2011年7月20日、我が家の蔵の中で他の猫と共に産まれる。
母親は、それまで我が家唯一のメスだったクミャクミャだ。
生後2ヶ月頃、それまでいた蔵から母屋の玄関横にある木箱に、母親によって移される。
10月4日(生後2ヶ月半)の未明、主な住み家にしているその木箱が何かの野生動物によって襲われた。メスの仔猫のかすれた悲鳴を聞いて慌てて寝床から起き外に飛び出したが、すでにその姿はなかった。
母猫が付いていればこんなことにはならなかったのだろうが、我が家と隣の家とを行ったり来たりする猫文化のせいで彼女が不在だったためだ。
次の日の午前中、いつものようにその箱の上に乗っている猫たちの中で、気になっていたメスの仔猫をよく見ると、顔の右半分がなんだか変だ。『顔面を喰いちぎられたか』と思って怖々外へ出てみると、なんとその右の目玉が飛び出しているではないか! きっと顔を力まかせに叩かれたものの、なんとか逃げて、この時間までどこかに隠れていたのだろう。私はその猫をゲージの中に入れると、町の動物病院まで車を走らせた。
翌日、その猫(その後ミューミュと名付ける)が眼帯代わりのボタンを片目に縫い付けられて退院してきた。「これは悪戯じゃなくて治療だから取らないでくれ」と隣の家に言いに行く。すると、応対に出たそこのお婆さん(この人が猫文化の総元締めだ)が、「仔猫がハウスの中で死んでいる」と言う。『もしや』と思って彼女と一緒にその家のビニールハウスを見に行くと、その不安は的中した。オスの茶虎だった。内臓を全部食われ、無残にも地面に横たわっているその首は180度反転している。きっと噛み付かれてから、ものすごい力で振り回されたのだろう。昨日のことも含めて、その力の強さから多分タヌキの仕業と推測する。
亡骸(なきがら)を家に持って帰って埋葬する。
そこで私は決意した。生き残ったミューミュと白黒(その後ボクと名付ける)を外猫から家猫に切り替えようと。そして、今夜は隣の家の周辺にいるであろう彼らの無事を祈った。
次の日の昼前、母子3匹が我が家に餌を食べに来たので、まず母親を家の中へ入れる。すると、2匹の仔猫は難なくそれに付いて入って来た。彼らの兄たちが昨年使っていた猫用トイレを土間に置いたら、教えもしないのにちゃんとそこで大小をしたのには感心した。見ていたら、彼ら2匹の性格はかなり違うが、どちらもかなり賢いようだった。
初めは私のことを特別恐れていなかったのだが、ミューミュを数日おきに通院させなければならず、そのたびに補虫網で追い回して捕まえていたので、2匹とも私のことを慢性的に恐れるようになってしまった。そのため、普段は手に触れることが出来なくなったが、こちらが意識しなければ私のことを気にせず、私の寝室兼仕事部屋は彼らの運動場も兼ねることとなった。レスリング、追いかけっこに始まり、私が与えたオニグルミの種をボールにしてホッケーのような遊びもした。「畳ホッケー」とでも言うべきか。障子紙を片っ端から破るのには閉口したが、それはこの子らに始まったことではない。
そのうち、昼は私の膝に乗っている母親の乳を飲むようになったし、夜は私の寝ている布団の上で一緒に眠るようになった。
半外猫の母クミャクミャは、ちょくちょく外出するが、その間も寂しそうにせず2匹で仲良くしている。そうして、2匹にとって安全で幸せな日々が過ぎていった・・・
この年末、近所の人達が相次いで野生のタヌキを毒殺したということを耳にした。ということは、仔猫の最大の天敵がいなくなったということだ。また、好奇心のとりわけ強いミューミュからの激しい要望もあったので、2匹の仔猫を外の世界に放ってみた。すると、いずれも30分程度で帰って来る。これなら大丈夫のようだ。それから天気が良ければ1日1~2回、彼らはそれまで知らなかった雪に触れたり木登り遊びをしたりしてから家に戻って来るようになった。
翌年2月23日の夜中、寝ている私の布団の上のボクの呼吸が、突然かすれた笛のようになった。私がそれに気付いた途端、それをはばかるようにして、彼は1匹コタツの方へと移動した。
夜が空けたら呼吸は静かになっていたが、水は飲んでも餌のところへ行かなかった。他の猫たちは、いつものドライのキャットフードをむさぼり食っているのに、彼だけは私の布団の上で、それをしんどそうに見ているだけなのである。今までずっと食いしん坊だった彼としては初めてのことだ。あれほど仲良しだったミューミュともピタリと遊ばなくなった。
この時点での私の素人判断による思い込みが、その後の彼の運命を決定付ける第一の要因となった。その判断とは、「食べないのは消化器系の疾患によるものなので、しばらく様子を見て回復しなければ病院に連れて行けばいい。彼は肥満なので、これを機会に少し痩せてもいいのでは?」ということだ。
しばらく様子を見ていたら、呼吸は通常の倍ほどの速さになってきて、まだ歩けるがかなりしんどそうになってきた。そのため、病院に連れて行かねばならなくなってきたのだが、バッテリー上がりのために車を出せない。仮に出せたとしても、連日大雪で現在はシャーベット状の路面なので、二輪駆動の前輪にチェーンを掛けている車ではまともに走れない。これが彼の運命を決める第二の要因となった。
2月26日、バッテリー充電器をネット通販で注文する。
2月27日、朝の呼吸の速さは昨日とあまり変化がなかったが、午後になってからその倍ぐらいになった。
2月28日、気象情報によると明日は気温が平年並みになるそうだし、充電器が届いてバッテリーを充電してから病院に連れて行こうと思っていたのだが、彼の様子がかなり痛々しいので、なんとかして今日連れて行くことにする。
納屋の前の雪をある程度掻いてから車のエンジンキーを回したが、やはりバッテリーが上がっているようで、セルは初めの何回かは少し回って、あとは何度やっても「カチッ」という音を立てるだけだった。
仕方なく昼食を食べたが、夕方も診療をやっていたことを思い出す。残りの雪を掻いてから、納屋の前の電柱や立ち木にロープを掛けてウインチで少しずつ車を引っ張り、納屋から出すことに成功。午前中の時点では無理だろうと思っていたが、その後少し道の雪が溶けたので、家の前の下り坂を転がし、押しがけでエンジン始動に成功。
ボクを積んで15時40分頃に出発。途中何度か滑ったが、なんとか町に出ることが出来た。用事や買い物を済ませてから17時少し前に動物病院へ到着。開院するまでしばらく待つ。
いつもお世話になっている先生に、「餌を食べなくなったんです。」と言って診て頂いたら、「風邪を引いているし肺炎になっていますね。ひどくなると肺の中に水が溜まることもあるけど、まだそれほどではないようです。」と言われた。私自身、子供のとき肺炎になったことがあるが、食事には特別不自由を感じていなかったように覚えているので、「肺炎で食べれなくなることがあるんですか?」と尋ねたら、「そうです。この呼吸じゃ食べれませんよ。」と言われた。『普通に近い呼吸の時から食べてなかった。』と思ったが、そこまでは突っ込まなかった。
栄養剤と抗生剤を混ぜたピンク色の太い注射を首に打ってもらう。
どこにも寄らず帰って家の中でゲージから出してやったが、やっと歩けるほどに衰弱していた。飲み水入れの前に這いつくばってしばらく動かない。
しかしストーブを焚いたら、彼の定位置であるその横に自分で歩いて移動したので、これなら大丈夫だろう思い23時頃就寝する。
2月29日午前1時。何かの物音がしたあと、朦朧(もうろう)とした意識の中で、自分の心の中の「ボク」が崩れ落ちた。それは、有無を言わさぬ絶対的な消滅であった。それに驚いて目を覚ます。
部屋の電気をつけてストーブの方に行くと、いつもいるその横にボクはいなかったので、どうせ第二の定位置であるコタツの中だろうと思い、台所や風呂場へ水道凍結の点検をしに行って帰って来たら、なんと私の寝床の枕近くの畳の上にボクが倒れていた。そこは彼がまず居る場所ではなかったので、目覚めたときには全く気付かなかったのだ。
その周囲には、薄赤い水が散乱していた。きっと先生が言っていた肺の中の水だろう。良く見ると呼吸が止まっている! 慌てて名前を呼んで揺すっても反応しないが体はまだ暖かい。心臓マッサージで蘇生するかと思ってしばらくやってみたがだめだった。胸の中でチャポンチャポンという水の音がしただけだ。
でもよく見ると、目は生きている時のように輝きをもって穏やかに見開かれており、嬉しい時に出す「ゴロゴロ」という音が体の中から微かに聞こえたような気がした。
ごめんね ボクちゃん
知らなかったよ 肺炎だったなんて・・・
俺がもっと賢い人間だったら
病院の先生に来てもらうことも出来ただろう
俺が世間の人並みにお金を稼いでいたら
こんな雪道でも走れるまともな車で もっと早く病院に連れて行けただろう
そうすれば助かっていたかもしれないのに
天敵からは救えても 病気からは救えなかったよ・・・
ゴロゴロと喉を鳴らしながら母親のオッパイを吸ったり
兄弟たちと庭や畳の上を駆け回ったり
あの世では そんな日々をおくってほしい
ごめんね ボクちゃん