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文字列の部屋

山椒魚は還る

2002.2. 田野呵々士

山椒魚は還る
晩秋の渓流を遡り
山椒魚は還る
時には氷雨に打たれながら

魚より更に無表情で
蛙より更に謎めいて光る紫色
短い足に六寸足らずのこの身体に
不思議な力が秘められている

見ての通り無防備な故
腹を減らした烏が襲ってきたり
誰かが投げた石に当たったりする
そのため闇に紛れ何日もかけて行く

天高く煌々と照る満月に
思わず歩みを止めた夜
秋の虫は既に死に絶え
銀と黒の世界に沢の音のみが響く

ある夜は音もなく宙を舞う影に身を隠し
ある夜は何かを訴えるような遠い貉(むじな)の叫び
しかし足はまた思い出したように動き出し
いつしか沢の音は遥か下へと遠退く

流れを遡りようやく辿り着いたのは
月明かり射す廃屋の庭に苔生した小さな池
ここが安全なことを知っているかのように
落葉の下にて眠りに就く

純白の雪はやがてくすんだ色となり
その下で待ち続けていた蕗の薹が
少しずつ姿を現わす季節となれば
山椒魚はそっと目を覚ます

人間には計り知れぬ不思議な力で
長い道程を生き残りここへ還り着いた
爬虫類や他の両棲類が苦手な雪解け水
その中をある事のために動き回る

冷たくも風に冬の終わりを感じ
若い芽の瑞々しさに我を忘れつつ
太古より繰り返されてきた流れに身を任す
そのために命懸けでここへ還り着いた

飲むこと 食べること
泳ぐこと 歩くこと 眠ること
今までの行動だけでなくこの世界全体が
そのためにあったと思えるような出来事

ある朝 陽の光射す半畳ほどの池の中は
もう昨日までの姿を留めてはいなかった
寒天のような物に入った沢山の黒い粒々
水の中は新しい生命で充たされていた

雪は融け他の生き物達は動き始めたが
山椒魚はもう動こうとはしなかった
大役を果たした小さな身体の魂を
春風がどこかへ運んで行ったから

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