った。
「ハハハ! 矛盾してるよね。『神様は一つ』なんて言っておきながら、『多神教がいい』なんて言うんだから。」
 その意味を理解した三人は黙って頷いた。
「エジプトでもギリシャでもローマでもそうだ。それまで小さな国一つ一つが信仰してた神様を、国が大きくなるとまとめなきゃならない。普通なら戦争で負けた方の国の神殿を壊し、そこに祭られてる神様を消してしまうんだ。でもそうじゃなくって、新しく仲間に入った国の神様を、新しい神様として受け入れることができるから、自分の神様の方が偉いと言い合って戦争を起こすくらいなら、多神教の方がまだましだっていうわけだよ。」
 これを、ヒミカの訳で聞いた麗鈴が言った。
「なるほど……。日本の神話が正にそれじゃのぅ。」
 妙が言った。
「天竺のさる宗教では、仏陀(ブッダ)を神の化身として受け入れておると聞いておる。」
 ヒミカがこれらの言葉を訳すと、クレールは感心したように言った。
「おお、そうか。それはいいことを聞いた。」
 ヒミカが言った。
「ということは、もしキリスト教が多神教だったとしたら、クレールたちが狙われるようなことはなかったのかもね。」
 クレールは、残念そうに言った。
「そうなんだよ。クリスト(キリスト)が生きてた時代には、逆にあの人たちがローマやジュード(ユダヤ)の一派から迫害されてた。それから身を守るためには結束が必用だ。だから、クリストの教えを唯一のものとして誓いを立てることにしたんだろう。
でもそれが災いして、この宗教に権威が生じ、その権力者に代々それが利用されることになってしまったんだね。その当時のクリスト本人としては、自分の教えがこれほど国を超えて広まるとは思ってなかったんで、そこまでは見抜けなかったんだろうよ。」
 ヒミカの訳を聞いて、麗鈴が言った。
「なるほど。元はローマやジュードから身ぃ守るためにあった力が、その他の国々では、地元の宗教を押さえ込む力になってしもうたんじゃのぅ。」
 ヒミカの訳によって、その言葉を聞いたクレールはこう言った。
「そうだよ。だからね、あたしゃクリストが悪いとは思ってない。だけど、そのお弟子さんに一言言っといてほしかったね。『他の宗教とも仲良くしなさい』って。」
 話しに興じているうちに四人は食べ終わっており、クレールがテーブルの上を片付け始めたので、ヒミカたちもそれを手伝った。
 やがて、食器を洗って片付けが終わると、ヒミカは麗鈴と妙に向かって言った。
「それじゃあたしたちは、おいとましようか。」
 二人が頷いたので、ヒミカはクレールに向かって言った。
「クレール、ごちそうさま。お世話になりました。あたしたち帰るわ。」
 クレールは残念そうに、両手を広げて言った。
「オー! 何だい急いで。もっとゆっくりしてけばいいのに……。」
 ヒミカはクレールに向かって、まずこう言った。
「あたしたち仕事があるの。」
 そして彼女は、麗鈴と妙に向かって意味ありげにこう言った。
「……ね?」
 その二人は、クレールの顔を見て微笑むと、黙って頷いた。クレールは言った。
「そうかい。それなら無理に引き止めるわけにもいかないね……。
またいつでもおいで。昼間町に出てるときと、夜の会合があるとき以外は、大抵この近くにいるから。」
 ヒミカ、麗鈴、妙の三人は、口を揃えて現地語で言った。
「ありがとうクレール、またね!」

 帰る途中、ヒミカ、麗鈴、妙の三人は森の中で道に迷い掛けたし、行きとは違い普通の速度で歩いたので、彼女たちがローヌ川の岸辺に繋留してある燕丸に戻れたのは、正午過ぎてからだった。
 歩き疲れた三人は、手分けして小麦粉を塩水で溶いた水団(すいとん)入りの野菜スープをつくり、それを昼食にすることにした。これならあっという間にできる。
 昼食を食べて昼寝を済ませた彼女たちは、コーヒーを入れて会議を開いた。
 空には、南フランスの夏の乾いた太陽が輝いている。日除けが掛けられた甲板の食卓で、コーヒーを一口飲んだヒミカが、他の二人に向かってまずこう言った。
「クレールには、何かお礼をしなきゃね。」
「左様。一宿二パンの義理でござる。」
 本来は「一宿一飯(いっしゅくいっぱん)」と言うべきところだが、夜と朝の二食ご馳走になっている上に、それが飯ではなくパンだったので妙はそう言ったのだろう。普段あまり冗談を言わない彼女が珍しく言ったその駄洒落に、他の二人は大笑いした。
 ひとしきり笑ってから、麗鈴が言った。
「……多分銭(ぜに)は受け取ってくれん思うけん、カファや珍しい香料にしてはどうじゃ?」
 妙が言った。
「それらには好き嫌いがあるであろう。もしお気に召されぬ場合に備えて、珍しい布なども持参してはいかがじゃ?」
 ヒミカが言った。
「それじゃ、明日の朝それを持って行くことにして……」
 彼女たちは、これから町で行なうことの打ち合わせを始めた。それは既にセイロンでしたことの応用だったのですぐに終わった。
 打ち合わせを済ませた彼女たちは、早速支度をして船を降りた。
 町の広場に着いた三人は、手早くその場に準備をした。それが済むとヒミカは、ところどころに現地の言葉の単語を取り混ぜたスペイン語で口上を述べた。
「さあ、お立ち合い、お立ち合い!
……紳士並びに淑女の皆様! ただ今よりご覧に入れまするは、中国三千年の秘術を体得致しました、東中国海の蝶 Liling(リーリン)による板割りでございまーす。
……ちょっと、そこの若旦那!」
 ヒミカから声を掛けられた一人の若者が前に進み出た。この町の人は、このような大道芸に慣れているようで、その場はすぐに黒山の人だかりになった。
 このようにして麗鈴は、以前セイロン島のガーリで行なったのと同じようにして、得意の中国拳法の技(わざ)を披露した。
 その翌日は妙が忍術を、そのまた翌日はヒミカが文字当てを披露し、そのまた翌日には再び麗鈴が……というようにして、彼女たちは興業を何回か繰り返した。すると、アブドゥール・マイヤーからの借金を返済することができるだけの金銭は、あっという間に貯まってしまった。
 ここでやめておけばいいものを、調子付いた三人は、ついつい欲を出してしまったのがいけなかった……。
 この町で大盛況となっていた彼女たちの芸だったが、ある日突然客足がばったりと途絶えてしまったのだ。それは、単に飽きられたというような生やさしいものではなかった。昨日まで黒山の人だかりだったのが、今日は誰一人として近寄らなくなったのだから。
 声を嗄らして口上を述べるヒミカの努力も空しく、観客ゼロという、この一座始まって以来の不況だった。
 とにかく燕丸に戻った彼女たちは、いつものように夕食を食べながら、この異変の原因究明のための討論を行なったが、明快な答えは何も出て来なかった。唯一出て来たのは、明日の朝クレールの家を訪れて、これについて相談してみるしかないという結論だけであった。三人は口数も少なく、早々と床に着いた。
 しかし、彼女たちは朝を待つことなく、かなり強引な形で、その原因を知らされることとなった。
 燕丸が突然襲撃されたのは、その夜中だった。ヒミカ、麗鈴、妙いずれも気が付いたときには、身動きできないように縄で縛られていた。寝込みを襲われたので、麗鈴も妙も自分たちが持っている武術を駆使して抵抗する間もなかった。夢で未来を予知することのあるヒミカだが、いつも夢を見る時間帯よりも前のことだったので、やはりどうすることもできなかった。
 襲撃した十人前後の男たちは、その身なりからして官憲のようで、みな口々にフランス語で叫んでいた。
「ソシエレだ!」
「まだ若いぞ!」
「連れて行け!」
 その言葉で、自分たちが魔女と勘違いされていることがわかったヒミカ、麗鈴、妙の三人は、覚えたてのフランス語で口々に叫んだ。
「私たちは魔女じゃない!」
「間違だ!」
「やめて!」
 それに対して、官憲の中の茶色の髪をした一人の中年男が、意地悪そうな笑みを浮かべてこう言った。
「誰でもそう言うんだよ。……最初はな……フフ。」
 その言葉の意味を理解できた三人は、思わず恐怖に身を震わせた。
 船から下ろされた彼女たちは、松明を手に持ったその官憲たちによって、夜の町を引き立てられて行った。
 町の中心部に着いた彼女たちは、まず石造りの建物の地下にある留置場へ入れられた。
 松明を持った役人が鉄格子の扉の鍵を閉めて去ってしまうと、そこは真の闇となった。
 三人とも縄を解かれてはいたが、太い鉄の鎖で互いの足首を繋がれている。しかも、石造りのこの牢の中には、何とも言えない強烈な悪臭が漂っていた。
「……なんじゃこの臭い? 堪らんのぅ。」
 麗鈴は鼻をつまんでいるらしく、その声は鼻声になっている。心細そうなヒミカの鼻声がした。
「……あたしたち、これからどうなるのかしら?」
 妙の鼻声がした。
「クレールの申した通り、責められて無理やり自白させられるのであろう。」
 麗鈴の声がした。
「……ほんで、証拠が出りゃぁ火炙りか。」
 やや楽天的なヒミカの声。
「振っても叩いても証拠なんて出て来ないんだから、助かるわよきっと。」
 その一方、妙は教え諭すような口調でこう言った。
「その、振ったり叩いたりによって死んでしもうたら、どうするのじゃ?!」
 その言葉を聞いた他の二人は、どちらも黙ってしまった。瓶ヶ島には拷問というものが存在しないので、彼女たちはその恐ろしさをよく知らない。一方、傭兵の家で育った妙は、父や兄たちからそれに関する恐ろしい話しを山ほど聞かされている。
 検察が「お上」の権威を保つために、事件を強引に解決させるようなことは、現代になってもまだまだあることだが、この当時ではそれが公然とまかり通っていた。事件の真犯人が見付からなければ、罪のない者に無理やり嘘の供述をさせて犯人に仕立て上げ、その事件が解決したかのように見せるのだ。
 そのことを知っている妙の重々しい声が、真っ暗な牢内に響き渡った。
「魔女と疑われし身共の場合、裁きの場に引き出されたが最後。何を言おうとも、魔女にされてしまうのじゃ!」
 すると、ややヒステリックな麗鈴の声がした。
あんたビビらしよるけど、ほなら、どげんしたらええんよ!?
 それに答える妙の声は冷静だった。
「それを、先ほどからずっと考えておるところではござらぬか。」
 麗鈴が、甲高い声を震わせて叫んだ。
そんなもん、なんぼ考えても一緒じゃわい!
 その言葉には、さすがに沈着冷静な妙もムカッときたようだ。
そもそも、拙者が『借金を返せるだけ貯まったのであるから、これでやめにしよう』と申したのに、『こげに儲かるならもっと続けんか』と申したお主のせいで斯様になったのではござらぬか!
 麗鈴が叫んだ。
やかましいわ! そげんこと今んなって言うても、埒(らち)あかんじゃろうが!!!
 ここで、ヒミカの嗜める声がした。
ちょっと! 二人ともやめなさいよ、こんなときに!
……とにかく、これじゃ逃げようにも逃げられないわ。」
 ヒミカはそう言って、牢屋の頑丈そうな鉄格子をガタガタと音を立てて揺らした。しかし、たとえこの牢の外に出られたとしても、三人は互いの足を太い鎖で繋がれているので走れない。歩いても、五十歩も行かぬうちに皮膚が鎖に擦れて破れ、その痛みで歩けなくなってしまうことは明らかであった。
 妙の声がした。
「ヒミカの言う通りじゃ。然るに、ここから出されて裁きの場に引き出されるまでのあいだしか、逃げる機会はござらぬ。」
 そのような状況になったら、どうやって逃げるかについて、彼女たちが懸命に議論をしていると、遠くで扉の開く音がした。そして、複数の靴音がこちらに近付いて来た。
 やがて、松明を持った数人の役人が牢の前に現れると、扉の鍵を開けて中に入って来た。みないずれも腰に剣を下げている。彼らはヒミカたち三人にそれぞれ手枷(てかせ)をはめると、一人の男が高圧的な口調のフランス語でこう言った。
外に出ろ!
 三人が外に出ると、その男はまた同じ口調で言った。
さあ、歩くんだ!
 役人に誘導されたヒミカたち三人は、重い鎖を引きずりながら暗い通路を歩いて狭い石の階段を登った。
 留置場の外に出た彼女たちは、突然明るい光に包まれた。夜はもうとっくに明けていたのだ。ヒミカたちはその眩しさに思わず目が眩んでしまった。そんな彼女たちに向かって、役人の一人が怒鳴った。
もたもたしないで、早く歩くんだーっ!!!
 ヒミカたちは、留置場のすぐ隣りにある石造りの古い建物の中に連れ込まれた。どうやらこれが魔女を裁くための異端審問所のようだ。あっという間の出来事だったので、彼女たちが逃げる隙など全くなかった。
 審問所の中には、既に数十名の審判人や証人などが着席していた。三人の「被告」が正面の入り口に現われて、鎖をジャラジャラ鳴らしながら入って来ると、その一同の視線が彼女たちに集中し、ガヤガヤという話し声で喧しくなった。三人とも足にはめられた鉄の輪のために皮膚が破けて出血しており、痛そうに足を引きずっていたが、そんなことはお構いなしに、役人たちは彼女たちを被告のための木製の壇の上に立たせた。
 正面中央の壁には高々と、丁寧に磨かれた「X」の形をした木の彫刻が飾られていた。それを見た麗鈴は、ヒミカとタエに向かってそれに目配せしながら早口に囁いた。
「話しに聞く、X(イクス)教団のようじゃ!」
 ヒミカとタエは、極めて真剣な表情のまま、黙って頷いた。
 そのX印の真下の高い壇上には、立派なビロードの服を着た司教が座っていた。その重々しい声が廷内に響き渡った。
静粛に!
 そのフランス語によって、廷内のざわめきが静まった。再び司教の声が響いた。
これより、ローヌ川沿いに係留してあった船で捕獲した三人の異端審問を執り行う!
 続いて、その司教の足元の段に座っていた審問官の一人がヒミカたちに向かって言った。
「被告は氏名と出身地、そして職業を述べよ。」
 その意味がわかったヒミカたちはスペイン語で答えた。
「ヒミカ・キタハマ、出身地はカメガシマ、町長の娘。」
「リーリン・チャン、カメガシマ、医者の娘。」
「タエ・モリヤマ、バンテン、小隊長の娘。」
 X教団の司教を始めとする異端審問官はいずれも、その経典が表記されているラテン語を習得していた。これは、スペイン語の母体となっている言語であるため、今彼女たちが言ったような、名詞を羅列したものなら、彼らにも理解することができた。
 また、ヒミカは町の役員で「巫女」という職業に就いているが、X教徒にこれを説明すれば、益々「魔女」と勘違いされるだけだと判断したのでそれを伏せた。魔女裁判で被告に弁護人が付くということはないので、彼女たちは自分たちがなるべく有利になるように、自分たちの頭で考えて話すしかなかった。
 審問官の声が、また廷内に響いた。
「被告は『カメガシマ』の位置を、我々にわかるように説明せよ。」
 ヒミカが被告を代表し、現地語交じりのスペイン語で答えた。
「中国からずっと南東の海にある島です。」
 審問官が尋ねた。
「なぜ、この地に参ったのか?」
 ヒミカは、しっかりした口調でそれに答えた。
「自分たちの見聞を広め、社会の仕組みを学び、精神的な修行をするためです。」
 その現地語を混ぜたスペイン語を聞いた法廷の一同に、感心したようなざわめきが走った。審問官のフランス語が響いた。
静粛に!
 その声によって法廷は再び静まった。
 今度は妙に向かって審問官が尋ねた。
「バンテンより参った、タエ・モリヤマもそれと同様か?」
 妙は、覚えたてのフランス語でそれに答えた。
「Oui.(はい。)」
 審問官は、原告の席に向かって言った。
「原告セザールは、なぜ被告を魔女と断定したのか?」
 そう指名された太った中年の農夫が原告の席から起立し、現地訛りのフランス語で言った。
「はい。三人の中に魔法を使った者が一人いたからでございます。他の二人もきっとその仲間に違いありません。」
 審問官は重ねてフランス語で尋ねた。
「魔法を使ったのは誰か?」
 セザールは答えた。
「タエと申しておる者でございます。」
 審問官はまた尋ねた。
「セザールに問う。それは、どのような魔法であったのか?」
 セザールは答えた。
「突然姿を現わして、突然消えてしまう魔法です。」
 その言葉によって、ヒミカたち三人は目を丸くした。……なるほど、洗練された妙の忍術が裏目に出て、魔法に見えてしまったということだったのか……。
 審問官は、今度は妙に向かって尋ねた。
「タエ・モリヤマ。そなたは今の証言の魔法を行なったのか?」
 妙は審問官の顔を見上げると、毅然とした口調で言った。
「Non!(いいえ!)」
 ここでヒミカが司教に向かって、現地語混じりのスペイン語で言った。
「司教様! 妙は、フランス語もここの土地の言葉もまだ上手に話せません。私が彼女の通訳になってもよろしいですか?」
 進行役の審問官に向かって司教が黙って頷いたので、審問官はフランス語で言った。
「それでは、被告ヒミカ・キタハマ。そなたがタエ・モリヤマの通訳として話すことを認める。」
 その意味はヒミカにでもわかったので、ヒミカはこの遣り取りの内容を、気が動転してパニック状態になっている妙に伝えると、彼女に向かって日本語で言った。
「あの芸の種(たね)を明かしてよ。」
 妙は、彼女が観衆の前で行なった忍術の詳細を震える声でヒミカに伝えた。それを聞き終えたヒミカは妙に向かって微笑んで言った。
「わかったわ。妙、大丈夫。あたしに任しといて!」
 そしてヒミカは、法廷を一通り見渡しながら大きな声のフランス語で言った。
みなさん、よく聞いて下さい!!!
 すると、その場の一同の目がヒミカに集中した。彼女は手枷をはめながらも身振り手振りを交えながら、現地語とフランス語を混ぜたスペイン語でこのように語った。
「妙は魔法を使ったのではありません! 彼女は奇術をしただけです。今からその説明をします……。
地面と同じ色をした布を被って横になっているタエが、急にそれを払い除けて立ち上がると、突然人がそこに現れたように見えます。
次に、木の上に向かって目に見えにくい縄を放り上げ、火薬を燃やして煙を出したタエは、その煙に隠れながらその縄を伝って木の上に登ります。すると、灰色の服を着た彼女の姿は煙に紛れて観客の目には見えず、あたかもそこから人が消えてしまったかのように見えるのです。
そして、観客に向かって木の上から笑い掛けたタエは、前もってそこに隠しておいた人形と入れ替わると、再びその下の地面に向かって煙を出す玉を投げます。煙が起こったら、登ったときと同じようにしてそこに降り、煙が晴れると、彼女の姿が再び現われる……」
 そしてヒミカは、一段と声を大きくして言った。
ですから、妙が使ったのは魔法ではなくて奇術だったのです!
 そしてヒミカは、再び法廷を見回すとこう付け加えた。
「……ああ! 私が種明かしをしてしまったために、彼女は今後この町でその奇術ができなくなってしまいました。とても残念です!」
 そして彼女がさも残念そうな顔をしたので、法廷にはどっと笑いの渦が巻き起こった。
 ヒミカは若いながらにも、自分の町の役員を勤めていたので、大勢の人に対して自分の主張を簡潔にわかり易く伝える術(すべ)を身に付けていたのだ。
 審問官の声が響いた。
静粛に!
 それによって法廷は再び静まった。審問官は妙に向かって尋ねた。
「タエ・モリヤマ。ヒミカ・キタハマを信頼し、今の通訳に間違いがないことを認めるか?」
 ヒミカがそれを素早く訳したので、妙ははっきりと答えた。
「Oui.(はい。)」
 審問官は、妙に向かって念を押して尋ねた。
「被告は魔女ではないのだな?」
 そのフランス語の意味を理解した妙は、再びはっきりと答えた。
「Non!(はい!)」
 ヨーロッパの言語では、否定形の質問に対する同意は否定して返すので、日本語とは逆になる。その返答を聞いた審判人たちが「被告たちは魔女ではないぞ」と言い出したので、廷内は再びざわめいた。
 審問官の声が響いた。
静粛に!
 法廷が再び静まると、彼は自分の足元の段に座っている一人の茶色い髪の毛の男に向かって言った。
「それでは、ヌールヴェル検察官。彼女が魔女であるという証拠を見せよ。」
 そう指名された男は、ゆっくりと検察官の席から立ち上がった。それは、捕まえられたヒミカたちに対して、意地悪な言葉を吐いたあの役人だった。
 彼は手に持っていた小さな布の袋の口を開けると、フランス語でこう言った。
「……これは、被告が乗っていた船の中から発見された物です。」
 彼は、その袋の口を手の平の上で傾けると、その中から出て来た黒い数個の豆粒のようなものを、審問官に見えるようにしてこう言った。
「これは、マホメ教徒(イスラム教徒)が飲んでいる、『悪魔の飲み物』を煎じるために用いられている豆です。」
 ヒミカたち三人からそれは見えなかったが、その言葉から推測するに、どうやらそれは彼女たちが飲むため燕丸に積んでいたコーヒー豆のようだ。
 この国でコーヒーを飲むことが宗教上認められたのは、これからたった十年余り後のことであった。しかも現在では、世界中の人々がコーヒーを飲んでおり、それが宗教的あるいは科学的に悪い飲み物であるということを言う人は誰もいない。そのことから考えると、当時のこのような迷信や偏見が、いかに馬鹿馬鹿しいものであったかということがよくわかる。それは、コーヒーに限ったことではないだろう。
 審問官が言った。
「被告タエ・モリヤマ。そなたは、これを煎じて飲んでいたのか?」
 妙は仕方なさそうに返事をした。
「Oui.」
 ここでヒミカが、司教に向かって言った。
「司教様! タエの返答について、説明してもよろしいでしょうか?」
 司教が審問官の方に向かって黙って頷いたので、それには審問官が答えた。
「被告ヒミカの発言を認める。」
 ヒミカは言った。
「確かに私たちは、これを飲んでいました。でも、これは『悪魔の飲み物』などではありません。」
 審問官が言った。
「その証拠はあるのか?」
 ヒミカが言った。
「あります。」
 審問官が言った。
「それを示しなさい。」
 ヒミカは言った。
「私たち三人は、これを飲んでも魔女にならなかった。それが証拠です。」
 この証言によって、廷内には再び笑いの渦が巻き起こり、中には拍手する者まで現われた。
静粛に!
 その審問官の声で、法廷は再び静まった。審問官は検事の席に向かって言った。
「ヌールヴェル検事。これを覆(くつがえ)せる証拠はあるのか?」
 不利になっはずの検事だが、彼はなぜか冷酷な薄笑いを浮かべてこう言った。
「フフ、あります。
元々魔女だから、悪魔の飲み物を飲んでも何も起こらないのです。決定的な証拠は、この女たちの体のどこかに必ず隠されているはずです!」
 彼がそう言い放った途端、ヒミカたち三人を除いて全てが男性のこの法廷の中には、それまでの厳粛な雰囲気とは異なる、何か変な雰囲気が漂い始めた。冷徹だった司教の目の奥にさえ、赤味がかった光りが爛々と輝き始めた。ヒミカたちは、自分たちの服の上を這い回る、男たちの淫らな視線を感じた。
 審問官がヌールヴェル検事に、力を込めて命じた。
検察は、その証拠をただちに示すように!
 ところがヌールヴェル検事は、力無く微笑むとこう言った。
「証拠を示そうにも、被告が服を着ていては、それをお見せすることができません。」
 今度は今までずっと黙っていた司教が、被告に向かって強く命じた。
被告は三人とも、服を脱ぐように!
 この言葉の意味をヒミカが訳すと、麗鈴と妙は口々に言った。
「うち絶対に脱がんぞ!」
「拙者も断じて脱がぬ!」
 ヒミカは司教の方を向いて言った。
Non!
 すると、審問官席の左下の上段に座っていた審問官の一人が、フランス語で言い返した。
「被告は異端審問を何と心得る。この廷内において、司教の命令は絶対であるぞ!」
 ヌールヴェル検察官は目をギラギラさせてニヤッと笑うと、前に進み出て言った。
「我々検察官は、先ほど審問官から証拠を示すように命じられた。本人が脱がぬのなら、我々の手で脱がすまでのことだ。」
 その言葉を待っていたかのようにして、彼の横に並んで座っていた数人の検察官が一斉に立ち上がると、手枷をはめられ、足を鎖で繋がれているヒミカたちが立つ壇の周囲を取り囲んだ。
 審判人や傍聴人までが席から立ち上がってその周囲を取り囲んだ。彼女たちの体に隠されているその証拠とやらを、近くではっきりと見るためだ。恐怖の絶頂に達したヒミカは、思わず日本語で叫んだ。
母ちゃーーん!! 助けてーーーっ!!!

 瓶ヶ島の北浜家では、先ほどの一件があってから、具合が悪くなったシャガは早々と床に着いていた。夫のハヤテはその横で腹這いになり、行灯(あんどん)の明かりで本を読んでいたのだが、眠っているはずのシャガが突然叫び声を上げたので、驚いて彼女を揺り起こした。
「おい! シャガや! なにしよったん!」
 シャガは寝床からガバッと身を起こすなり、宙を見詰めて再び叫んだ。
こらーっ! 駄目ーっ! No! やめろーっ!!!
 ハヤテも寝床の上に身を起こすと、シャガの頬を軽く叩いて言った。
「おいおい、ヒミカにまた、なんか起こっとるんかや?!」
 その言葉によって、シャガはハッと気が付くなり、ハヤテに向かって叫んだ。
ヒミカたちがっ……手足の自由が効かないヒミカたちがっ! 大勢の異国の男たちに囲まれて襲われてるのっ! 何とかしなきゃ!!!
 ハヤテはシャガの両肩を両腕でつかむと、急き込んで言った。
「そいつらが、それやめよるようにする思念を送るんじゃ!」
 シャガは、ハヤテの頭の上の宙を見詰めながら叫んだ。
駄目よ! やってみたけど、相手の男たちはひどく興奮してるし、ヒミカたちに全神経を集中させてるから、それが伝わらないのよっ!!!
 それを聞いたハヤテは、たまたま近くにあった墨の付いた筆で、自分が読んでいた本の見開きに大きく×印を書いた。要するに、「×(駄目、やめろ)」ということである。このような単純な思念なら、伝わるかも知れないと思ったのだ。それを指差しながら、ハヤテが叫んだ。
この印(しるし)をヒミカに向けて送るんじゃーっ!!!
 それは、行灯(あんどん)の光でシャガの目に映ったが、彼女は目に涙を浮かべて絶望したように叫んだ。
あーっ! もう間に合わないっ!! 男の手が服の裾に掛かったーっ!!!
シャガーっ! 気を確かに持つんじゃーーっ!!!
 ハヤテはそう言ってシャガを強く抱き締めた。シャガはその瞬間、本の上にハヤテが書いた×印に神経を集中させ、それをヒミカに向けて極めて強く念じ続けた。

 審問所の法廷の中、先ほどまで三人の少女を取り押さえ、その服を脱がそうとしていた数人の男たち。その周囲を取り巻いて、次に起こることを連想し、その興奮のために息を荒くしていた大勢の男たち。その誰も彼もが、今は驚きと感嘆の声を漏らしていた。それらは一つに合わさって、まるで合唱のように廷内に響き渡った。
「おー! 神よ!」
「これは奇跡だ!」
 そこにいた全ての男たちが、それまで全神経を集中させて見ていた部分、即ち三人の少女いずれかの顔や体の上に、「X」の記号が光輝いて現れたのだ。X(イクス)教にとって聖なる印が光り輝き、被告の上に証拠となって現れたのだから、これはもうただ事ではない。
 瓶ヶ島でシャガが見入ってヒミカに送っていた「×」の記号は、ヒミカによって更に増幅され、この法廷の男たちの脳裏に達したときには光り輝くまでになっていたのである。
「自分だけの都合で他人の意識を操作してはならぬ」と、母シャガから厳しく言われたヒミカではあったが、今回は自分だけでなく、麗鈴と妙も助けなければならない。そのため、父母の協力を得たヒミカは、その能力をためらうことなく駆使することができたのだ。
 騒然となっている法廷の中に、一際大きな審問官の声が響き渡った。
一同静粛に! 被告人以外の全員に着席を命ずる!
 それによって、男たち全てが席に戻って座ると、この騒ぎはようやく治まった。
 元のように冷徹な眼差しに戻っていた司教が、厳かに言った。
「たった今我々は、被告の体の上に現れた証拠をしかと見届けた。魔女にこの印が現れたという前例はないし、これから先も絶対に有り得ぬであろう。これによって、三人の被告を無罪放免とする!」
 この判決に対して、廷内には割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
 この奇跡とも言える審問の噂は、その日のうちにたちまち町中に広まった。
 その翌朝には、まずX教の聖職者たちがローヌ川の岸壁に繋留してある燕丸を訪れて、ヒミカたちに対して祝福の言葉を述べた。
 次に、ここの市長が数名の部下と共に現れて、市が主催する今夜の晩餐会へ彼女たちを招待した。
 彼らが帰った後の燕丸の上では、麗鈴がホッと一息吐いてこう言った。
「……地獄から一転して、極楽のようじゃのぅ。」
 妙は、神妙な口調でこう言った。
「……地獄極楽、これ正に表裏一体。色即是空……。」
 ヒミカが苦笑いして言った。
「なんだかよくわかんないけど、あたしたち助かったみたいね。」
 その日の夕方、燕丸が繋留してあるローヌ川の川岸に、なんと四頭立ての馬車が現れた。これから市庁舎で行なわれる晩餐会に、ヒミカたちを迎えるために市長が遣(よこ)したのだ。ヒミカ、麗鈴、妙の三人は大喜びだった。
 その晩餐会には、町の貴族や豪商などの有力者も大勢招かれていたので、ヒミカたちは一躍この町の有名人になってしまった。
 その夜が明けると、早速ヒミカたち三人は、珍しい香料や布などを持って森の中のクレールの家を訪れた。そして、昨夜の晩餐会に至るまでの事件の顛末を、彼女に聞いてもらった。
 それを聞き終えたクレールは、大笑いしてから言った。
ワッハッハッハ!
……そりゃ大変だったけど、結果としては良かった良かった!」
 ヒミカは嗜めるように言った。
「笑い事じゃないわよ! もうほんとに怖かったんだから! クレール、あんただって危ないんじゃないの?」
 妙が心配して言った。
「身共が、この国の外に逃がして進ぜてはいかがでござるか?」
 麗鈴も同じように言った。
「そうじゃ。うちらと一緒に瓶ヶ島まで来て、ずっとそこに住んでもろうてもええしのぅ。」
 ヒミカがこれを訳すと、クレールは急にしんみりした口調になってこう言った。
「……心配してくれてありがとうよ。でも、あたしゃここを離れるわけにはいかないよ。あたしのことを頼りにしてくれてる人たちがいるから……。」
 ヒミカが尋ねた。
「患者さん?」
 クレールがそれに答えた。
「そう。」
 そして、足元にいた猫のアントニウスの頭を撫でながら、クレールはこう付け加えた。
「……そして、その他大勢。」
 ヒミカは残念そうに言った。
「そうか……。」
 クレールは、ヒミカたちを安心させるように微笑んで言った。
「まあ、あたしはまだまだ大丈夫だろう……。
それよりあんたたち、この町では人気者になったんだから、しばらくここで暮らしたらどうなんだい?」
 それに対して、今度はヒミカの方が寂しそうに言った。
「そうしたいのは山々なんだけどね……、ヨーロパがこういうような状況だってことがわかったからには、あたしたちそれを一刻も早く島のみんなに伝えなければならないのよ。実は、それがあたしたちの、ほんとの仕事なの。」
 クレールもまた、寂しそうに言った。
「そうだったのかい……。それなら仕方ないね。」
 ヒミカは、ちょっと悲しそうに言った。
「実はね、今日はそのお別れを言いに来たのよ。」
 クレールは、目を丸くして言った。
「え!? もう行っちまうのかい!?」
 麗鈴も悲しそうに日本語で言った。
「ほんまはもっと居りたいんじゃが、うちら仕事中じゃけんのぅ。」
 妙も辛そうに言った。
「身どもの帰りを待ち焦がれておられる、父母を始めとする方々のことを思うと、長居はできぬのでござる。」
 それらの言葉の意味を察したクレールは、やや寂しそうだが決心したように言った。
「そうか、寂しくなっちまうけど仕方ない。あんたたちを頼りにしてる人たちがいるんなら……。」
 そして、真剣な眼差しになって三人を見ると、励ますようにこう言った。
「長い船旅なんだろうから、充分気を付けて帰るんだよ。」
 ヒミカは、彼女を安心させるように微笑んで言った。
「大丈夫。一度通って見知ったところをまた通って帰るだけだから。」
 そして、ヒミカも真剣な表情になってこう言った。
「クレール、もし『魔女』って言われて捕まったら、あたしの名を呼んで思念を送ってみて。こっちからその場の人たちに向けて、何かの思念を送ってみるから。」
 クレールは、寂しそうに微笑んで言った。
「ありがとう……。そうならないに越したことはないけどね。」
 そして今度は穏やかに微笑むとこう言った。
「三人とも、神様を見失わずに元気でね。」
 そして、ヒミカ、麗鈴、妙の両方の頬に次々とキスして回った。
 やがて、庭先まで見送ってくれたクレールに向かって、三人の少女は手を振りながら現地語で口々に言った。
「さようなら! クレール!」
 町に帰った三人は、その日のうちに市長をはじめ町の主だった人々に別れを告げると、その翌朝には燕丸に乗って早くもローヌ川を下って行った。

 ヒミカ、麗鈴、妙の三人の少女を乗せた燕丸は、それから半年余り掛けて瓶ヶ島に帰り着いた。このとき彼女たちが持ち帰ったものは、その後のこの島の人々に大きな影響を与えることになる。
 まず食べ物ではヨーグルトやパンの作り方、南インド料理や南フランス料理、そこで使われている香辛料やハーブの種子等々。
 思想面でもいろいろあった。まず、不殺生の教えを説いているインドの寺院では、瓶ヶ島と同じように小鳥が人を恐れなかったということ。そして、クレール・カダブレの信仰も、この島の思想に大きな影響を与えた。
 そして、ヨーロッパでの少数民族に対する差別と魔女狩りに関する情報は、島のこの後の進路に対して決定的な影響を与えた。それに対する危機感を強めた瓶ヶ島町民は、日本だけでなくヨーロッパ諸国との交流も、それから数年後には断ってしまったからである。
 さて、そのようにして島に貢献した三人の少女であるが、その後どうなったのかも、少し気になるところだ。
 まず、この旅の帰路の途中でバンテンに寄った妙は、父母の許しを得た末、その後瓶ヶ島に移住して永いこと防衛軍の中枢で勤務していたようだ。その間に島の男と結婚したのだが、その相手はなんとあの勘蔵だったというのだから驚く。既に高齢となっていた勘蔵であったが、三男二女を設けたというのだからこれまた驚きだ。
 また麗鈴は、その後町長となったヒミカの相談役として永年勤務したということが記録に残っている。また、それによると彼女は、その間に桶屋の倅で四つ年上の信太郎のもとへ嫁ぎ、子供を十二人も設けたそうだ。
 ヒミカはヒミカで、母シャガの後を継いで町長に就任した後も、なぜかずっと独身を通していたようだ。しかし、二十なかばにして、大工の三男で自分より一つ年下の伊助(いすけ)と恋に落ち、その後彼を婿に取って五男三女を設けたそうだ。
 ちなみに、麗鈴と妙から慕われていたヒミカの兄アキは、町の網元である網野源三(あみのげんぞう)の長女フキのもとに婿入りし、漁とカルタ勝負に明け暮れた人生を送ったということである。

 さて、時代が少しさかのぼるが、文禄・慶長の役、即ち二度にわたる朝鮮出兵によって周辺諸国との関係を悪化させた豊臣秀吉が1598年に没し、その後徳川家康が政権を握るようになると、日本はそれらの国々との関係を急速に改善していった。その政策のお陰で、日本人が交易のために東南アジア各地に出て行くようになると、彼らはやがてあちこちで町を形成するようになっていった。
 そのような日本人町では、いずれも日本女性北浜シャガが治めるという不思議な町のことが話題になっていた。
「……おう、一度だけ見たことあるわ。もう二十年も昔のことやったかなぁ……。呂宋(ルソン)の都の港の役所の壁が嵐で壊れよったさかいに、親方と一緒にその補修の仕事しとったときのことや……。
海図4 港に一艘の立派な船が入って来よってな。その船のもん三人と地元の通訳一人が、その部屋の入口から入って来やってん。こういうとき、わしら日の本(ひのもと)のもんやったら、男が先で女が後に付いて来るのが普通やろ。せやけどな、あの衆はその逆や。いっちゃん年下の女がいっちゃん先で、男二人と通訳は、その後から付いて来やったんや……。
……残り少ないけど、あとはあんたみな飲んでんか。」
 突然早口にそう言って話しを一旦中断した、年の頃五十歳前後と見られるこの職人風の男は、食卓の向かいの席の茣蓙(ござ)の上に胡坐をかいて座っている、年の頃四十歳前後と見られる浪人風の男に向かって、小さな茶色い陶製の瓶を傾けて勧めた。浪人風の男は、それを彼のグラスで受けながらこう言った。
「あ、かたじけない……。」
 その中に注がれた薄茶色の液体は、老酒(ラオチュウ)か何かのようだ。その浪人風の男が、今の話しの相槌を打った。
「……女が先、ほう、それは珍しゅうござるな。」
 空になった老酒の瓶を、食卓の脇の床の上に置いた職人風の男は、箸で自分の皿の上の魚のフライを一口食べると、自分のグラスの老酒をうまそうにすすってから、話しをまた続けた。
「……せやねん。ほんでな、おもろいさかいに、わし、そのまま壁の穴から部屋ん中覗いとってん。
ほんならな、通訳以外の男は二人とも、白地に何かの模様を染めた鉢巻して、腰には刀一本だけ差しとったわ。せやさかいに、ただの侍とちゃうことだけは確かやな。
そのうちの一人は初老で、服や髪の形(なり)だけみると商人(あきんど)みたいやったわ。背ぇは低いけどごっつい体付きで右の腕の肘から先がなかったさかいに、これもただの商人とちゃうんやろぅ。
もう一人の背ぇ高うて若い男は、髪長う伸ばして後ろで束ねとるだけや。一見漁師みたいやったけど、あの鋭い目付きからすると、やっぱしただもんとはちゃうんやろな。
ほんで、その女や。年は二十になるかならんかいうところかな、田舎風の着物着て、髪も結うとらへん。先の若い男と一緒で、後ろで束ねとるだけや。せやけど紫色に輝く布の鉢巻しとってな、これがまた良う似合うてて、えらい美しいのやがな。なんかこう、わしらにはないような気品ちゅうか、魅力ちゅうか、そんなんがあったように思うわ。」
 浪人風の男は、思わず目を見張って言った。
「ほう!」
 職人風の男は話しを続けた。
「ほんでな、机を前にして椅子に座ってはった入国管理局の課長はんが、順番回って来て机の前に来たその一行に向かって、『用件は何や。』とエスパニア語で尋ねはってん。それを通訳のもん通じて聞いた、その若い女がやで。『私共、このたびこの港にて通商を行いたいゆえ、入国と接岸のお許し頂きとう存じます。』言うたのんやがな。立派なポルトガル語使うてやでーっ!
わしよりずっと若いのに、わしよりずっとうまかったさかい、ごっつう驚いたわ。課長はんも同じようなこと思わはってんやろな、『あんたがたの責任者、一体誰やねん。』言わはってん。ほな、その若うて美しい女がやな、『責任者はこの私です。』言うたのんやがな。」
 彼はここで、わざと眉を寄せて困った顔をして見せたので、浪人風の男はワハハと笑った。
 ここは、現在インドネシアと呼ばれている国の首都で、古くから「ジャヤカルタ」と呼ばれている街であった。ところが、二年前にその支配者となったオランダ人は、それを「バタヴィア」と改名した。その一方、その当時の日本人はここを、ジャガタラと呼んでいた。ちなみに、現在日本で親しまれている「じゃが芋」は、「ジャガタラ芋」の略である。
 この男たちが今飲み食いしているのは、その一角にある日本人町の小料理屋だった。縦に細長いこの店の壁には、真新しい漆喰が白く塗られてあり、通路の床は石葺きになっている。店の右側は、日本風に靴を脱いで上がれるようになっており、その木の床の上には、やはり日本風の木製の食卓が三つ、壁に寄せられて並んでいた。男たちはいずれも、その一番奥の食卓に着いていた。
蝋燭  この食卓の壁ぎわには、これといった装飾のない大きな銅製の燭台が置かれてあり、そこには太い蝋燭が三本立てられている。そこにともされている明かりが漆喰の白い壁に反射して、その周囲を薄明るく照らし出していた。
 この食卓の通路側の席の茣蓙の上には、先ほどから男がもう一人座っていた。年の頃は四十代なかばぐらいで、商人風の髷(まげ)をきちんと結っている。先ほどの職人風の男の話しをずっと黙って聞いていたその男は、食卓の上の小さな瓶に入っていた液体を、自分のグラスに四分の一ほど注いだ。こちらはラム酒のようだ。そこに、別の大きなグラスに入れられていたパイナップルのジュースを足したその男は、そばにあった細い木の枝でその中を掻き混ぜた。南米原産のパイナップルは他の農作物同様、人の手によって既にこの地にも伝えられていた。
 その男が、ここでやっと口を開いた。
「その女が、シャガなんすか?」
 職人風の男が、それに答えて話しを続けた。
「そういうこっちゃ。
……ほんでな、課長はんは一枚の紙をシャガに渡さはって、『今総督は不在やけど、その代理のもんに伝えておく。この紙に必要なこと書き入れなさい。』て、通訳を介して言わはったら、シャガは自分の右横にいた先の初老の男に目配せしやった。その男は頷くと机の上に屈み込んで、左手で書類に書き込み始めた。
それを見た課長はんがちょっと不思議そうな顔しはったんで、シャガが言いやった。『私、字ぃ書くのんは、ただ今勉強中です。彼が代筆しますが、最後の書き判は私本人がします。』て。
『そうかー。この子、字ぃはまだよう書かんのかいな。』思うたら、何やらホッとするのが、人情ちゅうもんやないかいな。」
 三人の男は、ここで同時にワハハと笑った。
 笑い終えた職人風の男が、また話しを続けた。
「ほんでな、できあがった書類に課長はんは目ぇ通しながら、確かめるようにしてエスパニア語で言わはった。『商品は胡椒、責任者の名前はセニョーラ・シャガ・キタハマ。職業は町長……。出身地はフタミガシマ・ハポン……。現在の居住地は何々。』と、わしの知らん地名言わはったわ。それは課長はんも同じやったみたいで、『それ、どこにあるんや?』て、通訳を介してシャガに聞かはった。シャガはその時、東の方を指差して、『この海の彼方にあります。』言いやってん。」
 このとき店の奥から幾分甲高くはあるが、おっとりした口調の声がした。
「……んだな。シャガは居所聞がれれば、必ずそう答えるなっす。」
 その言葉と共に、店の奥の簾(すだれ)のあいだから姿を現わしたのは、背筋がすらっと伸びた一人の中年女だった。大きな皿が乗った盆を両手で持った、その色白の女は、化粧は全くしていなかったが、丸髷に鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)を挿(さ)している、なかなかの美人であった。白地に朝顔の花をあしらった粋な小袖を着てはいるが、紺で染めた無地の前掛けをしているところから見ると、この小さな店の従業員兼女将(おかみ)のようであった。
 持っていた盆の上の大皿を、三人の男たちが囲んでいる食卓の真ん中にトンと置いて、その女はこう言った。
「はい、おまちどさん。」
 その白い皿の上には、真っ赤な大型の蒸し蝦三尾が乗っており、白い湯気を勢い良く立ち昇らせていた。そこには半分に切ってある青い小さなレモンが、それぞれ一切れずつ添えられており、それらの鮮やかな色に食欲をそそられた男たちは、異口同音の歓声を上げた。
おー--っ!!!
 そして、それぞれを自分の取り皿に取ってその殻を剥いた男たちは、その上でレモンを絞ると、取り皿に盛られている塩を付けては、ハフハフと音を立てながら、その白い身に齧り付いた。
 このとき、扉が開けられたままになっているこの店の出入り口の前を、複数の規則正しい靴音が、厳(いか)めしく通り過ぎて行った。どうやら、夜回りをしているオランダ兵のようだ。
 その一方、この店の通路側の壁に開けられている窓からは、ヴィオラ・ダ・ガンバとリュートとリコーダーの愁いを帯びた音色が、時折り吹く夜風に乗って聞こえて来る。近くのオランダ人貴族の屋敷で、晩餐会でも開かれているのであろうか。その風が入って来るたびに、食卓の上の蝋燭の炎がゆらゆらと揺れた。
 蝦を一頻(ひとしき)り食べ終えた商人風の男が、お絞りで手を拭きながら思い出したように言った。
「……そうそう。あっしが本人から聞いた時も、やっぱり似たようなこと言ってましたよ……。」
 その言葉を耳にした浪人風の男は、念を押すように言った。
「シャガと、直接話しをなされたのでござるな。」
海図4  商人風の男は、先ほど自分でつくったカクテルを一口飲んでから、それに答えた。
「……そう。やっぱりたった一度っきりっすけどね。あれは、オランダがアンボイナを占領した次の年だから……、えーと、もう十三年くらい前のことになるんかな……。
その時あっしゃ、生糸(きいと)を仕入れるため、江戸の旦那様と一緒にアユタヤにいたんすが、仕事を済ませ明日は江戸へ向けて御朱印船(ごしゅいんせん)が出港という日の昼過ぎのことっすよ。
一艘の大きな船が港に入って来ましてね、知り合いのポルトガル商人に『あれはどこの船か?』って尋ねたら、『"Senhora Xyaga"(シャガ女史)の船だ。あんた日本人なのに "Senhora Xaga" を知らねぇのか?』って呆れられちまいましたよ。そのときが初めてなんす、あっしがシャガの名を耳にしたのは。」
 他の二人は黙って頷(うなず)き、この話しの続きを促(うなが)がした。商人風の男は話しを続けた。
「そして、その日の夕方、夕陽の射す川沿いの大通りを歩いてたら、五~六人の強そうな男たちを従えて悠々(ゆうゆう)と歩いてる、一人の若い女とすれ違いましてね。
その男たちはみな、藍で染めた麻の小袖と四幅袴を身に着け、腰には刀を一本だけ差してました。女もやっぱり藍で染めた麻の小袖ってな具合で、みな古風で地味な格好だったんすけどね、顔付きからしても日本人に違いないと思ったんで、あっしゃぁすれ違いざまに『日本の方ですか?』って声を掛けたんすよ。
すると、その一行は歩みを止め、その女の人は日の本の言葉で、『はい、そうですよ。』って言って微笑んだんす。年はあっしより少し上のようだったけど、そりゃぁ美しかった。化粧で誤魔化してるんじゃなくて、きっと、その人そのものの美しさなんしょうね。丁度この店の女将さんみたいに……。」
 男がそう言って振り返ると、そこの通路に立ってこの話しを聞いていた彼女は、ちょっと苦笑いしてこう言った。
「あんら、フーさんだらやんだ。お上手(じょうず)なんか言うんだから!」
 そのフーさんと呼ばれた商人風の男は、ハハハと軽く笑って食卓の方を向くと、また二人の男に向かって話しを続けた。
「そうそう。さっきの話しの通り、その一行はみなそれぞれ鉢巻してましたよ。
あっしは自分の名を名乗ってから、『失礼っすが、もしよろしけりゃ、お名前をお聞かせ下さいませんか』ってったらね、その女の人、『私の名はシャガと申します。』って言ったんすよ。
それを聞いた、あっしは驚いた。あんなに大きな船の持ち主で『Senhora』ってんだから、てっきり年配のご婦人かと思ってたんでね。でもそのことは言わずに、『日本のどちらにお住まいっすか?』って聞いたら、『今は日本を離れ、異国にて住まいしております』って言うんすよ。『それは、どちらっすか?』って聞いたら、シャガは南東の方を指差して、『この空の彼方です。』ってね。
そのとき、その横にいた背の高い白髪の爺さんが、あっしに向かってこう言ったんすよ。『急ぐので、これにて失礼します』ってね。その口調は穏やかだったけど、その人の右の腕には大きな刀傷があったんで、ちょっと怖くなったあっしは、それ以上何も言えず、そこに立ち尽くしてしまいました。そしたらその一行は、あっしを置いてそのまま行っちまいましたよ。
でも、あのときのシャガの微笑みは、今でも忘れられませんね。」
 語り終えたこの男は、その頃を懐かしむような目付きになったので、それを見た浪人風の男が少し羨ましそうな口調でこう言った。
「なるほど。拙者もその笑顔、拝見しとうござる。」
 職人風の男が言った。
「そりゃむつかしいやろな。近頃シャガを見たっちゅうもん、めっきり少のうなったっちゅう話しやから。」
 浪人風の男が言った。
「されば、こちらから会いに出向けば良うござろう。……先の話しと合わせると、指差した方角からして、その島の場所はアンボイナよりも更に東のようでござるな。」
 それを聞いた職人風の男は笑って言った。
「ハハハ! そない言うてシャガの町探しに出掛けた物好き、今まで何人かおったらしいけど、まだ誰もよう見付けとらへんさかいに、遥々海越えて行っても無駄足になるだけやで。やめときー。」
 商人風の男も同じように言った。
「そうそう。本人たちもあまり知られたくないようだし、やめといた方がいいっすよ。」
 浪人風の男は、やや納得がいかぬという口調で言った。
「……されど、自ら居場所を明かさずとは不可解でござるのぅ。」
 故国で仕えていた大名が「お家取り潰し」となったので失業してしまった彼は、傭兵の職を求めて日本を飛び出し、近頃この地へ移り住んだのであった。その彼は今、異国暮らしの大先輩となるこの二人の男から、さまざまな情報を仕入れているところであったのだ。
 これが日本国内なら、たとえ年上であっても、職人や商人が武士に向かって対等かそれ以上の口を利くことなど許されないことであったが、この地ではそのような堅苦しいことはないようで、三人とも和気藹々(わきあいあい)としている。
 その風貌と雰囲気から察するに、職人風の男はこの町の住人で、商人風の男は旅の途中のようだ。但し、先ほど店の女将が親しげに呼んだことからすると、既に何度かこの店を訪れているのであろう。いずれにせよ彼らが持っているシャガに関する情報そのものは古かったが、この浪人にとってはそれら全てが新鮮なことであった。
 女将が相変わらずおっとりした口調でこう言った。
「居場所知られて困ることさ、何かあるんでねだか。」
 職人風の男がそれに同意した。
「そうかも知れへんなぁ。」
 そして彼は、やや残念そうな口調でこう言った。
「バンテンの日本人町の中にゃ、昔っから親しゅう付き合いしとる家があって、互いに行き来してやるみたいやけど、その他のもんには自分たちの居場所はっきり明かせへん言うやないかいな。」
 すると、商人風の男は微笑んでこう言った。
「それじゃあ、その家の人に聞けば居場所がわかるってことじゃないっすか。」
 職人風の男は苦笑いして顔を伏せると、その前で手を横に振った。
「あかんあかん。」
 そして、顔を上げるとこう言った。
「わし、いっぺん会うたことあるけど、そこの旦那はどうも一癖あるようなおっさんで、聞かれても知らん振りしとったわ。嫁はんえらい別嬪やったから許したるけど。」
 三人の男はまたワハハと笑った。
 浪人風の男が言った。
「巨万の富でも隠し持っておるゆえに、居場所を明かさぬのではござらぬか。」
 三人の男はまた声を合わせて笑ったが、女将は落ち着き払ってこう言った。
「昔、その家さ奉公してたもんの言うに、なんでもシャガは近頃町長さ辞めたっつう話しだべ。」
 その途端、三人の男の笑いが止まった。この情報は初耳だったからだ。職人風の男が尋ねた。
「ほう、なんでまた?」
 食卓の上に乗っている空いた大皿や、床の上の瓶などを盆の上に乗せながら女将は言った。
「わがんね。もう年だがらでねだか。」
 そして、来たときと同じようにして、ゆっくり簾の向うへと姿を消して行った。

 1633年、奉書船以外の日本船が国外へ渡航することを禁止する令と、在外五年以上の日本人が帰国することを禁止する令が出された。そしてその二年後には、日本船が国外へ渡航することを全面的に禁止する令と、在外日本人が帰国することを全面的に禁止する令が出された。すると、内外の日本人の往来は、密貿易を除いてほぼ完全に遮断されてしまった。
 そんなご時世ではあったが、海外の日本人町では、依然としてシャガの町のことが話題になっていた。
「……なんだい、お前さん知らなかったのかい? 今はもう町長じゃないんだよ、シャガは。」
 店の入口の番台に座って帳簿を付ける手を止め、店の奥に向かってそう言ったのは、小柄でやや色黒の中年女だった。紺の絣(かすり)の小袖を着て、近頃江戸で流行(はやり)の髷(まげ)に、竹の簪を挿(さ)しているその女に向かって、ちょっときまり悪そうな中年男の声が、店の奥から返って来た。
「こちとら忙しいんで、さっぱり知らねえなぁ。」
 その声の主は、この小さな店の奥で椅子に座り、煙管(きせる)で煙草(たばこ)を吸っていた、色黒で小太りの中年男であった。それに対して、番台の女はこう言った。
「あたしだって忙しいけど、ちゃんと知ってんだ。お前さんが抜けてるだけなんだよ。」
 職人風に髷を結っているその男は、目を三角にして怒鳴った。
てやんでぇ、こんちきしょう! お前の歯ほど抜けてやしねえやい!
「おや、そんなこと言っていいのかい? それじゃ、あたしが知ってること教えてやんないよー。」
 女の前歯が一本抜けているのでやり返したつもりの男だったが、それに対してアカンベーをした女の方が一枚上手(うわて)だった。ここで知らないでいると、外でも恥を掻いてしまうと思ったその夫と見られる男は、あっさりと自分の落ち度を認めた。
「はい。つい口がすべりました。俺の持ってる情報が抜けてました。」
 そして、最後に小声で負け惜しみを付け加えることも忘れなかった。
……俺が抜けてるんじゃねえやい。
 そう言ってから、彼は改めて尋ねた。
「町長じゃねぇんなら、一体何になっちまったんだい?」
「何になったのかは、あたしゃ知らないけどさぁ、シャガは娘のヒミカがエウローペ視察から帰って何年かすると、自分から町長を辞めるって言い出して、その次の年には町の人が推(お)したそのヒミカが、まだ十八の若さで町長に選ばれたんだってさ。それからは、あれほどうまくいってた商売もピタッとやめちまったって話だよ。」
 このとき、煮干一笊(ざる)を買った客がその代金を払ったので、彼女はその金を受け取って客に礼を言った。
「……へい! 毎度あり!」
 乾物や味噌、醤油などの醗酵調味料は、海外では材料が手に入らなかったり、材料はあっても日本でつくるのと同じ味にならなかったりする。そのため、それらの製品を日本から取り寄せると、現地の日本人は多少高値を付けてもちゃんと買ってくれる、という噂を江戸で耳にしたこの夫婦は、たまたま渡航禁止令が出される直前に、この地へやって来て、日本人町のこの一角に店を出したのであった。
 熱帯地方の陽が西に傾いてきたので、正午過ぎからぱったりと途絶えていたこの店の客足も徐々に増えてきた。
 夫は懐から扇子を取り出してさっと広げ、それでパタパタと顔を扇ぎながらこう言った。
「……そりゃもったいねえ。商売やめる前に一言言ってくれりゃぁ、俺が代わってやったのに。」
 妻は苦笑いして言った。
「何言ってんだい! 江戸の植木屋を辞めて、この小さな店で商売するのでさえ、精一杯のあんたなのに……。」
 彼女は続いて、店の続きの自宅の入口に向かって声を掛けた。
おーい、一郎や! 煮干、笊に入れて出しとくれ!
 自分の長男に向かって仕事を命じたのだ。彼は今、当時シャムと呼ばれていた現在のタイ王国の言葉の勉強をしていたところだった。
 夫はシャガのことが気になっていたので、話しの続きを催促した。
「おい、それじゃぁシャガたちは、なんでまた急に商売やめちまったんだい?」
 妻は再び夫の方を向くと、思い出したようにこう言った。
「……ああ、そうそう。ヒミカが町長になってから五年目のある日、不思議な力を持った女たちが次々と火炙りにされてく夢を、シャガとヒミカが相次いで見たんだって。そいだもんで自分たちも危ないってことになって、南蛮との付き合いを、あっさりとやめちまったんだそうだ。そんでもって、その後全く音沙汰ないんだってさ。」
「へー、そいつぁー驚いたね、夢で危険を知るってことか? でも、その後音沙汰ないってのも奇妙だね?」
 夫がそう言うと、横でこの遣り取りを聞いていた、やはり江戸風に髷を結っている若い女の客が言った。
「シャガはもとから巫女の家系で、未来を言い当てるのは、お手の物だったそうだよ。その娘のヒミカには、それに輪を掛けてそういう力があるって言うじゃないか……。
そのヒミカが、『このままだと、この力を妬んだり利用したりする欲の深い者たちによって自分たちは滅ぼっされる』って言ったもんで、外との付き合いをやめちまったって聞いたよ。」
 このとき、先ほど母から仕事を命じられた長男が、煮干を入れた笊をどこからか持って来て、先ほど売れて空いていた場所を詰めると、一番後ろにそれを置いた。
 煙管を煙草盆の上でポンポンと叩いて夫が言った。
「……なるほど、そうだったのかい。それならそうする前に、この店の行く末を占っといてほしかったねぇ。江戸の将軍様があんなお触れを出してくれたお陰で、日本から品物がさっぱり来なくなっちまった。このままだと商売上がったりだからねぇ。」
 そう言いながら扇子を懐に挿して立ち上がった夫は、店に陳列してある商品の歪みを直し始めた。息子の前でちゃんと仕事をしているところを見せようとしたその仕草が、余りにも唐突で滑稽だったので、二人の女は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
おい! こら! 何がおかしい!
 夫が口をとんがらかせて二人の女にそう言ったので、妻がそれに答えた。
「何がって、急に仕事しだした、あんたのかっこが可笑しくって……。」
 一方、客の女は何事もなかったように、その番台の女に向かってこう言った。
「おかみさん、これとこれ下さいなー。」
 そして、妻と夫の二人に向かってこう言った。
「……日本から品物が届かないってのも困るけど、あたしたち、もうここに骨を埋めるしかないんだよね。あれだけ勢いのあった、長政様が居られなくなってからというもの、このアユタヤは、やけに物騒になっちまったしねぇ……。
でもいいんだ。あたしこの町好きだし、うちの人が優しくしてくれるんで幸せだから。ハハハハ!」
 彼女は干し椎茸と高野豆腐一笊ずつの代金を払うと、最後に惚気(のろけ)を言って、陽気に笑いながら店を出て行った。日本では、さる大名の下(もと)で足軽(あしがる)を勤めていた夫が、もっと良い職を海外に求めることにしたため、彼女は異国での生活に夢を抱きながら、その夫と共に六年前ここへ移住して来たのであった。
 その代金を受け取ったこの店の女は、その客の後姿に向かって威勢良く「毎度あり!」と言うと、苦笑いしながら小声でこう言った。
はい、はい、御馳走(ごちそう)さんでございました……
 陽が傾くにつれて、南国の大都市アユタヤには活気が戻り始めた。天秤棒(てんびんぼう)を担いだマンゴー売りが前を通り掛かると、甘酸っぱいその香りが、この店の中にも流れて込んで来た。
 不思議な力を持った変わり者の集まりで、他の日本人町との付き合いはあまり良くないが、なぜか貿易では成功しているシャガの町。それを、同じ海外の日本人たちは、奇異と羨望(せんぼう)の入り混じった目で見て、何かとこのように噂し合っていた。しかし、そんな噂も日本国内で耳にすることは、先に述べたような幕府の鎖国政策のため、既に不可能となっていた。
 本国との往来が途絶えた各地の日本人町は、五十年百年という時間の流れの中で、周囲の民族の遺伝子と、現地の気候風土に即した文化に圧倒されて衰退し、やがては消滅していった。すると、ヒミカの町のことを知る者は、本人たちを除けば、この世に一人もいなくなってしまった。

「……そよそよ風に吹かれ 故郷の浜の空に
ゆくゆく巡り来たる 妙なる芽を出だす時よ
ゆらゆら波に揺られ 故郷の浜の砂に
ゆくゆく帰り来たる 愛しき浜茄子よ
愛しき浜茄子よ……。」
「ねえ、ユキって白くて冷たくって、ハマナスの花と実って赤いんでしょ?」
 寝付けないでいる八歳くらいの女の子が、今しがた子守歌を歌っていた白髪の老婆に向かってそう尋ねた。雪という自然現象も浜茄子という植物も、この島では既に伝説の中の物となっている。
 木の板の壁にもたれている、その老婆の頭上には、小さな明かりが一つともされており、そこに集まって来る虫を、その近くにへばり張り付いている大きなヤモリ数匹が、思い出したように駆け寄っては食べて回っていた。この生き物は、この島のどこの家にもいて、このように虫などを食べてくれるので、この島の人は無闇に追い払ったりなどしなかった。ちなみに、日本語のヤモリという名称は、「家守り(やもり)」という意味から来ている。
 この部屋には天井が無く、椰子の葉で葺かれている屋根裏が剥き出しになっている。時折り窓から夜風が入って来るたびに、そこや壁に映っている黒い影が、ゆらゆらと揺れた。その風に乗って、外で老若男女が賑やかに談笑している声が聞こえて来る。今日はこの町の広場で町民会議があり、その後に催された宴(うたげ)から引き上げて来た大人たちが、この家の裏にある縁台に集まって、まだその余韻を楽しんでいるところであった。同じく広場から戻って来た先ほどの女の子は、一応床に就いたのだが、まだその興奮が冷めやらずに寝付けないでいたのだった。
 その子から先ほど問い掛けられた老婆は、その声の方に笑顔を向けると、しわがれた声でこう言った。
「……そうだよ。あたしも見たことないけどね。ここからずーっと北へ行けば見れるんだってさ。」
 女の子は、その寝床から身を起こすなり、その老婆に向かってこう言った。
「ねえ、大婆ちゃん、あの話ししてよ。」
 すると、あちこちの寝床からも、十歳前後の男の子や女の子が次々と身を起こした。明かりに照らされた彼らは、目をきらきらさせて口々に言った。
「大婆ちゃん、あの話しして!」
 大婆ちゃんということは、この子たちにとっては曾祖母に当たるのだろう。その、長い白髪を背中の中ほど一箇所で結んでいる老婆は、やや呆れたように言った。
「なんだ、あんたたちもまだ眠ってなかったのかい?」
 そして、苦笑いするとこう言った。
「……うーん、どうしようかね。この話しすると、あんたたちのそのきらきらした瞳が、もっと輝いて益々眠れなくなっちまうんだもん。」
 まだ幼い子供たちは、宴の最中に行なわれていた子供同士の遊びで疲れてしまい、既にぐっすりと眠っている。今身を起こした子供たちも遊び疲れてはいたのだが、それにも増して、時折り聞こえて来る大人たちの楽しそうな声が気になって仕方がないのである。
「大人だけ楽しんどるけん、ずるいわ。」
 十一歳くらいの体格の良い男の子が、窓の外を指差してそう言った。
「そうかい……わかったよ。話すのはいくらでも話してやるけどね、みんな横になって聞くんだよ。そうすりゃ、眠くなったときにスッと眠れるから。」
 老婆がそう言うが早いか、子供たちはみな一斉にバタバタバタッと横になり、明かりの陰に入った。そのときその中から、か細い声がいくつか上がった。
「うち、怖い話いらん……。」
「あたしも厭……。」
 それに向かって、老婆は優しく言った。
「大丈夫。今夜は短い方の話しにするから。」
 すると、先ほどの体格の良い男の子の不満気な声がした。
「なんじゃ、つまらん……」
 ところが、彼のその言葉は途中で遮(さえぎ)られ、それが悲鳴に変わった。
「……イタタタタ!」
 そして、そのすぐ近くから澄んだ女の子の声がした。
「大婆ちゃん、短い方にしとくりゃんせ。」
 それに続いて、先ほどの男の子の声が再びした。
「……姉ちゃん、わかったがな。大婆ちゃん、短い方でええぞ……。痛いのぅ、ほんに。」
 どうやら彼は、そばにいた自分の姉に体を抓(つね)られて、その主張を撤回(てっかい)したようだ。
 たとえ物語であっても、人が殺されるのを描写したような場面は、幼い子供にとって余りにも刺激が強過ぎる。そのためこの老婆は、幼い子供が混じっているときには、そのような場面だけを省いた幼児向けの話しをするようにしていた。しかしそうすると、年長の男の子が最も期待している、戦(いくさ)の場面が削除されてしまうのだが、これは致し方ない。
 老婆は笑って言った。
「ハハハハ! よし。それじゃぁ始めるよ。」
 それぞれの寝床の中では、期待に満ちた瞳がキラキラと美しく輝いている。老婆は語り始めた。
「むかしむかし、遠いむかしの物語。北の海に大きな島がありました……。」
 この老婆の名はイヨ、あのヒミカの次女である。
 イヨは、自分の祖母であるシャガと、母のヒミカから、この話しをそれぞれ断片的によく聞かされていた。ハヤテとの恋から始まる二つの村の運命と、日本を脱出した後この島に町ができてからの様々な話しは、彼女が若い頃から何度聞いても飽きることがなかった。
 町長を引退して時間が取れるようになった彼女は、それらを一つの物語に編纂(へんさん)すると、この町の若者たちに話して聞かせていた。先ほどの子供たちのように、彼らもそれを好んで聞いた。
 そのイヨの後は、白浜トヨという当時21歳の女性が町長となった。
一、巫女ノ力ト頭ノ力、最モ兼ネ備へタル女子一名ヲ以ッテ町長トスベシ。家系ニコダハルナカレ。
(巫女の力と指導者の力を最も兼ね備えている女子一名を、町長とすること。家系にこだわってはいけない。)
 これは、この町が形式的な世襲制(せしゅうせい)に陥(おちい)ることを危惧(きぐ)した、瓶ヶ島第二代町長シャガと役員たちが定めた掟(おきて)である。
 権力の座に就いている者が、自分の子供をその後継者にさせたいと願うのは普通なら当たり前のことだ。しかしそうすると、指導者としての能力に欠けた者が、形式的にその地位に就くということも起こり得る。すると、それを補佐する者が実権を握ることとなり、そのような地位を得るための権力争いが生じることは、ほぼ確実である。彼女たちはそのようなことを防ぐために、不思議な能力と指導力とを兼ね備えた者、しかも女性を町長に立てるということを定めたのであった。
 しかし、シャガが町長の時代から既にそうであったが、この町の長の座に就いたからといって、特別な金銭を得ていたわけではない。他の町民と同じで、何かの仕事をするごとに、その報酬を町から貰うだけだ。確かに町長は、他の者よりも多くの仕事をする分、それに応じて報酬も多いし、人との繋がりを持つ機会も増えるので、その家は賑やかになる。しかし、その分交際費がかさむので、出費も多くなる。
 そのため、町民から推薦されて町長の座に就き、自ら望んでその座から退いたイヨ一家は、他の家と比べて特別力を持っていることもなければ、特別裕福なこともない。増してや、他の日本人町で噂されていたような巨額の富など、ありはしなかった。あるのは、自然に育まれたこの島の、海の幸山の幸、生活するのに必要な道具や日用品、人生を潤(うるお)すための歌といかばかりの美術工芸品、そして彼らが最も大事にしている、心の幸せだけであった。
 黒い椰子の林に囲まれた、たくさんの家々の窓には、どれもこの家と同じような暖かな明かりがともり、そこに住む人々の、質素ではあるが、満ち足りた暮らしを窺い知ることができた。
 海の方からは穏やかな潮騒が聞こえ、椰子の葉の上の夜空には、無数の星と共に南十字星がまたたいていた……。

<続く>
前へ  Page Top  次へ
(c) 2004-2015 Tano Kakashi All Rights Reserved.
inserted by FC2 system