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物語

はまなすの実

原作/田野呵々士

第六章 南洋日本人町調査探検隊

窓の外の雨雲  蒸し暑く薄暗い洋風の部屋。その黄ばんだ漆喰の壁に開け放されている窓から見えているのは、分厚い灰色の雨雲。その下には、赤茶色をした瓦屋根の町が霞(かす)んでおり、そのはるか向うには、空とあまり区別が付かない色の海が広がっている。
 その窓際に置かれている小さな肘掛け椅子の背もたれの向こう側から、神経質そうな甲高(かんだか)い男の声で、溜め息混じりの日本語が聞こえた。
「……うーん、不可解だ…………全く不可解だ……」
 古くはジャヤカルタとか、ジャカトラと呼ばれていたこの都市は、三百年余り前に占領したオランダ人によって「バタヴィア」と改名されたが、ほんの数ヶ月前に進駐して来た日本軍によってジャカルタと改名されていた。
 時は一九四二(昭和十七)年十月二日の昼下がり。先ほどから降り始めた雨は、次第に激しさを増してきた。
 先ほどの回転式の肘掛け椅子がキーッという音を立てて右に回ったかと思うと、そこに腰掛けている人物の姿がこちら側に現れた。それは、白いシャツにカーキ色の吊りズボンを身に着けている、色白で中肉中背の男であった。胡麻塩頭の丸顔に銀縁の丸眼鏡を掛けている彼は、手に持っていた分厚い書類を見ながら困ったように眉を八の字に寄せると、先ほどと同じように溜め息混じりで言った。
「……不可解極まる現象ですよ、これは……」
 その男は椅子を更に回転させると、その目の前に現れた古びた木製の机の上に書類をパタンと置いた。そして、その横に置かれていた四角いブリキの缶の中から紙巻煙草(かみまきたばこ)を一本取り出して口にくわえると、その先にマッチで火を付けた。
 この部屋の中央には、やや大きめの木製のテーブルが置かれてあり、そこには本やノートなどが山と積まれている。よく見ると、その向こう側には白髪頭が一つあり、そこからしわがれた声がした。
「オランダ東インド会社の資料にもなかったんですね? 橋本教授。」
 橋本教授と呼ばれた先ほどの男は、再びキーという音を立てて椅子を右に回転させた。そして、窓の外を見ながら煙草の煙を深々と吐いてからポツンと言った。
「……ええ、そうなんです。」
 そのタバコの煙は、窓の外の雨の中へと流れて消えた。
 テーブルの向こう側の白髪頭が上がると、白い口髭を蓄えた老人の赤ら顔が現われた。その口髭を片手で撫でながら、老人は独り言のように言った。
「うーん……、一つの町が突然わけもなく歴史上から姿を消してしまった、ということなんですからねぇ。」
 橋本教授は、またもやキーという椅子の音を立てながら、再び室内を向いて言った。
「そうなんですよ、早川教授。」
 そして今度は、はっきりとした口調で言った。
「もし、どこかの勢力からの侵略を受けて消滅したなら、その記録がこの資料の中に載っていても良さそうなんですけどねぇ。」
 そう言った橋本教授は、先ほど自分が机の上に置いた書類をちらっと見遣ると、早川教授と呼んだ老人に向かって話しを続けた。
「また、他の町のように自然消滅したなら、それに至るまでの何らかの記録が、どこかに残っているはずです。」
 そして橋本教授は、早川教授の目の前に積まれている本の山にも、ちらっと目を向けてから言った。
「……しかし、それが全くない。」
 それまで熱心に調べものをしていた早川教授はそれを中断すると、腰掛けていた椅子から立ち上がり、壁と同じように黄ばんでいる天井に向かって小さく伸びをした。そして、穿いていたこげ茶色の吊りズボンのポケットから、革紐の付いた真鍮製の懐中時計を取り出すと、その蓋を開けて文字盤を見てからこう言った。
「三時半か……。雨になったことだし、もうそろそろ帰って来てもいいはずだ……。
まあ、今日の彼の報告を待ってみませんか。何か手掛かりになる物でも出て来たかも知れん……。」
 この老人は早川健之助(はやかわけんのすけ)教授六十四歳、東京諦國(ていこく)大学で民族学を専門に教えている。
 一方、橋本と呼ばれていた男は、やはり同大学教授の橋本秀範(はしもとひでのり)氏五十九歳、東洋史が専門だ。
 この二人は、大日本帝国内閣府直属のある機関から命じられて、現在この地に派遣されている。その任務は、十七世紀初頭から東南アジア各地に点在していたと言われている日本人町の発掘調査と研究だ。その「南洋日本人町調査探検隊」の仮の研究室となっていたのが、ジャカルタ市内の安ホテルの三階にあるこの狭い三人部屋であった。
 何世紀も前から日本人が既にこの地域で活躍していたということを、学術的に国内外に示すことによって、軍の士気を高めると共に、この地域を日本が領有することの正当性を強化させるという、南方戦線に対する文化面からの支援である。但し、その研究成果が国益に即したものであるかどうかが判明するまで、国民に対しては一切極秘のうちに進められていたのであった。
 一九三一(昭和六)年に勃発した満州事変以来、日本はファシズムへの傾倒とアジアへの侵略を、加速度を加えながら推(お)し進めていた。この動きを疑問視する者は、国外はもとより国内にもいることはいたが、国内の者は声にならぬ声を上げることしかできなかった。
 新聞やラジオ放送などには、当局からの指示によって既に言論統制が敷かれており、この侵略戦争を正当化したり賛美したりするような記事や番組は認められても、批判するような内容のものは一切製作されなくなっていた。そのため、政府の政策に疑いを抱くような者はほとんどなく、たとえ戦争を批判する者がいたとしても、敵国に味方する「非国民」だとか「裏切り者」だと大多数の者から罵られた。それにも屈せずに声を上げ続ける者は、憲兵によって尽(ことごと)く連行され、社会から一掃されていたのである。
 ここで注意しなければならないのは、このような侵略戦争に反対する意見が、それを推し進めようとする意見によって駆逐されていくという現象だ。平和の尊さを情感を込めて述れば述べるほど、緻密な理論で戦争の愚かしさを証明すればするほど、一度戦争が起きてしまえば、自国の戦意を喪失させて敵国に味方する「裏切り者」にされてしまうのだ。これこそ、人間が持つ悲しき群集心理なのである。
 このような状況になってくると、それまで人権の平等を訴えていた社会事業家や、平和を題材とする作品をつくっていた音楽家でさえも、政府の方針に異を唱えるどころか、この戦争を肯定したり加担したりする言動をとるようになってくる。この渦は、軍需産業や医療関係は元より、様々な学問の分野にまで波及していき、実際の戦争とは全く無縁なことを研究しているこの二人の学者でさえも、例外なくそれに巻き込まれてしまったというわけだ。
 このようにして、政府だけでなく一般国民の判断さえも、ある一定の極端な方向に偏ってしまうということは、当時の日本に限ったことではない。古今東西世界の歴史の中で何度も繰り返され、これからもまた引き起こされるであろうことなのである。それは、巧妙にしてありふれた手法により、民衆が落とされてしまう、大きな「落とし穴」とも言えるだろう。
 かつて物に不自由し、食糧難を経験した人々は、我が子にその辛い思いをさせまいと考える余り、ついつい世の中を便利な物や贅沢な食べ物で満たそうとする。しかし、それが行き過ぎると、子供たちのためになるどころか、国の将来をとんでもない方向へと導いてしまうことになる。
 金さえ出せば欲しい物食べたい物が、いつでもどこでもすぐに手に入るような世の中になると、僅かな物や貴重な食料を共有し分け合ってきた家庭や社会に於ける、人間関係への依存度が低くなっていく。するとそこからは、物に対するありがた味、人に対する思い遣りが欠如した、自己中心的な発想が生まれて来るのである。自分一人の快楽が手に入りさえすれば、家族や社会など必要ないという考え方だ。
 このような発想の持ち主は、大人であれ子供であれ年齢とは関係なく増加し、やがて社会的な風潮とさえなっていく。これによって人々が引き起こす、奇異な行動や衝撃的な事件に、ただ動揺するだけで指をくわえて見ていると、それは取り返しのつかぬ事態へと発展する。
 このような人々は、自己の要求を頭で整理して言葉によって表現するのではなく、物事をただ感覚的に捉え、要求を暴力によって表現しようとする。自分の要求が通らないと暴力を振るう子供もいるが、それを大人がしていると言えばわかり易いだろう。もし、このような人が増加した社会の中で深刻な経済不況や物価高が訪れたなら、一体どのようなことになるのだろうか。
 その答えは明白だ。まず真っ先に、このような人々の中から不満が続出することになるだろう。すると、短絡的な演説を得意とする指導者が待ってましたとばかりに現われて、周辺諸国に対して挑発的な言動を繰り返し、我が国との関係を悪化させる。そうすると、政府に対して向けられるはずであった不満の目は、おのずと周辺諸国に対して向くようになる。そして、この指導者の口車に乗せられた者の意見が、良識ある者の見識を悉(ことごと)く押し流してしまい、開戦論を唱える政党が国会の議席を増やすこととなるのである。
 国内の人にさえ思い遣りのない自己中心的な人々が、周辺各国の人々に対して思い遣りの気持ちなど抱(いだ)くはずがない。この状況下で蘆溝橋(ろこうきょう)事件のような事が起これば、良識ある一般国民でさえ国の体面を重んじる余り、日本軍の海外派兵を支持することとなる。すると、大義名分を得た議会は海外派兵の法案を可決してしまい、日本の軍隊は大手を振って海を越えて行くこととなるのである。「誰が派兵を決断したのか?」と問えば、「国民だ」という答えが返って来るという、これこそ「巧妙にしてありふれた手法」なのだ。
 金鉱山の民営化や憲法改正に代表される改革によって、政府が縮小する代わりに台頭してきた軍部は、「敵の攻撃に備えるため」と称してたびたび軍事演習を繰り返し、膨大な量の弾薬を消費する。更にその軍部の要求によって軍備が増強されれば、国家予算の支出は著しく増加することとなる。その結果、「お国のため」ということで様々な社会福祉に対する予算が削られ、税率も引き上げられる。
 その指導者の「景気を回復させる」という公約は、軍需産業の発展として実現される。しかし、その代償として国民は戦地に赴かねばならず、自分たちの命がその指導者によって握られてしまっていることに初めて気付くのだが、この時点でそれに気付いてももう遅い。組織的な犯罪を取り締まると称して反政府的な活動を押さえ込むための法案や、国に対して子供たちが絶対服従する態度を養わせるための法案などが、既に国会で可決されているからだ。
 そのため、大正デモクラシーによって推し進められていた日本の民主化は後退を余儀なくされ、国の体制はいつの間にやら独裁的な全体主義へと移行してしまうのだ。これこそ、国民が気付かぬうちにはまり込んでしまう「落とし穴」なのである。
 今までの日本の歴史を振り返ってみても、国が統一されて強い軍隊を持ったときには、必ず外国に対して戦争を仕掛けている。中国明王朝征服計画の一環として行なわれた豊臣秀吉の朝鮮出兵もそうであり、日清日露戦争にしてもそうだ。そして、日中戦争も太平洋戦争もこれと全く同様の図式によって展開されている。
 負けず嫌いな日本人の国民性からして、一度他国と軍事的敵対関係に陥れば、勝敗がはっきりするまで後戻りすることのできない泥沼に踏み込むこととなる。そして、札束という紙切れだけは豊富にあるが、戦争に必要な燃料と鉱物資源に乏しいこの島国のこと。やがて国民は、「欲しがりません勝つまでは」などというスローガンのもとで金属製品を軍に供出し、地味な国民服を着せられて、僅かな米や味噌、醤油などの配給を受け、貧困に喘(あえ)ぐこととなる。そして最後は、国土が焼け野原となって終わるのである。
 ちなみに、太平洋戦争による日本人の死者行方不明者の数は、一九四九年の時点で、軍民合わせて184万7957人(小学館・大日本百科事典ジャポニカによる)にのぼっている。このような膨大な数の国民の命が、しかも人為的に失われたということは、日本史上最悪の汚点の一つだろう。
 しかし、本土空襲や玉砕(ぎょくさい)、沖縄の地上戦や原爆の投下などといったことが最初からあったのではない。先に述べた蘆溝橋事件に端を発する日中戦争は、たった数発の「銃声のような音」によって始まったのだ。だから極端な言い方をすれば、「戦争は一発の銃弾から始まる」ことも多々あるのだ。もしこの一発が発射されなければ、中国やアメリカとの関係もそれ以上悪化せず、南京大虐殺や真珠湾攻撃もなければ、原爆の投下だってなかったかも知れないのだ。
 その最初の一発を発射させぬようにしなければならないのが、今の政治家の最も重要な仕事だ。戦争で失われた人の命は、後になってから神社に何度参拝しようとも取り戻すことができないからである。
 さて、それでは話しをまたジャカルタの安ホテルの一室に戻すことにしよう。
 この部屋の出入り口には質素で古めかしい木製のドアが付いており、それが風通しのためか内側に半開きになっている。今その隙間から、激しい雨音に掻き消されそうになりながらも、石の廊下を歩くコツコツという靴音が聞こえて来た。
 椅子に再び腰掛けたところだった早川教授が、そちらを振り向いてこう言った。
「ほう、噂をすれば靴音か……。」
 間もなくそのドアが勢い良く開くと、かんかん帽を被り、陽に焼けて無精髭を生やした一人の小柄な男が、片手に大きなパイナップルをぶら下げて入って来た。こげ茶色のズボンに白いワイシャツ姿のその男は声を裏返して叫んだ。
いやはや、物凄い雨だった!
 濡れた帽子を脱いだその男は、ドアの横の帽仕掛けにそれを引っ掛けると、その下に置かれている小さな木製の卓の上に、もう一方の手に持っていたパイナップルを置いた。そして、雨で濡れたワイシャツを脱ぐと、それを部屋の中に渡されている物干し用の縄に引っ掛けた。そして、ズボンのポケットから取り出した日本手拭(てぬぐい)で、濡れた顔や体を拭くと、それもその縄に引っ掛けた。
 その男は、先ほど卓の上に置いたパイナップルをつかんで、シャワー室で洗って来ると、それを乗せていた卓の扉(とびら)を開けて、その中から銅製の丸い盆を取り出した。それを卓の上に置いた彼は、続いて陶製の白い皿を取り出してその上に乗せ、片手に持っていたパイナップルをそのまた上に乗せると、この卓の上部に付いている引き出しから小さな和包丁を取り出して、そのパイナップルを二センチ足らずの厚さの輪切りにしていった。それを三枚ほど拵(こしら)えた彼は、卓のすぐ横にあるベッドに腰掛けると、足元の石の床の上に新聞紙を敷き、その上にかがんでパイナップルの厚い皮を剥き始めた。
 その男の黒い頭髪に向かって、肘掛け椅子の橋本教授が声を掛けた。
「お帰りなさい。どうですか? 長澤(ながさわ)教授?」
 長澤教授と呼ばれたその男は顔を上げると、皮を剥いて食べ易く切り分けた皿の上のパイナップル一切れを頬張ってから、嬉しそうに言った。
「……うん……こりゃ最高ですよ! お二人ともいかがですか? さあどうぞ!」
 この男は、長澤伸三(しんぞう)氏五十七歳、やはり先の二人と同じ大学の教授で、この隊では発掘の分野を担当している。
 橋本教授は苦笑いして言った。
「いや、私が聞いているのは今日の発掘のことですよ。」
 長澤教授は笑っって言った。
「ハハハ! なんだ、そうですか。」
 そして、口をもぐもぐさせながら軽い調子でこう言った。
「……あの時代の地層からは、もう何も出ませんね。これ以上掘っても、人夫(にんぷ)の給金(きゅうきん)を浪費するだけでしょう。」
 それを聞いた橋本教授は、机の上の資料を指で示すと、眉を八の字に寄せてやや苛立たしそうに言った。
「それでは、あなたはこの問題について、どうお考えになるのです?」
 自分のベッドに腰掛けていた長澤教授は脚を組むと、パイナップルが入った口を再びもぐもぐさせながら、その橋本教授に向かって尋ねた。
「……ということは、その資料の中にもなかったんですね?」
 橋本教授は不機嫌そうに言った。
「そうです。」
 それとは対照的な軽い口調で長澤教授が言った。
「……きっと、当時文字がなかったオーストラリアにでも移住したんじゃないですか……。それで文献も残ってないんですよ……。」
 橋本教授は、煙草の煙を天井に向かってフーッと吐くと、眉を顰(しか)めて言った。
「……長澤君! 人が真面目に質問しておるんだから、真面目に返答したまえ!」
 しかし長澤教授は、けろっとして言った。
「……あいにく小生(しょうせい)、物を食べるときには、冗談など言って楽しく食べることにしているのでね……。」
 早川教授が椅子から立ち上がりながら言った。
「まあ、まあ、お二人とも……。」
 そして、長澤教授の卓の前まで来ると、皿の上のパイナップルに手を伸ばしながら言った。
「では長澤君、お言葉に甘えて頂戴するよ。」
 それを一切れ抓んで口の中に放り込んだ早川教授は、元の椅子に戻ってそこに腰掛けると、口をもぐもぐさせながら独り言のように言った。
「……うん、……こりゃ確かに、今までの中では一番うまい……。」
 気を取り直した橋本教授は、長澤教授に向かってこう言った。
「……これは今回の調査によって浮上してきた、唯一にして最大の興味深い謎なんですからね。
一体全体、これをどう解釈すればいいんだろうか……」
 最後は独り言のようにそう言うと、彼は再び椅子を軋(きし)ませて回転させ、雨に霞んだ窓の外に目を遣った。
 その一方、一頻(ひとしき)り食べ終えて満足した長澤教授は、パイナップルの皮を新聞紙に包んでゴミ箱に捨てると、シャワー室に行って包丁を洗って来た。それを卓の引き出しの中の手拭で拭いた彼は、それらをまたその中に収めてから、橋本教授に向かってこう言った。
海図5 「今回の調査では、十六世紀末から十七世紀初葉に掛けて、『かめが島』という名の町が存在していたということを、バンコクの王立図書館の文献とマニラの文献、そしてバンテンの遺跡の出土品から新たに知ることができました。
例えば、バンテンで出土した陶器の底の破片に、僅かに残っている墨の文字『文禄弐年七月吉日 かめが島町 北……』のように……。
ところが、元和元(一六一五)年を最後に、いずれの国の資料も皆無になるんですからね。
……他の日本人町が、日本の鎖国後も数十年以上にわたって存在していたことがわかっているのに、鎖国前にこのような形で突然消息を断ってしまったような町は、他に例がない。
その点極めて興味深いですな。」
 その長澤教授に向かって、早川教授が微笑んで言った。
「キリストの青年時代、即ち新約聖書に於ける十数年間の空白の期間、彼はペルシャやインドに行って、そこで修行していたという説があるのをご存知ですか? まあこれは、それを裏付ける物的証拠が何もないんで、信憑性はあまり高くありませんが。
でも、このようにして、その町の人たちは、たまたま歴史の表舞台から姿を消しているだけなのかも知れませんよ。そういうことが民族学によって明らかにされることは、少なからずあるんです。
例えば、アフガニスタンの山中にハザラ族という蒙古系の民族がおりますが、これはジンギスカンが置いていった部隊の末裔であるという説があります。
また、近頃発見されたインドのカシミール地方の山中のカラシュ族は、その風習や装身具などからして、アレクサンダー大王がギリシャからこの地に連れて来た人々の末裔ではないかという説もあるほどなんですから。
その瓶ヶ島の町の人々の子孫も、今尚どこかの密林の中でひっそりと暮らしておるのかも知れません。もしそうなら、民族学としても極めて興味深い事例となるので、探し出す価値は大いにありますな。」
 その二人に向かって、肘掛け椅子にもたれている橋本教授が苦笑いして言った。
「その価値はあるとしても、この広大な東南亜細亜(アジア)とオセアニアに点在している膨大(ぼうだい)な数の島の中から、遥か三百五十年の昔に日本名で『かめが島』と呼ばれていた島一つを見付け出すことは、何らかの手掛かりなくしては不可能なことでしょう。それが今のところ、何一つないのですよ。そんな状況なのに、どうやってそれを探し出すんです?」
 長澤教授は、靴を脱いで自分のベッドの上に胡坐を掻くと、やや自身ありげに微笑んで言った。
「手掛かりは、少なくとも一つはありますよ。」
 橋本教授は怪訝そうな顔をして言った。
「どこにあるんです?」
 長澤教授は、真剣な表情になって言った。
「もし、人が島に名前を付けるとしたら、一体何を基にするのでしょうね?」
 逆にそう問われて一瞬面喰った橋本教授だったが、間もなくハッと気が付くと、煙草の火を机の上の灰皿で揉(も)み消しながらこう言った。
「……なるほど。『瓶ヶ島』という名は、その形状に由来すると……。」
「そうです。あくまでもこれは仮説でしかありませんが……。」
 長澤教授はそう言うが早いか、自分の横に置かれている、茶色の古びた皮製の旅行鞄(かばん)の蓋を開けると、その中から幾重かに畳まれた紙を取り出して、自分の目の前のベッドの上に広げた。それは約一メートル四方の、アジア・太平洋地域を描いた地図だった。他の二人は、それぞれ椅子から立ち上がってそこに近寄ると、身を屈めてそれを見た。長澤教授は、その地図上部に描かれている日本のあたりを指差しながら、その説明を始めた。
「……この四国だとか九州だとかは、形状とは関係ない名称です。それもそのはず、これらの全体像は誰の目にも見ることができないからなんです。」
 長澤教授と向かい合わせに地図を見ていた二人の教授は、それぞれ黙って頷いた。長澤教授は、その二人に向かって説明を続けた。
「……ところがですよ。全体を一目で眺望(ちょうぼう)することができるほどの大きさの島なら、人はその形状に基づいて名前を付ける可能性だってあるのではないでしょうか。飛行機などなかった当時ですが、もしその島に全体を眺望できるだけの高さの山があったとしたら、上から見てその形を知ることもできる。
瓶を立てた状態ですと、島の形としては甚(はなは)だ不自然なので、横に寝かせた状態と見るのが妥当と言えましょう。
瓶ヶ島 これらのことから、『その島は、全体を見渡すことが出来る程度の大きさで、ある程度高い山があり、横から見ると瓶が水に浮かんだような形状になっているのではないか』ということが推測できませんか?」
 また黙って頷いた二人の教授に向かって長澤教授は、オセアニア東部と東南アジア周辺をぐるっと指差しながら言った。
「あとは、ここら辺の島々の中から、それらの条件と一致するものを絞り込んでいけばいい。
どうです? あくまでも大ざっぱですが、少しは手掛かりになりませんかね?」
 早川教授は地図から顔を上げると、長澤教授の顔を見て感心したように言った。
「これは大したもんだ。まるで探偵が謎ときするようですな。」
 すると、長澤教授は微笑んでこう言った。
「いえいえ、探偵などとは恐れ多い。」
 そして彼は、部屋の中央のテーブルの上のある本の山に目を遣ってからこう言った。
「……伝説上の人物の墓を暴(あば)くとき、私らがよくやってる手口ですからね。ワハハハハ!!!
 誉められたのにもかかわらず、自分をまるで盗賊のように喩えたこの冗談で、長澤教授自らが大笑いしてしまったのだが、橋本教授は真剣な顔を更に地図に近付けてこう言った。
「うーん……、もしそれを手掛かりにするのなら、この地図の縮尺は小さ過ぎて、小さな島の形状を識別することは困難ですなぁ……。」
 それを聞いた早川教授は身を起こすと、窓の外の雨の向うに霞んでいる海を指差しながら、やや興奮したように言った。
それなら、海軍の海図を見せて貰えば、いいんじゃありませんか! 今回の研究のために私たちには、軍が保管している機密事項以外の資料を閲覧できる権限が与えられておるんですから、それを活用しなけりゃ損ですよ!
 その言葉を聞くが早いか、長澤教授はベッドから降りて靴を履き、食卓の上に置かれていた水差しを持ってシャワー室に入った。水差しに水を入れて戻って来た彼は、先程のパイナップルがまだ半分以上残って乗っている皿の下の盆にその水を注いだ。甘い物を置いておく場合、このようにしておかないと、日本とは違って、あっという間に全面小さな蟻で覆(おお)い尽くされてしまうからだ。
 そして長澤教授は、先ほどのトランクの中から乾いたワイシャツを取り出して羽織ると、そのボタンを掛けながら他の二人に向かってこう言った。
「それじゃぁまず、辻上(つじがみ)さんに報告して来ますよ。」
 半開きになっているドアを長澤教授が開けて廊下に出て間もなく、隣の部屋のドアをノックする賑やかな音と彼の元気な声が、薄暗い廊下に響き渡った。
「辻上さん! おられますかぁ?」
 しばらくすると、一人部屋と見られるその部屋のドアが開いて、そこに面長でやや青白い顔の男が現われた。白いシャツを着て国民服のズボンを履いている痩せたその男は、辻上政義(つじがみまさよし)通訳官四十五歳、軍属であった。
 軍属とは軍隊に所属している軍人以外の者のことで、国家からは軍人に準ずる各種恩典が与えられる。彼もこの調査研究隊の一員であり、オランダ語と英語の通訳や翻訳をする仕事に従事していた。先ほど橋本教授が読み終えた資料も、この辻上が訳したものだ。
 その辻上にはもう一つの仕事があった。それは、この調査と研究の進行状況を、随時陸軍に報告するという任務だった。そのため三人の学者たちは、ちょっと外出するだけでも、その行き先とその目的を、この男に報告しなければならないことになっているのだ。
 ドアの前の長澤教授が、その辻上に向かってこう言った。
「海軍の資料を閲覧しに、これから港まで行ってきますので。」
 辻上は、なかば呆れたような顔をしてこう言った。
「この天候でですか?」
 それまで行き詰まっていた研究に大きな進展の兆(きざ)しが見えたとき、他の物事が眼中になくなってしまうという、この学者の性(さが)は、しばし常人には理解できぬ行動となって表われる。長澤教授は、辻上の部屋を通して聞こえて来る雨音の方を一瞬見遣ってから、事もなげに言った。
「ああ、この雨ですか? いつかはやむでしょう。」
 辻上は苦笑(くしょう)しながら言った。
「それは、ご尤もです。」
 そして、気を取り直してからこう言った。
「……了解しました。お気を付けて行っていらっしゃい。」
 彼が顔を引っ込めてドアを閉めたので、長澤教授は、既に身支度をして戸締りを済ませ、自室の前に立っている他の二人の教授に向かって言った。
「それじゃぁ、行きましょうか。」
 その力のこもった声は、薄暗い石の廊下に響き渡った。
 そこをしばらく進むと、古びた木製の手摺りが付いた石の階段がある。三人は、そこを降りて行った。
 階段を降りきった一階の廊下の先には、広い出入り口が薄明るく見えている。そこから外の通りへと続く幅の広い石段の上では、白い半袖のシャツを着てサロンという丈の長い腰巻を巻いた数人の車夫が、雨を避けながら客待ちをしていた。
 三人の学者たちは、彼らとの交渉を何とか成立させたようで、間もなく、幌(ほろ)をした三台の人力車が、激しく雨の降る大通を港の方へと向かって走り出した。

モスク  この街には、あちこちにモスクの尖塔(せんとう)が立っており、毎日何回か決まった時刻が来ると、祈りの時が来たことを告げる言葉が歌のように流れる。調査を済ませた三人の学者が宿に戻って来たのは、丁度そんな夕暮れ時だった。
 雨は既に上がっていたが、通りに溢れていた濁水(だくすい)のために靴もズボンもびしょ濡れだ。隣の部屋の辻上に帰還したことを告げると、自室に入った三人はまずこの後始末をすることから始めた。橋本教授はズボンを脱ぐと、それを洗面台の上で絞りながらやや不機嫌そうに言った。
「これじゃ、人力車を使った意味がない!」
 床に置いたブリキのバケツで、ズボンと靴下を洗い始めた長澤教授が言った。
「それでも車夫が頑張って走ってくれたお陰で、真っ暗になるまでに帰って来れたじゃないですか。夕食後、情報を整理して候補を更に絞り込んでいきましょう。」
 早川教授が、シャワー室の中から言った。
「思ったより数が少なかったんで、これなら案外早くその島を発見できるかも知れないですな。」
 早川教授と交代してシャワー室に入り掛けた橋本教授が言った。
「船の方は大丈夫なんですよね、早川教授?」
 手拭で体を拭きながらシャワー室から出て来た早川教授がそれに答えた。
「大丈夫。たまたま明後日アンボン(アンボイナ)行きの輸送船が出港するんで、それに乗せてもらう手続きをしてきましたよ。朝五時三十分の出港だそうです。」
 このとき、部屋のドアを外からノックする音と共に少年の声がした。
「Hello?(もしもし?)」
 既に乾いたズボンを穿き終えていた早川教授は、草履(ぞうり)を突っ掛けて部屋の電灯をともすと、覚えたてのオランダ語でそれに答えた。
「コムビンネン(入りなさい)。」
 ドアが内側に開くと、白いワイシャツを着て茶色のサロンを巻いたボーイが一人、大きな盆を手に持って入って来た。盆の上には三人分の料理が皿や鉢に盛られて乗っている。それを見た早川教授が、部屋の中央に置かれているテーブルに急いで歩み寄った。
 本来食卓であるはずのこの家具の上は、現在小研究所と化している。早川教授が、その上に積まれている本の山を更に堆(うずたか)く積み上げて、料理を乗せるための場所を空けると、まだ十代前半と見られるそのボーイは、料理の入った食器を次々とそこに並べていった。どうやら、いつもこのようにしているらしく、彼はこれに慣れているようだった。
1 cent  早川教授は、物干し用の縄に掛けてあった濡れている自分のズボンのポケットの中から、大きながま口を取り出すと、そこから丸い穴の開いた銅貨一枚を取り出してその少年に手渡した。オランダ領東インドの通貨である。少年は微笑むと早川教授に向かってこう言った。
「Zeer dank u.(ありがとうございます。)
Hoe kan ik zeggen "zeer dank u." in Japanner?(『ありがとうございます』って、日本語でどう言うんですか)?」
 早川教授は微笑んでそれに答えた。
「ありがとうございます。」
 少年はそれを真似て言った。
「アリガト……ゴザイマス。」
 白い歯を見せて微笑む少年に、教授も微笑んで言った。
「フーツ(よろしい)! イン ヤファニーズ(ジャワ語では)?」
 少年は真剣な表情になると、わかり易いようにゆっくりと言った。
「Mater Nuwon.」
 教授はニコニコしながら確認した。
「マッテル ノーヲーン?」
「De goede heer(いいです)!」
 少年はそう言って微笑むと、すぐに部屋を退出してドアを閉めた。シャワーを浴びた人が裸で出て来ることを察知して気を使ったのだろう。シャワー室から体を拭きながら出て来た橋本教授が言った。
「今日は私が遣る番なのに立て替えて頂いてどうも済みませんでした。いくら遣られました?」
「1セントでしたが、いいですよ。次回からも、あの子にはずっと私が遣りますから。」
 橋本教授はズボンを穿きながら、怪訝そうに尋ねた。
「はて? またなんで?」
 橋本教授と交替してシャワー室に入った長澤教授が、この遣り取りを耳にして室内から大きな声でこう言った。
「野暮(やぼ)なこと聞くんじゃありませんよ、橋本さん!」
 早川教授は、赤ら顔を更に紅潮させて笑っている。
「ハハハハハ!」
 稚児趣味(ちごしゅみ)である。「男女七歳ニシテ席ヲ同ジフセズ(男と女は七歳になったら同じ席には座らない)」と言って、一般社会で男女が隔離されていた明治以降の軍国日本。このようなことは特に珍しいことではない。
 シャワーを浴び、乾いた服を着てさっぱりとした三人は、各自食卓に椅子を持って来ると、早川教授を中にして並んで腰掛けた。しかし、さあ食べようとしたそのとき、部屋の電灯が弱々しく瞬(またた)いたかと思うと、スーッと消えてしまったので、三人は同時に残念そうな声を上げた。
あ~~~あ!
 窓から入ってくる薄明かりの中で、長澤教授が立ち上がりながらこう言った。
「……いつも肝心なところで消えるんですからね、この町の電灯は。」
 早川教授が言った。
「この時間帯、みな一斉に電気を消費し始めるので、きっと発電の供給が追い付かないんでしょうな。」
 毎度のことなので慣れているらしく、長澤教授はすぐにどこからか大きな燭台を持って来て食卓の上の本のあいだに置いた。そしてマッチを擦ると、そこに立てられている三本の太い蝋燭(ろうそく)に、次々と火をともしていった。
 銅でできたその古めかしい燭台を見ながら、早川教授がしみじみと言った。
蝋燭 「しかし、この燭台は重宝しますな。」
 早川教授の右隣りの席に着いた長澤教授は明るく笑って言った。
「ハハハ、こんなに役に立つ出土品は私も初めてですよ。この宿備え付けの燭台は小さくて不便なんでね。こんなことをする考古学者、恐らく前代未聞でしょうな。」
 早川教授の左隣りで橋本教授が言った。
「乏(とぼ)しい予算なので、燭台一つでも買わずに済めば助かりますよ。」
 これは、つい先日この街の日本人町の遺構から発見された燭台だ。
 間もなくその炎が大きくなり、周囲が明るくなってきたので、三人は今度こそ料理にありつくことができた。
 蝋燭の炎に照らされると、電灯の光で見えていたときよりも料理がうまそうに見えるから不思議だ。
 長澤教授は、グラスに入った茶色の液体をちびちびやりながら、赤味がかった炒飯(チャーハン)のような現地の料理をさもうまそうに食べている。それを覗き込んだ橋本教授が苦笑いしながら言った。
「長澤君、いつもながら感心するのだが、そんな辛い酒と辛い料理をよく平然として飲み食いできますね。辛い物を食べ過ぎると頭が禿げるって言うじゃありませんか。」
 長澤教授は微笑んで言った。
「慣れですよ、慣れ。飲酒の方はともかく、最初だけちょっと辛抱すれば、そのうち何にでも唐辛子が入らないと物足りなくなってきますから。私はそれでも禿げないんで、こりゃまだ食い足らんという証拠でしょうな、きっと。」
 眼鏡を外して本の上に置き、あっさりしたラーメンのようなものを食べている橋本教授は、また苦笑いしてこう言った。
「……好きですねぇ……。」
 一方早川教授は、焼き魚と漬物と白いご飯といった、見た目は日本風の料理を食べている。その彼が微笑んで言った。
「好きでなければ、それほど刺激の強い物を平然として食べれるもんじゃない。まあ、蓼(たで)食う虫も好き好きと言いますからな。米は細長くてぱさぱさですが、私はやっぱりこれが一番です。」
 長澤教授も微笑んで言った。
「それは結構ですな。
いや、実のところ私はね、唐辛子の中毒性に関する研究で人体実験してるところなんでね、好きとか嫌いの問題じゃないんですよ、これは。」
 その冗談を、他の二人は可笑しそうに笑った。
 早川教授が言った。
「……まあ、しかしなんですね、この唐辛子が何世紀も前から伝来しているのにもかかわらず、加熱して調理する料理の食材として用いられていないのは、世界広しと言えども日本本土ぐらいじゃないですかね。」
 長澤教授が言った。
「うちの実家の方では、蕪の漬物に南蛮を輪切りにして入れますけどね。」
 早川教授が言った。
「ええ、そのような漬物があることは知ってますよ。しかし、漬物は加熱調理された料理ではありませんからね。」
「暑いときに食べると大量の汗が出て、その気化熱によって体が冷やされる。南国の気候では自然の理にかなった料理なのでしょうな、これは。」
 長澤教授がわざと尤もらしい口調でそう言ったので、早川教授が苦笑いして言った。
「いや、気候はあまり関係ないんじゃないですか? 『長澤教授は、白い飯にさえ一味唐辛子を振り掛けて食べる』と、学内でも有名な話しになっておりましたから。」
 長澤教授が真面目な顔で言った。
「おや、そうでしたか。……私の場合、発掘の成果より、どうもそっちの方で有名になってるみたいですねぇ。」
 それを聞いた他の二人は、また可笑しそうに笑った。
満州(まんしゅう)は冬の寒さが本土よりずっと厳しい。また、南米アンデス山脈もそれと似たような気候条件です。その一方、タイ国もここも、それらとは対照的な気候です。しかし、いずれの地域の住民も、唐辛子を食材として日常的に摂取しておる。これは、長澤君のような人間が、気候とは関係なく分布しておるということを見事に証明しておりますよ。ハハハハ!」
 早川教授がそう言って笑うと、他の二人も楽しそうに笑った。
 このとき、この部屋の隣の部屋のドアを閉める音と鍵を掛ける音が廊下に響き渡り、早足の靴音がこの部屋の前を通り過ぎて行った。声をひそめた橋本教授が、長澤教授に向かって尋ねた。
辻上さんに声は掛けたんですか?
 長澤教授も声をひそめて言った。
ええ。掛けることは掛けましたが、今夜も『軍の者と食べる』と言ってましたよ。
 それよりもっと小さな声で早川教授が言った。
ああ、またいつものようにね……。
まあ、彼は軍属だからいいじゃないですか。大体あの男が一緒だと、一々監視されているようで飯が不味(まず)くなるから、私個人としては願ったり叶(かな)ったりですよ……

 やがて、食べ終わった早川教授と橋本教授は、食器を重ねてドアの外の廊下に置いたが、長澤教授だけはわざと食べ残しおり、その皿はまだ食卓の上にあった。彼は自分の旅行鞄の中から茶色い液体の入ったガラス瓶を取って来ると、皿の横に置かれているガラスのコップの中にその中身を注ぎ足した。その彼が、他の二人に向かって朗(ほが)らかに言った。
「さあ! 始めましょうか!」
 しかし、眼鏡を掛け直した橋本教授は、そのコップを見なり苦々しそうな顔になった。彼は、煙草に火を点けてから長澤教授に向かってこう言った。
「……長澤君。これは前にも言ったことですが、仕事しながらの飲酒は不謹慎(ふきんしん)じゃないのかね?」
 その言葉が終わらないうちに、早川教授は両手を肩のあたりまで上げると、首を横に振りながら『やれやれまた始まった』と言いたげな顔をした。
 長澤教授は平然として橋本教授の問い掛けに答えた。
「いえ。こちらも前にも申しましたが、このような作業の場合、私はこうした方が能率が上がるんです。飲む量が過ぎてその能率が落ちないよう、私はいつもちゃんと慎んで飲んでおります。『不謹慎』とは慎しまぬことを言いますから、これには該当せぬと思いますが。」
 橋本教授は、煙草の煙を天井に向かってフーッと吐いてから言った。
「……いや、私が言っているのは、勤務中の飲酒そのものが不謹慎だということですよ。」
 長澤教授は言った。
「橋本教授、これは酒でなくてウイスキーですよ。」
 橋本教授は、やや声を荒らげて言った。
「酒でもウイスキーでも同じことです。皇国(こうこく)の今後の発展に寄与せんとして我らが賜(たまわ)りしこの崇高(すうこう)なる職務を、君はアルコールによって穢(けが)すつもりかね?」
 長澤教授は、ややとぼけたような口調で言い返した。
「はて? ご存知の通りアルコールは消毒の際に用いられます。あなたのおっしゃる理屈からすると、毒を消すアルコールによって穢れる我らが職務とは毒性のあるばい菌で、その依頼者である皇国とは、そのばい菌の宿主ということになりますよね。」
 そして彼は、さらにすっとぼけた口調で言った。
「やれやれ橋本さん、下手(へた)なことをおっしゃると、不敬罪で憲兵にしょっ引かれますよ。」
 橋本教授は更に声を荒くして言った。
私はそんな意味のことは言っておらん!
……君(きみ)! 酔っ払いの狼藉(ろうぜき)によって社会にどれだけ迷惑が掛かっているかわかっているのかね? そのようなことを引き起こす液体のことを言っておるのだよ!

 長澤教授は苦笑いして言った。
「橋本教授、ただの晩酌と酔っ払いの暴飲とを混同してもらっては困りますな。この飲酒によって自動車などを運転し、事故を起こすようなことならともかく、これによって私がみなさんにご迷惑お掛けしたことは、今まで一度もなかったことと存じておりますが。
そうおっしゃるのなら、ただ今あなたが排出しておられるその煤煙(ばいえん)こそ、人類が共有するこの空気を汚染しており、よほど社会の迷惑になっておりますよ。もし、あなたのその煙によって誰かが肺病にでもなったら、どうなさるおつもりなんです?」
 それを聞いた橋本教授は、自分が吸っていた紙巻タバコの先端から上がっている煙を見遣って苦虫を噛み潰したような顔になった。それを見た早川教授が、ここで仲裁に入った。
はい、それまで!
橋本君、長澤君の言う通り、今まで彼の晩酌によってこの調査研究が妨げられたことは一度もない。その点では君が喫煙しながら仕事をするのと同じことなんだし、ここは一つ彼の好きにさせてやってはどうかね。」
 橋本教授は、仕方なさそうな表情で言った。
「やれやれ、わかりましたよ・・・」
 それでも彼は、諦め切れないといった様子で、長澤教授に向かって負け惜しみを言った。
「それなら長澤教授。『ウイスキー』は、敵国の言葉であることをご存知なのでしょうな?」
「ええ、知ってますよ。それなら橋本教授。現在わが国が支那(しな)と交戦してるのに、あなたは漢字と漢語を堂々と使ってるじゃありませんか。」
 長澤教授がそう言うと、橋本教授は顔をやや引きつらせて言った。
皇紀二千六百有余年の歴史に於いて、我が国は外来の言語を積極的に取り入れて参りましたが、もし漢字と漢語を排除すれば、言語として充分機能しなくなるほどその依存度は多大です。仕方ありませんよ。」
 長澤教授が苦笑いして言った。
「文字と言葉を教わっておいて、それをつくった国に押し掛けて威張ってるんですから、一体どうなっているんでしょうね我が国のお偉方の道徳観は? そして、今おっしゃった皇紀というのもこれまたいい加減なものですな。そう思いませんか、橋本教授。」
 歴史学者の橋本教授も苦笑いしてこう言った。
「いや、自分で言っておいてから言うのもなんだし、ここだけの話しですけどね、実は私、この紀元の割り出し方には疑問があるのですよ……。
例えば記紀にしても、神話の部分と史書の部分があり、それらが混沌(こんとん)と結合して成り立っております。しかも、その史書の部分にも矛盾している点が少なからずあります。
神話ならともかく、神武天皇以降の数代までの人物が、あんなに長生きするなんて、科学的に見ても世界史の常識から見ても考えられないことですよ。
その部分だけを見ても、日本の歴史を古く見せようとして編者が捏造(ねつぞう)しているように思えてしまう。このようにして編纂(へんさん)された文献の科学的な信憑性(しんぴょうせい)を全く問わずして、そのまま国の紀元を定めてしまうなどということは、無謀(むぼう)としか言いようがありませんね。」
 考古学者である長澤教授は、橋本教授をちょっと見直したような目で見てからこう言った。
「その通りですね。もしこれで万が一、史書に登場する人物の墓が全て発掘され、その生存していた時代が明らかになってご覧なさい。我が国の史書の信憑性は更に失墜(しっつい)し、そのことを検証することなく紀元を割り出した我が国の学界は、各国の学界から嘲笑(ちょうしょう)の的(まと)となりますから。」
 早川教授が微笑んで言った。
「さ、お二人が意気投合なさったところで始めませんか。あまり遅くなると明日の荷づくりの仕事にも差し障るし……。」
 こうして三人の学者は、それぞれが調べた情報を出し合い、瓶に似た形をした島の候補を絞り込んでいった。

島  紺碧(こんぺき)の空の下の青く澄んだ海、純白の砂浜、風にそよぐ椰子の林。それは、現在この惑星のあちこちで、人間同士が殺したり殺されたりしているということを、忘れさせるような風景だった。
 豊かな緑で覆われたこの島の周囲は、珊瑚礁の浅瀬が幾重にも取り巻いているため、古来から様々な国の大きな船が通っても近寄ろうとはしなかった。座礁(ざしょう)の危険があるからだ。日本軍やアメリカ軍とて同じことで、昔からこの孤島の存在を知ってはいたが、戦略的に重要な他の海域の方に関心が奪われており、この島の領有は全く放置された状態となっていた。
 この、瓶を水に浮かべたような形の島の入り江に、麦藁帽(むぎわらぼう)を被った四人の男たちが漕ぐ、一隻の大きなボートが入って行った。沖には日本船籍と見られる小型の輸送船の姿があり、それは今ゆっくりと西へ去って行くところだった。きっと、このボートの母船だったのだろう。
 この四人の中で最も陽に焼けている男がボートを漕ぎながら、島の東寄りにある山を見上げてこう言った。
「……どうやら、この島に間違いなさそうですな。」
 長澤教授だった。
 赤ら顔で白い口髭を生やした早川教授が、同じくボートを漕ぎながら言った。
島の港 「……ほら、あそこに港らしき古い石垣があるし、浜にはたくさんの舟が引き上げてある。土人からの情報によりますと、『ここの住民は元々自分たちとは言葉も習慣も違う民族だが、自分たちの言葉を覚えてくれたので、昔から親しく交流している。』ということですがね。船の特徴から見たところ、ポリネシア系土人が使っているものに極めて類似しておりますが。」
「いずれにせよ、ここがその『かめが島』であってほしいものですな。内閣府直属の組織から依頼されておるにもかかわらず、陸軍は小発(しょうはつ)一つ出してくれん。もうあちこちボートを漕いで探し回るのは御免だ!」
 やはりボートを漕ぎながら、神経質そうな甲高い声でそう言ったのは、色白の丸顔に銀縁の丸眼鏡を掛けた橋本教授だった。
「何事も軍事優先です。しかも現在ガダルカナル島にて我が軍は苦戦を強いられており、たとえ小発一つであっても現地に投じねばならぬ状況下にあります。どうぞご理解下さい。」
 やはりボートを漕ぎながら、陸軍がこの調査にあまり協力的でないことへの言い訳をしたのは、青白い顔を曇らせている辻上通訳官だった。彼は更に困惑した表情になると、『えらいところに来てしまった』と言いたげな口調でこう言った。
「……ところで、港と船はあっても建物が一軒も見当たりませんよ……。調査は何日で済みそうですか?」
 その問いには長澤教授が答えた。
「来たばかりなので、まだはっきりとは申せませんがね、一般的には小規模の発掘なら数ヶ月で済みますし、中規模のものであれば数年は覚悟しておいて下さい。」
 辻上は陰気な表情のまま黙って頷いた。
 このとき、港の石垣の上に何人かの人影が現れた。それを見た早川教授が嬉しそうに言った。
「……おぉ、早くもお出迎えが現れましたよ!」
 長澤教授は漕ぐ手を止めると、荷物の中をごそごそ探していたが、やがてウイスキーの瓶と葉巻の入ったブリキの缶を取り出して、それを早川教授に手渡しながら尋ねた。
「手土産は、これでいいんですよね?」
 それを受け取った早川教授が言った。
「そうです。女性は髪を隠していないので、回教徒ではなさそうですから。」
「もし人食い人種だったらどうするんです?」
 自分の腰に下げた拳銃の所在を手で確かめながら辻上が不安げにそう尋ねたが、早川教授は大学教授らしい落ち着いた口調でこう言った。
「辻上さん、世間ではどうもその『人食い人種』という言葉が横行(おうこう)しておるようだが、それは学術的には間違った言い方ですよ。人を食べる風習のある民族はあっても、それは特定の人種に限ったものじゃありません。ですから、『人食い族』または『首狩(くびかり)族』と言う呼称の方がまだましです。
もし仮に人食いの風習がある民族であっても、外来者がいきなり襲われるということはまずありません。同族間の戦闘による儀礼のために人食いをする場合が最も多いということが、最近の調査で明らかになっておりますから。」
 一般人でも納得のいくようなその説明に、少し安心した辻上はこう言った。
「それならいいんですけど……。」
 だが、眉間に皺を寄せると、彼はこう言い直した。
「……しかしいずれにせよ、護身のために先生方も銃を身に付けられた方が、いいんじゃないですか?」
 長澤教授が面倒臭そうに言った。
「……私は結構ですよ。そんな仰々(ぎょうぎょう)しい物。」
 早川教授は、学者らしい冷静な口調でこう言った。
「私も結構。相手をかえって刺激することになりますので。」
「私は念のために着用することにします……。首狩族でなくても敵対してくるかも知れんので。」
 橋本教授はそう言うと、陸軍から貸与されている皮製のサックに入った拳銃のうちの一丁を荷物の中から取り出して、そこに付いているベルトを自分の腰に巻き付けた。
 やがてボートが港の石垣に近付くと、出迎えに現れている住民の風貌を見て早川教授がなかば嬉しそうに言った。
「ポリネシア人にも近いようだが、気のせいか、服装が我が国室町時代のものに、どことなく似ている……
いずれにせよ、我々と同じ蒙古系の民族のようです!」
 ボートが石垣の下に着くと、大勢の出迎えの人の中央に立っている、紫色の鉢巻をした一人の美しい娘が、石垣の上からにこやかに話し掛けてきた。
 その言葉を耳にしたボートの上の四人の日本人は、互いに顔を見合わせ思わず絶句してしまった。

「……水を……くれませんか……。」
 皺(しわ)だらけの瞼(まぶた)を深く閉じて力なくそう言ったのは、枕を支えにして病院のベッドから上半身を斜めに起こしている、元大学教授の長澤伸三氏八十五歳だった。
 彼は発掘や講演などで全国を行脚(あんぎゃ)するほど健康だったのだが、数年前に妻を交通事故で失ってからというものは体調がすぐれず、やがて寝たきりの生活となり、一ヶ月ほど前から都内にあるこの総合病院に入院していた。入院当初は、彼の元教え子などが入れ替わり立ち代りで見舞いに訪れていたのだが、彼の容態が余りにも芳(かんば)しくないため、みな遠慮したせいかここ二三週間はその波が収まっていた。
「……はい。お爺ちゃん。」
 そう言って、乾いた老人の唇のあいだに吸い呑み器の細い口を差し入れたのは、ベッドの窓側の丸椅子に腰掛けている小柄な女性だった。髪をポニーテールに結って、薄青色のセーターと、灰色の長いスカートを身に着けている彼女は、長澤景子二十七歳、伸三の孫だ。当時はミニスカートという、丈の短いスカートが流行していたのだが、彼女はそのようなことにあまり関心がなかったのか、それとも入院している祖父の付き添いのため、流行どころではなかったのかも知れない。
 口の中の水を全部飲み込むことができなかった伸三は、それを半分ほど口の端から胸の上に垂らしてしまった。景子は慣れた手付きで、その胸に敷いてあったタオルを使い、祖父の口元と顎を拭いた。
「今日のお話しは、もうこれまでになさった方がよさそうですね、ご本人の衰弱が激しいようなので。」
 そう言ったのは、ベッドを挟んで景子とは反対側の枕元に立っている伸三の主治医(しゅじい)だった。彼はたった今、午後の回診のためにこの病室を訪れたところであった。
 景子は、伸三の枕元の壁際の卓の上に置かれてある、四角い箱のような機械のボタンをバチンという音を立てて押すと、白髪頭(しらがあたま)の伸三に向かって優しく言った。
「お爺ちゃん、続きはまた明日(あした)聞かせてちょうだいね。」
 依然として瞼を閉じたまま、伸三は微かに頷いた。
 やがて、主治医は診察を終えると、景子に目配せして病室を出たので、彼女はそれに従った。主治医はドアを閉めて薄暗い廊下の真ん中に立つと、声をひそめてこう言った。
非常に申し上げ難(にく)いことなんですが……、このご様子ですと明日か明後日あたり危ないかも知れません。どうか覚悟しておいて下さい。
 その伸三の血縁者は、現在この景子たった一人だけだった。
 旧日本政府から命じられて、伸三が海外の日本人町の調査研究を行なっている最中の昭和二十(1945)年三月十日、彼の自宅があった東京は、米軍による激しい空襲を受けた。近々疎開(そかい)するはずだった彼の家族であったが、不幸にしてその隣の家が、米軍機が投下した焼夷弾(しょういだん)の直撃を受けてしまった。彼の妻は、当時まだ一歳だったこの孫の景子と一緒に銭湯に行っていたので助かったが、それ以外の家族全員が、そのときの大規模な火災によって死亡してしまったのだ。
 そのような景子にとって、自分をここまで育ててくれた伸三は、祖父というよりもむしろ父のような存在であり、彼を失わんとする不安と悲しみは、彼女が祖母を失ったときと同じか、それよりも深いものであった。
 景子には、現在結婚を前提に交際中の一つ年下の男性がいたが、婿を取らないと家が絶えてしまう年上の彼女との結婚を、その彼の両親はずっと強硬に反対し続けていた。彼はその家の長男であったからだ。
 それに根負けしてしまったのか、近頃彼がなんとなく冷めたくなったように感じていた景子だったので、この祖父がいなくなってしまえば、自分はこの世でたった一人孤立してしまうように思えてならなかったのである。
 景子は涙を堪(こら)えながらその主治医に向かい、やはり声をひそめてこう言った。
……はい、覚悟しております。本人もそのことをわかっているようですし……。それで尚更一所懸命話しておこうと……
 ここまで言うと、ついに堪えきれなった景子は、声を詰まらせてハンカチで目頭を押さえた。その震える肩に向かって、なかば言い訳するような口調で、その主治医がこう言った。
私共としましては、あらゆる手を打っているんですが、何せご本人にこれ以上生きようとするご意思がお有りにならないようなので……
 景子は涙声で言った。
……ええ、それはわたくしも重々(じゅうじゅう)存じております……
どうか気を落とされませんように……。
……では、失礼致します。

 そう言った主治医は、隣りの病室のドアをノックして開けると、まるで逃げるようにしてその中に消えた。
 このとき、この空気には全くそぐわない賑やかな行進曲風の歌が、どこからともなく微かに聞こえて来た。
「こんにちは。こんにちは……。」
 それは、つい先月大阪で開催されたばかりの国際万国博覧会の主題歌であった。どこかの病室で、入院患者か誰かがラジオのスイッチでも入れたのだろう。
 日本の敗戦によって第二次大戦が終決すると、やがて世界は共産主義と資本主義とが対立する、「冷戦」と言われる時代に突入した。その一方、その両者の旗手である、ソビエト社会主義連邦共和国とアメリカ合衆国が、相次いで有人宇宙船を大気圏外に飛ばすことに成功し、いわゆる宇宙時代の幕開けともなった。
 日本では、昭和三十九(一九六四)年に行なわれた東海道新幹線の開通と、東京オリンピックの開催が、経済の高度成長に拍車を掛けた。そして、やはり日本初となった万博は、この昭和四十五(一九七〇)年三月十五日、桜の花を図案化したシンボルマークに象徴されるように華々しく開催された。この会場に設けられたアメリカ館では、昨年アポロ十一号が持ち帰ったという月の石も展示されており、日本中がこの博覧会で湧いていた。
 ところが、それと同じこの年には、東京の自衛隊の駐屯地で、一人の文学者が割腹(かっぷく)自殺を決行した。その一方、工業の発展と都市の巨大化が進むにつれて公害問題が次々と浮上し、資本主義体制に対して疑問を抱く学生たちの反政府運動も活発化していた。このように、政治や経済の有り方について、国民がそれぞれ真剣に考えて命懸けの行動を起こし、国を右へ左へと大きく揺さぶっている時代でもあった。
 病室に戻った景子は、ドアを閉めながらまずベッドの上の祖父の様子を窺った。すると伸三は、先ほど診察を終えたときと全く同じ姿勢でいたので、思わず背筋を寒くさせた彼女は、そのベッドに駆け寄って祖父の胸を凝視した。それが呼吸のために微かに動いたのを見た景子は、彼がまだ生きていることを知り、ほっと安堵(あんど)の溜息をついた。
 伸三は十日前から既に食事が喉を通らなくなっており、点滴で命を繋ぐようになっていた。そのため、恐らく先ほど主治医が言っていた通りになってしまうのであろう。枯れ木のようなその腕に付けられた点滴の管を見て、また涙が込み上げてきた景子は、その思いを振り払うかのようにして窓辺に歩み寄ると外の景色を眺めた。
 この病院の正面の駐車場には、数本の桜の木が植わっている。五階から見下ろすと、雨で散ったその夥(おびただ)しい花びらによって、黒いアスファルトの上は、まるで薄桃色の絨毯(じゅうたん)でも敷いたかのようになっていた。
 そのことを祖父に伝えようとした景子は、後ろを振り向いて声を掛けた。
「ねぇ、お爺ちゃん。」
 しかし、伸三は瞼を閉じたままで返事をしなかった。彼が眠っていることに気が付いた景子は、ベッドに歩み寄ってその背中に片手を添えると、それまで彼の背中を支えていた枕をそっと抜き取った。
 祖父を横に寝かせた景子は、捲れている掛け布団をそっとその肩の上にまで掛けた。

 その翌朝、ここ数日間降ったりやんだりしていた雨が上がり、東京はどんよりとした花曇(はなぐもり)の空となっていた。
 伸三のベッドの隣りにある、付き添い人用のベッドで目覚めた景子は、窓際の伸三に目を移した。彼はまだ良く眠っている。
 ベッドから身を起こして身支度を整えた景子は、病室を出て食堂がある一階へと向かった。
 食堂の中に入ると、その窓に掛かっている薄いレースのカーテンの外から、電車の走る音や通勤の自動車の警笛音が、雲の下のビルの谷間に轟(とどろ)き渡っているのが聞こえた。その反対側の窓ガラスの向うでも、この病院の廊下のスピーカーから流れ出る院内放送や、看護婦たちが立てる急ぎ足の靴音が、新しい一日の始まりを告げていた。
 その慌ただしさの中で今、一人の人間がこの世を去ろうとしている。その病室周辺だけはなぜか空気が穏やかだなと、朝食を済ませて食堂から戻って来た景子は感じたが、それは死に行く人の持つ独特の雰囲気によるものなのか、祖父の話しに出て来る常夏(とこなつ)の島の印象によるものなのかは、よくわからなかった。ただ、この高度成長期の東京の朝という、それまで当たり前に思っていた慌ただしさが何か不自然で、むしろ伸三が持っている雰囲気の方が、今の景子には自然なものに感じられた。
 景子がドアを開けて病室に入ると、祖父はベッドに寝たまま窓の外の灰色の空を見上げていた。それを見た景子は微笑むと、普段の明るい声で言った。
「お早う、お爺ちゃん。」
 その景子の方にゆっくりと顔を向けた伸三は、細いしわがれ声でこう言った。
「……桜は、まだ残ってるかね?」
 伸三はここ二三日、朝起きると挨拶代わりに必ずこう尋ねてくる。景子は窓際に行くと、ガラス越しに下を覗きながら言った。
「うん、昨日の雨で大分散ったみたいだけど……、まだ少し残ってるよ。」
 伸三は、しばらく窓の外の灰色の空を見上げていたが、窓際に立っている景子の顔に再び目を移すと、頼るような眼差(まなざ)しで言った。
「……ねえ景ちゃん、今日も話しを聞いてくれるかい?」
 数日ほど前から、伸三はある話しを毎日少しずつ景子にしており、彼女はそれを磁気テープに録音していた。
 この頃、カセットテープレコーダーというものが、日本でも発売されるようになっていた。それまでの磁気テープによる録音は、大型の機材とマイクを使用する大掛かりなものであった。しかし、カセットが開発されると、メーカー各社は一般に向けて、マイクを内蔵した小型で安価な機種も生産し、家庭でも手軽に録音ができるようになっていた。デジタル機器の普及よって今では廃れつつあるカセットテープだが、この当時ではそれがまだ非常に画期的なことだったのである。
 その伸三の話しとは、妻にさえ明かすことのなかった戦時中の彼の秘密であった。「この話しは私の遺言になるから、どっかに書き留めておいてくれないかい……。」と彼がその冒頭で頼んだので、景子はそれをテープレコーダーに録音しておいて、後でそれを再生したものを聞きながら、ノートに記録することにしたのである。
 この作業をするためには、どうしても伸三が口を動かさなければならない。その労力によって彼が衰弱していくことを、景子は痛いほどよく知っている。しかし、それによって自分が悲しみを露わにすれば、祖父は自分が話したいことを気持ち良く話せなくなってしまうかも知れない。
『今のお爺ちゃんの命は、この話しをあたしに聞かせるために、なんとかこの世に繋がってるに違いない!』
 彼女にそう確信させたほど、今の伸三は必死な様子であった。
 景子は悲しみを堪えると、優しく微笑んでこう言った。
「もちろんよ。一度に長く話すと大変だから、少しずつ休み休みにしようね。」
 こくりと頷いた伸三が身を起こそうとしたので、景子はそれに手を貸しながら、昨日と同じようにして背中とベッドの柵のあいだに枕を差し込んでやった。それによって上半身が斜めに起きた伸三は、フーッと一つ疲れたような溜息をついた。景子はやはり昨日と同じようにして彼の枕元の丸椅子に腰掛けると、卓の上の機械の録音ボタンを押した。
 伸三は、昨日までの話しの続きを語り始めた。

島の港 「ようこそいらっしゃいました。この島こそ、あなた方がお探しの瓶ヶ島です。
あたしは、ここの町長を務めている網野(あみの)カイと申します。」
 南半球に位置している、その島の原住民の娘の口から、そのように流暢な日本語が発せられたので、南洋日本人町調査探検隊の四人の男たちは、腰を抜かしたようにしてボートの上に座り込んでいたのだが、長澤教授が辛うじて口を開いた。
「……そ、それでは、あなた方は日本人なのですか?」
 日本の小袖に似た古風な服を着て、波打つ長い黒髪に鮮やかな紫色の鉢巻をしているカイは、色白の美しい顔を穏やかに微笑ませてこう言った。
「今まで外の人にそれを敢えて明かすことはありませんでしたが、実はそうなんです。長い年月のあいだに近くの島の人や、漂流して来た人などの血も混じりましたけど……。
さあ、どうぞ島に上がって下さい。」
 その言葉によって、やや気を取り直した四人の男たちは、ボートをその石垣に着けると、長澤教授が舳先に結んであるロープの端を持って石垣に設けられている石段の上に飛び移った。彼は、カイたち島民の立つ石垣の上に上ってボートを手繰り寄せると、ロープの端を石の杭に繋いだ。
 他の三人も次々とボートから石段へ飛び移り、そこから石垣の上に上がって来た。すると、そこに並んで立っていた十数人の子供たちが、みな一斉に日本の木遣節(きやりぶし)のような歌を歌い始めた。
 カイが、それを説明した。
「あなた方を歓迎する歌です。」
 歌が終わると、四人の男たちは微笑み、口を揃えて言った。
「ありがとうございました。」
 カイは、自分の後ろで控えていた、袴を穿いて上半身裸の長髪の男たちに目を遣ってからこう言った。
「もしよろしければ、お荷物はこの者たちに運ばせますが、いかがですか?」
 早川教授が嬉しそうに言った。
「おぉ、それはありがたいことです。」
 カイがその数人の男たちに向かって目配せすると、彼らは手分けしてボートの上の荷物の陸揚げを始めた。
 早川教授が、カイに向かってこう言った。
「申し遅れましたが、私たちは大日本帝国政府より派遣された『南洋日本人町調査探検隊』と申します。こちらが橋本秀範教授、こちらが長澤伸三教授、こちらが辻上政義通訳官、そしてこの私は不肖(ふしょう)ながらこの隊の長を務めさせて頂いております、早川健之助と申します。何(なに)とぞよろしくお願い致します。
これは、つまらんもんですが、お近づきの印です。どうぞお受け取り下さい。」
 彼は、手に持っていた先ほどの瓶と箱をカイに手渡した。カイはそれを受け取ると微笑んで言った。
「それはどうもありがとうございます。」
 早川教授は、やや不思議そうな表情になると、カイに向かってこう言った。
「……さて、先ほど、私たちがこの島を探しているということをご存知のようにお見受けしましたが、そのことは一体全体どのようにしてお知りになったのですか? 今初めてお会いしたばかりなのに。」
 カイは、やや真剣な表情になってそれに答えた。
「そうですよね、いきなりあんなことを言われると、誰でも驚かれてしまいますよね……
あなた方がこの島を探しに来られるということを、近頃あたしは夢で知りました。あたしたちの中には、そのような力を生まれながらにして身に付けている者が、少なからずいるのです。」
 橋本教授が、早川教授の耳元で囁いた。
教授、これは予知能力というものではありませんか?
 早川教授も小声でそれに答えた。
どうもそのようですな……
 そして、カイに向かってこう言った。
「それではカイさん、私たちがここへ何しに来たのかも既にご存知なのですか?」
 カイは、穏やかな表情でそれに答えた。
「はい、よく存じておりますよ。あたしたちがいつどのようにしてこの島に来たのかを、これから催される歓迎の宴の席で披露することに致します。
まずその前に、あなたたちがお泊りになる場所へご案内しましょう。さあ、どうぞこちらへ……。」
 四人の男たちは、なかば狐(きつね)に抓(つま)まれたような表情のまま、カイとその従者たちによって島の奥へと案内されて行った。
 明るい砂浜を後にして、やや薄暗い椰子林の中の小道をしばらく進むと、突然大きな木造高床式の家々が現われた。そのあいだを抜けると、再び明るく開けた場所に出た。
 そこは、石畳が敷かれた大きな広場になっており、これを中心にして同じような大きな家々がずらっと立ち並んでいる。そして、この広場の一角には火が焚かれ、それを取り囲むようにして既に大勢の老若男女(ろうにゃくだんじょ)が輪になって座っていた。調査探検隊の四人は、カイと二人の従者の男によってまずこの広場の奥にある一際(ひときわ)大きな建物に案内された。
 正面の階段を上り、入り口で靴を脱いで中に入ると、まず八十畳もあろうかと思われる広々とした板の間が現われた。
「ここは、この町の集会所ですが、いつもはそれを広場の方でしていて、天気が悪いときにだけここでします。だから普段は使っていないんです。」
 薄暗いその広間を横切りながら、カイがそう説明した。
 よく磨かれた床板の上を歩いて行くと、この広間の中央には、大きな囲炉裏があることがわかった。そこを過ぎて奥の壁に突き当たると、そこには椰子の葉を編んでつくられた襖(ふすま)がいくつかあった。そのうちの向かって一番左側を開けながら、カイが明るい声で言った。
「あなたたちには、この部屋を使って頂こうと思いますが、いかがでしょうか?」
 建物の左奥に位置する十畳ほどのその部屋の中は、壁の二面に開いている大きな窓のために明るく、そこからは木漏れ陽が降り注ぐ椰子林が見えている。家具といえば大きな食卓が一つだけで、あとは何もなくがらんとしていたが、清潔で涼しそうな部屋だったので、それを見た早川教授が四人を代表してこう言った。
「いやー、実に結構ですな。今まで立ち寄った島々では、どこも天幕(てんまく)生活だったので、これはまるで天国のようです。なあ、諸君。」
 他の三人も、みな嬉しそうに頷いた。
 カイはその部屋に入ると、奥の壁の窓の横にある戸をガラガラと開けてこう言った。
「ここから梯子を降りて、外に出られるようになってますので。」
 カイは続いて、そばに立っていた従者の男に向かってこう言った。
「『この部屋でいい』って言ってきて頂戴。」
「よっしゃ。」
 彼はそう言って大広間に戻ると、その窓から外にいる誰かに向かって大声でこう言った。
「おーい! ここでええんじゃと!」
 すると間もなく、調査探検隊の荷物が、先ほどの裏口から次々とこの部屋の中に運び込まれて来た。カイが言った。
「あたしたちが使わないときは、あの大広間もご自由に使って頂いて構いませんので。」
 早川教授が言った。
「ありがとうございます。多分この部屋一つだけで充分だと思いますが。」
 やがて荷物が全部運び込まれると、カイは微笑んで言った。
「さあ、宴(うたげ)に参りましょう!」
 探検隊の四人は、カイとその従者たちに連れられて、先ほどの広場へと戻って行った。
 会場に着いた四人は、火の周りに設けられている、主だった者が座る席へと案内された。
 そこには椰子の葉で編んだ敷物が四人分並べて敷かれてあり、カイに勧められて彼らがそこに座ると、四角く切られたバナナの葉が水で清められて各自の席の前の石畳の上に敷かれた。そして、その上に魚介類や芋や豆や野菜などの、旨そうな料理の数々が、お給仕の者によって次々と盛り付けられていった。
 また、椰子の実でつくられたこげ茶色の丸い器(うつわ)には、焼酎らしき飲み物が満たされた。それを見届けたカイが自分の席から立ち上がると、それまでガヤガヤとざわめいていた広場が静かになった。
 カイは、まず四人の男たちに向かってこう言った。
「調査探検隊のみなさん。改めて、ようこそいらっしゃいました。この島のつたない飲み物と食べ物ですが、どうか心ゆかれるまで召し上がって下さいね。」
 そして彼女は、広場の人々に向かってよく通る声でこう言った。
「それではみなさん、日本からあたしたちのことを探しに来られた方々を歓迎する、今日まで待ちに待った宴をこれから始めます。」
 会場に盛大な拍手と歓声が起きたので、調査探検隊の四人はそちらに向かってごく自然に頭を下げた。
 こうして宴が始まり、会場は再び賑やかになった。
 カイは自分の席に座ると、その近くに座っていた探検隊の四人に向かって尋ねた。
「あたしたちが日本を離れたのは、もう三百年以上も前のことです。近頃の日本は、どのようになっているのですか?」
 その問いに対して教授たちは、日本が戦争を始めたことについては触れず、当り障りのないことを話して聞かせた。
 やがて、話しや飲み食いにある程度きりがつくと、一人の白髪の老婆が四人の前に進み出て座り、にっこりと微笑んでお辞儀をした。カイは、その老婆のことを四人の男たちに紹介した。
「先々代の町長の磯部カヨ、今はこの町の語り部を勤めています。これから、今まで外の人には決して語られることのなかった、この町の成り立ちについての物語を語るのです。これを通しで聞けるのは、普通だと年に一度正月だけなので、この町の者もこの機会をとても楽しみにしています。」
 その言葉に軽く頷いた考古学者の長澤教授であったが、その老婆の首に掛かっている物に目が釘付けになってしまった彼は、他の二人の教授の肩を叩くと声を上ずらせてこう言った。
「あ、あれは勾玉だ!」
 その二人もそれを見た途端、目を丸くして驚いた。現代の日本人の常識からすれば、それは博物館に展示されている物であり、現役の装身具として用いられるのを目にするのは誰もが初めてであった。
 真っ赤な勾玉を連ねた首飾りをしているその老婆は、教授たちのそんな驚きなど気にせずに語りを始めた。
「むかしむかし、遠いむかしの物語。
北の海に、ある大きな島がありました……」
 四人の調査隊員も町の人たちも、飲み食いしながらその物語に一心に聞き入った。
 東洋史が専門の橋本教授は、上着の胸のポケットから手帳と鉛筆を取り出してそれを書き止め始めた。しかし、それがたちまち一杯になることを予測した長澤教授は、カイに向かって『失敬』と目で挨拶してそっと立ち上がると、先ほど自分たちに当てがわれた部屋の荷物の中から、新品のノートを取りに行って、それを橋本教授に手渡した。
 この語りはこの日だけでは終わらず、途中に休憩などを挟みながら、次の日もその次の日も続けられた。それが進むにつれて、織田信長や豊臣秀吉などといった歴史上の人物の名や、はっきりした日本の年号が出て来たので、橋本教授はそのたびに狂喜乱舞しそうになって喜んでいた。
 その語りも、三日目の夜更けにはようやく終わった。
 会場は、物語の余韻を味わうかのようにして静まり返っていた。その周辺の闇の中からは、無数の虫の音(ね)と蛙の鳴き声が絶え間なく聞こえており、会場のあちこちに立てられているかがり火からは、薪の爆ぜる音が時折り聞こえている。ヤモリが発する甲高(かんだか)い声も、そのあいだをぬって聞こえて来る。
 やがて、穏やかな表情をしたカイが口を開いた。
「カヨ婆ちゃん、お疲れ様。ゆっくり休んで頂戴。」
 その語り部の老婆は、四人の男たちに向かって丁寧にお辞儀をすると、立ち上がってそこを退出して行った。
「この町の成り立ちの物語、いかがでしたか?」
 四人に向かってカイがそう尋ねると、まず早川教授が答えた。
「あなた方が培(つちか)ってこられた理念とその実践は実に素晴らしい。ここは様々な分野から見て、世界的に非常に貴重な場所となることでしょう。」
 橋本教授が言った。
「歴史に挿入されるべき新たな一頁です。」
 長澤教授が言った。
「私たち日本人が失ってしまいつつある、とても大事なことが、ここにはまだ残っているということがわかりました。そして、考古学的にも非常に貴重なものを拝見させて頂きました。」
 軍属の辻上通訳官が言った。
「帝国の領土拡張のための、貴重な証拠資料となることでしょう。」

 その翌朝から三人の学者たちは、この町に関する調査を本格的に開始した。
 それが進むにつれて、彼らの興奮の度合いは高まっていった。
「……うむ、これは後漢(ごかん)の年号ですよ、長澤教授。」
 語り部に代々伝えられているという、三つの宝物(ほうもつ)を調べていた長澤教授は、その一つである銅鏡に鋳(い)られていた年号の鑑定を橋本教授に依頼し、その返答が今帰って来たところだった。長澤教授は興奮して言った。
「うーん、なるほど……。この鏡の鋳造(ちゅうぞう)技術の高さからすると、これはその年代に日本ではなく中国でつくられたという可能性が極めて高くなってきます。すると、この銅鏡の持ち主は、その当時から既に大陸と直接或いは間接的に、何らかの関係を持っていたということになりますね。
また、この勾玉の素材に使われている赤い石は、新潟県の一部の地域で産出するものと極めて類似しています。ということは、この勾玉の形状を分析し、日本で出土した他の勾玉と比較すれば、これがつくられた場所と年代も推定することができますよ!」
 早川教授も興奮して言った。
「この町の社会と文化は非常に面白い! ポリネシアの文化が流入している部分もありますが、ポリネシアが多神教的な宗教観を持った男系社会なのに対して、こちらはシャーマニズムに類似した信仰と一神教的な宗教哲学が融合した女系社会を基盤としています。そのため、他に例を見ない独自の世界観を培っております。
言語がまた奇妙だ。男言葉は我が国瀬戸内海西部沿岸地域の方言と類似しておるし、女言葉は現代の東京言葉に極めて類似しておる……。」
 一方、辻上通訳官は、無線装置一式の設置を開始した。
 まず彼は、木製の机を一つどこかから借りて来ると、それを集会所の正面出入り口付近の軒下に置いた。次に彼は部屋の荷物の中から二つの箱を運び出し、それをその机の上に設置した。送信機と受信機だ。そして、この軒下から近くに生えている木に向かって何本かの長い電線を張った。こちらはアンテナだ。
 その中の一本を受信機に接続した彼は、荷物の中から今度は蓄電池(ちくでんち)を持って来た。それを受信機に接続して収納すると、受信機の電源が入れられた。
 それから一分ぐらいすると、受信機のスピーカーから始めは小さな雑音がして、それが次第に大きくなっていった。
 今のラジオはスイッチを入れればすぐに音が出る。ところが、この当時のそういった機器には真空管という素子が入っており、これがちゃんと働くには一定の温度にならなければならず、そのためにはある程度の時間が掛かったのだ。
 辻上が、スピーカーから出る音を確認しながら、つまみをあれこれといじくり回し始めると、それを目敏(めざと)く見付けた島の子供たち数人が階段を上がって来て、物珍しそうに取り巻いた。
「ピーピー鳴りよるが、あの箱は一体何ぞ?」
「虫篭(むしかご)じゃろう。中に虫か何か入っとるんじゃろう。」
「ガーガーとも鳴きよるけん、虫じゃのうて蛙じゃろう。」
「蛙じゃなくて鼠よきっと。ガリガリって何かを齧ってる音が時々してるもん。」
 このときスピーカからモールス信号の音が微かに聞こえた。
「ツーツツツー言うとるけん、やっぱし虫じゃろう。蛙や鼠はこげな鳴き方せん。」
「それじゃあ、虫と蛙と鼠が全部入ってるのよ!」
「そげんことしたら、虫は蛙に食われよって、蛙は鼠に食われよって、あっという間に箱ん中、鼠だけになってしまうじゃろうが。」
 このとき、賑やかな音楽と共に男性の大きな声が、その箱の中から突然流れ出た。
「This is BBC, British Broadcasting Corporation's world service from Port...」
 この声を耳にした途端、子供たちはアッと悲鳴を上げながら飛び退(の)くと、小声になって囁(ささや)き交わした。
「お、おい! 小人も入っとるぞ!」
「『British お触れ屋さん会社じゃ』言うとったのぅ!」
「楽団付きじゃ!」
「……これは虫篭なんかじゃなくて、きっと魔法の箱よ!」

 その夜、他の三人の隊員と共に自分たちの部屋で夕食を済ませた長澤教授は、「この島の先住民の遺跡調査の許可を得るため、町長のところに行ってくる」と彼らに言い残して、単身集会所を後にした。今まで日本人町の発掘を担当していた長澤教授だったので、それが現存しているこの島では、他にすることがなかったのだろう。
 町の広場の中央には、東から西に向かって一筋の川が流れており、その北側の広場の西に並ぶ家々の中に、町長網野カイの家はある。手に持つランプの明かりを頼りに、教授はまず南の広場を横切って川に掛かった石の橋を渡った。そして今度は北の広場を横切って、目指す家の前にたどり着いた。
 町長には、あらかじめ伝えてあったので、教授が母屋の正面の階段を上って戸口から中へ声を掛けると、カイ本人が笑顔で出迎えた。
「いらっしゃいませ長澤さん。さあ、どうぞお入り下さい。」
 教授は早速、この家の正面中央にある広間へ通された。
 その壁のあちこちには椰子油のランプが明々とともされており、中央の床の上には大きなちゃぶ台が置かれている。その上には、各種料理が盛られた陶製の皿や鉢がなどが乗せられており、それを挟んだ左右には行灯がともされていて、それらを色鮮やかに照らしていた。
 向かい合わせの二つの席の上には、いずれも水で清められたバナナの葉が敷かれており、床の上には、それぞれ椰子の葉で編んだ敷き物が敷かれていて、その一方を指し示したカイは、教授に向かってこう言った。
「さあ、どうぞお座りください。」
 無精髭の生えている教授だったが、その上にきちんと正座すると、持っていたガラス瓶を彼女に差し出してこう言った。
「これは日本の焼酎です。お口に合うかどうかわかりませんが、どうぞ。」
 それを受け取ったカイは、嬉しそうに微笑んで言った。
「それは貴重な物を。どうもありがとうございます。」
 長澤教授の向かいの席の敷き物の上にカイが片膝を着いて座ると、一組の中年の男女が奥の部屋から現われた。二人は教授の席の近くの床の上に片膝を着いて座ると、それぞれ丁寧に挨拶をした。
「カイの母、ヤスエと申します。」
「父の兵衛門(ひょうえもん)と申します。」
 教授は正座をしたまま、同じようにして丁寧に挨拶をした。
「このたびは、お邪魔致します。集会所でお世話になっております、長澤伸三です。」
 この正座という座法が日本で一般に普及したのは、江戸時代に入ってからだということを長澤教授は知っていたし、その挨拶には、ちゃんと誠意が込もっていたので、長澤教授は彼らの座り方を不愉快には思わなかった。そうすると、むしろ自分の座り方の方が、なんとなく不自然に感じられた。その彼に向かって、カイがやや遠慮がちに声を掛けた。
「あの、長澤さん?」
「は?」
 教授が返事をすると、その脚に目を遣ったカイは、いたわるような口調でこう言った。
「その座り方だと、脚が痛くなりませんか?」
 教授は笑って言った。
「ハハハ! まだ大丈夫です。でも、あまり長い時間こうしてると、脚が痺れて歩けなくなりますけど。」
 カイは怪訝そうに尋ねた。
「今の日本の人は、みなそのようにして座ってらっしゃるのですか?」
「ええ、そうですよ。」
「どうか、無理しないで下さいね。」
「では、お言葉に甘えて……。」
 教授は微笑んでそう言うと、脚を崩して胡坐をかいた。
 母のヤスエが立ち上がると、椰子の実でつくられた教授の器に、急須に入った焼酎と見られる飲み物を注ぎ、バナナの葉の上に各種料理を盛り付け始めたので、教授は手を振りながら微笑んで言った。
「いやいや、夕食は済ませて来たんで、どうぞお構いなく……。」
 そして、向かいの席に座っているカイに向かって、教授はまず礼を述べた。
「カイさん、今宵(こよい)はわざわざお時間を取って頂き、誠にありがとうございました。」
 カイは、再び微笑んで言った。
「いいえ、いつかあなたとお話ししてみたいと思っていたので、丁度良かったんです。」
 長澤教授は、やや怪訝そうな面持ちになって言った。
「……私と?」
 カイは、慌てて手を横に振って言った。
「いえいえ、何となくそう思っただけで、深い意味はありません。どうか、お気になさらないで下さい。
我が家の自家製の焼酎とつたない手料理で、お口に合うかどうかわかりませんが、どうぞお召し上がり下さい。」
 気を取り直した教授は、再び微笑んで言った。
「そうですか、それでは頂きます……。」
 教授は、早速自分の器の焼酎を口にした。
「……ほう、これは美味しい。原料はなんですか?」
 カイもまた、微笑んで言った。
「お口に合ったようで良かったです。それは米でつくっています。」
「この島の細長い米ですね?」
 現在日本で私たちが口にしている、ふっくらとした形の米は、ジャポニカ種という種類である。それに対して、東南アジア地域で広く栽培されている米は、細長い形をしたインディカ種だ。この島の米は、どちらかというとその後者の方に近い形をしているので、教授はそう言ったのだ。
 カイも、自分の器の焼酎を口にしてからそれに答えた。
「……そうです。」
 そして彼女は、その器を置いてからこう言った。
「神殿をお調べになられたいと伺いましたが……。」
 教授は、微笑んでそれに答えた。
「そうなんです。この町の物語を聞かせて頂いて、山の中腹に石づくりの神殿があるということを知りました。私は仕事柄、そのような古いものに興味を持ってしまう習性があるんですよ。」
 カイは、その冗談に笑って言った。
「フフ、それは面白いご習性なんですね……。どうぞ、ご自由にお調べになって下さい。」
「ありがとうございます。それでは、そこへの行き方を教えて下さいませんか?」
 その後、カイは神殿に行くまでの道順を説明し、教授はそれを、ワイシャツのポケットから取り出した手帳に鉛筆で書き留めていった。
 それが終わって手帳を閉じた教授は、それと鉛筆を胸のポケットの中に収めてから、微笑んでこう言った。
「ありがとうございました。
さて……、ここまでは表向きの訪問理由です。」
 そして、真剣な表情になった教授は、口調をやや改めてこう言った。
「実は、もっと他にお聞きしたいことがあって参ったんです。そちらの方が本題です。」
 カイも真剣な表情になった。
「はい、それはどのようなことなんでしょう?」
 教授は、引き続き真剣な表情で言った。
「私たちが今まで調べたところによると、あなた方は三百年ほど前に歴史上から姿を消してしまっています。」
 カイは頷いて言った。
「ええ、きっとそのようになってるんでしょね。私たちの先祖は、三百年余り前に文明世界の人々との交流を断ってしまったようですから。」
「それ以来あなた方は、まるで姿を隠すようにして来られたのに、突然やって来た見ず知らずの私たちに向かって、秘密にしていた町の成り立ちや宝物などの全てを惜しげもなく明かしたのは、一体なぜなんですか?」
 教授はそう言って探るような目付きになったが、カイは微笑んでそれに答えた。
「それは、あなた方が日本の人だからですよ。戦乱の時代から、豊臣の世へ徳川の世へと移って行った日本の歴史をある程度ご存知の方になら、私たちの町の成り立ちのいきさつも、それなりにわかって頂けるのではないかと思ったからなんです。」
 教授は、納得がいかないというように首を横に振った。
「うーん、それだけでは、突然文明世界に姿を現わすことになった理由にはならないでしょう。
先日の宴のときに、あなたがされたご挨拶の中の一言(ひとこと)が、私は今でも耳に残ってるんですから。」
 カイは、やや目を見張って言った。
「え? あたしの一言が?」
「そうです。あなたは『今日まで待ちに待った……』とおっしゃってましたね。」
 カイが、ややためらいがちに無言で頷いたので、教授は話しを続けた。
「それは、私たちのような者が現われるのを、あなた方は今までずっと待っておられたという意味に私は解釈したんですが。」
 カイは黙ってやや目を伏せたが、教授はそれには構わずに話しを続けた。
「私たちが、この町に来たことによって何かが起こる……。そのようなことを期待されているように、私には見えるんですけどねぇ。
……例えば、日本へ連れて帰ってほしいとか……。」
 教授はそう言って、また探るようにカイを見た。彼女は、その視線から逃れるように目を伏せながら言った。
「……少なくともあたしたちは、日本に連れて行って欲しいなどとと、思っていないことだけは確かです。
ただ……」
 教授は、目を見張って尋ねた。
「ただ?」
「このようなことを申しても、果たして信じて頂けるかどうか……」
 教授は興味深そうに身を乗り出した。
 カイは意を決したように、その目を教授に向けるとこう言った。
「あなた方がこの島に来られるということを、夢で知ったということは前にも申しましたが、実はその夢には、まだ続きがあるんです。」
「ほう、その続きとは?」
「この島を訪れた日本の方が、あたしたちに伝わる物語を書き記(しる)した物を持ち帰られ、その後その中のお一人が、それを世界に向けて発信なさいます。それによって、あたしたちのことが、文明世界に広く知られることになる、ということです。」
 それを聞いた長澤教授は、やや驚いたように言った。
「え!? 四人で発表するのではなく、一人が発表するのですか?」
「ええ、それを日本でお持ちになられて発表なさるのは、お一人だけのようです。」
 長澤教授は独り言のように言った。
……隊長の早川教授だな……
 それを耳にしたカイが言った。
「……いえ、早川さんではないようでした。お顔ははっきりとわかりませんでしたが、その方に口髭はなかったので。」
「それじゃ、きっと橋本教授だ。物語を書き留めたのは彼なんですからね。」
「……いえ、そうでもないようです。その方は、眼鏡を掛けておられなかったので。」
 長澤教授は訝しげに言った。
「ということは、辻上さんか私だ……。しかし、それは変だな……。」
 しばらく真剣に考えていた教授だったが、やがて表情を苦笑いに変えるとこう言った。
「……カイさん、そもそもですよ。そのような夢の内容が現実に起こるということを当たり前のようにおっしゃってますけど、私には信じられませんよ。」
 カイは、やや落胆したように言った。
「そうですよね。文明世界の方にこのようなことを言えば、変に思われても仕方ないんでしょう……。より賢くより強い者が生き残って子を残していく。それが文明世界では当たり前のようですから……」
 この言葉の意味がわからなかったので、教授は曖昧(あいまい)な返事をした。
「はぁ……」
 カイは、やや真剣な表情になって話しを続けた。
「ところが長澤さん。あたしたちの町では、巫女の力をより多く持った女子(おなご)が町長になるというしきたりが昔からあったため、今に至るまでそのような者が自ずと増え、その力も強まってきたのです。
その力は、人それぞれ種類も強さも違います。目を閉じればすぐに先に起こることが見えてくるような力を持った者もいたそうですが、あたしの場合は、眠っている最中にそれを夢で知るようになってるようです。」
 その話しを聞き終えた教授は、また苦笑いすると、何度か小さく頷いてから言った。
「……フン、私たちがこの島を探しにやって来るという情報を、あなたが前もって日本政府から得ていれば、それは可能なことです。予言などの超心理学に関することは私の専門外ですが、実験によって科学的に証明されなければ、私はそれをおいそれと信じるわけにはいきませんよ。」
 この言葉を聞いたカイは、ちょっと悲しそうな顔をしてこう言った。
「長澤さん、それは多分、今の文明世界の科学者と呼ばれている人たち大部分のお考えなんだと思います。ところが、それが災(わざわ)いしてこの世が滅びると言ったら、どうなさいますか?」
 教授は、何を言うんだというような顔をカイの方へ向けると、やや毅然(きぜん)として言った。
「この世を滅ぼすものがあるならそれは戦争であって、科学は人類を救済するものであると私は信じておりますが。」
 カイは、やや伏目がちになって言った。
「それでは長澤さん、戦争で使用されている新しい兵器は、誰がどのようにして開発するのですか?」
「それは……」
 教授は口篭(くちごも)ってしまった。一方カイは目を上げると、教授の顔を真っ直ぐに見てこう言った。
「新型の爆弾や poison gas(毒ガス)、そして細菌兵器にしても、科学者が研究して実験を重ね、その技術を応用して開発されたものではないのですか?」
 今度は教授の方が目を伏せて言った。
「……うーん、そうですねぇ……」
「昔から、家が火事になる前にその家の鼠が全部いなくなるとか、地震が起きる前に動物たちが異常な動きをするというようなことは、よく知られていることです。このような現象の因果関係を今の科学では説明することができません。でも、それはちゃんとした事実なのです。ですから、理屈で言い表せられる物事(ものごと)だけしか信じないというのは、偏った考え方だとお思いになりませんか?」
 教授は困った表情になって言った。
「科学的に証明することができないことまで認めてしまうということは、科学を否定するに等しいことです。そんなこと、大学教授という私の立場ではできませんよ。」
 カイは困ったような笑みを浮かべて言った。
「そうですか……それなら仕方ありません。このようなこと、あたしはあまりしたくないのですが……
長澤さん、あなたが日本をお発ちになられてから、お孫さんが一人お生まれになりましたね。その女の子は『景子』と名付けられた……」
 彼女のその言葉が終わらぬうちに、教授は座ったまま腰を抜かさんばかりにして驚いた。この事実は、彼が一ヶ月余り前にジャカルタで受け取った、東京にいる妻からの手紙に書かれていたことで、彼はそのことをまだ誰にも話していなかったからだ。
 教授は、目を大きく見開いてのけ反(ぞ)ると、床に手を着き声を震わせて言った。
「……あ、あなたは……ひ、人の頭の中が見れるのですか?」
 カイは微笑んで、その問いに答えた。
「いいえ違います。これも夢で知ったのです。」
 教授は、なんだか気味が悪くなってきた。彼のその気持ちを察したカイは、それを和ませるようにこう言った。
「長澤さん、ご心配なさらないで下さい。なんでもかんでも知っているわけではありませんから。
あたしに見えるのは、今のあたしたちと、これからのあたしたちに関わることに限られています。あなたのそのお孫さんは、これからのあたしたちに関わって下さるので、きっと私の夢に現れたんでしょう。」
 教授は元の姿勢に戻ると、眉を寄せて言った。
「……なんだ、そうでしたか……。
ああ、驚いた。私はまた、あなたがこの世のことを何もかも知っておられる、神様みたいな人なのかと思ってしまいましたよ。」
「驚かせて済みませんでした。」
 カイは申し訳なさそうにそう言ってから、やや真剣な表情になってこう言った。
「いかがでしょう、長澤さん? これであたしの話すことを少しは信じて頂けますか?」
 教授は、やや難しい顔をするとこう言った。
「うーん、これは心霊現象を証明させるための実験としては不充分なのでしょうが……少なくともあなたにそのような能力があるということだけは、信じることにしますよ。」
 カイは、ホッとしたような表情になって言った。
「そうですか、そう言って頂ければ幸(さいわ)いです。」
 焼酎を口にした教授は、気を取り直してこう言った。
「……それでは先ほどの話しに戻りますが、あなたは『科学的な考え方が、この世を滅ぼす』ということをおっしゃいましたね?」
 彼女は首を横に振って、それをはっきりと否定した。
「いいえ違います。先ほどあたしが言った、『この世を滅ぼす考え方』とは、今の人が捉えていることが全てであると過信する考え方なんです。
ですから、科学的な考え方そのものは、決して間違っているものではないと思います。例えば、先ほど申しました天災と動物の行動との因果関係についても、いずれは全てが科学によって解明されていくものだと、あたしは信じていますよ。」
 教授は納得したように言った。
「なるほど。つまり、私たち人類が現時点では、この世の全ての現象を把握し尽くしていないという、謙虚な姿勢にならなければならないと……。」
 カイは、当を得たりというように頷いてから言った。
「そうなんですよ! ですから、動物たちの異常な動きを『科学で証明することができないから認められない』などと言って無視し続けていると、そのうちとんでもない目に遭うことになるんです。そのような能力は、元々人にも備わっていたのですし。」
「ということは、あなたが持っている予知能力も、それと同じだということですね。」
「そういうことです。」
 教授は少し考えてから、表情をやや緊張させて言った。
「……なるほど。それなら、あなたの夢が実際に起こると仮定したとして、そこに私の孫娘が出て来たということはですよ……。あなたが先ほどおっしゃっていた、この島に伝わる物語を世界に伝えることになるという四人の中の一人とは、もしかしてこの私のことなんでしょうか?」
 カイは微笑んで言った。
「今このようなことを、長澤さんとお話しをすることができているのですし、それはきっとそうなのかも知れませんね。」
 その笑顔を見た教授は、超能力を持ったこの美しい少女から自分が選ばれたような気分になったので、とても複雑な心境になった。
「うーん、もしそうだとすれば、なんだか嬉しいような怖いような……」
 そして、興味深そうに目を輝かせると、彼はこう言った。
「それなら、これからこの世界がどうなるのかもわかるんですか?」
 その一方、カイはやや残念そうにこう言った。
「ええ、でも、これではまだ足りないと、自分では思ってます。あたしたちが住んでいるこの星が、百年先にどうなっているのかまで、あたしには見ることができないんですから……。」
 そこに含まれている微妙な意味あいを敏感に察した教授が言った。
「ということは、それを見た人が実際にいるということなんですね?」
「……そうです。今から三十年ほど前に……。」
 教授は身を乗り出して尋ねた。
「ほう、その頃の地球は、一体どうなっているのですか? もし差し支えなければ詳しく聞きたいです。」
「近頃の日本では、この星のことをそう呼んでいるのですね……。
当時の百年先、即ち今から大よそ七十年先の地球は大変なことになっています。
人の心が乱れてくるため、それによって、天の気、地の気も大きく乱れてきて、あちこちで、地震、津波、大雨、大水、大雪、日照りが徐々に増え続けます。それによって多くの人が亡くなるのだそうです。
それまでにも大きな天災は、間(ま)を置いて巡(めぐ)って来てはいました。ところがこれからは、その巡りだけでは計り知ることのできない災害が増えていくのだそうです。」
 教授は眉をひそめて言った。
「信じたくないことだが、それは大変なことだ。」
 カイは悲しそうに言った。
「そうなのです。そのようなことになるなんて、誰もが信じたくない。だから人は先のことを考えないで、地球を痛め付け続けているのです。そして自分自身の身に、目に見える形で災(わざわ)いが降り掛かるまで、これをやめようとはしません。これによって引き起こされる天災を、あたしたちは『人の為(な)す天災』と呼んでいます。」
「なるほど、その原因をつくっているのが人間だから「人の為す」というわけですな。それでは、地球を痛め付けるとは一体どのようなことなのです?」
「それはいろいろあります。しかし、まずなんと言っても、人が己(おのれ)のことだけしか考えないことです。それが目に見える形になって表われているのが、この星から競い合って森を減らしているということです。これはもう、この町ができる遥か昔から既に世界のあちこちで始まっていたんです。それが今では、より多くの場所に広がってしまっているのです。」
 教授は首をかしげると、独り言を言った。
……はて、古代ローマが軍船をつくるために木を切り過ぎて、地中海沿岸が禿山になったっていうことかな?
 カイは話しを続けた。
「更にこれから先には、地球のあちこちに埋まっている黒い石や黒い油を地面の上に持って来て、一人一人が毎日毎日盛んに燃やし続けるようになります。」
 教授は、また独り言を言った。
「……石炭と石油のことかな?」
 カイは言った。
「今の日本ではそれのことを、セキタン、セキユと言うんですか? とにかくそれを燃やすと、地球そのものを燃やすのと同じことになるんです。」
 教授は、この広間の木製の壁を見回して言った。
「それなら、この明かりも同じことなんじゃないですか?」
 カイは、それをはっきりと否定した。
「いえ。この油は地面の下の油ではなくて、椰子の実から採った油です。このような明かりは、恐らく人が何万年も前からともしてきたものでしょうし、この程度の量なら、地球を痛め付けることにはならないんです。
……長澤さん、automobile と train のことを、今の日本では何と呼んでいるのですか?」
「自動車と汽車ですね。」
「あ、どうも。
……長澤さん、あなたは日本で自動車や汽車にお乗りになられるんでしょう?」
「はい。必要があれば。」
「夜になれば電灯をともされるんでしょう?」
「はい、たまに停電がありますが、そのとき以外は。」
「その乗り物はどうやって動き、電灯の電気はどのようにして起きているんですか?」
 教授は、やや目を見張って言った。
「……なるほど、そうか! 確かに石炭や石油を盛んに燃やしていますね!」
「そうでしょう。もし、全ての大人が自動車を持ち、全ての人が便利だからといって夜盛んに電灯をともすようになれば、どうなると思われますか?」
「……そうか、確かに一人一人が盛んに火を燃やすことになりますね。」
「そうなんです。地球はその熱さを冷まそうとしてもがく。そのもがきが天災となって現れてくるのだと、その夢を見た者は言っていたそうです。」
 教授は怪訝そうな顔になって尋ねた。
「はて? 森を減らすということは木を切るということだし、火を燃やすとは言っても発動機や発電機の中で燃やしているんだから地球は熱くないはずですが、それがなんで地球を痛め付けることになるんですか?」
 カイは、やや残念そうに言った。
「近頃の考え方では、この星を、木は木、空気は空気、地面は地面というふうに分けてしまっていますよね。それは人を、髪の毛は髪の毛、衣服は衣服、体は体というふうに分けてしまうのと同じことです。
あたしたちの考え方でいくと、この星の木や空気は、人の髪の毛や衣服と同じように大事な物なのです。それを毟(むし)り取ったり、その中で毎日毎日盛んに火を燃やしたりするということは、地球を痛め付けているということになりませんか?」
 物事を一つ一つの要素に細かく分類して観察するという、昔ながらの西洋科学を学んできた長澤教授は、ここで腕組みしてしまった。
「うーん……なるほど。まあ、科学的な表現ではないが斬新(ざんしん)な発想ですな。一応話しの筋は通ってるんで……。」
 カイは話しを続けた。
「地球の表面から草や木をなくしてしまうと、大雨や洪水が起こり易くなります。これは、大切な草や木を奪われてしまったために、地球が泣いている証拠なのです。」
 教授は苦笑いして言った。
「うーん、これも科学的というより文学的な表現ですが、因果関係としては一応成り立つでしょうね……。今まで地表から水分を吸い取っていた植物がなくなれば、水は一気に蒸発して大雨の原因となるし、それをさえぎる物がない山の斜面を一挙に滑り降りて洪水が起こるんだから……。」
 カイは、真剣な表情で言った。
「科学的に説明すれば、そういうことになるんでしょうね。
でも、あたしたちの見方からすると、それはもう少し深いところから来ているんです。」
 教授は興味深そうに尋ねた。
「と、言いますと?」
「人でもそうですが、暑くなるとそれを冷まそうとするし、蚊が刺せば、それを叩き潰そうとしますよね。」
「ええ。」
「あたしたちからすれば、この星も、それと同じことをするんです。」
「はぁ?」
 教授が怪訝そうな顔をしたので、カイはその説明をした。
「それまで自然の流れによって、この星の上には様々な生き物が生まれて来ました。ところが、今の文明世界で人が生み出してる機械の多くは、この星の子供たちである全ての生き物たちと、この星そのものを害する物なんで、この星はそれを叩き潰そうとするんです。」
 教授は、引き続き怪訝そうに尋ねた。
「それは具体的に、どのようなことになるのですか?」
「例えば、この星が引き起こす嵐とか大地震とかによって、文明が滅ぼされてしまうんです。あたしたちの夢では、そういうことを言っているんです。」
 教授は唸って言った。
「う~ん、それは科学を超越していて私には理解できないなぁ。
もし仮にそれが事実だったとしたら、あなたたちの予言を元にして、その『人の為す災害』とやらを未然に防ぐことができるんじゃないですか?」
 カイは悲しそうに言った。
「いいえ、多分無理でしょう。このようなお告げをしても、今の世の中では気違い扱いされるのが関の山です。『お金持ちになりたい』、『楽をして長生きしたい』と願うのは、普通の人なら当たり前のことなんですから。
また、便利な物から不便な物に切り替えるということは、なかなかできるものではありません。
例えば、石炭や石油を焚いて走る船や自動車のようなものより、帆船や馬車のようなものの方が地球を痛めないなどと言っても、果たしてこの世のどれだけの人が、その言葉に耳を傾けるのでしょうか。」
 教授は残念そうに言った。
「その通りですね。もしそんなことを言い出したら、石油関連や自動車関連の会社の社員が一斉に抗議行動を起こすし、自動車や二輪車の運転を趣味にしてる人は暴動を起こしますよ。」
「そうでしょうね。でも本当は、そのような仕事や遊びがなくなるのではなくて、今までの仕事が椰子から油を取る仕事だとか、馬車や風力自動車の車体をつくる仕事だとかに変わるだけだし、自動車などの燃料を植物からできた油に切り替えればいいことなんですけど。」
 教授はやや困った顔になって言った。
「企業で働く人たちの仕事がある程度確保されたとしても、それは問題ですな。なぜなら、製品を買う人はより便利なものを買うに決まってるんで、そういう製品は多分売れないでしょうから、どっちみち景気は悪くなる。」
「多くの人はそう考えることでしょうね。ですからこれは、一度落ちたら出ることの難しい大きな落とし穴、『欲望の落とし穴』なのです。この世の多くの人は、そこにはまっていることにすら気付いてません。」
 教授は怪訝そうな表情で言った。
「落とし穴……ですか。」
「そうなんです。自分でも気付かぬうちにうっかりはまってしまうので、あたしたちはそう呼んでいます。
人は元々、たとえお米と少しのおかずの食事でも、栄養に調和が取れていさえすれば、日々楽しく健(すこ)やかに生きていくことができるのです。また、仮にたった七十年の人生でも、心の持ち方一つで楽しく生きることもできます。それを得るためには、有り余るほどのお金など必要ありません。
けれども人の心とは不思議なもので、他の人の持っている物と比べて、自分の持っている物が少ないとか劣っていると感じたとき、たとえそれまで楽しく生きてきた人でも、知らず知らずのうちに自分が不幸せになるようなことを考えてしまうのです。そして必要以上の物を得、必要以上に長生きしようとするんです。」
「私は、必要以上の金銭や物は要りませんが、長生きはしたいと思いますけどね。」
「それはそうでしょう。長生きは確かに悪いことではありません。でも、ここで問題なのは人が生きる長さではなく、どう生きるかということなんです。
それでは長澤さん、例えば毎日毎日誰かを妬んだり誰かから妬まれたりしながら生きることと、自分の能力を活かして他人に感謝されながら人生を終えることの、どちらの方が幸せなことだと思われますか?」
 教授は考えながら言った。
「……うーん、そう言われると確かにそうですな……。妬みは災いの元となることだし……。ただ長けりゃいいってもんでもありませんよねぇ……。」
「そうでしょう? ですから心穏やかにして、しかも長生きすることができれば、それに越したことはありません。心穏やかな人ほど、おのずと体も健やかになり、百年以上長生きすることもできるんです。この世の多くの人がそのようなことに気付いて、見せ掛けの物の豊かさを競い合う暮らしから、心の豊かさを内側に求める暮らしに改めない限り、この落とし穴から這い上がることはできないんです。」
 教授は表情を硬くして尋ねた。
「ということは、このままだと、この世はいつか確実に滅んでしまうということなんですか?」
 カイは悲しげな表情で言った。
「今のままでは、恐らくそうなってしまうことでしょう。」
 教授は再び困惑した表情になって言った。
「いやー、それでは困りますよ……。
それなら、その心の豊かさを求める暮らしとは、どのようにしたら得られるんです?」
 カイは幾分か表情を和ませてこう言った。
「まずは、自然の流れになるべく逆らわないようにして生きることですね。」
 考古学者の教授は、目の前のバナナの葉の皿に盛られている、タロ芋の煮物を箸でつまんで口の中に放り込み、椰子の実の器の中の焼酎を口にすると、自分の周囲を示して言った。
「……例えばあなたがたが今しておられる、このような生活のことですか?」
 やはり自分の膳の上の料理を箸でつまんで食べたカイは、箸を置くと微笑んで言った。
「……いえいえ、文明世界の人が無理にそこまでする必要はありません。便利さを求め過ぎた末に生まれる、無駄なことを避ければいいんですよ。」
「と言いますと?」
「例えば鳥や獣は、お日様や月の光に従がうしかありませんし、どこへ行くにも自分の翼や足を使うしかありません。
けれども人は、暗いとき油に芯を立てて火を点け、その周りを明るくすることができるし、帆掛け舟を使って遠くに行くこともできます。火を燃やさずに風で走るような自動車があってもいいですね。そのような無駄のないことで満足すればいいんですよ。
ところが近頃の文明世界では、わざわざ油を燃やして湯を沸かし、その蒸気によって羽根車を回して電気を起こす。それを電灯線で電灯まで引いてきて部屋を明るくするようなことをしています。油に一本の芯を立てれば済むことをですよ。
また、わざわざ地面の下から吸い上げた油を燃やして発動機を回し、その力で車輪を回して自動車を走らせる。そして、そのような物で世の中が満たされていくと、そのうち人々は『運動が足りない』とか言って、部屋の中に置いた前に進まない bicycle(自転車)を漕いで、体の中の油を燃やし汗を流したりするようになるんです。これは、あたしが見た夢に出て来た光景なんですけど。
地面の下の油を燃やした分、体に付いてしまった油を、それによって余った時間を使って燃やしてるんですからね。」
 それを聞いた途端、教授は思わず大笑いしてしまった。
ワハハハ!
そんな笑い話しみたいなことが、本当に起こるんですか?」
 カイも苦笑いして言った。
「ええ、信じたくありませんけどね。」
 そして彼女は、また真剣な表情になってこう言った。
「……このように電気や自動車というものは一見とても便利なものですが、実は場合によってそれだけ無駄なことをしてるんです。」
 教授も真剣な表情に戻って言った。
「なるほど。たかが少しの便利さを得るために、無駄な石炭や石油を燃やしている。便利さも程々にしなくてはいかん、ということですな。」
「その通りです。電気は人にとって必要なものだと思いますよ。それでしかできないことが、たくさんあるんでしょうから。そのお陰で、今まで多くの命が救われ、多くの人が幸せになってるはずなんです。また、人や荷物を運ぶ船や自動車も要ると思います。
でも、健康な人が自分だけの快楽のために電気や engine(エンジン)を安易に使い続けていると、世の中そのものがそれに頼ってしまうような仕組みに変わってしまうんです。」
 それに対して教授は、やや納得できないような表情でこう言った。
「しかしカイさん。現実の世界では、そのような物を利用した産業が既にどんどん伸びています。人々がより多くの工業製品を買ってくれることによって多くの会社が発展し、経済も活性化される。ここまで来てしまった以上、その仕組みを改めることは、かなり難しいことだと思いますがねぇ。」
 カイは、表情をやや険しくして言った。
「それでは長澤さん、人はなんのために生きているのだと思われますか?」
 教授は苦笑いして言った。
「いやー、考古学者の私に、いきなりそのような哲学的な質問をされても……」
 カイは表情をやや和ませると、こう言った。
「そうですよね。でもこのようなことは、誰もがご自分の頭できちんと考えなければならないことなんですよ。
私たちから見ると今の人々は、暮らしを楽にするための物を買いあさるために働き続けているようです。ですから、『物を買うために生きている』と言うこともできるのではないでしょうか?」
 教授は、半信半疑の様子で首をかしげながら言った。
「え? 私たちは、『生きるために物を買っている』んじゃなかったのですか?」
 カイは、やや微笑んで言った。
「ええ、そういうときもあるでしょう。でも、よくお考えになって下さい。人が生きるために、どうしても買わなければならない物って、どれほどあるんでしょうか?」
 教授はしばらく考えてから言った。
「……うーん、なるほど。衣食住がそろっていれば、なんとかなるんですからね。」
 カイは言った。
「ええ、そうなんです。ところが、文明世界では人の限りない欲望を満足させる物がどんどん増えていっています。その割りに人そのものは、なにも変わっていないのです。むしろ、そのような物に頼った暮らしによって、気付かないうちに健康を損ねていくんです。これが、自然の流れに逆らう暮らし、即ち『欲望の落とし穴』なんです。」
 教授は納得したような表情になって言った。
「なるほど。それがさっきの、前に進まない自転車のような現象になるわけですか……。」
「ええ、そうです。
しかも、この星の大きさには限りがありますよね?」
「ええ、そうですね。」
「今の文明世界の仕組みでは、economy(経済)が成長することによって sosiety(社会)が、たもたれてますよね?」
「ええ、そうですね。」
 カイは言った。
「ところが、国の大きさ、地球の広さに限りがあるのなら、今のその仕組みでは、いつかは行き詰まってしまうことになりませんか?」
 教授は、腕組みしてそれに答えた。
「うーん、なるほど……。成長しなければならない経済だから、人々はその労働力と需要の確保のために戦争をして他国を侵略しなければならない……。侵略する国が地球上になくなれば、どっちみち行き詰まってしまうってことですもんね。
そもそも今の文明世界は、元から矛盾を抱えてるってことかぁー……。」
「そうなんです。だから、『成長し続ける economy』では駄目なんです。」
 教授は目を見張って言った。
「それじゃ、どんな経済がいいんですか?」
 カイは微笑んで言った。
「『循環し続ける economy』ですね。
たとえば、あなたたちの徳川の時代から続いている、いわゆる『老舗(しにせ)』と言うお店。その多くは、急に拡大することはないけれど、永いことお客様から愛されてきたのでしょう?」
「ええ、そうなんでしょうね。」
「そういう経済なんです。あたしが言ってるのは。」
 教授は感心したように言った。
「なるほどねぇ……。つまり、新しい客を増やすことよりも、常連(じょうれん)客を繋ぎ止めるということの方が大事だということなんですね?」
 彼女は嬉しそうに言った。
「そうそう! そういうことなんですよ。長澤さんはわかり易くおっしゃるのがお上手ですね。」
 教授は、やや照れて言った。
「いえいえ、学生に物を教えるときには、こういう言い方が喜ばれるものでね……」
 ところがカイは、今度は急に深刻な表情になってこう言った。
「……それはそうと長澤さん、地面の下の油にも限りがあるのはご存知ですよね?」
 教授も真剣な表情になって言った。
「ええ、膨大な量が埋蔵されているとは聞いていますが。それにもやはり限りがあるんでしょうね。」
「今の文明社会は、このままだとこの油に頼って人の数を増やしていくということも、おわかりになられるでしょう?」
 教授は頷いて言った。
「ええ。農業や漁業もこれから機械化が進めば増産が進み、それに伴なって人口も増えていくことでしょうね。」
「それなら、その源である油が減れば人の数も減ってしまう……、そしてその油がなくなったとき、人も滅んでしまうと思われませんか?」
 教授はしばらく考えてから言った。
「……うーん、単純明快な理論ですねぇ。一概にそうなるとは思えませんけど……。」
 カイは悲しそうに言った。
「長澤さん。人の性(さが)、いえ、生き物の性として、楽な方へ楽な方へと流れて行くということがあります。今の世の中では、まだまだですが、そのうちこの世はその性によって機械だらけになり、機械がなければ人は生きていけなくなってしまうんですよ。」
 教授は思い直していった。
「なるほど、そうか……。それは考えられなくもないですね。東京などでは既にその兆候が見え始めている……。
それでは、電気の光を使うのをやめて、今まで通りのランプの炎に戻せばいいんですか?」
 カイは首を横に振ってからこう言った。
「いえ。確かに lamp(ランプ)の炎は天然の光で電灯の光は機械の光ですけど、機械も自然の力を使って動いていることに変わりはありません。ですからこの問題は、『天然か機械か』ということよりも、むしろそれを『どう使うか』ということにあるんです。
ご存知の通り、この地球は自分でも回ってますし、お日様の周りも回ってますよね?」
「ええ、そのようですね。」
「その回り方には、それぞれちゃんと向きがあって、周期もありますよね。」
「ええ、その通りです。」
「ということは、その地球の上で暮らすあたしたちも、それに合わせた暮らしをしなければうまく生きていけないと思いませんか?」
 教授は苦笑いして言った。
「うーん、今までそういう観点から物事を考えたことがなかったんで……。理屈は合っているように思えますが……。」
「例えば、一日の中にも昼と夜があります。一年の中にも、暑いときとそうでないときがあります。」
 教授は、焼酎を口にしてからこう言った。
「……ここはそうでしょうが、日本では一年が四季というものに分かれていて、寒い冬には水が凍ったり雪が降ったりするんですよ。」
 カイも焼酎を口にすると目を輝かせて言った。
「……えー! そうなんですか? いいですね!」
 教授は、やや困ったように眉を寄せて言った。
「いやいや。確かに雪景色は美しいですが、その中で生活するのは、もうほんとに大変なんですから。」
 カイは、また真剣な表情に戻って言った。
「きっと、そうなんでしょうね。
……話しを元に戻しますが、生き物にはそれぞれに合った流れがあって、みなそれに従がって生きています。
例えば、昼起きいて夜は眠っている生き物。その反対に夜は起きていて、昼は眠っている生き物もいます。また、暖かいところでしか育たない生き物もいれば、寒い方が元気の出る生き物もいます。」
「そうですね。」
「自然が定めたそのような流れに逆らうようなことをしていると、その生き物は満足に生きていけなくなるんです。
例えば人の場合、便利だからついつい夜に電灯をともしてしまいます。すると、夜に起きていて昼間は眠っているという、お日様の光に一度も当たらない暮らしをする人も出て来ることでしょう。それが仕事であれ遊びであれ。ところが、それをずっと続けていると……どうなるかもうおわかりでしょう?」
 教授も真剣な表情になって言った。
「なるほど……、あなたのおっしゃる通りだ。そんなことをしていれば、その人はそのうち病気になってしまう!」
「そうでしょう? 他の物事も全て同じことです。たとえ自然の力を利用していても、お日様や地球の流れに逆らっていると、そのうちその人の心と体の流れは狂ってくるんです。
だからこそ、たとえ一つの電気の光であったとしても、その使い方が問われるのです。」
 カイはここで一旦言葉を切ると、急に悲痛な表情になって言った。
「……これは、あまり言いたくないことなんですが……」
 その顔が余りにも悲しそうだったので、教授は目を見張ると心配して尋ねた。
「え? どうしました?」
「先代の町長が、日本のどこかの街に、とてつもなく熱いものが落とされるという夢を見たんです。」
 現在戦争中の日本のことなので、教授は聞き捨てならいと思い、眉間に皺を寄せて尋ねた。
「それは爆弾のことでしょうか?」
 彼女は、やはり悲痛そうな表情で言った。
「多分そうなんでしょう。それによってその街は一瞬にして焼け野原となり、数え切れないほどの人が亡くなったそうですから。」
 教授は腕組みをすると、片手で無精髭が生えた顎を撫でながら首を傾げて言った。
「うーん、しかし爆弾一つで、そのようになるということは有り得ないしなぁ……。
彗星(すいせい)が衝突したということも考えられますよね?」
 カイは首を横に振って言った。
「いえ……。それは、『高い空を飛ぶ airplane から落ちて来た』と言っていました。」
 教授は眉を寄せて言った。
「飛行機から落ちて来た? ……とすると、人工の物体だなぁ。……わからん。何なんだろう?
……それは、いつ落とされるんですか?」
「日本はたった今戦争をしているんですから、近いうちかも知れませんよ。」
 日本が戦争をしていることを、文明から隔絶されたこの孤島の人が知っているということにやや驚いたのもあったが、そのような恐ろしいことが近いうちに起こるということを聞いた教授は、目を大きく見開いて言った。
「それがもし本当に起こるなら、大変なことですよ!」
 カイは引き続き悲しげに言った。
「人は大自然から知恵を授かりました。それによって人は様々な自然の力を使うことを覚えた……。
でも、誤った使い方をすれば、このようなことになってしまうんです。これはその極端な例ですが。」
 教授は憤慨して言った。
「それは狂った使い方ですね!」
「そうです。しかし、それを使った国だけを責めるだけでは足りないと思いませんか? 使わせてしまった日本の政府にもかなり責任があると、あたしは思いますけど……。」
 カイがやや意味ありげにそう言ったので、教授はその意味を探るような口調で言った。
「……ということは、今の日本の政策に誤りがあるとでも?」
 するとカイは、やや驚いたように目を見張って尋ね返した。
「え? あなたはそうは思っておられないんですか?」
 教授は苦笑いして言った。
「カイさん、私はこう見えても帝国臣民ですよ。その私が自分の国に非があるなんて言えるわけないじゃないですか。たとえそれが真実であったとしても。」
 カイは、やや失望したように言った。
「もしかして今の日本の方が皆そう思っておられるのでしょうか?」
 教授は胸を張り、力強く言った。
「当然ですよ。それが愛国心というものですから。」
 カイは口調を改めると、やや言いにくそうに言った。
「愛というものは、時によって人の理性を狂わすことがありますよね。良くも悪くも。」
 教授は顔をやや赤らめると、思わずカイの目を見詰めながら呟いた。
はぁ……愛、ですか?
 どうやら教授の思考は思わぬ方に行き掛けたようだ。カイはやや苦笑いしながら慌てて言い直した。
「いえいえ、私が言っているのは愛国心のことですよ。」
 教授は、やや恥ずかしそうにうつむいてこう言った。
「なんだ、そうですか……」
 カイは普段の顔に戻ると話しを続けた。
「あなたは先ほどご自分のことを『科学者』とおっしゃいましたよね? もしそうなら、今行われている戦争が果たして正しいのかどうかについて、一度は理屈で考えてみる必要があるのではないか、ということが言いたいのです。」
 教授は少し間を置くと、宙を見詰めて回想するようにこう言った。
「う~~ん、そう言われるとそうだな……今までそんなこと考えもしなかったけれど……。真珠湾攻撃は宣戦布告なしに実行されたそうだし……待てよ」
 そこまで言った教授は宙を見詰めたまま、放心したかのようになって言葉を続けた。
「……そんな爆弾を生み出したのは戦争なんだ……だから、戦争そのものが狂ってるんだ……」
 カイは大きく頷いて言った。
「そういうことになりますよね。そのような兵器は、戦争があるからこそつくられるんです。悪いのは、それを作るように命じた独裁政権でも、それを考え出した科学者でも、兵器工場でもありません。」
 そして彼女は、ちゃぶ台の上に置いていた手を握り締めると、珍しく声を荒らげて言った。
それは、人間の傲慢さなのです!
 その気迫に押されて、教授はカイの顔を見詰めたまま黙り込んでしまった。一方カイの方は、自分のその言い方が気に入らなかったようで、しばらく眉間に皺を寄せたままで目を伏せていたが、やがて目を上げると、普段の口調に戻ってこう言った。
「そう、それが戦争の産みの親なのです。それをなくさない限り、より多くの人を殺すための兵器が、これから後も手を変え品を変え次々と現れて来ることでしょう。それを防ぐためにはまず、あなたが先ほどおっしゃったように、世の中を狂わないようにしなければならないんです。」
 教授は深刻な表情で言った。
「私は今このようにして、そのことに気付くことができましたが、世の中の多くの人々をそのように導くためには一人一人を同じように説得して回らなければならない。それには膨大な時間と労力を要すると思いますが。」
 カイは首を横に振ってから言った。
「いえ。そのような特別なことをする必要はないでしょう……」
 そして彼女は、穏やかな笑顔になるとこう言った。
「人はみな、この世に裸で生まれて来ますよね?」
 教授は、そのカイの顔を見詰めながらまた顔を赤らめて聞き返した。
「……は、裸……ですか?」
 それに対して彼女は、苦笑いしてこう言った。
「あのー長澤さん。あなた、また変なこと考えてるんじゃないでしょうね?!」
 そして、独り言のようにこう言った。
……やめようかな、この話し……
 それが耳に入った教授は、目を丸くしながら慌ててこう言った。
いやいや! 変なことなど一抹(いちまつ)も考えておりませんよ!
 そして、赤くなった顔を恥ずかしそうに伏せながら言った。
「ただ……その……、あなたのお顔と女性の裸の映像が交互に脳裏に現われてしまいまして…………」
 それを聞いたカイは、苦笑いしながら声を荒らげてこう言った。
だからーっ! それが変なことだって言ってるんですよーーーっ!!!
 教授は頭を掻きながら、申し分けなさそうに言った。
「どうもすみません。」
 それに対してカイは、仕方なさそうにこう言った。
「もういいです。謝るほどのことじゃありませんから……話しを元に戻しますが……」
 そして彼女はまた真剣な表情に戻ってからこう言った。
「……服を着たり道具を持ったりして生まれてくる人など誰もいませんよね? 一人一人が全てそこまで立ち返って物事を見るだけでいいんです。そうすれば、社会が狂ってしまうことは有り得ないんです。裸で生まれた赤ちゃんが寒いだろうと思うからこそ、体に布を巻いてあげたり服を着せてあげたりするんです。暑そうにすればそれを取り去ってやります。これは赤ちゃんのことを大人が思い遣ってのことです。また、泣けばお乳を与えたりおしめを換えてあげたりして、赤ちゃんが望んでいることに大人が応えてあげるでしょう?
そうこうするうちに赤ちゃんは、大人が話す言葉を真似たり砂に絵を描いて遊んだりすることも、できるようになっていきます。」
 カイのその言葉を聞いた大学教授の長澤氏は、さも意外だというように言った。
「はあ? そういうことは、大人が先導して教えるものかと思ってましたが。」
 カイは微笑んで言った。
「いえ。まずは赤ちゃんの方からです。自分のことをなんの疑いもなく真似する姿が余りにも可愛らしいので、大人は赤ちゃんに、さまざまなことを教えたがるんです。
だから本当は、大人の方が、赤ちゃんの流れに合わせてるんです。」
「うーん、そうかなぁ?」
 教授が訝しげにそう言うと、カイはやや真剣な表情になってこう言った。
「あたしが知る限り、鳥も獣も人もみな、子の発する何らかの音に対して、親が反応するようになってるんです。」
 長澤教授は、呆れたように言った。
「子が発する音?」
 その言葉を聞いたカイは、やや悲しそうな表情になってこう言った。
「あなたがそうおっしゃるということは、今の日本の人が、既にそれを感じ取れなくなってしまっている、ということなんでしょうね……。」
「大人が先導して子供に物事を教える。上から下に躾(しつけ)や学問を下(くだ)す。今の日本では、これが当たり前のことですよ。」
 カイは残念そうに言った。
「そうですか……。それなら、日本はこのような戦争を起こして当たり前ですね。自然の流れから外れてるんですから。」
 教授は怪訝そうに問い返した。
「え?」
「赤ちゃんが望むこと、それは誰から押し付けられたものでもありません。大いなる自然から授かった、赤ちゃんの内から湧き起こる流れそのものなんです。」
「うーん、仮にそうだとしても、いきなり『論語』を教えてくれなんていう子供はいないはずですから、『これがあるよ』と言って、大人が教えてやらなければならないと思いますけどね。」
 カイは優しく微笑んで言った。
「いえ、そんなことはありません。知りたいことは子供の方からちゃんと聞いてくるんです。あなたも、お子さんやお孫さんをお持ちなら、そのことはよくおわかりでしょう?」
 教授はしばらく考えていたが、やがてハッと気付いて言った。
「そうそう。そう言われるとその通りですねぇ……。
子供が大人に対して、『なに?』『なぜ?』『どうして?』と、執拗(しつよう)に尋ねてくることはよくあることですから……。
話しをしてたり本を読んでたりして、『論語』という言葉の意味がわからなければ、子供の方からそれを尋ねて来ますね、ほぼ確実に。」
 カイは嬉しそうに言った。
「そうでしょう!? それこそ、自然の流れなんですよ!
この流れを一番よく見ることができるのが、その母親。次いでその父親と、お婆ちゃんお爺ちゃんや、兄弟たちなんです。先ほども申したように、これを中心にして物事を考えていけば、世の中狂ってしまうことはないんです。」
「う~ん……」
 教授は、腕組みして考え込んでしまったが、カイは話しを続けた。
「ところが長澤さん。子供が何かを尋ねてきても、『うるさい』と言って相手にしなかったり、逆に、厭がっているのに無理やり何かを教え込もうとすること。これは、自然の流れに沿っていないことなんです。
また、『この子は偉い人にならなければいけない』などと、本人の意思を無視して勝手にその人の将来を決めてしまったり、暑いのに無理やり立派な服を着せてみたり、泣いて何かを訴えても『男の子は泣いてはいけません』などと言って頭ごなしに叱ったりする。これは、魂から切り離された頭が勝手につくり上げた、幻による暴力です。
このような流れでいけば、子供は心に深い傷を負いながら育ってしまうんです。特に感じやすい子では、それが災いして狂っていくのです。心も体も……」
 ここで彼女の言葉をさえぎった教授は、訝しげに尋ねた。
「魂から切り離された頭?」
 カイは視線を斜め下に移すと、やや力を込めて言った。
「そう。魂から切れた頭、A Head out from the soul!」
 それに対して教授は、やや困ったように言った。
「……あの……カイさん。それでは、殿様の世継ぎとして生まれた子が『殿様になるように』とか、『偉い人になるように』と育てられるようなことは、不自然なことになるのですか?」
 カイは、真剣な表情で手を横に振って、それを否定した。
「いえいえ、違います違います。殿様の世継ぎとして生まれた子は、自然の流れでその家に生まれて来たのです。ですから、むしろそのような恵まれた家の中で、学問や武術に励む機会が大自然から与えられているのです。そして、そこで学んだものを活かして仕事に励み、喜びを持った人生を送ることができるんです。」
 教授は、やや納得したように言った。
「……なるほど。」
「ですから、職人の子や商人の子でもそれと全く同じことで、親のすることを子供のうちから見て覚えられるという機会に、恵まれているだけのことなんです。
親の仕事を継ぐか別の仕事をするかは、その子本人が決めることなので、親がその子に自分の考え方を無理に押し付けようとすると、自然の流れから外れてくるんです。」
 教授は納得して肯くと、こう言った。
「なるほど、それなら話しの筋が通っている。生まれて来た子の環境がどうなっているかは自然の流れであるし、その子が将来何になりたいかという意思も自然の流れであると。」
「そうなんです……。ところが……」
 カイは、表情をやや険しくすると言葉を続けた。
「人は、よく大きな勘違いをします。それが、先ほど長澤さんがおっしゃったように、赤ちゃんが大人に合わせて育っていくという錯覚なんです。これは、はっきり言って幻です。
そういう勘違いをしている大人は、自分の都合で我が子を動かそうとしたりします。例えば、自分の名を揚げるために我が子に良い学校に通わせようとしたり……、もっと大きな目で見れば、国の見栄のために民(たみ)の心に鞭(むち)を打つこと。これが自然の流れに沿っていない、ということなのです。」
 日本をこの戦争に導いた人間が育ってきた環境を想像してしまった教授は、思わず背筋が寒くなった。彼は思わず呟いた。
うーん……ということは……恐ろしいことだ。……この戦争を引き起こした軍の将校や政治家が狂っていただなんて……
 するとカイは、やや意味ありげにこう言った。
「狂っているのは、その人たちだけなのでしょうか?」
 教授は意外そうに目を見張って言った。
「ほう! 他にもまだいるんですか?」
 カイは、やや言いにくそうにうつむいて言った。
「『自分の国が負けてはならない、何事も一番でなければならない』と思う心。それは時として人の理性を狂わせてしまうと思いませんか?」
 教授はしばらく考えてから、恐る恐るこう言った。
「ということは、愛国心が狂っているとでも?」
 カイは悲しそうな目をして頷いた。
「愛国心そのものは悪いことではないと思います。問題は、その愛の質なのです。
愛する家族がいて、住みなれた愛する町がある。それと同じようにして自分の国を愛するのはごく自然なことだと思います。でも、自分の国が戦争に勝てば、まるで自分が偉くなったようになるという思い込み。それはちょうど、自分の息子が良い学校に入れば自分の体面が保たれると思うのと同じことで、人の頭が作り上げた幻でしかありません。そんな薄っぺらな心で国を愛すると、社会はどんどん狂っていくのです。」
 教授は深く唸って言った。
「う~~む…………そうすると、今の日本の社会は、確実に狂っていることになる…………」
 カイは悲しそうに言った。
「きっとそうなんでしょうね。日本だけではなく Germany(ドイツ)でも Italy(イタリア)でも、そしてその他の国々でも……。」
 教授は、しばらく何かを考えていたが、やがて訝しげな顔をして言った。
「……しかし、狂っているなら、なぜ医者がそれに気付いて、戦争することを止められなかったんだろう?」
 カイは、意外そうな表情で言った。
「面白いことをおっしゃるんですね、長澤さん。」
 それに対して教授は、真剣な表情でこう言った。
「いえ、もし誰かが狂っているなら、他の誰かがそれに気付いてそれを指摘しても良さそうなのにと思ったんですよ。」
 するとカイは、残念そうにこう言った。
「そのような国のお医者様は、この人たちを狂っていると診断なさることができないんです。なぜなら、そのお医者様ご自身も患者さんと同じ狂った社会の中におられるので、そのことに気付くことができないからなんです。だから、これも目に見えない大きな落とし穴、『戦争の落とし穴』なのです。」
 教授は、納得したように言った。
「そうか……。これは私の専門外になりますが、精神病の患者と認定されるためには、反社会的とか反道徳的とかいった行動をすることも判断材料になるんでしょうね。しかし、その社会や道徳そのものが狂っていれば話しにならない。そもそも文明世界では、『戦争』ということが当たり前になっていて合法化までされてるんですからね。戦争をなくすには、これを非合法化しなければならないですね。」
「そうですね。でも、それよりも先にしなければならないのは、人そのものの意識を変えていくということですよ。
必要以上に国を大きくしようとしたり、物の豊かさを求め過ぎたりすると、人々はそのことを一番大事なこととして見るようになるんです。そして、その国の社会は自然の流れから一人歩きを始め、他国の人を人と思わなくなってそこに攻め込むことを企(くわだ)てるんです。」
「なるほど。組織や経済の規模を拡大することに執着し過ぎると、それを構成している人間そのもののことが軽んじられるようになり、その社会は人間本来の生き方から外れて戦争を企てると……。」
「そうなんです。
……長澤さん、鳥を飼われたことはありますか?」
 教授は、カイが突然何を尋ねるのだろうとかと思ったが、今までの話しの流れからすると、生き物の性質について関係のあることなのだろうと思ったので、あまり動ぜずそれに答えた。
「いえ、私自身はありませんが、子供の頃に伯父が飼っているのを目にしていますよ。」
「そうですか……。鳥の親は卵を産んで雛(ひな)を孵(かえ)しても、しょっちゅう身の危険を感じるようになると、その雛を食べてしまうことがあるんです。」
「ああ、そのようなことはよく言われましたよ。まだ子供だった私は、鳥の卵が孵る瞬間を見たかったので、ちょこちょこ鳥篭を覗きに行っていたら、伯母が『そんなにしょっちゅう見に行くと、親鳥が卵を食べてしまうよ』ってね。」
「そうでしょう? それは人でも同じようなことになるんです。元々社会の仕組みや国家とは、人々の幸福のためにあるはずなのに、それらを維持するため人々が犠牲になるというような風潮になっていくと、その国は次第に自然の流れから遠ざかり、女たちは何か落ち着かないので子を産まなくなってしまいます。そして、たとえ産んだとしても、親がその子を虐待したり殺してしまったりするようなことが起きるんです。」
 教授は深刻な表情になって言った。
「なるほど、それは明らかに本末転倒な発想によって引き起こされる社会現象ですね。」
 カイも引き続き深刻な表情で言った。
「また、世の中がそのように狂い始めると、それまでの価値観がひっくり返ってしまうのです。」
「ほう、どのように?」
「狂った者の言動が正しいとされ、まともな者が狂人扱いされるようになるのです。」
「具体的に言いますと?」
「長澤さんは、europ(ヨーロッパ)の魔女狩りについてご存知ですか?」
「私の専門ではありませんが、大体のことなら……。」
 学者らしい冷静な口調でそう言った教授ではあったが、この町の物語の中で、それについて述べられていた部分があったことを思い出した彼は、やや興味深そうに身を乗り出すと言葉を続けた。
「……おお、そう言えば、十七世紀初頭に欧州(ヨーロッパ)へ行った、あなたたちのご先祖の何人かが、そのとばっちりを受けたんですよね?」
 カイは、やや残念そうに微笑んで言った。
「ええ、そうなんです……。あたしたちが思うに、魔女狩りによって殺された人たちは、本当は魔女などではなかったんだと思います。ただ単に、Christian(キリスト教徒)ではない不思議な力を持った女の人が、キリスト教会の権力者から魔女扱いされていただけだと思うんです。」
 教授がちょっと悪戯っぽく言った。
「ということは、カイさん、あなたも時と場所によっては危なかったかも知れませんね。」
 カイはやはり、寂しそうに微笑んで言った。
「そうなんでしょうね、きっと……
昔は、あたしたちのような人々が、Europe にもたくさんいたんだろうと思いますよ。未来が見える者、動物や植物の言葉がわかる者というように。」
「しかし、その人たちが次々と火あぶりになってしまった。」
 カイは悲しそうな表情になって言った。
「そうなんです。だから、そういう力を持った人が減った分、その血も薄くなったために、まず最初に『欲望の落とし穴』に落ち始めたのは、魔女狩り後の Europe と America(アメリカ)だったんですから。」
 それを聞いた教授は、急に真剣な表情になると独り言のように呟いた。
うーん、なるほど……。魔女の遺伝子を持った人間が減ってしまったということか……
確かに魔女狩り以降のヨーロッパは、それまでとは違って、何かに取り憑かれたようにして急速に文明化されていったよなぁ……

「そうなんです。あたしたちのような者がいなくなると、未来を見て危険を知らせてくれる者や、神様の声を聞いてくれる者が、いなくなってしまうんです。
そうすると、人の頭は神様からどんどん離れて行き、頭が一人歩きした世の中をつくり上げてしまうんです。これが『欲望の落とし穴』で、そこに落ちても、誰も気付くことができません。」
 教授は感慨深げに言った。
「なるほど……。」
「ですから、今の文明世界で『異常』と言われている人たちは、本当に狂っている人と、本当はまともなんだけど、世の中が狂っているために『異常』だと思われている人に分けられるんです。その、本当はまともな人たちに、自然の流れに沿った道を示すと、その人たちは、それぞれに応じた普通の人にはない力を発揮し始めるんです。」
 教授は興味深げに尋ねた。
「例えば、未来が見れるとか、奇跡を起こすとか、動物と話しができるとか?」
 カイは頷いて言った。
「そうです。特に、破壊と創造の力を兼ね備えている者は、それによって、この世をつくり変える力を得られるのです。」
 以前、隊長で民俗学者の早川教授から何かの折に、「インドには破壊と創造を行う強力な神がいて、それが多くの人々の信仰を集めている」という話を聞いていた長澤教授は、この言葉に対して強い興味を抱いた。
 彼は極めて真剣な面持ちで、カイに向かって尋ねた。
「それでは、そのような人が、これからこの世に現れるということなんですか?」
 カイも真剣な表情で言った。
「そうです。その人の発する言葉はこの世の人々を目覚めさせるんです。つまり、それまで妄想とか偶然の一致とかで片付けられていたことが、実は全部が全部そうではなかったというようになるんです。そして文明世界の人は、自分たちを含めたこの星の生き物のことを、科学とはまた違った見方で、捉えることができるようになるんです。」
 教授は引き続き真剣な面持ちで、カイに向かって尋ねた。
「ほう。それは、どんな捉え方なんですか?」
 カイは、口調を少し改めて言った。
「……それでは長澤さん、今からそれをご覧に入れましょう。あたしに、付いて来て下さいますか 。」
 彼女が立ち上がったので、長澤教授もそれに従った。
 廊下を通って裏口で二本の松明(たいまつ)に火をともしたカイは、そのうちの一本を教授に手渡すと、黙って階段を下りて行った。教授も黙ってその後に付いて行った。
 松明を持った二人は裏庭を通り抜けて椰子林に入った。海へと続く小道の両側の林立する椰子の黒い奥からは虫や蛙の声が賑やかに聞こえて来るが、カイもその後に続く教授も、黙って黙々と歩いて行った。
 やがて椰子林を抜けると、広い砂浜に出た。
 夜の黒い海はとても穏やかだった。松明の明かりで白く照らされた波が浜に打ち寄せるたびに、ザブンという静かな音を立てている。カイは、ここでやっと口を開いた。
「流木を集めて頂けませんか?」
 その言葉の意味がわかった教授は、良く乾燥していて手ごろな流木を片手に抱えられるだけ抱えて戻って来た。カイも同じようにして集めて来た流木を砂の上におろすと、白い砂の上に腰を下ろし、教授が集めて来たのからも何本か選んで、焚き火の準備をした。
 木が組まれると、カイはそこに松明の火を移し、代わりに自分の松明の先端に砂を掛けて火を消した。カイは松明を持って立っている教授に向かって言った。
「さ、松明の火を消してどうぞお座りください。」
 教授も彼女と同じように火を消すと、焚き火を前にして砂の上に腰を下ろした。日中は強い日差しに照らされていたため、その砂はよく乾燥していた。
「……学問を教えていらっしゃるあなたに、こんなことをお尋ねするのは失礼になるかも知れませんが……。」
 いきなり何をまた尋ねられるのかと長澤教授は一瞬戸惑った。しかし、今までの会話の中でカイのことをある程度理解することができていたので、穏やかな表情を彼女の方に向けると、焚き火の明かりを映しているその瞳に向かってこう言った。
「いえ、何でもお尋ね下さい。」
 カイは、ややためらいがちに言った。
「……生き物とそうでない物の違いを、あなたはおわかりになられますか?」
 教授は冷静な口調でそれに答えた。
「生物学も私の専門ではありませんが、まあ大体のことなら……。」
 焚き火の火はかなり大きくなってきて、二人の周囲をほんのりと明るく照らし始めた。
 カイは、近くに転がっている大きな石を指差してこう言った。
「このような石でも、放っておくと長いあいだのうちに波に削られて、最後は砂になってしまいます。」
 そして彼女は、星空を背景にしてシルエットとなっている、この島の山を指差してこう言った。
「高い山は崩れていき、谷は埋まっていく。」
 教授は頷いて言った。
「その通りですね。」
 カイは、視線を長澤教授の顔に再び戻してから言った。
「ところが、生き物はこれとは逆です。」
 彼女は、近くの砂の上に出ている何かを指差すと、教授に向かって尋ねた。
「長澤さん、あれが何かおわかりになりますか?」
 それは、先端が尖っている巨大な植物の芽だった。教授はそれに答えた。
「椰子の芽でしょう?」
 カイは、再び教授と向き合った。
「そうです。砂の上に落ちた椰子の実は、このように天を突くような芽を伸ばして大地に深く根を下ろすと、やがてあのような大木となります。」
 彼女はそう言って、その背後にある黒い椰子の林を指差した。そして今度は、黒い海原を指差してこう言った。
「また、米粒のような魚の卵が、何年かすると大きな魚になっています。」
 彼女は再び、炎に照らされた長澤教授の顔を見てこう言った。
「機械は部品が古くなれば壊れてしまいますが、生き物の体は常に新しくなっています。
このようなことが、生き物とそうでない物の違いだと思うんです。」
「なるほど、一見生き物に似たような動きをする機械もありますが、歯車が擦り減ってくればやがて故障してしまう。ところが生き物は、食糧を得ていさえすれば細胞は新しいものと入れ替わっていく……。」
 教授はここで少し考えると、やや困ったような笑みを浮かべて言った。
「しかし、カイさん。地殻変動についてはどう思われるんですか? これも私の専門外ですが、地球には造山運動というものがあってね、これによって山がどんどん高くなっていくんですよ。現にヒマラヤ山脈などは今でも毎年何寸か高くなっているそうですから。」
 カイは不思議そうな顔をして言った。
「ええ、そのことは知っていますが、それが何か?」
 教授は困惑した表情になってこう言った。
「これでは、無機物であるはずの惑星が、生き物であるということになってしまうではありませんか。」
 カイは驚いて言った。
「え!? あなたは、この星が生きてないと思っておられたんですか?」
 今度は教授が目を丸くして言った。
「え!? 地球が生きている!?」
 今度はあべこべに、カイが困ったようにこう言った。
「長澤さん。ムキブツという言葉が何を指すのかあたしにはよくわかりませんけど、あたしたちの考え方からすると、地球もお日様も生きているんです。」
 教授は、困惑したような苦笑いを浮かべて言った。
「うーん、あなたがおっしゃる科学とは違った見方とは、そういうことですか……。」
 その一方カイは、純粋に嬉しそうな微笑みを浮かべて言った。
「そうです。このようなこと、あなたのお国では滅多にお耳にすることはできないでしょう? それなら今宵は騙(だま)されたとお思いになって、このような見方をなさってみては?」
 教授は、引き続き苦笑いしながら言った。
「はあ、それではそうしてみます……。」
 そして、やや真剣な表情になると、カイの話しの先を促がした。
「……ということは、地球も太陽も生きていると……。」
 カイも真剣な表情になってそれに応じた。
「そうです。星にもちゃんと命があるんです。」
「そして、成長するのは生き物の証(あかし)であると……。」
「そうなんです。そして地球の上の生き物が成長するために必要な糧(かて)の源(みなもと)となっているのが、実はこの地球の水と空気、そしてお日様の光なんです。」
 カイは、そう言って暗い海の方を向いた。その瞳には、焚き火の揺れる炎が写っている。彼女は話しを続けた。
「……まずは、この星の水と空気、そしてお日様の光によって草や木が育ち、それを糧にして鳥や獣が育つ。その生き物たちをあたしたちは食べてるんですから、この星とお日様の恵みをあたしたちも受けていることになるんです。」
 教授も、黒い海から白い波が間をおいてやって来るありさまを眺めながらこう言った。
「なるほど、私たち生物はみな、地球と太陽の恵みによって生きていると。」
「そうです。ところが、生き物の体は成長し続けてもいいはずなのに、なぜか必ず死ぬようにできています。」
 そしてカイは教授の方を向くと、こう言った。
「それでは長澤さん、生き物にはなぜ寿命があるのか、ご存知ですか?」
 教授もカイの方を向くと、首をかしげながら答えた。
「……うーん、それは定めだと思って今まで考えたことがなかったなぁ。……なぜだろう?」
 カイはまた海を見て、こう言った。
「……地球の生き物を育む水、空気や光の濃さ、そして気温などは、時代と共にそれぞれ少しずつ変わっていきます。もし、生き物全てに寿命というものがなかったなら、その変化に応じられなくなり、逆に滅んでしまうことでしょう。
刻々と変わっていく地球のありさまに応じて、新しい命が次々と生まれ育っているからこそ、生き物は滅ばずにいられるのです。」
 教授も再び黒い海を見ると、納得したようにこう言った。
「なるほど、そのたびに環境に適応した種の遺伝子が残っていくと……。」
「そうです。自分たちが絶えぬようにするため、生き物は子を残し、役目を終えた親は『生きる』という仕事をその子に譲る。土地や食べ物には限りがあるので、親がいつかは死ななければその子は満足に育ちません。そのため、全ての生き物には寿命があるのです。」
 教授は感慨深げに言った。
「なるほど……。生き物が老いて死ぬということは、機械が老朽化して止まってしまうということとは、意味が全く違うということなんですね。」
「そうなんです。子を産み育てるということによって、次の世代に命を繋げていけるようになってるんです。たとえそれが自分の子供でなくてもいい。木一株、草一本でもいいんです。この大宇宙に生き物を増やしていくということは、お日様と地球という父母からあたしたち生き物に与えられた大事な仕事なんです。」
「なるほど……。つまり、私たちは一人一人が好き勝手しているようで、実は太陽と地球によって一つの方向へ動かされ、みな同じことをしようとしているということですね。」
「ええ……。一つの方向と言えばそうですが、みな同じことをしようとしているわけではありません。それは何千億何千兆通りもの可能性を秘めているのです。」
「え?」
 カイに向かって教授がそう聞き返したので、彼女は軽く微笑んでからその説明を始めた。
「それでは、一匹のカニが右に進むか左に進むかによって世界が変わると言ったら、長澤さんはきっと、お笑いになられるでしょうね。」
 彼女はそう言って、自分たちの近くの砂の上を指差した。炎に照らされているそこには、数匹の大きなカニが二本の鋏で砂の中の餌を漁っている。
 教授はそれを見たが、学者らしく真面目な口調で言った。
「その情報だけでは、笑うまでには至りませんね。」
「例えば、一匹のカニが右側に進めば何もなく、左側に進めば人の足の指があったとします。このカニが右側に進めば何も起こりません。ところが左側に進めば人の足の指を挟むかも知れません。」
 カイはそう言って、自分の素足の先を示した。教授は頷いてから、こう言った。
「その可能性は、完全には否定できないでしょうな。」
「そのカニに足の指を挟まれた人が、例えば爆弾の起爆装置を持っていて、挟まれた痛みによって思わず手に力が入り、それを押してしまったとします。」
 教授は、やや微笑んで言った。
「まあ、それも有り得ないことではないでしょうな。」
 カイも、やはり微笑みながらこう言った。
「すると、その起爆装置の先に付けられていたA国の爆弾が破裂します。そして、それが仕掛けられていた大きな橋が川に落ちます。ところが、そこを一分後に通ることになっていたB国の大部隊は橋と一緒に川に落ちずに済みました。これによって戦局が一転し、A国が勝つはずだった戦争はB国が勝って終わるということになりました。」
 教授はついに笑ってしまって、こう言った。
「ハハハ! 『風が吹けば桶屋が儲かる』みたいな話しですが、全く有り得ないことではありませんね。」
 カイも笑って言った。
「フフフ、そうでしょう? だから、カニ一匹の判断とそれに伴う行動によって、世の中が変わってしまうことも有り得るんです。文明世界の方にもわかり易いように、戦争を題材にしましたが、いかがでしたか?」
 教授は微笑んで言った。
「よくわかりましたよ。この町の言い伝えにも似たような話しがありましたよね。」
「そうなんです。あのときはカニではなくて蝿でしたが。」
 カイは微笑んでそう言うと、また真剣な表情に戻ってこう言った。
「このように、全ての生き物それぞれがどう動くかによって、この世界はいかようにでも変わり得るのです。その可能性は、この世の生き物の数同士の組み合わせだけあるということになります。」
 教授も真剣な表情になって言った。
「それは極めて膨大)ぼうだい)な数になりますね。」
「そうなんです。もちろんその中には、この世の全ての人も含まれていますし、お日様の光や海や山といったものも関わっています。それら全てが自然に寄り集まってお互いにつくりあげた一つの大きな関わり合いがこの世であり、それは刻一刻と変化し続けています。その変化には、自ずとある一定の向きが生まれるのですが、その向きを定めているのが宇宙の法則と、先ほども申したお日様と地球の意志なのです。
ところが今の人の世、即ち文明世界を見ていると、お日様と地球の意志によって生まれ出た生き物たちを遠避け、機械という生きていない物でこの世を満たそうとしています。これも、おわかりになりますよね?」
 教授は少し考えてから頷いて言った。
「……ええ、……そう言われるとそうですよね。
木を切り倒してそこに石の町をつくり、汚れるからといって土を覆い隠し草の生えない石の道をつくる。そして、牛や馬の代わりに自動車を走らせ、便利な機械で家の中を満たそうとする。」
「これは、お日様と地球の意志に逆らっていることだと、お思になられませんか?」
 教授は、またちょっと考えてから言った。
「……うーん、それはどうかわかりませんが……文明世界の人間だけが、他の生き物とは逆行した動きをしているようだ……。」
「そうなんです。そして、自分たちが食べるための生き物、尊ぶべき命でさえ、まるで物のように粗末に扱っているのです。」
 教授は、やや目を見張って尋ねた。
「ほう、それは具体的に言ってどのようなことなのですか?」
「羊や牛のような家畜は放牧されるので、まだ自然の流れに沿って飼われています。ところが、身動きが取れないような狭苦しい柵や箱に詰め込まれた豚や鶏たちは、生きながらにして地獄の苦しみを味わっているのです。」
「そうですね。それとは逆に、物や機械を生き物のように大事にしている人はよく見掛けますが。」
「それは良いことだと思いますよ。たとえそれが機械であっても、物を大事にするということは、無駄な物をつくらなくて済むことになるのですから。
……それでは長澤さん、『命の環』ということはご存知ですか?」
 カイは極めて真剣な表情になってそう言ったが、教授は怪訝そうに答えた。
「……いいえ、初めて耳にしますが。」
 カイは、海を見て言った。
「小さな生き物を小さな魚が食べる。その小さな魚を大きな魚が食べる。その大きな魚を……。」
 教授は微笑むと、その言葉の続きを彼女に代わって言った。
「……人間が食べる。……私たちはこれを『食物連鎖』と言ってますよ。人間はその頂点に立っていますよね。」
 教授の方を向いたカイは、悲しげな表情になって、きっぱりとこう言った。
「いいえ! 長澤さん、それは大きな勘違いなんです!」
 教授は、さも意外だというような表情で言った。
「え? 勘違い?」
 カイは、真剣な眼差しで教授を見てこう言った。
「はい。そもそも、『環』にしても、『連鎖』にしても、始まりや終わりがあるものではないでしょう?」
 教授はしばらく考えてから、苦笑いして言った。
「……なるほど、これは一本取られましたね。『連鎖の頂点』なんて、そもそも矛盾(むじゅん)した言い方ですよね。」
「そうなんです。それを『頂点』だと思い込んでしまうのは、文明世界の人々の生き方が、その連鎖から外れているからなんですよ。」
 自分の実の娘よりも、まだ歳の若い娘から説教をされるような感じになってきたので、教授は苦笑いしながらこう言った。
「ということは、私もそこから外れてるということになるんですね?」
 カイは、引き続き真剣な表情でこう言った。
「ええ。でも、その事実とちゃんと向き合わねばなりませんよ。
……先ほどの話しの続きになりますが、小さな魚を食べた大きな魚の寿命が尽きて死ねば、それは海の肥やしとなり、それによって小さな生き物をまた育(はぐく)むことができます。これが本当の食物連鎖、『命の環』なんです。
ところが文明世界の人は、生き物を食べるだけ食べておいて、死ねば普通は焼かれて骨は骨壷に入れられてしまいます。死んでも草木や小さな生き物たちに何一つ返していないんです。」
 教授は、先ほどまでの苦笑いを驚きの表情に変えて叫んだ。
「なるほど、そうか! 確かにあなたのおっしゃる通りだ!
文明世界の人間だけが地球の食物連鎖からはみ出してる!!!
 カイは、ホッとしたように言った。
「わかって頂けたようですね。文明世界の人々は、この星の『命の環』から外れ、そこから命を吸い取り続けているんです。このままだと、いつかはそれを吸い尽くしてしまうことになります。先ほどの、生き物が減って機械が増えていくという話しと合わさって、このようなことは、これから益々度を強めていくことでしょう。
そうすると、この星からは、人とその食物以外の生き物の姿が消えてしまいます。地球から、『命の環』が消えてなくなってしまうんです。」
 そして彼女は、黒い海を指差すと、教授に向かって激しい口調でこう言った。
そうすると、食物となる生き物がいなくなって人は生きられなくなり、
最後は風によって岩と砂だけになるんです。この星は!
 教授は思わず背筋を寒くして言った。
「うーん……、人間の都合だけ考えて物事を推し進めていくと、最後は人間も生きていけなくなるということか……。」
 カイは、やや穏やかな口調に戻ってこう言った。
「そうなんです。そうならないようにするためには、人の過剰な欲望を満たすことによって動いている今の産業と経済の仕組みを改めなければなりません。それを行なうためには、まず今の文明世界の生き方の元になっている考え方そのものを、根元から改めなければならないのです。そして、自分たちも含めた全ての生き物のために、人もこの星の『命の環』の中に戻らなければならないのです。」
「それは大変なことですね。」
「ええ、ここまで来てしまった以上、これは本当に大変なことになります。でも、この星の『命の環』が一度完全に壊れてしまえば、つくり直すのにまた何億年もの時間が必要になるのでしょうから、そうなる前に手を打つならそれほど難しいことではありません。『命の環』には、壊れてしまった己(おのれ)をある程度再生する力が備わっているからです。
その力を生かすためには、一刻も早く人はそこに戻ることに取り掛からなければならないでしょう。……手遅れにならないうちに。」
 教授は納得したようにこう言った。
「なるほど……。人間の生き方や、産業や経済の仕組みなどというものは、ある日突然変えられるものではありませんからね……。」
 しかし彼は、やや不思議そうにこう言った。
「……でも、もし現在の膨大な数の人間が食物連鎖に復帰したなら、地球上に微生物が増え過ぎて、逆に連鎖の均衡(きんこう)が乱れてしまう、ということになりませんか?」
 カイは真剣な表情で頷くと、こう言った。
「ええ、一度にそれをすれば、そうなって当たり前です。二百年掛けてこのようになったのですから、元に戻すのにも二百年掛けるんです。」
 教授は納得したように頷いてこう言った。
「なるほど。」
 海の上に広がっている夜空の星を見て、カイが何か意味ありげに言った。
「それに……、もし仮に生き物全てが増えてしまっても、大丈夫なんです。」
 教授はちょっと悪戯っぽく言った。
「もしかして、増えた分は他の星に移り住むとか……?」
 教授の方を向いた彼女は微笑んで言った。
「その通りです。あたしたちの物語にもそういう話しがあったでしょう? 実はあたし、ある夢を見たんです。」
 教授は目を丸くして言った。
「え! もしかして、地球の生き物が他の星へ移り住む夢ですか?」
 カイは笑って言った。
「ハハハ! いえいえ、そこまで先のことではありません。近い将来、地球の人がこの星の空気の外に出る夢です。pencil(鉛筆)のような形をした大きな船に乗って……」
 教授は興味深そうに言った。
「ほう、近い将来ね。」
 カイは、再び真剣な表情になって言った。
「そうです。それにはまず、世界が平和にならなければなりません。どの国も、そのようなことのできる余裕が持てるのは、戦争をしていないときだからです。」
「それはそうでしょう。」
 真剣な表情で教授はそう言うと、今度はやや不安げにこう言った。
「……ところでその人は、その船に乗って宇宙に行ったはいいけど、ちゃんと還って来れたんですか?」
 それに対して、カイは微笑んでこう言った。
「そうです。その人の目を通して宇宙からこの星を見たら、青色をしていました……」
 教授は再び目を丸くして言った。
「へー! 地球って土の色をしているのかと思ってたけど、青いんですか?」
 彼女は海を見ながら、夢を見るようなうっとりとした目付きで言った。
「そう……。海の色、空の色の深い青……。」
 教授は、思わず唸ってしまった。
「うーん、羨ましい……。」
 そして、彼女に向かってやや不安げに尋ねた。
「私のような天文学を専攻していない者にでも、それは見ることができるんでしょうか?」
 カイは、確信しているように微笑んで言った。
「ええ。いつかきっと。
そのためには、各国が軍隊のために使っている予算も技術も、宇宙に行く船をつくるために回さなければなりません。」
 教授は、真剣な表情で言った。
「それは当然のことでしょうね。」
 カイも真剣な表情になると、教授に向かってこう言った。
「しかし、それよりも前にまずしなければならないことがあります。それは、先ほども申した通り、人々が自分たちの考え方生き方を改めることです。自分だけのことだけではなく、他人のことも思い遣る気持ちを持つこと。自分の国のことだけではなく、人類全体この星全体のこと、果ては宇宙全体のことをまず考えて生きるようにすることです。
そうしなければ、宇宙に出る前にこの世は争いによって滅びてしまうし、仮に出られたとしても、そこで無駄な争いを起こし、結局宇宙を滅ぼしてしまうことになるのですから。」
「なるほど、それはおっしゃる通りでしょう……。」
 長澤教授はカイに向かってそう言ってから、少し困ったような苦笑いをして言葉を続けた。
「……しかしカイさん。恐らく何千年も前から続いている『同じ種同士で殺し合う』という人間の性質、この遺伝的とも宿命的とも言える特性が、今後そううまい具合に変わるものなんでしょうかね? 私は大いに危惧(きぐ)しますよ。人類がこのまま頭の中身を変えずに宇宙に出て行って、今の地球上で行なわれているような侵略戦争の宇宙版を繰り広げるんじゃないかってことを。」
 カイは穏やかな表情で、やや意味ありげにこう言った。
「私に難しい言葉はわかりませんが、長澤さん、殺し合うのは場合によって人だけではありませんし、逆に人は必ず人を殺さなければ生きていけないとは思いませんけど……。」
「まあ、そうでしょうな。虫でも動物でも、狭いところに入れておけば共食いをする……。」
 彼は一瞬何かを考えてから、独り言のようにこう言った。
「……待てよ……。なるほど、そうか!」
 教授は、難解なパズルをといた子供のように、目をキラキラと輝かせながらこう言った。
「もしかすると、宇宙のような広いところに出れば、人間は殺し合ったりしなくなるんですか!?」
 カイも嬉しそうに言った。
「そう思います。元々そのようにつくられてるんだと思いますよ。」
 教授は感極まったように言った。
「そうだったのか! 人間が地球上で戦争をしているのは、そもそも人類にとって地球という空間が狭いからであって、もっと広い空間に出れば、他の生き物同様に縄張り争いはしても、無益な殺し合いまではしなくなると……。」
「ええ、空間の広さということもありますが、宇宙には神様の声があって、人がそれを聞けたとき、自然とそのようになっていくんだと思いますよ。」
 教授は嬉しそうに言った。
「……ということは、今までの戦争は宇宙に出るための準備だった、ということにもなりませんか?」
 カイはその意味がわからなかったらしく、教授に向かって怪訝そうな顔で尋ねた。
「……準備……と言いますと?」
 教授は嬉々としてそれに答えた。
「今まで人類が築き上げてきたこの文明は、戦争によって進歩してきたと言っても過言ではないと思います。前にあなたがおっしゃったように、戦争が起こるたびに新しい科学技術が開発されてきたんですから。
先ほどあなたがおっしゃった、『ペンシルのような形をした船』という言葉を今思い出して私は思ったんです。戦争用に開発されているロケット弾の技術を応用すれば、人類は宇宙に出れるんじゃないかとね。
そうすると今までの戦争は、そこまで漕ぎ付けるために必要だったということになるんで『準備』と言ったんですよ。」
 カイは、困ったように眉を寄せて言った。
「長澤さん、rocket(ロケット)の技術を応用するというのは良いことかも知れませんが、戦争を認めるような理屈を考えるのは、ちょっと行き過ぎなんじゃないですか?」
「え?」
 教授が意外そうな顔をしたので、カイは確かめるようにこう言った。
「その考え方でいくと、『今までの戦争はして良かったんだ』ということになりますよね。」
「ええ、そうですね。」
「でも、そうすると、これからも『科学の発展のため』という名目で、戦争が繰り返されることになってしまいますよ。」
 そしてカイは、教授の顔を改めて覗き込んでこう尋ねた。
「長澤さん、あなたには、お孫さんがいらっしゃるのでしょう?」
 教授は怪訝そうに答えた。
「ええ。」
 カイは引き続き確認するように尋ねた。
「あなたは、そのお孫さんの幸せを願いはしても、不幸にさせたいなどと思ったりはしませんよね。」
 教授は苦笑いして言った。
「当たり前ですよ。」
 カイは、なかば教え諭すようにこう言った。
「それなら、これから先に起こる戦争は、全て否定していかなければならないと思いませんか?
極端な言い方かも知れませんが、未来の人を生かすも殺すも、今を生きている私たち次第なんですよ。」
 教授はちょっと考えてから言った。
「……うーん、そうかなー?」
 カイは、また困った顔になって言った。
「まだわかってもらえませんか……。
それでは鼠に例えてみますが、狭い木の箱の中に鼠を何匹か閉じ込めて、餌を与えないでおきます。すると、喧嘩をして共食いをする鼠がいる一方で、箱を食い破って外に出ようとする鼠もいます。どちらが賢いと思われますか?」
 教授は少し考えてから、やや顔を赤らめて言った。
「これはこれは……。よくわかりました。そうですよね、共食いを繰り返していればそのうち鼠は一匹になって最後には食べる物がなくなり、その一匹も餓死してしまうので結局全部いなくなってしまう。ところが、みんなが協力して箱に穴を開けて外に出れば、誰も命を落とすことなく餌を得ることも子孫を残すこともできる……。」
 カイは、やや毅然とした口調で言った。
「そうなんです。既に起きてしまったことは仕方ありませんが、それを教訓にして、これから先に起こる全ての戦争を認めてはならないのです。
……と言うよりも、戦争の元になるような今の文明世界の考え方、自分のことだけしか考えることのできない人の頭の中を、元から改めてしまわなければならない、と言う方がより当を得ているんでしょうか……。
ですから、各国が競い合って科学技術を発展させるなら、戦争によってではなく、宇宙に出るとか他の星に住めるようにするという目標によって発展させるべきなのです。
二千年も前にそのことに気付いて戦争をやめていれば、文明世界の人はもうとっくに、月とのあいだを行ったり来たりしていたのかも知れないのですよ!」
「なるほど……。人類はそのことに、なかなか気が付かないのだと?」
「そうなんです。」
 教授は、やや穏やかな表情になって言った。
「しかしいずれにしても、それは人の心を救済するという意味で、極めて有意義な考え方ですな。戦争を起こすのは基本的に人間そのもののせいではなくて、置かれている環境のせいだったということになるんですから……。」
 少し考えた教授は、途端に意気込んでこう言った。
もしそうだとすれば、人類は一日も早く宇宙に出て、これ以上戦争が起きることを防がねばなりませんよ!
 カイも同じような口調で言った。
そうなんです。それは、あなたがた文明世界に住む人々のお仕事なのです!
 教授は嬉しそうに言った。
おー! なんだか未来に希望が見えてきたぞ! 我が誇り高き文明世界!
 しかし、教授が有頂天(うちょうてん)になってしまうのを牽制(けんせい)するかのように、カイは少し悪戯っぽい表情になって、また謎掛けをしてきた。
「フフ、それでは長澤さん、他の動物は文明を持たないのに、なぜ人だけがそれを持っているのか、おわかりになられますか?」
 それを聞いた教授は、純粋な笑顔を苦笑いに変えてこう言った。
「うーん、またもや単純にして答えに苦しむ質問だなぁ……。
他の動物よりも大脳が発達しているからである、ということだけは間違いないのでしょう? これは私の専門分野ではないので、そうと断定することはできませんが……。」
 カイは微笑んで言った。
「ええ、それも一つありますが、それなら、同じように他の動物よりも大脳が発達している、犬や猿などにも文明を持つ兆(きざ)しがあってもいいはずです。ところが、今のところそれは全くありません。」
「……うーん、そう言われるとそうだなー……。道具を使う猿が、どこかの動物園にいるという話しは聞きましたが。」
「そうですか。でもそれは、それ以上発展することはないでしょう。そこが問題なんです。」
 教授は、身を乗り出して言った。
「ほう、その問題とは?」
 カイは話しを続けた。
「人間も含めた全ての動物には、生きるために必ず欲望が備わっています。それと同じように、その欲望を消すための働きも必ず備わっているんです。」
「なるほど、例えば腹が一杯になれば食べるのをやめるとか、必要なだけの縄張りが得られればそれで満足するとか?」
「そう、その通りです。その働きによって、他の生き物は必要以上の食べ物や縄張りを得ようとはしません。ところが、人が何かを食べたいとか、何かを持ちたいとか思うのを消すための働きは、頭の働きによって弱められてしまうことがよくあるんです。」
「日本を征服したらアジアを、アジアを征服したら世界をというようにですね?」
「そうなんです。ですから、人は他の生き物に比べると完成度が低いんです。言い方を変えれば、脳だけが発達し過ぎて、他の器官との調和が取れてないんです。」
「え!?」
 教授は驚いて目を丸くしたが、カイは同じ調子で話しを続けた。
「文明世界では、栄養のあるものをたくさん食べることが幸せなことだと思われているので、人はより栄養のある物を食べ過ぎてしまい、太り過ぎになって逆に健康を害することが多いでしょう?
またそれとは逆に、外見を美しく見せるため太りたくないと考え過ぎる女の人が、物を食べなくなって死んでしまうというようなことも起こるんです。
更に、一人の人が一生掛かっても使い切れないような額のお金を得ようとしたり、一人で住むのには広過ぎるような土地を得ようとします。これは元々自分の子や孫に財産を残してやろうという思いから来ていましたが、今では自分だけのためにそうしている人の方が多くなってるようです。
そして、隣りの人の方が自分よりお金持ちだと思えば、その人より多くお金を得て、それをその人に見せびらかそうとしますよね?」
 長澤教授は、唸ってから言った。
「うーん、なるほど……。
そのような無駄で無意味なことは、私の知る限り野生の動物には見られないことですね。」
「そうでしょう? ですから、そのような思いが、今のこの文明を生み出したのです。」
 教授は、やや呆れたように言った。
「賢さがこの文明を発展させたのではなくて、自分が他人よりいい思いをするために互いに競争をしてきた結果、文明がここまで発展したと!?」
「そういうことです。」
 教授は、情けなさそうに微笑んで言った。
「……カイさん。その考え方でいくと、この文明は賢さの賜物ではなく、まるで無駄な物、愚(おろ)かしい物というようになってしまうではありませんか。」
 カイは意外だというように目を見張って言った。
「え? これまでの話しからして、そのようには、お思いになられてなかったんですか?」
「そう思える部分もありましたが、文明そのものが愚かしいなどと私には思えませんけどね。古代から綿々(めんめん)と受け継がれてきた、この人類の英知の賜物(たまもの)を。」
 カイは、ちょっと残念そうな顔になって言った。
「ええ、それが自然の流れに沿った文明ならそうなんでしょうけど、今の文明の有り方が英知の賜物だと、あたしにはとても思えませんけど……。
工場や発電所から流れ出た悪い物が、水や空気や食べ物を汚して多くの人々が病気になったり命を落としたりする。
地下の資源を散々贅沢に使いまくっていた人々が、それが尽きることがわかると今度はそれを奪い合って殺し合いを始める。
こういったことは、今の人には全く考えも及ばないことですが、このままだと近い将来、そのようなことが次々と起こってきて、そのたびに世の中は大騒ぎになるんです。あたし、そのような夢を見たんですから。」
 教授はしばらく考えてから言った。
「……うーん、なるほど、あなたのおっしゃることを冷静に考えてみると、尤もなことかも知れない……。
文明がこの形態のまま発展し続ければ、工場の煤煙や廃液(はいえき)などによって空気や河川は確実に汚染(おせん)され、地下資源はいずれ枯渇(こかつ)してしまうでしょう。そうなる前に対策を立てなければならない……。」
「そうなんです。この世の多くの人がこの文明に頼って生きている以上、もはや文明なしでは生きられません。それならせめて、この星そのものを滅ぼすことのないようにだけでも、しなければならないのです。」
「地球の生命存続のための改革が必要だということですね?」
 カイは力を込めて言った。
その通りです! 『命の環』まで滅ぼしてしまえば、もうやり直しが効かないからです!
 教授は、納得したように独り言を言った。
……そうか……それなら、その改革は実現可能かも知れない……
 カイは、やや口調を改めて言った。
「ところで長澤さん……。進化論についてはご存知ですよね。」
 教授は嬉しそうに微笑んで言った。
「もちろんです。これも私の専門外ではありますが、チャールズ・ダーウィンの著書『種の起源』で述べられていることが特に有名ですね。」
「そうです。このような説は自然の仕組みについて、かなり正しく述べている部分もあると思いますが、多くの人々に誤解を与えてしまっている部分もあるんです。」
 教授はなんだか、自分の同業者と話しをしているような気分になってきたので、苦笑いして言った。
「カイさん、あなたは町長というご職業だとお伺いしていましたが、今はそうじゃないように思えてきましたよ……。」
 それに対してカイは、怪訝そうに言った。
「どういう職業だと、お思いになられたんですか?」
「例えば、生物学者のような……。」
 カイは、やはり怪訝そうに尋ねた。
「今の日本の一般の人は、こういうことに関心がないのですか?」
 教授は、やや真剣な顔になって言った。
「ええ、そういうことは学者に任せています。そのための学者なんですから。」
 カイは、不思議そうに言った。
「この町では昔から誰でも、人が生きていくための全ての物事に対して関心を持ち、みな一所懸命それを勉強してますけど。そういうことを人任せにしていると、嘘を言われても、それを鵜呑みにしてしまうことになるので。その最もわかり易い例が、この進化論の問題なんですから。」
 教授は、やや感心したように言った。
「うーん、なるほど……。進化論を鵜呑みにしているがために、我々は間違ったことを信じていると?」
 そして、興味深そうに尋ねた。
「それじゃぁ、その誤解を与えている部分とは、進化論のどの部分なんですか?」
 カイは、教授に向かって真剣な表情で言った。
「そもそも、evolution という言葉を『進化』と訳したのは誤りですね。『発展』とか『展開』という意味なんですから。」
 教授は、意外そうに目を見張った。
「ほう。」
「それによって、新しい生き物がより優れた生き物のように解釈されているんです。
また、淘汰されて滅んでいく生き物が、なぜ淘汰されたのかということの真理が述べられていません。この辺が問題なんです。」
 教授は、興味深げに相槌を打った。
「ほう。」
 カイは、引き続き真剣な表情で話しを続けた。
「進化論は、生き物がこの世に現われた順番を明らかにしたという点では良いのですが、生き物として最も『進化』した種が人であるということが、問わずとも語られているのです。この考え方が多くの人々に、『人はこの世の中で最も優れた生き物である』という誤解を与えてしまっているんです。」
「それでは、人類より優れた生物がこの地球上に存在しているということなのですか?」
 それに対してカイは、やや厳しい表情になってこう言った。
「いいえ、違います。どんな生き物に対しても、『優れてる』だの『劣ってる』だのといった札を貼るということ自体が、そもそも間違ってるということなんです。
長澤さん、生き物によって、できることとできないことがあるのはご存知でしょう?」
「はあ……。」
 質問の意味を教授がわかっていない様子だったので、彼女はそれを説明した。
「例えば、燕(つばめ)の方が鶏(にわとり)よりも飛ぶのがずっと上手です。でもそれだからといって、燕の方がより優れた生き物だと言い切ることはできないでしょう?」
 教授は納得して言った。
「それはまあ、そうですね。地面の上を歩くのなら、鶏の方が燕よりもずっと上手なんだし。」
「ですから、飛ぶのが『上手だ』とか『下手だ』とか言うことはできても、生き物自体に対して『高等だ』とか『下等だ』とか、『劣っている』とか『優れている』というような判断を下すこと自体、そもそも誤っているのです。」
「はあ……。」
 教授がまだ完全に納得していない様子だったので、カイは更に説明した。
「生き物が『進化』するということ自体、そもそもつじつまが合っていないことなんです。もし、『進化』した生き物が優れていて、『進化』していない生き物が淘汰されるのなら、この星の上は『進化』した『高等』な生き物だけで埋め尽くされるということになってしまうでしょう? ところが、そんなことはありません。
この世は、苔やクラゲのような単純なつくりをした小さなものから、椰子や鯨のような複雑なつくりをした大きなものに至るまで、実に様々な生き物がそれぞれに与えられた方法により、『命の環』の中で生きています。
もしそこに新しい種の生き物が生まれたとするならば、それはそれまでの種に対する『進化』ではなくて、『命の環』に対する『適応化』なのです。」
 教授は、しぶしぶ納得したように言った。
「……まあ、理論としては矛盾していないですけどね……」
 カイは話しを続けた。
「生き物はそれぞれ形が違いますが、元はみな同じなんです。お日様の光を得たこの星の土と水と空気が、それぞれ組み合わせを変え、そこに宇宙にあるのと同じ命の源(みなもと)が吹き込まれて成長し、この世に現われてきたものなんです。
ですから、一億年前に生きていた生き物も今生きている生き物も、その時点の『命の環』においては全てが一番良い生き物なんです。」
 教授はしばらくのあいだ何かを考えていたが、やがて苦笑いするとこう言った。
「いやー、カイさん。生命誕生の頃の単細胞生物と現在の人類のような複雑な生物が、どちらも『一番良い』すなわち『同等である』とは認められませんよ。」
 するとカイは、やや残念そうに言った。
「それでは長澤さん、初めて生命が生まれた頃のこの星で、はたして私たち人間が生きていけるでしょうか? その逆も同じこと、その頃の生き物が今のこの星で生きていけるとお思いになりますか?」
 すると教授はしばらく考えてから、やや感心したように目を見張って言った。
「……ほう、そうですね。その頃の地球には、人間に必要な食物がまだありませんよね。そもそも大気の成分が今と大分に違っていただろうから、呼吸さえも満足にできないだろうし……。」
 カイは安心したように微笑んで言った。
「そうでしょう?
ですから、この世に生を得て生きている限り、全ての生き物が一番良いんです。そして生き物の違いとは、『命の環』からそれぞれに与えられている、光と土と水と空気そして魂の組み合わせの違いだけのことなんです。」
 教授は納得したように言った。
「なるほど。元素や分子の組み合わせの違いということであれば、少なくとも形状の違いについての説明は付きますね。」
「ですから、この世が先に進めばより優れた世になるという考え方は、文明世界の人が陥(おちい)り易い誤った考え方なのです。そのような誤解を文明世界に与えてしまったので、このような『進化論』には欠陥があるというわけなんです。」
 カイのその言葉を聞いた教授は腕組みをすると、しばらく考え込んでしまった。
「う~ん……」
 カイは、その教授に向かって更に話しを続けた。
「それに、『弱肉強食』などという中国の言葉を、近頃の日本の人はよく使うようですが、これも『命の環』に対する人間の偏った見方なのです。自然界を見ていると、確かに強い生き物が弱い生き物の肉を食べているように見えます。しかし、もしその『弱い生き物』がいなくなってしまえば、『強い生き物』も生きてゆくことができません。ですから、食べられる方は、食べる側を養っているんです。
あたしは、このような小さな生き物より強いから食べてるんではなくて、むしろこれらによって、あたしは養われてるんです。」
 カイはそう言うと、自分の目の前の砂の上を歩いている、カニやヤドカリなどを指差した。教授は腕組みをといて、自分の目の前のそれらの動きを眺めた。
 やがて、カイが教授に向かって優しく微笑んで尋ねた。
「おわかり頂けましたか、長澤さん?」
 しかし教授は、やや困惑した表情でこう言った。
「ええ……部分的には理解できますが、人間が最も高等な生き物ではないという点がどうもねぇ。」
 するとカイは、意を決したように立ち上がると、教授に向かってこう言った。
「それでは仕方ありません。これから、あるものを一つご覧に入れましょう。この方法が、あなたに通じるかどうかわかりませんが……。」
「え?」
 怪訝そうな顔をした教授に向かって、カイは穏やかに言った。
「すぐ戻りますから、ここで待ってて下さい。」
 焚き火の火を松明に移して椰子林の中に入って行ったカイは、何かを探しているようで、炎が右へ左へと動いている。
 やがて、教授のところに戻って来たカイは、松明を再び消すと、教授の方を向いて元の位置に座った。彼女は、手に持っていた何かを教授に渡しながら言った。
「長澤さん、この葉を食べて下さい。」
 それを受け取った教授は、焚き火の炎にそれを照らしながら臭いを嗅いでみて、カイに向かって怪訝そうに尋ねた。
「……良い香りがしますが、何ですか? この葉っぱ?」
 カイは微笑んで言った。
「あたしたちの言葉で、『夢の葉』と言います。日本には多分生えていないので、ご存じないと思います。毒ではないので、大丈夫ですよ、ほら。」
 彼女は、そう言って、自分が持っていたその葉を食べて見せた。
 それを見た教授も、やや不安げな表情でそれを口に入れ、しばらく噛んでから飲み込んだ。カイが穏やかな声で言った。
「こちらを向いて、軽く目を閉じて下さい。」
 教授がカイの方を向いて座り直し、目を閉じると、カイも教授の方を向いたまま静かに目を閉じた。彼女は、教授に向かって何かの思念(しねん)を送っているようだった。

 それはすぐ教授に伝わったようで、目を閉じている彼の表情は一瞬驚きになったが、すぐ夢を見るような穏やかな表情になっていった。
 そのままの状態で三分ほど経過したが、なんと教授の閉じられた両眼の目尻からは涙が流れ出て来たでないか。
 やがて、思念を送り終えたカイがそっと目を開けると、それに続いて目を開けた教授は、頬の涙を手の甲で拭った。それを見たカイは、優しく微笑んで言った。
「どうやら、わかって頂けたようですね。」
 教授は極めて真剣な表情になると、ややかすれた声でこう言った。
「……私が今まで数十年間掛けて学んできたこと、信じてきた価値観が今、新たな価値観に取って変わろうとしています……。生き物の本質、そして人類が最も優れた生き物であるという価値観が……。私たち生き物はみな、太陽と地球という父母のあいだに生まれた兄弟だったんだ……。」
 カイは穏やかに微笑んで言った。
「そのことをわかって頂けたようで何よりです。
確かに、人には宇宙に広がっていくという、他の生き物にはない力が備わっています。でもそれは、鳥が飛べるということと同じことで、それだけが特別優れていることではない、ということなんです。」
 また海の方を向いて座り直したカイは、ちょっと言いにくそうにして言葉を続けた。
「……それでは長澤さん。今のあなたになら、これからあたしが言うこともわかって頂けるでしょうか……。」
 教授は真剣な表情で言った。
「はい、多分。」
 カイは、教授の方にやや目を移して、こう言った。
「この世で最も淘汰される危険性の高い生き物は、どのような生き物だと思われますか?」
「環境に適応することができない生き物、生命力と繁殖力の弱い生き物といったところでしょうかね。」
「まだあるんです。」
 教授は困ったように言った。
「うーん、それ以上のことは、私にはわかりませんよ。」
「あたしたちからすれば、『適応化』の過程にある生き物こそ、この世で尤も淘汰される危険性の高い生き物なのです。
人がこの世に現われてからまだ日が浅いということは、長澤さんもご存知のことでしょう?」
「ええ、近年の発掘調査で、それが次第に明らかにされてきていますね。」
「ですから、人は生き物として、まだ『命の環』からちゃんと認められてはいないんです。」
 教授はやや目を丸くして声を上げた。
「え!?」
 その一方、カイは嬉しそうにこう言った。
「長澤さん、Coelacanth(シーラカンス)のことはご存知ですよね。」
 それを聞いた教授は、気を取り直して目を輝かせると、やはり嬉しそうに言った。
「ええ! あの報道には、心底(しんそこ)驚きましたよ!」
 カイも、引き続き嬉しそうに言った。
「あたしたちも驚きました。そして、そのことによってあたしたちは更に確信を深めたんです。お日様とこの星が新しい形の生き物をこの世につくるということは、生き物を進化させているのではなく、お日様とこの星の流れに生き物を適応させるための『試し』をしているんだということを。そして、その『試し』を見事に潜り抜けて『命の環』から認められた生き物だけが、この世で生きていくことができるということを……。
Coelacanth が五千万年以上前から、ほぼ形を変えずにこれたということは、それだけ『命の環』から認められているということになるんです。」
 教授は、やや感心したように言った。
「なるほど……。」
「ところで、生き物では同じ種でも少しずつ形を変えて生まれて来るということは、長澤さんもご存知でしょう?」
 教授は少し考えてから言った。
「……ええ。その極端な例が突然変異とか、奇形とかいった現象になるんでしょうか?」
「そうです。では、それがなぜ起こるのかをご存知ですか?」
 教授はまた少し考えてから、こう言った。
「……うーん、遺伝子の複写に失敗したからかな?」
 カイは真剣な表情で言った。
「いえ、あたしたちの考え方だと、そうではないんです。」
 教授は興味深そうに尋ねた。
「と、言いますと?」
「全ての生き物は、新しい世の中に適応していくための可能性を秘めているんです。それが、遺伝子の『ばらつき』なんです。」
 教授は目を見張って言った。
「ほう、ということは、突然変異や奇形といったものは、あらかじめ計画されて産まれて来るということなんですか?」
 カイは真剣な表情で言った。
「その通りです。元々それは自然界から仕組まれていることであって、みなこの世に必要だから生まれて来るのです。人の先祖も、恐らく最初はそのようにして猿から生まれて来たのだと思いますよ。」
 教授は納得したように言った。
「なるほど……。遺伝子を単に複写してるだけでは、進化、いや適応化できませんからね……。」
 教授は、また少し考えてからカイに向かって尋ねた。
「……うーん、私は今まで、障害を持って産まれて来た人のことを、可哀想(かわいそう)な人だと思ってましたが、実はそうじゃないということなんでしょうか?」
 カイはそれに答えた。
「文明世界の一般の人から見れば可哀想に見えるんでしょうが、そもそも、そのご本人がそう思っていないのに勝手にそう思い込むことは、その人に対して失礼なことだと思いますよ。」
 教授は納得したように言った。
「なるほど、そう言われてみるとその通りでしょうな。」
「あたしたちから見れば、その人は自然の仕組みによって、そのようなお役目を負わされているんです。必ず誰かがそれを負わなければならないんですから、足が速い人、泳ぎが達者な人、頭の回転が速い人などと、結局は同じことなんです。むしろ、そのような役目を負って頂いていることに、感謝するべきだと思います。」
「なるほどね……。本来は、色素が欠乏した変異として生まれて来た、白い蛇や白い虎などが崇められたりするのも、そういうことなんでしょうか?」
 カイは微笑んで言った。
「ええ、そうだと思いますよ。ですから、昔の人は、そのことをちゃんとわかっていたんだと思います。知恵遅れの人を神様の使いと言っていた時代もあったようですし。」
 教授は確認するように言った。
「それが現代では、そうではなくなってしまったと……?」
 カイは頷いて言った。
「そうなんです。現代では神が否定され、目に見える物だけが『優れている物』だと思われるようになってしまいました。ですから、体の不自由な人や知恵遅れの人が神様によってこの世に遣わされているという大事なことが忘れられ、ただ単に『劣っている人』だと思われるようになってしまったのです。
そのような考え方が、先ほども言いましたいわゆる『進化論』の元になっているんです。」
「なるほど……。」
「ですから、全ての生き物は形や性質を変えて模索しながら子や孫を残していき、命の環をつくっていく。そして、その中で適応できた生き物が次に伝えていく。そちらの考え方の方が『進化論』より真実に近いんです。」
「ということは、現段階の人類はまだ『試し』の延長線上にあると?」
 教授がやや不安げに尋ねると、カイは極めて真剣な表情になってこう言った。
「そうなんです。極端な言い方をすれば、類人猿が突然変異を続けながら試されているだけのことなんです。ですから私たちは、今の自分たちの行いが間違っていないのかどうかと疑いながら進んでいく必要があります。つまり、もっと謙虚(けんきょ)になければならないということですね。
ところが、『欲望の落とし穴』に落ちている人々にこのような話しをしても、多くの人は耳を傾けようとはしないでしょう。そのような奢り高ぶった人々は、やがて『命の環』から淘汰されて滅ぼされてしまうか、先ほども申したように母なる地球を痛めつけた末に『命の環』を滅ぼし、自(みずか)らも滅んでしまうのです。」
 教授は腕組みすると、考えながら言った。
「うーん……なるほど。
あなたのおっしゃる『命の環』の存在は先ほど確信しましたが、それではこう考えることはできませんかね。人類が地球の環境を変えてしまっているのも自然の流れであり、むしろそれに適応できない生き物の方が滅んでいくと。」
 カイは、心底呆れたように力を込めて言った。
あなたって、ほんと~~~に疑い深いんですね!!!
 教授は笑って言った。
「ハハハ! 仕方がありませんよ、科学者なんですから。疑いなくして科学なし!」
 カイは、子供に教え諭すようなゆっくりした口調でこう言った。
「それでは長澤さん……。今のこの星の気候に、草や木が適応しているからこそ、人は田畑で食物を得られていることは、おわかりになりますよ、ね?」
「ええ。」
「また、家畜の餌となっている植物も、全てその気候によって支えられていることも、おわかりになりますよ、ね?」
「ええ。当然でしょう。」
 カイは困ったように言った。
「それなら、地球の気候が急に変わってしまえば、どうなってしまうんでしょうか?」
 教授は少し考えてから、やや恥ずかしそうにこう言った。
「……ハハハ、そうですよね。植物が満足に生育できなくなると、人間も生きていけなくなる……。つまり、人類が地球の環境を変えていることを自然の流れと仮定すれば、それによって食料を失った人類が自滅することも、自然の流れになってしまうと……。」
 カイは、そら見たことかと言うような顔で言った。
「ほら、そうなんじゃありませんか!」
 教授は照れて言った。
「ハハハ、失敬失敬。」
 そして、やや気を取り直してこう言った。
「……それはよくわかりましたが、それでは、『欲望の落とし穴』から抜け出して『命の環』に復帰するためには、あなたが先ほどからおっしゃっているように、まず今の人間一人一人が考え方を変え、今の生き方を改めなければなりませんよね。……それはこの世の全ての人に、『お釈迦さんのようになれ』って言うようなもんだから、ほとんど不可能に近い……。」
 ここでカイは、教授の目を真っ直ぐに見てこう言った。
「いえ、その方法が、少なくとも一つはあるんです!」
 教授は目を見張って言った。
「ほう! それはどんな方法なんですか!?」
「世界の全ての人々が、この星の姿を見れたときです。」
 教授は、やや怪訝そうな表情になって言った。
「そんなことで、人間の無駄な所有欲が消えるのですか?」
 その一方、カイは嬉しそうに言った。
「そうなんです。例えば馬などの乗り物に乗ると、人はその乗り物も己(おのれ)の体の一部のように感じて大事にするようになりますよね?」
「馬のことはよくわかりませんが、自動車を運転する人はよくそう言っていますよ。車を運転すると、それが自分の体の一部のように思えてくるって。」
「そうでしょう? そのような感覚で、この星のことを想うのです。すると、人は自分が住んでいる星のことを、もっと大事にするようになるんです。」
 教授はまた苦笑いして言った。
「いやー、そう言われても地球は大き過ぎて、私にはピンと来ませんよ。」
 それに対してカイは、極めて真剣な表情でこう言った。
「それでは、このように例えてみましょうか。
『宝物を探すのだ』と言って互いに競い合い、自分たちが座っている一枚の大きな鉄の板のあちこちに、錐(きり)で穴を開けている人々がいたとします。ところが、その人々を気球に乗せて空に上げ、自分たちが今穴を開けている物が何なのかを見せたとします。するとその人々の目に映ったのは、大海原(おおうなばら)に浮かんでいる一隻の小さな鉄の舟でした。さて、その人々はその後どうすると思われますか?」
 教授は納得したようにいった。
「なるほど……。それがまともな人間たちなら、少なくともみんなで話し合って、その自殺行為をそれ以上続けることを、やめようとするでしょうね。」
 カイは微笑んで言った。
「そうでしょう? 人は、知恵によって失ったものを、知恵によって取り戻すことができるんです。他の動物たちに比べると、かなり遠回りをすることになりますが。」
 教授は考えながら言った。
「なるほど……。
他の動物たちには元々感覚として備わっているものが、人間はその知能が災いして見えなくなってしまっている……。
しかし、今後の科学技術の発展によって、人類一人一人が地球そのものを、自分の目で見て把握(はあく)することができるようになれば……、地球が自分の命を支えている物だとか、自分の体の一部のように思えてきて、その感覚を取り戻すことができる、と……。」
 カイは嬉しそうに言った。
「そうなんです! 宇宙からこの星を眺めれば、それがちゃんとできるようになるんです。
宗教的体験によってそれを得た人は、今まで世界に何人かおられたようですが、この星の全体像を目の当たりにすれば、結局それと似たようなことを得ることもできるんです。
それによって人は己(おのれ)の本質を知り、それまで脳が勝手に描いていた果てしない欲望や恐怖心が、実は幻であったことに気付きます。そして、今まで自分は、地球即ち己(おのれ)を傷め付け、兄弟たちに対して無益な戦いを挑んでいたのだ、ということを悟るのです。
その結果、脳が魂と直結した人は、自分が生きていくために必要な物を得れば、それで満足することができるようになり、無駄な競争心や敵愾心が消えてなくなります。そのとき初めて人は、『命の環』の『試し』から抜け出せて、この星の生き物として本当に認められるんだと思います。」
 教授は感慨深げに言った。
「うーん、なるほど……。今のお話しは、科学というよりもむしろ、哲学か宗教に近いですね。」
 カイは、また笑顔で言った。
「ええ。あたしたちの見方からすると、そういったものは別々のものではなくて、元は同じことを説明してるんです。ただ、科学は形のある部分のことを理屈で説明しようとしています。哲学は、形のない部分のことを理屈で説明しようとしている。そして宗教は、普通の人には形として捉えることも理屈で考えることもできない部分のことを、神様という仮の形によって認めているだけのことなんです。
ですから、そのどれか一つだけ学んでいるだけでは、不完全になってしまうんです。」
「なるほど。」
「その宗教というもので一番大事なのが、その神様についての説明です。多くの宗教では、それが『この世』をつくったということになってますよね。」
 長澤教授はそれに同意した。
「そのようですね。」
「つまり、神様が『この世』の上に立っておられるということです。」
「そうなりますね。」
「もし、強いて『神様』という言葉を用いるとすれば、あたしたちにとっての『神様』とは、『この世』をおつくりになられたのではなくて、『この世』からつくり出されたことになるんですよ。」
「それでは、『この世』は特定の創造主を持たないで、自然に発生したということですね?」
「そうなんですけれども、むしろ、『この世』自身が『この世』をつくり始めて、それが今も尚続いていると言った方が当を得た言い方なのかも知れません。」
 教授は興味深げに尋ねた。
「そんなことが可能なんですか? 陶芸家がいるから焼き物がある。つくり手がいなければ物は生まれ得ないと私は思いますが。」
「ええ、それは長澤さんのおっしゃる通りです。陶芸家と焼き物の関係は、つくる側とつくられる側の関係になりますから。
では長澤さん、ここで一つ想い浮かべてみて下さい……。」
 カイはそう言うと、自分の目の前の炎を指し示してこう言った。
「……真っ暗闇の中、誰かの手によって炎がともされたとします。誰がともしたのかはわかりません。宗教では、その誰かのことを『神様』と呼び、その炎のことを『この世』と呼んでいます。そして、『神様』とは誰なのかということについて、互いに争っています。これが宗教の教団同士の対立なのです。このような宗教での『神様』と『この世』との関係は、先ほど長澤さんのおっしゃった関係と同じことです。」
「なるほど……。『神様』が陶芸家で、『この世』がその作品であると……。
それなら、陶芸家が自分の作品に対して所有権を主張すのと同じように、どの教団も、それぞれが『この世』の所有権を主張し合っている。それが教団同士の争いである……と。」
「そうなんです。そこで、あたしたちの先祖は、それらとの対立を避けるために、あることを思い付きました。それが、炎をともしたその誰かも、それを包んでいる闇も、全て『この世』の中に入れてしまうということなんです。」
 教授は、納得したように微笑んで言った。
「なるほど、これはわかり易い。そうしてしまえば、もはや『この世』をつくったのが誰なのかということは、さして重要な問題ではなくなる。」
「そうなんです。現在ある宗教の神様全ては、人の意識の中で存在しているんです。このような人々の意識を含めたこの世の全ての物事(ものごと)が、あたしたちにとっての『この世』であるのです。」
「ということは、各宗教で述べられている『この世』と、あなた方が考えておられる『この世』は、その範囲がほんの少し違うということですね。」
「その通りです。ですから、あたしたちは全ての宗教と、そこで信仰されている神々の存在を認めることができるのです。しかも、その上に特定の名前が付いた『神様』を立てることがないので、それらと対立することもありません。」
 教授は、再び興味深げに尋ねた。
「それでは、あなたたちの信仰には、特定の『神様』がいないということなんですか?」
 カイはきっぱりと言った。
「いいえ。私たちは日頃の会話の中で、『神様』という言葉を使っています。ですから、その存在はちゃんと認めているのです。但し、それは文明世界で言われている『神様』とは、かなり違っています。
先ほども少し申したように、『この世』によってつくり出された『定め』のこと、即ち『宇宙の原理』とか『宇宙の神霊』、あるいは『自然の流れ』のことになります。例えば引力の法則や、生き物は呼吸しなければ生きてはいけないといったような。それをおつくりになったのが、あたしたちにとっての『神様』なのです。」
「ということは、『この世』が『神様』になるんですか?」
「ええ、自分で自分をつくってるんですからね。」
 教授は少し考えてから言った。
「……うーん、そうかー……。そうすると、それらは最初から厳然と存在していたのではなかった、ということなんですか?」
 カイは、首を横に振って言った。
「いいえ。あることはありましたが、それは『この世』ができあがっていくに従がって徐々に変わってきて、今現在の『宇宙の法則』、『自然の流れ』になったのです。宇宙の始まりから生き物が、今のような方法で呼吸していたとは限りませんからね。」
「ということは、これからも変わっていく可能性が、充分にあるということなんですね?」
「その通りです。それは『この世』からの影響を受けはしますが、この世に対して絶対的な力を持っているんです。
例えば、人々が憎しみ合っていると、お互いの『相手を殺してしまいたい』というような思いが、神様の力によって世界中の人々に伝わり、本当にそのような恐ろしい世の中になってしまうんです。そして、そういう人たちは戦争を引き起こして、自ら滅んで行ってしまうんです。それも、神様の力なんです。」
 平易(へいい)な言葉ではあるが極めて深い内容のことが、文明とは大よそ無縁な生活をしている少女の口から次々と発せられるので、教授はなかば尊敬しなかば呆れて尋ねた。
「カイさん。さっきからずっと気になってることを、一つお尋ねしてもいいですか?」
 カイは、やや真剣な顔になって答えた。
「ええ、どうぞ。」
「あなた、そのようなことを一体どこで学ばれたのです?」
 カイは、やや微笑むと言った。
「この島の塾でです。あとは自分が今までに見た夢で知りました。」
「塾の講師は、どなたなんですか?」
「この島の者です。何も特別な人ではありませんよ。」
「その講師の方は、どこの大学で勉強されたのですか?」
「いえ、大学には行っていません。若い頃はあたしと同じように、この島の塾で勉強しただけです。その後大人になってから Australia (オーストラリア)に渡り、そこから更に London(ロンドン)に行った彼は、毎日図書館に通って本を読みあさったんだそうです。」
「たったそれだけのことで、このようなことがわかってしまうなんて……。」
 大学教授からそのように感心されたので、カイはやや照れながら言った。
「いえいえ、あたしの知識は、ちゃんと学校を出た人に較べると、自分の興味あることだけに偏ってるんで、まだまだ勉強不足だと思ってます。」
 教授は、感心した表情を緩めずにこう言った。
「いや、その興味の対象が実に広範囲で、しかもそれぞれが互いに関連し合い、一貫した方向性を持っている。」
 カイは、やはり照れたままでこう言った。
「広いかも知れませんけど、浅いんです。」
 教授は、なかば羨ましそうな表情になって言った。
「どのようにしたら、そのような向学心(こうがくしん)が生まれるのか教えて貰えませんか? うちの学生たちにも、それを参考にさせてやりたいんで。」
 カイは、少し考えてから言った。
「……難しいことは何もしてませんけど……。そうですね……、まず自分の妹弟たちとか子供たちだけではなく、もっとずっと後に生まれて来る子供たち……。その子たちが果たして、この星で幸せに生きていくことができるんだろうかって、考えてみることでしょうかね。
そうすると、今の世の中、何かが間違ってるんじゃないかって思えてきて、その間違いを正すにはどうしたらいいかって考えるようになります。すると、それに必要なことを学ばずにはいられなくなってきますから。」
「自分や家族の幸せだけではなく、もっと未来の人たちの幸せも考えるということですね?」
「そうです。」
「なるほど、わかりました……」
 そして教授は、やや真剣な表情になって言った。
「しかし、そのような発想に至るまでには、ただ知識を得るだけでも駄目でしょう、それ相応の感性がなければ……。あなたのような感性は、どうしたら身に付けられるのですか?」
「そうですね……、これも特別なことは何もしてませんけど……
例えば、砂糖がたくさん入った菓子を与えてやることが、子供たちの幸せになると思い込んでる人。そんな人が文明世界には多いんでしょうけど、この島にそのような食べ物は一切ありません。噛まなくてもよい甘い食べ物ばかり食べ、便利な物に囲まれて生きていると、人は自分が生き物であることを忘れてしまい、物事の一番大事な筋道が見えなくなってしまうんです。あたしたちは、そのような不幸なことを子供たちに与えないよう、絶えず気を付けているというようなことでしょうか。」
 教授は、ちょっとわけがわからなくなったので、困ったようにやや眉を寄せて言った。
「カイさん、先ほどからお話ししていて、よくわからなくなることが、もう一つあります。
あなたは、人類が生み出した文明を批判しているかと思えば、宇宙にとって必要な物のようにおっしゃる。でも、よくよく聞いてみれば、やはりその根底では批判しているように聞こえる。一体どちらなのですか?」
 カイは微笑んで言った。
「今のあなたたちの文明から、ある程度の距離を置いて、それを冷ややかに眺めるということが、あたしたちに与えられている仕事なんです。例えば football(サッカー)の試合でも審判が必要でしょう? その審判が選手や観客と共に熱くなってしまっては、仕事になりませんからね。」
 教授は怪訝そうに訊ねた。
「私もこの文明に対して批判的になることはなりましたが、なぜ『審判』が要るのですか?」
 カイは真剣な表情になって、その問いに答えた。
「そのわけは、長澤さん。もし、この文明が、この星の『命の環』を壊してしまったらどうするんです? それこそ、この星を滅ぼすための文明になってしまうではありませんか。そのようなものは、ない方がましです。」
 教授は、やや納得したように言った。
「なるほど……そうか……。」
「そうなんです。新しい物がより優れた物、新しい世の中がより優れた世の中だと、私たちはつい思ってしまいます。確かにそうなのかも知れません。でも、それに何の疑いも抱かなくなって自分たちの行いが正しいと信じ込むとき、その人の間違いが始まるのです。
『自分がこれからしようとしていることによって、困る人がいないだろうか?』
私たちは絶えず心のどこかで、このような謙虚な気持ちを持っていなければなりません。」
 彼女はそう言うと、星空と黒い海と目の前の白い砂をそれぞれ指差しながらこう言った。
「この空と水と土によって……」
 そして彼女は、教授に向かってこう言った。
「……この星がこれらによって一つに繋がっている限り、誰かが何かすれば、それはこの星の全ての人に、多かれ少なかれ良くも悪くも降り掛かるのですから。
そのためあたしたちは、もちろん自分たち自身の行いも監視しつつ、一旦道を外れてしまった今の文明世界の人々が、自然の流れに沿った道にちゃんと戻るまで、この文明に対しては常に警戒を緩めないでいるのです。それが、あたしたちの役目なんです。」
 教授は納得して言った。
「……なるほど、わかりました。」
 カイは立ち上がって服に付いた砂を払いながら、教授に向かって淡々とこう言った。
「ここでの説明は終わりました。お付き合いさせて済みません。さ、帰りましょう。」
 せっかく彼女と二人きりで、このロマンチックな場所にいるのに、ここから去るのは残念な教授であったが、カイの家の自分の器の中に飲み掛けの焼酎が入っていることを思い出したので、彼は立ち上がりながら、あっさりと、しかも誠心誠意を込めてこう言った。
「はい、わかりました。
私が今まで知らなかった世界を教えて下さって、どうも有難うございました。」
 長澤教授には、「自分が一度口を付けた酒は残さずに飲む」という信条があった。そのような酒は、特に出先では必ず捨てられることになるので、その酒に対して申し訳ないという一種の信仰のようなものだ。それはこのような状況においても優先されることなので、一般的な男性からは「バカ」と言われることもあるが、それでも教授はそれを曲げようとはしなかった。
 それぞれの松明に焚き火の火を移した二人は、焚き火に砂を掛けて消すと、元来た道を引き返した。
 教授は歩きながら、やはり先ほどからずっと気になっていたことを、横に並んで歩いているカイに向かって尋ねた。
「カイさん、それではもう一つお尋ねしますが、あなた方に伝わる物語が日本に伝えられ、その後文明世界に向けて発信されるようになるときとは、一体いつなのですか?」
 カイは歩きながら、その問いに答えた。
「それは今のところ、まだはっきりとわかってはいません。
わかっていることは、あたしたちを本当に必要とするまでは、あたしたちにお呼びは掛からない。さかさまに言えば、あたしたちが本当に必要になるまでは、文明世界の人はあたしたちのことを、知ることができないということですね。」
 しばらく考えていた教授は、慎重に考えながらこう言った。
「……ということは、ですよ……。もし私が帰国して、この町のことを日本で発表しようとしても……、その時期が早ければ……できないということになるんですか?」
 カイは若い娘らしく、悪戯っぽい表情で言った。
「フフフ、その通りです。無理にそれをしようとすれば、必ずどこからか邪魔が入りますよ。」
 それに対して教授は立ち止まると、困惑した顔で訴えた。
「いやー、それでは困りますよ。研究の成果を発表しなければ、私たちは今回の任務を果たすことができないんですから。」
 カイも立ち止まってこう言った。
「お困りになられることはありません。」
 そして彼女は微笑むと、また歩き出した。それにつられて教授が歩き出したので、カイはまた彼と並んで歩きながら話しを続けた。
「……ここは昔、その南洋日本人町とやらだったんでしょうが、今はもう違います。
豊臣から徳川の時代に掛けて、シャガという女性が治めていた『瓶ヶ島』と呼ばれる町が、どこか知らない場所にあったのだ、ということを発表なさるだけでも充分じゃないですか。」
 教授は、困った表情をやや緩めてこう言った。
「その程度のことは公表しても問題ないのですか?」
 カイは軽く頷いて言った。
「はい、多分大丈夫でしょう。今とこれからのあたしたちには関わらないことですから。」
 その言葉を聞いた教授は、やや安心したようにこう言った。
「そうですか、それならまあ良かった。日本人が昔からこの南方にも住んでいたということを明らかにさせることが、今回の政府の目的なのですから、そのような発表だけでも満足することでしょう……」
 ここまで言った教授は、何かを思い付いたようで、やや意味ありげにこう続けた。
「……まあ、もし今あなた方のことを発表したなら、日本は大騒ぎになるし、あなた方も大変なことになるでしょうからね。」
 カイは、興味深げに教授の顔を覗き込んで尋ねた。
「え!? 大変て、どんなことになるんですか?」
 教授は無精髭(ぶしょうひげ)の生えた顎(あご)を片手で撫(な)でながら、何かを想像するようにして上を見上げた。黒い椰子の葉のあいだから、満天の星空が見える。立ち止まり、それをしばらく眺めながら考え込んでいた教授だが、やがて、やはり同じように立ち止まったカイに向かってこう言った。
「……まず真っ先に新聞が騒ぐ。『文禄時代の日本人の子孫、南太平洋にて発見さるる』とか、『謎の邦人南太平洋の孤島にて発見』とかいう、大袈裟(おおげさ)な見出しを付けてね。
お次は放送局だ。あなたは丸い送話器というものの前に座らされ、『日本国民の一員となれて幸いです。』とか、『今後は喜んでお国のために尽くします。』といった台本を、心にもなく読まされる。
放送の次は雑誌だ。『孤島の日本人町長は美少女だった!』とか、『南海の美少女町長独占取材!』とか、いかにも人の興味をそそるような見出しでね。
それらが一段落すると今度は胡散(うさん)臭い奴が現れて、あなたに金儲けの話しを持ち掛ける。『簡単な歌と踊りを覚えて全国津々浦々(つつうらうら)を巡業しませんか。儲かりますよ。儲けは山分けにしましょう。』とかなんとか言ってね。そして巡業が終わってみれば、あなたに儲けのほんのごく一部しか渡さず、そいつは大金を持ってどこかへトンズラしてしまう……。
許さーん! そんなこと断じて許さーーん!!」
 勝手に想像して一人で憤慨している教授のことを呆気に取られて見ていたカイは、心配して尋ねた。
「あのー、大丈夫ですか? 長澤さん。」
 その声でハッと我に返った教授は、顔を赤らめてこう言った。
「あ、これは失敬。あれこれと想像してたら、ついつい腹が立ってきて……。」
 そして彼は、照れを隠すようにしてまた歩き出した。
 やはり歩き出したカイは、その彼に向かって遠慮がちに尋ねた。
「シンブンとは newspaper のことでしょうか? ザッシというのは何のことだか、あたしにはわかりませんけど、今の日本はどうやら、随分騒々しい国になっているようですね。」
 教授は当を得たりというように言った。
「騒々しいの何のって! まあ、あなたを始めとするこの島の人にとって、あまり住み心地の良い国とは言えないかも知れない。そういう点からしても、ここのことを今は発表しない方が妥当(だとう)でしょうな。」
 そうこうしているうちに、二人はカイの家の母屋の前に来ていた。その階段を登りながら、教授は並んで登っているカイに向かって話しを続けていた。
「……そうそう。ここの住民が日本人だけとわかれば、政府はこの島の領有を主張して、税の徴収のための役人やら治安維持のための憲兵やらを派遣してくるかも知れませんよ。」
「ケンペイ?」
 それもカイの知らない単語のようだったので、今度は彼女にわかるように教授は説明しようとした。
「……『おかっぴき』は、もっと後の時代の呼び名だし……、カイさん、この島では悪いことをした人を捕まえる人のことを何と言うのですか?」
 カイの両親は食事を済ませたようで、明かりがともされている先ほどの大広間にはもういなかった。そこに入りながら、カイはこう言った。
「この島では、そのような人を捕まえる特別な人はいません。見付けた者がその場で捕まえるか、このあたしに知らせることになっています。でも、この町では誰もが顔見知りなので、悪いことをしても、誰がしたのかすぐにわかってしまいます。それに罰がとても厳しいので、そのような危険を冒してまで悪いことをする人はほとんどいませんけど。」
 その後に続いて大広間入って来た教授は、頭を掻いて苦笑いしながら言った。
「おや、これは失敬! 今の日本の都会では悪いことをする人が結構いるんです。そのため、そういう人をやっつけるための武器……わかりますよね……それを持った特別な人も必要なんです。それを憲兵と呼んでいるんですよ。」
 カイが手で座るように勧めたので、教授は先ほどの自分の席に座りながらこう言った。
「……そうそう。白紙(しろがみ)、赤紙(あかがみ)といって、兵器工場で働かされたり兵隊に取られたりするための令状も来る。」
 カイも自分の席に座りながら、怪訝そうな表情で言った。
「この町には既に防衛のための兵隊がいるので、あたしたちにはケンペイもそのような紙も要らないと思いますが……。」
 焼酎を一口飲んだ教授は、手を振ってそれを否定した。
「……いやいや、町の民兵のことではありません。国の兵隊のことですよ。日本国民男子は満二十歳になればみな兵役(へいえき)検査を受けて、それで問題がなければ、やがてその赤紙が来るんです。それが来たら必ず兵隊にならなければならないんですから。」
 カイは、ちょっと困ったような表情になって言った。
「日本の兵隊に取られるということは、もしかして、ABCDを敵に回して戦っている、この戦(いくさ)に馳(は)せ参じるということなんですか?」
 教授は、さも意外だというように言った。
「ほう、よくそのことをご存知ですね。」
 カイの言う「ABCD」とは、United States of America(アメリカ)、Great Britain(イギリス)、China(中国)、Duch(オランダ)という四ヶ国の国名の頭文字を取ったものだ。そのカイは、事もなげにこう言った。
「ええ、その程度のことなら。あたしたちは世界のあちこちに人を遣(つか)わし世の中の動きを探らせているので、徳川が大政奉還したことも、日清日露の戦で日本が勝ったことも、真珠湾攻撃による開戦のありさまも一応知っていますよ。」
 ここが南海の孤島だということもあるが、文明世界との交流を断ってしまってからというもの、時代から置き去りにされている場所だと、たかをくくっていた教授は目を丸くして驚いた。
「えーっ!? そんなことまで知ってるんですか!?」
 カイは微笑んで言った。
「『そんなこと』と言われても……。あたしたちは昔から、自分たちの身を守るために、それ相応のことをしているだけなんですから。十年ほど前にも、日本に何人か行って帰って来たところですよ。」
 教授は再び驚いて言った。
「え? ここから日本にまで行って来たんですか? ……一体どうやって?」
 カイはまた微笑むと、また事もなげに言った。
「あたしたちが普段乗ってる舟でです。」
 この島の舟とは、カヌーを少し大きくしたような帆掛け舟のことだ。もちろんエンジンなど付いていない。教授は一段と目を見張って言った。
え!? あの舟で!?
 カイは相変わらず微笑んで言った。
「ええ、そうですよ。このあたりの島では、別に珍しいことじゃありませんよ。」
 そのような舟で大航海をする技術を、この近辺の島々に住んでいる人々が身に着けているということを、民俗学者の早川教授から以前聞いたことを思い出した長澤教授は、やや落ち着きを取り戻してこう言った。
「……なるほど。それじゃ、行って帰るのに何年も掛かったんでしょうね。」
「いえ、一年も掛かりませんでしたよ。昼はお日様を、夜は星を頼りにして、風があれば帆を使い、なければ櫂を使って手で漕ぎます。もちろん途中にある島に寄って水や食べ物などを得ます。
この近くの島の人々は、大昔からこうして海を遥々と渡っていました。あたしたちも、その方法を教わって、それを身に付けているだけのことなんですから。」
 教授は感心して言った。
「うーん、それは素晴らしい!」
 しかし、すぐに不安げな表情になってこう言った。
「……でも、嵐に遭ったら大変ですね。」
 カイは真剣な表情で言った。
「そうです。だから、そうならないために、空に嵐の兆(きざ)しが少しでも見えたなら、すぐに近くの島に上がって、それを遣り過ごすことにしてるんです。」
 教授は、また感心したようにこう言った。
「なるほど。あなたたちになら、私たちには見えないような兆しも見えるのかも知れませんね。」
「ええ、まあそうですね。鳥や獣たちは、嵐が来る前になると、申し合わせたようにみな安全なところに身を隠すでしょう? それと同じようなことですよ。文明世界の人が機械を使って予報してるようなことを、あたしたちは人力でしてるだけのことですから。」
 彼女は屈託のない笑顔でそう言ったが、教授は再び感心したように言った。
「うーん、そのような能力は、どのようにしたら得ることができるんですか?」
 カイは、また真剣な表情になってこう言った。
「それは、わざわざ得るようなものではありません。誰にでも多かれ少なかれ元から備わってるものなんです。長澤さん、あなたにもちゃんとあると思いますよ。」
 教授は目を丸くして言った。
「へー! そうなんですか?」
 カイは、にこやかな表情に戻って言った。
「そうです。ただ、文明世界の人の多くは物に頼り過ぎてしまってるんで、そのような力が衰えてるだけだと思います。」
 焼酎を飲んだ教授は、興味深そうにこう言った。
「……さっきの魔女狩りの話しじゃありませんけど、文明生活してる人は、人間が本来持っている能力が退化してしまってるというような?」
「ええ。退化してしまった力もあると思いますが、物に頼りさえしなければ、それまで眠っていたものが目を覚ますというような力もあると思います。」
「では、天気を予知するといったことは、そのようにすれば私にでもできるんですか?」
「ええ、何度も練習すればきっと。」
 教授は、両肩をぐるぐるっと回しながら嬉しそうに言った。
「よし! 早速明日からやってみるぞー!」
 カイも微笑んで言った。
「頑張って下さい。」
 教授は、突然何かを思い出したようにこう言った。
「……そうそう!
ところでカイさん、ラジオというものをご存知ですか? これがあれば居ながらにして遠くの国の出来事を知ることができるんで、わざわざ危険を冒してそこまで行く必要もなくなると思いますよ。」
 カイは、やや真剣な表情になって言った。
「radio のことですね。ええ、それは知っていますけど、あたしたちは、そのような機械も、なるべく持たないようにしてるんです。」
 教授は、さも意外だというように尋ねた。
「ほう、なぜですか?」
「そのような物は、誰か一人が持つとみんなが欲しがります。そして、新しいのが出ると古いのを捨てて買い替えます。やがて人々は、そのようなことで優劣を競い合うようになり、それまで助け合って仲良く暮らしていた者のあいだに不和が生まれます。
また、それを得るためのお金も要るようになり、若者は都会に出稼ぎに出なければならなくなってしまいます。そのようにして壊れていった村が、この近辺の島々にはたくさんありますので。」
 教授は、やや納得することはしたが、やや残念そうな複雑な表情になって、こう言った。
「そうですか……。そう言われてみると、私の子供の頃は、お金なんてあまり必要なかったんですけどね。ラジオもそうですが、近頃は便利な物がいろいろと増えたんで、それを買うようになってからは、何かにつけてあれやこれやと、お金が要るようになってしまった。
だから今の日本では、そのお金を得るために、地方の人が都会に出稼ぎに行ってしまうので、農村や漁村の働き手がなくなり、どんどんそっちが寂(さび)れてるんです。」
 カイは、気の毒そうな表情になって言った。
「そうでしょう。それに、地方が寂れるだけではありません。そのようにして次々に人が流れ込むと、都市には仕事が増え、それを求めてまた人がどっと流れ込む……。そうして急に人が増えると都市には逆に仕事がなくなり、貧しい人たちが増えていくのです。」
 教授は納得したように言った。
「なるほど、いわゆる貧民街ですな。」
「そうです。たとえ貧しくとも、故郷で暮らしていた方が、まだずっと楽しく生きていくことができたはずなのに……。」
「その通りでしょうな。」
 カイは、ここで急に真剣な表情になると、こう言った。
「ところで長澤さん、radio には、もう一つ大きな問題があるんです。」
 教授は目を見張って言った。
「ほう、それはなんですか?」
「近頃日本の radio で流している言葉は、真(まこと)だけとは限りませんよね。日本の radio では、『ずっと戦に勝ち続けてる』と言っているそうですが、近頃 Hawaii(ハワイ)から帰った者は、『戦の始めの頃に比べて近頃の日本の戦いぶりは良くない』と言ってました。あたしは、自分の仲間の言葉の方を信じますので。」
 教授は、顔を赤らめてこう言った。
「いやー、恐れ入りました! 一般の日本国民でさえ知らぬことまでご存知とは! あなたのおっしゃる通りです。大本営(だいほんえい)発表によると日本軍は連戦連勝のはずなんですが、現地の情報によると、日毎に日本に不利な戦況になってきている。大本営は勝ったことは堂々と報じてますが、負け戦を『転進』などと称し、国民に対してどうも嘘の情報を流しているようなんです。」
 カイは、引き続き真剣な表情で尋ねた。
「この町には大昔から、『嘘は泥棒の始まり』という諺(ことわざ)がありますが、今の日本には、それがなくなってしまってるんですか?」
 教授は、またもや恥ずかしそうにして言った。
「いえいえ、ちゃんとありますよ。だから日本は他の民族から土地や金品を奪い、炭鉱や工場で働く労働者をさらって来て、その諺どおりのことをしてるんでしょう。全く恥ずかしい限りですが。」
 カイは呆れたように言った。
「それでは今の日本は、話しに聞いている三百五十年前の豊臣の時代から少しも変わっていないということなんですね。」
 教授は頭を掻いて言った。
「ええ、おっしゃる通りだと思います。確かに物はたくさん増えました。服装もご覧の通り変わりました。でも、頭の中身はあまり変わってないんじゃないかなって思いますよ。」
 カイは涙を浮かべて言った。
「可哀想な人たち……。やられる方はもちろん、やる方も……。そんなことをしなければ、この世をもっと楽しく生きられただろうに……。」
 そして彼女は袖口で涙を拭うと、何かを決意したようにしてからこう言った。
「……長澤さん。言おうか言うまいか迷っていましたが、この際はっきりと申しておきます。日本はこの戦争を一刻も早く和睦(わぼく)させて、終わらせた方がいいですよ。」
 教授は、やや困った顔になってこう言った。
「私の如(ごと)き一介(いっかい)の学者に、そのようなことを言われても……でも、なぜなんですか?」
 彼女は極めて真剣な表情になると、このように言った。
「……この戦争によって、日本の大きな都市のほとんどが焼き尽くされるからです。」
 それを聞くなり、教授は目を丸くすると思わず大きな声で聞き返した。
え!?
 しかしカイは、彼が驚くことを予想していたようで、それには動じずに話しを続けた。
「先ほども少し申しましたが、先代の町長やあたしの夢の中に、日本の大きな街の焼け野原のありさまが、いくつも現われたんです。」
 教授は、信じられないというような表情で言った。
「例えば、東京とか大阪とか……?」
「そうです。名古屋も静岡も……広島も長崎も……。」
 教授は、ちょっと目を伏せるとこう言った。
「……カイさん、」
 カイは、引き続き真剣な表情でそれに応えた。
「はい。」
 教授は真剣な眼差しを上げてこう言った。
「先ほどまでの、あなたの言葉を私はずっと信じてきましたが……」
 そして、やや毅然とした口調でこう言った。
「申し訳ありませんけど、それだけは信じるわけにはいきませんね。」
 カイは悲しそうに言った。
「そうでしょう……。今の日本の方にこれをお知らせしても、みなさん同じように、そうおっしゃることと思います。『自分の国は強いんだ』とか、『我が国は他国よりも優れているんだ』という傲慢な思い込みがあるがゆえに、勝てるはずのない相手に対して無謀な戦を仕掛けたのですから。」
 教授は、やや困ったように言った。
「うーん、その理屈の筋だけは通っていますけどね……。」
 カイは、深刻な表情になって言った。
「その昔、蒙古が日本を攻めたことがありますよね。」
 教授は頷いて言った。
「ええ。いわゆる『元寇(げんこう)』ですね。」
「そうです。このときは、蒙古の側にこの傲慢さがありました。そのため蒙古は自然の流れ、即ち天の気に逆らってまでして日本を攻めた。だから日本はこれを打ち破ることができたんです。」
「そうですね。いわゆる『神風(かみかぜ)』が吹きましたしね?」
「そうです。ところがこのたびの戦では、傲慢さは日本の側にあるんです。ですから『神風』はもちろん吹かないでしょうし、日本が自然の流れに逆らっているので、ゆくゆくは連合国側が勝つことになるんです。」
 教授は唸って言った。
「うーん、その理屈も一応筋が通ってるなぁ……。」
「それでもまだ信じられませんか?」
 カイの憂いに満ちた眼差しを受けて、教授はしばらく何かを考えていたが、やがて決意したようにこう言った。
「……私はたった今、わかりました。あなたが私たちに何かを求めていたのではなく、実のところ私の方こそ心のどこかで、あなたたちに何かを求めていたのだということを。
そして私は、今自分が何をすべきなのか、はっきりとわかりましたよ……。
今宵はご馳走になり、貴重なお話しを聞かせて頂いてどうもありがとうございました。私は、これにて失礼させて頂きます。」
 教授が急に立ち上がったので、カイも立ち上がって言った。
「おや、また急なんですね……。それでは、またいつでもいらして下さいね。」
 教授が帰る気配を感じたのか、玄関では母親のヤスエが教授のランプに火をともしているところだった。
 教授はそれを受け取って礼を述べた。
「どうもありがとうございます。今宵はご馳走様でした。」
 カイとその両親は、玄関を出て階段を降りたところまで教授を見送り、それぞれが会釈して言った。
「おやすみなさい。」
 ランプを手に提げた教授は、それに答えた。
「ありがとうございました。おやすみなさい。」
 教授は来た道を逆にたどって帰って行った。
 集会所に着いた彼は裏手に回ると、なぜかすぐ部屋には上がらずに、しばらく建物の下からその中の様子を窺っていた。ゆらゆらと揺れている窓の明かりの前を、ガタンガタンという床の音をさせて一度誰かの影が横切ったが、みなそれぞれ昼間調査したことなどの整理をしているらしく、それはすぐ静かになった。
 それを確認した長澤教授は、そっと正面に回って階段を上ると、出入り口脇の机の上に置かれている、無線装置のそばで立ち止まった。そして、そのうちの送信機に掛けられている布の覆いをはずすと、ランプの光で照らしながら、その上蓋(うわぶた)を外しにかかった。

 翌朝、隊員四人揃って食事を済ませ、少し休憩してから、長澤教授は早川教授を誘って、山の中腹にある遺跡の調査に出掛けた。
 麦藁帽をかぶった二人は、木漏れ陽の降りそそぐ椰子林の中を、山の方に向かって川沿いに進んで行った。
 長澤教授は歩きながら、横を歩いている早川教授に向かって言った。
「……町長の話しによると、どうもインド系の遺跡のようなんですよ。そっちは私の専門外ですのでね……。」
 やがて、山の登り口の石段にたどり着くと、その両脇にある石像を見た早川教授は、納得したような独り言を言った。
「なるほど、これか……。」
 彼は長澤教授に向かってこう言った。
「これは、あなたがおっしゃった通り、いずれもインドの神話に出て来る神の像ですね。」
 それから二人は、両側に熱帯雨林を見ながらその石段を登り、陽当たりの良い人造の湖の縁(ふち)に出た。そして、そこに設けられている古い石畳の道を東へ進むと、やがて湖の端にたどり着いた。そこに安置されている、七つの頭を持つ蛇の石像を見た早川教授は、このように言った。
「……ああ、この像もやはりインドの神を題材にしていますね。この長い胴体を持って神々が綱引きしたという……。」
神殿  やがて神殿の前に来た二人は、その階段を上って回廊に上がり、入り口から建物の中に入ってみた。その中は薄暗く、その中央には、円形の石の台に乗った高さ一メートルほどの黒い石柱があるだけだ。それを指差して早川教授が言った。
「……三大神の一つである破壊と創造の神の象徴であり、陰と陽の象徴でもありますね、これは。人に似た形で表わされる場合もありますが……。この神殿はこの神を祀っているということになります。
この建物周辺のどっかから頭蓋骨でも出てくれば、ここの先住民がこの周辺のどの民族に近いのかも大体わかるんですけどね……。この建物の様式からすると、七世紀頃に南印(南インド)東岸から海を越えてやって来た一派の影響が強いと思われますが、そっちの方は橋本君の専門なので、彼にも見てもらった方がいいでしょう。但し、日本人町から千年もさかのぼってしまいますが。ハハハハ!」
 早川教授はそのような冗談を言って笑うと、神殿を取り巻いている回廊に出た。長澤教授もそれに続くと、早川教授の横に並んだ。その周囲の熱帯雨森では、鳥が美しい声で盛んに鳴き交わしており、二人の目の下の細長い湖の先には、田畑と椰子林、そして青い海が長閑(のどか)に広がっている。
 その景色を眺めながら長澤教授が言った。
「ところで早川さん、この島の人たちについてどう思われますか?」
 自分の名前の後に「教授」ではなく「さん」と付けた長澤教授の質問の意味が、職務とは関係ない個人的なことであると機敏に察した早川教授は、やはり景色を眺めながら穏やかな口調で言った。
「みな素朴で美しい目をしていますね……。私たちがとうの昔に失ってしまったような……。」
 その一方長澤教授は、やや言いにくそうに尋ねた。
「早川さん……、あなたはこの島のことも研究の成果として発表なさるんですよね?」
 早川教授は顔を長澤教授の方に向けると、さも意外そうに問い返した。
「え? この最大の発見を発表しないなんてことがあるんですか?」
 長澤教授は、慎重に言葉を選びながら確認した。
「……もし……、この島に大和(やまと)民族が住んでいることを知ったなら、……我が国の政府あるいは軍部は……どうするでしょうね?」
「このような状況下では、この島の領有権を主張し、その住民には日本国民となることを迫ることでしょうな。戦況が思わしくない我が国としては、一人でも多くの人手が要るんですから。」
 長澤教授は、探るような口調で言った。
「……それは果たして、彼らのためになるでしょうかね?」
 早川教授は腕組みして青い空を見詰めながらこう言った。
「……うーん、なるほど、彼らにとって悪い結果にはなっても、決して良い結果にはならないと、個人的には思いますが……。しかし、今は国民一丸となって、この戦争に勝つことが最優先なのですからね。」
 長澤教授は、やや念を押すような口調でこう言った。
「早川さん、あなたはこの戦争に勝てるとお思いなのですか?」
 腕組みをなかばほどき、片手で口ひげを撫でながら、早川教授は慎重な口調で言った。
「……うーん、そうですねぇ……、大本営発表だけ聞いていた頃には必ず勝てると信じて疑いませんでしたが……、こっちの放送を聞いててわかった近頃の朗報はアッツ島とキスカ島の占領ぐらいで、他はどれも負け戦ばかりだし……。なんでもミッドウェー沖の海戦では、主力空母が全部やられたっていう話しじゃないですか。
私はその道の専門家じゃないんで、今の時点では勝敗についてまだ何とも言えませんけど……。」
 長澤教授は、極めて真剣な表情を早川教授に向けて言った。
「日本政府がこの島の領有を主張するなら、敵は当然ここを攻略の対象とし、この島が戦場となる可能性が極めて高くなります。もしそうなれば、当然のことながら住民も徴用(ちょうよう)されることとなり、最悪の場合戦火によって町は破壊され、住民は全員死亡してしまいます。
それは、貴重な研究資料が永遠に失われてしまうということも、意味しているのですよ。」
 その言葉を聞いた早川教授も極めて真剣な面持ちになると、大きく頷いて言った。
「……なるほど、それは有り得ることです! そのようなことは断じて防がねばなりません!」
 これは人道上の問題でもあるが、「研究資料が永遠に失われる」という言葉は、民族学者の早川教授の心をかなり動かしたようであった。
 長澤教授は同意を得られて安心したのか、今度はやや急き込んで説明した。
「そこでですね、日本に帰ってから、こう発表するんです。
『今まで知られていなかった日本人町の存在が一つ、各地での発掘と文献の調査によって明らかになった。』とね。
その町の所在地は不明だとして、現存するこの島の存在自体を伏せておくんですよ。
そして、この戦争が終結してから、この島の所在地を推測するという形にして発表する。
どうです? なかなか良い案だと思いませんか?」
 一つ一つ頷きながら聞いていた早川教授は腕組みをとくと、両手を広げて嬉しそうに言った。
「それは名案ですな! 人間としても科学者としても真っ当な道です!」
 長澤教授は、安心したような溜息をついて言った。
「フー、良かった……。次は橋本さんを説得してみますよ。ちょっと難しそうですけれど。」
 早川教授が真顔に戻って言った。
「橋本君は何とかなっても、辻上氏はどうやって口説くんです?」
 長澤教授も真顔になって言った。
「最大の難関です……。とりあえず、応急処置はしておきましたが……。」
「……?」
 早川教授が怪訝そうな顔をしたので、長澤教授は悪戯っぽい表情になってこう言った。
「無線機にちょっと細工をしてね……。受信はできるが、送信できないようにしておいたんですよ。」
 早川教授は笑顔になると、思わず長澤教授の背中をドンと叩いて言った、
「お主(ぬし)、なかなかやるのぅ!」
 二人は大笑いして、町への帰路に就いた。
 長澤教授の趣味の一つに、真空管ラジオの組み立てというものがあった。その知識が思わぬところで役に立ったようだ。
 町に帰り着いた長澤教授は、集会所の中の自分たちの部屋に入ると、資料の補足作業をしている橋本教授の背中に向かって声を掛けた。
「ただ今帰りました!」
 振り向いた橋本教授は、丸眼鏡をずらして長澤教授を見ながら言った。
「ああ、お帰りなさい。で、どうでした?」
「早川教授の話しでは、インド系の寺院の遺跡のようですが、建物の様式については彼の専門外なので、はっきりわからないそうです。そこで、お願いなんですが、ちょっと見てもらえませんかねぇ。いえ、今じゃなくていいんですよ、ついでのときで。」
 これは橋本教授の専門分野の東洋史に関わることなので、彼は椰子の葉で編んだ敷き物から立ち上がると、急き込んでこう言った。
「今行きましょう。ついでだと、いつになるかわからんので。」
 こうして長澤教授は、橋本教授を先ほどの遺跡へと案内した。
 神殿に入った橋本教授は、この神の象徴の石柱の様式からして、比較的新しいものだろうと言った。
 その後、先程と同じようにして神殿の回廊に出ると、長澤教授は横に立っている橋本教授にも、先ほどの早川教授と同じようにして尋ねてみた。
「……この島の人のことをどう思われますか、橋本さん?」
 橋本教授は片手で麦藁帽子の下の眼鏡を外し、首に掛けた日本手拭の端をもう一方の手で持つと、それで額の汗を拭きながらこう言った。
「この島近辺の地理的地形的関係もありますが、今まで日本人の子孫であることを誰にも知られなかったということは、奇跡と言うに値(あたい)しますな。」
 長澤教授は、探るような口調でこう言った。
「これは、日本史上最大級の発見ですよね?」
 橋本教授は、なかば誇らしげに言った。
「そうですな。私たちの名も、それと共に歴史に刻まれることになるでしょう。ハハハハ!」
 長澤教授は、困惑した表情になって言った。
「政府や軍がここの住民の存在を知ったら、どうすると思われますか?」
 橋本教授は、当然のことのように言った。
「この島の帰属が現在のところはっきりしていないので、政府はこの島の領有権を主張し、島民は帝国臣民として勤労と兵役に従事することになるのでしょう。」
 長澤教授は、悲痛な面持ちになってこう言った。
「それによってここが戦場になり、もし町が壊滅してしまったらどうするんです!? 貴重な研究資料が灰燼(かいじん)に帰してしまうのですよ!」
 橋本教授は笑って言った。
「ハハハハ! 私の方は心配ご無用。町の成り立ちの伝承のあらましは、既に書き留めてあります。あとはここが戦場になる前に東京に戻り、それを整理して発表するだけですから。民族学的資料の方は、もし破壊されるようなことがあれば、早川さんにはお気の毒ですがね。」
 長澤教授は、悲しげに言った。
「あなたにとって貴重な研究資料を提供してくれた、この島の人がその犠牲になってしまっても、あなたは構わないのですか!?」
 橋本教授は、落ち着き払ってこう言った。
「いえ、それは残念なことです。でも、お尋ね者だった海賊の末裔(まつえい)が、日本国民としてお国の為に死ねるんですから、彼らにとっては名誉挽回になるんじゃないですか。」
 その言葉を聞いた長澤教授は思わず絶句してしまった。そして、そんなことを平然と言ってのける橋本教授の生白い顔を、思いっきり殴り付けてやりたいという衝動に駆られたが、それを一瞥するのみに留めると、極めて無表情な声でこう言った。
「ご協力どうもありがとうございます。あなたのご見解がよくわかりました。そろそろ昼時ですので、帰りましょうか。」
 町に帰り着いた両教授は、まず集会所付属の厨房に入った。彼ら調査研究隊のために、三度の食事が今日の昼からここで提供されることになっていたからだ。
 その食費は、その都度ここの管理人に手渡すことになっており、この周辺の海域で流通している、各国の通貨で支払って構わないとのことであった。この島特有の通貨は、現在のところなかったからだ。
 例えば一食の値段は、アメリカの通貨でなら十二セント、オーストラリアのそれでなら六ペンスといった具合だ。日本で流通している通貨での支払いももちろん可能で、その価格は十銭と定められていた。
 しかし、ここで問題が一つ生じた。
 アルミニウムの硬貨は、第一次世界大戦中にドイツで出現してから、その後世界各地に広がって行ったようだが、日本ではそれが昭和十三(一九三八)年に始めてお目見えした。それまで流通していた一銭青銅貨と全く同じ図柄だが、直径が縮小して材質もアルミとなったのだ。
 ところが昭和十五(一九四〇)年になると、それに続いて五銭と十銭硬貨も、それまでのアルミ青銅貨から図柄も変わって、材質もただのアルミとなった。たとえ小額硬貨と言えども、それまである程度ずっしりとした手ごたえがあったのだが、アルミではまるで子供銀行のお金のような質感になってしまう。

当時世界で流通していた小額硬貨
1角 10銭 10 centavos 20 centiemes 10 satangs
中華民国1914年
1角(10セント)銀貨
大日本帝国1910年
10銭銀貨
米領フィリピン1945年
10センタボ銀貨
仏領インドシナ1941年
20サンチーム白銅貨
タイ王国1935年
10サタン ニッケル貨
5 cents 10 cents 1 cent 6 pence 1dime
※1)サラワク王国1927年
5セント白銅貨
※2)英領海峡植民地1927年
10セント銀貨
オランダ領東インド1939年
1セント青銅貨
オーストラリア1923年
6ペンス銀貨
アメリカ合衆国1916年
1ダイム(10セント)銀貨
25 cents 1/4 anna 8 cash 2 paisa 10 puls
※3)英領セイロン1910年
25セント銀貨
英領インド1940年
1/4アンナ青銅貨
インド土侯国トラバンコール
1924-1930年
8キャッシュ銅貨
ネパール王国1935年
2パイサ銅貨
アフガニスタン王国1937年
10プル白銅貨
1/4 ryal 10 mils 5 piastres 2 guerche 10 cents
サウディアラビア王国1935年
1/4リアル銀貨
※4)パレスチナ1927年
10ミルス白銅貨
※5)レバノン1933年
5グルシュ アルミ青銅貨
エジプト王国1937年
2グルシェ銀貨
英領東アフリカ1941年
10セント青銅貨
10 lepta 1 dinal 10 centesimi 1 shilling 1 franc
ギリシャ王国1912年
10レプタ白銅貨
ユーゴスラヴィア王国1925年
1ディナール白銅貨
イタリア王国1939年
10センテジミ アルミ青銅貨
英領西アフリカ1926年
1シリング黄銅貨
仏領カメルーン1924年
1フラン アルミ青銅貨
注釈
※1)サラワクはボルネオの北西海岸にある地方である。1841年から1946年までイギリス人の酋長が治める国だった。戻る
※2)現在のシンガポール、マレーシアなどの当時の名称。戻る
※3)現在のスリランカ。戻る
※4)現在イスラエルがある地域は、1920年から1948年までイギリスの委任統治領であり、この名称であった。戻る
※5)1920年から1944年までフランスの委任統治領であった。戻る
資料提供/瓶ヶ島町役場

 その初回のこの昼食で、長澤教授はたまたま持っていたフィリピンの通貨十二センタボを支払ったので問題なかったのだが、橋本教授が日本の十銭アルミ硬貨で支払おうとしたら、一旦受け取ったここの管理人の男は、それをしげしげと見てそこに鋳造されてある字を読んだ。
十銭1
「十銭……。」
 次いでそれを裏反してその面の字も読んだ。
十銭2
「大日本、昭和十五年。」
 そして彼は訝しそうな表情でこう言った。
「確かに菊のご紋付いとるし、字ぃ読んだら日本の銭(ぜに)のようじゃ。けどわし、こげな軽い銭(ぜに)見るの初めてじゃけん受け取れんわ。他の銭で払うとくれ。」
 今までアルミ硬貨を手にしたことのなかった彼は、これを偽金(にせがね)だとでも思ったのだろうか、その十銭硬貨はつき返されてしまったのである。しかし、橋本教授が隊長の早川教授に食費を立て替えてもらうということで、その場は一応収まったのであった。
 橋本教授と長澤教授はそれぞれ盆に乗せた昼食を持って自分たちの部屋に入ると、それを入り口付近に置かれてある大きな食卓の上に置いた。彼らに続いて部屋に入って来た早川教授は、自分の席に胡坐をかいて座ると、既に食べ掛けていた自分の食事を再び食べ始めた。その早川教授に向かって橋本教授が言った。
「お食事中のところ、どうも済みませんでした。立て替えて頂いて。」
 そして橋本教授は、長澤教授と共に靴下を脱いだり首に掛けた手拭で汗を拭いたりして、見るからに日本風の昼食を胡坐をかいて食べ始めた。橋本教授は、食事中の他の三人に向かってこう言った。
「しかし実にけしからんですな。外国の通貨は受け取って我が国の通貨を受け取らんのですから。辻上さんは、なんともなかったですか?」
 不機嫌そうな橋本教授のその問いに、先に昼食を食べていた辻上通訳官が、やや気の毒そうに答えた。
「ええ。たまたま外貨の小銭が余ってたんで、それで支払いましたよ。橋本先生は、その都度全部使い果たされてましたからねぇ。」
 橋本教授は悔しそうに言った。
「そうですよ。小銭は余っても仕方ないんで、行く先々できっちり使うようにしてたのが裏目に出てしまった!」
 早川教授が言った。
「それは残念でしたね。でも、調査する場所はここが最後で、あとは帰還するだけですから。」
 橋本教授は、やや苛立たしそうな口調でこう言った。
「早くそうなって欲しいものですな!」
 ここで早川教授は、食べながらも真剣な表情で尋ねた。
「……それで、遺跡の方はどうでした?」
 この『どうでした』という言葉の中に、二つの意味が込められているということに気付いた長澤教授が、黙ったまま悲しそうに首を横に振った。一方、それに気付いていない橋本教授は気を取り直すと、やや興奮して答えた。
「……建物の様式を外から見たときは七世紀頃のものかと思いましたがね、中に安置されている神の象徴の様式を見ると、もっと後の時代のものだということがわかりましたよ。十~十一世紀に掛けて南印(なんいん)で強大な勢力を持っていた王国があったので、多分その頃のものでしょう。
しかし、いずれにせよ、その文化がこの海域にまで伝播(でんぱん)していたということは、世界的な大発見です。
あとは長澤さんの出番ですね。」
 指名された長澤教授は、仕方なさそうにこう言った。
「ここでは日本人町が現存しており、発掘の必用がないので、副業としてそこを掘らせてもらうことにしますよ。」
 次いで橋本教授は、やや遠慮がちに言った。
「私は既にこの町に伝わる伝承を書き留めたので、あとはそれを整理するだけです。早川さんの方は、いつ頃終わりそうですか?」
 早川教授が言った。
「民族学とは厄介なもんでしてねぇ、その民族の祭典、儀礼、風習などの特徴をきちんと把握しなければならない。そのためには、やはり最低でも暦が一周するまで調査しなければならないんです。」
 橋本教授は言った。
「それじゃあ、十二ヶ月ということですね?」
「十二支と言ったらどうします?」
「ハハハハ! そりゃ結構なことです!」
 早川教授の冗談をこのように笑ったのは長澤教授一人だけで、橋本教授は顔色を変えるとこう言った。
「いやー、それでは困りますな! 軍の士気を高めるという我らの任務に、そのような長大な時間の猶予はありません。もしそうなら、悪いですが私は先に帰国して、この町の歴史に関する論文を発表させてもらいますよ。」
 辻上通訳官も、青白い顔を更に青くしてこう言った。
「この島の住民が昔日本から移住して来たということは、この島が日本の領土として成立する可能性が、極めて高いということになります。戦局が我が軍にとって思わしくないというこの状況で、この絶好の機会を先に延ばす必要などありません。私の立場としては一刻も早くこの島と住民の存在を軍に報告し、自分たちを迎えに来てもらいたいところなんですが、朝から信号を送っているのにどこからの返答もない……。どうも無線機の様子が変です。」
 その言葉を聞いた長澤教授と早川教授は、思わず顔を見合わせた。
 その早川教授は、すぐ食卓の方に向き直ると、軽く咳払いをして話題を変えた。
「……エヘン、しかしまあなんですな。硬貨の問題を別にすれば、ここの住民は本当に親切で礼儀正しいし、食事も三食つくってくれることになったんで全くありがたい限りです。自炊しておると、学術研究しておるんだか、飯盒炊爨(はんごうすいさん)の稽古をしておるんだか、わからなくなるときがありますからねぇ。これまで調査した島ではどこも野営だったし、食材や調味料も気に入ったものが満足に手に入らずに難儀してましたし……。
それに比べると、ここの料理の味付けはまるで日本食のようだし、茶も紅茶じゃなくて緑茶だ。まるで天国ですよ。」
 長澤教授も嬉しそうに言った。
「ガダルカナルでは激戦が行われているというのに、ここにいるとそれがまるで嘘のようです。この島は戦略的に見て、あまり重要じゃないんじゃないですか? 急いで報告しても、放って置かれるのが落ちですよ。ねぇ辻上さん?」
 それに対して辻上は、少々むきになってこう言った。
「いえ、そんなことはないでしょう。たとえこんな小島であっても、弾薬を用いずして領土と労働力が手に入るわけですから、この発見が帝国の発展に寄与することは、ほぼ間違いありません!」
 彼はこの隊の調査研究の発表よりも、軍属としての自分の手柄の方を優先して考えているということが、どうやらこれではっきりしてきた。その辻上に向かって、長澤教授が慎重に探るような口調で言った。
「……ここを日本が領有するなら、……当然敵からの攻撃の対象となりますよね。そうすると最悪の場合、この島は戦争に巻き込まれ、住民は死亡し町は廃墟になってしまうかも知れません。……それでも構わないのですか?」
 辻上は、それに答えた。
「そうなる前に、早く調査を済ませてもらいたいものですね。そうすれば、後は軍と役人に任せて、私たちは引き上げられるんですから。」
 彼は、ここの住民が日本人であると上辺では言いながら、実はその生命について何とも思っていないということも、これではっきりしてきた。その点橋本教授と全く同じだった。
 長澤教授は内心思った。
『二人とも、人の命を一体なんだと思っているんだろう?』
 彼のその思いをよそに、飯を頬張りながら橋本教授がこう言った。
「……それでは提案です。隊長一人残すわけにもいかんし……長澤さんにも一緒に残ってもらって、私と辻上さんだけ先に帰国するというのはどうですか? そうすれば、早川さんだって我々に気兼ねなく調査研究ができる。」
 早川教授は、呆れた顔でこう言った。
「はあ……。それでは、あなたたちの報告によって日本政府がこの島の領有権を主張し、そのためここが戦場となったらどうなさるおつもりなんです?」
 橋本教授は、事もなげにこう言った。
「そのときは、調査を中断して帰国なさればいいんじゃないですか。軍事が優先されるべきなのですからね。」
「そうおっしゃるからには、船か飛行機で早川さんと私をここまで迎えに来てくれるんでしょうね?」
 そう言った長澤教授の目付きが余りにも鋭かったので、橋本教授は目を丸くして言った。
「おいおい長澤君、そんな目で見ないでくれたまえ。そういうことは、お役人や軍人さんの仕事なんだから、きっと彼らがちゃんとしてくれますよ!」
 それを聞いた長澤教授と早川教授は、互いに顔を見合わせると、呆れてそれ以上ものが言えなくなってしまった。
 この一件があってからというもの橋本教授は、他の二人の学者とよりも、軍属の辻上通訳官と共に行動することが多くなり、この隊はあたかも二つに分裂したようになってしまった。

 その翌朝、集会所の正面に設置された無線機のあたりから、プルプルという小さく乾いたエンジン音がした。送信機の電源として使われる発電機が始動を始めたのだ。この陸軍から貸与されている無線装置の受信機の電源は電池だが、送信機はガソリン式の発電機なのだ。今までは受信する一方だったのだが、辻上は昨日からついに送信を開始したのである。
「コチラナンヤウノマチ、オウタフセヨ オウタフセヨ」
(こちら南洋の町、応答せよ 応答せよ)
 モールス信号符早見表を片手に持った辻上は、もう片方の手でコツコツという音を立ててぎこちなくキーを叩き、無線の信号を送信しているつもりだった。「南洋の町」とは、この隊の暗号名だ。しかし、何度やってもそれに対する返答は返って来なかった。
 専門の通信士ではない文科系の辻上は、この無線装置一式の操作だけはなんとか心得ていたのだが、その原理や内部の構造までは把握していなかった。戦況が日ごとに不利になっている最中、たとえたった一人の通信士であれ、たかが文化的な調査などに赴かせるということは、当時の軍関係者の発想にはなかった。日本には古くから「文武両道」という立派な言葉があるが、このご時世「文」は遊び事として蔑(さげす)まれ、常に「武」の下に置かれていたので、それは致し方ないことだ。
 そのような状況の中で任命された俄か通信士の辻上でさえ、こちらの電波が外界に送信されていないのではないかという疑いを抱くようになった。そこで彼は送信機の電源を一旦切ると、蓋を開けて中を覗いてみた。
 その彼の目に映ったのは、金属製の基盤の上でひしめき合っているたくさんの部品だった。プリント基板や集積回路などなかった当時でも、専門的な知識がない者にとってのそれは、全くチンプンカンプンの代物(しろもの)であった。
 辻上は困惑した表情になると、隣りの椅子に座ってそれを覗き込んでいる橋本教授に向かってこう言った。
「橋本先生、この仕組みをおわかりになられますか?」
 教授は、悲しげな表情で首を横に振りながらこう言った。
「わかるのなら、もうとっくに口を出してますよ。」
 しかし彼は、こう付け加えた。
「……受信した電信の音は聞こえていたので、空中線と受信機の増幅器の故障でないことだけは、なんとかわかりますが……。」
 専門分野ではないとはいえ、さすが大学教授。彼は無線機の原理だけは知っているようだ。辻上が、やや明るい声になって言った。
「ほう。それでは、信号の送信はこの送信機のどの部分で行なっているのか、おわかりになられますか?」
 蓋が開けられている送信機に顔を更に近付けた橋本教授は、一つ一つ指で示しながら言った。
「……うーん、発電機に繋ぐ端子のこのあたりが電源部で……、拡声器と繋がっている真空管が並んだこの部分が音声の増幅器だろうし……、選局目盛りのこのあたりで、周波数の同調をしているのでしょうしねぇ……。
ということは、符号を叩く鍵に繋がっている端子と、空中線の端子周辺のあいだのこのあたり……恐らくここで送信する信号の発振と増幅を行なっているんだと思いますが、それ以上のことはわかりませんね。私の専門ではないので。」
 その言葉が終わる間もなく、辻上は小さな声を上げた。
「あれ?」
 その彼が示す指先を見た橋本教授も、それと同じような声を上げて言った。
「あ! 外れている……。」
 彼のその言葉の通り、いくつかの部品が外れて箱の下に転がっている。辻上は悔しそうに言った。
「無線機の取り扱いを知らぬ土人のような者に運ばせたので、振動で外れてしまったのかも知れません。元通り繋げばまた送信することができるようになりますよね?」
 そう問われた教授は、やや不安げに言った。
「それはそうでしょうけど、どれをどこに繋いだらいいのかわかるんですか?」
「試しにいろいろ繋いでみればいいんですよ。」
 そう言った辻上は外れていた素子を適当に仮止めすると、送信機の電源を入れて何回か符号を打ってみた。しかし、日本軍が使っているどの周波数に合わせて受信しても返答がなく、全く関係のない内容の信号が受信されるだけであった。こちらの電波が届いていない証拠だ。辻上は、素子の繋ぎ方を変えると再び送信を始めた。
 このようなことを何度か繰り返しているうちに、突然プツンという音がして、送信機から白い煙が上がった。
 辻上は、青白い顔を更に青くさせてこう言った。
「……ど、どうしよう……。」
 橋本教授も青くなって言った。
「完全に壊れてしまったということなんですね?」
 辻上は愕然(がくぜん)として言った。
「……残念ながら、そのようです……。」
 集会所前には大きな木が植わっており、その木陰には本が積まれた机が置かれている。そこでは長澤教授と早川教授が向かい合って椅子に腰掛け、何かの調べものをしていたのだが、この会話を耳にした途端、二人は互いに目を見合わせると無言で頷き合った。
 その三日後の未明、集会所の居室で目覚めた長澤教授は、何やら胸騒ぎを覚えたので慌てて布団から身を起こした。すると、辻上通訳官と橋本教授の二人の寝床が空になっているではないか! その行き先を直感的に察して飛び起きた長澤教授は、靴を履いて集会所を出ると、椰子林の中を浜まで全速力で駆けた。
 やがて、夜明け前の浜に出た彼の目に、大きな荷物を背負って港の石垣の上を黙々と歩いて行く、二つの小さな黒い影が映った……。

 結局、早川・長澤両教授が帰国したのは、終戦後半年近く経過した、昭和二十一(一九四六)年二月二日のことだった。彼らに調査研究を命じた旧政府の機関は、敗戦の結果既にこの世に存在しておらず、それに伴ってその内密の任務も自然消滅していた。それでも彼らの調査研究の成果は、学界に発表するだけの価値が充分にあったのだが、二人はなぜか南方でのことをあまり語ろうとはせず、ポリネシア文化と日本文化の類似性に関する小論文を、早川教授がある科学雑誌で発表したのみに留まった。
 但し彼らは、辻上通訳官と橋本教授の二人が遭遇(そうぐう)した事故のことについての報告を、その関係者に対して行なった。以下は長澤伸三が保管していた、当時の新聞の切抜きである。

 帰還セシ長澤伸三氏ノ証言ニ拠レバ、昭和十七年十二月十日未明、南太平洋上無名ノ島ニテ学術調査探検隊(全四名、隊長・東京諦國大学早川健之助教授)中ノ、同大学教授橋本秀範氏(当時五十九才)・軍属辻上政義通訳官(当時四十五才)両人ハ、無線機故障ノタメ外界トノ交信断絶セシコトニ絶望シ、水食料医薬品ソノ他積ミシ小艇ニテ同島ヨリ脱出セント試ミシガ、沖ニ出タル処ニテ巨大ナル横波ヲ受ケ同艇転覆ス。岸ニテコレヲ目撃セシ長澤氏、土人ノ舟ニテ救助ニ向カフガ、両人既ニ溺死シテイタトノ事。
 同隊隊長並ビニ長澤氏ハ両人ノ遺体ヲ現地ニテ火葬ニ処シタルトノ事。両氏ソノ遺骨本国ヘ持チ帰リ、隊長早川氏ガ二月四日ニ各々ノ遺族ノ元ヘ届ケタリ。

(昭和二十一年二月五日 朝月新聞東京版朝刊より)

 この当時は戦後の混乱の真っただ中であり、四年近くも前に起きたこの事故のことを、わざわざ現地まで赴いて検証しようとする者は誰もいなかった……。
 話しがそこに及んだところで、この切抜きを大学ノートに糊で貼り付けていた孫の景子に向かって、病室のベッドの上の伸三がこう付け加えた。
「……隊長は助教授じゃなくて、早川健之助、教授だよ。わかるだろう?」
 景子は、ノートに貼り付けた新聞記事に目を遣ったまま、頷いて返事をした。
「うん、わかってるよ。」
「……ところで景ちゃん……実はね……」
 伸三が、やや口調を改めたので、景子はノートから祖父の顔に目を移して尋ねた。
「なに? お爺ちゃん。」
 伸三は、とても言い難そうに小さな声で言った。
実は……この証言はね……
 続いて発せられる祖父の言葉をよく聞き取るため、景子はその口元に耳をやや近付けて言った。
「この新聞の証言が、どうかしたの?」
 伸三は、真剣な表情で聞き返す景子の澄んだ目から窓の外へと目を移した。先ほどまで曇っていた春の夕空は、次第に晴れてきているところだった。
 彼は、弱々しく擦れた声でこう言った。
……この証言は……嘘だったんだ……

島の港  長澤教授が瓶ヶ島の港に駆け付けたときには、石垣の石段を降りた橋本教授が、石垣の上に置かれた荷物をボートに乗った辻上に手渡しているところだった。長澤教授はその二人を見下ろして、息を切らせながら叫んだ。
「お二人とも……どこへ……行かれるの……ですか!?」
 橋本教授が不機嫌そうに言った。
「どこへ行こうと、私たちの勝手でしょう。」
 辻上も同じような口調で言った。
「日本人町が現存していることが確認され、それを報告するための通信手段がなくなってしまった以上、私たち調査隊がこの島に留まっている必要は、もはや全くありません。あとは帰国して、今回の研究の成果を国に報告するだけですから。」
 長澤教授は再び尋ねた。
「隊長の許しを……得たんですか?」
 橋本教授が言った。
「いえ。でも、その必要はもうないでしょう。私の方の調査は終わったんですから。」
 長澤教授は眉をひそめて言った。
「随分勝手なんですね。……どこへ行こうとしているのかは知りませんけど、……この島のことを、政府や軍に今報告するのだけは……やめて下さいよ。」
 橋本教授が腹立たしそうに尋ねた。
「なぜなんです!?」
 長澤教授も、声を少し荒らげて言った。
「決まってるでしょう! 日本政府がこの島の領有を主張すれば、……ここが敵の攻撃の対象になるからです!」
 橋本教授は、憮然(ぶぜん)として言った。
「そんなことは敵の勝手でしょう。ともかく我が国の領土と国民が増えるのですから、それに越したことないじゃありませんか!」
 辻上もまた、それと同じような口調でこう言った。
「領土の獲得は、我が軍の制海権並びに制空権に多大な影響を与えます。このような重要な事実を知っていながら、それを軍に報告しないということは、帝国国民として有るまじき行為です!」
 荷物を渡し終えた橋本教授が、ボートに乗り移ろうとしたので、石段を駆け下りた長澤教授は、咄嗟(とっさ)に彼の手首をつかんで叫んだ。
「それなら、平和なこの島を戦争に巻き込もうとすることは、人間として有るまじき行為です!!」
 橋本教授は、長澤教授の手を振り切ろうとしながら叫んだ。
「こ、こら! 放せ! この非国民!!」
 小柄な長澤教授だが、彼は普段から発掘の仕事をしているので足腰を使うことが多い。その一方、橋本教授は普段から読み書きが中心の仕事をしているので、体の筋肉をあまり使うことがない。しばらく揉み合っていた二人だが、やがて長澤教授は橋本教授をボートの船べりが接している石段の下段から石垣の上へと引きずり上げてしまった。
 これを見た辻上は、ボートの上から叫んだ。
「長澤教授! このことは軍に報告します! あなたは、国が利益を得ることを妨害した反逆者だ!!」
 橋本教授を後ろから羽交い絞めにしている長澤教授は、再び息を切らせながらも、辻上を不敵に見下ろしてこう言った。
「……フン、報告でもなんでもするがいい! ……あんたは国の利益だとか言いながら……実は自分が手柄を取ることだけしか考えてないんだろう! ……この島とその住民を踏み台にして!!」
 この言葉を聞いた辻上の顔は真っ青になり、自分の腰に下げていた拳銃を咄嗟に引き抜くと銃口を長澤教授に向けて怒鳴った。
「黙れっ! この非国民めがっ!」
 長澤教授は、羽交い絞めにしている橋本教授の体を辻上の方に向けて盾(たて)にすると叫んだ。
「どうだ! これでは撃てまい!」
 するとここで、二人の大学教授にとって信じられぬことが起こった。辻上は、何のためらいもなく銃の安全装置を外して引き金を引いたのである。しかも、それは威嚇ではないことがわかった。二発三発と銃弾が立て続けに発射されるたびに、橋本教授の体には強い衝撃があり、それに合わせて彼の全身の筋肉が機械的にビクンビクンと震えるのが長澤教授の体に厭というほど伝わって来たからだ。そのうちの一発が貫通したようで、長澤教授の腹部には焼けるような痛みが走った。
 橋本教授は間もなくガボッという大きな音を立てて大量の血を口から吐き出すと、がっくりと項垂れた。ほとんど即死のようだった。その一方、銃を撃ち終えた辻上は、空(す)かさずボートが繋留されている綱を解くと、腰を下ろしてオールを漕ぎ始めたので、ボートは次第に石垣から離れて行った。
 それを見た長澤教授は、自分が負傷したことなど忘れて、鉛のように重たくなった橋本教授の体を石垣の上に横たえると、その腰に付いている血に濡れた皮のサックから、素早く拳銃を抜き取った。そして、気が付いたときには、ボートの上に向けて銃弾を何発も撃ち込んでいた。
 銃に込められていた弾が切れると、長澤教授は我に帰った。
 朝の海に聞こえているのは、潮騒(しおさい)と海鳥の声だけだ。
 青く澄んださざ波の上で行き先を失ったボートは、爽やかな風によってゆっくりと沖に流されて行った。

雲  薄暗い病室の中で伸三が呻(うめ)いた。空に光る雲を窓越しに見続けながら。
「うう……このお爺ちゃんが……拳銃で撃って殺したんだよ……辻上通訳官を……このお爺ちゃんが……。
……嘘の証言をして今までずっと隠してたんだけど……人殺しだったんだ……この私は……。」
 いつも優しかったこの祖父が、苦悩に顔を歪めて語り終えたこの話しに、景子は大きな衝撃を受けた。しかも、ボートに乗った人の体に向かって、拳銃の弾を何発も打ち込んでいる祖父の姿を想像してしまったので、景子は言葉を失っていた。
 衰弱しきっている伸三だったが、その孫娘の気持ちを敏感に察したので、こう言った。
「こんなお爺ちゃんのこと……嫌いになっちまったんだろう?」
 祖父の目に映っていた茜色(あかねいろ)の雲が、見る間に涙で潤(うる)んできた。それを見た景子は、やはり目に涙を浮かべたが、その祖父の言葉を力強く否定した。
「嫌いになんかなるもんですか! お爺ちゃんは、戦争からその島の人たちを守ったんじゃないの!」
 親兄弟や親戚のほとんど全てをこの戦争によって失っていた景子は、民間人を巻き込んでの玉砕が相次いだ南方戦線と沖縄戦の悲惨な話しも、人から聞いたり本で読んだりして知っている。
 たとえ何千人もの民間人を道連れにして玉砕しても、「戦争」という名の元に於いてそれは賞賛すべき行為となる。その反面、大勢の島の人を救おうとして一人の人間を殺してしまった祖父は、自分が死ぬ間際まで良心に苛(さいな)まれながら生きてこなければならなかったのだ。その理不尽さに対する批判を込めた彼女のその言葉に、伸三は縋(すが)り付くかのようにして、擦(かす)れた声を振り絞った。
「景ちゃん……わかってくれたんだね……景ちゃん……」
 それと同時に、それまでずっと苦悩に歪んでいた彼の表情は、血の気が全くないにもかかわらず、見る間に安らかな表情へと変わっていった。それを見た景子は直感した。祖父は今まさにあの世へと旅立つところなのだということを。すると景子の口からごく自然に、ある言葉が流れ出た。
「好きだったのね……、カイさんのことが……」
 彼女は孫であったが、まるで母親のような優しさが込もっているその言葉を耳にすると、伸三の落ち窪んだ瞼は静かに閉じられ、その両方の目尻から、涙がゆっくりと流れ落ちた。そして、その言葉を肯定するかのように僅(わず)かに微笑んだ伸三が、目を閉じたまま何かを呟いたように見えたので、景子は慌ててその口元に耳を近付けた。
……わたしの……わたしの…………
 彼女に聞き取れたのはそれだけで、その後の言葉は、開けられたままの口から空気のように漏れただけだった。そして、そのまま動かなくなってしまった伸三の顔付きは俄(にわ)かに、黄ばんだ古い写真に見られる彼の青春時代の面影へと変化した。それを見た景子は、咄嗟に彼の枕元へ手を伸ばすと、そこにぶら下がっているプラスチック製のボタンを思わず強く押した。緊急用ブザーのスイッチである。
 以前から、祖父の臨終というこの瞬間を恐れに恐れていた景子だったが、この場に及んで全く取り乱していない自分が、今までとはまるで別人のように思えた。
 長年連れ添ってきた妻にさえ託すことのできなかった心の重荷を、孫の自分に託した祖父の魂は今まさに、錘からはずれた風船のようにして、晴れやかに天へと昇って行けるのであろう。祖父を失ってしまうことへの悲しみに浸りきってしまうのではなく、死に行く人の心の重荷を預かるという、今までに経験したことのない重要な役目を果たしたことが、自分を冷静にさせている原因なのではないかと彼女は思った。
 その景子は、いつものように卓の上の機械の停止ボタンをバチンと押した。今までの彼女なら、この音を特別意識したことはなかったのだが、今のその音には思わずハッとなってしまった。祖父の人生をたった今、自分が停止させてしまったかのように思えたからだ。
ごめんね、お爺ちゃん……
 景子は小声でそう言うと、祖父の顔をそっと窺った。しかしそれは、薄暗い病室の中に白く小さく晴れやに浮き出ており、まるで何かを喜んでいるようにも感じられた。
 景子はベッドの横の卓の引き出しを開けると、その中から七冊の薄汚れた古めかしいノートを取り出した。その上に、先ほど新聞の切抜きを貼り付けた新品のノートをそっと重ねると、彼女はそれらをまとめてしっかりと胸に抱いた。
『自分が語った話しも含め、これらを三十年後の世に公表すること。』
 これが、たった一人の遺族である景子に長澤伸三氏が残した、たった一つの遺言(ゆいごん)であった。
 間もなく、二人の看護婦がこの病室に急いで入って来たので、景子は祖父の容態の急変を告げた。すると、長澤伸三の小さくしぼんだ体を乗せたベッドは、その看護婦らの手によって、同じ階にある集中治療室へと慌ただしく運ばれて行った。
 それを目にした景子は、祖父を失うということを初めて実感し、激しく嗚咽(おえつ)しながらその後に付き従がった。
 昭和四十五(一九七〇)年四月十二日、午後五時五十六分のことであった。

<続く>
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