脱臭や水の濾過などで、炭が見直されるようになってから既に久しい。我が家では、それを認識しつつも、とにかく燃料として使用している。この借家には炭の備蓄がかなりあったので、もっぱらそれを調理に使わせてもらっていたからだ。
しかし、それが尽きてからもなお、私は「炭火」のお世話になっている。我が家の風呂は薪だし、暖房も薪ストーブ。そこから出る熾(お)きで毎日調理している。また、炬燵は電気ではなく豆炭だ。これらはいずれも炭火、即ち遠赤外線を発生させる燃料なのである。
これに慣れてしまうと、例え火熾しに手間が掛かっても、ついつい使ってしまう。燃料費の節約のためということもあるが、炭火の熱にはガスの炎には無い暖かさがあるからだ。ガスの青い炎に手をかざせば、炎の真上の手の一部分だけが熱くなり他の部分は暖まらないが、炭や熾きの赤い光は優しく手全体を暖めてくれる。手だけではない。調理している私の体全体にも作用しているように感じられるのだ。
これは、人類が火を使うようになってから綿々と続いてきた感覚なのではないだろうか。文明の発達に伴って便利さを追求する余り、調理の炎は暖房と切り離されて、食品を加熱することのみに特化されてしまったのだと思う。
薪や炭での調理が人間の健康や精神にどう作用しているのかについては、私は専門家ではないので詳しくわからない。しかし、「体全体が暖かくて気持ちが良い」ということだけは確かなことだ。また、私が氷点下の中、素足にスリッパ履きで調理しながら、立ったまま夕食をとっても、風邪を引いたり、冷えで腹を下したりしないのは、この調理方法の賜物である可能性が高い。
その反面、ガスコンロや電子レンジなどでの調理は、調理時間を短縮したい場合にはとても便利である。
今の私のこの恵まれた環境が、どれだけ持続するかはわからない。しかし、いつどんな時にも、薪や炭火で調理して得た感覚を、私は忘れずにいたい。
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