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物語

はまなすの実

原作/田野呵々士

第九章 日本の現状とアトランティス星

 瓶ヶ島の住民は、日本から移住した人たちが元になっているのだが、四百年の歳月が経過する中で、周辺の島々の人や漂流して来た白人や黒人の血も混じったのだそうだ。そのため、どことなく日本人離れした顔立ちをしているし、熱帯地方に位置しているせいもあるのかして、そこで生まれ育ったやや色黒のヤエは、ここ双美ヶ島ではフィリピンかインドネシアの人とよく間違われた。また、氏名が日本風であることから、南米の日系移民三世だろうと思う人もいる。
 当の本人は、そのようなことを全く気にしていないのは良かったのだが、「彼女の血の中には、400年前のこの島の人の血が流れているのだ!」と私が力説しても、この島ではなぜか誰も信じてくれず、むしろ、むきになってそのことを説明すればするほど、冗談だろうと思うのか、誰もが笑って相手にしてくれなかった。
 そのヤエの入籍に際して、彼女が日系であるということを役所に説明することは、手続きを更に面倒にさせる可能性があることがわかった。アメリカ合衆国やブラジルといった、昔から日系人が多いので有名な国ならともかく、彼女の母国の場合は前例がないので、それを証明するための書類の提出を求められたら大変なことになる。そのため私は、彼女をただの外国人として申請したら、それは意外と簡単に終わった。近頃国際結婚が増えているので、昔に比べて手続きもいろいろと改善されたのだろう。

 雪が溶けて地表が姿を現わし始める頃、我が家周辺で真っ先に採れる野草が、薄緑色の蕗のトウだ。それに続いて、各種山菜と野草が次々と姿を現わす。私があれこれ教えてからというもの、ヤエはそれにすっかりはまってしまい、毎日色々と採り集めてくる。
 ツクシ、タラの芽、コシアブラ、アサツキ、野蒜(のびる)、セリ、ヨモギ、ワラビ、ウド、山椒の芽、タケノコ、ミツバ……。

フキノトウ
フキノトウ
ツクシ
ツクシ
タラの芽
タラの芽
コシアブラの芽
コシアブラの芽
アサツキ
アサツキ
ノビル
ノビル
セリ
セリ
ヨモギ
ヨモギ
ワラビ
ワラビ
ウド
ウド
サンショウ
サンショウ
タケノコ
モウソウチクの
タケノコ
ハチクのタケノコ
ハチクのタケノコ
ミツバ
ミツバ

 灰汁(あく)抜きの仕方や、それぞれに適した調理の仕方などを教えると、彼女はすぐにそれらをマスターしてしまった。そのお陰で我が家の食卓は、毎日三食とも山菜・野草で大賑わいとなり、私は嬉しい悲鳴だ。
 このような楽しみも見い出しながら、生まれ育った島とは全く異なる気候風土にも慣れてきたようなので、ヤエを自動車学校に入校させて、私はその送り迎えをすることにした。
 それが軌道に乗ると、今度は彼女にパソコンの使い方を覚えてもらい、この物語の校正兼監修をしてもらうことにした。ところが、ここで予期せぬことが起きてしまった。私は特別意識することなく、この仕事の依頼主の名を出したのだが、それを聞いた途端、ヤエはその人のことを執拗(しつよう)に詳しく知りたがったのだ。それはその女性が、瓶ヶ島町民の恩人である故長澤伸三氏の曾孫であるからかと思ったら、どうもそれとは別の理由のようであった。
 ある夜、寝床に就く前、ヤエは責めるような口調で私にこんなことを言った。
「カカシ、長澤美世さんのこと話すとき、すごーーーく嬉しそうな顔になる!」
 自分は特別意識していないつもりだったが、もしそれが事実なら、私はまだ長澤さんのことが好きなのだろうか。でも、今の私はヤエのことを世界中で一番愛している。長澤さんのことも過去に強く愛してはいたが、私のその気持ちをあんなふうに踏みにじられたので、それはもう完全に冷めてしまっている。
 私はヤエを正面から見据え、諭すような口調でこう言った。
「ヤエちゃん、俺はね。君以外の女の人には興味ないの。」
 しかし彼女は、その嘘偽りがないはずの私の言葉を、鼻先で笑い飛ばした。
「フン、嘘ばっかし!」
 私はその言葉に、やや気分を害してこう言った。
「なんだよ! 頭から人を疑って!」
 しかしヤエは、勝ち誇ったようにこう言った。
「この前町に買い物に出たとき、前を歩いてる女の人のお尻見たじゃない!」
 これだ! このどうでもいいようなことに対する、鷹のような観察力と狼のような記憶力。そんなこと、見た本人であるはずのこの私は、もうとっくの昔に忘れてしまっている。私は、ややどもって言った。
「き、きっと、自然に目が行ってしまったんだよ。」
 そして、開き直ってこう言った。
「仕方ないことだよ。これは。……俺は男なんだから!」
 私を見る彼女の眼差しが眩しい。
「それじゃ、あたし以外の女の人にも興味があるってことじゃない!」
 私の口調は、更にしどろもどろになってきた。
「いや、これは興味じゃなくて……うーんそうだな……習性だよ。」
 それに対してヤエの口調は一向に緩まない。
「それじゃ、『興味』ってどういうことなのよ?!」
 言葉での返答に困った私は、彼女に飛び掛って寝床に押し倒しながらこう言った。
「……うーん……、こういうこと!」
 そして、その顔中に何度もキスしまくった。
「そんなことで誤魔化さないでよぉーっ!」
 彼女はそう言って始めは少し抵抗したが、そのうち嬉しそうに瞼を閉じて、私のされるがままになっていった……。
 しかし、これでは長澤さんがこの家を訪れたことをヤエに明かすことはできない。
 ところがその翌日。私が朝食の味噌汁を飲んでいると、炬燵の向かいの席に座っていたヤエが、やはり朝食を食べながら悪戯っぽく言った。
「……カカシ、あんたってドジなのね……。フフ……。」
 私は、味噌汁が入っている椀を下ろし、怪訝そうな顔になって尋ねた。
「……なんだよ急に。」
 彼女も、持っていた御飯茶碗を下ろすと、食卓の横に畳まれている布団を見遣って言った。
「あんた、この布団に女の人と一緒に入ったけど、酔っ払ってて何もできなかったんでしょ?」
 このときの私の心臓は、口の中のタケノコやワカメと一緒になって、外に飛び出しそうになった!
「えーっ!! な、な、なんで知ってるのーーーっ!!!?」
 目を丸くして驚いている私とは対称的に、彼女は平然とした顔で言った。
「さっき夢で見たんだもん。」
 そうだったのか……。浜に連れて行ったときもそうだったが、彼女は未来のことだけじゃなくて、過去のことも見れるんだ!
 とんでもない女と結婚してしまったもんだと、私はこの結婚に対して後悔し掛けた。しかし待てよ……。
 よく考えてみると、ヤエに隠し事ができないということは、裏を返せば私の真の姿が彼女には見えるということだ。それなら、他人から見て奇異に見える私の言動の動機を、勝手に解釈される頻度(ひんど)がかなり減るということであり、私の妻としては願ったり叶ったりの女性なのではないか!
 そのことに気付いた私は、ある程度落ち着きを取り戻すと、納得した口調でこう言った。
「……そうか、ヤエは先のことだけじゃなくて、過ぎたことも見れるんだね。」
 彼女は、真剣な表情でそれに答えた。
「……どうも、そうみたいだね。」
 私は微笑んで言った。
「それじゃ、ヤエに隠し事しても無駄だね。」
 彼女も微笑んで言った。
「そういうことだろうね。」
 私は「毒食わば皿」で、いちかばちかこう言ってみた。
「それじゃ、隠さずに言うけど……、その女の人が、長澤美世さんだよ。」
 それを聞いた途端、今度は彼女の目が丸くなった。
「……そうだったのか……。綺麗な人なんだね……。」
 ちょっと放心したようにそう言った彼女であったが、すぐ探るような目付きになるとこう言った。
「……あんた、もしかして好きだったんでしょ!」
「ヤエには隠しても無駄みたいだから、正直に白状するよ……。」
 私は今、東京タワーのような高さの飛び込み台の上から、はるか雲の下に見えている小さなプールに向かって、まっさかさまに飛び込むような覚悟を決めて言った。
「……確かに、好きだった。」
 やや震える声でそう言った私に対して、私の切実なる願望通り、彼女は怒らずに平常の口調で尋ねてきた。
「今でも好きなの?」
 内心とは裏腹に、私も極力冷静な口調で言った。
「いや。それは昨日の夜言った通り。」
「……なんで好きじゃなくなったの?」
 私は長澤さんから来たメールのことをヤエに話して聞かせた。
 それを聞き終えた彼女は、なぜかちょっと悲しそうな顔になってこう言った。
「……カカシ。それもしかして、あんたの早合点(はやがってん)なんじゃないの?」
 御飯茶碗の上に箸を置いた私は、思わず目が点になって聞き返した。
「え?」
「長澤さんは、『複雑な心境です』って書いてたんでしょ?」
「うん。」
「その男の人と付き合うなんてこと、どこにも書いてなかったんでしょ?」
「うん。」
 彼女は目を少し潤(うる)ませて言った。
「それじゃ、長澤さんが可哀想だわ。」
「え? なんで?」
 私は内心思った。
『なんで加害者の方が同情されなあかんねん!?』
 ヤエは、やや深刻な表情になって言った。
「あんたからのメールが少なくなったんで、自分がまだ好かれてるかどうか不安になった長澤さんは、あんたの気持ちを確かめようとしたんだよ、きっと。」
 私は、少々むきになってこう言った。
「そんなことないよ! 片想いの男からの誘いに応じて会ったし、交際を求められて『嬉しかった』って書いてるんだもん。俺が女だったら、誘われても絶対会ったりなんかしないよ!」
 彼女も少し熱くなって、説き伏せるようにこう言った。
「だから、それが気を引こうとしてるんじゃないの!
あんた、なんで『その男ともう会うな』っていう返事書かなかったのよ!?」
 私はここでこの妻に、自分の過去のことを話して聞かせた。
 私がまだ十代後半のとき、当時兄のように親しくしていた十一歳年上の男性がいた。毎晩のように酒を酌み交わしながら将棋をしたり、休日には一緒に山に登ったりと。
 ところがそれと時期を同じくして、私は九歳年上の女性に激しい恋をしていた。しかし相手がかなり年上であることもあり、私は自分のその思いを打ち明けられずにいた。
 やがて、私のその想いを彼女が何となく察してくれたと思ったら、なんと彼女は私ではなくその男性と交際を始めたのである! 私が彼と親しくしていたことを知りつつだ! 
 当然のことながら私は激しく嫉妬した。そして、ある夜彼女をデートに誘うと、そこで彼女を抱き締めてしまった。彼女もそれに素直に応じた。そして彼女と私は、そのときから交際を始めるようになった。
 それから数日経ったある夜のこと。私と彼女が、ある公共の建物の闇の中でいちゃついていると、その男性が入り口から入って来た。表に靴があったのでわかったのだろう。私は死ぬほど驚いたが、彼は暗闇で私たちと同じように畳の上に座ると、そんな私のことは責めずに、彼女の心変わりに対する非難を始めた。彼はその話しの途中、ライターで煙草に火をつけたが、闇に浮かんで見えたのは、いつもの穏やかな顔ではなく、今まで見たこともない苦悩に歪んだ顔であった。
 それを見た私は深く反省した。兄のように接してくれていた彼に対して、自分は何ということをしてしまったんだろう。しかし、だからといって「彼女を返します」なんていう僭越(せんえつ)なことは言えない。これは彼と彼女の問題だからだ。
 この一件があった翌日から、その男性と私との交流は当然のことながら断絶した。私はこのとき強く思った。このようなことは二度と起こしたくないと。
 その彼女とは、それからたった三ヶ月後に別れた。ところがそうすると、その彼女がまた彼と付き合い始めたという噂が私の耳に入ったのである。そのことは、私の心に再び大きな衝撃を与えた。
 私はそれ以来、自分の好きな女性が他の男と付き合う兆候(ちょうこう)が見えると、その女性を引き戻そうとはせずに、さっさと別れてしまうことにしているのであった。
 この話しを聞き終えたヤエは、深い溜息と共に言った。
「……バカを通り越してるよ、……あんたって人は。」
 そして、やや上目遣いで私の顔を見ながら、彼女はこう言った。
「……相手の女の人がこのことを知らなけりゃ、あんたとはそれっきりになるってことじゃない。」
 私は、断固とした口調で言った。
「うん、それでいいんだ。何と言われようが、厭なものは厭なんだもん!」
 そして、彼女に向かって問い掛けた。
「ヤエは呆れてるようだけど、もし瓶ヶ島に長澤さんと二人で行ってたら、今頃俺たちはどうなってたんだろうね?」
 その私の問いに対して、ヤエにしては珍しく目を伏せ、口篭って答えた。
「……うーん、……それは……。」
 私は、再び箸を取ると、椀の中の味噌汁の残りを口の中にかき込んでから、彼女に向かってこう言った。
「……そうだろう? 俺の心が長澤さんから離れたからこそ、ヤエと結婚する気になれたんじゃないか。」
 ヤエは、自分が食べ終わった食器を重ねながら言った。
「……まあ、そうだったんだろうね……。」
 そして彼女は、独り言のようにこう言った。
「……あんたと大きな喧嘩する前に、これがわかって良かったよ……。」
 このようなことがあったので、私は長澤さんのことをありのままに書くことが可能となった。もちろんこれは偽名だが。
 それから約三ヶ月後、いよいよ私のサイトの中に、この物語のコーナーをアップロードして、その依頼者である長澤さんにそれを確認してもらうという段階に入った。すると今度は、彼女に内緒で瓶ヶ島に行って来たということがバレてしまうという問題が生じてきた。一難去って、また一難だ。
 私は、物語のURLを貼り付けて、そのことに対する言い訳などを書くと、長澤さん宛てにメールを送信した。

長澤美世様

 長らくご無沙汰しておりましたが、その後お元気ですか?
 さて、物語がほぼ完成しましたので、まずはお目に掛けておかなければならないと思い、取り急ぎメールした次第です。題名は一応「はまなすの実」とさせて頂きましたが、いかがでしょうか。
http://tkksi.web.fc2.com/chars/hamanasu/hamanasu100.html
 当方で一応校正など致しておりますが、誤字脱字の発見その他ご意見ご要望などありましたら、修正致しますのでどうぞその旨をご連絡下さい。

 さて、あなたがいきなり第7章をお読みになると、きっと驚かれることと思うので先に申し上げておきますが、この章では、あなたをキャラクターの一人として登場させて頂きました。あなたがこちらに来られた際に、この物語の趣旨に沿った会話が数多く交わされていたからです。もちろん偽名にしてありますが、もし厭でしたら直ちにこの章を削除しますので、その旨をお伝え下さい。
 また、第8章に関しましては、瓶ヶ島の存在が事実かどうかということを、執筆者として是非とも検証する必要があったため島を訪れたところ、このように予期せぬ結果となりました。
 旅立つにあたっては、私情を交え、敢えてそちらに連絡しませんでした。そのことにつきましては、何とも申し訳ない次第でありますが、どうかその当時の私の心中をお察し頂けますよう、よろしくお願い申し上げます。

田野呵々士

 このメールを出した翌日、「ありがとうございます。これから読ませて頂きます。」という内容の返信があった。そして、その八日目の朝に、我が家のパソコンは長澤さんからの次のようなメールを受信した。それは昨夜遅く発信されたものだった。

田野呵々士様

 メール頂いてから早速読ませて頂きました。
 第5章までは、物語の全てではなく重要な部分を抜粋されたようですね。でもこの方が、簡潔に趣旨が伝わると思うので、とても良いと思います。
 第6章は、曾祖父の話しに基づいた、一つの独立した読み物になっていますね。これも素晴らしいと思います。
 第7章は、恥ずかしいですけど、まあいいです。
 でも……第8章の始めのところを読んで、涙が止まらなくなり、そこから先へ進めなくなってしまいました。今でもまだ泣いています……。
 それでは、お休みなさい。

長澤美世

 私一人が現地に内緒で行って来たということが、この仕事を依頼した本人としては、それほど悔しいことだったのだろうか。女心というものは想像以上にデリケートなものなんだなと思った私は、その推測の是非を確認するために、妻のヤエにこのメールを見てもらった。
 読み終えた彼女は眉を寄せると、私に向かって責めるような口調でこう言った。
「……ほら、言った通りじゃない。やっぱり長澤さん、あんたのことが好きだったんだよ。可哀想に……。」
 長澤さんの涙に対するヤエの解釈が、私のそれとは著しく異なっていたので、私の目は一瞬点になった。
「え!? 自分が瓶ヶ島に行けなかったことが悔しくて泣いたんじゃなかったの?」
 ヤエは、哀れむような目付きになってこう言った。
「あんたみたいな鈍い男、あたし他に知らないよ!」
 私は困ってしまった。
「えーっ! それじゃどうしたらいいんだろう?!」
 ヤエは、まるで子供を嗜(たしな)めるような口調でこう言った。
「もぅ、大の男がなに言ってんのよ!」
 私も思わずそれにつられ、やや子供のような口調になって言った。
「だって、わかんないんだもん。」
 彼女は呆れたように言った。
「……いちいち世話が焼けるねぇ、あんたって人は!」
 私はまた、子供のように言った。
「女心(おんなごころ)って、なんだかよくわかんないんだもん。どうしたらいいのか教えてよ。」
 彼女は、しばらく考えてからこう言った。
「……うーん、そうだねぇ、『ごめんね、死ぬほど辛かったんだよ。なんでもするから、もう泣かないで。』って書いてあげなよ。」
 私は自分の耳を疑った。
「え? そんなこと書いてもいいの?」
 ヤエは仕方なさそうに言った。
「うん。」
「やきもち焼かないの?」
「うん。しょうがないじゃん。」
 これだから女心というものは、さっぱりわからないのだ。ちょっと前までは、あれほど焼いてたのに。
 それにしても、長澤さんのあの行為は、私の心を故意に傷付けようとしたものではなかったということがわかると、私は無性に彼女のことがいとおしくなってしまった。元は大好きだった人なので、私は誠心誠意を込めて簡潔にメールを書いた。

長澤美世様

 あなたが涙を流されていると知って、私は大変驚きました。あなたから裏切られた私の方が被害者だと思っていたからです。本文にも書いてありますが、そのときは本当に死のうと思ったほど辛かったんです。
 どうか、この私を許して下さい。あなたのその涙を止められるなら、私はなんでもします。どうすればいいでしょうか?

田野呵々士

 それに対する返信は、その翌日の朝に受信した。

田野呵々士様

 メールありがとうございました。
 田野さんが以前に下さったメールで、「長年の恋が稔りそうで良かったですね」っていう文字を読んだときは、自分がそれほど好かれてはいなかったんだと思って、正直言ってがっかりしました。
 その後あなたからメールが全然来なくなってしまって、お会いできるはずだった3月末になっても何のご連絡もないので、私はそのときにお伝えした人と付き合う決心をしました。
 ですから今回ホームページを拝見して、田野さんの心の中が、私の想像とは正反対だったっていうことがわかると、思わず涙が出てしまったのです。
 ご心配をお掛けしたようですが、もう大丈夫です。涙は止まりました。
 気を取り直して、今夜から第8章の続きを読ませて頂こうと思っています。またメールします。

☆..*・°長澤美世

 これを読んだ私は、今度は青くなってしまった。第8章をこれから読むということは、彼女はまだ私がヤエと結婚したことを知らないのだ!
 私は、長澤さんとその彼氏との関係がうまくいっていることを、ただひたすら祈るしかなかった。
 その三日後の夜に、彼女からの返信が来た。

田野呵々士様

 たった今、やっとのことで全部読み終えました……。
 田野さん、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。母もきっと喜ぶことだろうと思います。以前から申しておりました通り、ほんの気持ちですが、そのお礼を後日お送りしようと思います。

 ところで、前にお会いしたとき田野さんは、ご自分とお付き合いした女性がおかしくなるっておっしゃってましたけど、今ようやくそれがどういうことなのか、なんとなくわかりました。私はそうなってしまうまでには至りませんでしたが、それは今付き合っている人がいるからなんでしょう。
 でも……。
 あなたと出会えて本当に良かった……。私は今でも心からそう思っています。
 あなたのお陰で曾祖父の遺言を実現させることができたということもありますが、あなたから教わった食事の仕方で母の体調が回復したということを見ても、あなたとの出会いはただの偶然ではなかったんだろうと思っています。

 最後になりましたが、ご結婚おめでとうございます。新しい奥さんは、きっとあなたの心の深い傷を癒してあげられる方なんでしょうね。……私にそれができず、逆にあなたを傷付けてしまったことが心残りです。
 私も、今付き合っている人と近々結婚することになると思います。
 それではお幸せに。さようなら。

☆..*・°長澤美世



 追伸 もし私が瓶ヶ島を訪れるときには、その行き方を教えて下さいますか?

 本文最後の文字が、涙で一杯の私の目には滲(にじ)んで見えた。私はその文字をそっと読み上げた。
さようなら。
 ところが、メールソフトのスクロールバーに、まだ少しだけ余白があることに気付いた私は、深い溜息をつきながらも、それをスクロールしてみた。
 そこに現れた追伸を読んだ私は、先ほどとはやや違う心境で、もう一度本文の最後を見てみた。するとその文字の滲みが消えていた。
「さようなら。」
 この短い言葉に彼女が込めた意味が、私と永遠に別れたいという意思表示ではなかったということを知ったときの、この私の胸のときめきは一体なんだったのだろうか。私は慎重に、その自己の反応を分析してみた。すると私は、してはいけないことをしている自分に気付いた……。愛する妻以外の女性にも、愛が芽生えている……。
 このようなことは以前にもあったことだが、思わず赤面した私は首を横に振って叫んだ。
「駄目だーっ!! そんなこと絶対に駄目だーーっ!!!」
 すると突然、耳元でヤエの声がした。
「どうしたの?」
 その声の方を向くと、訝しそうにして私の顔を覗き込んでいるヤエのドアップの顔があった。私は反射的に口を大きく開けて叫んだ。
「わーっ! で、出たーーーっ!!!」
 ヤエは立ち上がると、私を見下ろしながら怒ったように言った。
「失礼ね! 人をお化けみたいに言って!」
 先ほどまで台所で夕食の後片付けをしていたはずの彼女だったが、どうやらそれを済ませてこちらに戻って来ていたようだ。しかし、美世さんからのメールの内容に思わず興奮していた私は、それに全く気付いていなかったのだ。彼女は訝しそうに言った。
「パソコン見て泣いてると思ったら、今度は急にニヤニヤして。そしたら急に赤くなって叫んでるし。何かあったの?」
『い、いかん! これでは!』
 大いに慌てた私は、とにかくこの場を取り繕(つくろ)う言葉を探した。
「い、いや、その……」
『慌ててはいけない。とにかく冷静にならなければ。』
 私は、パソコンの画面に映し出されているメールソフトのウインドウを指差すと、努めて事務的な口調でこう言った。
「長澤さん、全部読んでくれて、OKくれたよ。」
 しかしヤエは、更に訝しそうな顔で私を見下ろすとこう言った。
「それじゃ、なんで泣いたり笑ったりしてたのよ?」
 私は、わざと照れ笑いすると、そのヤエの顔を見上げてこう言った。
「だ、だって、『結婚する』って書いてあったんだもん。知り合いが結婚するんだから、思わず嬉し泣きしてたんだよ。」
 しかし彼女は、その言葉には惑わされずにこう言った。
「それじゃ、『駄目だ!』って言ってたのは?」
 私は、自分がじりじりと崖っぷちに追い詰められていることを感じた。
「うーん、それはだね……、
……そうそう! 『こんなことで泣いては駄目だ』って、自分に言い聞かせてたんだよ。……読んでみる?」
 それは私宛のメールだったが、私はこの場を切り抜けるために、急遽ディスプレイのその部分を指で示した。ヤエはそれに顔を近付けて読んでいたが、間もなく私の方に呆れた顔を向けると、こう言った。
「あんた、もしかして、また好きになったのね!」
 私が以前美世さんのことを好きだったことは、先ほど述べたように白状していたので、彼女は「また」と言ったのだ。やっぱりこのヤエには、微塵(みじん)の嘘も通用しないということがわかった。私は、つくり笑顔を消去すると、仕方なさそうに答えた。
「……うん。」
 それを聞いて怒ると思っていたヤエは、その予想に反して、なんとそこに座り込むと、さめざめと泣き出したではないか! おいおい! その方が私にはよっぽどこたえるんだぞ!
 彼女は泣きながら言った。
「……長澤さんは綺麗な人だからね……。こうしてあんたと仕事でお付き合いしてるからには……、いつかこうなると思ってたわ……。そのあんたに、『もう泣かないでって書きな』なんて言ったあたしが悪かったよ……。」
 そのヤエのまっすぐな優しさに俺は惚れてるんだ! 私は彼女の体をぐっと抱き寄せるとこう言った。
「大丈夫。心配するな。俺が世界中で一番好きなのはヤエだから。それは今でも変わってないから!」
 私の胸の中のヤエは、目を閉じたまま擦れた声で言った。
「…… 一人にしないでね……。」
 私は彼女の背中を、優しく撫でながら言った。
「当たり前さ!」
 心の中で私は呟いた。
『こんなことになってごめんな、ヤエ。』

 2007年3月4日、日曜日。
間取図  この時期の我が家は、寝室も食堂も仕事部屋も、母屋中央の十畳の一室に集約されている。朝食を済ませたヤエは、そこから玄関経由でふらっと外の様子を見に行ったが、窓のガラス越しに嬉しそうな声をはずませて言った。
「ねえカカシ、見て見てっ! あちこちに出てるよーっ!!」
 その私といえば、たった今仕事用の炬燵に入ったところで、その上に置かれているパソコンの電源を入れて仕事をしようとしていたところだったが、思わずその声に誘われて庭へ出た。空はどんよりと曇っており、そこに垂れ込めている低い雲と周辺の山々の間のあちこちで、何種類かの野鳥の声がこだましている。
 今年は暖冬だったのに加えて、昨日は一段と暖かだったために、三日前まで地表を覆っていた雪は、もうほとんど溶けてなくなっていた。その黒く露出した土の上に、ポツンポツンと出ている黄緑色の小さな物体を発見した私は、それを前にしてしゃがんでいるヤエの背中に向かって、嬉しそうに言った。
「おぉ、ほんとだ! 今年は早いなぁ!」
 前回の冬は比類なき大雪だったので、その分溶けるのにも時間が掛かり、私たちがこれを目にしたのは、ヤエが日本に来て間もなくの3月末であった。
 ヤエは、それを地面からそっともぎ取ると、手のひらの上に乗せてこちらを振り向き、嬉しそうに微笑んでこう言った。
「これは最高の贈り物だよ!!」
 彼女がそれほど喜ぶのにはわけがある。それは、今日が私との結婚一周年記念日で、わたしたち二人は、そのための晩餐会を今夜予定しており、彼女がたった今収穫した物は、そこでの食材として使用されることになるからだ。
 このような席に他人を招待すると、大したご馳走もないのに、「ごちそうさま」を連発させて気の毒なので誰も招待していない。
 この贈り物にちなんで、私は恥ずかしながら稚拙なる句を、二つつくってみた。

フキノトウ 蕗のトウ
 食みし夕べの
  沢の音

春一番
 口の中にも
  ふきのとう

 日本の野山では、ごくありふれたものなのだろうが、この地域に住む人にとって、これほど春の到来を実感させてくれる味覚は、他にはないのではあるまいか。
 晩餐には、自家製椎茸をトッピングしたピザを焼こうと思っていた私たちだったが、この蕗のトウは天麩羅にして、大根おろしと一緒に食べることにした。
 そのような予定があるため、今日は早めに仕事を切り上げて、その準備に取り掛かろうかと思っていたところ、部屋の隅に置かれている、滅多に音を発することのない我が家の電話機が、夕闇の中で大きな電子音を響かせた。まだ午後四時過ぎだったが、ヤエは既に台所で今宵のための仕込みをしており、たまたま近くにいた私がその受話器を取った。
「はい、田野です。」
「もしもし、長澤です。ご無沙汰しております。お元気ですか?」
 その若い女の声を聞いた私の全身に、喜びの緊張が走った。しかし私は、極力平静を装ってこう言った。
「あ、お久し振り。ええ、お陰さまで元気ですよ。」
 長澤美世さんだ。彼女から依頼された読み物は一応出来上がっており、2006年8月15日から私のホームページ上で、物語「はまなすの実」1章~8章として公開されている。それが片付いてしまうと、彼女との連絡はずっと途絶えていたので本当に久し振りだ。明るく歯切れの良い声が、またその受話器から聞こえた。
「今お忙しくなかったですか?」
 我が家には、世間の日曜祝日という概念がない。毎日仕事をしているし、都合さえ付けばいつでも休みにできる。彼女もそのことを知っているので、私は簡潔に答えた。
「ええ、大丈夫ですよ。」
 彼女は、やや口調を改めると、こう言った。
「あの……、実は、またお願いしたいことがあるんですが……よろしいでしょうか?」
 私は快く言った。
「ええどうぞ、おっしゃって下さい。」
「以前メールにも少し書きましたけど、瓶ヶ島への行き方を教えて頂きたいんです。」
 私は、やや目を見張って言った。
「ほう。それでは、ついに行かれるんですか?」
 受話器の向うでは、美世さんが照れているのがわかった。
「……ええ、一応そのような計画を立ててみたんです。うちの会社では9連休にするそうなんで。」
 世間で言うところの、「ゴールデンウイーク」のことだろう。
「なるほど。それなら、場合によっては正月休みよりも長いですもんね。」
「そうなんですよ。それを有効に利用しようかと思って。ハハハ。」
 彼女は受話器の向うで明るく笑った。私は快く言った。
「わかりました。それでは、またいつものようにメールでお伝えしますよ。」
 彼女は嬉しそうに言った。
「はい! よろしくお願いします!」
 私はなんとなく、なごり惜しかったので、心の底の方でずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「どうですか……? 彼氏とは、その後うまくいってますか?」
「いえ、それが……。」
 受話器の向うの彼女の声が、急に暗くなった。その一方、私は『もしや!』と思って期待に胸を弾ませた。人の不幸を喜ぶのは良くないことだ。しかし、私は不幸を喜んでいるのではなく、彼女の人生が新しい転機を迎えたことを喜んでいるのだ……『こら! 何を都合の良いこと考えてるんだ!』
 私のそんな不謹慎な胸の内をよそに、美世さんは沈んだ声で言葉を続けた。
「…… 一時は結婚も考えてみたんですが、やっぱり駄目なんです、あたし。……あの人では。」
 私は、やや遠慮がちに尋ねてみた。
「たとえば……? 性格の不一致とか?」
「ええ、それもあるんですが、それよりも、もっと大きな理由があるんです。」
 その声は、かなり深刻になってきている。私は興味しんしんだったが、変に誤解されないように、極力声を曇らせて言った。
「もし差し支えなければ、聞かせて下さいませんか?」
「合わないですよ、生活の仕方っていうか、ものの考え方が。特に「はまなすの実-第8章」で、あなたがお書きになっている、瓶ヶ島の人たちの生活を知ってしまってからは、あたしもう駄目なん……。」
 彼女は言葉の途中で声を詰まらせた。どうやら、受話器の向うで泣いているようだ。これは、笑い事ではなくなってきたぞ。先ほどは、あんな不真面目なことを考えてしまった私だが、ここでその邪念を一掃した。
 彼女をこのようにさせてしまった責任が、少なからずこの私にもあると思ったので、私は申し訳ないという気持ちを込めて言った。
「ご免なさい。私の書いたもののせいで、彼氏と不仲にさせてしまって。」
 涙を堪えているのか、彼女は途切れ途切れに言った。
「……どうか謝らないで下さい。田野さんが悪いんじゃないですから。……むしろあたし、これで良かったと思ってるんです。……自分の意に添わない人と一緒になるよりも。」
「意に添わない?」
「……ええ。正直に言いますけど、あたし、自分の心の中の空白を埋めるため、寂しさを紛らわせるために、あの人と付き合ってたんです。だから、あの人に対しても申し訳ないことをしたと思ってるんです。」
 おいおい、やばい話しになってきたぞ。ヤエはどうしてる? ……台所で食器を重ねる音がしてる。……よしよし。
「そうですか。それなら仕方ない部分もありますね。でも、あの島の人たちの生活や、ものの考え方は、あの島の気候風土があってこそ成り立ってるんですから、日本にお住いの美世さんが、それに左右されることはないと思いますけどね。」
「……ええ、それはそうなんでしょうけど……。
でも、一度良いものを知ってしまうと、もう駄目ですね。今までのものが、醜くつまらなく見えてしまって……。
輸入食材を使いまくった高級志向の加工食品に対して何の疑問も抱かず、しかもそれを平気で食べ残して捨ててしまったり……。他人の目がなければ道に平気でゴミを捨てたり、芸能界とスポーツの他に話題がなかったりとか……。」
「先のことは良くないことだけど、いいじゃないですか。芸能界もスポーツも。」
 彼女は、やや興奮して言った。
「ええ、それ自体はいいんです。でも、それしかないんですよ! 地球温暖化だとか、森林破壊とか、絶滅していく動植物とか、そういうことには一切無関心なんですから!」
「でも、何かに関心を持つことは個人の自由だから、それは別に悪いことじゃないと思いますけどね。」
 彼女は興奮したまま、再び涙声になって言った。
「でも、それが厭なんです、あたし! 」
 そうか、彼女は一般論の答えを求めているのではないのだ。要するに、「自分が彼のことをどう思っているか」ということを、この私に聞いてほしかったのだろう。私は自分の鈍感さに情けなくなった反動から、思わず力を込めてこう言った。
「なるほど。それなら、あなたがそう思って当然でしょう。人間、前に進んだ方がいいに決まってますから、あなたの選択は正しいと思いますよ。」
 その言葉を聞いた途端、美世さんは、時折り軽く鼻をすすりながらも、明るい声で言った。
「……そうですよね! ……そうなんですよね!」
 ここで納得した私は、口調を変えるとこう言った。
「ははーん、なるほど! それで瓶ヶ島を実際に見てみたくなってしまったと……。」
 彼女はまだ少し涙声だが、とても嬉しそうに言った。
「そうそう! そうなんです!」
 私も笑顔を取り戻して、こう提案した。
「それなら、その彼氏にも、見せてあげたらいいんじゃありませんか。自然を敬うという考え方に基づいた、あの島の人々の無駄のない生活の仕方を。」
 その言葉を聞いた彼女は、また少し興奮した声でこう言った。
「いえ、駄目だと思います。あの人には、多分逆効果になるだけなので。」
 私は再び顔を曇らせてこう言った。
「はぁ……。」
 彼女は、堰(せき)を切ったように喋り始めた。
「もぅ、ほんとにひどいんですよ!
例えば、あの人が道に煙草の吸殻を捨てたようなときに、あたしがそれを注意すると、返す言葉はもう決まってるんです。『うっせーんだよ! 余計なおせっかいだ。そんなこと一々気にしてたら、この世の中生きていけねーよ!』って。」
 私は苦笑いして言った。
「うーん、せっかく人が注意しても、そういう感情的な反応の仕方をされると、そのことについてそれ以上理性的に話し合えなくなってしまうんですよねぇ。そんな人があの島に行けば、あなたのおっしゃる通り、逆効果になることは間違いないでしょうねぇ。」
 たとえ煙草の吸殻一つにしても、元は自分の所有物だ。だから、もし捨てるのであれば、自分が所有する灰皿に捨て、公共の機関が指定する方法に従がって処分するというのが道理だろう。それを他人の敷地内や公共の場所に無断で捨てるということは、この星を我がの物と思い込んでいる傲慢な人であるか、煙草のフィルターが微生物によって分解されないということを知らない無知な人であるか、そのようなゴミを処分する人の苦労を考えない無神経な人のいずれかか、その全部だ。
 なるほど。そういう人なら、あの島ではただ単に顰蹙(ひんしゅく)を買うだけではない。町で定められている、厳しい掟をいろいろと破ることは目に見えているので、数々の恐ろしい刑罰を受けなければならず、原形をとどめた姿で日本に帰還することはまず不可能であろう。
 彼女は、また嬉しそうに言った。
「だからあたし思い切って、さっきあの人と別れてきたんです。そして、今度は瓶ヶ島に行こうと思って、今お電話したところなんです。」
 あれあれ、それは何とも気の早いことだ。しかしまあ、彼女らしいと言えば彼女らしいのだが……。
 しかし待てよ。今日はヤエと私の結婚記念日だ。まさかそれと知った上で電話を掛けて来たのではあるまいな? いやいや。彼女の性格からすると、そんな厭味なことをするはずがない。これは単なる偶然なのだろう。だからこそ、私はかえって彼女とのあいだにある、宿命的なものを感じてしまうのだ……。
 そのような思いを胸に秘めたまま、私は普段の声に戻ってこう言った。
「わかりました。それじゃ、これからすぐにでも、過去の旅行記録を調べてメールしますよ。」
 彼女は、とても嬉しそうに言った。
「はーい。お待ちしてまーす! それでは失礼しまーす。」
「失礼します。」
 私はそう言って受話器を置いた。それを待っていたかのようにして、ヤエが台所から暖房のあるこの部屋に入って来た。彼女は、冷えた手を薪ストーブの上にかざしながら、私に向かって言った。
「美世さん、彼氏と別れて瓶ヶ島に行くんだって?」
 私は思わず仰天した。どうやら彼女は、今の会話の要点を把握しているようだ。私は、自分が何かやばいことを話していなかったかどうか思い出しながら、慎重にこう言った。
「……う、うん。……ヤエにはわかっちゃうの??」
 彼女は軽く微笑んで言った。
「だって、あんたの声大きくって良く聞こえるんだもん。ごめんね。」
 なんだ、そうか。彼女には、電話回線を流れる音声の内容を読み取る能力まであるのかと思ってしまったではないか! 私は額の冷や汗を拭いながら、気を取り直して言った。
「……それで、その行き方を教えてほしいんだってさ。
でもあの人、英語が苦手って言ってたから大丈夫かな?」
 私が心配してそう言うと、ヤエはなぜか嬉しそうに言った。
「一緒に行ってあげるのが、一番いいんじゃないの?」
 自分の耳を疑った私は、目を丸くして言った。
「えっ!? そんなことしてもいいの!?」
 するとヤエは、急に怒ったようにこう言った。
「なに都合のいいこと考えてるの! あたしも一緒なんだから!」
 私は内心ずっこけたが、平静を装ってこう言った。
「……も、もちろん、そうなんだろうと思ってたよ。ハハハ!」
 笑って誤魔化した私だったが、冷静になってよく考えてみると、自分たちが極めて重要なことを見落としていることに気が付いた。私は急に真剣な表情になってこう言った。
「……それならヤエちゃん、どうするの? これは。」
 私はヤエに、右手の親指と人差し指で丸をつくって見せた。今の仕事だけだと自分一人でも大変なのに、彼女の分までとなると、私は最低でも二年間はアルバイトに通わなければならない。ところが、ヤエは大らかに微笑んで言った。
「大丈夫。母ちゃんに相談すれば、なんとかなるよ。あたし手紙書くから。」
 ヤエは、どこかから航空便用の薄い便箋を持って来ると、炬燵の上にそれを置いて座り、筆立てに挿してある鉛筆を引き抜いて早速手紙を書き始めた。今どき鉛筆など珍しいのだろうが、我が家には私が小学生の頃に買ったり貰ったりした鉛筆が、まだたくさん残っている。近頃事務的なことは全てパソコンで済ますようになったので、それがなかなか減らない。しかし、ボールペンをわざわざ購入するのも勿体ないので、極力その鉛筆から先に使うようにしており、彼女もそれに協力してくれているのだ。余談ではあるが。
 ヤエは、瓶ヶ島の町長である母アミに、その資金を捻出して貰うつもりなのだろうか。私は不安になったので尋ねた。
「町に出してもらうなんて、そんな都合のいいことできるの?」
 彼女は手紙を書きながら、明るい声で言った。
「できるよ。美世さんて、長澤伸三先生の曾孫なんでしょ?」
 その言葉に込められている意味がわかった私は、間もなく感心して思わず唸ってしまった。
「うーん……、なるほど、そうかー。」
 故長澤伸三氏を恩人と仰ぐ瓶ヶ島町民としては、その曾孫にあたる美世さんが来島を希望していることを知ったなら、それを心から歓迎するに違いない。すると当然のことながら町民集会が開かれ、その費用を町が負担することが満場一致で可決されることになるだろう。
 しかもヤエは、情報収集の任務を町から与えられており、この私はその補佐という立場になっている。そのため、ヤエと私の往復の旅費も、全額町が負担してくれるというわけだ。
 南海の孤島の小さな町ではあったが、彼女はさすが、その町長の家で育っただけのことはある。私は、このようなヤエの判断と行動力に思わず舌を巻いた。これは、母アミからの影響も然ることながら、有能な政治家であった祖母カヤからの隔世遺伝もあるのかも知れない。そのヤエの背中の艶やかな長い黒髪に向かって、私は微笑んで言った。
「もしかして、ヤエはカヤ婆ちゃんに似たんじゃないの?」
 彼女は便箋に向かいながら、嬉しそうに言った。
「よく、そう言われるよ。」
 しばらくすると、そこから顔を上げたヤエは、立ったまま薪ストーブにあたっている私の方を振り向いてこう言った。
「ねえ、カカシ。古新聞って、すぐ手に入るよね?」
 お金がないため、テレビも見ないし新聞も取っていない我が家なので、彼女はそう言ったのだ。一瞬何を尋ねられるのかと思ったが、その意味はすぐにわかったので、私は快くそれに答えた。
「おぅ、近所に言って回れば、みんな喜んで寄付してくれるよ。処分する手間が省けるから。」
「それじゃ、ちょっと前の日付からでいいから、一日一部ずつ集めといてくれる?」
 私は、瓶ヶ島風の言葉で言った。
「よっしゃ、ええぞ!」
「ハハハハ!」
 私たちは顔を見合わせて笑った。
 新聞には、その国で起きた出来事が、ある程度凝縮されて書かれている。もちろん、それで全ての事象を把握できるわけではないが、社説やコラム、投稿、テレビ欄などを合わせると、その情報量は結構膨大なものとなる。その中から必用と思われる記事を切り抜き、それを瓶ヶ島に持って帰るというわけだ。瓶ヶ島の人たちが国外の情報を得る際に、昔からよく用いていた手法だ。
 ここで問われるのが、それを切り抜いた者の判断力だ。どのような事象が、どう関連し合って新たな事象に発展していくのか。その分析に必用な情報を選択するのだから責任重大なのだ。400年前の瓶ヶ島なら、勘蔵というその道の天才がいたが、私は彼に匹敵するだけの才能は持っていない。しかし先ほどの一件で、私はヤエにその才能があるのではないかという希望を持った。その彼女と、日本に生まれ育ってある程度の状況を把握しているこの私とが組めば、それなりの成果が得られるに違いない。
 その後、早速近所の家々から古新聞を集めて来た私は、ヤエと二人で、日本の現状と今後の進路を把握出来るような記事を切り抜いていった。政治、経済、社会、文化、スポーツ、その他多岐に渡って……。
 それを切りの良いところで中断すると、パソコンに向かった私は、美世さんに簡単なメールを書き送った。

長澤美世様

 先ほどは、お電話ありがとうございました。
 さて、瓶ヶ島への行き方をお教えすることになっていましたが、あなたはそのようなことに一切煩わされることなく行けるかも知れません。もちろん、旅行のガイドブックや英語の単語帳なども不要になります。
 詳しいことは、また後日ご連絡します。

田野呵々士

 それに対する返信は、次のようなものだった。

田野呵々士様

 メール、ありがとうございました。
 あなたの謎めいた言葉の意味を、私は何度も冷静になって考えてみましたが、その行き着く先はいつも同じになってしまいます。でも、そんなこと信じられません。
 次のメール、お待ちしております。

☆..*・°長澤美世          

 このような展開になってきたので、我が家は晩餐会の準備どころでなくなってしまった。
 多分大丈夫とは思ったが、私は念のため、炬燵に入って黙々と新聞を切り抜いているヤエに向かって、こう尋ねてみた。
「ヤエちゃん。これからピザと天麩羅、両方する気ある?」
 彼女は新聞に向かったままで、予想通りこう言った。
「椎茸も、フキノトウと一緒に天麩羅にしちゃえばいいんだよ。」
 それでも私は、やや残念そうにこう言ってみた。
「ピザ楽しみにしてたのにね。」
 するとヤエはこちらを向くと、嬉しそうに微笑んでこう言った。
「ピザは明日でも食べれるけど、こんな機会は滅多にあるもんじゃないよ。あたしたちにとって今日の長澤さんからの電話は、フキノトウと同じく、最高の贈り物だよ!」

 それから約三週間後の3月下旬のある朝。
 滅多に来ることのない郵便配達の車が、我が家の納屋の向うに見えた途端、ヤエは玄関から素足で飛び出した。そして、配達の人が郵便受けに入れるより先に、その手から直接郵便物を受け取った彼女は、母屋に戻るまでが待ち切れずに、中庭で立ち止まってそれを開封した。そこから取り出した手紙にざっと目を通すなり、彼女は「キャーッ!」という嬉しそうな悲鳴を上げると、母屋の中の私に向かって、窓ガラス越しに叫んだ。
「『長澤美世さんを、無事に島までお連れしなさい。』だって!!」
 それを聞いて思わず立ち上がった私も、窓ガラスの向うのヤエに向かって叫んでいた。
「おーっ! やったな!」
 それは、先日ヤエが出した手紙に対する、瓶ヶ島町長白浜アミからの返答であった。
 私は早速、美世さん宛てのメールを作成した。今後のこともあるので、ヤエの挨拶文もそこに添えさせた。

長澤美世様

 長らくお待たせしました。あなたの予想は正しかったんだと思います!
 瓶ヶ島町長の白浜アミ本人から、近々あなた宛に公式な招待状が届くと思います。ご招待ですので、それに掛かる費用は、もちろん町が負担させて頂くことになります。
 あとは、あなたがそれに応じて下さるかどうかです。そして、もし宜しければ、私と妻ヤエが、そのご案内役を勤めさせて頂こうと思います。

 田野呵々士


長澤美世様

 はじめまして。わたくし、田野ヤエと申します。生まれは南太平洋のエカルナ共和国瓶ヶ島自治州瓶ヶ島町です。夫がいつもお世話になっております。
 ご存知のように、あなたの曾お爺様である長澤伸三先生は、我が瓶ヶ島町民のご恩人となられるお方です。そのあなたが島へ行かれることをお望みと、このたび夫から伺いました。
 それなら、同島町民はあなたをご招待し、日本在住の私たち夫婦は、そのご往復のお手伝いをさせて頂こうではないか、ということになりました。その費用は全て町が負担してくれるそうなので、どうぞご心配なさらないで下さい。

 さあ、行きましょう! 青く透き通る珊瑚礁の海。どこまでも静かな椰子の砂浜。水平線に沈む真っ赤な夕陽。それらを眺めながら、慶長年間より島に伝わる伝統料理の数々と、特産の焼酎をどうぞお試し下さい。夜風に乗って、島の男たちの歌う素朴な歌声が流れて来るかもしれません。
 町長の方には、どうか良いご返事を頂けるよう、よろしくお願い致します。

 田野ヤエ

 私が前回出したメールによって、誰かが同行するであろうことを美世さんは予感していたようだが、まさか旅費まで出してもらえることになるとは、夢にも思っていなかったことだろう。
 しかし、もし瓶ヶ島に「観光協会」のようなものが存在するとしたら、ヤエは必ずその会員に抜擢(ばってき)されるに違いない。美世さんが興味を持ちそうな事柄をよく把握しており、それらを散りばめた「広告文」を作成するといった手の込みようだ。そのことについてなかば感心し、なかば疑問に思った私は、パソコンのディスプレイに映し出されている、ヤエがメールに添付した瓶ヶ島の夕陽の画像を指差しながら、遠回しに言ってみた。
「すごい熱の入れようだね。」
 彼女は微笑んで言った。
「うん。美世さんには是非とも行ってもらわなきゃ。」
「どうして?」
「決まってるじゃない。今のあたしたちの稼ぎじゃ自力で行けないもん。この機会を逃したら、いつ里帰りできるかわからないと思って。」
 なるほど。彼女には、やっぱり政治家の素質がある。
『女は、ちょっと馬鹿な方が可愛い。』
 この日本では、そう思っている男が少なからずいると思う。かつての私もそうであった。それは、女性の上に君臨し、思うが侭に操りたいという心理から来ているのだと思う。そのため、頭の良さが目立つ女性は、世間ではあまり好かれない。ところがヤエの場合、それ以外の面……表情とか性格とか……が可愛いので、その才能が目立ってしまうこともなく、私からも嫌われずに、それを思う存分に発揮しているのだ。
 これぞ、女系社会の瓶ヶ島が永年に渡って培ってきた女の魅力なのであろう。男に媚びることなく愛され、尚且つ男が生き物としての道をはずさぬように導いてゆくという……。

 2007年大型連休初日の4月28日土曜日。
 成田空港の第1ターミナルのロビーは大混雑だった。
 各航空会社のマークを表示した数ある受付けカウンターの前には、それぞれ搭乗手続きを待つ人が連なっており、その中のタイの航空会社の列の中ほどに、長澤美世さんとヤエと私の三人は並んでいた。
 昨夜東京に着いたヤエと私は、墨田区にある美世さんの家で泊めてもらった。お父さんは教師なので9連休にはならず、お母さんは体調が完全に回復したわけではないので大事を取ったため、お二人とも美世さんに同行することができない。そのため、「娘をどうぞよろしくお願いします」と、散々のご馳走攻めにあった。
 また、お兄さん夫妻からも、「妹をよろしくお願いします」と酒を勧められたので、つい飲み過ぎてしまった私は、二日酔い気味のために少し頭が痛かった。
 その一方、一緒になって飲んでいた美世さんはケロッとしている。以前にも痛感したことだが、彼女の方が私よりも明らかに酒が強い。
 また、美世さんの旅費を瓶ヶ島町が全額負担してくれるということを事前に知ったご両親は、これまた山のような土産を持たせてくれた。貴金属、ブランド物、キャラクターグッズといったきらびやかなものや、デジタル機器といった機械類などにも、瓶ヶ島の人たちは全く関心を示さないだろうということを、美世さんから聞いたご両親が揃えて下さったのは、昔ながらの「お土産」だった。
 そのため、味噌、醤油、酒、漬物、書籍などといった、重たくてかさ張るものばかりになってしまった。しかし、島の人の喜ぶ顔が見たい私としても、これに対して全面的に協力するしかない。そのため私は、背中だけでなく、胸にもリュックを掛け、両手にもバッグを持つという、四面楚歌(しめんそか)ならぬ四面荷物の状態となっていた。
 ヤエの方も、膨大な量の新聞の切抜きと、昆布や干し椎茸や高野豆腐といった日本特産の乾物類などの土産を持っていたので、重量は軽いがこちらも大荷物だ。そのヤエに、一人の東南アジア系と見られる女性が親しげに話し掛けてきた。
「〇〇〇、〇〇〇〇〇?」
 それに対してヤエは、苦笑いしてこう言った。
「I don't understand.(わかりません。)」
 するとその女性は、若干のアジア訛りでこう言い直した。
「Oh! Sorry, I thought you from Philippines. Where are you coming from?(あ、ごめんなさい。私はあなたがフィリピンから来たと思ったのよ。どっから来てるの?」
 それに対してヤエは、こう答えた。
「I coming from Ekalna.(エカルナからよ。)」
 すると、その女性はこう言った。
「It's a nice country! I came from Philippines. That I asked you, "Where is postoffice?"(それはいい国だわ。私はフィリピンから来たの。さっき私は、あなたに『郵便局ってどこ?』って聞いたのよ。)」
 ヤエはそれを聞くなり、この広いロビーの上部をぐるっと見回した。その中に郵便局の位置を案内している表示を見付けた彼女は、それを指差しながら、その女性に向かってこう言った。
「Can you see that sign of postoffice?(あの郵便局のマークが見えますか?)」
 その女性は、しばらく目を凝らしていたが、すぐにそれを見付けたようで、嬉しそうにこう言った。
「Oh! Yes, I can! Thank you very much!(あぁ、見えました。どうもありがとう!」
 ヤエがそれに応えた。
「You're well come.(どういたしまして。)」
 その女性はヤエに向かってにっこり微笑むと、その表示の方に向かって立ち去って行った。
 今このロビーで大荷物を持っいるのは、ほとんど全てが日本で就労している外国人だったので、ヤエの容貌からしてもそのように見られたのだろう。しかし、日本人の中にも例外がいた。美世さんは初めての海外旅行だということもあり、私たちほどではないにしても結構な大荷物だった。私は自分を例にとり、今回の旅行で必要になると思われる物をリストアップしたメールを送っていたのだが、それにしては多過ぎる。中身が何なのか、それとなく尋ねてみたところ、男性の私に対して公表できるものだけでも、彼女は素直に答えてくれた。
 なんと、その半分以上を占めているのが衣類なのだそうだ。あとは、長靴、スニーカー、ビーチサンダル、水着、水中眼鏡、シュノーケル、足ヒレ、デジカメ、デジタルオーディオ、携帯電話、コップ、箸、果物ナイフ、歯ブラシ、石鹸、シャンプー、リンス、ヘヤブラシ、ドライヤー、手鏡、虫除けスプレー、電気蚊取り器、各種医薬品、裁縫道具、日記帳、筆記用具、旅行ガイドブック、小説の本、女性向けコミック雑誌、猫のぬいぐるみ、お菓子、スナック、清涼飲料、マグロの缶詰……。まだまだあったが、これから先は読んでいる方も疲れてくると思うので、この辺でやめておく。
 聞き終わった私は、思わず苦笑いしてこう言った。
「メールに一応書いといたはずですけど、島には電気が来てないから、外部電源が必用な機器は全く役に立ちませんよ。もちろんケータイも使えないし。」
 しかし彼女は、明るい声でこう言った。
「ええ、そうですね。でも、途中バンコクとかに寄るんでしょ? そこでなら使えると思って。」
 私は申し訳なさそうに言った。
「あぁ、このことはお伝えしてませんでしたね。あそこは、電圧もコンセントの形状も日本のとは違うんですよ。」
 彼女は目を丸くして言った。
「えー?! そうなんですかぁ?」
 私は、彼女を安心させるように微笑んで言った。
「ええ、でも大丈夫。アダプター付きの変圧器、どっかで売ってると思うんで、それが手に入れば使えるようになりますから。」
 彼女は、人ごみの向こうに見えている売店に目を遣ると、私に向かってこう言った。
「それじゃ、こうして待ってるあいだに、あたしそれ買ってきます!」
 それを言い終わらぬうちから、そちらに向かって彼女が歩き掛けたので、私はその背中の荷物を軽く引っ張って引き止めた。そして、怪訝そうな顔をこちらに向けた彼女に向かって、自分の顔の前で小さく手を振ってから、声を潜めてこう言った。
「いえいえ、美世さん、美世さん。どうせ買うんなら、バンコクの空港かデパートで買ったほうがずっと安いですよ。品質は日本の物の方が断然良いですが、今回行って帰るときのためだけに買うんなら、外国産のものでも充分ですから。」
 彼女は感心したように言った。
「なるほど、そうなんでしょうね。」
 このとき、私たちが並んでいる空港会社のカウンターの中に、その制服を身に着けた係員が現れて、搭乗手続きが始まった。それからしばらくすると、列が少しずつ前に進んで行くようになった。
 ヤエが美世さんに向かって嬉しそうに言った。
「いよいよですね!」
 美世さんも目を輝かせて言った。
「そうそう。生まれて初めての体験!」
 ヤエは昨夜から美世さんと既に意気投合しており、先ほどからずっと仲良く話しをしている。美世さんがまだ海外に出たことも飛行機に乗ったこともないと言うと、去年初めて飛行機に乗っヤエは、そのときのことを面白可笑しく話して聞かせ、昨夜からずっとそれで盛り上がっていたのだ。
 そのような話しを年下のヤエがすれば、普通なら厭味に聞こえることもあるのだろうが、今まで文明世界に触れたことのない人間が、私たちにとっては当たり前になっているような物事一つ一つに驚くということは、私が聞いていてもとても面白かった。どうやら彼女には、そのような話術の才能も備わっているようだ。普段は比較的口数の少ない彼女だったが、このようなときにはよく舌が回る。
 そのため、美世さんに対するヤエの嫉妬は全く感じられなかった。かなり覚悟していたことだったので、私は正直多少拍子抜けしたが、この旅行を楽しいもにしたいという思いは、ヤエも私と同じだったようだ。私の前では多少子供っぽいところを見せることもあったが、その点で彼女は大人だった。
 その私たち三人を乗せた飛行機が、バンコクの国際空港に到着したのは、同じ日の現地時間夜十時前だった。この国では年間を通じて今が一番暑い時期なのだが、それがまた異国情緒をかき立ててくれる。
 入国の手続きや両替を済ませて空港を出た私たちはタクシーに乗ると、私がいつも泊まる安宿街へと向かった。日中は非常に暑いために、人々は夜になると元気が出て来るようで、街にはけっこう遅くまで明かりがともっており、人通りも多かった。
 目的地に着いた私たち三人はタクシーを降りると、私がいつも利用する宿へと向かった。
 私は途中の店で、寝酒のためのウイスキーとミネラルウォーターを一本ずつ買った。
 宿に着いた私たちは、薄暗い蛍光灯がともるそのビルの中に入った。出入り口付近のフロントには、中国系のいつもの兄ちゃんがいた。
 ここでチェックインする際、私たち三人は初めて揉めた。それは互いのことを気遣っての「揉め」である。私たち夫妻とは別の部屋にしたいと言った美世さんに向かって、ヤエが困ったように言った。
「それじゃ寂しいでしょう? 美世さんさえ良ければ、あたしたちは三人一緒でも一向に構わないんですよ。
ねぇ、カカシ。」
 私はそれに同意しつつも、ヤエに向かってこう言った。
「うん。でもそうすると、美世さんが困るんじゃないかな、男の俺が混じってるから。
ヤエと美世さん二人が同じ部屋にして、俺だけ一人部屋にした方がいいんじゃないの?」
 それに対して美世さんは、苦笑いしながらこう言った。
「それだと、まるであたしが、ヤエさんを呵々士さんから奪ったみたいになるじゃないですか。いいですよ、あたし一人になっても。その分の部屋代、ちゃんと払いますから。」
 私も苦笑いして言った。
「よし! 一人一部屋! 決まり!」
 ヤエも苦笑いして言った。
「ちょっとあんた、馬鹿なこと言ってないで真面目にしてよ!」
 彼女は、美世さんに向かってこう言った。
「部屋代のことは心配なさらなくてもいいんですけど、さっきカカシが言った、あたしと美世さんが一緒でカカシだけ別ってのが一番良さそうですね。そうしませんか?」
 そして、再び私に笑い掛けてこう言った。
「あんた、『取られた』なんて思わないよね?」
 私も笑ってそれに答えた。
「ハハハ! もし美世さんが男だったら、確実にそう思うだろうけどね。」
 ヤエは、美世さんに向かって微笑みながら言った。
「それじゃ、その言葉に甘えさせてもらって、そうしませんか?」
 美世さんは、私に向かってやや困ったように言った。
「ほんとにいいんですか、それで?」
 私は微笑んで言った。
「ええ、いいんです、大丈夫です。
でも、寂しくなったら遊びに行ってもいい?」
 私が美世さんとヤエを交互に見てそう言うと、二人とも真剣な表情になり、口を揃えてこう言った。
「もちろん!」
 ということで、この一件はすぐに丸く収まった。
 自分の部屋に荷物を置いて寝る支度をした私は、荷物の中からステンレス製のコップを取り出し、先ほど買ったものと一緒に持って、早速「女部屋」訪問に赴いた。
 同じ階にある彼女たちの部屋の前に立った私は、隣近所の部屋の客に迷惑になってはいけないので、そのドアを極めて小さくノックした。すると、中からヤエの声がした。
「Who are you?(あんた誰?)」
 声だけだと日本人とはとても思えない。私は、ドアの隙間に口を近づけて囁いた。
「人呼んで『孤独な用心棒』。」
 中からは、二人の若い娘が「ケラケラ」と笑う声がして、そのドアはすぐに開いた。蛍光灯の青白い光に照らされた室内は、二人のバッグから取り出されたさまざまな物で、ごったがえしている。
 私は部屋に入ると、ドアをそっと閉めた。
 美世さんは既にパジャマに着替えていた。猫がラフに描かれた大人っぽい柄だ。一方ヤエの方も、Tシャツと腰巻きという瓶ヶ島スタイルになっている。網戸の付いた窓からは、下の道をたまに行き交う自動車の音が入って来ており、天井では巨大な扇風機が唸りを上げて回っている。
 私は、出入り口のドアに近い方のベッドを指差すと、ヤエに向かって尋ねた。
「こっちがヤエのだな?」
 彼女が微笑んで頷いたので、私はそこに腰掛けると二人に向かって言った。
「二人とも、飛行機ん中でよく眠ってたから、目が冴えてるだろうと思って寝酒持って来たよ。」
 ヤエは苦笑いして言った。
「ほんとは、あんたが一番飲みたいくせに!」
 私は軽く笑って言った。
「ハハ! バレましたか。」
 そして、手に持っていた瓶とペットボトルの蓋をそれぞれ開けると、それらを二人の女性に勧めた。彼女たちは、それぞれの荷物の中から自分のコップを取り出すと、その中に手酌でウイスキーと水を注いだ。手酌が我が家の習慣であることは、美世さんも既に知っている。彼女は自分のベッドに腰掛けて私と向き合うと、嬉しそうに微笑んで言った。
「初めての海外旅行で興奮してるし、暑くてすぐに眠れそうにないと思ってたんで、丁度良かったです、頂きます。」
 その一方ヤエは、私の横に腰掛けると、自分のコップの中を覗き込みながら感慨深げに言った。
「……あたし、こういうの飲むの、ほんと久し振りだよ。」
 日本だと彼女は未成年になるので、アルコール類はほとんど飲んでいなかったし、飛行機の中でも他の日本人乗客の手前なので我慢していたからだ。
 そんな彼女たちに向かって、私はこう言った。
「よし! それじゃ、美世さん初の海外旅行と、ヤエの飲酒復帰を祝って乾杯しよう!」
 幸いにして、ここタイの法律では、酒類購入の年齢制限はあっても飲酒のそれはない。三人は口を揃えて言った。
「乾杯!」
 ビールではないので、一気飲みするわけにはいかなかったが、私たちはそれぞれの思いを込めてそれを味わった。
 美世さんは、卓の上に置かれたウイスキーの瓶を手に取ると、しげしげと眺めて言った。
「……へー、これがタイのウイスキーなんですか……。」
 私は微笑んで言った。
「そう。原料が麦じゃなくて米とサトウキビなんで、厳密に言えばウイスキーじゃないですが、なかなかいけるでしょ?」
 美世さんも微笑んで言った。
「ええ。甘いけど、すっきりしてて、いいですね。」
 彼女は、自分の荷物の中から日本のスナック菓子の袋を取り出すと、その口を開けて言った。
「お二人のお口に合うかどうかわかりませんけど、どうぞ。」
 私はそれを受け取って言った。
「どうも、頂きます。」
 そして、その中の物を一つ抓んで口に放り込むと、微笑んで言った。
「……こういうの普段は食べてないけど、たまに食べるのがまたいいですね。」
 ヤエも、自分の荷物から袋を出して来て口を開けると、それを美世さんに手渡しながら言った。
「自家製だもんで、売ってるお菓子みたいに洗練されてないけど、どうぞつまんで下さい。」
 美世さんは、それを受け取りながら嬉しそうに言った。
「えー!? つくったんですか? すごーい!」
 彼女はそれを一口食べると、感動したように言った。
「……美味しい! ポップコーンって、自分でも作れるんですね!」
 私は微笑んで言った。
「ええ、意外に簡単です。畑で採れたポップコーン用のトウモロコシを乾かして、油で煎って塩をまぶしただけですからね。アメリカの先住民の人たちも昔から、みんなそうやってつくってたみたいですよ。」
 美世さんは、感心したように目を見張って言った。
「へー! これって最近出来たお菓子だと思ってたけど、そうじゃなかったんですか?!」
 私はそれに答えた。
「ええ。今のように商品化されたのは19世紀に入ってからみたいですが、アメリカ大陸の気候の温暖な地域では、古代から食べられてたようですよ。」
 美世さんは、ポップコーンを一抓み食べてから言った。
「……なるほど。でも、市販のよりも美味しいような気がします。」
 私は説明を加えた。
「それは多分塩のせいだと思います。日本で普通に売られている、いわゆる『食塩』は、化学的に精製した塩で、正式には『塩化ナトリウム』って言うんです。それだけでも穀物の持ってるうま味を引き出すんですが、これにまぶしてある塩は、海水を煮詰めてつくられたものなんです。それには天然のうま味成分が含まれてるんで、それが更にうまさを倍増させてるんだと思います。」
 美世さんは、再び感心したように言った。
「なるほどー。」
 ヤエが部屋をぐるっと見回して言った。
「ウイスキー飲んで、日本から持って来たもの食べてると忘れてたけど、ここってバンコクだったのよね。」
 その言葉が当を得ていたので、美世さんと私は声を上げて笑った。美世さんは嬉しそうに言った。
「そうそう。あたし、早く町を見てみたくて、夜明けが待ち遠しいです。」
 私も嬉しそうに言った。
「それじゃぁ、明日朝飯食って飛行機の予約をしたら、すぐ近くの露店市場を見に行ってみようか!」
 美世さんとヤエは口々に言った。
「賛成!」
「いいわね!」
 この後、私たち三人は何だかんだと話し込んだので、結局私が自室に戻ったのは午前二時前だった。

 南国の良さはたくさんあるが、暑いということも、ある視点から見れば悪くないことだ。日本でなら確実に二日酔いになっているのだろうが、私は翌朝比較的すっきりと目覚めた。寝ている最中に大汗をかいていたので、血の中の二日酔いを引き起こす成分が汗とともに出て行ってしまうのだろうか。人によって違うのだろうが、私の場合、汗を大量にかいた朝は、たとえ二日酔いになったとしても軽くて済む。
 その代わり、頭からシャワーを浴びて、念入りにそれを流さなければならない。それもまた気持ちがいいものだ。着替えてさっぱりとした私は、「女部屋」を訪問した。
 彼女たちも既に起きており、外出できるような服装になっていた。二人ともやはりシャワーを浴びたようで、まだ髪が濡れている。
 窓の外からは、南国の朝独特の、濃厚なオレンジ色の光と共に、自動車の行き交う音、どこかの店で流している流行歌、人のざわめき、鳥の声などといった様々な音が入って来ている。その窓際に立って外を見ながら、ヤエがポツンと言った。
「一年前を思い出すわ。」
 私もそこに立つと、ややしんみりした口調で言った。
「あのときは泣いてたもんね。」
 彼女は美世さんの方を見て、ちょっと恥ずかしそうに言った。
「だって、あたしが生まれ育った島とは、余りにも違ってたんだもん。」
 美世さんは、そのヤエに向かって尋ねた。
「逆に日本からこっちへ来たら、どんな感じがするの?」
 ヤエは再び窓の外を見て言った。
「そうねぇ……、日本に較べると、こっちの方がずっと賑やかで元気があるような気がする……。空気が濃いっていうか、命が溢れてるって言うか……。」
 それは私も強く感じていることだったし、恐らく美世さんも同じようなことを感じていたのだろう。彼女はこう言った。
「そうよね。あたしはずっと日本にいて初めてここに来たから、特に思うんだろうけど、光も音も空気も、何もかも色が着いてるっていうか、躍動感があるっていうか……。」
 それに対して私はこう言った。
「同じように文明化されてはいても、日本の場合は、人間が人間そのものだけでなく、自然環境までをも支配して、管理してしまおうとしてるような気がするよ。ここはまだ、その手が及んでないってことかもね、人間の方が大自然に合わせてるって言うか。」
 二人の女性は、外の景色を見ながら口々に言った。
「そうね。」
「そうかもね。」
 やがて、宿を出た私たち三人は、同じ通りにある外国人旅行者向けの小さな食堂に足を運んだ。この店のおばちゃんは英語が話せないが、その分、客が少なくてすいているし、値段が安い割りには味が悪くないので私は気に入っている。
 海外の地を踏んでから、これが初めての外食となる美世さんは、テーブルに着くと早速、うきうきしながらメニューの一つ一つが何なのかを、隣の席に座ったヤエに尋ねている。そのような無邪気な姿を眺めていると、こちらまで楽しくなってくる。私もそのメニューを覗き込むと、そんな美世さんに向かって微笑んで言った。
「美世さん美世さん。トーストだとか、目玉焼きだとかの『定番』もいいけど、タイに滞在する時間が短いから、ここでしか食べれないのを食べといた方がいいですよ。」
 ヤエも同じように言った。
「そうそう。目玉焼きなら、日本でも食べれるんですからね。」
「なるほど、朝はいつもご飯なんで、洋風の朝食は魅力的だけど、考えてみればそうですよね。ここはタイなんだから。」
 美世さんのその言葉に、私とヤエは微笑んで「そうそう」と頷いた。美世さんはメニューを見て言った。
「それじゃ、何かお勧めってありますか?」
 ヤエが言った。
「Thai Omrets and Rice(タイ・オムレツとご飯)ってのがあるけど、どうですか?」
 美世さんは嬉しそうに言った。
「あたしそれにします!」
 ヤエもそれにすると言ったが、私は Noodle Soup and Chiken(鶏湯麺)にした。私がそれらを店のおばちゃんにタイ語で注文すると、美世さんが感心したように言った。
「へー! 呵々士さんて、英語だけじゃなくてタイ語も喋れたんですか?」
 私は笑って言った。
「ハハハ! いやいや、どっちも買い物ができる程度だから、『喋れる』っていう部類には入りませんよ。」
 美世さんは真剣な顔で言った。
「いえ、それでも大したもんですよ、ねぇ、ヤエさん。」
 同意を求められたヤエは苦笑いして言った。
「この人が身内じゃなかったら、素直に『はい』って言うんですけどね。」
 そして、やや真剣な表情になると、こう続けた。
「でも、旅先の国の文化に敬意を込めて、英語だけじゃなくって、挨拶だけでもいいから現地の言葉を話すってことは、とてもいいことだと思いますね。」
 そして彼女は私の方を向くと、こう尋ねた。
「『こんにちわ』ってどう言うんだっけ?」
 私はそれに答えた。
「女の人が言うときは、『サワッディカー』。」
 二人はそれを真似て言ったが、アクセントがそれぞれ少し違っていたので、私はその説明をした。
「この国の言葉はね、アクセントがとても大事で、それが違ってると、発音がいくら正しくても全然通じないこともあるんだ。」
 そのようにして、いくつかの言葉を教えているうちに、早くも「タイ・オムレツとご飯」二人分が来た。料理を私たちのテーブルの上に置いた店のおばちゃんは、私に向かって微笑んで何か言った。それは、「タイ語教えてるのかい?」という意味に聞こえたので、私も微笑んで言った。
「クラップ(はい)。」
 湯気の立っている皿を目の前にしている美世さんとヤエに向かって、私は言った。
「先に食べててね。」
 二人が食べ始めてから間もなくして、私が注文した料理もテーブルの上に運ばれて来た。それを見たヤエが言った。
「あんた、さっき美世さんに、『ここでしか食べれないのを食べた方がいい』って言ってたけど、今あんたが食べてるのって、日本のラーメンに限りなく近いんじゃないの?」
 私は微笑んで元気良く言った。
「その通り。俺の場合、世界中どこでもラーメン!」
 それを聞いたヤエは、冷ややかな視線で私を見ながら、美世さんの方に顔を寄せて小声でこう言った。
「あたしも、あまり偉そうなこと言えないんですけどね、この人の麺好きは、もうほとんど病気なんですよ。一日に一度は食べないと気が済まないんですから!」
 これで火が付いたかのようにして、ヤエの口から私に対する愚痴が溢れ出た。お次は「めんどくさがって風呂に入らなことはあるけど、晩酌だけは絶対に一日も欠かさない!」。その次は「寝相がとっても悪い!」だ。
 そのような話しを美世さんは、食べながらも苦笑いして聞いている。
 やがて美世さんが食べ終わると、今度は「わざと大きな音を立ててげっぷをする!」「スカートを穿くと、すぐにまくりに来る!」「おしっこを家の周りのあちこちで、まるで犬みたいにする!」等の、下ネタ系の話しも披露された。私は恥ずかしさを通り越して、『まあよくもここまで溜め込んだものだ』と感心してしまった。
 しかしよく考えてみると、私たち夫婦は近所付き合いをしてはいるものの、ヤエにはまだ友達と呼べるような関係の人がいない。彼女はこの一年間、こういうことを愚痴りたくても誰にも愚痴れずにいたのだろう。その相手が、気心知れた美世さんだから私はこれを黙認することにした。彼女には、私の心の恥部の一端までも話してあるのだから。
 食事を終えた私たちは、それぞれ席を立つと、入り口の番台に座ってテレビを見ている、この店のおばちゃんのところに行った。私たち夫婦の財布を預かっているヤエは、素早く三人分まとめて支払った。
 そのヤエがお釣りを受け取ってから、美世さんが自分の分を彼女に手渡そうとすると、ヤエはそれを押し留めてこう言った。
「いえ、いいです。この旅行中の美世さんの食費は、すべて町が負担することになってますので。」
 美世さんは、申し訳なさそうに言った。
「いや、それじゃ何だか悪いですよ。」
 ヤエは、悪戯っぽく片目をつぶって言った。
「大丈夫。あたしたち夫婦の分もそうですから。あれでも、瓶ヶ島の町は意外とお金持ちなんです。この際、三人とも遠慮なく美味しい物を食べましょうよ!」
 なんとも頼もしい限りである。
 食堂を出た私たち三人は、同じ通りにある一軒の旅行会社の中に入った。瓶ヶ島方面への往復の飛行機の予約を取るためだ。
 その仕事が済むと、昨夜の提案どおり、私たちはこの通りの近くにある露店市場を訪れた。
 この市場に来ていつも思うのだが、外国人旅行者のための安宿街の近くだというのに、ここで彼らの姿をほとんど見掛けないのが不思議だった。彼らは多分、この街の観光スポットとなっている水上市場の方へ行くので、このような普通の市場には興味がないのかも知れない。
 近頃はそうでもなくなったようだが、昔よく欧米の人から、「日本人は外国に出ても日本人旅行者同士で固まっている」と言われることがあった。それは事実であるし、当然のことである。人間誰だってごく自然に、言葉や習慣が同じ人とまず親しくなるからだ。
 だから逆に言えば、アジアにおける欧米の旅行者だって、彼ら同士で固まっている。ただ単に「英語」という媒体によって、「イギリス」「アメリカ」「フランス」「イタリア」「ドイツ」というような国境を越えた繋がりを持っているだけのことだ。その点「日本の標準語」という媒体によって繋がっている、我ら日本人同士と全く変わらないではないか。
 しかし私の場合は、一般の日本人社会にも入らず、欧米人らとも距離を置き、現地語を喋って単独行動することが多いので、他の外国人旅行者からは変な目で見られることも多い。それが今回は、美世さんとヤエという、私にとっては正に両手に花状態であったので、いつものような取っ付きにくい雰囲気はなかっただろうと思う。たまには、こんな天国のような旅もいいもんだ。
 旅行会社の組んだパッケージツアーによっては、日本語を話せるガイドが同行しているので、海外旅行をしても、全てを日本語で通すことも可能だ。主に年配層を中心とする外国語をほとんど話せない人が海外旅行をするなら、それでいいのだろうと思う。
 だから、英語があまり得意ではなく、海外旅行が初めての美世さんに観光ガイドのようなことをすれば、彼女は当然喜んでくれることだろう。男としては、ついついそうしてしまいたくなるが、私はここでぐっとそれを堪えた。彼女には、外国の人と直接話しをしてほしかったからだ。多少不便な思いをしても、外国語の会話を通じて相手と心が通い合ったときの喜びは、また格別のものであり、それが外国語を学ぶ上において、更なる励みになる。
 但し言葉が通じないと、それを悪用されて騙されたりすることもあるので、それには充分に気を付けなければならない。そのため私は、仲良く寄り添ってあれやこれやと露店を見て回っている二人の女たちの後ろに、ボディーガードのようにして目立たぬように着き従がっていた。
 前章でもご紹介したように、この市場には、ありとあらゆる物が売られている。衣料品や日用品には中国製が目立つが、野菜や果物などの食品のそのほとんどが国産だろうと思う。この国は米作を中心とした農業に力を入れており、輸出もしているからだ。
 一つの露店の前で立ち止まった二人の女性は、何かを話し合っていたが、間もなくヤエが籠の中の果物の一つを手に取ると、椅子に座っている店の女性に向かって何かを話し掛けた。彼女に英語は通じないようだったが、ヤエは感動したような声を上げた。
「マムアン!?」
 すると店の女性は、違うアクセントで言った。
「マムアン。」
 ヤエが同じようなアクセントで言い直すと、その女性は嬉しそうに微笑んで言った。
「カー(そうです)。マムアンカー。」
 タイ語でマンゴーのことだ。ヤエの先祖たちが初めてこの果実を口にしたのは、この国においてであった。それ以来彼女の島の言葉では、これを「マムアン」と呼んでいる。但し、長い年月のうちにアクセントが変化してしまったので、先ほどのヤエように修正したら、ちゃんと通じたのである。これにはヤエも、かなり感動したようで、私の方を振り向くと目を輝かせて言った。
「カカシ! 『マムアン』って言ったら通じたよーっ!!」
 私は微笑んで言った。
「おう、そりゃ良かった! 今時分出てるのは早生(わせ)の品種だろうけど、少し買って帰ろうか。」
 ヤエは、店の女性に向かって覚えたてのタイ語で尋ねた。
「ラーカー タオライ カー?」
 それは見事に通じたようで女性はすぐに返答したが、ヤエにはそれがわからなかった。彼女の後ろから、私が助け舟を出した。
「1キロ8バーツ75サタンだって。」
 ヤエはスラックスのポケットから財布を取り出すと、その中から取り出した10バーツ紙幣を店の女性に渡してから、人差し指一本を立てて言った。
「Kilo。」
 それは通じたようで、女性はマンゴー数個を天秤秤で計ってその目盛りをヤエに見せながら何か言った。私はそれを訳した。
「1キロ少し出たから、これで9バーツになるって。」
 ヤエが頷くと、女性は計ったマンゴーをビニール袋に入れて、お釣りの1バーツ硬貨と共にヤエに手渡したので、私たちはこの店を離れた。その一部始終を横で見ていた美世さんは、感心したように言った。
「なるほど……。あたし英語苦手だし、相手も英語喋れなかったら一体どうなるのかと思ってたけど、こういう手があったのね!」
 ヤエは微笑んで言った。
「そうそう。現地語を話せばいいんですよ。カカシに助けてもらいましたけどね。」
 市場を見て回っているうちに、カセットテープを山のように積んでいる屋台に遭遇した。そこからは、大音量で音楽が流れている。若い男性が歌っている、乗りのいいポップス調の曲だ。
 このような店でも、たまに掘り出し物があるので、私は色々と物色してみた。まず、ケースの写真や絵で見て選び、それをラジカセで再生してもらうのだ。そうしないと、帰国して再生してから後悔することになる。ケースの写真や絵と、テープに吹き込まれている音楽のイメージが、完全にミスマッチしているということは、よくあることだ。しかも、このような店で売られている物は、私的にコピーした物が多いためか、機材や技術がいい加減だったりして、音質が極端に悪かったり、曲が途中で途切れていたりするものも少なくないからだ。
 この国の伝統舞踊の衣装を身に着けた女性の写真のものがあったので、そのカセットのケースからテープを取り出した私は、店のおじさんに試聴させてくれと頼んだ。彼は、今まで再生していたテープを停止させて取り出すと、私が手渡したものをそこに入れて再生ボタンを押した。
 すると、そのスピーカーから出た音が、この市場の空間一帯を支配した。それは、先ほどまでのポップスとは全然違う、ガムランのような古典的な音楽だったので、私はそれに満足した。
 ところが、周囲の露店の売り子や客たちが、一斉にこちらを向いて笑い始めたではないか。この店のおじさんまでもが、一緒になって笑っている。なぜ笑っているのか疑問に思った私であったが、それを店のおじさんにタイ語で尋ねたとしても、その返答を聞き取るだけの語学力はない。私はテープの代金を払ってこの店を離れると、市場の中を歩きながら、そのことをヤエに向かって尋ねてみた。
「なんで笑われたんだろうね。」
 ヤエも歩きながら、首をかしげて言った。
「わかんない。」
 その横を歩きながら美世さんが言った。
「きっとその音楽が、あの場の雰囲気に合ってなかったんでしょうね。横で見てたら、呵々士さんが笑われてたんじゃなくて、音楽が笑われてたようですから。」
 私は、たった今買ったばかりのカセットテープのケースを見ながら言った。
「なるほど。この国の伝統舞踊では、ラーマーヤナとか仏教の説話とかの宗教ものを演じるようだ。それが、それまでかかってた乗りのいいポップス調の曲とのギャップが大きかったんで可笑しかったのかもね。」
 美世さんが言った。
「日本でなら、スーパーマーケットのBGMが突然やんで、お寺のお経が店内に流れ出すとか?」
 それを想像した三人は、思わず声を上げて笑ってしまった。
 安宿街に戻った私たちは、土産物屋などを足早に見て回ると、一旦宿の「女部屋」に引き上げた。慣れていない熱帯の気候の中を長時間歩き回ると、体調を崩す恐れがあるからだ。三人が部屋に入ってすぐヤエがスイッチを入れたので、間もなく天井の巨大な扇風機が、唸りを上げて回り始めた。
 私は、ヤエが手に持っているビニール袋に目配せしながら、微笑んで言った。
「さあさあ、試食、試食!」
「あたし洗ってくるから、お皿出しといて!」
 ヤエはそう言って肩に掛けていたポシェットを自分のベッドの上に置くと、シャワー室の中に姿を消した。一方私は、ヤエの大きな荷物の中から、ステンレスの皿を二枚取り出した。その一枚は、剥いた皮と種を受けるためのものだ。
 やがて、ヤエによって皮を剥かれ、美世さんによって食べやすく切り分けられた、オレンジ色のマンゴーの果肉が、皿の上に並べられていった。この果物が持つ独特の芳香(ほうこう)が、扇風機に掻き回されて部屋の中に充満した。彼女たちが、それぞれ小刀やナイフをシャワー室で洗って来て、ベッドに腰掛けるのを待ってから私は言った。
「それじゃ、頂きまーす!」
 二人も口を揃えて言った。
「頂きまーす!」
 うーん、この味覚! 正に南国の味わいだ。ヤエが嬉しそうに言った。
「また一歩、故郷に近付いた気がするよ!」
 美世さんは、感激して言った。
「日本で食べるのとは、かなり違うんですね! やっぱり本場でなきゃ!」
 私は言った。
「そうそう。日本に輸入されてるのもいろいろあるんでしょうけど、その多くは日持ちさせるために、まだ熟してないうちから収獲してしまうんじゃないですかね。でも、これは木に付いた状態で完熟してるから、その分美味しさも違うんでしょう。」
 その後私たちは、そこでなんだかんだと雑談をしながら時を過ごした。

「たまには違う店でも食べてみたい!」
 ヤエのこの要望によって、彼女と美世さんと私の三人は、いつもとは違う店で昼食を食べることにした。美世さんにしてみれば、この国で外食するのがこれで二度目なので、朝と同じ料理でなければ、どこで何を食べても新鮮なはずだ。また私にしてみれば、既にこの安宿街のあちこちの店を食べ歩いた結果、あの店のファンになっている。ところがヤエにしてみれば、前回ここへ来たときからずっと、外食といえばその店だけだったので、別の店で食べたいと思うのは無理もないことであった。
 この時期、この通りに滞在している観光客は、アメリカやオーストラリアといった英語圏の人たちが多いように感じた。その他の白人もいるのだろうが、英語圏の人たちと仲間になっているときや、複数の国の人が寄ったときなど、彼らは英語を話しているので、よほど強い訛りで喋っていない限り、なかなかその見分けが付かない。
 すいている店を探した結果、私たち三人は、この通りのはずれにある小さな店に入ることにした。道路沿いの明るい場所に置かれているテーブルに着くと、私たちは早速メニューを見た。炎天下を歩いて来た、その三人の視線が集中した箇所は一つ。
 私が真剣な表情でメニューの中のその一行を指で示すと、他の二人も真剣な表情で頷いた。私はウエイターの少年にその注文をした。
 この店のメニューには、アメリカ産ビールの名前もあったが、ヨーロッパのビールの流れを汲む日本のビールを飲み慣れている私にとってのそれは、アルコールを添加した炭酸水のようなものだ。そもそも、せっかくこの国を訪れたのに、現地産のものを味わわなければ、海外旅行の楽しさが半減する。
 間もなくウエイターが、私の注文したタイ国産Sビールの三本の瓶を、ガラスのコップ三つと共に持って来た。彼がその瓶をテーブルに置いて栓を抜いて行くと、私たちは各自それぞれがコップに手酌で注いだ。
 不肖ながら私が乾杯の音頭を取った。
「それでは、我らが偉大なるスポンサー、瓶ヶ島町の今後の発展を祈って、乾杯!」
 三人は陽気に笑って乾杯した。
「ハハハ! カンパーイ!」
 よく冷えたビールが、私の乾いた喉と五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み渡っていった。多分、他の二人も同じだっただろう。
 このとき、新たな三人組の客が、この店に入って来た。若い白人の男女と、どこか東洋系の顔立ちをした背の高い黒人男性だ。私たちの隣りの空いているテーブルに着いた彼らは、やはり早速ビールを注文した。彼ら同士の会話を耳にした美世さんが、ヤエに向かって尋ねた。
「英語じゃないみたいだけど、何語なんですか?」
 ヤエはその会話に一瞬耳を傾けると、納得したように頷いて言った。
「フランス語みたいですね。」
 ヤエの生まれた国の近くには、フランス語を公用語としている地域もあるので、空中状態が良くなる夜になると、そのような地域のラジオ放送が瓶ヶ島でも比較的明瞭に入る。丁度日本の中波ラジオで、韓国や中国の国内向け放送が聞けるのと同じことだ。だからヤエは、その会話をちょっと耳にしただけで、それが何語であるかがすぐにわかったのだ。
 私たちはメニューを見ながら各自が食べたい料理を決め、私がそれをまとめて店の少年に注文した。
 その一方、隣りの三人連れも、メニューを見ながら笑顔で何かを論じ合っていた。間もなく、その中の二十代前半と見られる赤毛で青い瞳の可愛らしい女性が、メニューを手に持って席を立ち、私たちのテーブルの方に歩いて来た。そして、ヤエの耳元に少し身をかがめると、流暢な英語で遠慮がちに尋ねた。
「Excuse me, can you speak English?(済みません、あなたは英語が話せますか?)」
 英語を公用語として身に付けているヤエも、やはり流暢な英語でそれに答えた。
「Yes, I can.(はい。)」
 その女性は、自分が手に持っているメニューの一部分を指差しながら、ヤエに向かって再び尋ねた。
「Do you know, what is this one?(これ、何だかわかりますか?)」
 ヤエはそれを見たが、何かわからなかったようで、彼女にちょっと微笑み掛けてから、こう言った。
「Just a minute please.(ちょっと待って下さいね。)」
 ヤエは私の方を向くと、私たちのテーブルの上に置いてある、メニューの一部分を指差して尋ねた。
「カカシ、これ何か知ってる?」
 私はそれに答えた。
「おぅ。ヤエも前に一度食べたじゃん。」
 以前彼女と一緒にこれを食べたときは、私の独断でメニューから選んだので、彼女は食べてはいても、その名前までは覚えていなかったのだろう。
 私は、その女性に向かって直接言った。
「Yes, I know. It's a kind of seafood soup, sour and chlli taste.(はい、知ってます。それは、海鮮スープの一種で、酸っぱくて辛いんです。)」
 彼女は、まずヤエに向かって、
「Thank you.(ありがとう。)」
 と言ってから、私に向かって、
「I see, thank you.(わかりました、ありがとう。)」
 と言って自分の席に戻った。するとそのテーブルではまた、ビールを飲みながらの楽しげな議論が始まった。
 こちらのテーブルでは美世さんが、ヤエと私に向かって羨ましそうに言った。
「いいですね、英語が話せると。どうしたら、そんなにうまく話せるんですか?」
 私は言った。
「矛盾してるようですが、とにかくまず話してみることですよ。さっきの買い物はタイ語でしたが、それと全く同じことです。最初は誰でも話せないんですから、出発点はみな同じなんです。」
 彼女は、なかば感心したように言った。
「なるほど、それはそうですよね。……でも、何を話したらいいんですか?」
 その問いには、ヤエが答えた。
「思ったこと何でもです。例えば、さっき美世さんがあたしに聞いたでしょ?『何語なんですか?』って。それを、あたしにじゃなくて本人たちに尋ねれば、もっと確かな答えが得られますよね?」
 美世さんは、再び感心して言った。
「なるほどー!」
 ヤエは言葉を続けた。
「でも、初対面の人に、いきなりそんなふうに尋ねるのは失礼だから、『失礼ですが、あなたたちはどちらから来られたんですか?』ってな感じで。
あとは、自分の国の人と話すときと同じように、相手に対して思い遣りを持って接すれば、大体うまくいきますよ。」
 ヤエがそう言うと、美世さんは尋ねた。
「それ、英語で言うと、どうなるんですか?」
 ヤエは答えた。
「Excuse me, where are you from?」
 美世さんは、しばらくその言葉を口の中で繰り返していたが、意を決したように席を立つと、隣りのテーブルの先ほどの女性のそばまで行った。そして恐る恐る尋ねた。
「イ、イクスキューズミー、ウェアアーリューフロム?」
 するとその女性は、美世さんに向かって親しげに微笑んでこう言った。
「I came from United States, but I'm French.
And you?」
 美世さんが目を白黒させているので、私は助け舟を出した。
「アメリカから来たけど、フランス人なんだって。『あなたは?』って聞いてるよ。」
 それを聞いた美世さんは、その女性に向かってこう言った。
「ア、アイアム フロム ジャパン。』
 そして、私の方を向いて尋ねた。
「フランス人だけど、今はアメリカに住んでるってことですか?」
 私は微笑んで言った。
「それを本人に聞かなきゃ!」
 美世さんは、「あ、そうか」というような顔をすると、そのフランス女性に言った。
「えーと……、ホワイ、ユー フロム アメリカ?」
 発音は滅茶苦茶で、文法も正確ではなかったが、幸いにして通じたようだ。その女性はこう答えた。
「Because, I'm working in a company in America.」
 美世さんは、私に向かって言った。
「アメリカの会社で働いてるからっていうことですか?」
 私は目を見張って言った。
「そうそう! その調子!」
 その女性は、他の二人の男性と短く言葉を交わすと、私たちに向かって微笑んで言った。
「All right now, have a lunch you and us together?」
 ヤエと私は口々に行った。
「Yes, of course!(はい、もちろん!)」
「It's a good idea!(そりゃいい考えだ!)」
 この雰囲気を察した美世さんは、ヤエに向かって言った。
「一緒にランチを食べよう、って言ってるんですよね?」
 ヤエが微笑んで頷くと、美世さんはフランス女性に向かって微笑んで言った。
「イエス。イッツ インターナショナル ランチ。」
 その言葉で、六人は打ち解けた笑い声を上げた。
 安食堂の利点の一つに、椅子もテーブルも薄っぺらくて軽いので、持って移動するのが容易であるということが挙げられる。私は店のおばちゃんに向かって、「このテーブル二つを引っ付けてもいい?」と身振り手振り交えた英語で尋ねると、それは通じたようで、おばちゃんは「うん」と頷いた。それを見た六人は、各自が椅子を引いて立ち上がると、テーブルの上に乗っているビール瓶が倒れないようにして、二つのテーブルをくっ付け、その周りに椅子を並べ直した。
 奥の面の左の席に美世さんが、その隣の席にフランス人女性が着いた。テーブル左面の席にはヤエが、その向かいの右面の席にはヨーロッパ人男性が着いた。そして、道路を背にして右側の席に黒人男性が、その左隣の席に私が着いた。
 すると、丁度タイミング良く、私たちが注文した料理に続いて、彼らが注文した料理も次々と運ばれて来て、テーブルの上に並べられていった。
 そんな中、先ほどのフランス女性が、私たち三人に向かってアメリカ風の発音で言った。
「My name's Sara.(あたしの名前はサラよ。)」
 それに続いて、三十代前半で栗色の髪をしたヨーロッパ人男性が、若干のフランス訛りで言った。
「My name is Pierre, from France.(僕の名はピエール、フランスから来ました。)」
 続いて、二十代後半と見られる黒人男性が、流暢なイギリス英語で言った。
「My name is Charles, from Mauritius in the Indian Ocean.(私の名はチャールズ、インド洋のモーリシャスからです。)」
 ここで美世さんがヤエの顔を見たので、彼女は美世さんに小声で説明した。
「マダガスカルの東側にある島国。」
 一方、私は続いて自己紹介をした。
「My name's Kakashi, from Japan.(私の名は呵々士、日本からです。)」
 美世さんへの説明を終えたヤエがそれに続いた。
「My name is Yae, from Japan too.(私の名はヤエ、やはり日本からです。)」
 最後に美世さんが言った。
「マイネームイズ ミヨ、フロム ジャパン。」
 一通り自己紹介が終わると、各自食べたり飲んだりしながら英語の会話を弾ませた。
「あなたたちは今、どこへ行くところなの?」
 と私。
「僕はスコータイに行くところだよ。」
 とチャールズ。この国中北部にある古都で、仏教遺跡も多い。
「僕はチェンマイに行くところさ。」
 とピエール。この国北部山間地にある都市で、やはり有名な観光地だ。
 その一方、サラはこう言った。
「あたしはまだ決めてないけど、多分この国の南の島になると思うわ。あなたたちは?」
 それにはヤエが答えた。
「三人ともエカルナ共和国の Kamegashima 。その島を多分あなたたちは知らないでしょう。」
 チャールズが言った。
「エカルナは知ってるけど、Kamegashima ってどこにあるの?」
 その問いに対してヤエが大よその位置を言うと、彼ら三人は知識を総動員してその名称を割り出しに掛かった。ここでおもしろいのが、彼らはフランス語ではなく英語で会話していたことだ。ピエールはあまり英語が得意ではないようだったが、それでも努めて英語で話していた。私たちにその内容がわかるよう、配慮していたのである。
 以前、スイスのフランス語圏に行ったとき、ホテルにチェックインする際、こちらが英語で話し掛けても、フロントの人はフランス語でそれに答えるという奇妙な現象に遭遇したことがあったが、これはそれとは全く逆だ。感動した私は、フランス語圏の人に対してそれまで持っていた偏見を今捨てた。そこで、美世さんとヤエに向かってこう提案した。
「俺たちも彼らに倣って、この席では英語で話そうよ。そう思わない?
We also speek English on this lunch. Don't you think so?」
 その私に向かって、ヤエが微笑んで言った。
「Yes, I think so.(うん、そう思うわ。)」
 美世さんも私の言葉の意味を理解したようで、笑顔でそれに答えた。
「イエス。」
 やがて彼らの議論は決着したようで、サラが私たちに向かって英語でこう言った。
「Kamegashima ってもしかすると、フランス語で『マドレーヌ』っていう島なんじゃないの?」
 ヤエは微笑むと、やはり英語で言った。
「あたしフランス語のことは知らないけど、きっとそうかもね。」
 チャールズが私たちに向かって尋ねた。
「そこには観光で行くの?」
「いや、ヤエと私は公用で。」
 私はそう言ってから、ヤエがその島の出身であることと、私との関係を簡潔に述べた。私が説明を終えると、美世さんが彼らに向かって言った。
「アイアム ピュア ツーリスト(私は純粋な旅行者よ)。」
 その言い方が面白かったので、私たち六人は陽気に笑った。このように訛った発音の英語は、英語を母語とする人には通じないが、そうでない人には意外と通じるものだ。
 その後私たち六人は、ビールや料理を追加注文し、それぞれ自分の母国や旅先での話しに花を咲かせた。私たちが愉快に話していたので、この店の前を通り掛ったドイツ人女性とイギリス人男性の中年のカップル、イタリア人の若夫婦が新たに仲間に加わってテーブルを囲んだ。そしてこの昼食は、なんと夕食にまで延長されたのであった。こうしたことは、バックパッカー同士ではよくあることだ。

 バンコクを飛び立った私たち四人が、南太平洋のエカルナ共和国の国際空港に降り立ったのは、それから二日後の5月1日のことであった。「三人の間違いではないか?」と読者の皆様が疑問に思われるだろうから、私はまずその説明からしておかねばならない。
 バンコクの食堂で、世界各地の人たちと共に語らいながらテーブルを囲んだ翌日の4月30日、レストランで朝食を済ませた美世さんとヤエと私の三人は、国立博物館へ行くために、近くのバス停に立っていた。すると、昨日食事を共にしたサラが、偶然そこを単独で通り掛かった。彼女が私たちに行き先を尋ねたので、私たちはそれに答えてから、一緒に行かないかと彼女を誘ってみた。どこかに行こうとしていた彼女だったが、私たちの誘いに応じて行動を共にすることにした。
 博物館から帰って四人で昼食を共にしているうちに、サラとはより一層親しくなった。すると彼女は、やや遠慮がちな英語でこう言ってきた。
「あなたたちと一緒に、あたしも Kamegashima に行ってもいいかしら?」
 ヤエは嬉しそうに微笑むと、即座に答えた。
「もちろん。」
 町長の娘である彼女が自信を持ってそう言うんだから、美世さん以外の誰かを連れて行っても問題ないんだろう。旅費は、もちろん自己負担してもらうわけだし。
 さて、サラは、はっきり言って美人だった。
『美世さんとヤエだけでも両手に花だったのに、それが三人になると何て言うんだろう……。』
 などという調子のいいことを私が考えていると、すかさずテーブルの向かいの席からヤエの鋭い声が飛んで来た。
「あんた! なにデレーッとした顔してるのよ!」
 私は、ハッと我に返った。
『し、しまった! 感ずかれたか!』
 私は、自分の皿の上のタイ風焼き飯を慌ててスプーンで口に掻き込むと、その口をわざとモグモグさせながらこう言った。
「……いや、その、昼はこれ食べたから、夜は何食べようかなーって。」
 彼女は鼻で笑って言った。
「フン、嘘ばっかし。自分の好きなもの食べながら、別の食べもののこと考える人がどこにいるのよ!」
 彼女には全てお見通しのようであった。
 その日の夕方、サラと約束した時刻に、彼女は私たちの泊まっている宿へ引っ越して来た。私たち三人はそれをフロントに出迎えたが、挨拶が済むと、まずヤエが美世さんに向かってこう言った。
「美世さん、日本語を話せない人と一緒にいれば、わざわざ勉強しなくても、自然に英語が話せるようになりますよ。そのいい機会だから、サラと相部屋になってみては?」
 美世さんは、もっと英語を話せるようになりたいと思っていたのに加えて、「わざわざ勉強しなくても」という言葉が殺し文句になったようだ。彼女は嬉しそうに言った。
「それ、いいわね!」
 次にヤエは、大きな荷物を背負っているサラに向かってこう言った。
「Sra, Miyo hopes room share with you, if you like. Because, it will be practice for the conversation.(サラ、ミヨはあなたと同じ部屋になることを望んでます。もしあなたさえ良ければ。なぜなら、会話の練習になりますから。)」
 サラは、やはり嬉しそうに微笑んでこう言った。
「Oh! It's a good idea! Because, I can get background knowledge about Kamegashima from her, and my room charge is lower.(あら、それはいい考えね! なぜなら、彼女から瓶ヶ島についての予備知識を得られるし、部屋代も安くなるし。)」
 この宿も世間の常識に漏れず、二人部屋を割り勘にすれば、シングル・ルームに一人ずつ泊まるよりも部屋代が安くなる。
 こうして、美世さんの部屋にサラが加わり、ヤエは新たな二人部屋に引っ越して、私はそこに移ることになった。
 フロントの宿帳にサラが名前などを書き込んでいるとき、それを横で見ていたヤエが、なぜか極めて真剣な表情で深く頷いた。このときの私は、「フランス人の筆跡の特徴を見て納得してるんだろう」ぐらいにしか思っていなかったのだが、後になってから、これが極めて重要なことであることがわかるのだ。
 ヤエの部屋へ荷物の移動を終えた私は、その部屋のドアを閉めると、やはり荷物の移動を終えたヤエをベッドの上に押し倒した。そして、それまで溜まっていたキスを思いっきりしまくった……。余談ではあるが。
 というわけで、一行にフランス娘のサラが加わったために、三人ではなくて四人なのである。
 エカルナ共和国の首都近郊にある小さな国際空港に到着した私たちは、早速バスでこの町の港へと向かった。この大よその日付けは、日本を発つ前に出した手紙で、瓶ヶ島に知らせてあったので、そこにはヤエの父ジルと義理の兄のヤジが迎えに来てくれていた。彼らは、ここに繋留している舟の中で寝起きしており、「たった二日待っただけだ!」と言って喜んでいた。これが日本に住んでいる日本人だったら、「二日も待たされた!」と言って怒るところだろう。
 ただ不思議だったのは、私たちの一行にサラが混じっていることに対して、彼ら二人が何も問わなかったことだ。その驚くべき理由も、やがて明らかにされることになる。

島の港  5月2日午後4時過ぎの、珊瑚礁で囲まれた瓶ヶ島。その町の港とそれに隣接する浜には、大勢の人が詰め掛けていた。この島の白浜家の舟が帰還したことを知った町のみんなが、出迎えてくれているのだ。
 舟が港の石垣に横付けされると、その上に並んで立っていた島の子供たちが、一斉に歌を歌い始めた。この島に古くから伝わる「歓迎の歌」なのだそうで、日本の木遣節(きやりぶし)にも似ている。実際に耳にするのは私も初めてのことだ。
 滅多に歌われることのないこの歌は、この島の恩人として讃えられている、故長澤伸三氏の曾孫である、長澤美世さん一人に向けられているものだと、このとき私は思っていたのだが……。
 私たちが舟から港の石垣の上に移動を終えると、貝紫で鮮やかに染められた鉢巻をして日本の小袖によく似た服で正装をしている町長の白浜アミが、出迎えの一行の前に進み出た。そして、美世さんに向かって、まず次のような挨拶を述べた。
「長澤美世様、ようこそこの瓶ヶ島へおいで下さいました。私は町長の白浜アミです、どうぞよろしくお願いします。」
 そして、口調をやや親しげにすると、このように付け加えた。
「娘のヤエと、その夫のカカシが、お世話になっています。」
 それに対して美世さんは、微笑んでこう言った。
「このたびは、お招きいただきまして、誠にありがとうございました。私がここに来れたことを、曾祖父もきっとあの世で喜んでくれていると思います。
ヤエさんと呵々士さんには、私の方がすっかりお世話になってしまっています。こちらこそ、よろしくお願いします。」
 アミは続いて、サラに微笑み掛けてこう言った。
「Welcome to Kamegashima, Miss Sara Cadaboure!
I am a Mayor of this town and Yae's mother, Ami Shirahama. Nice to meet you!
(サラ・カダブレさん、ようこそ瓶ヶ島へ。私は町長、そしてヤエの母の白浜アミです。初めまして。)」
 サラは、少し目を丸くして驚きながらこう言った。
「Nice to meet you, too! Mrs Ami Shirahama.(初めまして。白浜アミさん。)」
 サラ本人も驚いていたようだが、ここへ来る途中で知り合ったばかりの彼女のフルネームをアミが知っていたということに、私も非常に驚いた。そして、その風変わりな苗字が、強く印象に残った。
 そのサラは、横に立っているヤエに向かって、小声の英語で尋ねた。
「私がここへ来ることを、お母さんにどこかから連絡したの?」
 ヤエは微笑むと、やはり英語でそれに答えた。
「いいえ。あなたが知ってる通り、この島には電話も携帯電話もないわよ。」
 それを聞いたサラは、アミの方をチラッと見てから訝しそうに尋ねた。
「それなら、なぜ彼女は私の名前を知ってたの?」
 ヤエはそれに答えようとしたが、アミが私とヤエに向かって微笑んで話し掛けたので、それは中断された。
「お帰りカカシとヤエ。お勤めご苦労さま!」
 私とヤエも微笑むと、口々に言った。
「ただいま、母さん!」
「母ちゃん、ただいま!」
 そのアミに先導されて町へと向かう椰子林の中で、私は先ほどからずっと気になっている何かを思い出そうとしていた。
『Cadaboure……、カ・ダ・ブ・レ?…………』
 以前目にしたことのあるその文字が脳裏に浮かんだ途端、私は思わず叫び声を上げてしまった。
「うわーっ!! 女呪術師クレールと同じ苗字じゃないかーっ!!!」
 木漏れ日を浴びながら私のすぐ横を歩いていたヤエが、その私に向かって意外そうに言った。
「あたしは、Bangkok の食堂でサラの名前を聞いたときからそう思ってたし、彼女が宿帳に名前書いたときにそれを確信したよ。」
 そうだったのか……。それであのときは、一人で何かを納得してたんだな。私は急き込んで尋ねた。
「それじゃ、彼女がこの島に来ることは、前からわかってたことなの!?」
 ヤエは、ちょっと申し訳なさそうに言った。
「そうかー、あんたは知らなかったんだもんね……。
カヤ婆ちゃんが見たんだよ。あんたとあたしが、美世さんと Sara Cadaboure っていう人を連れて島に帰って来る夢を。」
「え!? もしかすると、あのとき婆ちゃんが話してた夢のこと?」
「そうだよ。あのときは、他の二人のことを話さなかったけどね。」
 私は疑問に思ったので尋ねた。
「なんで?」
 ヤエは明るく笑って言った。
「ハハハ! だって、『二人ともヤエより少し美人だからカカシには黙ってな』って婆ちゃんが言ったんだもん。ほんとはあたしより、ずっと美人だったけどね。」
 う~ん、これだから女系社会は困る。私は苦笑いして言った。
「二人でグルになってたな!」
 ヤエは困ったように言った。
「だって、あんたにそんな話ししたら、目の色変えて『ねぇ、どこの誰なの!? いつ会えるの!?』って、煩さくって困るんだもん!」
 クソ! これじゃまるで子供扱いじゃないか! でもよく考えてみると、その推測は正しい。ヤエは私の性格をちゃんと把握しているのだ。やはり、彼女の方が私より一枚も二枚も上手た。とほほ……。
 私はこの問題をこれ以上掘り下げることを放棄すると、気を取り直してこう言った。
「……なるほど。だから美世さんがここに行きたいって言ったときには、俺たちが連れて行くように仕向けたし、サラが同じことを言ったときにも、快く応じたのか。」
 ヤエは微笑んで答えた。
「そうゆうこと。」
 近くを歩いていた美世さんも、この話しに加わってきた。
「なるほど、それでサラの名前を、お母さんはご存知だったのね?」
 ヤエは、それにも微笑んで答えた。
「そうなんですよ。」
 さっき私が大声を出したのと、自分の名前が会話の中に登場してきたので、近くを歩いていたサラがやや心配そうに尋ねた。
「ドシタノ? ダイジョブ?」
 日本語である。バンコク以来、彼女は美世さんと同室になっていたし、私たち四人はずっと行動を共にしていたから、自然に覚えてしまったのだろう。
 私はサラに向かって、やや興奮気味に言った。
「Ami knows about you, by her mother's dreem! That's why she knows youre name already!
And your second name is same as name of a person, who's a character in the old story of this island!
(アミは、君のことを彼女のお母さんの夢で知ってたんだ! だから彼女は君の名前を既に知ってたんだよ! そして君の苗字は、この島の昔話の中に登場する人と同じなんだ!)」
 すると彼女は立ち止まり、目を丸くして驚いた。
「Really!?(ほんと!?)」
 私も立ち止まると目を見張って言った。
「Yes! It's really! 400 years ago, this people met Mrs Cadaboure!(ほんとさ! ここの人たちは、400年前にカダブレ婦人と会ったんだ。)」
 彼女は思わずフランス語で叫んだ。
「Oh lala!」
 フランス人が何かに感動したときに発する言葉である。彼女は続けて日本語で言った。
「スゴーイ! ビックリね!」
 先ほどに続いて、彼女の口からごく自然にこのような言葉が出ることに感激した私は、再び歩き出しながら言った。
「Wonderful! How did you learn those words?(素晴らしい! その言葉どうやって覚えたの?」
 彼女も再び歩き出すと、前を歩いている美世さんの方に微笑んで目配せしてこう言った。
「She's a good teacher for them.(彼女は、そのいい先生だわ。)」
 と言うことは、サラは美世さんと英語ではなく日本語で会話していたのだろう。私は美世さんに向かって、やや残念そうな口調で言った。
「なんだ、せっかく彼女と相部屋になったのに、もしかして英語で話してなかったの?」
 美世さんはこちらを振り向いて立ち止まると、なかば言い訳するように言った。
「ええ、最初は話すようにしてたんですけどね……、朝の『オハヨ、キョモアツイネ(おはよう、今日も暑いね)』から始まって、彼女が積極的に日本語を話すもんだから、ついついそれに甘えてしまって、あたしも日本語で話すようになってしまったんですよ。……その方が楽なんで。」
 前を歩いていたヤエもこちらを向いて立ち止まると、苦笑いしてこう言った。
「どうやら、積極的な方が得したみたいね……。」
 やがて町の広場に着くと、そこでは大勢の人たちによって歓迎の式典の準備がされていた。
 しかしアミは、ヤエと私に向かってこう言った。
「まず、カイ婆ちゃんのお墓に、お参りしてきなさい。みんなにも言ってあるから。」
 そうなのだ。私たちは、網野カイの葬儀に出席できなかったので、せめてお墓には真っ先にお参りしておきたかったのだ。ヤエはアミに向かって言った。
「うん。カカシとも、ここに着く前からそう言ってたんだ。」
 続いてヤエは、美世さんに向かってこう言った。
「これから、カカシと一緒に網野カイの墓参りに行きますけど、美世さんはどうしますか?」
 一方私は、サラに向けて英語で言った。
「ヤエと私は、これからこの島の先々代の町長のお墓にお参りに行くけど、君はここで待っていてもいいんだよ。どうする?」
 すると、二人とも同行したいと言ったので、私たち四人は自分たちの荷物をこの場に預けると、カヤ、アミの他、カイの遺族の者十数名と共に、この町の墓地へと向かった。
 この町に古くから伝わる習慣では、水葬が最も一般的だ。そのため、町を見下ろす高台にあるこの墓地には、墓標が立っているが、その下には、遺髪か遺品が収められているだけだ。故人の遺体は、さまざまな生き物たちに分解されて海を駆け巡り、海鳥の血肉となって大空を飛び回っているのである。
 私たちは、林立している木製の墓標の中で真新しい一本の墓標の前に案内された。そこに墨で書かれた文字は消えかかっていたが、「網野カイ」と辛うじて読むことができた。
 ヤエと私、そして美世さんとサラは、それに向かって手を合わせると黙祷した。その周囲の者も同じようにして黙祷した。私は、長いあいだこの島の精神的指導者の役割を果たしてきたカイを偲んで、その冥福を心から祈った。
 やがて私たちの祈りが終わると、ヤエの祖母であるカヤがポツリと言った。
「カイ婆ちゃんはね、『景子さんはどうしてるんだろうね』って、よく言ってたんだよ。」
 長身で細身のカヤは、いつものように長い白髪を背中の真ん中あたりで一本に結び、白いTシャツと色鮮やかな腰巻を身に着けている。美世さんは、そのカヤに向かって驚いたように言った。
「え!? あたしの母のことご存知だったんですか?」
 カヤは寂しそうに微笑んで言った。
「うん。若い頃夢で見たんだってさ。でも、結局会えずじまいだったねぇ。」
「へー……、それほど思って下さってたんですかー……。」
 そう言った美世さんは、感慨深げにカイの墓標に再び目を移した。私は、その美世さんに向かって言った。
「なんせ、伸三氏のたった一人生き残った血縁者なんですからね。」
 長澤家が空襲にあったときのことは、以前私が渡した資料によってカイは知っている。
 ところがここで、遠慮がちな男の声がした。
「それが……、たった一人違う言うたら、どげんするや……?」
 その場の一同の視線が、その声の主に集中した。それは、長髪で上半身裸という、この町ではよく見掛ける恰好をした初老の男だった。カヤと同世代と見えるその男に向かって、彼女は親しげに言った。
「なんだ、一平(いっぺい)か。びっくりするじゃないか、急に。」
 私は、自分の隣に立っているヤエの腕を肘で軽く突付くと、彼女は私の耳元で囁いた。
カイ婆ちゃんの一人息子!
 その一平がカヤに向かって、やや言いにくそうな口調でこう言った。
「今初めて明かすことなんじゃけどのぅ、実はのぅ……、わし、その長澤先生の息子なんよ……。」
 ためらいがちに出たこの言葉を聞いた途端、その場の一同から悲鳴に近い驚きの声が上がった。
えーーーーっ!!!?
 一平は、やや恥ずかしそうではあるが、しっかりした口調で話しを始めた……。
 太平洋戦争の最中、この島を訪れた長澤教授は、その後カイと密かに恋仲になった。しかし、現役の町長が町民に内緒で、部外者とそのような関係になったということが知れると、その厳しい掟により、町長の役職を剥奪(はくだつ)されるだけではなく、長澤教授も厳罰に処せられることになる。自分のことよりも、むしろ長澤教授が罰せられることを恐れたカイは、この事実をひた隠しにしており、自分が死んでから公表するようにと、一平にだけは言い残していたと言うのだ。
 これを聞き終えたカヤは、大きな目を更に丸くして言った。
「え!? あんたは、漁に出て遭難した茂平次(もへいじ)の子だって聞いてたけど、それは嘘だったのかい!?」
 一平は照れながら言った。
「そうじゃ。こりゃ、母ちゃん一世一代の大嘘じゃ。」
 それを聞いた一同は、溜め息交じりの悲鳴をまた上げたが、カヤは気を取り直したようで、普段の顔に戻ると、冷静な口調でこう言った。
「なるほど、そういうことだったのか。そう言われてみると、確かにそうだろうね。
長澤先生がまだこの島におられた頃に、あんたは生まれてるんだし、そのときあんたは先生から特に可愛がられてたってことも聞いてる。それとは逆に、茂平次とカイ婆ちゃんが付き合ってたなんてことは誰も聞いたことがないのに、いきなりあんたがその子だって言うんだからねぇ……。
年寄り連中の中には、いまだにそのことを不思議がってるもんがいるよ。」
 一平は、軽く笑って言った。
「ハハ、そうじゃ。そんときたまたま、そげなもんおってくれたけん、なんとかなったんじゃろう。」
 カヤはホッとしたような、呆れたような複雑な表情で言った。
「いやー、すっかり騙されたよ。カイ婆ちゃんも、あれでなかなかやるじゃないか!」
 それを聞いたその場の一同から、暖かい笑い声が上がった。
 確かに、当時のカイのことを知る者には、日本の「大本営発表」の嘘を批判していた彼女が、そのような隠し事をするなどとは、全く思いもよらなかったのだろう。だからこそ、茂平次の子だということに疑問を抱く者はいても、それが長澤氏の子ではないかというところまで疑ったりする者は誰もおらず、60年以上経った今日までそれがバレなかったのだ。
 そう思った私は、その場の一同に向かってこう言った。
「でも、国民を戦争に繋ぎ止めておくような嘘ならともかく、こういう嘘ならまだ許せますよね、誰に迷惑が掛かってるわけじゃないし。」
 アミが微笑んで言った。
「カイ婆ちゃんも、きっと今頃あの世で笑ってるよ。」
 それを聞いた一同は再び笑った。しかしカヤは、やや真剣な表情になると一平に向かってこう言った。
「……ということはだよ。あんたにとって、この美世さんは親戚になるんじゃないか。そして……。」
 カヤの視線が注がれた先には、カイの遺族十数名が並んでいる。
「あんたたちだって、そうなんじゃないか。」
 カヤがそう言うと、その中の中年女性の一人が一平に向かって不満気に言った。
「父ちゃん、それならもっと早く言ってくれても良かったのに!」
 他の遺族たちも口々に言った。
「そうじゃ!」
「そうよ!」
 それに対して、一平は申し訳なさそうに言った。
「すまんすまん。母ちゃん死んでからすぐに言うてもええかったんじゃろうけどのぅ、もっとええ雰囲気のときに言うた方が母ちゃんも喜ぶ思うてのぅ。サチヨだけには言うとったんじゃけんのぅ……」
 すると親族の中の一人の初老の女性が、黙って微笑み頷いた。その年齢から察するに、彼女は一平の妻なのだろう。
 なるほど。単にカイの秘密を公開するというよりも、伸三氏の曾孫の歓迎式典ムードのときにそれを明かす方が、カイのその行為の印象は格段に良くなるはずだ。これは母親に対する、その一人息子の暖かい思い遣りだったのだ。
 そのことを理解した遺族たちは、それまで緊張させていた表情を和ませた。その中の一人の若者に向かって、カヤはこう言った。
「あんた、美世さんとは丁度同じくらいの歳になるんだよね。」
 私がまたヤエの腕を突付くと、彼女は囁いた。
……一平の孫の新吉(しんきち)、新平(しんぺい)のいとこ!
 新平とは、近頃オーストラリアの大学に留学した若者のことだ。
 一同の視線が集中した新吉は、逆にみなを見回しながら照れて言った。
「そげに見よるなや。恥ずかしいぞ!」
 そのとき、たまたま美世さんと視線が合ってしまった彼は、そのまま動かなくなってしまった。一方美世さんは、まるでその照れ隠しのように、遺族たちに向かって頭を下げて挨拶した。
「どうぞよろしく、お願いします。」
 遺族たちも、それに答えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
 その後、美世さんの視線が、それとなく新吉に注がれた。新吉は頬を染めて美世さんから視線を外すと、わざとぶっきらぼうにこう言った。
「あんた、いつまでおるん?」
 美世さんも頬を染めると、小さな声で言った。
「多分、あさってまでです。」
 二人の会話はたったこれだけだったが、これが二人にとってどういう状況となったのかは、鈍感なこの私にでもよくわかった。
 このようにして、墓参りの後の予想外の出来事があった私たちは、がやがやと互いに雑談を交わしながら町の広場へと引き返した。その道すがら、私は何とも言えぬ気分になっていたので、それが何なのかを探るために、心の中で自問自答していた。
『美世さんがああなってしまうことに対して、俺は嫉妬しているのか?』
『いや、違う。新吉は彼女の遠い親戚だが、恋の相手として問題ないと思う。』
『それじゃ、それを喜んでるのか?』
『いや、それも違う。彼女を取られたような気分で寂しい。』
『お前の妻は、ヤエなんだぞ。』
『それはわかってる。でも、やっぱり寂しい。』
『贅沢な奴だなぁ、お前!』
『仕方ないだろう。好きなものは好きなんだから。』
 その私の思考の中に、いきなりヤエの声が割り込んで来た。
「ちょっと、あんた何考えてるのよ!」
 我に帰った私は、飛び上がって驚いた。
わーっ!!
 声のした方を見ると、私の横を歩いている彼女は、不審そうに私の顔を覗き込んでいる。私は作り笑顔で言った。
「事実が明らかになって、よ、良かったね、ハハハ。」
 一方彼女は、真剣な表情で言った。
「そうそう。それもあるし、これにて一件落着。」
 最後の文句は、昔のテレビの時代劇でのラストシーンの決まり文句で、私がよく使うため、彼女もそれに影響されているまでのことだ。だが、「それもあるし」ということは、他にも何かあるということだ。
 どうやら彼女も、美世さんと新吉が互いに惹かれ合っていたことを見抜いていたようだ。それによって私が美世さんに対して抱いている気持ちに、終止符が打たれると判断したのだろう。少なくとも今の私には、そう思えた。
 私たちが広場に着くと、丁度式典の準備が整ったところのようだった。
 この町周辺の椰子林の中では、無数の鳥がさえずっており、西の海の上に輝いているオレンジ色の夕陽が、その隙間からちらちらと見え隠れしている。
 やがて、広場に集まった千人ほどの人々全員が、二人の賓客と役員を前にして席に着いた。すると、役員席の中から一人の美しい娘が立ち上がって前に進み出た。歳はヤエと同じくらいだが、彼女より少し小柄で色はそれほど黒くなく、しなやかな栗色の髪をいている。その娘が役員席の前に設けられている演台に立つと、それまでざわついていた会場が静まった。彼女は、そちらに向かってよく通る声でこう言った。
「皆さん! 先ほど日本在住のカカシとヤエが、大事な二人のお客様を無事にお連れしました! これより、その歓迎会を始めまーす!」
 会場は盛大な拍手の音で包まれた。
 私の隣りの席に座って拍手しているヤエの方を私がちらっと見ると、彼女はそれに気が付いたようで、前半はサービス精神、後半は釘を刺すような鋭い口調でこう言った。
「あれが、婆ちゃんが手紙に書いてた次の町長候補の北浜ナツミ。
結婚相手は、もう決まってるんだからね!」
「はいはい。わかりました。」
 私は苦笑いしてそうは言ったが、内心では『なるほど』と納得していた。
 彼女の顔は、私が以前この島に滞在していたとき何度か見ていて覚えている。それは、ナツミが美人だからというだけではない。何かこう一言では言い表せぬ、人を惹き付けるような魅力があるのだ。今の日本で言うならば、カリスマ性と言うことになるのだろう。カイにしてもカヤにしても、そして現町長のアミにしても、少なくとも私の知る限り、ここの歴代町長は、いずれもみなそれを持っている。外見は二の次だ。
 会場の拍手が鳴り止んだところで、そのナツミが役員席に向かって言った。
「それではまず、町長からの挨拶です。」
 席から立ち上がって演台に赴いたアミは、ナツミと交代してその上に立つと、一般町民に向かってよく通る声でこう言った。
「みなさん、今日はこの島の歴史に残る日となりました。それは、この島ゆかりのお客様をお迎えすることができたからです。
お二人と共に、この時を楽しく過ごさせて頂きましょう。」
 アミが一礼すると、会場からは再び拍手と歓声が湧き起こった。町長が台から降りて会場が静まると、ナツミは賓客席に座っている美世さんに微笑みかけてこう言った。
「長澤さん、初めまして。私は、今回司会を勤めさせて頂く北浜ナツミと申します。よろしくお願いします。
どうぞこちらへ。」
 彼女は次に、その隣の席のサラに向かってこう言った。
「I am a emcee of this party, Natsumi Kitahama. Nice to meet you, Miss Cadaboure.
This way, please.
(初めましてカダブレさん。私は、このパーティーの司会者、北浜ナツミと申します。こちらへどうぞ。)」
 そしてナツミは、二人の賓客と共に演台に上がると、会場に向かって元気良く言った。
「それでは改めてご紹介します。長澤美世さんと、Miss Sara Cadaboure です!」
 その言葉によって、会場には再び盛大な拍手と歓声が鳴り響いた。
 それが静まると、ナツミは美世さんに言った。
「それでは、一言ご挨拶をどうぞ。」
 美世さんは、やや緊張した面持ちになると、目の前に座っている大勢の一般町民に向かって言った。
「みなさん、初めまして。ただ今ご紹介にあずかりました、長澤美世と申します。」
 彼女が一礼すると会場の人々は、拍手によってそれに応じた。会場が静まったところで、美世さんは挨拶を続けた。
「以前、曾祖父がこの島でお世話になっていたご縁で、私がここに招待して頂いたことを深く感謝しますと共に、このような会まで催して頂き、まことにありがとうございます。
どうぞよろしくお願いいたします。」
 その声は、あまり大きくなかったが、この広場にはよく通った。挨拶が終わって彼女が一礼すると、会場には再び大きな拍手と歓声が鳴り響いた。それが静まると、ナツミはサラに向かって言った。
「Please give some messages for them, if you have.
(人々にメッセージをお願いします、もしあれば。)」
「All right.(いいですよ。)」
 ナツミにそう言ったサラは、一般町民に向かってややはにかみながら微笑むと、流暢なアメリカ英語でこう言った。
「みなさん、今日はこのような歓迎会を開いて下さり、本当にありがとうございます。観光でこの島に来たはずの私ですが、自分の人生を変えるような、素晴らしい出来事があることを予感しています。」
 この国の公用語はイギリス英語だが、彼女はわかり易い言い回しで言ったので、この町の小学生以上なら誰もがこれを理解できたはずだ。彼女が一礼すると、会場には再び割れんばかりの拍手と歓声が鳴り響いた。
 賓客と司会がそれぞれ自分の席に戻って座ると、町民一同が座ったままで瓶ヶ島の歌を歌った。

故郷(ふるさと)遥(はる)か遠く 闇の波間を漂(ただよ)い
今宵(こよい)は月の浜辺 流離(さすら)う浜茄子よ
風 梅の香(か)運び 山の根雪溶かす頃
砂に抱(いだ)かれ安らげば 芽を出(い)だす時来たれり

日の光 時を超え その葉に慈(いつく)しみ注げば
日の如き 明(あか)き実を 稔らすは浜茄子

そよそよ風に吹かれ 故郷の浜の空に
ゆくゆく巡り来たる 妙(たえ)なる芽を出だす時よ
ゆらゆら波に揺られ 故郷の浜の砂に
ゆくゆく帰り来たる 愛しき浜茄子よ
愛しき浜茄子よ

 私は歌いながら思った。
『ゆらゆら波に揺られ 故郷の浜の砂に ゆくゆく帰り来たる 愛しき浜茄子よ……か。双美ヶ島に400年ぶりで帰ったヤエが、正にそれそのものだよな……。』
 歌が終わると、夕闇に包まれた会場のあちこちには次々と明かりがともされていった。
 薄青いガラス瓶を持ったアミが賓客席の前に来て膝を着くと、まず美世さんに向かって、その中の焼酎をお酌しながらこう言った。
「長澤さん、つたない料理と飲み物ですが、どうぞ心ゆくまでおくつろぎ下さいね。」
 美世さんは、椰子の実でつくられた器でそれを受けると、笑顔で応えた。
「ありがとうございます。頂きます。」
 アミは次に、サラにも同じようにしてこう言った。
「Please enjoy this party, Miss Cadaboure.」
(どうぞパーティーをお楽しみください、カダブレさん。)
 サラもやはり自分の器に焼酎を受けながら、笑顔で応えた。
「Thank you verry much, Mrs Shirahama.」
 やがて、一般町民の方でも飲食が始まった。
 この島特産の焼酎は、ヤエが美世さんへのメールにも書いていた通り、慶長年間から伝わっている伝統的な製法によるものだ。また、その原料は主にこの島特産の細長い米である。そのため、日本の米焼酎や沖縄の泡盛(あわもり)とは、また違った味わいがある。
 料理がまた多彩だ。その中には、400年前の日本やスペイン・ポルトガルの料理を知る上で、貴重な資料となるような物から、中国風、インド風、西洋風といったように、実に変化に富んでいる。私は、自分の結婚式のときにそれらを食べていて既に知っているが、美世さんは一つ一つ味わって感動しながら食べていた。
 サラはサラで、目の前に並んでいるそれらの料理を見渡しながら英語で叫んだ。
「これは、料理の万国博覧会だわ!」
 そのジョークを聞いたその場の一同は、みな陽気に笑った。
 歓迎会の出し物としては、まず60年余り前にこの島に滞在していた長澤伸三氏についての実話だった。これは、語り部である白浜カヤが演台の上に座って語り、ヤエがそれをサラのために英語に同時通訳して聞かせた。
 当時のカヤ本人はまだ幼なかったので、伸三氏のことを実際にははっきりと覚えておらず、この話しは彼女の先代の語り部であるカイから伝え聞いたものだ。しかし、カヤの夫の三吉は当時既に青年だったので、はっきりしたことをいろいろと覚えている。飛び入りでカヤの横に座った彼が、話しの合い間に補足を加えたので、この町の正史を語るときには聞けぬ逸話も数多く聞くことができた。
 この話しが始まると、美世さんは自分の荷物の中から慌てて何かを取り出した。デジタルオーディオだ。なるほど、これに録音しておけば、日本に帰ってから、伸三氏の娘である彼女のお母さんに聞かせてあげることができる。故伸三氏を今でも慕い続けているお母さんにとっては、それが何よりのお土産になることだろう。
 続いて、約400年前にヒミカ、麗鈴(リーリン)、妙(たえ)という三人の少女がヨーロッパ視察に訪れた際、フランスで出会った Claire Cadaboure(クレール・カダブレ)との間に交わされた会話などの抜粋を、カヤは英語で語った。サラに聞いてもらうためだろう。ヤエがそれを日本語に同時通訳して、美世さんにも聞かせた。
 賓客の二人の女性は飲食をしながらも、それぞれの話しをとても興味深そうに聞いていた。美世さんの場合は、ある程度の予備知識があったものの、聞くのが初めてのサラの驚きようは、それはもう大変なものだった。
 二つ目の話しを聞き終えたサラは、何かを確信したかのような面持ちになると、自分のすぐ後ろの席に座っているヤエに向かって、やや興奮した口調の英語で言った。
「ねぇヤエ、あたしにも皆さんの前で話しをする機会を作って貰えるかしら?」
「いいわよ。」
 快くそれに応じたヤエは、近くの席に座っていたアミに向かって言った。
「ねぇ、町長。Sara が皆に話しをしたいって言ってるけどいいかな?」
「もちろんよ。」
 アミも快くそう言うと、司会を休憩して飲食をしていたナツミに向かって言った。
「ナッちゃん、サラさんがみんなに話したいそうだから、そう言ってくれないかな。」
「ん、いいよ。」
 快くそう言って席から立ち上がったナツミは、演台に立って会場を見渡した。すると、それまで賑やかだった会場は、司会が何か言おうとしていることを察して徐々に静まっていった。静かになったところで、ナツミはこう言った。
「皆さん、ここで Miss Cadaboure から、お話しがあるそうです。
This way, please. Miss Cadaboure.(カダブレさん、こちらへどうぞ。)」
 サラに向かってそう言ったナツミは、彼女を演台に誘導した。
「Thek you.」
 ナツミに向かってそう言って再び台の上に立ったサラは、町民の方を向くと英語で語った。
「さきほどのミセス・カヤ・シラハマのお話しは、私にとって大変興味深いものでした。その中でも特に印象に残ったのは、400年前にあなたがたのご先祖がフランスで会った人物の苗字と、この私の苗字が同じだったということです。そして、それは偶然ではないと私は思います。なぜなら、ミヨ、ヤエ、カカシとバンコクで出会ってからというもの、それまで知らなかったこの島に、まるで魔法の絨毯(じゅうたん)に乗せられたようにして来れたからです!」
 このジョークに、会場からは笑いが起きた。それが静まるとサラは話しを続けた。
「このようなことは、とても素晴らしいことだと思います。そこで私の方からも、あなたがたに情報を提供したいと思います。まず、私の家は現在フランスの首都パリにありますが、前世紀の初めまではプロヴァンスにあったと、祖母が言っていました。」
 彼女のその言葉を聞いた途端、会場から小さなどよめきが起きた。クレール・カダブレはプロヴァンスの人だということを、この町の人はみな知っているからだ。サラは話しを続けた。
「そして私の苗字、この『アブラカダーブラ』みたいな……」
 彼女はそう言って、魔法を使うような手付きをして見せたので、その可愛らしいジョークに会場からは再び笑いが起こった。
「……は、フランスではとても珍しい苗字なんです。昔は本当に魔法使いだったのかも知れません。なぜなら、家には変わった言い伝えがいくつかあるからです。」
 彼女はここで何か意味ありげに微笑むと、会場に向かって話しを続けた。
「私の家に古くから伝わる言い伝えの一つに、このようなものがあります。
……東から三人の女の子が来たら家に上げてご馳走しなさい……。」
 それを聞いた途端、会場は再びどよめいた。その言い伝えが、この島に残っている伝承の一場面、即ちヒミカたち三人の少女がクレールの家に招かれたという場面に符合していることを、多くの者が直感したからだ。会場が静まるとサラは話しを続けた。
「そして、このような言い伝えもあります。
……お巡りさんに捕まったときには、東の空に向かって『イミカ助けて』と言いなさい……。」
 その言葉が終わる間もなく、会場は騒然とした。アルファベットの「Himika」という綴りは、フランス語の発音だと「イミカ」というふうに聞こえる。そのことを知っているこの町の人々は、それが紛れもなく自分たちの先祖「ヒミカ」のことであるという確信を持ったのだ。そして、このサラという娘は、約400年前にヒミカたち三人の少女が会った、クレールの子孫であるということも確信した。
 すると会場の騒ぎは、大きな歓声と拍手に変わっていった。サラもそれに満足したようで、一礼すると台を降りて自分の席に戻った。そのサラに向かって、役員席のヤエが興奮して言った。
「サラ! やっぱりそうだったのね!」
 サラの隣りの席の美世さんも、興奮して日本語で言った。
「サラ! すごーい!」
 席に座ったサラも嬉しそうに日本語で言った。
「アタシノコトシッテタ アナタタチ モットスゴーイヨ!」
 そして、英語で言葉を続けた。
「今まで何の意味も持たない暗号のようだったさっきの言い伝えに、ちゃんと意味があったってことが、これでよくわかったわ。手紙を書いて家族に知らせなきゃ!」
 私も興奮して英語で言った。
「こりゃ、時間を超えたパーティーになってきたぞ!」
 それを聞いたその場の一同から笑い声が上がった。
 その後、長澤教授と網野カイが秘密裏に結ばれていて、自分はその二人の間の子であるという話しを演台に座った網野一平が披露すると、その話題で更に盛り上がったこの宴会は、夜更けまで続いた。
 ヤエと私には、白浜家の母屋(おもや)にある元のヤエの部屋が、美世さんとサラには母屋の中の空いている一室が提供された。

 元から大家族のこの家であったが、私たちが訪れたために更に賑やかになった。
 この母屋の裏にある広々とした縁台の中央には、細長い食卓が置かれてあり、いつものようにそこで朝食が始まっていた。
 学校へ行く子供たちと勤め人は早々と食事を済ませ、それと入れ替わるようにして起きて来た、長旅と昨夜の宴会でやや疲れているサラ、美世さん、ヤエと私の四人がそこに着いた。いつものように、この島名物の黄雀(きすずめ)数羽が、その上の食べこぼしのご飯などをついばんで回っている。
 椰子の葉で編まれた敷き物の上に胡坐をかいて座ると、私たちは自分の取り皿に野菜の煮物などのおかずを取った。この家の家長であるカヤが、私たちのご飯茶碗に、飯をよそってくれている。
 朝食が目の前に揃うと、私たちは口を揃えて言った。
「頂きまーす!」
 このような日本の習慣にすっかり慣れ親しんでいるサラも同じように言った。美世さんが彼女に向かって日本語で尋ねた。
「フランスでは、食べる前にこういうことする習慣あるの?」
 サラは、英語交じりの日本語でそれに答えた。
「Christ(クリスト)キョウノヒト ト Mohamet(モハメット)キョウノヒト シテマスね。」
 そして、ヤエに向かって早口でこう尋ねた。
「……Oh, how can I say "a grace for God" in Japanese, Yae?(ヤエ、『a grace for God』って、日本語でどう言えばいいの?」
 ヤエはそれに答えた。
「神への祈り。」
 サラは再び美世さんの方を向いて言った。
「カミヘノ イノリデス。」
 美世さんは微笑んで言った。
「なるほど、わかりました。
『クリスト教の人』を日本では、『キリスト教徒』って言って、『モハメット教の人』は『イスラム教徒』って言うんですよ。」
「キリストキョウトと、イスラムキョウトね。ワカリマシタ、アリガトウ。」
 そう言ってサラも微笑んだ。
 欧米人では特に珍しいことではないのかもしれないが、とにかく彼女の語学力は驚異的だった。わからない単語があれば、会話の途中であってもこのようにして誰かに尋ねるし、間違えるということに対して日本人のように感傷的ではない。だから、恥ずかしがらずにどんどん喋ってどんどん上達する。その熱意に感激されて間違いを正してもらえるから更に上達する。
 食事を終えたカヤは、茶を入れながら微笑んで言った。
「それにしても、サラの家の言い伝えには驚いたね。『ヒミカ』っていう名前が入ってるんだもん。」
 サラはこの言葉の意味をちゃんと理解したようで、やや恥ずかしそうに微笑むとこう言った。
「オトサン オカサン ノ オカゲよ。」
 ヤエの姉のカエが、子供の食べた後の食卓の上を拭きながら言った。
「そうかー。意味がわからなくなっても、それをずっと言い伝えてたんだからね。この町でも見習わなきゃ。」
 私は興味深く尋ねた。
「この町に、そういう言い伝えってあるの?」
 すると、カヤが微笑んで言った。
「山ほどあるよ。」
「例えば?」
 私がそう尋ねると、それにはヤエが答えた。
「あんた、この町の歌知ってるでしょ?」
 私は目を見張って言った。
「あっ、そうか。あの歌だけでもそうだもんね。表向きの意味と、その裏の意味と二通りありそうだから。」
 カヤたちは微笑むと黙って頷いた。サラが怪訝そうな顔をしているので、カエが彼女に向かってその歌を流暢な英語に訳して聞かせた。カエにはヨーロッパ人の血が濃く流れているようなので、そのありさまを見ていると、同じ国の人同士で話しているように見える。
 それを聞き終えたサラが尋ねた。
「What is Hamanasu?(ハマナスって何?)」
 それには、カヤの夫でヤエの祖父であり、この町の最高齢者の一人である三吉が、朝食後の焼酎(!)を飲みながら流暢な英語で答えた。
「"Hama" means a beach, "Nasu" means a pear. So, "Hamanasu" means a beach-pear.(ハマの意味は浜、ナスの意味は梨(なし)、だからハマナスの意味は、浜の梨なんだよ。)」
 今の日本でハマナスを漢字で書くと「浜茄子」になる。しかし東北地方では、標準語の「す」と「し」の発音が入れ替わることは珍しくない。そのため、三吉の説にはかなり説得力がある。
 カエも英語で言った。
「そうみたいよ。あたしも写真で見ただけだけど、日本の北部の砂浜に生えてる植物で、花と実が赤くてきれいなの。ちょっと待っててね。」
 彼女はそう言って立ち上がると、家の中に入って行った。私はサラに向かって英語で説明を加えた。
「花は5月に咲いて、実は8月になると赤く熟する。根っこからは染料が取れるんだ。」
浜茄子の花
浜茄子の実
 カエは戻って来ると、数枚の写真をサラに手渡した。それは以前私が撮ってこの家に送ったものだ。サラはそれを見るなり目を見張って言った。
「オー! キレイね!」
 美世さんが言った。
「でも残念なことに、北の海でしか育たないんだって。」
 サラは微笑んで言った。
「France ノ キタノウミナラ タブン ダイジョブヨ。」
 私も微笑むと日本語で言った。
「おー、あの辺なら多分育つだろうね。」
 ヤエが不審そうに、やはり日本語で言った。
「『あの辺なら』って言うと、まるであんたがそこに行ったことあるみたいに聞こえるよ。」
 私は、やや真剣な表情になって言った。
「行ったことあるからそう言ったんだよ。子供の頃、妹と一緒に母親に連れられて観光でね。白い崖のドーバー海峡を船で渡ったよ。」
 察しの早いカヤが言った。
「あんた子供の頃、Middle East(中近東)に住んでたって言ってたもんね。そっから行ったんだろう?」
 私は微笑んで言った。
「さすが婆ちゃん! そのとおりです。」
 美世さんが感心したように言った。
「へー! 田野さんって、ほんとにいろんなとこに行ってるんですね!」
 私は苦笑いして言った。
「そのお陰で、こんなわけのわからん人間になってしまったんですよ。」
 カヤが私に向かって、やや真剣な顔で言った。
「冗談はさておき、あんた、話しの方の準備はできてるのかい?」
 彼女の言う「話し」とは、私がこれから町民集会で発表することになっている、日本の現状についての報告であった。私は困ったようにわざと眉を寄せて言った。
「婆ちゃん! せっかく忘れてたのに思い出したじゃありませんか。あー、緊張する緊張する!」
 ヤエが苦笑いして言った。
「あんた、そう言ってるわりには、なんだか嬉しそうじゃないの。」
 私は、肩をぐるぐるっと回しながら、しみじみと言った。
「『嬉し恥ずかし』とは、正にこのような心境のことを言うんだろうねぇ。」
 カヤも苦笑いして言った。
「何馬鹿なこと言ってんだよ!」

 午前10時。その緊張する町民集会が町の広場で始まった。
 冒頭、椰子の葉で編んだ陽除けが掛けられている演台の上で町長のアミが簡単な挨拶を済ませると、私は彼女と場所を入れ替わって演台に立った。一般町民席には、子供も含めて千人近い人が石畳の上に莚を敷いて座っている。こんなに大勢の人を前にして話しをするのは、生まれて初めてのことなので、私は最初かなり緊張して挨拶した。
「えー、み、みな様。お、おはようございます。」
 すると会場には、老若男女の元気な声が響き渡った。
おはようございまーーーす!
 その屈託のない雰囲気のお陰で、私の緊張はかなりほぐれた。
 私の言葉を、やはり日除けが掛けられている役員席のヤエが、その前の席に座っているサラに向かって英語で同時通訳している。
 私は話しを始めた。
「ただ今町長の方から、ご紹介に与(あずか)りました通り、ヤエと共に日本で収集した主な情報をこれより報告致します。
さて、あれだけ大きな国のことですから、その現状を要約して言うことはほとんど不可能に近いことです。ですので、これより私が述べることは、その大きな流れの要約としてお聞き下さい。」
 会場からは、パラパラッという拍手の音がしたが、それはすぐにやんだので、私は話しを続けた。
「まず第二次世界大戦が終わってから、日本の人の多くは、人の営みを機械と同じように捉えてきました。つまり、新しい機械は常に進歩しているので、人類の営みもそれと同じように進歩し続けているという錯覚に陥ってきたのです。
要するに、人間の欲望をかなえるための便利な機械がこの世に増えれば、それだけ地球の自然環境が破壊され、人間自体も堕落して健康を害するという、厳然たる事実を直視していなかったということです。」
 ここで、カヤの声が背後から聞こえた。
「おい、カカシよ。」
 私がそちらを振り向くと、役員席からカヤが苦笑いしながらこう言った。
「せっかく話しを始めたところで悪いけどさぁ、子供も混じってるんだから、もうちょっと簡単な言葉と言い回しで頼むよ。」
 私は、やや恐縮して言った。
「それはおっしゃる通りです。改めます。」
 私は一般町民の方に向き直ると話しを続けた。
「……そのような考え方に対して近頃では、『これでほんとにいいのか?』と思う人が増えてきました。しかし、間違いを明らかにすることはできても、どうすればいいのかということになると、誰も決め手となるようなことを言えません。
結論から言ってしまうとそれは、今の文明その物に根本的な欠陥があるということを、多くの人が認めたがらないからです。」
 私はここでやや口調を改めた。
「……さて、前置きがやや長くなりましたが、今そのような国で起こっている、様々な事件や社会現象の数々をこれから要約して述べようと思います。」
 その後私は、途中に小休止を挟んで延々2時間近くにわたり、日本の現状を報告した。
 それを終えた私が演台を降りて役員席に戻っても、会場はシーンと静まり返っており、誰も一言も喋らなかった。葬式のときの方がまだ賑やかだ。本来なら元気のいいはずのこの島の人々をこのようにさせたのは、もちろん私のした報告の内容のせいだった。年間3万人を超える自殺者がいること。崩れていく家族関係。学校での陰湿ないじめ。食品会社の相次ぐ不正等の話しを聞かされて、元気が出る者など誰もいないだろう。
 町長のアミが席から立つと、まず私に向かって言った。
「カカシ、報告ご苦労さまでした。」
 そして、演台に立って一般町民を見渡すと、彼女は良く通る声でこのように言った。
「短波放送で知ってることもあったけど、今の日本は、あたしたちが思っていたよりもずっと危機的な状況にあることがわかりました。
それではここで気分を変えて、昼食を食べながら、どうしたらいいのかをみんなで話し合ってみることにしましょう。」
 彼女が食事係の者に合図すると、賓客席をはじめとするこの会場の人々に、飲み物や食べ物が次々と配られていった。それによって町民たちは、ようやくいつものようなガヤガヤという賑やかさを取り戻した。
 演台から戻って来た町長のアミが、私が持っている椰子の実で作られた器の中に、ガラス瓶に入った焼酎を注ぎながら、真剣な口調でこう言った。
「改めてご苦労さま。」
 私はそれを受けながら、やはり真剣な口調で言った。
「平均すると暗い内容になってしまいましたが、これが現実なんです。」
 アミは言った。
「あんたたちからの手紙で、薄々はわかってたことだけどねぇ……。
ヤエもご苦労さま。」
 彼女はそう言って、自分の娘の器にも焼酎を注いだ。ヤエもそれを受けながら言った。
「この島での婆ちゃんとカカシの話しを聞いてて、ある程度覚悟はしてたけどね。でも行ってみて、こんなにひどいとは思わなかったよ。」
 ヤエの隣りに座っていたサラの器にも焼酎が注がれた。サラはそれを受けながら言った。
「アリガト ゴザイマス。」
 美世さんも焼酎を受けながら言った。
「あ、どうもすみません。」
 焼酎を一口飲んでから、サラが美世さんに向かって尋ねた。
「ニッポン ダイジョブ?」
 美世さんも焼酎に口を付けてからそれに答えた。
「……危ないのよ。」
 サラが尋ねた。
「Abunai ッテナニ?」
 私も焼酎を一口飲んでから、それに答えた。
「……"Abunai" means dangerous.(『Abunai』は、『危ない』っていう意味だよ。)」
 サラは、心配そうに眉を寄せて言った。
「オー、ニッポン アブナイね。」
 美世さんは、そのサラに向かって尋ねた。
「……フランスはどうなの?」
 サラは、困ったようにちょっと顔をしかめてから言った。
「フランスモ アブナイね。デモ、チガウ アブナイよ。」
 美世さんが尋ねた。
「フランスは何が危ないの?」
 サラは、それには英語で答えた。
「There are some problems between immigrant people and government. So, sometimes that people burns some cars on the street.」
 ヤエがそれを美世さんのために訳した。
「移民の人たちと政府との間に、いくつかの問題があるんだって。だから、その人たちが路上で車を燃やすこともあるんだってさ。」
 美世さんは深刻な表情になって言った。
「そう言われると、前にニュースで見たことがあるわね。でもそれは、今の日本にとって最も危ないこととは確かに違うわ。」
 私たちは飲み食いしながら議論を始めた。
「日本の場合は、自分で自分の首を絞めてるようなもんだからね。」
 私がそう言うと美世さんが言った。
「そうですよね。自分の国で作ってる食べ物や、将来を担ってる子供たちの安全を脅かすことは、自分の首を絞めてるようなものですから。」
 私は言った。
「例えば、」
 そして、器の中の焼酎を飲んでから、英語でこう言った。
「……日本には、こういう伝統的な飲み物で、サケ(酒)ってのがあるけど、アルコールや糖類をブレンドした偽物が数多く出回ってる。」
 ヤエがこれをサラのために英語に訳すと、サラは目を見張って言った。
「ソレ フランスニハ ナイコトよ。」
 そして、冷ややかな笑みを浮かべて、ゆっくり首を横に振りながらこう言った。
「フランスに traditional(伝統的)ノミモノ『ヴァン』アルケド、ソイウノ マゼタモノ、『ヴァン』イワナイね。」
 ヴァンとは、フランス語でワインのことだ。
 私は頷いて言った。
「そうだろ? 日本では、こういう小さな嘘から始まって、食品業界はインチキだらけなんだ。」
 美世さんが言った。
「フランスの人、キリスト教徒とかイスラム教徒とか、宗教信じてる人多いでしょ? そのせいよきっと。」
 その言葉の意味はサラにもわかったようで、彼女はこう言った。
「アタシモ ソウオモウ。シュウキョウシンジテルヒト、ウソツクト シンデカラ hell(地獄)イクッテ シンジテルね。」
 私は言った。
「俺たち日本人、一応仏教徒ってことになってるけど、昔みたいにお寺でお坊さんの話しを聞く人、今ではほとんどいないしね。」
 これをヤエが訳すと、サラはこう言った。
「フランスモ ムカシヨリヘッタね。デモマダ Sunday(日曜)ニ Church(教会)イクヒトイルよ。」
 若者たちのこのような議論を、それまで黙って聞いていたカヤが言った。
「あんたたち、大事な話しをしてるね。
……そうだよ。人間はそれまで天地自然を神の御業(みわざ)として恐れ敬ってきた。 それでまだ、『地球の意志』から外れることがなかったんだろう。
ところが、科学が発達して自然の仕組みが解明されていくと、今まで恐れられていた自然現象の原因が明らかになってきた。例えば、雷がなぜ落ちるのかとか、地震がなぜ起こるのかとかね。」
 私はカヤに向かって確認するように言った。
「要するに、それまで神様の仕業と思われていたものが、実は物理的なものであったと?」
 それに対して彼女はこう答えた。
「いや。厳密に言うならばちょっと違うね。地震や雷などを引き起こす様々な要因を、物理的なものだけに限定してしまったってことだよ。」
 私は、また確認するように言った。
「それじゃ、今の科学で教えてることは不充分だと?」
 カヤは、きっぱりと言った。
「そう! その通り!
あたしが思うにだね、神様ってのは、願掛けたり拝んだりして願い事をかなえてくれるようなもんじゃない。修行して心掛けや生活態度が良くなれば、自ずと地球の意思、即ち神の意思に近付く。その力によって願い事がかなうっていうような、不思議なことはあるけどね。
だから科学によって解明されたことは、間違いじゃないけど、それが全てでもない。ところが、それが全てだと教えてるところに、今の文明世界の根本的な誤りがあるんだ。
だからそれによって、宗教の経典に書かれていることがいくつも覆(くつがえ)されてしまった。それで、Eupope(ヨーロッパ)やアメリカの人たちは、日本の人たちよりもずっと早くに、宗教から離れていったんだ。」
 この会話をヤエによって訳してもらっていたサラが、ここでカヤに向かって質問した。
「Excuse me, what is "earth's will"?(済みません、『地球の意思』ってなんですか?)」
 カヤは、その答えを英語で言った。
「『個々の自然現象の中に見い出される、統一された方向性』と言えば、あんたたち西洋人には理解し易いかな?」
 サラは、また英語で尋ねた。
「その具体的な例は、何かありますか?」
 カヤは、それに答えた。
「例えば……、岩の上に雨が降る。そこに陽が射せば苔が生える。それが何度か繰り返すと土ができる。すると、今度はそこにもっと違った植物が生えるようになる。それから始まって、この地球の表面は生き物で満たされていく。これは、雨や風や日の光といった全ての自然現象が合わさってそうなったことだ。一見偶然が集まってそうなったように見えるが、実はそこにはちゃんとした必然性がある。
こういうことを、あたしたちは『地球の意志』って言ってるのさ。」
 サラは日本語で言った。
「ワカリマシタ、アリガトウ。」
 カヤは再び日本語で、先ほどの話しを続けた。
「……でも矛盾してるようだけど、Europe やアメリカで、宗教は完全に消えなかった。なぜなら、キリスト教っていう宗教は、人々の倫理観や道徳観だけでなく生活の有り方まで、ことこまかに指導している。これがなくなると、人々は基準にするものが何もなくなってしまうんだ。
ところが日本の社会は、古代から続いてきた村社会で成り立ってる。だから、日本の人は宗教から完全に離れても、なんとかやっていけるんだろう。」
 私は納得して言った。
「なるほど。今の日本の一般の人たちにとって、神道は祭りとかで五穀豊穣(ごこくほうじょう)だとか無病息災だとかを祈願してるだけだし、仏教のお経は葬式で唱えられる、わけのわからないただの呪文になってるし。本当の意味での宗教とは無縁になってますからね。
それでも、世界の他の国に比べて犯罪が多いかといえば、そうでもない。こんな国、珍しいですよね。」
 カヤは言った。
「そうだよ。その村社会の利点は柔軟性にある。言い方を変えりゃぁ、決め事が紙に書かれてないってことだ。その一方、宗教の経典は、それが書かれてから千年以上たってもほとんど変わってない。だから融通が利かない。
これを逆に考えるとこうなる。村社会は自分たちさえ納得すれば、どうにでも変えられるってことで、宗教ではそうはいかないってことだ。」
 私は、カヤに向かって尋ねた。
「それじゃ今の日本では、倫理観だとか道徳観といったものが、昔に比べて変わってきてるってことなんですか?」
 カヤはここで、北の空に大きな目をギョロッと向けてから言った。
「少なくともあたしの知る限りでは、日本が戦争で負けたことによって、それが大きく変わっちまったようだね。」
 私はそれに同意した。
「そうですよね。元寇(げんこう)のときのような神風(かみかぜ)は吹かず、大都市の多くは焼け野原にされて、こてんぱんにやられたし、それまで神として崇めてきた天皇も『人間宣言』をしたんですから。」
 カヤは、やや興奮して言った。
「そうさ。今まで正しいと思ってきたことが、全部引っくり返っちまったんだ!」
 そして彼女は、また冷静な口調に戻って話しを続けた。
「さっきのカカシの報告を聞いててわかったけど、例えば、学校の教師の権威が地に落ちちまったってなことがある。
これにはいろいろな原因が考えられるけど、まず『教師を敬うべし』という価値観がひっくり返っちまった。そして教師自体にも、『指導者』としての自覚がなくなってきたこともあるんだろう。だから、カカシが報告したように、教師として有るまじき行為をするような者も出て来るんだ。
すると、それに対して親たちは、『近頃の教師は信用できない』ってな偏見を持つようになり、そのような蔑みの気持ちを、子供たちは敏感に感じ取る。すると、生徒は先生を信頼しなくなる。
それが、さっきカカシが言ってた『学級崩壊』だとか、『校内暴力』だとかにつながっていく。そうして、それに対処することのできない先生たちが、益々信頼されなくなって行くっていう悪循環になってるんだろうね、きっと。」
 その見解に納得した私たちは、口を揃えて言った。
「なるほど!」
 カヤは、話しを続けた。
「それから、親が子供を虐待することや、学校でのいじめの問題だ。
カカシの報告だと、虐待された子供を親から引き離すとか、学校で命の大切さを教えるとかして、これらの問題を解決しようとしてるようだけど、それじゃ全然問題の解決にはならないよ。」
 美世さんは、意外そうに目を見張って言った。
「えーっ!? そうだったんですか?」
 カヤは、美世さんに向かって苦笑いして言った。
「そうだよ。だって虐待の場合を取って見ても、それはただ問題の進行を止めてるだけでしかないんだから。」
 ヤエの通訳でこの会話を聞いていた、サラが言った。
「ソウネ。モンダイノ モト トリノゾクコト ダイジよ。」
 美世さんは考えながら、独り言のように言った。
「……問題の元ってことは……、親が我が子をいじめる理由ってことかぁー……。」
 私はこう言った。
「それはまず、その親が正常じゃないってことだよね。」
 それまでずっと通訳をしていたヤエが言った。
「それならなぜ、正常じゃなくなったのか。」
 カヤは満足げに微笑みながら、この若者たちの会話を黙って聞いている。
 サラが英語で言った。
「そういう人は、きっとストレスが溜まってて、それを自分に最も近くて自分より最も弱い立場の者にぶつけてるのよ。」
 ヤエがこれを訳すと、美世さんはこう言った。
「子供にしてみれば、自分の親を一番頼りにしてるのにね。」
 私は言った。
「あと、自分の子を自分の思い通りの人間にしたいっていう、親のエゴもあるんじゃないかな。例えば、涙を見せない男にしたいとか、優秀な学校に入って一流企業に勤めてほしいとか。だから、子供がそれに従がわないような態度を見せると、暴力を振るってしまうんだよきっと。
だから、殴られたり蹴られたりされている子供だけじゃなくて、言葉の暴力によって傷付けられてる子供を加えると、その数は実際もの凄く多くなるんじゃないかな?」
 その言葉によって、その場の一同は深く納得したように言った。
「なるほどねぇ……。」
 美世さんが尋ねた。
「その親のエゴって、どこから出て来るんでしょうね?」
 私は、それに答えた。
「そもそも、社会そのものが歪んでて、そっから出て来るんだと思うよ。大人たちは、それを歪んでると気付かずに、自分がどっか無理してそれに合わせてる。だから、まっすぐに生きようとしてる子供を見ると、腹が立つんだろうね。言い方を変えれば、自分と同じように苦しんでないと気が済まない。
要するに、今の日本の社会そのものを直さなきゃ、大人のエゴやストレスはなくならず、虐待もなくならないってことだと思うよ。」
 サラが言った。
「アタシモ ソウオモウよ。ニホンノヒト、ミンナムリシテル。ムリデ ユウシュウ ツクッテルね。」
 美世さんが確認するように言った。
「なるほど……。日本は優秀だけど、そのために、みんながどっかで無理してるってことね?」
 サラは言った。
「ソウよ。」
 ヤエが言った。
「そのしわ寄せが、社会で一番弱い立場の人、子供たちに行ってしまうのね……。」
 それまで黙って聞いていたカヤが言った。
「きっと、そうなんだろうね。だから、その子供もストレスが溜まってしまって、今度は子供同士で、大人社会の縮図をやってしまう。それが、学校でのいじめになってるんだよ、きっと。」
 私たちは、みな納得して言った。
「なるほどねー。」
 学校教師のご両親を持つ美世さんが、やや力を込めて言った。
「ってことはですよ、先生や生徒がどんなに頑張っても、学校でのいじめはなくならないってことなんですか?」
 それには私が答えた。
「そうでしょうね。子供たちの親からストレスを取り除かなきゃ。そのためには、まず社会の仕組みを根っこから変えなきゃ。」
 ヤエが溜め息混じりに言った。
「……それは大変なことだわ……。」
 私は苦笑いして言った。
「今のような社会は、日本人の遺伝子に滲み込んでるんじゃないかって思えるほどだから、かなり難しいだろうね。それを変えるのは。」
 美世さんは、やや困ったように言った。
「それじゃ、どうしたらいいんでしょうか?」
 私は真剣な口調でこう言った。
「遺伝的なものは、遺伝的なものを以って制す。それが一番だと思いますよ。」
 美世さんが興味深そうに尋ねた。
「例えば?」
 私はそれに答えた。
「例えば、……そうですね、弱い者に加勢したがる遺伝子。日本人はよく『判官(ほうがん)びいき』だと言いますが、これも民族の遺伝子のようなものですよ。これを利用するんです。近頃この言葉を耳にしなくなりましたが、それはその遺伝子が薄まってきてるからなんで、これを復活させるようにすればいいんです。」
 美世さんが言った。
「具体的には?」
 私は、微笑んで言った。
「判官、即ち源義経(みなもとのよしつね)と、兄の頼朝(よりとも)のことを題材にした映画を作って、それを大ヒットさせるんです。何も映画じゃなくてもいい。ミュージカルでもアニメでもいいんです。とにかく、我々日本人が本来持ってる、『強気をくじき弱きを助け』という遺伝子を奮い立たせるような作品を、日本の社会の中でヒットさせるんですよ。」
 美世さんが溜息混じりに言った。
「……はぁ……。」
 私は微笑んで言った。
「そうすれば、『弱い者を助けたい!』と思う人が増えて、仮にいじめがあっても、それを阻止する者が必ず現れる。国民を、いわゆる『正義の味方』にするために乗せるんですよ。」
 これを聞いたヤエが苦笑いして言った。
「ちょっとあんた、大事な話しなんだから真面目にしてよ!」
 私は、ヤエに向かって口を尖らせて言った。
「真面目真面目の、大真面目だよ! 俺も色々考えたけどね、とにかく日本の今の社会的風潮を考えるとだね、それが最も効果的な方法だね。学校の先生や政治化が『いじめをしてはいけません』なんて言っても、誰も聞かないと思うよ、きっと。」
 美世さんが嬉しそうに言った。
「それ、冗談みたいに聞こえるけど、なんだか妙に説得力ありますよ。アニメで大ヒットすれば、大人も子供も観るわけだしね。」
 カヤの通訳によって、それまでこの遣り取りを聞いていたサラも、やはり嬉しそうに言った。
「ソレ、イイカンガエね。ニホンノ animation(アニメ)フランスデモ ニンキアルよ。」
 私は、ヤエに向かって言った。
「ほらー! ヤエはまだ、日本のテレビとかアニメの世界をあまり知らないからだよ。」
 ヤエは、相変わらず苦笑いしながら言った。
「う~ん、そうかなー?」
 ここでしばらく黙っていたカヤが、私に向かってこう言った。
「ところで、価値観が変わってきてるっていう話しに戻るけど、昔なら一度結婚した者が別れるってことは大事件だった。でも今では、何だか社会的な風潮みたいになってきてるそうじゃないか。」
 私は、やや照れながら言った。
「おっしゃる通りです。この私もそのうちの一人ですから。」
 カヤは、真剣な表情で言った。
「ああ、そりゃうちの旦那だってそうだからね。でも、不倫だって増えてるんだろう?」
 カヤの夫の三吉も一度離婚していて、その後カヤと再婚している。しかし「不倫」という言葉に内心ドキッとした私は、今度はカヤを責めるような口調で言った。
「ええ。さっきの報告ではそう言いましたけど。それじゃ婆ちゃん、そういうことは悪いことだから、やめなさいってことなんですか?」
 カヤは苦笑いして言った。
「いや、何もそこまで言っちゃいないよ。でもね、今のあんたの言い方でもわかるけど、今の日本の人に、『不倫は悪いことなのか?』って聞けば『悪い』って答える人もいるだろう。でも、『なぜ悪いのか?』って聞けば、それに答えられる人はどれだけいるんだろうね。」
「う~ん……。」
 私は、やや俯いて唸ったきり、言葉を失ってしまった。確かに彼女の言う通り、不倫がなぜ悪いのかということの根拠が見当たらないのだ。
 カヤは笑って言った。
「ハハハ! そうだろう? これだよ。あたしが言ってる『村社会』ってのは。」
 私は、やや不安げに尋ねた。
「それじゃ婆ちゃん。変わってしまった日本人の倫理観や道徳観を、私たちは修正しなければなりませんよね?」
 カヤは言った。
「うん。村社会の集合体である日本の社会には、日本の国全体の人々の心が反映されてるんだろうから、そういう傾向になるってことは、それをどっかでみんなが望んでるんだろう。
でもね、みんなが望んでることが必ずしも正しいことだとは限らない。そこに村社会の弱点があるんだよ。」
 私は納得して言った。
「なるほど。」
 カヤは話しを続けた。
「だから、その弱点を補うために、日本には仏教っていう宗教があった。でも、明治の新政府の政策によって、それは力を失ったようだ。」
 それまで、ヤエの通訳によってずっと話しを聞いていたサラが尋ねた。
「シントウ ドウナッタノ?」
 以前彼女が日本の宗教事情を尋ねたときに、神道(しんとう)の存在を私が教えたので彼女はそれを知っているのだ。そのため、それには私が英語で答えた。
「確かに当時の政府は、仏教を嫌った代わりに神道を好いた。ところが神道では、ブッダ(仏陀)やクライスト(キリスト)のような特定の指導者が哲理を説いてるわけじゃない。神様や昔の偉い人たちが、どうしたこうしたということを記録した、叙事詩のようなもんなんだ。
例えば、男の神と女の神が日本の島々を一つ一つ産んでいくというストーリーがあるけど、女の方から先に声を掛けたらそれが失敗し、男の方から先に声を掛けたら成功した。だから人間も、男と女が愛し合うときは、まず男から声を掛けなさいって教えてるって解釈するとかね。だから、宗教っていうよりは、むしろ伝承なんだよ。」
 するとサラは、私に向かって微笑んで言った。
「All right! I wating!(いいわ! あたしそれ待ってる!)」
 すると、やや目を吊り上げたヤエが、前の席からこちらを向いているサラに向かって、珍しく厳しい口調でこう言った。
「Say it to singl-man, Sara!(サラ、それ相手のいない男に言いなさいよ!)」
 そして、今度は自分隣りの席に座っている私の方を向くと、完全に吊り上がった目で言った。
「こらーっ! 勘違いされるような紛らわしい喩(たと)えした、あんたが悪いのよっ!」
 「アンタガワルイノよ」という日本語の意味は、当然サラにも理解することができたのだろうが、そこに込められている気迫に圧倒されたのだろう、サラは思わず首を縮こめた。
 普段はTシャツの裾が被さっていて見えないが、瓶ヶ島の女たちは、みな各自の腰巻に、鞘に収まった非常に良く切れる小刀を挿している。もちろんヤエもその例外ではない。そのことを知っている私は、思わず目を丸くしてヤエに向かって合掌すると、まるで命乞いするようにして叫んだ。
「はいっ! ごめんなさいっ! 俺が完全に悪かった! 暴力反対!!!」
 その有り様を見ていたカヤは苦笑いして言った。
「……だからね、本当にそれでいいのかってことは、絶えず見ておく必要があるね。一人一人の欲望を無制限に許していくと、家庭はどうなるのか。家庭が崩壊すると社会はどうなるのかってね。」
 私は溜め息を吐いて、額の冷や汗を手で拭いながら言った。
フゥー…………、死ぬかと思った。
それじゃ、やっぱりこのままの日本の道徳観じゃ駄目だな。」
 カヤは微笑んで言った。
「まあ、そうだろうね。修正すべきものは、早めに修正しといた方がいいよ。」
 美世さんがカヤに向かって尋ねた。
「学校の授業とかで?」
 カヤはきっぱりと言った。
「いや、今のあんたたちの学校じゃ駄目だろうよ。」
 ご両親が学校の教師をしている美世さんは、それに対して怪訝そうに尋ねた。
「はぁ、なぜですか?」
 カヤは真剣な表情で言った。
「さっきのカカシの報告によれば、あんたたちの国の学校では、学校に無理難題を要求する親がいるそうじゃないか。そういう親は良くないと思うけど、あたしからすれば、親を喧嘩腰にさせる教師にも問題があると思う。
そうすると、学校側に対してそういう態度を取る親の子供は、さっきも言ったようにそれに敏感に反応して学校をなめて掛かる。そんな教師と生徒の関係じゃ、『嘘をついてはいけません、いじめはいけません』なんて教えても鼻で笑われるだけだよ。」
 しばらくサラに向けて通訳していたヤエが言った。
「そうよね。
それに今の日本の学校の教え方だと、まず教科書があって先生がそれを生徒に一方的に解説するっていう形になってるみたいだから、そういう形式的な道徳の授業じゃ生徒は付いて来ないわ。」
 サラへの通訳はカヤが変わってくれたので、私はヤエに尋ねた。
「ここの学校では、どういう教え方してるの?」
 ヤエはそれに答えた。
「そもそも、この町の学校に道徳の授業はないのよ。そういうことは、家族が家で教えることになってるから。
でもそうね、もしあたしが自分の子供にそれを教えるとしたら、こうなるかも……。
あたしが何かの話しをしてから、それが嘘の話しだったって子供に言うの。それから『母ちゃんのこと、どう思う?』って聞くの。それを何回か繰り返して、『母ちゃんは嘘吐きだ』『母ちゃんなんか嫌いだ』っていう声が多くなってから、こう言うの。『あんたたちも嘘をつくと母ちゃんみたいに思われるのよ』って。
そうすると子供は、あたしが自分たちのためを思って、わざわざ悪者になったってことがわかったから、あたしのことをまた好きになって、笑って終わるってな感じ。ハハハ。」
 彼女は、そう言って明るく笑った。
 結婚後、毎日のようにすることはしているが、まだ子宝に恵まれていないので、私は苦笑いして言った。
「う~ん、そのための子供をつくらなきゃなぁ。」
 すると、その場の一同から笑いが起こった。その一方、サラは目を輝かせて言った。
「フランスモ、ソウイウオシエカタ シテマスね。コドモニタイケンサセテ カンガエサセルよ。」
 それを聞いた私はこう言った。
「なるほど。道徳観は暗記させて教えるものじゃなくて、体験させ考えさせて教えるものだと。」
 カヤが言った。
「そうだよ。『嘘をついてはいけません』て言葉は頭でいくら覚えても、腹の底まで達しはしない。嘘をつけば、自分が他人からどう思われるのかっていうことを実際に体験させて考えさせなきゃ。そしてそれは、子供が最も信頼してる大人が教えるのが一番いいのさ。」
 先ほども述べたように、網野カイは一世一代の大嘘をついた。この町の掟(おきて)では、既婚の女性が不倫をすれば重罪に問われるが、カイの場合は独身で既婚の男性と恋仲になったため、彼女自身が問われる罪自体は大したことはない。むしろ、伸三氏がこの島を去ってからも、ずっと独身を貫き通したそうなのだから、彼女は享受(きょうじゅ)できるはずの幸せを存分に受けられなかったのに違いない。
 その相手の伸三氏にしても大嘘をついている。カイとの関係にしてもそうだし、更には辻上通訳官を自分が殺してしまったことも死ぬ間際まで隠していた。
 しかし、いずれにしてもその二人の「嘘」は、他者を助けるためのものであった。そのような「嘘」と、今の政界や企業の上層部で蔓延している「嘘」とは明らかに質が違っているように思う。
 また、不倫こそしてはいないが、私は心のどこかで配偶者以外の異性を好きになっている。それに対する罪悪感を潜在的に感じていたので、先ほどカヤの言った言葉に思わずビクッとしてしまったのだろう。もしかすると彼女は、私と美世さんの様子を見ていて、そのことに既に気付いており、その上でああ言ったのかも知れない。
 このようなことは男女とも、誰にでもあることなのかも知れないが、問題はそこから先だ。今の日本の社会では、そこから先に進んでもいいのだというような空気が流れており、私のような調子のいい者は、思わずそれに乗ってしまいそうになる。そう思った私だったが、そのことは口にせず、今のカヤの言葉に対してこう言った。
「……なるほど。昔は、お寺の坊さんとか、教会の神父さんや牧師さんが、それを教えるという役割を果たしていたんでしょうけどね?」
 カヤは言った。
「そうだよ。だから教師や宗教者への信頼が昔に比べて薄れてしまった今の日本では、親が教えるしかないのさ。」
 美世さんが不安げに尋ねた。
「もし、親も信頼できなくなったら?」
 カヤは笑って言った。
「ハハハ! その国はもうおしまいだよ!」
 美世さんは納得したように言った。
「そうですかぁ。それなら日本は、いよいよ危ないわ。」
 カヤが、やや目を見張って尋ねた。
「なぜだい?」
「だって、『道徳観』だとか『倫理観』を、今の親たちはどれだけ自身を持って、自分の子供に教えられるのかなって思って。」
 美世さんがそう言うと、ヤエがうつろな表情でこう言った。
「子供に『命の大切さを教える』って、日本にいたときよく耳にしたけど、それって、ただの宙に浮いた言葉にしか聞こえなかったわ……。」
 美世さんが言った。
「そうよね。日本の最大の同盟国であるアメリカが、アフガニスタンやイラクで戦争を起こして人を殺してるんだし、それを日本の大人たちが支援してるんだから。
そんな人たちが『命を大切にしよう』なんて尤もらしい顔をして言えば、ちょっと感性の鋭い子なら、すぐに思いますよ。『都合のいいこと何を偉そうに言ってんだよ!』って。そして、そういう大人のことが益々信頼できなくなりますよ、ね? 呵々士さん?」
 以前彼女には、私が非行に走ったときのことを話して聞かせたことがあったので、彼女はそう言って私に振ったのだ。私は真剣な表情で言った。
「その通りだと思います。大人が子供から信頼を失うための最も効果的な方法は、自分のことは棚に上げておいて、子供に奇麗事を並べた説教をすることだから。」
 美世さんは言った。
「『美しい国』なんて言ってた人もいましたけどね。今の日本でそんなことを言えば言うほど、若者は離れて行ってしまいますよね。」
 私は別の「あること」を念頭に置くと、美世さんに向かってこう言った。
「それならいっそのこと、一旦完全に離れてしまった方が、いいんじゃないですか?」
 美世さんもその「あること」を感じたようで、何かを決意した表情になって私に言った。
「そうかもしれませんね、その方が区切りが付くから……。」
 そして彼女は俯くと目頭を押さえた。それを見た私も、涙腺が刺激されて鼻の奥が痛くなったが、仕方がない。今の彼女と私の状態からすると、私の方が心を鬼にして何らかの言葉を発しなければ先に進めないからだ。
 その雰囲気を敏感に察知したカヤは、苦笑いして言った。
「まあ、それが自然な流れなのかもね。」
 彼女は真剣な顔に戻ると、その場のみなに向かってこう言った。
「……今のままだと日本は悪くはなっても、決して良くはならない。だから、誰かが上辺だけで押し付けるんじゃなくて、今の若者たちの魂の底から揺さ振るような何かがなけりゃ駄目だね。」
 私は、先ほどの「あること」を念頭から消去して言った。
「彼らは今、いろいろと模索してるところなんだと思いますよ。若い人のつくる歌なんか聞いてて、特に思いますけど。」
 カヤは微笑んで言った。
「ああ、あたしも短波放送でよく耳にするけどね、その中でもいくつかの大きな流れがあるよね。聞いてて面白いのもあれば、優しい気持ちにさせられるのもある。それとは逆に、何語で歌ってんだかわかんないのもあれば、どうでもいいようなつまんないこと歌ってるのもあるし。」
 私は笑って言った。
「ハハハ! 確かにいろいろありますよね。だから、余計に感じるんですよ。無意識のうちに、あれこれと模索してるんだなって。」
 ここで、サラのために通訳していたヤエが言った。
「あたしは、今の日本の歌を聞いてて思うけど、みんなまず第一に、心の安らぎを求めてるんだろうね。でも、一番身近なそれがどこにあるんだか、わかってない人も多いんじゃないかな。」
 それまで俯いていた美世さんも、気を取り直してこう言った。
「……それは感じるわね。特にこの島に来て思うけど、みなさん家族やここの文化のことを、とても大事にしておられるようだし。」
 私の通訳で、その言葉を聞いたサラが言った。
「フランスハ イロイロアリマシタ。エイゴ シャベッチャダメトカね。」
 美世さんが目を丸くして言った。
「へー! そんなことあったの?」
 この問題に関して多少知識のあるヤエが、美世さんに向かってその説明をした。
「そうみたいですよ。丁度今の日本みたいに、アメリカ英語から単語を借用するのが余りにもひどくなったんで、政府がそういう決まりを設けたんだって。でも、あまりうまくいってないって聞いてるけど。」
 私は、サラに向かって英語で言った。
「でも、日本の場合フランスとは違って、もっと複雑だ。日本は、同じ戦争で負けたドイツみたいに徹底的に国の仕組みが潰されなかった。その方がかえって日本人をコントロールし易いだろうと、当時のアメリカが判断したためなんだ。そして、その判断は正しかった。
パンと脱脂粉乳の学校給食から始まって、アメリカの文化と価値観が上手にコントロールされながら、次々と導入されていったんだ。それによって、かなり多くの日本人が洗脳されてしまった。
だから、国の形は残して文化を侵略し、人々の頭だけでなく心までもアメリカ寄りにさせるっていう、極めて巧妙な戦術だよ、これは。フランスは、そこまで行ってないでしょ?」
 サラは額に皺を寄せて首を横に振ると、こう英語で答えた。
「そうね、その話しは初めて聞くわ。」
 私は言った。
「だから、今の状況から本当に脱却するためには、その当時の状況を把握するところにまで、さかのぼって考えなくてはならないんだよ。」
 カヤは、やや真剣な表情になると、やはり英語で言った。
「カカシの言う理屈は正しいと思うけど、その範囲じゃ不充分だね。」
 私は目を見張って言った。
「え? もっと先までさかのぼれってことですか?」
 カヤは言った。
「そう。そもそも、なんでアメリカが進駐して来なきゃならなくなったんだい?」
 そのことに気が付いた私は恥ずかしくなり、思わず日本語でこう言った。
「あ! そうですよね。あんな無謀な戦争を引き起こしたことが、そもそもの間違いなんですから。」
 カヤは微笑むと、やはり日本語でこう言った。
「そうだよ。『神様に祈願すれば戦争に勝てる』なんていう考えが、そもそもの誤りなんだ。ほんとの神様ってのはね、全人類のためにあるんだ。言い方を変えれば、地球上の全ての生き物の上に共通して存在してるものなんだよ。それを、特定の人間の都合のいいように、作り変えてしまったところにまで戻って考えなきゃ。」
 私も微笑んで言った。
「ということは、少なくとも日本の場合、元寇の頃にまで戻らなきゃなりませんよね?」
 カヤは、また微笑んで言った。
「まあ、そういうことだね。」
 この会話を聞いていたサラが、英語で尋ねた。
「さっきも出て来た単語だけど、『元寇』ってなに?」
 私は、やはり英語でそれに答えた。
「14世紀に、モンゴルが二回日本を攻めたことだよ。」
 それを聞いたサラは、納得してこう言った。
「おー、それならフランスにも、似たような話しがあります。」
 カヤが興味深そうに英語で尋ねた。
「ほう、どんな話しだい?」
 これらの会話は、美世さんのためにヤエが日本語に訳している。
「昔フランスに、一人の女の子がいました。彼女はある日突然天使たちの声を聞いて、そのお告げに従がいフランスの王様に会いに行きました。そして、オルレアン城を包囲していたイングランド軍と戦ってこれを打ち破り、フランスの王様を勝たせたのです。だから彼女はフランスでは英雄でも、イングランドの人からは、魔女と言われていますって。」
 ヤエからこれを聞き終えた美世さんは、納得したように言った。
「あ、ジャンヌ・ダルクのことね。」
 カヤも同じように納得すると、サラに向かって英語で言った。
「ああ、Joan of Arc のことだろう。そうだよね。こういう話しは世界中にある。そこに出て来る「風」だとか、誰かの「声」だとかを神様が引き起こしたと思いたくなる気持ちはわかるけどね、そうすると世界中の国にそれぞれ固有の神様がいて、それぞれの国にとって都合の良いことをしてることになる。」
 私も英語で言った。
「それじゃ特定の国に味方する傭兵のようなものじゃないですか。そんなの『神様』とは呼べませんよ。そんなことしてるから『神は死んだ』なんてニーチェが言わなきゃならないんだ。」
 私のその言い方が受けたようで、この場周辺から笑い声が上がった。
 カヤもしばらく笑っていたが、今度は日本語で言った。
「今までの人間にとって地球は大きかった。だから、世界の国々が別々の神様を信じててもなんとかなってた。でも、これからはそうはいかないだろう。こうして日本に行ったり来たりも簡単にできるようになったんだし、文明世界は Internet(インターネット)とやらで繋がってるんだし。」
「そうですよね。世界共通の『神様』が必要ですよね。」
 私がそう言うとサラが言った。
「ソノカミサマ ヒツヨウ オモウよ。デモ ソレダケジャダメよ。」
 私は目を見張って言った。
「なんで?」
 サラはそれに答えた。
「ソノワケ、キリストキョウ ト イスラムキョウ ノ カミサマ ドレモヒトツダケダカラよ。カレラ、ホカノカミサマ ミトメナイよ。」
 私は納得すると英語で言った。
「なるほど。そういう宗教自体があることはいいけど、そうするとそれは、他の一神教の宗教と対立してしまうと。」
 サラは日本語で言った。
「そうよ。」
 ヤエも日本語で言った。
「それなら、例えば『地球の意志に従がおう会』にすればいいんじゃないの?」
 美世さんは微笑んで言った。
「なるほど、それなら他の宗教を信じてる人も入れるしね。」
 カヤが興味深そうに尋ねた。
「その趣旨はどうするんだい?」
 私は微笑むとそれに答えた。
「単純明快! 『我が身を滅ぼさぬために地球の意志に従がおう』でしょうね。」
 カヤも笑って言った。
「ハハハ、そりゃ面白そうだ!」
 美世さんは尋ねた。
「それじゃ、会員規約とか会長の選出とかは?」
 私は少し考えてから言った。
「……そうだね、例えば……
まず第一に、『人類はこの世で最も優れた生き物であり、地球を支配している。』なんていう傲慢な考えを捨てること。
次に、『人類は他の生き物に較べると、まだまだ不安定な生き物であり、その欲望によって生み出された今の物質文明が、地球の生態系や気候を不安定にさせている。』という事実を認めることかな。
そして、人類は宇宙の法則によってこの世に現われたのだから、その『意志』に沿った生き方をすれば、多くの問題が解決するということを知ることですね。
そのためには、『自分たちが住んでいる地球の意志、即ち自然の流れを深く理解して、可能な限りそれに従って暮らすよう努めること』とかね。
会長は別に、いなくてもいいんじゃない?」
 私がニコニコしてそう言うと、その場の一同は陽気に笑った。
 カヤが微笑んで言った。
「それなら、Association(会)っていうよりも、principle(主義)にしといた方がいいんじゃないかい。Association にすると面倒だよ。政治みたいに派閥だの何だのができてくるから。」
 その言葉で、その場にまた明るい笑い声が上がった。
 このようにして、最初はみな冗談半分で話し合っていたのだが、そのうちそれが熱を帯びてきて、本当にその『主義』を立ち上げようということになった。日本語で『地球の意志主義』、英語の造語では『Principle of the Earth's Will』、略して『P.E.W.』。ちなみに英語で「pew」とは、教会の中に据えてあるベンチ状の椅子のことだ。「主義」という大きな椅子は設けてあるが、実際そこに座るのは私たち人間一人一人だということである。
 この波は、役員席から一般町民の席に波及して行き、最後には会場全体を包み込んだ。そのことを敏感に感じ取った町長のアミは席を立って演台に赴き、その上に立った。すると、それまで騒々しかった会場が静まった。アミは、その会場を見渡してこう言った。
「日本の現状報告を聞いた私たちが、互いに議論を重ねた結果、一つの案が浮かんできました。それは、『地球の意志主義』を立ち上げようということです。これは誰に対して強制するものでもなく、それに従がうことは個人の自由です。
でも、この考え方がこの星に住む人々のあいだに広まれば、この星は多くの人々にとって、もっと住み易くなるだろうと、私は信じています。」
 ここで、役員席と一般町民から歓声と拍手が湧き起こった。それが静まるとアミは話しを続けた。
「この考え方をまず日本に伝えてほしいと言いたいところですが、その前にもっと急ぐ場所があります……。」
 ここで彼女の口から、私の理解の範囲を超える言葉が出た。
「……それは、みなさんご存知の、あの星です!」
 すると会場からは、町民たちが口々に叫ぶ声が飛び交った。
「そうじゃ!」
「そっちが先よ!」
 我慢できなくなった私は、演台上のアミに向かって大きな声で言った。
「町長! 一つ質問をしてもよろしいでしょうか!?」
 アミは、こちらを振り向いて言った。
「どうぞ。」
 それによって会場が静まったので、席から立ち上がった私は、会場にも聞こえるように声を張り上げて言った。
「先ほど町長は、『みなさんご存知の星』と言いましたが、その中には賓客のお二人と、この私が含まれていないのではありませんか?」
 アミは、申し訳なさそうな顔をしてこう言った。
「そうですね、それは大変失礼しました。それでは、これからその説明をすることにします。」
 アミは再び一般町民の方を向いて言った。
「この説明には多少時間が掛かるので、この集まりは解散して、明日の朝、今度は『地球の意志主義』を、あの星に伝えるための集まりを開こうと思いますが、いかがでしょうか?」
 町長のこの意見に対して、一般町民をはじめ役員からも大きな拍手が送られたので、この町民会議は閉会することとなった。
 演台から戻って来たアミは、カヤに向かってこう言った。
「母ちゃん、お客様とカカシに、あの星の話ししてくれない?」
 カヤは頷いて言った。
「ああ、もちろんいいともさ。」
 このとき、遠くで雷の鳴る音がした。カヤはそちらの空をチラッと見てから、よっこらしょと立ち上がると、私たちに向かってこう言った。
「一雨来そうだから、それは家でするよ。」
 彼女はヤエに向かって言った。
「この話しは、あんたにも聞いといてもらいたいから、一緒に来てくれ。」
 ヤエは頷いて言った。
「うん、わかった。」
 カヤは自分の家の方に向かって歩き出しながら、私たちを誘った。
「片付けは係りの者がすることになってるから、任しとけばいいよ。さ、行こう。」
 集会の後片付けの人々が会場を忙しく動き回る中、美世さんとサラとヤエと私は、カヤとアミと共に、石畳の広場を横切って白浜家へと向かった。その途中、演台の上の日除けを取り外していた上半身裸で長髪の青年に向かって、カヤが声を掛けた。
「おい、新吉! あんたも一緒においで!」
 先ほど登場したカイの孫だ。彼は美世さんの姿を見ると、やや頬を染めて目をそらし、カヤに向かってぶっきらぼうにこう言った。
「おぅ、なんぞ用か?」
 それに対して、カヤは微笑んでこう言った。
「あんたも、この話し聞いといた方がいいからさ。」
 そして、やや離れたところで掃き掃除をしている、やはり上半身裸で長髪の後姿に向かって声を掛けた。
「おーい! あんた! 掃除はもういいから、一緒に来てくれないか?」
 その長身の青年はこちらを向くと、カヤに向かってこう言った。
「わしのことか?」
 カヤが頷いたので、彼は持っていた箒(ほうき)を近くの者に預けると、こう言ってこちらに歩いて来た。
「ええよ。なんの用じゃ?」
 彼は、アフリカ系かメラネシア系と思われる、コーヒー色の肌と縮れた髪をしている。その彼が傍に来ると、カヤはこう言った。
「あんたにも、この話しを聞いといてもらわなきゃならないんだ。」
 その彼が、カヤに向かって尋ねた。
「この話して、あの話しんことか?」
 カヤは再び歩き始めながら微笑んで言った。
「そうそう。あの話し、あの話し。」
 そして彼女は、私たちに向かって彼を紹介した。
「この子は、塩原ケンジ、塩屋の倅だ。」
 ケンジは、肌の色とよく似合う美しい白い歯を見せて微笑むと、歩きながら私たち一行を見回して言った。
「どうぞ、よろしゅうな。
Nice to meet you!」
 私と美世さんとサラも歩きながら、彼に向かって口々に挨拶した。
「どうぞよろしく。」
「Nice to meet you too, Kenji.」
 ケンジは、その後ろを歩いていた新吉に近寄ると、小声で親しげに話し掛けた。
「なぁなぁ、わしらなして呼ばれたんじゃろうか?」
 彼と同年代と見られる新吉は首を傾げながら、やはり小声でそれに答えた。
「わからん。まぁ、白浜んちに着いたら、ゆるゆるわかるじゃろう……」
 白浜家の母屋中央の長い廊下を突き当たると、その右側は大きな居間になっている。居間と言っても、廊下と縁台との壁はないので、屋根の付いた広い空間とでも言うべきだろうか。その床の中央には、縁台に置かれているものと同じような長い食卓が置かれており、カヤはその一番奥の席に胡坐をかいて座った。そこが彼女の定位置なのだ。その右手に美世さんとサラが並んで座り、左手にはヤエと私が廊下を背にして並んで座った。若い男性二人のうち、新吉は私の隣に座り、ケンジはサラの隣に座った。
 カヤは、人数分の茶を入れながら口を開いた。
「このことは、この島に伝わる話しの中でも、極秘中の極秘だったから、カカシは知らなくて当然だよ。」
 私は目を見張って言った。
「ということは、長澤教授たちも知らなかったことなんですか?」
 カヤは微笑んで言った。
「ああ、そうだよ。」
 この会話は、サラのためにヤエが通訳している。
 興奮してきた私は、身を乗り出してカヤに尋ねた。
「なぜ極秘なんです?」
 カヤは言った。
「こんなことが知れたら、世界中が大騒ぎになるからさ。」
 それを聞いた私は、他の者に向かってこう言った。
「ごめんなさい。そういう話しなら、それを聞く前に私は、一つはっきりさせておきたいことがあるんで。」
 ケンジと新吉と美世さんはもちろん、サラもその日本語を理解したらしく、四人とも黙って頷いたので、私は再びカヤに向かって言った。
「私は、今現在この島のことを『物語』としてホームページで公開しています。それなら、これは伏せた方がいいんでしょうね?」
 カヤは、真剣な表情でそれに答えた。
「いや、それなら構わないよ。嘘の話しとして掲載するんだったらね。まあ、文明世界で普通に生きてる者には信じられないようなことだから、たとえ『ほんとだ』って言っても、誰も信じないだろうけど。ハハハハ!」
 彼女はそう言って明るく笑った。
 すでに好奇心の塊りと化している私は、期待に胸を弾ませながら言った。
「わかりました! それではお願いします!」
 縁台越しには椰子林が見えているが、その風景が俄かに暗くなってきた。間もなく、家の近くに生えている椰子の大きな葉が、ボツン! ボツン! という大きな音を立て始め、それは次第に激しさを増してきた。カヤが言った通り雨が降って来たのだ。
 廊下の向こう側は広い台所になっており、先ほどからアミがそこで何かしていたが、陶器の大きな皿を両手に持ってそこから出て来て、それを私たちの真ん中の卓上に置いてからこう言った。
「有り合わせのもんしかないけど、どうぞつまんでくださいね。」
 そこには、南国の果物を食べ易く切って盛られたものに、竹製の爪楊枝が添えられている。
 私たちは口々に言った。
「ありがとうございます。」
「頂きます。」
 アミは、また台所に戻り、カヤは茶の入った湯飲みを次々とヤエと私の前に置いたので、この家の家族である私たち二人は、それを他の四人の席にも配った。
 それが行き渡ると、カヤは穏やかな表情でこう言った。
「みんな、飲み食いしながら楽にして聞いてくれ。」
 これは、サラにもわかる言葉だったので、私たちはみな口々に言った。
「頂きまーす。」
「イタダキマース。」
 外ではすでに、濛々(もうもう)と水煙を上げながら雨が落ちてきている。カヤは、組んでいた胡坐(あぐら)の足を組み替えると、自分も茶を一口飲んでから、その驚くべき話しを語り始めた……

 大航海の技術を身に付けて、16世紀に黄金時代を迎えたスペインとポルトガルであったが、その世紀末頃にはイギリス・オランダという天敵が出現した。
 そして17世紀後半に入ると、スペイン・ポルトガルの繁栄は早くも終わりを告げ、それに取って代わったイギリスとオランダが今度はライバル争いを始めた。そして18世紀に入ると、イギリスがオランダを押しのけて覇者となった。
 このイギリスには、その天敵やライバルが長いこと現われなかった。敢えてライバルと呼ぶなら、フランスがそうであったが、この国は重要な時期に革命やナポレオンの出現といった出来事があったので、文明世界に対するその影響は多大だったものの、植民地獲得という点ではイギリスにやや出遅れることとなった。
 それまでのスペイン・ポルトガルにしてもオランダにしても、海外に進出する際には、貿易による利益や殖民といったようなことが主な目的であり、その土地そのものに対しての所有の概念はやや曖昧(あいまい)だった。ところがイギリスが覇者となる時代には、その土地の上に存在する全ての物体を所有するという、「領土」という概念によって、世界各地を広範囲にわたって侵略していくこととなった。
 18世紀後半になると、そのイギリスから始まって欧米各国に産業革命が起こり、それと共に科学技術も飛躍的に発展した。それによって人々の価値観は、形而上(けいじじょう)のことよりも、形而下(けいじか)のこと即ち、実証することのできる物事をより重視するようになっていった。やや具体的に言えば、質素な生活をして神様の声を聞くことよりも、金銀財宝とか土地とか実態のある物を得ることの方に関心が移っていったのである。
 人類の金銀財宝に対する関心はそれまでにもあったのだが、今までそれを実際に得てきた者の多くは、王侯貴族や豪商といった、ごく限られた人たちであった。ところが、この時代からは、一般人にもそれを得るチャンスが与えられたという点で、人類史上初の現象だと言っても過言ではないだろう。
 その後、政治改革や民族の統一などを終えたそれらの国々の指導者たちは、この地球上で数少なくなった「未開」の陸地の獲得競争に突入し、それに乗じて一攫千金を夢見る人々が世界各地に拡散していくこととなった。1880年代は、正にその絶頂期であった。
 その当時、瓶ヶ島は磯辺(いそべ)アキヨという名の女性が治めていた。個性的で知られるこの島の歴代町長の中でも、彼女は特筆すべき存在なので、ここでその端的な一面を簡単に述べておこう。
 島の近くを欧米列強の旗を掲げた船が通り掛かると、このアキヨは町民たちを指揮して浜に火を焚き、まずその船を島におびき寄せたのだそうだ。そして、その船が入り江に差し掛かると、今度は島の娘たちを総動員してその浜に並べ、船に向かって踊りを踊らせた。すると、自分たちが歓迎されているものだと勘違いしたその船は、喜び勇んで入り江に入って来る。その途端、その半円状の入り江に点々と設けられている砲台の48門の大砲が一斉に火を噴くのである。
 砲撃を受けたその船は慌てて応戦するか逃げるかするのだが、この湾の海底の様子を把握していないので、向きを変えているうちに、たちまち浅瀬に乗り上げてしまう。航行不能となってしまったその船は、その後集中砲火によってめちゃめちゃに破壊されることになる。この「逆ナンパ戦術」とも言える作戦の成功率は100%だったそうだ。
 百人ほどの兵による船団を率いたアキヨは、座礁した上に大破しているその船を取り囲んで制圧すると、生き残っている乗組員の男は全て殺してから、他の死体と共に海に投げ捨てて鮫の餌にした。定期航路ではないこの海域を訪れるような船に、女子供が同乗していることはまずなかったが、もしいたら、この島で暮らすことを誓わせてから保護した。
 その船の積荷は、足が付かぬよう、あちこちの港に分散して船で運んでは売りさばいていたのだそうだ。また、証拠隠滅のため、その船体は解体されることになるのだが、それが木造なら各家庭の竃(かまど)の焚き物にし、鉄製なら鋳直して、武器、鍋釜、農機具などを生産して売っていたと言うのだから、これはもう立派な海賊だ。
 海賊をやめて日本を脱出したはずの彼らが、蓄積されたその豊富な経験を元にして、再び海賊になってしまったのである。この時代にこの海域で行方不明になっている船がもしあれば、それはバミューダトライアングルのような不思議な現象ではなく、その多くはこのアキヨたちの仕業と見ていいだろう。
 現代の文明世界に生きる人たちからすれば、全くとんでもない奴らになるのかも知れないが、この当時の本当に「とんでもない奴ら」はもっと他にいる。この時代、瓶ヶ島のような小さな島は、いわゆる列強に「発見」されたが最後、必ずその餌食にされてしまっていた。ヨーロッパ人による殺戮や伝染病などによって、そこの先住民が絶滅したような事例は、中南米やオセアニアなどに少なからずある。
 彼らは最初、「神」の存在を説くことから始める。そして、先住民が太古から受け継いできた信仰や、貴重な文化遺産の破壊を試みる。そして、ずるずるとそのペースに引き込んで土地や財産を没収し続け、挙げ句の果てには労働力として死ぬまで酷使するのだ。
 また、免疫を持っていない先住民は、侵入者が持ち込んだ天然痘や麻疹(はしか)などの伝染病ではもちろんのこと、ただの風邪によってもバタバタと死んでいくことになるのである。
 この世紀には、イギリスが黒人奴隷の売買を禁止したのに続き、アメリカも表面上は黒人奴隷の解放を宣言した。しかし、この時代の「文明人」は、いわゆる「未開」の先住民族を人間として見ていなかった。それは、世界中の何箇所かの地域でいまだに続いていることだ。
一、人ヲ人ト思ハヌ者、此レ我ラガ仇ナリ。仇ハ討ツベシ。
 これは、この島の人々の先祖が日本で海賊をしていた頃の趣旨の一つである。それ自体はもう存在していなかったが、それに基づいた気風は、この当時の彼らの間では、まだしっかりと受け継がれていたのだ。だから、自分たちのような「未開」な人間を人と思わないような連中に対して、アキヨたちは微塵の容赦もしなかったのである。
 その一方瓶ヶ島には、こんな掟(おきて)が現存している。
一、食ベル為、身ヲ守ル為ノ外、生キ物故意ニ殺傷スルベカラズ。
 本来ならこのようにして、他者の命と共存しようと努めている人々なのである。その彼女たちが「身を守る」ために、そこまでしなければならなかったというのだから、この当時の文明世界の国々が、植民地獲得ということに関して、いかに異常であったかがわかるだろう。そのような船の本国に存在を知られることなく、この島の人々が今日まで無事に生きてこれたのも、アキヨたちのお陰だったのだ。彼女らがもし「とんでもない奴ら」だとすれば、幕末の日本で攘夷(じょうい)を唱え、黒船に向かって大砲をぶっ放した日本人も全て、「とんでもない奴ら」になってしまうことになる。
 そんな時代の話しだった。
 大きな嵐があった数日後、木片に乗った二人の漂流者が瓶ヶ島に流れ着いた。アキヨたち島の人々はその男たちを保護したが、彼らが文明世界から来たということがわかると、途端にその扱いを変えた。
 彼らを縄で縛り上げるよう部下に命じたアキヨは、その捕虜を浜の砂の上に座らせると、自分の腰の鞘から長い日本刀を引き抜いて、ギラギラ光るその刀身を彼ら一人一人の喉にあてがった。恐怖で震え上がっている彼らに向かって、当時の海賊が喋っていた癖のある英語で、アキヨはこのように言ったのだそうだ。
「あんたたちが、文明とおさらばして、一生この島で暮らすんなら、命は助けてやってもいいんだぜ。どうする?」
 そして彼らの目の前の砂に、その刀をグサッと突き立てて見せた。
 二つ返事でこの条件を受け入れたその二人は、いずれも本国に帰ることなく、この島の掟に従って永住することとなった。そのうちの一人が、ロバートという名のイギリス人であった。
 それから数年後のある日のこと。町長アキヨの娘の一人で当時13歳のキヌヨが、自宅の縁台で昼食を食べていたところ、突然神憑(かみがか)って仰向けにひっくり返った。彼女は目を白黒させて何かを喋(しゃべ)っているが、町長を始めとするこの町の役員一同、それが何語なんだかさっぱりわからない。物は試しということで、そのロバートが、その現場となっている縁台に連れてこられた。
 その真ん中に置かれた食卓の近くでキヌヨは倒れていた。身を屈めてその口元に耳を近付けたロバートは、しばらくしてから島の言葉でこう言った。
「こりゃ、古い Greece(ギリシャ)ん言葉に似とるぞ。」
 当時の日本の知識人が漢文を学んだのと同じようにして、当時のヨーロッパの知識人は、ラテン語や古代ギリシャ語を学んでいた。彼もまた、その例外ではなかったというわけだ。
 ところが、キヌヨの喋っている古代ギリシャ語は、かなり強く訛っていた。しかも、その内容を理解した途端、ロバートは腹を抱えて笑いながらこう言った。
「ハハハハ! こりゃ可笑しいわ! ハハハハ!」
 町長を始めとするこの町の役員たちがその内容を尋ねると、ロバートは笑いながらこう言った。
「『白髪(しらが)なくなりゃ、ご臨終(りんじゅう)じゃ! 誰ぞ助けとくれや!』言うとるわ! ハハハハ!」
 その言葉を聞いたアキヨの夫で町長補佐役の勘三郎(かんざぶろう)が、真面目な顔でこう言った。
「それだけ聞きゃぁ、おかしげに聞こえるけんのぅ、それまでその言葉知らんかったもんが、なしてこげんこと言いよんよ?」
 それを聞いた途端、ロバートも極めて真剣な表情になると、キヌヨに向かって古代ギリシャ語で尋ねてみた。
「あなたの名は何か?」
 するとキヌヨは、ちゃんと古代ギリシャ語で返答してきたではないか! 興奮したロバートは、それを島の言葉に訳した。
「『わしの名は、カヴァリス。カヴァリス・ポルテミラじゃ。』言うとるぞ!」
 しかし町長アキヨは、ど迫力のある巻き舌でこう言った。
「それだけじゃ、なんだかよくわかんねぇな。もっと肝腎なことも聞いてくれよ。いつの時代のどこの国のもんなのか。」
 ロバートがそれを尋ねると、キヌヨの口を借りたカヴァリス・ポルテミラは、男のような声でこのようなことを言った。
「ファカ暦2千169年、ミランジャルファー共和国。」
 ロバートからそれを聞いたアキヨの方が、今度は笑ってしまった。
「ハッハッハ! 笑わせるんじゃねーよっ!」
 ひとしきり豪快に笑ったアキヨはこう言った。
「そんな変ちくりんな暦(こよみ)と国の名前、オレぁ聞いたことねぇーな。あんた知ってるかい?」
 アキヨにそう尋ねられたロバートも、笑ってそれに答えた。
「ハハハ! 知らん、知らん。全くもって知らん!」
 今でこそ、この島の言葉を上手に喋ってはいるが、元々彼は当時七つの海を制覇していた大英帝国(だいえいていこく)の知識人。その彼ですら知らないと言うのだから、キヌヨには酔っ払ったギリシャ人の霊でも乗り移っているのであろうか?
 ところが、ここでロバートが機転を利かせた。いわゆるSF(サイエンスフィクション)感覚の質問を始めたのだ。当時は主に、フランスやイギリスの作家が書いた、いわゆる「SF小説」の初期のものが出版され始めており、彼もそのような感性を備えていたのであろう。
 彼はまず、その国がどこに存在しているのかを問うことにした。それは、地上にあるのか地下にあるのかと尋ねてみると、その答えはこうだった。
「地上。」
 続いて彼は、それがどの星にあるのかを尋ねた。水星、金星、地球、火星、木星、土星のいずれであるかと。その答えはこうだった。
「そのどれでもない。」
 ロバートは重ねて尋ねた。
「それでは、その星の名はなんと言うのか?」
 すると、キヌヨの口から古代ギリシャ語で、このような意味の言葉が発せられた。
「その星の名は……、アトランティス。」
 ロバートは、思わず叫んでしまった。
おぉーっ!!! アトランティス?!
 彼が驚くのは無理もなかった。1882年に出版された「アトランティス―大洪水前の世界」(イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリー著)という本は、当時の米英の知識人のあいだで話題になっており、彼もその存在を知っていたからだ。
 ところがその本に書かれているアトランティスとは、かつて地球上にあった陸地の名称であり、惑星の名前ではない。だから不審に思った彼は、「その星は、宇宙のどこにあるのか?」という意味のことをキヌヨに向かってまた古代ギリシャ語で尋ねた。するとキヌヨは、ゆっくりと起き上がり、床の上に座って訝しげに眉を寄せると、島の言葉でこう言った。
「ロバート、あんた熱あるんじゃないの?」
 ロバートの目は点になったが、彼女の母親アキヨは笑ってこう言った。
「ハハハ! ロバート、駄目駄目。キヌヨからさっきの霊が出ちまったのさ。こりゃ本人だから、真面目な顔のあんたが、その言葉で何か言うと、気がふれたと思われるだけだよ。」
 その説明を聞いて納得したロバートだったが、好奇心旺盛な彼は、また先ほどの霊と話しがしてみたくなったので、我に返ったキヌヨに向かってこう言った。
「キヌヨ。あんた何しよったら神憑(かみがか)ったん?」
 キヌヨはしばらく何かを思い出していたが、やがて少し照れるとこう言った。
「……う~ん、そうそう。そこに座ってパン齧りながら、空いてる方の手で膝を掻いたとこまで覚えてるんだけどねぇ……。ハハハ。」
 最後は照れ笑いした花も恥らう乙女であったが、ロバートは極めて真剣な表情になると、母親のアキヨに向かってこう言った。
「おい、町長! キヌヨにそれさしてみんか! またさっきの霊憑きよるかわからんぞ!」
 アキヨは一瞬苦笑いしたが、満更でもなさそうにその食卓に目配せすると、キヌヨに向かってこう言った。
「物は試しだ。それ、もう一回やってみな。」
 そこには、食べかけのパンが乗った皿が置かれている。キヌヨは、そこの席の敷き物の上に胡坐をかいて座った。この島の人たちの先祖は、日本で正座という座り方が普及する前にそこから脱出してしまった。そのためこの島の作法だと、食事の時には女性でも胡坐をかくので、彼女の行儀が悪いのではないということをお断りしておく。
 キヌヨは、その自分のパンを齧りながら膝を掻いてみた。その場にいた十人ほどの男女はみな、固唾を飲んでその後起こることを見守った。しかし、何も起こらない。
 何回か試してみて、もう駄目かと思っていたところ、パンを食卓の上に放り出したキヌヨはガクッと項垂れると、再び神憑りの状態になった。どうやら、右手に持ったパンを齧りながら、左手で右膝を掻かなければならないようだ。
 今度は座ったままで目を白黒させているキヌヨに向かって、ロバートはまたギリシャ語で名を尋ねてみた。すると、キヌヨの口から男のような声が漏れた。
「カヴァリス・ポルテミラ」
 それによってキヌヨには、先ほどと同じ霊が憑いていることがわかった。
 ロバートは再び尋ねた。
「その星は、宇宙のどこにあるのか?」
 すると、カヴァリスの霊はキヌヨの口を借りて次のように言った。
「サヴィタンダ星からジェリパンダ星に向かって2278兆9837億7890万9866フォセオン、ジェリパンダ星からサヴィタンダ星に向かって138兆8804億4521万9670フォセオン。それをサミラン星に向かって3355億……」
 ロバートは顔をしかめると、その言葉をさえぎった。
「いやいや、それではわからない。太陽からの位置と距離で言ってくれ。」
 すると、カヴァリスの霊はこう言った。
「太陽とは、アトランティスの太陽か? それとも地球の太陽か?」
「地球の太陽だ。」
「計算する。少し待ってくれ。」
 しばらくすると、キヌヨは笑ってこう言った。
「……ハハ、ただいま。さっきの人また出てっちゃったよ。」
 しかし、これでアトランティス人、カヴァリス・ポルテミラの霊を呼び出す方法がわかった。それを二度ほど繰り返すと、キヌヨはもういちいちパンを齧って膝を掻かなくても、その霊を呼び出せるようになった。霊にはそれぞれ固有の波長があり、彼女はそれに同調させるこつをつかんだからだ。
 そうなればもうこっちのものだ。ロバートはそれから毎日町長の家に通ってはキヌヨに霊媒(れいばい)してもらい、カヴァリスの霊から情報を聞き出すという作業を開始した。但し、あの母親の監視付きでだが……。
 これによって、今まで地球人がその存在を知ることのなかった、アトランティス星の全貌が明らかにされていったのである。その全てを語るには長大な時間を要するので、このときそれを語った白浜カヤは、それをかなり要約したようだ。
 前置きがかなり長くなったが、いよいよここから本題に入ることになる。
 古代ギリシャの哲学者プラトンの著述によると、ヘラクレスの柱、即ち現在のジブラルタル海峡の彼方にあったという陸地アトランティスは、その昔、海の底に沈んでしまったという。ところがカヴァリスの霊によると、その住民の全てがそれによって死亡してはいなかったというのである。
 アトランティスが海に沈む直前、実はその住民の一部が巨大な空飛ぶ船に乗って、地球から脱出していたというのだ。その船はなんと、地球の暦に換算して数千年ものあいだ宇宙空間を飛び続けた末、今から約千年ほど前に、地球より少し小振りだが、自然環境が地球とよく似た星にたどり着くことができたのだそうだ。
 この広い宇宙の中で、そのような星を見付け出すことは、かなり低い確率になるのだと思う。ところが、彼らの中には「神の声」を聞ける者がいて、その指示に従ってその船を進めたところ、ほとんどまっすぐそこに行き当たったのだという。カヴァリスはそのことを「神の導き」と言っていた。
 また、そのような長い距離を飛ぶのには、膨大な量の燃料が必要になると思ってしまうが、実はそうではない。引力も空気の抵抗も全くない空間においては、物が一度動き出すと、何かにぶつかるか、他の物体の引力に引き込まれるかするまで、そのまままっすぐに進んで行けることになっている。但し、理論上はそうであっても、実際の宇宙空間では少しずつ速力が落ちてくるので、それを補うための動力が必要であるが、そのための燃料はごく微量で済むことになる。
 また、人の命には限りがあるので、当然のことながらその船の中では、その間何世代もの人々が生まれては死んでいった。その死体は、船の中で栽培している穀物や野菜や牧草の肥料にされ、次の世代の命を支えていったのだそうだ。
 そして、世代は次々に交代しても、彼らが話している言語は語り継がれて残されていった。アトランティスの公用語はもちろんのこと、カヴァリスが話していたギリシャ系の言葉もそのうちの一つであった。但し、現在我々が知るところの古代ギリシャ語は、それよりもずっと後の時代のものなのだそうで、ロバートはカヴァリスの霊からその言語の詳細を学びながら、徐々に高度な情報を得ていったのだそうだ。
 その青い星に無事に着陸することができた彼らは、その星の名を彼らの故郷にちなんで命名した。カヴァリスはたまたまギリシャ系の住民だったので、それが我々も知っている「アトランティス」という固有名詞になったというわけだ。
 その後、彼らには様々な試練が待ち受けていた……。
 まず、その星の水中にも陸上にも、植物、原生動物、節足動物、軟体動物、魚類、両生類、爬虫類に相当するような生き物から、果ては大型の哺乳動物に至るまで、正に地球と同じような多種多様の生物が生息していることがわかった。そしてそれらは、地球から連れて来た生き物たちと、小差はあれみな同じような性質と形態を有していたというのだ。但し、猿に似た生き物はいたが、人間に近い生き物はいなかったそうだ。
 その星の重力の強さや大気と土壌の成分などが地球に似ていると、そこでの生物の生成の過程も同じように類似してくるという因果関係については、地球の科学ではまだ立証されていないが、アトランティス星の科学者たちは、この事実によってそれを証明することができたのだそうだ。
 それは良かったのだが、地球から持って来た果樹や野菜を植えてみたところ、それらに付着していた病原菌によって、その周辺の植物の多くが枯れてしまったという。食用となりそうな動物に関しても、何らかの病気に感染したのだそうだ。
 また、それとは逆に、その星の微生物による病気が感染しまった地球産動植物も少なくなかったのだそうだ。
 そこでわかったことは、バクテリアからウイルスに至る、いわゆる「微生物」こそが、その星の生態系の明暗を握っているという、驚くべき事実であった。人間の腸内には細菌がなくてはならず、そのようなことは全ての動植物に当てはまる。また、悪性の病原菌が体内に入れば、その動物はそれに感染して死ぬことになる。だから、生き物を生かすも殺すも微生物次第であるということが判明したのである。
 それまで、体が大きくて複雑なつくりの生き物の方がより強いと思い込んでいた彼らには、微生物世界の大変動が人間に対してどれだけの影響を及ぼすのかを、全く予測することができなかった。そのため、その期間の約600年間は、食料となり得るものが次々と病気に掛かって滅んでいったので、彼らは慢性的な飢餓状態に陥り、そのまま絶滅してしまうのではないかというところにまで追い詰められたのだそうだ。
 しかし、微生物世界の混乱が収まってくると、生態系にある一定の秩序が生まれてきて、それは次第に食物連鎖という形で循環するようになってくる。それが安定してくると、農業や牧畜の生産も少しずつ増え、それに伴ない人々の暮らしも豊かになり、人口も次第に増えていったのだそうだ。
 ここで非常に重要なことは、食物連鎖が安定した循環をするためには、大型の動物からではなく、まず微生物の安定から始めなければならないということだ。つまり、文明世界の人間が考えている強者と実際の強者は、全く逆であったということだ。
 さて、宇宙船をつくって宇宙空間を飛行することができるほどの、高度な科学技術を持っていた彼らではあったが、それまでそういったものは、ごく少数の人が利用するだけに留まっていた。つまり、自動車や飛行機や大型貨客船にしても、王侯貴族と神官、そして彼らに仕える科学者によって独占されていたのである。
 ところが、地球の暦で今から200年ほど前に、地球の歴史と同様、この星の各国で革命が起こり、そういったものを一般大衆も手にすることができるようになった。自動車も飛行機も、一人一人が所有することのできる世の中になったのである。
 ちなみに、この星の自家用自動車は地上を走るだけではなく、水上に浮かんでそこを航行することができる。また、自家用飛行機に至っては、自宅の屋上や庭から、ヘリコプターのようにして垂直に発着することができたというのだから、様々な分野において、現在の地球の文明よりも技術がやや進んでいたようだ。
 そのような文明を享受している人々は、仕事でも遊びでも、そのような物を頻繁に利用するようになる。その燃料の原料は、地下に埋蔵されている古代の植物の油、即ち地球で言うところの石油だ。
 ところが、これも地球と同じで、その石油の消費が加速度を帯びて増え続けた結果、この星の平均気温は上昇し、それが引きがねとなって、異常気象による自然災害が各地で頻発するようになった。また、生態系への影響は更に深刻なものであった。寒い地方の動植物は温帯地方の動植物に駆逐されて絶滅し、熱帯地方の動植物は暑過ぎて生きられなくなり、その多くも絶滅してしまったからだ。
「人間の食料となっている生物が絶滅しなければ、それでいいではないか。」
 今の地球人の多くはそう考えていることだろう。だからこそ、この地球上の熱帯雨林の中で毎日何種類かの生き物が絶滅しているというのに、私たちは無駄な包装紙を使い捨てし、たった1km の道程を行くだけでも自動車に乗り、見てもいないテレビを付けっ放しにするというようなことに、何の罪悪も感じないのだ。
「たかが平均気温が3度上がったくらいで何を言うか。」
 常に冷暖房に頼って生きている人、あるいは頭だけで物事を考えている人はそう思うことだろう。屋外の気温の変化に対して鈍感になっていたり、「3」という数字が「少ない」という思い込みがあったりするためだ。
 ところが人間以外の大多数の生き物は、みな体全体で物事を考えている。別な言い方をすれば、一定の温度が一定の時間持続しなければ卵が孵化しないというように、精密にプログラミングされているのである。変温動物の生育は恒温動物に較べると、大気の温度に対してより敏感であるし、植物のそれは、動物のそれよりも更に敏感だ。
 だから、本来春に咲くはずの花が冬に咲いたりすると、人は「狂い咲き」などと言うが、そのような植物の多くは狂っているのではない。温度を敏感に感じ取って、プログラムの通り正確に花を咲かせているだけのことだ。むしろ、そのような温度の微妙な変化を感じ取ることができずに、地球の環境を破壊することをやめない人間たちの方が、よほど狂っている。
 そのため、植物が地球の気候に合わせてそのようになれば、それを餌にしている他の生き物全てが、それに合わせて生きていかなければならないというわけだ。
 アトランティス星の人たちも、この時点で何か手を打っておけば良かったのだろうが、この現象をむしろ歓迎したのだそうだ。彼らの食料となっている動植物は、主に温帯地方で生産されている。その生育可能な範囲が、南北両極に向かって大幅に拡大したからだ。それまで不毛の大地と言われていたような雪を被った地域でも、農業や牧畜が営めるようになったのだから、それは喜ぶべきことだったのであろう。
 しかし、彼らが気付いたときには、既に南北両極と高地にあった氷雪が溶け始めていた。
 この星の人々がまだ地球にいたときから、このような言い伝えがあったのだそうだ。
「地球の白髪が消えるとき人は滅びる。」
 古代ギリシャなどの知識人は、天体が球体であることを既に知っていた。だから、このような表現は特に驚くべきことではない。問題は、この「白髪」という比喩が何を指しているかだ。
 現代では、地図の上が北で下が南と相場が決まっているが、この当時そのよな決まりはまだなかった。だから、試しに地球儀を上下逆さまにしてみよう。すると……?
 地球に被さっている白髪……。それは正に南極の氷のことではないか。そうすると、このような解釈も成り立つ。
「南極の氷が溶けたら人類は滅びる。」
 これが、キヌヨに乗り移ったカヴァリスの霊からまず最初に聞き出した言葉であったのだ。しかも、彼はその後に、「助けてくれ!」という言葉も発している。
 しかし、そもそもなぜ、そのような遠くはなれた星の住人の霊が、地球人に乗り移ったのであろうか? 当然のように湧いてくるこの疑問をロバートが尋ねたところ、カヴァリスの霊はこう答えたそうだ。
「滅亡しかけている、この星を救う手立てを知るためだ。」
 彼の国には何人かの優秀な霊能力者がいて、彼らの星が滅亡の危機に瀕することを密かに予言していた。そのため彼らは、その救済を訴えるメッセージを、毎日のように全宇宙に向けて発し続けていたのだそうだ。そのうちの一人であったカヴァリスが、たまたまギリシャ系の言語によってそれを行なったところ、これもたまたまその時代の地球人キヌヨが、それに感応(かんのう)したというわけだ。
 これは、発する側はもちろん、受ける側にも極めて強い能力がなければならぬことだ。
 アキヨたちはなんとかして、そのカヴァリスの要望に応えようとした。しかし、そのような状況を経験したことのない彼女たちは、どのような助言をしたらよいかわからなかった。それでもただ一つ、このことだけは言うことができた。
「地面の下の油を燃やすことを、すぐやめたらどうなのよ!?」
 それに対して返って来たカヴァリスの返答は、こうであった。
「今の我々の生活は、その油に完全に依存している。つまり、それなしでは生きられないという状況になっているのだ。それを燃やすことをやめろと言うことは、我々に『死ね』と言うに等しいことである。」
 すると、ロバートの通訳でそれを聞いたアキヨは、思わず彼のむなぐらをつかんで叫んでいた。
「この、薄らトンカチ! 目を覚ますんだよ! そんな物がなくたって、人は元々生きていけてたはずだろう?! 自分たちが住んでる星が壊れりゃ、何もかもおしまいじゃないか! あんたの星とあんたたちが生きるために、思い切って捨てられる物は全部捨てちまうんだよっ!!」
 ロバートは恐怖に慄いた表情でアキヨを見ながら、こう呟いた。
「……お、おい、町長。そげんわしんこと責めても、らちあかんじゃろうが。」
 その震え声を聞いたアキヨは我に返ると、ロバートから手を離しながら照れ笑いしてこう言った。
「ハハ、ご免よ。今の言葉、カヴァリスに言っとくれよ。」
 ロバートは乱れた襟元を渋々と正すと、神憑っているキヌヨに向かって、先ほどのアキヨの言葉の内容をできる限りギリシャ系の言葉に訳して言った。それに対してカヴァリスの霊は、数日後に次のような返事をよこしてきた。
「あなたの言うことは正しいと思う。それを実践するために努力してみる。」
 しかし、この言葉を最後に、カヴァリスからの霊媒通信は途絶えてしまった。
 それから100年以上を経た、1998年のこと。
 これを話しているカヤは、ある晩不思議な夢を見た。
 島の浜を何気なく歩いていた彼女は、入り江の沖に突然白波が立ったのを見た。そこからは潮騒の音が激しく聞こえて来る。しばらく見ていると、それは徐々に拡大し、カヤが立っている浜にもその波が打ち寄せて来た。やがて、その沖の白波の中から褐色の陸地が姿を現した。それまで海底だった場所が隆起したようだ。
 カヤが良く見ると、その上にはゆったりした青い衣を身にまとった少女が一人立っていることがわかった。長い栗色の髪をしていて、細く上品な金の冠をしている。その少女は、カヤに向かって祈るように何かを言っているが、それはカヤにはわからない言語だった。しかし、この思念だけは確実に伝わった。
『助けて!』
 カヤはそこで目が覚めたが、それ以後は毎晩のように、その少女がカヤの夢に現れるようになった。
 ある晩、カヤは夢の中の浜から舟を出してその陸地に近付くと、そこに立っている少女に向かって思念を送ってみた。すると、その少女からはこのようなメッセージが返って来た。
『私は、アトランティス星カラサルマ王国の姫、ローダ・イシュタラ・バルバック。』
 カヤは驚いた。瓶ヶ島に密かに伝わる話しによって、その星の存在は知っていたが、もう100年以上のあいだ、そことは音信不通になっていたからだ。カヤは、ローダに向かって懸命に思念を送った。すると今度は、このような思念が返って来た。
『あなたたちの助言を元にして、私の星では改革を試みた者もいました。しかし、それに反対する者の力が圧倒的に強く、陰謀もあって制圧されてしまったのです。
どうか、助けてください!』
 数ヶ月を掛けてローダとの思念の遣り取りをした結果、アトランティス星がその後どうなったのかをカヤは知ることができた。
 それによると、まずアキヨの助言を真摯(しんし)に受け止めたカヴァリスは、自分が所属する神事省の大臣に対してそのことを進言した。それを受けたその大臣は、国会で次のような意見を述べたのだそうだ。
「全人類が今すぐにエネルギーの消費を極力控えるような生活に改めないと、この星の気候は取り返しの付かない状態になって、食料を得られなくなった人類は滅亡する。諸外国の模範となるように、この国が率先してそれを行うべきだ。」
 ところが、これに賛同する者はごく少数で、多くの者は経済産業大臣の次のような発言を支持した。
「石油に代わる代替エネルギーを開発すれば、今の生活を改める必要はない。
もし生活の改善を率先してするべきなら、それはわが国ではなく、先進国の方だ。」
 この当時のミランジャルファー共和国は、この星の中では発展途上国に属していた。そのため、誰もが物の豊かさを望んでおり、国民の多くも、経済産業大臣の発言を支持した。そして、陰謀によって神事大臣は失脚し、霊能力者たちが次々と霊力を奪われる魔法に掛けられていった。カヴァリスもその例に漏れず、そのため突然地球と音信不通になったのであった。
 ところが、父の意思を継いだ彼の息子が、カラサルマという共和国に密かに亡命した。
 この国は、比較的早くから豊かになっていたので、国民の多くは、物の豊かさに対して、もうあまり執着してはいなかった。しかも、大統領を始めとする国の中枢の人々は、霊能力に対してある程度理解があったので、カヴァリスの息子がもたらした、「この星が危ない」という予言はすぐに信じられた。しかし、いざその実践となると、ためらう者が多かった。たった百歩歩くだけの外出にさえ、自家用車を使っていたりする彼らにとって、それはかなり苦痛なことだったからだ。
 しかしこれは、早急に何とかしなければならない問題であったので、この星としては初めて、石油消費型の文明に対する批判が社会に反映された。それを手掛けた者の多くは、子供を持つ女性たちであった。彼女たちは、自分の子供の身の危険を本能的に察知することができたのだ。それに反して男性の多くは、目に見える物しか信じておらず、頭だけで物を考えており、機械を扱うこと自体に楽しみを見出していたので、それを手放すことに激しく抵抗した。そのため、文明のあり方に対する批判と、その反動との争いは、国を二分し、家庭も二分していった。
 反機械派は、調理器具や冷蔵庫といった、各家々が本当に必要としている物だけを残して、生活に直接関係ない機械類を広場に持って行っては、ハンマーや斧で次々と破壊していった。この波は、この星のあちこちの国に飛び火して行ったので、各国政府はそれを取り締まるために、反機械派の活動家を次々と投獄し、処刑していった。
 ところが、これによってこの星の気候が元に戻ったかというと、そんなことは一向になかった。なぜなら、破壊された機械を補うために機械派勢力はそれを買い漁り、企業はこぞってそれらの増産を開始したからだ。一部の資産家によってこの争いが利用されてしまったのだ。誰が一番得をしたかによって、その糸を引いている組織が見えてくる。
 しかし、その結果どういうことになったかというと、多くの女性が処刑されて粛清されたために人口は減少した。また、機械の増産によってこの星全体の気候は益々乱れ、人間の食料となる農作物や畜産物の収量は減少の一途をたどった。そして、決定的なある自然現象が起きるに及んで、この星の人類はついに最大の危機を迎えることとなるのである。
 それは、氷河期の到来であった。
 温暖化によって極冠の氷雪が溶けてしまった結果、それまで海を巡っていた大きな潮の流れが止まってしまった。すると、それまで暖流が岸を洗っていた地域、即ち文明の先進地域が急速に寒冷化し、この星の大半が氷雪で覆い尽くされてしまったのだ。すると、それは太陽光線を跳ね返し、地温が益々低下するという悪循環を生み出した。これは、この星のどの国の科学者も予想していなかった現象だったので、対策が後手後手に回ってしまった。そのため、世界規模の食糧危機が訪れることとなった。
 凍死者が出て餓死者も続出した。
 工場を経営している企業は、その資本を農業や漁業に回そうとしたが、いくら金があっても、生物はある一定の気候条件を満たさなければ生育しない。この星の人類は快楽と金儲けのために、その一番重要なものを破壊してしまったのである。

 ここまで語った白浜カヤは一息入れると、話しを一旦中断した。
 外の雨は既にやんでおり、椰子の葉からは雫がポタポタと落ちている。
 カヤは、私に向かってニヤッと微笑んで言った。
「……どうだい? 凄い話しだろう?」
 その私だけではなく、サラ、美世さん、ケンジ、新吉、そしてヤエも呆然としていたので、誰も言葉を発することができなかった。
 果物が入っていた目の前の皿は、いつの間にか空になっていたが、それをつまんでいたことすら良く覚えていないほど、私たちはカヤの話しに集中していたようであった。
 やがて、その沈黙を破り、左右両隣の席の新吉とヤエ、そして斜め左向かいの席のケンジに向かって、私は小声で尋ねた。
「……この話し、三人とも知ってたの?」
 ヤエは軽く頷いてから、やや興奮した口調で言った。
「うん、知ってることは知ってたよ。でも、ここまで詳しく聞いたのは初めてだよ!」
 ヤエより三つほど年長の新吉も、同じように言った。
「わしも、うちの婆様から聞いて知っとったが、こげん詳しゅう聞くの初めてじゃ。」
 彼の言う「婆様」とは、カイのことだ。
 新吉とほぼ同年代と見られるケンジも、同じような口調でこう言った。
「わしも、ここまで詳しゅうは知らなんだわ。」
 この話しをずっとヤエの同時通訳で聞いていたサラが、溜め息混じりにこう言った。
「……チキュウモ コレカラ コウナルカモね。」
 それを聞いたカヤが、真剣な表情でこう言った。
「そこなんだよ。あたしが一番恐れてるのは。」
 美世さんも、真剣な表情で言った。
「温暖化は最初だけで、その後すぐに氷河期になると?」
 カヤは頷いて言った。
「そう。」
 そして、私たち六人を見渡してこう言った。
「それは、今の科学とは別の観点から見れば、ある程度説明できることなんだ。」
 彼女は、自分の顔の前に右手の人差し指を立てて言った。
「もし、この地球と太陽が……」
 そして彼女は、縁台越しに見えている、雨に濡れた椰子の葉をその指で指し示すと、こう続けた。
「……生きていると仮定すればだ。」
 手を自分の胸元の卓上に戻すと、カヤは言葉を更に続けた。
「……生命体としての彼らが、自分たちの意思とは違う方に持って行かれることを防ぐために、人類に対して何らかの対策を講じる可能性がある。それが、異常気象や大地震であり、温暖化に対する寒冷化であるわけだ。」
 私は、彼女に向かって恐る恐る尋ねた。
「それならもしかして、地球と太陽が今の文明に対して……?」
 カヤは、その言葉の次がわかったようで、極めて真剣な表情になると黙って頷いた。
 美世さんは、何のことだかわからなかった様子なので、私はそれに続く言葉を小声で言った。
「敵意を持ってる……。」
 美世さんは、目を丸くして聞き返した。
「地球が?! 太陽が?! 今のこの文明に対してーーーっ?!!!」
 私は、真剣な顔で頷いた。
 この会話をヤエの通訳で聞いたサラも、目を丸くして言った。
「No way!(うっそーっ!)」
 それを聞いたカヤは、真剣な表情のまま、英語でこう言った。
「あたしたちの考え方からすると、それは有り得ることなんだ。まあ、これから世界の自然現象が人間に対してどうなっていくかを見てれば、それがわかるよ。」
 それに対してサラは英語でこう言った。
「あなたたちの考え方とは?」
 カヤがそれに答えた。
「さっきの『地球の意思』っていうことさ。それは、この星が生きてるってことなんだから。」
 サラは残念そうな表情になってこう言った。
「今までの話しで、そのことは理解できました。でも、それがどうして『文明に対して敵意を持っている』ってことになるんですか?」
 カヤは英語でその説明をした。
「今の文明が、太陽と地球のあいだに生まれた、この星の子供たちを、次々と死に追い遣ってるからさ。熱帯雨林の減少、多様な野生動植物の絶滅、埋め立てなどによる海の生き物の減少、サンゴの白化現象。これら全部、その方向で進んでるよ。だから地球は異常気象や大地震を引き起こして、自分の上にはびこってる害悪を取り除き、自らを安定させようとしてるってわけさ。」
 サラは尋ねた。
「サンゴの白化現象って何ですか?」
 カヤはその問いに答えた。
「これをちゃんと説明すると長くなるが、水温が上がったりして何かのストレスを受けると、サンゴは自分の体の中で共生している褐虫藻っていう小さな生き物を追い出してしまう。すると、サンゴは色が抜けて白くなってしまい、褐虫藻から養分の供給が得られなくなって、やがては死んでしまうんだ。」
 サラは確認するように言った。
「それらの害悪の原因が今の文明にあると?」
 カヤは頷いて言った。
「そう。」
 この会話を、ヤエの訳で聞いていた美世さんが、カヤに向かって尋ねた。
「てことは、今の文明人が地球から嫌われてるってことですか?」
 すると、カヤは日本語でこう言った。
「そういう人は、そもそも生きることができないよ。この星の上で一度(ひとたび)生を受けた以上、草花であれ虫であれ人であれ、地球と太陽のあいだに生まれた子供であることには変わりはない。でも、そのことを忘れて、その流れに逆らってるような生き物は要注意だね。」
 美世さんが尋ねた。
「……それを具体的に言うと?」
 それには、それまで黙って聞いていた新吉が、美世さんの顔を見ずにそれとなく答えた。
「草や木や生き物を身の回りから遠ざけたり、その命を粗末にしたりすることじゃ。」
 美世さんも、新吉の顔は見なかったが、明らかに意識している様子でこう言った。
「それじゃ、今の日本の都会は要注意ですよね。」
 新吉は、やや照れながら言った。
「わし、そこ行ったことないけん、ようわからん。」
 その新吉に、その向かいの席のケンジがこう言った。
「この国の都を、もっと機械だらけにしたげぇな場所じゃろう。」
 そのケンジに向かって、彼の隣の席のサラが尋ねた。
「アナタノコトバモ、ニホンゴデスカ?」
 彼は、微笑んでそれに答えた。
「Yes, but it's not this people's speaking.(そうじゃが、この人らのとは違う。)」
 彼はそう言いながら、カヤを始めとする私たちの方を示した。サラは、引き続き尋ねた。
「Is it dialect or something?(それ、方言か何かなの?)」
 ケンジはそれに答えた。
「Yes, it is. It's male's dialect in this island.(この島の男言葉じゃ。)」
 サラは、額に皺を寄せて言った。
「I heard different languge.(違う言語に聞こえたわ。)」
 ケンジは頷いて言った。
「I think so.(わしもそう思う。)」
 サラは笑って言った。
「Ha-ha! You're intresting man!(ハハ! 面白い人!)
 あらら! なんだかこの二人も、いい雰囲気になってきたぞ!
 新たに茶を入れながらそれを見ていたカヤだったが、湯呑みが各自に行き渡ると微笑んでこう言った。
「……さて、それじゃ、そのあとアトランティス星がどうなったのかを、これから話すことにしよう。」
 その言葉によって、私たちは再びカヤの声に耳を傾けた。

 ローダ姫からその後送られてきた思念によると、氷河期を迎えたアトランティス星の人々は、それぞれの国の比較的温暖な地域に、身を寄せ合うようにして暮らし始めたそうだ。いくつかの国では王政が復古したり、霊能力者が力を取り戻したりしたのだが、その一方、いずれの国でも石油の使用が奨励された。厳しい寒さを乗り切るためには、それが最も効果的であり、その副産物である温室効果ガスが大気中に放出されることによって、氷河期が終焉することを人々が望んだからだ。そしてこの星には、再び機械化の波が押し寄せた。
 一旦著しく減少した人口も、それによる快適な生活によって、徐々に増加して行った。
 ところが、ここで新たな大問題が生じた。各国が競って化石燃料の消費をした結果、この星に埋蔵されている石炭・石油・天然ガスの全てを使い尽くしてしまう時が訪れたのだ。それは、氷河期が来る前に科学者が算出していたデータよりもずっと早かったので、各国ともその対応がまた後手に回った。そのため、代替エネルギーの開発などをしている余裕はなく、残り少なくなった化石燃料を奪い合う戦争が各地で勃発した。
 それには各国とも大量破壊兵器を使用したので、凄惨を極めるものとなった。広島と長崎への原爆の投下と同じようなことが、全惑星規模で起きたのだ。
 その結果、この星の人口は再び著しく減少した。生き残った者も、その兵器から放出された毒物によって、次々と命を落としていった。
 そんな中、各国の代表が集まって協議したところ、まずは停戦して、各国がそれぞれ巨大な宇宙船を建造することになった。もはやこの星に活路はないと見切りを付けた彼らは、この星を捨てて故郷地球へ戻ることにしたのである。
 それまでローダから黙って思念を受け取っていたカヤは、ここで初めて自分の意見を送った。
『「助けて!」って言われたから、ずっと黙って聞いてたけどね、あんたたち、ちょっと勝手過ぎやしないかい?』
 ローダが聞く態勢に入ったようなので、カヤはまた思念を送った。
『その星の資源を吸い尽くして、要らなくなったから「ハイ、さよなら。次の宿主に移ります。」かい? それじゃ、まるで寄生虫みたいじゃないか。いや、ほんとの寄生虫ってのはね、宿主を殺さないように、もっと上手に寄生するもんだよ。
あたしたちだって、大昔に国を追われて出て行った経験があるけど、あんたたちとは全然違うよ。
あたしゃこの際はっきり言うけどね、あんたたち、生き物として最低だよ!』
 それに対するローダからの返事はこうだった。
『はい、それは反省しています。ですから、どうか私たちが地球に着いた時には、受け入れる態勢をつくっておいてもらえませんか。』
 それに対してカヤは、突き放すような思念を送った。
『それは、あたしの一存で答えるわけにはいかないし、もしそういう立場だったとしても、あんたたちが今のままなら、「この星に来てもらっちゃ困る」って言うしかないだろうね。』
 その返答は、深い悲しみと共に送られて来た。
『……なぜ?』
 カヤはそれに答えた。
『今のあんたたちだと、地球でもまた同じことを繰り返すだろうからさ。そうでなくても、今のこの星の文明世界にその兆(きざ)しが見られるから、あたしゃ困ってるのに。』
 それに対するローダの途方に暮れたような思念が、カヤに送られて来た。
『それでは、あたしたちは、どうすればいいんですか?』
 カヤは、断固とした意志と共に思念を送った。
『とにかくまず、石油みたいな量が限られてる燃料に安直に頼らない暮らし方を見付けること! 要するに太陽の光や地面の熱のように、ここ何万年かは安定してると思われる力を使う暮らしだよ! でもそれは、ちゃんと地面とつながった自分の魂の底から出て来るものじゃなきゃ駄目だ。そうしないと前みたいに、口が達者で人の欲望を煽るような政治家にコロッと騙されちまうから。
こっちへ飛び立つのは、あんたたち一人一人が、その暮らし方を見付けてからにしてくれ!』
 その後ローダからの思念は、ずっと途絶えたままになっていたのだった。
 ところが、今回瓶ヶ島で発案された「地球の意思主義」。これこそ、今のローダたちが必要としているものではないだろうか。場所は違っていても、その理論に変わりはない。「地球」という名称を、「アトランティス」に置き変えるだけのことだから。
 ここまで語ると、カヤは話しを終えた。

 語り終えたカヤに向かって、私は一礼しながら言った。
「婆ちゃんお疲れ様。ありがとうございました。」
 そして、感動を込めてこう言った。
「……なるほど。それがさっきの、『あの星に伝える方が先だ』という言葉に繋がるわけですね?」
 自分の茶を飲み終えた彼女は、ホッと一息入れてから、私に向かって微笑んで言った。
「……そうだよ。あの子たち、このままほっときゃ、みな死んじまうからね。」
 深く納得した私たち六人は、それぞれ黙って頷いた。
 雨上がりの雲間からは、再び太陽が顔を覗かせており、椰子林のあいだからは、オレンジ色の夕陽がこの室内にも差し込んで来ている。
 外の縁台には、既にこの家の人の何人かが夕涼みに出ていて、先ほどから手摺にもたれたりして、家の中から聞こえるカヤの話しをそれとなく耳にしていたのだが、その中のアミが、こちらに向けて言った。
「なんでもいいから、とにかくこっちに来てもらったらいいのに。そのあいだに、いい知恵も浮かんでくるでしょうから。」
 それを聞いた家の中のカヤは、夕陽に照らされているアミに向かって穏やかな顔でこう言った。
「そうだよね。人間宇宙に出りゃぁ、それなりにまともなことを考えるようになるようだから。」
 しかし彼女は、やや真剣な表情になってこう言った。
「でもね、問題はそこじゃない。」
 そして彼女は、屋内の私たちを見渡してから言った。
「自分の住んでる星をそこまで壊してしまったあの子たちが、それをどう再生させるかにあるんだ。駄目になったものをあっさりと捨てて、やり直すっていう発想、あんたなら知ってるだろう?」
 彼女はそう言って、なぜか私を見た。私は一瞬うろたえたが、すぐにピンと来たので、彼女に向かってこう言った。
「……ああ、それはコンピューターやテレビゲームの発想ですね。途中どこかで失敗しても、リセットボタンを押せばすぐに最初からやり直せる。」
 カヤは、当を得たりと言うように言った。
「そうなんだよ!」
 そして彼女は、アミに向かってこう言った。
「この発想は、良いときもあるし悪いときもある。
何かに行き詰ったとき、くよくよ考えるよりも、一からやり直した方がうまく行くことがある。これが良いとき。
それじゃぁ、悪いときは何だかわかるかい?」
 そう問われたアミは、縁台の手摺にもたれて夕陽を浴びながら、しばらく考えていたが、やがてハッして言った。
「……あっ、そうか! 自分が気に入らなくなったものを、あっさりと捨ててしまうってことね?」
 カヤは、大きく頷いて言った。
「そう! その通り! 自分が気に入らないものは消去してしまうっていう発想だ。それが犬であれ猫であれ、我が子であれ親であれ……。」
 アミがその後を引き継いで言った。
「……自分が住んでる星であれ。」
 カヤは、極めて真剣な表情で言った。
「そうなんだよ! ただ地球が恋しくてこっちに来たいってんなら、あたしゃ何も言わないよ。でもね、自分たちが生かしてもらってる星の命をそこまで痛め付けてしまったんなら、それを命懸けで元に戻そうとしなけりゃ! それが人間てもんだろう?」
 その言葉によって、アミを始めとするその場の一同は、みな口々に言った。
「そうだよね!」
「その通りじゃ!」
 そしてカヤは、やや微笑んでこう言った。
「もしあの子たちが、そういう難しい問題を克服することができたらだよ。あたしたちがこの星を救う手立てだって、そこから学べるんじゃないか!」
 なるほど、やはり彼女は非凡だ。ただ単に情けで人を助けるのではなく、ちゃんとお互いに得するように持っていくところが凄い。
 カヤは、大きく伸びをしながら言った。
「うーーーん! 腹の底から大事なことたくさん喋ったら腹減った!」
 その言葉によって、私たちから笑い声が上がった。
 カヤは、外にいる者にも聞こえるように大きな声でこう言った。
「さて、ちょっと早いけど夕餉にしようか!」
 そして、ゆっくりと立ち上がりながら、新吉とケンジに向かって普通の音量でこう言った。
「あんたたちも一緒に食べてったらいいよ。それぞれの家には使いを出して、『ここで食べる』って言っておくから。」
 そう言われた二人の若者は、互いに顔を見合わせた。ケンジが新吉に向かって小声の早口で言った。
「なしてじゃろう?」
 新吉も同じようにそれに応えた。
「ようわからん。」
 そして二人は、カヤに向かって口々にこう言った。
「ほんじゃ、ご馳走になります。」
 大人も子供も賑やかに台所へ赴き、雨上がりの縁台の食卓には次々と料理や食器が並べられていった。いつもの白浜家の食事の支度だ。客人を含めた私たち六人も、もちろんそれに加わった。
 やがて、夕闇に包まれた縁台のあちこちに明かりがともされ、賑やかな夕食が始まった。
 サラとケンジは、すっかり意気投合しており、食事をしながらも英語で熱く語り合っている。一方、美世さんはいつの間にか新吉の隣の席に移っていて、時折り言葉を交わしている。酒が入ったせいか、それまで新吉が美世さんに対して向けていた緊張はもう感じられない。これはもう、二組のカップル誕生と見て良さそうだ。
『もしかして、始めからこうなることをわかってて、婆ちゃんは新吉とケンジを誘ったのかな?』
 私がそう思って、何気なくカヤの方を見ると、長い食卓の奥に座っている彼女も丁度私の方を見たところだった。そして私と目が合うと、行灯の暖かな明かりに照らされたその顔が、私に向かってニコッと微笑んだ。
『やっぱりそうか!』
 私がそう思うと、彼女は黙って頷いた。そして彼女が、『そうだよ』と心の中で言っているのが私にはわかった。
 焼き魚を一口つまんで焼酎を飲んだ私は、自分の右隣の席のヤエに向かって小声で声を掛けた。
なぁなぁ……
 この島名物の手打ちうどんを自分の皿に取っていた彼女は、こちらを見ずそれに応えた。
「……なに?」
 私は、二組の新生カップルの方に目配せすると、明かりに照らされているヤエの横顔に向かって再び小声で言った。
「ヤエも、こうなること知ってたの?」
 彼女は箸でうどんを口に運びながら、そちらにチラッと目を向けたが、そっけない返事をした。
「……うん。」
 その一方私は箸を置くと、やや興奮して尋ねた。
「それじゃ、この先どうなるのかも!?」
 彼女は、引き続きうどんを食べながら言った。
「……うん、少しだけね。」
 私はじれったさを堪えながら彼女の方に頭を寄せると、小声で尋ねた。
どうなるの?
 口の中の物を飲み込んだヤエは、ようやくこちらに顔を向けると、私の耳元でこう言った。
「……あたしたち三人が日本に帰るとき、サラと新吉とケンジも一緒に付いて来るって。」
 四人を見渡した私の目が思わず丸くなった。そして、ヤエの方にやや体を向け直すと、責めるような口調でこう言った。
「ヤエちゃん。あのね、そういうことがわかった時点で、それを俺に教えてくれなきゃ困るよ。これじゃまるで、つんぼ桟敷にいるみたいじゃないか。」
「つんぼさじき? なにそれ?」
 彼女は怪訝そうな顔になってそう尋ねた。そうか、この島にはこの言葉はなかったんだな。面倒だなと思いながらも、私はその説明をした。
「芝居小屋とかで、音が聞こえにくい場所のことを言うの!」
 するとヤエは、口をもぐもぐさせながらではあるが、やや済まなそうな口調でこう言った。
「……ごめんね。隠すつもりはなかったんだけど、ずっと前にわかったことだったし、あんたにはわざわざ言わなくても、そのときになればわかると思ったから……。」
 私は、落ち着いた口調に戻ってこう言った。
「わかった。これはもういいから、他にも俺の知らないことがあったら教えてよ。」
「……うーん、そうだねぇ……。」
 そう言って何かを考えながら、ヤエは皿の上のうどんを全部食べてしまうと、自分の器に入っている焼酎を一口飲んでから、私の方を向いてこう言った。
「……日本に帰ったらあたしたち六人は、一緒に何かの大きな仕事をすることになるみたいで、そのときに新吉とケンジの腕が是非とも必要になるみたいなの。」
「……腕?」
 そう言ってから、上半身裸の二人の若者の逞しい腕を交互に見比べた私が、怪訝そうな顔をヤエに向けると、彼女は極めて真剣な表情になってこう言った。
「そうだよ。二人とも、防衛軍の兵隊だからね。」
 今度は二人の若者の横顔を交互に見た私の目が、再び丸くなった。そして、ヤエに向かってこう尋ねた。
「兵隊としての腕を必要とするって!?」
 ヤエは黙って頷いた。ということは、どういうことなんだろう? 私は重ねて尋ねた。
「その仕事って、何かヤバイ仕事とか?」
 ヤエは、小声でそれに答えた。
うん。あたし、それが元で、誰かから命を狙われるみたいなんだ。
 その一方、私は驚いて思わず声が大きくなった。
えーーっ!! 誰かって、誰から?!!
 ヤエは、困ったように眉を寄せて言った。
「そこまで詳しくはわかんないよ。」
 そしてまた真剣な表情になると、小声でこう言った。
わかんないけど、どうも社会的にある程度力を持ってる人みたいだね。
 それにつられた私も声を落としてこう言った。
婆ちゃんか誰かが夢で見たの?
これは、あたしが自分で見たんだよ。心配させるといけないから、まだ誰にも話してないことなんだから……
 彼女はそう言うと、私の耳元に顔を近付けてこう言った。
あんたも、誰かに言っちゃ駄目だよ。
 私は頷きながら言った。
……わかった。
 しかし、えらいことを聞いてしまったものだ。私はそのことが気になってしまって、食事どころではなくなってしまったが、当の本人のヤエは、何事もなかったように平然と焼酎を飲んでいる。これは、新吉とケンジの兵隊としての腕を全面的に信頼しているのか、自分が子供を連れてこの島にまた帰って来るというアミが見た夢の実現を信じているのか、それともただ単に糞度胸があるだけなのか私にはわからなかったが、いずれにせよ本人がショックを受けていないだけ、まだ救われるなと私は思った。
 このとき、私の斜め向かいの席のケンジの声が、ひときわ大きく聞こえた。
Yes! Let's try! Yuo should try it!(そうじゃ! 試してみんか! 試さにゃいけんぞ!)」
 彼は、自分の隣の席のサラに向かって、しきりにそのようなことを言っている。サラは、始めは可笑しそうに笑いながら、
「No Kenji, no!(駄目よケンジ、駄目!)」
 などと言っていたが、そのうちやや真剣な表情になると、彼に向かってこう言った。
「Ok now, I'll try it. Look at this!(わかった。それじゃ試してみるわ。これ見ててね。)」
 と言って、自分の目の前の一枚の皿をじっと見詰めた。
 彼女は30秒ほどそうしていたが、やがてやや残念そうな笑顔になって、ケンジに向かって英語でこう言った。
「ほら! 何も起こらないじゃない。あたしが言った通りだわ。」
 それに対して極めて真剣な表情のケンジは、英語でこう言った。
「魔法には呪文が付きもんじゃ。何か言わんならんのと違うか?」
 すると、サラもやや真剣な表情になってこう言った。
「でも、あたし何て言ったらいいのか知らないもん。」
 どうやらこの二人は、サラの先祖のクレールがしたように、物を宙に浮かせることができるかどうかを試そうとしているようだ。
 一方、私の左隣からは、そのまた隣の席の美世さんと新吉が交わしている会話が、ポツリポツリと聞こえて来た。
「……仕事か? わしゃ、防衛軍の兵隊じゃ。」
「……具体的に、どんなことをしてるんですか?」
「……武器の手入れしたり、訓練したり……諜報活動とか、じゃな。」
「……武器って、ピストルとか機関銃とか?」
「……うーん、そげなもん使うもんもおるが、わしらの所属は忍術隊じゃけん、手裏剣とか吹き矢とかじゃよ。」
 ここで、美世さんの感動したような大声が上がった。
えーーーっ!!! 新吉さんて、忍者だったんですかぁーー??!!
 新吉の照れたような声がした。
「今の日本では、『ニンジャ』言うんかわからんが、わしらは『忍術使い』言うとるんじゃ。」
 ほう! そうだったのか! 日本には銃刀法という法律があるので、正規の軍隊ならかなり活動の制限を受けるが、忍者のような戦闘員ならかえって動き易いかも知れない……。
 そうこうしているうちに、先ほどヤエの言ったことが早くも一つ現実化してしまった。この夕食の席で町長のアミが、新吉とケンジの二人に向かって、ヤエの補佐として日本に行くよう正式に要請したのである。パスポート取得の手配は既にしてあるのだそうだ。本人抜きでそんなことができるなんてことは、この国の政治を陰で動かしているカヤがいるからこそなのだろうが、私は何だかスパイ映画でも観ているような気分になってきた。
 ということは、ヤエが命を狙われるということを、アミもカヤも知っているのだろうか?
 みなが食事を終えて二人の若者が帰ってから、私は自分の使った食器などを重ねながら、やはり食卓の上を片付けているアミに向かってそれとなく尋ねてみた。
「ねぇ母さん、今までは私一人で済んでたのに、今度のヤエの日本行きでは補佐を二人増やすって、何か特別なわけがあるんですか?」
 すると、片付けの手を止めた彼女は、私に向かってこう言った。
「カカシ、これは誤解しないで聞いてね。今までヤエの補佐は、あなた一人だけで充分だったけど、これからの仕事は、あの二人の力が必要になりそうだからなのよ。」
 私は怪訝そうに尋ねた。
「え? 今までは日本視察でしたよね。それじゃ、これからはそうじゃないってことなんですか?」
 彼女は、やや困ったように声をひそめて言った。
「どうも大昔に死んだ人の霊を、あの子が呼び出すことになりそうなの。その人は霊力のとても強い人でね、今の日本の政治や宗教や社会のあり方に対してヤエの口を借りて異を唱えるんだけど、そのことを知ったある人たちから、あの子が狙われることになりそうなの……。」
 それを聞いた私は思わず仰天したが、彼女はここで話しをやめると、一瞬台所への出入り口を見た。その中では、姉のカエと共にヤエが洗い物をしているはずだ。それを確認したアミは、私に向かってこう言った。
「……このことは、ヤエには言わないでちょうだいね。不要な不安を掻き立てるだけだから。」
 ヤエ本人からも似たような話しを聞いていた私は、複雑な心境で自分の席から立ち上がると、アミの前に立ちはだかり、やや呆れた口調でこう言った。
「はぁ、それはわかりましたけど……、なんでそんなに危険な目に遭うとわかってて、わざわざあの子にそんなことさせるんです?」
 すると、アミはやや毅然とした口調でこう言った。
「まずこれは、霊能力がなければできない仕事だし、こんな危険なことをあたしとしては、他の人に頼むわけにもいかない。だから、これはヤエがするしかないの……。」
 そして彼女は、私から顔をそむけると片手で目頭を押さえた。
 なるほど、そうだったのか。それなら、町長という立場と母親という立場の板ばさみによって、アミはかなり辛い思いをしているに違いない。
『それにしても、命を賭けてまでして、一体何のためにそんな霊などを呼び出さねばならないのだろうか?』
 そんな思いが頭をよぎった。ちょうどそのとき、ヤエ本人が台所から出て来て、食卓の上に身をかがめ、そこに積まれた食器類を持とうとしたが、自分の母と私が向かい合って立っている姿を見た途端に、ハッと何かを察したようだった。ヤエは食器をそこに置いて身を立て直すと、アミに向かって仕方なさそうにこう言った。
「そうか……。やっぱり母ちゃんは知ってたんだね。あの二人に補佐を頼んだくらいだから。」
 するとアミも、ヤエに向かってこう言った。
「あんたなら多分夢で見てわかってると思ってたんだけどね……。」
 そして彼女は、ヤエの方に歩み寄ると、その体を両腕でしっかりと抱き締めた。そして、涙声でこう言っているのが聞こえた。
……ごめんね。こんな危ない仕事を任せて。でも、誰かがやらないと、日本も地球もこのまま破滅に向かうだけだから……
 母の腕の中のヤエは、努めて明るい声でその言葉をさえぎった。
「うん、わかってるよ母ちゃん。大丈夫。あたし、ちゃんと生きて戻って来るから。」
 アミはヤエの体を離すと、しばらくその頬を両手で撫でていたが、再び強く抱き締めた。
 この縁台にはいつの間にか、この家の大人たちが集まっていて、行灯の暖かな光に照らされたこの光景を無言で見守っていた。サラと美世さんもいる。そこからカヤが一歩進み出ると、アミに向かってこう言った。
「……あたしも一緒に行ってやろうかねぇ。なんかの足しになるかも知れないから。」
 カヤが一緒なら何かと心強いはずだが、ヤエの体を離したアミはカヤの方を向くと、しっかりした口調でこう言った。
「ううん、いい。母ちゃんがここを留守にすると、この国では困る人がたくさんいるから、母ちゃんはここにいた方がいいわ。
この子はきっと大丈夫だと思う。元々運の強い子だし、二人の強い兵隊と、日本の社会の底に潜む大きな問題を見抜いてるカカシが付いててくれるから。
立派に仕事を終えたヤエは、自分の子供を連れて必ず帰って来る。あたしは、その夢が正夢だって信じてる。」

 その翌日の5月4日、朝食を食べ終えた白浜家の私たちは、手に手に筵(むしろ)や日傘や飲み水が入った竹筒などを持って母屋を出ると、町の中央の広場に赴いた。もちろんサラと美世さんも一緒だ。
 集会のその会場には、私たちと同じような町民たちが続々と詰め掛けていた。各家庭が石畳の上に座る位置は暗黙の了解で決まっているようで、白浜家の一行は昨日と同じ場所に筵を敷くと、そこに腰を下ろして日傘を差した。まるで、日本の学校の運動会の観客席の規模を、ずっと大きくしたような感じだ。
 今日はサラと美世さんとヤエと私も賓客席や役員席ではなく、ここに座った。そこに新吉とケンジが早速現れて、口々に挨拶した。
「おはようございます。昨日はご馳走様でした。」
「昨日はご馳走になりました。おはようございます。」
 座ったままではあるが、私たちも口々に挨拶を返した。カヤも挨拶を返してから尋ねた。
「日本行きの支度はできたかい?」
 ケンジが照れ臭そうに言った。
「昨日は帰ってすぐ寝てしもうたけん、まだなんもしちょらん。」
 新吉も同じように言った。
「わしもじゃ。」
 アミが、からかうように微笑んで言った。
「これから集会だし、午後はもう出発だから忙しいわよー。」
 その夫のジルも、やはり微笑んで言った。
「支度っても男のことじゃけん、そげに大そうなことはあるまい。」
 彼とその娘婿のヤジの二人が、白浜家の舟によって私たち六人を首都の港まで送り届けてくれることになっているのだ。
 カヤは自分たちが座っている筵を指し示すと、二人の若者に向かってこう言った。
「あんたたちも空いてるとこに座んなよ。」
 その言葉が終わらぬ間に美世さんとサラが、それぞれ自分の横をサッと空けたので、必然的に新吉は美世さんの横に、ケンジはサラの横に腰を下ろすこととなった。こういうときの女の行動の素早さはかなり本能的だ。きっと、大脳を経由しない神経系統を持っているのだろう。
 二人の若者と入れ違いに町長のアミと顧問のカヤは席を立つと、演台の向こう側にある役員席の方へと向かった。
 それからしばらくは、美世さんとヤエと私が、サラと二人の若者に向けて現代の日本の風習やしきたりなどについてを面白おかしく説明していたが、開会の時刻が訪れたようだ。司会の北浜ナツミが演台の上に立つと、それまで賑やかだった会場が静まり、彼女の良く通る声が朝の光の中に響き渡った。
「みなさん、おはようございます。」
 町民たちの元気の良い声が会場に溢れた。
おはようございまーす!
「それでは、2007年5月4日、瓶ヶ島町民集会をこれより始めます。
今日はまず、アトランティス星のローダ姫を呼び出すための儀式を行います。それが成功したら、次は昨日提案された『地球の意思主義』を彼女に伝えて、それに対する反応を待ちます。そして、その反応次第では、あの人たちがこの島に来て住み着いても構わないという答えを送ります。
それでは早速、儀式に入りたいと思います。まずは町長から、挨拶と開会の言葉です。」
 役員席の中からアミが立ち上がり、ナツミと入れ替わって演台に立つと、これまた良く通る声で挨拶を述べた。
「みなさん、おはようございます。」
 再び町民たちの声が会場に溢れた。
おはようございまーす!
 アミは言った。
「今までは、ローダ姫から呼び掛けられることはあっても、こちらから彼女を呼び出すことはありませんでした。しかし、これは急を要することなので、その初めての試みをこれより行います。
それでは、決められた人は、それぞれ自分の持ち場に就いてください。」
 その言葉によって、俄かに会場がざわめき、役員席の中や一般町民席の中から何人かの男女が、演台の周辺に集まって来た。その中の二人が、演台の前に火を起こし、アミと入れ替わった初老の女性が演台の上に敷物を敷き、そこに胡坐をかいて座った。彼女の着ている白い木綿のTシャツは、この島ではよく見掛けるものだったが、真っ赤な色の腰巻は初めて見る。
 間もなく、更に年老いた一人の女性が演台の前にやって来ると、持っていた椰子の実の椀をそこに座っている女性に差し出した。その女性は、両手でうやうやしくそれを受け取ると、一瞬その中を覗き込んでから、そこに入っているであろう何らかの物を一気に飲み干した。どうやら、これらの人々は前もってその所作が決められているようだ。
 そのような光景を興味深く見守っていた私は、自分の隣の席に座っているヤエの脇腹を肘で突付くと、彼女の耳元で囁いた。
なに? あれ?
 彼女も私の耳元で囁いた。
ヨミタケを煮たもの。
 私の知らない単語だったので、私は聞き返した。
「なに? それ?」
 彼女は早口で囁いた。
「黄泉の国のヨミとキノコの茸と書いてヨミタケ。この島特産のキノコで、霊を呼び出すときに巫女が使うの!」
「へー! 知らなかった!」
 なるほど、あの女性は巫女だったのか! そう言われると服装の色取りだけならそのようにも見える。
 しかし、よくもまあ次から次へと珍しいものが現れるもんだ。まあ、四百年も前に日本から枝分かれして、南国のこの島に来た人たちなのだから、そういうことがあっても当前と言えば当前なのだが……。
 私が感心していると、空になった椀を巫女から受け取った老女は一般町民席へと帰って行って、その代わりに一人の初老の男性が、先ほど焚かれた火を挟んで石畳の上に敷物を敷いた。そして、巫女と向かい合わせになるようにして座った彼は、持っていた細長い袋の中から一本の笛を取り出すと、それをおもむろに吹き始めた。
 それは日本の能管の演奏と良く似ており、とてもゆっくりしたテンポだが、死後の世界とか暗黒の大宇宙を連想させるような幽玄な響きであった。巫女は目を閉じて、しばらくそれに聞き入っていたが、やがてその上半身が、突然ガクッと前に倒れた。すると、笛の音は徐々に小さくなって、やがて消えてしまった。
 今度は役員席の中からカヤが立ち上がると、笛を吹いていた男性と入れ替わり、その火の前の敷物の上に立った。
 カヤは、うつ伏している巫女の肩に向かって呼び掛けた。
「アトランティス星カラサルマ王国の姫、ローダ・イシュタラ・バルバック!」
 しばらくしても返答がなかったので、カヤは再び呼び掛けた。
「アトランティス星カラサルマ王国の姫、ローダ・イシュタラ・バルバック!!!」
 すると、巫女の肩が小刻みに震え始めた。それは次第に大きくなり、やがて全身を激しく振るわせた。どうやら、何らかの霊が巫女の体に乗り移ったようだ。その震える肩に向かってカヤが優しく声を掛けた。
「あんた、ローダなのかい?」
 すると、巫女の体の震えは徐々に収まってきたが、今度は呼吸が速くなり、息が荒くなってきた。そして、両手で自分の喉を押さえると、巫女は上半身を伏せたまま苦しそうに呻き始めた。
 大きな目を更に丸くしてそれを見たカヤは、慌てて演台に駆け寄ると、役員席のナツミに向かって早口で叫んだ。
「おーい、水だ! 水!」
 カヤは縁台の上に上がると、そこに膝を着いて巫女の上半身をそっと起こした。そして、司会のナツミが慌てて持って来た椰子の実の椀を受け取ると、そこに入っている水を巫女の口に含ませた。それを数回に分けて飲み干した巫女の荒い息が徐々に収まってきた。すると、それまで固く閉じられていた瞼が薄っすらと開き、巫女はカヤの腕から身を起こした。そして、カヤに向かって何かを言ったが、声が小さくて私には聞き取れなかった。
 カヤは、その巫女の横に座ると、その両手を握って再び呼び掛けた。
「ローダかい?」
 すると巫女は、小さく頷いて俯き、声を上げて泣き始めたではないか。そして、カヤに向かって泣きながら何かを訴えているが、声が小さいだけでなく、それは外国語のようだったので、私には全く聞き取れなかった。
 しかし、カヤはそれを「うん、うん」と頷きながらちゃんと理解しているかのように聞いている。どうやらこの二人は思念で遣り取りしているらしく、お互いの言語が違っていても、ちゃんと意思の疎通ができているようだ。
 二人は一時間近くもそうしていたが、巫女の上半身が突然ガクッと前に倒れたかと思うと、カヤはそこからゆっくりと立ち上がった。そして一般町民席の方に向かって手で合図を送ると、二人の中年女性がやって来て巫女の介抱を始めた。どうやらそこに憑いていた霊が出て行ったようだ。
 ところが、無事に終わったのかと思ったらそうではなかったようだ。その場に立ち尽くしているカヤの表情がいつになく厳しく、眉間には深い縦皺が寄っているのだ。このような彼女の顔を見るのは初めてだったのだが、そう思っていたのは私だけではなかったようで、会場には人々の不安そうなざわめきが広がって行った。
 自分の意識を取り戻した巫女が退場すると、カヤは演台の上から一般町民席を見渡した。すると、ざわめきは次第に静まっていった。カヤは、重々しく口を開いた。
「たった今、カラサルマ王国の姫ローダから、驚くべきことを聞いた。」
 彼女の次の言葉を待つ会場は、水を打ったような静けさとなった。
「あの子はもうこの世におらず、今あたしが話していたのは、死後の世界から来たあの子の霊だったんだ!」
 そのカヤの言葉を聞いた途端に会場が騒然となった。
 私も驚いてアミに尋ねた。
「えーー!? まだ若い人なんでしょ?」
 アミも目を丸くしていたが、やや冷静な口調でこう言った。
「どうやら、何か不自然なことがあったみたいね。」
 しばらくしてカヤが右手を上げたので、会場はまた静まった。彼女は私たち一般町民に向かって、再び重々しい口調でこう言った。
「暗殺だ! あの子は、アトランティスの暦の3年前に、家臣によって毒殺されたんだそうだ。呼び出したときに、いきなり苦しがってたのはそのせいだ!」
 再び会場が騒然となった。カヤはまたそれを静めてからこう言った。
「今回あの子から思念で伝わった話しをする。言葉にして話すとかなり長くなるから要約して話すよ。」
 彼女はそう言って、ゆっくりと演台の上に腰を下ろすと、私たち一般町民に向かって語り始めた。

 地下のエネルギー資源の底が付いてきたので、その争奪のための世界戦争が勃発。それに使用された大量破壊兵器によって危機的状況に陥ったアトランティス星。それを捨てて、彼らの先祖の故郷である地球目指して飛び発つという計画を立てた、その星の指導者たち。その中で、その計画に異を唱えたのが、まずカラサルマ王国の姫ローダであった。
 カヤからの思念によって目覚めた彼女は、国の実権を握っている父王に向かって、ある夕食のときにこう尋ねた。
「王様、このアトランティスをあたしたち人間が住めないような星にしてしまったのは、一体誰なの?」
 白ワインのような色をしている果実酒を一口飲んだ王は、娘に向かってそれに答えた。
「……色々考えられるが、まずは我らが宿敵ドミンゲル王国だな。あの国は、化石燃料を思いっきり使い続けていたから。」
 それを聞いた姫は、訝しそうにこう言った。
「それなら、この国だって同じでしょ?」
 それを聞くなり、王は姫の顔から目をそらせると、ややしどろもどろになってこう言った。
「え? うん、いや……その……」
 そして彼は、気を取り直してこう続けた。
「それなら、カランディア共和国とヒルラード王国、そしてミランジャルファー共和国のせいだ。これらの国々は、大量破壊兵器を不法に生産しておった悪の枢軸だったからな。」
 しかしその言葉によって、姫の表情は更に訝しそうになった。
「それを真っ先に作って真っ先に使ったのは、この国だったんじゃないの!?」
 王は、やや困ったようにこう言った。
「どうしたんだローダ?! 急にそんなこと言うようになって!」
 姫はそれには答えず、無言で父王の顔を見ているだけだった。
 彼女からまた目をそらせた王は眉間に皺を寄せると、やや厳しい口調でこう言った。
「余計なことを考えずに、子供は早く寝なさい!」
 ローダはまだ食べ掛けではあったが、無言で席を立つと、そこに同席していた王族や家臣たちが心配そうに見守る中、この食堂を退出して自分の寝室へと向かった。彼女の二人の侍女も飲食を中断すると、その後を追った。
 翌日の朝食の席では、夜空のような濃紺の汁に緑に輝く豆が浮かんでいるスープが出された。それはローダ姫の好物であったが、彼女はそれを浮かぬ顔で見詰めながら、なかば独り言のようにこう言った。
「この星を捨てて地球へ行っても、住む当てはあるの?」
 この星の穀物で作った緑色のパンを手でちぎっていた王は、面倒臭そうにそれに答えた。
「……う~ん、それは今のところない。着いてから決める。」
 そして、昨夜のことがあったためか、やや不機嫌そうな顔で姫を見ると、こう付け加えた。
「それがどうしたんだ?!」
 姫は、やや悲しそうな顔を王に向けてこう尋ねた。
「それじゃぁ、元からそこに住んでる人はどうなるの?」
 王は姫の顔から視線をはずすと、更に不機嫌そうにこう言った。
「我々だって元はそこに住んでたんじゃないか! そんなことぐらい、お前もこの星の歴史を学んで知ってるだろう?」
 それに対して、姫は王の顔を見ながらこう言った。
「うん、知ってるよ。あたしが聞いてるのは、その人たちの住んでる星にあたしたちが急に押し掛けたら、その人たちはどうなるかってことよ。土地には限りがあるんだろうし。」
 王は、何を言うんだと言うような表情で姫の顔を見てこう言った。
「お前、頭が変になったんじゃないのか? そんなことを考えて、我々に何の得があるんだ!?」
 姫は、相変わらず浮かぬ顔でそれに答えた。
「損得なんてないわ。つい考えてしまうのよ。もしかして、あたしたち間違ってるんじゃないかって。」
 しかし王は、断固とした口調でこう言った。
「かつて地球を脱出した我々の先祖が、まっすぐこの星にたどり着けたのは、『神の導き』があったことは、お前も知っているだろう? 神から守られている我々の決断に、間違いなど有り得ないのだっ!!!」
 王は余程気分を害したらしく、まだ食べ掛けのようではあったが、荒々しく席を立って食堂を出て行った。王直属の数名の家臣たちがその後ろに付き従った。
 この日からローダは、王との食事の同席を許されなくなり、彼女の部屋に食事が運ばれるようになった。そして、そのドアの前には番兵が立つようにもなった。彼女が信頼していた二人の侍女は解雇され、その代わりに王の側近の一人である家臣の妻が彼女の侍女として就任した。しかしその女は、姫に仕えるというよりも、どうやら姫の監視役という立場のようであった。
 たとえ実の娘であれ、王に楯突いたローダ姫の味方に付く者は、この宮殿には誰一人としていなかった。彼女の実の母親である王妃さえも、彼女の境遇に同情こそすれ、内心では「自分で蒔いた種だ」と思っていることが姫にはわかっていた。
 そこで彼女は持ち前の霊能力を生かして、宮殿外部の者との接触を試みた。その結果、彼女の意見に同調した思念を送ってきた者を、彼女は密かに集めて実際に会うことに成功したのである。
 この星から脱出する宇宙船の空間には限りがあるため、この国でそこに乗り込むことが出来るのは、王侯貴族や豪商という身分の者に限られていた。今回ローダの意見に同調してきたのは、全てそこからはずされた者たちであった。
 ある真夜中、黒っぽい服を身に着けたローダは、見張りの目をかいくぐって宮殿を抜け出すと、下町に入ってその一角にある地下へと通じる細い石段を、持っていたランプの明かりを頼りに降りて行った。その突き当たりにある小さな木の扉の前で立ち止まった彼女は、それを軽くノックした。そこは、地下に設けられた古い居酒屋であった。彼女たちは、いつもここで会合を開いていたのである。今夜の会合では、各国に偵察に行っていた者からの報告を聞くことになっていた。
 それによるとある国では、神の化身であるその国の王をこの星から逃がすのは国民の使命で、この星に置き去りにされることをむしろ誇りに思ってるということであった。
 またある国では、脱出するための宇宙船に乗れるのは、高価な乗船券を買える者に限られているとのこと。
 またある国では、その宇宙船に乗る人間は抽選で選ばれることになっているが、人と共に連れて行く動物を分けているとのこと。具体的に言うと、人の食料となったり人や物を運んだりするような生き物を「役に立つ生き物」、それ以外を「役に立たない生き物」と分けていて、「役に立つ生き物」を人間と共に連れて行って、『役に立たない生き物』は置き去りにすることになっているそうだ。
 それを聞いて彼女は言ったそうだ。
「あたしたちは、救済されるなら全てが救済され、この星と運命を共にするなら全てがそうしなければならない。
誰かを置き去りにして、ごく一部の選ばれた人だけが逃げれば、その人たちはそういう考え方を新たな住み場所に持って行って、また同じことを繰り返すだけだわ。そうなればそのような人間は、この宇宙の生き物が住める星を次から次へと滅ぼして回ることになるわ。
そしてあたしたち人間という種族は、この世をお造りになった神様から『悪魔』と呼ばれることになる。それは何としても止めなければいけない。それが今のあたしたちこの星の人間に与えられた、善へ戻れる最後の機会だわ。」
 それに対して満場一致の賛成の声が上がったそうだ。
 そしてローダたちは、その後この国や他の国々のより多くの者と連絡を取り合い、この星を見捨てて地球へと向かう者たちの計画を阻止する作戦を立てたのである。ある国では、その王を退位させること。ある国では宇宙船が大気圏を出てから戻って来るように、その制御部分を密かに改造すること。そしてこの国では、建設中の宇宙船の心臓部を爆破すること……。
 ところが、いつの時代、どこの惑星でも、人間は「裏切り」という行為を必ずするようになっているようだ。ローダたちの組織に於いても、その例外ではなかった。この組織に関する情報を王の家来の耳に入れた者がいたのだ。地球行きの宇宙船に乗せてくれという条件で。しかし、それがローダにわかったのは、彼女の死後のことであった。
 とにかく、それは余りにも突然のことだった。
 いつものようにして部屋に夕食が運ばれて来たので、彼女は部屋の中央に置かれている小さなテーブルの席に着いてその中の好物のスープをまず三さじほど飲んだ。ところが、それから急に苦しくなって、その後のことはよく覚えていなかった。
 気が付けば、自分の死体が何人かの王の家来たちと侍女によって部屋から運び出されるのを、彼女は天井の一角から眺めていた。彼らは皆冷静に振舞っていたことから、それは計画されて行われたということがわかった。
 それを指示したのは、父王でないことだけは確かだった。彼女の死が告げられたときの彼の驚きようがその証拠だ。むしろ、現在の王家を根絶やしにして、その地位を手に入れようと狙っている側近の一人が怪しい。なぜなら、なんと王が自分の娘を毒殺したという噂が町に流され、王の人気が失墜した途端、それに取って代わってその者が人気を上げたからだ。
 いずれにせよ、彼女のこの死を皮切りにして、この国では地下組織の主だった者が次々と捕らえられ、その作戦はあっけなく消滅してしまった。他の国でも同様のことが起こり、このような組織は完全に壊滅させられてしまったのであった。

「そしてそれから二年後、アトランティス星から最初の宇宙船が地球に向けて飛び立ったんだそうだ……。」
 演台に座っているカヤは、会場に向かってやや俯いたままそう言ってから、再び沈黙してしまった。
 会場も静まり返っており、遠い潮騒の音と椰子の葉が風にそよぐ音だけが聞こえている。
 やがて、役員席からアミが立ち上がり、演壇の上に昇ると、肩を落として座り込んでいるカヤの手を取って役員席へと誘導して行った。そして、司会のナツミに向かって何か二言三言言うと、今度はそのナツミが演壇の上に上がって会場に向かってこう言った。
「皆さん、今お聞きの通りになってしまったので、残念ながら今回の試みは中止し、この集会はこれにて解散といたします。今後どうするかについて話し合う会議を、明後日の朝9時からまたここで開こうと思います。今日はどうもお疲れ様でした!」
 彼女が演壇から降りると、会場はガヤガヤと賑やかになり、皆それぞれ家に向かって帰り始めた。白浜家の一同も立ち上がって日傘や筵を畳んでいたところに、アミとカヤが役員席から戻って来た。私たちは口々に労いの言葉を掛けた。
「お疲れ様!」
「ご苦労じゃったのぅ!」
 ケンジと新吉も口々に言った。
「お疲れでした!」
「お疲れ様でした!」
 先ほどは肩を落としていたカヤだったが、さすがに立ち直りは早く、もう普段の姿勢に戻っていた。しかし表情は厳しかった。それでも、私たちに向かっては一瞬微笑んでからこう言った。
「大変なことになっちまったよね。」
 そして、また厳しい表情に戻ると、彼女はこう続けた。
「あたしとしては、これを放っておくわけにはいかないよ。あの子に『来るな』って言ったのは、このあたしなんだから。」
 その言葉に並々ならぬものを感じたので、私はこう尋ねてみた。
「もしかして、責任を取るとか?」
 カヤは、極めて真剣な表情でこう言った。
「おぅ。あの子の遺志を継いでやらなきゃね。」
 その言葉に込められた気迫に、思わずゾッとした私は苦笑いすると、やや声を震わせてこう言った。
「ば、婆ちゃん、だって相手が地球に着くのは、これから何千年も先のことなんでしょ?」
 しかし彼女は、表情を緩めずに青い空を見上げて、こう呟いた。
「いや……、すぐに来る。もしかすると、もう来てるかも知れない……。」
 それを聞いた途端、私と美世さんとサラは口々に悲鳴のような声を上げた。
「え~~?!」
「Oh, lala!」
 私はまた苦笑いすると、カヤに向かってこう言った。
「ちょっと婆ちゃん、やめてくださいよ、こんなときにそんな冗談言うのは。」
 しかしカヤ本人はもとより、周囲の誰もがニコリともしていない。
 唖然としている私たち三人に向かって、ヤエが困ったような顔でこう言った。
「さっき婆ちゃんは省略して話してなかったけどね、」
 ヤエの次の言葉に、私は全神経を集中させた。
「こういう分野でのあっちの科学技術の進み方、こっちのよりずっと早いみたいだよ。」
 それを聞くなり、私は目を丸くして言った。
「え?! てことはまさか、光より早く飛べるとか?」
 私たち三人以外の、そこにいた人々が皆一斉に黙って頷いた。そして、極め付けはカヤのこの言葉だった。
「厳密に言うと飛べるんじゃなくて移動だよ。空間移動。」
 その言葉を聞いた私たち三人は、今度こそ本当の悲鳴を上げた。
え~~~!!!???

 ヴァカンス感覚で始めたはずの私のアジア旅行。それがライフワークに変貌してしまった!
 その原因をつくったのが、この島に住む不思議な人たちだ。彼らに伝わる伝承の中に自分の先祖が登場している! しかも、アトランティス人の一部が水没から逃れて地球を脱出し、現在その末裔が宇宙船で地球に向かっている!!! というのだから、ここでこの旅を終えてしまえば、アララト山の頂上で舟を見付けたのに、それを調べず下山するようなものだろう。
 アメリカで勤めていた大手コンピューター会社を、私は休暇ではなく退職してきたので、幸いにして今は完全な自由の身になっている。このような機会は滅多にないことだ。それを逃してはならないと思った私は、ヤエの仕事に協力したいと町長の白浜アミに申し出た。すると彼女は、快くその仲間に加えてくれたので、私も彼らと一緒に公費で日本に行けることになった。バンザーイね!!!
 というよりも、これはあらかじめ、そうなることがわかっていたようで、彼らはあくまでも冷静だ。
 一つ理解できないのは、私に「護衛」という役職が委託されたことだ。
「アタシ、カラリ(空手)もジュドー(柔道)もデキナイ。コノシゴト、ムリよ。」
 アミにそう言ったら、彼女は微笑んでこう言った。
「あなたにしかできないことで、ヤエを守ってちょうだい。」
「ソレ、ナニノコトよ?」
 すると彼女は、謎めいたウインクをしてからこう言った。
「大丈夫。そのうちわかるから。」
 彼女にこれ以上このことを追求すると、私の理性は満足するだろうが、このミステリアスなムードが破壊される。追求しなければ、理性は一時的に不満を訴えるだけで、この貴重なムードが保たれる。私は迷わず後者を選ぶことにした。
 美世の勤めている会社が月曜日から業務を始めるというので、ヤエと呵々士は彼女と共に早々と日本へ発って行った。
 ケンジと新吉は、私と同じヤエの護衛という任務に加えて、諜報部門も担当している。その彼らと共に、私もエカルナ共和国の首都カウハリにしばらく留まって、日本行きのヴィザと航空券を手に入れることになった。
 以前バンコクかどこかで、ツーリスト同士が集まって情報交換をしていたときに、フランスのパスポートを持っている者には、日本の空港のイミグレーションで、90日間のヴィザをくれると誰かが言っていたことを思い出した。そうすると、ここの日本大使館で取得するのはケンジと新吉の分だけで、私の分は、その情報が事実かどうかを確認すればいい。
 ここから日本までの飛行機の直行便はないので、バンコクで一度乗り換えることになるのだが、先ほども述べたように、その費用の全てを瓶ヶ島町が負担してくれるのは良かった。しかし、私たち三人が日本に着いてからの費用が問題になった。
 一人当たりの年間所得が300米ドルを切っている瓶ヶ島自治州政府が支払う給料は、物価が世界トップクラスの国に滞在する私たちの一日二食分の食費ぐらいにしかならないだろう(三食までいかず、家賃も払えないということだ!)。
 また、外国人が長期間滞在してブラブラしているよりも、就労している方が日本の当局から怪しまれずに済む。そのため私たちは日本で、それぞれが表向きの職に就くことになった。本職に対する報酬に加えて、表向きの仕事での稼ぎも本人の収益となるということなので、私はその条件を受け入れることにした。どんな職に就けるのかはわからないが、Yen(円)による収入は悪いことではないはずだ。
 カヤは、いつもの笑みをたたえながらイギリス英語でこう言っていた。
「とにかくまずは観光ヴィザで入国して、あっちで仕事が見付かり次第、就労ヴィザに切り替えるといいよ。」
 彼女はこうも言っていた。
「フランス語に加えて英語も堪能な美人のサラが日本で仕事を探すのは、そう難かしいことじゃないだろう。語学の講師とかモデルとか、いろいろありそうだ。
問題は、新吉とケンジだ。雇用情勢が悪化している今の日本で、あんたたちが職を探すのは、かなり大変なことになりそうだね。まあ唯一の望みは、日本語が話せて読み書きもできるってことくらいかな。」
 それに対して私は意見を述べた。
「彼らの特技ニンジュツのスクールを開いたり、ニンジャ映画のスタントマンになったりとかの道があるんじゃないの?」
 それに対して、カヤは苦笑いしながらこう言った。
「そりゃ、ジェームズ・ボンドが自分のアタッシュケースの中身をオークションに出すようなもんだよ。」
 なるほど、ニンジャが自分の技を披露することは、ジェームズ・ボンドのようなスパイが、自分の小道具を公開するようなことだと言うわけか。その比喩(ひゆ)はクラシカルだが、錆び付いてはいない。
 ところで、ケンジと新吉の性格は対称的だが仲が良い。いや、対称的なので仲が良いと言うべきだろうか。元々幼馴染だったそうだし、防衛軍の演習のときはよく同じチームになると言っていた。チーム同士で仲が悪ければ、実戦にも悪影響を及ぼすので、それは当然のことなのだろう。
 新吉のルーツは、かなり昔にまでさかのぼれるそうだし、彼らのお陰で私のそれも、約400年前の時点のことを知ることができた。
 ケンジの先祖は、約120年前にこの島に漂流して来たのだそうだ。それ以前のことはわからないが、多分アフリカから来たのだろうと言っていた。彼と似たような肌の色と顔立ちをしたアフリカ系の人を、以前パリで何度か見掛けたことがあるが、彼の場合どこか東洋的な感じもする。現に彼自身が、「初代の人は島の女性と結婚して、その次の代もそうだったらしい」と言っていた。
 私は、この島で明かになった自分のルーツのことを手紙に書いて、パリの両親の元に送った。最初は信じてもらえないかも知れないが、これは前世紀から今世紀に掛けての、カダブレ家最大の発見になるだろう。……多分。

 バンコクに向かう飛行機の中のケンジと新吉は、もうかなり天才的なコメディアンだった。観客は私一人で沢山だったが、私たち三人周辺の座席の何人かも巻き込まれていた。
 文明とは無縁に育ってきた二人は、互いに瓶ヶ島のスラングで会話しているので、それを聞き取れない者にはその詳細はわからないが、「おいっ!!!」とか「うわ~~っ!!!」とかの奇声だけでも、大よそその内容を知ることができる。それをよりにもよって、極めて真剣な顔でするのだ。しかもそれを他人に気付かれまいとする涙ぐましい努力。それをすればするほど、人を笑わせる効果が増大するということを彼らは知らない。それがまた笑いを誘爆してしまうのである。
 彼らにとっての飛行機とは、青い空のずっとずっと上を飛ぶ、銀色をしたトンボ(大きさは蚊ぐらいだが)のような物体であって、まさか自分たちがその胴体の中に入れるなどとは、夢にも思っていなかったようだ。また、その中の小さな窓から見える外の景色も、彼らの才能を発揮するための立派な大道具となった。その他にも、デジタル時計、頭の上の照明器具、水洗トイレなどなど。お陰で、長い飛行時間だったのにもかかわらず、私は全く退屈することなく過ごすことができた。その代わり、席を立ったり座ったり笑ったりで、息切れがして困ったが。
 カウハリのゲストハウスでもバンコクのゲストハウスでも、ケンジと新吉で一部屋、私は独立した一部屋というように分かれた。
 性格が対称的なケンジと新吉だが、二人の共通点はきわめて古典的なイギリス英語を話すことと、女性に対して過分に紳士的なことだ。少なくとも私の知っている日本人男性は、親しくなるとすぐこちらを支配しようとしたがる(呵々士はやや例外)。私はそれが好きではないが、ケンジの親しさには私には見えない線が引かれているようで、彼はそれを越えてこちらに来ようとはしない。それも好きではない。
 いつだったか、ケンジと二人っきりになったとき聞いてみたことがあった。
「ケンジには、好きな人がいるの?」
 彼はしばらく黙っていて、「いる」と答えた。
「誰?」
 彼はなぜか私から顔をそむけて、「今は言えない」と言った。
「なぜ?」
 彼は遠くを見るようにして、また「今は言えない」と言った。
「あなたって、それしか言えないの?」
 って尋ねたら、私の手をそっと握ってから「お休み」と言って自分の部屋に戻って行った。
 よくわからない人だが、私が嫌われていないということだけはわかった。

 5月19日土曜日午前10時45分。
 日本の成田国際空港は設備が立派で、細かいところまで手が込んでいるが、さまざまな検査にもやはり手が込んでいた。こんなに厳しくチェックをする国は今まで行った中で初めてだ。
 嬉しさを満面にたたえた美世がゲートの外で手を振っていた。今日は仕事が休みなので迎えに来てくれたのだ。Merci, Miyo!(ありがとう、美世!)
 ゲートを出た新吉は美世と抱き合うのかと思ったら、二人とも一言だけ言葉を交わしてすれ違っただけで、彼女と抱き合ったのはこの私だった。互いに惹かれ合っているはずの男女なのに、どうもよくわからない人たちだ。
 一通り挨拶を済ませた私たち三人は、空港に設置されている銀行に赴いた。呵々士から聞いた情報によると、この国には闇両替が存在しないということなので、私は現在必要と思われる米ドルを全て円に替えた。
 闇両替とは、その国が公(おおやけ)にしている通貨レート以上の価格で外貨を買うことだ。たとえば、100ドル紙幣を日本の銀行で両替すると11,000円になるところを、闇で両替すると18,000円になるというようなことだ。それは、銀行に勤務する人からは怒られることだが、貧乏旅行者にとっては貴重な利益となる。しかし、この国では米ドルが満ち足りているようなので仕方ない。
 銀行で用を済ませた私たちは、美世の案内で早速首都東京へと向かった。
 地下にある駅のプラットホームで待っていたら、間もなくTGV(テージェーヴェ)にちょっと似た列車が入って来たので、それに乗り込む。
 美世が二人掛けの座席を回転させて、4人が向かい合わせになるようにした。私は美世と並んで腰掛け、その向かいにケンジと新吉が並んで腰掛けた。それからすぐに扉が閉まって列車が動き出したのには驚いた。始発の駅なら、普通はもっと長く扉を開けて停車しているものだ。
 列車はしばらく走ると地上に出た。空には薄い雲が掛かっていて、白っぽい日差しが降り注いでいる。
 空港はかなり郊外にあったようで、列車の窓から見える景色は、はしばらく丘陵の間に広がる田園地帯だったが、住宅地に入り、やがて大きなビルディングが立ち並ぶ都会になった。
 建物も道路も人の服装も、ある視点からするとパリより清潔で整然としているが、別の視点で見ると生気も個性もなく、それでいて軽薄だ。
 通り過ぎるビルの看板に、時々奇妙な文字列を目にした。中でも、アパートメント(集合住宅)なのに、「MAISON(家)」という看板が掛かっているのが変だった。「MAISON THE EXELLENT」という看板には思わず笑ってしまった。
 この国のルーツの文化はどこへいってしまったのだろう? それを疑問に思ったので、私は隣に座っている美世に尋ねてみた。
「ウタマロ、ヒロシゲ、ドコニアルの?」
 そして窓の外を一瞥したが、美世は軽い口調でこう言った。
「あぁ浮世絵ね、博物館に行けば見れるわよ。」
 いや、そういうことが聞きたかったんじゃないんだけどなぁ……。私はケンジに英語で尋ねた。
「ねえ、ケンジ。『文化』と『絶滅』って日本語でどう言うの?」
 ケンジがそれを教えてくれたので、私は美世にこう言い直した。
「ウタマロ、ヒロシゲのブンカ、ゼツメツシタノ?」
 すると美世は、ハッと気が付いたようにしてからこう言った。
「そうかぁ……、日本に対してそういうイメージ持ってたら、がっかりするわよねぇ……。」
 そして、こう言った。
「残ってるわよ、細々とだけど。でも、それはここからは見れないわ。特別な場所に行かなきゃ。」
 その日本語は私にもわかったので、美世に向かってこう言った。
「ドコイケバミレルノ?」
 すると美世は、片手で自分の膝をパンと打ち鳴らして元気良く言った。
「よし!」
 そして、微笑んでこう言った。
「明日はみんなで、それを見に行きましょうか!」
 興奮した私は、思わずフランス語で言った。
「Bien!!(良いわね!!)」
 他の二人も微笑んで言った。
「よっしゃ!」
「ええぞ!」
 これから私たちは、美世の家を訪問して今夜はそこで泊めてもらい、明日は休養日となっている。そして、美世の家でもう一泊させてもらって、明後日は朝から、ヤエと呵々士の住む双美ヶ島に向かって移動を開始することになっている。
 列車を一度乗り換えた私たちは、五つか六つ目の駅で降りた。そこからしばらく歩いて美世の家に着いたのは、午後1時半過ぎだった。それは、この住宅地に良くあるタイプの小さな二階建ての家だった。
 私たちが入ると、狭い玄関が一杯になった。そこには、美世のお母さんの景子さんが出迎えてくれた。美世よりも小柄だが、美世と同じように優しそうな人だ。美世のお兄さんご夫妻と、お父さんはお仕事に出掛けていてお留守とのこと。
 私たち三人は簡単に自己紹介をして、それぞれ景子さんと握手した。美世が新吉を自分の従兄弟として再紹介すると、恵子さんは彼に向かって嬉しそうに微笑んで言った。
「本当のことがわかって、会うことができて良かったわ。どうぞよろしくね。」
 彼についての詳細な情報は、既に美世から聞いて知っておられるのだろう。
 恵子さんは、私たちに向かって微笑み、「さ、皆さんどうぞ、お上がりください、Please come in.」と言ったので、私たちは中に入り掛けた。ケンジと新吉は、何かしようとして足元に手を伸ばしたが、私はそれに構わず足を一歩踏み出したら、突然甲高い悲鳴が上がった。
「キャァ~~~!!!」
 美世の声だ。そちらを振り向くと、彼女は私の足の先を指差して目を丸くしている。一方、ケンジと新吉は、靴を脱いでから中に入った。そういえば、瓶ヶ島のヤエの実家でもそうだったことを思い出した。なるほど、靴を脱いで家の中に入る習慣は、全ての日本人に共通しているのだということがこれでよくわかった。
 私は慌てて足を引っ込め、「オー! ゴメンナサイ!」と恵子さんに謝ると、彼女は微笑んで「いいのいいの。知らなかったんだから。No problem.」と言ってくれた。
 私たちは、四角いテーブルとソファーのある、小さなリビングルームに通された。開け放たれた窓のレースのカーテンが、五月の風に揺れている。
 美世が私たちに向かって微笑んで言った。
「長旅お疲れ様!」
 そして、床に目をやってこう言った。
「荷物はそのへんに置いて。」
 私たちは、自分たちが背負っていた荷物を床に置くと、その中からそれぞれがこの家のために持って来た土産を取り出した。私のは珊瑚細工。瓶ヶ島の伝統工芸品だ。
 恵子さんが、日本風ティーカップを乗せた盆を持って部屋に入って来て、私たち一人一人の前のテーブルの上に、そのカップを置きながら言った。
「あまり良いお茶じゃありませんが、どうぞ。」
 私たちは口を揃えて言った。
「ありがとうございます。」
 そして、それぞれが自分の持って来た土産を恵子さんに手渡した。彼女は、「あら、それはどうもありがとうございます」と言って受け取ってくれた。
 その恵子さんに向かって、美世が言った。
「母さん、あとはあたしがするから休んでよ。」
 そういえば、お母さんのお体があまり丈夫でないということを、以前美世から聞いたことがある。その恵子さんが言った。
「サラさんはあんたの部屋で、あとのお二人はこの部屋にしてもらっていいんだね? オフトン用意しとくから。オフロはオヒルの後にする? 夜にする?」
 娘が『あとは自分でする』と言っているのに、どこの国の母親も皆同じだ。美世は、「もういいって言ってるのに!」とうるさそうに言った。このようなときの娘のリアクションもまた、万国似たようなものだ。
 恵子さんは、その美世に苦笑いして「はいはい。」と言うと、私たちに向かって微笑んでこう言った。
「ご自分のお宅と思って、どうぞ何でもご自由にお使いくださいね。私は二階におりますので、ご用があったらいつでも呼んでください。それでは失礼します。」
 彼女が一礼をしたので、私たちも一礼しながら口々に言った。
「ありがとうございます。」
 彼女が部屋を出て行くと、木製の階段を昇る音が遠退いていった。それを目で追っていた美世だったが、すぐ私たちに向かってこう言った。
「さあ、みんな座って座って!」
 私たちが近くのソファーの席に腰掛けると、美世も空いている席にドサッと腰掛けて言った。
「お腹空いたでしょ? 何が食べたい? スシ、ピザ、ソバ、ウドン、ラーメン……」
 スシとピザとウドン以外は、私にとって未知なるものだった。私は美世に尋ねた。
「ソバッテナニ?」
 美世がそれに答えた。
「ジャパニーズ・トラディショナル・ヌードルスープ。」
「ラーメンは?」
「チャーニーズ・ヌードル・スープ」
 それなら、答えはもう決まった。
「アタシ、スシニスルよ!」
 美世はこちらに向かって微笑んで「オーケー」と言ってから、二人の男性に尋ねた。
「あなたたちは何がいい?」
 新吉がそれに答えた。
「そげん言われても、その中のウドン以外は食うたことないけん、なんとも言えんわ…」
 そして、ケンジの方を向いて「のう?」と同意を求めた。すると、ケンジもそれに応じて「おう」と同意したが、このような意味のことを付け加えた。
「けど、ヤエが手紙で書いてよこしてきたけん、大体のことはわかっちょる。あれこれ作るとなると、美世さんにご苦労掛けることになるけん、ここはサラと同じのんにせんか。」
 新吉はそれに同意した。
「そら、もっともなことじゃ。」
 そして彼は、美世に向かってこう言った。
「美世さん、そげんさせてもらうわ。わしら三人ともスシじゃ。」
 美世は微笑んで言った。
「わかったわ。」
 そして今度は、やや不満そうにこう言った。
「あのー、そのあたしの名前に『さん』て付けるの、もうやめてもらえません? 従兄弟同士なんだし。」
 そして彼女はケンジにもこう言った。
「ケンジさんも同じ仲間なんだし、そうしてくださいよ。」
 ところが、ケンジも不満そうにこう言った。
「あんたが、わしに『さん』付けちょうけん、わしも『さん』付けんならんのじゃろうが。」
 美世は明るく言って笑った。
「あっ、そうかー! ハハハハ!」
 それが可笑しかったので、私たち四人は互いに顔を見合わせて大笑いした。
 それによって一同がリラックスしたところで、美世が立ち上がり、壁際の台の上に置かれている電話機のところへ行った。そして、壁に貼ってある紙切れを見ながら、どこかへ電話を掛けた。受話器に向かって話し始めた彼女の姿を、二人の男性が物珍しそうに見ているので、私は飛行機の中のコメディー・モードに戻ると、ややおどけた口調の英語で言った。
「あれは電話機! 離れた人と話しができるの!」
 ケンジが真面目な顔で言った。
「隣の家の者とか?」
 私は噴出して言った。
「そう! 隣の家とも、地球の裏側とも!」
 それを聞いた途端、二人の目が丸くなった。……こりゃ駄目だ。
 この二人にはまず、文明の利器のことをある程度把握させなければならない。そうしなければ、ヤエの護衛や諜報活動どころか、こちらが彼らのことを護衛することになりそうだった。
 いつの間にか電話を終えていた美世が、盆の上に瓶ビールやグラス、スナック類などを乗せて現われた。そして、それらをテーブルの上に並べながら言った。
「寿司、あと10分くらいで来るから、それまで飲んでましょうよ。」
 その日本語の意味を、私は100%理解することができた。ピザの宅配のようにして、日本ではスシでもそれができるのだろう。ところが、二人の男性諸君は案の定、目をぱちくりとさせている。その彼らに向かって私は、やや呆れた口調の英語で尋ねた。
「瓶ヶ島には、料理の宅配システムってないの?」
 それにはケンジが、やはり英語で真面目に答えた。
「ない。料理というものは自分の家で食べるか、他所の家に招待されて食べるシステムになっている。」
 私は、わざとしかめっ面をして言った。
「そんなのシステムじゃないわよ!」
 美世が日本語で言った。
「そうかぁ、瓶ヶ島はノー外食産業だったもんね。」
 新吉がスラングで言った。
「そうじゃ。もしあっても、誰も利用せんじゃろう。銭(ぜに)余計に使わんならんけん。」
 美世が苦笑いして言った。
「はいはい、わかりました。でも、ここは日本だから、このシステムで勘弁してよ。台所の労働力が、瓶ヶ島みたいに豊かじゃないんだから。」
 そう言いながら彼女は、テーブルの上の四つのグラスにビールを注いでいった。
 生真面目な新吉がこう言った。
「ほなら、外へ勤めに出とるもんの一人か二人、そこに回しゃぁええんと違うか?」
 美世は眉を寄せながら言った。
「ん~~、わかってないなぁ。」
 そして、表情を笑顔に切り替えると、私たちに全員に向かって言った。
「それじゃぁ、無事日本到着を祝って、かんぱーい!」
 私たちも笑顔になると、各自グラスを手に持ち、それぞれを合わせてチアーズをした。
 うーん、フランスのラガービールと比べると、やや甘ったるいところがあるが、アメリカで飲んだ炭酸水みたいなのよりはずっといい。
 その後私たちは、台所の労働力と現金収入のための労働力の、どちらを重視した方が家庭の利益になるかということを、飲み食いしながらわりと真剣に議論した。
「外食産業や加工食品を利用すれば台所の労働力が軽減されて、外の仕事に集中できるから、その分現金収入を増やすことができるのよ。」
 と私が言うと、ケンジはこう反論した。
「調理のための専属の者は一人で充分なので、その者の現金収入は、自給によって削減された支出で補えるはずだ。」
 新吉もそれに同意し、こう付け加えた。
「……輸入の加工食品に有害な薬品が混入していたことがあると、呵々士の報告で聞いている。なんといっても、自家で調理した物の安全性は何物にも代え難い。」
 私がそれを美世に訳して伝えると、
「大家族だったら、調理に専念する人が一人くらいいても割りが合うと思うわ。だけど物価や労賃の違いもあるから、今の日本だと、このシステムがなければ社会も産業も成り立たないと思うな。」
 と彼女が日本語で言ったところで、玄関のチャイムが鳴り、ドアの開く音がした。そして「マイドアリー!」という男性の叫び声がした。するとケンジは跳躍してソファーの背もたれの後ろに隠れ、新吉は走ってドアの横の壁に背中をピタッと付けた。その動きにはほとんど音がなく、まるでアクション映画を見ているように見事だったので、笑うのを通り越した私は、思わず歓声を上げて拍手してしまった。
「キャ~~! ケンジ! シンキチ! カッコイイーーー!!!」
 その一方、美世は立ち上がると、困ったように眉を寄せて叫んだ。
「もう、みんなして何やってんの! 寿司が来たのよっ!! 寿司がっ!!!」
 そして、玄関に向かって「はーい!」と返事をしながら、小走りに部屋を出て行った。
 玄関のドアが閉まる音がして間もなく、美世が四角いランチボックスのようなものを両手に持って戻って来た。彼女がそれをテーブルの空いているスペースに置いたので、私はその箱の蓋をよく見ることができた。私は感動して言った。
「ワーオ! キレイね!」
 そこには可憐な草花が、明らかに日本風と見られるデザインで描かれている。私はそれを指差して美世に言った。
「コレよ。アタシガイッタ、『ウタマロ、ヒロシゲ』ッテ。」
 美世は、納得したように頷いて言った。
「なるほどね。これは浮世絵の時代と同じ頃からの伝統だと思うわ。絵の様式は違うし、箱の材質は木じゃなくてプラスチックだろうけど。」
 そして彼女はその蓋を開けた。その中身を見た途端、私たち三人は口々に感動の声を漏らした。
「ワーオ!」
「おーっ!!」
「ほぅ!」
 これが魚料理だとは信じられない。もう、芸術の領域に踏み込んでいると思う。
 以前私は、家族でパリのスシバーに行ったことがある。そのときのスシのトッピングは確か、サーモンとかローストピーフとか、舌平目のムニエルとかだったように思う。そこに同席していた父の友人で、日本に行ったことがあるという人が、「日本の伝統的なものは、ここのものとは違う」と言っていたのを思い出した。そのときは、その言葉の意味がわからなかったが、私は今、少なくともそれを視覚的な部分で知ることができた。
 私がそんなことを考えている間に、美世が慣れた手付きでスシ・ボックスを分解し、一つずつ私たちの席の前に置いていった。そして、このような謎めいたことを言って、各自に箸を勧めた。
「『ワリバシ付けないでください』って言っておいたから、この箸使ってね。」
 私はその箸を受け取りながら、訝しそうに尋ねた。
「ワリバシッテ、ナニ?」
 美世はそれに答えた。
「使い捨ての箸のこと。」
 私は黙って頷いた。以前呵々士が言っていたことを思い出したからだ。『日本では、一日にミリオン・セット単位の数の木の箸が、リサイクルされずに燃やされてる。』って。クレイジーなシステムだ。森林の減少による、地球のこの危機的状況を把握している者なら、それを拒絶して当然だろう。
 美世は、手に持ったガラスの容器の中の茶色の液体を、四枚の小さな皿に注ぎながら言った。
「寿司は普通、このような醤油っていう調味料に漬けてから食べます。」
 新吉が嬉しそうに言った。
「醤油なら、瓶ヶ島にもあるぞ。」
 私は、その皿の一枚を美世から受け取ると、その臭いを嗅いでみた。ソヤ・ソウスだ。フランスの伝統料理のシェフでも、これを使う人が出てきたということを、以前誰かから聞いたことがある。アメリカでは、一般の食料品店でもごく普通に見られる。
「ケッコーマンね!」
 私がそう言うと、美世は笑って言った。
「ハハハ! アメリカでは、そう言ってるみたいね。この醤油のメーカーはケッコーマンじゃないけど。
さ、食べましょうよ。」
 彼女がそう言ったので、私たち三人は口を揃えて言った。
「イタダキマース!」
 この、食べる前の日本人の掛け声には独特のタイミングがあるのだが、バンコクで呵々士たちと出会ってからずっと練習した成果がみのって、私はもう完全にマスターしている。
 早速スシを一口食べた新吉が、口をもぐもぐさせながら、目を白黒させて奇声を上げた。
「うを~~~っ!!!」
 心配した私たちの視線が、彼に集中した。彼は、相変わらず口をもぐもぐさせながら言った。
「……か、から~~~っ!!!」
 私はケンジに向かって訝しそうに英語で尋ねた。
「彼は何て言ってるの?」
 ケンジはそれに答えた。
「辛いと言っている。」
 美世が苦笑いして言った。
「ああ、ワサビね。あなたたちの分は、ワサビ抜きにしてもらえば良かったわね。」
 そして彼女は、私たちに向かってこう言った。
「寿司には、ワサビが付きものなんだけど、もし苦手だったら、こうして……」
 そして彼女は、自分の寿司のトッピングを手で抓まんでめくると、ライスに塗られている薄緑色のペーストを箸で除去して見せてから言った。
「……取り除いてから食べてね。」
 スシバーで食べたことがある私は、ある程度これの免疫ができているので、多分大丈夫だろう。
 新吉とケンジは、自分のスシのそれを念入りに取り除き始めた。唐辛子好きの瓶ヶ島の人たちだが、これは苦手だったようだ。この辛さが人体に及ぼすメカニズムが、唐辛子とは異なっているのだろう。
 さあ、いよいよ本場日本のスシを頂くことにしよう。ビールを一口飲んで食べようとした私だったが、さて、どれから食べようかと迷った。予備知識があれば、その楽しみが倍増することは間違いない。食材は、味の薄い物から順に食べると、それらの味をほぼ完璧に堪能できるはずだ。私は、一番色の白いのを指差して美世に尋ねた。
「コレ、ナニノサカナ?」
 美世は、食べながらそれに答えた。
「それはイカね。」
「イカ?」
 美世は、一心不乱にワサビ・リムーヴをしている新吉に向かって尋ねた。
「ねぇ新吉。イカのこと、英語でなんて言うの?」
 新吉は、顔を上げずにそれに答えた。
「……スクイド……」
 美世は私に向かって言った。
「……だって。」
 私は美世と新吉に向かって、感動を込めて言った。
「アリガト。トテモキレイね!」
 この白く滑らかな物体が、あの怪物のような姿をした魚のものなのか……信じられない。私は、下のライスと一緒になっているそれを崩さず箸でつまむ自信がなかったので、指でつまんでソヤ・ソウスに漬けると、恐る恐る口に運んだ。
 うーーん、なるほど! 生の魚が甘いって、このとき始めて知った!
 部屋を出てどこかへ行っていた美世が、ワインボトルを三回り大きくしたような茶色のガラス瓶などを持って戻って来た。
「寿司には、こっちの方が合うかもよ。」
 彼女はそう言って、ボトルをテーブルの真ん中に置いた。そのラベルには、やはり日本的なデザインが施されている。先程のスシ・ボックスの蓋よりも、こちらの方が浮世絵に近いと思った。
 そういえば以前呵々士が、『日本には「サケ」という伝統的な飲み物があるが、それに醸造用アルコールや糖類を添加した、まがい物が出回っている』と言っていたのを思い出した。
 私は控えめに尋ねた。
「サケ?」
 美世は微笑んで頷いた。
「そう。米100%のジュンマイシュ(純米酒)、混ぜ物なしの本物よ。」
 私は、やや興奮して言った。
「ワーオ! ノンデイイ?」
 彼女はその蓋を取って、中の液体をティーポットに注ぎながら言った。
「もちろん。
はい、どうぞ。」
 陶器でできている小さなカップを美世が差し出したので、私がそれを受け取ると、彼女はティーポットの中の液体をそこに注いだ。私は、ワインの香りを嗅ぐようにして、その透明の液体の香りを嗅いでみた。アルコール臭は共通しているが、ワインとは全然違う複雑な香りがする。カップに唇を付けて少しだけ口に含み、舌の上で転がしてみると、やはり複雑な味がしたが、どことなく白ワインと共通しているものも感じる。なるほど、これは新しい味覚の発見だ!
「オイシーよ!」
 私がそう言うと、美世はこう言った。
「酒は、魚との相性が良いのよ。多分、白ワイン以上にだと思うわ。」
 よし、それなら、もう一つのこの白く透き通るような魚で試してみよう。私は、自分のスシ・ボックスの中のそれを指差して尋ねた。
「コレ、ナニノサカナ?」
 美世は、新吉とケンジのカップにそれぞれサケを注ぎながら答えた。
「それは……多分ヒラメね。」
 自分のサケを一口飲んでから、ケンジが気を利かせて言った。
「……フラットフィッシュ……」
 私はまた二人に感動を込めて言った。
「アリガト。スバラシイね!」
 あのような不気味な魚の肉が、生だと宝石のように美しいのだから不思議だ。それを口にして、その後にサケを流し込んだ私の感動は更に高まった。美世の言う通りだ! フランスの魚料理は、ハーブとスパイスによって白ワインとの相性を高めているが、これにはその必要がないようだ。サケというこの飲み物の性質が、白ワインとは異なっているからだろう。
 このようにしてこの昼食は、私にとってとても感動的に進行していった。

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