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物語

はまなすの実

原作/田野呵々士

第八章 瓶ヶ島

パソコン 『死にたい……。』
 以前、私は本気でそう思ったことがあった。まだ十代なかばの頃だ。自分が生きていても、社会に迷惑を掛けるだけだと思っていたからだ。その当時の私は、極度の対人不信に陥(おちい)っており、今で言う「不登校」の上に「引きこもり」であった。そのため、これは一種の心の病(やまい)による思いだと言えよう。
 ところが、今回の『死にたい』は、心の病が直接の原因ではない。
 ……失恋によって人が死を望むということ。それが何かの病気であるということを、私はいまだかつて耳にしたことがない……。
 そうなのだ。今のこの私は異常ではなく、正常そのものなのだ。その私が自らの命を絶つということは、正常な精神を持った人間の健全なる欲求であり、人間として生まれ持っている正当な権利なのだ……
 ……長澤美世。
 たった一時間前まで、この女性を思い浮かべるたびに、私の心の中は甘美なもので満たされていた。愛らしい笑顔、朗らかな声、そして甘い香り。それらは、何百回思い浮かべようとも薄れることはなかった。そして必ず『会いたい』という言葉が湧き起こって来るのだった。
 それが突然、『死にたい』という言葉に置き変わってしまったのである。
 その変化の元凶は、一通の電子メールだった……。
 私は仕事に没頭すると、昼食を食べることさえ省いてしまいたくなるほど、それに集中する。そのため、この仕事に取り掛かってからというもの、私が長澤さんにメールを出す間隔は、それまで週に一度だったものが近頃では十日か二週間に一度なってしまった。そのメールはそんなとき、珍しく彼女の方から先に来た……。

田野呵々士様

 ご無沙汰しておりますが、その後お元気ですか? 私がお願いしたお仕事のために、お忙しくさせてしまい、ご迷惑をお掛けしているのでは?と思って、ちょっと心配になっている今日この頃です。
 こちらでは三月に入ると、冷たい風の中にも春を感じられるようになりました。また、昨日今日と晴天続きで、特に今日はとても暖かい一日となりました。前回のメールでは、そちらのお庭にまだ雪が残っているとのこと、もう溶けたでしょうか?

 田野さんに教わったとおり、主食を玄米に切り替えてからというもの、前にもお伝えしたように母の体調は日増しに良くなってきていましたが、先週病院の先生から「しばらく様子を見て下さい」と言われ、もう通院しなくてもよくなりました。すごいですねー! ありがとうございます!
 今、友達や会社の同僚に勧めまくってるところです。

 さて、私は以前、「片想いの人がいる」と言ったことがありましたが、先週なんとその人から電話があり、「会いたい」と言われてしまいました。迷った末、喫茶店で待ち合わせて会ってみると、「付き合ってほしい」と言うのです。長年想っていた人なので、嬉しかったですが、ちょっと複雑な心境です。

 ホームページの完成、楽しみにしております。

☆..*・°長澤美世 

 これを読んだ私がどう思うのか、彼女はわかっていてこれを書き送ったのだろうか。もしそうだとしたら、見掛けによらず残忍な性格の持ち主なのだろう。
 しかし私は、それまで彼女に対して向けていた怒りの矛先(ほこさき)を自分へと向けた。よく考えてみれば、彼女を恨むのは筋違いだからだ。恨むべきは、彼女に愛を告白し交際を申し込んだのにもかかわらず、それを飲み過ぎて忘れてしまったという、男として有るまじき失態を演じた、この私自身に尽きるのだ。そして、女性を愛するたびに、このような結末になるという私の宿命こそが、その諸悪の根源なのだ。それは、私自身の死によって断つしかない。そう思った途端、私の頭に浮かんだのが、まずこの『死にたい』なのであった。
 私はもう、仕事どころではなかった。パソコンの画面は、あのメールに対する返信がずっと書き掛けのままになっていた。

長澤美世様

 元気です

 この後の言葉がいくら考えても思い浮かばず、その代わりに私の頭の中は、子供の頃からの好きになった女性とのあいだの数々の悲しい思い出で、ぐちゃぐちゃになっていた。
 食事はつくる気にならなかった。いや、食べる気が起きなかったので、つくらなかったと言う方が適切だろう。でも焼酎は飲んだ。そして、泥酔した挙げ句、まだ日のあるうちに布団に潜り込み、そのまま寝てしまったようだ。
 その翌日、小便がしたくなって目が覚めると、完全な二日酔いになっていた。
 時刻は午前6時半過ぎ。厭々布団から出て立ち上がったが、物を食べていないので、膝がガクガクして手は小刻みに震えていた。しかし、食欲がなかったので、朝食はつくらならなかった。
 布団に戻って横たわると、ガンガンと襲って来る激しい頭痛の中で、今度はどうやって死のうかということが頭の中に湧いて来た。焼身は熱そうだし、飛び降りは痛そうだし……。いや、このまま放って置けば、確実に餓死するだろうとも思った。しかしいずれにしても、死んだ私はいいが、その死体を処理してくれる人のことを思うと、そのような方法では死にたくないと思った。
『誰に知られることなく海の藻屑となり、ひっそりとこの世を去るのが一番自分に合っているな。』
 と思ったら、少し気が楽になってきた。
 午前11時を回った頃には、すっかり死ぬ覚悟ができた。すると不思議なことに、なんだか心が穏やかになってきた。
『どうせ死ぬんなら、せめて今までずっと我慢してきたことの一つぐらいをしておこう。』
 そう思った私は外出用の服に着替えると、財布をズボンのポケットに入れ、玄関で長靴を履いて外に出た。蔵の前には、その屋根から落ちて積もった雪が、まだ完全に溶けてはおらず、高さ20センチほどの山の尾根のようになっている。それを避けてふらふらと歩いた私は、納屋の横に置いてある愛車の運転席のドアを開けた。
 麓(ふもと)の町の小さなスーパーの駐車場に車を停めた私は、膝をガクガクさせながら、必要な物を買い揃えていった。
 そこから帰宅する途中、貧血のために何度か意識が遠退いた私は、そのたびに運転を誤った。一度などは気が付くと、ガードレールを突き破ったところで車が止まっていた。車の前面は大きく破損していたが、エンジンは掛かったままになっていた。道を通り過ぎる車は、みな徐行してその様子を窺って行くが、私はもうどうでも良かった。それよりも、このまま前に進めば車ごと崖から落ちることができると思った。しかし、それで確実に死ねるとは限らないし、仮に死ねたとしても、その後始末をする人のことを考えると、私はギアーをバックに入れた。
 なんとか帰宅した私は、納屋の横の定位置に車を停めると、ナップザックを背負って車から降りた。そのまま納屋の横を通って母屋に向かおうとしたが、何歩か歩いたら激しい目まいに耐えられなくなり、ついに蔵の前の雪の上に倒れ込んだ。呼吸が浅くなっている。5分間ほどそこでじっとしていたら、次第に呼吸が楽になってきたので、また立ち上がって母屋に向かった。しかし、飢えと寒さのために、体全体が完全に冷え切ってガクガクと震えている。
 玄関を開けて、その中に再び倒れ込んだ私は、台所まで這って行くと、膝をガクガクさせながらも、なんとか物につかまって立ち上がることができた。しかし、七輪に火を起こそうとして、その中に杉葉と燃料を震える手で仕込めたのはいいが、その震えのためにマッチがうまく擦れなかった。何本か軸を折ったりして、ようやく火が着いたが、今度はそれを杉葉に移すことができなかった。火の着いたマッチの先が、手の震えによって七輪の壁面に当たったりするために、途中で消えてしまうのだ。
 結局20本近いマッチを無駄にして、ようやく杉葉に点火することができた私は、すかさずうちわを激しく扇いで、七輪の中に風を送り込んだ。すると、間もなく熾きに火が着いたことが確認された。こうなれば、あとは燃料に火が自然に移る。
 七輪の中の真っ黒い燃料の下にちらほらと見えている、オレンジ色の光の上に両手をかざした私は、ふと思った。
『暖かい……』
 ……火という物が、これほど暖かに感じられたことは、今までなかった。
 それは次第に、七輪内部全体に広がっていき、やがて熱くなるほどになった。
『生きている。生きて成長している……』
 私はそう思った。それは今の私と同じようにして、酸素を吸って二酸化炭素などを吐き、燃料を栄養として食べながら成長しているのだ! そう思ったら、気のせいか目まいと体の震えが、幾分治まってきたように感じられた。暖められた手の血液が、体全体を循環して体温が上がったこともあるのかも知れない。
『生きている。俺も生きている!』
 私は、それを強く実感した。
 冷蔵庫からショウガとニンニクとタマネギを取り出した私は、それらをまとめてすりおろし、食卓の上に置いた小さな鍋の中に入れた。そして、背負っていたナップザックも食卓の上に下ろすと、その中から先ほどスーパーで買って来たもののうちの一つを取り出した。その包装を開けて中の物をその鍋の中に加えた私は、そこに唐辛子の粉と醤油、胡麻油も加えると、それを震える手で揉んだ。
七輪と焼き網  手を洗った私は、強火になっている七輪の上に焼き網を乗せると、先ほど混ぜ合わせたものをその上に箸で並べていった。
 財政難のために、肉と言えばしばらく鶏の胸肉しか食べていなかった私は、死ぬ前に一度でいいから牛肉の焼肉を食べておきたかったのだ。
 それと平行して、野菜やキノコも焼いた。タマネギ、人参、キャベツ、自家製の椎茸。焼けるそばから、私はそれらを次々とむさぼり食った。
 体が温まったところで、本物のビールだ。やはり財政難のため、ずっと第三のビールで我慢していたからだ。これを飲むと、体の震えが前にも増して収まってきた。この飲料に含まれている糖分のために、血糖値が上がったからだろうか。
 飲み食いしながら、私は感涙に咽んだ。
『これだ! これさえやれば、もうこの世に未練はない。』
 そして、ふとゴミ箱の中を覗いた私は、今度は思わず微笑んでしまった。先ほどまでは必死だったので気が付かなかったのだが、肉のトレイに掛かっていたラップには、スーパーの半額シールが貼られていたからだ。この世に対する未練を絶つつもりで買ったのに、まだ倹約している自分の貧乏性が可笑しかった。私は声を出して笑った。
「アハハハ!」
 何だか元気が出てきたので、メールの返信の続きを書こうという気になった私は、飲食にきりが付いてから再びパソコンに向かった。

長澤美世様

 こちらは、3日ほど前から急に暖かくなりましたが、庭の雪はまだ一部残ってます。そちらが羨ましい。

 お母さん、病院通いに一応終止符を打たれたとのことで良かったですね。それは何よりも、ご本人の努力の賜物だと思いますよ。

 長年の恋も稔りそうで良かったですね。私はやっぱり、一人が似合ってるようです。
 お幸せに。

田野呵々士

 なんとかそれを送ることができた私の頭の中は、今度は仕事のことで満たされた。先ほどまでは死ぬことを考えていた私だったが、今の仕事を放り出してあの世へ行くということは、なぜかできなかった。私は何かを思い立ったら全てを放り出してしまうようなこともあるが、この仕事にはそうさせない不思議な力があるようだった。
 物語としての組み立ては、既に全体の半分近くまでのところにまで達している。文字を並べていくことは、すぐにできることだが、問題はそれを推敲(すいこう)することだ。私の場合、文章をつくる上で、この作業に最も多くの時間を要する。なんとか死ぬことを保留することができた私は、毎日少しでも仕事が進むようにと、それも並行して進めていくようにした。
 先のメールの後、私はこちらから長澤さんに個人的なメールを送ることを一切やめた。すると当然のことながら、彼女とのメールの遣り取りは激減した。その内容も今までとは違って、仕事上の質問や進行状況の報告のみに留まった。
 その彼氏と付き合い始めたのだろうか、来ると言っていた三月末になっても、こちらに来たいという長澤さんからの連絡はなかった。それでいい。彼女との個人的な関係は、もう完全に断ってしまいたかった。いっそのこと、今後彼女ではなく、彼女のお母さんと直接連絡を取り合えるようにしたいとさえ思った。
 人生の中のほんの一瞬ではあったが、彼女と共に過ごした楽しい思い出が、他の女性とのそれと同じように、感情が全くこもらないモノクロの水彩画のようになってしまうのには、まだしばらくの時間が必要だった。
 しかし、物語の完成まで、あと二割というところに漕ぎ付けた頃、今度はまた新たな問題が一つ浮上して来た。瓶ヶ島(かめがしま)のことをここまで知ってしまった以上、この島が現実に存在しているか否(いな)かを、私は実際に自分の目で見て確かめたくなってしまったのである。
 すると、それまで『死にたい』で溢れていた私の頭の中には、いつしか『いきたい』という言葉が出現し、それが無意識のうちに多勢を占めるようになってしまった。あの世に「行きたい」のではない。この物語の舞台の一部となっている、その島に「行きたい」ということだ。
いきたい、いきたい? ……いきたい?!
そうだ! 俺は、まだまだ生きたいんだ!!!
 一時はあんなに死ぬことばかり考えていたのに、たった一つでも目標を持つと、このようになってしまうことに、私は自分でも驚いていた。しかし、もしあのとき、あのように七輪に火を起こして飲み食いしていなければ、このようにはならなかったに違いない。命を食べるという当たり前のことが、これほどまでに生命にとって重要なことだと実感したのは生まれて初めてだった。
 瓶ヶ島へ行くことを長澤さんに提案するメールを書き掛けた私だったが、すぐに思い留まってそれを削除した。もし私がそのような提案をすれば、彼女は快くそれに応じてくれることだろう。すると当然のことながら、彼女も同行したいと言い出すに違いない。
 しかし彼女の性格からすると、彼氏以外の男と二人で海外旅行に行くなんていうことは考えられず、当然自分の彼氏にも同行を要請することだろう。
 もしそうなるとその旅行は、「熱々の若いカップル」+「お邪魔虫オジサン」三人が繰り広げる珍道中になってしまう。これを第三者が見れば、立派な「ラブコメディー」として成立するのだろうが、そこで笑い者にされるオジサンこと私にしてみれば、真綿で首を絞められるような拷問を受けることになるのだ。
 以前彼女は私の旅費を出してくれるようなことを言ってはいたが、それには甘えず、こっそりと自力で行って帰って来よう。そして、それがバレて責められたときには、その当時の私の心境を正直に説明して納得してもらうしかないだろう。
 瓶ヶ島の大よその位置については、原稿を熟読するうちに大体見当が付いてきている。そこに書かれている航海の日数を逆算し、近隣の島の住民の風貌などからそれを判断することができたのだ。インターネットで、それらの国々に関連したホームページを閲覧し、私は早速情報の収集を開始した。
 そして失恋の痛手から不死鳥のように蘇えった私は、この冒険旅行の資金を得るために、町に出てアルバイトをすることにしたのであった。

 それから約11ヶ月後。私は、それまで自分の頭の中に綿々と存在し続けていた疑問と、完全に決別することとなった。400年前の浜茄子の実という物的証拠を見せられても尚、その存在自体については疑問視していた島の上に、私は今自分の足で実際に立っているのだから。
 それには、運命のような何か不思議な力を感じている。まるで吸い寄せられるようにして、私はこの島に導かれたのだから。さもなくば、南洋に浮かぶこの小さな島が、バンコクに到着してからたった5日間で見付かるはずがない。
 以下、当時の日記から抜粋してみよう。( )内は、この原稿用に後で付け加えたものだ。

2006年2月23日木曜日

 この島に来て初めて迎える朝。宿泊所から出て早速浜に行ってみた私は、熱帯雨林がシルエットになっている東の空に、素晴らしい朝焼けを見た。
 今日から私の食事は、町長の娘のヤエがつくってくれることになった。この島の書き方だと「ヤヘ」となる。この島では、日本で既に使われなくなっている歴史的仮名遣いが今でも使われているのだ。
 彼女はまだ18歳と若いが、昨夜からこの町の集会場で寝起きを始めた私の身の回りの世話をしてくれることになったのだ。その感じがまるでよそよそしくなく、なんだか妹か娘のようだ。彼女がつくってくれた、タロ芋と豆の入った雑炊は、ココナッツと魚醤の風味がよく効いており、とてもうまかったので、2杯もお替りしてしまった。

 朝食の後しばらく休憩してから、山の中腹にある遺跡を一人で見て回る。原稿にも書いてあった通り、インド系の遺跡のようだった。ここから見下ろす島の眺めは最高だ。熱帯雨林の先には畑があり、その下には緑の田んぼが広がっている。そして、その先の椰子林の向こうは真っ青な海。そこには米粒のような大きさで、この島の人たちの舟がところどころ点々と浮かんでいる。きっと漁をしているのだろう。昨夜見た、この島の伝統的な漁法は、陽が沈んでから海の上に火を焚いて行なっていたが、こうして陽のあるうちに行なわれる場合もあるようだ。

 昼食は町長の家に招待された。
地図  この島唯一の町は、サッカーのコートくらいの広さの広場をぐるっと取り囲むようにして、たくさんの大きな高床式の建物が立ち並んでいる。石畳が敷かれているその広場は、東から西へと流れる川によって真ん中を分断されており、その南側の東寄りには、役場や集会場や学校といった公共の建物が建っている。町長の家は、広場を挟んだその向かい側、即ち南側の広場の西側の一角にある。
 そもそも公共の建物だけではなく、この町の民家の母屋はどれも大きくできている。きっと大家族だからなんだろう。また私の知る限り、その戸や窓にはどれも鍵というものが付いていなかった。近隣の島々もそうだったが、よく考えてみると日本の庶民の家も昔はみなそうだったんだ。
 広場から玄関へと続く階段を上がると、この島の町長が数名の家族と共に出迎えに現れた。町長は白浜アミという名で、年齢は私と同じくらいだったが、長い黒髪に鮮やかな紫色で染められた布の鉢巻をしており、小麦色に日焼けしたその顔は、どことなく歌手の南香織に似ている。(今となっては、この歌手の名を知らぬ人も多いことだろう。でも仕方ない。日本の芸能人では、他に例えようがないんだから。)
 そこにはヤエの姿もあった。彼女は私の姿を見付けるなり微笑むと駆け寄って挨拶した。そして、宴が終わるまでずっと私のそばを離れなかった。この子、私に気があるのかな? アグネス・ロム(このタレントの名を知らぬ人も多いことだろうが、これもやはり仕方ない。他に例えようがないんだから)の顔と体をやや細長くし、胸はずっと小さくして髪を直毛にしたような感じ。口数は少ないが、ちょっとした仕草も可愛らしい子なので私は嬉しかった。
 正面の入り口から入ったところには大広間があり、その正面の壁には日本風の神棚があった。この町の家屋はどれも高床式で、その屋根は椰子の葉で葺かれており、一見この近辺の島々の民家のようだが、母屋の内部はこのようにして、日本風につくられているというところが面白い。但し畳はなく、板の間には椰子の葉で編んだ座布団大の敷き物が円陣に並べられていた。彼らが日本を離れた頃は、まだ庶民のあいだに畳は普及していなかったからだろう。しかし気温の高いこの地方では、この方が涼しくて良いかも知れない。
 その敷き物の上には、既に子供からお年寄りまでの十数人が、お膳を前にして座っていた。その真ん中に置かれている大きなちゃぶ台の上には、料理や果物を乗せた大きな皿がいくつか並べられている。
 用意されていた席に案内されたので、私は自己紹介をしてから今回招かれたことに対する礼を述べた。私が敷き物に座ると、今度はこの家の大人たちが一人一人順番に、私に向かって自己紹介を始めた。戦時中に書かれた記録の通り、男言葉は瀬戸内海風で、女言葉は東京弁に似ているのも面白かった。

 全員の紹介が済むと、客は私の他にもう一人いることがわかった。カイという名の、かなり高齢の老婆であった。もしかして……!?
 町長アミさんの簡単な挨拶によって宴が始まった。
 みなが歓談しながら飲み食いを始めると、私の右隣の席に着いたアミさんが私に向かって尋ねた。
「どうです? お口に合いますか?」
 私はそれに答えた。
「ええ、とても。見た目はこの国の料理風ですが、味付けはどことなく日本風なんですね。」
 アミさんは微笑んで言った。
「そうなんですか。この町の味付けは家によってまちまちで、うちはたまたまこういう味なんです。中国系の味付けの家もあるんですよ。」
 お、それはもしかして、物語に出てくる張(チャン)先生の子孫かな?
 私はアミさんに、一つ気になっていたことを尋ねた。
「一昨年12月26日に、インド洋沖の巨大地震による大津波がありましたよね。ここは大丈夫だったんですか?」
 アミさんは、真剣な表情になってそれに答えた。
「ええ、ここは大丈夫でしたが、あのようなことは他人事ではありません。この島の地形からすると、もし西側から津波を受ければ大惨事になるのでしょうから。」
 そうか、この島は瓶のような形をしているので、湾の正面から津波が入れば、窄(すぼ)まっている奥の方では、その高さが更に増えることになるのだ。
「防災の対策は、何かしてるんですか?」
「ええ、あの災害を知ってから、この町では新しい掟をつくったんです。津波の兆候が現れたら、町役場が siren(サイレン)を鳴らすということです。すると町民は、この島の高台に逃げることになっています。」
「ああ、あの長い石段を登った湖のあるあたりですね。……あそこまで登れば、まず大丈夫でしょうね。」
「ええ、多分。そして、そこには貯蔵庫をつくって、町民が何日間か生き延びられるだけの食料も、蓄えておくようにしたんです。」
「なるほど、近くには飲み水も豊富にありますしね。」
「そうなんです。」
 私はしばらく飲み食いしてから、アミさんの右隣に座っていたカイさんに、先ほど気になったことを尋ねてみることにした。
「カイさん、つかぬ事をお尋ねしますが……。」
 白髪を頭の後ろで丸く結っているカイさんは、若い頃はさぞ美しかったのだろう。私の方にその顔を向けた彼女は、老婆らしいゆっくりとした口調で言った。
「はあ、なんでしょうか?」
「あなたは、早川健之助さんと、長澤伸三さんという方をご存知ですか?」
 これを聞いた途端、彼女の目は大きく見開かれた。
「はい……。存じておりますよ。……あなた、先生がたのお知り合いなんですか?」
 やっぱりそうか。
「いえ、長澤教授がお持ちになっておられた、この島の記録と、お亡くなりになる前に、お孫さんに語られたことを書き留めたものを読ませて頂いたお陰で、今回私はここに来ることができたのです。」
 それを聞いたカイさんは、涙で目を潤(うる)ませて言った。
「そうだったんですか……。あなたが日本から来られたということなので、今日は長澤さんたちの消息について、それとなく聞けるかなと思ってこの家に来てみたんですが……。
いつなんですか、お亡くなりになられたのは?」
「長澤教授は1970年4月12日と書いてあったように記憶しています。早川教授の方はわかりませんが、それより何年か前に、お亡くなりになられたそうです。
……長澤氏は、それまで苦しそうだったのですが、最後はとてもいいお顔になられたそうです。」
 私が神妙な口調でそう言うと、目を赤く腫らしたカイさんは、私の方に顔を近付けながら小声で尋ねた。
「……それでは、そのお孫さんにはおっしゃったんですね、あのことを。」
 カイさんは、「あの」をほんの少しだけ強調された。私の先ほどの言葉の中に隠された意味を、ちゃんとお察しになられていたのだ。

「はい。それですっきりなさったんだろうと思います。」
 その言葉によって、カイさんの涙は止め処なく流れ落ちた。彼女はそれを袖で拭きながら、自分の右隣に座っている禿げ頭の老人に向かって、声を詰まらせながらこう言った。
「おい、三吉爺よ。……長澤先生と早川先生がお亡くなりになられたんだって……。長澤先生は1970年の4月12日だったんだってさ……。」
 その老人は、アミさんの父にあたる三吉さんだ。
 カイさんのその言葉は、まるで伝言のようにして、この場の人々のあいだに伝わって行った。すると、それを聞いた人はみな口々に、その死を悼んだ。
「え? あの先生がたが? ……ほうか、そりゃぁ惜しいことじゃのぅ。」
「……長澤先生は1970年の4月12日だって。」
「……えー! あのお二人が?!」
 この島の人々のあいだで二人の教授は、どうやらかなり名が通っているようだ。その思いを察したようで、アミさんは私に向かって説明した。
「お二人の先生と実際にお会いしたことのある者は、今では数少なくなってしまいましたが、この島で、そのお名前を知らぬ者はいません。そのときのことは、ずっと語り継がれているからです。
あなたは既にご存知のようなので隠さずに申しますが、長澤先生は、他の二人のお仲間が、この島のことを旧日本政府に知らせようとしたのを、力ずくでお止めになりました。
その後お二人が帰国されてから、サイパン島などの島々で日本軍が戦った際には、住民を巻き込んでの凄惨な結末になったということを、私たちは伝え聞きました。それに及んで長澤先生のあの行為は、『自分たちを戦火から守るためだったのだ』、ということにみな気付いたのだそうです。それから彼らは、私たちの恩人と言われるようになったのです。」
 ようやく泣きやんだカイさんが、私に向かってこう言った。
「あの方はあたしたちに、『あれはただの仲間割れだった』とおっしゃってました。そして、早川先生とお二人して毎日戯言(ざれごと)をおっしゃっては、あたしたちを笑わせておられた……。内心は、さぞ苦しかったことでしょうに。
……きっとそのお孫さんが、その苦しみからあの方を救っておあげになられたんでしょうねぇ。」
 私は、それに同意した。
「きっと、そうだったんだろうと思います。」
 カイさんは、袖で目頭を拭ってから話しを続けた。
「……ご帰国なさった長澤先生のことについて、私たちが最後に知ったのは、お勤めになっていた学校を引退されたということでした。その後ずっと私たちは、先生についての個人的な情報を得ることが、できないでいたのです。」
 それはそうだろう。その動機がなんであれ長澤伸三氏の行ったあの行為は、殺人になってしまう。この島の者が日本で彼と交流を持てば、死亡した二人の「事故」についての証言を求められることも有り得る。そうなれば最悪の場合、島の人たちのために行なった彼の行為が明るみに出て、恩を仇で返すようなことになりかねないと思ったのだろう。
 カイさんは話しを続けた。
「ですから、そのお年を考えれば、既にお亡くなりになっているだろうとは思っても、誰もその事実を知ることができなかったんです。」
 私は、神妙な口調で言った。
「なるほど、よくわかりました。」
 カイさんは私の方に向かって身を乗り出すと、真剣な表情でこう尋ねられた。
「その長澤さんが、お亡くなりになる前に語られたこととは、どのようなことだったんですか?」
 私はそれに答えた。
「あの方が、この島で体験されたことです。その大半は、あなたとの会話になっています。
それをこの町の成り立ちについて書かれたものと一緒にして、西暦2000年に公開してくれというのが、そのときの彼の遺言だったのだそうです。」
 カイさんは、やや目を見張って尋ねた。
「そのご遺言は、果たすことができたのですか?」
「いいえ。その当時は、どうもそれがうまくいかなかったようです。そこで、今度はインターネット……わかります?……そうそう……そのインターネットで公開して欲しいと、そのお孫さんの娘さんから私が頼まれたんです。そして、それなら、この島が実在するのかどうかを確かめずにはいられなくなって、今回こちらへ来ることを決心したんです。」
 私の話しに熱心に耳を傾けていた、この場の人々が口々に言った。
「なるほどね。」
「そうじゃったんか。」
 カイさんは、昔を懐かしむような目付きになって言った。
「……ああ……あのとき、あたしが話したことを、あの方はずっと覚えてて下さってたんでしょうか……。」
 私は言った。
「ええ、そうみたいですよ。これに、そのときのことが詳しく書かれています。」
 私はそう言って、自分が持って来た布の袋の中からA4サイズの紙袋を取り出し、その中から紙の束を取り出すと、それをカイさんに手渡して言った。
「どうぞお読み下さい。」
 長澤伸三氏が孫の景子さんに話したこの島での体験談を、曾孫の美世さんがパソコンに入力し、それを私が自分のパソコンからプリントアウトしたものだ。

 彼女はそれを手に取ると、目から遠くにしてしばらく見ていたが、真剣な表情になって私にこう言った。
「これは、ゆっくりと読みたいので、貸してもらってもいいでしょうか?」
 私は微笑んで言った。
「いえ、差し上げますよ。それは写しで、元のものはちゃんと日本にありますから。」
 彼女は確認するように言った。
「でもあなた、何かにお使いになろうとして、この写しをおつくりになられたんでしょう?」
 私は、ワープロやパソコンの原理を知らない人にでもわかるように説明した。
「ええ。物語が本当の話しかどうか確かめるのに使うため、書かれたものを活字にして印刷したものをこちらに持って来たんです。でも、この部分に関しては、あなたと長澤教授との会話が中心になっているので、むしろあなたにじっくり読んで頂いて、『ここは違ってる。』とか指摘してもらえればありがたいんですけど。」
 私はそう言いながら、これはいい機会だと思ったので、こう付け加えた。
「あなたにそれをお願いしても、よろしいでしょうか?」
 カイさんは、快くそれに応じてくれた。
「ええ、いいですよ。そういうことなら、いずれにせよ家に帰ってから、ちゃんと読ませて貰うことにします。ありがとうございました。」
 カイさんが、そう言って丁寧に頭を下げたので、私も丁寧に頭を下げて言った。
「どうぞよろしく、お願い致します。」
 頭を上げた私は、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「あの、カイさん。そこに書かれている記録によると、あなた方には先のことを夢で知る力を持った方が多いそうですね。」
 カイさんは微笑んで言った。
「ええ、そうですよ。」
 アミさんも微笑んで言った。
「あなたがここへ来られることも既に存じておりましたよ。」
 やはりそうか。それで、私を乗せた舟が港に着く前から、アミさんたちが迎えに出てくれてたんだな。
 私は興味深く尋ねた。
「それでは、私がこの後どうなるかもわかっているんですか?」
 アミさんは、ややためらいがちに答えた。
「……ええ、少しなら。」
「もし差し支えなければ、それを聞かせて貰えませんか。」
 このときアミさんの視線が、なぜか私の左隣の席のヤエに一瞬注がれたのを私は見逃さなかった。私がそちらを見ると、ヤエは小麦色の頬を赤く染めて俯(うつむ)いてしまった。彼女にも関係あることなんだろうか?
 アミさんは、ちょっと口篭(くちごも)って言った。
「……こんなこと、お客様に言うのは失礼になるので……」
 そう言われると、余計に知りたくなるのが人情というものだろう。他の人たちは、みな穏やかに微笑んで事の成り行きを見守っている。どうも彼らは、そのことを既に知っているようで、その表情から察するに、それは少なくとも悪いことではなさそうだ。
 私はその言葉をさえぎって頼み込んだ。
「何を言われても、失礼だなんて思わないと約束しますから、どうか教えて下さいよ。」
 アミさんは、困ったようにヤエの顔を見て言った。
「どうしようかねぇ、ヤエ。」
 ヤエは更に赤くなると、なかば怒ったような口調でこう言った。
「そんなこと、あたしに聞かれても困るわ! 見た人が自分で決めてよ!」
 アミさんは、今度はヤエの左隣に座っている白髪で長身の老婆の顔を見た。彼女はアミさんの母親のカヤさんで(後から知ったことだが、この家の実権は、実はこの女性が握っていた)、長身だが細身の彼女は、アミさんに向かってニコッと微笑むと、ハスキーな声でこう言った。
「ご本人から知りたいっておっしゃるんだから、むしろこりゃ絶好の機会じゃないのかい?」
 その言葉を聞いたアミさんは納得したように頷(うなず)くと、私に向かって遠慮がちにこう言った。
「……では言いましょう。これは、あくまでも私が勝手に見た夢ですからね……。
あなたが、この島でヤエと結ばれ、この子を日本に連れてお帰りになるという夢を、何日か前に私は見たんです。」
 それを聞いた途端、私は思わず仰天した。
 そうか! それでヤエは私に付いて離れないんだ! 私が彼女に対して不思議と親近感を感じていたのは、彼女が私のことをただの客としてではなく、将来の夫として認識していたからなのだーっ!!!
 そのヤエの方をチラッと見ると、赤面している彼女は、今にもこの場から逃げ出すような格好になっている。その彼女の緊張をほぐすつもりで、私はニコニコしながら冗談半分にこう言った。
「それは何とも嬉しい夢ですね。それが本当になったら尚嬉しい!」
 すると、その場のみなが一斉に拍手したではないか! 顔は微笑んでいるが彼らはみな真剣のようだ。当のヤエはというと、手の甲で涙を拭っている!
 おいおい、何ともえらいことになったぞ!
<後略>

 というわけで、今回の旅行は全く予想外の展開となった。来島後僅か10日目の2006年3月4日、私はこのヤエと夫婦になったからだ。
「日本の家族や親戚を呼んで、婚礼に同席してもらいなさいよ。」
 島の人たちから再三にわたってそのように言われたが、私の家族は現在一人もいないし、再婚の結婚式は簡略にするというのが今の日本の習慣なので、親戚を呼んでも多分誰も来ないだろうと言ってその都度諦めてもらった。
 その一方こちらでは、新婦が町長の娘ということもあったので、婚礼は盛大に執(と)り行なわれた。そして、その当日からなんと三日三晩、島中飲めや歌えやの大騒ぎとなったのである。
 彼らの酒の飲み方は半端ではない。私も飲める方だったが、昼前から飲み始めると日が暮れる頃からはさっぱり記憶がなく、気が付けば町長の家のヤエの小さな部屋で朝を迎えるというパターンだった。寝床から出た私たち二人は、着替えを持ってこの家を出ると、広場を流れる川で軽い水浴びを済ませる。そして、眩い日差しを浴びながらふらふらと歩いて広場を横切り、集会場へ朝食を食べに入る。すると二人が座った席の周囲には、既にここへ朝食を食べに来ていた人たちが椰子酒や焼酎が入ったガラス瓶を手に手に持って集まり、また宴会が始まってしまうのである!
 それでも四日目の朝は、先に起きて鮮やかな赤紫色の腰巻に白いTシャツを身に着けたヤエが、まだ寝床の中で寝ぼけている私に向かって微笑み掛けながら、こう言った。
「今日から家で朝餉(あさげ)よ。」
 とにかく、新入りの私にとって、この島の風習はまだよくわからなかったし、そもそもこの島では妻の方が夫よりも立場が上のようなので、私はヤエの言葉の全てに従がうしかなかった。しかし彼女は、そんな私に対して決して偉そうにすることはなく、この島特有の習慣などを、その都度(つど)丁寧に教えてくれた。
 現在の日本の、常識、儀礼、仕来たりなどといったことの大半は、恐らく江戸時代以後に確立されたものだろう。だから、それ以前の日本の文化を知る上において、この島は非常に興味深い。専門家ではない私がそう思うのだから、見る人が見れば、かなり面白い発見が色々と出て来るに違いない。
 さて、この町の民家の正面のつくりは、先ほどご紹介した日記の通りだが、裏側も各戸それぞれみな同じようになっている。広い茶の間と台所が廊下を挟んで並んでいて、その三つのいずれからもバルコニーに出られるようになっているのだ。廊下から台所に入ったヤエと私は、まず自分たちが使う食器類を持つと、素足のままでそこに出た。
 バルコニーと書くとつい洋風建築を思い浮かべてしまうので、和風の縁台と書いた方が良いかもしれない。しかし、これは今の日本の一般住宅の縁台をずっと拡大したような感じで、20畳くらいの広さがある。その三方は、木の手摺(てす)りによって囲まれており、それにはペンキなどの安っぽい塗料は一切塗られておらず、古い木の持つ質感が見事に生かされている。その一角からは、手摺りの付いた階段によって裏庭へと降りられるようになっていた。
 そのだだっ広い裏庭の向うは椰子林になっており、その奥からはゴーッという潮騒の音が絶え間なく聞こえて来る。朝日を浴びた椰子の葉は爽やかな風にそよぎ、姿こそ見えないが、鳥の美しい囀(さえず)りも時折り聞こえて来る。
 その一方、縁台の下からは、この家で飼われている鶏の「コッコッ」という鳴き声が長閑(のどか)に聞こえている。
 この時間帯、丁度うまい具合にこの縁台は母屋の日陰に入っており、その中央に置かれた長い木製の食卓では、十人余りの大人と幼児が敷き物の上に胡坐をかいて、賑やかに談笑しながら朝食を食べているところだった。学生たちは食事を済ませて既に学校に出掛けたようだ。
 その空いている席に並んで座った私たちは、待望のノーマルな朝食とのご対面となった。どれほどうまい酒のつまみでも、三日間も朝から晩まで同じ物が続くと、さすがに飽きてくる。
 私たちが食べ始めて間もなく、その目の前の食卓の上に、突然どこからか黄緑色に輝く美しい小鳥が舞い降りて来た。そして、子供たちが食べこぼしたご飯粒などをついばんで歩くと、母屋の軒下へと舞い上がって行った。そこに開いている木の隙間の中に鳥が入ると、数羽の雛が餌をねだる「ピーピー」という声が微かに聞こえた。どうやら、そこに巣があるようだ。
 しばらくすると、その隙間から顔を出したその親鳥が、またもや私の目の前に舞い降りて来た。人間を全く恐れていないし、この家の人たちも、その鳥の行動を関知していないか黙認しているかの、どちらかのようであった。
 その鳥の行動を私が朝食を食べながらも物珍しそうに観察しているので、私の右隣に座っていたヤエが食べるのを中断してその説明をしてくれた。
「これは、English(英語)で finch(フィンチ)。あたしらは、黄雀(きすずめ)って呼んでるけど。この町のどこの家にもいる鳥だよ。」
 彼女の学歴は、日本の「中卒」に当たるのだが、日本の高卒の私よりもずっと流暢(りゅうちょう)な英語を喋る。それはこの国の公用語となっているので、当然と言えば当然のことなのだろうが。その彼女に私は尋ねてみた。
「……イングリッシュ、何歳からどれだけ習ったの?」
「……八歳から四年間。」
「え? たったそれだけ?」
 私が驚いてそう問い返すと、彼女は逆に尋ねてきた。
「それじゃ、日本ではどうなの?」
「十二歳から六年間。」
 私がそう言った途端、その場にいた大人たちは、みな「オー!」という感嘆の声を上げた。
「……Shakspeare(シェークスピア) とか、いろいろ習うとるんじゃろう。日本はお金持ちで優秀な国じゃけん。」
 そう言ったのは、既に朝食を済ませて茶を飲みながら英字新聞を読んでいたヤエの父、即ちアミの夫のジルだった。私の義理の父となった人だ。栗色に波打つ長い髪に鉢巻をした彼は、どう見ても西洋人のような顔立ちをしていた。金色の体毛が濃く、筋肉で締まったその上半身は赤銅色に日焼けしており、大航海時代の海の男を連想させる。
 ハリウッドの映画俳優のようなその彼の口から出てくるのが、日本人が喋るのと全く変わらない方言のような言葉なのだから、最初にそれを聞いたときはずっこけそうになったが、もう慣たのでなんともない。
 人口二千人余りのこの島に来る新聞は、なんとたった一部だけで、郵便船によって一週間分一度にまとめて届けられる。それがまずこの町長の家に配達され、その後町の各家々で大事に回し読みされている。だから、人によっては一週間も前の新聞を読むようなこともあるのだが、今のところそれに対する不満の意見は出ていないとのこと。
 ジルの言葉で恥ずかしくなった私は、照れながら慌ててその言葉を否定した。
「いえ、違うんですよ父さん。日本国内の日本人は、なぜか英語……イングリッシュのことです……を学ぶのが苦手なんです。だから普通の会話を覚えるだけで、それだけの年月が掛かってしまうんですよ。それでもちゃんと話せるならまだ良い方で、ほとんどみな別の塾に通わないと、まともに話せるようにならないんです。」
「それ、学校の教え方が良くないんじゃないの?」
 そう言ったのはアミの長女のキミだった。彼女は海に潜って貝や蝦などを捕る海女(あま)で、小麦色に日焼けした母親譲りの東洋系の顔立ちだ。
「そうじゃろう。聞いた話しじゃが、Australia(オーストラリア)で地元の学校に通うとる日本の子は、すぐ上手に英語喋れるようになるっちゅうがのぅ。」
 やはり新聞を広げながらそう言ったのは、キミの夫で町役場の職員のユウだった。この家でネクタイをするのは彼一人で、髪も他の男性とは違って短く切っているし髭もきれいに剃っている。また、この町の人が外出するときは、ほとんどみな裸足か草鞋履きだが、彼のような役場の職員と学校の先生だけに限って、通勤や職務中には靴を履く。
「教え方にも問題があるんだろうけど、それ以前の問題の方が大きいんじゃないかい?」
 ハスキーな声でそう言ったのは、先ほどの日記にも登場したアミの母のカヤだった。彼女は美人ではないが、色黒の肌に大きな目をした魅力的な顔立ちをしている。腰まである長い白髪を背中の中ほどで束ね、色とりどり鮮やかに染められた腰巻をして、白い木綿のTシャツを着ている。
 彼女は先代の町長で、十九年間も勤めていたとのこと。町長の座を娘のアミに譲ってからは、中央政府の外交官として永年勤務していたそうだ。その見識と手腕は高く評価されており、その仕事を引退した現在でも、時折り現役の政治家がわざわざこの島まで相談に訪れるというのだから、この国では黒幕的な人物だった。
 このとき広場の方から、カランカランという明るい鐘の音がしたかと思うと、子供たちの賑やかな声が聞こえ始め、それが次第に大きくなってきた。学校が休み時間になったのだろう。カヤは穏やかな表情で言葉を続けた。
「……大人だって子供だって言葉を習っても、それをすぐに使わなきゃすぐに忘れちまうよ。」
 そして、彼女は私に向かって尋ねた。
「ねぇ、カカシ。日本の学校って、読み書きに多くの時間を割くもんで、子供はそれを覚えるので手一杯になって、学校で English 話す暇がないし、学校が終わってからまた塾へ通うんで友達と English を話す暇もないんだってね。TV(テレビ)を見たり、それで game してて夜寝るのが遅いもんだから、朝はなかなか起きられず、満足に朝餉(あさげ)を食べる時間もないって聞いたけど、これってほんとの話しかい?」
 私は、やや目を見張ってそれに答えた。
「ええ、その通りですけど、よく知ってますね。」
 カヤは頷いて言った。
「うん。昔 Hawaii(ハワイ)に行って来た、この島のもんから聞いたのさ。そのもんは、日本の観光客から聞いたって言ってたよ……。」
 そして彼女は、やや残念そうな表情になってこう言った。
「やっぱりそうか……。それじゃ寝不足で、おまけに腹ぺこなんじゃないか。そんな状態で学校に行っても大したこと覚えられないから、誰だって自ずと学校で学ぶのが嫌になっていくよ。
あたしだったら、さっさと English 話してる国に行ってそこで働くね。そしたらお金は稼げるし言葉の勉強にもなるし、一挙両得だよ!」
 自分の国の学校教育や生活習慣のことを皮肉られているのにもかかわらず、私は思わず笑ってしまった。歯切れの良いその言葉の中には、日本の子供たちに対する思い遣りが込められていたので、むしろ痛快だった。そのカヤに向かって私はこう言った。
「近頃では、英語…… English のことです……を習い始める年齢を繰り上げている学校も出て来てるそうです。子供の頭が、なるべく柔らかいうちから教えた方が、覚え易いだろうっていう配慮なんでしょう。そこで教える内容も、読み書き重視ではなく会話重視に変わってきてるようですが、子供を取り巻く環境を変えなければ、あまり良い結果が得られないでしょうね。」
 カヤは、興味深げに尋ねた。
「ほう、その環境ってなんだい?」
「近頃の日本では、難しい英単語までも外来語として多く取り入れていますが、大人はそれをカタカナに置き換えて発音するし、子供が大好きなテレビジョンのアニメーションなどで使われている外来語も、そのほとんどはカタカナ発音なんです。」
「折角学校で正しい発音習うても、周りが日本訛りで話ししよったら、子供は自ずとそっちの方を覚えよるわい。」
 しわがれた声でそう言ったのは、やはり先ほどの日記にも登場した、カヤの夫の三吉だ。彼は妻よりもずっと背が低いが、彼女より二十一歳も年上で、この島有数の古老の一人だ。
 その娘で町長のアミが、私に向かってこう言った。
「だからね、この島では、英語から取り入れた言葉も多く使ってるけど、その発音は英語と同じままにしてるのよ。」
「ええ、どうもそのようですね。それじゃ、紙に書くときはどうするんです?」
 私のその問いには、カヤが答えた。
「英語の部分だけ、alphabet(アルファベット)で書くのさ。」
 私は目を丸くして言った。
「え? それじゃ、この町の文書には、漢字と平仮名、カタカナ、アルファベットの四種類の字が混ざってるってことなんですか?」
 カヤは平然として言った。
「そう。漢字と alphabet だけにしてはどうかっていうような意見も昔出たらしいけど、そうすると、日本語で書かれた本が読めなくなってしまう……。まあ、苦肉の策ってとこかね。」
「それじゃ、アラビア語から言葉を入れたら、アラビアの文字で書かなければならないってことなんですか?」
「そうなるね。」
 私は苦笑いして言った。
「それらの文字を、全部覚えるのは大変だなぁ……。」
 カヤも微笑んで言った。
「そうだよね。だから近頃では、なるべく外来語を使わずに話すようにしてるよ。島の言葉は島の言葉、日本語は日本語、English は English ってきっちり分けてね。」
 私は納得すると、独り言のようにして言った。
「それが一番良さそうですね。日本の子供が英語をなかなか話せないのは、むしろ今の日本語の中に、外来語が多過ぎるってことも大きいんだな。これは、日本人のメンタルの問題にまでかかわってくるよなぁ……。あ、いけねー。またカタカナ英語使っちゃったよ。」
 そして、その場の大人たちを見渡して確認した。
「……ということは、この島の人はみな、少なくとも三つの言葉をまともに喋れるってことなんですよね?」
 すると彼らはみな頷き、カヤも頷いてそれに応えた。
「そうだよ。この島は一応自治権が認められててね、公用語である English 以外の教科書は自由につくって、それで教えてもいいことになってるんだ。
でも、あんたたちだって、方言と標準語の二つの言葉を話せるんだろう? 昔誰かからそう聞いたよ。」
 それに対して私は、やや困ったようにこう言った。
「そうなんですが、方言の方はちゃんとした言語として認識されてないんです。学校の先生が喋る言葉は、ほとんどが標準語だし。だから、方言をきちんと話せる人が減ってきてるんです。近頃ではその現象を憂いで、逆に方言を見直そうとしている人も増えてきてるようですが。」
 それを聞いたカイは、意外そうにこう言った。
「へー! この町の学校の先生は、English と日本語の授業の他はみな、今あたしが喋ってるような言葉で授業してるけどね。『3掛ける4わかるもんは手ぇ上げな!』とか、『今日は蛙の観察するけん、まずはみなで蛙捕まえに行かんか。』とかね。」
 私は嬉しくなったので、思わず笑って言った。
「ハハハ! 好きだなぁー、そういうのって! 日本には、ちゃんと標準語を教える『国語』っていう立派な授業があるんだから、学校の教科書やなんかも、もっと自分の土地の言葉を使ってもいいと思うんだけどな。そしてそれを方言じゃなくて『何々語』って呼ぶんだ。例えば『関東語』、『関西語』、『東北語』、『九州語』というふうに。その中で、『山の手弁』と『下町弁』とか、『大阪弁』と『河内弁』というような方言に細分化すればいいんですよ。」
 カヤも微笑んで言った。
「そうかもね。自分たちが普段喋ってる言葉を、もっと大事にしなきゃ。漢語やカタカナ語ばっかり増やしていけば、そのうちまともな日本語は、この世から消えてなくなっちまうよ。」
「そうですよね……それじゃ、この島の日本語の授業では、どういう言葉を教えてるんですか?」
 彼女は、平然としてこう言った。
「あんたたちが言ってる、古典に出てくるような言葉だよ。」
 それを聞いた私は、目を丸くして驚いた。
「へー! 小さい子供に古文なんか教えてるんですか!?」
 カヤは笑って言った。
「ハハハ、驚くことはないよ。子供にとっては現代語も古語も同じさ。頭の中は真っ白いんだから、正しく教えりゃちゃんと覚えるよ。」
「まあ、それはそうなんでしょうけど、『古今和歌集』とか『徒然草』とか?」
 彼女は、淡々と言った。
「中身が簡単なのだけね。」
 私は、納得できずにこう言った。
「それでも難しくないのかなぁ……。」
 カヤは微笑んで言った。
「古文全部いっぺんに教えりゃ、難しくて当たり前だよ。」
 私は、その意味が良くわからなかった。
「はぁ?」
 彼女は、その説明をした。
「つまりね、書き言葉と話し言葉、そして漢語が混じってるだろう? だから、日本の古典はややこしいのさ。それをきちっと分けなきゃ。特に漢語は、元々文法も発音も全く違う、外国の言葉なんだから。」
「そう言われるとそうですよね……。ということは、大和言葉の表記には漢字を使わないとか?」
「できるだけね。」
「それじゃ、わかりにくくないですか?」
 カヤは微笑んで言った。
「そんなことないよ。あんたの国の、今の書き方だとややこしくなるけど。」
 私は納得して言った。
「そうか、この島では、歴史的仮名遣いを使ってるんですもんね。」
「そうだよ。」
「なるほど……。平仮名とカタカナだけの大和言葉なら、小さな子供でもあっという間に覚えてしまうでしょうね。」
 戦後、日本が仮名遣いを改めてしまったことは、日本の文化にとってかなりマイナスになったと私は思っている。
 例えば、「そのうえにくるしんでいる」と書けば、「その上に苦しんでいる」なのか「その餓えに苦しんでいる」なのかがわからず、その前後の文章から意味を推測するということをしなけらばならなくなる。ところが、これを歴史的仮名遣いで書けば、前者は「そのうゑにくるしんでいる」で、後者は「そのうへにくるしんでいる」となり、漢字に依存しなくても意味が通じるのである。
 そのため、日本の現代語を教える『国語』の授業では、「ひらがな」「カタカナ」に加えて漢字とローマ字という四種類の文字を教えることとなり、それとは別に『古典』の授業で漢文を、『英語』の授業で英文を習うのである。これらに費やされる膨大な時間によって、他の教科に割り当てられる時間数が減ってしまうというわけだ。
 近頃、日本の子供の学力の低下が危惧されているが、それは学習の絶対的な時間数の減少によるものよりも、むしろこのような語学の教科での効率の悪さが主な原因となっているのではないだろうか。
 それまで読んでいた新聞を畳みながら、ジルが私の方を向いてこう言った。
「ほうか。今の日本では言葉乱れとるっちゅうことじゃのぅ。この町には、『言葉の乱れは世の乱れ』っちゅう諺があるが、なぜ日本の company(カンパニー)はあげに優秀なんじゃ?」
 私はその問いに答えた。
「それには、主に二つの理由があると思います。
まず一つ目。アメリカやヨーロッパでは商売人と客とは対等の立場ですが、日本では『お客様は神様です』という言葉があって、商売人は客より低い立場なんです。これは、江戸時代から続いている価値観です。」
 カヤが確認するように言った。
「江戸時代って、徳川の世のことだね。」
「そうです。それが今尚生きてるんです。だから物を売る方は、買う方の我儘な要求にでも、懸命に応えようと努力する。それが今の日本の製品の品質を高めたり、サービスを向上させたりすることになってるんだと思います。
そして二つ目。日本には、会社……カンパニーのことです……のために個人を犠牲にするという風潮があるんです。丁度、武家社会の主従の関係みたいに。これもアメリカやヨーロッパの会社とは決定的に違うところだと思います。それは一見この町の社会と似てますが、中身は全く違います。」
 青味がかった灰色の瞳で、ジルが興味深げに尋ねた。
「ほう、どげに違うんかのぅ?」
 私はその問いに答えた。
「この町の人たちはまず、この島の自然のことを一番先に考えますよね。そして、自分個人のことは一番後回しにする。でも、それは自分が島の自然の一部であるということを、自覚しているからなんですよね。島の自然が良くなれば、作物も豊かに稔って、結局自分も得するっていう、自然に対する信頼感から生まれた、自分の頭で考えた前向きな発想。」
 すると、その場の大人たちはみな黙って頷いた。私は話しを続けた。
「ところが今の日本には、極端な言い方をすれば『会社のために自分を犠牲にしなければならない』っていうような雰囲気があるんです。戦争中の特攻隊……知ってます?……そうそう。それと同じような自己犠牲ですね。それは、自分自身の頭で考えて選択したのではなくて、『先輩がそうしてきたから、周りの人がそうしてるから、自分もそうしなければならない』って、仕方なくしてる人が大部分なんじゃないでしょうかね。
だから逆に言うと、日本の都会の人は先ほどの話しも含めて、子供から大人までがみな多かれ少なかれ、人目を気にしてピリピリしてるし、自分が本当にしたいことができないストレスのためにムシャクシャしてるんです。ところがこっちへ来たら、その『ピリピリ・ムシャクシャ』がない。」
 ここで、高く良く通る若い女の声で誰かがこう言った。
「だからこの国には、TOYOLA も SOMY もないのよ!」
 それは、ヤエの一つ年上の姉カエだった。紺の腰巻に青いTシャツを身に着けている彼女は、既に自分の食事を済ませて、胸に抱いた幼い末息子に乳を与えているところだった。その白い胸が眩しい! 父親のジル同様、彼女も栗色の髪と西洋系の顔立ちをしている。
 そういえば、漂流してきた人が昔この島に住み着いたことがあるって、誰かが話してたっけ。そうした人の血が、この二人には濃く出ているのだろう。
 カエの今の言葉を聞いた一同は大笑いしたが、真剣な表情になった私は、やや大きな声でこう言った。
「いや、ほんとに大変なんですよ! 日本では、毎年三万人以上の人が自殺してるんですから!」
 それを聞いた途端、一同は笑うのをやめて悲鳴のような声を上げた。
「えーーーっ!!!?」
 カヤが私に向かって、極めて真剣な表情で尋ねた。
「それ、ほんとの話しなのかい?」
 私は、悲痛な表情でそれに答えた。
「はい、ほんとです。」
 それを聞いた彼女は、黙って何度か頷いてからこう言った。
「それは笑い事じゃないよね。」
 私は言った。
「死ぬ理由は人それぞれで、誰もがみな働き過ぎて自殺するわけじゃないですけど。でも、どう考えても変ですよね、これ。」
 そう言う私だって、つい一年ほど前には真剣に自殺を考えていたのだ。
 ジルが真剣な表情で言った。
「今の日本の繁栄は、個人の命を犠牲にして成り立っとるちゅうことなん?」
 アミも真剣な表情でこう言った。
「もしそうだとすれば、この国では考えられないことだわ。」
 そして彼女は、その場の一同に向かってこう問い掛けた。
「……それじゃ、人が自ら命を絶つような国にならなければ、優秀な会社は育たないのかしら?」
 その言葉によって、この家族たちは、それに基づいた議論を始め、それはこの国の産業や経済に対する政策についての議論へと発展していった。ここで驚いたのが、まだ若いヤエをはじめとする若者たちが、積極的にそれに加わったということだ。
 ジルが、外国の経済援助に頼りきっている政府の政策を批判し、援助を一時的に停めれば、この国にも規模は小さいが優秀な企業が生まれるのではないかと言うと、それに対してカエはこう言った。
「父ちゃんの言うのもわかるけど、問題はそれでは解決しないんじゃないかな。その政策によって国が栄え、人の数がここまで増えてしまったんだから、今それをやめるとかえって商(あきな)いの仕組みが乱れるわ。
それよりも、この国に豊かにある海の幸を使って、この国でしかできない食べ物をつくるのよ。そして、お金はたくさんあるけど食べ物の多くを輸入に頼ってる国に向けて売る。援助のお金は、その会社設立と運営の資金に当てるべきだわ。」
 続いてヤエが言った。
「カカシから聞いてわかったんだけど、近頃の日本の海では鰯(いわし)が捕れなくなってしまったんだって。それなら、鰯の燻製(くんせい)とか干物をつくれば、日本の人たちはきっと買ってくれるんじゃないかな。」
 父親の意見に反論したのだから、こんなとき躾の厳しい日本の家庭では、「生意気だ。」とか「子供は黙ってなさい!」とか言われそうだが、ここでは男も女も16歳過ぎればもう一人前の町民として扱われる。町民である以上、このような議論に参加する権利を誰もが平等に有しているのである。
 自分の意見がちゃんと認められるのだから、若者たちはみなこの島の将来のことを真剣に考えるようになる。日本では、「今の若いもんは政治に無関心だ」などという言葉をよく耳にするが、世代や立場を超えて平等に討論できるような場が徐々に減ってきているということが、その主な原因だと私は思っている。
 明治維新や、その後の海外留学による立身出世とか、第二次大戦後の学生運動とか、日本の若者が主体となって活躍する場面は歴史上何度かあった。だが、それには波があって、現在は確かに下降しているように思う。
 日本の自由と平和が脅(おびや)かされるようなとき、「このままでは戦争に巻き込まれる」とか、「戦前と同じ過ちを二度と繰り返してはならない」とかいうようなことで、今の日本の若者たちは立ち上がることができるだろうか。それは、彼らの判断と実行力に委ねられている。
「……わしらは食わんけど、鯨もええかわからんぞ。日本は鯨捕り止められとるが、この国では許されとるけん。」
 そう言ったのは、年は私の息子と呼べるほど若いが、立場上は義理の兄となった、カエの一つ年下の夫のヤジだった。彼もジル同様漁師で、髪を長く伸ばして鉢巻をしているが、容貌は東洋系だ。
 私は微笑んで言った。
「それどっちも名案! 燻製はビール……ビアーのことです……とかワインに合いそうだし、干物はやっぱり日本酒。この辺の鰯は多分日本で『ウルメイワシ』って言ってるのだろうけど、大丈夫。昔のような安い値段で買えるなら、鰯も鯨も必ず日本で売れると思うよ。」
 私あたりから前の世代は、安価な鯨を日常的に食べて育ってきた。ところが、諸外国からの圧力によって一九八六年以降、日本の一般市場から鯨肉は徐々に姿を消してしまった。また、かつては肥料にされていたほどの大衆魚である鰯も、乱獲と生態系の変化の二本立てによって近年漁獲高が激減し、ついに高級魚化してしまった。
 いずれにせよ今となっては、その味にほんのりと郷愁を感じる程度でしかないので、私はわざわざ高い金を払ってまでして、それらを食べようとは思わない。しかし、昔のように安く手に入るなら話しは別だ。
 日本の商業捕鯨が外圧によって禁止された理由として、まず挙げられるのが、なんと言っても手当たり次第の乱獲だろう。捕獲が許されている鯨に混じって、絶滅危惧種に指定されている鯨の捕獲もやめなかったというのだから、自業自得と言わざるを得ない。しかし、その後鯨肉に取って代わって市場に姿を現したのが、安価な輸入牛肉だったという事実関係を見ると、「資源保護」「動物愛護」「環境保護」などという問題だけではなく、貿易の問題も裏で絡んでいるように思えるのは、この私だけだろうか。
「大脳が高度に発達した、鯨やイルカを殺すことは残虐行為だ!」
 その当時、声を大にしてそう言っていた国があったが、それなら「大脳が高度に発達した生き物を殺す」という行為をその国は行なっていないのだろうか? とんでもない! 第二次大戦後、地球の最も広い範囲にわたり、実際に戦争を行なうか代理戦争をさせるかして、「人類」という名の哺乳類を最も多く殺戮(さつりく)し続けているのがその国なんだから、これはもう全く話しにならない。
 更に、一部の団体が主張している、「鯨やイルカは賢いから食べてはいけない」というのも、牛や羊はあまり賢くないから食べるということであり、これは大脳という特定の器官の発達のいかんによって動物に優劣を付けるという、極めて偏狭な考え方に基づくものだ。それは、大脳が最も発達した動物である人類こそが、この世で最も優れているという、傲慢な妄想を前提とした不当な差別だということも言えよう。
 蟻一匹と鯨一頭のどちらも、それぞれの仲間同士で互いに高度なコミュニケーションを行える能力を持っているということは、誰もが認めることであろう。だから、体の大きさの違いや、脳の大きさの違いで動物の優劣を決めるのは誤った考え方なのだと私は思っている。
「蟻は本能によって機械的に動いているのであり、鯨は大脳による思考によって動いているのでより高等である。よって、蟻と鯨を同じように扱うのは間違いだ。」
 このような意見もあるかも知れない。それでは、大脳が発達している生き物がより高等な生き物であると仮定した場合、現在地球のあちこちで環境破壊を行ない、数多くの生き物を絶滅に追いやって自らも滅びようとしている人類、この、大脳が最も発達しているとされている生き物は、他の生き物に比べてより高等だと言えるのであろうか? 人類の名誉のために言い換えるならば、大脳そのものは高等であっても、その使い方が高等ではないとでも言うべきだろうか。
 だから、大脳のような特定の器官の優劣によって、生き物そのものの優劣を評価するという考え方は、必ずしも正しいと断言することはできないはずだ。
 捕鯨の問題にはまた、人類以外の生き物に対する価値観の、文化的相違という問題も含まれている。
 例えば、もし私が餓えで死にそうになったとしても、自分の飼っている犬を食べようとは決して思わないだろう。しかし、犬を食べる食文化の中で育った自分の友人が、餓えで死にそうになっていて、他に食べるものがなければ、私は自分の飼い犬をその友人の食料として提供するということことも有り得る。
 また、もし私が海で泳いでイルカと友人のように親しく戯れた後、そのイルカの肉が誰かの手で調理されてテーブルに出されたなら、私はどんなに空腹でも決してそれには手を付けず、逆にそのイルカを捕獲して殺した人間を激しく責めることだろう。場合によっては、その人間に対して殺意を抱くかも知れない。
 ところがその料理は、私の隣の席に座っていた、イルカを主食とする食文化の中で育った人に対して提供されたものだということがわかれば、私は涙を流してそのテーブルから立ち去るのみに留めることだろう。
 だから私は、基本的に捕鯨には賛成だ。但しそれは、あくまでも沿岸の絶滅危惧種ではない鯨に対して行なわれる、伝統的な手法による捕鯨に限ってだ。
 近代的な日本の捕鯨だと、高度に機械化された大型船によって、この地球上全ての海で鯨を狩り回ることになるのだ。そんなことをすれば、鯨は絶滅するほど数を減らして当たり前だ。このようなことは、何も鯨に限ったことではなく、先ほども述べた鰯だってそうだ。日本の遠洋漁業の場合、ほとんど全ての船舶が、このように機械化されているため、その捕獲に対して何らかの制限を設けなければ、それぞれの水産資源を根こそぎ捕り尽くしてしまうような日は、近いうちに必ずやって来るであろう。
 また、鯨を可愛がっている国の近海へ、わざわざ「調査捕鯨」とやらの名目で大量の燃料を使って乗り込み、その国の保護団体からの妨害を受けて目標の捕獲ができなくなったというような、首を傾げたくなるような事件も起きている。これを第三者から見れば、捕鯨船は動物愛護という価値観に対して侵略的挑発行動をしたわけで、保護団体はそれに対して正当防衛をしたということになる。
 だから、自分たちが食べたい物は、あくまでも自分たちの国の中で捕るべきなのである。
 そのため私は、輸入された家畜の肉もあまり食べたくない。どんな餌で飼育されたのかはっきりとわからず、大量の燃料を使って遥々日本まで運ばれて来る、私にして見れば怪しく贅沢な食材だ。
 私はそれよりも、日本の漁師さんが近海で捕まえた生きの良い秋刀魚を七輪で焼き、大根おろしと醤油を掛けて食べる方が好きだ。国内の養鶏場の鶏の肉を焼鶏にして食べる方が好きだ。身近で手に入るのなら、わざわざ遠くで加工された魚や肉を食べようとは思わない。
 別な言い方をすれば、フォアグラやトリュフの料理を食べるなら、本当はフランスまで出掛けて行って食べるべきだと思う。逆に、日本産の美味しい米を食べたい外国の人は、日本まで来てそれを食べるのが本当だと思う。そうすればそれに付随して、観光などの他の産業も潤うことになるので、経済は逆に活性化されると思っている。
 しかし、この町の人たちと親戚になった自分が、複雑な立場に立たされていることに気が付いたので、私はヤジに向かってこう言った。
「正直言うと俺はね。今までなるべく地元で取れた物を、自分で料理して食べるようにしてたんだよ。」
 それに対して、彼はこう言った。
「そりゃわしらも一緒じゃ。自分らの食いもんは、ほとんどみな島で賄(まかな)えるようにしとる。」
 私は言った。
瓶ヶ島の印 「でもね、これからは、日本でこの町の印(しるし)が入った食べ物を目にしたら、きっと喜んで買うと思うよ。」
 この町の印とは、交差逆S字のことだ。
 ヤエが、私に向かって微笑んで言った。
「宣伝しなきゃね。」
 私も、それに笑顔で応じた。
「おぉ、そうだよね。」
 ジルが、私たちに向かって言った。
「銭(ぜに)稼ぐ早道は、確かにあんたらの言う通りじゃろう。そりゃぁこの国に必要かわからん。けど、この町に今は必要ない思う。そげに銭あっても使い道ないけん。」
 彼のその言葉を聞いた一同は大笑いした。この国の中でも、この島の人たちの価値観は、かなり特殊なようだ。
 そして彼は、こう付け加えた。
「……けど、いずれそげなときもあるかわからん。そんときは、まあよろしう頼むで。」
 先程娘に自分の意見を批判されたジルは淡々とそう言った。これが私だったら、もっと彼女らの意見に対する否定的な言い方をして、自分を子供たちより少しでも優位に持っていこうとするところだが、この島の大人たちは、そんなセコいことはしない。
 私は、議論好きのこの島の人たちが、一体何のためにしょっちゅう議論しているのか最初はよくわからなかった。しかし、日が経つにつれて、それが次第にわかってきた。彼らは、議論による個人の勝敗を競っているのではなく、この町が良くなるための意見を出し合って、常にこの町を時代と共に成長させているのである。
 だから、誰が提案したどんな意見であっても、この町に対する思いがそこに込められているという点では対等なので、尊重こそすれ、誰もそれをけなしたりなどしない。この町が時代に適応していくということは、町の一軒一軒の家の存続につながり、最終的には個人一人一人の幸せにつながっていくので、人々はこの町が衰退しないよう、また過剰な繁栄をして失敗しないように、絶えず注意しているのだ。
一、一時ノ栄エ一時ニ衰フ。驕(おご)ルナカレ。
(急な繁栄は急に衰えるから、贅沢は慎みなさい。)
 これは、今から約四百年前に、この町の第二代町長シャガとその役員たちが残した戒めである。現代でも通用しそうな言葉だ。この島の人々は、このような古来からの掟や戒めや諺(ことわざ)に基づいて議論を繰り返し、今日までこの町を維持してきたのである。
 また、この町の人たちは、文明世界を警戒し、意識的にそことは一線を画している。次のような戒めもある。
一、外見華ヤカナリシ物、争ヒノ種トナラン。是レ持ツナカレ。
(外見が華やかな物は、人間の争いの種(たね)となるから、持たないようにしなさい。)

 議論に一応きりが付いた朝の白浜家の縁台では、畑や漁や勤めに出る者が自分の食べた食器を持って台所に入り、家事を行う者も食卓の上の鍋や食器類をまとめて盆に乗せると、やはり台所に運び込んだ。キミの下の子二人とカエの上の子の三人の幼児も、自分たちの食べた食器を台所に運び込むと、縁台から下の裏庭に降りて、そこで遊び始めた。
 この家の食器は、御飯茶碗から各種取り皿に至るまで、各自のものがちゃんと決まっており、その台所からの出し入れは、基本的にその持ち主がすることになっている。幼児とてちゃんと歩けるようになれば、その例外ではない。それを洗うのは、家事担当の者だが。
 その食事の後片付けを終えて、再び縁台に戻って来たのは、カヤとヤエと私、そしてカエと彼女に抱かれた息子の洋太郎だけとなった。洋太郎は先ほど乳をたっぷりと飲み、今は母の胸でおねむのお顔になっている。
 賑やかだった広場で再び鐘が鳴ると、外の声は徐々に小さくなっていった。やがて子供たちが全員校舎に入って授業が再開されたのだろう、周囲は再び元の静けさを取り戻し、遠い潮騒の音と椰子林の鳥の美しい鳴き声、下からの鶏の声には、この家の幼児が遊ぶ楽しそうな声が加わっている。時折り風が強まると、椰子の葉が擦れ合ってサワサワという音を立てた。
 母屋を背にして再び席に着いたヤエは、食卓の上に置かれている旅行ガイドブックを開くと、興味深そうにそれを読み始めた。私が日本から持って来たものだ。私はその左隣の席に胡坐をかいて座った。
 洋太郎を抱いているカエは、ヤエの右隣の席に座った。
 椰子林を背にして私の向かいの席に座ったカヤは、食卓の中央に置かれている小さなラジオを手に取ると、そこに付いているハンドルをしばらく回してからそのスイッチを入れた。するとその小さなスピーカーからは、甲高い音でハワイヤンのような音楽が流れ出した。
 ラジオを元の場所に戻したカヤに向かって、私は尋ねた。
「カヤさん、戦時中の記録によると、当時この町ではレディオ(ラジオ)を持たないようにしていたようだけど、いつから持てるようにしたんですか?」
 彼女は、苦笑いしてこう言った。
「もう家族なんだから『さん』なんてよしとくれ。『婆ちゃん』でいいよ。」
 そして、茶を入れながらこう言った。
「……そうだねぇ、television(テレビ)ができた頃はカイ婆ちゃんがまだ町長で、あたしが町長になる二年前にradio(ラジオ)を持つことが許されたんだから……、もう四十年余りも前のことになるのかねぇ。」
「それじゃ婆ちゃん、テレビジョンができたからレディオは認められるようになったってこと?」
「いや、そういうわけでもないけどね。」
「乾電池……バッテリーです……式のを使ったことはないんですか?」
「ああ、一時はあったね。でもbatteryが切れたらただの箱だろ。そのことに気が付いてからは馬鹿馬鹿しくなって、ずっと電源の要らないgermanium radio(ゲルマニウム・ラジオ)を、ear phone(イヤー・フォン)使って聴いてたよ。それが近頃では、electric generator(発電機)付きの安いのが出てきたんで、そっちにしたってわけさ。」
「いっそのこと、テレビも認められるようにしたら?」
 カヤは、驚いたように私の顔を見て言った。
「おや、なんでだい?」
 私は、微笑んで言った。
「だって、世の中のことが、音だけじゃなくて映像でも見れるじゃないですか。便利ですよ。」
 するとカヤは、私とカエとヤエの前にそれぞれ茶の入った湯飲みを置きながら、笑ってこう言った。
「ハハ、そりゃどうかねぇ……。」
 そして、やや真剣な表情になって言葉を続けた。
「二年ほど前、男が三人、大きな televvision set 持って首都から船でやって来たことがあったよ。『見るだけ見てみろ。金は取らないから。』ってね。それじゃぁ見てみようってことになって、町のみんながそこの広場に集まり、その機械の周りはもう黒山の人だかりさ。
その男たちは、TV に皿のような antenna(アンテナ)をつなぐと、 electric generator (発電機)回して switch(スイッチ)を入れた。
音が聞こて絵が出たら、みんなもうたまげたのなんのって。若いもんの何人かが目の色変えて、『集会所に一台はあってもいいんじゃないか』って言い出した。あたしだってそう思ったくらいだよ。けどね、カイ婆ちゃんとか三吉とかの世代が、みんなで反対に回ったのさ。」
 私は、意外だったので尋ねた。
「ほう、またなんで?」
 カヤは、茶を一口啜(すす)ってから言った。
「…… TV(テレビ)でやってる、news(ニュース)や weather forecast(天気予報)はいいよ。drama(ドラマ)だとか animation(アニメ)だとかの他の program(番組)もまあいいさ。ところが、その合い間に流れてる commercial(コマーシャル)。カカシ、あれの正体なんだかわかるかい?」
 私も一口茶を啜ってから、それに答えた。
「……企業の宣伝でしょ?」
「そりゃ表向きの顔だよ。あたしが聞いてるのはもっと本質的なことさ。」
「うーん、商品の紹介?」
「ハハハ、あれはね、『甘い誘い』だよ。『欲望の落とし穴』へのね。」
 私は、納得して言った。
「なるほど、そういう言い方もできますね。」
「radio はまだいいよ、見えないから。ところが TV は音だけじゃなくて本物そっくりに見えてしまう。あんなうまそうな orange juice (オレンジジュース)見たら、誰だって飲んでみたくなるさ。菓子や nudle (ヌードル)だって、いかにもうまそうに食べてるだろ。それなら、自分も同じものを食べてみたいと誰だって思うさ。
食べ物だけじゃない。この島じゃ必要ないけど、自動車や motorbike(バイク)だってそうだよ。恐ろしいのが cultivator(耕耘機)と漁船用の小型 engine(エンジン)。それから、脚を長く剥き出しにした若い女の子。男たちの目が釘付けになってたよ。」
 私は納得して言った。
「なるほどね。最初はテレビ一台だけ買ったのに、それだけじゃ済まなくなってくると……。」
 カヤは大きく頷いた。
「そう! その通り。だから、世の中のことを知ることはできるんだろうけど、それは偏った情報だよ。人間にとって本当に必要な物は何なのか。TV を見てると、そのことがわからなくなっちまうんだよ。
年寄りは、その危なさを敏感に察知したんだね。あたしはアミに言って、早速その場で町民会議を開かせた。そして、TVを買うか買わぬかの議論が始まった。」
「それで結局買うのを断念したと……。」
「そう。でも最初は押され気味だったんだ。
『TV の program には、料理のつくり方から子供にものを教えるようなものまである。他の島の者がそれを利用してるのに、この島の者だけが利用できないのは不公平だ。』とか、
『世界でどういうことが起きているのかを、居ながらにして見ることができる。だから、今まで Hawaii や Australia に人を派遣していたようなことをしなくても済むようになる。それは町の支出削減に貢献することになる。』とか、
『commercial の時間は、program のそれに対してほんの微々たるものだ。必要ないものは買わないと自制すれば、それで済むことだ。』
……そういった意見が次々と出た。」
 私は、怪訝そうに言った。
「どれも、尤もな意見のように思えるけど。」
 カヤは微笑んで言った。
「そう。でも、あたしは反対派に回って言ってやったんだ。
『よく考えてごらん、radio の program と TV の program のどこがどう違うんだい?』ってね。
そしたら、みんないっぺんに黙っちまったよ。ハハハ。『外見華やかなりし物、争いの種とならん。是れ持つなかれ』って、この島では昔から言うからね。」
 先ほど眠りに就いた洋太郎を、縁台の床(ゆか)の上に敷かれた寝床に移し終えたカエは、食卓に戻って来ると、祖母を指差しながら私にしかめっ面をして見せ、小声でこう言った。
「……鋼鉄の女……。」
 その声が耳に入ったのか、カヤはそのカエの方を向いてこう言った。
「そうそう。あんたは、買うのに賛成するような意見を、散々言ってたっけね。」
 カエは、ヤエの右隣に再び腰を下ろすと、またしかめっ面をして言った。
「そうよ。」
 そして、諦めたような表情で祖母を見てこう言った。
「……でもまあ近頃では、なくても何とかなるって思えるようになったけどね……。」
 私は、そのカエに向かって言った。
「まあ、よく考えてみれば、テレビとラジオの違いって、こと報道番組に関しては、映像が有るかないかの違いぐらいだもんね。」
 カエは黙って肩をすくめただけだったが、カヤが再び私の方を向いてこう言った。
「まあね。news だって sports(スポーツ)の試合だってね。fencing(フェンシング)の試合ぐらいかな、radio でちょっと難しいのは。」
「でも、シネマとかアニメーションをテレビで見れないのが残念だね。」
 私がそう言うと、その隣りで茶を飲みながら本を読んでいたヤエが、本を見たままでこう言った。
「大丈夫。月に一度 film (映画のフィルム)積んだ船が回って来るから。」
 カヤは、微笑んでこう言った。
「若い頃、シロサワの『八人の侍』見たよ。」
 カエも嬉しそうに言った。
「日本の animation、あたし大好き!」
 感動した私は、やや目を見張ってこう言った。
「おー! そうかー! あなたたちなら日本映画の下に出て来る英語の字幕読まなくても、耳で聴いただけでわかるもんね。それで近頃の日本の言葉も知ってるんだ!」
 ヤエは本から顔を上げると、私に向かって微笑んで言った。
「そういうこと。」
 私の向かいの席のカヤが、それを補足するようにこう言った。
「今世紀に入ってからのあたしたちは、英語は普通に喋れるようになってたけど、その代わりに徳川時代以降にあんたの国が中国から取り入れた言葉は、ほとんど知らずにいたんだ。でも、それじゃ駄目だって当時町長だったカイ婆ちゃんが言った。長澤先生たちが話す言葉との、ずれを感じたそうでね。
それで、太平洋戦争が終わった頃から Hawaii で日本の子供用の古本買って来ては、各家々で回し読みするようにして、今の日本語を学んだのさ。」
 私は、やや怪訝そうに尋ねた。
「なぜ子供用の本なんですか?」
 カヤは、また微笑んで言った。
「子供用の本には漢字に振り仮名が付いてるだろ? あれには重宝したよ。」
 私は、また感心して言った。
「なるほど……。その当時の古本なら、全部歴史的仮名遣いだろうしねぇ。」
 カヤは言った。
「そう。Radio のshort wave(短波放送)で日本語は聞けるけど、書き方は本じゃなけりゃわからないからね。」
 私は納得して言った。
「そうですよね、日本の国営放送も海外向けに電波を飛ばしてるし、外国局の日本語放送もあるし。それに本が加われば、立派な教材になりますよね。」
 私は続けて、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「婆ちゃん、この町ではハワイという言葉をよく耳にするけど、国際情勢を探るために人を派遣する場所が、なぜハワイなんですか?」
 カヤは、それに答えた。
「Hawaii は、この国のとはちょっと違うけど、やっぱり English が通じる。United States のことはもちろん、日本人も多いんで、日本の事情もある程度知ることができるからさ。……United States ってわかるだろ?」
「ええ。アメリカのことでしょ?
それじゃ、今まで日本に直接人を遣わしたことはあるんですか?」
「うん、数はあまり多くないけどね。近頃では、カイ婆ちゃんの前の町長のときに一度行ってきたらしいよ。『近頃の日本軍の力の付け方と政(まつりごと)のやり方は余りにも変だわ。様子見て来てちょうだい!』って。」
 私は黙って頷き、興味深くその話しを聞いた。しかしカヤは、やや困った表情になってこう言った。
「でもその人たちはね、日本に行ったはいいけど、すぐに帰ってきちまったんだって。『男尊女卑』や『軍国主義』、『年功序列』の世相に厭気がさしたもんで。
そして、その人たちは言ったそうだ。『今の日本は自然の流れから外れた、一時の栄えじゃ』ってね。その一言を耳にしただけで、この島の者はみな、それがどんな状態で、その後がどうなるかがわかってしまうんだ。」
 私はまた黙って頷き、カヤは話しを続けた。
「日本はその後間もなく、大義名分の立たない戦争をおっぱじめて、世界の中で孤立していっただろ。その情報を耳にしたその人たちは、また町長に言ったとさ。『あの戦(いくさ)の理に神意なし』って。そして、町長がカイ婆ちゃんに変わって数年後のことさ。」
 カヤは悲しそうな表情で私の顔を見ると、首をゆっくりと横に振りながら、握った右手の拳(こぶし)をパーッと開いて上に上げて見せた。
 ラジオの充電が切れたようで、スピーカーの音は次第に小さくなり、やがて消えてしまった。その代わり、カヤの背後に見えている椰子の葉が風にそよぎ、ザーッという大きな音を立てた。私は真剣な表情になって尋ねた。
「なるほど……。東京を始めとする主要都市への念入りな空襲と、二つの原爆の投下によって、それまでの日本の繁栄は灰燼に帰してしまった……。」
 カヤも真剣な表情で言った。
「その通り。」
 私は、やや不安になったので、こう尋ねてみた。
「それじゃ、今の日本の繁栄振りは、どうなんでしょう?」
 カヤにしては珍しく、ちょっと言いにくそうにして言った。
「……うーん、あんたにこんなこと言うのもなんだけどね、あたしらからすれば、やっぱり『一時の栄え』としか言えないね。」
 私は確かめるように言った。
「ということは、一時に衰える?」
 カヤは真剣な表情で言った。
「このまま何も手を打たなけりゃ多分そうなるだろう。その兆(きざ)しは、もう出て来てるから。」
 私はやや目を丸くして言った。
「え? 『バブルの崩壊』のことですか?」
 カヤは首を横に振って言った。
「いや、その程度のことじゃ済まないよ。」
 私は重ねて尋ねた。
「それは、なんですか?」
 カヤはまた、言い難そうにして言った。
「……あんたの国の政(まつりごと)の頭(かしら)、即ち prime minister(首相)がだね、昔日本が攻め込んだ周りの国の人たちの厭がるようなことを、ちょこちょこ繰り返してやってるだろう。それがその兆しさ。」
 私はちょっと考えると、彼女の言っている意味がわかったので、やや納得して言った。
「……ああ、あの小根隅(こねずみ)首相の行動ですね。……なるほど。」
「『やめてくれ』って言われても、『不戦の誓いだ』とか『心の問題だ』とか『中国や韓国の言うことを聞く必要はない』とか言ってるだろう?」
「ええ。」
「もし、Germany(ドイツ)のシュショウという役職に現役で就いている人間がだよ、公の立場であれ私の立場であれ、その理由がなんであれ、Nazi(ナチス)の行為を讃えるような場所に参拝したら、どういうことになるかわかるだろう?」
 私は苦笑いして言った。
「そんなことは、ドイツ国内でさえ法律違反なんだろうし、『ドイツは一体何を企(たくら)んでるんだ』って、イスラエルや周辺各国が、俄かに緊張するでしょう。」
 カヤは、やや俯き加減になると、大きな目で私を見て言った。
「そうだろう。もし本当に『不戦の誓い』をするんなら、戦争によって傷付けられた国の人々にも配慮して当然なのに、それをせず、戦争を讃えるような場所に参拝してる。」
 顔を上げた彼女は、真剣な表情で私をまっすぐ見ながらこう尋ねた。
「あの神社には、誰が祀(まつ)られてるんだい?」
 私は、彼女の背後の紺碧の空に目を移してしばらく考えてから、そのカヤに向かってこう言った。
「……うーん、確か、軍人とか軍属が中心だったように思いますけど。」
「そうだろ? 戦争の犠牲者全てが祭られてるんじゃなくて、国のために戦って死んだ人だけのための場所なんだろ? 『不戦の誓い』とか言うんなら、敵だった国の犠牲者に対して敬意を払っても良さそうなのに、そういうことは一切してない。
そうするとこれはもう、首相の『心の問題』じゃなくて、『態度の問題』になるよ。」
 その言葉に納得した私は、頷いてからこう言った。
「……そうですよね。『不戦の誓い』なんて言っても、その態度に対するちゃんとした説明になってませんから。あの神社に祀られてる人の遺族が個人的にするならともかく、現役の政治家があそこに参拝するってことの意味は、なんと説明しようとも一つしかありませんよ。」
 彼女は、やや興奮して言った。
「そう思うだろ? もし仮に、『心の問題』って言うんならね、日本が起こした戦争によって今も消えぬ、周りの国々の人たちの『心の傷』を土足で踏み付けて、わざと広げてるんだよ、あの人は。これわかるかい?」
 私は、深く納得して言った。
「うーん、そうですよね。戦争が終わってから、せっかく理性的な時代が来るかと思ってたのに、また暴力的で頭の良くない時代に戻そうとしてるような……。」
「そうさ。これはどう見たって、戦争復活の可能性だよ。」
 カヤはそう言って、北の空にちらっと目配せすると、私に向かって話しを続けた。
「……それからね、おかしいのはこの首相だけじゃない。……constitution のこと、日本では何て言ってるんだっけ?」
「憲法ですね。」
「そうそう。その憲法を変えようとしたり、学校で子供に国を愛する態度とやらを教え込もうとしてるだろ。」
「ええ、してますね。」
「愛することってのは確かに良いことだよ。」
 そう言ったカヤは、自分の目の前に右手の人差し指を立ててこう言った。
「但し。」
 そして彼女は、その手で自分の背後の青空を示しながらこう言った。
「それは、人から押し付けられてするものじゃないよ。あんた、『俺のことを愛さなければいけない』なんて、自分から言ってくるような人のことを、心から愛せるかい? カカシ。」
 私は眉間に皺を寄ると、なかば吐き捨てるようにこう言った。
「愛せませんよ、そんな人。気持ち悪い!」
 そして、苦笑いしながらこう付け加えた。
「そんなこと言われれば言われるほど、その人のことが嫌いになるでしょうね、多分。」
 カヤは、大きな目を更に見開いてこう言った。
「そうだろう? 町や国だって同じことさ。この町には数多くの厳しい掟があるけどね、『町を愛せよ』なんていう、人の心まで縛り付けるような言葉は、その中に一言も入ってやしないよ!」
 そして彼女は、真剣な表情になってこう言った。
「だけどね。この町の者は誰もが、自分の住む町のことを愛してるはずだ。
それは国だって同じことさ。強制なんかしなくっても、国民から素直に愛されるような素晴らしい国をつくっていくことが、本当の政治ってもんだろう?」
 私は感心しつつ、頷いてこう言った。
「全くその通りだと思います。」
 彼女は、北の空にちらっと視線を向けると、やや重々しい口調でこう言った。
「今この時期に、国を愛することをわざわざ法律に盛り込もうとしてるってことはだね、日本政府が国民から愛されなくなるようなことを、何か企んでる証拠だよ。気を付けな。」
 さすがこの国の政界の黒幕だけあって、彼女の政治に対する見極めは卓越している上に単純明快だ。私は驚きの表情で言った。
「なるほど! そう言われるとそうですね! 今回は法案として成立こそしませんでしたが。」
 彼女は、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せてこう言った。
「こういうことは、あんたの国の中から見るとどう見えるのか知らないけど、外から見てるとね。上辺は新しい言葉で飾ってても、中身は昔に戻そうとしてるんじゃないかって見えるけどね。」
 私は唸って言った。
「……うーん、なるほど、そういう見方もできますよね。」
 彼女は、やや呆れたような表情になってこう言った。
「これからは、世界の人々が国や民族や宗教の違いはあっても、お互いに尊重し合い仲良くしていって、最後にはその垣根を取り払おうって方向で動き始めてるのに、なんでそっから後戻りしようとするのか、あたしにはさっぱりわからないよ。」
 日本国民の一人として恥ずかしくなった私はこう言った。
「日本の政治家たちは、何かの模倣(もほう)をしたり、昔のものを復活させたりするのは得意でも、新しいことをするのがどうも苦手なようですね。」
 そして、その恥ずかしさから逃れるようにこう付け加えた。
「その例外も、あるようですけど……。」
 カヤは、その私に向かって興味深げに尋ねた。
「ほう、その例外って?」
 今度はやや自信ありげに微笑だ私は、カヤに向かってこう言った。
「それはいくつかありますが、近頃のことで有名なことでは、まずなんと言っても明治維新ですよ。」
「ほぅ。」
 カヤが興味深げに相槌を打ったので、私はその説明をした。
「フランスにはフランス革命、ロシアにはロシア革命という、どちらも有名な革命がありますけど、明治維新はそのどちらとも性質の異なる、日本人特有の発想による改革で、これは間違いなく世界に誇れるものだと思ってます。ある一面では王政復古ですが、ある一面では憲法も制定したわけだし。」
 カヤは納得したように言った。
「なるほどね。その前後各地で小さな内戦はあったようだけど、明治維新そのものは内戦じゃなかったもんね。」
 私は、やや興奮して言った。
「そうなんですよ! むしろ、日本が長期間内乱状態になるのを、勝海舟と西郷隆盛が腹を割って話し合った結果、防ぐことができたんです。体制側と反体制側が、互いに権利を主張し合うんじゃなくて、日本という国を存続させるために互いに譲り合った結果、維新という形になったんですよ! こんな素晴らしい革命が、古今東西の歴史の中で果たしてどれだけあるんでしょう!」
 カヤは頷(うなず)いて言った。
「そうだよね。あの時代、内戦が長期化したような国は、それに乗じて必ず列強諸国が干渉してきてる。そして最後には分割統治されてしまって、世界各国が次々と彼らの植民地になっていったんだから。」
「そうなんですよ。」
 私がそう言うと、彼女はこう尋ねてきた。
「それじゃ、今日本で盛んに言ってる『改革』ってのはどうなんだい?」
 短波ラジオのニュースか何かを聞いて、彼女はそのことを知っているのだろう。私はやや顔を曇らせると、沈んだ声でその問いに答えた。
「明治維新に関する文献を読んでいるときのような爽快感は全く感じられませんね。そもそも何のための改革なのかがわからないんで、それを言ってる政治家の腹の中が見えず、気味が悪いですよ。はっきり言って。
だから、さっき婆ちゃんが言ったような、『表向きは改革でも、中身は戦争する前に戻したいんじゃないか』っていうような意見を聞くと、その通りじゃないかって思えてくるんです。」
 カヤは真剣な表情になって言った。
「そうだろう? 国の歴史は人生とよく似てる。人は何かにつまずきながら成長するけど、国だってそれとおんなじだ。
先の戦争で日本は多大な犠牲を払った。こういう失敗はなかなかあることじゃない。だからこそ、その大きな試練を乗り越えて、二度と同じ失敗を繰り返さないように成長することこそ、あんたの国に与えられた特権だと思わなきゃ。」
 私は深々と頷いた。
「ええ、全くその通りだと思います。」
「戦争でたくさんの犠牲者が出たんだから、その人たちの死を無駄にしないためにも、前向きな発想にならなきゃだめだよ。
日本は、様々な分野で優れた製品をつくることができる優秀な国なんだから、精神もそれに対応させなきゃ。国と国との問題を戦争で解決するってのは、もう昔のやり方。これからは、問題を話し合いによって解決するような、明治維新の精神が必要だよ。」
「そうですよね。それに近いことを思っている人たちは、少なからずいるようですけど。」
 カヤは目を見張って言った。
「ほう、誰だい?」
「広島と長崎を中心にして核兵器の廃絶を訴えている人たちをはじめ、戦没者の慰霊などを通じて戦争を批判している人たちですよ。」
 カヤは納得したように言った。
「なるほど。」
「世界で唯一の被爆国となった日本は、核兵器の恐ろしさを自ら体験し、それを後世に伝えていくことができます。しかも、被爆したことに対する報復をするのではなく、全世界から核兵器そのものをなくそうという考え方で運動してるんです。
これは、世界的に見ても優れた精神だと思いますよ。それを得るための経験が、余りにも悲惨だったことが悔やまれますが……。」
 カヤは、ちょっと考えてから言った。
「……そうか……。その平和運動の精神が、『戦争の廃絶』にまで広げられりゃ、もっといいんだろうけどね。」
 私は目を見張って言った。
「なるほど。地球の存続を目指すために、各国が話し合いによって問題を解決するという運動を展開すると……。」
 カヤは嬉しそうに言った。
「そうさ! 今度は地球規模で『維新』をやるんだよ。その先に立って世界の国々に手本を示せる国は、日本しかないよ!」
 しかし、私は苦笑いするとこう言った。
「……いやー、そう言って貰えると嬉しいですけどねぇ……。
今の日本の与党には、『隣の国と同じ物を持ちたい』、『普通の国になりたい』って思ってる人が多いみたいだから、『国』というレベルで考えると、そういう発想にはならないんじゃないですか。『国際社会と協調するために自衛隊の海外派遣を恒久的に認めるような法律をつくるべきだ』なんて、本気で思ってる人も少なくないみたいだし。」
 カヤは、残念そうな表情になって言った。
「そうか。そう思う気持ち、わからんでもないよ。だって見方によっては、占領軍から『軍隊を持つな』って押し付けられたようにも解釈できるんだからね。でもね、ちょっと見方を変えただけで、マイナスがプラスに転じることだってある。」
 私は怪訝そうに、カヤの顔を見詰めて言った。
「は?」
「ちょっと想像してごらん。何人かの人が海で競泳していたとしよう。その人たちはみな、北を目指して進んでいる。ニホンという名の男は、自分が遅れていることを悔やみながら一番後ろを泳いでいる。ところが。」
 私は聞き返した。
「ところが?」
 カヤはにっこりと微笑んで言った。
「彼の頭にあることがひらめいた。そして彼は大声でこう言ったんだ。『おーい! ゴールは南に変わったぞ!』
そして、にわかに反対を向いて泳ぎだした。最初はそんな言葉を誰も信じなかったが、彼が余りにも真剣に泳いでいくので、一人また一人とニホンの後を追い始めた。そうなるともう誰も彼もが遅れてはならぬと南に進路変更して泳ぎだしたんだ。」
 私はニヤッと微笑んで言った。
「なるほど。ビリがトップに転じると。」
「そう! 今の状況を悔やんだりしてるから、『普通の軍隊を持ちたい』なんて発想になるんだ。そうすれば当然軍事費が増える。増税によってそれを負担するのは国民だ。そんな回りくどいことせず、世界中のすべての国が日本と同じ平和憲法を持つようにすればいいんじゃないか。そうすりゃ、そのうちどの国も軍備縮小するんで、自衛隊だって必要なくなるかもしれないじゃないか。」
「そうなんですよね! ところが今の政府の動きを見てると、日本はこれからまた同じ過ちを繰り返しそうな気がしますよ。」
「どうせ思うんなら、『隣の国にできないようなことをしよう』と思ったり、『普通よりも優れた国になろう』と思ったりして、国際社会とやらがどうであろうと、自分の国の良い部分をしっかりと守らなきゃ。」
「そうですよね。よそがどうだから、自分のところもそれと同じにしなければならないっていう主体性のない考え方は、日本人特有の発想であって、日本国内では美徳になりますが、外国では逆に、『個性がない』とか『信念がない』ってことになりますからね。
その点、近頃の子供たちが考えることの斬新さ、鋭さに、思わずハッとさせられることがあります。」
 カヤは苦笑いして言った。
「そりゃそうだろう。子供は頭の中に余計な物が入ってないからね……。」
 カヤは、ここでしばらく考えてから言葉を続けた。
「……うーん、なるほどそうか。近頃の日本は物が豊かになり過ぎたもんで、大人たちの多くは、明治維新や核兵器廃絶を思い立った頃のような精神状態には戻れないのかもね……。」
 私は、やや残念そうに言った。
「きっとそうなんでしょう。『物が豊かになり過ぎると精神が腐る』というのは、古今東西(ここんとうざい)不変の法則のようなもんですから……。
近頃では、お金を儲けてる人を『勝ち組』、儲けられない人を『負け組』というような、偏った物の見方で分けてるみたいだし。」
 カヤは、やや憮然(ぶぜん)とした表情になってこう言った。
「ふーん、そりゃ日本でお金は必要だろうけど、この国では、そんなものなくたって、こうしてちゃんと生きていけるんだからね。これが負けだなんて、あたしゃ一度も思ったことがないよ。ハハハ!」
 最後は陽気に笑ったカヤは、私の背後に目配せしたので、私はそちらを振り向いてみた。それはこの家の母屋だ。そのどっしりとした木造の建物は、いつの時代に建てられたかわからないほど古く、日本でなら確実に重要文化財に指定されていることだろう。それは、この家の人々を何代にもわたって雨風から守ってきたのだ。
 大体の想像は付いていることだが、前から気になっていたことを私はこの機会に聞いてみることにした。
「婆ちゃん、この国の一人当たりの月収は、どれくらいなんですか?」
 彼女は微笑んで言った。
「そうだね……、Yen(日本円)に換算すると、7万 Yen くらいってとこかね。」
 それは、旅行のガイドブックに書いてある通りだった。私は続けて尋ねてみた。
「それじゃ、この島では?」
 カヤは、引き続き微笑んでそれに答えた。
「うーん、3万ぐらいかな……。」
 私は、やや目を見張って言った。
「ほう! 何となく想像してましたが、やっぱりそうなんですか!」
「うん。でも、それはあくまでも現金収入のあるもんの平均だ。この家だと、家族全員の月収全部合わせても、8万を切ってるんじゃないかな。もちろん町長のアミの分をも含めて。」
 私は、思わず仰天すると言った。
「えー!? 爺ちゃんと婆ちゃんを除いても大人は七人いますよね。その合計が月8万以下ってー!?」
 カヤは依然として微笑みながら言った。
「ああ、そうだよ。それでも、家計は毎月少しは黒字だよ。」
「貯金が増えてるってことですか?」
 カヤは、ニコニコして言った。
「うん。」
「それは何に使うんですか?」
「船を買い替えたりとか、医療費とかだね。」
 私の右隣に座っていたヤエが、私に向かって尋ねた。
「それじゃ、カカシはどうなの?」
 私は笑って言った。
「ハハハ、俺は日本だと、誰からも信じてもらえないほど低収入なんだよ。当ててみな。」
 ヤエは微笑んで言った。
「10万 Yen 。」
 私も微笑んで言った。
「もっと下。」
「7万。」
「まだまだ。」
「5万。」
 私は声高らかに言った。
「当たりー!」
 それを聞いたカヤは、大きな目を更に大きくして言った。
「おぉー! 日本でそれだけでやれてるってのは、大したもんだよ!!」
 お金儲けをしないカヤだが、世界経済のことについては意外にも明るく、日本を始めとする国々の為替レートや物価の変動の最新の情報を詳しく知っている。
 ヤエの右隣りに座っているカエが言った。
「倹約 Olympic(オリンピック)ってのがあったら、カカシはきっと Gold Medal(金メダル)取れるよ。」
 それを聞いたその場の一同は、みな大笑いした。私も同じように笑っていたが、やがて少し真面目な顔になると、カヤに向かってこう言った。
「確かに、日本で無一文だと生きてはいけません。でも月に5万円もあれば、私のように小さな自家用車を持ち、安い焼酎で毎日晩酌してても、ちゃんと生きていけるんです。無駄遣いせずに、上手に遣(や)り繰りさえしてさえいればね。
話しを元に戻しますが、そういう生活に慣れてしまうと、必要以上のお金を得ることで、勝ったの負けたのって血相変えてる人たちが、気の毒になってしまいますよ。国と国とでも同じことかも知れませんね。」
 カヤも真面目な顔になって言った。
「そうだよ。……でもまあ、ごく普通の考え方の人からすれば、自分の国が周りの国々に負けたくないって思う気持ちはあるだろう。それなら、もっと日本の得になるようなことで張り合えばいいのに。例えば宇宙進出で中国を追い抜くとか、映画産業で韓国を追い抜くとか。
ところが、さっきの首相のように、ただ相手の心の古傷を広げるようなことを繰り返してりゃ、日本は一つも得しないどころか、そのたびに、日本の不利益になることをさせる口実を、相手に与えることになるんじゃないか。日本は、これでどれだけ損してるかわかんないよ。」
 私は思わず唸った。
「うーん、そう言われてみると確かにそうですよね……。なんだか、あまり賢くないような……。」
 彼女は、それ見ろというような表情で言った。
「そうさ。」
 そして、また真剣な表情になるとこう言った。
「仮に、周辺諸国の意向を無視することによって、日本の主権を内外に示すのが目的だとしたら、もっといい方法があると思うんだけどね。まあ、やり方が余りにも露骨だから、やるだけやって内外の反応を見るっていうのも、その狙いの一つなのかも知れないけど。」
「なるほど……。それによって、どこまで右寄りになれるかとか、国内の左翼の活動家を洗い出すとか。」
「そうさ。その点、日本の左翼は賢いよ。これだけ一挙に右寄りになろうとしても、まだじっとしてるんだから。もし、この国で同じようなことが起きたら、それこそもう国中でデモの嵐が吹き荒れるよ。」
 私は苦笑いして言った。
「わざと黙ってるんじゃなくて、言いたくても言えないんじゃないですかね。」
 カヤは信じられないというように、大きな目を更に丸くして言った。
「そんな驢馬(ろば)みたいな左翼、あるわけないだろう!」
 私は苦笑いして言った。
「いやー、学生運動が盛んだった頃ならいざ知らず、今の日本人はどうかなぁー……。お金持ちは、主義主張のためにデモなんかしないだろうし、貧しい人たちは自分が食べるのに精一杯で、そんなことしてる余裕がないだろうし……。」
 カヤは、やや深刻な表情になって言った。
「そうか……。それじゃ、領土や領海の問題について、日本の人たちはどう考えてるのかい?」
 私は、やや投げ遣りな口調でこう言った。
「きっと、『自分の国の領土や領海は、多ければ多い方がいい』ぐらいにしか考えてない人が、ほとんどなんじゃないですかね。」
 彼女は、更に深刻な表情になると、こう言った。
「ふーん、そりゃいよいよ危ないねぇ……。
仲の良い者同士が、一つの pie(パイ)を分け合って食べる。ここからそっちはあんた、ここからこっちはあたしってね。これは互いに譲り合って何とかなる。ところが、仲の悪い者同士では、譲り合うことができない。自分の言いたいことだけ言って終わり。それならまだ良い方で、話し合いをすることさえ難しくなってくる。」
 彼女がなぜ、領土問題にまで言及したのか、この言葉によってようやくわかった私は、目を丸くしてこう言った。
「なるほど、そうか! ソ連が一方的に不可侵条約を破って占領した北方領土は別として、今の日本では、首相がわざわざ韓国や中国との仲を悪くしといてから、両国との領土問題を浮上させている。これではまるで、この問題の話し合いによる解決を、わざと困難にさせてるとしか思えませんよね!」
 彼女は、不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「そう! それは正に戦争の兆候だよ。」
 そして、やや悲しそうな顔になって言葉を続けた。
「いいかい? カカシ。『戦争の落とし穴』ってのはね、加速度を加えて大きくなるんだ。そうすると国民全体が、自分たちのやってることを客観的に見れなくなってしまうんだよ。戦争に反対する者は、敵国に味方する裏切り者だっていう論法がまかり通るようになってね。
よく考えてごらん、カカシ。」
 黙って頷いた私は、カヤの次の言葉を待った。彼女は大きな目で、ぎょろっと北の空に目配せするとこう言った。
「日本は第二次世界大戦で大変な目に遭った。これをどう見るかだ。」
 私は自分の見解を述べた。
「神に祈れば戦争に勝てるっていう、独善的で傲慢な考え方によって、無謀な戦争を起こしたことに対する天罰が下ったんでしょう。」
「そう、その通り。」
 そして彼女は、また北の空に目を向けてからこう言った。
「でも、もう一つあるよ。」
 私は、しばらく考えたが、その答えが見付からなかったのでこう言った。
「……うーん、わかりませんね。」
 彼女は極めて真剣な表情になると、こう言った。
「それまでの傲慢な宗教観、武家の時代から続いている、封建的で野蛮な社会の変革だよ。」
 その言葉の、ある部分に納得がいかなかった私は聞き返した。
「野蛮?」
 カヤは、こう言った。
「そうさ。思想としての武士道は、確かに一つの美学として捉えることもできるだろう。でも、それには限界がある。『男尊女卑』だとか、『年功序列』といった、封建的な社会の問題点を解決することができないからさ。だから、日本の人がいつまでも武士道にしがみ付いていれば、いつまで経っても日本社会の多くの問題は改善されない。それは結局、女や子供が目上の男に対していくら正しいことを言っても、立場が下だからその意見は通らないってことにもなるじゃないか。それは、はっきり言ってしまえば野蛮なことだよ。」
 私は納得して言った。
「うーん、なるほど。一見、男が実権を握っていれば社会が安定するようにも思えるけど、言い方を変えれば、それによって正義が封じ込められてしまうこともあると。」
 カヤは勢い良く言った。
「そう! その通り!」
「敗戦は、それを変革することのできる、絶好の機会になったと。」
「そう! こんなことは、滅多にあることじゃないよ。でも、この機会を逃したら……」
 私は身を乗り出して聞き返した。
「逃したら?」
 カヤは、やや上目遣いになってこう言った。
「……この機会を逃して、男の物の考え方で政治を続けてりゃ、日本はここ何十年かのうちに、また戦争するよ。」
 私は思わず息を呑んだ。
「……夢で見たんですか?」
 彼女は首を静かに横に振ってから言った。
「いや。もし、あたしたちの夢に日本の焼け野原や降伏の様子が出てきたら、そのときはもう終わりだよ。」
 私は、ホッとして言った。
「それじゃ、軍隊を持って戦争すると断言はできないんですね。」
 カヤは一転して、何を言ってるんだという顔になって言った。
「軍隊は、もうあるじゃないか!」
 一方私は、きょとんとして言った。
「え?」
「あんたがさっき言ってた『自衛隊』さ。あれは外から見りゃぁどう見たって軍隊だよ。」
 私は思わず照れ笑いしてしまった。
「ハハハ、そうなんですか?」
 カヤは眉を寄せて言った。
「『ハハハ』じゃないよ。現に自分の国を守るだけじゃなくって、陸上自衛隊が Iraq(イラク)に武器持って行ったじゃないか。本当に復興を支援するだけなら、武器なんて要らないはずだろう?」
「……なるほど、そうですよね……。これじゃ『自衛隊』とは名ばかりで、日本の憲法第九条なんて、あってないに等しい。」
 彼女は大きく頷いて言った。
「その通り。今のあんたの国を引っ張ってる人たちは、国にとって絶対的であるはずの憲法に対してそういうインチキ臭いことをしてる。しかも、さっきも言ったように、首相までが自分の行動の真意に対してインチキ臭い説明をしてる。だから、企業や一般の若い人たちまで、そういうことを真似するようになってしまうんだ。
これじゃぁ、せっかく社会を変革する機会があったのに、それが水の泡になっちまうじゃないか!」
 私は、記憶の中を探りながら言った。
「……そう言われてみるとそうですね。近頃は、法律に対していい加減な企業がどんどん増えてきてるし。」
 そして、情けなくなったのでこう続けた。
「……これじゃ日本の国は、たとえ戦争しなくても、このまま放っておいたら滅びてしまいそうですね。出生率が減ったんで、人口も減るようになったことだし。」
 カヤは真剣な表情で言った。
「そうさ。政治が嘘を撒き散らし、社会が嘘で塗りたくられていくと、大体その国は滅びるよ。今までの世界の歴史の流れからするとね。」
「え!?」
 驚きのために目を見張り、思わずまた身を乗り出した私に向かって、彼女はこう言った。
「……政治家が国民に対して嘘をつき始めるってことは、国民に腹の内を見せなくなるってことだ。すると国民の潜在意識の中に、『政治家は、いざというとき自分を守ってはくれないんだ』っていう思いが根を下ろす。そうすると国民は、自分を守ってくれる力を、政府以外の者に求めるようになる。
だから、政治家がいくら『国を良くしよう』とかなんとか言っても、それに協力しようとはせず、暴力団のような武装組織に頼るようになってく。そしてその国は内乱状態になって、やがて外国の干渉(かんしょう)や侵略を受けて滅びてしまうんだ。」
 私は困ってしまった。
「うーん、それはまずいなぁ……。」
 彼女は引き続き真剣な表情で言った。
「それを防ぐためにはね、物事の本質を見抜くことのできる大人たちが、各家庭で若い人たちをちゃんと導いてあげる必要があるね。国の将来は、若い人たちの判断と行動によって決まるんだから。それはもう学校教育以前の問題だよ。」
 「大人」という言葉が、この国ではいまだにそれ相応の意味を持っているのに対し、近頃の日本では紙くずのようになっているということを痛感して、私は思わず言葉を失ってしまった。
 カヤは、少ししんみりした口調になって話しを続けた。
「……この国の近くでは、近頃戦争があったんだよ。また、世界中のあちこちには、ずっと殺し合いが絶えない地域もあるよね。
それに比べてあんたの国の周りは、朝鮮戦争より後は、おおむね平和だった。だからね、あたしたちには見えて、あんたたちには見えないことが、いくつかあるんだよ……。」
 このとき彼女の背後の椰子の葉が、やや強い風になびいてザーッと鳴った。私は引き続き注意深く、彼女の言葉に耳を傾けた。
「……冷戦時代、アメリカの軍や政府にとって最大の脅威は、U.S.S.R.(ソビエト社会主義連邦共和国)だった。ところがね、この国が政治体制を改めて、いわゆる共産圏が崩壊してからは、そうじゃなくなった……。どこになったと思う?」
 私は、ためらいがちに答えた。
「……中国、ですか?」
「そう。その通り。でも、近頃もう一つ増えたんだよ。どこだかわかるかい?」
「うーん、ロシアかな?」
「それはさっきも言ったように、以前ほど重視しなくなった。ロシアが国力を盛り返せば、また重視し直すかも知れないけどね。そうじゃなくて、ここ数年の出来事を思い出してみな。」
「……あ、そうか。同時多発テロがあったよな。それならイスラム教徒?」
「いや、近いけど違うね。 Muslim(イスラム教徒)だって穏健な人たちも、たくさんいるんだ。」
「それじゃ、イスラム原理主義?」
「それだけじゃ、アメリカの直接の脅威にはならないよ。」
「うーん……国際テロ組織が核武装化すること?」
 カヤは大きく頷いて言った。
「そう! その通りさ! アメリカの権力者が今一番恐れてるのは、急成長をしている中国の経済力とそれに伴う軍事力、そして Islam 教による国際テロ組織の核武装化さ。」
 私は納得して言った。
「……なるほど、どこを意識してかは知らないけど、中国は年々軍備を増強させてるみたいですもんね。でも中国とアメリカが直接戦争をするということは、最大の貿易相手国である双方の利益にはならないから、まあ起こる可能性はかなり低いでしょうけど。」
「今はね。だからアメリカは、そのあいだに位置する朝鮮半島で緊張を高めておいて、中国の出方を窺(うかが)ってるのさ。」
 私は、やや興奮して言った。
「なるほど……。その一方、世界の宗教人口の四分の一近くを占めるとも言われてるイスラム教徒に対して、イスラム原理主義が影響を与え始めている。もし、その影響を受けたテロリストの手に核兵器が渡るようなことがあれば、それはアメリカにとって大変な脅威となることは間違いありませんからね。」
 彼女は、やや困った顔になって言った。
「そうなんだ。あたしは Islam 原理主義の人と直(じか)に話しをしたわけじゃないけどね、あたしの知ってる Muslim ってのは、異教徒に対してもっと大らかだよ。だからこそ、世界中にこれだけ Islam 教が広まって、今も増え続けてるんだろう。
あんたの歳で知ってるかどうかな……、昔、日本の red army(赤軍)が Israel(イスラエル)の Tel Aviv(テルアビブ)空港を襲撃し、多くの人を殺傷したことがあった。」
 私は頷いて言った。
「ああ、知ってますよ。私はまだ子供でしたけど、そのときとても大きな衝撃を受けた記憶があります。」
 彼女は頷きながら言った。
「おぉ、そうだったのかい。」
 そして、また真剣な顔になるとこう言った。
「平和主義を掲げるこの町の町長として、当時のあたしはそれをかなり批判したけど、Arab(アラブ)の急進派の人たちはそれを大いに賞賛し、『日本人は欧米人とは違うんだ』っていう印象を与えた。
ところが、今度のアメリカの9.11事件では、貿易センタービルの中にいた日本人がアメリカ人と同じようにして殺傷された。これは、あたしの知ってる今までの Muslim のやり方とは全く違うよ。」
「そうですよね。アメリカだけではなく、日本人までが攻撃の対象になったんですもんね。イスラム教徒は恩をあだで返すようなことはしませんから。」
 カヤはちょっと意外そうに言った。
「ほう、あんた日本の人なのに、Muslim のこと知ってるのかい。」
 私は真剣な表情になると、声をやや落として言った。
「婆ちゃん、実は私、幼い頃にミドゥル・イースト(中近東)の国の、ある都市に住んでたんです。」
 カヤは、大きな目を更に丸くして言った。
「え!? ほんとかい?」
「ええ。父がその地に転勤になり、私たち家族も後から行ったんです。そして、二年半ほどそこで住んでいるうちに、その都市郊外の難民キャンプが、イスラエル空軍に所属するアメリカ製の戦闘機によって爆撃を受けたんです。」
 さすがのカヤも、これには驚いたようだ。
「へー! そうだったのかい?!!!」
 一方私は、やや残念そうな口調でこう言った。
「ええ。普通の日本人になら、アメリカ製の戦闘機は味方であるのが当たり前なんですが、そのアメリカ製のファントム戦闘機がですよ、私の住む街に爆弾を落としていったんですからね。
『僕は日本人だ! あんたの敵じゃないんだ!』って私が手を振って叫んでも、爆弾は命令通り投下されるんです。大昔のように鉄砲を一発一発丁寧に撃っていた時代とは、わけが違うんですよ。
私は、これが現代の戦争というもので、これが現実なんだと思いましたよ。だから、隣国から飛んで来たソ連製ミグの細長い機体が遥か上空で銀色に輝いたときには、もう小躍りするしかなかったですよ。『援軍が来てくれた!』ってね。」
 カヤは納得したように言った。
「そうか。それであんたは、Middle East の情勢について、日本の人にしてはまだ公平な立場で見れるってことだね。」
「ええ、ごく大ざっぱにですけど。」
「それじゃ、Islam 原理主義の考え方について、あんたはどう思うんだい?」
「彼らの主張の一部は理解できますね。」
 私の方にやや身を乗り出したカヤは、目を見張って尋ねた。
「ほう、どの部分が?」
 私は真剣な表情になってこう言った。
「これは、あくまでも私個人の見方ですからね。その前に少し、このような問題に至った経緯を説明しておきます。」
 彼女は黙って頷き、私はその説明を始めた。
「まず、ユダヤ人とパレスティナ人は元は敵同士ではなかった。東欧から今のイスラエルに戻って来たユダヤ人たちも、オスマン・トルコ帝国というイスラム教国の中で、周辺の人々と平和的に共存していたんです。これは正に、さっき婆ちゃんが言ってた通りなんです。イスラム教徒は、異教徒に対して寛大だったんです。
ところが、第一次大戦でオスマン・トルコが負けてこの地域を手放すことになると、戦勝国であるイギリスの政界財界の一部の人たちが、この地域に対して影響力を持とうとしたんです。そして、アラブ人の国家をつくることと、ユダヤ人の国家をつくることを、それぞれ約束してしまった。
この約束を信じて、ユダヤ民族が世界各地からこの地に集まって来ました。もし、この人たちが普通の移民として入って来て、元から住んでいるパレスティナ人と戦うことなく平和的にイスラエルを建国していたとしたなら、中東問題はここまで拗(こじ)れはしなかったでしょう。」
 カヤは相槌を打った。
「そうだろうね。」
 私は結論を言った。
「ところが、そのユダヤ人たちの建国の仕方が武力によるものだったので、イスラム原理主義の人たちはその国家の存在を認められないんだと思います。もしそれを認めれば、異教徒による聖地への武力侵攻、即ち十字軍の行為をも認めることになってしまうんですから。」
 カヤは大きく頷いて言った。
「そうなんだよね。Jewish(ユダヤ人)のZionism(シオニズム)は、長いあいだ国を持てなかった彼らの悲願なんだと思うよ。だから、それそのものは決して悪いことじゃないと思う。だけど、いくら立派な大義名分があったとしても、それを武力によって行なってしまえば、ただの侵略と何の変わりもなくなってしまうんだよね、土地を奪われた方の立場からすれば。だから、何百年も前の十字軍による侵略と同じことだって思われても仕方ないよね。」
 私は真剣な表情でこう言った。
「イスラエル軍は、パレスティナの抵抗組織だけでなく、女子供を含めた一般の民間人をも殺傷しています。イスラエル政府は、表向きにはそういう行為を批判していますが、現実はそうではないんです。そのような殺戮の後押しを行なっているのが、今はアメリカという超大国なんです。
家を追われた罪のない難民に対して爆弾を落としたイスラエルと、その後押しをしているアメリカ。これらは当時の私にとって、世界中で最も信用できない国となりました。
しかも、世界の多くの国々の首脳は、正規軍による戦闘は合法的で、それに抵抗する民兵による闘争は『テロ』と呼んで『卑劣だ』と言っている。その人たちは、国家や軍隊を持つことさえ許されていないパレスティナで起きている悲劇の実態を知らないか、アメリカ政府に逆らうのが怖くて、知ってても知らぬ振りをしてるんです。
私に言わせれば卑劣なのはテロの側ではなく、正規の軍隊や核兵器を持って弱者を踏み付けている国々の側なんですよ。」
 彼女は頷いて言った。
「そうだよね。まず自分の国の軍隊と核兵器をなくさなけりゃ、他の国や組織に対して terrorism(テロ)や核開発を非難する資格はないよ。」
 そしてカヤは、北東の空を左手で示してからこう言った。
「今回の事件は、Israel やアメリカの軍隊がしていることと本質が似通ってる。」
「そうなんですよ。しかも、その後でアメリカの大統領は『テロとの戦い』だとか言って、アフガニスタンのタリバン政権とか、イラクのフセイン政権に対して戦いを仕掛けてる。
それが、日本の陸上自衛隊に武器を持たせて戦地に赴かせるという既成事実作りの、恰好の材料にされてしまったことだし。」
 カヤは苦笑いして言った。
「まあ、これによって誰が一番得したかを調べてみれば、事件の真相が少しは見えてくるよ。」
 私も苦笑いして言った。
「アメリカの自作自演とか? 何のために?」
 カヤは、やや真剣な表情に戻って言った。
「戦争の口実作りだよ。」
 私は頷いてからこう言った。
「なるほど・・・
千年も前からイスラム教に圧倒され続けていた、ヨーロッパのキリスト教徒とユダヤ教徒は、五百年前偶然にもアメリカ大陸を領有することで勢いを取り戻した。ところが、今度はもうどこにも行き場がないんで、イスラム国家そのものを占領して思い通りにさせようとしているんですね。でもそれは、イスラム教をより結束させて強化させることになりますよ。」
 カヤは、やや目を見張って言った。
「へー、あんた、さすが Middle East(中東)に住んでただけのことはあるね。国際情勢をその角度から捉えられりゃ大したもんだよ!」
 私は照れ笑いして言った。
「ハハ、いやいや。世界の歴史地図を見てると、オスマン・トルコ帝国の拡大から逃れるようにして、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスといったヨーロッパ大陸の西側に位置している国々が、次々と世界各地に出て行って植民地を設けてますから。それで、何となく閃(ひら)めいただけですよ。」
 カヤも笑って言った。
「ハハハ、なんだそうだったのかい。でもまあ、いずれにせよ、あんたの言う通りさ。Islam教っていう宗教はね。その教祖が生きてた頃から弾圧を受けてて、それを戦いによって克服して教団を成長させるっていうことが、ちゃんとできるような仕組みになってるんだ。だから Christian が、後から生まれた Islam 教を押さえ付けるってことはね、極端な言い方かも知れないが、結果的に lion(ライオン)の子を崖から落として、より強く成長させてるようなことになるなのさ。」
 ここで真剣な表情に戻ったカイは、ちょっと意味ありげに言葉を続けた。
「……それにね、アメリカが世界の中心だと思い込んでる人が日本には多くいるみたいだけど、それはここ百年くらいのごく短いあいだのことだってことを、知る必要があるね。」
 私は、やや諦めたような口調で言った。
「戦後の日本の経済も文化も、アメリカなしでは語れないんですから、それは仕方ないことですよ。」
 それに対してカヤは、やや愁(うれ)いを帯びた口調でこう言った。
「いや……、あんたたちのことを思って言うんだけど、これは『仕方ない』では済まされないことだよ。」
 私は少し驚いて問い返した。
「え?」
「日本の国の人は、国際情勢を産業や経済や軍事の面だけで判断する傾向が強いようだ。確かにそれも必要なことだよ。でも、Iberia(イベリア)半島Balkan(バルカン)半島、そして Palestine で、千年以上も前から、たびたび繰り返されてる戦争の本質を見落とすと、そのうちとんでもない落とし穴に落ちるよ。」
 私は、彼女が何を言わんとしているのかがすぐにわかったので、納得して言った。
「うーん、なるほど。」
 そして今度は苦笑いすると、カヤに向かってこのように言った。
「婆ちゃんは驚くかも知れませんけど今の日本では、十字架の前で夫婦の誓いを交わしておいて、死ねば仏教のお経を上げてもらうことが当たり前になってるんです。」
 それを聞いたカヤの方が、今度は目を丸くして驚いた。
「え!? 宗教に対して、そこまで無関心になってるのかい?!」
 私は笑って言った。
「ハハハ! 一神教を信じてる人からすれば信じ難い宗教観かも知れませんけど、今の日本人にとって神様は『八百万(やおよろず)』いるんです。もちろん、この数は比喩的なものなんでしょうけど、キリスト教の神様も、お釈迦様も、その中にきっちり収まってるってわけですよ。だから、私たちにとってこのような行為は、全く矛盾してないんです。」
 カヤは、やや表情を和ませて言った。
「うーん、……まあ、宗教の名によって世界各地で血が流されてることを思えば、平和でいいことなのかも知れないけど……。」
 そしてまた真剣な表情になると、彼女はこう言った。
「それならあんた、Islam 原理主義による武装組織、理論上は宗教を否定してる共産党の中国、そしてアメリカっていう三つの勢力の中で、日本はどういう立場に立ってるかわかるかい?」
 私は考えながらその問いに答えた。
「……うーん、イラクに自衛隊を派遣したってことは、アメリカに対する協力も兼ねてるし、さっきの話しに出た小根隅総理大臣の行動は明らかに中国などに対する挑発も兼ねてるし……。……結果的にかなりアメリカ寄りですよね。」
 カヤは苦笑いして言った。
「結果的にじゃなくて、意図的にだよ。」
 私は目を丸くして尋ねた。
「え? 意図的?」
 彼女は大きく頷いて言った。
「そう! あんたたちの目から見ると全てがばらばらで偶然に映るのかも知れないけど、外から見てるとね、小根隅首相のこれまでの言動は、渤海共和国による拉致問題を浮上させたことから始まって、全てが一貫してるよ。」
 私は更に驚いた。
「え?! 拉致問題も、このようなことに関係あるんですか?!」
 カヤは、また真剣な表情になって言った。
「これは、あたしの独断と偏見だけど、大ありだよ。」
 私は思わず身を乗り出し、カヤは話しを続けた。
「この問題があるってことは、関係者のあいだでは既に明らかになってることだったそうじゃないか。ところがつい最近、首相本人が突然渤海共和国に乗り込んで行って被害者の一部を連れ戻した。それによって、一般の国民もこの問題があるってことを知ることになった。ここで最も重要なことは、渤海共和国っていうあの国の総書記がだよ、拉致事件の存在をちゃんと認める発言までしたってことなんだ。」
 私は、嬉しそうに目を見張って言った。
「そうでしたよね! あれには驚きましたよ。あの国が、自分たちの非をはっきりと認めたんですからね!」
 カヤも、やや微笑んで言った。
「そうだろう? もし、この問題を解決しようとする意思が渤海共和国側になかったら、その問題の存在をはっきりと否定してたはずだよ。だから、あのまま順調に行けば、拉致問題だけじゃなくって、東アジアの情勢は今とは全く違ったことになってただろうね。日本はその和平に貢献したということで、各国からもっと信頼を得ていただろうし。」
 彼女は、再び真剣な表情になってこう言った。
「ところが。」
 私も真剣な表情になって聞き返した。
「ところが?」
 彼女はこう言った。
「その進展の仕方に狂いが生じてきた。首相は被害者を一時帰国させるという約束を総書記とのあいだでわざわざしておいてからだよ、今度は、それをわざわざ破棄して被害者を帰さなかったじゃないか。」
 私は、困ったように眉を寄せて言った。
「そうでしたよねー。なんで、一時帰国なんていう中途半端な約束をしたんでしょうかね?」
 カヤは、大きな目を更に見開いてこう言った。
「そう思うだろう? 本当に被害者とその家族のことを考えてるんだったら、一時帰国なんかじゃなくて、完全に帰国させるような約束をしなけりゃ。総書記が拉致問題の事実を素直に認めて、その一部の人たちの帰国さえ認めたんだから、あの時点ではむしろそれはいとも簡単にできたはずだ。あたしゃ、これでよくわかったよ。日本の首相が、わざわざ被害者の一部だけを渤海共和国から連れ戻したのは、拉致問題を解決するためだけじゃなかったってことが。」
 私は自分の耳を疑った。
「え!?}
 カヤは、深刻な表情で話しを続けた。
「日本の首相が総書記との約束を反故(ほご)にして、被害者を渤海共和国に返さないっていう不誠実な態度をした上に、その後渤海共和国の船の入港を拒否するような強硬な態度に出た。その上、この事件に関わった犯人の引渡しまで求めた。……この後どうなったか、あんた覚えてるかい?」
 私は、彼女の背後で風にそよいでいる椰子の葉を見詰めながら、しばらく記憶の中をさまよっていたが、間もなくこの問題で非常に重要なポイントを思い出したので、再びカヤの顔に視線を戻してそれを言った。
「あ! ……そういえば、それによって渤海共和国側も、途端に態度を硬化させてしまいましたよね!!!」
 カヤは悲しそうに言った。
「そうだよ。渤海共和国政府としては、この問題をこれ以上明らかにすれば、自国への風当たりが更に強くなると判断したんだろう。また、もし総書記本人がこの問題を直接指揮していたとしたらどうすると思う?」
「いきなり犯人の引渡しなんかを要求すれば、自分の身の安全を守るために当然それを拒否し、この問題に幕を引こうとするでしょうね。」
 彼女は、珍しくやや興奮して言った。
「そうだよ! 引渡しを求めるんだったら、なんと言ってもまず拉致被害者全員の引渡しが最優先だよ!」
 私は真剣な表情になると、なかば独り言のように言った。
「……そうか、真相の究明を焦った余り、問題の解決をかえって困難にしてしまったと……。」
 カヤは、黒い瞳で私を真っ直ぐに見るとこう言った。
「そう! だから、あのときの首相をはじめとする政府の対応には大きな誤りがあったね。そりゃ、こっちが本当に困ってるんだってことを示すには、対話だけじゃなくて圧力も必要だと思うよ。でもカカシ、よく考えてごらん。」
 私は身を乗り出して、彼女の次の言葉を待った。
「喩(たと)えが悪いかも知れないけど、あんたも子供を育てたことがあるそうだから聞くけどね、盗みをした子供が自分のしたことを正直に白状したとき、あんたならどうする?」
 彼女のその問いに、私は即座に答えた。
「決まってますよ。とにかく、まず正直に白状したことを褒(ほ)めてやる。そして、盗みは悪いことなんだと教えてから、盗んだ物をどこに隠したか聞きますね。そうすると、子供は必ずそれも正直に白状しますよ。きっとまた褒められるっていう希望があるから。子供をそういうふうに誘導するのが親の技と言うか、悪知恵というか……。」
 彼女は、一瞬微笑んでこう言った。
「そうそう。それじゃその反対に、正直に言ったのに叱るとどうなる?」
「その子は、それから悪いことをしても、嘘をついて必ずそれを隠そうとするでしょうね。」
 カヤは、再び興奮してこう言った。
「そうなんだよ! 一国の指導者を子供に喩えるのは失礼なことだけどね、これじゃまるで、総書記との話し合いが直接できない雰囲気を故意につくり出したようなもんじゃないか! だから、その後の渤海共和国は、偽物の遺骨を返還するなんていう、日本を馬鹿にしたような態度を取るようになってしまったんだよ!
そして、それ以後渤海共和国側は、何を言われても一貫して『拉致問題は解決済みだ』を繰り返すようになり、日本の首相本人もこの問題を解決しようという姿勢を全く見せなくなってしまっただろう? 口先では『問題解決に向けて努力する……』なんて言ってるけど。」
 私は深刻な表情になると、やや声を落としてこう言った。
「……うーん……、すると、もしかして首相が何か企んでるってことなんですか?」
 カヤは、ちょっと言い難そうにしてこう言った。
「……そりゃ日本政府には、この問題を解決しようとする意思があって当たり前なんだろうけどね、でもこの問題に関する今の首相の腹の内は、拉致被害者家族の意向と必ずしも一致するものじゃないと思うね。」
 彼女は、極めて真剣な表情になると、やや声を低くしてこう言った。
「……こんなこと、日本国民のあんたに言うべきことじゃないかも知れない。でも、気が付いてるのに言わずに黙ってるのも不誠実だから言うんだけどね。
国民を納得させて軍隊を持つためには、それ相応の『敵』が必要だ。あんたの国の今の首相は、どうもその『敵』を拵(こしら)えようとしてるみたいだ。首相にとってはむしろ、そっちの方が大事なんだろう。」
 ここでカヤは、何かを思い出したようにこう言った。
「……そうそう。さっきも言ったけど、日本も各国に倣って、Iraq(イラク)に自衛隊を送っただろ、憲法違反に等しいようなことまでして。そこまでするのには、いくつかの理由があったと思うけど、もしこの地で自衛隊が攻撃されて死者が出れば、『自衛隊が海外での治安維持のために武器を使うようにできる法律をつくれ』っていう国内での世論が高まってくる。日本の右派政権が、それを望んでたってことも大きいだろうね。」
 私は目を丸くして言った。
「えー!? それじゃ、『日渤共同宣言』以後の渤海共和国との関係悪化も、それと関連してると? そこまでするでしょうかね?!」
 カヤは悲しそうな表情で言った。
「Iraq の誘拐犯人が自衛隊の撤退を要求したのに、それを拒否したもんで、人質になってた日本の青年を、結果的に見殺しにしたこともあっただろう。あんたの国の今の首相なら、そのくらいのことは平気でやってのけるさ。」
 カヤの愁いを帯びたその言葉を聞いて、私は愕然(がくぜん)となり、悲痛な声で言った。
「……婆ちゃん、そんなひどい話し、俺は信じたくありませんよ!」
 彼女も悲しそうに言った。
「うん。言ってるあたしだって、本当はそう思いたくなんかないよ。だけど、今の日本の首相の一連の動きを見てると、どうしてもそう思えてしまうんだもん。
……あんた、その国に住んでて気付かなかったのかい?」
 私は悲しそうに言った。
「ええ。」
 カヤは仕方なさそうに言った。
「まあ、あの首相は、かなり口が達者で芝居上手みたいだからねぇ。日本の国の中に居れば騙されても仕方ないよ。」
 そして、やや表情を和ませるとこう言った。
「まあとにかく、任期が切れてあの首相が変われば、東アジアの情勢は、少しは良くなるかも知れないね。」
 私は首をかしげながら言った。
「うーん、どうですかねー、今の首相の後継候補と言われてる人を見てると、どうもタカ派のようだしー……。」
 カヤは溜め息混じりに言った。
「そうか……、そりゃ困ったことだねぇ……。もし渤海共和国との関係がこれ以上悪化したら、一番困るのは今も帰国することができずにいる拉致被害者とその家族なのに……。」
 私も困惑して言った。
「うーん、それじゃ、今までのような強硬なやり方では、この問題は解決しないってことですね?」
「その通りだよ。渤海共和国の総書記が日本側に心を開いたときの状態に戻して、そっからやり直さなきゃ無理だろうね。」
 カヤは再び極めて真剣な表情になると、私を見詰めてこう言った。
「あんた、何か変だと思わないかい?」
 その突然の質問に、私はやや目を見張って聞き返した。
「はぁ? 何がですか?」
 彼女は引き続き私の目を見ながら言った。
「こういった日本の一連の動きに対して反発してるのは周辺諸国だけで、太平洋戦争で最大の敵だったアメリカが、ほとんど何も言ってこないのを。」
 私はそれに同感したので、こう言った。
「……そういえば変ですねぇ。日本の再軍備の動きに対しては、もっと警戒してもよさそうなのに……。」
 カヤは、その大きな目を北の空にチラッと向けてから言った。
「強力な諜報機関を持つアメリカが、こんな日本の企てを知らないわけがない。全てわかった上でのことさ。まあ、見ててみな。冷戦時代以来の布陣を改めるために、Far East(極東)にあるアメリカ軍基地が再編成を始めれば、そのわけがわかるから。」
 私は、やや上目遣いにカヤを見て言った。
「その再編成と同時に、アメリカと軍事同盟を結んだ日本軍が誕生するとか?」
 カヤは不敵な笑みを浮かべて言った。
「フフ、あんたもなかなか読めるねぇ……。その通りさ。」
 そしてまた真剣な表情になると、彼女はこう言った。
「日本の右派政権としては、超大国アメリカのお墨付きを貰って、念願の軍隊を持てるようになる。先制攻撃することができるやつをね。
アメリカとしては、万が一中国や渤海共和国に攻撃を仕掛けたくなれば、それをまず日本軍にさせればいい。そうすりゃ自国の軍隊から犠牲者を出さずに済むし、重要な貿易相手の中国と国交を断絶させずに済むから。更に、Afghanistan(アフガニスタン)や Iraq のような現在進行中の最前線も日本軍に任せられる。」
 私は眉をひそめて言った。
「なるほど……。それで自衛隊を軍隊に仕立て上げようとしている日本の首相は、近頃やたら『日米同盟』を連呼してるんですね……。
日本人としては、外国軍は国内から出てってほしいですけど、もし婆ちゃんが言うようになれば、それはアメリカにとって有利なだけで、日本はかなり損することになりますね。」
 彼女はまた、不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「正常な頭ならそう考えるだろう。ところが、どうも違った考え方の人もいるようだね。たかが周辺諸国と同じような軍隊を持つということの引き換えのために、アメリカ軍の移転に掛かる莫大な費用を負担し、顎で指図(さしず)されてアメリカの敵と戦うことに何の疑問も抱かない。そうすると、日本は国際社会からの孤立を深めることになるのに……。」
 私は眉間に皺を寄せて言った。
「いやー、それじゃ困りますよ! アメリカ軍の移転に掛かるお金は、どうせ国民から吸い上げた税金なんだし。
……う~ん、そう言えば、近頃では歳出削減だとか言って、社会福祉や地方への補助金などの予算が削られてるようだし。消費税を上げようか、どうしようかなんていう声も聞こえるしなぁ……。」
 彼女は、それ見たことかというように言った。
「ほら、そうだろう? 政府はもう、その資金調達の算段を始めてるんだよ。こうなれば、一番得するのはアメリカで、次に得するのは日本の右派政権と防衛庁関連企業などの一部の人たちだけ。そして一番損するのは、それ以外で大多数を占めてる日本国民なんだ。」
「うーん、それは困るな……。
でも婆ちゃん、アメリカの占領下で定められた憲法は、改正した方がいいと思いますけどね。」
 カヤは苦笑いして言った。
「そりゃそうだろう。但し、その目的をはっきりさせておかなきゃね。もし、それが自衛隊を軍隊に仕立て上げるためのもんだとしたら、今の国際情勢では、あんたの国の一文の得にもならないんだから。」
 その言葉の意味が、すぐにはわからなかったので、私は思わず問い返した。
「え!?」
 そんな私に向かって、カヤは念を押すように言った。
「今、このときに日本が軍隊を持てば、さっきも言ったように、現実はアメリカの手の中で転がされるだけなんだよ。そうなりゃそれこそ、占領下の憲法に甘んじてるようなことだけじゃ、済まなくなるんだから。」
 私は目を丸くして言った。
「そうか! 今日本が軍隊を持てば、軍事同盟を結んだアメリカが起こす戦争に、必ず巻き込まれるってことになるんですもんね!」
 カイは、極めて真剣な表情になってこう言った。
「その通りさ! 日本の人たちは早くこのことに気が付いて、そうならないように手を打たなきゃいけないよ!」
 私は深く納得すると、独り言のように言った。
「なるほど……。これが、『千年以上前から、たびたび繰り返されてる戦争の本質を見落とした者が落ちる落とし穴』かぁー……。」
「その通りさ。もっと世界の歴史を、広く深く見なきゃ駄目だよ。」
 これは、我が国にとって極めて重大な問題なので、私は思わず唸って言った。
「うーん……、無知なるがゆえに、アメリカのケツにべったりくっついてると、とんでもないことになってしまいますね。」
「そうさ。日本は Asia(アジア)の一員であることを、ちゃんとわきまえなきゃ。アメリカや Europe と肩を並べてるっていう思い込みが、どっかで Asia を見下してて、傲慢になってるんだから。」
「そうですよね。日本の政治家がよく、『アジアのリーダーである日本が……。』なんて言葉を公然と言い放ってるのを聞くたびに、恥ずかしくなってしまいますよ。今の日本のような国じゃ、とても『リーダー』なんて言えないなと思って。」
 カヤは、表情をやや和ませて言った。
「確かに今までの日本は、Europe やアメリカの文化を積極的に取り入れて、工業も経済も Europe 各国やアメリカと比肩(ひけん)するほどの成長をとげてきた。それは大したもんだと思うよ。」
 彼女は、また自分の目の前に右手の人差し指を立てると、表情をやや厳しくしてこう言った。
「但し。」
 そして彼女は、その手で北の空を示してから言った。
「それはあくまでも、産業革命の Europe から受け継がれた、使い捨て文明を模倣するだけに留まってるよね。そんな文明の尻にくっ付いてることだけで Asia の leader(リーダー)だなんて言えば、それは Asia の人々だけじゃなくて、あんたたちのご先祖様に対しても失礼だよ!」
 私は頷いて言った。
「そうですよね。私たちには昔から、物を大事にする思想と文化があるんですから。」
「そうだよ。Asia の leader って敢えて言うんならね、そういう精神的な部分をもっと高めていかなきゃ駄目だね。」
「今のままだと、『どうだ! 俺たちはここまで文明化されてるんだぞ!』って外見だけで威張ってるようなもんですから。」
 カイは、哀れむような表情になって言った。
「もし、実際にそういう感覚の人が多いんだったら、それはとても可哀想なことだよ。実際、Europe やアメリカの人たちの多くは、日本人があの人たちに対して思ってるのとは違う目で、日本を見てるんだから。」
 私は身を乗り出して尋ねた。
「え?! それじゃぁ、どう見てるんですか?」
 カヤは、やや深刻な表情になって言った。
「近頃じゃ、肌の色や宗教の違いによる差別や偏見から解放されてる人も、増えてきてることは間違いない。でもね、あたしが見る限り、社会の上から国を引っ張ってる人たちの頭はそうじゃないってことが多いね。どこの国でも。」
 それが理解できなかった私は、またもや訝しげに尋ねた。
「え!?」
 彼女は、皮肉な笑みを浮かべながらそれに答えた。
「つまりね、日本人がどんなに優秀であっても、あくまでも東洋人であり、自分たち欧米の白人よりも劣ってるって思ってることさ。」
 私は真剣な表情で言った。
「人種差別?」
 カヤも真剣な表情に戻って言った。
「そうだよ。」
 私は、それに反発してこう言った。
「あのね、婆ちゃん。私は海外旅行したことが何回かありますけど、そのときに知り合った外国の人たちは、いつもみんなフレンドリーで、人種差別なんて微塵も感じませんでしたけどね。」
 カヤは苦笑いしてこう言った。
「それは、あんたがこの島に来たときと同じようなかっこうだったからだろうよ。類は友を呼ぶって言うからね。でも、あたしが言ってるのは、社会の上の方にいる人たちのことさ。」
 私は、やや納得して言った。
「そうか……。貧乏旅行者の感覚と国家の上層部の感覚は違うと……
 それじゃ、日本の偉いさんがしきりに叫んでる『日米同盟』は、こっちが思ってるほど甘くないと見ていいですね。こっちが親友だと思ってても、相手はそうじゃないって思ってるってこともあるわけだし。」
「そうだよ。相手がどこの誰であっても、過信したり過大評価したりして筋の通らない偏った付き合い方をしてると、本当に大事にすべき者を失うっていう結果になるよ。まず自分たちの身の回りから見なきゃ。」
「なるほど、そうですね。その点、明治の人は立派だったなー。『和魂洋才』なんていう言葉もあったし。」
「ワコンヨウサイ?」
和魂洋才  これは意外にも、カヤが知らない単語だったようだ。
 私は水差しの水を食卓の上に数滴垂らし、それを右手の人差し指に付けると、カヤが見易い向きにして「和魂洋才」という漢字四文字を卓の上に書いた。よく乾燥しているその木の板が、その水を吸い、それはまるで墨で書いたように鮮明になった。カヤは首を伸ばしてそれを見るなり、嬉しそうに言った。
「おおー、いい言葉じゃないか! 『洋才』の方はもう放っておいても伸びてくんだろうから、あとはその『和魂』に基づいた思想だよ! 今の日本に必要なのは!」
「そうなんでしょうね。いくら物が豊かになっても、それに見合った思想とか哲学とか宗教といったようなものがなければ、人間バランスが取れませんからね。再軍備だとか修身教育の復活のような、どこの国でもやりそうなことじゃなくて、もっと日本人の根っこの部分を取り戻して、それを時代に合わせて更に発展させるようなこと。それだったら、この私も大いに賛成するんですけどね。
今の日本には、そういうことをちゃんとわかってる人もいるみたいだけど、中には本当に国の将来のことを憂(うれ)いでるんじゃなくて、ただ昔に戻したいだけだとか、国の性能や肩書きのようなことだけを憂いでるような人もいますからね。本当に日本の将来のことを考えれば、俺は日本に軍隊など要らないと思いますよ。」
 カヤは苦笑いして言った。
「それはいいけど、今のままじゃアメリカ軍は依然として日本に駐留を続けるだろうさ。」
 私はまた、困った顔に戻ってしまった。
「……うーん、それは困るなぁ。でも、他国に顎で使われて戦争するような馬鹿なことだけは避けないとなぁ……。」
 カヤは一呼吸置くと、しばらく見せなかった爽やかな笑顔に戻って言った。
「……まあ、一見難解なパズルでも、何かのはずみで、すんなりと解けてしまうこともある。戦争ができない国のままで、アメリカ軍には出て行ってもらい、残る拉致被害者を全員帰国させて、渤海共和国とは国交を正常化させる。その上、アメリカをはじめ、中国、韓国、ロシア、イスラム諸国などとの関係を悪化させずに、自国の自由と平和を恒久的に守り抜く方法。それは、あんたの国の政治家が本気で取り組めば、多少時間は掛かっても必ず実現することができるさ!」
 私は、やや上目遣いにカヤを見て尋ねた。
「そんな難しいパズル、どうやって解くんです?」
 彼女は笑って言った。
「ハハハ! これはあんたの国のことだ。まあ、よく考えてみな、自分の頭で。あんたにならきっとわかるよ。」
 なるほど、一から十まで答えを言わず、こちらにちゃんと考えさせてくれるところがまた良い。彼女を初めて見たときから個性的な人だとは思っていたが、やはりただの婆さんではなかったようだ。私はこの義理の祖母の中に、政治家であると同時に教育者としての姿も見た。
 ヤエは既に読書をやめており、姉のカエと共に先ほどから、私たちのこの会話をずっと真剣な面持ちで聴いていたのだが、ここで新たな疑問が浮上してきたので、私はカヤに尋ねた。
「それじゃ、婆ちゃん。ヤエを今日本へ行かせるのはなぜなんです? こんな先行き不安なときに……しかも旅行じゃなくて、定住させるなんて。」
 カヤは、微笑んでそれに答えた。
「日本の動きを内側から探るためさ。それにはただの旅行じゃなくて、ちゃんと日本国民にならなきゃ駄目だ。
『不戦の誓い』だとか、『国際社会に協力するためだ』とか表向きには言いながら、これだけ暴力的な動きをしてるのに、なぜ日本の一般の人たちはその首相とその政党を支持してるのか。それは、外で聞いてるだけじゃわからないからね。」
「それなら、もっと屈強な男の人が行ってもいいんじゃないですか?」
 カヤは驚いたように、ちょっと目を見張って言った。
「おや、そうかい? 今の日本の社会では、男の方が有利になってるんだろう? 強い立場の者が行けば、その目線でしか物事を見ない。そんな情報など必要ないよ。あたしたちが知りたいのは、弱い立場の目線から見た今の日本なんだから。」
 私は感心して言った。
「なるほど……。それなら、より多くの問題が見えてきますもんね。」
 カヤは、ヤエの方を見てこう言った。
「まあ、この子一人だったら、恐らく今の日本では生きてけないだろう。生まれてから数えるほどしか、この島の外に出たことがないんだから……。」
 ヤエは、その言葉に同意するのかしないのか、ちょっと微笑んで肩をすくめて見せた。
 カヤは私に向かってまた微笑むと、このように言った。
「だけど、あんたがいる。あんたの力があれば、この子の持ってる力が生きてくるんだよ。」
 しかし、私は困ってしまった。
「この私の? 今の日本では社会的にも経済的にも弱者である、この私の微々たる力が?」
 カヤは、優しく微笑んで言った。
「あたしが言ってる『力』ってのは、そんなことじゃなくってね、信念とか生きるしたたかさのことだよ。
まず、『今の文明のあり方が間違ってる』っていう信念。それは、お金を余るほど稼いで、贅沢な暮らしをしてるもんには、絶対に持てないものだよ。
それと、今の日本で弱者が型にはまらず生きてくことは、とても難しいことなんだろう? 多くの人は、歪んだ社会の中で自分の身も心も歪めながら、それに無理に合わせて生きてるって聞いてるよ。そんな中でも、まっすぐ生きようとしてる、あんたの『したたかさ』は並外れてると思うよ。
だからむしろ、社会的にも経済的にも困ってる人であればあるほど、良いってわけさ。」
 私は笑って言った。
「ハハハ! なるほど。そういうことなら、俺は自信満々ですよ。」
 その言葉を聞いた三人の女たちは、みな朗らかに笑った。
 その一方、私はカヤの見識に改めて敬服したので、やや真剣な表情になってこう言った。
「いつもながら、婆ちゃんの考えには恐れ入ります。」
 そして、私は不安げにこう続けた。
「……でも、もし日本がこれから戦争に巻き込まれたら? いくら私に信念があっても、こればっかりはどうしようもないですからね。……心配だな、やっぱり。」
 しかしカヤは、私のその不安を退散させるような、爽やかな笑顔でこう言った。
「大丈夫。アミが夢で見たから。あんたとのあいだにできた子供を連れて、ヤエがこの島に帰って来るのを。浜茄子の赤い実を手に携(たずさ)えてね。あたしも似たような夢を見たよ。」
 私は一瞬仰天した。
「えーっ!?」
 しかし、冷静になって考えると少し安心した。
「……ということは、行っても無事に帰って来れるってことなんですよね?」
 カヤは、やはり微笑んで言った。
「まあ、そういうことだろう。」
「俺も一緒でしたか?」
「うん、あたしが見た夢ではね。アミの夢には、ヤエと子供の姿はあったそうだけど、あんたの姿はなかったってさ。」
 私はまた、わけがわからなくなってしまった。
「え?! それって、どういう意味になるんですか?!」
「昔から、こういうことはよくあるんだ。何人かが同じような夢を見ても、こまかいところが違ってるってことは。」
 私は、ここで男として気になる疑問を一つ投げ掛けた。
「俺が一緒じゃないのに、夢の中の子供が俺の子だって、母さんよくわかりましたね。」
 私の言う「母さん」とはアミのことだ。自分と同じような年齢の女性に対して、その呼称を使うことに私は最初抵抗を感じたが、言われている本人は全く気にしていないようだ。余談ではあるが。
 カヤは笑って言った。
「ハハハ、心配することないよ。夢の中でヤエがそう言ってたそうだし、あんたそっくりの顔した子もいたって言ってたから。」
 そうか、それならきっとそれは私の子なんだろう。ホッと安心すると、今度は好奇心が湧いて来た。
「それじゃ、その子供の歳はどのくらいでしたか?」
 私のその質問に、カヤはしばらく思い出すように考えてからこう言った。
「……うーん、一番上の子が十ぐらいで三人いたように思うって、アミは言ってたかな……。」
 私は、すかさず尋ねた。
「婆ちゃんの夢では?」
 彼女も、すかさずそれに答えた。
「あたしが見たのには、子供の姿はなかったよ。」
 私の目が、一瞬点になった。
「は? ということは、ヤエがこの島に帰ることは確かだけど、子供を連れているのか、俺も同行しているのかということは、はっきりわからないって解釈していいわけですね?」
 カヤは微笑んで言った。
「まあ、そういうことだろうね。」
 もう一つの可能性があることに気付いた私は、それを尋ねてみた。
「それとも、子供なしで帰って来るのと、子連れで帰って来る機会が別々にあるとか?」
 それに対してカヤは、なぜか謎めいた微笑を浮かべて、このように答えた。
「そうかもね。」
 婆ちゃんの、この微笑みは何なんだろうか……。私は独り言を言った。
「……浜茄子の実を持ってたってことは、日本では夏頃になるけど……。」
 それを聞いたカヤは、やや真剣な表情になってこう言った。
「夢の中に出て来る人物が手に持ってる物。それは、それそのものってこともあるけど、それに象徴される事象だったりする場合もあるんで、結構重要なことだよ。」
 私は納得して言った。
「なるほど……。」
『……まあ、いずれにせよ良かった。ヤエだけでも将来無事なことがわかって。』
 そう思った私は、右隣りに座っているヤエの手を握った。ヤエも私の肩に頬を摺り寄せてきた。すると、そのヤエの向こうに座っていた姉のカエが、急に立ち上がって大きな伸びをしながらこう言った。
「あーあ! 今日は暑いなー、もう!
豆の莢剥きでもしよーっと!」
 この家の縁台の手摺りには、大量の豆の株が逆さに吊るして干してある。カエは、そのうちの一束を持って来て食卓近くの床の上に置くと、今度は台所に行って大きなステンレス製の鍋を持って来た。そして、それを豆の株の束の横に置いた彼女は、その前に敷き物を敷いて座ると、そのうちの一株を手に取って、そこに付いている豆の莢を、その鍋の上で次々と割っていった。すると、乾燥した豆が莢から弾け出てその中に落ち、カンカラカーンという軽快な音が何度も連発した。
 寝床の中の洋太郎は、このような音に慣れているらしく、安らかな寝顔でよく眠っている。
 私の向かいの席のカヤも、「よっこらしょっ!」と立ち上がると、ヤエと私を見下ろしてこう言った。
「……あたし畑へ行ってくるよ。あんたたち、今日は一日ゆっくりしてな。」
 カヤは、食卓の上に乗っていた白い木綿の手拭を首に掛けると、裏庭へと続く階段を素足で降りて行った。
 私は、ヤエの耳元で囁いた。
「……無事に島に帰って来れるみたいで、良かったね。ヤエ。」
「うん。」
 私の肩に頭をもたれていたヤエはそう言うと、私の顔を覗き込んでこう言った。
「……ねえ、カカシ。」
 私もヤエの目を見て言った。
「ん?」
「浜に行かない?」
 私は嬉しそうに言った。
「おお、いいね!」
 ヤエは立ち上がると、鍋を前にして豆の莢剥きをしているカエの横顔に向かってこう言った。
「カエ姉ちゃん、カカシと浜に行ってくる。」
 カエは相変わらず豆の莢を剥きながら、ヤエの顔を見ずに無表情な声でこう言った。
「はい。どうぞごゆっくり。」
 ヤエは、持ち前のややハスキーな低い声で怒ったように言った。
「厭味な言い方!」
 一方、澄まし顔をこちらに向けカエは、持ち前の良く通る高い声でこう言った。
「厭味だなんてとーんでもない。親切で言ってるんじゃないの。」
「それじゃ、もっと違う言い方してもいいんじゃない?」
「どう言えばいいのよ?」
「そんなの自分で考えなさいよ!」
 私も立ち上がると、階段のところにたくさん並んでいる草鞋(わらじ)の中の一足を履きながら、姉と口喧嘩しているヤエに向かってこう言った。
「おい、先に行ってるよ。」
「あ、待って!」
 私に向かって慌ててそう言ったヤエは、後ろを振り向きざまにこう言った。
「カエ姉ちゃんの意地悪!」
 姉との口論を強制終了させたヤエが、私の後に続いて裸足で木の階段を駆け降りて来ると、カエの良く通る声で最後の報復の言葉が縁台の上から降って来た。
「ヤエの頓珍漢(とんちんかん)!」
 この二人の姉妹が引き起こす日常的な口喧嘩に、当初私は一人でおろおろしていたのだが、これはどうも今に始まったことではないようだ。家族は慣れているらしく、これが始まってもみな無関心を装っているからだ。どちらかの肩を持てば、もう片方はそれに嫉妬して逆上し、火に油を注ぐような結果となるのだろう。まあ、小さな台風の目と同じで、行き過ぎるのを待てば済むことだ。
 この家の縁台の下に広がっている裏庭には、様々な種類のハーブや南国の美しい花などが、ごく大ざっぱに植えられており、その周囲には、倉、物置、便所などの建物や、柵に囲まれた牛小屋や、金網の張られた鶏小屋などが並んでいる。
 今の人にとって、便所が外にあるということは意外だろうが、日本の伝統的な屋敷の構造だと、それは当たり前のことであり、この島には今でもそれが受け継がれているだけのことだ。
 この裏庭全体は、高さ90センチほどの先の鋭く尖った木の柵で囲まれている。昼間は放し飼いにしている鶏を、この島のあちこちを徘徊(はいかい)しているオオトカゲから守るためなのだそうだ。
 その柵に設けられた小さな門を開けると、木漏れ日の降り注ぐ椰子林の中に向かって小道が延びている。門を元通り閉めた私たち二人は、手に手を取ってその道をたどった。
 それを進むにつれて、前方に小さく見えている紺碧の空の面積が徐々に広がり、それと共に潮騒の音が次第に大きくなってきた。
 やがて椰子林を抜けた私たちは、爽やかな潮の香りのする広く明るい浜に出た。砂は眩いくらいに白く、珊瑚礁の海の水は青く澄み切っている。
 そこは人気(ひとけ)がなく、各家々が漁で使う船があちこちに引き上げられているのが印象的だった。単身のカヌーもあったが、双身のものが一番多く、中には三身のものもある。それらのほとんどは、平行に並べられた二本の椰子の丸太の上に、ひっくり返して置かれてあった。
 その上に止まって翼を休め、毛繕いなどをしている海鳥たちは、私たちが近付いても全く逃げようとしない。この島の人たちが無闇(むやみ)にいじめたりしないので、人を恐れることを知らないのだろう。
タカラガイ  波打ち際を見て顔色を変えたヤエは、素早くそこに駆け寄って何かを拾い上げた。彼女は私に向かって微笑みながら、腕を伸ばしてそれを差し出した。それを受け取って手の平の上に乗せた私は、感激してこう言った。
「ほう! これは素晴らしい!」
 それは、長さ四センチほどのタカラガイの貝殻だった。その背は艶のあるこげ茶色で縁取られ、その中央の楕円の中は、白く小さな丸い宝石をいくつも散りばめたような模様になっている。大自然がつくり出した、このような芸術的作品を見るたびに私はつくづく思う。一体何のために、このような美しい文様が描かれるのだろうかと。
 生きているタカラガイを、水中メガネを使ってよく見ると、貝殻の周囲は胴体の薄い膜によって包まれており、このような文様の一部しか目にすることができない。だから、敵を威嚇して身を守るためのものではなさそうだし、増してやこんな派手な文様だと、白い砂の上では保護色にならないだろう。
 熱帯魚にしても、熱帯雨林の鳥や虫にしてもそうだ。その多くは、誰かが意図的につくったとしか思えないような、鮮やかな色彩と複雑な文様を身に付けている。これはもちろん、人間を喜ばせるだけのために、そうなっているのではないはずだ。ということは、それらを持つ動物たちに、それらを識別することのできる、優れた色彩とデザインの感覚が備わっているということなのだろうか。
 鳥や魚なら、その可能性は大だ。メスにそのような感覚が備わっていれば、より美しいオスがそのメスと交尾する機会を得られ、それを何万年も繰り返しているうちに、今のような文様になったという仮説が成り立つからだ。ところがタカラガイの目は、日本のカタツムリの目よりもまだ小さく、このような文様を識別する感覚が備わっているとも思えない。しかし、その色彩と文様の成り立ちを自然淘汰の理屈だけで説明することもできない。
 寄せては返す波。その音を耳にすると、その思考は遥か太古の昔へとさかのぼって行く……。
 そのようなことに想いを馳せ、美しい貝殻に見惚(みと)れていた私に、ヤエがそっと身を擦り寄せてきた。しかし彼女のその行為によって、私のその想いが妨げられるようなことはなかった。今の私の意識の中では、この貝殻も彼女も、太古の昔から続いている大自然の営みの延長線上にちゃんと見えていたからだ。それは、この貝殻同様この島で生まれ育った彼女の姿が、その風景に溶け込んでいたということもあるのだろう。
 すると、このタカラガイ同様、彼女もまた大自然がつくり出した一つの芸術作品であるという、とても重要なことに私は気が付いた。
 私は貝殻を白い砂の上にポトンと落とすと、彼女を強く抱き締めた。二人はしばらくのあいだ、頬を激しく寄せ合って愛し合った。
「……ヤエ……綺麗だ……。」
 私の口から、途切れ途切れにそのような言葉が流れ出た。
 私にとって彼女は、とても不思議な存在だった。科学的に分類をすれば、私はこのヤエと同じ種に入るのだろうが、外見やDNAは同じ種でも、恐らく頭の中身は全然違っていると思う。私の頭の中には、たくさんの余計な物が詰まっており、それらは捻じ曲がり互いに絡まり合って、どうにも収拾が付かぬ状態になっている。
 ところが、このヤエと一緒にいるだけで、それらがみな真っ直ぐになり、一本一本どこかへスッスッと抜けていくような爽快感を感じるのである。これは、私が今まで接したどの女性にも感じられなかった、不思議な感覚だった。
島の港  やがて、愛の高ぶりが一旦収まってくると、二人はまた歩き出した。今度は腕を組み、ぴたりと寄り添って。最初当て所なく動いていた二人の足は、どちらともなくこの島唯一の小さな港を目指した。
 赤黒い溶岩でつくられている、この港の石垣の上でも、たくさんの海鳥たちが翼を休めている。彼らを蹴飛ばさぬように避(よ)けて歩きながら、私たちは石垣の先端を目指した。
 私は感無量だった。シャガやハヤテたちが四百年前に歩いたのと同じ場所を、今正に自分の足で歩いているのだ。しかも、彼らの子孫の体の温もりが、今生き生きとこの腕と体に伝わって来ている。私は立ち止まり、再び彼女を強く抱き締めた。
 長い年月のあいだ、この小さな島には、いくつもの災難が訪れたことだろう。自然災害はもちろん、沖を通る列強の船からも身を守る必要があったに違いない。他の日本人町がやがて衰退し、消滅していった中で、この町だけが今日までこのように健在であるということの意味、そして彼らの存在が今の日本に知られようとしていることの意味は、一体何なのだろうか。
 ヤエはまだ若いが、これから日本視察、あるいは偵察という重大な任務に赴くことになる。そのために彼女と結婚した私は、一見それに利用されているかのようにも見えるが、宇宙の大いなる意志の存在を認めて以来、私は自分個人の小さな損得など気にならなくなってしまった。
『それに利用されるなら、それこそ本望だ。この命ある限り使って欲しい。』
 そう思った私は、再び熱く濃厚にヤエを抱き締めた。

 ヤエと私の二人が白浜家に戻ったのは、正午少し前だった。
「ただいま。」
 ヤエがそう言って台所に入ると、洋太郎を背負った姉のカエが、既に食事の支度をしていた。いつもなら、この姉妹が二人一緒にその作業をしているので、「帰りが遅い!」とかでまた一悶着あるのかと思った私は、一瞬ヒヤッとしたが、姉の反応はその予想に反して淡々としたものであった。
「ああ、おかえり。婆ちゃんと爺ちゃん今日は弁当なしで畑に出たから、あたしたち入れて八人。汁はもうできるから、あんたは漬物出して切っといて。」
 漬物が入っている大きな瓶に歩み寄りながら、ヤエも淡々としてそれに応えた。
「ん、わかった。」
 この町の各家庭が飯を炊くのは、大体朝と晩の二回だけで、昼は朝の残りの冷飯だ。気温が高いため、それは晩まではもたずに腐ってしまうので、晩になるとまた新たに炊くというわけだ。晩は飯を炊かずに、麺類やパンにすることも多々ある。その三度の食事の時間は、大体どこの家庭も同じような時間帯だ。
 この町の近代的な時計は、この国の政府から五年前に支給されたという、電池式の大きな掛け時計数個だけだった。それらは、役場の町長室や会議室などと、学校の校長室や職員室の壁に今も掛けられている。しかしその針は、それぞれ別々の時刻を指したままで微動だにせず、ただの壁掛けと化していた。初めて電池が切れて以来、そのまま放置されているのだそうだ。
 たかが時計の電池代など、政府から支給される補助金の中から捻出することは容易(たやす)いことだそうだが、問題はその使い古した乾電池だ。この国ではそれをリサイクルするシステムがまだ確立されてはおらず、使い終われば海や山に捨てるしかなかった。
一、山河汚ス物、捨テルベカラズ。
(山や川を汚す物を捨ててはいけない。)
一、土ニ還ラヌ物、捨テルベカラズ。
(土に還らない物を捨ててはいけない。)
一、捨テラレヌ物、所有スルベカラズ。
(山や川に捨てられない物を所有してはいけない。)
 単純明快なことだが、いずれもこの町の掟だ。ゴミを捨てるということは、誰にでも手軽にできてしまうことなのだが、問題はその後だ。乾電池には生物にとって有害な物質が含まれているし、木片や陶器や鉄器の破片とは違って土に還ることはない。それを知っている彼らは、その処理に困った。そして、そのような面倒な物は持たないことにしたのである。
 そのため、役場や学校ではゼンマイ式の時計が使われている。また、各家庭での時刻は日時計で知り、時間は砂時計で計っている。彼らの質素な生活では、それで充分だった。
 日本や欧米の国々のラジオ放送の多くには「時報」なるものがあり、それによって正確な時刻を知ることができるが、この国唯一の放送局である国営放送のラジオには、それが存在していない。ニュースの前後になると、アナウンサーの気まぐれによって時刻が告げられることがあるが、それは必ず分単位で狂っている。……少なくとも、私が日本から持ってきた時計を見る限りだ。
 しかし、よくよく考えてみると、日本の私の自宅でも、たまたまあるから電池で動く時計を使っているだけで、なければないで何とかなる。外部の人間と仕事の遣り取りをするときにのみ、正確な時刻を知る必要が生じるだけだ。
 だから、この町の人は時間に対して非常に大らかだ。待ち合わせをしても、十分や二十分は遅れて来るのが当たり前なので、そのことに腹を立てる者は誰もいない。しかしこれは、正確な時計が手元にないということだけが原因ではなさそうだ。なぜなら、遅れて来ることは多々あっても、来るのが早過ぎるということは皆無に等しいのだから。
 また、この町には上下水道もない。どの家でも、広場の真ん中を流れている川から汲んで来た水を、台所の大きな水瓶に溜めて大事に使っている。排水は、石でできた流し台の穴から高い床の下に流され、そこには木の桶が置いてある。そこに溜まった水を、裏庭のハーブや花を育てる水として再利用するためだ。
 だから、食器洗いには合成洗剤でなくて、廃油を利用した自家製石鹸や木灰が用いられており、椰子の実の繊維でつくったタワシで擦れば大概の汚れはきれいに落ちる。日本の我が家での食器洗いのやり方と極めてよく似ているので、これには全く違和感がなかった。
 調理に用いられている燃料は、主に椰子林や熱帯雨林に落ちている柴(しば)と、浜に流れ着く流木だ。それを日本の「へっつい」によく似た竃(かまど)で焚くのである。この町に一軒しかない雑貨屋には、伐採した木でつくられた立派な薪が縄で束ねて売られているが、私が半月ほど滞在しているあいだに、それが売れた形跡は全くなかった。各家庭の子供たちは、学校が終わると海や森で遊び、その帰りに薪を拾って来るというのが立派な仕事になっているからだ。
 また、山には炭を焼く窯があって、炭の生産も行なわれている。これは、各家庭での調理にも使用されるが、主に鍛冶屋が刃物などを拵(こしらえ)える際に使用される。
 集会場に発電機が一台あるが、これは月に一度船で配給される映画を上映するためと、役場に設置されている緊急用の無線機などを使用するための物だ。だから、各家庭に電気の供給はなく、照明は全てヤシ油のランプ。増してや、冷蔵庫やクーラーなどといった家電製品は一つもない。役場の町長室と学校の校長室などの天井には、巨大な扇風機がぶら下がっているが、それらが動いているのは一度も見たことがない。島外から来賓が訪れた際にのみ、発電機によって回されるのだそうだ。
 また、普通の電話はもちろん、携帯電話を持っている人もいない。だから、島内の誰かに用事があれば、その人の居場所を誰かに聞いて探し、その用件を伝えることになる。電話なら1分で済むことを、自分の足で10分とか1時間掛けてしているだけのことだ。そのために彼らはよく歩くし、水を汲むことから始まる生活に必要な様々ことを人力で行っているためか、肥満体をこの島では一人も見掛けなかった。人の力ではどうにもならないことには、牛や馬が使われている。
 こんな島なので、個人の家では水道代0、ガス代0、電気代0、電話代0。これは何も特別なことではない。日本の農村だって、100年前には大体これと似たようなものだったはずだ。
 この島の人の主な収入源は、田畑の農産物や、近海で捕れた魚介類の加工品といったもので、それを人口の多い島まで船で運んで売るのだそうだ。そこで得た現金によって、布や衣料品、鍋やガラス製品などといったものを仕入れて帰って来る。現金はまた、病気や怪我などの医療費や、全島でたった一部の新聞の購読料と映画の上映のためにも使われる。
 そして彼らは昔から、世界のあちこちに人を派遣しては、見聞を広めたり学問を学んだりするということをしており、それにも町が蓄えている現金が使われている。そのようなときに余って持ち帰られた貨幣が、現在でも町役場の資料室に保管されている。
 それ以外のことでは、お金の使い道があまりないので、誰もそれを余計に稼ごうとはしない。必要なだけ働けば、あとは食べること、飲むこと、眠ること、喋ること、聴くこと、見ること、笑うこと、歌うこと、そして愛し合うことの中に楽しみが見い出され、時間が費やされるだけだ。この国の税制だと、収入が一定の金額以下では完全に免除されるので、この島でそれをまともに払っている者は誰もいないとのこと。
 またこの島では、妊娠中絶が厳しく禁じられている。だから、人口は当然増えていくことになるのだが、増えた人々の行き先を聞いて私は驚いた。彼らは昔から、南北アメリカやハワイなどに小さな舟で渡り、そこの日系移民の社会の中に溶け込んでいたというのである。
 信じられないような話しだが、百年ほど前からこの家に蓄えられている、茶色く変色した古手紙の山をカヤに見せてもらい、その封筒と葉書に貼られてある切手や、そこに押されている消印を確認するに及んで、私はそれを信じないわけにはいかなくなってしまった。ブエノスアイレス、サンパウロ、モンテビデオ、リマ、サンフランシスコ、ホノルル……。
 これらの手紙の地域と、先ほどの通貨が発行された地域の範囲を見ると、この島の人々は、私が想像していた以上に世界各地に赴いていたということがわかる。それは、彼らがただ単に文明に背を向け、南海の孤島において、井の中の蛙(かわず)と化していたのではなかったということだ。
 貧し過ぎるというのも困るが、豊かな物を得るために働き過ぎて、過労のために身も心も病んでしまうというのも困る。また、便利な物に頼り過ぎて、生きる力を失ってしまうのも困るが、物質文明に対して全く無知であれば、知らず知らずのうちにそれに毒されてしまう。そのようにして、独自の暮らし方や文化を失っていった少数民族は、世界各地で少なくなかったように思う。この町の場合は偶然にも、人の欲望を掻き立てるような物に対する、厳しい規制があったため、それを免れることができたのだ。
 先ほども少し触れたように、明治時代までの日本の一般的な農村は、現在のこの島とほとんど同じような暮らしだったのだろうと思う。日本の北国では、この島のように農産物が年間を通じて収獲できないが、その分、漬物や干物などといった保存食をつくる技術が発達している。そのようにして我が国の先人たちは、その気候風土の中で様々な生活の知恵を生み出し、環境に適応しながら生きてきたのだ。
 但しそれには、今の我々からすると想像を絶するような苦労があったに違いない。働いて賃金を得ることよりも、薪つくりや藁打ちだけで一日を終えてしまうようなこともあっただろう。
 現在の私の日本での生活は、調理や暖房や風呂に薪や炭を使っている。しかし、人間が一人でできることには限界がある。薪をつくるためにチェーンソーや斧(おの)を使うし、薪ストーブ、風呂釜、七輪(しちりん)などの器具も全て私以外の誰かがつくった物だ。それら全ても自分一人で一から作ることは、私にはほとんど不可能に近いことだ。例えそれができたとしても、それだけで一生を終えてしまうことになるだろう。
 だから、もしこの世に人類がたった一人しかいなかったら、彼または彼女が文化的な生活をすることは不可能だ。複数の人と人とが互いに助け合い、個性を活かし合い、知恵を出し合ってこそ、始めて人間らしい暮らしが生まれるのだ。そして言うまでもなく、人間だけでは生きていけない。空気、太陽の光、雨、海、そして陸地。そこに生える草木、そこで暮らす数多くの生き物たち。それらの命によって、人間たちは生かされているのだ。
 私が縁台の手摺りにもたれて、そんなことをつらつらと考えていると、三吉とカヤが、島の高台にある白浜家の畑から三頭の牛を連れて帰って来た。牛は、この島の農耕には欠かせない重要な家畜である。畑を耕したり荷物を運んだり草を食べてくれたりと、現在日本の農家が耕耘機と軽トラと草刈機を使ってしていることを、全部引き受けてくれるのだから、とても頼もしい生き物だ。
 また、牛の乳はご存知の通り貴重な栄養源となる。この島では牛乳として飲まれるよりも、むしろ加工されることの方が多い。気温が高いが冷蔵庫はないので、牛乳を生で保存できる時間が非常に短いためだ。だから、この島ではヨーグルトとして食べられることが最も多い。
 その作り方は至って簡単だ。朝、低温殺菌した牛乳を素焼きの鉢の中に入れ、人肌くらいまで冷めたら、そこに種(たね)ヨーグルトを加えて軽く掻き混ぜる。それを日当たりの良い部屋の日陰に置いておくと、次の日の朝にはもう立派なヨーグルトになっている。
 ここで言う種ヨーグルトとは、菌が生きている生のヨーグルトのことだ。日本の一般の店で売られているものだと、砂糖や果汁の入っていない、いわゆるプレーンヨーグルトがそうだ。
 このように力や乳だけでなく、その糞まで利用することができるということを知っている人は、今の日本ではごく僅かだろう。それはまず田畑の良質の肥料となるし、乾燥させれば燃料にもなるのだ。日本で出回っている配合飼料のような餌を食べた牛の糞は臭いが、この島の牛が食べているのは、自然に生えている草や穀物なので、ほとんど厭な臭いがしない。
 これはもう、「ありがたい」と言って牛を拝むしかない。世界には、牛が神様扱いされている宗教があるが、それは大いに頷けることである。
 その牛を、裏庭の中の柵の中に入れて餌をやった三吉・カヤ夫婦は、母屋の軒下に置かれている大きな水瓶の中の水を汲んで、各自顔や手足を洗い始めた。この家の大きな屋根に降り注いだ雨水は、竹の雨樋(あまどい)によって集められ、この水瓶の中に蓄えられるようになっているのだ。
 この裏庭の広い菜園に植えられている食用の植物は、葱やパセリ、バジルや香菜(シャンツァイ)といったハーブ系のものが多い。台所でそれらが必要になったらすぐに取りに行けるので、とても便利である。一方、麦や芋や豆、野菜等は高台にある畑で栽培されているし、米はその下に広がる田んぼで年に二回つくられている。品種は、日本米よりも細長く、どちらかというと、インディカ種と言われるこの地域の米に近い。この島の人の先祖が日本から持ってきた米が、長いあいだこの島の気候風土に順応するように改良されてきた結果だろう。
 田植えや稲刈りなどは一家総出で行なうそうだが、それ以外の作物の手入れは大体年寄りの仕事になっている。そのせいか、この島では高齢者でも足腰の達者な人が多い。呆けかけている人もいるが、それほど多くない。年寄りたちは、畑に行けば同じ世代の人たちと会えるので、休憩や昼食のときに思い思いに集まって交流を深めているようだ。
 この高齢者同士の交流と、家庭での若い世代との交流という二重構造が、この島の高齢者の呆けをある程度防いでいるように思える。この町の高齢者は、ただ高齢者同士で固まっているのではなく、この町の政治を陰で動かしているという自負を持っているからである。「わしがおらなんだら、この町駄目んなる」とか、「若いもんだけに任せといたら、この町はどうなるんだい」といった気持ちだ。
 このような気持ちが、人間の脳に対して医学的にどのような作用を及ぼしているのか私にはわからないが、ここの高齢者を見ていると、どうもそこに何らかの因果関係があるように思えてならない。
 手拭(てぬぐい)で手や顔を拭きながら、蚤(のみ)の夫婦の三吉とカヤが、仲良く並んで裏庭から通ずる階段を登って来た。縁台に上がった二人は、手拭をそれぞれ手摺りに引っ掛けると、食卓に設けられている席に並んで座った。私たちも、それぞれがその近くの席に好きなように座った。この長い食卓の真上には、椰子の葉で編んだ大きな日避けが掛けられているので、今ほぼ頭の真上にある太陽の光はそれによって遮られ、その下は涼しい日陰になっている。
 カヤが長い腕を伸ばして、竹製の箸立てから夫と自分の箸を抜き取りながら言った。
「……ああ、腹減った。」
 彼女は、自分の隣の席の三吉に箸を差し出して言った。
「……はい、あんた。」
 自分の箸を受け取った三吉が言った。
「おう、ありがとうさん。あんたは母さん。」
 カヤは苦笑いして言った。
「また馬鹿なこと言ってるよ。」
「頂きます。」
 合掌した二人がそう言って食べ始めたので、私たちも同じようにして食べ始めた。
 カエは、祖母のカヤに向かって尋ねた。
「……今日は、昼から何かあるの?」
 カヤは、それに答えた。
「……カイ婆ちゃんから物語教わるのさ。」
 私は思わず身を乗り出すと、カヤに向かって尋ねた。
「え!? それってもしかすると、語り部の世代交代ってことですか?」
 しかしカヤは、なぜかちょっと寂しそうに言った。
「……まあね。」
 それは、彼女が敬愛しているカイが引退するのを残念がっているように、私には感じられた。
「……でも、あれだけ長い話しを暗記するのって、大変でしょう?」
 私がそう尋ねると、気を取り直したカヤは、普段の顔に戻って言った。
「あたしらは物心付く前からしょっちゅう聞かされてるんで、この歳になると話しの筋は、もう全部頭ん中に入ってるんだよ。あとは、数字とか細かいところを確かめりゃいいだけさ。」
 私は納得して言った。
「なるほど。」
 三吉が感慨深げに言った。
「……ほうか、あのカイも、もうそげな歳になりよったんか。」
「そんな歳って、あんたの歳に二つ足せばいいんじゃないか。」
 カヤが諭すようにそう言うと、三吉はニコニコして言った。
「天下の名刀、ご名答。」
 カヤは、また苦笑いして言った。
「何をまた馬鹿なこと言ってんだよ……。
そりゃそうと、あんたは昼から何の用なんだい?」
 そう聞かれた三吉は、澄まし顔で答えた。
「……わしのは、そげに大したことない。」
 カヤは、悪戯っぽくこう言った。
「……はっきり言わないとこ見ると、どうせ蝦蔵(えびぞう)んちで chess だろう!」
「蝦蔵じゃのうて、今日は新三郎(しんざぶろう)じゃ。」
 カヤは、眉を寄せて言った。
「どこだって同じだよ! 飲むことに変わりないんだから!」
 そして、私の方に顔を近付けると、小声でこう言った。
「……おい、カカシ。年は取っても、こんな道楽爺(どうらくじじい)になるんじゃないよ。」
 私は、その彼女に向かって尋ねた。
「チェスしながら、お酒を飲むような集まりがあるんですか?」
 彼女は顔をしかめると、黙って二度頷いて見せた。その一方、三吉は口をもぐもぐさせながら嬉しそうに微笑むと、私に向かってこう言った。
「……『chess club(チェス・クラブ)』言うてくれたまえ。」
 私も微笑んで言った。
「はい。chess club ですね?」
 洋太郎を胸に抱きながら食べていたカエは、苦笑いしながら私に向かってこう言った。
「……この町にはね、なんだかんだって、いろんな club があるのよ。できては消えるし消えては復活するし、いくつも掛け持ちしてる人もいるし、その実態把握不可能。」
「ハハハ! いいじゃない、楽しそうで。若い人もいるの?」
 私がそう尋ねると、それにはカヤが憮然(ぶぜん)として答えた。
「そういうのもあるけど、昼から飲むってんだから、大体どういう連中の集まりだかわかるだろう?」
 カエが困った顔をしてその言葉を補足した。
「『武道』とか『書道』とかね、そういう『道』っていう字がおしまいに付いてるのはいいんだけど、それ以外のは大体みんな飲みながらするのよ。まあ飲むための言い訳みたいなもんね。そこで町の方針に関わるような真面目な話題が出ることも、たまにはあるみたいだけど。」
 私は微笑んで言った。
「いいじゃないですか。ご隠居に道楽とお酒は付き物なんだろうし、町のことを昔からよく知ってる方々が集まって話し合う場も必要ですよ。」
 カヤが眉を寄せて言った。
「そりゃ、役に立つこともたまにはあるけどね、この島のもんの飲み方でそれをやられるもんだから、そりゃもう大変なんだよ。」
 カエが明るい声で言った。
「まあそれでも、どんなに酔っててもちゃんと一人で歩いて帰って来るんだから大したもんよね。」
 カヤが厳しい表情で言った。
「駄目駄目。そんなこと言って褒めると調子に乗るから。」
 三吉は、そんな家族の会話を尻目に、早々と食べ終えてこう言った。
「あーうまかった、牛負けた。……頂きました。」
 空になった自分の食器に向かって合掌し、ゆっくりと立ち上がった三吉は、それを台所に持って入った。間もなくそこから出て来た彼の手には、食器に代わって一本のガラス瓶が握られていた。その中身の透明な液体は、どうやら自家製焼酎と見受けられる。食卓を迂回して縁台を横切った彼は、その瓶を一旦床の上に置くと、先ほど手摺りに掛けておいた手拭で頬かむりをした。そして、草鞋を履いて焼酎の瓶片手に悠々と階段を降りて行った。木遣節(きやりぶし)のような鼻歌まで歌っている。私はそこに、女系社会の中で生きる男の、したたかな後姿(うしろすがた)を見た。
 私はカヤに尋ねた。
「焼酎をつくるのは、爺ちゃんの仕事なんでしょ?」
 カヤは仕方なさそうに言った。
「そう。自分でつくったもん自分で飲んでんだから、こっちも『飲むな』とは言えないんだけどね。」
 私は笑って言った。
「ハハハ! それならいいんじゃないですか。俺も老後はこの島に移住しようかな?」
 カエが嬉しそうに言った。
「そんな先じゃなくて、今の仕事が済んだら来ればいいのよ。この島では都会みたいにお金は儲からないけど、仕事ならいくらでもあるわよ。それをしてれば食べるのに困ることはまずないし。ね?婆ちゃん?」
 カヤもそれに同意して言った。
「そうそう。頭使う仕事はあんまりないけどね。」
 私はカヤに言った。
「婆ちゃんはそう言って謙遜するけど、漁や田畑の仕事って、結構頭使うんじゃないですか?」
 カヤが少し見直したように言った。
「ほう、なんで知ってるんだい?」
「俺も遊び程度ですが、海に潜って魚を突いたり、畑では自家用の豆や野菜をつくったりしてますから。魚が昼間海のどんな場所に隠れてるかとか、菜っ葉が黄色くなるのは肥やしの何が足りないからだとか、生き物相手なんで、色々なことを学んでその都度考えなければなりませんからね。」
 すると、カヤも嬉しそうに言った。
「おや、そうかい。それなら尚更いいじゃないか。早くこっちへ来りゃいいんだよ!」
「そうですね。なるべくそうしたいもんです。」
 このとき三人の幼子が揃って合掌し、口を揃えて元気良く言った。
「いただきました!」
 左手で抱いた洋太郎に乳をやっているカエは、右手に持った箸を使って自分が食べるという曲芸のようなことをしていたので、それを見たヤエが席から立ち上がって言った。
「カエ姉ちゃん、昨日はどこまで話したの?」
 カエはヤエの方を向くと、それに答えた。
「……シャガの家の外で、ハヤテが家の中の様子を窺ってるとこまで。」
 それを聞いたヤエは、食べ終えた三人の幼児を台所経由で子供部屋に連れて行った。お話しを聞かせながらの昼寝の時間だ。ヤエがどんな話しをするのか興味があったので、私は家の中に向かって聞き耳を立てた。やがて遠くから、ゆっくりと優しく語るヤエの低い声が流れて来た。
「……『関白がなんだ! 侍がなんだってんだーっ!』そう言って家の裏口からサブが飛び出しました。ふらふらしてて、お酒に酔っているようです。その後に続いてシャガとトヨの二人の娘も飛び出して来ました……。」
 この後ヤエの声は、徐々に聞こえなくなってしまった。先ほどから広場の方でしていた学校の子供たちの声が、次第に数を増してきたため、その音量が大きくなってきたからだ。昼食を食べ終わった者から順に校庭に出て遊び始めたのだろう。
 私は思った。
『そうか……。この町の人たちはこのようにして、幼い頃からこの物語に親しんでいたのか……。これはいよいよ責任重大だな……。』
 下手な仕事をしたら彼らに対して申し訳ない。だが、これからの私にはヤエという強い味方がいる。私の書いたものを、この島で生まれ育った彼女に確認してもらうことができるのだ。
 乳を飲み終えた洋太郎は、母親の胸の中で早速「おねむ」のお顔になってきた。カエは彼を抱いたまま立ち上がると、子供部屋へと向かった。ヤエと交替して洋太郎も寝かせるためだ。
 しばらくするとヤエが縁台に戻って来て、自分の昼食の続きを食べ始めた。そのヤエを見たカヤが、私に向かってこう言った。
「日本の国籍を取るのって、ちょっと面倒臭そうだね。」
 私はそれに答えた。
「ええ、欧米各国のようにして移民を積極的に受け入れているような国ではないんで。でも、近頃では国際結婚も増えてるんで、ちゃんと取れると思いますよ。」
「問題は、むしろ入国手続きの方かね。」
「そうだと思います。」
 カヤは、町の一角を指差しながら言った。
「そういうことに詳しいもんがいるから、聞いてみるといいよ。安太郎(やすたろう)の息子の、安……?」
 名前を思い出せないでいるカヤに向かって、その人と近い世代と見られるヤエが助け舟を出した。
「安次(やすじ)。」
「そうそう、安次。あの子は中央政府に就職して、この前首都から帰ったばかりだから丁度良かった。あの子に聞いてみりゃぁいいんだよ。」
 私はそれに応えた。
「はい。そうしてみます。」
 やがて食事を済ませたカヤは、自分の食器を台所へ運ぶと、早速網野カイの家へと出掛けて行った。
 私とヤエも台所に行って食事の後片付けを済ませると、着替えを持って川へ行った。
 この島では、どこの家にも風呂場というものがなかった。ヤエにそのわけを尋ねると、大昔……彼女の言う「大昔」とはこの町ができた頃のことだ……には、公共の浴場があったのだそうだ。しかし、この暑いのにわざわざ熱い湯に入ると汗が出るので、最後はどうしても水を被ることになる。
「ほなら、わざわざ木ぃ切って燃やす意味ないわ。初めっから水で済ませりゃええんじゃろうが。」
 ということになり、町の人々はその浴場をすぐに閉鎖してしまったのだそうだ。
 なるほど、それは尤もなことなのだろうが、日本人の端くれである私としては、ちょっと物足りなかった。『せめてドラム缶風呂ぐらいあってもいいのに……』と来て間もない頃は思っていたのだが、この川での水浴びの習慣が身に付いてしまうと、その思いはいつの間にか消えてなくなってしまった。
 この町の広場の中央を流れている川は、水が非常にきれいで水量も豊富だった。燦々(さんさん)と降り注ぐ熱帯の陽光を浴びながら、石鹸で頭と顔と体を洗い、それを川の水で流す。そして、最後にそこで一泳ぎするのが堪らなく気持ち良いのだ。
 天気の良い日は気温が高いのに加え、日本とは違って湿度が低いため、川から上がってそのままにしておいても体の水は一分で乾き、頭を拭けば、髪は十分以内でほぼ完全に乾いてしまう。
 私はリンスをする習慣がないが、髪を洗った後、酢を水で薄めたものを掛けるとリンスの代用になる。しかも、そこにレモンの皮を絞った汁を少量加えると酢だけとは違って香りも良いし、滑らか度も増すようだ。
 女性は髪と顔を洗った後、自分の腰巻を使って上手に身を隠しながら体を洗う。ついでに洗濯して帰る人も多い。
 ヤエも髪が乾くのを待つあいだに洗濯を始めたので、私も自分が着ていた物を洗った。それには特別な洗剤など要らない。先ほど髪や体を洗った石鹸で充分だ。この石鹸も、台所から出る廃油や椰子油を主な原料とし、それに香りの良いハーブをお好みで加えた自家製石鹸である。
 洗った洗濯物は、よく絞ってから広げ、川沿いの石段の上に並べておけば、川で一泳ぎしているあいだに完全に乾いてしまう。石が陽の光で熱せられ、高温になっているためだ。
 しかしこれは、常夏の国だからこそできることだ。このようなことを真冬の我が家でしたら、洗濯物はパリパリに凍ってしまい、人はたちまち風邪を引いてしまうことだろう。
 洗濯も済ませて家に帰ったヤエと私は、昼寝をすることにした。三日三晩の宴会は楽しかったが、この歳になると、さすがに体にこたえる。一方私ほど飲まないヤエは元気だったが、私のそばを離れたくない様子だったし、それは私の方とて同じだったので、私たちは白浜家母屋の一角にあるヤエの小さな部屋に入ると、並んで床に就いた。
 窓の外から聞こえて来るのは、遠い潮騒と椰子林の鳥のさえずり、そして、昼下がりの微風に椰子の葉が擦れ合う、カサカサという音だけだ。隣りで寝ているヤエからは、石鹸に含まれているローズマリーと、リンスに含まれているレモンとが合わさった、爽やかな香りがしてくる。
 それらは、私を心地良い眠りへといざなっていった。

 ダンダンダン! という激しい物音で、私は突然目が覚めた。
 ダンダンダン! ダンダンダンダン!
 今度はその音に混じって、「キャーッ!」という複数の子供の悲鳴が聞こえた。
『何事だ!?』
 私は慌てて身を起こし、周囲を見回した。すると、ここが瓶ヶ島町長の家のヤエの部屋で、自分が昼寝をしていたということを思い出した。そして、この騒ぎの正体もすぐにわかった。学校から帰ったこの家の子供たちが、家の中を駆け回って遊んでいるのだ。
 横で寝ているはずのヤエの姿がなかったが、多分先に起きて夕食の支度でもしに行ったのだろう。陽は既に暮れ掛けている。しかし良く寝たもんだ。
 ダンダンダン!
 この島の大人もそうだが、子供の元気がまたとても良い。とにかくよく走る。叫ぶ、笑う、泣く、食べる、寝る。そういえば日本の子供も、昔はみなこんな感じだったよな。
「キャーッ!」
「ギャーッ!」
 ダンダンダン! ダンダンダンダン! ダンダンダン!!
 この家は木造高床式なので、床を走るときに出る音も半端ではない。すると家の中のどこかで、若い女の高く太い声が響いた。
「こらーっ! うるさーい!! 走りたいなら外行きなーっ!!!」
 カエだ。通常の騒ぎなら、この鶴の一声で確実に収まる。カエ姉ちゃんに逆らうと、ただでは済まないということを、この家の子供たちはみな、知り過ぎるほどよく知っているからだ。
 「拳固(げんこ)の刑」、「頬っぺた抓りの刑」、「お魚抜きの刑」、「ご飯抜きの刑」、そして最も恐れられているのが「倉詰めの刑」だ。真っ暗な倉の中に閉じ込められて、外から閂(かんぬき)を掛けられるのである。これによって強烈な恐怖と孤独感を一度に味わったことのある子は、カエに対しては特に絶対服従の態度を示していた。
 学校の放課後、この家に初めて遊びに来た子供は、まずこのカエの自己紹介を受けることとなる。
「あんた新顔だね。『泣く子も黙る白浜のカエ』たー、このあたしのことさ。以後お見知りおきを。フフ……。」
 白雪姫とかシンデレラといった絵本に出てくるような美しい顔のお姉さんが、冷ややかな笑みを浮かべながらこの台詞(せりふ)を巻き舌で言うのだから、大抵の男の子はそれだけでも息を呑んでビビッてしまう。「泣く子も黙る」というのは、「幼児が泣いていればその原因を取り除いて泣きやませる」という、母性愛に満ちた彼女の日課を洒落(しゃれ)て言ったまでのことである。
 しかし、来訪者の中にはたまに糞度胸のある男の子もいて、その言葉が本当かどうかを確かめるために、わざと彼女の目の前で叱られそうな悪戯(いたずら)をして見せることがある。そんなことをしようものなら、たちまちカエの硬く尖った拳(こぶし)が脳天に降って来て、その言葉が単なる脅しではなかったことを思い知らされるのであった。
 このようなカエなので、近所の子供たちからは「白浜(しらはま)の姉御(あねご)」と呼ばれ非常に恐れられていた。ところが、その彼女の刑罰のことが、一部の男の子のあいだでは自慢の種となっていたのである。このような、どうしようもない男の子は世界中どこにでも分布しているのだろう……斯く言うこの私もそうであったが……。
「わ、わし昨日、『拳固の刑』受けたんよ。」
「わしゃ三日前に『頬っぺた抓りの刑』じゃ。そんときからずーっと顔洗うとらんけんのぅ。ハッハッハ!」
 そのように言って自慢し合うのである。但し、極刑である「倉詰め」に遭った者は、みんなからこう言って非難されるのだ。
「そこまで姉御を怒らせた、お前は阿呆じゃ!」
 たとえ子供といえども、男の世界というものは、なかなか微妙なものなのだ。
 このような噂(うわさ)を耳にして、わざわざカエの刑罰を受けたいがために、遠くから白浜家を訪れる子もいるほどだ。それを受けた子は次の日学校で、鼻の下を長くして頬を染めながら、そのありさまを浪曲に似た節回しで級友に語るのだ。
「水仕事して冷えきった
か細き指で抓られりゃ
頬の痛みも何のその。
ぬくめて下され我が頬は
熱き想いの紅(くれない)ぞ。
お慕いします白妙(しろたえ)の
いと美しき御面(おんおもて)
二つ並びし目出たさに
我を忘るーるーその瞬間!」
 これを聞いた男の子たちは、「姉御」の顔を近くで拝むことのできたその子を羨望の眼差しで見る。そして、白浜家を訪問すべく、その家の者とこ親しくなろうとするのである。そのため白浜家の男の子たちは、いつも各学級で引っ張りだこになっていた。
 テレビもDVDもないこの島の日常的な娯楽は、昔ながらの浪曲や芝居のようなものだし、学校では日本の古い言葉を習っているので、中学生ともなればこのように短い語りものを、自分でつくって演じることができるのだ。
 町長の家ということで、ただでさえ人の出入りが多いのに、この「姉御ファン」とでも言うべき悪ガキたちの来訪によって、学校が早く引けた日とか休日には、大賑わいとなる白浜家なのであった。
 そんな白浜家のカエではあるが、子供たちを叱っているだけではない。おやつの時間には、それ相応の食べ物や飲み物を、誰彼の分け隔てなく笑顔で振舞うのである。特に、バナナ、パイナップル、マンゴー、パパイヤなどといった有り合わせの果物を細かく切って、その上に自家製ヨーグルトと蜂蜜とレモンの汁を掛けたものは、子供たちだけでなくこの家の大人たちからも大好評であった。
 人を導く者には、それ相応の気の強さと繊細な気配りの両方が必要だ。カエにはこのようにして、それが見事に備わっていた。これで予知能力さえあれば、次の町長の有力な候補となるところなのだが、彼女にはそれが残念ながらなかった。
 その点、口数が少なく控え目な妹のヤエの方に、そのような力があるということは、この島の大人の誰もが既に認めていることであった。但し彼女が予知できるのは、自分の身の回りの小さな出来事に限られている。近頃ではこんなことがあったそうだ。
 ある朝、ヤエが台所に姿を現わすなり、そこにいた者に向かってこう言った。
「椰子の実が一つ、裏庭に落ちる夢を見たよ。」
 その直後、家の裏でドスンという鈍い音がした。まさかと思ってみんなで縁台に出て下を覗くと、裏庭にはなんと、本当に椰子実が一つ落ちていた。庭の上に覆い被さっている椰子林の木から落ちたのだろう。どうでもいいようなことではあるが、これだって立派な予知能力だ。
 だから、それぞれ違う能力を持ったこの姉妹のことを、島の大人たちはよく噂する。
「足して二で割れば、どっちも次の町長候補になれるんだけどね。」
 このようなことは、カエも当然のことながら自覚していることであった。もしヤエがあかの他人なら、良き友となるのかも知れないし、その能力が学問のようなものなら、勉学に励んで彼女に追い着くこともできるだろう。しかしヤエは実の妹であり、その能力は得ようとして簡単に得られるような代物(しろもの)ではない。そのため、自分にないものを持っている、この年の近い妹に対し、カエはついつい嫉妬してしまうのであろう。お馴染みの口喧嘩の種を蒔くのは、いつも姉のカエの方だった。
 寝床に横たわって、そんなことをつらつらと考えていると、部屋の戸がそーっと開いて、そこからヤエが顔を覗かせた。私が既に目覚めていることがわかると、彼女は小声で言った。
「夕餉(ゆうげ)できてるよ。」
 ゆっくりと寝床から身を起した私は、彼女に向かって寝ぼけ眼(まなこ)を微笑ませ、それに応えた。
「ん、今行く。」
 部屋に入って来て私を見下ろした彼女も、薄明かりの中で微笑んだ。
「良く寝たね。みんなもう先に食べ始めてるよ。何度か見に来たんだけど、あんたが疲れてると思ったから起こさなかったの。」
「おーそうか、ありがと……。」
 昼に比べて空気は少しひんやりしている。私は床に立ち上がりながら、彼女に向かって尋ねた。
「雨、降ったの?」
「うん。でも、もうやんだよ。」
 私は、上に向かって思いっきり伸びをした。
「……うーーーん。」
 そして、その伸ばした腕で今度はヤエの体に思いっきり抱き付き、頬にやや乱暴な口付けをした。んーーーっ、ちゅぱちゅぱ! ヤエは嬉しそうに笑った。
「ウフフ。」
 彼女の長い黒髪からは、料理用のヤシ油の香ばしい匂いが微かにしている。縁台の方からは、子供たちの楽しそうな声が聞こえてくる。それらの条件反射によって、私は激しい空腹を覚えた。
 この島の人々は、雨の日や風の強い日には茶の間で食事をするが、穏やかな天候の日は縁台で食べる。その方が涼しいし断然気持ちが良いからだ。そのため、夜にはそこにランプや行灯の明かりがともることになる。
 日本の我が家の台所には蛍光灯があるが、これ一本だけの光だと、料理が実に味気なく見えた憶えがある。裸電球の方がまだずっとましだ。しかし、それにも増して食欲をそそられるのが、やはりランプや蝋燭(ろうそく)などの天然の炎による光だろう。それは、全て天然の食材と調味料でつくられている、この島の料理のうまさを、尚一層引き立てる。
 電灯の光は、電球のガラスにより外界と遮断されており、その真空の中で一秒間に五十回とか六十回とかの定められた周期で明滅している、いわば「機械の光」だ。それに対して天然の炎は、私たちと同じ空間で私たちと同じように酸素を吸って二酸化炭素を吐くという「呼吸」をしている。そのため、そこから出る光は、当然のことながら料理に使われている食材や、人間の肌といった天然のものと同じ性質を有している。
 だから、料理がよりうまそうに見えるし、人の顔も、より魅力的に見えるのだろう。
 しかも、室内とは違って屋外には心地良い島の夜風が吹いている。この空気の流れに従がって、炎は右に左に揺れ、大きくなったり小さくなったりする。それが料理をより立体的に浮き上がらせるのである。
 また、海の方からは潮騒が、熱帯雨林の方からは蛙や虫などの様々な生き物の声が、そして隣の家の縁台からは食器が触れ合う音や賑やかに談笑する声などが聞こえて来る。それは、この島の平和な夕暮れに奏(かな)でられる交響曲であった。
 それぞれの食器を手に取ったヤエと私が台所から縁台に出ると、明かりのともった長い食卓の手前では、子供たちが今日学校であったことを、食べながらペチャクチャと互いに報告し合っていた。一方その奥に座っている大人たちは、やはり行灯の明かりを囲んで食事をしながらも、何か真面目な話しをしている様子だ。私たち二人が並んでその中の席に着くと、その一番奥に座っているカヤの言葉が耳に入って来た。
「……それでね、両親は Melborne(メルボルン)へ留学させてはどうかって言ってるんだってさ。」
「ほう、そりゃ結構なこっちゃのぅ。この界隈(かいわい)じゃぁ、あこの university(ユニヴァーシティー)が一番優秀じゃけん。」
 焼酎が入ったグラス片手にそう言ったのは、朝とはうって変わって茶色の短パンだけを身に着けた、上半身裸のユウだった。彼の斜め向かいに座っているアミが言った。
「それなら、これからのこともあるし、町民会議開いた方が良さそうね。」
 彼女も朝とは違って、大きな美しい蝶の絵がプリントされた黒いTシャツを着ている。その彼女は、カヤに向かってこう言った。
「母ちゃん、明日畑でみんなに会ったら、いつがいいかそれとなく聞いといてくれる?」
 カヤがそれに応えた。
「ああ、いいよ。」
 私は遅れて来たために、それが何の話しだかわからず、黙って飲食を開始したが、洋太郎を胸に抱いて食卓の向かい側の席に着いていたカエが、声をひそめて教えてくれた。
「……カイ婆ちゃんの曾孫の網野新平(しんぺい)って子、今は首都の senior high school(シニアハイスクール)に行ってるんだけどね、成績優秀だもんで、そこの先生から是非進学しなさいって勧められたんだって……。」
「なるほど、そのためにメルボルンへ留学させてはどうかっていう話しになってきたと……。」
 私も声をひそめてそう言うと、カエは「そうそう」と言うように目で頷いた。
「でも、そのためになんで町民会議なの?」
 私が小声でカエに尋ねると、それが耳に入ったようで、その問いにはアミが答えた。
「……そのために町民会議を開くのはね……、普通この町の学校を出た後も勉強したい者は、新平みたいに首都の senior high school に行くことになってるの。寄宿舎に寝泊まりしてね。あんたも知ってる通り、この家からも今二人行ってるでしょ?
でもみんなそこまで止まり。この町の者が外国に留学するってことは、今までなかったことなのよ。それで、町民会議でどうするかを決めるってわけ。」
「なるほど。留学だと滞在費も掛かるしね。オーストラリアは、ここよりずっと物の値段が高そうだし。」
 私がそう言うと、アミがやや口調を改めて私に尋ねた。
「 university を出ると、一体何ができるようになるの? 日本にはたくさんあるみたいだから、カカシならわかるでしょ?」
 私は苦笑いして言った。
「確かに日本に大学……ユニヴァーシティーのことです……は、たくさんあって進学率も高いです。でも、残念ながら私も高校……シニアハイスクール……止まりです。小学生……エレメンタリー・スクールズ・スチューデントね……のとき大学の門を潜って中に入って出たことはあるけど……。」
 最後は事実でもあり冗談でもあったが、それは同席していたこの家の小中学生たちに受けたようで、彼らは楽しそうに笑って言った。
「ハハハ! 小学生でも大学出ってわけね!」
「ハハハ! わし、今度首都行ったら、高校の門入って出ちゃろ! ほいで、帰ったら『わし、高校出じゃ』言うて回るんじゃ!」
「あんたがそんなこと言っても、誰も信じないわよ!」
「こらっ! それ、どういう意味じゃ!」
 私も笑うと話しを続けた。
「ハハハ。……大学生になったことはない私なので、大体のことしかわかりませんが……これは、あくまでも日本での話しですよ……。基本的には、自分が学びたいことを思いっきり学べる場所なんだと思います。そして卒業すれば、学んだ分野にもよりますが、教師や医者の資格も取れるようになる。更に大学院……グラジュレイト・スクールのことです……へ進んで何かを研究することもできる。もちろん学者にもなれる……。しかも一流大学を出ると、一流企業に入れます。このように学問だけじゃなくて、社会的にも有利なことがたくさんあるんです。」
「なるほどね……。この町では、どれもあまり必要なさそうだけど。」
 アミがそう言うと、カエはこう言った。
「確かに今のこの町に一流企業の社員は必要ないけど、もし新平が学者になりたいって言ったらどうするのよ?」
 その隣に座っていた、カエより一つ年下の夫ヤジが言った。
「そうじゃ。海や山の生き物の仕組み調べる学者なら、この町のためになるけん、一人や二人ならおってもええかわからんぞ。」
 私も意見を述べた。
「田畑の作物のことを研究している学者もいるし、牛馬のための医者もいます。近頃では、人も自然の一部と捉えて、幅広い分野で研究している学問もあるようだしね。そういう学問から見れば面白いと思いますよ、この島は。
まあ、新平君本人が何になりたいかによって、大学や専攻する分野を選択すればいいんじゃないですか?」
「新平は science(科学)が得意だって聞いたわよ。海も好きみたいだし。」
 そう言ったのは、ユウの夫でアミの長女キミだった。彼女は子供の頃から、「あたしに町長みたいな仕事は向いてない。海に潜って蝦や貝なんかを捕ってるのが合ってる。」と宣言しており、次の町長の候補になることをさっさと放棄していた。
 先程まで黙ってちびちび飲んでいたジルが、食卓を挟んで座っている妻のアミに向かって尋ねた。
「新平一人の留学の費用くらいなら、何とかなるんじゃろう?」
 アミがそれに答えた。
「まだ詳しく調べてないけど、多分何とかなるわ。ユウ、あんた明日安次と同じ部屋で仕事だろ? その休み時間のときにでも聞いといてくれない?」
 ユウはその要請に応じた。
「おお、ええぞ。」
 このとき、広場の方から木遣のような鼻歌が響いてきた。既に食事を済ませてみんなで「尻取り」遊びをしていた、この家の乳幼児以外の子供たちが、これを聞くが早いかみな一斉に席を立った。
「爺ちゃんだ!」
「酔うて戻りんさったぞ!」
「逃げろーっ!」
 彼らは口々にそう言って自分の食器類を手に持つと、台所の中へ我先にと姿を消した。どうやら彼らは、酔ったときの三吉をかなり恐れているようだ。
 一方、先ほどの鼻歌は徐々に大きくなり、この家の下まで来ると今度は階段を上り始めたようで、ドタッドタッというゆっくりした足音が聞こえた。
 やがて、残響音がなくなった鼻歌が階段の上で聞こえ、そこに星明かりで薄っすらと照らされた白く丸い禿げ頭が徐々に現れた。出掛けるときにしていた頬っかむりの手拭は、今は首に掛かっている。
 階段の上で草鞋を脱いだ歌の主の三吉は、食卓の前まで歩いて来て選手宣誓でもするかのように片手を上げると、割れ鐘のような大声で言った。
「みなの衆! 今戻ったーっ!」
 その言葉の呂律(ろれつ)が回っていなかったので、彼は相当酔っていることを窺わせた。食卓に着こうとしているその彼に向かって、妻のカヤが普段の落ち着いた口調でこう言った。
「お帰り。早かったね。どうだったんだい?」
 三吉は、中腰のままそちらを向いて苦笑いすると、こう言った。
「フフ、蝦蔵と新三郎と六衛門(ろくえもん)には勝ったが、富造(とみぞう)にはどげんしても勝てん。あ奴、やたらめったら強いわ!」
 彼はそれを言い終わらぬうちに、よろよろっとよろけると、食卓の上にドッと倒れ込んで手を着いた。幸いその場所は先ほど避難していった子供たちの席で、ヤジとヤエが手早く残ったものを片付けていたところだったので、空の陶器の小鉢が一つ床に落ちただけで済んだ。
「おーおー、爺ちゃん、また良う飲みんさったげじゃのぅ!」
 ヤジはそう言って立ち上がると、三吉を後ろから抱きかかえて起こした。三吉は敷き物の上にドサッと座って言った。
「……ヤジか、済まんのぅ。
……おぅ、良う飲んだぞ! おい、母さんや! 水をくれ!」
 食卓の端に座っていたカヤは、湯呑みと水差しを持って来ると、それを三吉の目の前に置いて、淡々とした口調で言った。
「はいあんた。まあ、好きなだけ飲みな。」
 このようなことに慣れているらしく、彼女はすぐに自分の席へと戻って行った。水差しを手に持った三吉は、湯呑みに水を注ぎ、それを立て続けに三杯飲んでからこう言った。
「……駆け付け三杯じゃのうて、倒れ起き三杯じゃ!」
 そして彼は豪快に笑った。
「ハッハッハッハ!」
 その斜め向かいに座っていたヤエが立ち上がると、食卓の上の空いた食器などを持って台所に行き、その帰りには三吉の取り皿と箸を持って来た。
「爺ちゃん、何食べる?」
 そのヤエの問いに、三吉はニコニコして答えた。
「うどん、あるかのぅ?」
 食卓の中央に置かれている大きな竹の笊の中には、茹でて水洗いした手打ちうどんに椰子油をまぶしたものが入っている。ヤエはそれを一人分皿に取ると、そこに酢と魚醤をさっと掛けて三吉の目の前に置いた。
「はい、爺ちゃん。薬味は自分で掛けてよ!」
 彼女はそう言って、薬味が入った皿をその横に添えた。その中には、青唐辛子、葱、青紫蘇、香菜などが小分けされて入っており、各自が好きなものを選んで好きなだけ掛けることができるようになっているのだ。この島独自の食べ方で、私の大好物でもある。
「おぅおぅ、済まん済まん。ヤエは背ぇ伸びて、益々綺麗になりよったのぅ!」
 それを聞くなり、ヤエは苦笑いしてこう言った。
「爺ちゃん、それ昨日も聞いたよ。」
 三吉は、そんなことにはお構いなく、うまそうな音を立ててうどんを食べ始めた。カヤはその夫に向かって言った。
「あんた、そりゃそうと、新平のことで何か話しが出なかったのかい?」
 三吉は少し間を置くと、考えながら言った。
「……しんぺー? ……新平? ……おうおう、カイの曾孫の新平か! 大丈夫です! しんぺーいりません!」
 カヤが苦笑いして言った。
「何を馬鹿なこと言ってんだよ!」
 水を飲んでうどんを食べた三吉は、酔いが少し醒めてきたようで、当初よりは幾分しっかりとした口調で言った。
「馬鹿なことじゃないぞよ。『心配いりません』言うとるんじゃがな。新三郎の倅(せがれ)が言うとったがのぅ、scholarship ちゅう制度があるげじゃ。成績優秀な生徒にゃ学校が銭(ぜに)貸してくれるんじゃと。」
「ああ、それ日本では奨学金(しょうがくきん)て言ってますね。借りるにはいろいろと条件があるみたいですが、返済は大体無利子ってのが多いようですね。」
 私がそう言うと、青味がかった灰色の瞳のジルが、興味深そうに尋ねた。
「ほう、その条件とは?」
「学校によって違うんで、調べてみなければわかりませんけど。まあ、普通は親の収入が少なかったりとかでしょうね。」
 それを聞いたカヤは、笑ってこう言った。
「ハハハ! それじゃぁこの島の子供たちは、成績が優秀なら誰でもその奨学金とやらを受けられるよ!」
 その言葉によって、その場の一同は大爆笑した。この島の人たちは、自分たちの現金収入が少ないことを、全く恥じてはおらず、むしろ誇りにさえしているようだ。私も微笑んで言った。
「明後日首都へ行ったとき、オーストラリア大使館へ寄って調べてみますよ。」
 ヤエのパスポート取得と日本の入国ビザ申請、飛行機の予約などをしに行くのだ。その言葉を聞いたアミは、嬉しそうに言った。
「それは助かるわ!
それじゃ、このための会議は、カカシのその報告を聞いてからってことにしようか。」
 その言葉を聞いたみなは口々に言った。
「そうじゃのぅ。」
「そうだね。」
 私は、ジルとヤジに向かって言った。
「二人とも、よろしくお願いしますね。」
 この二人がこの家の舟を使って、私とヤエをこの国の首都がある島まで送り届けてくれることになっているのだ。
 二人とも口を揃えて、力強く言った。
「よっしゃ! 任しといてくれや!」
 舟は小さくとも、この二人のベテラン船乗りがいれば、大海原など怖くはない。
 さて、私がこの島に来てから強く印象に残ったことの一つに、この島の人たちの考え方の特異さがある。彼らは個人主義と全体主義を上手に使い分けているのだ。
 普段は一人一人が好き勝手なことをしていて、町の掟から外れたことをしない限り、誰も互いの行動に干渉するようなことはない。しかし、いざとなれば一人の若者の能力を伸ばしてやろうとするために、みんなで一丸となってどうしようかと考える。三吉のような道楽爺ちゃんでさえ、遊びながらもこうしてその子のことを気に掛けているのである。しかも、このような留学のための費用は、個人の負担ではなく、町の公金から捻出されるというのだから驚きだ。
 また、超アナログ社会であるのにもかかわらず、必要な情報がちゃんと集まるというのもおもしろい。外と繋がっているパソコンが一台あれば、一分も掛からないで得られるような情報を、帆掛け舟で海を渡り数日掛けて得てくるのだから、その速度の差は極めて大きいが、それでも結果は同じになるのである。
 間もなく、うどんを食べ終わった三吉が寝室に寝に行くと、それと入れ替わるようにして子供たちがまた縁台に戻って来た。そこで私が日本の昔の流行歌を披露すると、予想通りその場の一同は大変な喜びようだった。中でも、三十年余り前に赤江奈美という歌手が歌って大ヒットした、「アーッ、アーッ」という熱い溜め息で始まる「港横浜ブルース」は、子供たちから大うけで、私は六回も続けて歌わされた。

 私は今、首都にある安宿の一室のベッドの上に腹這いになり、この国で綴(つづる)る文章の最後を締めくくろうとしている。その横では、私と同じように腹這いになって、ヤエが本を読んでいる。私が日本から持って来た旅行のガイドブックだ。
 この石造りの部屋の壁も天井も、白いペンキで雑に塗られており、その天井には薄暗い裸電球が一つともっているだけだ。小さな窓の外では雨が陰気にしとしとと降っているが、私たち二人の心は希望に燃えている。明日はいよいよこの国を出て、日本に向かうことになっているからだ。
 ところで、瓶ヶ島の所在地に関するはっきりした情報を、私は最後まで一切ここに記載しなかった。その島に住む人たちが、これからもその島の人たちであり続けることを願って……。
 とにかく、その彼らが日本人の末裔であるということを、近年まで外部の者に知られなかったということは不思議なことであったが、私が約半月間そこに滞在しているうちに大体その理由がわかった。
 まず彼らは、島外の住民に対して決して日本語を使わず、相手の言葉ないしは、この国の公用語で話しをしていたということだ。次に彼らは、近隣の民族の文化や服装などをごく自然な形で取り入れているということ。そして彼らには、この島に伝わる伝承を部外者に語ってはならぬという掟があったということだ。
 彼らとしては、別に素性を隠すつもりはなかったのであろうが、これらの要素が総合的に作用して、このような結果になったのであろう。
 この島に伝わる、その伝承を聞くことが例外的に認められた最初の部外者、それは六十四年前にこの島にやって来た、南洋日本人町調査探検隊の四人の日本人であった。
 そして、その次に聞くことができたのが、この私であった。但し私の場合は、島の女性と結婚したので、厳密に言えば部外者とは言えないのかも知れない。その物語の語り部は、その新人であり私の祖母でもある白浜カヤ。この島の伝統に従って、前任者の前で新人が物語を通しで語るという引継ぎの儀式が行なわれ、そこに私も同席させてもらうことができたのだ。それによって私は、ノートに記されていた探検隊の記録が、全てこの伝承に基づいたものであったことを確認することができた。
 最後になるが、私の滞在中に何かと親切にして下さった、白浜家の人々をはじめとする瓶ヶ島のみなさんに感謝すると共に、その自然の恵みと人々の暮らしが、今後とも末永く続くことを祈っている。

 2006年3月22日水曜日、ヤエと私は、タイの首都バンコクの、ドン・ムアン国際空港に降り立った。ターミナルビルの電光掲示板の時刻は、現地時間の午前10時48分になっている。
 入国の手続きを済ませ、荷物を引き取って両替をした私たちは、早速タクシーで外国人向けの安宿が並ぶ通りへと向かった。
 市内に入ってしばらくすると、ご多分に漏れずバンコク名物の交通渋滞に遭遇したが、冷房がよく効いた車内の後部座席のヤエは、その窓の外の光景にひたすら目を奪われていた。そんな彼女の長い黒髪に向かって、その隣の席の私は言った。
「ここは、世界有数の大都会なんだよ。」
 彼女は、驚きの表情で一瞬こちらを振り向いたが、また窓の外を見ると、呆然とした口調でこう言った。
「物凄い数の、自動車と二輪車なんだねぇー……。」
 彼女の生まれた国の首都にも、自動車やバイクがちらほらと走ってはいるが、バス以外の車が路上で止まるということは、目的地に到達したとき以外には、ほとんど有り得ないことであった。数少ない信号機は故障していることが多く、交差点の真ん中では、警官が立って交通整理をしているが、乗り物が来ても道が空いているので、「どうぞどうぞ」といつも笑顔で通している。
 だから、道路の車線の数もそこを走る車の数も格段に多いこのような光景は、恐らく彼女が生まれて初めて目にするものなのであろう。
 そのようなヤエなので、ある程度予想していたことではあったが、この街に着いた当初は、精神的にかなりこたえたようだ。宿の一階でチェックインを済ませた私たちは、早速四階にあるツインルーム(二人部屋)に入り、暑いのですぐに窓を開け放した。そこから網戸越しに入って来る、夥(おびただ)しいエンジンとクラクションの音に顔を歪めた彼女は、排気ガスに咳き込むと、目には涙さえ浮かべてこう言った。
「……日本もこんななの? ……あたし住めないよ、こんなだったら……。」
 空港から宿まではずっと、冷房の効いたタクシーだったので、この音と空気には気付かなかったのだ。私も窓際の彼女の横に立つと、片手でその肩をそっと抱き寄せ、そこに掛かっているしなやかな黒髪を撫でながら言った。
「大丈夫。俺の家は山の中にあって、周りは草木に包まれ鳥の声に満ちてるから。」
 彼女は、涙声のやや激しい口調で言った。
「早くそこへ行きたい!」
 私は優しく言った。
「俺も早く帰りたいよ。これから日本へ行く飛行機の、キャンセル待ちをしてみるからね。」
 ヤエはガラス窓を閉めると、手の甲で涙を拭いて怪訝そうに尋ねた。
「cancel まち……?」
 彼女がこの造語の意味を知らなかったので、私はその説明をした。
「誰かが飛行機の予約……リザーヴェーションのこと……をキャンセルすると席が空くよね。」
「うん。」
「『もしそういう席が出れば、その席を予約します』ってことだよ。席が空くまで待つから、『キャンセル待ち』っていうわけ。わかった?」
 私が微笑んでそう言うと、彼女も少し微笑んでそれに答えた。
「うん、わかった。」
「……それはそうと、窓開けたら地獄だったけど、窓閉めても地獄だね。丁度昼時だし、何か食べに行こうか。」
「うん。」
 彼女は素直にそれに同意した。エアコン付きの部屋ではないので、窓を閉めたら今度は蒸し風呂のようになってきたからだ。こうなると、部屋の天井にぶら下がっている、飛行機のプロペラのように巨大な扇風機の風も、ほとんど効かなくなる。
 私たちは手早く身支度(みじたく)を済ませると、部屋の外に出てドアを閉め鍵を掛けた。
 階段を降りて薄暗い建物の中からいきなり外に出ると、燦々(さんさん)と降り注ぐ南国の太陽の光が眩しい。
 外国人ツーリストで賑わっているこの通りには、飲食店や旅行会社などが数多く軒を連ねている。私たちはその中の一軒に入ると、私はヤエに通路の端の椅子に腰掛けて待つように言って、自分はカウンターの前に並んでいる椅子の一つに腰掛けた。
 カウンターの中の女性が、コンピューターの画面を見ながらてきぱきと処理を行なってくれたので、チケット購入とキャンセル待ちの手続きはすぐに終わった。明後日の午前0時15分発エアー・スンダル成田空港行きだ。
 この店を出ながら、私はヤエの分のチケットを彼女に手渡した。
 路上に出たヤエは、しばらく立ち止まってそれを見ていたが、怪訝そうな顔を私に向けて尋ねた。
「日本に行くのに、なぜ Air Sundar(エアー・スンダル)なの?」
 私が先導して歩き出すと、彼女も再び歩き始めて私と肩を並べだ。その彼女の問いに私は歩きながら答えた。
「乗務員に日本語は通じないしサービスは普通だけど、とにかく安いんだもん。日本の航空会社……エヤライン・カンパニーね……は、日本語が通じてサービスは最高だけど値段も最高。それなら俺は安い方を選ぶ。」
 彼女は、そのチケットを自分の布製のポシェットの中に収めてからこう言った。
「あたしなら、自分が生まれた島の会社を選ぶけどな。」
 私たちはそのまま仲良く並んで、人通りの多い歩道を歩きながら会話を交わした。
「そのヤエの島の会社は、ヤエに優しいの?」
「うん、もちろんそうだろうね、もしあれば。ハハハ。」
 彼女は、そう言って明るく笑った。瓶ヶ島に航空会社などできるはずがないので、彼女のその冗談に私も笑って言った。
「ハハハ! 俺が生まれた島の会社は、お金持ちには優しいけど、俺のような人には冷たいんだ。だから俺は、優しくしてくれる会社の方を選ぶんだよ。」
 彼女は怪訝そうに言った。
「カカシのような人って?」
「自然に生きようとしてる人間さ。」
 彼女はまた怪訝そうに尋ねた。
「自然に生きるって、人間として当たり前のことなんじゃないの?」
「ところが、その当たり前のことが当たり前じゃなくなってるのが、この文明世界なんだよ。」
「ふーん。」
 彼女は、まだあまりピンときていないようだったが、私は取り敢えず微笑んで言った。
「まあ、だんだんとそれがどういうことなのか、わかってくるさ……。その文明世界で俺のような人間は、様々な障害を乗り越えて生きていかなければならないってわけ。」
 それに対して彼女は苦笑いしてこう言った。
「そう言うと、なんだかあんたがとっても頑張ってるみたいに聞こえるよ。」
 私も笑って言った。
「ハハハ、そうだよね。実は自分の好きなことして、楽しんで生きてるだけなんだから……。」
 先ほど見たように、この都市の大通りの交通量は大変なものだが、裏通りはそれとは対称的に人間らしさで満ち溢れている。特に露天(ろてん)の市場は活気があって魅力的だ。たまたま私たちの泊まっている宿の近くにも、そのような市場があったので、私たちはそこを見物してみることにした。
 買い物客は全て現地の人で、外国人ツーリストの姿は私たち以外にはなかったが、この市場に並んでいるどの露天でも、タイ語で書いてある商品の価格に、西洋の数字が併記してある。そのため、タイ語は片言しか喋れず、その読み書きとなると全くできないこの私でも、なんとか買い物をすることができるのである。
 この市場には、食料品から衣料品、日用雑貨などのありとあらゆる物が売られている。中にはタイの歌謡曲が録音されたカセットテープを売っている屋台もあり、そこからは多分最新の流行歌なのだろう、リズムマシンとデジタルシンセを使った薄っぺらでけたたましい音楽が、割れるような音量で掛かっている。但し、そのヴォーカルの女性の歌は、伝統的な歌唱法によるものらしく、かなり上手だったので、それ自体はあまり耳障りに感じなかった。
 ヤエは、野菜や果物一つ一つを珍しそうに見ていた。瓶ヶ島にないものも多かったが、お馴染みのものもある。彼女は私の耳元で囁いた。
「ねえ、これって pineapple(パイナップル)よね?」
「そうだよ。買って帰ろうか。」
 彼女が頷(うなず)いたので、私はその小振りのものを一個買い求めた。店のおばちゃんは天秤(てんびん)ばかりでその目方をはかり、その金額をタイ語で「9バーツ25サタン」と言った。私は財布の中から10バーツ紙幣一枚を取り出すと、それを彼女に手渡して釣り銭を受け取った。
 その後しばらく、この市場をあちこち見物した私たちは、また宿のある通りに戻ると、ツーリスト向けの小さな食堂に入った。この通りで私が一番気に入っている店だ。
 この店のメニューは、活字の英文で表記されているが、ここのおばちゃんは英語が話せない。だから客はいつも少ない。そのため、注文してから待たされる時間が比較的短い。しかも、値段が安い割りに味は悪くない。言葉のことは、こちらが少し努力してタイ語を話せば済むことなので、私にとっては全く問題ない。
 壁に大画面テレビを据え付けて、ハリウッド映画のビデオを上映しているような大きな店は、いつも外国人ツーリストで大賑わいだが、その分料理の値段も高いし延々と待たされることになる。それなら、すいていて値段の安い店の方を私は迷わず選ぶ。そのために英語ではなく、現地の言葉を覚えて話すことも悪くないと思う。ここはアメリカじゃなくてタイなんだから。
 この国の伝統的な大衆食堂には、どれもドアなどというケチなものは付いていない。通りに面した店の壁というものが、そもそも存在しないからだ。私たちは、通りに一番近い小さなテーブルの席に向かい合って座った。天井では、巨大な扇風機が唸りをあげて回り、番台の横に置かれたテレビでは、「のど自慢」のような歌番組をやっている。
 ヤエは私の肩越しに、そのブラウン管を眺めていた。彼女の生まれた島には、前にも述べた理由から、この機械が存在していない。しかし、月に一度島に配給されて上映される映画は子供の頃から見慣れているし、ここへ来る前にも空港のロビーや機内でこれを目にしているので、特別関心を示しているわけでもなかった。ただ、食堂というものに客が入ってから、普通ならまず何をするのかということを知らなかっただけだ。
 コンクリートの歩道からは、明るい陽光が乱反射して店の中に入って来ている。私は早速、テーブルの上に置かれているメニューを手に取ると、それをヤエにも見えるように立てて、その光に照らした。しかし、今まで店で食事をしたことのないヤエにとって、これはただの紙切れに等しい。彼女の国の首都のある島からここへ来るまでは、ずっと飛行機の機内食だったので、黙っていても料理が目の前に出て来たが、これからはそうはいかなくなるので、私は彼女にメニューの見方を教えることにした。私は、その一部分を順に指差しながらこう言った。
「……この列が料理の名前で、……この列が値段。わかるよね?」
 彼女は頷いて言った。
「うん、わかった。」
 英語なら、私よりも彼女の方が達者なので、飲み込みは早い。
「俺がこの店で一番好きなの、これ。」
 私は、メニューの一番上のあたりを指差して微笑んだ。
 ヤエはそれを、ちゃんとしたイギリス式の発音で読み上げたが、最後に首をかしげた。
「Noodle soup and chiken ... twelve point zero zero...?(鶏湯麺、12.00...?)」
 私はその説明をした。
「そう。この国のお金の単位は、サタンとバーツで、100サタンが1バーツだから、こう書いてあれば値段は一つ12バーツってことになる。」
「ハハハ、そうか、一番安いのね。」
「そう、安くてうまいんだ。ヤエはどれがいい?って言っても、これじゃ何がなんだか、わかんないよね。」
「うん。fried rice (炒飯)とかはわかるけど……。カカシと同じのがいい。」
「ん。足りなかったら、後からまた何か注文しよう。」
 私は店のおばちゃんに、そのヌードルスープ二つを注文すると、今度はヤエに向かって尋ねた。
「……箸持って来たよね?」
「うん。」
 ヤエはそう言って、自分のポシェットの中から竹製の箸箱を取り出した。移動中は全て外食だから必要になると言って、瓶ヶ島を出るときに持たせたのだ。私も、自分の布製の肩掛け袋の中から箸箱を取り出した。
 私はヤエにメニューを見せながら、そこに書かれているタイ料理や西洋料理を簡単に説明した。メニューにはそれらの名称がアルファベットで書かれてあるが、外食未経験の彼女にとっては、いずれもさっぱりわからない単語だろう。
 そんなことをしているうちに、早くも店のおばちゃんが盆の上に丼を二つ乗せて調理室から出て来ると、私たちの目の前にそれを置いていった。そこからは、うまそうな匂いのする湯気が立ち昇っている。私は微笑んで言った。
「これを食べるんなら、やっぱり箸でなきゃ。」
 ヤエも微笑んで言った。
「そうだよね。」
 私たちは店のフォークは使わずに、自分たちの箸と店のスプーンを使ってそれを食べ始めた。
「どう?」
 私が尋ねると、彼女は少し嬉しそうに答えた。
「うん、初めて食べる味だけど、まあ美味(おい)しいよ。」
 この店のヌードルスープは、日本の豚骨ラーメンをやや薄めたような感じで、麺も博多風の細い麺だった。この都市には中国系の人が多く住んでいるので、多分彼らからの影響であろう。
青唐辛子の酢漬け  私は、テーブルの中央に置かれている小さなガラスの容器を手前に引き寄せると、その蓋を開けた。そして、その容器に付属しているステンレス製の小さなトングを使い、その中のものを自分の丼の中に放り込んだ。そして、ヤエの方にそれを押し遣って言った。
「これ、なんだかわかるよね。」
 ヤエは頷いたが、一応忠告しておく方が親切だと思ったので、私はこう付け加えた。
「瓶ヶ島のもかなり強烈だったけど、この国のは世界トップクラスだよ。」
 それは、輪切にした青唐辛子の酢漬だった。この国の食堂のテーブルには、必ずと言っていいくらい常備されている。丁度日本の一味唐辛子のような存在だと言えばわかり易いだろう。しかし一味唐辛子と違うのは、少量入れただけでも料理の味が劇的に変化するという点だ。いや、料理が変化するだけではない。「人体までも変化させてしまう」と言った方が適切だろう。
 既に私の口の中には目に見えぬ火災が発生し、額と鼻の下からは玉のような汗が流れ落ちてきた。更に脳には強い衝撃が走り、前頭葉(ぜんとうよう)が麻痺(まひ)したような状態になった。この衝撃に快感を覚えるようになれば、あなたはもう立派な辛物好きだ。
青唐辛子の酢漬入りラーメン  彼女は私の忠告に従がって、最初は一切れ入れただけだったが、スープを飲んでみてから言った。
「……うん、確かにね。でもあたし、もう少しいけるわ……。」
 彼女はそう言ってそれをもう三切れほど加えた。さすが瓶ヶ島の女だ。カプサイシンに慣れ親しんでいる。これなら、我が家の食生活にも直ちに順応することができそうだ。
 しばらく二人ともそれをフーフーと吹きながら黙々と食べていたが、やがて私が食べ終え、続いて彼女も食べ終えたので私は一応確認してみた。
「どう? もっと何か食べる?」
 彼女は首を横に振って言った。
「うぅん、もういい。」
「量は少なく見えるけど、結構腹八分になるんだよね、これが。……じゃ、行こうか。」
「うん。」
 私たちは椅子から立ち上がった。
 出入り口横の番台に座って先ほどからテレビを見ていたこの店のおばちゃんに、私は50バーツ紙幣を手渡してお釣りを受け取ると、ヤエと共に店を出た。
 途中で土産物屋に寄って絵葉書一枚を買った私たちは、宿に帰って部屋に入ると、すぐに扇風機を回して窓を開け放した。先ほど外を歩いて音と空気に慣れたせいか、彼女はもうそれに対する苦痛を訴えなくなったのは良かったが、今度は別のことを訴え始めた。彼女は自分のベッドに腰掛けると、私に向かって変な顔をしてこう言った。
「……ねえ、カカシ。さっきの noodle soup、まず最初にスープを飲んでから思ったけど、なんだか舌の奥に突き刺さるような感じがしたの。それがまだ口の中に残ってて、気持ちわるーい……。」
 私も自分のベッドに腰掛け、通路を挟んで彼女と向き合うと、苦笑いしてこう言った。
「ああ、それはアミノ酸のせいだよ。」
 彼女は怪訝そうな顔をして尋ねた。
「網野(あみの)さんが、どうかしたの?」
 それを聞いた私は、ヤエには悪いが思わず笑ってしまった。
「ハハハハ!」
 彼女が更に怪訝そうな顔をしたので、私はその説明をした。
「違う違う。人じゃなくて、アミノっていう酸のこと! ハハハハ!」
 瓶ヶ島には、網野という苗字を持つ人が少なからずいるので、彼女が勘違いするのは無理もない。でも、可笑しいのを我慢するわけにもいかない。彼女は怒ったような口調で言った。
「もぅ! そんなに笑わなくってもいいじゃない、知らなかったんだから!」
 私は笑うのをやめて言った。
「ご免ご免。
……そのアミノ酸の味だよそれは。」
 彼女は再び怪訝そうな顔になって尋ねた。
「何なの? それ?」
「化学調味料とも言うけどね。まあ、料理に味を付けるための薬みたいなもんかな。」
 彼女はちょっと困った顔をして言った。
「あたし、これ好きじゃない。」
「俺もだよ。」
 ヤエは訝しそうに言った。
「でも、あんたさっき『Noodle soup and chiken が一番好き』って言ってたじゃない。」
 私は微笑んで言った。
「化学調味料は好きじゃないけど、それにも増してヌードルスープが好きなだけさ。」
 彼女は眉を寄せて言った。
「何? それ? わけわかんないよ。」
 それまで天然の調味料の味しか知らなかった彼女にとって、多分これは生まれて初めて口にする味覚だろう。私は苦笑いして言った。
「まあ、自動車の騒音や排気ガスと同じで、慣れればあまり気にならなくなるよ。」
 彼女は、何を言ってるんだという顔になって言った。
「ちょっと、あんたそれ、本気で言ってるの?」
 私は笑って言った。
「ハハハ、冗談、冗談。俺んちの一からつくる料理には、入れてないから安心しな。ヌードルスープ用の調味料には元から混ざってるんで、仕方なく食べてるときもあるけど。」
 彼女は不思議そうに尋ねた。
「一体何のために、そこに混ぜてるの?」
「味付けのためだよ。」
 彼女は、やや呆れたように尋ねた。
「これが、何の味付けになってるの?」
「味の要素には、辛味・苦味・酸味・甘味の他に、『うま味』があるんだって。その『うま味』の味付けなんだそうだよ。」
 彼女は眉を寄せると、責めるような口調でこう言った。
「これのどこが『うま味』なのよ!?」
 私は、やや真面目な顔になって言った。
「俺もそう思うよ。」
 彼女は悲しそうに言った。
「さっきの唐辛子の酢漬みたいに、お客が好きなように入れられるようにしたらいいのに!」
 私は苦笑いして言った。
「いや、そうすると山のように入れる人がいたりして、店としては困るんだろう。」
 ヤエは眉を寄せると、訝しそうに尋ねた。
「そんなに好きな人がいるの?」
「うーん、好きっていうか、思い込みだろうね。『これを入れると絶対うまくなるんだ』っていう。」
 彼女は笑って言った。
「ハハハ、変なの!」
 しかし、すぐに真剣な表情になった彼女は、こう尋ねてきた。
「日本にもあるの?」
 私もまた、やや真剣な表情になって言った。
「あるある。そもそも最初に使い始めたのは日本人なんだそうで、俺が物心付いたときにはもう台所にあったから、四十年以上の歴史があることだけは確かだね。」
「それが、Thailand(タイ)にも広まったってわけね。」
「そう。タイだけじゃないよ。今や東アジア全域の食卓を席巻(せっけん)してるんじゃないかな。インドから西では全然見なかったけどね。」
 彼女は、やや目を見張って尋ねた。
「何でかな?」
「どうも、海産物を水で煮て出しを取る食文化の国々で広まってるような感じだよ。日本とか中国というような。」
 ヤエは、やや明るい表情になって言った。
「それなら、India(インド)系の料理には入ってないのね。」
「そのはずだよ。インドやパキスタンでは、香辛料と香味野菜を油で炒めてだしを取ってるから。イタリア料理にだって、そういうつくり方のパスタソースとかには多分入ってないだろうし。」
 ヤエは、やや驚いたような表情になって言った。
「それじゃ今の日本では、ちゃんと出しを取ってないってこと?」
「昔と違って近頃の人は、お金稼ぎの方に忙しくしてるから、そういうことに手間を掛けてられない家庭が多いんだろう。」
 彼女は、また眉を寄せて言った。
鯖の粗のだし
鯖のアラのだし
干し椎茸と昆布のだし
干し椎茸と昆布のだし
「それって、そんなに手間が掛かることなの?」
 料理の本を見ると、ちゃんとしただしの取り方は、昆布を水に浸して鰹節を削ることから始まって、やや手間の掛かることだ。しかし、飲食店ならいざ知らず、一般家庭でそこまでする必要はないと思う。
 ちなみに我が家では、魚のアラを煮る専用の鍋があって、週に一度それでだしを取ったものを鍋ごと冷蔵庫で保存している。また、昆布と自家製干し椎茸を水に浸したものも、同じく冷蔵庫に常備している。それらがあれば、時間的にはインスタントだしを使うのとあまり変らない。だが世間では、そのような微量の手間すら疎(うと)んじる人が圧倒的に多いのだろう。
 私は苦笑いして言った。
「そうそう。人呼んで『手抜き支援調味料』。」
 彼女も苦笑いして言った。
「忙しいんなら仕方ないんだろうけどさ……。
どうでもいいけど、この後味なんとかならないの?」
 私は先ほど果物を買って帰ったことを思い出し、卓の上に置いてある自分の肩掛け袋の中から、パイナップルを取り出しながら言った。
「そうそう。……これがあったよね。」
「ああ良かった!」
 ヤエは嬉しそうにそう言うと、そのパイナップルを持ってシャワー室に駆け込んだ。彼女がそれを洗っているあいだに、私は自分のバッグの中からステンレス製の鍋と皿を取り出して、彼女のベッドの上に並べて置いた。
 シャワー室から戻って来た彼女は、サンダルを脱いで自分のベッドの上に上がると、鍋や皿の前に胡坐(あぐら)をかいて座り、鍋の蓋を取って裏向けに置いた。彼女は、スラックスのポケットから小刀を取り出してその鞘(さや)を抜くと、その鍋の蓋の上でパイナップルを輪切にしてから、その皮を剥き始めた。
 このヤエの小刀は、飛行機に乗るたびに空港の金属探知機やボディーチェックで必ず引っ掛かる厄介物(やっかいもの)だ。空港で荷物を預ける前に、その中に入れてしまえば済むことなのだが、そう勧めても彼女は全くそれに従がおうとしなかった。これが発見されると、少女のあどけなさをまだ残しているヤエの平然とした顔とこの物騒な刃物とが、係官の点になった目によって見比べられ、私は大量の冷や汗をかくことになるである。とにかく、できる限り肌身離さず持っていないと気が済まないようだ。しかし日本まで、あとひとっ飛びだ。辛抱しよう……。
 間もなく、甘酸っぱい香りが扇風機の風で拡散されて室内に充満した。黄金(こがね)色の果肉を皿の上に並べていた彼女が言った。
「食べようよ。」
 とにかく口の中の違和感を、一刻も早く何とかしたいのは彼女の方だったので私は言った。
「ヤエから先に食べなよ。」
「ありがとう。それじゃ頂きまーす!」
 嬉しそうにそう言って、それを一切れ口に入れた彼女は、間もなく晴れ晴れとした表情になって言った。
「……うん! ちゃんとした pineapple の味だ! ……ああ、すっきりした。」
 私も立ち上がって皿に手を伸ばし、一切れ頬張ってから嬉しそうに言った。
「うん、うまい。」
「…… pineapple は日本にもあるの?」
 ヤエの問いに私は答えた。
「うん、南の方では昔からつくってるみたいだ。北の方に昔はなかったけど、近頃は外国から飛行機で運んできてるみたいだよ。」
 彼女は、やや目を見張って言った。
「へー! それじゃ、お金掛かってるんだね。」
「そう。それでも日本では売れるんだ。日本の大きな食料品店を見たら、ヤエきっとびっくりするよ。世界中の食材が手に入るんだから。」
 彼女は、あまり気乗りしないような口調で言った。
「ふーん。いろいろと食べる楽しみがあっていいね。でも、どうせどれも高いんでしょ?」
「うん。日本は物価が高いから、物価の安い国の農産物を輸入すれば、普通の人でも買える値段で売れることになるんだ。」
 ヤエは不思議そうな顔になって尋ねた。
「……日本には果物畑がないの?」
「いや、あることはあるよ。でも、こんな調子で輸入農産物が増えてるから、農家はみな困ってるよ。」
「お米とか野菜は、どうなの?」
「それもつくることはつくってるけど、近頃はお米を食べる人が減って、輸入された小麦でつくられたパンを食べる人が増え続けてるんだって。だから、毎年お米をつくる農家が減ってるって聞いたよ。野菜も、外国から入って来る安いのに押されてるみたいだし。
そう言ってる俺も、麺は輸入された小麦でつくられたのを買ってるよ。一日一度は麺を食べないと気が済まないんで……。」
 ヤエは、やはり不思議そうな顔で言った。
「瓶ヶ島でも麺好きな人が多いから、その気持ちはわかるけど、なんで日本の小麦でつくった麺を食べないの?」
 私はヤエの目から視線をそらすと、やや縮こまって言った。
「……だって高いんだもん。毎日食べるから安いのじゃないとね。」
 するとヤエは、目を丸くして言った。
「えーっ!? 運び賃や税金が掛かっても、まだ外国産の方が安いの!?」
「そうなんだよ。」
 それを聞いた彼女は、やや訝しそうな表情になって言った。
「……今の日本て、自分の国の将来のこと考えるために、みんなで話し合うようなことしてないの?」
 私は情けない声で言った。
「……みんなで話し合ってなかったから、こういうことになってしまったんだろうね……。
だから、日本の国土から田んぼが減っていくと、自然の生き物や気候にどういう影響が出て来るのかとか、日本の農家がつくる作物の値段が何でこのようになってるのかとか、そういうことまで詳しく知ってる一般の人は少ないと思うよ。」
 彼女は、やや深刻な表情になって言った。
「それって、無関心ってこと?」
「って言うか、そういうことを知らなくても、お金さえ出せば店で食べ物が買えるんだもん。」
 彼女は、深く納得したように言った。
「日本はお金持ちの国だって聞いてたけど、やっぱりそうだったんだ……。」
 私は苦笑いして言った。
「そうそう。お金だけはあるよ。でも、それが当たり前だと思ってると、何かの弾みでお金の価値が下がったときに大混乱になるけどね。」
 ヤエは真剣な表情で言った。
「そうだよ! 今からちゃんと、みんなで話し合って考えておいた方がいいよ!」
「そうだよね。でも、今のままじゃ、ちゃんとした話し合いはできないよ。」
 彼女は訝しげに尋ねた。
「なぜ?」
「だって、本来農家を支援するはずの組合は、農家からお金を搾り取らないと経営が成り立たないという悪循環に陥ってるんだもん。
商社は商社で、原価が安い農産物を外国で仕入れ、物価の高い日本で売って儲けようとする。
消費者は消費者で、より安い商品であれば、産地がたとえ外国であっても、ついつい買ってしまう。
政府は政府で、農産物の価格を調整するために、田んぼを減らしたり関税を高くするっていう将来性のない対策を採り続けてる……。
こうしてみなそれぞれが、別々の立場で物事を考えて行動してるからだよ。」
 彼女は一つ一つを噛み締めるように聞くと、やや憤慨した口調で言った。
「それじゃその皺(しわ)寄せは、全部日本の農家に行くことになるんじゃない!!」
 私は残念そうに言った。
「そうゆうこと。」
 ヤエは心底驚いたように言った。
「へー! あたしたちの町では考えられないことだわ!」
「そうだろうね。瓶ヶ島では、何にしてもまず島の自然と農業や漁業のことを中心にして、みんなで話し合って考えてるからね。」
「せめて、自分が食べてる物のことぐらい、もっと考えてもいいのに。」
「そうだよね。でも多くの人たちは、目の前のことで頭が一杯になってて、そこまで考えられないみたいだよ。」
「なんなの? その『目の前のこと』って。」
「『どうしたら、もっとたくさんお金を稼げるか』ってことさ。」
 ヤエは残念そうに言った。
「あたしは、一番目の前にあることって、まず食べることだと思うけどなぁ。お金を稼ぐのはその次だよ。」
 私は、仕方なさそうに言った。
「瓶ヶ島と違って日本では、農村や漁村でない限りお金がなけりゃ食べ物が手に入らないんだから仕方ないよ、これは。」
 そして、やや真剣な口調になってこう続けた。
「……もっと正確に言うとだね、多くの人は『これでいいのかな?』って、心のどっかで思ってると思うよ。でもね、今の日本の社会や産業の仕組みからすると、自分が働いてる会社が潰れると自分も食っていけなくなる。だから、みんな多少自分を犠牲にしてでも、会社のために働かなきゃならなくなるんだ。
要するに、社会や企業が一人歩きをしてるんだよ。」
 彼女も、やや真剣な表情になって言った。
「そうか……わかったわ、それは気の毒なことだね。
だけど、食べるものをよその国から買うのが当たり前になってしまうと、もしその国が台風とか津波とかに見舞われて、日本に回す分がなくなったときはどうするのよ?」
 私は苦笑いして言った。
「きっと、政府が他の国々の裏口を叩いて回るんだろうね、札束を山のように積んで。それが今までの日本のやり方だったんだろうから。それが表からは見え難いもんで、一般の人の食に対する危機感も薄いんじゃないかな。」
「あたしたちの町に、『田畑(でんぱた)あっての金銭』ていう諺(ことわざ)があるわ。」
 私は感心して言った。
「なるほど……。まず食べ物がなけりゃ、いくらお金を持ってても生きていけないってことか。」
「そうよ。もし、世界中で災害が起きたらどうするのよ。」
 その言葉を聞いた途端、私は一瞬背筋が凍る思いがした。彼女のその言葉の背景には、ここ数年の地球規模の異常気象や、インド洋巨大地震による大津波を連想させるものがあったからだ。私は深刻な表情になってそれに答えた。
「……多分、都会では飢えで死ぬ人が出るだろうね。でも、田舎に住んでる人は当分大丈夫だよ。専業農家じゃなくても米や野菜をつくってる家が多いから。」
 ヤエは、やや安心したような表情になって言った。
「それじゃ、都会の人は田舎へ逃げれば助かるんじゃない。」
 その一方、私は浮かぬ顔で言った。
「……うん、その場しのぎでね。日本が戦争してた頃は、空襲から逃(のが)れることも含めて、都会の人はそうやって生き延びてたって聞いてる。でも、田舎の人の食料の蓄えには限りがあるし、もしそうなったら日本は大混乱に陥るよ。昔と違って、今では日本の人の八割が都会に住んでるんだから。」
 彼女は、空ろな声で独り言のように言った。
「……不思議な国。なんだか、お金の海の上に浮かんでる島みたい……。」
「そうだよね。それが本来ただの金属と紙なんだってっことをすっかり忘れてる。しかも、近頃ではパソコンや携帯電話で何でもできるようになってるから、お金は画面の中の数字になってるんだ。電気がなけりゃ見れない数字に……。」
 私たちは話しに夢中になりながらも、買って来たパイナップルを半分も平らげてしまったことに気が付いた。とにかく暑いので、体が自然と水分を要求しているのだろう。私は残ったパイナップルを指差して微笑んだ。
「これは、後のお楽しみに残しとこうよ。」
 彼女も微笑んで言った。
「そうね。」
 私たちは果物を片付けると、シャワー室で手を洗って来た。
 ヤエはサンダルを脱いで、カバーが掛けられたままの自分のベッドの上に上がると、そこにごろんと仰向けになって天井を見詰めながら、なかば独り言のように呟いた。
「……日本の人は、みんなそれでいいと思ってるのかしら?」
 私もゴム草履を脱ぐと自分のベッドに仰向けになり、天井で回転している大きな扇風機の中心を見ながら言った。
「うん。『仕方ないな』とか『ま、いいか』と思ってる程度なんだろうけど、忙しくてそこまで考える時間のない人が一番多いんじゃないかな。」
 彼女は溜め息混じりに言った。
「……あたしたちの島では、有り得ないことだわ……。」
「そうだよね。瓶ヶ島の人は、お金は余り持ってないけど、物事をじっくりと考える時間がたっぷりある。そうすると、島の上で人は生まれ、その自然の恵みを食べて育ってることがすぐにわかる。
日本でも、島の自然によって自分が生かされてるってことがちゃんとわかれば、自分が今何をすべきなのかが、はっきり見えてくると思うんだけどね。」
 彼女は、私の方に顔を向けてこう言った。
「日本の島は大き過ぎて、そのことがわかりにくいんじゃないの?」
 私も彼女の方を向いて言った。
「うん、それもあるだろうな。日本でもわりと小さな島に住んでる人なら、自分たちがその島に育てられて生きてるってことを、案外簡単に感じられるかもね。」
「カカシが住んでるっていう、双美ヶ島(ふたみがしま)はどうなの?」
 私は微笑んで言った。
「おぅ、ひしひしと感じられるよ。俺の家の畑の野菜はみな、島の土と島の空気と島の水によって育ってるんだ。そして、畑を通ったその水は海に流れ込み、その養分によって今度は藻(も)を育ててる。それを小さな魚や貝が食べて、それをまた大きな魚が食べる。それらを食べて生きてる俺は島に育てられてるんだ。島の自然を抜きにしては、自分個人のことを考えられないんだよ。」
 ヤエも私に向かって微笑むと言った。
「そうなんだよね。よその島から食べ物を買ってる人にはわからないよ。この仕組みは。」
「日本の大きな島に住む人たちだって、なるべくその島の作物を食べるようにすれば、それがわかるようになっていくと思うよ。食べ物の全部が全部じゃなくたっていい。例えば、芋だけは100パーセント島の芋を食べるとか、豆だけは島の豆だけ食べるとか。それが始めの一歩さ。
そうすると、他の作物に対しても徐々にそうしていこうっていう気持ちが湧いてくる。そして、他の島でもそれをやってみようとする動きも出てくるかも知れない。夢みたいな話しだけどね、ハハハ。」
 ところが、それを聞いたヤエは、やや困った表情になってこう言った。
「それは日本にとって良いことだろうけど、それまで日本に食べ物を売っていた国が困るんじゃないの?」
 私は、真剣な表情になって言った。
「おぉ、そうだろうね。そうでなくても、『日本はもっと買わなきゃ駄目だ!』って言われ続けてるんだから。」
 彼女は怪訝そうに尋ねた。
「何でそんな強い調子で言われるの?」
「それは、日本が世界中に機械類を売って大儲けしてるからさ。こんな極端な儲け方しなければ、誰もそんな押し売りみたいなこと言わないだろう。だから余計に思うのさ。日本の国はこれから、世界中に機械を増やすことだけじゃなくて、自分の国土の田畑を増やしていくことにも、もっと力を入れていく必要があるってね。一度にやると会社が潰れたりして大変だから、あくまでも少しずつね。」
 彼女は、納得したように言った。
「そうか、これから日本で田んぼや畑をする人が急に増えれば、その分工場で働く人は急に減るもんね。」
「そう。日本は様々な分野で素晴らしい技術を持っている。その質を更に高めながら、もっと自分の国が生み出す食べ物を増やさなければならない……。」
 ここで私は、ある重要なことを思い出した。それは、これから日本で生活することになる彼女には、是非とも知っておいて貰わねばならないことだと思ったので、やや口調を改めてこう言った。
「でも日本ではね、気候が良くて野菜が多くでき過ぎると、畑に捨ててトラクターで踏み潰すんだ。」
 それを聞いた途端ベッドから身を起こしたヤエは、私に向かって憤慨した口調で言った。
「えー!? ひどいよ、それって!」
 横になっている私も、ヤエの方を向いて言った。
「そうだよね。多分、そうしなければならない農家の人も怒ってると思うよ。でも、今の日本の流通の仕組みではどうすることもできないんだよ。野菜を運ぶだけでもお金が掛かるから。」
「あたしだったらこうするけどな……。」
 彼女はそう言って、再び仰向けになり天井を見詰めた。私は興味深げに尋ねた。
「ほう、どうするの?」
「例えばどっかの畑でナスができ過ぎたら、『〇〇農場、一人10Dollar(ドル)でナス採り放題!』っていう広告を新聞に載せる。そうすれば収獲の手間も省けるし、持ってってくれるんだから運び賃も掛からないじゃない。」
「日本の通貨は、ドルじゃなくて円だけどね……。」
 真面目な顔でそう言った私は、今度は苦笑いして言葉を続けた。
「……でも収獲した人は、毎日ナスばっかり食べることになるね。」
 彼女は、それがどうしたというような顔をこちらに向けて言った。
「いいじゃない。たまには、そういうことがあっても。それが助け合いの精神てもんだよ。」
「それは瓶ヶ島では当たり前のことだろうけど、この国ではどうかな……。そこまでする人はいないよ、きっと。」
 彼女は訝しげに言った。
「日本の国の人って、もしかして冷たい人たちなの?」
「いや、そういうわけじゃないだろうけど……。」
 私は、ここで返答に困ってしまった。これは確かに「冷たい」と言われても仕方がないことだ。その期間だけ学校給食でナスを使った料理を増やすとか、政府がナスの消費を促がすよう国民に対して呼び掛けるとかして、官民一体となった農家に対する理解と協力さえあれば、必ず問題解の糸口が見付かるはずだ。
 私は言った。
「日本には昔から、『食べ物を粗末にすると罰(ばち)が当たる』っていう戒(いまし)めがあったんだ。」
 ヤエは寝転んだままで、顔と体をこちらに向けると、頭を起こしてそれを手で支えながら言った。
「……それと似たような言葉は、瓶ヶ島にもあるよ。」
「ところが近頃では、その『ばち』っていう言葉を耳にしなくなってしまった。」
「どうしてだろうね?」
「それは、日本の国の人がみな宗教心を失ってしまったせいだろうね。だからといって誰もが宗教を信仰しなければならないと言うわけじゃないけど、俺は断言するよ。こんなことをしてると、そのうち本当に罰が当たるって。」
 彼女は不安げに尋ねた。
「どんな罰なの?」
 私もヤエの方に顔と体を向けると、やはり頭を手で支えて言った。
「……飢餓で苦しむときが必ずやって来る。今の日本からすれば全く信じられないようなことだけど、同じことが六十年ほど前に実際にあったんだ。」
「戦争のことね?」
「そう。それまでそこそこ豊かだった国が、敗戦前後を境にしてどん底に叩き落とされたんだ。今度のそれは必ずしも戦争とは限らない。異常気象による農作物の不作とかかも知れない。でも、『あのときあんな勿体(もったい)ないことをしなけりゃ良かった』って誰もが嘆くようなことが、必ず起こる。」
 ヤエは訝しそうに尋ねた。
「なんで『必ず』ってわかるのよ?」
 私は、やや興奮して言った。
「だって、昔の人の戒めって無駄なことは一つもないんだもん! それは、自分の子や孫が『同じ過ちを繰り返さないように』っていう愛情を込めて残してるはずだ。そういうことを無視し続けていると、必ずその過ちを繰り返すことになる。俺はまだ半世紀にも満たない人生しか歩んでないけど、自分の経験からそう思うんだ。」
 ヤエは、私の顔をじっと見詰めながら言った。
「それ、なんだかとっても説得力あるよ。」
 私は苦笑いして言った。
「俺の顔が老けてるってこと?」
 彼女は微笑んで言った。
「うん、あたしよりはね。」
 私も微笑んで言った。
「それって、フォローなのか、なんなのか???」
 そして気を取り直すと、話しを元に戻すことにした。
「まぁこの問題は、これからの日本の重要な課題になるだろうね……。
……ところで、何の話ししててこの話しになったんだっけ?」
「……うーん……」
 ヤエは少しだけ考えてから言った。
「『日本はもっと自分の国で農作物をつくらなければいけない』?」
 私は、やや照れて言った。
「そうそう。ご免ご免。
その話しに戻るけど、工場で働く人だって、庭やベランダがある家に住んでれば、芋や豆や野菜をたとえ一本でも植えることができるはずだ。そうすれば、自分たちが島の土と水と空気によって生かされてるってことだけでも、実感することができるようになるかも知れない。」
「でも、都会の人ってみんな忙しいんでしょ? そこまでする余裕あるのかな? あたしたちの島なら爺ちゃん婆ちゃんが畑やってくれてるけど。」
 その言葉によって私は、またヤエを驚かすようなことを言わなければならなくなった。
「ヤエは信じられないだろうけどね、日本では、お年寄りと一緒に住まないで、老人ホームってとこに預けることが多いんだよ。」
 案の定、ヤエは目を丸くしてこう言った。
「えっ!? それじゃ、一体誰が導いてくれるの? 昔のことを知ってるのはお年寄りだけなんだし。」
 私は、やや悲しそうに言った。
「都会では、昔の話しに耳を傾けない人が多いみたいだよ。」
 彼女は更に驚いて言った。
「えー!? それじゃ、国が間違った方に進んでても、それを正すことができないってこと!?」
 私は、投げ遣りな気持ちで言った。
「そういうこと。」
「それじゃ、危ないじゃないの! 前に婆ちゃんとあんたが話してるのを聞いてて、少し覚悟はしてたけど……。」
「そう。今の日本は危ないんだ。」
 ヤエが心配の余りベッドからはね起きたので、私も反射的に起きて彼女のベッドに飛び移り、その細い肩を抱いて言った。
「危ないけどね、それがわかってる人たちだっているんだ。その人たちがいれば、きっと大丈夫だよ……。
爺ちゃん婆ちゃんと一緒に住むことができない人は、みなそれぞれ深い事情を抱えてるんだろう。
でも、お年寄りが一緒に住んでる家庭なら、家の庭やベランダで野菜をつくる仕事を、そのお年寄りとその家の子供たちにしてもらえばいいんだよ。たとえほんの少しの野菜でも。そうすれば、子供たちも野菜のつくり方を覚えられるし、お年よりだって『これからは自分たちの出番だ』ってことを実感することができるはずだ。
そうして子供とのあいだに信頼関係が生まれれば、戦中戦後に苦労したようなことを話して聞かせることもできる。『あのようなことは二度と起こしてはならない』ってね。」
 ヤエの心の動揺は収まったようで、彼女はやや明るい声でこう言った。
「昔の話しを子供たちに聞かせることって、とても大事なことだよね。」
「そうさ。これからの日本を救うのは、誰よりも今のお年寄りと子供たちかも知れないよ……。彼らは自然や生き物の仕組みを素直にわかることができる。その反対に、俺ぐらいの年代の男が一番余計な物を持ち余計なことを考えて、自然の心を見失ってる。」
 ヤエは、私の目を見詰めながら言った。
「カカシはそうでもないと、あたし思うけど。」
 私は苦笑いして言った。
「俺の場合、子供のときがひどかったからね。今その反動が出てるって感じかな。」
 ヤエは意外そうに言った。
「へえ? そうだったの?」
「うん。またいずれ話すよ……。」
 ここで私は、天井に向かってグーッと伸びをしながら言った。
「……話し変わるけど、腹一杯食ったら眠くなってきた。」
「そう言われるとそうね……。」
 ヤエもそう言うと、細長い両腕で私がしたのと同じように伸びをしてから言った。
「んーーっ! あたし昼寝するっ!」
 飛行機のフライトの関係で、二人とも昨夜はあまり眠っていない。今頃になってそのことによる眠気が出て来たのだ。
 二人は一旦ベッドから降りて各自カバーを外すと、それを横の椅子の上に置いて服を脱いだ。下着姿になった私たちは、それぞれのベッドの薄い掛け布団の上に横たわった。とにかく暑いので抱き合って眠るどころではないからだ。やがて二人は、それぞれ深い眠りに就いた。

 目を開けると、天井の巨大な扇風機は相変わらず唸りを上げて回っているが、部屋の中は暗くなっており、窓からは街灯の明かりや街の喧騒が入って来ている。
 一人旅でこのような状況になると、何とも言えぬ寂しさを感じるものだが、同じ部屋の中にヤエがいるということを思い出した私は、幸せをしみじみと実感した。
 そのヤエはというと、やはり今目覚めたところのようで、薄明かりに照らされた彼女のベッドの上で二つの瞳が光っている。私はそちらに飛び移ると、そのヤエの頬に口付けをして言った。
「おはよう!」
 ヤエは嬉しそうに言った。
「フフ、夜でも『おはよう』なの?」
 私も微笑んで言った。
「いいんだ。目覚めたら、いつでも『おはよう』だよ。』
 そのような会話を交わしながら、彼女の素肌に触れていて気付いたのだが、男と女がすることをしたわけではないのに、二人とも物凄い汗だ。彼女も同じことに気付いたようで、私たちは殆ど同時にベッドから身を起こすと、部屋の電灯をともしてシャワー室に入り汗を流した。
 シャワー室から出て髪と体を拭き、バッグから出した服を着て二人ともさっぱりとしたところで、私はヤエに向かって瓶ヶ島風の言葉で言った。
「さて。夕餉のときが来よったのぅ。」
「そうね。
……それにしても食べては寝て、寝ては食べて……太りそう……。」
 そう言って彼女は苦笑いした。
 部屋を出て戸締りをした私たち二人は、薄暗い階段を降りて宿のビルから前の通りに出た。丁度夕食時なので、路上は旅行者や現地の人で賑わい、軒を連ねているどの食堂にも明々と明かりがともっていて、とても華やかだ。中でも、ハリウッド映画のビデオを上映している大きな店では、客寄せのためか、その音声を大音量で路上に鳴り響かせており、その店内は大勢の外国人旅行者で賑わっている。
 そのような店の前を素通りした私たち二人は、昼食のときと同じ店に入った。青白い蛍光灯の光で照らされた、何の飾り気もないこの店の客は、東洋系の若い男性旅行者二人組だけだった。彼らも多分、私たちと同じような理由でこの店を選んだのだろう。
 レジのある番台の横に設置されているテレビでは、クイズ番組のようなものをやっていたが、出演者はみな早口のタイ語で喋っているので、意味はさっぱりわからなかった。ヤエもそこで一瞬足を止めたが、私と同じことを感じたらしく、すぐにまた足を進めた。
 昼食のときとは違って私たちは、店の奥の方のテーブルの席に向かい合って着くと、各自その上に自分の箸箱を出した。
 ヤエにも見易いようにと、私は昼食のときと同じようにメニューを立てて言った。
「昼餉(ひるげ)とは違うのにしてみようね。」
 ヤエは、そのメニューを見ながら言った。
「うん。化学調味料入ってないのがいい。」
 私は苦笑いして言った。
「うーん、どれが入ってないかは、食べてみなけりゃわかんないよ。……試しに全部食べてみようか?」
「もう、馬鹿言わないでよ!」
 彼女も苦笑いしてそう言ったが、今度はやや真剣な表情になってこう言った。
「……日本でも、店で食べる料理はこんな感じなの?」
「まあ似たようなもんだけど、日本には、ちゃんとした理念に基づいて化学調味料一切使ってないって店、一応あることはあるよ。数はまだ少ないけどね……。」
 私も、やや真剣な表情でそう言ったが、今度はニコニコしてこう言った。
「ところで、ヤエちゃん。」
 ヤエは怪訝そうな表情になって言った。
「どうしたのよ、急に『ちゃん』なんか付けて?」
 私は、依然としてニコニコ顔で言った。
「暑いねぇ。」
「うん、暑いね。」
「ビアーって知ってる?」
「知ってるよ。飲んだことないけど。」
「飲んでみたくない?」
 すると彼女は、急に目を輝かせて嬉しそうに言った。
「飲んでみたーい!」
 私は微笑んで、メニューの一点を指差しながら言った。
「これ読めるよね。」
 彼女はその「30.00」と書かれている文字を見て言った。
「30 bahts.」
 私は相変わらず笑顔のままで言った。
「それじゃ、注文するよ。」
「うん。」
 私は、この店の店員である十歳くらいの少女にタイ語でビール二本を注文した。この子の母親である、この店のおばちゃんには英語が全く通じないが、この子は学校で習っているのか、ごく簡単な英語なら通じる。しかし私は、どこの国を訪れてもそうだが、相手の国の伝統文化に対する敬意と自分の勉強のために、なるべく英語ではなくて現地語を使うようにしている。
 ヤエは変な顔をして言った。
「カカシ、何か変だよ。さっきから妙にニコニコして。」
 しかし私は、笑顔を緩めずにこう言った。
「俺たちが泊まってる部屋の値段知ってる?」
「知らない。」
「200バーツ。……わかるかな? このビール約六本分なの。」
 彼女は、それがどうしたというような顔をして言った。
「わかるよ、そんなことぐらい。」
 そうか……。文明世界における物価のバランス感覚は、彼女の場合まだ白紙状態なのだ。そのことに気付いた私は、やっと普段の顔に戻ってその説明を始めた。
「日本ではね、ヤエ。安い宿でも大体一泊6000円はするんだ。それに対してビール……日本語でビアーのことね……は、こういう小さい瓶だと一本400円くらい。一泊ビール十五本分てこと。その感覚だとね、三本分が宿代と同じくらいの値段のビールを飲むって、とんでもない贅沢に思えるってわけ。わかる?」
 彼女は笑いながら言った。
「ハハハ、わかんないよそんなの。それじゃ、30バーツって何円なのよ?」
 このとき、盆を持った店の女の子が私たちのところに来た。彼女は、そこに乗せてあったガラスのコップ二つと、よく冷えた瓶ビール二本を私たちのテーブルの上に置くと、瓶の栓を栓抜きで抜いて立ち去った。
 私はヤエに向かって、やや早口で言った。
「80円から90円のあいだくらいかな。
……さあ、飲もう。ビールをグラスに注ぐのに、なるべく泡を出さないようにする人を日本でよく見掛けるけど、それは美味しくない飲み方。ビールはね、こうしてこのくらい泡を出して飲むのが一番うまいんだ……。」
 液体7に対してその上の白い泡が3の割合になるようにして、私は自分のグラスにビールを注いで見せた。すると、彼女は怪訝そうに尋ねた。
「美味しくないのに、なぜ泡を出さないようにして注ぐの?」
「それはね、日本は酒の文化だからさ。その感覚からすると、ビールの泡っていうのはただの空気で、液体そのものに価値がある。だから、特に他人に対して泡を多く出さないようにして注ぐのは、一種の思い遣りなんだろうね。」
「なるほど、価値観の違いなのね。」
 私は、彼女の目の前に置かれているビール瓶に目配せして言った。
「さあ、ヤエもやってみな。」
 彼女は自分のグラスにそのビールを注いだが、加減を知らなかったので泡が溢れてしまった。
「あ、勿体ない!」
 彼女はそう言うが早いか、グラスに口を付けてその泡をすすった。私は優しく言った。
「いいのいいの。誰でも最初はそうなるんだから。何度かそうやってるうちに、そのうちコツをつかめるようになるんだよ。」
 彼女は、微妙な表情をして言った。
「ちょっと苦いのね。でも冷たくて気持ちいいけど。」
「そう。リフリッジレイター(冷蔵庫)で冷やしてるからね。
これを酒やワインを飲むように舌の上でころがすと、必要以上に苦く感じてしまう。だからビール飲むときはね、こうやって喉で飲むんだ。」
 私は自分のグラスを手に取ると、その中のビールをゴクゴクと音を立てながら、いかにもうまそうに飲んで見せた。テレビのビールのCMでよくやっている、お馴染みの飲み方だ。昼寝のときに大量の汗をかいた私は非常に喉が渇いていたので、この冷えた液体が自分の五臓六腑(ごぞうろっぷ)に向かって、シュワーッと染み渡っていくように感じられた。「このような爽快感のためにビールがある」と言うのは、決して言い過ぎではないと思う。
 きっと私と同じように喉が大変渇いていたのだろう、大きな音こそ立てなかったが、彼女も美味しそうに喉で飲んでから、感慨深げにこう言った。
「……フー、なるほど、これが話しに聞く beer (ビール)か……。」
 彼女の上唇の両脇に、白い泡が薄っすらと付いているのが何とも可愛らしい。宿の部屋に二人っきりでいるのなら、私は敢えて黙っているところなのだが、店の人や他の客に見られて笑われては可哀想なので、私は自分の口元を指差しながら微笑んで言った。
「ヤエちゃん、白いお髭が付いてるよ。」
「え?」
 彼女は一瞬わけがわからないような顔をしたが、私の真似をして自分の口元に手を触れ、その存在に気付くと、ポシェットの中から手拭(てぬぐい)を取り出して口元を拭いた。そして、極めて真剣な表情になると、こう言った。
「……ちょっと苦いけど、それが何とも言えないわね……。」
 私たちは、それぞれ立て続けにゴクゴクとビールを飲んだので、小さな瓶はどちらもたちまち空になってしまった。
 私は、先ほどのようにまた微笑んで言った。
「どう? お代わりする?」
 その一方、ヤエは引き続き真剣な表情のままで言った。
「……そう言えばあんたさっき、一本80円か90円て言ってたわね。それなら、日本で飲むよりこっちで飲む方が、ずっと安いんじゃないの。今のうちに、じゃんじゃん飲んどきましょうよ!」
 さすが瓶ヶ島の女、身は細いがこのようなときの肝っ玉は太い。私は思わず目を潤(うる)ませると、テーブルの上の彼女の手をぎゅっと握り締めて言った。
「ヤエちゃん! 君と結ばれて、ほんとーーーに良かったよ!」
 ところが、彼女はなぜか急に顔を赤らめた。
「ちょっと、やめなさいよこんなところで……、ほら!」
 嗜(たしな)めるような小声でそう言うが早いか、彼女はその手を振りほどき、私の斜め後ろに向かって微かに目配せをした。その先を見ると、先ほどの二人組みの客がこっちを向いてニヤニヤと笑っているではないか! ヤエの顔立ちは東洋系ではあるがどこか日本人離れしているし、肌の色もこの国の人のそれに近かったので、何か勘違いをされているようだ。私は慌てて手を引っ込めた。
 このとき、店の女の子が今度はその二人組みの客のテーブルに、彼女の母親が調理室でつくった料理を盆に乗せて運んで行ったので、彼らの関心はこちらのテーブルからその料理の方へと移った。……助かった。
 私はヤエの方を向いて謝った。
「ハハ、ごめんごめん。」
 そして、メニューに目を移して言った。
「……さて、何を食べようか?
……せっかくタイに来たんだからタイの料理がいいよね。」
 彼女も気を取り直してそれに同意した。
「そうだよね。」
「それじゃ、まずはスープからいってみよう。トム・ヤム・クン、……この値段からすると多分インスタントのだろうけど……それから……」
 私はまたビールを注文すると、ヤエと一緒にメニューを見ながら、注文する料理を決めていった……。
 外国人旅行者向けのタイ料理と、タイの国産ビールを堪能し終えて私たちが宿に戻ると、フロントの壁に掛かっている時計の針は、夜の八時半を少し過ぎたところを指していた。ヤエと共に部屋に入った私は、出入り口の脇の壁に付いている電灯と扇風機のスイッチをオンにしてから、部屋の反対側のガラス窓を開けると、こんな独り言を言った。
「うーん、さっきが三途(さんず)の川なら、こりゃ地獄の三丁目ってとこかな。」
 明るくなった室内に入ったヤエは、サンダルを脱いで自分のベッドの上にトンと乗って胡坐をかくと、困り果てたように苦笑いしながら私に向かってこう言った。
「ねえ、……もう夜なのに、なんでこんなに暑いの?」
 私はドアを閉めると、Tシャツを脱いで上半身裸になりながら言った。
「今の時期が、この国では一番暑い季節だってのもあるけど、建物も道路も全部石やアスファルトでできてるからさ。それが昼間は太陽の光で暖められて、陽が沈んでからは熱を空気中に放出し続けるんだ。夜明けまで。」
「建物みんな、木でつくればいいのにね。」
 私もゴム草履を脱いで自分のベッドの上に胡坐をかいて座ると、石の床を挟んで彼女と向き合い、それに同意した。
「そうだよね。」
 二人の頭上では、扇風機がブンブンと音を立てて回っている。ヤエは、一瞬窓の方を振り向いて言った。
「その網をはずしたら、少しは外の風が入って来るんじゃないの?」
 私は苦笑いして言った。
「いや、外に出ててわかったと思うけど、この街では、ヤエの住んでた島のような夜風は吹かないよ。夜に網戸を開けて入って来るのは、『かぜ』じゃなくて『か』だけ。」
 それを聞いたヤエは、力なく笑った。
「ハハ……。」
 私も同じように笑ってからこう言った。
「……ヤエは、エアコンって言葉わかる?」
「わかんない。」
「エアーコンディショニングは?」
「それならわかる。飛行機や taxi(タクシー)の中でかかってたあれでしょ?」
「そう。その機械が付いてる部屋なら、こんなことにはならないんだけどね。」
 彼女は、怪訝そうな表情で尋ねた。
「それじゃ、何でその部屋にしなかったの?」
 アルコールが脳に充分回っている私は、笑顔で元気良く言った。
「一つ、なんてったって部屋代が高い! 二つ、あの独特の匂いと音が好きじゃない! 三つ、暑いとビールが尚うまい。四つ、エアコンの発想がそもそも気に食わない!」
 ヤエは笑って言った。
「ハハハ、前の三つまではまあわかるけど、何よ、その『発想』って?」
 私は、やや真剣な表情になるとこう言った。
「囲炉裏とかストーブとかはいいよ。自分の部屋を暖めても、周囲に直接の影響はないから。でも、冷房……冷やす方ね……は、部屋の中の熱を外に放り出してるんだよ。『自分の家さえ良けりゃ外はどうなったって構やしない』っていう、物質文明の象徴的発想。俺は気に食わん!」
 ヤエは、やや困った表情になって言った。
「あたし、難しいことはよくわかんないけど、こんな暑い部屋は、小さな子供やお年寄りにはこたえると思うよ。」
 私は更に真剣な表情になると、こう言った。
「それはその通りだと思うよ。でも、それを冷房で解決するのは、問題の根本的な解決にはならないよ。」
「それはまあ、そうだろうけど……。それじゃ、どうすればいいのよ。」
「それはだね、そもそも都市計画の段階で、暑さをしのぐための対策を考慮しておかなければならないのさ。
江戸だって大阪だって、何百年もの昔から大都市だったけど、その時代に暑さで人が住めなくなったなんて聞いたことないよ。ところが、たったこの六十年のあいだにどうだい! 熱のことを何も考えないでビル立てまくった結果、夏は冷房なしでは住めないような都市になってしまったじゃないか!
そりゃ、エアコンつくってる会社とそれを売る店と、電力会社は儲かっていいんだろうけど。」
 彼女は、やや納得したように言った。
「なるほど……。building(ビル)建てるときに、『どうせ冷房で冷やせばいいさ』ぐらいにしか考えてなかったんだろうね。」
「きっとそうなんだろう。ところがね、冷房をみんなが使うから、余計外の空気が温まるっていう悪循環もあるんだ。」
「外に熱を出してるんだったら、そうなって当たり前だろうね。」
「摂氏ってわかる?」
 彼女は首を横に振って言った。
「ううん。」
「センティグレイドのこと。」
「あぁ、それならわかったよ。」
「それを日本語では摂氏って言うんだよ。……世界には昔から、気温が摂氏四十度を超えるような場所もたくさんあるんだ。でも、そういう場所の古い町並みで昔ながらの生活をしてる人は、冷房なんか使ってやしない。」
「そうだろうね。古代文明の都市では、家を石や煉瓦でつくってたんだろうけど、冷房なんて使ってなかったんだから。」
「そう。都市全体がちゃんと暑さをしのげるようにできてるんだ。家のあいだに木をたくさん植えたり、水路を張り巡らしたり、路地を狭くして日陰を多くつくるとかしてね。自然の流れ、即ち気候に順応した都市づくりだよ。
ところがそこに住む人たちが、自動車を通すために堀や運河を埋めてしまったり、どこもかしこも道幅を広げたり、経済効率優先の考え方で木を切って、その代わりにビルディングを林立(りんりつ)させたりすれば、冷房なしでは生活することができなくなってしまう。そして、そのうち東京や大阪や、ここみたいなことになってしまうのさ。」
「お金を稼ぐために、その分石油や電気をたくさん使うっていうことね。」
「そうさ。しかも、この都市は元々暑いから誰もが歩くのを厭がって、近頃ではちょっとの距離でも自動車やバイクを使うようになってしまった。空港からここまで来るときに見ただろ? あの混雑ぶり。」
「うん。」
「そういった交通機関が出す熱や、それを通すためのアスファルトの道路が太陽で熱せられ、街の温度を更に上げて、余計に歩き辛くするという悪循環にも陥ってるんだ。」
 彼女は残念そうに言った。
「そうか……。落とし穴にはまってしまってるのね……。」
 彼女がこの問題の本質を即座に見抜くことができたので、私はやや目を見張って言った。
「ほう! よくわかったね!」
 彼女は、穏やかな表情で言った。
「あたしたちの島では、大人も子供もみなわかってることだよ。」
 そうだよな、そこが彼らの尋常(じんじょう)でないところの一つなんだ。私は微笑んで言った。
「エアコンなしの部屋にしたのは、まあ、そういうわけです。」
 彼女は仕方なさそうに言った。
「わかった。それなら辛抱するよ。」
 彼女が納得してくれたところで、私はあることを思い出して彼女に向かって言った。
「そうそう。バンコクに無事着いたって母さんたちに知らせようよ。」
 そして私は、ベッドの横に立て掛けてある自分のバッグの中から、A4サイズの地図帳を取り出した。これは高校のときの「地理」の教材だったのだが、旅先では何かと重宝するので、私が海外に出るときの必需品となっている。これには日本と世界の地形はもちろん、世界の気候、植生、鉱物資源、産業といった様々な資料が、ごく大ざっぱではあるが掲載されている。その情報は古いが、概要を把握するだけならこれで充分だ。しかもこれは、それだけではなく他のことにも使える。今は物を書くための「下敷き」として取り出したのだ。
 私はその地図帳に、昼間買っておいた絵葉書とボールペンを添えてヤエに手渡した。
「まずヤエから書きな。」
 ヤエはそれらを受け取ると、ベッドに腹這いになり、頭上の壁に取り付けられている青白い蛍光灯の下で早速書き始めた。その葉書の絵は、日中私たちが果物を買ったのと同じような露天市場の写真だ。「面白かった場所だ」と言って、数ある絵葉書の中から彼女自身が選んだのだ。
 ヤエがなかなか書き終わらないので、私はちょっと不安になって言った。
「おい、俺が書く分の隙間も残しといてくれよ。」
 彼女は一瞬口を大きく開けて言った。
「あっ!」
 そして、大きな声で独り言を言った。
「そのこと忘れてた!」
 私はヤエのベッドの上に飛び移ると、彼女の頭に頬を寄せながら、その絵葉書の文面を覗き込んでみた。私の目に飛び込んだのは、宛先を書く部分だけ空白を残し、英文の小さな文字によってほとんど埋め尽くされた絵葉書だった。残りはあと二行分しかない。私は苦笑いして言った。
「……しょうがないな。それじゃ、俺がスィグネチャー(サイン)書く分だけでいいよ。」
 そして、やや意外そうに言った。
「……英語にしたんだね。」
「うん、島の言葉だと漢字が混じるから場所取るんだもん。
……ご免ね、忘れてて。」
 彼女は申し訳なさそうにそう言った。私は優しく言った。
「いいんだよ。どうせ日本に着いてからまた書くんだから。封書にすれば良かったね。」
 彼女は、首を横に振って言った。
「ううん、これで良かったよ。写真もあった方がいいから。」
 瓶ヶ島の人たちは、とにかく話し好きだが、島外から来る手紙もまた大好きだった。テレビやパソコンがないので、そのような手紙が彼らにとって貴重な情報源であり会話のネタともなる。そのことを知っている島外に出た者は、自分の見たこと聞いたこと感じたことをびっしりと紙に書いて家族の元に送るのである。それを受け取った家族は、町民集会の席でその内容を町のみなに披露するのが慣例となっている。
 私としては、ただ単にバンコク到着の知らせをするくらいに考えていたのだが、生まれて初めて外国に出たヤエにとっては、見るもの聞くものの全てが新鮮だったので、きっとその全てを島の者に伝えたくなってしまったのに違いない。私は彼女の耳にキスして髪を撫でながら言った。
「それじゃ、俺の家に着いたら書きたいことを好きなだけ書こう。そして、写真もたくさん撮ってそれと一緒に送ろう!」

 新婚夫婦が夜のベッドの上で何をするかは、もう大体決まっていることだが、初夜ならともかく、この暑いのにそれをだらだらしていると終(しま)いにバテてくる。することを一通りして互いに満足したら、あとはさっさと眠るのがクールな選択というものだ。ところが、情欲が「クール」になっても、気温がそうならないのには困った。
 水のシャワーを浴びれば体温は一時的に下がることは下がるのだが、体温よりも熱くなっているベッドで寝ていると、すぐにまた元に戻ってしまう。そもそも、気温が体温よりも高いのだから、それは仕方のないことなのだろうが、そんなことをそれぞれが何度か繰り返していたので、二人は夜通し眠れなかった。
 それでも涼しくなって、やっと眠れると思ったら、その後間もなく夜が明けてしまった。それでも二人は、ここぞとばかりに眠った。
 暑さで目を覚ました私は、まず明るい窓の外に目をやった。網戸越しに南国の青空が見えており、そこからは爽やかな朝の風が入って来ているが、それとは対照的な街の騒音も容赦なく入って来ている。枕元に置いてある腕時計を見ると、時刻は八時を少し過ぎたところだった。隣りのベッドのヤエも、間もなく目を覚ました。
 私たち二人は、身支度(みじたく)を済ませると、まだ比較的涼しいうちに街へ出た。
 いつもの食堂で朝食を済ませた私たちは、近くの小さな郵便局に立ち寄った。昨夜書いた絵葉書を出すためだ。薄暗い局の中に入ると、私はまず瓶ヶ島まで葉書を送るために要する航空便の料金を窓口で尋ねた。窓口の係員のおじさんは、私と同じくらいたどたどしい英語だったが、丁寧にそれに答えてくれた。私は、その料金を窓口の中に差し入れて切手を求めた。
 そのおじさんは、美しい花の絵柄が施された記念切手二種類を、一枚ずつ出してくれた。きっと私が観光客だと思って気を利かせてくれたのだろう。葉書を受け取った方としても、このような切手が貼られていると、喜びも更に増すと思う。なかなか気の利いた係員だ。
 私はそれを受け取ると、カウンターの上に葉書を置き、切手の裏に水を付けてそれに貼り付けた。日本でなら切手の裏に唾を付けても問題ないが、国によっては他人の唾液が付いた物に触れることを厭がる人もいるので、一応その配慮をしたのだ。
 ヤエが覗き込んで言った。
「きれいな stamps(切手)なんだね。」
「そうだね。ヤエの国にもきれいなのたくさんあったけど、大体世界中で南の国のは色鮮やかなのが多いみたいだ。」
 子供の頃に、趣味で切手集めをしていたことがある私はそう言いながら、その絵葉書を窓口の中に挿(さ)し入れた。すると、先ほどの係員が、景気良く大きな音を立てて消印を押した。そして、すぐ横の床の上に置かれている航空便専用の箱の中に、それを無造作(むぞうさ)に放り込んだ。これが日本なら、「客の郵便物を粗末に扱ってる!」と思って怒る人もいるかもしれない。でも、この国でそんなことを思う人は、まず誰もいないだろう。
 少なくとも私の知る限り、客に対する店員の態度を世界で最も気にするのが日本人だ。その繊細さが、日本の企業の接客態度や製品の品質を高めていることは間違いないと思う。
 しかし、遊びに来ているはずなのに、つまらないことで腹を立ててしまったがため、せっかくの海外旅行を台無しにしているような日本人を、私は旅先で何度か見掛けたことがある。子供の頃に海外で生活していたから、私は余計にそう思うのかも知れないが、日本国内でならともかく、一歩外に出るのであれば、その国の国民性や価値観を前もってよく調べておき、それをちゃんと理解しておくべきだろう。「郷に入らば郷に従がえ」の精神である。
 郵便局を出て再び南国の朝の光の中に戻った私たちは、その近くのバス停からバスに乗り、今日の観光コースである市内のタイ国立博物館へと向かった。
 その国のことを大まかに知る一番手っ取り早い方法が、市場(いちば)見物と博物館見学であると私は思っている。特に、その国の首都にある国立博物館には、その国の各地から集められた第一級のお宝が、「どうだ!」とばかりに展示されている。それらを年代順に見ることによって、その国の文化が現在に至るまでの変遷(へんせん)を、感覚的に把握することができるのだ。
 これを歴史の本や美術書などで調べるとなると、それを記憶するための多くの脳細胞と、多くの時間が必要となるが、博物館を足早に見て回れば、比較的少ない脳細胞と短い時間でそれを済ますことができるのだ。観光する時間があまりない場合や、暑くてあまり頭が働かない場合などには、最もお勧めのコースである。
 入場料を払った私たち二人は、他の入館者に混じって広い館内を順番に見て回った。
 展示物の陳列ケースの下には、タイ語と英語でその展示物に対する説明が書かれているが、私はタイ語は読めないし、難しい英単語もわからない。ところが、中卒のヤエがその英語の説明のほとんど全てを、難なく理解することができたのには驚いた。学校では基礎的な英語を習っただけで、あとは図書館の本や英字新聞などを辞書で調べながら読んでいるうちに、各分野の専門用語や学術用語などをいろいろと覚えてしまったのだそうだ。そのヤエが翻訳(ほんやく)してくれたので、私としては大いに助かった。
 私たちは、かなり足早に見たので、じっくり見れば数日掛かるような広さの博物館を、たった三時間足らずで出てしまった。出入り口の門を潜りながら、ヤエは感慨深げに言った。
「……ふーん、なるほどね。元からあった青銅器文化に、India と中国の文化を加えて、更に独自に発展させたって感じだったね。」
 今まで本で読んだり映画を見たりして、彼女は世界の国々の文化の特徴をある程度把握している。だから、このような規模の博物館を見て回るのは生まれて始めてのことであったが、この国の文化に対する見解も一般人としては、かなり当を得たものであるように思う。先ほどの英語のこともそうだったが、これで中学までしか出ていないというのだから、益々それが信じられなくなってくる。この謎をとく鍵は、瓶ヶ島の社会の仕組みと町立図書館の存在にあった。
 彼女の生まれた島は、国の中央政府から一つの州として自治権が与えられている。そこには、全島民が出席できる町民集会というものがあって、島の政治を動かすようなことは、全てこの集会によってはかられる。日本の県議会と市議会を一つにまとめたようなものが、その全ての住民に対して公開されているということだ。
 しかも、男女とも満十六歳になると、誰もがそこで発言することを許されており、もちろん日常的な議論においても大人として扱ってもらえるので、その発言を直接町の政治に反映させることが可能となる。だから、そのような場で年長者と対等に議論するためには、相手に負けないだけの知識と教養が必要なのである。
 それを得るのは、主に国内のラジオ番組は元より、海外短波放送のニュースと教養番組、そして町の図書館からだった。この図書館の蔵書は約三万冊と、比較的小規模であったが、そのほとんどは世界各地の古本屋から仕入れた物だそうだ。そのため、情報はやや古かったが、その内容は広範囲にわたっており、いずれもかなり充実しているのに驚かされた。言い方を変えれば、この世界全体の事象を大まかに把握するための情報を、特選して揃えているといった感じの図書館なのである。
 もちろん若者だけでなく、町の誰もがこれを日常的に利用していた。自分が気になったことは、なんでも徹底的にここで調べるのである。インターネットに繋がっているパソコンがあれば、それがいとも簡単にできてしまうのだが、彼らは昔ながらの方法によって、それを行なっているというだけのことである。
 教育が普及している今の日本で、このようなことは珍しいことになるのであろうが、以前私が訪れたアジアの国々では、経済的な事情で学校には行けないけれど、勉強するのが好きな若者たちの多くが、みなそのようにして外国語などを学んでいた。それを考えると、私は今の日本だけが世界でも特殊な環境のように思えてくる。
 しかし、その日本だって昔はそうだったのだ。その顕著な例が、公立の小学校の校門近くに必ずと言っていいほど立っている、焚き木を背負いながら本を読む二ノ宮金次郎(尊徳)の像である。この像の謂(いわ)れは日本人なら誰でも知っていることだろう。
 また、明治になってからでも、家が貧しくて学校に通えなかったのにもかかわらず、独学によって知識や学問を身に付け大業を成しとげた人々を、我が国は輩出(はいしゅつ)し続けていた。
 ところが現代では、学校に通うことが義務になっており、教育が強要されているという、世界的に見ても恵まれた(?)環境になっているのにもかかわらず、それとは逆行するかのような問題が、かなり以前から浮上している。「不登校」「学級崩壊」「校内暴力」等々。それを考えると、日本の教育というものは、子供たちにとってかなり無理なことをさせているのだと思う。
 寺子屋にも通えぬほどの貧しい生活の中、自らの意思によって勉学に勤(いそ)しんだ二宮金次郎の像が、そのような義務教育の機関の敷地内にあるということは、いささか皮肉めいているような気がしないでもない。しかし、せっかくそのような像があるのなら、今の大人たちはそれを見て、教育とは、大人が持っている価値観の中に子供を閉じ込めることではなく、子供が本来持っている芽を伸ばしてやることだということを認識すべきだと、私は思うのである。
 さて、私たち二人は、行きと同じようにしてバスを乗り継ぎ、宿泊先の宿のある通りに帰って来た。もう午後一時を回っており、空腹のために私の目も回ってきた。そんなこともあって、通りを歩きながら私はヤエに一つの提案をした。
「ヤエ、昨日の夕餉(ゆうげ)は、どちらかと言えば中国寄りのタイ料理だったけどね、今度はインドに近い方の料理を食べてみようか?」
 ヤエは目を輝かせて言った。
「うん、賛成!」
「お、嬉しそうだね。」
「だって、『インド系の料理には化学調味料入ってない』って、カカシ昨日言ってたじゃない。」
「おお、そうだったね。でも、どうかなー……この国の場合は……。」
 そんな会話を交わしているうちに、私たちは工事中のビルの前を通り掛かった。私は立ち止まって言った。
「ほら、これだよ。見てごらん。」
 そのビルの前の歩道には、ここで働く労働者を目当てにした小さな屋台が一つ出ており、そこには色とりどりの日本で言う「タイカレー」が十種類ほど、ホーロー製のバットに入れられて二列に並んでいる。もちろん、一般の通行人が買っても構わない。以前このような屋台で食べたことがある私は、外国人旅行者向けのレストランで出されるものとは明らかに違う、妥協のないタイの味を堪能したことがあった。
「わーっ! 美味しそうーっ!!」
 ヤエは感動の声を上げてそこに駆け寄ると、料理の一つ一つをしげしげと眺めた。汁と具が醸(かも)し出す、この赤、黄、緑、茶色といったコントラストを見て、食欲をそそられない方が不思議である。特に私のような辛物好きにとっては、脳天を突き抜けていく気の遠くなるほどの快感を連想させる彩(いろど)りだ。
 そこの売り子の女性に、私はタイ語で二人分を希望した。すると彼女は、透明のプラスチックの容器二つに、それぞれまずご飯を盛った。丸々もちもちとした日本米とは違って、細長くぱさぱさしたタイ米だ。これがまた、この国の料理に良く合うのである。
 次に自分の希望する料理を指差すと、容器の空いた部分に、店の人がそれをよそってくれる。一人複数の料理を選択しても構わないというところがまた嬉しい。味の違いを色々と楽しめるからだ。私はヤエに言った。
「お互い、ダブらないようにしようね。」
 彼女は、この言葉の意味をすぐに理解してこう言った。
「そうだね。……あたしは一応、これと、これとー……これ!」
 最後に容器の蓋を閉じて輪ゴムを掛けると、店の人がそれを精算してくれた。料理の価格は、使用している食材の違いや調理に掛けた手間などによって、若干の差があるようだ。二食分計六種類の料理で27バーツだから、外国人旅行者向けの店で同じような物を食べるよりも、ずっと安上がりだ。たとえ、挨拶と買い物をする程度だけでも現地の言葉が話せれば、このような安くてワクワクするような食べ物にあり付くこともできるのである。
 代金を店の人に払った私たちは、それぞれ片手にその容器を持って宿へと向かった。汁がこぼれないようにするのが、ちょっと大変だ。
 途中にあった小さな食料品店の前で私は立ち止まると、ヤエにその容器を持ってもらって缶ビール数本を買った。
 私たち二人は、滝のような汗を流して階段を四階まで登った。自分たちの部屋のドアを開けて中に入るなり、私は扇風機のスイッチを入れた。この暑さなのでガラス窓を開けたままにしておいたのだが、この国の宿屋の窓の外側には、防犯用の鉄格子が付いているので問題ない。
 二人のベッドのあいだの枕元に置かれてある小さな卓の上に、料理が入った容器と缶ビールを置いた私たちは、汗と埃にまみれた顔と手足を洗おうとシャワー室へ入った。しかし、当初の計画はすぐに変更された。ヤエがTシャツもスラックスも下着も全部脱いで丸裸になると、頭からシャワーを浴びだしたのだ。その気持ち良さそうな姿を見た私も同じように裸になると、ヤエと交代してシャワーを浴びた。
 すっきりして来た私たちは、各自タオルや手ぬぐいで髪と体を拭いた。私の手が、ごく自然にヤエの乳房に伸びた。しかしヤエは、その手を軽くピシャッと叩くと缶ビールを指差して、かなり真剣な早口でこう言った。
「ほら! カカシ! ビールビール! 早くしないとぬるくなっちゃうよ!」
 これは、ビール好きの私にとって殺し文句であった。室内の温度は、確実に35度を超えている。その状態で冷えた缶ビールを放置して置けば、結果は明らかだ。それには、秒単位の迅速なる行動が必要なのである。私は慌てて手を引っ込めると、視線を卓の上のビールに移し、彼女と同じような口調で叫んだ。
「よしっ! わかった!」
 バッグの中から何点かの物を取り出した私は、その中の一つであるトランクスを手早く穿くと、先ほどの卓を二つのベッドのあいだの中ほどに移動させ、そこにステンレス製のコップとスプーンを並べた。
 ヤエは、愛用の腰巻を胸から下に巻くという、瓶ヶ島の水浴び後のスタイルで、食卓を前にして自分のベッドに腰掛けた。濡れた長い黒髪と胸の谷間が何ともセクシーで再びムラムラッときかけた私だが、今はそれどころではない。
『花より団子じゃなくって、パイよりビールだな、こりゃ……』
 食卓を挟んでヤエと向かい合わせに私もベッドに腰掛けると、彼女と手分けして料理の入った二つの容器の蓋を開けた。すると、頭上で回転している扇風機の風によって、たちまちエキゾチックな香りがこの部屋の中に拡散された。その中核を成しているのが、この国の料理には不可欠である椰子油、即ちココナッツオイルの香りだ。湧き起こってきた猛烈な食欲のために、私の口の中には唾液が満ち腹が鳴った。
 準備が整ったので、私はヤエに向かって元気良く言った。
「さあ、始めよう!」
 各自が缶の口を開けて、ビールをそれぞれのコップに注いだ。
「日本ではね、何かお目出たいことがあると、飲み食いする前には必ず『乾杯』するんだ。コップを持ってごらん、こうやって。……そうそう。
……それでは、美味しそうな料理との出会いに、乾杯!」
 私はヤエにやり方を教えて乾杯をした。
「カンパーイ!」
 私たちはビールをゴクゴクと飲んだ。炎天下の街を歩いてきた私は、昨夜と同じようにしてそれが五臓六腑に染み渡っていくように感じられた。また、ヤエの選択も正解だった。シャワーの後の爽快感がそれに加わっているからだ。彼女もきっと同じように感じていたに違いなく、コップのビールを一気に飲み干すと感極まったようにして言った。
「……ハーッ、最高!」
 私も同じようにして言った。
「……ハーッ! このためにビールがあるようなもんだよ。」
 日本の一般社会でこのような会話を交わすと、「おやじ」だとか言われるようだが、感動を素直に口にできないようなつまらない社会は、そのうちその抑圧されたものが表面に噴出してきて、誰もが慌てふためく結果になるであろう。
「カンパイ!って、Cheers! のことなのね。」
 彼女がコップを食卓の上に置いてそう言ったので、私はボールペンでメモ帳に字を書いて見せた。それを見たヤエが納得したように言った。
「……そうか、元は中国の言葉なのね。」
「そう。北京語では『カンペイ』って言ってたかな。」
 ヤエは微笑んで言った。
「杯(さかずき)を乾(ほ)すって意味だから、暑いときに飲むビールのためにあるような言葉だね。」
 私は笑って言った。
「ハハハ! 本当にそうだね。」
 一通りビールを飲んで渇きを癒した私たちは、いよいよ料理に手を付けることにした。
「俺はまず、これからいってみようかな……。」
「よし、それならあたしはこっちの赤いのから……。」
「……おー!」
「……ふー!……。」
「……へー!……意外だ……。」
「……うーん……なるほどね……。」
「ほう!」
「……ヒーッ!」
 二人はこの後もしばらく、このような声と言葉を発し続けたが、隣の部屋の人にもしこれが聞こえていたら、この一組の男女は昼間っから一体何をしてるんだろうと思われたのに違いない。
 一通り食べてみた私たちは、ようやく通常の言葉を発することができるようになった。まず私が言った。
「どれも当たりだったね。」
「うん。どれも味が違ってしかも全部美味しいわ。もしかして、化学調味料入ってないのかもね、唐辛子はかなり効いてるけど、刺々(とげとげ)しい感じがしてないもん。」
「おお、そう言われるとそうみたいだ。」
 彼女は微笑んで言った。
「やっぱり、カカシの言う通りだったね!」

 それから約12時間後。バンコクの国際空港から飛び立ったジェット旅客機の座席のヤエと私は、到着時刻などを告げる静かな英語のアナウンスを耳にしていた。

 2006年3月24日金曜日の朝7時前、白浜ヤエと、その夫である私こと田野呵々士は、一応無事に日本にたどり着くことができた。「一応」というのは、バンコクの空港で飛行機に搭乗する際、またもやヤエのポケットの小刀が金属探知機に引っ掛かったからだ。しかし、もうこれ以上飛行機に乗る必要はないので、『この小刀禍もこれでおしまいだ』と思ったのは甘かったということが、後になってからわかるのだが……。
 さて、当然のことながら、この時期でのバンコクとの気温の差はなんと20度以上もあった。私は来たときに着ていたものを再び着用すればそれで済んだが、南国育ちのヤエは冬物など持っているはずがなかったので、靴からコートに至るまで一式数年分をバンコクで買い揃えておいた。
 また、子供が生まれることも見越して、幼児の衣類やベビー用品などもバンコクで調達していた。そのため、それらは結構な量になったのだが、私はその荷物の重みに対する苦痛は全く感じなかった。なぜなら、もしこれらを日本で揃えるとなると、とんでもない金額になってしまう。そっちの方が私にとっては苦痛になるからだ。
 タイ出国のときとは打って変わって、日本入国の際ヤエは何ともなかったのだが、その反対に私の方が手荷物の念入りな検査を受けた。今回は、流行を全く無視したようないつもの格好とは違って、なるべく普通のバックパッカーに見えるようにしていたのだが、それでもやられた。
 それによって私の後ろに並んでいた長蛇の列は、当然のことながら流れが止まってしまったので、別のゲートへ移動させられ、その人々の視線が私に集中することとなった。もう慣れているとはいえ、あまり気持ちの良いものではない。
 係官がお目当てにしているような品を持っていて捕まったことなど今まで一度もないのだが、なぜか毎回このようにして調べられるのだから困る。私の長髪や髭のせいかとも思ったが、私と似たような風貌をした他の男は、みな無事通過しているのだから全くわけがわからない。いずれにせよ失礼極まりない制度だ。
 ようやく検査が済み、不愉快な思いでゲートを通過すると、先に出て待っていたヤエが私の元へ足早に駆け寄って来て嬉しそうに微笑んだ。それを見た私は気を取り直し、やはり笑顔になって言った。
「さあ、本州島に着いたぞ!」
 日本では普通、こんな言い方はしない。私たち日本人の感覚からすると、北海道、本州、四国、九州の四つは島ではなく大陸のようなものであり、それ以外のいわゆる「離島」が島なのだと思う。しかし、外国育ちのヤエにわかり易いよう配慮して、私は敢えてそう言ったのである。
 長い空の旅はようやく終わったが、今度は鉄道を乗り継いでこの島を縦断しなければならない。東京駅を迂回して在来線で新潟へと抜ける方法もあることはある。これだと特急料金が掛からないので安く上がるのだが、その分倍以上の時間が掛かってしまう。私は自分一人だったら多分そうしただろうが、今回の旅で文明世界に接したのが生まれて初めてのヤエにとって、ここはかなり過酷な環境であった。
 まず潮騒が聞こえない。また、天然の木や草、小鳥たちも目にすることができない。潮の香りや草いきれの片鱗すらない。その代わりに耳にするのがまずエンジン音と変圧器の音。目にするのは、人間以外の生物を排除しようとする巨大な人工物の数々。化石燃料と温室効果ガスと消毒液の臭い。本当の神や仏を見失ってしまったがために絶えず何かに怯え、誰かを責めていなければ落ち着かぬ社会。見せ掛けの幸福に向かって追い立てられながら働き続ける人々……。
 一旦それに浸(ひた)ってしまうと、それがいかに不自然であり、病的であるかを感じることすら麻痺させてしまう巨大な渦、それがこの物質文明の社会だ。
 その中に身を置いてでも、その渦に巻き込まれず、自分の個性を活かして自然の流れに沿った生き方をしている人がいることを私は知っている。その人たちは、大自然から授かった無垢な心を持ち続けているか、この文明のことを知り尽くし、それに引きずり込まれないだけの強い精神力と、信頼できる人間関係を持っているかのどちらかである。しかし、初めてこの国を訪れた者が、すぐそのようになることは至難の業だ。
 だから私は、この環境に対して全く無防備なヤエが、この街に滞在する時間をできるだけ少なくしてやりたかった。そのため多少お金は掛かっても、なるべく早く行けるルートを選択することにした。
 成田エクスプレスという路線で東京駅に着いたヤエと私は、たくさんの荷物を持って人の群れの中を歩き、新潟行きの新幹線「とき」自由席禁煙車両に無事乗り込むことができた。
 列車は、ほどよく空いていた。
 空いている三人掛けの座席の上の棚に荷物を乗せた私たちは、棚に乗らない大きな荷物を足元の床に置いて、窓側の席にヤエが、その右隣の中央の席に私が腰掛けた。そのまた右隣の通路側の席には、この車内で使いそうな物が入っているバッグを置いた。
 あとは、列車が私たちを目的地へと運んでくれる。私は、思わずホッと安堵の溜め息を吐いた。このような公共の乗り物に最先端の科学技術が導入されていることは、文明の正しいあり方だと思う。
 やがて発車を知らせる電子音がホームに響き渡ると、ドアが静かに閉まって列車は滑るように動き出した。車内に車掌などのアナウンスの落ち着いた声が流れ、それらを耳にしたヤエは、むしろ意外だというように私に向かって言った。
「……Bangkok(バンコク)があんなだったから日本はもっと騒々しいのかと思ってたけど、意外に静かなのね。」
 生まれて初めて文明世界に接したヤエであったが、日本の首都圏でのカルチャーショックは、私の予想に反してこの程度のものだった。なぜなら、この言葉からもわかるように、バンコクでかなりの免疫を付けていたからだ。
「おう、そうだね。でも、俺が子供の頃は今のバンコクほどじゃなかったけど、東京はけっこうひどかったんだよ。水や空気はもっと汚れてたし、音もうるさかったし。
だから、何とかしなきゃってことで、いろいろと対策を施したんだ。例えば、音を静かにして排気ガスをきれいにすることを、全ての自動車に対して強化したり、川や湖の汚れがひどかったんで、住民たちがそれをきれいにしようと努力したりとか。そういうことの結果だと思うよ。」
 彼女は目を見張って言った。
「へー! それは良いことだね!」
 私は頷いて言った。
「そう。こういうことになると日本人て、みな一斉に力を合わせてやるんだよね。他の環境問題もその調子でやれば、この国はもっともっと住み易い国になると思うけどね。」
 新幹線に乗るよりも先に、何度か飛行機に乗ることを体験していたヤエは、都心を抜けた列車が速度を上げ、外の景色が飛ぶように過ぎていっても特別驚きはしなかったが、窓の外の風景の中にこげ茶色のものがぽつぽつ見え始めると、それを指差して嬉しそうに言った。
「あっ! 土が見えた! あれは畑だよね!!」
 私も微笑んで言った。
「そうだよ。なんだかホッとするよね。」
 バンコク以来、二人ともあまり土を見たような記憶がなかったからだ。
 暖房によって車内が暖まってきたので、私たちはコートを脱いで頭上の網棚の荷物のあいだに押し込んだ。このとき、この車両の後ろから、ワゴンを押した売り子の女性が入って来て、独特の節回しによる声が聞こえた。
「……缶ビール、おつまみなどは、いかがでしょうか?……ウーロン茶、ジュース、缶ビール、おつまみなどは、いかがでしょか?……」
 私はヤエに言った。
「落ち着いたところで、何か飲もうか。」
 ヤエは、やや困ったように言った。
「うん、……でも、高いんでしょ、日本のビールって。」
 私は微笑んで言った。
「うん。だから作戦を立てればいいんだ。ビールは最初だけにして、後は酒か焼酎にすれば……。」
 そこまで言った私の言葉が途中で止まった。自分では二十年以上も前から意識しなくなっていた、あることに気が付いたからだ。今まではずっと日本国外だったので、そのことはヤエに対しても全く意識していなかった。しかし、彼女が日本に居住するからには、今ここでそれをはっきり言っておかなければならない。私は、極めて残念そうにこう言った。
「……言いたくないけど言わなきゃならないことに、今気が付いたよ。」
 彼女は、訝しげに尋ねた。
「なに? それ?」
「この国の法律だと、ヤエはアルコホール(アルコール)入った飲み物飲めないし、買ってもいけないんだよ。」
 ヤエは驚いて言った。
「え!? なんで!?」
「それは、二十歳(はたち)過ぎてからってことになってるんだもん。」
 ヤエは信じられないという顔になって言った。
「なんで二十歳からなの?」
「日本では二十歳過ぎたら成年で、それまでは未成年ってことになってるんだ。だから、投票できるのも二十歳過ぎてから。」
 ヤエは、ちょっと寂しそうにこう言った。
「ふーん、国によって法律が違うのは仕方ないことだけど、あたし個人としては、それまでできてたことが急にできなくなるんで辛いな……。」
 彼女の生まれ育った瓶ヶ島では、十六歳になればもう成人であり、彼女は大人扱いされるようになってから既に二年近くが経過している。それがまた子供に逆戻りさせられてしまうのだから、そのショックは大きいだろう。
 私は、目の前の座席の背もたれに付いているテーブルを自分の目の前に出しながら言った。
「こういうのって、世界的に統一すればいいんだろうけどね。」
 ヤエも私に倣(なら)ってテーブルを出しながら言った。
「それは多分無理だよ。それぞれの国に文化の違いがあるから。」
 私は隣の席のバッグの中からステンレスのコップ二つを取り出すと、それぞれのテーブルの上に置き、ワゴンが自分の席の横に来たのを見はからって、売り子の女性に声を掛けた。
「済みません。缶ビール一本、それと……。」
 ワゴンが私たちの席の横で止まり、売り子がそのタイヤをロックさせたので、私はヤエに向かって尋ねた。
「どれがいい?」
 彼女はしばらく、私の席越しにワゴンの中を覗き込んでいたが、私の顔を見ると、首を横に振って寂しそうにこう言った。
「わかんないよ、みんな同じように見えて……。」
 彼女は今まで天然の飲み物しか目にしたことがなかったので、このような人工の塗料がけばけばしく塗られた缶やペットボトルを見ても、それを飲み物として認識することができないのだ。しかも、アルコールが飲めないということもあって、このように答えたのだろう。
 私は、ワゴンの中の飲み物を一つ一つ指差しながら説明した。
「これは、お茶……、これは砂糖の入ったカフィー(コーヒー)、こっちは果物の汁が入った甘い飲み物……、これはビールみたいに炭酸が入った甘い飲み物……。」
 彼女は少し考えてから言った。
「……炭酸が入ってるのがいい。」
 私は、ワゴンの中のソーダのような飲み物を指差すと、売り子の女性に向かって言った。
「……これも下さい。」
 支払いを済ませて、テーブルの上の缶の口を開けた私が、自分のコップに続いて、ヤエのコップにもビールを注いだのを見た彼女は、不思議そうな顔になって言った。
「二十歳過ぎるまで飲んじゃいけないって、あんたさっき言ってたじゃない。」
「それじゃヤエが余りにも可哀想だもん。ヤエの町では、そういう制限がなかったもんね。」
 しかし彼女は、真面目な顔になって首を横に振るとこう言った。
「でもいいよ、あたし。法律って国の掟(おきて)のことでしょ?」
「うん。」
 彼女は教え諭すような口調で言った。
「掟は守らなきゃ。」
 それに対して私はこう言った。
「ヤエの国の法律では制限があったけど、自治権が認められてる町の掟の方にヤエは従がってたよね。」
「うん。」
 彼女が生まれ育った瓶ヶ島には、飲酒や喫煙の年齢制限がない。しかし、成長期の子供がそれを口にしているのは、一度も見たことがない。それが子供の発育を妨げる物だということは、親も子供もみな知っていることだから、それぞれが自主的に規制しているのだ。
 日本では飲酒や喫煙が、不良少年の象徴的行為のようになっている。かく言うこの私も、中学生のときにそれをしていた。その動機は決まっている。「大人が定めた枠をぶち破ること」だ。それは、勉強ができて大人の言うことをよく聞く、いわゆる「いい子」にはできないことをして、そいつらに対して優越感を持ちたいということもあったと思う。
 しかし、「カッコイイ」と思って始めてはみたが、それには習慣性がある。そのため、そのままそれが癖になってしまうというケースが、自分を含めた私の周囲の者に少なからずあった。
 ところが、そこに何の規制も設けられなくなったとしたらどうなるだろう。少なくとも私のような者は、その動機を失ってしまう。だから、興味本位でちょっと試してみることはあっても、「カッコよさ」のために飲酒や喫煙の習慣を身に付けてしまう少年が激減することは、ほぼ間違いないことだろう。周囲の者からは、「成長の妨げになるのに、馬鹿だな。」と冷ややかな目で見られるだけのことなんだから。
 ヤエは不良ではなかったが、彼女に対して私はここで一つの提案をした。
「それじゃ、これからは町の掟は守らなくてよくなったんだから、俺たち二人の掟を定めよう。……『十八過ぎたらお酒の類を飲んでもいい』って。」
 彼女は苦笑いして言った。
「……そう言われると筋が通ってるようにも聞こえるけど、この国の立場からすると無茶苦茶な理屈よね。」
 私も、やや苦笑いして言った。
「うん、そうだね。」
 彼女は普段の顔に戻って言った。
「あんた、あたしに気を使ってくれてるんなら大丈夫だよ。あんた一人が飲んでても、あたし平気だから。alcohol(アルコール)入った飲み物、それほど好きじゃないし。」
 私は、やや伏目がちになって言った。
「バンコクでは、あんなにうまそうにビール飲んでたのに……。」
 彼女は笑った。
「ハハハ! あれは暑かったからだよ。こんなに寒いところで飲んでも、バンコクで飲んだのと同じ気分には、きっとなれないよ。これ、あんたに返すから早くそれ飲んじゃって!」
 彼女は明るくそう言って私のコップに目をやった。缶ビールは直に飲むよりも、一旦グラスなどに注いで泡をある程度出した方がうまくなる。しかし、気が抜けてしまっては何にもならない。このような真面目な会話をしているうちにも、その泡がどんどん減っていた。
「そうか、ご免ね……。」
 私はそう言うと、まず自分のコップのビールを一気に飲み、ヤエのコップのビールを彼女から注いで貰った。そして、空になったそのコップの中に、先ほどのソーダのような飲み物を注いでやった。
 飲み物のワゴンがこの車両の前方から出て行くのと入れ替わるようにして、今度は別のワゴンが後ろの戸から入って来たようで、別の売り子の声が近付いて来た。
「……お弁当は、いかがでしょうか? サンドイッチ、幕の内、お握りなどは、いかがでしょうか?」
 私はヤエに言った。
「腹減ったよね、弁当でも食おうか。」
 考えてみれば今は丁度昼時だ。ヤエは頷いて尋ねた。
「うん。誰がつくったお弁当なの?」
 そうか、彼女にとって弁当とは、自分の家族か知り合いがつくるものなんだ。私は説明した。
「日本ではね、こうして乗り物に乗ったり仕事で忙しかったりする人のために、弁当をつくって売る店があるんだ。丁度バンコクの道端で料理を売ってたみたいに。」
 彼女は目を丸くして言った。
「へー、そうなんだ。」
 先ほどのようにして私の座席の横にワゴンが来ると、私は売り子の女性に向かってまずこう言った。
「あの、すみません。
……幕の内と……。」
 私は次に、ヤエに向かって尋ねた。
「日本風のと洋風の、どっちがいい?」
「日本風。」
 彼女は即座にそう答えた。考えてみればそれは当たり前のことだ。初めてその国を訪れて初めて食べる食事を、わざわざ「洋風」にする外国人は、その国の料理が自分の口に合わないことを予(あらかじ)め知っているか、もしくはその国の料理に対して偏見を持っているかのどちらかだろう。私は愚問をしたことを悔やみながら、なるべく地味な包装の駅弁を一つ指差して売り子の女性に言った。
「……それじゃ、これも下さい。」
 地味な包装を選んだ理由はいくつかある。まず、派手な物は、それだけ中身の見た目も派手になっているものが多く、着色料などの食品添加物がその分多く使用されている可能性が高い。また、派手な包装はそれだけ紙やビニールが多く使われており、多くのゴミを出すことになるからだ。私は支払いを済ませると、二つのテーブルに一つずつ乗せられた二種類の弁当の蓋を開けて言った。
「どっちがいい?」
 ヤエは微笑んで言った。
「どっちもいい。」
 私も微笑んで言った。
「そうだよね。どっちも食べてみたくなるよね。それじゃ、おかずはどれも半分こして食べようか。」
「そうしよう。」
 こういう仲の良さは新婚時代の特権だ。「人間仲良くできるときに思いっきり仲良くしておく方がいい」というのが、離婚経験者である私の持論である。
 私たちは荷物の中から自分の箸を取り出し、それぞれのテーブルの弁当をつついた。まず真っ先にご飯を食べたヤエが、感動したように言った。
「これが話しに聞く日本米なのね? ふっくらしてて美味しいんだね。」
 バンコクで食べた米は、インディカ種という細長くてパサパサの米だったし、瓶ヶ島でつくられている米も、それに近い品種だ。それはそれで、そこの気候風土に育まれた料理に合っているのだが。私は微笑んで言った。
「そうだよ。日本の料理には、やっぱりこの米が一番合ってるよ。」
 続いてヤエは、ちょっと不思議そうに尋ねた。
「……この、弁当に付いてる棒って何に使うの?」
 彼女が生まれ育った島には、物を使い捨てにする習慣がない。私は、半透明でお洒落なビニール袋の中に入れられているその棒を手に取ると、切れ目の部分を指差して言った。
「……ここを二つに割ると箸になるんだ。だから『割り箸』って言うんだよ。」
 彼女は目を見張って言った。
「へー、弁当一つ一つに箸が、ただで付いてくるんだ。」
「そう。でも、ただだから、みんな使ったら捨ててるよ。」
 彼女は、やや残念そうな口調で言った。
「……勿体ないなぁ。」
 私も、それと同じような口調になって言った。
「……そうだよね。弁当だけじゃなくて食堂にも割り箸を置いてるところが多いから、日本で一日に捨てられてる割り箸の数は、百万膳や二百万膳じゃきかないと思うよ。」
 ヤエは眉をひそめて言った。
「捨てられるって、どこに捨てられるの?」
「ゴミ箱に捨てられて、あとは全部処理場で燃やされるんだ。」
 彼女は目に涙を浮かべて言った。
「えー! ひどーい! 野山に捨てればまだ土に還れるのに。捨ててる人は、そんな使い方したら木に対して申し訳ないって思わないのかなぁ?」
「まあ、割り箸が元は生きていたってとこまで深く考えられるような人は、今の日本には、いてもごく僅かだろうね。みんなお金儲けに忙しくて、それどころじゃないみたいだから。」
「……割り箸をつくってるところを見ればいいのに。」
「それが、簡単には見れないんだよ。」
 彼女は訝しげな顔で尋ねた。
「なんで?」
「……日本の割り箸の多くは輸入してるんだもん。」
 彼女は窓の外に広がる田園風景の背後を指差し、大きな声で言った。
えーっ?! こんなに木がたくさんあるのにーっ?!
 その声に、周囲の何人かの人がこちらを振り向いた。
 彼女が指差した先には雄大な緑の山々がそびえ立っている。これだけ国内に木がありながら、割り箸を含めた日本で使用されている木材の約8割が、膨大な化石燃料を使用して国外から運ばれて来るものなのだ。憤慨した私の声も思わず大きくなってしまった。
そう! この弁当の包み紙だって一度使っただけで捨てられる。これも割り箸と同じで木が原料だ。日本は自分の国の木は切らずに、安いからっていう理由でよその国の木を切って一回使っただけで捨ててしまう。世界中から森を減らしてる、最たる張本人がこの国なんだ!
 私たちが周囲の人からそれとなく注目を集めてしまったことに気付いたヤエは、元のように座席に身を沈めると深刻な表情になり、声をひそめて言った。
「あたしたちにはそういう習慣はないけど、日本ではいつからそんな無駄なことをするようになったの?」
 私も声の音量を落として言った。
「多分徳川の時代からだろう。今の日本の儀礼だとかしきたりだとかは、大体あの時代になってからのもんだから。」
 彼女は訝しそうに尋ねた。
「これって儀礼なの?」
「うん、包装紙の方は、その要素が多分にあるだろうね。
俺たちの価値観だと、物を綺麗な布や紙で丁寧に包むってことは、相手に対して敬意を表わすことになるんだ。その考え方の延長で、客は同じ値段なら、丁寧に包装してある方を選ぶもんだから、つくる方も一生懸命見栄えの良い包装をするようになってしまうんだ。」
 彼女は仕方なさそうに言った。
「それなら、包装紙を使うこと自体は悪いことじゃないと思うよ。そういう文化なんだから。でも、それを使った後にちゃんと土に返すとか竃(かまど)の焚き付けとかに使わなきゃ。」
「そうだよね。今の日本で竃を使ってる人はほとんどいないから、せめて再生してまた使うとかね。
それから割り箸を使う習慣だけど、昔は今みたいに外食が盛んじゃなかったし、人口も少なかった。だから、そこら辺に捨てても土に還る、『割り箸』っていう文化は、むしろ自然と共に生きてきた俺たち日本人特有の発想だと思うよ。でも、輸入した木材を使うんなら、その国の土にそれを還さなければ意味がない。」
「そうだよね。」
「こういうふうに木を一回使っただけで、わざわざ処理場の化石燃料によって毎日毎日大量に燃やすっていう贅沢なことをしている国は、世界で唯一(ゆいいつ)この国だけだろうね。」
 私は、車窓の外の山々を指差しながら話しを続けた。
「しかも、日本人の心の拠りどころとなってる、あのような山々が禿(はげ)山になりゃ、それこそ大騒ぎしてすぐにでも手を打つんだろうけど、それが外国っていう見えないところで行われてるから、益々問題視されにくいんだろう。」
 ヤエは不思議そうに尋ねた。
「今、森が消えてるってことが世界中で問題になってるけど、この国の人たちはそのことを知らないの?」
「いや。テレビの報道番組なんかで見て知っている人は少なくないはずだよ。でも、『自分の国じゃないからいいや』くらいにしか思ってないんじゃないかなぁ。そういうのをこの国では『対岸の火事』って言うんだよ。」
 彼女は、やや力を込めて言った。
「森が減るってことは、この星全ての問題だから『対岸』じゃないよ。世界は海と空で繋がってるんだから!」
「そうだよね。地球規模の異常気象や洪水が起こってから、そのことに初めて気が付くんだろう。」
 彼女は、やや興奮して言った。
「でも、災害が起きてからじゃ遅いよ!」
 私は頷いて言った。
「そうだよね。」
 そして、なかば独り言のように言った。
「日本に包装紙の原料や割り箸の輸出をしてる各国が、それを制限することによってしか、こういう命を粗末にする習慣は改まらないのかなぁ……。」
 彼女も、私と同じような口調でこう言った。
「これは、すぐにでもなんとかしなきゃいけないって、あたしは思うけどなぁ……。」
 食べることを忘れるほど話しに熱中していた私たちだったが、その反動で、それからしばらくは食べることに集中した。
 やがてヤエが、ご飯の中央に乗せられている小さな梅漬を指差すと、不思議そうな顔を私に向けてこう言った。
「……ねえ、カカシ? さっきからずっと気になってるんだけど、これって食べ物なの? それとも飾り物?」
 私は苦笑いしてそれに答えた。
「あぁ、それね……。食べ物としてそこにあるんだろうけど、俺はいつもそいつは食べずに残してるよ。食べ物とは思えないんで。」
 彼女は、その物体を見詰めながら言った。
「ふーん、何なの?」
「……梅って知ってる?」
 彼女は嬉しそうに言った。
「うん、見たことないけど島に伝わってる歌に出てくるから知ってるよ。日本の apricot のことでしょ?」
 私も微笑んで言った。
「そうだったね……。そう。そのエイプリコットの小さいのに、味と色を付けたものさ。日本では『梅漬』とか『梅干』って言ってるよ。」
 彼女は更に嬉しそうな表情になって、その梅漬を見詰めながら言った。
「へー! これが梅だったの!?」
 しかし、すぐに残念そうな表情になってこう言った。
「……味を付けるのはいいけど、なんでわざわざこんな美味しくなさそうな色を付けるの? ……周りのご飯にまでその色が着いてしまってるよ……。」
「そうだよね。家に着いたら俺が自分で漬けた梅漬を見せてあげるけど、梅漬ってのは本来赤紫蘇っていうハーブで色を着けるんだ。それだと、周りのご飯がこんな色に染まったりなんかしない。
でもこの梅漬には、人工的につくり出した色素が使われてるからさ。今のこの国の人って、食べ物にこういう色が着いてても特別何も感じないみたいだよ。」
 ヤエは、怪訝そうに尋ねた。
「いつ頃から、そんなふうになってしまったの?」
「……うーん、俺が物心付いた頃には既にその全盛期みたいだったからなぁ……。口ん中が真っ青になるようなアイスキャンディーとか、赤い絵の具を溶いたような色した飴とか、うまそうに食べてたの今でも覚えてるよ。
……ってことはだね。少なくとも、そういうのつくって子供に食わしてる、その時代の大人たちの世代から、既にその感覚が麻痺してたってことだろうね。」
 彼女はかなり憤慨したらしく、思わず大きな声でこう言った。
ひどいよっ! 子供にそんな物食べさせるなんて!!!
 その声を聞いた私たちの前方の乗客の何人かが、座席の上からあからさまに不安げな顔をこちらに向けたので、私はヤエに向かって小声で言った。
しーっ! 声が大きい! 俺も人のこと言えないけど。
 そして苦笑いすると、普通の音量でこう言った。
「……今思えばひどいことだけど、あの頃の日本人は、それが悪いことだとは誰も思ってなかったんだろう。『いかにお金を儲けるか』『貧しさから抜け出せるか』ってことに全てを賭けてたから。『生き物の食べ物は自然の物だ』っていう、当たり前だけど最も大事なことを忘れてしまうほどにね。それで、前に話した化学調味料もそうだけど、いかに短い時間と安い原料でたくさんの食べ物をつくり出すかってことにだけ、知恵が絞られるようになったのさ。
だから、梅を収獲してから短くて半年で梅漬は食べられるようになるのに、その半年でさえ待てないんだ。その結果がこれさ。人工的につくられた塩と酸と調味料と着色料に素材を漬け込み、たった一日でハイできあがり。」
 ヤエも苦笑いして言った。
「それじゃ、まるで漬物じゃないみたいだね。」
「うん。漬物ってのは、自然の力や微生物の力で熟成してこそ初めて漬物になるんだからね。
でもみんな、工場で作られる食べ物が優れてるって思ってたから、子供にもそれを食わせてやりたかったんだろう。」
 ヤエは、呆れたように言った。
「子供のためを思ってやってたんだ……。」
「今考えれば、馬鹿みたいな話しだけどね。」
 そして私は、愉快そうな笑みを浮かべてこう言った。
「……そうそう。あの頃は宇宙時代とか言っててね、宇宙食なんてのも真面目に紹介されたりしてたよ。」
 彼女は怪訝そうに尋ねた。
「なに? それ?」
「人間にとって必要な栄養素を化学的に抽出したり合成したりして配合した食べ物のことさ。あの頃それは金属製のチューブかなんかに入ってたけど、それが最も進んだ食べ物だって俺たちは信じ込まされてたんだ。」
 彼女は、不安げに眉を寄せて尋ねた。
「それが人間にとって必要な栄養素だって、どうしてわかるの?」
「科学者が分析して調べたんだろう。」
 すると彼女は、困った顔になってこう言った。
「分析するのはいいけど、それが全てだと思い込むのは危ないなぁ。人間が食べる物って自然の物でしょ? 自然のことは、どんなに賢い人間にもわかり尽くせるものじゃないんだよ。」
 まるで年寄りの戒めのような彼女のその言葉の背景には、瓶ヶ島に伝わる一つの戒めがあった。
一、自然ノ仕組ミノ全テ、人智ニテ解リ難シ。ソコニ手ヲ加ハフルナカレ。
(自然の仕組みの全てを人間の知恵で理解することは難しいから、それをいじくってはいけない。)
 自然の仕組みや人間にとって必要な栄養素のことについては、世界中の科学者たちの手によって毎日のように新しい発見が成され、その全体像が修正され続けている。だから、現時点でわかっていることは、全体のほんのごく一部でしかないという謙虚な姿勢が必要だ。全てをわかったつもりになって食品や医療などといった人の命に直接関わるような技術を乱用すると、とんでもない結果になるということを覚悟しなければならない。
 例えば、先ほどの昔の宇宙食に象徴されるような「食物」に対する誤った認識によって、人々の健康が脅(おびや)かされたということは、今となっては既に多くの人の知るところであろう。その当時はまだ、「食物繊維」というものは「余計な物」、「排泄されるべきも物」と考えられていた。ところが近年になって、これが人間の消化器官に対して重要な役割を果たしているということが、わかってきたというようなことである。
 また、農作物や家畜の品種改良をする際、従来のような交配によるものなら問題はないと思う。しかし、遺伝子組み替えによって不自然につくり出された生物が自然環境に及ぼす影響を、人間は全て把握することができているのであろうか。これによって引き起こされる大きな問題は、今のところまだ浮上して来てはいない。しかし、それは人間の食物に対する認識のような、単に個人の意思で解決できるようなことではなく、人類を含めた地球の全ての生態系に深刻な影響を及ぼす可能性がある。だから、それが問題として浮上してしまってからでは、もう手遅れなのだ。
 人類の営みによって、オゾン層に穴が開くとか地球の平均気温が上昇するとかいったようなことを、たった五十年前には誰が予測し得たことだろう。
 さて、アルコールが飲めなくなってしまったヤエが可哀想なので、私はそれ以上酒類は買わず、洗面室に行って飲料水をコップに汲んで来た。席に座った私は話しを続けた。
「……加工食品だけじゃなくて、野菜や果物や肉まで工業製品のように思ってる人は、今でも少なくないんじゃないかな。」
 ヤエは、少しがっかりしたような表情になって言った。
「あたしたちの島では、『日本料理は素材が持つ自然の色や味を生かしたものが多い』って言われてたんで、とても楽しみにしてたんだけど、そうじゃなかったんだ……。」
「それはきっと、戦争前の情報だろうね。戦中戦後の物不足により、食品の加工や酒や醤油などの醸造に対して、化学物質を使った質の悪い製法が横行するようになった。これだけ豊かになったんだから、その当時から続いてる偽物(にせもの)の製法は、撤廃(てっぱい)されてもいいと思うんだけどね。
でも、こういうことに対する問題意識を持って、本当の食べ物や飲み物を追及してる人も、近頃ではけっこう増えてきてるみたいだけど……。」
 それを聞いた彼女は、やや表情を明るくして言った。
「それは良いことだね。」
 その後しばらく弁当を食べていたヤエは、やや納得したように言った。
「……なるほど、いろいろ食べてみて、だんだんわかってきたわ。」
「何が?」
「弁当のおかずの、どれがどういう味付けしてあるかって……。化学調味料の味もするけど、それにも増して甘いのが多いんだね。」
「そう。それは砂糖の使い過ぎだ。そういう味付けにすると売れると思ってつくるんだろうけど、食べてる方はみんな文句言ってるよ。『甘過ぎる』とか、『味が濃過ぎる』って。」
「それでも買うんでしょ?」
 私は、やや投げ遣りな口調で言った。
「仕方ないさ。他にないんだもん。それでも、俺たちが今食べてるのは、かなりまともな方だと思うよ。」
 それに反して彼女は、やや嬉しそうにこう言った。
「へー、そうなんだー!
それじゃさぁ、割り箸と包装紙なしで、合成着色料と化学調味料も使わずに、甘さを控えた味付けの弁当をつくって、それなりの安い値を付ければ結構売れるんじゃないの? 弁当箱もお金と引き換えに回収して、何回でも使えるようにするのよ。」
 私は真剣な表情になって言った。
「おぅ。それは都会では確実に売れるだろうね、『ヘルシー弁当』とか『エコ弁当』とか言って。このような問題に対する近頃の消費者の意識は、かなり高まってるみたいだし。
箸を持って歩いてる人は、まだまだ少ないから、箸箱付きの箸も買えるようにするんだ。そうすればその人は、次からそれを持って歩くようになるかも知れない。」
 ヤエが悪戯(いたずら)っぽく言った。
「日本で食べるのに困ったら、お弁当屋さんになろうか!」
 その矛盾したような冗談がおかしかったので、私たち二人は顔を見合わせて大笑いした。

 長いトンネルを抜けて広い平野に出た列車は、何回か駅に停車した後、やがて終点の新潟駅のホームに入った。身支度をしてそれぞれ荷物を持ったヤエと私は、列車が停止して出入り口が開くと、他の乗客に続いてそこに降り立った。気温は東京より更に低く、まるで冬のような寒さだ。しかも湿気が多いので底冷えがする。
 改札を出て駅ビルから出ると、見慣れた町の景色の上に灰色の曇り空が広がっている。バスターミナルに向かって歩道を何歩か歩くと、私の下腹がゴロゴロと鳴りだした。これは夏でも冬でも起きる現象なので、気温による「冷え」とは全く関係がない。比較的長期間海外に出ていて戻って来ると、私の体に必ず訪れる変調だ。この原因はまだよくわかっていないが、恐らく食べ物の違いによるものだと思っている。
 南アジアの田舎を旅するとき、私は現地の人と同じ泉の水を飲み、同じ食材を使った料理を食べ、川で水浴びしているが、それが原因で腹など壊したことはほとんどない。むしろ日本に帰って来てから、必ずこうして調子が悪くなるのである。
 私は現地で自炊することも多く、その食材も調味料も全てが天然の物のせいか、日本に帰って来て口にする物全てがなんとなく薬臭く感じるのである。言い換えれば、人の手が過剰に掛かっているように感じるのだ。それは、水道水の塩素の匂いから始まって、全ての食品に対して感じるのだ。しかも、加工食品ばかりではない、本来天然の食材であるはずの野菜や果物にまで、それを感じるのだから、それはとても不思議なことだった。私はこの謎を、いつか解明してみたいと思っている。
 さて、よりにもよって、駅前の人通りの多い場所で、そのような状態になってしまった私の額からは、じわじわと冷や汗が出て来た。私はヤエの肩を叩いて立ち止まると、その耳元で囁(ささや)いた。
「……腹が下りそうだ。便所に行って来るから、ここで待っててくれ。荷物頼むよ。」
「ん、わかった。」
 彼女はそう返事をしてから、心配して私の顔を覗き込みながら尋ねた。
「大丈夫?」
 私は「心配するな」と言うようにちょっとだけ微笑んで見せると、背中の大きな荷物を下ろして他の荷物と共に路上に固めて置き、一目散に駅ビルに駆け戻った。
 その中に設けられたトイレに駆け込んだ私は、ぎりぎりで間に合った。ほとんど水のような下痢だ。出すものを出してしまうと、その後は、さっきまでの苦痛が嘘のように消えてなくなる。
 私は、行きとは対称的なゆったりした足取りでトイレを出ながら、洗った手の水滴をズボンの両脇で拭いた。学生の頃から、湿ったハンカチをズボンのポケットの中に入れておくのが私は好きではなく、外出先で手を洗った後は、いつもこのようにして手を拭いている。
 ヤエが待っている場所へ戻った私は、彼女のコートの色である灰色が、人ごみのあいだにちらちらと見え隠れし始めたので、ひとまずホッと安心した。日本のこのような人ごみの中で彼女を一人きりにするのは、これが初めてのことだったからだ。ところが、その周囲の人の流れがどうも不自然になってきた。そこだけ流れが滞(とどこお)り始めたのである。胸騒ぎがした私は、急いでそこに駆け寄って人垣を掻き分けた途端、信じられぬような光景を目にした。
「……この喉、屠殺場(とさつじょう)の豚のように掻き切ってやろうか! え!?
 ドスの利いた巻き舌でそう言ったのは、小刀を右手に握り締め、ギラギラ光る銀色の刃をその相手の喉元に押し当てているヤエだった。路上に尻餅をついて座り込んでいるその相手は、髪の毛を黄色く染めて顔を焦げ茶色に塗りたくった三十歳ぐらいの大柄な男で、その太った体には似合わない蚊の泣くような、か細い震え声でこう言った。
……ど、どうか許して下さい。
 私はそこに駆け寄ると、ヤエに向かって言った。
おいヤエ、やめるんだ!
 私はヤエの小刀を鞘に収めさせると、今度はその男に向かって言った。
「大丈夫ですか?」
 その男は、よろよろと立ち上がった。どうやら膝が震えてしっかりと立てないようだ。
……は、はい。
 怯えた声でそう言った男に対して、私は丁寧な口調でこう言った。
「妻が大変申し訳ないことをしました。お家までお送り致します。さあ、行きましょう。」
 しかし彼は、なぜか私の顔を恐怖に慄(おのの)いた表情で見ると、かなり慌てたような口調になってこう言った。
「……い、いえ、いえ、結構です……一人で行けますから。ほんと、大丈夫ですから……。」
 彼はそう言いながら、繁華街の方に向かって、時々足を縺(もつ)れさせながら小走りに逃げ去った。人がせっかく親切で言ってるのに、見掛け通りわけのわからん奴だ。……しかし待てよ。あの髪と顔の色の組み合わせ、どっかで見たことあるよな……。
 おぉ! そうだ!! オーストラリアの先住民アボリジニの幼児期の特徴だ!!!
 近頃の日本のテレビ番組は内容が豊富なので、きっとそこから得た知識によって彼はその真似をしていたのだろう。でも、本物のアボリジニの子供の髪の毛は、写真やテレビで見る限り、もっと美しい天然の金髪だし、伝統的な狩猟採集をしている人たちは、健康的な食生活をしているはずなので、仮に太ってはいてもあのように醜(みにく)く肥えてなどいない。
 どうせ真似るんなら上辺だけではなく、彼らの伝統文化のことをもっと勉強して、その中身までも真似てほしいものだ。そして、そこから学んだものを活かして、この無駄の多い今の日本の暮らしのあり方を見直してほしい。日本が将来どういう国になるのかは、今の若者の考え方と行いによって決まるのだから。
 事が収まると、私たちを遠巻きに取り巻いていた人垣が崩れて、駅前の歩道の上は普段のような人の流れに戻った。
 見掛けはおとなしい彼女だが、内に秘めた強いものがあると私は以前から感じてはいた。しかし、ここまでやるとは思わなかった。荷物を背負いながら、私は彼女に向かって尋ねた。
「……何か変なことされたの?」
 先ほどまで吊り上がっていた彼女の目は、いつもの優しい眼差しを取り戻していた。彼女も荷物を背負いながら言った。
「うん。ほんと腹立つのよ……。」
 私たちは荷物を全て持つと、駅に隣接しているバスターミナルを目指した。その途上、ヤエは歩きながら事の顛末(てんまつ)を話した……。
 額に冷や汗をにじませた私が駅ビルの中に駆け込んで行った後、彼女も自分が背負っていた荷物を下ろして路上の他の荷物と一緒に置くと、そこから少し離れたところに立って私がビルから出て来るのを待った。
 生まれてから今まで靴など履いたことのなかった彼女にとって、靴が歩道のコンクリートに当たって音を出すという現象はとても面白いことだった。そこで彼女は、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、暇つぶしに両足を揃えて前後に体重を掛けながら、コツンコツンという音を出して楽しんでいた。
 それから二分もしないうちに、あの男が声を掛けてきた。
「ヘイ彼女! 一人?」
 さっきまで二人だったが、今は一人なのでヤエはこう答えた。
「うん。今はね。」
 それを聞いたその男はニヤッとして言った。
「それじゃ、お茶でも飲もうよ。もちろん奢(おご)るから。」
 この言葉だけでも、ヤエの気分を悪くさせるのには充分だったのだが、彼女は顔を曇らせながらも努めて冷静な口調でこう言った。
「あの……あたし、人の妻なんですけど。」
 すると、その男はだらしない笑みを浮かべ、ヤエににじり寄ってこう言った。
「いいじゃない、旦那にバレなければ。今は一人なんでしょ?」
 それを聞いた途端、ヤエの右手は反射的にコートのポケットの中にある小刀の柄をつかんでいた。そして、それを取り出すが早いか左手で鞘を抜き、その峰を男の喉元にグイと押し当てた。この一瞬の出来事に、その男は恐怖の余り腰を抜かし、その場に尻餅を付いてしまった。そこから先は私が見た通りだったというわけだ。
 バス乗り場に着いたので、私は荷物を地面に置いてベンチに腰掛けながら苦笑いして言った。
「ヤエちゃん。今の日本ではね、男が女の人に『一人?』って聞くのは、相手がいるかどうかっていう意味も含まれてるの。」
 ヤエも私に倣って荷物を置くと、私の横に腰掛けながら言った。
「ふーん、そうだったのか……。でも、『おごる』って言ったからこいつは良くない奴だと思ったわ。」
 私は、彼女の背後のベンチの背もたれに腕を回してこう言った。
「ヤエのその直感は正しかったみたいだけどね、『おごる』ってのは、日本では二つ意味があって、一つはヤエも知ってる通り、贅沢して傲慢(ごうまん)になること。もう一つは、店で何か食べるとき相手の食費を出してあげるってことなの。ヤエの町では、外食の習慣がないから知らなくて当たり前だけど。わかった?」
 彼女は納得したように言った。
「そうか、それは知らなかった。わかったよ。」
 私は、やや真剣な表情になって尋ねた。
「なんで刀なんか抜いたの?」
 ヤエは眉を寄せて言った。
「あたしが『人の妻だ』って言ってるのに、まだ誘おうとするんだもん。……あんなしつこい奴初めてだわ。」
 なるほど、そうだったのか……。彼女が激怒するのは無理もないことだった。
 まず瓶ヶ島では、妻の不倫が発覚すると、その当事者の男女に対して非常に重い刑罰が課せられるという、四百年前とほとんど変わらない厳しい掟があるためだった。これは余談だが、もし夫以外の男性に恋をしてしまった女性がその人と交際したければ、夫と離縁するという道が設けられている。一旦書類上で夫と別れてしまえば、それまでとは打って変わって自由の身となれるのだ。
 次に瓶ヶ島には、「ナンパ」という習慣が存在しない。島の男女はみな顔見知りなのだから、見知らぬ異性を引っ掛けるという行為はしたくてもできないことなのである。また、たとえ遊びであっても避妊をしていなければ、女性が妊娠することになるのだが、この島で妊娠中絶は固く禁じられている。それは、この掟に基づいている。
一、食ベル為、身ヲ守ル為ノ外、生キ物故意ニ殺傷スルベカラズ。
 彼らの認識からすれば、胎児は血の通った生き物なのであり、妊娠を中絶するということが倫理上で問題があるかどうかを論議する以前の問題なのである。
 だから、自分が好きでもない男が強引に肉体関係を結ぼうと迫ってくるような場合、瓶ヶ島の女は何らかの方法でそれを防ぎ、自分の身を守らねばならなかった。そのため、そのような状況に置かれた女性は、そのような男性を殺傷しても罪に問われないという制度が設けられていたのである。これを島では「斬り捨てごめんね」と称していた。
 江戸時代に権力を握っていた侍が、弱者である庶民を切り捨てても罪に問われなかったという制度が、「斬り捨て御免(ごめん)」と呼ばれていたということを考えると、これら二つの制度の名称はよく似通ってはいるものの、このようにその由来はかなり違ったところから来ている。
 そのような制度があるため、誘った女性が「自分は人の妻です」と言えば、瓶ヶ島の男性はそれ以上その女性に近付こうとすることはまずない。それ以上しつこく迫れば、斬られても文句が言えないし、そのようにして負傷するということは、自分が女から振られたという恥じを世間に露呈(ろてい)することになるからだ。
 また女性の方にしても、わざわざ斬り殺したいような相手ならともかく、血を見るのは誰だって厭なことだ。だから、そのような言葉による警告をするだけで、実際に刀が抜かれるようなことはまずない。
 このような制度と暗黙の了解によって、瓶ヶ島の男女のあいだには秩序が保たれているのである。
 そのため、先ほどの男性のヤエに対する誘いは、そのような常識を逸脱した無礼な行為だったというわけだ。しかしここは日本なので、そのような常識は通用しない。ヤエには、この国の法律や常識を、これからその都度一つ一つ教えていくしかないだろう。私は彼女に向かって教え諭(さと)すように言った。
「ヤエちゃん。日本に、『斬り捨てごめんね』はないの。」
 彼女は困ったように声を上げた。
「えーっ!? それじゃぁ、強引な男から身を守るために斬っても、あたしが悪者になるってこと?」
「その通り。それとね、その小刀も、その刃渡りからすると『銃刀法』っていう法律に引っ掛かりそうだなー。入国のときに無事だったのが奇跡だよ。」
「え?」
 彼女は、これもまるでわけがわかっていない様子だった。無理もない。彼女の生まれた島では、この護身用の刃物を身に付けることが、成人女子のたしなみになっているのだから。
 このとき偶然、近くの横断歩道を、制服を着た警察官が渡り始めたので、私はそちらに目配せすると小声で言った。
「あれが日本の警察官。バンコクにも似たような人がいただろ? 服は違うけど。」
 ヤエも、それを目で追いながら言った。
「うん、鉄砲持った人、たくさんいたよね。」
 ヤエの母国に警察はあるが、強い自治権を持っている彼女が生まれ育った島には警察という組織がない。町民一人一人が、町の掟と自分たちの理性という共通した認識に基づいて、治安を維持しているのである。つまり、子供から老人までの全ての町民が、揉め事を仲裁し、犯罪者を見付けたら自分たちが寄ってたかって、それを捕まえる覚悟を普段からしているということだ。もちろん、そのための武術を彼らは身に付けている。特定の機関によって治安が維持されているよりも、この方がずっと犯罪が起こりにくいのではないだろうか。
 私は話しを続けた。
「日本では親しみを込めて『お巡りさん』て言ったりもする。
もしヤエの小刀が、法律に違反する刃渡りだとしたら、さっきのような場面では、たとえ斬らなくてもヤエの方が完全に悪者になって、お巡りさんに捕まってしまうんだよ。」
 彼女は、なかば呆れたように言った。
「えー? それじゃ、女はどうやって強引な男から自分の身を守るのよ?」
「好きな男と一緒にいて、その人に守ってもらうのさ。」
 彼女は目を丸くして言った。
「それじゃ極端に言えば、女の人は男に取り入らなけりゃ、日本では生きていけないってことなんじゃないの!」
「まあ、そういうことだろうね。」
 彼女は訝しげな表情になって尋ねた。
「日本の掟やしきたりって、一体誰がつくったの?」
「誰か知らないけど、多分男だけでつくったんだろう。大体男にとって都合良いようにできてるから。」
 彼女は納得したように言った。
「そうか、それじゃ片寄ってしまって当然だろうね。女の人は、それに文句言わないの?」
「うん、百年くらい前から、少しずつ言えるうようになってきたみたいだよ。」
 ヤエは、また目を丸くして言った。
「てことは、こういうことを言うことすら、許されてなかったんだ!」
「そういう空気があったみたいだね、それは今でもまだ少し残ってる。」
 彼女は真剣な表情になると、なかば独り言のように言った。
「そうか……、話しには聞いてたけど、これはかなり住みにくそうだわ……。」
 残念なことだが、そう思われても仕方がない。私は言った。
「それにこの国ではね、男女平等っていうのは有り得ないって、本気で思ってる人たちもいるんだ。」
 彼女は、またもや驚いて尋ねた。
「へー! なんで?」
「『男と女は体のつくりも違うし物の考え方も違う。それを平等にするのがそもそも間違いだ。』っていうのが、その人たちの言い分さ。」
 彼女は笑って言った。
「ハハハ! それは、『平等』っていう言葉の意味をちゃんとわかってないんじゃない!」
 そして彼女は、やや真剣な表情になって尋ねた。
「そういうこと、学校ではきちんと教えてないの?」
 私は苦笑いして言った。
「うーん、どうなんだろう。きちんと教えてないから、そういう人が減らないんだろうね。」
 ヤエは言った。
「男と女の違いは『性の違い』なのに。男でも普通の女より料理が上手な人はいるし、女でも普通の男より魚釣りが上手な人はいるよね。だから、男女を平等にするってことは、『性の違い』にかかわらず、個人の能力に応じて、仕事の機会や公(おおやけ)の恵みを、同じように受けられるようにするってことなんじゃないの。」
 男女平等否定論者に、この言葉を聞かせてやりたいもんだ。でも、そういう奴に限って、「アジア系外国人」であり、「中卒」で「未成年」の「女」からこのような意見を言われると、頭に血がのぼって大脳が余計に働かなくなってしまうことだろう。だからこの国の社会の不条理の改善は遅々として進まないのだ。
 私は微笑んで言った。
「しかしまあ、男女平等が必ずしも正しいってわけでもないと思うけどね。」
 ヤエは頷いて言った。
「まあ、そうだろうね。」
 瓶ヶ島の掟では、男性が町長になることが認められていない。また掟ではないが、女性が継ぐことを定めている家が圧倒的に多い。このようなことは、明らかに男女平等ではない。
 私は、また微笑んで言った。
「男が国や組織を引っ張っていくと、戦争を起こしたり自然環境を破壊したりといった、命の成長と逆行することをやらかす。それを防ぐために男性に制限が設けられるなら、俺は一向に構わないよ。」
 ヤエは、やや真剣な表情になって言った。
「男の人の大脳の方が、女より大きくできてるってことは、既にはっきりしてることだよ。でも男の人は、その大脳だけで物事を考えてしまって、一番大事なことを見落としてしまうことも、よくあるみたいだからね。」
 私も、真剣な表情になって言った。
「これは俺の勝手な想像だけど、人間の女の脳は物理的に完成されてるけど、男のそれは、まだ完成されてない、不安定なものなんじゃないかってね。だから、それがつくり上げたこの物質文明は不完全なんだよ。」
 ヤエは、興味深げに尋ねた。
「どう不完全なの?」
「だって、埋蔵量に現界がある石油や天然ガスに頼った生活や産業で成り立ってるだろ? 日本の米や野菜や果物、そして魚介類だって、その石油がなけりゃ生産できないんだもん。」
 彼女は驚いて言った。
「石油で動いてる機械に頼ってるから?」
「そう。あと、温室で石油を焚いたりね。
しかも、物を大量に生産して大量に消費するようにしなければ成り立たない仕組みになってる。そして、多くの男たちは、それが経済の発展で、幸せなことだと信じ込んでる。はっきり言って頭悪いよ、今の文明は。
だからね、これは男の脳味噌の余分な部分がつくり上げた幻ようなもので、脆くてすぐに壊れてしまうものなんだ。」
 彼女も真剣な表情になって、こう言った。
「そうかもね。」
「宗教的に難しい国もあるだろうけど、世界のより多くの国の指導者が女性になれば、この世の中、少しは良くなると思うけどね。」
 私たちが待っている乗り場に、港行きのバスがバックで入って来て停車した。そのドアが開いたので、私たちは再び荷物を持つと、他の乗客に続いてそれに乗り込んだ。

曇り空  それから約一時間後、ヤエと私は、双美汽船カーフェリーの船尾デッキから、次第に遠ざかって行く新潟市を眺めていた。早春の日本海の風はまだかなり冷たかったが、時折り銀色の雲間から薄陽(うすび)が射して来る。
「こんなに冷たい空気って、生まれて初めてだわ!」
 その言葉だけだと、我々日本人には文句を言っているようにも受け取れるが、ヤエはそれを大喜びの顔で言うのである。
 船に乗ってからの彼女は、もうとにかくはしゃぎまくっていた。南国育ちの人は、冷たいものに憧れる傾向が強いようだが、彼女もその例に漏れていなかったというわけだ。しかしそれにも増して、バンコク滞在中からずっとご無沙汰していた、潮の香りを胸一杯に吸い込めたことに対する喜びもあったのだろう。
 寒さに慣れていない彼女に気遣い、私は一応尋ねてみた。
「寒くない?」
 灰色のコートのポケットに両手を突っ込み、船べりにもたれている彼女は、長い黒髪を北風になびかせながら微笑んだ。
「顔に当たる風は冷たいけど、寒くはないよ。服たくさん着てるから。」
 バンコクで仕入れた防寒関係の衣類が、ここで早くも役に立っているようだ。暑い時期のバンコクでは、まず売れそうもないのに、市内のデパートの衣料品売り場の片隅に、そういう品物が置かれていたということは、私たちにとってとても幸運なことであった。
 このカーフェリーが出港してから、十数羽の白い海鳥(うみどり)が、ずっとその後を飛びながら付いて来ている。それを指差した彼女は、私に向かって尋ねた。
「ねえカカシ、あの鳥なんて言うの?」
 私にとっては見慣れた鳥だったが、そういえばこれを南の国々では一度も見掛けなかったっけ。
「カモメかウミネコ……ウミネコだな、きっと。」
「ハハハ! ほんとだ! 『ニャーニャー』って鳴いてるわ!」
 このとき、近くで海を眺めていた数人の中年女性の中の一人が、持っていた袋の中から菓子を一つ取り出すと、それを空中に放り上げた。すると、一羽の鳥がすーっとそれに接近して、嘴(くちば)で上手にそれを捕えた。それを見た他の人たちも、同じようにして鳥たちに餌を与え始めた。
 その様子を見ていたヤエは感心して言った。
「へー! 上手に受け取るんだね!」
 私はそれに答えた。
「そうだよ。たまに失敗して海に落とすこともあるけどね。そうすると海に下りてから、ちゃんと捕まえるんだ。」
 私たち二人は、しばらくその空中ショーを見物していたが、どんなに厚着をしていても、摂氏八度以下の強い風の中で体を動かさずに三十分も立っていれば、さすがに寒くなってくる。彼女は声を震わせて言った。
「う~っ、寒くなってきた! 中に入ろうよ!」
 私たちは、暖房のよく効いた二等客室の中へと戻った。
 学校の春休みは明日からだし、平日だということもあって客は疎(まば)らだった。それでも私は一応、広々としたその客室の中のカーペットの上の一角に、自分たちの毛布を敷いて場所を取っていた。汽船会社が貸し出している毛布を使うと料金が掛かるので、私はいつもフェリーに乗る際は毛布を持参することにしているのだ。
 靴を脱いでカーペットの上に上がった私たちは、その毛布を一旦除けると、壁を背もたれにして並んで座り、脚を伸ばしてそれぞれその脚の上に毛布を掛けた。
 私は、ヤエの横顔に向かって言った。
「今日は空(す)いてるけど、混んでるときは俺たちみたいな人で、この部屋が一杯になるんだ。」
 ヤエは、広いその客室を見渡して言った。
「へー。どういうときに混むの?」
「盆とか正月とか、連休とかだね。」
「レンキュウ?」
 私は彼女の右手を自分の左手で持つと、その細長い手の平の上に、右手の人差し指を使って「連休」という二つの漢字を書いた。彼女は、少しくすぐったかったらしく、ちょっと笑って言った。
「フフ……なるほど、休みが連なってるってことなのね。」
「そうそう。この国で定められた休みがあって、会社も学校もそれに合わせて休むのさ。」
「そのあいだに、旅に出たりするのね。」
「そう。旅に出る人もいるし、故郷(ふるさと)へ帰る人もいる。」
「故郷へ帰る人って、あたしのようによそに行った人が、自分の生まれた島に帰るってこと?」
「まあ、そういう場合もあるだろうね。本州は広いから、一つの島の中でもそういうことがあるけど。でもヤエとは違って、日本の多くの人は都会に働きに出るんだ。」
「故郷には、仕事がないってことなの?」
「て言うよりか、田舎(いなか)に仕事が少なくて、都会に仕事が多いってこと。」
 彼女は少し考えてから言った。
「……田舎でする仕事って大体思い付くけど、都会でする仕事ってどんなことがあるの?」
「多過ぎて全部詳しくは言えないけど、物を売り買いしたりとか工場で働いたりとか、書類の整理といったような事務の仕事だよ。食べ物屋とか乗り物もたくさんもあるから、そこで働く人も要るしね。」
「なるほど。前に日本の人の八割が都会に住んでるってカカシ言ってたけど、それじゃその人たちは、そういう仕事してるってことなのね?」
「そう。それに、田舎にだってそういう仕事してる人もいるから、その数を引けば、田畑で作物をつくったり漁をしたり、鶏や家畜を飼ったり山で炭を焼いたりするような人たちは、もっと少ないだろうね。今では全人口の5パーセントも、いないんじゃないかな。」
 彼女は、私の方を向いて確かめるように言った。
「今ではっていうことは、昔より減ってるってことね?」
 私は寂しそうに微笑んで言った。
「そう。毎年毎年ね。減りはしても増えることはまずないよ。」
 ヤエは、訝しそうに言った。
「それじゃ、そのうち日本から、そういうことができる人たちが、いなくなってしまうんじゃないの?」
「いや、完全にいなくなるってことはないと思うよ。近頃では、この問題に真剣に取り組んでる地域もあるようだし。それに、俺とかヤエみたいな物好きもいるから。」
 二人は顔を見合わせると、可笑しそうに笑った。
 私は再び真面目な顔に戻ると、話しを続けた。
「……でも、そういった動きは、まだまだ一部の地域に限られてるから、このままだと日本は多くの貴重なものを失うだろうね。農作物のつくり方とか魚の捕り方、牛や馬の世話だとか森を手入れする技術だとか。そういう専門的なことは、今までは親から子へ、世代から世代へと受け継がれてきたんだ。それは文字にして書き残せないような、何百年も前からの積み重ねだよ。どこにでも、その土地の気候風土に基づいた勘のようなものがあるからね。
それは一旦途絶えると一から始めなければならなくなる。だから、一個人の力でそれを復元させることは、ほとんど不可能だと思っていいね。」
 彼女も真剣な表情になって言った。
「それじゃ、それが途絶えてしまう前に、あたしたち若いもんが覚えられるだけ覚えておかなきゃね。」
「そういうこと。俺はもう若くないけど……。」
 私が苦笑いしてそう言うと、彼女は微笑んで言った。
「そんなことないよ。あたしよりは、ずっと年取ってるけど。」
 私は苦笑いしたままで言った。
「こら! それじゃフォローになってないじゃないか!」
 私たちは、また顔を見合わせて笑った。
「……。」
 ヤエは、そっと私の肩に頬を寄せてきた。フライトの時間の関係から、昨夜は二人ともあまりよく眠っていない。私は彼女の耳元で言った。
「横になろう。」
 彼女は黙って頷いた。
 私たちは荷物を枕にすると、カーペットの上に横になってそれぞれが毛布を被った。私は、ヤエの毛布の中の細く冷たい手を探し当てると、それをきゅっと握った。彼女もその私の手をそっと握り返してきた。そんなことを繰り返しているうちに、二人はどちらからともなく眠ってしまった。
 朦朧(もうろう)とした意識の中で、 ゆったりとした音楽と共に男性のアナウンスが聞こえて来た。
「……間もなく双津港(ふたつこう)に着岸致します。」
 うっすらと目を開けると、明かりのともった客室の天井がまず私の目に映った。しばらくそのままでいたが、やがて私は上半身を起こすと、よく眠っている隣のヤエを揺り起こした。間もなく彼女も身を起こすと、寝ぼけ眼(まなこ)で言った。
「着いたの?」
「うん、もうじき着くんだって。」
 私はそう言って立ち上がると、自分の毛布を畳んだ。
 ヤエは、乱れた長い髪をサッサッと左右の後ろに掃って整えると、毛布を持って立ち上り、私に倣った。
 荷物を整理して身支度を整えていると、船のエンジン音が変わった。接岸するためにスクリューが逆回転を始めたのだろう。
 この船室の出入り口から見えているロビーには、船の出口に向けて既に行列ができ始めたが、そう慌てることはない。接岸しても下船するまでには、まだ少し時間があるからだ。同じ待つのなら荷物を持って立って待つよりも、カーペットの上でくつろいで待つ方がいい。
 私は、背後のガラス窓から外の様子を見てみることにした。膝を付いて結露しているガラスを拭いた私は、そこに現われた景色を眺めて思わず呟いた。
「うひゃー、寒そう……。」
 風も強まっているようで、約1ヶ月間常夏の国に滞在し、弛緩(しかん)しきっているこの身には、かなりこたえそうだ。彼女も同じようにして外を眺めたが、こちらはうきうきと楽しそうだった。
「へー! これが北国の夕空なのかー!」
 感動したようにそう言いながらも、彼女は私の腕にしがみ付いてきたので、私はそれを引き寄せて自分の体に密着させた。窓から見えている雲の色には、思わず二人をそうさせてしまう何かがあったのだ。しかしそれは絶望的な真冬の色一色ではなく、春の兆しを感じさせるものも微かではあるが混じっていた。
 間もなく船が接岸したようで、その動きを止めた。するとロビーの人の列が少しずつ前に進みだしたので、私たちは各自荷物を背負ったり手に持ったりして移動を開始した。
 靴を履いてロビーに出ると、丁度列の最後の人が出口に差し掛かっているところだった。私たちはその後に続いた。
 外に出た途端、凍るような冷たい風が肌を刺した。しかし、船と陸のあいだに横たわる深い藍色の帯を渡り終えた瞬間、いつものように私の心の中には一つの言葉が湧き出た。
『帰って来た……。』
 それは、他に例えようもない安堵感を伴なっており、それまで無意識に全身に張りめぐらされていた緊張感から一気に解放されるのを感じた。

 たくさんの荷物を持ってターミナルビルの長い廊下を歩いたヤエと私は、無事に出口改札を抜けた。今までこういうところを通るたびに何かあったので、この通過は実に気持ちの良いものであった。
 そういえば、一昨年前の十二月には、ここで長澤美世という女性を出迎えたんだっけ。そう思った途端、そのとき彼女が見せた笑顔が脳裏に現れてしまった。
「ちょっとカカシ! あんた今、何考えてたの!?」
 ハスキーなヤエのその声で、私は我に帰った。荷物を背負って私の横を歩いている彼女は、訝しそうに私の顔を覗(のぞ)き込んでいる。ヤエに限ったことではない。このようなときの女性の直感は人間業ではなく、もうかなり動物的だ。私は思わずどもってしまった。
「い、いや、久し振りに見たんで、な、懐かしいなーって思ってたとこさ!」
 彼女は問い詰めてきた。
「何を見たのよ?」
 その返答に困った私は、やや口篭(くちごも)って言った。
「……そ、その……」
 両手が荷物で塞(ふさ)がっていた私は、長い顎髭の先端で目の前を示すと、笑顔でこう言った。
「……ほ、ほら、この風景に決まってるだろ。」
 彼女は、あまり納得していないような声で返事をした。
「ふーん。」
 私は冷や汗が出そうになっていたが、彼女はそれ以上追求してこなかったので、何とかこの場を切り抜けることができた。
 しかし、油断は禁物である。女はこういうどうでもいいようなことを、何年経ってもしっかりと覚えているからだ。そして、次に似たようなことがあると、「もしかして、あのときもそうだったんでしょ。」というふうに、一挙に責めてくる。この戦法に勝てる男は、きっと世渡りの達人か遊びの達人に違いない。残念ながらこの私は、そのどちらにも該当しない。
 階段を降りてターミナルビルを出ると、外はもうかなり暗くなっていた。私たちは、私の車を停めてある場所まで、けっこう長い道のりを荷物を持ったまま歩いた。昔は港の周辺、それこそ路上にでも駐車して置けたのだが、近頃は取締りが厳しくなったので、一ヶ月も無料で駐車しておこうと思えば、このようにするしかなかったのだ。
 冷え切った闇の中で、港の白い明かりに照らされた紺色の愛車の姿を目にした私は、白い息を吐きながらも、思わず顔を綻(ほころ)ばせて言った。
「ああ良かった! ちゃんとあって!」
 ヤエも白い息を吐きながら、嬉しそうに言った。
「これが、カカシの車ね!」
 私は、運転席のドアにキーを差し込みながら言った。
「そう。ヤエの実家の牛さんと同じで、大事大事。」
「ハハハ!」
 彼女は楽しそうに笑った。
 車の後部座席に大量の荷物を乗せ終えた私たちは、助手席と運転席にそれぞれ収まった。
 私はヤエに、シートベルトの着脱の仕方と、窓の開け閉めの仕方を教えてからエンジンを掛けた。
 車を発進させながら、私は彼女に向かって言った。
「……ヤエの島では牛や馬がみんなの乗り物だったけど、この島ではこういう車がみんなの乗り物になってるんだ。」
 彼女は、やや残念そうに言った。
「餌は草じゃなくて、petrol なのね。」
 アメリカや日本で言うガソリンのことを、彼女の国の公用語ではペトロルと言うのだ。
 私も彼女と同じような口調でこう言った。
「そうなんだよ。本当は草や穀物の方がいいんだけどね。でも、そのうちそういうものからつくられる燃料が普及すると、それが可能になってくるよ。」
 ヤエは、少し嬉しそうに言った。
「そういう車なら、あたしも運転してみたいな。」
 私は、やや真剣な声で言った。
「でも、車を運転するためには、餌だけじゃなくて免許も要るんだ。」
「メンキョ? なにそれ?」
 私がヤエの方を向くと、対向車のライトによって彼女の怪訝そうな顔が一瞬だけ見えた。再び前を向いた私は運転しながら言った。
「『あなたは車を運転してもいいです』って、お巡りさんから許してもらうこと。」
 彼女は、気乗りしない口調でこう言った。
「ふーん。なんで町長じゃなくて、お巡りさんなの?」
「日本の公(おおやけ)の道を通るときの掟のことは、全部お巡りさんが取り仕切ってるからさ。」
 ヤエは、意外そうに言った。
「へー、そうだったのか!」
 車を左折させようとしてる私は、左のドアミラーを見たついでに、暗がりの中の彼女に向かってこう言った。
「うちでは牛や馬を飼ってないから、ヤエもこの島で暮らすからには、こういう車にも乗れるようにしといた方がいいよ。」
 ヤエは真剣な声で言った。
「うん、わかったよ。免許って、どうやって手に入れるの?」
 ハンドルを戻した私は、運転しながら言った。
「試験に合格すれば貰えるよ。そのために練習しなけりゃならないけどね。」
 彼女は、やや投げ遣りな口調で言った。
「でも、どうせ二十歳過ぎてからなんでしょ。」
「いや、車の普通免許の試験は、十八過ぎたら受けられるよ。」
 彼女は急に嬉しそうな声になって言った。
「それじゃ、あたしでも受けられるんじゃない!」
「そう。その前にまず婚姻届を出したり日本国籍を取ったりしなきゃ……。」
 市街地に入った私たちは、買い物をすることにした。
 私は車を路上に停めると、この町に来たときには必ず寄るスーパーにヤエを連れて入った。既に夕食時になっているということもあり、照明が明るくともされた店内だったが、いつもより人はやや少なかった。
 私は、必要なものを次々と買い物籠の中に入れていった。今回の旅行では、一ヶ月ほど家を空けることを想定していたので、その期間保存することができないものは全て食べ尽くしていた。そのため、ある程度の品物を買い揃えなければならなかった。
 その一方ヤエは、野菜や果物一つ一つを手に取って念入りに観察していた。初めて来た土地の作物の様子を確かめたかったのだろう。私は、そんな彼女に向かってこう言った。
「ヤエ。産地が書いてあるから、まずそこを見るんだ。『双美産』て書かれてあるの以外は、この島の物じゃないと思っていいよ。」
 ヤエは不思議そうに言った。
「うん、それはわかったけど……ねえ、カカシ。日本には畑の虫っていないの?」
「え?」
 私は突然彼女が何を聞くんだろうかと思ったが、間もなくその質問の意味がわかったので答えた。
「……いることはいるけど、農薬っていう虫を殺す薬を撒(ま)いて消毒してるから、日本の一般の店で売ってる野菜や果物には、虫の食った痕が一つもないんだよ。」
 彼女は、怪訝そうな表情になって言った。
「消毒って、『毒を消す』って書くんでしょ?」
「うん。」
「虫が死んでしまうような毒を撒いてるのに、『消毒』って言うのは変だよ。」
「あ、そうか。」
 そう言われてみると、確かにその通りだ。
「それに、毒を撒くってことは、野菜を食べる虫だけじゃなくて、そうじゃない生き物まで殺すってことでしょ?」
「……そうだよね。」
 野菜を食べる虫を放っておくと、人間の食べる分がなくなってしまうので、瓶ヶ島では爺ちゃん婆ちゃんたちが、「身を守る」という目的で、そのような虫一匹一匹を箸で摘んで捕って殺している。だから逆に言えば、そのような虫以外の生き物まで殺してしまうことはない。そのことを知っている私は、やや残念そうに言った。
「多分、一般の人はそこまで考えてないと思うよ。そこまで考えて農家が手作業で虫を取ってたら、とても採算が合わないだろうから。」
 ヤエは、悲しそうな表情になって言った。
「それなら、仕方のないことなんだろうけど……。でも、一見どうでもいいような小さな生き物がたくさんいるからこそ、あたしたち大きな生き物は生きていけるんだってこと、その人たちは知ってるのかなぁ?」
「いや。多分そこまでは知らないと思うよ。」
 私がまだ子供の頃には、夜になると街灯や窓の明かりには、数え切れないほどのたくさんの虫が集まって来ていた。また、朝が来れば無数の鳥の声で目が覚めたものだ。ところが近頃では、夜の明かりに集まって来る虫は、めっきり少なくなったなったし、朝の鳥のさえずりも年々少なくなっているように思う。この島に住む私と同年代の人も、虫のことで同じような感想を述べていたことを思い出した。雀の姿を見なくなったと言う人も多い。
 絶滅危惧種や増加する外来種だけに人々の関心が集まっているようだが、そもそも在来の生き物の絶対量が全体的に減ってきているのかも知れない。もしそうだとすれば、日本の自然環境は、私たち人間が想像している以上の危機に瀕(ひん)しているということになる。
 自然界からのこの危険信号は、日本の科学者たちにちゃんと伝わっているのだろうか? もし伝わっているならば、科学者は国民に対して警鐘を鳴らし、政府は早急に手を打たねばならないだろう。人間に深刻な影響が及んでしまう前に……。
 ヤエは私に向かって、また疑問を投げ掛けてきた。
「……そんな毒の掛かった野菜を、人間が食べても大丈夫なの?」
「昔は何も考えずに強い毒を撒いてて、それが掛かった農産物を食べた人が病気になったり死んだりしてた。だから近頃では、人には害の少ないって言われてる薬を、少しだけ撒くようにしてるようだけどね。」
 彼女は、訝しそうに尋ねた。
「害の少ないって……実験でもしたの?」
「それを人体実験するわけにはいかないから、鼠かなんかで試したんだろう。」
「鼠の寿命って何年なの?」
 このとき、野菜コーナーの前で話しをしている私たちが、他の客の障害になっていることに気付いた私は、ヤエの肩を抱いて通路の真ん中へと移動した。私は、彼女の先ほどの問いに答えた。
「……俺は測ったことないけど、二年か三年くらいじゃないかな?」
「人間て、その三十倍は生きるよね。それに、長年に渡って土に染み込んだ毒は、その後どうなるかわかってるの?」
「うーん、……そうだよね。」
 そうだ。この問題は、作物に残留している農薬そのものも然(さ)ることながら、複数の化学物質が毎年長年にわたって大地に撒布され、それらが土壌の中で複合的に蓄積されていくとどうなるか、ということである。
 しかも、その一部は海に向かって流れ込んでいる。全世界から何百種類もの大量の農薬が、長年に渡って海に流れ込み続けているのだ。それらが互いに反応を起こし、人体だけではなく地球全体に対してどのような影響を及ぼしているのかを、もし知っている人がいたら教えてほしい。もし誰も知らないで人類がそれをし続けているのだとしたら、それは私たちが目隠しされて、崖っぷちの道を歩かされているようなものだろう。
 ヤエは、やや憤慨した口調でこう言った。
「今の人に害があるだけでも困るのに、それが土に染み込んで生き物の数を減らし続けてるんだったら、将来の人たちがこの問題を解決したくても解決することが、できなくなるんじゃないの!」
一、我ガノ身ノミナラズ、末代後ノ人ノ身マデ案ゼヨ。
(自分のことだけではなく、ずっと先の子孫のことも考えなさい。)
 これもまた瓶ヶ島の戒めの一つだ。
 今までの公害問題のほとんど全ては、人が自分の目先のことだけしか考えていなかったから起きたのだ。その点、予測して防ぐことのできなかった、オゾン層の破壊や地球の平均気温の上昇のようなことだって全部同じことだ。
 私たちは、自分自身の健康のことについては比較的よく考えているが、未来の人の健康のことも自分のことと同じようにして考える必要がある。それができなければ、せめて自分の子供たちの将来の健康や安全くらいは親として考えてやって当然だろう。そのためには、自然界によって分解されにくい物質を大地に撒くという、この無責任な発想そのものを見直し、この問題を先送りせずに解決しておく必要があるのではないだろうか。具体的に言えば、現在の一般的な農薬に代わる害虫や雑草の駆除の方法を早急に開発して、実用化しなければならないということである。
 私はヤエに向かって、極めて真剣な表情で言った。
「そうだよね。これは作物をつくる側よりも、作物を買う側の方にかなり問題があるな。
日本の消費者は、とても神経質で、ちょっとでも虫が食っていたり傷が付いていたりすると、その商品は敬遠する。だから農家も手間とお金を掛けて、虫が付かないよう傷が付かないように細心の注意を払ってるし、そういう作物だけしか出荷しない。それが日本の農産物の、外見上の品質を高めているということは事実だ。
でも、自然環境や人間の健康への被害が出たり、経費が掛かった分価格が高くなって安い外国産に押されてしまっては何にもならない。そんな農業やってても楽しくないから、年々農業をする人が減っていく。すると、人手が足りないから農家は機械や農薬に頼らざるを得なくなる。悪循環の繰り返しだ。」
 ヤエは残念そうに言った。
「人手が足りないっていうのは痛いね。」
「そうなんだ。だから大規模な農地で、機械化された農業を行なえば儲かるっていう図式になって、小さな農家はやっていけなくなる。ところが、その機械を動かしている石油の供給がもし停まってしまえば、一体どうなると思う?」
「機械に頼った農家だけになると、いざというときに、とんでもないことになるね。やっぱり、小さな農家でもちゃんと食べていけるようにしといた方がいいよ。」
「そうだよね。そのため日本では、今のような流通の形を変えて、小規模な農家がもっと儲かるようにしなければならない。さっきも言った通り、日本の農産物の品質は世界トップクラスだ。もしこれに高い安全性が加わったとしたら、世界各国からの需要が急増することだろう。そういう技術が開発されて一般に普及し、農家が作物を国外に向けて販売することがもっと簡単にできるようになれば、日本の農業は必ずもっと発展するはずだよ。」
 私がそう言うと、ヤエもそれに同意した。
「そうだよね。」
 私はまた真剣な表情で言った。
「実はね、ヤエ。一般の農家が農薬に頼らざるを得ない理由は、他にもあるんだ。」
 彼女は怪訝そうに尋ねた。
「なに? その理由って。」
「瓶ヶ島の野菜と果物は、農薬を使わなくてもちゃんと育つだろう?」
 彼女は微笑んで言った。
「うん。多少虫には食われるけどね。それが当たり前なんじゃないの?」
「日本も昔はそうだったんだろうけど、今はそうじゃないっていうことだ。」
「もしかして品種が違うとか?」
 私は感心し、微笑んで言った。
「おう、さすがヤエ! その通り!
 日本の野菜や果物の種苗(しゅびょう)業界は、消費者に向けて『より甘く、より柔らかく』ということを主な目標に掲げ、品種の改良を重ねてきた。そういう作物の方が良く売れるから。ところが、野菜を食べる虫だって、甘くて柔らかい方を好むに決まってる。だから、そういう作物には虫が集中することになるんだ。
 また生産者に向けては、『多収、耐病』を主な目標にして改良を重ねてきた。そういう品種を生産者が望んでるから。ところが『耐病』はともかくとして、多く収獲することができるということは、それだけたくさんの肥料を野菜が食うことになる。そのため堆肥だけじゃなくて、価格の安い化学肥料も合わせて施すというのが一般的な農法になってしまった。だから、今の日本の一般の市場に出回ってる野菜や果物は、農薬と化学肥料を使わないと、ちゃんと育たない品種になってるんだ。」
 彼女は、怪訝そうな顔で尋ねた。
「化学肥料?」
 私はそれに答えた。
「化学調味料や初期の宇宙食と同じ発想だよ。野菜にとって必要な栄養素を、科学的に生成した肥料のことさ。」
「それじゃ、野菜にとっては不完全だってことね。」
「そう。それを食べる人間にとっても不完全かもしれないよ。
これを使えば確かに野菜の収量は増えるけど、その分味も香りも薄くて水っぽい、形だけの野菜が出来上がるんだ。でも、『化学』盲信時代の昔と違って、近頃ではプロの農家だってみんな口を揃えて言ってるよ。『化学肥料だけしか与えないと、その土地は痩せてくる』って。」
「つくる方は、ちゃんとその本質がわかってるんじゃない。」
「そうなんだ。また一部の消費者の意識も高まってきたんで、『無農薬有機栽培』っていう化学物質を使わない農法を行なう農家も少しずつ増えてきた。」
「それは良いことだね。増えてきたっていうか、復活してきたのね。ずっと昔はみんなそうだったんだろうから……。カカシは、そういう野菜を買うんでしょ?」
 私は恥ずかしそうに言った。
「いや……、それが……、その……。」
 彼女は、訝しげに尋ねた。
「買わないの?」
「昔は買ってたけどね。」
「どうして?」
「だって、高くて買えないんだもん。」
 彼女は残念そうに言った。
「なんだ、また『高いから』なのね。それじゃそれを買えるのは、お金に余裕のある人に限られてしまうってことなの?」
「そうだよ。さっきも言ったように、今の農業のやり方では、薬品や機械を使って一度に大量につくった方が安く上がる。消費者の多くはそういう安い商品に飛び付く。だから、昔ながらの手間の掛かる農法の経営は、とても難しいんだ。」
 彼女は、困ったように眉を寄せて言った。
「それじゃ、いつまで経っても中身が良くならないよ。」
「そうなんだ。でも、一つだけ道が残されてる。」
 彼女は興味深そうに尋ねてきた。
「え!? どんな道?」
「それは、農薬や化学肥料を使い始める前の時代のものに、作物の品種を戻すってことだ。そうすれば、農薬の撒布や虫取りなどの手間が省ける分、値段を安くできるんで、それを買える人も増えると思うよ。その代わり、作物の収量はやや減少するし、味が若干野性味を帯びるだろうけどね。」
 ヤエは真剣な表情で言った。
「それには、買う人の理解がまず必要だね。せっかくつくっても、売れなきゃ何にもならないんだから。」
 私も、極めて真剣な口調で言った。
「その通り。日本人の食卓の未来は、消費者自身が握ってるってことをもっと自覚しなけりゃね。」
 野菜の陳列ケースに目を移したヤエは、間もなく、また不思議そうな表情になってこう言った。
「……ねえ、カカシ。こんなに寒いのに tomato(トマト)や胡瓜があるよ。」
 私は苦笑いして言った。
「そうさ。日本の暖かい地方では、ビニールハウスっていう温室で、冬でも夏野菜を育ててるんだもん。」
 彼女は心配そうに言った。
「それじゃ、設備や燃料や運ぶのにも、それだけお金が掛かってるんじゃないの?」
「そうだよ。ビニールも温室の燃料も輸送の燃料も全て石油が原料だ。その分割高になるけど、こういう季節外れの作物に限って高くても売れるんだから、今の日本人の季節感てどうなってるんだろうね。四季折々の風物の変化を大事にしてた、俺たちのご先祖様が見たら嘆き悲しむよ、きっと。」
 彼女は、うつろな表情で言った。
「なんだか、野菜の形をした石油みたい……。」
 その一方、私は笑って言った。
「ハハハ! なかなかうまいこと言うじゃん。
そうだね、土を耕すのから始まって、ここまで運ばれて来るのにも石油がバンバン使われてるんだからね。」
 ヤエは、口調をやや改めて言った。
「……『地球には季節の巡(めぐ)りがある。常夏と言われてる土地で育ったマムアン(マンゴー)や pineapple(パイナップル)にだって、ちゃんと稔(みの)る季節がある。人はその巡りに沿った命を頂き、自分たちの血肉をつくって物事を考える。
地球の巡りに沿っていない命を食べると、人の血肉や考え方も地球の巡りから外れてくる。そんなことを続けてると、そのうちその人は地球の回転から振り落とされることになるだろう。』って婆ちゃんが言ってたよ。」
 私は、やや感心して言った。
「ほう! カヤ婆ちゃんが?」
「そうだよ。」
 なるほど……。
 カヤ婆ちゃんは、政治や教育のことだけじゃなく、人の健康のことについても考えていたのか。それもそのはず、婆ちゃんの前任の町長は、あのカイさんなんだから、それは当然のことかも知れない。しかしよく考えてみると、これらのことは別々の分野なようで、実は全部繋がっていることなんだ。ところが、高度経済成長期以後の日本では、個々の省庁や企業によってそれが分業化され、それぞれがバラバラに考えられてきたもんだから、ここまで収拾が付かなくなってるんだろう。
 彼女は、また心配して尋ねた。
「大丈夫なの? こういう作物食べてる人たちは?」
「いや、それが、どうも大丈夫じゃなさそうなんだ。」
 彼女がまた深刻な表情になったので、私は彼女にもわかるように、そのことについて説明した。
「日本には少し前から、『健康食品ブーム』ってのがあってね、そういう現象を見てると、カヤ婆ちゃんのその言葉を裏付けているように思うよ。
不自然な食生活をして、地球の回転から振り落とされそうになってる人が今の日本には多い。そういう人たちは、自分の健康に対して、理屈じゃなくて本能的に不安を抱いてるから、それに乗じて様々な薬品や健康食品が売り出され、人々はそれによって健康を維持しようとする。それがこのブームの本質だ。
健康食品そのものは間違ってないと思うけど、何かが大幅に間違ってるよね。」
 私が同意を求めると、ヤエは即座に応えた。
「うん。本当に健康になりたいんなら、まず普通の暮らしをして普通の食事をしてなきゃ。」
 私は苦笑いして言った。
「そうなんだよね。極端な言い方をすれば、まるで真冬にかき氷やアイスクリームを買って食べては風邪を引き、その都度風邪薬買って飲んでるようなもんなんだから。」
 そして私は、やや真剣な表情になってこう言った。
「でも、今の日本の一般の人たちは、夏の物を冬に食べたりするようなことを、多分やめはしないだろう。」
 彼女は怪訝そうな顔で尋ねた。
「どうして?」
「『食べたい物を、食べたいときに、食べたいだけ食べる。』
昔はともかく、今の日本人では、これが当たり前の感覚になってるから。この快楽をやめるくらいなら、少しぐらい体の調子が狂ってもいいと思ってるんだろう。結局それが大病の原因となるんだけどね。」
 ヤエは、更に訝しそうに尋ねた。
「そういう乱れた食生活が、健康や精神を害してるってこと、みんなは知らないの?」
 私は、やや表情を和ませて言った。
「いや、知ってる人も少しはいると思うよ。テレビやラジオであれだけ言われてるんだから。」
 しかし、また真剣な表情になってこう言った。
「それでもその快楽をやめようとせず、ちょこっと薬を飲んだだけで腹が引っ込めば、しめたもんだって思ってる人は、少なくないんじゃないかな。
これは丁度この国の人が、神社やお寺にお参りに行って、無病息災を祈るのと良く似てるよ。不自然な生活してても病気にならないようにって、自分では努力せず神様仏様の力で何とかして貰おうとしてるんだからね。」
 ヤエは、深く納得したように言った。
「なるほど、そうだったのかー。これが、今の日本の人の思想の根幹(こんかん)になってるのね。」
 私は苦笑いして言った。
「ヤエちゃん、それって厭味(いやみ)?」
 一方、彼女は怪訝そうな表情で問い返した。
「え?」
 そうか……。外国生まれの彼女は、これをマジで理解しようとしていたのだ。日本の社会の本質を見られてしまったような気がした私は、恥ずかしくなってきたので、もうこれ以上この話しを掘り下げることはやめにして、話しをまとめることにした。
「……ま、まあそんことなんで、今後も日本の消費者が贅沢で我儘であり続ければ、自分たちの健康を損ね、自国の農業の発展を妨げ続けることになるだろう。しかも、斯(か)く言うこの俺もそうだけど、外国産の農産物が安ければ安易にそれに手を出してしまう。」
 彼女は、困ったように言った。
「うーん、やりたい放題だなぁ……。」
「そうだよね。だからこれからは、このような贅沢と我儘によって自分たちがどれだけ損してるかを、俺たちはもっと知る必要があるね。日本の自然環境や農業、そして自分たちの健康がこれからどうなるかは、俺たち一人一人の食べ物に対する考え方次第だろう……。」
 このとき私たち二人は、同時にハッとあることに気が付き、私は喋るのをやめた。野菜コーナーの前で熱心に議論している私たちに向かって、店員や他の買い物客の冷たい視線が、それとなく集中していたからだ。
 私たちのしていることは、瓶ヶ島でなら当たり前のことで、むしろ奨励されていることだ。町や国を良くしようとして話し合っているのだから。
 ところが、ここは日本だ。このような話し合いをすればするほど、『商品に対して文句を言っている』とか、『買い物客の悪口を言っている』というような感情的なレベルでしか捉えられず、一般の人からは白い目で見られてしまう国なのだ。
 これは、この国の学校教育のあり方に、かなり問題があるのではないだろうか。日本の学校では基本的に、教師が生徒に対して一方的に「学問」を教えているだけなので、各学科で生徒たちのあいだに何かの疑問が生じた際、生徒同士でそれを議論させるという場がほとんどないように思う。
 例えば、町の行政のあり方に対してとか、農業問題に対してだ。日本の行政は、そのようなことが子供たちのあいだで議論されることを、恐れているとしか思えない。
 いずれにしても、国民のあいだでこのようなことを議論をする機会がないため、この国では他の国では有り得ないような多くの問題が、山積(さんせき)したまま解決しないでいるのだと思う。全く勿体ないことである。子供たちの鋭い感性と柔軟な発想を活用しないのは、最大級の国民的損失だ。
 一般人からの要らぬ誤解を避けるために、私たち二人は急いでその場を離れた。
 ヤエが私の耳元で囁いた。
「日本には、町や国のことを考えて、みんなで話し合いをするっていう習慣がないの?」
 私も彼女の耳元で言った。
「うん。瓶ヶ島のように、オープンな場でみんなで話し合いする習慣はないな。そういうことに関心がある者同士が、特定の場所に集まってすることはあっても。」
「それじゃ、その結果が一般の人の意識や政治に、反映されないってことじゃない。」
「そうなんだ。まあ、稀にあることもあるけどね。有名人が公共の電波とかで意見を言ったりすれば。」
「それじゃ、個人の意見は、有名人のものしか通らないってことなの?」
「うん。徳川時代の風習が今でも生きてるんだ。この場合、武士が有名人に取って代わっただけで。」
「それじゃ、有名人じゃない人は、世の中に対する意見を普通に言えないのね。」
「そんなことはないんだけど、そのためにはデモを起こしたりとか、裁判で訴えたりとか、面倒なことをしなければならない。それに対して、『長いものには巻かれろ』とか、『泣き寝入り』とかいう言葉があるよ。」
 彼女は、いかにも残念そうな口調で言った。
「あたし、『日本は民主主義の国だ』って聞いて来たんだけど、なんだか、よくわかんなくなってきたよ。」
 私は、声を更に潜めて言った。
「……おっと、『壁に耳あり障子に目あり』っていう言葉もある……。」
 そして、自分の背後に目配せをした。私たちがヒソヒソ声で話しをしているので、何の話しだろうと興味を持ったのか、一人の女性店員が商品の残り具合を調べる振りをして、私たちの会話にそっと聞き耳を立てていたからだ。
『湿っぽくて窮屈だな。』
 帰国した私でさえ薄々そう思うのだから、外国育ちのヤエはもっと強くそれを感じたに違いない。しかし彼女は、そのことについては、もうそれ以上何も言わなかった。
 私たちは、そこから追われるようにして鮮魚コーナーへと進んだ。
 さて、私は今までの経験から、家に帰り着くと旅の疲れがどっと出て、調理する気力が起きないだろうと予測していた。そのため、割高にはなるが、いつもとは違って、既にさばいてある魚を買うことにした。ヤエが我が家に来た初日ぐらい、普段は食べることのできないような物で、食卓を飾ってやりたかったのもあるし……。
 ヤエは、発泡スチロール製のトレイに入ってラップが掛けられている鮮魚一つ一つを手に取って、珍しそうに眺めていた。
「見たことない魚が多いけど、どれも活きが良いんだね。」
「うん。ここに手をやってみな。」
 私はそう言って、ショーケースの上から下りてくる白い冷気に手をかざして見せた。彼女もそれに倣って手をかざすと、驚いて言った。
「へー! 冷たい風が吹いて来てる!」
 私は微笑んで言った。
「そう。冷房を強くしたようなもんだよ。これのお陰で、活きの良さが保たれてるんだ。」
 彼女は感心したように言った。
「随分便利なんだね。」
 熱帯地方の瓶ヶ島では、捕った魚はすぐにさばいて調理しなければ、あっという間に腐ってしまう。
「そうだよ。その分、電気を食うけどね。」
「それじゃ、電気が停まれば、大変なことになるよね。」
「そうだね。でも今の日本では、普段からそこまで考えてる人は誰もいないと思うよ。電気もガスも水道も、来てて当たり前なんだから。」
 世界的に見ても、この日本のような国は珍しい。彼女の故国の首都にだって、電気も灯油も水道もあることはある。しかし、それらはみな、供給が突然停まって当たり前なのである。そのため、人々はそれらに完全に依存することはなく、いつ停まってもいいような態勢が自主的にとられている。例えば、蝋燭とマッチを常備していたり、薪で焚く竃(かまど)を台所に置いていたり、雨水を蓄えていたり等々。
「ここに並んでる魚は、どれもこの近くの海で捕れたものなの?」
 そのヤエの問いに、私は答えた。
「うん、大体はね。でも、都会ではこうはいかないよ。日本の魚の半分以上は、よその国から買ってるんだから。」
 彼女は心配して言った。
「そんなことしてて、大丈夫なの?」
 私は、真剣な表情で言った。
「大丈夫じゃなくなるときが、いつか来るんだろうね。」
 彼女は訴えるように言った。
「今から何とかしといた方がいいんじゃない? そのときになってからじゃ遅いよ!」
 私は、なかば独り言のように言った。
「そうだよね。国内での養殖をもっともっと増やすとか、今まで当たり前だと思っていた自分たちの食生活が、実はかなり贅沢なものだってことを知るとか……。」
 彼女は黙って頷くと、今度は茶色い物体が入ったトレイの一つを手に持ち、不思議そうな表情で私に尋ねた。
「……ねえ、これって何なの?」
 私は微笑んで言った。
「ああ、それはナガモっていう海藻だよ。」
「カイソウ?」
 彼女は知らなくて当然だ。少なくとも私の知る限り、熱帯地方の海には、このように大きな海藻は生えないので。
「うん。海の藻っていうこと。」
生ワカメ  彼女は別のトレイを指差して尋ねた。
「これも?」
「そう。それは生ワカメ。どっちも買って帰ろう。」
 ナガモ同様、生のワカメもこの時期にしか手に入らない貴重品だ。それが、私のような者にでも買えるような価格で売られているのだから、実に嬉しいことである。色彩豊かな珊瑚礁の海で育った彼女にとっては、いずれもかなり地味なものだろうが、実はこれが食卓に彩りを添えるである。それは後のお楽しみだ。私はどちらのトレイも、一つずつ買い物籠の中に入れた。
 ヤエが言った。
「……野菜でもそうだったけど、みんな plastic(プラスチック)で包まれてるんだね。」
「そう。その方が長持ちするし、買う人の手も汚れないからだろう。」
「この plastic、使った後はどうするの?」
「下のトレイは近頃リサイクルできるようになったけど、上の透明なやつはリサイクルできないから、お金を出して買ったゴミ袋に入れて、処理場で燃やすんだ。」
 この時点ではまだ、この島の行政による一般家庭の廃プラスチックの回収は行われていなかった。
 瓶ヶ島では、魚はバナナの葉で包んで専用の竹の籠に入れる。籠はもちろん何度でも使えるし、使い終わったバナナの葉はその辺に捨てても土に帰る。私がまだ子供の頃では、魚屋さんは魚を新聞紙に包んでくれ、それを買い物籠に入れて家に持ち帰っていたような記憶がある。
 買い物を済ませた私たちは、店を出て車に乗った。あとは早春の夜の闇の中を、一路我が家へと向かうだけだ。

 ヤエと私を乗せた愛車が我が家の中庭に入ると、母屋(おもや)の正面に取り付けられているセンサーライトがそれに反応して点灯した。約1ヶ月前、この家を後にしたときには、母屋の屋根から落ちた雪がここに積み重なって山を成していたのだが、今はもうそれが跡形もなく消えている。
 車から降りたヤエは、ひんやりとした闇の中にたたずむ二階家を見上げながら目を見張って言った。
「へー! 大きな家なんだね!」
 私も車から降りると微笑んで言った。
「うん。でも、実際に使ってる部屋は半分もないんだよ。」
 ヤエは、谷の方に向かって耳を澄ませるとこう言った。
「川の音が聞こえる……。」
「そう。この下に川があって、今は丁度最後の雪どけ水が流れているところなんだ。明日晴れたら見に行ってみようか。」
 彼女は嬉しそうに言った。
「うん、そうしよう!」
 玄関から一旦家の中に入った私は玄関内の電灯をともすと、ヤエと手分けして、車の中の荷物を次々と屋内に運び込んだ。
 それを終えた私たちは、家の中に入って靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。一ヶ月間人が住んでいなかったので、屋内は完全に冷えきっている。
 玄関を上がったところに設けられている洗面台の前で、私はヤエに向かってこう言った。
「日本の寒い季節には、インフルエンザっていう病気が流行(はや)ってるから、家に帰ったらまず手洗いとうがいをすること。」
 彼女は、真剣な表情で頷いた。
「うん、わかったよ。」
 そして、私がそれを実行して見せると、彼女もそれに倣ってうがいをした。
 この島の伝統的な母屋中央の広間、「おまえ」に入って電灯をともした私は、早速薪ストーブに火を入れることにした。私に続いて部屋に入って来たヤエに向かって、私はそのストーブを指差してこう言った。
「この家の現役の暖房器具は、これ一つだけ。……よく見てるんだよ。」
ストーブの着火  ストーブの前にしゃがんだ私は、まずその扉を開けると、そこに薪を二本平行に入れ、そのあいだに杉葉を入れて、その上に薄い杉の板を乗せた。そして、マッチで杉葉に点火すると、それは勢い良く燃え上がり、やがてその火は板にも移っていった。私の肩に頬を寄せて、その様子を観察していたヤエは、感心したように言った。
「へー! 良く燃える葉と木なんだね!」
 瓶ヶ島の熱帯雨林に、この木は生えていない。私は微笑んで言った。
「そう。これは杉って言うんだ。日本の低い山なら、大体どこにでも生えてるな。」
 子供の頃から台所に立っている彼女にとって、薪を使って火を焚くということは、文字通り朝飯前のことであった。ただ、マッチという文明の利器?と、わざわざ熱を発生させて人体を暖める、このストーブという器具にお目に掛かったのは、これが初めてのことだろうから、その使い方を覚えてもらわなければならなかった。
 彼女は、ストーブの扉に設けられている円形の突起物を指差して言った。
「なるほど、ここで空気の量を加減するのね。」
「そうそう。始めはずっと開けといていいよ。」
 火の扱いに慣れているだけあって、彼女はさすがに呑み込みが早い。私はストーブの扉の開け閉めの仕方を彼女に教えて後を頼むと、今度は台所に行って食事の支度に取り掛かった。
 魚のさくを切って刺し身にし、豆腐や白菜などを切ったりして鍋の準備をするだけのことなので、それはあっという間に終わった。
薪ストーブ  私が台所から七輪を持って「おまえ」に戻って来ると、ヤエのお陰でストーブの薪は既にゴーゴーという音を立てて燃え盛っている。私はそこから熾きを取り出し、ストーブの横に置いた七輪の中に移した。
 それから約十分後、その七輪を挟んで敷かれた二枚の座布団の上に、私たち二人はそれぞれ、早くも胡坐をかいて座っていた。七輪の上に乗っている土鍋の蓋の穴からは、湯気が勢い良く噴き出している。その鍋を指差して私は言った。
「ヤエちゃん。これが日本の寒い季節には欠かせない食べ物、『鍋』なんだ。味付けや入れる具の種類によっていろんな呼び名があるけど、これは『水炊き』。……さあ、食べようか。」
 私がその蓋を取ると、大量の白い湯気が天井に向かって立ち昇った。ぐつぐつという音を立てて沸騰している、その中を見たヤエは嬉しそうな声を上げた。
鍋 「わーっ! 美味しそう!」
 私も嬉しそうに言った。
「これぞ、日本が世界に誇れる料理の一つ! 中国の雲南省にも、これとそっくりなのがあったけどね。
それでは、無事に家に着いたのを祝って、乾杯!」
「乾杯!」
 私たちは焼酎のお湯割りで乾杯した。これは、この家に初めて来た「儀式」ということで、ヤエには最初の一杯だけそれを飲むことを勧め、本人もそれを承諾したのであった。自分が少しでも飲まないと、私がまた気を遣って飲みにくくなると思ったのかも知れない。今に限ったことではなく、彼女にはそういう素朴な優しさがある。
 儀式を終えた私たちは、早速鍋をつつき始めた。
 ヤエは、早速感想を述べた。
「……うん、なるほど。とっても美味しい。体もあったまるしね。この白身の魚は何て言うの?」
「真鱈(まだら)。」
「……こっちの白いのは貝?」
「そう。牡蠣(かき)って言うんだ。」
 ヤエはそれを食べてみると、感慨深げに言った。
「……うーん、これはまた美味しいね!」
「……うん。瓶ヶ島の海にはなかったもんね。」
 彼女は、次に自分の器に取った、白くて四角いものを示して言った。
「……これは何?」
「それは豆腐。大豆(だいず)からつくるんだよ。日本の食卓には欠かせないんだ。」
 瓶ヶ島でも大豆を栽培しているが、醤油はあってもなぜか豆腐がない。一口食べてみた彼女は、それをよく味わってから、満足げに微笑んで言った。
「……あたし、これ大好き!」
 私も嬉しそうに言った。
「……おう、俺も大好きさ。そのうちつくり方教えるから、うちの畑の豆でつくってくれる?」
 彼女も嬉しそうに言った。
「うん、いいよ。」
 次に彼女は、鍋の中から白菜を箸で抓んで尋ねた。
「この野菜は、なんて言うの?」
「それは白菜。日本の冬には、なくてはならない野菜だ。鍋料理には、豆腐とこれが欠かせないんだよ。」
 瓶ヶ島には、大根はあるが白菜がない。私たち日本人にとっては当たり前の物が、彼女にとっては未知なる物であり、それら一つ一つに感動を持って接している。それに対して説明するのも、また楽しいことだ。
 体が暖まったところで席を立った私は、冷蔵庫の中とほとんど変わらないくらい冷えている台所に行くと、鰤(ぶり)の刺身の乗った皿を持って来て、それを炬燵の上に置た。再び鍋の前に腰を下ろした私は、鍋をつついているヤエに向かってこう言った。
「鍋と共に、日本食の中で最も代表的で、しかも特徴的なのが、この生の魚を食べるっていう『刺身』なんだ。」
 そして、その刺し身皿を示すと、それを見た彼女は、苦笑いしてこう言った。
「『日本の国の人は魚を生で食べる』って話しには聞いてたけど、これがそうなのね。」
 瓶ヶ島には魚を生で食べる習慣がない。元はあったのだそうだが、年中気温が高いので鮮度が落ち易く、食中毒が多発したため、とうの昔に消滅してしまったのだそうだ。
「そう。魚を生で食べるって、魚の味が良くって新鮮でなけりゃできないことだ。俺が知ってるのは、他に韓国料理のフェと、イタリア料理のカルパッチョぐらいかな。」
 私は二枚の小皿に醤油を注ぎ、無着色の山葵(わさび)をチューブから出して添えると、そのうちの一つを彼女に手渡した。
「刺身の多くはね、こうして醤油に付けて、山葵で食べるんだ。」
 私が食べて見せると、彼女はまず山葵を付けずに恐々と刺身を食べてみたが、間もなく目を丸くして言った。
「……へー! これはかなり美味しいわ! 何ていう魚なの?」
「鰤(ぶり)だよ。」
 養殖ではなく天然ものだ。潮流と水温などの関係から、冬の日本近海の魚は身が締まっていて、しかも油が乗っている。これはヤエの島の魚とは、かなり違うところだ。
 彼女は嬉しそうに言った。
「生の魚って、こんなに美味しいとは知らなかったよ。……ねぇねぇ、他の魚も生で食べれるの?」
 私は大きく頷いて言った。
「うん、もちろん。鯛とかヒラメとか鯵とかいろいろね。魚だけじゃなくて、イカとかアワビとかエビも刺身で食える。またそのうち食べてみよう、高いのは盆と正月ぐらいにしか買えないけど。」
 しばらくしてから、彼女は鼻を押さえながら言った。
「……このワサビって、唐辛子の辛さとは違って、なんだか辛い大根をもっと辛くしたみたいにツーンとする!」
「そう。これも日本食の特徴の一つだ。でも慣れてくると、刺身を食べるときには、これがないと物足りなくなってくる。」
 彼女は感慨深げに言った。
「……なるほど、これが日本の味か……。」
 私は微笑んで言った。
「そうだよ。素材の味が生きてるだろ?」
 彼女は笑って言った。
「ハハハ、生きてるも何も、生なんだから……。
でもこの醤油、瓶ヶ島のとは違って、鍋や刺身の味をかなり引き出してるね。」
 瓶ヶ島でも醤油をつくっているが、製法の違いと気候の関係で日本の醤油のような味にはならない。それはそれで瓶ヶ島の料理には合っているのだが、国産丸大豆によって添加物なしで製造された醤油は、かなり広い範囲の料理に合うと思う。日本料理はもちろん、ハムエッグに、ビーフステーキに、カレーの隠し味等々。
「その通り。これぞ日本が世界に誇れる調味料。刺し身に至っては、極端に言ってしまえば、生魚(なまざかな)と醤油だけで高級料理になってしまうんだから。」
 間もなく鍋の中に具がなくなったので、私は少し口調を改めて言った。
ワカメ加熱後 生ワカメ 「さて、ここで一つ手品をご覧に入れまーす。……見ててね。」
 私は洗って切っておいた生ワカメを適量箸で抓むと、沸騰寸前の鍋の汁の中にサッと潜(くぐ)らせた。するとこげ茶色のそれは、たちどころに鮮やかな緑色へと変化した。それを見たヤエは目を丸くして箸を置き、拍手しながら言った。
「へー! すごーい!」
 私はそれを、自分の取り皿に入れて食べて見せた。
「うーん! これぞ島の春の味覚。名付けて『ワカメのしゃぶしゃぶ』。ヤエもやってみな。」
 彼女も私に倣ってワカメを鍋の汁に潜らせると、感動して言った。
「へー! ほんとに綺麗な色になるんだね!
……うーん、これは美味しいわ! シャキシャキした歯ごたえで、海の味がするよ。」
「ハハハ! そうだろう? 今度は『ナガモのじゃぶじゃぶ』をやってみよう。」
ナガモ加熱後 ナガモ  私は、やはり洗って切ってあったナガモの先端の柔らかい部分を適量箸で抓むと、先ほどと同じようにして鍋の汁に潜らせて食べた。彼女もまた、それに倣った。
「まあ綺麗! これも緑に変わるんだね。」
 そして、それを食べてから、やはり感激してこう言った。
「……うーん、プチプチしてるし、とろみがあって美味しい! ワカメとはまた違った食感だけど、これも海の味がしてる!
……なるほど。この鍋も刺し身もそうだけど、これこそあたしが話しに聞いてた日本の料理なんだわ。素材の持つ自然の色と味を生かしてるっていう。東京で乗った train(電車)で、お弁当のおかず食べたときには、あれがそうなのかと思って、少しがっかりしてたけど、こっちが本物のような気がする!」
「まあ、料理にも色々あるから、どれが本物とは言えないけどね。高級料亭で出すようなものの中には、途轍(とてつ)もなく手間を掛けたのもあるみたいだし。
でも基本的には、過剰に過熱したり味付けしたりしないのが多いんじゃないかな。そんなことする必要がないほど、素材の味がうまいってことだろうから、そういう海の幸、山の幸が取れるこの自然環境に感謝しなけりゃね。」
 このような質素な食卓ではあったが、ヤエが大喜びしてくれたので、私はとても嬉しかった。
 海藻のしゃぶしゃぶを一通り楽しむと、私は鍋に具を足して蓋を閉じた。それまでしていた、ぐつぐつという音が止み、静寂が訪れると、ヤエにとっては未知なる音が家の外から聞こえて来た。
「ツーーー………ピーーー………ツーーー………ピーーー………」
 高く金属的なその音は、ゆっくりと間を置いて何度も繰り返している。彼女はその音にしばらく聞き耳を立てていたが、「なに? これ?」という目で私の目を見た。私は微笑んで言った。
「フフ。なんだか当ててごらん。」
「誰かが笛かなんか吹いてるとか?」
「違うな。」
「……ヤモリの鳴き声?」
「ハハハ、少し近付いたけど、この島にヤモリはいないよ。」
「虫……じゃないよね。虫の出す音は、こんなに遠くまで響かないから。」
「うん。」
「わかんない。」
「……これはね、鳥の声だよ。」
 彼女は目を見張って言った。
「へー! 夜にこんな高い声で鳴く鳥がいるの?」
「うん。トラツグミっていう鳥。ヌエとも言うけどね……。その雄が繁殖期にだけ出す声さ。」
「へー、そうだったのか……。」
 彼女は、またその声に聞き耳を立てた。
 やがて鍋は、また賑やかな音を立て始めた。間もなく火が通ったので私は蓋を開け、二人はまたそれをつついた。そのようなことを何度か繰り返して食事を済ませた私たち二人は、疲れていたので早目に寝ることにした。
 一組しかない布団の中で抱き合った私たちは、旅の疲れがどっと出たせいか朝までぐっすりと眠った。

 まず私が目を覚ますと、それに続いて彼女も自然に目を覚ます。近頃の二人の目覚めは大体このようなパターンになってきている。時計を見ると午前七時過ぎだ。よく眠れたので、すっきりとした目覚めだった。
 障子の薄明るさからすると外は曇っているようだが、その向こうから鳥の声が聞こえて来ている。ウグイス、キジバト、ヒヨドリ、シジュウカラ、キジ、スズメ、カラス、その他名前を知らない何種類かの鳥たち。その声に釣られるようにして寝床から立ち上がったヤエは、真新しいパジャマの上にコートを引っ掛けて部屋を出ると、そのまま玄関から裸足(はだし)で外に出ようとした。その後に続いていた私は慌ててそれを止めた。
「ヤエ! 駄目駄目! 足が霜焼(しもやけ)けになるし、栗のイガが落ちてたりして怪我するから。これを履いて行きなよ。」
 下駄箱の中から突っ掛けを一足取り出した私は、それを彼女に手渡した。ヤエは怪訝そうな顔で言った。
「シモヤケ? クリ?」
「うん。霜焼けは手や足が凍り掛けることで、栗はウニみたいな形をした木の実のこと。」
「凍るのに『焼け』……なの?」
 私は苦笑いして言った。
「そうそう。皮膚が凍ると火傷(やけど)したのと同じようになるんだから。」
「ふーん、わかった。」
 彼女はあまりピンとこない様子だったが、一応私の忠告を聞き入れて突っ掛けを履くと、玄関の戸を開けて屋外へ出た。私もコートを羽織ると、自分の突っ掛けを履いてその後に続いた。二人とも吐く息が真っ白だ。
 母屋の前の水溜りの薄い氷が、灰色の空を映している。ヤエはその前にしゃがみ込むと、しばらく珍しそうにそれを眺めていたが、嬉しそうな顔を私に向かって上げて言った。
「ねぇカカシ。もしかしてこれ、氷なの?」
 私は微笑んでそれに答えた。
「そうだよ。」
 彼女は再び氷に目を落とすと、感激した声で言った。
「本で読んだりして知ってたけど、あたし生まれて初めて見たよ!」
 南国で生まれてからこのかた、ずっと冷凍冷蔵庫のない暮らしをしてきた彼女なのだから、それは当然のことだろう。私は笑って言った。
「ハハハ! いつもなら、見向きもされないのに、こんなに喜んでもらって、その氷さんもきっと喜んでるよ。
それじゃ、もっと面白いものを見せてあげよう。ちょっと来てみな。」
 私は、母屋の裏へ彼女を連れて行った。そこの屋根の下には、白いものが1メートルほどの高さの山になっている。ヤエは目を輝かせると歓声を上げた。
雪 「ひゃーっ! これって、もしかすると雪!?」
 私は微笑んで言った。
「そうだよ。冬のあいだ屋根から落ちたのが山になったとこだけ、こうしてまだ融けずに残ってるんだ。」
 急ぎ足でその雪のところに行ったヤエは、私の方を向いて尋ねた。
「ねえ、触ってもいいでしょ?」
 子供のようにはしゃいでいる彼女のそばに私も行くと、やはり微笑んで言った。
「もちろん。」
 その古い雪は、粗目(ざらめ)砂糖のような小さな氷の粒になっている。彼女は、まずその表面を片手で撫でて叫んだ。
「キャツ! 冷たい!」
 私は笑って言った。
「ハハハ! 当たり前だよ、氷と同じなんだもん。」
 彼女は、今度はそれを手で崩すと嬉しそうに言った。
「見るのも触るのも、生まれて初めてだよ!」
「ハハハ、そうだろう。この雪は溶け掛けて氷みたいになってるけど、降りたての雪は粉みたいでもっと面白いんだよ。」
「skiing(スキー)とか sled(そり)とかで遊べるんでしょ?」
「もちろん。今度雪が積もったら、思いっきり遊ぼう!」
 彼女は両手ですくった雪を足元の地面の上にパラパラと落としながら、うきうきして言った。
「あと何日したら積もるの!?」
 私は笑って言った。
「ハハハ、やっと冬が終わったとこなんだから、次の冬まで待たなきゃ。」
 地面に落とした雪の様子をしゃがんで眺めながら、彼女は尋ねた。
「それじゃ、この季節が終わったら?」
「いや、来年の年明けくらいかな。」
 彼女は一旦私を見上げたが、残念そうに目を落としながら言った。
「なーんだ、そんなに先なのかぁー……。」
「そう。瓶ヶ島では乾季と雨季の二つだけだったけど、ここでは春、夏、秋、冬って季節が四つもあるんだから。」
 そして私は、やや嬉しそうにこう付け加えた。
「でもヤエ、その夏になると、海で泳げるんだよ。」
 それを聞いた途端、彼女もまた嬉しそうになってこう言った。
「そうか、こんなに寒ければ海には入れないと思って諦めてたけど、それなら良かったわ。」
 私たちは、また中庭に戻った。
 彼女は畑に通じるコンクリートの小道を歩き始め、私もそれに続いた。彼女は白い息を吐きながら、私の方を向いて微笑んで言った。
「カカシの言ってた通り、あちこちから鳥の声が聞こえてるね。姿は見えないけど。……どこで鳴いてるの?」
「高い木の梢(こずえ)とか、茂みの中とかだよ。」
「なぜ、あたしたちの近くに来ないの?」
「人を怖がってるからさ。」
 彼女は立ち止まると、不思議そうな顔になって言った。
「なぜ怖がってるの? あたし、いじめたりしないのに。」
「俺だっていじめないよ。きっとこの国では、昔の人が散々(さんざん)いじめたんだろう。」
 彼女は悲しそうな顔をして言った。
「なぜ、そんなことしたんだろう?」
「よくわからない……。俺がわかってるのは、米を食べる雀を昔の人は盛んに追い払ってたこと。本当は虫も食べてくれてるんだけど、そのことを知らない人が多いみたいだ。
それから、昔この国のあちこちには、朱鷺(とき)っていう水辺に住む鳥がいて、羽毛を取るために乱獲したもんで、何年か前に最後の一羽がこの島で死んだ。でもこの島では、中国から分けてもらったのを人工繁殖させてるよ。そのうち自然の中に放すことを目標にしてね。」
「ふーん、その鳥が絶滅するくらいに減るまで、放っといたってのには驚くけど、それを元に戻そうとするのは、いいことだね。」
 私は、真剣な表情になって言った。
「そうなんだ。ただ単に朱鷺を増やすんじゃなくて、それが自然界で生きられるようにするためには、どのような環境にしたらいいかっていうことを、みんなで考えることができるからね。
またこの国の人は、米は食べずに虫だけ食べてくれるツバメのことは昔から大事にしてたよ。『ツバメが巣をつくると、その家には幸せが訪れる』って言ってね。だからツバメは、人が通る軒下に巣をつくるし人がその下を通っても逃げない。日本の鳥の中では例外中の例外だよ。」
 彼女は、母屋や納屋の方を目で探しながら嬉しそうに言った。
「へー! どこどこ?!」
 私は苦笑いして言った。
「まだ、ここには来てないよ。今はインドネシアとかフィリピンあたりだろう。五月に入ったら、このあたりでも見掛けるようになるよ。」
 ヤエは灰色の空を見上げると、やや残念そうに言った。
「そうかー、渡り鳥なんだー。」
「そうそう。」
 このとき、木魚(もくぎょ)を早く連打したような音が、近くの山あいに響き渡った。ヤエは私の方に素早く振り向くと、「なに?」という目付きをした。私は微笑んで言った。
「これも瓶ヶ島にはいなかったな。」
「鳥なの?」
「うん。キツツキっていう鳥。でも、鳴き声じゃなくて、嘴(くちばし)で木を叩いてる音だよ。」
 彼女は微笑んで言った。
「そうか、木をつつくからキツツキね。何してるの?」
「『俺はここにいるぞ』っていう、まあ宣伝のようなもんだろうね。」
「それじゃ、鳥の雄が囀(さえず)ってるのと同じことね。」
「多分そうだろう。たまたまこの鳥は、こういう方法でやってるみたいだけど。」
 今度は、畑の下の谷から、「ケンケン……バタバタバタ!」という大きな音がした。彼女はまた嬉しそうに私の目を見た。
「ハハハ、今のは雉(きじ)の雄の鳴き声と羽ばたき。これもキツツキの音と同じ意味で発せられている。この鳥はオスもメスも空を飛ぶのが苦手だけど、地面の上をとても早く走ることができるんだ。まあ野生の鶏(にわとり)のようなもんだね。」
 彼女は探るような目付きで言った。
「もしかして、あんた食べてるとか?」
 私は苦笑いして言った。
「いや、この島に来る前にどっかで食べたことはあるけど、ここら辺のを食おうとは思わないよ。いなくなったら寂しくなるから。でも、他に食べる物がなくなったら食うだろうね、うまそうだから。」
「なによ、それ!」
 彼女も苦笑いしてそう言うと、広々とした大家さんの畑を見渡して言った。
「鳥の他には、どんな生き物がいるの?」
「タヌキ。この辺じゃ、『むじな』って言ってるよ。これは犬の仲間だけど、動物の肉だけじゃなくて、野菜や果物も食べるから要注意だ。しかも、畑に紐を張っておくと、なぜか必ず噛み切ってしまう悪戯者(いたずらもの)なんだ。
それから瓶ヶ島にもいたけど、鼠。これは毎年冬になる前に母屋の中に入って来てどっかに巣をつくり、昼夜を問わず台所を荒らしに出て来る厄介者(やっかいもの)だ。
それから、野兎(のうさぎ)。これは鼠に似てるけど、耳が長くてよく跳ねるからすぐに見分けが付く。野菜を食べてしまうそうだけど、なぜかうちのはまだやられたことがない。近頃、あまり見掛けなくなったな。
あと、テン。これは、その野兎をやっつけるために昔どっかから連れて来られたらしいけど、そのせいで野兎は今絶滅しそうになってる。」
 彼女は悲しそうに言った。
「ひどいね……。」
「そうなんだ。生き物同士の関係のことを良くわかってもいないのに、人間の都合だけを考えて自然に対して手を加える。その軽はずみな行為によって、今までどれだけの生き物が、この世から去って行ったことか……。
このように近頃の日本ではね、外国から入って来た様々な生き物が、元から日本に住んでる生き物を脅(おびや)かしてるんだ。」
「テンが連れて来られたような理由で?」
「いや、それだけじゃない。遊びで釣りをするためだったりとか……、ヤエの島にはない習慣だけど、日本にはペットを飼うっていう習慣があるんだ。」
「pet のこと? 家で飼ってる生き物のことなんでしょ?」
「そうそう。」
「それじゃ、あたしの実家の牛や鶏や猫も pet だよね?」
 私は苦笑いして言った。
「いやー、猫はペットだろうけど他のは違うなぁ。」
「どこがどう違うの?」
「何かの仕事をさせたり、食べたりするための生き物はペットとは言わないよ。その反対に小鳥を籠に入れたり、亀を箱に入れて眺めてるようなことさ。」
「ああ、それなら子供が虫を飼うようなことなのね。」
「そうそう。それを大人もやってるんだよ。」
 彼女は笑って言った。
「ハハハ! それはあんたの言う通り、あたしたちの島にはない習慣だわ。小鳥はそこら中にいるし、川岸に行けば亀が日向(ひなた)ぼっこしてるの見れるんだから。」
 そうなんだ。瓶ヶ島ではわざわざ籠や箱に閉じ込めなくても、小さな生き物たちは人を恐れず、むしろ自分たちを天敵から守ってくれる存在として認識しているのだ。だから、家のバルコニーに座っていても野生の小鳥が人の手や肩の上に乗ってくるし、川辺の亀は人の姿を見ても水の中に逃げ込んだりせず、甲羅を手で撫でてやると気持ち良さそうに目を閉じる。
 何を隠そう、斯く言う私もアマゾン原産のミドリガメを子供の頃に飼っていたことがあるので、ちょっと恥ずかしそうにこう言った。
「いや、それが……、日本では外国産の珍しい生き物をわざわざお金を出して買って、家の中で飼う人がいるんだ。」
 ヤエは感心したように言った。
「へー、その人は、きっとお金持ちなのね。」
「そうとは限らないけど、少なくとも貧乏じゃないんだろう。同じ生き物でも、日本のじゃなくて外国のを飼いたがるんだから。」
 彼女は悪戯っぽく微笑んで言った。
「もしかして、あんたもそうだったんでしょ。」
 私は驚いて言った。
「え? なんでわかるの?」
 彼女は苦笑いして言った。
「顔に書いてあるもん。」
 それなら仕方がない。私は恥ずかしかったが正直に白状した。
「……テレビで宣伝してるの見て、親にせがんで買ってもらってね。今では、そういう生き物を飼おうなんて思わないけど。」
「他の人たちも同じような理由で、外国の生き物を飼ってるの?」
「いや、人それぞれいろいろあるんだろうけど、それを飼ってるってことを他人に自慢したり、他人と違う物を持ってるってことに喜びを感じて、一人でニヤケてたりする人もいるんだろう……。」
 ヤエは眉を寄せて言った。
「それってもしかすると、生き物じゃなくてもいいんじゃない? 外国産の腕時計や首飾りみたいな物でも。」
「いや、生きてなけりゃ意味がないんだろう。言い換えれば、自分がそれを支配しているって思えるような物でなけりゃならないんだよ、きっと。」
 ヤエは苦笑いして言った。
「生き物を飼うって悪いことじゃないと思うけど、どっかが違うような気がするなぁ。」
「そうそう。自分がそうだったから言うわけじゃないんだけど、生き物を飼うって大事なことだと思うよ。例えば、猫は子供の頃から虫や小動物をおもちゃにして遊ぶ。人間の子供だって似たようなものだ。それによって、生き物がどうすれば死んでしまうのかってことを学べるんだから。
矛盾してるようなことになるけど、『命の大切さ』を知るためには、『死』ということが何かを知ってなければならないと思うよ。」
 ヤエは、なかば同意しつつも、やや納得できない様子で言った。
「それはそうなんだろうけど、それってわざわざ、お金を掛けてするようなことなのかなぁ?」
「そう思ってしまうよね。この国の野生の生き物は、なぜか極端に人を恐れる。だから、わざわざ外国の珍しい生き物をお金を出して買い求め、籠や箱の中に閉じ込めて支配してみたくなるんだろう。」
 彼女は少し呆れたように言った。
「野生の生き物から嫌われて寂しいのはわかるけど、随分身勝手で贅沢なことだね。それなら自分の国の身近な生き物たちと、もっと仲良くすればいいのに。」
「そうなんだ。でもまあ、生き物を飼うことそのものは、その人の自由なんだから、他人がとやかく言うべきことじゃない。でもね、そういう生き物に飽きたり持て余したりすると、野や山に捨ててしまう人がいるんだそうだ。」
 彼女は憤慨して言った。
「それはひどいよ!」
「そうだろ? そのことが、さっき言ってた外来の生き物の問題だ。」
 彼女は、やや白けたように言った。
「ふーん、『日本はお金持ちの国だ』って聞いてたけど、そのお金の使い方はあまり大したことないね……。割り箸や包装紙もそうだけど、外国から物を買っては、それをすぐに捨ててるんだから。そんなお金があるんなら、餓えで苦しんでる国の人たちに食べ物を買ってあげたら、どれだけいいだろうに。」
「うん、そうだよね。まあ同じお金持ちでも、まともな使い方してる人も少しはいるんだろうけど。」
 彼女はまた、周囲を見回して尋ねた。
「……他には、どんな生き物が住んでるの?」
「そうそう。それから、鼬(いたち)もいる。これはテンよりも小さくて細長い体をしている。鼠や鳥を捕まえるけど、肉を食べるんじゃなくて血だけ吸うんだ。
蛇もいろいろいるけど、瓶ヶ島にいたみたいに大きいのはいない。その代わり、蝮(まむし)っていう小さな毒蛇がいる。他の蛇と違って両方の頬が膨らんでるから、すぐに見分けが付くよ。」
 彼女は急に真剣な表情になると、自分の足元を指差して言った。
「それじゃ、この恰好で草むらに入らない方がいいね。」
「うん。でも、今は大丈夫だよ。」
「なんで?」
「どっかで寝てるから。」
「昼間は出て来ないんだ。」
「いや、違うよ。さっきも言ったけど日本には季節があって、動物の多くは冬眠するんだよ。」
 彼女は微笑んで言った。
「冬眠るって書いて、冬眠ね。」
「そうそう。あと、母屋の天井裏にはコウモリが住んでる。これも冬眠してるから今は見れないな。瓶ヶ島には途轍(とてつ)もなく大きいのもいたけど、うちのは翼を広げてもせいぜい1フィート前後だよ。」
 瓶ヶ島に住んでいるオオコウモリは、翼を広げると1メートル近くもあり、主に果物を食べている。
「なんで冬眠するの?」
「今はすっかり溶けてなくなってるけど、この一帯は真冬になると一面雪で覆われるんだ。その頃は食べ物になる虫がいないから、それが出て来るまで眠ってるってわけ。
ところが、なんと雪があっても起きている生き物もいる。……ちょっと来てみな。」
 私は母屋の方に彼女を連れて戻り、その脇にある小さな池を指差して言った。
「ほら。この水の中に、二つ一組になった白いジェリー(ゼリー)のような細長いものがあるだろう? これは、まだ雪がたくさん残ってる頃に山椒魚(さんしょううお)がつくったもので、この中にその卵が入ってるんだ。」
 ヤエは長い髪を肩の後ろにやると、池の縁にしゃがんで中を覗き込んだ。
「……あ、あるある。へー、どんな生き物なの?」
「蛙と同じ両生類だけど、尻尾があって手足が短く、蛙よりも細長い体をしてる。生きている化石って言われてるんだ。」
「それじゃ、随分昔からいるのね。」
「少なくとも、タヌキや人よりは、ずっと古いみたいだよ。」
 彼女は感心して言った。
「そうかー……。それは凄いんだね。」
「そうなんだ。
ヤエは恐竜ってわかる?」
「うん。学校で習ったよ。」
 私は真剣な表情になって言った。
「化石によって知られてることだけど、あれほど栄えに栄えていた恐竜も、何かの原因で全て滅んでしまった。でもこの山椒魚は、地味な栄ではあるけど滅ぶことなく、こうして環境に適応しながら今も命を繋いでるんだ。
人類は今、狂ったように急速に栄えているけど、このまま放っておけば必ず自滅する。」
 彼女も真剣な表情になって言った。
「あたしたちも、山椒魚の栄え方をもっと見習わなきゃね。」

 その後、母屋に戻ってゆっくり朝食を済ませたヤエと私は、その片付けを済ませると、我が家の車に乗り込んだ。瓶ヶ島の物語に登場する、シャガの生まれ故郷の村があったと思われるあたりを見に行くためだ。ヤエ個人の希望もあったし、島の人たちからも、現在どのようになっているのかを見て知らせてくれと頼まれていたからである。
 海岸の道路脇の駐車場に車を止めた私は、助手席のヤエに向かって言った。
「多分、このあたりだと思うんだ。裏山と入り江の向きの関係からすると……。」
 空は灰色の雲に覆われているが、時折り薄陽が射して来る。
 車から出た私たちは、浜に下りてみることにした。その人気の全くない広い砂浜を見渡すなり、ヤエは息を呑んで叫んだ。
なによ!! これーーーっ!!!?
海岸のゴミ
 その広大な砂浜一面が、ありとあらゆる種類のゴミで覆い尽くされていたからだ。私は申し訳なさそうに言った。
「冬が通り過ぎた後の日本海側の海岸は、どこも大体こんな感じだと思うよ。」
 彼女は、いかにも嘆かわしそうに言った。
「ひど過ぎるよ……、これは!」
「そうだよね……。でも、海水浴の季節になると綺麗に片付くんだ。」
 彼女は怪訝そうに尋ねた。
「なぜ?」
「ブルドーザーっていう機械で掻き集めて処理するから。だから、観光に来る人はこの実態を知らないんだ。」
 彼女は、納得がいかないというような表情で言った。
「ふーん。あたしなら、多くの人にこの景色を見せるけどな。そして、どうしたらいいか考えてもらうんだよ。」
「それは、瓶ヶ島では通用するかも知れないけど、ここでは駄目だろうね。」
「なぜ?」
「こんな状態を観光客に見せると、この島に対するイメージが悪化すると思う人が多いだろうから。それに、このゴミは外国から流れ着いた物も多く含まれてるんだ。」
「それじゃ、川や海にゴミを捨てる人が減らないじゃないの。外国の人にだって、これを見てもらえばいいんだよ。」
「いいんだ。機械で片付ければすぐだから。」
 ヤエは情けなさそうに言った。
「また機械か……。薬品とか機械とか、そういうお金が掛かるものを使って表面だけ取り繕おうとする、いかにも今の日本らしいやり方だね。」
「いや、それでも近頃では、学生や社会人がヴォランティーア(ボランティア)で、ゴミ拾いしてくれてるようだよ。」
「それは良いことだわ。でもその volunteer の人たち大変だね。」
「そうだね。」
 ヤエは真剣な表情で言った。
「やっぱり、問題は元から解決した方がいいよ。なにごとも。」
 私は、自分たちが立っている周辺の浜を彼女に示して言った。
「俺が思うに、村があったのは大体このあたりだと思うんだ。」
 そこを見回した彼女は、訝しそうに言った。
「それなら、海に沿った細長い砂丘があるはずなんだけど……。」
「うん。長いあいだに、地形が変わってしまったのかも知れないよ。」
 彼女は、やや納得して言った。
「そうかもね。ここが砂丘だとすると……、」
 海に面した山の斜面に目を移した彼女は、こう続けた。
「お墓はあのあたりか……。」
 私は頷いて言った。
「それで間違いないと思うよ。ここの村人の末裔(まつえい)として、何か感じるものはある?」
 ヤエから返答がなかったので、私は何気なく彼女の方に目を遣った。すると彼女は、その山の方を向いたまま、何かに取り憑かれたように瞼(まぶた)を閉じているではないか。その顔は小刻みに痙攣(けいれん)し、その呼吸はかなり深くゆっくりになっている。こういうのをトランス状態と言うのだろうか。
 彼女はしばらくそうしていたが、やがて静かに瞼を開けると、いつもより更にハスキーな低い声でこう言った。
「……ここで間違いないようだね。今、いろんなものが見えたから……。」
 私は恐る恐る尋ねた。
「『いろんな』って……?」
「一言では言えないよ。まあ、あたしたちの物語の中のいろんな場面さ。」
「ハヤテがシャガと再会するとか、海賊と侍の海戦のありさまとか……?」
 彼女は深く頷いた。
「……そう……。」
 やがて彼女は、何かに引っ張られるようにして、そのまま真っ直ぐに砂浜を歩き始めた。黙ってその後に続いた私は、ヤエがどこに行こうとしているのかが、すぐにわかった。小さな砂丘を越えて、人通りのないアスファルトの道路を横切った二人は、わりと急な山の斜面を登って行った。
 やがて、山の中腹の幾分か平になっている場所に着くと、ヤエの足は止まった。
 海を見下ろせるこの場所は、丈の低い枯れ草で覆われており、それが強風によって時折り激しくなびき、そのたびにカサカサという音を立てている。400年余り前には、この場所に彼女の先祖の墓地があったはずだ。しかし、その後手入れする者が誰もいなくなってしまったので、もう墓標の痕跡すらなく、その面影を全く留めていない。
 ヤエは、その地面に無言でひざまずいた。そして両手を合わせ目を閉じると、しくしくと泣き始めた。それは次第に激しい嗚咽(おえつ)となり、やがて彼女は、両手を伸ばしてそこに身を投げ出すと、顔を伏せたままで激しく号泣(ごうきゅう)した。
 私はわけがわからず、他に為す術(すべ)もなかったので、慟哭(どうこく)しているヤエの震える背中を、ただ摩(さす)ってやることしかできなかった。しかし、このとき自分の手に伝わってきた感触から、あることだけははっきりと確信することができた。
『これはヤエじゃない!』
 そう思った瞬間、私は全身に鳥肌が立つのを感じた。
『それでは一体誰なんだろう?』
 という私の無言の問いに対する答えを、私はごく自然に感じ取った。
 海を渡って来た武士によって北の町を追われ、その後も迫害され続けてきたヤエの先祖たち。それが、シャガの時代になって、武士の圧政から逃れるためにこの村を去って行った……。そして、遥か南の島にて安住の地を得た彼らは、今では文明世界とは一線を画しながらも平和に暮らしている。
 しかし、ここに葬られた人たちの霊は、依然としてこの地で泣いていたということを、私は今思い知らされた。そうなのだ。彼らはまだ救済されてはいなかったのだ!
 やがて、ヤエの慟哭が収まってきたので、私はその背中に向かって優しく声を掛けてみた。
「ここに慰霊碑を建てて、お祭りしようよ。」
 その言葉が耳に入ったようで、草のあいだに埋もれていた彼女の頭は無言で頷いた。そして、ゆっくり立ち上がったヤエは、泣き腫らした顔を上げると、顔に付いている砂を払いながら擦れ声でこう言った。
「……ここを出ることによって、あたしたちは救われたけど、そうじゃなかった人たちもたくさんいたんだね……。」
 どうやら彼女も、私と同じことを感じていたようだ。
 私は、足元にあった丸く平たい石をいくつか拾うと、それを積み重ねて言った。
「今は、これで我慢してもらうことにしよう。」
 ヤエは黙って頷いた。そして私たち二人は、その仮の慰霊碑に向かって手を合わせると、ここに葬られている人々の霊の冥福を祈った。
 やがて、ヤエの振るえは止まり、この場の人たちの思いが静まったように感じられたので、私は持っていた一眼レフのカメラでこの場所を撮影した。そして、私たちはここを後にした。
 道路を横切りながら彼女は、やっと普段の声に戻ってこう言った。
「……そういえば、浜茄子(はまなす)ってどこにあるの?」
 私は、道路沿いの小さな砂丘を指差して言った。
「もうそろそろ芽が出てもいいんだけどね、歌にもあるじゃん。『風 梅の香運び 山の根雪溶かす頃』って。」
 これはヤエもよく知っている歌なので、彼女は微かに微笑んで言った。
「そうか……、梅が咲いてからなんだね。」
「そうだよ。そのときになったら、また見に来てみよう。」
 彼女は微笑んで頷いた。
「うん。」
 私は、カメラのレンズのキャップを再び外して言った。
「それじゃ、あの浜の写真も撮っておこうか。」
 砂丘の下に広がっている、ゴミの散乱した浜を見たヤエは、真剣な表情になって言った。
「そうだね。見る人はみんな悲しむだろうけど、これはちゃんと伝えておかなきゃ。」
 浜からヤエと共に帰宅した私は、我が家周辺の写真も撮ることにした。昨日ヤエと約束したとおり、家の下を流れている川まで下りてみたり、裏山に登ってみたりして。
 もちろん風景だけではなく、私は人物も撮った。クリーム色の毛糸のセーターに茶色のスラックス、紫色の真新しい女性用の長靴を身に着けたヤエだ。立ち木にもたれて微笑んでいる姿、裏の雪の小山に腕を突っ込んで大喜びしている姿、収獲した蕗(ふき)のトウを両手に持って微笑んでいる姿などなど……。気が付けば、半分以上が彼女中心の写真になって三十六枚撮りのフィルムが終わってしまった。うーん、こういうのを「親バカ」ならず、「夫バカ」と言うのだろうか……。
 写真の次は手紙だ。バンコクのときとは違って今度は封書なので、文章の量をあまり気にしなくてもいい。私は日本語で近況報告を、ヤエは島の言葉で書きたいことを思いっきり書いた。
 とにかく彼女の視点は、日本に住んでいる日本人とはちょっと異なっているので、その手紙の内容も少し変わっている。ここに、その一部を掲載することにしよう。歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに改め、難しそうな読みには( )内に読み仮名を入れてある。

カヤ婆ちゃん母ちゃんはじめ、白浜家のみんなへ
 <前略>
 そして昨夜、あたしたちは呵々士の家にやっとたどり着いた。ここは山の中で、下の谷底から川の流れる音が聞こえて来る。雪が溶けた水なんだそうだ。珊瑚礁の潮騒とは違って、身が引き締まるような中に、何かが始まりそうな予感をさせる音だ。
 家の中は初めは寒かったけど、薪ストーブを焚いたら暖かかくなった。これは、鉄の入れ物の中で薪を焚いて暖を取るためのもんなんだ。
 それから、呵々士がつくってくれた鍋って言う料理が、今度は内側から体を温めてくれたんで、最後は汗が出るほどになった。この中には、魚や貝と一緒に、いろんな野菜が入ってた。鱈っていう白身の魚もうまかったし、牡蠣っていう貝が最高にうまかった。また、豆腐ってのもうまかったよ。豆でつくるんだそうだ。丁度、curd(ヨーグルト)から酸っぱさを抜いて、四角く固めたような感じだ。
 それとあたし、生の魚がこんなにうまいもんだとは知らなかったよ! 鰤(ぶり)っていう名の魚だった。難しい字だけど味は最高! これを醤油と、山葵って言う、ど辛い大根のようなものを付けて食べるんだ。この日本の醤油ってのがまたうまかった。呵々士は世界に誇れる調味料だって言ってたけど、それを言うだけのことはあるね。今度船便(ふなびん)でそっちに送るよ。
 刺し身の次は生の海藻のしゃぶしゃぶだ。海藻ってのは海の草みたいなもんで、普段は目立たない茶色をしてるけど、湯に潜らせると、サッと鮮やかな緑に変わるんだ。それを酢醤油に漬けて食べる。こういう食べ方を「シャブシャブ」って言うんだそうだ。これがまた最高! ワカメはシャキシャキしてて、ナガモはプチプチしてとろみがある。鍋の汁には、さっき書いた魚や貝のだしがたくさん出てるから、それらと海藻の海の味と香りとが合わさって、素晴らしい味になってる。これこそ昔からの日本の味なんだなと思った。瓶ヶ島のみんなにも食べさせてあげたいよ。
 この島には夜に鳴く鳥がいて、ヌエって言うんだ。なんだか人の名前みたいだね。
<中略>

 次の日の朝目が覚めたら、たくさんの鳥の声がしてたんで外に出てみた。そしたら、中庭の水溜りで透明な glass(ガラス)のような物を見付けた。氷だ。空を映しててとても綺麗だった。あたしが覗き込んだら、あたしのおでこが黒く映った。端の方が木の枝みたいになってたんで、そこを触ったら思った通り冷たかったけど、そこだけ濡れてきて、すぐになくなってしまった。まるで塩を掛けたナメクジみたいだ。
 次に家の裏に行って驚いた。瓶ヶ島の浜の砂のような真っ白い物が 3 feet ほどの山になってたからだ。触ったらとっても冷たくて、手がだんだん濡れてきた。そう、雪だ。降ったばかりのは粉のようなんだそうだ。みんなにも見せてあげたい。今度は来年の1月にならないと積もらないんだそうだ。そのときになったら、また写真送るよ。
<中略>
 呵々士に連れられて、とっても懐かしい場所に来た。それは、あたしたちの島に伝わる物語を聞いて、今まで何度も瞼の裏に見ていた、村のあった場所だ。
 その後、引っ張られるようにして、お墓がある場所に行った。でも墓標はもう全部なくなってたし、知らない人が見たら、ここがそうだったなんて誰も思わないだろうね。そう思ったら、ここに葬られている人たちが可哀想になったもんで、思わず地面にひざまずいて手を合わせた。そしたら涙が勝手に出て止まらなくなった。そして思いっきり泣いたよ。でも、頭の中は意外と冷静で、『あたし、なんでこんなに泣くんだろう?』って考えてた。そしたらね、これは、ここのお墓に残された人の気持ちなんだってことがわかったんだ。
 石ころでも何でもいい。400年余り前、もしこの場所から何か物を持って出てれば、ここの霊がそれに宿って、シャガたちと一緒に海を渡ってたのかもね。でも、ここを出るときは侍から逃げることや、仇を討ったりすることで、きっとそれどころじゃなかったんだろう。
 呵々士とあたしは、取りあえず石を積んで、その人たちをお祭りした。そしてそのあと、ここの土地の持ち主に頼んで、小さな慰霊碑を建てさせてもらった。そしたら、あたしはもうここへ来ても涙が勝手に出ることはなくなったよ。
<後略>

 その後間もなくして、それに対するカヤからの返事が届いた。その中から抜粋したものを次に掲載しよう。こちらも現代仮名遣いに改めてある。

<前略>
 そうか、お墓はそんなふうになってて、ヤエにはそこに居る人からの知らせがあったんだね。
 あんたが書いたように、あのときのシャガたちは、あれで精一杯だったんだから仕方ないよ。ハヤテとの縁で喜助たちと出会えてなかったら、そこから出ることはできなかったんだろうから。だけどこのことは、あたしたちの肝に銘じておかなきゃならないね。
 当時、あたしたちの先祖みたいに、日本から運良く外に出れた人たちは、ほんのごく僅かで、それ以外の多くの人たちは、その後の身分制度のために、その土地に縛り付けられて永いこと苦しまなければならず、その怨念はいまだに消えてないってことを。
 そして当時のあたしたちは、その後日本各地で滅ぼされてしまったものを持って、日本の外に出たんだってことをね。

故郷(ふるさと)遥(はる)か遠く 闇の波間を漂(ただよ)い
今宵(こよい)は月の浜辺 流離(さすら)う浜茄子よ
風 梅の香(か)運び 山の根雪溶かす頃
砂に抱(いだ)かれ安らげば 芽を出(い)だす時来たれり

日の光 時を超え その葉に慈(いつく)しみ注げば
日の如き 明(あか)き実を 稔らすは浜茄子

そよそよ風に吹かれ 故郷の浜の空に
ゆくゆく巡り来たる 妙(たえ)なる芽を出だす時よ
ゆらゆら波に揺られ 故郷の浜の砂に
ゆくゆく帰り来たる 愛しき浜茄子よ
愛しき浜茄子よ

 二人とも、この歌のことを忘れずにね。
<後略>

 カヤがここで引用した歌の文句を要約すると、次のようになるのであろうか。
「夜の海をさすらった浜茄子の実が、浜に落ち着けば芽を出すことができる。それは暖かい日の光を受けて成長し、実を着けて、いつしか故郷に帰り再び芽を出す時が来る。」
 まるで、島崎藤村の詩「椰子の実」を髣髴(ほうふつ)とさせるものだが、解釈の仕方によっては、全く別の内容となることに私は気が付いた。
「戦乱の世に故郷を離れた人々が、あちこちさすらった末、安住の地を見付けて持っている能力を高める時が来た。時代を超えて太陽の恵みを受け続ければ、それに応じた光り輝く精神が稔る。
自然の流れに乗って故郷の地を踏めば、その能力を発揮する時が来る。」
 最近ではあまり聞かれなくなったが、昔「超能力」という言葉があった。「普通の能力を超えている」という意味なんだろうが、その言葉はあまり適切ではないと私は思う。人間は本来、そのような能力を誰もが持っているのであり、文明世界に生きる人間は、それを物欲と引き換えに手放してしまっているだけのことなのである。
 日本固有の古典芸能である「能」では、よく死んだ人の霊が登場するが、そのような内容を昔の人は単なるフィクションとして捉えていたとは、私には思えない。現実に起こり得る、身近な現象として捉えていたと思うのである。
 だから、この歌が何らかの予言に基づいて作られているという可能性を、私は否定することができない。ヤエに、そして私自身にも、そのような能力が実際に備わっていることを日々実感しているからである。
 そうすると、この解釈による歌の内容は、瓶ヶ島の人たちの今までの経緯と驚くほど符合することになる。それなら、私と結婚するという自然の流れで故郷に帰って来た、ヤエの今後の行動の指針にすることもできる。しかし、彼女の持っているどの能力を発揮することになるのだろうか? 私たちの未来には一体何が待ち受けているのだろうか?
 私は、期待と不安の入り混じった複雑な心境になった。

 6月は浜茄子の花の咲く季節だ。私は、ヤエをあの浜に連れて行ってそれを見せた。
 8月、その実の成る季節になると、私は彼女をまた浜に連れて行ってそれを見せた。そして、それぞれのときに撮った写真を、恒例になっている彼女の長文の手紙と共に瓶ヶ島に送った。

浜茄子の花実を付けた浜茄子

 9月に入ると、カヤからの手紙が届いた。私とヤエは初秋の日差しの中、我が家の中庭でその手紙を開封した。そこには、いくつかの大事なことが書かれていたので、以下その抜粋を掲載しよう。

 呵々士とヤエへ
 手紙と写真、どうもありがとう。

 こっちもみんな相変わらず元気だと言いたいんだけどね、まず大事な知らせをしなくちゃならない。8月21日にカイ婆ちゃんが87歳で亡くなった。家族のもんが朝見たら、布団の中でもう冷たくなってたそうだから、息を引き取ったのは多分真夜中のことだろう。前の日までは普通にしてたのに……。
 でもその顔は、とても穏やかで、まるで眠ってるようだったよ。きっと、あの世でも穏やかに過ごせることだろう。
 本人があたしに「語り部を引き継ぐ」って言ったとき、実はあたしゃピンときてたんだけどね、こればっかりはどうすることもできないんで、ずっと誰にも言わなかったんだ。
 22日が弔(とむら)いだから、あんたたちは来れないけど、心の中でその冥福を祈っといてくれ。

 お次は嬉しい知らせだ。次の町長の候補に北浜ナツミが選ばれたよ。ヤエはよく知ってるだろう、学校の同級生だったんだから。この子、今まではそうでもなかったんだけど、近頃自分ちの玄関の階段踏み外して転んでから、急にいろんな夢を見るようになったそうだ。しかもその夢ってのが、この島で起きることだけじゃなくて、世界で起きる地震とか、hurricane(ハリケーン)とかのことも多いんで、北浜ヒミカの再来だって言ってる人もいるよ。
 本人は、「転んだ拍子にそうなったんだから、今度転んだとき多分元に戻るよ」って笑ってるけどね。まあ、そうなったらその時はその時さ。今年から補佐の仕事に就いて、来年はいよいよ新町長だ。「これでやっと引退できる」って、アミは喜んでたよ。何せ二十年も勤めたんだからね。
「あんたも転んだら正夢見るようになるかもよ」ってカエに言ったら、「ナツミみたいに偶然なるんならいいけど、人を真似てわざと転んでまでして、あたし町長になんかなりたくないよ!」って言ってた。カエらしいね。

<中略>

 前に送ってもらった、浜に流れ着いたたくさんのゴミの写真を見て、島の誰もががっかりしてた。でも、その写真をしっかりと見て、ナツミの見る世界の災害の話しを聞き、あたしたちはみんなで話し合ったんだ。そしたら一つの結論が出た。
 今までは自分たちの島の自然のことを真っ先に考えてたけど、これからは地球全体の自然のことをまず真っ先に考えて、その次に島のことにしようねって。空と海は世界を一つに繋(つな)げてるんだから。
 そんなとき、今度の写真が届いた。それを見て、みんなとても喜んでたよ。そして、あたしたちは青い空を見て祈った。
「世界の浜に流れ着くのがゴミじゃなくて、椰子や浜茄子の実のような命あるものに変わる日が来ますように。」って。

 それじゃ、また。元気でね!
カヤ婆より


空

 これを読み終た私とヤエも、空を行く雲に向かって祈った。
「カイ婆ちゃん、あの世でも元気でね! 地球の自然に栄えあれ! 瓶ヶ島と日本にも栄えあれ!」

<続く>
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