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文字列の部屋

チキンサンドイッチ

2006.02.08
更新 2017.03.22

 私の父は一見普通のサラリーマンだったが、いくつかの変わった「主義」を持っていた。
 まず、自分の家を持たないということだ。父の仕事は転勤が多かったので、自分の家を建てようなどという気にはならなかったのだと思う。そのため私が子供の頃はずっとアパート暮らしだったし、私は小学校で四回、中学校では一年ずつ三回とも学校を変えている。
 次に顕著なのは、車の免許を持たない「主義」。酒と車の両立は出来ないという自論に基づいて、父は酒の方を取ったというわけだ。残業が当然となっている会社が引けてから必ず飲みに行く父の帰宅は毎晩十二時近かった。また休日ともなれば、夕方まだ明るいうちからテレビを見ながら晩酌を始めるので、そもそも自動車などに乗っている暇など無かったのかも知れない。
 そして、これは「主義}ではないが、会社が休みの日、眠っている時と新聞を読んでいる時とテレビを見ている時と飲み食いしている時以外の父は、ほとんど寝転がって本を読んでいた。それは漫画本などではなく、ほぼ全てが仕事に関係する書籍だった。
 そんな父にも意外な一面があった。それは、自転車や徒歩ではるばる市場に買い物に出掛け、魚などの新鮮な旬の食材を手に入れて来ることだ。自分で納得のいくように調理し、酒の肴にして食べるためである。ちなみに私はたった一つ、このことだけは父からの影響を受けた。
 この例外を除けば、彼にとって会社の勤務時間外の時間とは、会社での人間関係を円滑にするための時間であり、出勤に備えて休息と気分転換をするための時間であり、仕事の予備知識を仕入れるための時間なのであった。そのため、私が父にどこかへ遊びに連れて行って貰うなどということは、本当に数えるほどしか無かった。家族揃っての旅行などは、たった一度だけしか記憶にない。
 そんな家庭に育った私は、自家用車を持ち一戸建ての自分の家で商売をしている友達の家庭がどれほど羨ましかったかわからない。彼らには故郷があり幼馴染みもいた。
 ところが、家庭を犠牲にしてまで会社に尽くしているだけの父ではなかった。あるとき彼は海外勤務を命じられ、一年間の単身赴任の後、母と私と妹の家族三人を現地に呼び寄せたからだ。それは私が11歳の時だった。

 そこは地中海の東海岸に位置する、小さな美しい国の首都だった。貿易港があり、世界各地から来た人々が住んでいた。
 第二次大戦中の独立以前、この国はフランスの委任統治領であった。第一次大戦前は、オスマン・トルコ帝国の領土だった。その前は、長いことアラブ系諸王朝の国土だった。その間、十字軍もやって来た。その前はビザンティン帝国、その前はローマ帝国、その前はギリシャの領土。更に遡ると、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、古代エジプトの領土だったが、それより前の時代になると、フェニキアという商業を中心として栄えた独立国家であった。
 このような歴史があるため、この国の人が結婚して子供を数人作ると、子供の肌の色、目の色、髪の毛の色の組み合わせが一人一人全部違うことがあるそうだ。真偽の程は定かではないが。
 父もここでは、日本にいる時よりもずっと生き生きしていたように思う。自宅が仕事場となっていたため、比較的自由な時間が持てるからだ。しかし、父の同業者との付き合いのために、自宅が徹夜麻雀の巣窟と化したのには閉口した。あの牌を掻き混ぜる音で安眠を妨害されることがしばしばあったため、以来私はこの音が嫌いになった。
 それでも、家族四人で外食に出るなどという、以前では考えられなかったことも起き、今までかすかにしか見えていなかった父の姿が、初めてはっきりと見えるようになった。
 公用語はアラビア語とフランス語で、若い人には英語も通じたが、当然日本語は通じない。そのため、父がいなければどうにもならなかった私たち家族だが、やがて片言のアラビア語と英語を覚えるようになると、世界が一挙に広がった。
 私は一人で旧市街の市場までの何キロもの道程を歩き、買い物をしに行くようにもなった。市バスはどこまで乗っても15ピアストル(当時約16円)なので、これもよく利用した。
 青い海、赤い砂、白い灯台、石畳、古い町並み、羊肉と香辛料の強烈な香り、人懐っこく陽気な人々、黄昏の海岸通り、そして赤い夕日。夏は海で泳ぎ、冬は学校の同級生や先輩たちと泊り掛けで山へスキーにも出掛けた。ここでの生活は、私に数々の思い出を残してくれた。ここは私の「心の故郷」となった。

 しかし、それも長続きはしなかった。それから二年余りしてから、何度目かの中東戦争が勃発したからだ。
 国内に戒厳令が布告され、軍は首都に外出禁止令を出す予告をした。戒厳令とは、普段は政治家が握っている政治の実権を一時的に軍に委託することだ。外出禁止令とは、それが発令されている期間に外をうろついている人間を、軍は敵と見做して警告無しに射殺することが出来るというものだ。
 そのため、食料品店には買い溜めのための市民で行列が出来た。外出禁止令が一旦解除されるまでの約一週間、生きていくための食料を確保しておかねばならなかったからだ。現地では外国人となる私たちも、その例外ではなかった。
 予告通り外出禁止令が発令されると、普段なら大勢の人や物売りや自動車の通行で賑わっているはずの私が住んでいるビルの下の通りは、閑散として軍関係の車両以外の姿を目にすることが出来なくなった。私が通っていた市外の山中にある日本人学校も当然休校となった。それから2~3日後のよく晴れた朝のこと。
 最初それは戦闘機の音で始まった。当時の私はジェット戦闘機の音には慣れていた。毎日のようにこの町の上空を飛んでいたからだ。しかし、このときの音は今だ嘗て聞いたことが無いほど激しい音だった。一般的な少年の例に漏れず、戦車や戦闘機が好きだった私は、その音の主を見るためにベランダに飛び出した。
 その直後、激しい振動が間をおかず四回繰り返された。どんな地震とも違う人工的で機械的な縦揺れ。それは、罪も無く住処を追われた殆ど無防備な人の群れの中に、超音速で飛べる科学技術の結晶が爆弾を投じた振動だった。やられたのはこの町の郊外にある難民キャンプのパレスチナ人で、やったのは隣国の軍用機だ。その有無を言わさぬ冷酷な振動を、私の体の全ての細胞が感じて記憶した。
 この時を境いにして、私の価値観は変わった。国という物、軍隊という物、機械という物は、こういう物なんだと理屈抜きに思った。「ボクは敵ではない! 何も悪いことはしていないんだ! 爆弾を落とすな!」と手を振って声の限りに叫んでも、その声は聞き入れられず、標的に向かって命令通り爆弾は投下されるのだ。それ以来私は、戦車や戦闘機の玩具で遊ばなくなった。
 父の任期が切れたので、その約一ヵ月後に私たち家族四人は帰国した。私は日本の中学校に転入したが、皆が当たり前のようにして着ていた詰襟の制服のデザインに、どうしようもない嫌悪を感じた。また、私たちが生きるために行列を作っていた少し前、日本ではトイレットペーパーを買うために行列を作っていたという話しを聞くに及んで、まだよく整理は出来ていなかったが、周囲の人との間に溝が生じていることを感じた。
 その後この戦争が原因で、この国は長期間の内戦に突入した。帰国後一年足らずのある日、東京の古ぼけた狭い社宅の小さなテレビのブラウン管に、私が愛したあの町が映し出された。その現地からの中継を担当していたのは、当時うちの向かいに住んでいた、公共放送支局のK氏だった。聞き覚えのある彼の声は恐怖で震えていたが、それすら私の頭の中で虚ろに空回りしていた。あの美しかった町はただの瓦礫の山になっていたからだ。行けども行けども瓦礫の山だった。私はその映像を見て言葉が何も出なかった。何も……。

 父は、その21年後にガンのため他界した。決して長かったとは言えないその人生を会社のために捧げた彼は、企業戦士として立派だったんだろうと思う。全面的に会社を信頼し、忠臣のように黙々と働き続けた実直な人柄は尊敬に値する。また、その父によって偶然にも「心の故郷」が与えられたことをとても感謝している。しかし私は、その心の故郷が破壊されたことによって、戦争や軍隊に疑問を持つようにもなった。
 企業は軍隊と同じような側面を持っている。しかし今となっては、かつての私の父のように経営者を盲目的に信頼する時代は終わったように思う。なぜなら、企業の経営者ら幹部が情報を隠蔽し、社員の安全を脅かしているような事件が相次いでいるためだ。
 このような問題を解決するためには、まず社員一人一人が他人を思いやる心を養い、戦争や暴力、環境破壊に対する問題意識をさらに高め、企業本来の目的を再認識し、社内の不正を内外に向かって告発していくべきだ。それによって幹部が責任を問われて辞職するなら、次の地位の者が幹部に昇格すればいい。そのような自浄作用を備えている企業は今後も発展するだろう。今の日本の企業には、内部からの力による革命が必要なのではないだろうか。

 さて、話しが前後するが、まだその都市が瓦礫の山となる前、街の家々のテラスに花が咲き乱れていた頃のこと。
 その新市街の町角に、一軒の小さな食べ物屋があった。その店では、青い目をした黒髪のおじさんがチキンサンドイッチを作って売っていた。
 それは、小型のフランスパンのようなしっかりしたパンに縦の切れ目を入れ、その内側におろしニンニクを塗って胡瓜のピックルスと焼いて裂いた鶏肉を挟んだものだ。それをアルミのトースト焼き器に挟んで、コンロに乗せて焼いただけという、至って単純な食べ物であった。
 この店の売り物はたったそれだけなのだが、学校の先輩に教えてもらってそれを一度食べたら忘れられなくなり、私はそれ以来そこによく足を運ぶようになった。
 これを売っていたおじさんはアルメニアの人だが、それが彼の郷土の料理なのかどうかはわからない。ちなみに、旧ソ連のアルメニア共和国は、コーカサス地方南部にあるが、アルメニア人は古くから商業を主な生業として広く周辺各国で活躍している。彼らは、神秘的な青い瞳と真っ黒い髪が特徴だ。青い瞳で金色の髪や、黒い瞳で黒い髪の民族は珍しくないが、この組み合わせをした民族を私は他に知らない。
 一度は内戦で滅茶苦茶になったこの町も、今は見事に復興を遂げていることだろうと思うが、現在もあの店であのおじさんがチキンサンドイッチを売っているかどうかはわからない。
 しかし、どれほど戦争が町を破壊しようとも、あの味と香り、白い灯台と真っ赤な夕日は、私の心の中から消えることはないだろう。

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