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文字列の部屋

振動

2001.9.10.
2008.12.4. 更新

 報道関係の会社で働いていた父が転勤となったため、1972年夏から私たち家族も父の住む中近東のB市で暮らすようになった。
 1975年3月、何度目かの中東戦争で街には戒厳令が布かれ、私と妹が通っていた日本人学校も休校になった。この地域では以前から小競り合いがあったので、戦闘機が頻繁に飛来しており、その音には慣れていたのだが、そのよく晴れた日の朝の音はいつものとは違っていた。
 ゴーッという音に交じり、急降下するときの独特の音が耳を劈く大音量で、しかも急激に近付いて来た。何事かと思った私は、住んでいたビルのベランダに慌てて飛び出してみた。
 丁度その時だった。大きな音と共に大地の底から上下に揺さ振られるような振動で足がふらつきそうになったのは。それは間をおかず四回あった。しばらくしてからラジオを聞いていた父が言った。
「空港近くの難民キャンプが爆撃されたんだそうだよ。」
 そこは私達が住んでいるビルから直線距離にして約8kmのところだ。
 電気も水も満足に得られないような生活を余儀なくされているパレスチナ難民。その家を失った人の群れに追い打ちを掛けるように爆弾を落とす、文明最先端の技術によって作られた軍用機。その爆撃の理由は、「テロに対する報復」であった。
 それまで私は、愛とロマンを描いたようなミュージカル映画を見て純粋に感動していたが、それからの私の心の中には、「文明とは何のためにあるのか? 人間は何のためにこの世に生きているのか?」という疑問が生まれた。そして、映画は嘘の話しで、目の前の殺戮こそ現実なのだと思うようになった。

 それから何週間かしてから父の任期が切れたので、この戦争が激化する前に私たちは家族4人揃って帰国し、東京にある父の会社の社宅に住むこととなった。
 4月から新しい中学校に行き始めたが、生まれて初めて着る黒い詰め襟の制服と帽子に、なぜか物凄い嫌悪感があったことを今でも覚えている。また、この公立の学校は優秀で、校区外から越境してくる生徒もいたほどだったのだが、私は高校に進学する気はまるで無かったので、授業には故意についていかなくなった。クラスの中で、それと似たような感じの連中と私は意気投合するようになった。
 それからの一年間、よくもまあ、あんなに沢山出来たなと思うほど、私は悪いことをした。その主な動機は、汚いことを隠し綺麗事ばかり押し付ける「親と学校に対する憤り」だったように思う。学校で何か事件が持ち上がると、必ず私が真っ先に職員室に呼び出された。事実大概私が関わっていたので、その教師たちの判断は正しかった。
 父兄も来ている文化祭のときに、前日商店街で仲間五人と万引きしてきた酒類を飲んで大暴れし、首謀者の私ともう1人が急性アルコール中毒で死にそうになったことがあった。これはこの学校始まって以来の大事件ということで、後日親が学校に呼び出されるし、臨時生徒総会が開かれるし、私が破壊した窓ガラス等の器物を修復するための巨額の請求書が家に回って来た。
 このようなことは親にしてみれば突然のことなので、かなりショックだったようだ。「うちの息子が不良になったのは悪友のせいだ」と思った私の両親は、春休みの間に神奈川県のK市に転居することにした。私がこの世で唯一信じられる人間を私から引き離すために……。
 この校内暴力は、今思えば戦争を起こした大人社会に対する報復だったのかもしれない。しかし、それで問題は解決するどころか、暴力による報復は新たな暴力を生んだ……。
 私が転校するという噂が校内に流れて間もなく、私は硬派で通っている柔道部のKに体育館の裏へ呼び出された。彼は言った。
「この学校を滅茶苦茶にしておいて、お前だけハイサヨナラかよ!」
 そう言うが早いか、彼の握りこぶしが私の顔の側面に飛んで来た。普段から身体を鍛えている者に、丸腰でかなうはずがないと思っていた私は、あらかじめ鉄パイプをこの待ち合わせの場所に隠していた。それは手の届く場所にあったのだが、私はそれを使う気にはなれなかった。彼の言い分が正しいと思ったからだ。
 私は、彼のなすがままにあっけなく地面の上に倒されてしまった。私が全く抵抗しないので、彼は拍子抜けしてしまったらしく、その後私を二三回蹴っただけで、すぐにどこかへ行ってしまった。
 私は泣いた。というよりも、ただただ涙が出た。すぐに友人達が心配して駆け付けてくれたが、私は自分の身体の痛みで涙が出たのではない。それよりもっと深く大きくな悲しみが心の中にあったからだ。

 転校した先の学校は不良の影すらなく平和そのものだったし、行けばどうせまた滅茶苦茶にしてしまうのだろうと思い、最初の1週間だけ行って、その後はパタッと行かなくなった。それからが私にとって本当の苦しみだった。まだ「登校拒否」だとか「引きこもり」なんていう言葉がなかった頃だ。信じられる人間が回りにいなくなったのを切っ掛けに、人間そのものが嫌いになり、人の顔を見ることが出来なくなってしまった。
 中学校の生徒指導の先生が1年間毎日のように私の家を訪れて各教科を教えて下さり、それを出席したことにするという学校側の配慮によってなんとか卒業させて頂くことが出来たが、家では母と口喧嘩するとき以外、家族とは一言も口をきかず、家の前を走る自動車の音や人の話し声を聞くのすら厭になり、その音がしている時だけ耳を塞いでいた。
 辛い3年間だったが、自転車で山を越え海に泳ぎに行ったり、人間が嫌いになったわりには、小説から哲学や宗教の本に至るまで、片っ端から読みあさった。また、FM放送で様々な音楽を聴いた。
 母は、そんな私を児童相談所から果ては病院の神経科、精神科まで連れて回ったが、どこへ行っても、最後には「もう来なくていい」とか、「治療の必要はない」と言われた。病気ではないので治療の必要がないということだ。言い換えれば、このような状態のままで、一生を終えるかもしれないということである。

 私の祖母は当時老人病院に入院していたのだが、そこのケースワーカーである I さんが、以前からこんな私のことを心配して下さり、時々お手紙を下さっていた。私は、この I さんに宛てた手紙の中に、現在自分が抱いているその危惧を書いたところ、関西にある共同体の機関誌一部が同封されたお返事を頂いた。家を離れ、その場所で生活してみてはどうかと勧めて下さったのである。
 私の両親は、自分たちの目の届かないところへ私が行ってしまうことに反対したが、私は「自分が回復するためにはそこへ行くしかない」と言って逆に親を説得し、その共同体に連絡を取ってもらった。
 また、子供が2人出来たら、どちらかに実家を継がせるという条件で、私の母が結婚したということを以前から聞いていたので、財産が皆無に等しい母方に養子に行くことを私は強く希望した。全てを一から始めたかったからだ。長男だった私は長男である父と父の実家に反対されたが、母も希望したため、ついに私の姓は変わることとなった。
 出発の前日には長かった髪を切り、父に頼んで頭をつるつるに剃ってもらった。
 その共同体で受け入れの窓口となって下さったのはSさんだった。到着の日からTさんという方の住まわれるお部屋でご厄介になり、翌日から早速Nさんという方のお仕事の手伝いをさせて頂くことになった。大人との付き合い方が無茶苦茶なため、Nさんから叱られながらも日々汗を流し、共同体創設者ご夫妻と田畑のお仕事の手伝いをさせて頂いたこともあった。ここで共同生活をさせて頂くうちに約1年が経ち、お陰でかなり回復することが出来た。

 罪の無い人たちが、文明の力によって殺されるときの振動。それは地の底から這い上がり、私の足の先から頭のてっぺんまでを貫いた。それは、いまだに私の心を揺らし続けている。

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