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はたけ

味覚の復興[1]

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2004.5.
2007.3.16. 更新

プロローグ

 苦味が少なく甘い農作物は、人間にとって口当たりが良いのと同様に、虫にとっても口当たりが良いと思って間違い無いだろう。そのような農作物ほど虫などの被害に遭い易いので、それは証明できるのではないだろうか。そのような甘い野菜や果物への品種改良の結果、一般の作物には農薬の散布が不可欠となっていった。その一方で、近頃の消費者は、健康のため無農薬・有機栽培にしてほしいと言う。
「甘い物も食べたいし、安全な物も食べたい」
と言うのはいささか我儘な要求である。
 生産者側の安全な食物に対する追求は、かなり以前からある。福岡正信氏(主な著作「自然農法わら一本の革命(春秋社)」)を始め、現在では多くの方々が、理論と実践に取り組んでおられる。一方、消費者側では、農薬や化学肥料についての知識のある人は比較的多いが、味覚について問題意識を持っている人は以外に少ないようだ。そこで、ここに取り上げようと思うのが、この「味覚」についてである。
 また、一般の生産者からは「無農薬では上手く出来ない」という声が聞かれるが、現在一般の市場に出回っている品種で無農薬・有機栽培を行っているなら、それは当然だ。それらは、農薬や化学肥料を使うことが前提で開発された品種だからだ。無農薬・有機栽培にするなら、それに対応した品種を選択しなければならない。
 しかし、品種が自然の流れに沿った物になっても、それが消費者に評価されなければ産業として成り立たない。ということは、食べる人間の味覚が、それに対応しなければならないということだ。消費者の味覚が現行のままでは、現行の産業構造が存在する限り、安全な農業の発展は望めないだろう。商品としての作物を選択するのは、常に消費者であるからだ。
 もし、消費者が自己の健康と地球環境のことを本当に真剣に考えるのなら、「生命」と「食」の関連性に対してもっと知識を深め、自己の生命を養う農産物本来の味覚を、もっと見直していかなければならないだろう。
 私は消費者の立場として、また、自家用ではあるが、作物を栽培する側の立場として、それを「味覚の復興」と呼びたい。「味覚の復興」は、単に農産物の先祖帰りのことではない。食べる人間が、食物を「製品」としてではなく、「生命」として再認識することによって、農家の負担を少しでも軽くし、安全な食品を市場に流通させるというものだ。その結果、それに対応した新たな品種改良もなされ、店頭には目新しい品種が並ぶことになるだろう。それは経済の活性化につながると確信している。
 また、これによって、私の趣味の放任園芸が単なる自己満足で終わらず、日本の農業の発展に少しでも貢献できるのではないかと思っている。

野菜の生命力

 山菜や竹の子は、不思議と虫に喰われない。なぜなら、天然の虫除け成分である「苦味」が多く含まれているからだ。山菜や野草だけではない。ハーブ類や、畑の野菜でも、比較的「苦味」が多い物は虫に喰われにくい。
 例えば、イタリアンパセリ。これは生で食べられるにもかかわらず、虫には殆ど喰われない。せり科特有の苦味と、硬さが虫除けになっているからだ。唯一の天敵と言えば、キアゲハの幼虫ぐらいだろう。春菊も虫に喰われにくい。キク科独特の苦味があるためだ。ニンニクも虫に喰われにくい。強烈な辛味があるためだ。
 その一方、比較的苦味の少ないアブラナ科は、虫に喰われやすいが、種類によっても異なる。例えば、大根と蕪を同時に同じ畝に蒔くと、虫は蕪の双葉に集中して大根の双葉は殆ど喰われない。これは、蕪の葉は柔らかくて苦味も少ないのに比べ、大根の葉は硬めで苦味や辛味が多く含まれているためだ。
 それではこの「苦味」「辛味」そして「硬さ」とはもともと何だろうか。もちろん人間の嗜好のために備わっているのではない。これらは、植物が本来持っている、自分の身を守るための「鎧兜」のようなものなのだ。
 より甘く柔らかい野菜や果物、即ち「鎧兜」が少ない作物へと品種の改良が繰り返された結果、作物は自分の身を守ることができず、農薬の散布によって、人為的に虫を取り除かなければならなくなった。虫を1匹ずつ摘まんで取っている農家は、一般ではあまり多くないだろう。
 明治時代から、ジャガイモ、カンラン(キャベツ)、トマトなどが一般で栽培されるようになったと思うが、その頃には現在のような農薬の散布は行われていなかったはずだ。その分、今の品種より皮が硬かったり、糖度が低かったり、苦味や酸味が強かったりしたことが想像できる。
 このように、虫に食べられにくく生命力が強い作物には、多少苦味、辛味、硬さがある。一方、口当たりが良い作物は、苦味や硬さが少ない代わりに、外敵から身を守る生命力も弱い。

自然の仕組みと食物

 さて、今度は、植物を食べるという行為によって、自然界と人間界では、どのようなことが起きているのか見てみよう。

葉や茎、根や地下茎

 基本的には、虫も人間と同じで、一枚の葉でも、口当たりがよく食べやすい部分から食べる。即ち、「鎧兜」がちょっとでも少ない部分から食べていく。青虫がキャベツの芯だけ残して食べるのをご存知の方は多いだろう。また、同じ株から出来た種子では、発芽して成長すると「鎧兜」が比較的多い個体と少ない個体が出てくるが、少ない個体が先に食べられる。
 そのため、仮に春菊を畑に放置した場合、花が咲いて種子を残せるのは、比較的虫に喰われなかった固体だということになる。その固体が残した種子が発芽して、また次の代次の代へと続いていくと、やがてその春菊の品種は、人間に品種改良される以前の、野生にあった頃の味覚に似てくる。という理屈になる。
 この食べるという行為は、比較的口当たりが良く生命力が弱い物を滅ぼし、比較的口当たりが良くなく生命力が強い物を自然界に残していくという結果になる。これが自然淘汰だ。

果実や種子

 一方、果実には、糖分が比較的多く含まれているものが多い。果実を鳥などが食べることによって、その中に入っている種子が、鳥の体内に一時的に宿り、鳥が移動した後に糞に混じって排出される。この現象によって、種子は遠くへ運ばれ、その種類の植物は繁栄するという仕組みだ。この仕組みをご存知の方は多いと思う。
 また、リスや一部の鳥類には、植物の種子を落ち葉の下や土の中に蓄えて、冬の食料にするという習性があるものがいる。その食べ残しや、忘れ去られた物が発芽するという仕組みもある。
 そして、自然界とは異なるが、美味しい種子(芋類もこれに該当する)を人間は交易によって、世界各地に伝播させた歴史がある。そのため、その植物はそれによって繁栄する。米や麦などの穀物や、ジャガイモ、サツマイモなどがその顕著な例だ。
 これらの仕組みでは、鳥や獣、そして人間がより好むような味の果実を付けた植物が、子孫をより多く残せることになる。しかし、それらに食べられる以前に果実を虫が喰ってしまっては、遠くへ運ばれずに終わってしまう。そこで、果実には必ず皮が付いている。皮には、苦味、硬さ等の「鎧兜」になる成分が多く含まれていて、虫が喰うのをある程度防いでいる。
 しかし、品種改良によって、表面の苦味や硬さを減らした果実は、比較的虫が喰いやすいので、やはり農薬の散布によって、虫から守ってやらなければならない。その農薬を購入し、散布するのは、全て生産者だ。
 人間界では、自然に備わった生命力に代わって、生産者の金銭と労力が使われていることが、これではっきりしてきた。この問題を最も簡単に解決する方法、それが消費者の「味覚の復興」である。消費者が、生命力が強い品種を好むようになれば、それにふさわしい品種改良が行われ、生産者はその比較的作りやすい品種を栽培し、その分コストを下げられる。そうすれば、小売価格も安くなり、輸入農産物に一方的に押されることも徐々に減っていくことだろう。また、農薬を減らした分安全性も高まるので、付加価値を付けて輸出するということも考えられる。それによって日本の農業は更に発展するということが期待出来る。

まとめ
植物の生命力 野生種と品種改良種の違い
 葉と茎根と地下茎果実と種子(芋)
野生種強い物が残る強い物が残る強くて美味い物が残る
品種改良種弱い物が残る弱い物が残る弱くて美味い物が残る

 この表をご覧になってお判りだと思うが、栽培種の農産物は、「口当たりの良さの追求」にどこかで歯止めをかけないと、そのうち生命力の全く無い食物となってしまう。
 そのためにも、食べる人間自体がそのことを自覚し、生命としての作物の味覚を取り戻さなければならない。昔と言ってもそんなに古い時代の味覚ではない。例えば、原始時代の味覚に戻っても、私たちの顎や歯の退化などによって、食物を消化吸収することが物理的に困難になってしまうだろう。
 また、個人の嗜好の問題は、頭でっかちな理論だけでは解決できない。次は、「味覚の復興」が消費者に直接どのような利点をもたらすのかを見てみることにする。

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