物語

はまなすの実

原作/田野呵々士

第七章 双美ヶ島

パソコン  2004(平成16)年9月29日水曜日の朝、我が家のパソコンのメールソフトは、電子メールをいくつか受信し終えると、ダイヤルアップ接続を自動的に切断した。
 今でこそブロードバンドのお世話になっているが、この当時某 ISP の勧めに従がってブロードバンドを試してみたところ、我が家は電話局からかなり離れていたために、思ったような通信速度が得られなかった。そのため、それに対してあまり魅力を感じなかった私は、その勧めを断ってダイヤルアップ接続を維持することにしていたのである。
 ちなみに、我が家のデスクトップ型パソコンは無料で手に入れたものだ。町の大型家電店が廃棄処分するはずのものを、そこの店員さんから譲ってもらったのである。本体は屋内に置いてあったが、ディスプレイとキーボードは屋外の廃棄物置場で雨ざらしになっていたものだ。
 だからこれを使えるようにするためには、まずキーボードを分解し、中に侵入していた雨水を拭き取って乾燥させることから始めなければならなかった。
 お次がCRT(ブラウン管)のディスプレイだ。こちらは完全に分解するわけにはいかないが、とにかく蓋を開けて中を覗いてみた。そこに水が入った形跡のないことを確認した私は、長い延長コードを使って部屋の外から遠隔操作でその電源を入れた。キーボードなどとは違い、こちらの方は遥かに複雑な回路だし、高圧の電気が流れる部分がある。もし、そのような回路の中に水が浸入していれば、それによってショートし、何かが爆発するという危険性も充分に有り得るからだ。
 しかし、恐れていた爆発や、ブレーカーが落ちるといったことはなかったので、少なくともこのディスプレイの中では、ショートしている箇所がないということだ。
 これを読んだ素人(しろうと)の諸君。このようなことを、絶対に真似してはいけない。かく言う私も、工業高校の電気科を卒業しているだけなので、偉そうなことは言えないのだが……。
 さて、これとキーボードを元のように組み立てた私は、それらをパソコン本体に接続すると、恐る恐る電源を入れてみた。すると、それまで真っ黒だった画面上に、本体のメーカーのロゴマークが、朱色で鮮明に映し出されたではないか!!!
 このときの感動は、今でも忘れられない。
 しかし、この話しには落ちがある。私が高校時代の頃ならいざ知らず、今時のパソコンというものは、フロッピーディスクだけでは不充分で、ハードディスクやオペレーティングシステム(OS)なるものがなければ、その能力を充分に発揮することができない、ということがわかった。だから、それらを買い揃えたり、メモリーを増設したりしたら、中古品を一台買うくらいのお金が掛かってしまった……。
 世の中、そう甘いものではないのだ。
 さて、このようないわく付きのパソコンの画面に今映し出されているメールの中に、見知らぬ女性名で「はじめまして」という件名のものがあった。どうせ、よくあるたぐいのエッチなスパムメールだろうと思った私は、本文を読まずに削除しようとした。しかし、なんとなく気になったのでそれを開いてみると、それは全然迷惑メールなんかではなくて、私のホームページへの来訪者がわざわざ送ってくれた感想のメールなのであった。いやいや、削除して返事を出さなければ相手に失礼なことをするところだった!!!
 それによると、この人はインターネットでいろいろと検索しているうちに、「山の我が家」を発見して、その内容に大そう共感したというのである。ホームページ開設から約五ヶ月にして、ようやく検索エンジンにも引っ掛かるようになってきたようだ。
 とにかく、このように共感してくれる人は初めてのことなので、素直に喜んだ私は早速その返信をした。

長澤美世様

 メールありがとうございました。拙ホームページの内容をご理解して頂けたようなので、誠に嬉しく存じております。
 私はこのような生活をしているので、一見エコロジストかなんかのように思われてしまいますが、実はそんな大した人間ではありません。まあ、生活そのものが趣味というか、自分が食べる物をなるべく自分自身でつくってみたいというか……。
 その一方、コンピュータをいじくるのも好きなので、こんなホームページになってしまったのです。

  田野呵々士(たのかかし)

 これがきっかけになって、私はこの長澤さんと時々メールの遣り取りをするようになった。その内容のほとんどは、自然の美しさと、その仕組みの素晴らしさに対する感動を述べたものか、逆に今の世の中に対する批判を綴ったものかのどちらかであった。
 そんなある日のこと……。

 2004年10月23日午後5時前、自宅の机の上のパソコンで仕事をしていたら、窓の外で「ドーン」という低い音が微かにした。山鳴りのようだったが、近くの山ではなく、ずっと遠い彼方から、というより地球そのものが鳴っているように聞こえた。その瞬間、私の頭の中に「大きな地震がある」という映像のようなものが現れた。それは文字や言葉のような間接的なものではなく、もっと直接感じるものだった。しかし、その直後に地震はなかったので、単なる気のせいだと思い、そのことはすぐに忘れてしまった。
 ところがそれから一時間ほどして、本当に地震があった。今まで経験したことがないほどの激しい揺れだったので、「ここでこんなだから、震源地はもっとひどいに違いない」と私は咄嗟に思った。間もなく二度目の揺れが来たときは思わず机の下に入り、初めて「恐ろしい」と思った。我が家は古い木造二階建てなので、揺れが半端ではない。パソコンの周辺機器のいくつかが下に落ちた。
 その後一時間たっても大小さまざまな揺れが数分おきにやって来たので、大きな揺れが来るたびに屋外に逃げた。火を焚くこともできず、畑のトマトやピーマンなどと缶詰の豆でサラダをつくって空腹を満たした。
 ラジオで、震源地は中越だと知った。長岡周辺には知人が何人かいる。その人たちのことがまず気になった。
<後略>

 これは、中越地震のときの私の手記からの抜粋だ。
 その翌朝、我が家のメールソフトは、いつもよりやや多めのメールを受信した。心配して各地から寄せられたものが何通かあったからだ。その中には、「大丈夫ですか?」という件名の長澤さんからのものも混じっていた。

田野呵々士様

 昨夜のテレビで今回の地震についての詳しい情報を知りました。今朝になって新しい情報が入ると、その被害の大きさにただもう驚くばかりです。大きな余震がまだ何度も来ているとのことなので、現地の方のご苦労は想像を絶するものだと思います。
 そちらのお住まいは震源地からやや離れているとはいえ、震度4と聞きました。大丈夫でしたか?

 長澤美世

 私は、他の人たちと同様彼女にも、地震のときの状況と現在無事であるという内容の返信を書き送った。
 その翌日、長澤さんからまたメールが届いた。「お願いがあります」という件名で。

田野呵々士様

 ご無事と知って安心しました。被災された方々に対しましては、僅かな募金しかできないこの私ですが、一日も早い復興を祈っております。
 このような災害を全て未然に防げるようにならないものでしょうか。無理とは知りつつもそう思わずにはいられません。
 そのような思いから、私はある決断を迫られることとなりました。それは……

 私は以前から、インターネット上であるものを公開したいと思っていました。
 それは、ノートに書かれている文字なのですが、いずれも人の話しを書き留めたメモのようなものなので、それをするからには、ちゃんと読めるように書き直して、わかり易いように注釈を加えたりしなければなりません。残念ながら私にはそのような才能はないし、田野さんのようなホームページをつくることもできません。
 とにかく、まずは自分にできることから始めてみようと、その文字を自宅のパソコンで入力し、一年近く掛けてようやく全部終えることができました。あとはこれを誰かに直してもらって、ホームページで公開してもらえばいいと思って、その「誰か」を探していたら、田野さんのホームページを見付けてしまったというわけです。
 しかし、いきなりこのような大変な作業をお願いするわけにもいかないので、今までずっと先に先にと見送っていました。ところが、今回の地震があってから、そうはいかないと思ったのです。そのノートの中に出てくる、予知能力を持った人の話しによると、これからの地球上では、ますます天災が増えていくということなので。(と、いきなり書いても、何のことだかおわかりにならないとは思いますが……。)
 田野さん、このお仕事、どうか引き受けて頂けませんでしょうか?

☆..*・°長澤美世

 「予知能力」だとか、「これからますます天災が増えていく」などといった、私の興味を引くような言葉をさり気なく取り混ぜるとは……。まだ若いのに、彼女はきっと人に物を頼むときの技巧を身に付けているのに違いない。私はそれに感心しつつ、一応控え目な返信を書き送った。

長澤美世様

> これからの地球上では、ますます天災が増えていくということなので。

 地球の環境が急激に変わりつつあるということは、私もかなり以前から感じていました。そのため、本当に予知能力がある人ならば、そのことを予知していて当然だと思います。

 さて、ご存知の通り私は山の中に隠遁(いんとん)し……その割にネット上では、かなり派手にアピールしてますが……わざわざ不便な生活をしている変わり者なので、そのサイトも世間から見ればかなり特殊です。
 あなたがそのノートの内容をインターネットで公開なさりたいということは、それをより多くの人に知ってもらいたいということですよね? それなら、もっとアクセス数の多いサイトへお願いした方が良いと思いますよ。確実に。

  田野呵々士

 それに対する返信は、メールではなく封書で郵送されて来た。こちらの住所は既に知らせてあったので。

田野呵々士様

 秋も深まり、街路樹の葉が歩道のコンクリートの上に舞うようになりました。殺伐とした都会の中、僅かながらにも自然の営みを見い出しては一喜一憂している今日この頃です。

 私の身勝手なメールに対する誠実なお返事、本当にありがとうございました。
 このたびの件につきましては、依頼された方にとってかなり大変な作業になります。それをお願いするにあたっては、メールだけでは失礼になると思ったので、今回このような封書にさせて頂きました。

 「もっとアクセス数の多いサイトへ……。」とのこと、確かに10日前に拝見したときはアクセス数が「000072」で、今日拝見したら、まだ「000075」とかだったので、はっきりいって少ない(ごめんなさい!)と思います。でも私は、そのことを全く気にしてません。むしろその方がいいと思って田野さんにお願いしたくらいなんですから……。

 実は、私の母が今から4年前、ある歴史雑誌の編集長さんに、そのノートの内容を掲載して頂くよう、お願いしたんだそうです。すると、それに目を通された編集長さんは、とても乗り気になって下さって、すぐにでも作業に取り掛かれるようにして下さったんだそうです。
 ところが、その仕事の担当に選ばれた方の郷里に居られるお父様が、突然ご病気のために入院なさり、その方は家業を継がねばならなくなったということで、急遽退職なさいました。
 編集長さんはすぐに担当者を変えられたので、再びそれは動き出したのですが、今度はその担当の方が同じ出版社の有名芸能誌から抜擢され、仕事なかばにして(何と!)転属なさってしまいました。
 そんなことにも負けず、今度は編集長さん自らが担当して下さり、翌月号から連載というところまで漕ぎ付けて下さったのだそうです。ところが、ここでとんでもないことになってしまいました。売れゆきが減少の一途をたどっていたことに、見切りを付けたその出版社が、この雑誌の廃刊を決断してしまったのです。

「……私たちが本当に必要になるまでは、私たちのことをこの世の人は知ることができない……。……無理にそれをしようとすれば、必ずどこからか邪魔が入る……。」
 母は、かつて自分がノートに書きとめた、予知能力を持つ人のこれらの言葉を、ここでハッと思い出したのだそうです。もし、これ以上無理に事を進めれば、人の好意を無にするどころか、その「邪魔」によってとんだ迷惑を掛けてしまうことになりかねない。そう思った母は、編集長さんから原稿を返してもらうと、それを箪笥の奥深くにしまい込んでしまいました。

 曾祖父の遺言では、これを30年後に公開してほしい、ということだったのだそうですが、「30」年後の西暦「2000」年というふうに、いずれも偶然きりの良い数字なので、『曾祖父が勝手に決めたんだろう、本当はまだ時期が早いのかもしれない』と思った母は、それからしばらく待ってみることにしたそうです。
 ところが、しばらく待ってはみたものの、近頃「お婆ちゃん」と呼ばれてちっとも腹が立たなくなっている自分に気が付くと、焦りを感じ始めたのだそうです。『遺言を実行する前に、自分の寿命が尽きてしまっては何にもならない』と。そう思っていた矢先、体調を崩して病院通いを繰り返すようになってしまいました。
 そこで急遽相談を受けた私は、なけなしの知恵で一つの提案をしました。それは、ホームページにこれを掲載して、それをインターネットの中に置いておくことです。そうすると、もしこの情報が世の中から必要になれば、自然に必要としている人の目に触れることになりますよね? 雑誌に掲載するのとは違って、これなら誰にも迷惑が掛からないでしょう。
 この日から私は、それまでもっぱら友達とのメールの遣り取りとか、ホームページの閲覧やブログへの書き込みだけに使っていた家のパソコンで、とにかくそのノートの文字を毎日こつこつと入力することにしたのです。その後は以前にもお伝えしたとおりで、田野さんにお願いしたというわけです。ですから、今はアクセス数が少なくても一向に構わないのです。
 もし厭でなければ、なにとぞよろしくお願い致します。
 良いお返事を、お待ち致しております。
10月26日 長澤美世

 私は、「アクセス数云々(うんぬん)」の部分で思わず苦笑いしながらも、やはり感心してしまった。どうやら彼女は、人を傷つけずに自分の言いたいことをはっきり言うという技も持ち合わせているようだ。彼女のことをますます気に入ってしまった私は、手紙を全部読み終えてから思った。
『文字を入力してくれているのなら、大して手間は掛からないかも知れない……。
問題はその内容だ。自分のサイトの趣旨に、そぐわないものであっては困る。』
 私は早速、その返事をメールで送った。

長澤美世様

 お手紙拝見しました。アクセス数が少ないのは当サイトの誇りです!(笑)
 冗談はさておき、そのようなことであれば、まずその文字を入力したファイルをメールに添付して送ってもらえませんか? その内容が、当サイトの趣旨に沿ったものであれば、お引き受けすることに致しますので。
 まあ、既にそのノートの内容をご存知のあなたが、私のホームページをご覧になって私をご指名なさったのですから、多分こちらに掲載しても違和感がないんだろうとは思いますが……。

 さてさて、ここで一つ気になることがあります。これを引き受けた途端、例の「邪魔が入る」なんてことはないでしょうね? 厭ですよ。パソコンが故障したり、オペレーターが入院したりするなんてことがあっては(笑)

  田野呵々士

 これに対する返事は、「genkou.zip」という圧縮ファイルが添付されたメールで届いた。

田野呵々士様

 早速の良いお返事、誠にありがとうございます。「大船に乗ったような」とは、このような気持ちのことを言うのでしょうか、これで母の長年の希望をかなえてあげることができると思うと、とにかく嬉しくて。頼りにしております。

 さて、田野さんは心配されておられるようですが、この作業に「邪魔」が入ると私には思えません。なぜなら田野さんの山の暮らしは、お送りした原稿に書かれている人々の生き方と、相通じるものがあるように思えるからです。これは、成るようにして成ったこととしか思えません。何事もそうなのでしょうが……。
 もし掲載して頂けるようでしたら、このようなことをお願いするのですから、まずはご挨拶も兼ねて元原稿のノートを携え、そちらにお伺いすることにしたいと思いますが、お時間を取って頂けるでしょうか?
 調べましたところ、新潟からフェリーが出ているようですが、それで行けばいいんですよね?

☆..*・°長澤美世

『「大船に乗ったような」か……
まだ引き受けたわけでもないのに、随分気の早い人だなぁ。』
 と思って苦笑しながら、私はまずその添付ファイルを右クリックして「すべて抽出」してみた。それは、サイズが995KB(ケーバイト)の Shit_JIS という文字コードで作成されている txt ファイルであった。1KBは1024B(バイト)であり、この文字コードでは日本語の1文字が2バイトになる。それで換算すると、全部で約51万字ということになるのだろうか。とすれば、なかなか手強(てごわ)そうだ。私は早速それを開いて目を通してみた……。
 ……それは、いくつかの部分からなる「物語」であった。私はその世界に思わず引き込まれて行き、ある場面では腹を抱えて笑い、ある場面では目頭が熱くなった。しかし何よりもまず、全体に一貫して通っている何かに強い引力を感じた……。
 読み終えた私は、早速長澤さんにメールを書き送った。

長澤美世様

 添付ファイルを実に興味深く読ませて頂きました。そして、読み終えた私の胸に一つの思いが浮かびました。「このような重大なことを、この私が引き受けて良いものだろうか?」ということです。
 私は、大学などできちんと勉強したのではなく、世間から文筆活動を認められているわけでもありません。そして謙遜ではなく、自分は本当に文章が下手だと思っています。
 しかも、私は心の中に大きな問題も抱えているので、一般社会からかなり距離を置いて生きています。こんな私に、この物語を公開する資格があるのでしょうか?
 この私にお任せ下さることを決定なさるのは、とにかく一度お会いして、私がどんな人物なのかを知って頂いてからでも遅くはないと思いますよ。

 新潟からは、フェリーの他にジェット高速船と飛行機も出ていますが、天候によってはフェリー共々欠航します。特に、これから活発になる冬型の気圧配置には要注意です。
 いずれにしましても、島にご到着の際には車でお迎えに上がりますので、乗り物と出発の日時などが決まり次第ご連絡下さい。

  田野呵々士

 というわけで、その後長澤さんと何度かメールの遣り取りをして調整をした結果、2004(平成16)年12月4日土曜日、私はこの双美ヶ島(ふたみがしま)の玄関とも言える港、双津港(ふたつこう)に赴くこととなった。
 午後3時少し前、港に隣接する30分間無料の駐車場に自分の軽自動車を停めた私は、それを降りてドアをロックすると、広い道路を横断して、目の前の双美汽船ターミナルビルへと入って行った。薄暗い階段を上ると、やがて大きな窓のある明るい二階に出る。そこから出口改札までの十数メートルの通路の両脇には、家族や知人などを出迎える何人かの人たちが並んでいる。私もそこに加わると、改札口の奥の通路から乗客が現れるのを待った。
 フェリーの到着時刻が過ぎると、やがて大勢の人が石の廊下を歩いてこちらに近付いて来る靴音が聞こえて来た。間もなく、その人々の先頭が廊下の角から姿を現わした。長澤さんからのメールによると、彼女は白いコートを着ていて、つばのある紺色の帽子を被っているとのことなので、こちらに向かって次々とやって来る、色とりどりの服を着た人の群れの中から、私は懸命にその色の組み合わせを探した。
 人の群れは次第に密度を濃くしたが、その後次第に疎らになり、それと比例して出迎えの人の数も疎らになってきた。ここでようやく、探していた白と紺の組み合わせが私の目を捉えた。まだ二十過ぎくらいと見られるその女性は、私と目が合うと確信したような微笑(ほほえ)みを浮かべた。
 男なら誰でも少しは期待することなのだろうが、彼女の外見は私が想像していた以上に可愛らしかった。でも、人間中身が肝腎だ。それは、彼女が身に着けている服の中身?……いやいや、「それに興味がない」と言うと嘘になるが、今私が言わんとしているのはそうではない。顔がちょっと美しいがゆえに、子供の頃からチヤホヤされた結果、なんとなくわがままになっている女性もいるからだ。
 彼女が改札を抜けると、私は近付いて声を掛けた。
「長澤さんですね? 田野呵々士です。」
 その女性は、明るく歯切れの良い声で応じた。
「はい、長澤美世です。よろしくお願いします。」
 そして、軽く頭を下げた。私も同じように一礼しながら言った。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
 私は、片手を差し伸べながら言った。
「……お荷物持ちましょうか?」
 右手には重そうな旅行用のバッグ、左手には軽そうな紙袋を持っていた彼女は、左手の荷物を私に差し出して言った。
「あ、どうも済みません。」
 この反応によって、彼女が素直な性格であり、謙虚さも備えていそうだということがわかった私は、微笑んでその荷物を受け取った。
 私たちは、ビルの出口へと続く階段を降りて行った。その途中、島外からの来客への決まり文句のようになっている言葉が、私の口からごく自然に流れ出た。
「船は揺れませんでしたか?」
 彼女は明るい声で言った。
「ええ、少し揺れてたように思いますけど、全然気になりませんでした。」
 それを聞いた私は、ホッと安心した。昔に比べると、乗り物酔いをする人はかなり少なくなったようだが、電車や車に酔わなくても船には酔うという人はいるからだ。
 汽船会社のターミナルビルを出ると、彼女は意外そうに目を見張って言った。
「東京より、こちらの方が少し暖かなんですね。」
「そうでしたか。それは意外でしたね。」
「ええ。それに、双美ヶ島(ふたみがしま)って大きいんですね。高い山もあるし。」
「そうなんですよ。私も初めて来たときには驚きました。」
灰色の雲  そのような当り障りのない会話を交わしながら、私たちは歩道伝いに歩いて、私の愛車を停めてある駐車場へと向かった。空は冬の日本海側ではお馴染みの、灰色の厚い雲に覆われており、彼女の黒く長い髪が風に揺れた。帽子が飛ばされるのを防ぐため、彼女は空いている方の手でそれを押さえた。私は、彼女の心中を察したような口調でこう言った。
「ハハ、とんでもないところに来てしまいましたね。」
 しかし、彼女は真剣な顔でそれを否定した。
「いえ、私、今回来れてとっても嬉しいんです。冬の日本海って憧れだったんで。歌も多いですし。」
 そう言われると、なぜか冬の日本海を題材にした歌詞が多いことに私は気が付いた。そのほとんどは演歌だが。
 横断歩道を渡り、駐車場に入って、紺色の小さな軽自動車の運転席のドアにキーを差し込みながら、私はそのことがちょっと気になったので、横に立っている長澤さんに向かって尋ねてみた。
「普段は、どんな音楽をお聴きになってるんですか?」
 彼女は微笑んで答えた。
「大体なんでも聴きます。洋楽から邦楽、新旧問わず。」
 それなら私と同じだ。どうでもいいようなことであるが、私はなぜかそれが嬉しかった。
 車の後ろを回った私は、後部座席左側のドアを開けながら、彼女に向かってこう言った。
「汚い車で申し訳ありませんが、さあどうぞ乗って下さい。」
「いえ、汚くなんかないですよ。ありがとうございます。」
 彼女はそう言って身を屈めると、持っていたバッグをまず奥の席に置き、本人はその手前の席に座った。そのドアを閉めた私は、再び車の後ろを回って運転席のドアを開けると、彼女から預かった紙袋を助手席に乗せて、自分は運転席に座った。
 そのドアを閉め、シートベルトをした私は、車のエンジンを掛けた。
 車が走り出して間もなく、彼女が尋ねた。
「田野さんは、この島に来られてから何年になるんですか?」
 車を運転している私は、ルームミラーに映る、化粧気がないが端整のとれた色白の顔を、ちらっと見上げて答えた。
「あれよあれよという間に、もう十四年が過ぎましたよ。」
 長澤さんは感動したように言った。
「へー、すごーい! よほど気に入っておられるんですね!?」
 私は車を左折させながら言った。
「……まあね。生きて行くだけなら、どこに住んでも同じなんですけど。
……ただ私、雪景色が好きなんです。そこでの生活は、一言では説明することができないほど大変なんですけど、その大変さにも増して、それまでの自分の穢(けが)れを清めてくれるような景色と、空気の冷たさ、そしてその後劇的に到来する春が、また何とも言えなくてね。
元々、草や木や虫や鳥などの、自然の生き物に囲まれて生活するのが好きなんですね。そういったものが、一応全部揃ってるんですよ。今の我が家には。」
 彼女は嬉しそうに言った。
「そうなんですかー! それを聞くと、お伺いするのが益々楽しみです!」
「雪景色だけは、まだ早くてお見せできませんけどね。」
 今夜は我が家で夕食を食べてもらい、その後長澤さんが予約している町の旅館まで、彼女を送り届けることになっている。
 彼女は興味深げに尋ねた。
「雪って、いつ頃から降るんですか?」
「そうですね、もう降ってもおかしくない時期ですよ。でも、積もるようになるのは今月の終わり頃ですかね。年によって差がありますが。」
「その頃は、今よりもっと寒いんでしょうね。」
「ええ。でも海に囲まれて暖流に洗われてるせいか、同じ県でも本州側の内陸部に比べれば、かなりましなようです。雪の量もね。」
 私は、町の裏通りの路上に車を停車させながら、話しを続けた。
「……しかも、冬の日本海はいいんですよ。これの肴(さかな)が。ご覧になりますか?」
 私は、「これ」と言ったところで、片手を口元に持って来ると、彼女に向かってお猪口(ちょこ)を傾ける仕草をして微笑んだ。それを見た長澤さんも、微笑んで言った。
「へー、それはいいですね! 是非見てみたいです!」
 どうやら彼女も飲める口のようだ。
 私がドアを開けて車から降りると、彼女もそれに続いた。
 しばらく路地を歩いた私たちは、鉄筋コンクリートの二階建ての建物の、出入り口の前に立った。その自動ドアが開くと、私はその中に長澤さんを案内した。私は敢えて買い物をするとは告げなかったので、彼女は案の定驚いた。
「へー! ここ、お店だったんですか? どこに入るのかと思いましたよ!」
 その看板のない建物はスーパーマーケットで、店内の照明は明るく、大勢の客で賑わっている。
 野菜や果物、インスタント食品などの品々は、近頃では日本全国どこもあまり変わらないようになってしまったが、私は島外から来た人には、なるべく地元の特産物を見せるようにしている。すると大抵の人は、どの品目も興味深く見てくれる。私は、彼女にあれこれとその説明をしながら、やがて海産物のコーナーへと進んだ。そこには、この島が誇る旬(しゅん)の品々が所狭しと並んでいた。
「えー? 信じらんなーい! こんなに活きがいいのに、なんでこんなに安いのーっ!?」
 彼女は、ラップの掛けられた白い発泡スチロールのトレイを一つ一つ手に取って見ながら、感動の声を上げていた。そうだ。私がこの島に初めて来たときと同じ感動を、彼女も今味わっているのだ。私は、なぜかそれがとても嬉しく思えた。
 既に豆腐や葱などを入れてあるこの店の買い物篭の中に、私は海産物が入ったいくつかのトレイも加えた。
 レジで会計を済ませ、代金を支払おうとした私が、自分の財布の中から小銭を数えて取り出しているすきに、長澤さんはレジの女性に千円札を手渡すと、私に向かってこう言った。
「これは、あたしに出させて下さい。今回は、こちらがお仕事をお願いするために、わざわざお時間を取って頂いたんですから。」
 この場所で押し問答するわけにもいかなかったので、彼女がお釣りを受け取ると、私はその買い物篭を持って取り敢えず移動し、いつも持参している自分の買い物袋の中に、買った物を詰め替えながらこう言った。
「それじゃ、割り勘ってことで……。」
「いえ、どうか全部こちらで出させて下さい。母からそう言われて、あたしお金を預かって来たんです。これで割り勘にでもしたら、あたし犯罪者になってしまいます。」
 その冗談が面白かったので、私は笑って言った。
「ハハハ、わかりました。それなら、お言葉に甘えさせて頂きますよ。」
 買い物を済ませて店を出た私たちは、再び車上の人となった。
 私は後ろの座席の長澤さんに頼んで、先ほど買った海産物を、保冷剤の入ったクーラーボックスの中に収めてもらった。車で外出するとき、私はいつもこの箱を積んで出ることにしている。その蓋を閉じた長澤さんが、悪戯(いたずら)っぽく言った。
「フフフ。もしかしてこれも、この島から田野さんが離れられなくなってる理由の一つなんですね。」
 私も微笑んで、それを肯定しつつ言った。
「まあ日本海沿岸は、きっとどこども、こんなふうなんでしょうけどね。」
 やがて市街地を抜けると、左手に低い山、右手に湖が見えてきた。車は、県道を西南の方角へと疾走している。ルームミラーには、長澤さんの左の横顔が映っている。そこから発せられた声が、頭の後ろから聞こえた。
「あの湖にたくさん浮かんでる、あれってなんですか?」
「牡蠣(かき)の養殖のための筏(いかだ)です。この湖は塩水湖なんでね。
この島は、県内でも有数の養殖牡蠣の産地なんですよ……。」
 私は運転しながら、この島特有の動植物についてあれこれと説明した。すると、彼女が予約をしている町の旅館に、あっという間に着いてしまった。私は旅館の駐車場に車を停めると、後部座席の方を振り向いてこう言った。
「ここが、その旅館です。荷物置いて来ますか?」
 彼女は首を横に振って言った。
「いえ、いいです。荷物の中には、元原稿のノートとかの資料が入ってるんで。
それより、助手席に座らせて頂いてもいいですか? 後ろだと視界が狭いので……。」
 私は、なぜか一瞬ドキッとしたが、助手席のドアのロックを解除すると、勤めて平静を装って言った。
「ええ、構いませんよ。」
 彼女は一旦車を降りて助手席のドアを開けた。私がそこにあった荷物を後ろの座席へ移すと、彼女は助手席のシートに座ってドアを閉めた。私がエンジンを掛けても彼女がシートベルトをしなかったので、私はベルトの仕方を説明した。
「一応シートベルトして下さい。安全運転を心掛けますが。……わかりますか? そう、それそれ。ゆっくり引っ張ると出て来ます……。」
「あ、どうも済みません。通勤は地下鉄だし、普段から全然車に乗らないので何も知らないんです。」
 彼女が照れながらそう言ったので、私はこう言った。
「いや、斯(か)く言うこの私も、車のことは必要最小限のことしか知らないんですよ。ここでは公共の交通機関が、都会のように発達していないんで、仕方なく自家用車に乗ってるんです。そのうち、牛か馬にでもしようかと思ってるくらいですよ。」
 彼女は笑ったが、これはただの冗談ではない。私はいつかそうしたいと真剣に思っているが、その理由を説明しても世間の人には、多分わかってもらえないだろう。私はこれを冗談として済ますことにし、ギアーを入れて車を発進させた。
 しかし彼女は、私の真意をちゃんと汲んでいたようで、やや真剣な口調でこう言った。
「ハイブリッドカーとか、太陽電池車とかが、もっと安く手に入るようになればいいんですけどねぇ。」
「そうなんですよ。そういう車が早く市場にバンバン出てきてくれれば、いずれ私もその恩恵を被ることになれるんで、お馬さんのお世話にならなくても済むんでしょうけどね。
……なんだ、あなた『何も知らない』って言ったけど、肝心なことはちゃんと知ってるんじゃないですか。」
 私がやや感心したようにそう言ったので、彼女はまた少し恥ずかしそうな口調で言った。
「田野さんとメールを遣り取りするようになってから、新聞のこういう記事が目に止まるようになってきたんです。それまでは素通りだったんですけど……。」
 私は嬉しくなったが、控え目にこう言った。
「うーん、それは役に立っているのか……余計なことを教えてしまったのか……?」
 彼女は悪戯っぽく言った。
「余計なことじゃないと思いますよ。まだ全然役に立ってませんけど。」
「ハハハハ!」
 私たちは、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
 この町から小さな山を一つ越えた山間地の集落の中に、我が家はある。
 蛇行する県道を登って行くうちに、道路脇の木々の隙間から、この島で最も高い山が眺望できる長い直線部分に差し掛かった。私はそこで車を一時停止することにした。
 島の中央にある広々とした平野部の向こう側で、その山は雄大にそびえていた。灰色の雲の下のその頂(いただき)には既に積雪がある。それを指差した彼女は、声を弾ませて言った。
「いい眺めですね! 高さは何メートルくらいあるんですか?」
「端数は忘れましたが、千百メートルほどあります。」
 彼女は、コートのポケットからデジカメ付きの携帯電話機を取り出すと、窓越しにその風景を写そうとしたので、私は手元のパワーウインドウのスイッチを押して助手席の窓を開けながらこう言った。
「ちょっと待ってて下さい。今窓が開きますから。」
「はい、どうも済みません。」
 カメラを構えたままで、長澤さんはそう言った。窓からは冷涼な空気が入って来て、彼女の黒髪をなびかせた。それはこの清々(すがすが)しい風景と合っていて、とても美しかった。これが近頃流行の、けばけばしい色で染められた髪だったら、そうは感じなかったことだろう。
 ここで私は、この長澤美世という女性に対して、自分が特別な思いを抱き始めているということに気が付いた。それは、彼女と初めて目が合ったときから既に始まっていたのだろう。無意識のうちに……。
 彼女が風景の撮影を終えたので、私は窓を閉めて再び車を走らせた。
 私事になるが、私は数年間連れ添った妻と昨年3月に離婚したところだった。彼女との交際はまず、この物質文明に対して疑問を持っているという点で意気投合したというところから始まった。そして、成り行きの結果同じ部屋に寝起きするようになってから、彼女に対する恋心が芽生えていくというものであった。
 しかし付き合いが深まれば、当然のことながら相手の欠点もそれと同時に見えてくる。彼女の性格のある部分がどうしても好きになれなくて、私は別れようと試みたことが何度かあった。
 しかし一人になってみると、彼女と一緒にいたときのことが懐かしく思い出され、寂しくて堪らなくなった。そのあいだ他の女性を好きになろうと試みたが、それはなぜかできなかった。私は、何度か一人になってそのことを確認すると、彼女にプロポーズした。今の私には彼女以外にはないと確信したからだ。彼女もそれに応じてくれて、二人は結婚することになった。
 ところがまだ結婚する前のある日、何かのことで口論となり、私は自分には「愛がない」と言った。それは自分が育ってきた環境のことを指していたのだったが、彼女はその言葉を彼女自身に向けられたものと誤解した。彼女は相当ショックを受けたようだったが、その時は私に何も言わなかった。そして、私に言う代わりに、自分の友人や周囲の人間に私の悪口を散々言い触らして回った。結婚後それがわかってから、私は彼女のその先走ったひどい仕打ちに愕然とした。
 もし、彼女があのとき私に面と向かって「自分のことを愛していないのか?」と問いただしていたなら、私は「君を愛していないのではなく、子供の頃からの相次ぐ特異な体験から、私は人間そのものに対して不信になってしまったのだ。」と、自分の心の悩みを率直に打ち明けることができたに違いない。そうすれば、お互いにもっと信頼し合える関係を築けていたことだろう。
 しかし、この問題で彼女を責めても仕方がない。彼女は人間であり、人間として正常に勘違いをしたからだ。ただ、その反応の仕方が多少大人げなかっただけだ。これと同じようなことが原因による勘違いによって、私との人間関係が今までいくつも壊れている。私と正常な関係を保てる人間は、私のことを全面的に信頼している無垢な心の持ち主か、逆に仏様のような広い心の持ち主くらいだろう。
 その後私は、妻との関係を何とか修復しようと試みたが、私から愛されていないと一旦思い込んでしまった彼女の心は石よりも固かった。
 そのような状況の中で、十九歳から九年間片思いだった女性と、私はある場所で偶然再会し、目が合ってしまった。私はそのとき敢えて、その女性とは一言も言葉を交わさずそれっきりにしたが、そこから帰宅した翌日は丸一日寝込んで、そのまた翌日からは涙を流し続けた。私は、自分のことを憎む妻よりも、その片思いの女性の方に再び愛を感じるようになってしまったのだ。
 そうすると、男というのは正直というか何と言うか、妻に対して完全に勃起しなくなってしまったのである。以前は採れたての胡瓜のようになっていたものが、この日を境にして傷んだバナナくらいにしかならなくなってしまったのだ。このような変化に対して女性は特に敏感だ。妻はついに激しく離婚を迫ってきた。その理由は、「あなたの性格が嫌いだから」とのことだった。妻は否定していたが、私の稼ぎが少なかったことも、その大きな理由の一つだろうと思う。
 今までの私なら、このような申し出があると、二人の間にできた子供が可哀想だからと妻を説得して、その都度離婚を回避していたのだが、今回は反対を表明することはしたが、説得するまでには至らなかった。そして、最終的には協議離婚という形を採った。
 これによって、私は我が子と別れる寂しさを味わったが、その一方で妻とのこじれた関係に終止符を打つことができた。これをパソコンに喩えれば、二つのプログラム同士の不具合によって生じたエラーを検証することなく、プログラムを強制終了させてしまったということになるのだろうか。これは問題の根本的な解決にはなっておらず、二人の精神的な成長にとってほとんどプラスになっていない。それが何とも残念だった。
 このような離婚騒動があってから、私は今まで漠然としていた一つのことをはっきりとさせることができた。それは、私が子供の頃から抱え込んでいる複雑な矛盾(むじゅん)と葛藤(かっとう)を理解できる者は、誰もいないということだ。それがわかっただけでも充分だ。もう誰からも理解されなくていい。どうせまた同じようになるに決まっているから。それなら、最初から人と深く付き合わなければいい。以前からそのような傾向があったが、この離婚を切っ掛けにして、私は更に徹底してそう思うようになった。
 このように、人と付き合うのが苦手な私にとって、元妻はその例外中の例外だったわけだが、彼女も仏様ではなく、ただの人だった。世間の常識を逸脱した私の言動を自分の尺度で捉えて、私の心の中まで自分勝手に解釈してしまうような人は、もうたくさんだ。その解釈を私に確認してくれるならまだいい。私に何の確認もせず、自分の思い込みで、攻撃してきたり、ぐいぐいと事を進めていくような人と、無理に付き合いなどする必要はない。
 しかし、この長澤美世という女性はどうだろうか? 私のホームページを見て共感してくれたのだ。
『もしかして、私の良き理解者となってくれるかも知れない。……付き合っている男性はいるのだろうか? もしいるなら、今回その彼と一緒に来ただろう。ということは、いないということだろうか? いやいや、こんな魅力的な女性に男がいないなんてことがあるわけない……。』
 などどいう思いが、私の頭の中をぐるぐると駆け巡った。すると、隣に座っていた長澤さんが、心細そうな声を上げた。
「あのー、田野さん・・・何か怒ってるんですか?」
 私が急に黙り込んでしまったので、彼女は不安になったようだ。私はつくり笑いなどせず、真面目な顔で正直に言った。
「いえ、ちょっと考え事をしてしまいました。済みません。」
「謝らないで下さいよ・・・誰か他の人のことですか?」
 伏せ目がちにそう尋ねてきた彼女に対して、私は少し嘘を言った。
「いえ、人のことではなく仕事のことなんで、どうか気になさらないで下さい・・・」
 丁度良かった! このとき車は我が家の中庭に入ったからだ。私はホッとして車を停めると、声高らかに言った。
「お疲れ様でした! ただ今到着致しました~!」
 私はシートベルトを外して車から降りた。長澤さんも気を取り直したようで、シートベルトを外しながら明るく言った。
「運転お疲れ様でした!」
 ドアを開けて車から下りた彼女は、母家を見上げるなり嬉しそうな声を上げた。
「あーっ! ホームページとおんなじだー!」
 この当時の私のホームページのトップには、この母屋を正面から写した写真が使ってあったからだ。私は、その冒頭の文句を、文章読み上げ風に機械的に言ってみせた。
「ようこそ、山の我が家へ!」
 楽しそうにケラケラと笑ってから、彼女はこう言った。
「……もっと山奥なのかと思ってたら、意外と町に近いんですね。」
「そうなんです、車があるからね。もし、これがなかったら大変ですよ。」
 小さな愛車を指差して私がそう言うと、長澤さんはやや真剣な表情になってこう言った。
「そうなんでしょうね。」
 しかし、すぐ笑顔に戻った彼女は、再び明るく歯切れの良い声で言った。
「畑、見せてもらってもいいですか?」
「もちろんです。」
 私は縁側に置いてあった鎌を手に取ると、彼女を我が家の畑に案内した。
「へー! すっごく広いんですね!」
 彼女が感動したようにそう言ったので、私は手を横に振りながら苦笑いして言った。
「いえいえ、これ全部じゃありません。この草が全然生えてないのが大家さんの分で、私が使わせてもらっているのは、こことあそこ……。」
 私は草と野菜が渾然一体となっている場所を指差してからこう言った。
「……でも、一人暮らしなんで、これだけでも充分なんです。」
 彼女は目を見張って言った。
「それじゃぁ、野菜は全部自給できてるとか!?」
 それに対して私はこのように言った。
「いえ、そんなことはありません。よく買ったりもしますよ。現にさっきも葱を買ったでしょ?
本業が農業じゃないんで、他のことで忙しいと、白菜の種蒔き時期を逃してしまって結球しなかったりとか、葱を蒔くのを忘れてしまった年とか、いろいろと番狂わせがあるんもんで。ハハハ。
でも、大家さんをはじめ、近所の方々がたまに、お米や野菜、果物などを下さるので、とても助かっています。この島に住んでから四軒目の借家ですが、どこへ行ってもご近所から農作物などを頂くことは同じで、本当にありがたいことだと思ってます。こっちは素人園芸なので、それに対してお返しできるような物は、いつもほとんど何もありませんが、みなさん元からそんなことを期待しておられるんじゃないみたいですね。」
 長澤さんは感心したように言った。
「へー、親切な人たちなんですね。」
「そうなんです。都会とは別の意味で豊かなんです。」
 私は、やや真剣な表情になると、その説明をした。
「都会では、お金は儲かるかも知れませんが、お金そのものを食べても美味しくも何ともありませんからね。ところがこっちでは、水産物、農作物、畜産物、そしてそれらの加工食品が豊かだし、それらをつくってる人の心そのものが豊かなんです。そのご厚意に対して、いつも新鮮な感謝の気持ちでいられるように心掛けてますけどね。」
 彼女は、納得したように言った。
「なるほど。」
 私は、畑に植わっている白菜の中で、まともに結球しているものの一つを指差して言った。
「さあ、これを今夜食べることにしましょう。ご自分で収穫してみますか?」
 彼女は嬉しそうだが、やや困ったように言った。
「ええ。でも、白菜が土に植わっているのを、こんなに近くで見るのも初めてだし、収獲するのも初めてなんで、どうしていいのかわかりません。」
 私は、その白菜を左手で少し傾けると、地面の上に広がっている緑色の葉と地面とのあいだの隙間に右手に持った鎌を差し込んで、それをぐっと引いた。すると、鎌は白菜の太い茎に少しだけ食い込んだ。
「さあ、この続きをやってみて下さい。」
 彼女は鎌の柄を両手で持って引いたが、それは微動だにしなかった。
「ただ引っ張るんじゃなくて、勢いを付けてぐっと引くんです。」
 彼女は言われた通りにした。すると、鎌は白菜の茎に更に食い込んだのがわかった。
「そうそう、その調子。」
 同じようにしてまた何度か鎌を引くと、ついに白菜は茎から切り離されて地面の上に転がった。長澤さんは、嬉しそうな歓声を上げた。
「やりました!!」
 私は微笑んで拍手しながら言った。
「大成功!」
 私はその白菜を拾うと、外側の傷んだ葉の何枚かをむしって畑に捨て、きれいになった中身を彼女に渡しながら言った。
「それでは、これを持って後に付いて来て下さい。」
 長澤さんは、その白菜を赤子のようにして片手で胸に抱いた。彼女がもう片方の手に持っていた鎌を預かった私は、別の畝の大根人参を一本ずつ引き抜いた。
収穫期の椎茸  やがて私たち二人は、薪小屋の横に来た。そこには、長さ九十センチほどの皮が付いたままの木の幹が、何本か斜めに組んである。私は、それを指差して言った。
「あれ、何かわかりますか?」
「もしかして椎茸のホダ木(ぎ)?」
 私は感心して言った。
「ほう、よくわかりましたね。」
「田野さんのホームページで初めて知りました。」
「それは良かった。ハハハ。」
 そう言って笑った私は、そこから大きな椎茸六個をもぎ取った。それを自分が着ていたコートのポケットに入れると、私は彼女を母屋へと案内した。

 午後四時三十分。外は既に暗くなっており、我が家の母屋正面中央に位置する十畳敷きの部屋には明かりがともっている。
 この部屋は、この島で「おまえ」と呼ばれていて、古い農家には必ずと言っていいほどあり、祭りや会合などといった人が大勢集まるようなときに使用される。その正面奥の壁の上部には、必ず神棚が据えられている。
 我が家の場合、冬になるとこの一室が、寝室、居間、仕事部屋、食堂そして客間といった、ありとあらゆる用途を兼ねることになる。もっとわかり易く言えば、台所と風呂場と便所以外で使用するのは、冬はこの部屋一つだけだということだ。そうすると、暖房はこの部屋の薪ストーブたった一台で済ませることができるのだ。
 このストーブが、毎日のようにみぞれか雪が降るこの地方の冬季の洗濯物干しには欠かせない。ストーブの真上に干すと引火して火事になる危険性があるので、その斜め横に吊るすのだ。そうすると我が家では、「加湿器」などというものも不要になる。この洗濯物の水分がその役割を果たしてくれるからだ。
 要するに、世間一般の人が電気や灯油やガスでしていることを薪や木炭などでしているだけのことだ。このようなエネルギーシステムは、ほんの半世紀前の日本の山間地ではごく当たり前のことだったのだろうと思う。我らの先人たちが数万年の歳月を経て改良を重ねてきた、自然と一体化した無駄のない生活だ。
 但しこのような暮らしをしようと思えば、薪つくりや火おこしといった労力が不可欠になってくる。私は現金収入を得ることよりも、そちらの方に時間を割いているというわけで、好きなビールや日本酒が自宅では盆正月くらいにしか飲めないという貧乏暮らしをしているわけだが、それでも一向に構わない。むしろ、そのような頻度でしか飲めないからこそ、それらが事のほか貴重でありがたく、しみじみと味わうことができるのである……
 いやいや……自分の経済的無力さを美化するのはこのくらいにしておいて、話しを元に戻すことにしよう。
 その部屋「おまえ」の天井の中央には、私が新たに取り付けた現代風の照明器具がぶら下がっており、そこには電球型蛍光灯が取り付けられている。一般の白熱灯と同じ明るさでも、それよりずっと低い消費電力と高い耐久性があるので、単価は高くとも、結果的には安く付くというものだ。しかし、蛍光灯の昼光色とやらの白い光があまり好きでない私は、裸電球のような暖かいオレンジ色の光を放つ電球を用いている。
 部屋の隅に置かれている、薪ストーブの煤けたガラス窓からは、中の赤い炎がちらちらと見え隠れしている。
 部屋中央の炬燵(こたつ)の脇には、東京の老舗(しにせ)の漬物が入った紙包みが置かれている。私に間食の習慣がないことを知って、長澤さんは菓子ではなくこれを手土産に選んでくれたのだそうだ。なかなか気の利く娘だ。先ほどその挨拶を済ませた彼女は、コートを脱いで暖かそうな茶色のセーター姿になっている。
 その彼女は、自分のバッグの中から紙袋を一つ取り出すと、その中からA4サイズの古びたノートを何冊か取り出して、それを炬燵板の真ん中に重ねて置いているところだった。
 たった今、盆を持って台所から戻って来たところだった私は、そこに乗っている二つの湯呑みのうちの一つを、炬燵の中に膝を入れている長澤さんの目の前に置いた。そしてもう一つを、ノートを挟んだ向かい側の席に置くと、そこに座って炬燵に膝を入れながら言った。
「謙遜(けんそん)ではなくて、本当に粗茶(そちゃ)ですが、どうぞ。」
 彼女は一瞬自分の目の前の湯呑みを見たが、そんなことはまるで気にしていない様子で私に言った。
「あ、どうも。」
 私は、彼女と自分のあいだに置かれているノートに目をやりながら言った。
「……なるほど、これがあの原稿の原本ですね。」
 彼女はその数冊のノートを、私の方が要(かなめ)になる扇のように広げてこう言った。
「そうなんです。この上の古い方の七冊は橋本教授が書いたそうで、この一番下の新しい一冊は、私の母が若い頃に、祖父の話しを録音したテープから起こしたものなんだそうです。」
 彼女はそう言うと、湯飲みを手に取って言った。
「頂きます。」
 茶を一口飲んだ彼女が、やや目を見張って言った。
「……これ、とても美味しいです。」
 私は笑って言った。
「ハハハ、それは多分お茶が美味しいんじゃなくて、水が美味しいんだと思いますよ。ちょっと待ってて下さいね……。」
 私は立ち上がると、また台所へ行って別の湯呑みに水を入れて持って来た。それを彼女に手渡しながら私は言った。
「これは、沸騰させて塩素を抜いた、ここの水道の水です。」
 その水の味見をした彼女は、感動したように言った。
「……なるほど、そうだったんですねー!
どこかに旅行に行って帰って来るといつも感じてたんですけど、昔の東京の水道水ってひどかったんですよ。近頃では、かなり改善されてきましたけど。」
 私は納得してこう言った。
「そうなんでしょうね。この小さな島の中でさえ、町の水と山の水とでは、味が全然違うんですから。」
 私はそう言うと、再びノートに目を移してこう言った。
「……拝見してもいいですか?」
 彼女は頷いて言った。
「どうぞ、どうぞ。」
 私は再び座って炬燵に膝を入れると、その一冊一冊のページをごく大ざっぱに捲(めく)ってみた。なるほど、茶色く変色した紙に鉛筆で書かれているその文字は、いずれも走り書きのようだったが、最後の一冊だけは比較的新しく、しかも丁寧に書かれており、その筆跡は確かに女性のものと思われた。
「……この古い方のを読み取るのは、大変だったでしょうね。」
 私のその問いに、彼女は明るい声で答えた。
「はい。でも、やっていくうちに書いた人の癖がわかってきて、だんだんと楽になりましたよ。」
 私はノートを閉じると、手の指先を茶の入った湯呑みで暖めながらこう言った。
「物語として書き直すには、相当いじる必要があると思いますよ。」
 私の予想に反して、彼女は嬉しそうにこう言った。
「ええ。じゃんじゃんいじって、田野さんの作品として出して下さい。」
 私は一瞬自分の耳を疑った。
「え? 今なんとおっしゃいました?」
 長澤さんは微笑んで言った。
「原作・田野呵々士にして頂いて結構です。母がそうしてもらってくれと言ってるんで……。」
 絶句してしまっている私に向かって、彼女は真剣な表情になると、やや口調を改めてこう言った。
「……曽祖父は、自分の仕事の成果として、これを世に出すことを望んだのではないんです。
特に……田野さんは既に読んで下さったんで、隠さずに申しますが……あのようにしてお亡くなりになった橋本教授がお書きになったものを、自分の名で世に出すなんて、曾祖父の良心がどうしても許さなかったんだろうって、母は言ってました。結果的には、自分が銃弾を避けるための、盾にしてしまったんですからね……。
だからこそ、隊長さんがお亡くなりになる際に頂いた七冊のノートを、長いあいだ発表もせずに天井裏に隠しておいて、今際(いまは)の際(きわ)になってから、ようやく孫である私の母にその在り処を教え、南の島で起きた事件のことも打ち明けられたんだろうと思います。
そのため、むしろこれは、第三者の名義によって、フィクションとして出してもらった方がいいんです。」
 私は目を丸くして言った。
「えーっ! それじゃ、もし万が一これが出版されたりしたら、印税はその作者のところに行ってしまうんですよ!!」
 彼女はまた嬉しそうに言った。
「いいんです、それで。ボーナス代わりに受け取って頂ければ。」
 私は、思わず唸って言った。
「うーん、もし私がその作者なら、そんなことはできませんねぇ。」
 彼女はここで、なぜかとても真剣な表情になると、やや言い難そうにしてこう言った。
「あの……、成り行きの結果出版なさるならともかく、初めから売ることを考えておつくりになられるのは、およしになった方がいいと思いますよ、田野さん。」
 私は不思議そうに尋ねた。
「はあ? そりゃまたなぜですか?」
 彼女はやや目を伏せると、珍しく考えながら慎重に言った。
「……いえ、なんとなくそう思うんです。……売ることを考えると、どうしても読者に受けることを考えてつくってしまいますよね……。そうすると、この物語が本来持っている意味が損なわれ、曾祖父の望みが果たせなくなってしまうような気がするんで……。」
 私は、やや冷静になって言った。
「なるほど、趣旨が変わってしまうということですか。」
「まあ、そういうことですね。売ることを考えると、世間の人に気を使ってしまって、書きたいことをはっきりと書けなくなると思いませんか?」
「そう言われるとそうですよね。今の日本で、『無駄な石油の消費をやめないと、そのうちこの世は滅びる。』だとか、『この世から生き物を減らして機械を増やし続けていると、そのうち人間も滅びてしまう。』だとか、『全ての戦争を認めてはならない。』などというようなことを書けば、反発する人がいて当然ですからね。
『国を良くしよう』、『地球を良くしよう』と思って何か意見を述べても、自分が個人的に攻撃されているものと勘違いしてしまうような、可哀想な人もいるみたいですし……。」
「それはどうだか、あたしにはわかりませんが、とにかく物語の本当の意味を損なわないようにしてほしいんです。
それと、以前にも手紙でお伝えした通り、この物語は歴史雑誌を一つ廃刊に追い込んでしまったほどの力を秘めているんですから……。あなたには、そのようなご迷惑をお掛けしたくないので。」
 長澤さんは、そう言って祈るように私の目を見た。
 私は納得して言った。
「なるほど。それなら、よくわかりました。」
「ですから、たとえ田野さんの名義になさっても、ちゃんとその手数料はお支払いしますので。」
 私は苦笑いして言った。
「私の作品として公開するんなら、手数料なんか貰うわけにはいきませんよ。」
「そうですか。そのことは帰ってから母と相談してみます。……引き受けて下さいますよね?」
 苦笑いしていた私は、なかば独り言のように言った。
「……うーん、どうしようかなー?」
 彼女は、可愛らしく微笑んで言った。
「お願いしますよ、ね、田野さん。」
 私にとって、それは天使の微笑みであった。そんな顔で頼まれると、ついつい心にもなく良い返事をしてしまいそうになるのだから、オジサンというものは全く哀れなものだ。それでも私は必死の抵抗を試みた。
「ご覧の通り、世間から遠ざかって細々と生きている、こんな冴(さ)えない私が書いてもいいんですか?」
 わざと自信がなさそうにそう言った私に向かって、彼女は真剣な表情でこう言った。
「田野さんが冴えないなんて、私、全然思ってません。冴えない人っていうのは、周囲の人と同じようなことしかできない人のことだと思います。田野さんは周囲から何と思われようとも、たとえたった一人になろうとも、ご自分の生き方を貫き通されてます。それは本当に強い精神力がないと、この国ではできないことだと思います。尊敬してるんです、あたし。」
 このような若い娘の煽(おだ)てにホイホイと乗ってしまうということも、オジサンの哀れな特徴の一つだ。彼女のその言葉がお世辞とはわかっていても、ついつい相好(そうごう)が崩れてしまう。私はまた苦笑いして言った。
「……それじゃ納期はいつですか?」
「納期はありません。田野さんができるときに、できるだけして頂いて結構です。但し、必ず完成させて下さいね。」
 それはありがたいことだ。私はついに決心して、こう言った。
「わかりました。それでは、お引き受け致しましょう。」
 彼女は胸の前で両手を組むと、目を輝かせて言った。
「あー良かったー! ありがとうございます! これで大手を振って家に帰れます!!」
 私も心の中で『良かった!』と言った。この喜びの表情。若い娘が無心に喜ぶこの姿。ただこれが見たいがために、多少困難な仕事でもホイホイと引き受けてしまうのだ。これこそ、オジサンの哀れさの極みである。
 彼女は、炬燵の上のノートを元のように紙袋に納めながら言った。
「私の入力した文字にミスがあるかも知れないので、それを確認して頂くために、一応このノートをお預けしておきます。」
「わかりました。それじゃ、これは大事に保管させて頂きます。」
 私はそう言って立ち上がると、彼女から受け取ったその紙袋をこの部屋の本棚の隅に立て掛けながら言った。
「さて、それでは一件落着というところで、夕食の準備をします。本でも読んで待ってて下さいよ。」
間取図
 私が長澤さんの方を向くと、彼女は部屋の隅の卓の上に置かれているテレビの方を向いてこう言った。
「これは映らないんですか?」
「ええ。裏山が障害になっているんで、ほとんど全く映りません。それでもビデオを見るために置いてたんですが、そのビデオの機械が今年の正月に故障してからは、もうずっと放ってあります。本来機械いじりは好きなんで、自分で修理してもいいんですが、そこまでしてビデオを見たいと思わないんですよ。そんな暇があったら、パソコンいじくってる方がずっといい。
……そうそう、ゲームしますか?」
 テレビの横の小さな炬燵の上に乗っている、デスクトップ型パソコンを私が指差すと、彼女は嬉しそうに言った。
「あら! デスクトップ型のパソコンが炬燵の上に乗ってるのって、あたし初めて見ました!」
 私は微笑んで言った。
「そうでしょ。夏はともかく、冬はこうして仕事をしてるんですよ。もちろん断熱のため、下に分厚い雑誌を挟んでますけどね。名付けて『コタツトップ型パソコン』。」
 彼女は、さもおかしそうにケラケラと笑った。私がそのパソコンの前に来てその電源を入れようとすると、彼女は炬燵から立ち上がりながら慌てて言った。
「あ、いいです、いいです! お夕食の準備、あたしにもお手伝いさせて下さい!」
 私は、やや真剣な表情で言った。
「世間からすれば大した夕食じゃないんで、お手伝いして貰うようなことはあまりないし、そもそもうちの台所かなり変わってるんで、やり方を一々説明するのが大変なんです。
しかも暖房がないんで、気温は外とあまり変わらないんですよ。まな板の上の水が、目の前でピリピリと凍っていく瞬間をもう何度も見てますから。」
 すると彼女は、嬉しそうに目を丸くして言った。
「えー? すごーい! あたしもそれ、見てみたいです! 冬の日本海の寒さを味わいたかったのもあるんで、どうかお手伝いさせて下さいよ!」
 『やめておいた方がいい』という意味で言ったつもりだったが、東京育ちの彼女には、それがかえって逆効果になってしまったようだ。私は苦笑いしながら言った。
「……今日はまだあったかい方なので凍らないとは思いますが……それではくれぐれも風邪を引かないように。」
 彼女は喜び勇んで言った。
「はい! コート着て行きます!」
 長澤さんは、炬燵掛けの上に畳んであった自分のコートを広げて着た。私も愛用の綿入れを羽織った。どちらもまるで外出するような格好だ。
 この家の台所は元々土間にあったのだが、私はそこを風呂場に改造し、土間と玄関の上がり口のあいだにある板敷きの四畳半を改造して台所にしている。
 「おまえ」の襖を開けた私たちは、暖かな空間を出て各自スリッパを履いた。空気は、まるで外のようにひんやりとしている。
 襖を閉めた私は、彼女をそこに待たせて一人真っ暗な台所に入ると、窓際の流し台の上に吊り下げられている長い蛍光灯と、部屋の中央に吊り下げられている裸電球の二つをともした。そして、玄関の上がり口で待っている長澤さんを呼んだ。
「どうぞ、こちらです。」
 彼女は、恐る恐るあたりを見回しながら、この古風な台所に入って来た。
 この家の襖の中に使われている古新聞の記事の中に、大正10(1907)年に書かれたものが見られるので、家そのものも築後百年近く経っているであろうと推測される。また、人が住まなくなってから既に27年は経っているようだ。2001年4月に入居した際、一室の壁に掛かっていたカレンダーは、1974年3月と4月のページになっていたので、そう推測することができる。
 旧台所で現在は風呂場となっている場所と囲炉裏部屋とのあいだには、真新しい竃(へっつい)があったが、ほとんど使用された形跡がなく、調理などは主に、囲炉裏と七輪で行なわれていたようだ。囲炉裏の部屋はもちろんのこと、その隣りにあるこの台所の梁も柱も天井も土壁も、みな煤で真っ黒になっているのでそれがわかる。
 壁が真っ黒いだけではない。現在の住人である私も、主に七輪で調理しており、そこから舞い上がった灰が、この台所のそこら中に積もっている。毎日降り積もるその灰を、毎日掃除して除去するという労力と時間と神経を、私は持ち合わせていない。
 また、虫を取ってくれるために私からその存在を認められている蜘蛛の巣が、冬になってその主がいなくなった後にも、窓や天井のあちこちに張られたままになっている。
 しかも、流し台の上には土が積もり、内側は緑色の苔で覆われている。冬のあいだ、暖を求めて我が家に侵入して来た鼠たちが、この上を毎日のように泥足で徘徊(はいかい)するので、一々洗うのが面倒になった私は、これを放置することにした。要するにこの部分は、ネズミのテリトリーと私のテリトリーが重なっているということだ。そのため、この流し台で洗った野菜や食器などは、鼠が来ることのない安全地帯に置くことにしている。
 一応壁と窓によって仕切られてはいるものの、これでは外の自然界とあまり変わらない。世間の常識からすれば、とても「台所」などと呼べる代物ではないだろう。
 私は長澤さんの方を向くと、白い息を吐き吐ながらこう言った。
「どうです、なかなか強烈でしょう?」
 長澤さんも同じように白い息を吐きながら、苦笑いして言った。
「いえ、もう強烈の限界を完全に通り超してますよ!」
 その強調の仕方に、言った本人もおかしくなってしまったのだろう。私たちは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。しかし、その言葉とは裏腹に、彼女が全く動じていないのは意外だった。その理由はすぐにわかった。
「……でもあたし、ここに初めて来たような気がしないんです。ホームページで何度か画像を見てるんで。」
台所
道具類
熾き 豆炭
熾き豆炭
 そうだ。ここの画像はホームページに掲載してあったのだ。私はちょっと照れて言った。
「……ああ、そうでしたよね……。」
 私は、テーブル代わりにしている事務机の脇の丸椅子の上を、雑巾できれいに拭いてからこう言った。
「まあ、どうぞ掛けて下さい。」
「あ、どうも。」
 彼女はそう言って、そこに腰掛けた。
 スコップを小さくしたような鋤簾(じょれん)という道具を持って、台所から一旦「おまえ」に戻った私は、薪ストーブの中で赤くなっている熾(お)きをそこに乗せて持って来ると、それを七輪の中に入れた。そして、そこに火消壷(ひけしつぼ)の中の熾きを更に加えると、その上に豆炭(まめたん)三個を乗せた。
 我が家の炬燵は、電気ではなく豆炭を燃料としている。ストーブの薪の燃え残りを利用して、その豆炭に着火しながら調理するというわけだ。そのため、冬季の我が家の調理のための燃費は、限りなく0円に近い。
 七輪の中の火を大きくするため、その火力調整窓から団扇(うちわ)で中に風を送り込みながら、私は長澤さんの方を振り向いて言った。
「音楽でも聴きましょうか。ロック、サンバ、クラッシック、日本の民謡などありますが、どれがいいですか?」
 彼女は微笑んで言った。
「田野さんが一番お好きなのを聴いてみたいです。」
 私は、薬缶に水を入れてそれを七輪に掛けると、冷蔵庫のそばの床の上に置いてあるCDラジカセに歩み寄りながらこう言った。
「うーん、一番と言われても……そういうのがたくさんあり過ぎて……。それじゃ、今はこれにしましょうか……。」
 私は、一枚の音楽CDをCDラジカセにセットすると、そのプレイボタンを押した。やがてそこからは、リュートというヨーロッパの古い弦楽器の音色が流れ始めた。すると、このすさんだ台所が、なぜか不思議と落ち着いた雰囲気で満たされた。
 長澤さんは、しばらく黙ってそれを聞いていたが、やがておもむろにこう尋ねた。
「……なんて言う楽器なんですか?」
 私はそれに答えた。
「リュートです。」
 すると、彼女は目を輝かせて嬉しそうに言った。
「へー! これがリュートなんですか。ギターじゃないとは思ったけど……、初めて聞きました!
……誰の曲なんですか?」
ヨハン・セバスチャン・バッハです。ご存知ですか?」
 彼女はニコニコして言った。
「ええ、チャリラー チャリラリラーリーをつくった人でしょ?」
 彼女が今口ずさんだのは、「トッカータとフーガニ短調」という有名なオルガン曲のイントロ部分だ。昔、あるお笑いタレントが、「鼻から牛乳」という歌詞を付けたために、そのときそれに共感した世代には広く知られているようだが。
 私も微笑んで言った。
「そうそう! そのリュート組曲の前奏曲です。」
 彼女は再び、しばらくその曲を聞いてからこう言った。
「……これって、なんだかこの部屋に合ってますね。」
 おぉ! その感性! それが、自分のものと共通していたということに、私は大きな喜びを覚えた。
「そうそう、そうなんですよ! 特に夕方から夜は。この部屋で料理しながらこれを聞くと、なんだか妙に落ち着くんです。」
 それを聞いた彼女は、悪戯っぽい表情になって言った。
「田野さん。料理しながらじゃなくて、飲んで料理しながら、でしょ?」
 そして、床の上に並んでいる焼酎の空の紙パックに目を遣って微笑んだ。
「ハハハ、バレましたか。」
「私には全てお見通しなんですからね。あなたのホームページ、全部見たんですから。」
 いやー、参った。私生活のことを、なんでもかんでもweb 上で公開するものではないと反省しつつ、私は食器棚の中から湯呑みを一つ取り出しながらこう言った。
「焼酎しかありませんが、飲みますか?」
 そう言って長澤さんの顔を見ると、彼女は眉を寄せ、申し訳なさそうにこう言った。
「……ご免なさい。催促(さいそく)したつもりじゃなかったんですけど……。田野さんは、お飲みにならないんですか?」
「私はこれから運転しなきゃいけないんで、やめておきますよ。」
「それって、もしかすると、あたしを旅館まで送って下さること?」
「そうです。」
 彼女は、真剣な顔になってこう言った。
「それなら、そのあたし一人だけが飲むのは悪いですよ。」
「いや、そんなことないです。遠慮しないで下さいよ。」
 私は微笑んでそうは言ったものの、それって本当は辛いんだ……。
 彼女は遠慮がちに尋ねた。
「あの……、今夜泊めて頂いてもいいですか?」
「えっ? まあ、いいですけど……。」
 そうは言ったが、私は内心こう思っていた。
『おいおい、いくらメールを遣り取りする仲とは言え、さっき会ったばかりの男に、もう「泊めてくれ」かよ! ……なんだこの女?』
 そして、さっきまで自分の心の中で密かに成長し続けていた彼女に対する親しみが急に白けてしまった。
 そんな私の心中(しんちゅう)をよそに、彼女は屈託(くったく)のない笑顔でこう言った。
「田野さんのホームページに、『焼酎のお湯割をすすりながら、自分の好きなように料理をつくるのが、ささやかな楽しみ……。』って書いてありましたよね。あたしもどちらかというと飲む方なんで、そのお気持ち良くわかるんです。あたしのせいで、田野さんがそれを楽しめなくなってしまわれては困るので……。」
 女性は他人の好みを事細かに記憶している傾向が強いが、彼女もその例に漏れていなかったというわけだろうか?
 う~~ん、そうだったのか! そのような酒飲み女としての崇高なる精神に基づいた「泊めてくれ」なら話しは別だ! 経済的に苦しい状態が慢性化し、焼酎と第三のビールと極安ワインしか飲めなくなってから既に久しいこの私だが、急いで頭の中を酒飲みモードに切り替えて白けから立ち直ると、やや真剣な表情になってこう言った。
「ここは旅館がある平地と違って夜は冷えるし、何かと不便ですがそれでもいいんですか?」
 彼女は依然として明るい表情で尋ねた。
「不便て、どんなことがですか?」
「そうですねぇ……、例えば近くに自動販売機はないし、コンビにもないし、便所は水洗じゃないし。」
 彼女は明るい声で言った。
「自動販売機やお店がないのは仕方ないですけど、トイレが水洗じゃないんなら、水を流さなくってもいいんですよね。それって、『不便』って言うんですか?」
 おぉーーー! これは斬新な発想だ!!! 一本取られた私は苦笑いして言った。
「これは参りました。世間では『不便だ』って言ってるんで、今までそう思い込んでましたが、そう言われると確かに汲み取り式の方が、一工程少ないですよね!」
 長澤さんが、コートのポケットから携帯電話機を取り出して開いたので、私はすかさず言った。
「多分、圏外になりますよ。」
 間もなく彼女は、残念そうに言った。
「あーっ、ほんとだー!」
 私は我が家の電話機の子機を持って来ると、先ほど取られた一本を挽回(ばんかい)するのには及ばないが、なかば勝ち誇ったようにこう言った。
「ね、不便な場所でしょ?」
 そして、彼女にそれを差し出しながら言った。
「これ使って下さいよ。」
 外線ボタンを押してからそれを手渡すと、長澤さんはそれを受け取り、明るい声でこう言った。
「それじゃ、お借りしまーす。」
 そして、今度はやや申し訳なさそうに言った。
「あのー……、明日またあの旅館に寄って頂きたいんですけど、いいですか?」
 私は微笑んでそれに答えた。
「もちろんですよ。」
 彼女は再び明るく言った。
「済みません。それじゃぁ、お世話になります!」
 そして、机の上に置いた自分の携帯電話機の液晶画面を見ながら、片手に持った我が家の電話の子機のボタンを、もう片方の手の指でパチパチと押していた彼女は、それを耳に当てると、しばらくしてから、その受話器に向かって明るく歯切れの良い声で喋った。
「もしもし。今晩素泊まりで予約していた、東京の長澤と申します。……はい、そうです。都合でキャンセルしたいんですけど……はい。キャンセル料、明日払いに行きますので……。はい、はーい。どうも済みませーん。」
 彼女は子機のボタン群を見ていたが、電話の切り方がわからないようだったので、私は手を差し伸べた。彼女はそこに子機を預けると、私の顔を見て嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございました!」
 彼女はそう言うが早いか、今度はコートのポケットから財布を取り出したので、電話を切った私は慌てて言った。
「いいですよ、このくらい!」
「いえ、こちらの用事で電話を使わせて頂いたので。」
 彼女はそう言って、十円玉を机の上に置いた。
 そうこうしているうちに、早くも七輪の上の薬缶が音を立て始めた。
 私は米びつの上に置かれている段ボール箱の蓋を開けると、その中からテニスボール大の丸くて黄色い物を一個取り出し、長澤さんに手渡した。彼女は目を見張って言った。
「まあ綺麗(きれい)! これって、もしかして柚子ですか?」
「そうです。一昨日(おととい)、この家の庭のものを収獲したんです。香りを嗅いでみて下さい。」
 柚子の香りを嗅いだ彼女は更に感激したようで、まぶたを閉じながら言った。
「……いい香り……。」
 私は微笑んで言った。
「これを焼酎のお湯割りに入れるんですよ。」
 その柚子を彼女から返してもらうと、まず私はその皮を剥き、そこから適当な大きさ二切れを切り取って、それぞれ二つの湯呑みの中へ入れた。残りはみじん切りにして小皿に盛り付ける。鍋の薬味にするためだ。
 次に私は机の上の紙パックの蓋を開けると、その中の焼酎を先ほどの湯呑みの一つに少しずつ注ぎながら、彼女に向かって言った。
「……ストップって言って下さいね。」
 六分目くらいのところで、彼女は元気良く言った。
「ストップ!」
 私は注ぐのをやめ、今度は自分の湯呑みに焼酎を注ぎ、七輪の上で盛んに湯気を立てている薬缶の湯を、それぞれの湯呑みに加えて満たした。水道水に添加されている塩素は、5分沸騰させればほぼ完全にそれが抜ける。
「最初だけ注ぎますが、あとは手酌(てじゃく)で自由にやって下さい。お湯はこのポットに入れておきますので。さあ、どうぞ。」
 一方の湯呑みを勧めると、彼女はちょっと目を丸くしてその中を覗き込んだ。
「えーっ? 柚子を入れるって、汁じゃなくって皮の方だったんですかー!?」
 私は微笑んで言った。
「そうです。普段は、皮は料理に使って、焼酎には汁を入れることの方が多いかな。でも今は、せっかくなので、その香りを充分に楽しんでもらおうと思ってこうしました。」
 私は薬缶の湯をポットに移すと、今度は七輪の上にステンレス製の網を置き、先ほど買った中くらいのサザエ二つを、蓋が上に向くようにしてその上に置いた。
 お湯割りを飲んだ長澤さんが、感動して言った。
「……柚子って、皮の方が香りがいいんですね。今初めて気が付きました。」
「そうなんです。柚子の香りは汁にではなく、むしろこの皮の方にあるんです。」
 長澤さんは納得したように言った。
「なるほど。それが田野さんのホームページに書いてあった、焼酎のお湯割りなんですね。……体があったまりそう。」
「ハハ、そうですよ。それに、水仕事で指先が冷えたら、これをこうして両手に持ってあっためるんです。」
 私は、湯気の立っている自分の湯呑みを両手で持って見せると、その中のお湯割りをすすった。
 それを一旦机の上に置いた私は冷蔵庫を開けると、そこからインスタントコーヒーの瓶を取り出した。その中に入っているのは、コーヒーの粉ではなく自家製の白菜の漬物だ。私はその蓋を開けると、中から箸で漬物を取り出し、それを二つの小皿に盛り付けた。そこに別の箸を添えた私は、そのうちの一つを長澤さんに勧めた。
「どうぞ。」
「どうも。『小瓶の漬物』ですね。あたしもつくってみました。小瓶でも醗酵して、ちゃんと漬物になるんですよね。
……頂きまーす。」
 私は微笑んで言った。
「そうです。漬物は本来、一度にたくさん漬けた方が美味しいのですが、それだと一人では食べ切れませんからね。」
 続いて私は、先ほど買ったトレイの一つを冷蔵庫から取り出すと、掛かっているラップを剥がして、中の甘蝦(あまえび)をステンレス製のボールにあけた。それを冷水でざっと洗って水を切ると、私はその蝦の腹を胸から抜き取り、赤い尻尾だけ残して殻を剥いていった。長澤さんにも手伝ってもらって、それを皿の上にきれいに並べれば、あっという間に甘蝦の刺身の完成だ。
 リュート組曲に丁度きりが付いたので、手を洗ってCDを入れ替えた私は、取り皿と醤油、そしてチューブ入りの無着色の山葵(わさび)を机の上に並べて、流し台の近くにあるもう一つの丸椅子に腰掛けた。いつもなら、夕食は立ったまま食べるのだが、そうすると彼女が落ち着かないだろうと思ったからだ。
 次のCDは今までと趣を異にして、三味線と太鼓の音で始まった。この島に伝わる全国的にも有名な民謡で、私の知人がその演奏の中核を成している。流しで手を洗って再び元の丸椅子に腰掛けた長澤さんに向かって、私は微笑み掛けてこう言った。
「先程の雰囲気とはガラッと変わりますが、今度はこの乗りにしてみます。バッハは甘蝦など見たことないだろうし。」
 彼女は、ケラケラと笑ってからこう言った。
「……ゆったりした海の波のようなんですね。ここが双美ヶ島なんだっていう実感が湧いて来ますよ。」
 私は微笑んで言った。
「そうそう。海はこの季節のじゃなくて、もっと穏やかな初夏の頃のようですが……。このように、その土地の気候風土と密着してるような民謡は大好きですね。」
 そして、甘蝦を見ながら嬉しそうに言った。
「……それじゃ頂きましょうか。お母様によろしくお伝え下さいね。……頂きまーす。」
 彼女も同じように言った。
「頂きまーす!
……んー、美味しい。甘くって!」
 嬉しそうに目を細めてそう言ってから、長澤さんは私に向かってこう言った。
「この音楽のせいかも知れませんけど、正に日本海の味!って感じですね。」
 私もまた嬉しそうに言った。
「そうですね! 近頃では全国どこででも手に入るようですが、基本的に北国の味覚なんだと思います。」
 甘蝦の刺し身を三尾ほど食べて一旦満足した私は、再び立ち上がると、今度は冷蔵庫から鯵の入ったトレイを取り出した。そして、長澤さんに座ったままでいいから生姜(しょうが)をおろすのを頼むと、自分はその鯵をまな板の上でさばいた。
 やがて、さばいた鯵を刺し身皿の上に盛り付けた私は、手を洗って元の椅子に座ると、彼女に向かってこう言った。
「あまり得意な分野ではないので、まるで叩きのようになってしまいましたが、これでも一応刺身のつもりです。さあ、どうぞ。」
 彼女は感動して言った。
「えー! すごーい! ちゃんとお刺身してますよー! こうして魚がさばかれるのを目の前で見るの、回転寿司以外では初めてですよ。」
 やや驚いた私は、彼女に向かってこう言った。
「え!? お母さんがなさってるところを、見たことがないんですか?」
 彼女は恥ずかしそうに言った。
「いえ、うちの母は、既にさばいてあるのをスーパーで買って来るだけですから。」
 私は唸って言った。
「う~ん、そうかぁー。今の都会ではそれが当たり前なんだろうなぁ。」
「ええ、そうみたいですよ。」
 そう言った彼女は、鯵の刺し身を一口食べると、目を輝かせてこう言った。
「……うーん、美味しい! 新鮮で!
……生姜が合うんですね。」
「そうですね。山葵で食べても美味しいけど、鯵の刺し身は生姜との相性が抜群です。」
 七輪の網の上では、サザエがぐつぐつという音を立てて盛んに泡を吹いてきたので、私はまた椅子から立つと、その蓋に醤油をたらして、それぞれ小皿に移した。そして、そのうちの一つを長澤さんに手渡しながらこう言った。
「さあ、サザエの壷焼きです。まだ熱いから気を付けて……。」
 民謡が流れて来るCDラジカセに目を遣った長澤さんは、私に向かって嬉しそうにこう言った。
「すごーい! なんだか居酒屋にいるような気分になってきましたよ……あ、アツアツ!」
 彼女がサザエから慌てて手を引っ込めたので、私は笑って言った。
「ハハハ。ほら、言ったでしょ。」
 七輪から網を下ろした私は、その上に今度は土鍋を乗せた。その中に張られている水には、朝からずっと、だし昆布が浸けてある。私はそこに、先ほど畑で収獲した大根と人参を洗って切って入れた。こうしておくと、他の食材との火の通りの時間差を解消することができるのだ。
 彼女には、座ったままで蒟蒻(こんにゃく)と豆腐を切ってもらった。私は辛子酢味噌をさっとつくると、椅子に腰掛けてこう言った。
「この蒟蒻は、この近所の農家のお母さんの手づくりです。まずは辛子酢味噌を付けて、刺身で食べてみて下さい。」
 彼女はまた感動して言った。
「……とっても美味しいです! 歯ごたえがあって!」
 私も嬉しそうに言った。
「そうでしょう? こうして丹念に手でつくられたものを食べると、機械で大量生産されたものとの違いがよくわかりますよね。」
 私は再び立ち上がった。このように立ったり座ったりと忙しいのは、料理をつくるのと食べるのを同時進行させているからだが、夜はいつもそうしているので私はなんともない。但しいつもは、一回も座らずに飲み食いをしている。
牡蠣  また冷蔵庫を開けた私は、やはり先ほど買った牡蠣を取り出すと、それをビニール袋から出して笊にあけ、冷水でさっと洗った。この汚れを落とすには、塩とか大根おろしを使うと良いとよく言われるが、それは勿体ないので、私はいつもこうしているが、養殖場の水がきれいなせいか、今のところそれによる問題が生じたことは一度もない。
 長澤さんには、先程買ってきた葱を洗って切ってもらい、収獲した椎茸の石づきを取り除いてもらった。
 これで鍋の食材は準備完了。あとは場所のセッティングだ。私は洗った手をタオルで拭きながら、長澤さんに向かってこう言った。
「手伝ってもらったお陰で早く済みました。ありがとうございます。
さあ、暖かい部屋へ移動しましょうか。」
 彼女は、机の上の料理や食材を乗をた皿などを盆に乗せ、台所と「おまえ」とのあいだを何往復かして、それらを炬燵の上に並べていった。
牡蠣  私は私で、台所の七輪の上の土鍋を「おまえ」の薪ストーブの上に移すと、火が入ったままの七輪も薪ストーブの横に移した。次に、既に赤々と燃えているその中の豆炭を、火ばさみを用いて炬燵の火床の中に収めた。そして薪ストーブの中の熾きを七輪に足して、ストーブの上の土鍋を再びその上に乗せた。
 この土鍋を挟んで、ストーブと炬燵とのあいだの畳の上に座布団二枚を敷けば、あっという間にセッティング完了だ。
 鍋が加熱されているあいだ、私たちは炬燵に入って、刺身とサザエの壷焼きをつまみながら飲んだ。
「……実は、この時期にサザエを売ってるのは珍しいんですよ。」
 私がそう言うと、彼女は意外そうに言った。
「あ、そうなんですか?」
「でも、いろいろあった方がいいと思ってね……。」
 そんなことを話しているうちに、早くも土鍋が沸騰(ふっとう)してきたので、私は長澤さんに向かって言った。
「さあ、鍋にしましょうか。」
 私たちは鍋の席に移った。その鍋の蓋を取った私は、長澤さんに向かってこう言った。
「世間では、沸騰する前に昆布を取り出してるようですが、我が家では一緒に煮込みます。」
 彼女は、怪訝そうに尋ねた。
「そうすると、汁が苦くならないんですか?」
 私は、真鱈(まだら)の切身と牡蠣と椎茸と根菜類を鍋の中に次々と入れながら、微笑んで言った。
「いえ。それって、もしかして迷信じゃないですか?」
 彼女は、意外そうに目を見張って言った。
「え?!」
 鍋の蓋をした私は、その彼女に向かってこう言った。
「それじゃ長澤さん。おでんの汁を苦いと思ったことありますか?」
 彼女は、しばらく考えてからこのように言った。
「……うーん、ありませんね。」
 私はまた微笑んで言った。
「そうでしょ? おでんの中には、昆布もたくさん入ってて、そのまま煮込んでるんですからね。そう思って試しに鍋でもやってみたら苦くなかったんで、いつもこうしてるんです。この方が、昆布のだしが良く出るし。」
 彼女は、その土鍋を見ながら、納得したように言った。
「なるほど……。」
 鍋に火が通るまでのあいだ、各自薬味とタレの調合だ。炬燵の上には、それに必要なものが既に揃えてある。薬味は先ほど刻んでおいた柚子の皮と唐辛子の粉、タレは醤油と柚子の果汁、そして自家製の柿酢である。
 やがて、七輪の強い火力により、鍋は早くも再び沸騰してきたようなので、私は火を弱めると、その蓋を取った。すると、白い湯気が濛々(もうもう)と上がり、グツグツという食欲を掻き立てる音がより鮮明になった。
 二人とも、それぞれが好きな具を箸で抓んで各自の取り皿に入れ、タレを付けながら、ハフハフ言って食べた。
 我が家の経済的な事情から、このような世間並みの鍋料理を普段口にすることはまずできない。私はその味覚をしみじみと味わった。彼女の方も旅先での味覚を良く味わっているようで、しばらく二人の会話は途絶えていたが、間もなく感極まったような長澤さんの声が上がった。
「……うーん、美味しいわ。これがさっきの湖の牡蠣なんですね。」
「そうそう。正にその通り。さっきの店には出てませんでしたが、それと反対側の湾でつくられてる養殖牡蠣も美味しいですけどね。」
「酢醤油や柚子と合うんですね。」
「そうです。牡蠣は、酢や柑橘類(かんきつるい)との相性がいいみたいですね。」
「……この酢、まろやかでとっても美味しいです。田野さんの自作なんですか?」
「そうですよ。柿酢づくりは、我が家の最も重要な年中行事の一つです。」
 今度は椎茸を食べてみた彼女が、目を見張って言った。
「……あたしこんな美味しい椎茸初めて食べました! とても肉厚だし歯ごたえもあるんですね。」
 私は微笑んで言った。
「採れたてだからというのもありますが、一般のスーパーなどで売っているもののほとんどは菌床(きんしょう)栽培といって、おが屑で栽培されたものです。うちのは先ほどご覧になったように原木で栽培してるんで、その違いなんだと思います。これを食べ慣れると、市販のじゃ満足できなくなってしまいますよ。」
 すると、美世さんは興味深そうに言った。
「……それなら、田野さんのホームページに書いてあったように、ほだ木と菌と、それを仕込むための道具があれば、この美味しい椎茸が自家栽培できるってことですよね?」
 私はニコニコして言った。
「そうそう。その通り。」
 彼女も嬉しそうに言った。
「これは、是非やってみたくなりましたよ。
……人参も美味しい! 普通に売ってるのより味が濃いですね。『これぞ人参!』というような。」
「そうなんですよ。うちでは化学肥料使ってないからかなぁ……。」
 鍋の中に具がなくなったので、私は七輪の火を強めると、また具を入れて鍋の蓋をした。
薪ストーブ  美世さんは、横にあるストーブに目を遣って、また感激したように言った。
「あたし、薪のストーブって初めてなんですけど、とても暖かなんですね。」
 私も彼女と同じようにして、ストーブの炎を見ながら微笑んで言った。
「そうなんです。体の芯から温まります。」
 彼女は、やや残念そうに言った。
「これは、都会では無理でしょうね……。」
 その一方私は、彼女に向かって明るい口調でこう言った。
「いえ、そんなことないと思いますよ。つい百年前の欧米の都会では、これか暖炉(だんろ)が、ごく一般的な暖房器具だったんでしょうから。でも、現代の日本のマンションのつくりでは煙突がないから、ちょっと難しいかも知れませんけど。」
「一戸建ての家なら、できますよね?」
「そうそう。大工さんとか材木屋さんとかから製材くずを分けて貰えば、それで燃料費はただ同然になりますよ。もし、そのような方法で手に入らなくても、ホームセンターなんかで売ってるキャンプ用の薪を買って使ってもいいんですからね。割高にはなりますけど。
あと、燃料の薪は灯油に比べて保管に場所を取るのと、燃やした後の灰の処分と煙突掃除に手間が掛かるくらいの違いですかね。」
 長澤さんは、またちょっと残念そうに言った。
「う~~ん……それくらいの差ならなんで世の中、石油やガスになってしまったんでしょうね?」
「たったそれだけの違いでも、人はその労力を惜しむ余り、輸入された安価な燃料に頼ってしまった。経済効率優先の、浅はかな発想によるものでしょう。
そのうち、円が暴落したりして輸入物の燃料の入手が困難になったら、慌てて薪に切り替えるんじゃないですか。でも、そういうことは、すぐにできることじゃないんで、きっと日本中が大混乱になるんでしょうけど。ハハハハ!」
 私がそう言って笑うと、長澤さんは困ったような表情になってこう言った。
「それは、笑い事じゃないですよ、田野さん。」
 私は、お湯割を飲んで箸を休めると、やや真剣な表情になって言った。
「世界には、餓えや戦争で苦しんでいる人がたくさんいるというのに、自分の身に危険が及ぶまで無駄の多い贅沢な生活をやめようとはしない……。笑われても当然でしょう、そんな人たちは。」
 彼女も箸を置くと、やや真剣な表情になって言った。
「そういうことを、知らないだけなんじゃないですか? きっと。」
 私は苦笑いして言った。
「私は民放の方はよく知りませんが、国営放送の報道番組や教養番組で、これだけ毎日のように、そういった情報が流されているのに、知らないなんてことはないでしょう。」
「みんな国営放送は、あまり見たり聞いたりしてないんじゃないですか?」
「うーん、もしそうだとしたら、それは片寄ってるなー……。」
 長澤さんは、訝しそうに聞き返した。
「片寄ってる?」
「ええ。私がまだ小学生の頃、国営放送で夕方にやってる子供向けの番組はよく見てましたし、なんと大河ドラマを見るのも好きでした。でも、それ以外の番組は型にはまったようで、あまり面白くなかったっていう印象がありましたよ。その点、民放の方がずっと面白かった。『シャボン玉サンデー』とか、『ゲバゲバ80分』とか……。まあ、その時代の世相もあったんでしょうけどね。
ところがね、民放はその後ずっと視聴率を上げることに専念してきたもんだから、なるべく視聴者のご機嫌を取るような番組を制作するという傾向に、流れて行ってしまったんじゃないですか?
だから、今では民放も国営放送も一長一短だと私は思ってますよ。」
 彼女は意外そうに言った。
「へー、そうなんですか……。」
 私は言った。
「そうですよ。その両方の長所を選んで見聞きするのが一番いいんだと思います。あくまでも理想ですが……。
所詮(しょせん)国営放送ですから、国からの圧力もあることでしょう。でも民放は企業からのお金で経営が成り立っているんで、事件を報道するニュースのような番組以外では、スポンサーへかなり配慮してるんじゃないかな。だからスポンサーが不利益になるような番組、例えば『無駄な消費をやめよう』などと主張する番組は、国営放送に較べると、かなり少ないと思いますよ。」
 彼女は、やや納得したように言った。
「なるほど……。」
「しかも、先ほども言ったように民放の番組の多くは視聴率を上げるために、『売れる番組』をつくることが最優先です。だから、視聴者の興味を引くような情報を捏造(ねつぞう)した番組や、視聴者に頭を使わせず『なんでもいいから笑わせて引き止めときゃいい』っていうような発想の、くだらない番組がつくられるんですよ。全部が全部そうってわけじゃありませんけど。」
 彼女は言った。
「捏造は悪いことですけど、笑うことって体に良いことだそうじゃありませんか。」
「それはそうなんでしょう。でも、笑いにも色々あると思いませんか?」
「色々とは?」
 彼女が怪訝そうに尋ねたので、私は真剣な表情になってその問いに答えた。
「赤ん坊をあやしているとき、人は自然に笑みが溢れますよね? また、政府の陳腐な政策を巧みに風刺したときに出る笑いもあります。そのような笑いと、人を馬鹿にしたときに出るような笑いを、私は同一視することはできませんよ。」
 美世さんは、少し考えてから言った。
「……うーん、そう言われるとそうですよね。でも、漫才のボケ役を笑うのは、馬鹿にして笑ってるってことになるんですよね?」
「そうです。でも、だからこそ日本にも外国にもそれぞれ古くから、狂言だとか落語だとか漫才だとか喜歌劇だとかがあるんですよ。それらには、それを演じるプロが必ずいる。つまり、彼らは人を笑わせるために敢えて馬鹿になってるんです。観客は芝居とわかっているからこそ、彼らのことを思いっきり笑うことができる。」
「ええ。」
「だからね、そういう人たちを笑いのネタにするならいいと思うんですよ。ところがね、一般人をハメて笑うってのは、あまり良いことじゃないと思うんです。そりゃ、何かを失敗する人が真面目な顔であればあるほど、陰で見てる方としては面白いことは確かですよ。でも、そういうことが芝居によって演じられるのと、現実に起こってくるのとでは大きく差があると思いませんか?」
 彼女は、やや納得したように言った。
「なるほど……。それは、その人に対して失礼なことですよね。」
「そうなんですよ。こんなこと四角四面に考えること自体、今の日本の世間一般では間違ってるのかも知れません。また、はめられた方は、テレビに映ってるから仕方なしに自分も一緒になって笑ってますよ。真剣に腹を立てれば余計笑われるんですから……。
でも私は、やっぱり何か間違ってると思うんですよ。これと同じようなことが、学校で起きているとしたらどう思いますか?」
「なるほど……。それが『いじめ』とかにつながってくる、と……。」
 私は、やや興奮して言った。
「そうですよ! 笑いが体に良いってことは大いに認めますけどね、何でもかんでも笑やいいってもんじゃないと思うんですよ。」
 すると長澤さんは、微妙な表情でこう言った。
「あのー、もしかすると田野さんて、いじめられてたことが、あるんじゃないですか?」
 私は意外そうに言った。
「ええ、よくわかりましたね。」
 彼女は困ったように眉を寄せて言った。
「わかりますよーっ! なんだか恨みがこもってるんじゃないかって思いますもん、その言葉の中に。」
 私は、照れ笑いしてこう言った。
「ハハ、なるべく表に出さないようにしてるつもりなんですけどね。」
 すると彼女は、呆れたようにこう言った。
「信じられなーい!」
 そして、すぐ真剣な表情になるとこう言った。
「モロに出てますよ、言葉にも顔にも。」
 私は、恥ずかしそうに言った。
「どうも駄目みたいですね、私の場合。隠し事みたいなことが。」
 そして真面目な顔になると、話題を変えることにした。
「ええと……話しを元に戻しますが……、国営放送は、スポンサー企業とも視聴率競争とも直接関係ないんで、企業にも視聴者にも媚びる必要がない。受信料を払ってる人たちから文句が出ないようにして『良い番組』をつくることを最優先してる。だから番組の視聴者は、いろいろと考えなければならないようなこともあるんで頭を使います。頭を使うと当然疲れる。でも、疲れることを避けてると筋肉でもなんでもそうですが、退化してくるんですよ。生き物ってのは。」
 この頃には、まだ「脳トレ」などという言葉は流行していなかった。彼女は頷いて言った。
「それはよくわかりますね。学校の部活の自主トレでもさぼってると、肝心なときにパワーが出ませんでしたから。」
「そうでしょう? 頭でも同じことなんですよ。こんなこと言ってる私もそうですけど、その使い方がまだまだ足りないと思うんです。
だから、これからの私たち日本人はね、限りがあることが既にわかってる石油や天然ガスには早く見切りをつけて、それに代わる安全性の高い燃料だとか無駄のない生活の仕方だとかを、みんなで知恵を出し合って考え出し、実行していかなければならないんですよ。」
 話しに興じているうちに、土鍋の蓋の穴から再び白い湯気が勢いよく立ち上った。
「……お、早くも第二弾のできあがりですよ。」
 私はそう言って鍋の蓋を取り、私たちはまた食べて飲んだ。
 あっという間に具がなくなったので、次の具を鍋に入れてまた蓋をすると、私は箸を休めて感慨深げにこう言った。
「……それにしても、あの大学ノートに登場する島の人たちの予知能力は実に不思議ですね。正直言って信じられないような話しですよ。」
 長澤さんも同じように箸を休めると、それに同意した。
「ええ、あたしもそう思います。」
 私は、やや真剣な表情になって言った。
「ちょっと意地悪な質問かも知れませんが、曾(ひい)お爺さんたちがおつくりになられた、フィクションだということは考えられませんか?」
 彼女も同じように真剣な表情で言った。
「ええ、あたしもそう考えてみたこともありました。」
 そして、彼女は何やら意味ありげに、やや力を込めてこう言った。
「ところが! これを見てからその考えを修正したんです……。」
 彼女は自分のバッグに手を伸ばすと、その中から約15センチ四方の平たい桐の箱を取り出した。その蓋を開けた彼女は、そこから丸くて平たい蓋付きのガラス容器を大事そうに取り出した。私は昔、これと同じようなものを学校の理科の実験室で見た記憶がある。確かシャーレとか言ってたっけ。
 長澤さんは、それを私に向かって差し出しながら、口調を改めてこう言った。
「田野さん、これが何だか、おわかりになりますか?」
 彼女から受け取ったそのシャーレ内部の底には、脱脂綿が敷かれており、その上には小指の先ほどの大きさの、こげ茶色の皺くちゃの塊りが一つ固定されている。その物体をガラスの蓋越しに眺めながら、私はこう言った。
「江戸時代のイチジクかな?」
 彼女は、微笑んで言った。
「いえ、ちょっと惜しいけど違います。」
「鎌倉時代の饅頭(まんじゅう)!」
「いえ、違います。」
「平安時代の、ニホンカワウソのうんこ!」
 薪ストーブの熱と体内のアルコールによって、白い頬を紅潮(こうちょう)させていた長澤さんは、眉間に皺を寄せながらも、ケラケラと笑って言った。
「……もーっ! どんどん遠のいてくんだからーっ!」
 そして、また口調を改めてこう言った。
「これは、瓶ヶ島のある家に代々伝えられていたものを、曾祖父が一つ分けてもらって日本に持ち帰った物なんだそうです。その後、大学の研究室で放射性炭素測定法とやらによって年代を調べ、植物学者をしている友だちに依頼して鑑定してもらったんですって。その結果!」
 彼女は嬉しそうに言った。
「これは、今から約四百年前の浜茄子(はまなす)の実なんだそうです。
ノートと一緒に天井裏に隠してあったのを母が見付けて入院中の曾祖父に見せたところ、そのように説明されたんですって。」
 それを聞いた私は、目を丸くして言った。
「ひぇー! ……ということはですよ。これは今、お里帰りしたということになるんですかー!?」
 彼女は真剣な表情になると、頷いて言った。
「そう、そういうことなんです……。
実(じつ)は、だからこそ、この島にお住まいのあなたに、このお仕事をお願いしようと思ったんです。」
 私は深く納得して言った。
「なるほど、そういうことだったんですか……。」
 このような物的証拠があるのなら、どうやらつくり話しではなさそうだ……。私は、手に持っていたそれを、右横の炬燵の上に置くと、それに見入ったまま物思いにふけった。
 その昔、日本を離れて行った人々の子孫が、南太平洋の小さな島に持って行った、この小さな浜茄子の実。それが今こうして、約400年振りに、その故郷であるこの島に帰って来たのである。そして、それはまずこの私の元に届けられた。これは、何を意味するのであろうか? 運命のような、何か目に見えない存在を私は今感じていた。
 間もなく、カタンカタンとうい音がしたので目の前を見ると、七輪の上の土鍋の蓋の穴から、またもや白い湯気の柱が勢い良く天井に向けて立ち昇っている。それによって私が我に帰ると、その向かいの席の長澤さんが、じっと私の顔を見ていることに気が付いた。私は思った。
『この人との出会いは、単なる偶然ではなさそうだ。』
 その途端、長澤さんも同じことを感じたらしく、その浜茄子の実に目を移してからこう言った。
「……なんだか、これが、ここまであたしを運んでくれたような気がします。」
 私も再びそれに目を遣ると、真剣な口調でこう言った。
「もしかすると、これ自体に何らかの意思があるのかも知れませんね。」
 今度は本棚に立て掛けてある原稿が入った紙袋に目を移すと、彼女はこう言った。
「ええ。そして、あの物語も……。やはり同じように、何かの力を秘めているんだと思います。」
「世界に向けて発信される時が、近付いているのかも知れませんね。」
 長澤さんに向かって私がそう言うと、彼女も私に向かってこう言った。
「ええ。田野さんが、公開することを引き受けて下さったんですから、きっとそうなんでしょうね。」
 私は微笑むと、鍋の蓋を取りながら言った。
「いやー、思ったよりも深そうですね、このお仕事は。」
 彼女も微笑んで言った。
「ええ、そう思います。」
 そして炬燵の上のシャーレを手に取ると、また元のように木箱に収めて自分のバッグの中に戻した。
 私たちは、それぞれ物思いにふけりながら、再び鍋をつついて焼酎を飲んだ。すると、炬燵の上にあった鍋の具がとうとう尽きてきたので、私はこう言った。
「さて、それでは、うどんにしましょうか。」
 長澤さんは、自分の腹を摩(さす)りながら苦笑いして言った。
「腹8分(はらはちぶ)ってよく言いますけど、あたしもう9.8分くらいまできてます。でも麺なら入るかなぁ?」
「そうそう。『麺は別腹』って言う人多いですよね。斯く言う私もそうですが。多少無理してでも食べておいた方がいいですよ。ご飯系のものを食べないでいると、腹が減って夜中に目が覚めるから。」
 彼女は、引き続き苦笑いしながら言った。
「もぅ! それって子供じゃないですか!」
 笑いながら台所に行った私は、乾麺のうどんを取って来た。私が持っているその袋を見た長澤さんは、嬉しそうにこう言った。
「……もしかすると『温素麺』の応用ですか?」
「ピンポーン! さすが美世さん、正解です。」
 そう言って席に座り、土鍋の蓋を開けた私は、勢い良く沸騰している汁の中にその乾麺を放射状に入れると、箸でそれを汁の中に沈めて鍋の蓋を閉じた。間もなく沸騰したので、私はその鍋を薪ストーブの上に一旦移し、七輪の中の熾きを火鋏でつまんで、全部火消し壷の中に収めた。
 そして、その空っぽの七輪の上に再び土鍋を乗せると、中の汁も再び沸騰を始めた。その音を聞いた美世さんは、驚いたように言った。
「あれー? 火が入ってないのに沸騰してる!」
「その通り。七輪と土鍋の余熱で、ちゃんと火が通るんですよ。」
 この麺の茹で時間は8分なので、しばらくしてから私は蓋を開けて言った。
「さあ、食べましょう。」
 麺を一旦自分の取り皿に取って口にした彼女は、意外だという表情で感想を述べた。
「……水洗いしなくても、意外につるつるしこしこして美味しいんですね。」
 私も食べながらそれに答えた。
「……そうなんですよ。日本は生で飲める水が豊富だから、私たちは当たり前に思ってるけど、乾麺を一々水洗いするなんて、世界的に見ると、とんでもない贅沢なことなんですよ、実は。乾麺に含まれている塩分も捨てられて勿体ないし。そう思ってやってみたら、意外といけるんですよね、これが。
但し、冷たい麺類や手打ち蕎麦は、ちゃんと水洗いしなけりゃ美味しくないですけどね。」
 彼女は、納得したように言った。
「なるほど、そうなんでしょうね。
それが乾麺だと水も燃料も節約できますし、麺に含まれている塩分も捨てずに済むし。」
「そうなんです。塩分や有機物が入った麺の茹で汁を、毎日のように流せば、それが蓄積されて渓流の水が汚れます。渓流の更に上に住いするからには、そこに不自然なものを流さないよう、極力配慮しなければならない。
昔から住んでいる一般の人に、急に生活の仕方を変えろと言っても無理なので仕方ありませんが、私のように新しく住む者はですね、それを心しなければ、山に住む資格がないと、私は思ってますよ。」
 彼女は、やや真剣な表情になって言った。
「……随分、厳しいんですね。」
 私も真剣な表情になって言った。
「そうです。そこまで考えなければならないほど、今の日本の山河の自然環境は疲弊(ひへい)してるんです。そりゃ昔は良かったですよ。少々のことをしても自然の自浄作用……わかりますよね、自分で浄化する作用……にそれを受け止めるだけの力があったから。
近年では人々の意識も向上して、一頃を思えば川の水もかなりきれいになってきた。ところが、それだけじゃ駄目なんです。自然の自浄作用の力そのものが弱まってきてるんで、不自然なものを流せば、それはきちんと分解されずに海へ注ぐことになる……。」
 私は、麺を一口食べてから話しを続けた。
「……これはあくまでも私の推測ですが、自然の川はね、丁度人間のお腹の中と同じような仕組みになってるんじゃないかって思うんですよ。その考え方でいくと今の日本の川は、腸内細菌が減少して消化不良を起こしているような状態なんじゃないかって。しかも、流れている成分が昔とは違っている。
花粉症に苦しんでる人、そして私もそうですが近年鰯(いわし)が捕れなくなったことを嘆いてる人はいずれも少なくないと思います。一見何の関係もないこの二つの現象が、実は大いに関係あると私は思ってるんです。鰯の場合、乱獲が最も大きな原因なんでしょうけど、ただそれだけじゃないだろうって。」
 美世さんは興味深げに尋ねた。
「どんな関係なんですか?」
「それはね、日本の面積の多くを占めている標高800m以下の山々は、今まで主に落葉樹又は照葉樹(しょうようじゅ)に覆われていた。それが近年になって、その商品的価値の高さから針葉樹の植林が盛んに行なわれるようになった。特に杉が。
すると空には大量の杉花粉が舞うようになり、毎年落葉樹から落ちるはずの落ち葉が、山に落ちなくなってしまった。すると、それまで落葉樹林の腐葉土から流れ出る成分を餌にしてきた微生物が、川からいなくなってしまうんですよ。わかりますよね?」
 美世さんは頷いて言った。
「ええ、なんとなくわかります。」
 私は、やや口調を改めて言った。
「それでは美世さん、今日私たちが頂いた魚介類は、何が養っていたかご存知ですか?」
 彼女は、少し考えてから言った。
「海?」
「ええ、それもあります。でも、それだけじゃありません。山であり田でもあるんです。」
「え?」
 彼女はわけがわかっていない様子だったので、私は説明した。
「甘蝦も鯵も牡蠣も、そして鰯も、海中のプランクトンを食べて大きくなります。サザエは海藻を食べて大きくなります。植物性プランクトンや海藻は、主に地表から流れ込んだ水の中に含まれている養分によって生きてるんです。だから、山や田の水の成分が変われば海の生き物にも当然影響が出てくるというわけなんです。」
 彼女は、やや納得したように言った。
「なるほど……。そう説明されると、先ほどの話しとの接点が見えてきました。」
「そうでしょ?……だから、落葉樹の代わりに過剰に杉を植えるということは、まず杉花粉を増加させる直接の原因になっています。そして、海への養分の供給を減らすことになるので、その生態系を変えてしまい、鰯が捕れなくなってしまうということにもなってくるんです。
つまり、日本の杉は植え過ぎなんですよ。……誤算でござる植え杉謙信(うえすぎけんしん)。」
 彼女は眉を寄せて言った。
「田野さん、せっかく暖まったところなのに、寒くしないで下さいよ。」
「ハハハ、どうか堪忍(かんにん)して下さい。オジサンの習性なんで。
……そうそう。針葉樹の無謀な植林などによって、危機に瀕(ひん)してる生き物が他にもいるんです。」
 美世さんは、また真剣な表情に戻って尋ねた。
「……なんですか、それは?」
「この島にはいませんが、熊とか猪とかの野生動物ですよ。」
 彼女は、やや困った表情になって言った。
「そうなんですか……。人が熊に襲われる事件が増えてるみたいなんで、人の方が危機に瀕してるんじゃないかって思いますけど……。」
 一方、私は真剣な表情に戻って言った。
「普通ならそう思いますよね。でもね、この時代、人は食べ物がなくなれば、乗り物に乗って好きなところに逃げられますが、熊は他に行き場がないんですよ。だから里に下りて来るしかないんです。」
「はあ……?」
 都会育ちの彼女にとって、この問題はそう簡単に理解できるものではないだろう。私は更に説明を加えた。
「熊が山から下りて来て人を襲う原因はいくつかあると思いますが、まず一番大きいのは山に食べる物がなくなっているということなんです。……熊って何を食べてるか知ってますか?」
「木の実とか魚とか?」
「そうです。その木の実を稔らすドングリの木が、先ほども言った針葉樹の過剰な植林や、山林の荒廃によって消えてしまった。」
 彼女は納得したように言った。
「なるほど……。それで他に行き場がなくなってしまったってことなんですね。」
「そうなんです。」
 彼女はやや憤慨して言った。
「それじゃぁ、熊が里に下りて来る原因は人がつくってるんじゃないですか! それなら、それによって無闇やたらに殺されてしまう熊が可哀想ですよ!」
 焼酎のお湯割を飲んだ私は頷いて言った。
「……そうなんですよ。しかも、それだけじゃないんです。
昔の人は食べ物を残して捨てたりなんかしなかった。ところが今の人は、無駄な食べ方をしてそれを生ゴミとして捨ててます。そこに、熊や猿やカラスなんかが寄って来るんです。」
 彼女は苦笑いして言った。
「なるほど……。これじゃまるで、餌付けしてるみたいですね。」
 私も苦笑いして言った。
「そうなんですよ。でもただの餌付けなら、動物も賢いからちゃんとわかる。『この人は自分の味方なんだ』って。鳥も獣も、そういう親の愛情によって育てられてきたんですから。」
 彼女は、感心したように相槌を打った。
「なるほど、そうですよね。」
 私は、真剣な表情になって言った。
「だから、野生動物の餌付けをしてる人が襲われたなんてことは、あまり聞いたことがありません。
ところがですよ。畑の野菜や果物、そして生ゴミなんかは、動物たちにしてみればただそこに置いてある物、天の恵みと同じ物なんです。だから、そこを縄張りにしている熊にとって、そこに入って来た人間は、ただの外敵でしかなく、それを本能に従って撃退してるまでのことなんだと思うんです。」
 彼女は頷いて言った。
「なるほど。そう言われてみれば、それは当たり前のことですよね。」
「そう思うでしょ? だからね、ただ単に野生動物を害獣と見なすのではなく、自分たち人間の生活の仕方に誤りがないかどうかを、考え直してみる必要がありますね。
それと、熊が里に下りて来るようになったのは、人を恐れなくなったということもあるんです。」
 彼女は、意外そうに言った。
「はあ、そうなんですか。」
「そうなんです。昔、私たちの先祖は、熊や猪を捕まえて食べてました。だから、そのような野生動物たちは警戒して、人里なんかに下りては来なかった。
ところが今の日本人は、大量の化石燃料を使って輸入された牛肉や、地球の反対側で捕れた鮪(まぐろ)なんかで舌鼓(したつづみ)を打ってる。そして逆に、頭でっかちの『動物愛護』によってそういう生き物を過保護にしてる。
そうじゃなくて本当は、近くの野生動物も食べなけりゃ駄目なんですよ。食べてやらなきゃ。」
 美世さんは、ここでクスッと笑って言った。
「……『食べてやらなきゃ駄目』なんじゃなくて、田野さん、ほんとは『食べたい』んじゃないですか?」
 私は笑いを堪(こら)えながら言った。
「いや、そのね。食べてくれと言われれば食べますよきっと。でも、熊はともかく猪はきっとうまいと思いますよ、あれ。」
「フフフ。ほら。やっぱり。」
 私は、悪戯(いたずら)っぽい表情で美世さんを見ながら言った。
「そう言うあなただって、ちょっとは食べてみたいと思ってるんじゃありませんか?」
 彼女は少し考えてから言った。
「……うーん、そうですね。熊とか猿とかカラスとかは遠慮したいですけど……。」
 私は笑って言った。
「ハハハ、そうでしょ。やっぱり猪は、旨そうに見えるんだ……。」
 そして、また真剣な表情に戻った私はこう言った。
「だからね、自然界の生態系を変えて、生き物を住めなくするということは、結局人間が自分で自分の首を締めてることになるんです。
私がこの山奥の流し台から水を流せば、排水溝の下にいる山椒魚(さんしょううお)から深海に住むカニに至るまでが、『どういう影響を被るのか?』っていう想像力を巡らせることが必要なんです。
……丁度水を流す話しになったんで、一旦片付けてからまた飲みましょうか。」
 既に麺を食べ終えていた彼女は、丁寧な口調で言った。
「はい、ごちそうさまでした。」
 私も同じように言った。
「こちらこそ、ごちそうさまでした。」
 私は七輪を台所に運んだ。それに続いて美世さんが食器などを台所に運んでくれたので、私はそれらの洗いに取り掛かった。簡易水道の水は凍るように冷たい。
「あたし、拭いていきます。布巾はこれですか?」
 運び終えた美世さんはそう申し出てくれたが、私はこう言った。
「いえ、いいです。特別なことがない限り自然乾燥させてるんで。それなら、私の湯呑みを持って来てくれませんか? ご自分のもお忘れなく。」
 彼女は自分の湯飲みと共に、私のも持って来てくれた。洗い物を中断して一旦手を拭いた私は、飲み掛けの焼酎が入ったそれを彼女から受け取りながら言った。
「あ、どうも済みません。」
 そして、机の横の丸椅子に目をやってこう言った。
「どうぞ掛けてて下さい。」
 冷えて赤くなっている手をその大きな湯呑みで暖めながら、私はその中のお湯割をすすった。鍋と薪ストーブの熱によって体の芯まで温まっていたので、それによって指先の冷えはすぐに回復し、むしろ雪合戦をした後のように赤く火照(ほて)り始めた。
 その湯飲みを机の上に置いた私は、丸椅子に腰掛けている彼女に向かって尋ねた。
「あれ? さっき、何の話しをしてたんでしたっけ?」
 彼女は、やや呆れたように言った。
「……丁度水を流す話しになったから洗い物するって、田野さんご自分でおっしゃったんじゃないですか。」
 食器洗いを再開しながら、私は照れてこう言った。
「あ、そうでしたね。済みません、ハハハ。どうも近頃物忘れがひどくって……。」
 美世さんは苦笑いして言った。
「ちょっと田野さん。あなたさっきから、思いっきりオヤジしてません?」
「『オヤジ』って言うとなんだか世間並みに勤めてる人のような響きがあって、私のような世捨て人には分不相応です。『オジサン』と言って下さい。」
 丸椅子に腰掛けていた彼女は、濃い灰色のスラックスを履いた長い脚を前に揃えて伸ばし、やや俯き加減になると、スリッパを履いた両足をパタパタと打ち鳴らしながら、小さな声でこう言った。
「あたし、田野さんがそんな風になってしまうの厭です。」
 洗い物を済ませた私は、タオルで手を拭きながら言った。
「うーん、『厭だ』と言われても……、人間年には勝てませんから……。」
 美世さんの方を向いた私の顔を、彼女は見上げて訴えるようにこう言った。
「年とかそういう問題じゃないですよ、これは! 若い人だって言葉の語呂合わせをしたり、物忘れしたりするけど、何て言うかなぁ、その言い方です。むさいんですよ。オジサンの言い方って。」
「なるほど、ラップなんかやってる若い子、考えてみれば思いっきりギャグりまくってるもんね。」
「そうです。」
 私は机の上の湯飲みを取って中のお湯割をすすると、16ビートのリズムを口で刻み、3連の8分音符でラップの口調を真似て歌った。
「……ズンズンチャッスカスカズンタン……ムサクナイ! サムクナイ!……」
 彼女は笑って言った。
「ハハハ、そうそう。良いですね。」
 私は嬉しそうに言った。
「なるほど! アフリカ系のリズムに乗せてイギリス風に韻(いん)を踏めば、駄洒落(だじゃれ)も若者から認められるんだ!」
 彼女は気を取り直したようで、また明るい声になって言った。
「詳しいことはわかりませんけど、そうだと思います。
……ところで、水を流すの終わってしまったけど、いいんですか?」
「あ、そうそう。……それでね。我が家では食器を洗うのに合成洗剤は使わないんですよ。」
 彼女は、真面目な顔になって尋ねた。
「それじゃぁ、油汚れはどうするんですか?」
「カレーとかパスタとかの油物の食事が終わったら、食器や鍋の内側をまずパンで拭いて食べます。これがまた美味しいんです。名付けて『美味しい拭き拭き』。」
 彼女はケラケラと笑った。
 次に私は、床の上に置いてある、お湯を蓄えている二つのポットを指差してこう言った。
「次に、植物性の油は、この湯で洗えば落ちるし……。」
 続いて私は、やはり床の上に置いてあるブリキの容器を指差して言った。
「……動物性の油は、お湯だけで落ちなければ、あそこに溜めてある木灰(もくばい)も合わせて使います。それで完璧です。」
 彼女は、ちょっと残念そうに言った。
「『美味しい拭き拭き』と、お湯で洗うことは都会でもできますけど、木灰はなかなか手に入りませんよね。」
「いえ、都会の人も薪ストーブを使ったり、七輪を使って炭で調理したりすれば、それは可能になります。」
「昔はきっとどの家庭も、そうだったんでしょうね。」
「そうそう。やればできるんですよ。
ただ都会では、炭や灰を汚いものとだ思い込んでいる風潮があるんで、ピカピカのシステムキッチンを一度使ってしまうと、こっちに戻れなくなるんでしょうね。」
 彼女は、軽く首を横に振ってからこう言った。
「でも近頃では都会でも、ご飯に竹の炭を入れて焚いたり、水の臭みを抜くのに木炭を使ったり、椿(つばき)の灰で髪を洗ったりしてる人もいますけどね。」
 私は、やや感心したように言った。
「ほう、そうですか。昔からあったそういうことが、近頃ではだんだん見直されてきてるんですね。
それならメーカー各社も、七輪仕様のシステムキッチンをつくって売れば、けっこう儲かると思うんだけどなぁ……。」
 彼女は笑って言った。
「ハハ、それ、いいですね。」
 私は、ストーブのある部屋の方を見て言った。
「さて、洗い物も終わったことだし、あっちで飲み直しましょうか。」
 彼女が湯呑みを持って立ち上がると、私も湯飲みを持って電燈を消し、台所を後にした。
 やがて、暖かい部屋の炬燵に入った私は、向かい側に座った美世さんに向かってこう言った。
「ところで美世さん、排水の話しになったんで続けますけど、私が子供の頃には町中にドブというものがありました。そこはバクテリアの働きによって悪臭が立ち込めてるけど、小さな蝿や虻などのたくさんの生き物も生きてたんです。」
 彼女は意外そうな表情をして言った。
「へー、そうだったんですか。」
「更に汚い話しになりますが、食事が終わったんでしますけど、農村には人糞を肥料にするために溜めておく『肥溜(こえだ)め』というものもあった。ここから出る蝿と虻の量は物凄い数だった……。」
 彼女は黙って苦笑いしたが、私は真剣な顔で話しを続けた。
「ところが、それらは汚いという理由で全部コンクリートで覆わたり、処理場で処理されるようになってしまった。それによって日本の生き物は、大幅に数が減少してしまったんだと思いますよ。」
 彼女も真剣な顔になると、確認するようにこう言った。
「なるほど……。そこから出る小さな虫を餌にする虫や鳥なども、その分減ってしまったということなんですね?」
 私は、当を得たりというように言った。
「その通り! これは、『人間だけが生きられりゃいいや』っていう発想に基づいて、衛生面を重視し過ぎた結果のように思いますね。」
「そうですか。悪臭は困りますけど、何かちょっとこう、やり過ぎっていうような感じもしますね。」
「そうなんです。極端すぎるんですよ。自然界とどこかで調和を取らなければ駄目ですね。
例えば江戸時代の東京、即ち江戸では、糞便や生ゴミは処理業者が回収していたので、街は常に清潔に保たれていたっていうじゃありませんか。」
 彼女は、怪訝そうに尋ねた。
「回収した物は、その後どうなるんですか?」
 私は苦笑いして言った。
「決まってるじゃないですか! 近郊の農家が肥料として引き取って、その代償として農作物やお金をくれるんですよ!」
 美世さんは、感動したように目を見張って言った。
「あー、そうかーっ! ……よく考えると凄いことですよね! 現代ではお金を払って捨ててる物が、その当時では物やお金になったんでしょうから。」
 私も、やや興奮して言った。
「そうなんですよ! しかも、現代の処理場では高い経費を掛けてそれを処理している。だからこの部分だけ見ても、いかに現代では無駄なことをしてるかってことになりますね。昔の日本は良かったなー。」
 彼女は頷いて言った。
「そうみたいですね。」
 ここで私は、先ほど私が言った駄洒落を彼女が敬遠したことを思い出したので、こう言った。
「そうそう。話しが戻りますが、オヤジにしろオジサンにしろ、俳句や都々逸(どどいつ)のような日本の伝統的な駄洒落を言ってるんだから、年が経つにつれてそれは、そのうちラップみたいな外来種に取って代わってしまうんでしょうねぇ。嘆かわしいなぁ……。」
 しかし、彼女はこれには同意せず、淡々とした口調でこう言った。
「仕方ありませんね。」
 その一方、私は背中を丸めてお湯割りをすすると、湿っぽい口調で言った。
「……寂しいなあ。」
 彼女もお湯割りを飲んだが、相変わらずクールな口調でこう言った。
「……高校のとき古文で習いましたけど、詩吟の詩って漢文の日本読みが多いみたいですよね。」
「そう言われるとそうだなぁー。つくられた当時は、カッコ良いと思われてたんでしょうね。今聞いても、勇ましい雰囲気が出てていいなぁと思うものもありますけど。
でも、『鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)』だとか、『光底長蛇(こうていちょうだ)を逸(いっ)す』なんて日本人の発音とアクセントで言っても、中国の人には全然通じないだろうし。」
「きっと、そうなんでしょうね。」
「これはまるで、丁度今のカタカナ言葉みたいですよね。『センセイショナルなマニフェスト』だとか、『グローバルなアクティビティ』だとか言っても、やっぱり発音が日本式なので、英語圏の人には全く通じないし、昔の日本語しか知らない世代にも通じない。こんなことやってると、学校で十年間国語と英語を勉強しても、どっちもまともに喋れない人間ができてしまいそうだ。」
 すると美世さんは、やや苦笑いしながらこう言った。
「それじゃ、日本語の中の外来語を、全部原語の発音にすればいいってことですか?」
 私も苦笑いして言った。
「もし、日本人がそういう喋り方をすると、日本では必ず他人から何か言われますよね。」
 私と美世さんは可笑しそうに顔を見合わせると、ほとんど同時に叫んだ。
「キザーッ!!!」
 その二つの声のタイミングがピタリと合っていたことに、私たち二人は思わず大笑いしてしまった。
 ひとしきり笑ってから私は言った。
「……そうなんですよね。外国語を取り入れて喋るのはカッコ良いと思われるのに、それをそのままの発音で喋ると嫌われる。日本風にカタカナに置き換えなけりゃ駄目なんです。微妙な感性ですね、私たちの国民性は。」
 彼女も微笑んで、それに同意した。
「そうですね。外来語を原語の発音のままで喋るのは、知識をひけらかしてるとか、カッコ付けてるとか思うようですからね。」
 私は、お湯割りを一口飲むと、やや口調を変えてこう言った。
「……それにしても、『キザ』なんて言葉、あなたのような若い人も使ってるんですか?」
 美世さんも、お湯割を口にすると、やや照れながら言った。
「……他の人はどうだか知りませんけど、あたしの場合は両親がよく使ってたんで、たまたま知ってただけですよ。」
 私は、やや目を見張って言った。
「それに、あなたの言葉って、若いのにあまり若者言葉じゃないですね。」
 彼女は苦笑いして言った。
「両親がどちらも学校の教師だったんで、言葉遣いについては小さい頃から厳しかったんです。でも、友達同士では若者言葉で喋ることもありますよ。」
 私は嘆くように言った。
「若者言葉は、まあ時の流れによる言語の変化として考えれば、なんとか我慢することはできるけど、さっき話してたようなカタカナの乱用は何とかしないとなぁ……。」
 彼女は、私の目を探るように見て尋ねた。
「それじゃぁ、田野さんは外来語を使わないんですか?」
「もちろん使いますよ。」
 彼女は微笑んで言った。
「それと同じことと思いません?」
「うーん、そう言われるとそうかも知れないが……。」
 彼女は笑って言った。
「フフ、さっきも言いましたけど、日本って昔からずっとそうだったんですから、無駄な抵抗はやめたほうがいいですよ、田野さん。」
 私も笑って言った。
「ハハハ、『そうしましょうか』と言いたいとこですけどね……。」
 そして、やや真剣な顔になると、こう続けた。
「でもね、これは日本人の国民性に関わってくる重大な問題なんですよ。」
 彼女は、怪訝そうな声を上げた。
「はあ!?」
 私は、引き続き真剣な表情で言った。
「ちょっと難しい話しになりますけどね、日本の仏教は、その経典、いわゆる『お経』を梵語(ぼんご)や漢語のままにして和語に翻訳しなかった。だから日本の庶民は、『お経』を外国語として聴くしかなかった。そのため、外来語をありがたい言葉、聖なる言葉として何でもかんでも受け入れるようになってしまった。」
 美世さんは苦笑いして言った。
「う~ん、そんな単純なことなのかなぁ?」
「いえ、きっとそうですよ。だって、いわゆる先進国とか大国とか言われてる国で、こんなに外来語を節操なく取り入れてる国は、世界中見渡しても他にないんです。その理由を考えると、他に見当たらないんですから。」
 彼女は、納得できないような表情でこう言った。
「……うーん、それは仏教のせいなのかなぁー……。」
「いや、仏教のせいじゃなくて、外来のものを崇拝するという傾向は、それ以前からあったと見ていいですね。中国製の銅鏡が、権力の象徴のようにされていた時代もあったようですから。」
「でも、それって日本に限ったことじゃないでしょう?」
「……ええ、まあ、そうなんでしょうけど……。」
 私は、やや口ごもってそう言うと、今度は、はっきりした口調で言った。
「つまり、もとからそういう傾向のあった人たちに対して、権力者が仏教という宗教を利用して、そのような権威をつくり上げてしまった。それが、江戸時代に確立された檀家(だんか)制度によって、国民の中に徹底的に根を下ろしてしまったんですよ。」
 美世さんは、やや納得したように言った。
「なるほど、それならわかるような気がします。」
 私は、やや興奮して言った。
「それから漢字! 表現が豊かになるので、私も仕方なく使ってますけど、何ですかこの字は! こんな封建的な文字、世界中どこにもありませんよ!」
 彼女は苦笑いして言った。
「はあ、そうなんですか?」
「そうですよ。でも、元は立派な文字だったんだと思いますよ。偏(へん)がカテゴリーを表わし、旁(つくり)が音を表わすという、非常に論理的で知的、かつ発展性のある文字だと思います。だから、これをつくった人には敬意を表します。
でもね、文字が複雑化して、その種類が増えれば増えるほど、学習する際には、それを習得している権威に頼らざるを得なくなってくる。だから結果的には、封建的になってしまうんですよ。」
 彼女は困った顔になって言った。
「それも、なんとなくわかりますけど、それならどうすればいいんですか? 日本語にここまで漢語が浸透してるんですから、今更そんなこと言っても、どうしようもないじゃないですか。」
 私は、恥ずかしそうに言った。
「済みません、つい興奮してしまって……。」
 そして私は、やや口調をやや改めてこう言った。
「……ところで私、その漢字を最近読めはするけど、書けなくなってしまって困ってるんですよ。」
 美世さんも、やや深刻な表情になって言った。
「そうそう! あたしもそう思ってたところなんです。」
「原因はもうはっきりしてるんですけどね。」
 彼女は探るように尋ねた。
「もしかして……パソコン?」
 私は大きく頷いて言った。
「そうです。まあ、もっと厳密に言えば日本語のワープロのせいですよ。」
 彼女は納得したように言った。
「なるほど……。そのお陰で幸か不幸か、字を紙に書く必要がなくなりましたからね。」
「そうなんです。しかも、変換も自動でやってくれるもんで、最終的にはほとんど頭を使わずに、文字がプリントアウトされることになる。せっかく義務教育で九年間も習ってきたものを、このようにして失ってしまうんですからね。」
 美世さんは、残念そうに言った。
「なんだか、もったいないですよね。」
 また興奮してきた私は、力を込めて言った。
「そうですよ! このまま放っておくと今の日本語は、そのうち消滅すると思いますね!」
 彼女も、また苦笑いして言った。
「それじゃぁ、なるべくパソコンを使わなくするとか?」
 やはり私も苦笑いすると、こう言った。
「いえ、頭ではそう思ってても、これだけ依存してれば現実には無理ですよ。私の場合、パソコンのワープロソフトなしで文章を作ることは、もはや不可能に近くなってます。丁度、自家用車や冷蔵庫なしで生活することが不可能に近いのと同じように……。
だから、もし日本語の消滅を防ごうとするなら、日本語そのものを変えなけりゃならないと思うんです。」
 彼女は、やや興味深そうに尋ねた。
「どういうふうに変えるんですか?」
「新しい造語はすべて従来の日本語から作るとか、これ以上カタカナ言葉や漢字の造語を増やさないとか。」
 すると、彼女は悪戯っぽく微笑んで尋ねた。
「それじゃ、カレーライスのことは何て言えばいいんですか?」
 私は、わざと真面目な顔をしてこう言った。
「辛い飯(からいめし)。」
「それじゃ、コンピューターのことは?」
「電気頭(でんきあたま)。」
「サッカーは?」
「野蹴鞠(のけまり)。」
「ワールドカップは?」
「世界盃(せかいさかずき)。」
 彼女は噴出して言った。
「フッ! それって何のことだか、さっぱりわかりませんよ。」
 私は、今度こそ大受けすることを期待してこう言った。
「メディア、即ち媒体は『仲取り持ち』!」
 しかし美世さんは、厭そうに苦笑いしてこう言った。
「もういいですよ。」
 彼女が喜ばなかったので私はガクッと項垂れたが、彼女は真剣な顔になってこう言った。
「……でも、あたしマジで思うんですけど、これだけ世の中にインターネットが普及して世界中がつながると、そのうち言葉も国も一つになっていくんじゃないかって。」
 私は苦笑いして言った。
「うーん、言葉の方はともかく、国がそうなるんなら私も賛成だな。」
「田野さん前にメールで書いておられましたけど、近頃世界のあちこちで、宗教の教団同士の対立が盛んになってるって。」
 私も真剣な表情になって言った。
「ええ。本来なら、人を平和に導くためにあるはずの宗教の信者同士が、互いに争って血が流されている。非常に嘆かわしいことだと思ったんでね。」
 彼女は更に真剣な表情になると、こう言った。
「でも、それって、当たり前のことなんじゃないかなって。」
「え?」
 私の目は点になったが、彼女はそれに構わず話しを続けた。
「今まで国や宗教同士には、ある程度の距離があったと思いますけど、それがインターネットによって急に近くなったんですから、最初はぶつかり合って当たり前ですよ。」
 美世さんの話しの筋は一応通っているので、私はやや感心し、目を見張ってこう言った。
「ほう、そう言われてみると確かにそうですね!」
「人間同士でもそうですが、ぶつかり合ってみて、初めて相手のことをよく知ることができると思いませんか?」
「なるほど……。」
 私は、更に感心しながらそう言った。私がついつい悲観的に見てしまうことを、彼女は前向きに捉えている。その彼女が微笑んでこう言った。
「今まで互いに偏見を持って見ていたことが明らかになって、その偏見が正されていくんですから、しばらくもめるでしょうが、その後は落ち着くということも考えられますよね?」
 私は半信半疑だが、一応それに同意した。
「うーん、そうですね……。」
「だから、田野さんが心配されているようなことも、そのうち解決されていくんじゃないでしょうか?」
 私も微笑んで言った。
「私も、世界の国や宗教の壁が、そのうちなくなることを願ってますよ。」
 そして、今度はやや真剣な表情になってこう言った。
「でも、言葉が一つになるっていうのは、英語に統一されるってことでしょうか? 近頃のIT用語ってほとんどがカタカナでしょ。あれじゃ今の高齢者が可哀想だなと思って。」
 彼女も、やはり真剣な表情になって言った。
「そうですよね。それはあたしも同感です。母は家にパソコンが来たとき、『日本語のOSはカタカナ用語がちんぷんかんぷんなんで、これじゃ英語のOSにした方がまだましだった。』って言ってましたよ。」
「そういう人たちのために、日本語のOSでカタカナなしバージョンを開発すれば、きっと売れるでしょうね。」
 美世さんは微笑んで言った。
「そうすると、一つのパソコンに二つのOSを入れることになって無駄だから、一つのOSの中で『ノーマル』と『和風』に表示を切り替えられるようにするんですよ。その方がもっと売れるんじゃないですか?」
 私も笑って言った。
「ハハ、なるほど。高齢者だけじゃなくて、一般の人でも買い変える可能性が出てくるもんね。でも一つのパソコンに一種類の表示にして、ハードと抱き合わせて売れば、ソフトとハードの業者両方が儲かることになる。日本経済の未来は明るい!」
「一家に一台じゃなくて、極端に言えば一人に一台、文字通りパーソナルってことですね。でもその後何十年かして、カタカナが平気な人だけの世の中になってしまったら、きっと伸び悩みますよね。」
 私はやや熱を帯びた口調で言った。
「いや、そんなことありません! 今度は漢字がかっこ良いというブームを、世の中に巻き起こすんですよ。丁度今の英語のようにして。」
 美世さんも、それに合わせて楽しそうに言った。
「なるほど! そしてOSは漢字を盛りだくさんにする!」
「そう! パソコンやOSだけじゃありません。文化そのものをです。すると、英語崇拝時代に育った今の人たちは、丁度今の高齢者を困らせているような状況になる。ラップなんて口ずさもうものなら、その時代の若者たちから、『前時代的』とか『欧米崇拝主義者』とか言われる。カタカナや英語の表示の物は古臭いと言われ、工業製品は漢字で表示された物に買い換えられる。全ての業界は大儲けして、日本経済は活性化する。万々歳!」
「漢字の次は、ひらがなとか。」
 私は笑いを堪えながら言った。
「そうそう。ネタが尽きてきたらまたカタカナを出せばいい。『カタカナ イズ ベスト』なんていう何語なんだかわからない、怪しげで魅惑的なキャッチフレーズを出してね。」
 美世さんは苦笑いして言った。
「そう簡単にいきますかね?」
 私は漬物をつまみ、湯呑みのお湯割りをすすってから言った。
「……いきますね。今までの日本の経済と社会の構造を見てると、いとも簡単に。」
 彼女も、お湯割りを一口飲んでから尋ねた。
「……それは、どんな風にですか?」
「企業は自社の商品をマスコミを通じて消費者に宣伝する。消費者はその情報に基づいて商品を選択し購入する。商品が売れれば企業に利益が生じる。今のアナログの流通システムを簡単に言ってしまえばこうなります。わかりますよね?」
「わかります。」
「企業もマスコミも本来は、消費者の要望に応じた製品をつくり、視聴者のためになる情報を流すことが仕事です。ところが、企業とマスコミが結託すれば、消費者の要望をある程度操作することができます。これもわかりますよね?」
「ええ、わかります。たとえば、特定の製品が売れるようなブームを巻き起こすテレビ番組を、マスコミがつくって流し続けるってことですよね。」
「その通り。この、業界が引き起こすブームってのはね、人間の心理を巧みに利用してるんです。自分は、かっこ良い人たちと同じ物を持っている、同じ言葉を喋ってるという優越感。その『かっこ良い』という言葉が、ともすると『新しい』という言葉に置き換わってしまうことがあるんです。」
「なるほど。あたしと同じくらいの世代の人を見てると、そう思うことがありますね。」
 私は、またお湯割りを飲んでからこう言った。
「パソコンのような機械に対する価値観と同じ発想なんですよ、これは。ハードでも、ソフトでも、新しいバージョンは古いものよりも必ず優れていると決まってるでしょ?
ところが、今の日本の社会は、これを人間にも当てはめてしまうような風潮になってきている。だから、『オヤジ』だの『オッサン』だのという言葉には、ちょっと馬鹿にしたようなニュアンスがある。」
 美世さんは、ちょっと困った顔になってこう言った。
「……済みません。さっきは、あんなこと言って。」
 私は笑って言った。
「ハハハ、いいんですよ。それは、謝るようなことではありません。一部の企業とマスコミが先頭に立って、そういう社会的風潮をつくり出してるんですから。今の日本で普通に生活してれば、それに巻き込まれないでいられることの方が不思議なんです。
とにかく、この資本主義経済と言うか自由主義経済と言うか、その中では企業が消費者を攪乱(かくらん)して、金銭を搾取(さくしゅ)してるんじゃないかと思われるときがありますよ。まあ、騙される方も騙される方ですけれど。」
 彼女は、お湯割りを飲んでから言った。
「……そう言われると、そう疑われても仕方ないような姿勢の企業がありますね。それが、衛生面で手抜きをしたりとか、安全管理を怠ったりといった原因による事故として現れてくるんでしょうね。」
「その通りだと思います。どこも同業者に遅れを取らないようにしのぎを削り、利益を上げることだけに夢中になってるから、肝心なことを見失ってしまうんでしょうね。
さっきは冗談半分で言ってましたが、企業を経営するような立場の人なら、高齢者用のソフトを開発してパソコンに齧り付くようになると、高齢者は足腰が弱ってしまい、かえって寝たきりを促がすことになるんじゃないかってところまで、考えなきゃならないと思うんです。」
「そうですよね。でも、そこまで心配しなくても大丈夫ですよ、きっと。今のお年寄りって、頭も体も軟弱な私たちとは基本的につくりが違いますから。母は今体調を崩していますが、父なんかを見てると特にそう思います。」
 私は、やや目を見張って言った。
「え? 美世さんのご両親て、そんなお年なんですか?」
「そうなんです。どちらも戦中生れです。あたしは末っ子で、母が四十のときの子ですから。」
「あ、そうそう。お母さんがお生まれになったことの記述は、あの原稿にありましたね。……と言うことは、あなたのお母さんが1942年生まれだから……。」
 私は美世さんが多少恥らうだろうと思ったが、彼女はあっけらかんとして事もなげに言った。
「そう、1982年生まれの22歳です。田野さんは?」
 それを聞いた私は、自分の年をはっきり言いたくないという思いに駆られた。
「……うーん、言わなきゃならないんですか?」
 彼女は、少し寂しそうに微笑んで言った。
「田野さんが言いたくなければ、いいです。」
 彼女のその顔を見た私も、なぜか急に寂しくなったので、苦笑いするとこう言った。
「それじゃ、当てて下さいよ。」
 普段の笑顔に戻った彼女は、朗らかな声で言った。
「田野さんの場合難しいなぁ……。39!」
「はずれ。」
「41!」
「お、近付いた!」
「42!」
「惜しい!」
「44!」
「行き過ぎ。」
「へー! そうなんですかー、意外なんですねー!」
 私は少し照れながら言った。
「そうですか。あなたとは、『親子』って言われてもおかしくない年齢差ですよね。」
 美世さんは、ニコニコして言った。
「ええ。でもその差をあまり感じませんよね。」
「そうですね。これは、あなたの精神年齢が高いのか、私の精神年齢が低いのか……?」
 彼女は、笑顔のままでこう言った。
「その両方ってことにしときましょうよ。」
「ハハハ、そうしましょうか……」
 つられて私も笑って言ったが、ハッと気がついてこう言い直した。
「……こら! 何を言わすんですか! それじゃ、あなたが褒(ほ)められてて、私がけなされてるんじゃないですか!」
 私は目を剥いたが、彼女は相変わらずニコニコしながら言った。
「いいんです。それで。」
 私は、少々むきになって言った。
「良くありません! 私の精神年齢は『低い』んじゃなくて、『若い』んです!」
 そして、急に口調を変えてこう言った。
「……えーと、なに話してたんだっけ?」
 彼女が助け舟を出してくれた。
「お年寄りの体が丈夫にできてる……。」
 私は、嬉しそうに言った。
「そうそう!」
 そして、やや真剣な表情になって言った。
「……それ、よくわかります。体だけじゃなくて、精神的にもそう思いますよ。昔の人って自分に厳しくするんですよね。それは、いわゆる団塊の世代の人たちもみな口を揃えて言っている。その後の世代の人たちも、大体情が深くて責任感が強いという傾向がありました。
ところが、私の世代くらいからこれが変わってきた。その頃世間では、これを『旧人類』『新人類』って言ってましたけど。でも、そういう見方って一概には言えませんよね。若い人にだって、責任感の強い人も体の丈夫な人もいるわけだし。」
 彼女も、やや真剣な顔になって言った。
「でも、それって大体当てはまると思いますよ。田野さんはどっちなんですか?」
 私は考えながら言った。
「……うーん、難しいですね。『旧』の要素もあるし、『新』の要素もあるし……。
まあ、基本的には旧なんでしょうけど、私の場合、そういう問題じゃなくて、もっと基本的なところが壊れてるんで……。世間一般の人から見ると、わけのわからない動きをすることがあるんです。」
 彼女は訝しそうに、やや小声になって尋ねた。
「……何が、壊れてるんですか?」
 私は、また真剣な表情になってそれに答えた。
「心が……です。
自分でもこれに気付いたのは、最近になってからのことなんです。だから今は、どの部分がどう壊れてるかだとか、何が原因でそうなったのかなどを、少しずつ解明している最中なんで、それを一言で説明することはできませんが。
どうも、私の生まれ持った素質と、子供のときの親との関係、そして育ってきた環境の三つが複雑に絡み合っているようなんです。」
 彼女は、極めて真剣な表情になって言った。
「難しそうですね。」
「そうなんです。自分でもこんなに難しいことなんですから、他人にはもっと難しいことだと思います。」
 彼女は、表情を少し和(やわ)らげてからこう言った。
「そうかも知れませんけど、複雑に絡み合ったように見える糸も、少し離れたところから見ると、意外にその糸口が見付かるってこともありますよね。」
 空になった自分の湯呑みの中に、焼酎に続いてお湯を注ぎながら、私はやや感心してこう言った。
「……なかなか、うまいこと言うじゃありませんか……。」
 そして美世さんの方を向くと、やや寂しそうにこう付け加えた。
「……でも、今まで私の深い部分までも理解することができた人は、一人もいませんでしたけど。」
 彼女は、その私の顔を見てこう言った。
「それは、誰でもみんな同じなんじゃないですか? 他人のことを全部理解することができる人なんて誰もいないし、他人から全てを理解されるような人も、やっぱりいないんじゃないかって思いますけど。」
「それはそうだと思いますよ。でも、私の場合、誤解されることが余りにも多過ぎて……。」
 私は、寂しそうに目を伏せながら、こう付け加えた。
「……疲れるんですよ、そういう人間関係。」
 そして、再び美世さんを見て言った。
「あなたには、ある程度まで理解してくれる人がいるんでしょう?」
 彼女は頷いて言った。
「ええ、ある程度までなら。父と母と兄と姉、二人の幼馴染、高校時代の何人かの友人、それに職場の同僚の一人もそうかな……。」
 私は、羨ましそうに言った。
「いいですねぇ、いっぱいいらして。」
 そして、苦笑いするとこう言った。
「あなた、もしかして、引越しも転校も転職もしたことないんでしょ。」
 彼女は、真剣な表情でそれに答えた。」
「ええ、ありませんね。ずっと東京の下町です。高校卒業してからすぐに、今の会社に就職しましたから。」
 私もやや真剣な表情になると、納得してこう言った。
「そうすると、それが当たり前でしょうね。特に下町なら。みなその土地で、同じ時間と空間と文化を共有しながら成長している。だから相手に対して、より多くの想像を巡らせることができるんで、その分理解度も高まる。
ちなみに私は、小学校で四回変わり、中学校は三年ともそれぞれ違う学校でした。だから、その後四年間続けて通った定時制高校のときの友人は、卒業する頃になると、それまでの誰よりも気持ちが通じ合っていたように思います。自分の親以上にね。」
 彼女はそれを聞くと、やや目を丸くした。きっと彼女の場合、彼女のことを一番理解してくれている人は、ご両親なのだろう。私は話しを続けた。
「……またそれと平行して、就職先の寮の隣室の先輩とは、毎晩のように酒を酌み交わしてました。その立場上どちらかというと、私が彼の話しの聞き役になっていましたが、その後一緒にあちこち旅などして親交を深めました。中でも、晩秋の能登半島の旅が忘れられません。そのときの風景と、この島北部の海岸線の美しい風景が時折り重なって見えるほどです。
しかし、私が一般社会からドロップアウトしてからというもの、彼らとは会ってません。今頃どうしてるのかなぁ。」
 美世さんは、やや残念そうに言った。
「あたしなら、そんなに仲良くなった人の元を去らないけどなぁ。」
 私は、穏やかな口調で言った。
「あなたの場合、生まれ育った町が、恐らくあなたにとっての安住の地だったんでしょうね。」
「そうなんだと思います。クラスはみんな仲が良かったし。今でも同窓会のたびに盛り上がってます。」
 私は、真剣な表情になって言った。
「小学校三年のとき、初めての転校先で、私は徹底的にいじめられたんです。」
 彼女は、また目を見張って言った。
「えー!? ひどいですね! それ!」
 そして、こう付け加えた。
「それが、さっきおっしゃってたことなんですか?」
 私は寂しそうに微笑んで、それに答えた。
「ええ……。」
 美世さんは、訝しそうに尋ねた。
「それは、特定の子からされるんですか?」
「ええ。少なくともそういうのがクラスに四人はいましたね。一学期はもう毎日、まるで雑巾のように殴られたり蹴られたりして、泣かされてましたよ。そんな学校になんか行きたくなかったんですけど、親は学校を休むことを許してくれませんでした。いじめる相手の似顔絵を書いた紙人形をつくって、それを親の前で泣きながら燃やして見せましたが、それでも学校を休むことは許されませんでした。」
 彼女は悲しそうに言った。
「それは辛かったでしょうね。」
「ええ。でも、夏休みが過ぎて二学期に入ると、あまりいじめられなくなったんです。」
 彼女は、再び目を見張って言った。
「へー、良かったですね! でもなぜですか?」
 私は鼻で笑って言った。
「フン、道化者になることを覚えたんですよ。自分を貶(おとし)めて、とにかくなんでもいいから相手を笑わせることをする。するとその相手は、私よりも自分の方が優れているという優越感に浸って気分が良くなるので、わざわざ私をいじめる必要がなくなるんです。」
 彼女は悲しそうに言った。
「惨めな解決策ですね……。」
 私は苦笑いして言った。
「ええ。今思えば自分で自分の魂を売ってたんですからね。でも、そこまでしなければならないほど、私は追い詰められてたんです。」
 彼女は黙って頷いた。私は、やや口調を改めると話しを続けた。
「しかし、それがとんでもない方へと発展してしまった……。
冬休みの最中にその学校から転校しましたが、その後は新しい学校に移るたびに、常にいじめる側になったんです。」
 彼女は深刻な表情になって言った。
「転校先でいじめる側になるって、かなり珍しいですね……。」
「そうなんです。また同じような目に遭うのは、絶対にご免でしたからね……。
まず、クラスで一番強そうな奴と仲良くなるんですよ。そのために自分を貶(おとし)めたり、他人を陥(おとしい)れたりすることなど、何とも思ってませんでしたね。」
 彼女は眉を寄せて言った。
「田野さんて、かなりませてたんですね。」
 私は、お湯割りを少し飲むと寂しそうに微笑んで言った。
「……今思えばそうですよね。でもその当時は、自分が何をしているのか客観的に見る余裕など、全くありませんでしたよ。生きること、自分の身を守ることだけで精一杯なんです。やらなければ、こっちがやられてしまうんですから。」
 彼女もお湯割りを飲むと、納得したように頷いて言った。
「……転校するたびに弱い立場に逆戻りするってことを何度も繰り返すんだから、そうなってしまうのは当たり前ですよ。」
 私は、彼女が自分のことを部分的にでも理解してくれたので、とても嬉しくなった。
「それで、中二のときの転校先では、気が付いたら学校で一二を争うような不良になっていました。そして、実に様々な悪事を働いたんです。」
 彼女は、少し退(ひ)いて尋ねた。
「悪事って……どんなことをしたんですか?」
 私はまた、寂しそうに微笑んで言った。
「……窃盗、器物損壊、放火……。」
 彼女は眉を寄せると、悲しそうな声を上げた。
「えー!? それって嘘でしょーっ! 田野さんはそんなことする人じゃありませんよーっ!」
 私もやや悲しそうに言った。
「私もそう思いたいんですけどね、あの頃は、もう何かに憑(つ)かれたようにして、毎日ひたすらそんなことをしてましたよ。」
 彼女は、訝しそうに尋ねた。
「それは、どこでするんですか?」
「学校でとか、一旦家に帰ってからまた街に出てとか……。」
 彼女は、深刻な面持ちになってこう言った。
「たとえば、どこに火をつけたんですか?」
 私は微かに微笑んで言った。
「公園のど真ん中にあった公衆便所です。周囲に何もなかったんで、ここなら民家には燃え移らないだろうと思って。」
 彼女は、残念そうだが力を込めてこう言った。
「そこまで考えることができてたんなら、何のために火なんかつけたんですよ?!」
「それが……、表向きのはっきりした理由はないんですが、感覚的に思ってたんでしょうね。中東では、日本の同盟国が支援する戦争によって、罪のない人が殺されてるのに、安全な場所にいる日本の大人たちは、余りにもそれに無関心だって。だから、そういう大人たちを困らせてやりたいと思ったんでしょう。滅茶苦茶な理屈ですが。」
「戦争って……?」
「あ、そうですね、1973年に起きた第三次中東戦争のことですよ。」
 美世さんは黙ってしまったが、彼女が先ほどのようにして私の立場に立ってくれることを、心のどこかで期待していたのか、私の口は勝手に動いてしまった。

「……それで、壊したので一番ひどかったのが、学校の教室の窓ガラス。丁度文化祭で父兄が来てる最中に、一枚一枚糞丁寧(くそていねい)に足で蹴破(けやぶ)りましたよ。とにかく、自分のことは棚に上げて、尤もらしいことを偉そうに言ってる大人に対して腹が立ってたんですね、親とか教師とか……。」
 彼女の目に涙が溢れてきたので、私は慌ててこう言った。
「あ、ご免なさい! 変なこと言っしまって!
こんな私のエゴと無神経のために、多くの人の心を傷付けてしまったことは、悔やんでも悔やみきれないことだと、今は深く反省してますから!」
 彼女は、赤くした目で私を見ながらこう言った。
「……でも、なんであたしに、そんなことまで言うんですか?」
 彼女のその声は、辛そうにかすれていた。それに答える私の声もまた、同じようにかすれた。
「あなたなら、こんな私の心の葛藤を少しはわかってくれるんじゃないかなと思ったんで……。」
 彼女は手の甲で涙を拭い、しばらく間を置いてからこう言った。
「……それって、ご自分のことを、あたしにもっと知って欲しいってことなんですか?」
 私は、自己の行動を慎重に分析しながら言った。
「……ええ、そうだと思います。
……私はそれまで自分がしてきたそのような悪事の根本的原因、即ち自分が持っている残忍性や無神経やエゴといったものに対する、懺悔(ざんげ)の気持ちを込めて、今回のお仕事に取り組もうと思ってるんです……。
だから、その依頼者であるあなたにだけは……、そのことを詳しく知って頂きたいという思い……、それもあったんでしょう。」
 彼女はやや気を取り直したようで、やや同情するような表情になって言った。
「田野さんて、見掛けよりもずっと苦労なさってたんですね。」
 それは、少なくとも厭味には聞こえなかったので、私は静かな口調でこう言った。
「ええ、そうみたいですね。中三になる直前に転校してから、今度は学校にピタリと行かなくなってしまったし。」
「……不登校ですね。」
「ええ。でも当時そんな便利な言葉は、まだありませんでしたけどね。」
 美世さんは、あたかも迷子(まいご)にものを尋ねるときのような優しい口調でこう言った。
「どうして行かなくなったんですか?」
「まず、『自分て最低の人間だ』って思うようになってね。そして人間そのものに対しても不信を抱くようになったんです。そうすると、人の顔を見て、まともな会話をすることが、できなくなってしまったんです。」
 彼女は表情を曇らせて言った。
「あぁ、それじゃ学校には行けませんよね。」
 彼女がそのことを理解してくれたので、私はまたとても嬉しくなった。
「ええ。学校だけじゃありません。店で買い物したり、電車やバスに乗ったりすることも困難になったんです。もう、本気で死のうと思ったこともありましたよ。」
 彼女はまた深刻な表情になって言った。
「いや……、それは大変でしたね。」
「ええ。でも、その中学校の生徒指導の先生が、毎日のように私の家に通って下さって勉強を教えて下さり、それを出席日数にするという寛大な処置を、学校側がして下さったお陰で、なんとか卒業することができたんです。」
 彼女は、表情をやや明るくして言った。
「それは良かったですね。」
「ええ。ありがたいことだったと今でも感謝してます。
ところが、それからずっと進学も就労もせず、それまでと変わらない生活を続けることになってしまったんです。ほとんど自分の部屋から出ず、家族とも言葉を交わさない生活。」
 彼女は訝しそうに尋ねた。
「食事のときは、どうするんですか?」
「母親が部屋に運んでくれました。」
 彼女は再び深刻な表情になって尋ねた。
「『引きこもり』……ですか?」
 私は、また寂しそうに微笑んで言った。
「ええ。これまた当時そんな便利な言葉はありませんでしたけどね。」
 美世さんは、なかば深刻だが、なかば感心したような、複雑な表情になってこう言った。
「こんなこと言うと失礼かもしれませんが、田野さんてもしかすると、今で言う『いじめ』と『校内暴力』と『不登校』と『引きこもり』の、先駆けだったんじゃないんですか?」
 人間自分の恥部を曝(さら)け出すと、なんとなくすっきりした気分になるものだ。私は漬物を抓(つま)み焼酎のお湯割りを飲むと、他人ごとのように笑って言った。
「……ハハハ、そのようなことは、どれも昔からあったことだと思うんで、別に私が先駆けなんかじゃありませんよ。ただ、社会問題として騒がれるようになったのは、私がなっていた頃よりもまだ何年か後のことでしたけどね。
しかし、あなたが今おっしゃったこと全てを当事者として一人で体験した子は珍しいと思います。こんなこと自慢にはなりませんが……。」
「言い方良くないかも知れませんけど、加害者と被害者の両方を体験されてるんですからね。」
「ええ、そうなるんでしょうか……。」
 彼女は、なかば遠慮がちだが、どこか興味深げに尋ねてきた。
「『引きこもり』って、ご自分の部屋の外には全くお出にならなかったんですか?」
 私は微笑んでその問いに答えた。
「いえ、そんなことありませんよ。当然便所に行ったり風呂に入ったりもするわけだし。
また私の場合、海や山が好きだったんで、自転車で海に行ってはよく潜ってたし、飼い犬と一緒に朝の裏山を駆け回ってたし。
たまたま都会じゃなくて、そのような場所に住んでたからかも知れませんけど……。」
「どこに住んでらしたんですか?」
「鎌倉です。」
 彼女は目を輝かせて言った。
「あら、いいところじゃないですか!」
 私も微笑んで言った。
「そうなんです。そのような環境に恵まれてたのは、本当にありがたいことだと思ってますよ。」
「ご自宅では何してらしたんですか?」
「ボーっと考え事をしてることも多かったですが、それ以外はピアノや電子オルガンやギターなどをいじったり、本を読んだり。特に気になる本は片っ端から読み漁(あさ)りましたよ。」
 彼女は目を輝かせて言った。
「え!? 田野さんてミュージシャンだったんですか!?」
 私は照れながら言った。
「いえ、自分ではそう思ってませんけど。」
 美世さんは微笑むと、問い詰めるような口調でこう言った。
「でも、楽器をお弾きになるってことは、そうなんじゃないですか!」
 私は苦笑いして言った。
「いえ、弾けるなんていう、大それたもんじゃありませんよ。」
「聴いてみたいな……。」
「やめといた方がいいですよ、雑音ですから。」
 彼女は、やや真剣な表情になって言った。
「雑音じゃないんでしょうけど、あたし、いいんです。もし雑音でも。聴かせて貰えませんか?」
 私は引き続き苦笑いしていたが、それでも立ち上がると、彼女に向かってこう言った。
「きっと後悔しますよ……。
寒いんでコートを着て来て下さい。」
 彼女は自分のコートを手に取って立ち上がると、嬉しそうに言った。
「……済みません、無理お願いして。」
 私は、台所とは反対側の奥の部屋に通じる襖を開いてその暗闇の中に入ると、天井の裸電球をともして美世さんを呼んだ。
「こっちです。」
 コートを着終わった美世さんはその部屋に入って来た。
 中央に家具や段ボール箱などがうず高く積まれているその15畳ほどの広さの部屋の隅に、1台の茶色いアップライトピアノが置かれている。私はその前に置いてある椅子に座ってピアノの蓋を開くと、私の斜め後ろに立った美世さんに向かって、白い息を吐きながら言った。
「寒いので短い曲にします。」
 彼女は私に向かって微笑むと、小さく小刻みに拍手をした。
 ピアノの方を向いた私は、両手を冷え切った鍵盤の上に乗せると、ややアップテンポの三拍子の曲を弾き始めた。私が十九歳の春につくった曲だ。

 その曲は二分ほどの長さしかなかったので、弾いている方としては、あっという間に終わった。私が振り向くと、目を丸くしていた美世さんは、再び拍手をしながらこう言った。
「田野さん、すごーい!!!」
 私はピアノの蓋を閉めると、椅子から立ち上がりながら言った。
「さ、凍死するといけないので、早く暖かい部屋に戻りましょう!」
 彼女が先にこの部屋を出てから、電灯を消した私も薪ストーブが焚かれている明るい部屋に戻った。
 美世さんはコートを脱ぎながら、何かを確信したように独り言を言った。
「……やっぱり思った通りだわ……。」
 私は襖を閉めながら、きょとんとして尋ねた。
「は?」
 彼女は微笑んで言った。
「いえいえ、こっちの話しです。どうもありがとうございました!」
 その笑顔のままで、彼女は話題を変えた。
「……さっき、本もお読みになってたっておっしゃってましたけど、どんな本をお読みになってらしたんですか?」
 私は炬燵に入りながら、気を取り直してそれに答えた。
「最初はSF小説にはまってたんですが、そのうち超自然現象とか宇宙人とかにはまって、最後は宗教とか哲学とかにも。」
 畳んだコートをかたわらに置いた美世さんも再び炬燵に入ると、お湯割りを飲んでから言った。
「……最後は随分難しそうな本も、お読みになってたんですね。」
 私も、お湯割りを飲んでから苦笑いして言った。
「……ええ、でもただ読んだだけで、実際はちゃんと理解してなかったと思います。本によっては、自然に瞼(まぶた)が重たくなってくるようなのもあったんで……。」
 彼女は嬉しそうに言った。
「フフ。それって、かなりまともな証拠なんじゃないですか?」
 私は笑って言った。
「ハハハ。そんなこと言ったら、ちゃんと勉強してる人から怒られますよ。」
 そして、やや真剣な表情になってこう言った。
「……でも、今読み直せば、また違った印象を受けるかも知れませんけどね。」
 彼女も、やや真剣な表情になって言った。
「本でも映画でも、そういうもんですよね。こっちが変われば、同じ物がまた違った角度から見えてくるっていう感じで……。
それで、そういう生活がどれくらい続いたんですか?」
「不登校の時期も含めると、丸三年です。」
 美世さんは、やや驚いて言った。
「へー、普通はもっと長いんでしょ?」
 私も、お湯割りを飲んでから言った。
「……普通がどうだかは私にはわかりませんが、私の場合、まともなら思春期や青春を謳歌してるようなときにそうなってしまったんで、ちょっと残念です。でも結果的に、それは決して無駄なことではなかったと思ってますけどね。」
 彼女もお湯割りを飲むと、真剣な表情になって言った。
「……そうでしょうね。そんなに長いあいだ、まとめて本を読むって、なかなかできることじゃありませんから。」
 私は頷いて言った。
「そうなんですよ。よく考えてみると、厭々ながら学校に通うよりも、自分のしたいことができてたんだから、あれはむしろ自分にとって恵まれていた環境だったんじゃないだろうかって、近頃思うようになりました。
でもその当時は、人や車が家の前を通るたびに、足音やエンジン音が聞こえないように耳を塞いでたんですから、やはり辛い日々であることに変わりはなかったですけどね……。」
 彼女は訝しそうに尋ねた。
「そのたびに、ですか?」
 私は、真剣な表情で頷いて言った。
「そうです。そのたびに。だから、それが頻繁に聞こえるようなときには、ずっとヘッドフォンをして、音楽の大きな音でそれが聞こえないようにしてましたよ。」
 すると彼女は、深刻な表情になって言った。
「いや、それは大変だわ……。
それじゃ、どうやってその状態から抜け出せたんですか?」
 焼酎のお湯割りを飲んだ私は、その問いに対してこう答えた。
「ある日、それまで頭の中でモヤモヤとしていた霧のようなものが突然晴れて、あることが閃(ひらめ)いたんです。」
 彼女は、一瞬表情を緊張させて言った。
「もしかして、宇宙人の声を聞いたとか!?」
 私は苦笑いして言った。
「いえいえ、そこまで行ってませんよ。」
 彼女はコタツの卓の上に身を乗り出すと、興味深そうに尋ねた。
「それじゃ何なんですか?」
 私は、淡々としてそれに答えた。
「『人間が生きることって正しいことだ』ってことです。」
 彼女は一瞬ガクッとなると、苦笑いしてこう言った。
「もぉ、笑わせないで下さいよ! ちょっと期待してたのに。それって当たり前のことじゃないですかぁ!」
 その一方、私は極めて真面目な顔で言った。
「ええ、普通の人にとっては、そうなんでしょう。でもね、私みたいな人間にとって、それは当たり前のことじゃないんですよ。」
 彼女はまた、興味深げに尋ねてきた。
「『私みたい』と言いますと……?」
 私は、また淡々とした口調で話した。
「『地球上の多くの生き物を、次々と絶滅に追い遣ってる人類って、最低の生き物だ』とか、『その中でも自分て最低の人間だ』とかって思ってることですよ。」
 美世さんは、急にまた真剣な表情に戻った。
「笑って済みませんでした。自殺をお考えになったんですものね。」
 私は依然として淡々とした口調で言った。
「そうなんです。だから文明世界の哲学者は、普通では当たり前だと思われているようなことを、見詰め直して考え直してみなければならなかったんでしょう。例えばニーチェの場合だと、当時のヨーロッパにおいて当たり前だったキリスト教的価値観に対してだったのだろうし、ハイデッガーの場合は結果的に、『存在』や『時間』という私たちにとっては当たり前のことに対してになった。」
 彼女は、やや鬱陶(うっとう)しそうに言った。
「う~ん、そういう人たちのこと、あたしには難しくてわかりませんけど、田野さんの場合はどうだったんですか?」
「私の場合、『俺はこの世に居て良いのか、悪いのか』っていうことでしたよ。
人とまともにコミュニケーションが取れない自分は、他人や社会に対して迷惑を掛けてるんじゃないかっていうところで、悩んでたんですからね。」
 彼女は納得したように言った。
「なるほど……。普通では悩まないようなことで、悩んでしまわれたんですね。」
「そうです。するとね、もし自分がこの世に居て悪いのであったら、自分はそもそもこの世に生まれて来なかったんじゃないだろうかって思ったんです。この世が必要としてるからこそ、人は誰でも生まれて来るんだろうって。あなたも、そして私も。」
 美世さんは、考えながら相槌を打った。
「はぁ……。」
 彼女がわかっていないようなので、私はわかり易いように説明することにした。
「人間誰でも、自分で自分の命をつくるんじゃありませんよね。」
「ええ……。」
「何かによってつくられたからこそ、初めてこの世に生まれて来ることができるんだと思いませんか?」
 彼女は、やや納得したように言った。
「なるほど……。そう言われると確かにそうですよね。」
「だから、この世に生を受けたからには、たとえどんな人であっても、この世で生きていくことは正しいことなんですよ。たとえ犯罪者と呼ばれているような人であっても。」
 美世さんは確認するような口調で尋ねた。
「それじゃ、例えば人をたくさん殺したような人でも、生きていくことは正しいってことになるんですか?」
「そうです……。」
 私はそう言ってから、極めて真剣な表情になると、こう付け加えた。
「但しそれは、その人のした行為が正しいということではありませんよ。そこのところは特に間違いやすいので気を付けて下さい。その人が生きていることが正しいからといって、その人が犯した罪や過ちまで正しくなるのではありません。
逆に言えば、その人はそれに対してそれ相応の報いを生きて受けなければならないんです。
でもやっぱり、その人はこの世にとって必要だから生まれて来たんです。」
「……うーん、難しいですね。それじゃ、ヒトラーは第二次世界大戦で周りの国々に攻め込んだり、ユダヤ人を虐殺するために生まれてきたっていうことになるんですか?」
 私は、それを否定した。
「いえ、そう言い切ることはできません。人間誰でも、生まれ持っている本質というものがあると思います。その後、それと周囲の人間関係などが複雑に作用し合って、結果的にそういう人になるだけのことなんです。だから、極端な言い方になるかも知れませんが、もしそういう人が今後この世に現われるとしたなら、それは今を生きている私たちの影響も少しはあるんです。そう思いませんか?」
 彼女は、考えながらそれに答えた。
「……うーん、誰でも生まれたときから人殺しを企んでるようなことは有り得ませんからね……。でも、そういう人の行動にあたしも関(かか)わってるとは思いませんけど……。」
 私はお湯割りを飲んでから、なかば独り言のように言った。
「……まともな人ならそう思うんでしょうねぇ……
それじゃぁ、わかり易いようにして言いましょうか……。」
 美世さんは黙って頷き、私は彼女に向かってこう言った。
「もし仮に、あなたが誰かの心を傷付けたとします。すると、その人が、それによるストレスを発散するために誰かを殺すことは絶対に有り得ないと、あなた断言することができますか?」
 彼女はしばらく考えてから言った。
「……うーん、そう言われると……。」
 私は微笑んで言った。
「そうでしょう? だから、私たち全ての人間の行動は、この世に対して多かれ少なかれ影響を与える力を持ってるんです。」
 彼女は微妙な表情で言った。
「うーん、そうかー。」
「そうなんですよ。」
 私は微笑んでそう言うと、また真剣な表情に戻って話しを続けた。
「ここで先ほどの話しに戻りますが、その人の命というものは、この世とか自然界で共有されてる物。そしてその人の罪というものは、被害者と加害者を始めとする人間社会のあいだでの決め事なんです。どちらが良い悪いではなくて、次元が違うんですよ。」
「ということは、人の行いを人が裁くことはできるけど、人の命そのものを人が裁くことはできないってことなんですか?」
 私は嬉しそうに言った。
「そうそう! その通り! あなたの方が私よりもずっとうまいこと説明できるじゃないですか!」
 しかし彼女は、複雑な表情でこう言った。
「うーん、なるほど……。でも、なぜ?」
 今度は私の方が、ガクッと項垂(うなだ)れて言った。
「なんだ……、わかって言ってるのかと思ってたのに……。」
 私のその仕草がおかしかったのか、彼女はケラケラと笑った。私はそんな彼女に向かって尋ねた。
「それじゃぁ美世さん、私たちは何によって生まれて来たかわかりますか?」
 彼女は、なんのためらいもなく素直に答えた。
「お父さんと、お母さんによって。」
 この瞬間私の頭の中には、自分の意思に反して全く別の単語が浮かんだ。しかし、彼女の平然とした態度のお陰で、その邪念をなんとか振り払い、話しの本筋を踏みはずさずに済んだ。
「そ、そうです。
……でも、それだけじゃありませんよね。その両親を動かしてるのは何ですか?」
「うーん……、愛……かな?」
 彼女は少し照れて笑った。彼女はどうやら私と全く同じではないにしても、想念が別の方に行ってしまったようだ。私もそれにつられて少し照れて言った。
「そうでしょうけど……。それじゃ人は、何によって愛するんだと思います?」
 彼女は赤くなると、やや声を大きくして言った。
「どうしたんですかー? 田野さーん、急にー!」
 私も赤くなって言った。
「いやその……、『これだっ!』っていう答えが聞きたかったんで……。済みません。」
 彼女は赤くなったまま、困った顔になって言った。
「いえ、謝らないで下さい。これ以上のことは、あたしには難しくてわかりません。田野さんが言って下さいよ。」
 私は、また淡々とした口調に戻って言った。
「はい、それでは言います。
人間は『宇宙の法則』又は『自然の力』によって愛し合い、私たちもそれによってこの世に生まれて来たんです。」
 今度は彼女の方がずっこけた。
「……何かもっと、別のことをおっしゃるのかと思ってましたよ……。」
 私は申し訳なさそうに言った。
「済みません、ご期待に沿えなくて。」
 美世さんは慌てて手を振りながら言った。
「いえいえ、期待なんかしてません。恐れ慄(おのの)いてただけです。」
「では済みません、恐れ慄かせて。」
 彼女は気を取り直して言った。
「……なるほど確かにそうですよね。生き物が交配することとか、染色体だとか遺伝子だとかは、全て自然の仕組みなんですもんね。」
「そうなんですよ。確かに父母は、それぞれが体の一部を提供してくれはしたけど、私たちは父母の手によって粘土細工のようにつくられたんではないんです。だから人の命というものは、誰の物でもないんです。敢えて言うならば、それは宇宙のもの、地球のもの、神様のものではあっても、決して人間のものではないんです。」
「そうなんでしょうね。」
「その一方、人間社会の決め事は人間がつくるものです。だから人間は掟(おきて)や法律などの決め事をつくって、人間が犯した罪を裁くんです。」
「それはそうでしょう。」
「ところがこの二つは、とても混同され易い。自分たちが産んだ子は自分の物だという錯覚に、両親は陥りやすいんです。」
 美世さんは、意外そうに言った。
「え? あたしは、自分の父と母の子じゃないんですか?」
 私は苦笑いして言った。
「いえいえ、それはそうなんです。私だって私の父母の子ですよ。私は父母の『子』ではあるけれど、私の命は父母の『所有物』ではないんですよ。わかります? この違い。」
 彼女は、しばらく考えてからこう言った。
「……うーん、そうかぁ。つまり、あたしは両親の子だけど、あたしの命の所有者は両親じゃなくて地球とか宇宙であると……?」
 私は嬉しそうに言った。
「そうそう。そうなんです! だから、地球の所有物であるはずの人を人が勝手に殺し、それを裁くということで殺した人をまた誰かが殺す。人間の立場からすると前の殺しは間違ってて後の殺しは正しいということになる。ところがこれを地球の側から見ると、どちらも同じレベルにしか見えないんですよ。」
 彼女は苦笑いして言った。
「ええ、理屈ではわかりますけど……。」
「人の命だけではありません。全ての生き物の命が、そうなんです。」
「誰の物でもなく、地球の物であると……。」
 私は、焼酎のお湯割りを飲んでから言った。
「……そうです。」
 彼女もお湯割りを飲むと、こう言った。
「……でもそれなら、全ての生き物を食べちゃいけないってことになりませんか?」
 私は微笑んで言った。
「いえ。実は、それがそうじゃないんです。」
 彼女が怪訝そうな顔をしたので、私は漬物を箸で抓んで食べて見せてから話しを続けた。
「……生き物は、このようにして生き物を食べなければ生きていけませんよね。」
 彼女は頷いて言った。
「ええ。」
「だから、全ての生き物が生きるために他の生き物を食べるということは、地球にとって正しいことなんです。」
「なるほど。」
「怪我をして体の中にばい菌が入れば、白血球がこれを食べてしまいますよね。」
「ええ、そうらしいですね。」
「私たちの体は自分の身を守るために、自然の力によって元々そのようにつくられてるんです。わかるでしょう?」
 彼女は、納得したように言った。
「ええ、そう言われるとよくわかります。」
「また、道などを歩いていていれば、蟻などを踏み潰してしまうこともあります。」
「そうでしょうね。」
「それも仕方のないことなんです。」
 彼女は頷いて言った。
「そうでしょうね。それを気にしてたら、どこも歩けなくなりますから。」
 私はここで、ちょっと目を見張って言った。
「ところがね、美世さん。話しがやや脱線しますが、インドにはジャイナ教という宗教があって、その中のある一派の信者は、外出するときに鼻と口の前に一枚の白い布を付けて出るんですよ。そうして歩いてる人を、私も実際インドで見たことがありますけど。」
 彼女は微笑んで言った。
「風邪の予防とか?」
「いえ。空気中の小さな虫を、うっかり吸い込んで殺してしまうのを防ぐためなんだそうです。」
 彼女も目を見張って言った。
「えー! それってマジですかぁ!」
「マジ、マジ。それにジャイナ教の信者は、いつも箒(ほうき)を持ち歩いてて、どこかに座る前にそこを掃くんだそうです。」
「随分と、綺麗好きなんですね。」
 私は微笑むと、手を横に振って言った。
「いえいえ。自分が座る場所にいる、小さな生き物を潰さないためなんだそうです。」
 彼女は、また目を見張って言った。
「えー! 信じらんなーい! そこまでするかぁ?!」
「そうなんです。そこまで徹底した不殺生(ふせっしょう)をする人たちも、この世の中にはいるんですよ。」
 美世さんは感動したように言った。
「すごーい!」
「そうですよね。話しを元に戻しますが、そこまでしてても、うっかり虫を踏んでしまうこともあるでしょう。だから、私はこれを『仕方のないこと』と捉えてます。でもね。」
「でも?」
「わざと道の蟻を踏んで殺すこと。これは私たちが生きていく上で、ほとんど意味を成さない行為だと思いませんか?」
「そうですよね。その蟻を食べるんなら良いんでしょうけど。」
 私は苦笑いして言った。
「そうですね。あまり美味しそうじゃありませんけど。
ところで美世さん、小鳥の中には蟻浴(ぎよく)という行為をするものがいます。『蟻を浴びる』と書いて蟻浴。」
 彼女は苦笑いして言った。
「なんだか痛そうですね。」
「ええ。私は実際目にしたことはありませんが、写真で見る限り、小鳥が口ばしで捕まえた蟻を体に擦り付けたり、蟻の群れの中で水浴びするようにして蟻を浴びるんです。これを小鳥が何のためにしてるのかっていうことは、まだ明らかになってませんけど、蟻酸(ぎさん)……わかります?」
「蟻に含まれてる酸のことですか?」
「ええ、そうです。私が思うに、蟻浴をする小鳥は、この蟻酸を利用して体を殺菌してるんじゃないかって。そういうことのために生き物を使うことも、自然界から許されてるんだなって私は思うんですよ。」
 美世さんは微笑んで言った。
「田野さんの場合、人間以外の動物がしてることなら、人間もして良いんだっていうのが多いですね。」
「ええ。でも、そう思いませんか? 瓶ヶ島の物語に出て来る網野カイさんがおっしゃってた、『命の環(いのちのわ)』によって長いあいだ認められてきた種は、絶滅することなく現在も生きています。だから、人間もそれに倣っていれば、まず絶滅することはない。私はそう思ってるんです。」
「なるほど……。」
「だから小鳥が蟻浴するのと同じで、石鹸にハーブを使ったり、アロマテラピーだとかのために植物を使うことは、悪いことではないと思うんです。」
 私は、お湯割りを一口飲んでから言った。
「……香り付けのために、この中に入れてある柚子だってそうです。でも、それ以上の殺生は無駄なことだと思うんです。」
 彼女は頷いて言った。
「ええ、理屈としてはわかります。」
「今の日本は、年を重ねるごとに殺伐としていきますよね。」
 彼女は、やや深刻な表情になって言った。
「ええ、そうですね。」
 私も、真剣な表情になって言った。
「それによって、死刑囚も増えてるようです。」
「ええ、きっとそうなんでしょう。」
「でも、死刑囚がいくら増えても、世の中ちっとも良くならないんですよ。もし殺人が起こったら、その事件を解明して法によって犯人のその行為を裁くのは当然のことです。でも、死刑っていうことは、『悪い奴は殺さなければならない』っていう論理の上に成り立ってますよね?」
 美世さんは頷いて言った。
「ええ、そうなんでしょうね。」
「それなら、例えば私がAさんからいじめられていて、彼のことを悪い奴だと思ったとします。もし、『悪い奴は殺さなければなんらない』のなら、『Aさんは殺しても良いんだ。』という図式が成立する。」
「なるほど。」
「でも、ただいじめられた程度のことでAさんを訴えても、彼を死刑にすることはできない。それなら自分の手で殺してやろうという思いになっていくんです。だから、死刑制度を廃止して、『人は人を絶対に殺してはいけないのだ』という決まりをつくることこそ、最も必要なことなんですよ……。わかりますよね?」
 彼女は真剣な表情で言った。
「ええ、理屈ではわかります。でも、殺人事件の被害者の遺族の気持ちを考えると、そう簡単に言い切ってしまえませんけど。」
「そうなんですよね。これはむずかしい問題だと思います。でも、今の日本の社会は、生活習慣病と同じなんです。死刑ってのは、解熱剤や下痢止めのような対処療法なんで、それじゃぁこの病気はいつまでたっても治りません。病気の原因である、生活習慣を改めなければならないんです。
だから犯罪者を死刑にすることよりも、地球の意志、或いは自然の流れから大きく反(そ)れてきている、今の人類の社会を根本的に見直して、今後同じような被害者が二度と現われないような社会に変革すること。それが今の日本において、まずまっ先に必要なことなんです。」
「理屈ではわかりますよ。それもカイさんの考えと良く似てますね。」
「そうなんです。私あれを読んで、彼女から多大な影響を受けましたよ。」
 彼女は微笑んで言った。
「フフ、それは良かったですね。」
 ここで私は、恥ずかしそうに頭をぽりぽりと掻きながら言った。
「……えーっと……、なんでこの話しになったんでしたっけぇ……。」
 美世さんもしばらく考えてから言った。
「……うーん……、そうそう。田野さんがある日突然閃いたってとこからですよ。」
「あ、そうでしたね。済みません、大脱線してしまって。」
「いえ、大事なことを聞けたんで良かったです。」
 私は、お湯割りを一口飲んでから言った。
「……それでは話しを元に戻しますが……、
『人が生きることは正しいことだ』って思うようになった私は、『こんな不健康で頭でっかちな生活をしてたら、まともに生きられない。そのためにはこの家を出て、人間社会を実際に体験しなければならない』と思うようになって、ある人に相談したんです。そしたら、ある場所を紹介されてね、一つの思想に基づいた共同体なんですけど。」
「キョウドウタイ?」
 彼女の世代では知らなくて当然だ。
「コミューンとも言いますけどね。考え方や生き方を共有する人たちが集まって、共同生活してる場所のことです。私がお世話になったそのコミューンは、終戦直後にできたそうですが、……美世さん、『七十年安保』って知ってますか?」
「ええ、なんとなく。学校の歴史の教科書に出て来たような……。」
「今では、そうなってるんでしょうねぇ……。
その闘争で挫折した学生たちを始めとする左翼系の人々が、新しい革命の形として注目し、今から三十年ほど前、日本各地に新しいコミューンが次々と生まれていったんです。」
「へー、面白そうですね。」
「そうなんです。それまでの革命といえば、暴力によって政治を変えるものと相場が決まっていた。それを暴力じゃなくて、なんらかの思想や哲学によって裏付けられた、生活の中から進めて行こうっていう流れなんですね。
だから、田畑で作物をつくったりするようなことも、とても重要な部分になっていくんです。それまでの農業のあり方を、変えていこうとする流れなんですから。」
「それまでの農業っていいますと?」
「具体的に言えば、農薬や化学肥料を使う農業です。言い方を変えれば、『人間さえ良ければ良い』っていう考え方の農業。または、地球全体や自然界のことが全く頭に入ってない農業ですね。
……ヒッピーってわかりますよね。」
「ええ、どっかで聞いたことはあります。」
「コミューンによって違いはありますが、彼らからの影響も受けてると思いますよ。だから、コミューンをあちこち回ってるような人もそこを訪れて来るので、その頃の私には、いろんな出会いがありましたよ。」
 彼女は目を輝かせて言った。
「へー、どんな出会いだったんですか?」
「うーん、これを話し出すと、また大幅に脱線しそうなんで、これは後日の話しにして、取りあえず話しを元に戻します。」
 彼女は素直に言った。
「はい。」
「最初、両親は私が家を出ることに反対してたんですけど、私はついに親を説得し、そのコミューンで何かの仕事をしながら生活することになったんです。」
「なるほど。」
「叔父さんの車に乗せてもらってそこへ行って驚いたのが、それまで一日おきのように訪れていた『金縛り』……わかります?」
「ええ、眠ってて目が覚めたら、目は開いても体が動かないっていう、あれでしょ?」
「そうそう。それがピタッとやんだ。」
 美世さんは目を見張って言った。
「へー、凄いですね。」
「そうなんですよ。それに、私の対人不信も日毎に緩和されていって、一年も経つと普通に人と会話ができるようになったんです。」
 美世さんは嬉しそうに言った。
「良かったですねー。」
 私も同じように言った。
「ええ、そうなんですよ。それまでは、病院の神経科や精神科の先生方から、どこも『異常がない』って言われ続けてたんです。でも、人が信じられなければ、まともな社会生活ができるわけないので、私は明らかに異常です。つまり、この場所に来て生活することによって、現代の医学で対処することができないような状態から、抜け出すことができてしまたってことなんです。」
 彼女は納得したように言った。
「なるほど。」
 そして、興味深そうに尋ねてきた。
「先ほど田野さんは、『ある思想に基づいた』っておっしゃってましたが、それって何なんですか?」
「新興宗教と言うこともできますし、宗教本来の姿に還った教えだと言えばそうですし……。」
 彼女はやや目を見張って言った。
「きっと、ご利益(りやく)のある神様なんでしょうね。」
 私は、やや真剣な表情になって言った。
「いえ。そこの神様は、そういうご利益の一切ない神様なんです。」
「はあ……?」
 彼女が途端にわけのわからないような表情になったので、私は説明した。
「私の金縛りがなくなったり、普通に人と話しができるようになったりしたのは、そこの教祖様の個人的な霊能力のお陰であって、そこのご本尊というのは「宇宙の原理」とか、「大自然の力」といったものなんです。」
「そうすると……。瓶ヶ島のカイさんの言ってる神様と、同じようなものなんですか?」
 私は嬉しそうに言った。
「そうそう! そうなんですよ。私が学んだこととそっくりだったんで、驚いてるんです。」
 美世さんは、納得したように頷いて言った。
「なるほど……。だから田野さんは、すぐにカイさんの考え方の影響を受けることができたわけですね。」
「そうなんだろうと思います。」
「それじゃ、その共同体で何をなさってたんですか?」
「私はまず、畑や土方などの仕事をしながら1年間生活させてもらい、次に、そこの印刷所で働きながら7年間お世話になりました。ところが日が経つにつれて、次第に『これで本当に良いんだろうか?』って思うようになってきたんです。『自分の本当の仕事はこれじゃないんじゃないか』って。」
 美世さんは苦笑いして言った。
「あたしなんかだと、働いて、その分のお金がちゃんと貰えれば、それで満足しますけどね。」
 一方私は、真剣な表情で言った。
「それはきっとあなたが、その気になればなんでもできる人だからですよ。私の場合かなり片寄った人間なんで、できることが限られてる。逆に言えば、他の人にはできなくて自分にしかできないこと、それこそ自分の本当の仕事なんだと思うんです。」
 彼女は納得したように言った。
「なるほど、そう言われてみると、そうなんでしょうね。」
 私は自分の湯呑みに焼酎を注ぎ、続いてそこにポットの湯を加えながら言った。
「……今思えば、大工や土方、田畑の仕事、木を切り倒す仕事などは、今の生活をする上で、なくてはならない技術だし、印刷所で覚えたデザイン関係のことも、ホームページなどをつくる上でとても役に立っています。だから、あそこで学んだことは全て必要なことだったんです。」
 美世さんは頷いて言った。
「なるほど。」
「だから、今度は自分がそこで学んだことを駆使して仕事をする番です。その目標に向かって、私は徐々に準備に取り掛かりました。まずは近所にアパートを借りて、そこから印刷所に通うようになり、それから約一年後、ついにその会社を辞めてアジア旅行に出たんです。」
 彼女は嬉しそうに言った。
「なるほど、それがメールに書いてあった、あのご旅行のことなんですね?」
 以前私がこのような旅行をしたことを、メールに書いて送っていたので、彼女はその内容をごく大ざっぱながらも知っている。
 私も微笑んで言った。
「そうなんです。それもまた、今の私にとって必要なことだったんです。」
「そして、双美ヶ島に来られたと。」
「そうそう。それもまた、必要なことだった。」
 ここで彼女は微笑むと、マイクを持つように片手を自分の口元に近付けて言った。
「そして、今回のお仕事をお引き受けになられたと……。」
 彼女がその手を私の方へ差し出したので、私もまた微笑むと、その手の中の見えないマイクに向かってインタビューに答えるようにして言った。
「そうなんです。」
「今後のご予定は?」
 私はまた、その手に向かって言った。
「先のことはわかりません。風の向くまま気の向くまま、といったところでしょうかね。」
 美世さんはその手を元に戻すと、なぜかちょっと寂しそうな笑みを浮かべて言った。
「……田野さんて、お子さんの頃から、ずっと流離(さすら)ってらっしゃる人なんですね。」
「ええ。どうも、そのようにできてるみたいです。」
「寂しくないんですか?」
「そりゃもう寂しいですよ。でもね、人に誤解されて険悪な関係をずっと引きずってくんだったら、この方がずっと楽でいいんで。」
 彼女は、やや真剣な表情になると、やや遠慮がちにこう言った。
「それって……、ご自分の問題から、逃げてらっしゃるんじゃないですか?」
 私も、やや真剣な表情になってこう言った。
「私がこれを言うと、誰もがそうお思いになられるみたいですね。でも、それは一概にそうとは言い切れないと思いますよ。
私は他人と付き合って、その人から誤解されてることを知ると懸命にそれを修復しようとする。相手は私が敵対しているものと勘違いしているので、それを厭味として受け取る。その人は、更に私を憎みはしても自分の誤解を決してとこうとはしません。今までこの例外はなかった。
そんなわけで、他人とある程度距離を置いていた方が、私は冷静に自分の心の動きを観察することができる。そして、自分の問題の核心に迫ることができるんです。それはさっきあなたが言った、『少し離れたところから見る』ってことと同じことなんですよ。」
 彼女は苦笑いして言った。
「うーん……、わかったようなわからないような……。」
 私は、やや口調を改めて言った。
「チャイコフスキーってご存知ですか?」
 彼女は、また真剣な表情に戻ってこう言った。
「はい。『白鳥の湖』……『胡桃(くるみ)割り人形』……。」
「そう。ロシアの偉大な作曲家です。ところが、これは映画を見て知ったんですけど、彼は彼と交際した女性をみな不幸にしている。妻に至っては発狂してしまったらしい。その点、私は彼と良く似ています。但し、私には彼のような偉大な才能はありませんけど。」
 彼女は少し退いて尋ねた。
「……田野さんの奥さん……発狂されたんですか?」
 私が以前離婚して、今は一人暮らしになっているということも、今日までのメールの遣り取りで美世さんは既に知っている。
「いえ、まあ。誰がとはっきり言うことはできませんが、結果的にそのようになってしまった人もいるし、危うく地獄に行かせるところだった人もいましたよ。」
 それを聞いた美世さんは絶句してしまったが、私は焼酎を一口飲むと話しを続けた。
「……子供のときからの特異な体験から、私は普通の人が持っていないような、世間的な人に対する警戒心を持ってるんです。男に対しても、女に対しても……。」
 彼女が、それに対して何と言っていいか迷っている様子だったので、私は話しを元に戻した。
「……それで、そのチャイコフスキーは、同性愛者だったらしいんですが、私が世間的な女性に対してあまり興味を示さないので、それと同じように見る人もいてね。その人の、型にはまった感性が可笑しくて、そのたびに思いっきり笑わせてもらってますけどね。」
 彼女は、やや不安げに確認した。
「それで『呵々士』、なんですか?」
「ハハハ。ええ、大きな要素の一つです。」
 自分の湯呑みの中に、焼酎に続いてポットのお湯を注ぎながら、彼女は独り言を言った。
「……うーん、こういうことは、ホームページには書いてなかったなぁー……。」
 私は笑って言った。
「ハハハ! どうです? かなり変わってるでしょ? だからメールに書いたんですよ。『私がどんな人物かを知って頂いてから』って。
今からでも遅くはありません。こんな変人には任せられないと思ったら、このお仕事キャンセルして下さい。仕事に取り掛かってから、『やっぱりやめた』ってのは困るんで。」
 美世さんは突然神妙な顔付きになると、こう言った。
「……田野さん、ちょっと変なこと聞いてもいいですか?」
 私は微笑んで言った。
「ハハ、何が変なのかそれを聞くまでわかりませんけど、まあいいですよ。」
「あたし、これからこのお仕事を通じて、田野さんとお付き合いさせて頂くことになるんですけど、あたしが発狂するようなことがあるんですか?」
「私は自分の知る限り、仕事で人を発狂させたことはないと思いますよ。納期に間に合わなかったようなことは、今まで何度かありましたが。でも私が知らないだけで、先方はその怒りのために発狂してたかもね、ハハハ。」
 私はそう言って軽く笑ったが、彼女は引き続き真剣な表情で言った。
「それじゃ、発狂するのは、田野さんの彼女とか奥さんのような人のことなんですか?」
「まあ、そうですかね。必ずしも発狂するとは限らないと思いますが。」
「田野さんは今、あたしと普通に話してるんですよね。……彼女とは、こんな風に話さないんですか?」
「それは、相手によって違いますよ。相手が美世さんだから、今はこのようにして話しができている。これが違う相手なら、また違った話し方になると思いますけど。」
 彼女は、不安げな表情で遠慮がちにこう言った。
「それじゃ、もしですよ。もし、あたしが田野さんの彼女になっても、今と同じように話してくれるってことなんですか?」
 その言葉を聞いた途端、私の心臓は一気に高鳴り、飲み掛けていた焼酎のお湯割を思わずそのまま一気飲みしてしまった。
「……えっ!? ……うーん、基本的にはそうなんでしょうけど……、実際にそうなってみないと、よくわからないですよ、これは……」
 私はドキドキして、自分でも何を答えているんだか、わからなくなってしまった。

 そこは、広く閑散(かんさん)とした初夏の砂浜。私が好きな、この島南部の海岸だ。
 右手に薄青く見えている広い海からは、波の音が絶えずザーッと聞こえており、やや左前方に遠く見えている砂丘の上は、緑と赤が入り混じって鮮やかに彩られている。浜茄子が群生していて、丁度花を咲かせているところのようだ。
 きっとそこからなのだろう、甘く切ない香りが漂って来る。私はそれに引き寄せられるようにしてそこに近付くと、その砂丘の上に登ってみた。
 数ある花の一つに私は鼻を近付けてみたが、その香りが強まることはなかったので、それがこの花のものではないということがわかった。
『そうだよな、浜茄子の花って良い香りだけど、そもそもこの香りとは違うもんな……。それにしても小便がしてーな……。』
 そう思った途端、波の音が急に大きくなって私の夢は終わった。
 瞼をそっと開けてみると、私にとっては見慣れた古風な天井板があった。その上では、なかば凍りかけた雨がこの家の屋根を激しく叩く音がしている。
『そうか……、波の音だと思ってたのは、これだったのか……。』
 この季節のこの地域ではよくある自然現象なので、私にとって、それは耳慣れた音だった。
 しかし、どういう経緯でこの自分の布団に入ったのかは、全く思い出せなかった。だがこれも、アルコールを比較的多く摂取した翌日には、よくあることだ。
 寝ぼけた意識が次第にはっきりしてくると、ごく微かな風が左の頬に一定の周期で当たっているということに気が付いた。何気なくそちらに顔を向けた私は、今度は布団から飛び出さんばかりにして驚いた。普段なら絶対に見ることのできない物が、至近距離で目に映ったからだ。
 男に全てを委(ゆだ)ねている、桜色をした女の寝顔。夢の中の良い香りは、彼女が発散しているものだったのだ!
 私は男として、このような結末になったことを喜んでもいいはずなのだが、それどころか何とも言えない不安を感じていた。その部分の記憶が、完全に欠落しているからだ。まあ、この寝顔から判断するに、合意の上でこうなったのだろうが……。
 そう思って一安心した私は、夢の中からずっと小便を我慢していたことを思い出した。
 彼女を起こさぬように、そっと布団を抜け出た私は、古風に漆が塗られた太い梁に掛かっている電池式の掛け時計を見た。その針は7時55分を指している。昨夜最後に見たときは、確か10時過ぎになってと思う。但し、その後どれくらいのあいだ起きていたのかは不明だが。
 「おまえ」の襖を閉めて台所へ行った私は土間に下りると、勝手口を開けて外に出た。竹林を背景にして屋根から滴(したた)り落ちる水滴。それは、雨の日にここから見える見慣れた景色だ。
 足元にある排水管の先の溝の中に、私はいつものようにして小便をした。生活廃水もこのような小便も、この家の下にある溜池の中に流される。そして、有機物は一旦そこで沈殿し、バクテリアによってある程度分解された後に、梅雨と晩秋に訪れる大雨のとき、一気に渓流に向かって流れて行くような仕組みになっている。と言うと何だかカッコイイが、地形の関係で偶然そうなったまでのことだ。
 屋根から落ちる水滴に時折り濡れながら小便をしていた私は、ここで妙なことに気が付いた。今右手の指で抓んでいる物体に、もう一つの用途によって使用された形跡が全くないのである。ということは、立たなかったのだろうか。私の場合、アルコール類を飲み過ぎるとよくある現象だ。そうすると、私は大恥を掻き、下手をすると彼女のプライドまでも傷付けている可能性がある。
 しかし、それならあの安らかな寝顔は一体何なんだろう……。考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだった。
 長かった小便を済ませた私は、家に入って洗面所で手を洗うと、「おまえ」の襖をそーっと開けてみた。すると、暗がりの中で美世さんが床の上に上半身を起こしているのが見えたが、その顔は今にも泣き出しそうになっている。心配した私は襖を更に開けると、思わず急き込んで尋ねた。
「ど、どうしました!?」
 彼女は擦(かす)れ声で呟くように言った。
「……目が覚めたら田野さんがいなくって、あたし一人きりだったんで……。」
 私は部屋に入りながら、二日酔い特有の重低音ではあるが、冷静な口調でこう言った。
「……ほんさっき小便に立って、今戻ったところですよ。私の寝てたところを触ってご覧なさい。」
 彼女は、私が寝ていた場所の敷き布団に手の平を当てると、独り言のように言った。
「あ、ほんとだ。あったかい。」
 すると彼女の表情は、すぐに平凡な寝ぼけ顔になった。
「あーっ! 良く寝た! おはようございまーす。
田野さんも良く眠れましたかぁ?」
 彼女はそう言って、その細長い両腕を天井に向かって伸ばした。よく見ると、昨夜飲んでいたときのままの服装だ。私は薪ストーブに歩み寄りながら、布団の上の彼女に向かってこう言った。
「おはようございます。ええ、良く眠れたみたいです。どうやって床に着いたのか、さっぱり覚えてませんけど。」
 彼女は、やや意外そうに言った。
「え? 覚えてないんですか?」
 そして、納得したようにこう付け加えた。
「……そうでしょうね、最後はかなり酔ってらしたから……。」
 私は薪ストーブの扉の前にしゃがんでそれを開けると、火ばさみでその中の灰を掻き回しながら、美世さんの方は見ず、やや不安げに尋ねた。
「……どんな様子でした?」
 灰の中から燃え残りの小さな赤い熾きがいくつか出て来たので、それを寄せ集めて、その上に乾燥した木の皮を乗せながら、私は彼女の答えを聞いた。
「『明日の朝ご飯を仕込む』って言われて、台所へ行かれたんですけど……」
 私は木の皮の上に細い薪を何本か置きながら、彼女が淡々とした口調で語る声に全神経を集中させていた。
「……しばらくして帰って来られるなり、ここでよろけて倒れたままになってしまわれたんです。」
 その出入り口付近の畳の上を指差した彼女に向かって、私は照れ笑いしながら言った。
「ハハ、……どうやら、醜態(しゅうたい)をお見せしてしまったようですね。それで?」
 顔は笑ってはいるものの、まだ不安を解消できていない私は、ストーブの中に向かって竹筒を何度か吹きながら、彼女が発する次の言葉に聞き耳を立てていた。
「……そのままでは風邪引くと思ったんで、あたし揺り起こしたんです。そしたら急に元気良く立ち上がって、布団を敷き始められたじゃないですか。それが終わると、『あんたここ。俺あっち。』って言って、ご自分は炬燵に入って、さっさとお寝になったんですよ。」
 薪から勢い良く煙が出たのを確認した私は、ストーブの扉を閉めて通風孔の隙間を最大にした。そして美世さんの方を向くと、引き続き照れながらこう言った。
「ハハハ。いやー、ご迷惑お掛けしました。」
 そして、やや不安げな顔になると、遠回しにこう言ってみた。
「……でも、目覚めたときはなぜか布団だった……。」
 そして、美世さんの顔色を窺った。しかし彼女は顔色一つ変えずに、相変わらず淡々とした口調でこう言った。
「あたし、電灯を豆球にして布団に入ったんですけど、それからすぐに田野さんはむくっと起きて、台所の方に行かれたんです。」
 私は、自分のその行動の動機を推理してこう言った。
「……きっと、小便でもしに行ったんでしょうね。」
「はい。多分そうなんだろうと思います。しばらくしてから戻って来られたんですが……」
 そう言った彼女の表情がやや変化したので、私はある種の覚悟を決めた。
「……炬燵に入るのかと思ったら、そうじゃなくって、田野さん何とあたしの横に潜り込んで来られたじゃないですかぁ! あたし、もぉどうなるのかと思いましたよーっ!!」
 困ったような口調で彼女がそう言ったので、私は気が動転したが、努めて平静を装いながらこう言った。
「うーん、それも全く覚えてないなぁ。」
 事態はかなり深刻になってきたはずなのだが、彼女は意外にあっけらかんとしてこう言った。
「……でも、3秒で寝息でした。あたしがそこにいることさえ、忘れておられたみたいです。あたしもかなり酔ってたんで、炬燵に移る気力もなく、その後すぐに眠ってしまいました。」
『なんだ、そうだったのか。』
 内心、半分ずっこけ、半分はホッと胸を撫で下ろした私は、彼女に向かって苦笑いするとこう言った。
「……私ね、記憶がなくなるほど酔ってても、寝床にはちゃんと帰って寝る習性があるみたいなんです。昨夜の記憶がないのに、翌朝になったらちゃんと布団で目覚めてたってことは、よくあることなんで。これがほんとの、帰巣(きそう)本能とでも言うんでしょうかね。」
 美世さんは、ケラケラと笑い声を上げた。私も笑って言った。
「ハハハ、いや、どうも済みませんでした。狭くて寝苦しかったでしょ?」
 私は照れて頭を掻いたが、美世さんは明るい声で言った。
「いえ、覚えてないけど、そんなことなかったんだと思います。さっきまで良く眠ってたから。」
 薪ストーブの扉を開くと、その中では既に炎が上がっていたので、私はその上に太い薪を何本か足した。そして、彼女に向かって私も明るくこう言った。
「そうか、それは残念だったなぁ! こっちが飲み過ぎてなけりゃキスでもしてたのに!」
 このような冗談が言えるほどまでに、私の不安は解消されていた。それを聞いた彼女は一瞬何かを言い掛けたが、少し恥ずかしそうに微笑んだだけだった。
 さあ、また山の一日が始まる。機械がなんでもやってくれる世間並みの生活とは違い、我が家では人が働かなければご飯にありつけない。
「どうぞ、ゆっくりしてて下さい。」
 私は彼女に向かってそう言い残すと、「おまえ」を後にして台所に赴いた。
 寒い時期の我が家の食事の支度は、まずストーブに火を入れることから始まる。それが今終わったところなので、次の段階に入ることにする。
 味噌汁用の鍋と鋤簾を持ってお前に戻った私は、既にゴーゴーと音を立てて燃え盛っている薪ストーブの上にその鍋を置くと、ストーブの中から取り出した熾きを台所に運んだ。
 そこから先は昨夜とほとんど同じで、違うのは、まず七輪の上に乗るのが薬缶ではなく圧力鍋だということだ。これが火に掛かると、朝食の準備の八割が済んだようなものだ。これに火が通るまでのあいだに、私は髪をといたり歯を磨いて顔を洗ったりといった、朝の一連の作業をすることができる。後は放っておいても、七輪の中の燃料全体に火が回るからだ。
 台所で食事のしたくをしているうちに、火に掛けてから約40分後、圧力鍋の上の錘がシュッシュと音を立てて回転を始める。5分ほどこれを持続させて火から下ろせば、自然に中の気圧が下がってくるが、そのあいだにも中の食材は加熱されている。
 圧力鍋を台所から運んで食卓の横に置いた私は、七輪の中に仕込んであった真っ赤に燃えた3個の豆炭も、その炬燵の中に移した。
 お次は味噌汁だ。水を張った鍋の中に昨夜の刺身で除去した甘蝦の頭を入れ、ストーブの上で先ほどから加熱していたのだが、私はその鍋を七輪の上に移した。沸騰したらすぐ弱火にして切った豆腐を入れ、再び火が通ったら鍋を火から下ろして味噌を加えれば、あっという間にでき上がりだ。それが冷めないよう、またストーブの上に戻す。
 次に、昨日の刺身の残りを醤油に漬けたものと刻み葱を、別々の皿に盛って食卓へ運ぶ。美世さんも既に起きて布団を畳み、洗顔などを済ませて炬燵に入っている。
 このとき、先ほどからずっと続いていた圧力鍋のシューッという音がやんだ。これは釜の中の気圧が外と同じになって蓋が開けられるようになったということを意味している。ばっちりのタイミングだ。もう何度もしていることなので、私はこのように時間を無駄なく使えるようになっているのだ。
 すぐにこの蓋を開けず、約1分間置くのがこつだ。海苔を出したり味噌汁をよそったりしているあいだにその時間が過ぎる。
 圧力鍋の蓋を取ると、大量の湯気が濛々と天井に向けて立ち昇った。以前はこの時点で、上下にひっくり返すようにしてさっとご飯を掻き混ぜていたのだが、それをするとご飯が容器にこびり付き、洗うのに手間が掛かるし、ご飯も無駄になるので近頃はしていない。普通の電気釜と違って、圧力鍋ならそれでも全く問題ない。
 濡らした木のしゃもじで、私は炊き上がった米を二つの御飯茶碗に盛り付けた。
「お待たせしました。」
 私がそう言って、美世さんにその一つを差し出すと、彼女は目を丸くして言った。
「あたし、玄米(げんまい)って初めてです! お赤飯みたいなんですね!」
「あ、初めてなら先に言っておきます。とにかく、よく噛んで食べて下さい。
赤飯のように見えるのは、紫米という古代米が少量混ぜてあるからなんです。全体に薄っすらとその米の色が着くんで、そのように見えるんですよ。」
「これも初めてです。綺麗な色なんですね。」
 私は微笑んで言った。
「そう。見た目も良いし、各種ビタミンやミネラルも豊富なんだそうです。特に鉄分が多いって言ってたかなぁ。」
「どなたが、おつくりになられたんですか?」
「この島に住む友人です。」
「玄米の方は?」
「この家の大家さん。彼が作るお米は、優秀なので賞を貰ったこともあるそうです。」
 美世さんは、目を丸くして言った。
「へー! 双美ヶ島のお米って全国的にも有名ですよね。その中でも特に美味しいってことですか?」
「そうです。この島の高いところでできる米は、大体みな評判が良いですね。私が前に住んでた中山間地の集落の米も美味しかった。この紫米はそこの米です。これらを山のうまい水で炊くという、我が家ならではの質素なおもてなしです。さあ、冷めないうちに食べましょうか。」
 私たちは口を揃えて言った。
「頂きまーす。」
 ご飯を口に入れてしばらくしてから、彼女は手で口を隠しながら、私に向かって尋ねた。
「……よく噛むって、どのくらい噛めばいいんですか?」
 私も食べながら、それに答えた。
「……そうですね、……人によって違いますね。私みたいに歯が抜けてる人は、それだけ多く噛まなければならないし……。」
 私は口の中の物を飲み込むと、二本分隙間が空いている前歯をわざと見せて微笑んだ。それを見た彼女は、さも可笑しそうにケラケラと笑った。私は続けて言った。
「……目安としては口の中に抵抗感がなくなるまで、まあ、白米の十倍から二十倍くらいってとこでしょうかね。」
 私たちは、ご飯をよく噛みながら間を置いて会話を交わした。
「……わかりました。結構噛むんですね。」
「そうなんです。近頃の研究によると、この『噛む』という行為によって、若返りのホルモンが分泌され、免疫力も高まるんだそうです。そもそも玄米は、ビタミンやミネラル、そして食物繊維が白米に較べてかなり豊富なようですし、表面を覆っている米糠(こめぬか)には、抗がん性の物質が含まれているとも聞きました。」
 彼女は感心したように言った。
「良いことずくめなんですね。……それで田野さん、お年よりお若く見えるんですか?」
「ハハ、それはどうだかわかりませんが。」
 美世さんは、先ほど口に入れたご飯を何回かに分けて飲み込んでいてようだったが、納得したような表情になってこう言った。
「……なるほど、香ばしいし、白米よりも甘くて美味しいんですね。意外でした。」
「……そうなんですよ。旨味成分であるグルタミン酸は、白米よりも多く含まれているようですしね。また、唾液の中の酵素(こうそ)の作用によって、米に含まれてる澱粉(でんぷん)が唐(とう)に変化します。よく噛めばそれがより多くなるんで、その分甘味も増してくるんでしょう。」
「それじゃぁ、白いご飯でもよく噛めば、それだけ甘味が増えるってことなんですか?」
「……もちろんです。ただ、澱粉が全て変化してしまえば、唐はそれ以上増えませんけど。」
「……限界はあるってことなんですね。」
「そうです。でも、お茶漬なんかの白米だと、ほとんど噛まないで飲み込むこともできますが、玄米ではそれができない。だから私たちは必然的によく噛んで、その甘味も味わうことができるんです。」
 彼女は、感心したように言った。
「なるほど。」
 私は、やや真剣な表情になって言った。
「そもそもですね、元々白くない食べ物を白くすることって、大事な部分を捨ててるってことなんですよ。米に至っては、精米することによって、その一割を捨ててることになるんですからね。」
 美世さんは目を丸くして言った。
「えー!? そんなにーー!?」
「……勿体ないですよね。これは単に、物を捨ててるってことだけじゃありません。健康まで捨ててることになるんですよ。その象徴的な話しがあります。
昔、白米を食べる習慣が江戸の庶民のあいだに流行すると、脚気(かっけ)という病気が大流行した。ところが、玄米を精白する際に出る米糠で漬けた漬物を食べれば、それが防げることがわかった。それが広まると、その病気の流行は収まった。これは、白米だけでは栄養が偏ってしまうということなんです。
それなら、わざわざ米を精白した糠で漬物を漬けるなんて面倒なことはせずに、玄米そのものを食べれば手間が省ける。
でも私、糠漬けは大好きですし、寿司やカレーには白米の方が断然合うと思ってますが。」
 彼女も真剣な表情になると、こう言った。
「うちも基本的に玄米にするよう、母に勧めてみます。」
「……そうですね。お母さん、お体が優れないようなので、お試しになる価値があると思いますよ。但し、必ず良く噛むこと。これを怠ると、健康になるどころか消化不良を起こしてしまうんで。
玄米を食べるということは、単に玄米の優れた栄養を体の中に放り込むということだけではなくて、『玄米をよく噛んで、よく消化吸収すること。』なんです。そう覚えておいて下さい。」
「はい。母にも、そう言っておきます。」
 今度は、甘蝦と豆腐の味噌汁に薬味の葱を入れたものを飲んでから、美世さんは納得したように言った。
「……なるほど、昨日田野さんは剥いた殻は捨てても、頭は捨てなかったんで、なぜだろうと思ったんですが、これでその謎がとけましたよ。けっこう濃いだしが出るんですね。」
「……そうです。ほんとは私一人だけだと殻も一緒に入れるんですけどね、貴重なカルシウムなもんで。でも世間の常識からすると、お客さんに対して失礼になると思ったんで、今回はこのようにしたんです。」
 彼女は、また真剣な表情で言った。
「今度またこのような機会があったら、田野さんがいつもしておられる通りにして下さい。」
「……はい、そうすることにします。」
 しばらく会話が途切れていたが、炬燵の横の畳の上に置いてある圧力鍋を見ながら美世さんが尋ねた。
「……七輪や圧力鍋じゃないと玄米は炊けないんですか?」
 私は彼女に向かって微笑んで答えた。
「いえいえ、もちろんガスコンロでも炊けますよ。鍋に関しては、土鍋でもちゃんと炊けます。でも、圧力鍋だと比較的短い時間で炊けるんです。また、私がしたように前の晩から水に漬けておけば、加熱する時間が更に短縮されます。詳しいことは、その都度メールでお知らせしますよ。」
「ありがとうございます。」
 美世さんは嬉しそうにそう言うと、今度はやや困ったように眉を寄せて言った。
「……テレビで見てると、今の日本人の食生活って、ほんと無駄が多いですよね。」
「……そうなんです。恐らく世界最悪かも知れません。物を大事にしてきた昔の日本人が見たら、嘆き悲しみますよ、きっと。
そうそう。それでさっきの話しの続きになりますが、米を白くするのと並んで、食品にやたら白砂糖を添加することも、その無駄の一例です。この白砂糖、昔は糖尿病の薬であり貴重品だったらしいんです。血糖値を上げるのに効果的なんで。
ところが、現代では健康な人まで大量に摂取してる。」
 美世さんは、目を見張って言った。
「へー! そんなに摂取してるんですか?」
 私は、やや興奮して言った。
「そうですよ! ……そうそう。昔体験したことを思い出しました。
中国でヒッチハイクして、チベットのラサまで行ったとき、途中休憩で寄った小さな村のおばちゃんが、砂糖入りの茶を入れてくれましたが、その砂糖、その質素な家のどこから出て来たと思います?」
 美世さんは、少し考えてから言った。
「……台所?」
 私は笑って言った。
「ハハハ! いやいや、チベットでも質素な家だと、家の中が部屋のように区分けされてなくて、接客する場所と台所が同じ空間にあるんです。
ヒント。それは、何かの入れ物です。」
 彼女は玄米を噛みながら考えていたが、すぐに元気良くこう言った。
「……わかった! 薬箱!」
 私は微笑んで言った。
「うーん、惜しいなぁ。」
 彼女は再び考えてからこう言った。
「箪笥の引き出し、かな?」
「いえ、私の知る限り、日本の箪笥のようなものは、チベットにはありませんでした。」
 彼女は微笑んで言った。
「……わかりません。降参です。」
 私も微笑んで言った。
「それじゃ言いますね。なんと、金庫の中!」
 美世さんは目を丸くして言った。
「へぇー! そんなところに隠してるんですか!?」
 私は、やや真剣な表情になって言った。
「いやまあ、私が思うに、それは多分隠してるというよりも、子供が盗み食いしないように保管してる程度のことだと思うんですけどね。いずれにしても、それだけチベットでは貴重品だということですよ。
それでね、彼らにはどうも四国のお遍路(へんろ)さんみたいな、巡礼者を大事にする習慣があるみたいなんですね。それで、自分たちと同じような質素な服を着てラサを目指す私の姿を見て、多分それに類する扱いをしてくれたんでしょう。だから、普段自分たちは塩入りの茶を飲んでいるのに、特別な砂糖入りの茶でもてなしてくれたんだろうと思います。」
 美世さんは、感激したように目を輝かせて言った。
「へぇー! まるで、『鉢木(はちのき)』みたいなお話しですね!」
 それを聞いた私の方が、今度は感激して言った。
「え!? あなた、その話しを知ってるんですか!?」
 この若さで、この話しを知っているという、彼女に対する私の好感度は一気に倍増した。その美世さんは、やや照れてこう言った。
「ええ、子供の頃、学校の教科書かなんかで読みました。
ある大雪の日、旅のお坊さんが一軒の家に一夜の宿を求めましたが、その家は貧しくて囲炉裏に焚く物もなかった。でも、その家のご夫妻は、大事にしてた盆栽の木を燃やして、そのお客さんをもてなしました。そのお坊さん、実は鎌倉の偉い人で、後日その鉢の木のお礼にと、その家の人に領地を授けたっていうような話しでしたよね?
あたし、大雪の中を行かねばならない旅の人への、その家の人の思い遣りの心が忘れられなかったんで、たまたま今でも憶えてただけなんです。」
 私は、恥ずかしくなってこう言った。
「いやー、私は、その旅の僧のように偉い人じゃないし、そのチベットの人には、まだ何のお礼もしていないんで、お恥ずかしい限りです。」
 それに対して彼女は、こう言った。
「いえ、この話し、結果的にはご褒美を貰うことになりましたけど、このご夫妻は、それを目当てにして鉢の木を燃やしたんじゃないと思うんです。そこがいいんですよ!」
 その言葉によって私は救われた。
「そうなんですよね。多分、あのチベットのおばちゃんも同じだと思います。
それで私は、あの体験によって思いましたよ。この地球上で、砂糖がこれほど貴重な地域があるのに、日本はこんな贅沢をしてていいのかってね。砂糖というのはその象徴的な一例にしか過ぎず、生活全般に渡ってですけど。」
 美世さんは感慨深げに言った。
「なるほど……。そのような体験をなさったんなら、余計にそう思われるんでしょうね。」
「そうなんです。菓子や清涼飲料のようなものに砂糖が入ってるのは、大いに結構ですよ。甘い物を食べたり飲んだりすることが、好きなように選べるんで。
でも近頃では、本来入れる必要のない、パンだとかカレーだとかシチューだとか果ては漬物とか、チューブ入りの山葵(わさび)にまで入ってる。こんな節操のない使い方してたら、そのうちバチが当たりますよ。」
「あたしは今まで当たり前だと思ってましたけど、そう言われてみるとそうですよね。本場ヨーロッパのパンやシチューには砂糖なんて入ってないみたいだし……。」
「本場インドのカレーでも、砂糖を使ったレシピは私の知る限り一つもありませんよ。その代わり、お菓子では、信じられないくらい甘いのがありますけど。」
 彼女は納得したように言った。
「なるほど。それなら、ちゃんと選択肢がありますもんね。」
「そうなんです。また、黒砂糖ならいいけど、精製された白砂糖の場合は体を酸性にするんだそうで、それを防ぐために人間の体は、懸命になってそれを中和しようとするんだそうです。摂取した白砂糖の量に応じて、アルカリ性であるカルシウムなどが体の外から供給されてればそれは問題ないんでしょうが、カルシウムが足りなくなると、人間の体は自分の骨からそれを得て中和させるんだそうですよ。」
 彼女は、やや真剣な表情になって言った。
「……なるほど。それは、あまり健康に良くなさそうですね。」
 私も真剣な表情で言った。
「そうなんです。……これは、私の勝手な想像なんで、話半分で聞いて下さいね。
近頃、カルシウムの不足でキレ易い人が多いと聞きます。日本人は昔ほど小魚を食べなくなってカルシウムの摂取量が減ったのもあるでしょうけど、白砂糖の採り過ぎによって、せっかく摂取したカルシウムを失ってるんじゃないかってね。」
「でも、近頃はサプリメントとか、いろいろ出てるじゃないですか。お菓子で『カルシウム添加』ってのもあるし。」
 私は苦笑いして言った。
「そうですよね。砂糖の甘さに消費者が釣られて加工食品が売れれば食品会社が儲かる。それによって崩れた栄養のバランスを保つために補助食品などを買い求めれば、更に製薬会社も儲かる。これで日本の経済が活性化する。万々歳!」
 美世さんも同じように苦笑いすると、こう言った。
「うーん、そうかぁー……。それじゃ、食品会社さんと製薬会社さんには、もっと別のことで儲かってほしいなぁ。まるで健康という細い綱の上を、消費者が右へ左へと綱渡りさせられてるみたいだから……。」
「そうですね。また、製糖会社もこれからは、砂糖を石油に代わる燃料の原料として販売すればいいんですよ。その方が食品にちょこちょこ添加するより、ずっと儲かると思うんだけどなぁ……。」
 既に食べ終わっていた美世さんが言った。
「そうですよね。
……ごちそうさまでした。」
 私は合掌しながら言った。
「頂きました。」
 昨夜と同じようにして食事の後片付けをすると、「おまえ」に戻って炬燵に入った私は、二つの湯呑みに茶を入れた。向かい側に座っている美世さんにその一つを勧めると、私は自分の冷えた指先を自分の湯呑みで暖めながら茶を飲んだ。
 やはり両手で湯呑みを持って茶を飲んでいる美世さんに向かって、私は確認した。
「何時の船でしたっけ?」
 彼女は湯呑みを卓の上に置くと、彼女の背後の梁に掛かっている時計の方を反射的に振り向きながらこう言った。
「……12時40分です。」
 私は微笑んで言った。
「今9時半だから、それならまだ時間がありますね。海でも見に行きましょうか。丁度この物語に登場する村があったあたりにでも……。」
 彼女は目を輝かせて言った。
「はい! お願いします!」
 窓の外を見ると、既に雨はやんでいた。

 それから約一時間後、私は美世さんと共に、閑散とした広い砂浜を歩いていた。
 雨はすっかり上がっていたが、空は依然として灰色の雲に覆われており、風が体に当たって時折りヒューヒューと音を立てている。轟々と押し寄せる波は、次々と浜に砕け散り、遠くに見えている岬は、その波飛沫(なみしぶき)によって白く霞(かす)んでいる。二人とも申し合わせたように、コートのポケットに両手を突っ込んで髪をなびかせている。その私たちの他に人の姿はない。
 砂の上に立ち止まった私は、風を避けるために目を細めながら、美世さんに向かって言った。
「……大体、このあたりだと思うんですよ。」
 私の方を向いた彼女は、私と同じように目を細めながらも感動したように言った。
「へー! そうなんですかー!」
 私は、周囲を見回しながら言った。
「多分ね。町からの距離と地理的な関係からすると、そうだと思います。」
 彼女はしばらく、感慨深そうに黙ってあたりを眺め回していたが、やや怪訝そうにこう言った。
「砂丘が、ありませんね。」
 それに対して私はこう言った。
「海岸の地形、特に砂浜のそれは、ころころ変わっていくようですよ。」
「そうでしょうね。砂漠の砂丘が砂嵐によって一夜のうちに移動するって、昔読んだ本に書いてありましたから。」
「そうそう。」
 私は頷いてそう言うと、道路脇に停めてある紺色の軽自動車に目配せをして言った。
「……さ、もうそろそろ行かないと、船に間に合わなくなります。」
 彼女は一瞬海の方を見てから、私に向かって名残惜しそうにこう言った。
「今度は、もっとゆっくり来たいです。」
 私は彼女に向かって微笑むと、車の方に歩き掛けながらこう言った。
「そうですね。陽気がもっと良い時期にでも……。」
 浜を後にした私たちは車に乗り込んだ。
 急な坂の細い舗装道路を蛇行しながら登ると、やがて私たち二人を乗せた車は、この島を通っている唯一の国道に出た。空は、先ほどよりも幾分か明るくなってきている。
 車のフロントガラス越しに展開されていく風景を眺めながら、助手席の美世さんがこう言った。
「あの場所を見ると、次に見てみたくなるのが、南の海にあるという瓶ヶ島ですよねぇ。」
 ハンドルを握っている私は、船の出港の時刻に間に合うかどうかを確認するために、カーステレオの時計をチラッと見てから言った。
「……そうですね。でも、そっちの方は、こう簡単には見れませんよ。パスポートもビザも要ることだし……。」
 しかし彼女は、なかば嬉しそうに言った。
「でも田野さんは、海外旅行の経験が豊富なんですもんね!」
 私は前方を見て運転しながら、冷静な口調でこう言った。
「いえ、豊富という程ではありませんが、以前メールにも書いたように何度か経験はあります。でも、その島が現在どこの国にあるかがわかってないんですから、そもそもビザの取りようがない。」
 彼女は残念そうに言った。
「そうかー……それもそうですよね。」
「曾お爺さんは、何か手掛かりになるような物を残しておられなかったんですか? 例えば地図のような……。」
「もしあれば、母がノートや浜茄子の実と一緒に保管していたはずなんで、帰ってから確認してみます。」
 そして美世さんは、なかば嬉しそうにこう言った。
「もし行くことになれば、もちろん田野さんも一緒に来て下さいますよね? あたし英語苦手だし。」
 私は笑って言った。
「ハハハ! 私は遠慮しておきますよ。」
 彼女は、悲しそうな声を上げた。
「えー?! そんなー! なぜですかー?!」
 私は苦笑いして言った。
「ご覧の通り、食ってくだけでも精一杯なんです。行ってみたいのは山々ですが、この状況で海外旅行なんて贅沢なことは、できませんよ。」
 彼女は、また嬉しそうに言った。
「費用なら心配しないで下さい、あたしが持ちますから。格安チケットとかあるんですよね?」
 私は真剣な顔になって言った。
「ええ、安く行ける方法、探せばあるとは思いますが、いくら格安チケットでも、大人一人が南半球まで行って帰るんですから大変ですよ。」
「いいんです。同じ鍋をつつき、同じ布団で眠った仲じゃないですか。ねー、一緒に行きましょうよーっ!」
 彼女はうきうきと、なおかつ甘えるような声でそう言ったが、私は恥ずかしそうに笑って言った。
「ハハハ! そう言われるとそうですね。知らない人が聞いたら、恋人同士と確実に勘違いされる。」
 美世さんは怪訝そうに言った。
「はぁ? 勘違い?」
 今度は私の方が怪訝そうな声を上げた。
「え?!」
 すると彼女は、やや興奮したような口調でこう言った。
「田野さん、あたしに『誰か好きな人いるの?』って言うから、あたしが『高校のときからずっと片想いの人がいます。』って言ったら、『君が好きだ。その人のことは諦めて俺の彼女になってくれ!』って、昨日の夜言ってたじゃありませんか!」
 そんな大それたことを自分が言ったとは到底思えなかったので、私は横に座っている彼女の顔を一瞬見て聞き返した。
「えーっ?!!!」
 彼女は、やや責めるような口調でこう言った。
「『えー?』じゃありませんよ! 厭だなー。そんな大事なこと忘れるなんてー。だからあたし、田野さんが布団に入って来ても、驚きはしたけど逃げなかったんじゃないですか!」
 それでも信じられなかった私は、思わずこう言ってしまった。
「嘘でしょ?!」
 彼女は、怒ったような早口でこう言った。
「こんなことで、あたし嘘なんかつきませんよ!」
 私はまた一瞬彼女の方を向くと、慌ててこう言った。
「ご免なさい!!」
 しかし彼女は、私の方を見ずに独り言を言った。
「……もう、最低!」
「それは、失礼なことをしてしまいました……。」
 私は再度謝ったが、既に遅かった。美世さんはプイと横を向いたまま、それから一言も喋らなくなった。どうやら、完全に怒ってしまったようだ。
『う~ん、呵々士のドジ馬鹿間抜け!!!』
 これは、かなり危機的状況だ。これ以上何か喋ると、かえって墓穴を掘るだけだと思った私は、ただじっと黙って運転するしかなかった。
 そうだったのか……。
 彼女の安らかな寝顔は、そのせいだったんだ……。
 駄目だった……。
 『彼女こそは』と思ったていたのだが、やっぱり駄目だった……。
 よりにもよって、愛を告白したことを忘れてしまうとは……。男として最低だ!
 私の場合、なぜか好きになった女性に対して、子供の頃から必ずこのようなドジを踏む。その形態は様々だったが……。
 私は、不幸な星の元に生まれた自分の運命を、改めて思い知らされた。
 但し今回の場合は、相手の誤解によるものではなく、明らかに自分の過失によるものなので、私は意外と冷静だった。彼女との関係悪化の原因が、はっきりとわかっているのだから、それを修復するための対策も、はっきりと立てることができるからだ。
 やがて、昨夜彼女が電話でキャンセルした旅館に着いた。私がその小さな駐車場に車を停めると、彼女はシートベルトを外しながら、今までとは打って変わった冷淡な小声で言った。
「支払いしてきますので、しばらくお待ち下さい。」
 美世さんはドアを開けて車から降りると、それをやや乱暴に閉めて旅館の玄関の中に入って行った。
 戻って来て座席に座り、今度は普通にドアを閉めた彼女は、シートベルトをしながら、私の方は見ずに再び冷淡な小声でこう言った。
「お待たせしました。」
 私は無言のまま、港に向かって再び車を走らせるしかなかった。
 来たときとは反対方向に向かって、県道をひた走る軽自動車。その中の私たちも、来たときとは正反対で終始無言だった。
 それまでほとんど直線だった県道が、大きく蛇行し始めると、それまで田んぼだった両方の景色が建物に変わった。間もなく突き当たりに大きな神社のあるT字路が見えてくると、そこで久々の赤信号に遭遇した。港へ行くには、ここを右折することになる。
 信号が青になったので、私は右のウインカーを点滅させたまま車を発進させた。直進させるためにハンドルを元に戻すと、ウインカーの点滅も自動的に終わる。
 やがて、この町の商店街が途切れてからしばらくすると、道は左に急カーブする。そこを過ぎたあたりで、私は美世さんに対して極めて慎重に声を掛けた。
「み、美世さん……。」
 彼女は窓の外を見ながら、相変わらず氷のように冷たい小声でこう言った。
「何か用ですか?」
 私はそれには屈せずにこう言った。
「悪かったですね、そんな大事なことを酔っ払ったときに言ったりして。」
 すると彼女は、私の方を向いてこう言った。
「それを言うこと自体は悪くないんです。」
 その声には、ほんの少しだが温度が感じられた! 関係改善の可能性だ!!!
 私は、学校の先生に叱られた生徒が、反省して許しを請うような口調で言った。
「それを忘れちゃ、駄目なんですよね。」
 彼女は子供に教え諭すような口調で言った。
「そうですよ。」
「でもね、お恥ずかしい話しですが、あなたから『もし私が彼女になったら……』って言われてから、急にドキドキしてしまって、それを押さえるために飲むペースが上がってしまったんだと思います。そっから覚えてないんで。」
 女性に何かを謝るときは、とにかく誠心誠意を尽くすことだ。嘘で誤魔化そうとすれば、逆に尻尾(しっぽ)をつかまれて事態の収拾がより困難になっていくということを、私は自分の今までの経験から痛いほどよく知っている。
 彼女は小さく笑うと、さも可笑しそうに言った。
「フフフ。田野さんって、意外と照れ屋なんですね。」
「そうなんです。……特に好きになった人には。」
 彼女は、やや鬱陶(うっとう)しそうな口調でこう言った。
「もうわかったからいいですよ、同じようなこと何度も言わなくても。」
 しかしその声は、かなり元の温度に戻っている! 私は、助手席の彼女の横顔を一瞬見てから、嬉しそうにこう言った。
「それじゃ、許してくれるんですね!?」
 しかし彼女は、澄ました口調でこのように言った。
「お預けですね。」
 希望の光が見えたと思ったら、それが急に遠退いた感じがした私は、再び彼女の方を見てこう言った。
「え? いつまで?」
 彼女は、悪戯っぽく笑って言った。
「フフ、今は何とも言えません。」
 私は前方を見ながら、悲痛な声でこう言った。
「そ、そんなー! そのあいだずっと中途半端な状態なんですよ!」
 しかし彼女は、淡々と言った。
「寂しくなったらメール下さい。ちゃんと返信しますから。」
「遠距離恋愛?」
「そうなるのかなぁ。」
 私は不服そうに言った。
「なんだか、はっきりしないなー。」
 彼女は、また澄ました口調でこう言った。
「あら、はっきりしてない記憶の持ち主は、どこのどなたでしたっけ?」
 私は急遽、また誠実な口調に戻って言った。
「はい! この私です!」
 このような会話を交わしているうちに、早くも目の前に双津市街が見えてきた。
 港の横には30分間無料の駐車場がある。私はそこに車を入れて、空いている場所にそれを停車させた。
 私と美世さんは、その車から降りて各自ドアを閉めた。美世さんが後部座席のドアを開けて自分の荷物を取り出し、そのドアを閉めたので、私は運転席のドアをロックした。それによって他の三つのドアも自動的にロックされるという便利な機能を、この小さな車は備えている。
 荷物を地面の上に置いた彼女は、自分のコートのポケットからデジカメ付きの携帯電話機を取り出すと、私に向かってこう言った。
「田野さんを写してもいいですか?」
 私は苦笑いして言った。
「二日酔い気味なんで、特に冴えない顔だと思いますが、どうぞ。」
 撮影が終わると、彼女は再び言った。
「今度は、あたしを写して下さい。帰ったらメールで送ります。……えーと、ここを半押ししてからもう一度押すんです。そうそう。」
 私は、それで美世さんを写した。
 撮影用の取って置きの笑顔を持っている女性は少なくないようだが、彼女は特別それをしなかった。会話の最中に見せる普通の笑顔だ。これは、どういう意味なんだろう。私のことを「まだ彼氏と認識していないぞ」ということなんだろうか? それとも、「彼氏につくり笑顔は要らない」ということなんだろうか? わからん。女というもんは。
 私が携帯電話機を返すと、美世さんはそれをコートのポケットに入れて自分の荷物を持ち、私たちは駐車場を出て陸橋の階段を登った。屋根付きのこの陸橋の先は、双美汽船ターミナルビル二階に連結しており、そこからロビーまでの長い廊下の両側には、土産物屋がびっしりと並んでいる。連休や夏休みだと、この通路は人で一杯になるのだが、今日は比較的まばらだ。
 それらの店を見ながら、美世さんが言った。
「両親に何か買って帰りたいんですが、お勧めってありますか?」
 私は微笑んで言った。
「全部お勧め! ですが、そうですね……、お父さん、お酒飲まれます?」
「ええ、あたしほどじゃありませんけど。ハハハ。」
 彼女はそう言って明るく笑った。
「今回うちには置いてませんでしたが、双美の地酒も実はとても美味しいんですよ。淡麗辛口の傾向が強い県内の他のものとはまた違ってて個性があるんで、私は好きですけどね。……それじゃ、これがいいな。
……それならお父さん、珍味などもお好きじゃないですか?」
 彼女は微笑んで言った。
「ええ、世間並みには。」
「それじゃ、これとこれもいいかな……。
……お母さんには、やっぱりお菓子かな?
……荷物持ちましょうか。」
 美世さんのバッグを代わりに持ってやった私は、更にいくつかの品々を推薦した。彼女は、その中から気に入ったものの何点かを選び出した。
 このとき館内に、12時40分発新潟行きのカーフェリーの改札が始まるというアナウンスが流れた。美世さんが乗ることになっている船だ。
 彼女が土産物(みやげもの)の支払いを済ませると、私たちは廊下を更に進んで、その突き当たりにあるロビーに入った。そこには既に行列ができており、その先端にある改札の向こう側へ、それが徐々に吸い込まれているところだった。
 その横の窓口で彼女は切符を買い、旅客名簿という白い紙切れに必要なことを書き込むと、私たちはその列の後ろに加わった。
 美世さんは私に向かって軽く会釈すると、笑顔でこう言った。
「今回は色々と、お世話になりました。」
 私も笑顔でそれに応えた。
「いいえ、こちらこそ。
今度は、いつ来れますか?」
「そうですね……、」
 彼女はそう言ってちょっと考えてから、私に向かって逆に尋ねてきた。
「いつがいいですか?」
 私は微笑んで言った。
「あした!」
 彼女は眉を寄せて言った。
「もう! 真面目に答えて下さいよ! 田野さんと違って、あたしは堅気(かたぎ)なんですから。あしたは、し・ご・と!」
「ハハハ、そうですよね。
……雪が積もってるあいだは大変だから、溶ける頃がいいかな。三月の終わり頃とか。庭には蕗(ふき)のトウが出るし、市場には生ワカメ、ナガモ、ギンバソウといった海藻類が出回ります。早春の海の味覚! その頃には、ホームページもある程度できてると思うし。」
 彼女は、嬉しそうに目を輝かせて言った。
「わかりました! それじゃ、一応三月の終わり頃ということにしておきます。よろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
 私は美世さんにバッグを手渡すと、改札を抜けた彼女に向かって柵越しに言った。
「着いたらメール下さいね!」
「はい!」
 彼女は一瞬こちらを向いて私に手を振ると、他の乗客と共に再び通路を歩いて行った。
 その紺の帽子と白いコートの後ろ姿を、私は自分の視界から消えるまで追っていた。

<続く>
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