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私は自然の海や山が好きだ。町は物を売り買いできるので便利だが、住むならやはり田舎だと思う。たまたま山奥に借家があったため、現在山に住んでいるが、海の近くもいい。
このような場所では、多少封建的な面はあるが日本の村社会の良さが残っているとか、買い物するため町へ出るには最も近くとも車で15分は掛かるが、山の空気はきれいだし水も旨いといった、様々なマイナス面とプラス面がある。それらを相殺すると、我が家の暮らしは、現在のところ私にとって、ほんの少しプラスになっていると思う。
しかし、そのような損得を抜きにしても、質素ではあるが自分で納得のいく料理を作り、野生の虫や鳥たちの声を聴きながら食べるという、この暮らしが好きなんだから仕方が無い。
報道関係の会社に勤めていた私の父は、以前中近東のある都市に赴任したことがあった。私たち家族はそれに1年遅れてその地に赴いた。在住2年余りが過ぎた1974年に何度目かの中東戦争が勃発した際、郊外にあるパレスチナ難民キャンプが爆撃を受けた。家や土地を追われた殆ど無防備に近い人の群れに、超音速で飛べる軍用機が爆弾を投じたのだ。その衝撃は今でも忘れることは出来ない。また、母親への不信感がつのるようなことが多発したため、私はこの頃から極度の文明不信と対人不信に陥っていった。
帰国した私は不良少年となり、その1年後、転校をきっかけにして中学校に登校しなくなった。「登校拒否」などという便利な言葉は、その当時まだ存在しなかった。母親以外の家族とは同じ家に住みながら3年間一言も口をきかず、その母親とも性格や考え方が合わないので、その会話は殆どが口喧嘩だった。今で言う「引きこもり」で、家庭内暴力の一歩手前であった。
この状態で一生を終えてしまうのかという危機感から、親の反対を押し切って家を離れる決心をする。私のことを理解してくださったある方から、関西のある共同体の存在を教えて頂き、私はそこでお世話になることになった。
最古参の住人Nさんに付いて、下肥え汲みから田畑の仕事、山の木の伐採、風呂の薪作り、土方、年末恒例の門松としめ縄作りといった一連の仕事に従事する。その後、共同体事業部の印刷会社に勤めることになったが、今の暮らしの技術的な基盤の全てはこの時代に培われた。
何よりもまず、ここでの生活によって、私は人間不信からかなり立ち直り、家族とも元通り接することができるようになった。
8年間住んだこの地を後にして、私はアジア各地へ10ヶ月間の旅に出た。
その道中、無駄の無い生活の仕方を、時には感動し、時には楽しみながら身に付けていった。インドでは原始生活に近い行者さんの元で、たった6日間だけであったが、寝食を共にさせて頂いたこともあった。またネパールでは、農家に間借りして約2ヶ月間、薪で自炊生活をしていたこともあった。
そこで学んだ暮らしの仕方を日本国内で実現させるため、1990年春に東京から新潟県に移住。現在の我が家は4軒目の借家。
2002年夏に、町の家電店で廃棄処分されるはずだった中古のパソコン本体、ディスプレイ、キーボードを無料で手に入れ、知人の協力を得て使えるようにした。このような幸運に恵まれたことに感謝し、今まで自分が教わった知識や技術を今度はより多くの人に少しでもお返しできればとの思いで、このサイトを立ち上げることにしました。
最後になりましたが、私を育ててくれた父母を始めとする全ての皆様と、この宇宙に感謝致します。