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文字列の部屋

命ある光

2005.12.07
2006.01.02 更新

 どこの家庭でも、多かれ少なかれ節電対策をしていることと思う。我が家もその例に漏れない。使っていない部屋の電灯は小まめに消すという定石から始まって、パソコンは使っていても、その周辺機器などを使わなければ、それらの電源が差し込まれたコンセントのスイッチを切るということもしている。そうすると、電気機器のアダプターにかかる電圧や待機電力といったものが、無駄に消費されるのを防げるからだ。
 普段からそのようなことをしているだけに、先日郵便受けに入っていた電気使用量の通知に目を通した私は愕然とした。それによると、その前月は百十一キロワットも電力を使用したことになっているではないか。これは、さらに前の月と比較して一割以上も増加しているということになる。その原因についてよく考えてみると思い当たることがあった。この月には、電灯の消し忘れと、冷蔵庫の扉に物が挟まって微かに開いていたことが、それぞれ一度ずつあったのだ。
 我が家には、たまに息子が遊びに来る。また最近では、長岡市に住む二十年来の知人が訪ねて来たが、私はこのようなとき、昼間でも暗い客間の照明は常に点灯するようにしてる。そのため、その月に使用する電力量は多少上がってしまうが、そのようなことで電気代が増えるのなら一向に構わない。雰囲気を出すために蝋燭を灯すこともあるが、世間一般の価値観で暮らしている来訪者には、せめて電気ぐらい世間並みに使ってもらおうと思っているからだ。ところが、単なる自分の不注意で電気代が上昇した場合には、私は自分に多少不便な思いをさせてでも、その損失を取り戻すことにしている。
 我が家で最も長時間点灯している照明は、私の仕事場兼寝室の電球だ。次いで台所の流し台の上にある長い蛍光灯、次いで同じく台所にある食卓の上の電球。このどれか一つでも使用しなければ、ある程度まとまった量の電力が節約されることとなり、それを毎晩継続すれば今回の不注意による損失も、いずれは取り戻すことができることだろう。前の二つの照明は仕事や調理に不可欠なので候補から外す。残るは食卓の上の照明だ。私は試しに、これを消して晩酌を試みた。しかし、それは全く味気ないものとなってしまった。
 良く言えば、獲りたての畑の野菜と吟味された天然調味料による、質素ではあるが生命力溢れた料理。はっきり言ってしまえば、粗食と紙一重の料理。それが、流し台の上から斜めに照らす無機質な白い蛍光灯の光によって、プラスチック製の模造品のように見えてしまうのである。いずれにしても、これでは食材が余りにも可哀想だし、私は食欲不振に陥ってしまう。

 もう三十年以上前のことになるが、私は照明効果に関する貴重な体験をしたことがある。それは、当時私が住んでいたL国B市内のある店へ、私を含む在留邦人数家族が連れ立って夕食を食べに行ったときのことだ。
 その店のドアを開けてまず驚いたのは、中が真っ暗なことだった。しかし、店内に入るとそこは真の闇ではなく、まずいくつかの小さな炎が目に入った。やがて目が慣れてくると、各テーブルの中央に立っている長い蝋燭の下に並べられた料理や、それを囲んで食べている客の存在も、微かではあるが次第に明らかになってきた。このようなことから、この店の照明はこれらの蝋燭だけで、電灯は一切用いられていないということがわかった。
 店の人の案内で空いたテーブルに着いた私たちは、しばらくして更に目が慣れてきた。すると、それまで闇の中に潜んでいた周囲の床や天井や壁といったものが、次第にその姿を現わしてきたのである。それらは昔の絵画に見られる南欧の農家のようで、極めて質素なものではあったが、蝋燭の光に照らされて客を架空の旅へ誘うという役割を見事に果たしていた。
 街灯が灯る都会の一角からこの店に入った客は、まず暗闇により、不安と期待の両方を抱きながら異なる文化へのトンネルを潜る。そしてテーブルに着き、店内の風景が徐々に現れるに従がって、自分が間違いなくスペイン一地方の料理店に辿り着いたということを確信し、期待に胸を躍らせながらメニューの料理を注文するという、なんとも洒落た仕掛けになっていたのだ。
 やがて、注文した料理が瑞々しいオリーブの香りに乗って次々と運ばれて来た。暖かく揺れる蝋燭の光は、それらの料理をきらめかせ、その陰影を大小微妙に変化させる。この光の波動は、それぞれの食材の生命力と共振して私たちの心をも共振させ、料理の香りと味をさらに生き生きと引き立たせた。その中には、日本の天麩羅の原型ではないかと思われるものや、親指の頭大の可愛らしいコロッケもあったが、それらの衣のサクッとした快い歯ごたえと、ほっこり柔らかい中身の仕上がりで、この店の料理人の腕の程を知ることができた。
 身内の誰かが頼んだようで、古風な白いシャツと茶色のズボンを身に着けたスペイン人の男性が私たちのテーブルを訪れ、ギターを抱えて椅子に腰掛けた。やがて彼は、よく使い込まれたその楽器を爪弾きながら、この店の雰囲気に即した伝統的な歌を物悲しくゆっくりと歌い始めた。その地方を訪れたことが無い私たちではあるが、先程まで味わっていた料理により、乾燥した大地に立つ薄緑の葉を付けたオリーブの木、岩山に身を寄せ合う白壁の家々と羊の群れ、葡萄棚の下のテーブルの上にぽつんと置かれた麦藁帽子などが脳裏に現れた。やがて歌は次第に熱を帯び、彼が感情を込めて思わず身を震わせると、蝋燭の光によるその背後の大きな影が、恰も壁そのものまで震わせるかの如く揺れ動き、歌詞の解らない私たちですら、その迫力ある演奏にすっかり心を奪われたのだった。
 人間の五感の全てを通じて、精神的な部分にまで満足感を与えるこのような演出は、古今東西を問わず何も特別なことではないはずだ。この店も、古来から伝わるそのような手法をたまたま用いているのに過ぎなかったのだろうが、天然の光を使った照明効果というものを当時の私は、これである程度認識するに至った。

 さて、我が家で天麩羅などを揚げた油は、炒め物や、油をたっぷり使うインドカレーを作るのに使うため、捨てることはまずない。しかし、これをうっかり長い期間放置しておくと、変質して苦味が生じ、食品として使用することができなくなってしまう。このような廃油が今、珍しく目の前の流し台の下のオイルポットに入っている。これを廃油石鹸にすれば、捨てずに再利用することができるのだが、石鹸は今のところ間に合っている。今は食卓の照明をなんとかしたい・・・と思った途端にあることが閃いた。
 それは、廃油を燃やしてランプにしてはどうかということだ。私は、早速実験してみた。すると、これがなかなかいけるではないか。炎を余程大きくしない限り煤も殆ど出ず、微かに揚げ物の匂いが室内に漂う程度だが、そこが台所なら毎日揚げ物をしていると思えば済むかもしれない。炎を吹き消したときに生じる白い煙は強い匂いがするが、燃えていた芯の先端を油の中へ沈めて消火すれば煙は殆ど出ない。炎めがけて飛んで来た虫が、この油の中に墜落するということもあるが、虫の死骸を爪楊枝ですくって捨てればよい。行灯(あんどん)のように、周囲を白い紙で囲ってしまうという手もあるが、その囲いに火が引火すると手におえなくなるので、これはやめておいた方が無難だ。
廃油ランプ
 このランプの小さな炎が、窓から入って来る夏の終わりの夜風に揺れるのを見ていた私は、微かな哀愁と共に、なんとも言えぬ懐かしさを感じた。それは、幼い頃からの様々な記憶によるものなのだろうか。夕食の最中、台風で停電になったときに母が灯した蝋燭の灯り・・・。ネパールの農家に間借りして、薪で自炊していた頃の夕餉の灯り・・・。或いは、人間が火を使うようになってから何万年経つのかは知らぬが、このような炎への親しみが、その遺伝子に既に組み込まれているのかもしれない。
 しかしよく考えてみれば、このような炎は酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すという「呼吸」をしている。そのため、たとえ風が無くとも、その光には生き物と同じような有機的な動きがある。つまり、六十ヘルツというような定められた周期により、真空の中で機械的に光る蛍光灯などよりも、ずっと料理の素材や私たち人間に近い光、私たちと同じ空間で呼吸している、言わば命ある光なのである。

 但し、このランプには、室内全てを照らすような煌々とした明るさはない。また、火を燃やすということには危険が伴うし、それによる熱の放出と二酸化炭素の排出のために、地球温暖化を促進させることになる。ところが、またもやよく考えてみれば、電灯だって発電所で火を燃やしているから光るのだ。
 些か専門的なことを述べるが、火力発電所では重油を燃やしてそれを電気エネルギーに変換している。しかし、重油の持つエネルギーの全てが電気エネルギーになるわけではない。変換の際にその何%かが失われてしまうのである。また、変換されたエネルギーは送電線により、長い道のりを経て各家庭に供給されるのだが、その送電線の電気抵抗によっても何%かのエネルギーが失われてしまう。距離にもよるが、大体10~20%減少すると見ていい。さらに、その電気エネルギーを電球によって再び熱エネルギーに変換する際にも何%かのエネルギーが失われる。このようにして、電灯が発光するまでに、実はかなりのエネルギーが無駄になっているのだ。
 一方、ランプや蝋燭は、燃料を燃やしてその熱エネルギーで直に発光している。そのため、変換と輸送の際に生じるエネルギーの損失がゼロ。単純に考えれば、一つのランプで光を灯すための廃油の量は、一般的な一つの電灯を灯すのに燃やされる重油よりも少なくて済むというわけだ。当然のことながら、その分、熱の放出と二酸化炭素の排出の量も少なくなるので、廃油ランプは地球温暖化という面から見ても、火力発電による電灯に勝ると言うことができる。あとは、炎が何かに引火するようなことにさえ気を付ければ、特に問題はないだろう。

 以上の検討の結果、私はランプの実用化に踏み切った。この炎は料理作りに対してもイメージを湧かせてくれることがわかった。
『・・・そういえば、冷蔵庫に赤ワインの残りがあったな。食べるものといえば、ポモドーロ風のソースの残りと、畑のトマト、ピーマン、タイム。それに中途半端な量の残りご飯もある。そして、地元の納涼会で焼そば作りを手伝った際にに貰った、玉葱と豚のバラ肉が偶然にもある。これらの材料で、その赤ワインに合う一品を今から簡単に作ってみよう・・・。』
 私はグラタン皿の内側にバターを塗ると、そこにまずご飯を敷き、その上からポモドーロソースもどきをかけ、更にピザ用のチーズ、タイム、トマト、玉葱、塩胡椒した豚肉、ピーマンの順に乗せた。その上で蓋を開けたオリーブ油エクストラ・ヴァージンの瓶をサッと一回しし、私はオーブントースターでこれを焼いた。
 私はランプを食卓の少し高いところに乗せると、蛍光灯を消して照明をランプの炎一つだけにした。すると、台所に存在している、天井のクモの巣、床に置かれた焼酎の空のパックや埃、土間の洗濯機とその横で洗濯を待つ男物のパンツといった、ワインとはあまり関係ない物体を、闇が都合良く包み込んでくれた。
 私は食卓に着き、約四百年前に南欧で作られたリュート音楽のCDを聞きながら、赤ワインを飲み、ランプの揺れる光に照らさたこの料理を食べた。ほう、これはなかなかいける。癖になりそうだ。しかし、我が家でこれが癖になっては困る。なぜなら、節電のために作ったランプの光で食べるこの料理を作るのに、我が家で最も電気を食うオーブントースターが使われるのだから。
『明日は、いつも通り野菜サラダと冷奴でいこう・・・。』

廃油ランプの作り方

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