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不思議の部屋

あの人は誰?

2004.05.12
更新 2013.11.20

 新居の改修工事はまだ完了していないが、今まで住んでいた家の契約が2001年3月31日に切れるので、私たち一家は尻を叩かれるようにして引越した。
 そのドタバタもなんとか終わった4月半ば過ぎ、新潟に旅立っていた私のピアノが戻って来た。5ヶ月ぶりの再会だ。なんでまたはるばる新潟まで行っていたのかというと、新潟から来た運送会社のトラックが雪深いこの集落の坂を登れず、最後の土壇場で我が家にたどり着けなかったため、ピアノを積んだまま引き返してしまったからだ。雪に関して無知な地方のことならともかく、新潟の運送会社がタイヤチェーンを積んでいなかったとは、全く信じられないような話しだが、値引きすると言うので渋々承諾したのだった。
 窓の外の若葉を見ながら、私は本当に久しぶりでピアノを弾いた。そして、私が19歳のときに作った、明るく春にふさわしい曲を奏でたらなぜか涙が出た。涙は止まらず、やがて慟哭(どうこく)となった。その反面、頭の中はかなり冷静で、自分を客観視していた。『久しぶりにピアノを弾けた感動で泣いたんだろうか?』と思ってみたが、それにしては余りにも激し過ぎる。
 それから数十分して電話が鳴った。受話器を取ると、私が17歳から数年間住んだ、関西のある共同体の人からだった。そこの創設者の未亡人となっていたRさんが、先程亡くなられたという知らせである。
 なるほど、そうだったのか。「私のところには、先程お知らせがありました。」とまではさすがに言わなかったが、この共同体では、このような不思議なことは何も特別なことではない。
 ご主人の帰幽祭のときも私は馳せ参じたが、今回も参列することに決めた。Rさんは、我が息子の名前を命名する際、それに同意して下さった、言わば名付け親のような方である。その後、家族で参上した際は先方のご都合が合わず、息子をお目に掛けられなかったのが残念だったが、これで、それを実現することが永遠に不可能となってしまった。しかし、今さら悔やんでも仕方ない。帰幽祭に参列することが、今の私に出来るせめてものことだ。ここからはかなり遠いので大変だが、夜行に乗って行けばなんとかなる。
 余談ではあるが、私は、背広やネクタイの着用がどうも苦手だ。寒くなければ靴も履かない。国際線の飛行機にだってゴム草履を履いて乗る男である。今回も礼服や革靴などを着用している時間を最小限にするため、途中で着替えることにする。私は必要な物をリュックに詰め、バックパッカーの出で立ちで出発した。
 夜行バスと夜行列車は、どちらも一長一短だ。道中ただひたすら寝るだけなら、断然バスのほうがいい。近頃の長距離バスはシートをかなり深く倒すことができるし、車内はほぼ真っ暗になるので比較的よく眠れる。
 一方、バッグに忍ばせた一升瓶をちびちびやりながら、本など読もうと思えば列車の方がいい。列車の座席は寝るのには不便だが、車内はある程度明るいので、読書したり酒か焼酎かを注ぐのは勿論、飲酒によって小便の回数が増えても周囲にはあまり迷惑にならない。特に禁煙車は空いているのが魅力的である。隣りの席が空いていれば肘掛を上げて横になれるし、へべれけになってしまえば、車内がどんなに明るくたってすっと眠れる。
 しかし、このとき読んだ本が何だったのか、今でも思い出せない。目は活字を追っていたが、内容は頭の中に入っていなかったからだ。それほどRさんの突然の死は、私にとって衝撃的だったのだ。私は夜が深けると座席の肘掛を上げ、重い気持ちで横になり、持参の毛布を被った。しかし、単調な列車の音と心地良い揺れ、そして何と言ってもアルコールの効果で間もなく眠りに付いた。

 目が覚めると、窓の外の明け方の空に、釣鐘を伏せたような山がシルエットになっているのが見えた。この見覚えのある風景で、列車は今琵琶湖東岸を走っているということがわかった。私が青春を過ごした場所が近づいている。
 殆ど人が乗っていない車両なのに、私は便所に行ったり顔を洗ったという一連の作業を早々と済ませた。中国やインドなどを長距離列車で旅した際、超満員の二等車内ですっかり身に付いてしまった習性だ。
 大津を過ぎてトンネルを出ると、風景は趣を変える。今までは自然の中に建造物が点在していたのだが、それが逆転して、木や草、そして遠くの山までもが、建造物の中に点在しているという風景となった。都会の圏内に突入したことを感じた。
 この路線は、京都を過ぎるとあっという間に終点になる。私は本や毛布などを収納し、忘れ物が無いか確認した。
 「おおさかー、おおさかー、終点の大阪です。皆様お忘れ物の無いようお降りください。連絡のご案内です。山陽本線へのお乗換えは・・・」その後の長いアナウンスが終わる頃、列車は終点大阪駅に入った。
 停車してドアが開いたので、大きな荷物を背負った私はホームに降り立った。なんとなく懐かしい空気を感じる。私はその空気を、今までしていたよりも少し多めに吸って吐いた。しかし、いつまでもここにこうして立ち止まっているわけにはいかない。都会では早朝でも人の群れは忙しく流れているからだ。
 今回の目的地へ辿り着くためには、その後何度かの乗り換えが必要だ。まず環状線で鶴橋まで行った。7時過ぎだったが、ホームは既に人でいっぱいになっている。私は腹が減ったので、ここで何か食べることにした。
 KIOSKをはじめ、いくつかの店が細長いホームの上に分散しているが、麺類をやっている立ち食いの店があったのでそこに入ってみた。私はラーメンが大好物だ。特に豚骨ラーメンが好きだが、朝はシンプルな醤油ラーメンもいい。私は食券を買ってそれを注文した。朝食の時間帯のせいか、狭い店内は人で溢れていて、荷物の置き場所も無いくらいであった。
 食べ終わり、食器を所定の位置に置いて店を出ようとすると、カウンターが空くのを待っていた人に、私の荷物が些か強くぶつかってしまった。私は反射的に振り返り、相手の顔を見て、「どうもすみません。」と謝った。50代半ばに見える赤ら顔のその男性は、「いいです。」と言ってくれた。どこかで見たようなその顔は、ちょっと印象に残った。
 乗り換えの列車が到着する駅の出口は進行方向に対して後ろの方にある。そのため私はホームをそちらに向かって歩いていた。すると、さっきの男性が目の前に立っていて、また私と目が合った。どこか懐かしそうに私を見たその表情は、やはり印象的だった。しかし、特別用があるような感じではなかったので、私はその場を黙って通り過ぎた。
 その日の帰幽祭に参列し、その後大阪府八尾市の友人宅でお酒と夕食をご馳走になってから、私は帰路に着くべく大阪駅へと向かった。帰りは夜行バスだ。

 帰宅して何日か経過したある日のこと。
 勤めから帰った妻が開口一番に言った。
「S集落のNさんが亡くなったんだって。」
 S集落は私達がここへ引っ越す前に住んでいた集落で、Nさんの家はうちから歩いて5~6分の距離にあった。私はその急な知らせに再び驚いた。
「えーっ! いつ!?」
「2週間ほど前だって。なんでも、自宅で発見されたときは、既に死んでいたそうだよ。」
 それは、ちょうど私が帰幽祭に参列するために家を空けていた頃だ。私は思い出した・・・。
『そういえば、私が鶴橋の駅のホームで荷物をぶつけてしまったあの男性、以前どこかで見たと思ったら、このNさんとそっくりだったんだ。・・・いや、まさかそんなことはないだろう。その人に荷物がぶつかったとき、ちゃんと手ごたえがあったじゃないか。幽霊なら荷物はぶつからず、スッとすり抜けてしまうはずだ。』
 夕食作りに専念していた私は、このときはこう思って自分を納得させ、それ以上深く考えなかった。

 しかし、後でよくよく考えてみると、立ち食いの店で順番を待っていた人が、先に出た私の目の前にすぐ姿を現わすなんて、どう考えても不可能なことだ。そう思った途端、私は全身に鳥肌が立つのを感じた。
『・・・あの人は誰?』

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