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だいどころ

鶏しゃぶ

2004.04.11.
2010.01.27. 更新

 我が家では、経済的事情により牛肉や豚肉にはなかなか手が出ないが、鶏の胸肉にならたまにはなんとかなる。それでしゃぶしゃぶをするというわけだ。
 鍋物は心も身体も温まるし、準備も片付けも楽。栄養価も高い。しかも、しゃぶしゃぶは、肉を自分の好きなようにいじくれるという、焼肉にも似た感覚を味わうこともできるので、なんとなく楽しい。
 2003年3月、当時6歳の息子が我が家に遊びに来たとき、夕食にはピザがいいかしゃぶしゃぶがいいかと聞いた。どちらも息子の大好物だ。「しゃぶしゃぶ」という返事が返ってきたので、夕方早々準備をする。我が家にはしゃぶしゃぶ用の鍋が無いので、土鍋を代用している。水を張った鍋に昆布を入れ、豆腐と野菜、そして肉を切って皿に盛って下ごしらえ終わり。肉はあらかじめ半解凍にしてあった。この状態だと、私のような素人にでも超薄切りが可能になる。

薄切りの鶏肉

 昆布が入った中の湯が、ちょうど沸騰直前になってきた。席に座って鍋の蓋を取る。普通なら、ここで昆布を取り出すのだろうが、我が家ではそれを省略する。さあ、しゃぶしゃぶの始まりだ!
 まずは肉から。ここで私は肝心な物を思い出し、醤油だけで食べ始めた息子に聞いた。
 「柿酢入れてみるか。」
 「柿酢って何?」
 「柿で作った酢のことさ。おとうちゃんが作ったんだ。」
 「入れてみる。」息子は酢が好きだ。
 私は台所へ柿酢の入った一升瓶を取りに行き、息子の取り皿に入れ、自分のにも入れる。
 「柚子も入れてごらん。」私は自家製柚子の皮のみじん切りを薬味として勧めた。
 「うん。」彼は一口食べて嬉しそうに言った。
 「柿酢と柚子入れると、甘くて美味しい!」
 私も嬉しくなった。たしかに柿酢と柚子は醤油や昆布のだしと相まって肉の旨味を引き出している。
 肉を3分の1食べたところで、今度は豆腐と野菜だ。昆布と肉の味が付いているので美味い。あっという間に食べ尽くしたら今度は肉の第2弾だ。それを食べきると、次は豆腐と野菜の第2弾。会話が弾む。
 肉の第3弾のとき、話に夢中になっている息子は、生の肉をうっかり自分の取り皿に入れようとした。
 「バ、バカ!」私は咄嗟に声を上げだ。
 息子はハッとしてそれに気が付き、慌てて箸を戻したので、生の肉は取り皿には付かなかったが、息子の顔色が変わった。私は即座に謝った。
 「バカって言ってごめんね。」
 「いいんだ。自分でもバカだと思ったから。」
 「生の肉を食べるとお腹をこわすんだ。」鳥インフルエンザのニュースはラジオで聞いていたが、それよりも、昨年どこかの中学校の行事で焼肉をした際、生肉を扱った箸を使って食べた生徒が食中毒になったというニュースの方が、印象に残っていたので、7歳の息子にそう説明した。
 息子の顔色が元に戻った。父が発した「バカ」は、侮蔑ではなく自分の身を案じて発せられたものだったことを理解したのである。その一方、私は、咄嗟にこのような言葉しか出せなかった自分を恥じた。
 気を取り直して野菜の第3弾、最終ラウンドの終了だ。食べ終わる直前、私は息子に聞いた。
 「素麺入れて食うか?」返事は意外だった。
 「うん。」ざる蕎麦、ざるうどんなら喜んで食べるが、ラーメン以外の暖かい汁物の麺類が好きではない息子が「うん」と言ったのだ。
 我が家では鍋物のときの春雨は湯で戻さず、直接鍋に放り込んでいる。素麺も同じだ。乾麺の冷麦やうどんだとそうはいかないが、素麺だと汁はあまりドロっとしないし、さほど塩辛くならないので、なかなかいける。何といってもすぐに火が通るので便利だ。
 出来るのも早いが、食べるのも早い。2人はあっという間に熱い素麺を平らげた。心地よい満腹感を味わいながら私は聞いた。
 「うまかった?」
 「うん。美味しかった。」
 それがお世辞ではなかったことが、息子の笑顔から読み取れた。
 良かった。これで息子が好きな食べ物の範囲が、少し広がった。

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