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不思議の部屋

猫と私

2005.01.11

 この冬私は、なんと十二年間飼っていた猫を死なせてしまった。
 死ぬ三日前から、猫はキャットフードを食べなくなって魚を要求し続けた。私はそんな猫に「ハンガーストライキ!」なんて冗談を言って、腹が減ればまたキャットフードを食べるだろうと思っていた。死ぬ前の日の晩、鯖のアラを二回投げてやったらその都度走って追い駆けて食べただけなので、その後ちょっと心配になり、餌の残り具合を見に納屋に入ったら、餌入れにはキャットフードがまだ残っていた。寝床に猫の姿は無く、呼んでも来ない。最近、私が与えた覚えの無い大きな魚の頭を食べているのを見たので、また近所の家に魚の頭をねだりにでも行っているのだろうぐらいに思っていた。
 翌朝、もしかすると家出したのかなと思いながら納屋の戸を開けると、猫は帰っていて寝床の中にいた。私が来たのを知ると立ち上がろうとしたが、もう立てないほど衰弱していた。再び寝床に倒れ込んだ猫は、声を振り絞って私を呼んだ。まず何か食べさせなくてはならない。私は餌入れの中に昨夜と同じ状態で残っているキャットフードをつまんで鼻先に持っていったが食べない。台所から好物の鯖のアラを持って来て同じようにしてやったが、それすら口にしようとはしなかった。
 それなら、とにかく身体を暖めてやらなくてはならないと思って、ダンボールに藁を敷いた寝床ごと猫を家の中に運び込んだ。ストーブの近くの陽の当たる縁側に置いて、私は猫の頭を撫でながら、まず「ごめんね」と謝った。身体は野良猫のように痩せて薄汚れていたが、その目は一点の曇りも無く、どんな宝石よりも美しかった。私は、珍しく我が家にあった牛乳を温めて、スプーンで猫の口の中に流し込んだ。時間をかけて休み休み一〇〇cc程飲ませたが、猫は飲み終えてから三十分程経つと、「ニャウー!」という抗議の声を発して牛乳を吐いてしまった。
 私の力ではどうしようもないことを覚り、急遽町の犬猫病院へ連れて行って、注射を打ってもらった。先生は、食べていないのと、風邪を引いているのと、寒さが重なったのだろうと言われた。年齢のこともあるので、今夜あたり危ないかもしれないとのことだった。また、牛乳は飲ませない方がいいとも言われた。
 帰宅して寝床ごとストーブの前の暖かい場所に置いたが、一時間もしないうちに呼吸が速くなってきた。やがて猫は突然悲鳴を上げると、身体を仰け反らせて仰向けになった。呼吸が止まった。前足を宙に上げてゆっくりと泳ぐように動かしている。私が何度か名前を呼んだら、声にはならなかったがその都度口を開けたので、返事をしていることがわかった。その後、猫が口を開けて私を呼んだので、私はそれに応えた。私は呼吸が復活することを願って、その胸を摩ってやるしかなかった。

 吹雪の夜、知人が経営する山の民宿で留守番を頼まれた際、夕食を食べていると、裏口のサッシの外で必死に鳴き叫ぶ仔猫の声がした。町の誰かがここまで捨てに来たのであろう。その声の主に牛乳を与えたのが、この猫との最初の出会いだった。
 家に連れて帰ってからわかったのだが、この仔猫には餌を要求するときに人の手を噛む癖があった。炬燵の上で人が食べている魚を横取りし、ウーッと威嚇して返さないこともあった。だから捨てられたのかもしれない。それらは皆躾けて直したが、性格というものはそう簡単に変えられるものではない。逆に考えると、そんな猫が私のような偏屈な人間の元を去らずに、今までよく居られたものだ。成長してから二三回家出をしたこともあったが、いずれも数日でまた戻って来た。
猫1  このようにちょっと変わった仔猫だったが、その柔らかな額に口づけし頬擦りして可愛がり、夜は私の布団の中に入れて一緒に寝ていた。それが、成長するにつれて、人の留守中に他所の猫を家の中に入れ、自分の餌を与えたり台所を荒らしたりするようになった。転居してしばらくは、慣らすために家に入れていたのだが、やはり隣の家の猫や野良猫を家の中に入れるようになった。しかも猫用のトイレで用を足さなくなり、台所の土間で常習するようになった。これでは人と一緒に住むことは出来ない。ついに私はこの猫を家から追い出し、彼は納屋や使っていない倉の中で寝起きすることとなった。このようなことをきっかけに、この猫と私との関係は冷えていった。
 しかし私は、私の嫌がることを止めなかった野性味の強いこの猫を、ハンターとしては尊敬していた。彼は鼠などの小動物を巧みにに捕まえて食べるからだ。ところがこの前の冬に、それを覆すような事が起きた。檻型の鼠捕りに掛かった、この猫の大好物である生きた鼠を与えたところ、これを捕り逃がしてしまったのだ。捕まえやすいようにわざわざ畑の広い所で出してやったのに。この猫に任せておけば大丈夫だと信じていた私は、信頼を裏切られてがっかりした。
 たったそれだけなら、「猫も木から落ちる!」なんて冗談を言って終わるのだが、その後が良くなかった。学習して鼠捕りに入らなくなったその鼠は、我が家に再び侵入して、食べ物の匂いが最も強い台所の流し台の上を、頻繁に荒らすようになってしまったのだ。粘着式の鼠捕りのことも、この鼠は良く知っている。仲間がそれに捕まったのを何度も見ているからだ。そのため、この鼠は粘着シートをちゃんと避けて通る。また、毒餌は使用できなかった。なぜなら、それを食べた鼠が苦し紛れに外に出れば、そこには猫がいる。その鼠を食べれば猫まで死んでしまうからだ。
 そのため、私の楽しみである台所で調理しながらの夕餉は、鼠の足跡で無残にも泥だらけになっている流し台を前にしての、不便で不快で暗澹たるものとなった。それは、流し台の上に置かれた鼠捕りが安全であることを鼠に学習させ、餓えに負けたその鼠が再び鼠捕りに掛かり、他の鼠がいないかどうか確認出来るまでの約一ヶ月以上も続いた。私は、あのとき鼠を猫にやらなければ良かったと自分を責めてから、鼠を逃がした猫も責めた。この時期を境にして、この猫の野性味に対する私の尊敬の念は薄れ、人に従わない外猫という認識に変わっていった。
 それでも私は、まだこの猫のことが好きだった。喜ぶだろうと思って、財布をはたいて好物の魚を買って帰ることもあった。ところが、かつては私に尊敬され、今でも自分が私より偉いと思っているこの猫は、自分の思い通り毎日魚をくれない私を恨んでいることがわかった。それを感じた私は、この猫が可愛くないなと思い、その偉そうなところが鼻に付いてきた。
 私の愛情が減ったせいか、猫の食欲が減った。その分痩せてしまった。これでは厳しい冬を乗り切れないかもしれない。この冬あたり危ないなと私は思った。人の心を読める動物である猫は、その思いを敏感に感じてしまったのかもしれない。

 猫の魂がいよいよ肉体から離れる時、猫の首から虫が出て来たのを見て、ノミだったら嫌だと思った瞬間、猫は美しく澄んだ目で、威嚇するような「ハーッ!」という声を何度か出しながら動かなくなっていった。それは誇り高き魂の叫びだった。その迫力に私は思わず全身がゾーッとなった。その直後、すぐ近くにあった薪ストーブの通気口から、ボン! という大きな音がして一瞬煙が逆流して出た。滅多にあることではないので、霊の仕業だと思った途端に、また全身がゾーッとした。
 鼠と同様ノミも家に侵入しては困る生き物だ。一方この猫が家に侵入するのは嫌だが、この猫そのものが嫌いなのではなかった。猫は自分が家に入った時に私が嫌がるのと同じものを感じて、今の自分そのものが嫌がられているのと勘違いしてしまったのかもしれない。いよいよ最後という時にノミなどに気を取られるくらい、私のこの猫に対する愛情は薄れてはいたが、それでもまだ好きだった。勘違いさせてごめんね。
猫のお墓2 猫のお墓1  このようにして我が家の猫は、自ら命を絶つようにしてあっという間に逝ってしまった。この猫の生命力の強さを過信していたために、気付くのが遅れて済まないことをしたと思う反面、これで良かったのかもしれないという思いで、私は複雑な気持ちだった。
 私は、自分が愛用していたTシャツで猫の亡骸を包み、回復したら食べさせようと思って犬猫病院の帰りに買った、大きな鰯一尾を口元に添え、日当たりのいい庭の椿の木の下に埋葬してやった。

 その後、猫が死んだ時の様子を思い出すたびに、その時と同じように身体がゾーッとする。これは、猫の霊が私に会いに来たんだと私は思っている。最初は激しく怒っていることが多いが、私が優しい言葉を掛けてやると徐々にその怒りは収まり、やがて静かになる。また、家の戸口へ朝夕餌をねだりに来ていた時刻になると、私が思い出さなくても決まってやって来る。そのときはあまり怒ってはおらず、少し親しげな感じがする。
 私は、ストーブの横に猫の居場所として座布団を敷いてやり、水を入れたどんぶりを置いて、家の中で飼っているのと同じようにすることにした。食事の時は猫の分を小皿に取り分け、一緒に食卓で食べている。そして、それで猫の霊が少しでも癒されればいいなと思っている。霊を信じない人から見れば、とても馬鹿げたことなのだろうが、たとえ霊が存在しないと実証されたとしても、私はこれからもこれを続けていくことだろう。猫が「もう充分」と思ったことを感じるまで。ちなみに、猫が今一番よくいる場所は炬燵の中である。それは生前家に入れていた時と同じだ。

 しかし、どんなに供養しても、この猫にはもう二度と会えない。猫が死んだ日の夕方、私は心もとなく夕餉の支度を始めたが、昨夜までしていた、戸口で餌をねだる猫の声が今夜はしないと思った途端、尻尾を上げて小走りに走るあの愛らしい姿が瞼の裏に浮かんで来た。その声とその姿をもう聞くことも見ることも出来ないんだと思うと、初めてその死を実感し、冷えた台所に一人立ちすくんで、思いっきり号泣した。

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